2021年02月
2021年02月28日
書店に落胆し、本の代わりにキムチを買う
京都には、けいぶん社のような小規模で個性のある書店は辛うじて一つ二つ残っていても、誰が行ってもそこそこ対応できるボリュームを備えたまともな書店は、京大の生協書店とBAL丸善以外にない、ということを先日書いたあと、ふと二条駅前のTOHO二条の映画館が入ったビルの1階に少し大きな書店があったっけ、と思い出して、念のために確かめておこうと思って、わざわざ行って自転車を駐輪場に入れて見に行ったら、なんのことはない、ここも烏丸通やうちの近くにあるのと同じ大垣書店で、どうやらこの規模の京都の書店のニッチ(生態学的地位)は大垣書店に独占されてしまったようです。
別にこの本屋さんに何の恨みもないのでが、この本屋さんはいったいどういう顧客を相手に本を売っているのか全然わかりません。たぶん本なんかに何の興味もない経営者が、地の利さえあれば、そこそこ売れる商品として本という商品を、日用品やパンや下着なんかと同じ商品として売っているだけなのでしょう。だから、マンガ、雑誌、一般向けの内容の文庫本の最大公約数的なものを置いておけば、繁華街や駅前なら、そこそこコンスタントな売り上げは確保できるし、高野のように学生やアラサー、アラフォー世代がたくさん住んでいるマンションや公団住宅的なものが集中しているような地域で、カフェでもつけておけば、けっこういけるということかもしれません。本の中身は一定の回転率以上が見込める本であれば何だっていいのでしょう。こういうことでないと、あの無性格さという性格、あの半端じゃない中途半端さ(笑)は説明しづらいという気がします。
何も買いたい本がなかったので、仕方なく帰ろうと思いましたが、どういうわけか北東へ向けて走らなくてはならないのに、駅前からどこをどう間違えたか南西方向へ走っていたらしく、気が付くと西大路四条なので、ええい、ここまで来たなら、先日も訪れたキムチ屋さんへ寄っていくか、と気を取り直して、春日通四条下がる西側のお店まで行って、なくなりかけているキムチとチヂミをまた買ってきました。
近所の店(生協、HELP、カナート、イズミヤ等々)で売るキムチは、すべて甘すぎて、全然キムチらしくなく、美味しくないので、どうしてもこのお店まで来ないと、美味しいキムチが手に入らないのです。嵯峨へよく行ったころは、丸太町通りに面して、叡電の踏切の手前、今日銀行やライクスのある少し手前の北側にある小さなキムチ屋さんのも美味しかったから、義母もうちも、よくそこへ寄って一緒にキムチを買ったのですが、最近は嵯峨へもご無沙汰なので、そちらの店には行く機会がありません。
上の写真のように、春日通に面してあまり目立たない店だけれど、キムチ類はとても美味しいです。角を曲がった橋の手前に駐車場もあって、確か2台くらいはとまれるのではなかったでしょうか。
こうして本がキムチに代わり、「往きはよいよい、復りはこわい」の京都の北へ向かって上り坂の帰り道をえっちらおっちら自転車こいで帰ってきました。家のすぐ近くの下鴨中学の脇くらいから数えてみたら、家までタイヤを軽く300回転くらいさせていることが分かりましたが、それで行くと今日の自転車行は1万回転以上は走っているじゃないかと思います。室内の自転車こぎマシンでは、とてもそれだけこぐ元気は出ませんが、何か目的があるとけっこうこげるものですね。それで股関節症の激痛が起きないのですから、ありがたいことです。但し、きょうは花粉がものすごかった。目はコロコロ,鼻水がひっきりなしに出てマスクが何枚もダメになり、のどもカラカラ。
本読みは、きょうは日本書紀の神代のところをもう一度、次々に生まれてくる神様の系譜などメモしながら(笑)読み直してみました。
今日の夕餉
ピーマンと生シイタケの肉詰め、上賀茂のクレソンつき
カマスゴの焼いたの、生姜ポン酢で
菜の花のおひたし、辛し酢味噌で
ちぢみ
タラコニンジン
厚揚げとスナップエンドウの肉味噌炒め
芋煮
グリーンサラダ。以上でした。
別にこの本屋さんに何の恨みもないのでが、この本屋さんはいったいどういう顧客を相手に本を売っているのか全然わかりません。たぶん本なんかに何の興味もない経営者が、地の利さえあれば、そこそこ売れる商品として本という商品を、日用品やパンや下着なんかと同じ商品として売っているだけなのでしょう。だから、マンガ、雑誌、一般向けの内容の文庫本の最大公約数的なものを置いておけば、繁華街や駅前なら、そこそこコンスタントな売り上げは確保できるし、高野のように学生やアラサー、アラフォー世代がたくさん住んでいるマンションや公団住宅的なものが集中しているような地域で、カフェでもつけておけば、けっこういけるということかもしれません。本の中身は一定の回転率以上が見込める本であれば何だっていいのでしょう。こういうことでないと、あの無性格さという性格、あの半端じゃない中途半端さ(笑)は説明しづらいという気がします。
何も買いたい本がなかったので、仕方なく帰ろうと思いましたが、どういうわけか北東へ向けて走らなくてはならないのに、駅前からどこをどう間違えたか南西方向へ走っていたらしく、気が付くと西大路四条なので、ええい、ここまで来たなら、先日も訪れたキムチ屋さんへ寄っていくか、と気を取り直して、春日通四条下がる西側のお店まで行って、なくなりかけているキムチとチヂミをまた買ってきました。
近所の店(生協、HELP、カナート、イズミヤ等々)で売るキムチは、すべて甘すぎて、全然キムチらしくなく、美味しくないので、どうしてもこのお店まで来ないと、美味しいキムチが手に入らないのです。嵯峨へよく行ったころは、丸太町通りに面して、叡電の踏切の手前、今日銀行やライクスのある少し手前の北側にある小さなキムチ屋さんのも美味しかったから、義母もうちも、よくそこへ寄って一緒にキムチを買ったのですが、最近は嵯峨へもご無沙汰なので、そちらの店には行く機会がありません。
上の写真のように、春日通に面してあまり目立たない店だけれど、キムチ類はとても美味しいです。角を曲がった橋の手前に駐車場もあって、確か2台くらいはとまれるのではなかったでしょうか。
こうして本がキムチに代わり、「往きはよいよい、復りはこわい」の京都の北へ向かって上り坂の帰り道をえっちらおっちら自転車こいで帰ってきました。家のすぐ近くの下鴨中学の脇くらいから数えてみたら、家までタイヤを軽く300回転くらいさせていることが分かりましたが、それで行くと今日の自転車行は1万回転以上は走っているじゃないかと思います。室内の自転車こぎマシンでは、とてもそれだけこぐ元気は出ませんが、何か目的があるとけっこうこげるものですね。それで股関節症の激痛が起きないのですから、ありがたいことです。但し、きょうは花粉がものすごかった。目はコロコロ,鼻水がひっきりなしに出てマスクが何枚もダメになり、のどもカラカラ。
本読みは、きょうは日本書紀の神代のところをもう一度、次々に生まれてくる神様の系譜などメモしながら(笑)読み直してみました。
今日の夕餉
ピーマンと生シイタケの肉詰め、上賀茂のクレソンつき
カマスゴの焼いたの、生姜ポン酢で
菜の花のおひたし、辛し酢味噌で
ちぢみ
タラコニンジン
厚揚げとスナップエンドウの肉味噌炒め
芋煮
グリーンサラダ。以上でした。
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2021年02月27日
学生のころに還ったように
考えてみると最終的に最後の職場を離れてからは、体の不調はあるものの、外部から指示されたり、義務として課されたりすることは、確定申告くらいしかないので(笑)、ストレスがなく、毎日自分の好きなことをして暮らしているし、肉体とちがって精神に老いは無いようですから、ちょうど親の脛を齧って好きなことをしていた学生時代にもどったような状態です。
学生時代には授業に出ないと単位がもらえないとか、アルバイトで決められた時間にはいかないといけないとか、まだ外部の何かに縛られるところが幾分かはありましたが、本を読んだり何か考えたりというのは今では義務や義理でやるわけじゃないので、完全に自分が好きでやる「あそび」の一種だし、掃除や布団の上げ下ろし、皿洗いにゴミ出し、などの家事はやっぱり夫婦での比重が、食事を作るパートナーに圧倒的に偏っているので、「ちょっとお手伝いしている」程度でしかありません。
まあこれが隠居生活というものなのかもしれませんが、やっている中身もだんだん学生時代に還ってきている感があります。相変わらず「やりたいな」、と思っていることは、「やりたいな」のままでろくに手をつけずに棚に上げて、学生時代に読んだ本、正確に言えば少し齧ってはみたものの歯が立たずに途中でやめてしまったような、ちょっと小難しいものや、いつか系統立てて読んでみたいな、と思いながら、拾い読みに終わっていた古典に最後の挑戦をしてみたり。
先日から読んでいる「古今集」やら「日本書紀」、あるいは少し前に筆写しながら何とか全部読んでしまった「芭蕉全発句集」などは後者だし、同じころに読み継いできたソシュール、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティの言語論や、このところ読んでいるプラトン、アリストテレスからデカルト、カント、ヘーゲル、フロイト、それに先般やっと最初から最後までとにかく読み切ってこのブログにメモなど書いていたフーコーの『言葉と物』などは前者ということになります。
もちろん読んだって、いまさら賢くはなりませんが(笑)、若い時には全然歯がたたなかった本が、年の功というのか、あるいは翻訳が読みやすい日本語になったせいなのか、ほんとに理解したのかどうかは別として、主観的にはわりあいすんなり読んで、自分に引き寄せ、ふんふん、こういう考え方なんだ、とそれなりに分かるように感じられ、この歳になって新鮮な視野が開けるような気分(もちろん錯覚である可能性は大いにあるけれど・・笑)になれるのは、けっこう楽しいものです。
そんなわけで今日はヘーゲルの『精神現象学』を読んでいました。難しい著作だし、難しい人だけど、用語と独特の思考法に少し慣れると病みつきになりそうな魅力を持った人で、学生の頃から、わからなくても嫌いじゃなかった人なので、もう一回実質的な処女大作であるこの本あたりから何冊かは読んでみたいな、と思っているところです。コロナに足をとられたら、そこで終わりですが(笑)
今日の夕餉
豚バラの焼肉風、サンチュ添え
菊菜、レンコン、ニンジン、シイタケのしらあえ
パプリカとピーマン入りマカロニサラダ
蕗の薹とユリネ、ホシエビ入りの大根餅
ジャガイモ、アゲ、スナップエンドウの煮物
グリーンサラダ
モズク酢
フキノトウ、フキ、コンブの佃煮
カブの皮のぬか漬け
以上でした。
学生時代には授業に出ないと単位がもらえないとか、アルバイトで決められた時間にはいかないといけないとか、まだ外部の何かに縛られるところが幾分かはありましたが、本を読んだり何か考えたりというのは今では義務や義理でやるわけじゃないので、完全に自分が好きでやる「あそび」の一種だし、掃除や布団の上げ下ろし、皿洗いにゴミ出し、などの家事はやっぱり夫婦での比重が、食事を作るパートナーに圧倒的に偏っているので、「ちょっとお手伝いしている」程度でしかありません。
まあこれが隠居生活というものなのかもしれませんが、やっている中身もだんだん学生時代に還ってきている感があります。相変わらず「やりたいな」、と思っていることは、「やりたいな」のままでろくに手をつけずに棚に上げて、学生時代に読んだ本、正確に言えば少し齧ってはみたものの歯が立たずに途中でやめてしまったような、ちょっと小難しいものや、いつか系統立てて読んでみたいな、と思いながら、拾い読みに終わっていた古典に最後の挑戦をしてみたり。
先日から読んでいる「古今集」やら「日本書紀」、あるいは少し前に筆写しながら何とか全部読んでしまった「芭蕉全発句集」などは後者だし、同じころに読み継いできたソシュール、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティの言語論や、このところ読んでいるプラトン、アリストテレスからデカルト、カント、ヘーゲル、フロイト、それに先般やっと最初から最後までとにかく読み切ってこのブログにメモなど書いていたフーコーの『言葉と物』などは前者ということになります。
もちろん読んだって、いまさら賢くはなりませんが(笑)、若い時には全然歯がたたなかった本が、年の功というのか、あるいは翻訳が読みやすい日本語になったせいなのか、ほんとに理解したのかどうかは別として、主観的にはわりあいすんなり読んで、自分に引き寄せ、ふんふん、こういう考え方なんだ、とそれなりに分かるように感じられ、この歳になって新鮮な視野が開けるような気分(もちろん錯覚である可能性は大いにあるけれど・・笑)になれるのは、けっこう楽しいものです。
そんなわけで今日はヘーゲルの『精神現象学』を読んでいました。難しい著作だし、難しい人だけど、用語と独特の思考法に少し慣れると病みつきになりそうな魅力を持った人で、学生の頃から、わからなくても嫌いじゃなかった人なので、もう一回実質的な処女大作であるこの本あたりから何冊かは読んでみたいな、と思っているところです。コロナに足をとられたら、そこで終わりですが(笑)
今日の夕餉
豚バラの焼肉風、サンチュ添え
菊菜、レンコン、ニンジン、シイタケのしらあえ
パプリカとピーマン入りマカロニサラダ
蕗の薹とユリネ、ホシエビ入りの大根餅
ジャガイモ、アゲ、スナップエンドウの煮物
グリーンサラダ
モズク酢
フキノトウ、フキ、コンブの佃煮
カブの皮のぬか漬け
以上でした。
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2021年02月26日
めぐみの雨
昨日庭の手入れをして、鉢の土を入れ替えたりしたところで、きょうは朝起きると雨が降っていて、オレンジレモンやぶどうなどの果樹、鉢植えのキノメ、バラ、椿等々にとっては、グッドタイミング、めぐみの雨となりました。
午後は雨もやんだので、今日も無目的に自転車を走らせ、結局また三条富小路を少し下がったところにある駐輪場に預けて、BAL丸善へ。欠けていた岩波文庫の『日本書紀』第2巻や光文社古典新訳文庫の『純粋理性批判』第4巻、『存在と時間』の第3巻と5巻を買って帰りました。私みたいに何かちょっと考えてみる必要があって、小難しい本でも、それらしいことについて書いてある箇所だけ読んで、わからない場合だけ遡る、みたいな読み方をしていると、こういう変な買い物になります。今月は全部ツケ(クレジットカード)で買っているので、あとがコワイ(笑)。
週刊文春がまたすっぱ抜いて、菅首相の長男(の会社)による総務省のお役人たちの接待が問題になっています。お役人たちは形ばかりの懲戒だの注意だので幕引き、総務省時代に1回で7万円超の接待を受けた現職は広報官の女性は給与の6割相当額を返上するだけで、今の職に居座るつもりのようです。上がこんな状態だから、あとにつづく若いお役人たちも、みな、あれでいいんだ、と接待漬けの役人天国は永遠につづくのかもしれません。
そう言えば昔、こちらが所帯を持つ前後に知り合った、まだそのときは学生だった男が、上級国家公務員の試験にパスして官僚になり、その後訪ねて来た時に、自分が監督すべき現場へ行くと、もう現場なんかほとんど見る間もないくらい、最初から最後まで接待漬けで・・・と言っていたのを思い出します。
道路工事などは、土だかコンクリートだかアスファルトだけ知らないけど、いくつもの層を塗り重ねて丈夫な道路にするのだそうですが、それを「一枚抜く」だけで業者は大変な利益を得るから、何とか監督官庁の担当者を抱き込んで、手抜き工事を黙認させようとするんだとか。そういうのはすぐには分からないけれど、随分後になってかから路面陥没で大事故が起きたり、橋が脆くも落ちたり、プロが見れば、ああ、手抜きしよったな、とわかるような例があるのだとか。
もうひとつこういうニュースを聞くたびに思い出すのは、某金融機関の理事長が出席する会議に、記録・起稿役の事務局の端くれとして陪席していて、録音などしていると、たまに、とんでもない発言をして、そのあとでこっちを向いて「今のはオフレコだぞ!」(笑)というのがあるのですが、そういう例の一つとして、事件が何だったかは失念しましたが、彼にとって不都合なことを記者に嗅ぎつけられたけれども、「A社以外は抑えましたが・・・」と言っていたことがありました。それを聞いて、Y社やS社のような、もともと企業経営者寄りのメディはそんなものだろうと思っていましたが、けっこう「革新的な」言辞をふるっていたローカルなK社や、けっこう総合的にバランスのとれた紙面をつくるようにみなされていたN社なんかも、軒並み、こんな人でも「抑える」ことができるんだ、と認識を新たにしました。それ以来、基本的にマスメディアというのはまったく信用できず、権力・金力を持つ存在に対してはまったく従順なポチとして、不祥事にも目をつぶるんだな、と思っています。
もちろん自分が学生のころには、学生のあいだで「ブルシン」(ブルジョアジーの利益に奉仕する新聞)と呼ばれて、マスメディアなど信用できない、という「考え方」はけっこう一般的だったけれど、直接そういう歪曲や隠蔽の現場を見たり聞いたりしたわけじゃないし、自分も含めて身近にそういうことの被害に遭った者がいたわけでもないので、メディアだって利益を追求する企業だから、経営者たちは権力と結びついてそういうことをやりかねないとは思っていたけれど、いちおう国民の声を代表するタテマエの全国新聞あたりは、政治家や一企業経営者がストップをかけたからといって、唯々諾々と従うだけのような露骨なやり方はしたがらないんじゃないか、と内心で思っていたところがあるのでしょう。だから、ごく身近なところで、全国的に見ればローカルな企業にすぎない組織の一経営者が不都合な記事を「抑えましたが」なんて言うのを聞くと、あ、やっぱりそんなことを日常的にやってるわけかい、と新鮮な驚き(笑)がありました。もう40年くらいは前の話だから彼らが何をしていたにせよ、人殺しでない限りは時効になっているでしょうが。
そういうことに関しては、しかし、半世紀たっても、何も変わっていないのですね。これから社会へ出て日本を背負っていく若い人には、本当にこんな世の中にしてごめんなさい、と謝るしかないですね。
今日の夕餉
イワシのフライ、ゴママヨネーズ添え。
ササミのチーズとクレソンの茎の挟み揚げ。
海老の蕗の薹クリームコロッケ。
ひじきの煮物。
鮎の梅煮(いただきものだそうです。美味しかった)
春雨の中華サラダ。
小松菜の胡麻和え。
グリーンサラダ、クレソン、ポンカン入り。
以上でした。
午後は雨もやんだので、今日も無目的に自転車を走らせ、結局また三条富小路を少し下がったところにある駐輪場に預けて、BAL丸善へ。欠けていた岩波文庫の『日本書紀』第2巻や光文社古典新訳文庫の『純粋理性批判』第4巻、『存在と時間』の第3巻と5巻を買って帰りました。私みたいに何かちょっと考えてみる必要があって、小難しい本でも、それらしいことについて書いてある箇所だけ読んで、わからない場合だけ遡る、みたいな読み方をしていると、こういう変な買い物になります。今月は全部ツケ(クレジットカード)で買っているので、あとがコワイ(笑)。
週刊文春がまたすっぱ抜いて、菅首相の長男(の会社)による総務省のお役人たちの接待が問題になっています。お役人たちは形ばかりの懲戒だの注意だので幕引き、総務省時代に1回で7万円超の接待を受けた現職は広報官の女性は給与の6割相当額を返上するだけで、今の職に居座るつもりのようです。上がこんな状態だから、あとにつづく若いお役人たちも、みな、あれでいいんだ、と接待漬けの役人天国は永遠につづくのかもしれません。
そう言えば昔、こちらが所帯を持つ前後に知り合った、まだそのときは学生だった男が、上級国家公務員の試験にパスして官僚になり、その後訪ねて来た時に、自分が監督すべき現場へ行くと、もう現場なんかほとんど見る間もないくらい、最初から最後まで接待漬けで・・・と言っていたのを思い出します。
道路工事などは、土だかコンクリートだかアスファルトだけ知らないけど、いくつもの層を塗り重ねて丈夫な道路にするのだそうですが、それを「一枚抜く」だけで業者は大変な利益を得るから、何とか監督官庁の担当者を抱き込んで、手抜き工事を黙認させようとするんだとか。そういうのはすぐには分からないけれど、随分後になってかから路面陥没で大事故が起きたり、橋が脆くも落ちたり、プロが見れば、ああ、手抜きしよったな、とわかるような例があるのだとか。
もうひとつこういうニュースを聞くたびに思い出すのは、某金融機関の理事長が出席する会議に、記録・起稿役の事務局の端くれとして陪席していて、録音などしていると、たまに、とんでもない発言をして、そのあとでこっちを向いて「今のはオフレコだぞ!」(笑)というのがあるのですが、そういう例の一つとして、事件が何だったかは失念しましたが、彼にとって不都合なことを記者に嗅ぎつけられたけれども、「A社以外は抑えましたが・・・」と言っていたことがありました。それを聞いて、Y社やS社のような、もともと企業経営者寄りのメディはそんなものだろうと思っていましたが、けっこう「革新的な」言辞をふるっていたローカルなK社や、けっこう総合的にバランスのとれた紙面をつくるようにみなされていたN社なんかも、軒並み、こんな人でも「抑える」ことができるんだ、と認識を新たにしました。それ以来、基本的にマスメディアというのはまったく信用できず、権力・金力を持つ存在に対してはまったく従順なポチとして、不祥事にも目をつぶるんだな、と思っています。
もちろん自分が学生のころには、学生のあいだで「ブルシン」(ブルジョアジーの利益に奉仕する新聞)と呼ばれて、マスメディアなど信用できない、という「考え方」はけっこう一般的だったけれど、直接そういう歪曲や隠蔽の現場を見たり聞いたりしたわけじゃないし、自分も含めて身近にそういうことの被害に遭った者がいたわけでもないので、メディアだって利益を追求する企業だから、経営者たちは権力と結びついてそういうことをやりかねないとは思っていたけれど、いちおう国民の声を代表するタテマエの全国新聞あたりは、政治家や一企業経営者がストップをかけたからといって、唯々諾々と従うだけのような露骨なやり方はしたがらないんじゃないか、と内心で思っていたところがあるのでしょう。だから、ごく身近なところで、全国的に見ればローカルな企業にすぎない組織の一経営者が不都合な記事を「抑えましたが」なんて言うのを聞くと、あ、やっぱりそんなことを日常的にやってるわけかい、と新鮮な驚き(笑)がありました。もう40年くらいは前の話だから彼らが何をしていたにせよ、人殺しでない限りは時効になっているでしょうが。
そういうことに関しては、しかし、半世紀たっても、何も変わっていないのですね。これから社会へ出て日本を背負っていく若い人には、本当にこんな世の中にしてごめんなさい、と謝るしかないですね。
今日の夕餉
イワシのフライ、ゴママヨネーズ添え。
ササミのチーズとクレソンの茎の挟み揚げ。
海老の蕗の薹クリームコロッケ。
ひじきの煮物。
鮎の梅煮(いただきものだそうです。美味しかった)
春雨の中華サラダ。
小松菜の胡麻和え。
グリーンサラダ、クレソン、ポンカン入り。
以上でした。
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2021年02月25日
庭いじり、古今集仮名序
春が近づいてきて、そろそろ植木鉢で固まっている栄養の抜けた土を、新しい栄養たっぷりの土に入れ替えてやろう、というので、キノメなど幾つかの鉢と、オレンジレモンやブドウの木の周囲の土を少し入れ替えました。ぽかぽか暖かくて、ちょうどよい日光浴になりました。
オレンジレモンは一昨年植えた年に1個、昨年は2個実をつけました。今年は3個か、いやいや倍々になっているから4個でしょ、なんて言いあって楽しみにしていますが、どうでしょうか。
ブドウは植えてから何年にもなりますが、一度一房だけ実をつけて、虫にやられなかった幾つかの粒を食べただけで、昨年あたり、その前に牛糞などやったせいか、幾房か実をつけてくれましたが、実際に食べられたのはやっと一房分くらいで、あとは途中で萎んでしまったり、虫に食われてしまいました。やっぱり袋をかぶせたり、いろいろ対策をとらないとだめなのかもしれません。ちっとも園芸の初歩さえ学ばずに植えて放っておいて、収穫だけ期待するのは虫が良すぎるでしょう。
今日の自転車行は、パートナーが必要らしい金属用の接着剤を求めて出町へ行って、金物屋さんでみつかり、あとは百万遍経由で帰ってきただけです。西部の書店に寄ろうかとおもったら、なにやら黄色い服を着たおじさん、おばさん(係員)らしき人が大勢立っていて、客も多そうで、イベントでもあるらしい雰囲気だったので、やめてすぐに帰ってきました。入試が近いはずだし、何か色々大学周辺もあわただしくなっているようです。
片桐洋一さんの訳註による古今集は、150ページを過ぎてもまだ貫之の「仮名序」の途中です ^^,
でも、こちらが無知なおかげで、とても新鮮でいっぱい啓蒙されます。古今集の本質的なところは言うまでもないけれど、ちょっとしたことで、例えば貫之が歌の<さま>を『毛詩』大序の六義をふまえて六種に分類して例を挙げている仮名序の一節を解説する途中で、その中のひとつ「いはひ歌」を貫之がどういうものだと考えていたかを例挙された歌から考察しようとして、その歌が催馬樂に歌われている「この殿はむべもとみけりさき草のみつばよつばに殿造りせり」をとりあげるときに、この「みつばよつばに」がまたわからない表現なのだ、とちょっと寄り道するときに、「端(は)」は「刃」「歯」「羽」「葉」などと同じく突き出したもの、突き出した所を言う、とさりげなく書いてあります。
こういうところにくると、アッと思いますね。物心ついてからこんな言葉は何千何万回使ってきたかわからないのだけど、全然別の言葉として使い、別の言葉として聞き分けていたと思います。70年以上も(笑).でも、もとは同じことば、原始日本語ではきっと同じ言葉だったのでしょうね。
幼い頃、母がよく私の容貌をからかって、「あんたはヤマザクラやから」と言ってたのを思い出します。花(鼻)より葉(歯)が先に出るから、というのですね。何と意地悪な母でしょう!(笑)自分がそのように産んだのにね!でもこれ、古今集的な掛詞だったんですね(笑)。母は古今集と源氏物語(晩年は『とはずがたり』でしたが)が何より好きでしたから。
あるいは、「難波津の歌は御門(みかど)の御始めなり。」という貫之の言葉を解説する中で、この奈良時代から習字の手習いに使われてきた歌は帝(みかど)に対して詠まれた歌だが、この「みかど」という語は、もとは御門であり、特に皇居の御門の意味だったが、皇居全体を指すようになり、さらに朝廷の意になり、その中心人物である帝王の意になった、というようなことが書かれていて、これなどもみんな知っていることなのかもしれないけれど、私は不意を突かれて、なんだそうだったのか、なんて新鮮な思いで読みました。
もう少し歌に近いところでは、冒頭の「花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌ひいだせるなり」という貫之仮名序の言葉に関して、古くから鶯や蛙が歌を詠んだというまことしやかな話が伝わっていて、古今集成立後の各種の注にも、その由来が書いてある、と紹介しているところなどが抜群に面白かった。その話(説話)というのはこんなものです。
日本紀云、孝謙天皇の御時、大和国天間寺に僧あり。かの僧に最愛の弟子あり。かの弟子死にてのち、師深く歎きけれども、月日を経て後忘れぬ。ある年の春、住ける家の前なる梅の木に鶯来て鳴く。その声を聞けば「初陽毎朝来 不相還本栖」と鳴く。これを見れば歌なり
初春のあしたごとには来たれどもあはでぞかへるもとのすみかに
この時、師、弟子の鶯となりたりけると知りて深くとぶらひけり。この歌、万葉集に鶯の歌とて入れり。
蛙のよむといふ事、同じく日本紀に云く、壱岐守紀良貞、忘草をたづねて住吉の浜に行きたりけるに、美しき女にあへり。後会を契るに、女のいはく「吾を恋しく思はむ時は、この浜へましませ」といふ。後にたづね行きたるに、女なし。かの浜に蛙出で来て、ゐたる前を這ひ通る。その足の跡を見れば、文字なり。これを読みてみれば歌なり。
住吉の浜のみるめも忘れねばかりにも人にまたとはれぬる
この歌を見て、蛙の化したりけると思ひて帰りぬ。万葉に、この歌、蛙の歌と入れり。
この注は、片桐さんによれば、鎌倉時代の末から室町時代の始めにかけて大きな影響力のあった『古今和歌集序聞書三流抄』にあるのだそうです。もちろん万葉集にこんなウグイスの歌だの蛙の歌が入っているはずもなく、日本書紀にもこんな話はないので、まったくのフェイク(笑)。でも、この「鶯蛙の歌」の話は古今集の注釈書ばかりでなく、『曽我物語』にも謡曲「白楽天」にも登場し、広く伝えられていたそうですから、フェイクではあってもそれだけ面白い話だったからでしょうか。
古今集の註釈というから、昔おふくろが持っていた国文学者の分厚い古今集の注釈書(古本屋に二束三文で売り払ってしまったけど)みたいにお堅い小難しい本じゃないかなぁ、と思っておそるおそる読み始めたのですが、この片岡さんの博覧強記の蘊蓄のいたるところで脱線しそうな細部の話が抜群に面白くて、肝心の貫之の本文はどうだったけ、と戻るのが大変なほどです(笑)。
今日の夕餉
揚げ出し豆腐にカブラ、フキノトウのアンカケ
ウオゼの塩焼き
菊菜と人参のナムル
グリーンサラダ
小松菜、おあげ、エノキダケの煮びたし
モズクと胡瓜の酢の物
豆類三種
スジコンののこり
アスパラの肉巻き
高菜の漬物とごはん。以上でした。
オレンジレモンは一昨年植えた年に1個、昨年は2個実をつけました。今年は3個か、いやいや倍々になっているから4個でしょ、なんて言いあって楽しみにしていますが、どうでしょうか。
ブドウは植えてから何年にもなりますが、一度一房だけ実をつけて、虫にやられなかった幾つかの粒を食べただけで、昨年あたり、その前に牛糞などやったせいか、幾房か実をつけてくれましたが、実際に食べられたのはやっと一房分くらいで、あとは途中で萎んでしまったり、虫に食われてしまいました。やっぱり袋をかぶせたり、いろいろ対策をとらないとだめなのかもしれません。ちっとも園芸の初歩さえ学ばずに植えて放っておいて、収穫だけ期待するのは虫が良すぎるでしょう。
今日の自転車行は、パートナーが必要らしい金属用の接着剤を求めて出町へ行って、金物屋さんでみつかり、あとは百万遍経由で帰ってきただけです。西部の書店に寄ろうかとおもったら、なにやら黄色い服を着たおじさん、おばさん(係員)らしき人が大勢立っていて、客も多そうで、イベントでもあるらしい雰囲気だったので、やめてすぐに帰ってきました。入試が近いはずだし、何か色々大学周辺もあわただしくなっているようです。
片桐洋一さんの訳註による古今集は、150ページを過ぎてもまだ貫之の「仮名序」の途中です ^^,
でも、こちらが無知なおかげで、とても新鮮でいっぱい啓蒙されます。古今集の本質的なところは言うまでもないけれど、ちょっとしたことで、例えば貫之が歌の<さま>を『毛詩』大序の六義をふまえて六種に分類して例を挙げている仮名序の一節を解説する途中で、その中のひとつ「いはひ歌」を貫之がどういうものだと考えていたかを例挙された歌から考察しようとして、その歌が催馬樂に歌われている「この殿はむべもとみけりさき草のみつばよつばに殿造りせり」をとりあげるときに、この「みつばよつばに」がまたわからない表現なのだ、とちょっと寄り道するときに、「端(は)」は「刃」「歯」「羽」「葉」などと同じく突き出したもの、突き出した所を言う、とさりげなく書いてあります。
こういうところにくると、アッと思いますね。物心ついてからこんな言葉は何千何万回使ってきたかわからないのだけど、全然別の言葉として使い、別の言葉として聞き分けていたと思います。70年以上も(笑).でも、もとは同じことば、原始日本語ではきっと同じ言葉だったのでしょうね。
幼い頃、母がよく私の容貌をからかって、「あんたはヤマザクラやから」と言ってたのを思い出します。花(鼻)より葉(歯)が先に出るから、というのですね。何と意地悪な母でしょう!(笑)自分がそのように産んだのにね!でもこれ、古今集的な掛詞だったんですね(笑)。母は古今集と源氏物語(晩年は『とはずがたり』でしたが)が何より好きでしたから。
あるいは、「難波津の歌は御門(みかど)の御始めなり。」という貫之の言葉を解説する中で、この奈良時代から習字の手習いに使われてきた歌は帝(みかど)に対して詠まれた歌だが、この「みかど」という語は、もとは御門であり、特に皇居の御門の意味だったが、皇居全体を指すようになり、さらに朝廷の意になり、その中心人物である帝王の意になった、というようなことが書かれていて、これなどもみんな知っていることなのかもしれないけれど、私は不意を突かれて、なんだそうだったのか、なんて新鮮な思いで読みました。
もう少し歌に近いところでは、冒頭の「花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌ひいだせるなり」という貫之仮名序の言葉に関して、古くから鶯や蛙が歌を詠んだというまことしやかな話が伝わっていて、古今集成立後の各種の注にも、その由来が書いてある、と紹介しているところなどが抜群に面白かった。その話(説話)というのはこんなものです。
日本紀云、孝謙天皇の御時、大和国天間寺に僧あり。かの僧に最愛の弟子あり。かの弟子死にてのち、師深く歎きけれども、月日を経て後忘れぬ。ある年の春、住ける家の前なる梅の木に鶯来て鳴く。その声を聞けば「初陽毎朝来 不相還本栖」と鳴く。これを見れば歌なり
初春のあしたごとには来たれどもあはでぞかへるもとのすみかに
この時、師、弟子の鶯となりたりけると知りて深くとぶらひけり。この歌、万葉集に鶯の歌とて入れり。
蛙のよむといふ事、同じく日本紀に云く、壱岐守紀良貞、忘草をたづねて住吉の浜に行きたりけるに、美しき女にあへり。後会を契るに、女のいはく「吾を恋しく思はむ時は、この浜へましませ」といふ。後にたづね行きたるに、女なし。かの浜に蛙出で来て、ゐたる前を這ひ通る。その足の跡を見れば、文字なり。これを読みてみれば歌なり。
住吉の浜のみるめも忘れねばかりにも人にまたとはれぬる
この歌を見て、蛙の化したりけると思ひて帰りぬ。万葉に、この歌、蛙の歌と入れり。
この注は、片桐さんによれば、鎌倉時代の末から室町時代の始めにかけて大きな影響力のあった『古今和歌集序聞書三流抄』にあるのだそうです。もちろん万葉集にこんなウグイスの歌だの蛙の歌が入っているはずもなく、日本書紀にもこんな話はないので、まったくのフェイク(笑)。でも、この「鶯蛙の歌」の話は古今集の注釈書ばかりでなく、『曽我物語』にも謡曲「白楽天」にも登場し、広く伝えられていたそうですから、フェイクではあってもそれだけ面白い話だったからでしょうか。
古今集の註釈というから、昔おふくろが持っていた国文学者の分厚い古今集の注釈書(古本屋に二束三文で売り払ってしまったけど)みたいにお堅い小難しい本じゃないかなぁ、と思っておそるおそる読み始めたのですが、この片岡さんの博覧強記の蘊蓄のいたるところで脱線しそうな細部の話が抜群に面白くて、肝心の貫之の本文はどうだったけ、と戻るのが大変なほどです(笑)。
今日の夕餉
揚げ出し豆腐にカブラ、フキノトウのアンカケ
ウオゼの塩焼き
菊菜と人参のナムル
グリーンサラダ
小松菜、おあげ、エノキダケの煮びたし
モズクと胡瓜の酢の物
豆類三種
スジコンののこり
アスパラの肉巻き
高菜の漬物とごはん。以上でした。
saysei at 21:41|Permalink│Comments(0)│
2021年02月24日
植物園、上賀茂神社の梅
今日もよく晴れました。朝10時、左京区の気温は6℃、最低―1℃~最高8℃だったそうです。
今日の腰痛対策自転車行は、まず植物園へ。梅苑が目当てで、南門から入ってまっすぐ桜苑に突き当たったところを右折して桜苑に沿ってずっといくと、梅苑があって、いまはまだ寒いのでほとんど花はみられないけれど、この梅苑だけは色んな種類の梅の花が咲いていて、梅の種類名を書いた札が掛かっているので、一つ一つ見て歩いて楽しめます。
上の写真の梅は「内裏」という名がついています。その名にピッタリの雰囲気をもつ花です。
「玉牡丹」。でも牡丹じゃなくて梅です(笑)。
「国光」
「鹿児島紅」
「栖鶯」 これはいい感じで、好きでした。名前もいいですね。
「大盃」
「茶靑」
「藤牡丹枝垂れ」
「道知辺」
「白加賀」
「八重寒紅」
「楊貴妃」
「鶯宿」
「南高梅」
まだまだありました。つぼみの多いのもあるので、これからまだしばらくは楽しめるでしょう。
植物園は後期高齢者の私は無料で入れます。桜の季節には来園者も多くなるでしょうが、いまは閑散としています。テントみたいな展示スペースを設けて、早春の花、という企画展をやっていましたが、まあ拝見して、あ、これが京野菜の聖護院カブとその花か、これがスグキとその花か、とお勉強にはなるでしょうが、やはり広々とした苑内を歩いて梅の花の間を逍遥するのが一番。
久しぶりに上賀茂神社まで自転車を走らせましたが、境内は二の鳥居の下に柵が立ててあって、そこから中へは入れず、お賽銭箱だけぶら下げてありましたが(笑)コロナによる緊急事態宣言下ゆえ、拝観はそこからにしてください、という趣旨のようでした。私も拝観に訪れたわけではないので、むしろちゃんとしてるな、と好感をもちました。
目当ての梅は、その二の鳥居の外、向って右わき脇に並んでいます。一本は白梅。
もう一本は小さな紅梅。
これはわが家の庭の乙女椿です。虫に食われたり、花弁に茶色いシミができる前の、咲き初めの花は本当に綺麗です。
たくさんつぼみがついていて、これからです。
こんなふうに沢山つぼみをつけて、咲くときは一度にたくさん咲きます。
ほうっておいたら自然に花壇の隅で伸びて小さな花をつけた黄水仙。
名は忘れましたがこれも毎年庭の隅に自然咲きます。
蕗の薹が次々先端を大きく開いて、毎日1個、2個ととっては、いろんな料理に添えたり、刻んで入れてくれています。昨日はパスタに入っていましたが、今日の昼は鶏肉の煮物の残りと野菜で作ったリゾットに蕗の薹を刻んで入れてあって、味も香りも最高でした。蕗の薹は何にでも合うのだそうです。
片桐洋一さんの『古今和歌集全評釈』(講談社学術文庫)を最初から読み始めているのですが、やっぱり自分は片桐さんが書いているような古今集への偏見にとらわれて敬遠してきたんだなぁ、とつくづく思い知りました。最初の方に例を挙げて解説してあるところだけでも、いかに古今の歌が読めていなかったか、というのを思い知らされます。しかし、文庫本とはいえ、上巻だけで1000ページを超える本で、3巻あるので、これ生きてるあいだに読めるかどうか(笑)
今日の夕餉
鯵の干物
スジコン
キャベツ、ピーマン、パプリカ、シイタケの山椒肉味噌いため
キムチ納豆の、海苔巻き揚げ
菜の花のおろしジャコポン酢
大根の皮と干しエビのキンピラ
グリーンサラダ
黒豆
エノキダケの炊き込みご飯。以上でした。
saysei at 19:12|Permalink│Comments(0)│