2021年01月
2021年01月31日
「平安宮大蔵省跡」等自転車行
平安宮大蔵省は平安宮の北部、いまの上京区中立売裏門西入南側にあって、金銭や物品の出納・収納などを職務とする官庁でした。いま財務省と言っているけれど、つい先ごろまでは大蔵省という平安時代の名称を用いていたわけでしょうね。
碑は中立売通の千本通から少し東(浄福寺通のすぐ東)の南側、正親小学校の校門脇に立っています。解説によれば、小学校の敷地の西側が大蔵省跡、東側は大宿直(おおとのい)という内裏の警護人の詰所だったそうです。
中立売通に面した正親小学校の正門(この手前の脇に碑)前から西の方角、千本通りの方角をみたところ。
同じ場所に、「此附近聚楽第址」という碑も立っていました。
その傍に掲げられた聚楽第址についての解説が、京都ことばで書かれていて面白かった。小学生が親しみを持って読めるように、という配慮でしょうか。でもフリガナも振ってないし、小学生だと高学年向きかもしれません。
また、そのすぐ近く(正門を挟んで反対側)には、唐津小笠原藩邸跡の碑が立っていました。
次に浄福寺通×出水通にあるはずの平安宮昭陽舎址を訪ねようと、千本通を出水まで下がって、それらしい路地にはいると、「平安宮采女町跡」の解説パネルがありました。
場所は以前訪れたことがある櫻宮神社のところでした。
平安宮の内部ではこういう位置にあたるそうです。内裏でお仕えする女官たちがいる所だから、内裏のすぐそばにあるのは理解できます。
さらに先般何度か訪れた綾綺殿のあたりをうろついていたら、鉄柵にパネルが掛かっていて、これは温明殿跡の説明でした。ここも碑などはなくこの解説パネル一枚だけでした。
これがそのパネルの解説文です。
温明殿の位置は赤い「現在地」のマークで示されています。このあたりの殿舎間の距離は本の目と鼻の先です。みな回廊を歩いて渡っていけたわけだから当然ですが実際にそれぞれの位置を訪ねてそのスポットに立ってみると、思ったよりずいぶん近いな、と思い、これで床を高く上げてあって、屋根、庇がついていれば、一つ一つの建物が結構存在感があるから、もっと相互の関係を狭く、近く感じたのではないかと思います。平安宮内の殿舎の密度は結構高い印象です。回廊を渡っていくのをちょっと部屋の隅をあけて、あ、見て見て!頭中将が誰それの所へ忍んでいくわよ!なんて覗いて噂話に花を咲かせるようなことも、これだけ近いと大いにあっただろうなと(笑)。
やっとお目当ての昭陽舎跡です。ここには碑が立っていました。前に弘徽殿やら綾綺殿の跡を訪れたとき、すぐ目と鼻の先だから当然訪ねているべきところ、見過ごしていたので、今回行けてよかった。
ここは庭に梨が植えられたことから「梨壺」と呼ばれていたんですね。「藤壺」や「桐壷」があれば「梨壺」があり、中宮のお住まいへのネーミングがいいですね。その人を指すときも直接名を言わずに部屋や身分で示すやりかたは現代の日本語にも尾を曳いているでしょう。私も狭い庭に植えてある芙蓉とか胡桃とかの名を付して呼んでもらおうかな。芙蓉壺では不要の壺みたいでダメか・・・胡桃壺も、もひとつですね。
こんな具合に碑と解説パネルがセットで立っていました。この左手(南)に少し折れると綾綺殿や弘徽殿跡などがあります。まっすぐ行けばすぐ千本通、昔の朱雀大路です。
今日のラストは、御池通千本東入ルにある「此附近弘文院址」の碑です。弘文院は、平安初期に和気氏によって⒥開かれた大学別曹だそうです。和気清麻呂(733-799)の長子広世が延暦年間(782-806)に大学別当になり、父の志を継いで大学南辺の私宅を弘文院としたそうで、内外の経書数千巻を蔵し、墾田40町をその財源としたそうです。(京都市=歴史資料館の、「京都のいしぶみデータベース」の解説によります。)
きょうの夕餉
ハゲの水炊き。あとは雑炊にしていただきます。
大根の皮のキンピラ
胡瓜カツオ
大根と手羽先の煮物。あとはいつものグリーンサラダ。以上でした。
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2021年01月30日
平安京「主水司」、「造酒司」跡等 自転車行
今日の自転車行の最初は、「平安宮主水司(もんどのつかさ)跡」碑。平安宮の飲料水や氷室などを職掌とする役所だそうです。内裏の西側、宮内省の北、大膳職の西に位置していたと解説にあります。
上京区丸太町通西日暮西入南側という所在地を聞いてもなじみがなかったのですが、丸太町通をまっすぐ西へ、大宮通を越えていくと、少し北寄りにカーブして、また元に戻るところがありますが、そのカーブする手前の南側に立っています。このあたりは二条城公園の少し北東にあたるのですね。
水の次はお酒です。「史跡平安宮造酒司(みきのつかさ)倉庫跡」の碑が、丸太町七本松の京都アスニーの建物の前のスペースに立っています。
造酒司は、天皇や中宮などに出す供御及び朝廷の諸節会・神事に用いられる酒・醴(あまざけ)・酢などを醸造していたそうです。広さ一町(120m)四方を占め、いまの中京区聚楽廻松下町の京都アスニー附近と推定されている、と解説にありました
造酒司には大きさの異なる醸造用の大瓶が三口あり、それぞれの部分二尺(約60cm)を地表面に出して、下は土中に据えてあったと記録にあるそうです。
1978年の発掘調査で倉庫跡がみつかったそうで掘立て柱(径40cm前後)構造で、方三間(東西6m、南北7.2m)だった由。平安京の跡は市街地化されて、当時の建物の跡も部分的にしか見つからないのが普通で、この倉庫のように棟全体の遺構が見つかるのは珍しいことなのだそうです。
次に二条城の北側、ほとんど北東の角に近い位置にある「冷然院跡」の碑を確かめに行きました。
解説に「累代の後院の一つ。代々図書を収蔵すると共に天皇譲位後の住居とした。初見は、弘仁7(816)年、嵯峨天皇(786-842)のとき。平安京左京二条二坊三町~六町を占め、大炊御門・二条・大宮・堀川の各大路に囲まれていた。貞観17(875)年、天暦3(949)年火災に遭い、「然」は火に通じることから「冷泉院」に改称。天喜3(1055)年、取り壊された」といったことが書かれています。
二条城の南側へまわって、神泉苑をちょっと覗いてきました。桓武天皇が平安京を造営する時、宮中の附属庭園としてつくられ、つねに清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名付けられたそうです。
当時は二条から三条までの南北4町、大宮通から壬生大路までの東西2町、およそ13万㎡におよぶ広大な宴遊の場だったけれど、二条城がつくられるとき大きく削られて、いまは4400㎡のこじんまりした庭園になっています。
できた当時、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣や釣殿、滝殿も設けられ、歴代天皇が行幸して行事、宴遊の類が行われたそうです。
歴史が長いだけあって、いろいろなエピソードが伝えられているようですが、とりわけよく知られているのは、弘仁三(812)年二月十二日に、嵯峨天皇が文人をまじえ日本ではじめて桜の花見の詩宴を行なった、ということ。『日本後記』に記事が出ているそうです。
また、天長元(824)年、日本中が旱天に干上がって困り果てているとき、勅命で空海が祈雨の法を修するや愛宕山の方からにわかに黒雲が沸き立って大雨を降らせ洪水になるほどだった、と。たしかこれは東寺の空海と西寺の坊主と競い合わせたところ、最初はどちらも雨を呼ぶことができず、実は西寺の坊主がほとんどの降雨をつかさどる神々を独占して閉じ込めていたからで、たった一神、善女龍王なる神が残っていたので、空海がこれに一身に祈ると一天にわかにかきくもり…ということに相成った、という面白おかしい話になって伝えられていたと思います。
とにかくそれ以来、この神泉苑は雨乞いの祈祷を行う霊場になってしまったんだそうです。そういえば苑内には善女龍王の社が設けられていたと思います。今回は入口でパシャッと写真を撮っただけで入らなかったので確かめてはいませんが、以前に何回か来ています。
ほかにも色々面白いエピソードがあるようで、小野小町や和泉式部も雨乞いの歌を詠んだそうですし、その歌も言い伝わっているけれど、ほんまかいな、というような、とても彼女らの歌と思えないような歌ですが(笑)。あと、貞観五(863)年にここで御霊会が行われ、祇園社から何千本もの鉾を持ち込んで立てたとかで、それが祇園祭の始まりにつながった、という話もあります。また、御池通りという通りの名は、ここの法成成就池があったことから名づけられたという説もあるそうです。それから、義経記によれば後白河法皇のときに、やはり旱天で雨乞いをするのに大勢の坊主たちがやったけれど何の効果もなく、次に大勢の白拍子たちに雨乞いの舞をさせたけれど効果がなく、最後にまだ静御前一人が舞っていなかったけれど、いまさら一人くらい追加しても降らないでしょう、という声のあるのを、まあ試しに舞わせてみようということになって、静御前が雨乞いの舞を披露すると、あぁら不思議、みるみる空があやしくなって大雨に…という話等々。
この法成橋というのだっけ、赤い太鼓橋が池に移って向こうに御堂があり、その向こうに緑と青空が見える光景はやっぱり綺麗でした。
昔はもっと池が広々していて、そこに船を浮かべて舟遊びなどしていたのでしょう。確か、竜頭の華やかなデザインをほどこした船が一艘つなぎとめてあって、こんなのを浮かべて貴族たちが遊んでいたんですよ、というのを見せていたと思うのですが、いまはどうでしょうか。
神泉苑の南側に何かないかと自転車を走らせてみると、一つだけ、こんなのが見つかりました。ところが、解説を読んでびっくり。若州小浜藩は譜代の酒井家12万2千石の大名で、京都所司代を三代21年間もつとめた名家なんですね。この京都藩邸の敷地は、その西にあった家来たちの住まいも含めると、およそ2万坪にもおよぶ広大なものだったそうです。
しかも幕末には、二条城へ入る直前までの3年と10カ月、徳川15代将軍慶喜がここに住んで、いわゆる四賢侯や幕府の要人らと謀議をこらし、大政奉還の腹案を持って二条城へ移るという、大変重要な幕府の活動拠点となったのがこの藩邸だったとのこと。そんなこととはつゆ知らず、小浜藩って?なんて首を傾げていた無知を愧じなくてはなりません。最近では、アメリカの大統領がオバマさんだったとき、名前が同じだってんでなんか応援してたりしたのがニュースになっていましたが、新鮮な魚が食べられるのと、海水浴に行ったなぁ、なんてことしか記憶にないあかんたれでした。すごい藩だったんですね。でも酒井って、そういえば伊達騒動のときの酒井雅樂なんて老中がいたような・・・でもそれ以外全然記憶がないところをみると、そう大変な事件や政治の世界での急変なんかに関わったお家というより、徳川の安定した世の中を縁の下で支え続けた譜代、という感じがするけれど、どうなんでしょうか。
これがその碑のある所で、小浜市が設けたようです。華やかなりし頃の当時のもので残っているのはこの碑の背後に立つ燈篭だけだそうです。
日暮れ前の今日の比叡。丸太町橋から。
反対の方角の空。
きょうの夕餉
トマト煮込みハンバーグとニョッキ
キッシュ(ブロッコリ茎、茸入り)
野菜、豆、ベーコンのスープ
グリーンサラダ。以上でした。
saysei at 21:34|Permalink│Comments(0)│
「島原」跡等 自転車行
六角堂の存在から六角通という名がついた路地といっていい細い通りは、通りの名を覚える歌で「姉・三・六角・蛸・錦・・・」と歌われるように三条通りの一筋南を東西に蜿蜒と繋がっています。富小路あたりからずっとその六角通リを自転車で走ると、なんともいえずいい感じ。古い家々が多くて落ち着いているせいでしょう。
昨日(29日)の自転車行、最初の目当ては六角牢獄。正式には「三条新地牢屋敷」なのだそうですが、今でいえば政治犯みたいなのがみんなここへ囚われていたのでしょう。
元治元年(1864)7月20日、禁門の変で起きた火災がこの近くまで迫り、破獄を恐れた西町奉行滝川具挙が判決も下っていない囚人を、独断で処刑してしまったのだそうです。その数37名。一人一人引き出して、時世の句を詠ませてから首を斬るので、全部執行を終えるまで3時間かかったとか。
このとき処刑された中に、これまでもこの自転車行のブログ記事に登場したことのある、生野の変を起こして敗れた平野國臣や、新選組につかまって拷問され、情報を白状させられたのが池田屋騒動のきっかけになったと言われている古高俊太郎、それに幕府に警告するために等持院の足利三代の将軍の木造の首を切ってさらした罪で捕らえられた長尾郁三郎も含まれていて、ここで殺されてしまったのですね。
彼ら殉難の士が最後に詠んだ辞世の詩文は、国会図書館のデータベースでウェブサイトに公開されている『殉難前後草』で読むことができました。
その死を悼んで「勤王志士平野國臣外数十名終焉跡」という碑が六角獄舎の跡、今は高層マンションが建っている入口の脇に立てられています。中京区六角通神泉苑西入南側というその場所は少し分かりにくかったけれど、要は六角通をどんどん西へ行って大宮通の少し先、一見行き止まりみたいに見える所で右へカーブしていて、その左手(西側)には武信稲荷神社という神社があるのですが、その曲がり角を曲がる手前の左手(南側)に少ししひっこんで建っている何棟かの高層マンションの敷地への入口があり、その外の脇に、いま一つの下の碑と並んで立っています。
同じ場所に並んで立っているのがこの「日本近代医学発祥之地」の碑。
詳しいことは、このマンション敷地の中へ足を踏み入れてすぐ左側に、山崎東洋の名を刻んだ立派な碑があり、下に説明があります。彼がこの六角獄舎で死んだ囚人の遺体を、京都所司代の許しを得て日本初の人体解剖をした、と。杉田玄白が江戸で初めて解剖する十数年(17年でしたっけ)も前のことだそうですから、ずいぶん先駆的なことだったのですね。宝暦4年、1754年のことだそうです。
右の、上の丸い焦げ茶色の石碑は先の平野國臣をはじめとする、六角獄舎で殺された37人の慰霊碑です。
「殉難勤王志士忠霊塔」と刻んであります。
次に訪れたのは、一度は行って見たかった(笑)「島原」。六角牢獄跡を出て、壬生川通りに入り、あとはまっすぐ壬生川通を花屋町まで下がって、名前も素敵で路地の狭さも両側に並ぶ古い二階建て町家もとてもいい感じの花屋町通を少し西へ行くと、天下に名高い島原遊郭の入口「島原大門」があります。
大門の脇(向かって右手)には防火用でしょうか、たくさん手桶が積んでありました。多分昔もこうして積まれていたのでしょうね。提灯には「嶌原」と書かれています。
大門を入ってまっすぐ中へ進むと、この「角屋(すみや)」の角に出ます。ここが島原観光の要の位置なのでしょう、新しい道しるべが立っています。これは南へ行く方向を見ています。右手が角屋です。
これは同じところから西の方向を見ています。
この左手が角屋(すみや)です。1641年の創建だそうです。
同じ場所に「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」と記された碑が立っています。なんだか歯切れのよくない、ずいぶん説明的な碑ですが、まあこれが今の観光客向けなんだ、ということでしょうか。
久坂玄瑞と言えば、吉田松陰門下の俊英で、今でいえば過激派の一人だったでしょう。蛤御門の変で討ち死にしたのだったと思います。
英雄酒を好み色を好む。桂小五郎みたいに長生きしないで、太く短く生き急いで早々に死んでいった志士ですが、密議だって?いやいや、こんなところでそんな野暮なことしないでしょう。きっとそんなこと忘れてパァッと豪遊していたんじゃないでしょうか(笑)
この場所は、その昔、渤海使節をもてなした鴻臚館があったところでもあるようです。中学・高校の歴史の授業で、そういえば渤海使節と鴻臚館っての出てきたなぁ、とその名だけ覚えていましたが、こんなところにその供応の場があったんですね。
先ほどの辻から西へ突き当たった曲がり角のところに、角屋の重要文化財標識と、鴻臚館の碑および詳細を説明した立派な碑が立っています。
角屋の東の筋を、東からさきほどの辻の方を振り返った光景です。左手が角屋。右手には、今は休館中らしいけれど、角屋文化館みたいな観光用の施設があるようで、やはり木造のいい感じの家並みを保って両側の光景をとても雰囲気のあるものに維持しています。
角屋の側面の格子や手すりに近づいて撮ってみました。何でもない直線的で単純な構成なのに、真っ白な障子を背景に、太さも長さも異なる木の素材を縦横に組み合わせることで生み出す独特のリズムが、ワクワクするような美しさ。
これは島原の西北の方に立っている「大銀杏」。島原住吉神社の下は敷地内であったところに立っていた木だそうで、神社が焼けても残って神木とされていまも空に突き上げる逞しい姿を見せています。
これがいまの島原住吉神社。
かつて立っていた西門、いまは無く、解説の碑があるだけですが、そこに西門の在りし日の姿を描いたプレートのようなものが設けられています。元々島原の門は大門だけだったのが、のちに西門が設けられたけれど、大門のように立派なものではなく、簡素な門だったとか。
島原を出てJR山陰本線のコンクリート塀に沿って少し上がった丹波口駅のすぐ近くに、この「平安京朱雀大路跡」の銘板が設置されています。このあたりで朱雀大路の遺構が120㎡に渡って発掘発見されて朱雀大路の正確な位置が確定されたのだそうです。先般訪ねた朱雀門跡のあたりから、さらに羅城門まで南へ4kmに渡って、幅84mの両側に側溝や犬走が設けられ、柳の並木になっていたのだそうで、地方から来た人は本当にびっくり仰天したでしょうね。
この銘板のある場所は目の前にこんな高層マンション群が立っている公園脇の細い路地の植え込みの中で、見過ごして遠くを探し回っていました(笑)。
もう一度島原へ戻り、大門を逆にくぐり出て花屋町を東へ、途中堀川通りを渡って、巨大な城壁の如きものがそびえ、さらにその内側には周囲に例のない巨大な大仏殿なみの施設群が立ち並ぶところを通ったので、いったいこれは何だ?こんなところに歴史のどこかで権力者が城や館を集積して残したなんてところがあったっけ、と思って、すぐになぁんだ、と思い当たったのが西本願寺。今回の自転車行では全然関心に引っかかってくる場所ではないので、地図を見ても無視してかかっていましたが、現実にそばを通ると、その異様な施設群の異様な巨大さが本当に場違いな、不愉快な印象を与えます。
先日は光秀の不運に同情しつつボロクソに書いた信長も、これじゃ本願寺なんて叡山のように焼き尽くしてしまえと思ったであろうことにも同情の余地がある(笑)と思えてきました。権力の集中というのは政治であろうと宗教であろうと経済であろうと、恐ろしく醜悪なところがあります。親鸞が見れば自分の思想の行きつく先の現実がこれか、と絶望にかられるに違いありません。
さて、最後に訪れた場所は、堀川の一本東の油小路花屋町下ル西側に立つ「中井正五郎殉難之地」の碑です。この中井正五郎という人は十津川藩士で、上洛後、尊攘派と親交があり、坂本龍馬や中岡慎太郎を敬愛していたのだそうです。慶応3年12月7日(1868年1月1日)、坂本・中岡暗殺の首謀者と見なされた紀州藩士三浦休太郎を、陸奥宗光らとともに、この地にあった旅亭天満屋に襲撃し、護衛の新選組と闘って倒れた、と京都市(歴史資料館)作成の碑検索ネットの解説にあります。
敬愛した龍馬や慎太郎の仇を討とうと斬りこんだまではよかったけれど、護衛の新選組の返り討ちに遭ってあえなく果てたとは、なんと哀れな。龍馬ならあの世から、仇討ち何ぞやめとけ止め融け、と言っていたでしょうに。でも、私は理屈抜きでこういうやつが好きで(笑)、一度その最後の地を訪れてみたい、とこの人のことを知ったときから思っていました。
この中井正五郎にせよ、本屋の息子だったのに尊攘思想にかぶれて志士になり、池田屋の密議の場に居ながら辛うじて逃げ延びたのはよかったが隠れていたところでみつかって殺された西川耕蔵にせよ、幕府への警告の意味で等持院の足利将軍三代の像の首を切ってさらしものにし、六角獄舎にとらわれて、蛤御門の変のどんどん焼けのとき処刑された長井郁三郎にせよ、文武に秀でた志士だったのが酒と女色に溺れて身をもちくずし、反感をもった仲間の志士たちに先斗町帰りのところを暗殺された本間精十郎にせよ、維新の影で志を果たせぬまま死んでいった風変わりな志士たちには大変心惹かれるところがあります。
昔はこういう歴史上の人物だと、その行動が何か歴史を動かすのに意味をもったとか、その思想に見るべきものがあったとか、そういうごく平凡な関心でよく知られたひとしか知らなかったし、関心もなかったけれど、今はそういう一人一人の思想や行動の、歴史への貢献度などとは違って、一人の人間の生き方、死に方として、ああ、そんな時代にあっても、そういう生き方、死に方もあるんだな、人間というのはそんなふうに生きたり、死んだㇼしていくものなんだな、というふうな気分で関心をもつというのか、自分の生き死にに引き寄せるのではなくて、もう少し突き放してみて、人間というのはたいていそうやってある意味でとんでもない生き方、死に方をするものなんだな、という(笑)、そういう感じで「共感」してしまうところがあります。だって、ほとんどの人間は、多かれ少なかれそうやって、公式の歴史なんかでは決して語られる価値のない無意味な生を生き、無意味な死を死んでいくわけでしょうから。それを従来のような歴史観に立って顕彰碑を建てるのは滑稽な気もしますが、今はその意味も価値も忘れられて、通りの隅にひっそりとたたずんでいるだけ、というのは、とてもいいな、と思います。
saysei at 14:24|Permalink│Comments(0)│
2021年01月28日
「梁川星巌邸跡」ほか自転車行
先日は河原町三条から一筋南というのを何か誤解して訪ね当たらなかったようで、今日は簡単にみつかりました。
龍馬寓居之趾・酢屋。
こちらは河原町通りの三条下る二筋目の入口にある「後藤象二郎寓居之跡」。
こちらも先日どういうわけかよう見つけなかった「古高俊太郎邸」の碑。商人に化けて志士たちを支援する活動をしていて、新選組につかまり、厳しい拷問で池田屋騒動につながる自白を強いられたと言われている人。六角獄舎に幽閉されたのち、大火の際に罪人の脱獄を恐れた役人らに殺される不運な志士です。
古高俊太郎邸のある路地。向こうに出たところが河原町通り。四条上がる一筋目です。
これは何度もその前を通った「中岡慎太郎寓居之地」の碑。つい一年くらい前までは大変な人気でいつも行列ができていた抹茶館の前に立っています。
これは先日、碑に赤いシャツみたいなのがかぶさっていて、隠れていた「西川耕蔵邸址」碑。
三条富小路西入北側の散髪屋さんらしい店の前(隅)に立っています。
三条通西洞院西入南側にある長尾郁三郎という人の碑なのですが、私はどういう人か知りませんでした。京都市歴史資料館のフィールドミュージアムの碑検索の解説によれば、長尾郁三郎(武雄、1837-64)は町人だったが江戸に出て平田鉄胤の門下となり、帰京後、尊王攘夷運動に参加。将軍家茂の上洛に先立ち、天下に尊王の大義を知らせ、幕府に警告するため、文久3(1863)年2月22日夜、同志十数人と共に等持院の足利三代の木造の首を抜きとり、三条河原に梟首した、・・・のだそうです。事件後に捕らえられ、獄死したとのこと。なんだか学生がやるちょっと過激な意志表示みたいなやり口だけれど、直接なテロルや戦争以外にも色々あったんですね。
龍馬などは別格の扱いですが、あんまり名を知られていない人は志士でも、その碑はこんなに目立たないところに押し込められています。いまの長尾さんの碑です。
これも駐車場の看板と飲み物の自動販売機の間に挟まれて御幸町三条上がる東側に立っていました。
藤本鉄石(1816-63)は、岡山藩出身の尊王攘夷派の志士だそうです。脱藩して上洛し、軍学者として塾を開き、文久3(1863)年、天誅組の挙兵にあたっては、推されて総裁になったそうですが、諸藩の討伐軍の攻撃を受けて大和国吉野で戦死したということです。ここは彼が住んでいた場所のようです。
これは川端丸太町上ル東側にある「梁川星巌邸址」の碑です。車がビュンビュン通る川端通りの、ガソリンスタンドか何かの脇にひっそり立っていましたが、解説の高札がありました。この漢詩人の名だけは聞いたことがありました。江戸末期のかなり著名な漢詩人だったようですが、不明にして作品を読んだ記憶はありません。
美濃大垣の人で、郷里で私塾を営み、江戸で玉池吟社というのを解説して詩壇の中心的存在となったのだそうですが、勤皇の志士たちと接触して思想的にも近かったようですが、安政の大獄で捕らわれる直前、なんと流行していたコレラに罹って病死したそうです。1789年生まれ、亡くなるのは1858年です。
芳野懐古 梁川孟緯(星巌)
今來古往跡茫茫 石馬無聲抔土荒
春入櫻花滿山白 南朝天子御魂香
今來古往跡茫々(こんらいこおうあとぼうぼう)
石馬(せきば)声なく抔土(ほうど)荒る
春は櫻花に入りて滿山(まんざん)白く
南朝の天使御魂(ぎょこん)香(かんば)し
吉野を訪れて往年の事跡を訪ねたが、長い年月を経てただ茫々と分明ならず
石馬の声もなく山陵はひどく荒れ果てている
しかし春風が折から満開の桜の間を吹き渡り、全山が白く霞むようだ
さぞかし南朝の天子の御魂もこのかぐわしい香りを愛でておいでであろう
解説によれば、この吉野回顧の詩がよく知られているのだそうです。たまたま手元に残しておいた、亡くなった母の蔵書にあった『和漢名詩類選釋』という昭和六年に発行された本を調べてみたら載っていたので、そこから引きました。書き下し文と註はあっても現代語訳はついていないので、訳は拙訳故、いい加減です(笑)。
今日の夕餉
キンメダイの刺身とイクラの醤油漬け。
牡蠣とほうれん草とマッシュルームのグラタン。
マカロニサラダ。
砂肝とニラの七味炒め。
筑前煮。
小松菜のジャコポン酢和え。
グリーンサラダ。
かす汁。以上でした。
saysei at 22:09|Permalink│Comments(0)│
2021年01月27日
擬五番町辺自転車行
今日は朝は陽射しもあったのですが、午後散歩に出るころには全天曇ってきて夕方には雨に降られるのではないかと心配しながら帰りました。幸い降られませんでしたが。写真は夕方5時ころかな。高野橋から比叡。
南西側の空の山際は少し明るかったけれど。
腰痛対策の自転車行、きょうは千本通りの少し西、中立売通りの少し南、上長者町と下長者町の間くらいの住宅街の路地をうろうろしてみました。
小説と映画「五番町夕霧楼」の舞台となった、四番町、五番町あたりがお目当てだったのですが、六にきちんと調べもしないまま、この辺のはずだ、などといつもの調子で出かけ、自転車でぐるぐるまわっただけですから、別の町へはみ出して走っていた可能性も高いです(笑)。
写真はただ、家々を眺めながら走って、自分がちょっと面白いな、いいな、と思った家あるいは家並みを撮っただけで、五番町でもなんでもなく見当違いの所で撮っている可能性がかなりあります。もちろんこの辺も昔とは全く変わっていて、多分昔のままの家はほとんど、あるいはまったく残っていないのかもしれません。
しかし、方向音痴の私がマップで見当をつけたかぎりでは、確かこの辺りは小説と映画「五番町夕霧楼」の舞台となった、四番町、五番町あたりのはずではないのかな、と思って、それらしい街の雰囲気が少しでも残っていないか、と遠くまで自転車を走らせた次第です。
実際には私の節穴の目にはそれらしい痕跡は見いだせませんでしたが、木造2階建ての建物のスタイルがそれらしいと言えばそれらしいものが、このあたりの住宅街には多いなと思いました。
こういう側面の窓の取り方ってとても変わっていておもしろい。
路地の中へ入っていくと、こんな家並みがみられ、とてもいい雰囲気です。
もちろんこれが昔からの建物が残っているわけじゃないでしょう。素人だから見当違いかもしれませんが、しかし、おそらく地域の昔からの建築様式を継承しながら、新しい住宅が作られていったんだろうな、という気がします。
とくにこのような丈の低い2階のファサードのありようというのは、独特のものがあります。
京都は昔から住宅がある地域は、どこの路地を走ってもいくつかは古い町家を見ることができますが、やっぱりこの地域はふつうよりかなり多いな、という気がします。これだけ並びで同じような建築様式を持ったこの種の家屋が並んでいるところが狭い地域に何カ所も見られるというのは、今まで走った住宅街の路地にはみられなかったな、と思います。
こういう住宅が並ぶ路地を走っていると、なんだか懐かしいような心地よい気分になるのは、ひょっとしたら自分の生い立った場所は・・・(笑)いえ、私が生まれたのは上海の路地のはずですから、こことはだいぶ様子がちがっていたでしょう。両親とも日本人で最初から国籍も日本、上海にいたのは生後数か月だけですが・・・
京都のお寺で修行していた水上勉はこのへんのなじみだったのでしょうね。昔も今もお坊さんというのはそういう遊びに熱心なようですから(笑)
住宅街の並びに不意に現れた感じの御社。
鵲(かささぎ)大明神、って面白い名の神様ですね。
こんな風に街並みの中にスポッと嵌め込まれたみたいな御社です。曽根崎のお初天神みたいに、このあたりの地域に暮らした辛い境遇の女性たちがこの御社に手を合わせに来た、なんて妄想してみました。何も調べていないので、ちゃんと調べたらごく最近できたものだったりして(笑)。いい加減なことばかりでごめんなさい。自転車妄想旅・・・
住宅街の角にでっかい煙突が立っていました。銭湯のようで、路地の角で、あんちゃんが露店をひろげて食べ物か何か売っていました。コロナで店が成り立たないから路上で売ることにしたのでしょうか・・・
その銭湯の裏には廃材みたいなのがいっぱい置いてあったので、これを焚いて湯を沸かすのかな、と思いました。お風呂屋さんがどんなエネルギー源を使っているのか他を知らないから、別に珍しいことじゃないのかもしれないけど、いまも薪で湯を沸かしてるんだぁ、と。私が小学校の頃は、わが家の風呂もまだ薪をくべて沸かしていました。時々手伝いで私も薪をくべて湯をわかしましたが、ああいうお手伝いはなんだか楽しかった。薪を「くべる」なんて日本語、もう使わないんじゃないかな。
これは人が住んでいないのかな。かなり傷んでいましたが・・・何とも言えずいい感じの家でした。
本当はゆっくりこのあたりを歩いてみたかったけれど、トイレがしたくて(笑)。どうも最近自転車で寒い中を走っているとおなかの筋肉がよく動くせいか、小の方はもちろん、もうひとつのほうも催すことが多くて、急いで帰らないといけない。小の方は公園を見つけてトイレを借りても用は足りるのですが、もうひとつのほうは、やっぱりちょっと外のトイレはなるべくなら遠慮したい(笑)。それでどうしても急ぎ旅になります。
きょうの夕餉
カレイの煮つけ
イカ、ピーマン、ニンジンのタラコ炒め
水菜のゴママヨあえ
鶏の手羽元と根菜のスープ煮
サラダ
五目マメ
春巻き、レンコンの挟み揚げ(昨日の残り)
モズク酢。以上でした。
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