2020年12月
2020年12月31日
今日の自転車行~斎院跡と式子内親王の歌
大晦日の今朝はうっすらと雪が積もって、比叡山も真っ白。
それに連なる北山にも雪が見えます。
一昨日、すぐそばまで行きながら、神社そのものを見つけられずに引き上げた、「ヨリを戻してくれる」神様、「浮気封じ」の神様を祀っているという櫟谷(いちいだに)七野(ななの)神社を、昨日はきちんと見つけて、お参りしてきました。いや、誰かとヨリを戻してくれとか、パートナーや自分自身の浮気封じを祈願したわけではありません。
場所はやはり住宅街のなかの路地を入ったところで、一段高いところにあり、なかなか分かりにくい場所でした。
先日書いたように、ここはもと賀茂社に奉仕する巫女さん、賀茂斎王となられた歴代皇女が、あわせて400年もの間住まわれた賀茂斎院(紫野斎院ともよばれる)の跡だと、角田文衞さんによって推定されているのだそうです。
斎王のはじまりは平安京を造った桓武天皇の後の平城天皇がいったん弟の嵯峨天皇に譲位して上皇となったのち、藤原薬子らと組んで復位を画策し、薬子の変と言われるク―データ騒ぎを起こしたとき、嵯峨天皇が賀茂神に自分を勝たせてくれたら皇女を神様にお仕えさせるという約束をし、結果的に彼が勝利して祈願がかなえられたので、皇女を斎王としたのが始まりで、そこから400年ほどつづけられたものだとか。
解説の立札によれば、「毎年4月、中の酉の日に催される賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行して両賀茂社に参拝した。斎王のみは上賀茂の神館(かんたち)に宿泊され、翌日はまた御列をなして斎院に還御したが、それは「祭の帰(か)えさ」と呼ばれ、これまた見物の対象となっていた。代々の斎王はここで清浄な生活を送り、第三十五代の礼子(いやこ)内親王(後鳥羽天皇皇女)に至った。この内親王は建暦二年(西紀1212年)に病の為退下されたが、以後は財政的な理由から斎院は廃絶した。」とのこと。
これが、格子の間からパシャリと撮ったご神体。前に鏡がおいてありますね。ここに祀られている神様は、高沙大神、春日大神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)ほか19神だそうで、神社ってそんなにたくさんの神様を一緒にお祀りしてもいいのか、と思いますね。春日大社から呼んでくるとか、ものすごい便宜主義(笑)。
大和の三笠山の春日神社を勧請して造られた神社で、皇后の夢枕に、白い礫を三笠山の形に積んで祈願せよ、というお告げがあって、そのとおりにしたら離れていた天皇の気持ちが戻ってきた、という言い伝えに従い、神前には三笠山の形に積まれた白い礫が置かれており、下の棚には、同じように参拝者が積むための白礫がビニール袋に入れて置いてありました。
ここが賀茂斎院跡だったことを示すやや大きな石碑がたっていました。
御社は石段を登って一段と高いところにあるのですが、御社のすぐ下の境内の隅には、勧請した春日神社の碑が立っています。元々あちらの神様に頼んで来てもらったんだってことを知らなかったら、なんでこんなところに春日神社の碑が或るんだろ?と思うかもしれませんね。
境内の隅には鹿の銅像が立っています。これは、毎年神前に一頭の鹿が現れるの、神社ではこれを奈良へ送っていたのですが、明治6(1872)年以降、鹿が見られなくなったので、「神縁により」明治28(1895)年に七野社の方から依頼をして奈良の春日大社から神鹿2頭が貸与された、との記録が春日大社に残るそうです。
境内の入口に立つ鳥居のすぐ脇に、小さな御社が作ってあって、その後ろに大きな樹木が立っています。正面へまわると、幹の下の方に、ご神木と掲示されています。この樹はクロガネモチという木だそうで、樹齢は500年位と書かれています。
「ご神木」の上のほうです。今はほんとに狭い境内ですが、このご神木はさすが500年の御年を召されただけあってご立派でした。
お社の囲いの内側とか、ほかにいくつかかなり太い樹の切り株があって、境内がもっと広かったときは、何本も相当な樹木が茂っていて、ちょうど鎮守の森みたいに、多くの神社がほどよい木陰を作るような具合だったんじゃないでしょうか。ここにあった斎院は、150m四方だったそうですから、かなり広い。周囲の七野にあわせて石高は750石の神供田を持ち、斎院には女官などお仕えする人たちが500人ほどもいたそうです。
歴代の斎王についている女房らには才媛が少なからず、歌会を催すなど、サロン化していたようです。身を清めて神様にお仕えするということで、賀茂祭の行事には主役をつとめるにせよ、ふだんはただそこで何をするというわけでもなくいらっしゃるだけなんでしょうから、何百人もいて食っちゃ寝ているだけでは退屈でやりきれないでしょうし、歌会でもやって気を晴らさないではいられなかったのではないかな。
新古今集に四十数首も歌が採録されている名高い歌人式子内親王(後白河天皇の第三皇女、母は藤原成子)や、同様に勅撰歌集にその歌がたくさん残る選子内親王(村上天皇の第十皇女、母は藤原師輔の娘の中宮安子)もその中にいたそうです。
式子内親王はなかなか情熱的な恋の歌を詠んでいて、恋の相手は神様ではなさそうですから(笑)、いろいろ噂があるようです。一番有名なのが藤原定家で、それは式子内親王が定家の父俊成に歌を教えられていたから、いわば同世代の同門という仲で親しかったのは確からしく、定家の明月記にもしばしば式子内親王を訪ねた記録がみられるとか。
式子内親王の歌より
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水
春もまづしるくみゆるは音羽山峰の雪より出づる日の色
見渡せばこのもかのもにかけてけりまだ緯うすき春の衣を
残りゆく有明の月のもる影にほのぼの落つる葉隠れの花
色つぼむ梅の木のまの夕月夜春の光をみせそむるかな
かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘
五月雨の雲はひとつにとぢはててぬきみだれたる軒の玉水
よせかへる波の花ずり乱れつつしどろにうつす真野の浦萩
おしこめて秋のあはれに沈むかな麓の里の夕霧の底
跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ露の底なる松虫のこゑ
色々の花も紅葉もさもあらばあれ冬の夜ふかき松風の音
さむしろの夜半の衣手さえさえて初雪しろし岡の辺の松
つかのまの闇のうつつもまだ知らぬ夢より夢にまよひぬるかな 都にて雪まはつかにもえいでし草引きむすぶさやの中山
見しことも見ぬ行く末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
最初の歌はこの歌人の歌としてあまりにも有名な歌ですが、「玉の緒よ絶えなば絶えね」と最初に一気に十二音で言い切ってしまうのは、激しい思いとあいまって、これはもうこの人にしかできない表現なんだろうな、という気がします。
ほかにもそれぞれ、この人の個性的な感性を鮮やかにとどめるような、独特の語彙表現がみられるのではないでしょうか。もちろん新古今の時代だから古今集を中心に当時の彼女たちならだれでも暗唱していてすぐ連想し、口をついて出るような元歌があって、本歌取りしたり、元歌があってこその歌もあると思うので、無教養な私にはどれが彼女のオリジナルな言葉づかいなのか判別できるかどうかは、すこぶる怪しいけれど、「たえだえかかる雪の玉水」、「峰の雪より出づる日の色」、「ぬきみだれたる軒の玉水」、「麓の里の夕霧の底」、「露の底なる松虫のこゑ」等々。
最初の歌はこの歌人の歌としてあまりにも有名な歌ですが、「玉の緒よ絶えなば絶えね」と最初に一気に十二音で言い切ってしまうのは、激しい思いとあいまって、これはもうこの人にしかできない表現なんだろうな、という気がします。
ほかにもそれぞれ、この人の個性的な感性を鮮やかにとどめるような、独特の語彙表現がみられるのではないでしょうか。もちろん新古今の時代だから古今集を中心に当時の彼女たちならだれでも暗唱していてすぐ連想し、口をついて出るような元歌があって、本歌取りしたり、元歌があってこその歌もあると思うので、無教養な私にはどれが彼女のオリジナルな言葉づかいなのか判別できるかどうかは、すこぶる怪しいけれど、「たえだえかかる雪の玉水」、「峰の雪より出づる日の色」、「ぬきみだれたる軒の玉水」、「麓の里の夕霧の底」、「露の底なる松虫のこゑ」等々。
「見渡せばこのもかのもにかけてけりまだ緯うすき春の衣を」なんてほんとにその光景が浮かぶようだし、声に出して詠んでも「このもかのもに」というような表現がとても心地よく響きます。春の霞たなびく光景を薄絹の衣をかけたようだというのは当時の常套的な発想、表現かもしれないけれど、言葉つきはこの人以外のものではないな、という気がします。
選子内親王の歌
いろいろの花はさかりに匂ふとも野原の風の音にのみ聞け
のりのため摘みける花をかずかずに今はこの世のかたみとぞ思ふ
秋霧のたちてゆくらむ露けさに心をそへて思ひやるかな
ことのねのはるのしらへにきこゆれはかすみたなひくそらかとそおもふ
こをおもふみちこそやみとききしかとおやのあとにもまよはれにけり
選子内親王の歌は、どれか一目で引っかかってくる歌はないかな、と式子内親王の歌と同様にネット上に公開されているものを一瞥したのですが、実は私のお粗末なアンテナにひっかかってくる歌がみつからなくて、もうどれでもいいや、と拾ってきました。とくに最初の歌などは元歌を知らないと何のことかよくわからないでしょう。でもちょっと調べてみると、なるほど、そういう元歌をみんなが常識として知っていてすぐ連想する場でぱっとこういう歌が詠めるというのは、大変な才能なんだろうな、と合点がいくようなところは確かにあります。
彼女の歌はそういう元歌を駆使した、やや理屈っぽいというか、技巧的な歌のようで、私の好みには合わなかったということかもしれません。式子内親王の歌は、大変な表現の技を駆使しているのでしょうが、ほとんどそれを「技巧」と感じさせないで、私のようなド素人が素直に読んで、うわっ、いいなぁ~、と即座に感じられるような、感情と情を伝える言葉の姿が見事に一つになっていることに感嘆させられます。
これは先日も訪れた聖覚さんたちの安居院西法寺ですが、その真ん前にもう一つ先日は入口に車がとまっていてうまく写真が撮れなかったお寺がありました。選子内親王の歌は、どれか一目で引っかかってくる歌はないかな、と式子内親王の歌と同様にネット上に公開されているものを一瞥したのですが、実は私のお粗末なアンテナにひっかかってくる歌がみつからなくて、もうどれでもいいや、と拾ってきました。とくに最初の歌などは元歌を知らないと何のことかよくわからないでしょう。でもちょっと調べてみると、なるほど、そういう元歌をみんなが常識として知っていてすぐ連想する場でぱっとこういう歌が詠めるというのは、大変な才能なんだろうな、と合点がいくようなところは確かにあります。
彼女の歌はそういう元歌を駆使した、やや理屈っぽいというか、技巧的な歌のようで、私の好みには合わなかったということかもしれません。式子内親王の歌は、大変な表現の技を駆使しているのでしょうが、ほとんどそれを「技巧」と感じさせないで、私のようなド素人が素直に読んで、うわっ、いいなぁ~、と即座に感じられるような、感情と情を伝える言葉の姿が見事に一つになっていることに感嘆させられます。
超勝院というお寺です。秀吉の命で作られたお寺だそうです。
これは前にもちらっと訪れた妙蓮寺。
門前に2本の不断桜が咲いています。
前に来たときは気づかなかったのですが、こういう二つの碑が立っていました。月形龍之介は私の世代には懐かしい俳優さん。句作をされていたんですね。
幸野楳嶺(1844-1895)は江戸末期から明治初期にかけての日本画家です。私は不明にして彼を知らなかったけれど、その絵をネットで見ると、ああ見たことあるな、と思いました。ポピュラーだったのでしょうか。
ネットで色々出ている絵の写真をみると、こういう花鳥図が華やかで、いいように思いました。美人画みたいな女性を描いたものもあるけれど、月並みな感じでちっともいいと思いませんでしたが。
堀川通の面した興膳寺という大きなお寺で、門に近寄って中だけ撮ると、綺麗ですね。
ところが、ちょっとスマホを引いて撮るとこれです(笑)。恥ずかしくないんでしょうかね。大通りから丸見えなのに。
これはいつも通る堀川通に面した水天満宮の裏側にある大應寺というお寺です。門から中を覗いてみただけですが、綺麗なお庭です。
これは妙顕寺の西側の細い道沿いにある表千家茶道会館。隣に裏千家もあって、このあたりはお茶の家元の施設が並んで、とても静かで落ち着いた雰囲気です。
何度も来た「百々の辻」。今は埋め立てられて失われた小川(こがわ)に木橋がかかっていた場所。応仁の乱の合戦場となった最前線のあたり。
百々の辻と本法寺をつなぐ路地。とてもいい感じ。
本法寺山門両脇に建つ仁王さんの顔。暗くて目では顔の方まで見えないのですが、金網越しにスマホで撮らせてもらったら、コワイお顔が見えました。
もう一方の仁王さん。これも結構コワイ顔しています。
超勝院の前に掲げてあった近隣の地図。これで今まで見てきたその辺のお寺さんの相互の位置関係が分かりました。自転車で手当たり次第に路地へ入って走っているので、方向音痴の私は自分がどこにいるのか、全然分からないのです(笑)。
これは昨日の夕暮れ。夕陽に照らされた比叡、というより比叡に夕陽はあたっていませんが、前景の家々、ビルに夕陽が映えていました。
大文字には綺麗に夕陽が当たって輝いていました。
昨日の夕餉はおでんでした。
あと、鶏の皮のから揚げ。鶏はここが一番おいしい。
ほうれん草のおひたし。
サラダ。
これはお昼の後で食べたコーヒーとうちのキンカン入りチーズケーキ。クリームも使ったそうで、それがよく効いて、とても美味しい。
切った断面に甘煮のキンカン。キンカンの味がチーズケーキにとてもよく合うようです。
今日の夕餉は;
稲荷ずし。
子鮎の佃煮。
手羽先のから揚げ。
手羽先のこってり甘い方。
ほうれん草のおひたし。
実はこれにそば鶴で例年昼前に買ってくる年越し天ぷらそばをいただきましたが、できたての熱々があんまり美味しそうだったので、夢中で食べてしまって写真が撮れませんでした!
喪中はがきの私にいただいた何通かに、珍しくお返事のハガキを差し上げたら、意図を察してくださったのか、何人かの方々から改めてお便りをいただきました。
賀状は滅多に会えない(私の場合はもう会うことができない可能性が高い)方で、ふだんやり取りをしていない方に、年にたった一度伝統的な形を踏まえた、どちらかと言えば一見形式的な、印刷にちょっと言葉を添えるだけのハガキを交わすだけですが、住所録でひとりひとりお名前を確かめながら、短い言葉を書き添える時、どうしておられるだろうな、とその方のことを思い浮かべたり、ときにはその方との過去の出会いやお付き合いの中でささやかな思い出が甦ってきて、思わず手を休めていることがあります。それは私にとって、とても貴重で、幸せな時間です。
若いときには、年賀状なんて形式的なもので、義理で出すなら出さない方がましだ、などと思って全部やめてしまったときもありましたが、いまは「義理で」だしている「形式だけの」賀状は一枚もありません。それは印刷の文章だから、手書きの言葉が短く平凡だから、ということとは関わりのないことです。そういうことが、この歳になって、よくわかるようになりました。そして、賀状がいただけると、どんなに一見「義理の」「形式的な」賀状に見えても、とてもうれしいのです。
もちろんこんなことは人それぞれの考えなので、最近は毎年のように、一人、二人のかたから、来年からの賀状を出しませんので、と書き添えた賀状をいただくことがあります。それは考え方も姿勢も明快で結構だと思いますし、尊重してこちらも賀状は差し上げません。
ただ、私の場合はそれらの方たちとは思いを異にしています。もちろん、こちらの思いを押し付けて相手に余計な気遣いをさせたくはないので、相手がかつて自分が関わった学生さんなどの場合は、<自然>であることが、結構微妙で難しく感じられることもあります。
また、昔から、平生かなりよくやりとりしている方でも、賀状は戴かないし、差し上げない、という方も結構あります。それは偶然ということもあるし、今更賀状交換を始めることを必要としないというか(笑)、その方との個別の関係性によってそうなっています。主観的にはたぶんどちらにとってもごく自然なのですが、第三者的に見れば、原則が一貫しないちぐはぐな姿勢にみえるかもしれません。
私がかなり意志的に賀状を途中でやめた方もあります。それは相手がけっこう著名な文化人で、仕事の関係で出していた方はその仕事が終わったときには出しませんが、中には仕事が終わってからも出したいと思い、続けてきた方もあります。しかし、あるときから、それは私が出すから億劫でもお返事を下さっているかもしれないな、負担をかけているかも、と思ったことがあって、一斉に取りやめたことがあります。
それでも続けて出している方が数人ありますが、それは私が相当出したい方で(笑)、お返事が戴けようが戴けまいが出したいから出す、向こうも負担には感じられないだろう、と確信しているので、年に一度のファンレターみたいなものです。
意外に多い(と言っても数人ですが)のが、行政関係の、もとお役人の方です。すべて仕事の中でご一緒させてもらった方なのですが、仕事で関わりのできた方は数百人はあるはずなので、その中のほんの数人です。
これは「義理」ではなくて、私のほうが是非この方とは生涯、年に一度でもいいからコミュニケーションを続けていたい、と思った方々です。私はこのブログでもよくお役人をボロクソに言うので、役人嫌いと思われているでしょうし、実際正直のところ一般的に言えばそうかもしれません。でもいまだにおつきあいのある方たちは、そういう私の嫌いなお役人とは違って、一人一人みな素晴らしい人間的な魅力のある方です。お役人としての仕事もきっちりしてこられた優秀な人たちだけれど、一人の人間として魅力のある方、ということに尽きるでしょう。そういう方と出会えたことは私にとって本当に幸せなことでした。
こんな考え方をふだんからしているものですから、喪中はがきが届くと、今年はその方のことがホンのチラッとでも垣間見るチャンスがなくなり、普通はこちらから喪中はがきにお返事はさしあげないので、こちらも気持ちを伝えるチャンスがなくて、少し寂しい思いをします。とりわけ今年はコロナ騒ぎがあって、遠くにいらっしゃる方がどうしていらっしゃるかな、と正直のところ心配していたり、パートナーと話したりすることも結構よくあったので、余計にそう思いました。
それで、今年は何人かの方の喪中はがきにお返事を書いてみたのです。喪中はがきへのお返事は失礼に当たらないか、一応調べてみたら、そんなこともないようだったので、安心して、少し異例ではあるけれど短い近況報告を兼ね、自分の描いた貴船菊のスケッチを添えてお返事という形で差し上げたのです。私の気持ちを察して近況を知らせてくださった方たちがいらしたことは本当にうれしかった。
また今回お返事をいただけなかったかたも、きっと障りなく一年を無事終えられたことと思います。
みなさま、どうぞよいお年を!
saysei at 18:03|Permalink│Comments(0)│
2020年12月29日
今宮神社のあぶり餅、よりを戻してくれる神様=櫟谷七野神社
昨日今宮神社へ行った、と話したらパートナーが「あぶり餅食べなかったの?」というので、それ何?と訊いたら、「今宮神社って言ったらあぶり餅よ」などと、さも常識みたいに~常識なのかもしれないけど ^^; ~言うので、そんなお店あったかいな、と思って念の為確かめよう、もしあったら食べてやろうと思って、今日の腰痛対策自転車行も今宮神社。この東の門は、中から覗いてみたのですが、こっちは裏門やな、小さいな、と思っただけで踏み出して外をみなかったんですね。
それで今日は東門を出て振り返ってみるとこんな具合。両側にお店があったんですね。残念ながら今は正月休みで月半ばから来月半ばくらいまで休業しているようですが・・・。たしかにパートナーが言うように参道を挟んで両側にあるある。
東門を出てすぐ右手、南側のお店はのれんもかかっていて、あぶり餅を売る「かざりや」というお店のようです。パートナーによれば、持ちを小さくちぎって串を通し、白みそをちょいとつけてあぶっただけの、材料費はただみたいに安くて、何の技術も要らない単純なもので、それを1000円とか無茶苦茶高い値段で売ってるけど、「けっこうおいしい」のだそうです。ちぎった餅の量もごく少ないし、白みそがあぶられて香ばしくて、ちょっと食べてみたい、という気にさせるらしい。次に来るときにはぜひ食べてみたいと思って帰りました。
そういえば表門の下に立てかけてあった大きな絵馬が昨日は何も描かれていなかったけれど、今日見たらちゃんと干支の牛の絵がえがかれていました。
帰りがけに大宮通盧山寺通りあたりで自転車を走らせていてふと路地をみると、碑が立っているので近づいてみると、「村社櫟谷七野神社」と書いてあり、真新しそうな大きな鳥居と、その向こうにご神木なのかどうか、枝をなくした大きな樹が立っていました。
さらに近づいてみると、この木の幹に神社の名前を書いた紙が一枚貼ってありました。
でもどう見ても住宅街の奥のドンツキの狭いところで、その向こうは石垣か何かで閉ざされて進むこともできないし、もう神社はとっぱらわれてしまって、このご神木?だけが残されたのかな、なんて思って引き返しました。
しかし、帰ってからネットで調べてみると、どうやらこのドンツキの石垣?の向こうに神社があるらしくて、私は徒然草にあった、仁和寺の法師だったか、石清水八幡宮かどこかへお参りに行って、山上に本殿のあることを知らず、途中でここが目的地だと思って下の方で済ませて帰ってきてしまい、何事にも先達はあらまほし・・なんて書かれていた連中と同じやなぁ、と思ったので、また明日以降に行って確かめてこようと思います。
これはネットの情報によれば賀茂斎院(紫野斎院)の跡なのだそうで、平安時代から鎌倉時代にかけて、賀茂社に奉仕する斎王が身を清めて住んだ場所。実際には嵯峨天皇の皇女有智子内親王を初代として400年間も継続された大変なもののようです。その斎院が大宮通りと盧山寺通リを東南の角とする位置に建っていたのだそうです。
都名所図会にも、七野社として、ちゃんと載っていました。
七の社は舟岡の南にあり。当社は染殿の妃(藤原明子、828-90.文徳天皇の后)の祈願により、三笠山の春日明神を勧請ましますなり。その後、伊勢・石清水・稲荷・加茂・松尾・平野を併せ奉り、七の社と号す。また一説に、洛の北に七野あり。内野・北野・柏野・蓮台野・上野・平野等の中に祭れる神なれば、しかいふとぞ。諸願あるものは、社前に砂を積みて三笠山の状(かたち)をうつすなり。春日影向の椋(むく)の木もこの地にあり。(ちくま学芸文庫版都名所図会3より)
この神社は、愛情がさめて疎遠になった男女がよりをもどすことを願うと叶えてくれる、復縁の神様のようです。その由来は、59代宇多天皇(894)の皇后が、天皇の愛がさめてきたのを憂いていたところ、社前の白砂を三笠の山の形に積み、祈願せよとのお告げを得て、そのとおりにして祈願したところ、無事天皇の寵愛が戻ったということです。それで、浮気封じの神様でもある、と。ぜひご挨拶にうかがわなければ(笑)
きょうの夕餉
今夜は遅ればせのわが家のクリマスバージョンで(コロナ騒ぎの昨今なので、集まりはしなかったけれど、次男の家には届けたのであちらはあちらで楽しんでいるでしょう)、ローストチキンのボルチーニリゾット詰め。これはパートナーのオリジナル料理で、以前テレビで料理人が、自分のオリジナルだと言っていたので、彼女は、そんなの私は何年も前からつくってるわよ、と怒って?いました。
1匹まるごと960円の鶏を買ってきて、長男の弁当分に少し残したのも含めて家族6人分、美味しくて割安で豪華。
ラザーニア。これが抜群に美味しくて、次男家でも気に入ってくれているようです。
生野菜に自家製バーニャカウダソース。
タラモサラダ。
グリーンサラダ。
カボチャのスープ。あとはレ・ブレドォルのバケットとアルパカの安ワイン。以上でした。
チーズケーキを忘れていました!
saysei at 22:13|Permalink│Comments(0)│
ハルノ宵子『猫だましい』を読む
ハルノ宵子さんの『猫だましい』というエッセイ本を、昨日寄った書店でたまたま見かけ、タイトルからして面白そうだな、と買ってきて読み始めたらほんとに面白くて一気に読んでしまいました。
面白いと言っても、面白可笑しい、というだけとは一味も二味も違い、書いてある内容は、ほんとうは相当に凄まじいことです。間質性肺炎でほぼ余命が限られていますよとか、階段を上がるにも息切れがし、股関節変形症で朝起きれないほど激痛があったんですとか、そんなのが全部ヤワに見えてくるほど、そこに描かれている生身のハルノ宵子さんの日常は、壮絶の一語につきるようなものです。
ところがそれを彼女はいかにも面白可笑しいことのように、何といえばいいのか、生身の彼女が遭遇するそれら常人には耐えがたい出来事のすべてを、いつものように仕事をし、三度の食事をし、排泄し、眠りといった日常を送っているところへ、たまたま自分を訪れる不意の客のように、驚きもし、当惑もするけれど、その様子は、ほとんど目を輝かせ、まるで「まぁ久しぶりねぇ」と長く会わなかった友人でも迎えるかのように、普通だとショックで落ち込んでしまいそうなその遭遇をありえないほど素直に受け入れて、好奇心に満ち満ちた目で仔細に観察し、ほとんどブラックジョークになりそうでいて、ぎりぎりのところでその重さも暗さも鋭さも軽やかな語り口に昇華して、読む者が思わず吹き出したり、ニヤリと笑ってしまわざるをえない(そして、おいおいこんなところで笑ってもいいのかな、不謹慎じゃなかろうか、などという思いが一瞬心をよぎるものの、つい笑ってしまう)読み物になっています。
「ま〇こからう〇こ」なんて、常人はもちろん並みの作家やエッセイストなんかには、とても口にすることはできないでしょう(笑)。ハルノ宵子さんはそれをさらっと言ってしまう。それは言葉の上のことではなくて、彼女には普通は恐ろしく深刻に受け止めるべき事態、もちろん彼女にだって驚きも衝撃もないはずのない事態を、そんなふうに受け止める姿勢、生き方といってもいい、生きる姿勢が一貫しているからだと思います。
私のパートナーはハルノ宵子さんの前の著作を読んでファンになり、わたしあなたにお会いしたことがあるんですよ、とファンレターを送ろうと思ったことがあるそうです。彼女がハルノ宵子さんのどこに惹かれているんだろうね、と話していて、その文章の巧みさかな、その生活思想かな、生き方かな、などと話していたのですが、それらの言葉のどれも、ちょっと大げさすぎてどれもピッタリきませんでした。それで、私たちの結論は、彼女のものごとに対する「姿勢」に惹かれているんだろうね、ということでした。
ちょっと曖昧な言い方になりますが、「ものごとに対する」を「ひとに対する」あるいは「自分がこの世の中で出遭う一切のものやことに対する」さらに大げさにいえば「世界に対する」姿勢と言いかえても同じことのように思います。
それは生身の彼女の父親である吉本隆明さんが思想家と言われるような意味での「思想」というと大仰に聞こえてしまうし、彼女はプロの物書きだから、吉本隆明さんのいう「大衆の原像」のように、すべてを生活に還してしまう大衆の生活思想と言っても違和感があるのです。
それが彼女の資質に由来するものなのか、またこれまで生きてきた中で自然に鍛え上げられてきた姿勢なのか、さらには彼女の強い意志的な姿勢が長い歳月を経て自然になってしまったものなのか、あるいはそのいずれもであったりするのか、それは微妙で私には分からないところがあります。
しかしこの本を読めば、ずっとそうした「姿勢」がごく自然な形で貫かれていることが見えてくるし、ひとつひとつの事態の受け止め方や人との関わり方の底に、彼女のそうした「姿勢」があることは疑いようがないと思えます。
彼女のそうした「姿勢」は、私たちに限りない勇気を与えてくれるような種類のものです。それは、世の中にはあんたよりもっとひどい目に遭ったり、つらい思いをし、激しい苦痛を強いられている人が現にここにあるのだから、あんたはまだマシだと思いなさい、という類の慰めではありません。そういうものにはこれまでも何度か遭遇してきましたが、それは単に強い人だな、自分には及び難い人だな、と思うだけで、「ひとごと」のようにしか感じられなかったのです。
しかしハルノ宵子さんがここで限りなく自然に見せている「姿勢」は、いわば気持ちの持ちようによって、或いは自分も、それこそ姿勢をちょっと変えてみたら、或いはそんな姿勢がとれるのかもしれないな、という、励ましに似たものを感じさせてくれます。
ひとが悲惨なこと、凄絶な事態と見なすようなことも、それに遭遇するまでは何でもないことなんだから、そんなこと取り越し苦労する必要なんかないし、全然こわがることなんてないんだよ。そいつがやってきたらやってきたで、おう、とうとう来たか!と迎えればいいだけのことじゃないの。どっちみち逃げようはないんだし、やってきたものは素直に受け入れて、そのかわり耳も目も研ぎ澄まして、その初めての出遭いを徹底的に観察し、味わってやろうじゃないの・・・なんだかそういう、ふてぶてしいまでの素直さ(語義矛盾のようですが・・・笑)、こういう「姿勢」の前では、どんな事態も、ただその実際の物的な作用以外のどんな過剰な恐れ、不安、絶望も与えることができないでしょう。
ハルノ宵子さんに私のパートナーがお目にかかったことがある、というのは、ハルノさん、そのころは本名の吉本多子(さわこ)さんですが、京都のS大学の学生さんだったときのことです。S大学は全国の大学に先駆けてマンガが専攻できる学科を作っていたので、漫画家を目指した(そして実際にプロの漫画家になった)彼女はそこを志願して、多分東京のおうちを離れて入学し、下宿での一人暮らしを始めたばかりの頃だったのではないかと思います。
私は仕事に出かけてパートナーはそのころ生れたばかりの長男と家にいたのですが、ある日呼び鈴が鳴るので玄関に出てみると、一人の女子大生がちょっとばつが悪そうな様子で立っていて、「吉本隆明の家族なのですが、父に言われて・・・」と長男の誕生祝いを持ってきてくださったのです。
パートナーは私が吉本ファンであることも、雑誌「試行」を読んでいることも知ってはいましたが、そんな個人的な関わりをもつようなことがあろうとは全然予想もしていなかったので驚いたようですが、多子さんは「父のやっている『試行』の長年の購読者ですから・・・」と言っていたそうです。見知らぬ人のところを訪ねるのは億劫なことだったでしょうが、お父さんに言われて、おそらく自分で選んで買ってきてくれたのでしょう。何頭かの動物たちが座席に座る形で、動物と座席を同じ木の厚板から切り出して一体化した列車をかたどってあり、子供たちが動物園で見て好むような象や鰐たちは簡単に取り外しができ、赤ちゃんが舐めたり噛んだり口に入れても危険のない、いい感じのおもちゃでした。
パートナーがまだ生まれて間もない長男を抱いて玄関先で見せると、可愛いですね!と言ってくれたと今でもパートナーはそのときのことをよく覚えています。その後、この玩具は長男も2年後に生まれた次男も使いまくり、しゃぶりまくって(笑)、遂には動物たちの首が折れたり、割れたりするまで役目を果たしてくれましたが、いまはたしか地下の「メモリーボックス」の中で静かに眠っています。
長年の『試行』の購読者だったとはいえ、もとよりそれを発行してきた主宰者に個人的な関わりを持とうというような考えは私には全然なかったのですが、ちょうど購読料切れの案内がきて次の何号か分の購読料を送るときに、いつも何か時候の挨拶みたいなことをひとこと書きそえたりしていたので、たまたまこのときは長男が生まれた直後だったことから、自分でも初めての子で気持ちが高揚していたせいか、親しい友人、知人への手紙に書くような長男の誕生のことを何気なく、枕に書いたのだったと思います。
それは雑誌の一読者に過ぎない自分の分を越えたある意味でちょっと常識外れの振る舞いだったと思いますが、吉本(隆明)さんの面白いところというのか、私などが好きなところは、そういう非常識に対しても意に介さず、逆に向こうからすっと手を差し伸べてくる、といった印象があるのです。ちょうどスクリーン上で憧れていた俳優が、突然観客の一人にすぎない自分に手を差し伸べてくれるような感じです。
こういう率直さは、それ以前にもう一人、秋山清さんという詩人にも感じたことがありました。私家版のような小さな彼の詩集を読んでみたいと思って、代金は分かっていたけれど、いきなり送金して在庫がなければ迷惑をかけると思ったので、ぜひ読ませていただきたいのだが、まだ在庫はあるでしょうか、と尋ねる手紙だったか往復はがきだったかを出したのです。すると、いきなり詩集を送ってきてくださって、お手紙が添えてありました。このときも、なんだか憧れの俳優さんがいきなり銀幕から観客席の私に声をかけてくれたような気がしたものです。
そんなわけで多子さんは私の長男の誕生祝いを持っていくようにとお父さんに言われて、そんな知らない人のところへ行くのぉ?と思われたに違いないけれども、わざわざ時間を割いて素敵なお祝いの品を探し選んで持ってきてくださったのです。
夕方仕事から帰ってこれを聞いて、多子さんに直接会ってお礼が言えなかったのは残念でしたが、きっと自分が知らない初めての家を訪ねてばつの悪い思いをされたろうな、と気の毒に思いながら、それでも本当に気持ちがうれしくて幸せな気持ちになったのを覚えています。
パートナーも、また遊びに来てくださいね、くらいのことは言ったでしょうが、何といっても私はお父さんの雑誌の一読者というだけの人間だから、彼女もそう気軽に訪ねては来にくかったでしょう。その後はもちろん一度もお目にかかる機会もなく、後日彼女がハルノ宵子さんというペンネームでプロの漫画家になっておられる、ということはお父さんの著作(誰かとの対談か何か)で知ったのでした。また、妹さんのほうも吉本ばななのペンネームで人気作家になったことを、こちらは書店で著書がたくさん並ぶようになって知りました。
あの時戴いた玩具で遊んだ長男も、いまではもうアラフォーで、そろそろ昔の言い方で言うなら「中年」の域に入ろうとしています。だから、あの時大学生だったハルノ宵子さんが、高齢者の仲間入りし、平生の結構不規則で身体的には苛酷なものと想像される長い作家生活で、色々と不調に見舞われるお年頃であろうこともまた、無理からぬことでしょう。ただ、そうしたご自身の状況をこのような見事な姿勢で受け入れ、凄絶な状況を哄笑で笑い飛ばすような姿に、あらためて感動すると同時に、逆に自分がつよく励まされるのを感じています。
ぜひ私のような高齢者にも、また遅かれ早かれ歳をとるには違いない若い人にも、ぜひ読んでほしいエッセイです。もちろん猫好きにもね(笑)
(追記)
私も最近このブログで「半医の医」を20回前後書いて、自分の背負った病について比較的じっくり考えてみると同時に、今の日本の医療や医師のありように疑問を呈するようなことをしてきたので、ハルノ宵子さんの医師や看護婦との関わり方や感じ方、医療に対する考え方には共感するところがたくさんありました。
ちょっと私的なことを書き込み過ぎたので、ブログを整理する時についでに全部カットしてしまいましたが、読んできてくださった方が、ハルノ宵子さんのこの本を読まれたら、あ、似たようなことを考えるもんだな、と思われるかもしれません。
骨粗鬆症対策で骨密度を上げるために「4週に1度、起きぬけに呑んだら、今度は寝てはいけないという珍妙な薬」で、「場合によっては顎骨壊死という重大な副作用もある」という薬剤の話のところへ来ると、あぁ、ベネット錠でしょう!と一声入れたくなったりして(笑)。
私も足掛け6年間ほど飲まされて、確かに多少骨の代謝を遅らせて骨成分が増えるような効果があったようですが、歯を1本抜くにも大学病院の高圧酸素室で「手術」しなければならなかったり、私のみるところ長期のひどい味覚障害がこの薬のせいで起きたのでした。
あまり味覚障害がひどいので、医師に訴えて薬剤の量を減らし、ベネット錠の服用はすっぱりやめてしまったので、それからほぼ1年で味覚障害は消えていきましたが、このビスフォスフォネート製剤といわれる薬剤は相当問題のある薬剤であることは確かです。ああ彼女もこんなのを飲まされていたんだな、と。
吉本隆明さんが亡くなった事情についても、「肺炎で入院したが、実際の死因は多剤耐性菌感染症(MRSA)だった。つまり院内感染だ。」というのを始めて知りました。
実は私の両親も全く同じで、父の場合は特発性肺線維症が進行し、肺全体がスリガラス状にくもったようになる炎症を起こしたのと腎臓がひどく悪くなったのが入院のきっかけではあったけれど、それでステロイドを大量に入れ、その結果免疫力が落ちて、入院してからMRSAにかかってしまい、呼吸困難になり、父の場合は人工呼吸器を装着しなかったので、あっさりと亡くなりましたが、直接の死因は院内感染のMRSAでした。
母もほぼ同様で、結核で若いころに片方の肺を全摘出していたので、残る片肺で80歳まで生きてきたのですが、やはり最後は特発性間質性肺炎になり、最後の最後はMRSAで呼吸困難を起こし、人工呼吸器をつけて1週間はほぼ意識のない(と信じたい)状態ながら痛みではなく苦しみは残るらしくて、苦しみぬいて亡くなりました。
だから、あぁ吉本さんも私の両親と同じような状況だったんだなぁ、と思ったのです。
もう一つ吉本(隆明)さんについて私が初めて知った情報がありました。それはA新聞社系の出版社の女性スタッフが吉本さんのおうちへ緊張しきった表情でやってきて、帰りはほっとした表情で帰って行った、と描写されている出来事です。
そのA出版が文庫本化しようとしていた吉本さんの著書『老いの超え方』の初版には、被差別部落問題について批判的な発言の箇所があるのを、A出版では文庫化にあたって、その部分を削除してほしい、と頼みに来たものの、思想的な原則を曲げない吉本さんのことだから拒否されるんじゃないか、と編集スタッフは戦々兢々の思いで緊張して訪れたらしいのです。ところが吉本さんがあっさりOKしたものだから、肩の荷を下ろしてほっとした表情に一変したというところらしい。
吉本さんにしてみれば編集スタッフの質問に率直に何でも答えたインタビュー記事を編集した本で、話のついでに話題として軽く触れただけのこと、もはやそんな文言が残ろうと削られようが、どうだってよかったのでしょう。
当時社会的な被差別者の正義を独占販売するかのような態度で他者の言論に脅迫的な姿勢を隠そうとしない左翼面した文筆家や怪しげな団体に対して、一般的な文化人、知識人たちが難癖付けるチンピラを避けるように口をつぐみ、下を向いて、率直に批判しなかったのを、吉本さんは間違っていることは誰が言おうと間違っているし、そもそも被差別者を支援するふりをして、スターリニズムそのままにそうした組織の権力、権威を盾に個人としての言論人を脅迫したり、潰そうとするような行為を断じて見過ごしてはいけない、という考え方でしたから、自身が主宰する『試行』誌の冒頭に毎回状況への自由なコメントを掲載していた「情況への発言」などにおいても、しばしば何の遠慮も会釈もなく批判していました。
出版社などの中には、その種の団体からイチャモンを付けられるのを恐れ、またそうした団体の同伴者を装うことが進歩派の看板を掲げていられる証だと思い込んでいるようなところがあったので、吉本さんのような率直な批判的言辞に逆に恐れをなしたのでしょう。
彼らの過敏症が、吉本さんが拒否するのではないか、という緊張を強いたのでしょうが、吉本さんは思想的な道筋を通すことはいうまでもないけれど、そんなつまらない対象に対して、たまたまいきがかりで浴びせた一言にこだわって、そこに過剰な思想的意味を担わせ、削除を拒否するような人ではないことも、長年彼の著書を愛読してきた者には自明のことではありました。
私は一般の書店〈および京都の「三月書房」のように特に吉本さん関係の本を集めていた書店)で手にはいるような一般刊行物としての吉本さんの著作は、たぶん断簡零墨の類に至るまで一度は目を通していると思いますが、後半になると文庫本しか買ってなかったのもあったかもしれないし、あるいは両方買ってはいても、主著以外は、文庫化されたら、もとの単行本のほうはかさばるからもう処分していいか、なんて思ったせいか、単行本が手元になくなっている著作もかなりあるようです。
今の話題の『老いの超え方』も、確か初版の単行本があったはずだと思い、そのどこで被差別部落問題について批判的なことを言っているのか、どう批判しているのか、再確認してみたいと思って探したのですが、結局本そのものがみつからず、見つけたのは出版社に頼まれたその箇所を削除したという文庫本だけでした。残念!(笑)
まあこんな風に、直接にハルノ宵子さんがご自身の体の不調に関して今の私と似ているところがあったり、医療等々についての考え方、姿勢に共感できるところが多かったり、ちらちらと見え隠れする家族としてのお父さんの姿がファンの私にはやっぱり興味深くて、この本は色んな意味で楽しめました。
お父さんに対する形容句で苦笑せざるを得なかったのは、「戦後最大の思想家などと言われている、めんどうな人」だったでしょうかね、とにかくそういう文言に、まさに「戦後最大の思想家」と彼のことを考えてきた隆明ファンの私などは、家族にとってはそうなんだろうねぇ、と苦笑するほかはありませんでした(笑)。
しかし、例えばオウム真理教についての発言で他の物書きやマスメディア、多くの普通の市民たちからもバッシングを受け、中には結構親しかった友人、知人の中にも離れていく人があった、と書きながら、ハルノ宵子さんは、吉本(隆明)さんがきちんと思想のレベルで語っていることを理解し、決して麻原の犯した殺人等々の犯罪を擁護するようなものではなかったことをはっきりさせているのは当然ではあるけれど、さすがだと思いました。
本当は誰しもあの事件が起きたとき、東大だったか東京工大だったか、忘れたけれどそんな世間で一流と言われる最高学府で学んだような人たちが、なぜ一見とんでもない食わせ物にしか思えない麻原などに惹かれてその言葉に耳を傾け、命じられるままに無差別殺人を自らの手でやってのけるところまでいきつくのか、と信じられない思いがし、疑問に思ったはずでした。
しかし、私も含めて多くの人々の目は、そのことよりも犯罪事実の重さやその組織の異様さのほうに行ってしまい、自分たちと何も変わるところがなかったはずの平凡な(むしろ私~たち~よりも優秀な頭脳を持っていたのであろう)人たちが、そのような行動を引き起こすに至ったのは何故なのか、という当初の疑問、不審にこだわることを手放し、この事件を自分のこととして考えることを放棄してしまったのだと思います。
しかし、吉本さんは、この当初の問い、疑問を、ずっと思想家として問いつづけて、安易な答えを導くことなく、それを問うことが必要なのではないか、と語り続けていたのでした。
吉本さんが世間のいわゆる多数派からバッシングを受けるのはこれが初めてではなく、たぶんオウム真理教の事件、そして反核運動に対する「反核異論」、それにおそらく連合赤軍事件に対する発言あるいは先にみたような被差別部落関係の団体やそれを代弁する同伴知識人たちへの苛烈な批判等々、数え上げればきりがないかもしれません。
多くの進歩的知識人たちが、そうした事件、問題に対して、マスメディアに象徴されるような世論の大勢になびき、とりわけリベラルな体裁をとったきれいごとにつくか、さもなければ沈黙してやり過ごす、という態度をとってきたのに対して、吉本さんは殆どつねにたった一人で、孤立をおそれることもなく、自分の批判的な見解をはっきりと私たちに伝え、公表してきたのです。
こんな思想家は誰が何といおうと、現代の日本にはほかに一人もいなかったし、この社会、この時代への向き合い方として類例のない稀有な「姿勢」であったことは誰にも否定できないでしょう。
おそらくハルノ宵子さんは父親とは別の道を歩んで自立してこられた作家として、「戦後最大の思想家などといわれる面倒な人」とは、この種の議論をかわそうとはしてこられなかったに違いないけれど、語らなくてもよく父親の思いを理解している素敵なお嬢さんをお持ちだったのだな、と一ファンとしてはほっとさせられるようなところがあります。
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2020年12月28日
疫病封じ~玄武神社と今宮神社
今日の自転車行は、たまたま二つの疫病封じの神社を訪れることになりました。
その一つは「玄武神社」。北区紫野雲林院町の角に立っている小さな御社です。背後に高層ビルがある地域のローカルな神社に見えるのですが、これがなかなかいいのです。「玄武」は王城を守る四神のひとつで、平安京の北西の守護を委ねられているというわけでしょう。
この神社は文徳天皇(在位850-858)皇子惟喬親王を祀っています。惟喬親王は在原業平とも親交があった才人で、天皇は彼の立太子を望んでいましたが、時の権力者良房の娘に生まれたまだ1歳にもならない惟仁親王の立太子を強行したということで、当然惟喬親王は権力から疎外される存在ということになるわけで、その種の怨念を胸に抱いて死んだ人が怨霊となるから、そういう人を祀って霊を慰め鎮めるのでしょう。この神社の場合は、親王の末裔星野茂光なる人物が元慶年間(877-885)に、惟喬親王が愛した剣を当地に祀ったのが始まりだとのことです。
(玄武神社のウェブサイトより)
玄武神社では毎年4月第二日曜に「玄武やすらい祭」が行われているそうで、これは国の重要無形民俗文化財に指定されているそうです。同神社の解説によれば、このお祭りは、平安時代の花の精の力による疫病封じ(花鎮め)に由来し、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦や太鼓の囃子に合わせて、鬼や小鬼が街を踊り歩くのだそうで、京都の奇祭の一つ、とのことです。
(同前)
花の精で疫病を封じる「花鎮め」・・・なんとロマンチックな伝承なのでしょう!言葉も素敵ですね!玄武神社の公式サイトに出ている上のような写真をみても、花を挿した風流傘も、赤い装束を纏って鉦や太鼓をたたいて踊る鬼、小鬼たちの姿も、すごくオシャレです。ぜひ一度見てみたいですね。
もう一つの<疫病封じ>に効験あらたかと思われるのは、紫野今宮神社。これはよく知られた神社ですが、私は今回初めて訪れました。先日訪れた、織田信長を祀る建勲神社の建つ船岡山の背後(北側)にある大きな神社です。
今宮神社の公式サイトのアーカイブで公開されている、江戸時代ごろの今宮神社之図。
この土地には平安建都以前から、疫神を祀るお社があったと言われており、正暦五年(994)、都の悪疫退散を祈って、このとき御輿を造営して疫神を2基の神輿に移して鮒岡山に安置して、まあ言ってみれば疫病神を慰め奉るということで体よく山中に追っ払ったわけでしょうか(笑)。これが紫野御霊会と言われるもので、神社創建につながるきっかけになったようです。当時のことですから、いったん都に疫病が広がれば大変で、疫病も神として恐れ奉り、自分たちに災いを及ぼさぬよう祈るしかなかったでしょう。文字通り敬遠したい存在ですよね。
さらに長保3年(1001)、霊夢によって、疫神を鎮めるために再び御霊会を催し(「修する」といううのがホントらしいけど)、新たに設けた三宇(と数えるらしいですね)の神殿とあわせて「今宮社」と呼んだのが、この今宮神社の創建ということになっているようです。
最初の御霊会から7年しかたっていないのですが、きっとその間にも、疫病には何度も悩まされて、やむを得ずもう一度疫病神をお慰めして荒ぶるその霊を鎮めようということになったんですかね。
この神社の本社に祀られているのは、コトシロヌシノミコト、オオサムチノミコト、クシンダヒメノミコトの三神ですが、疫社というのがあって、そちらにはスサノヲノミコトが祀られています。なるほど、荒ぶる神スサノヲなら疫病神にも勝てそうですね。
境内にはなかなか面白いものがあります。これは「阿呆賢さん」(あほかしさん)という神占石(かみうらいし)で、病弱な者が心をこめてこの石を手で撫でて、体の具合の悪いところをこすると良くなる、というもの。アホでカシコイ?名前が面白いですね。
この阿呆賢さん、座布団を2枚、いや3枚かな、お敷きになって鎮座ましましておりました。数人の若い者がマジな顔して熱心にこの阿呆賢さまを撫でていましたが、私はコロナのご時世ゆえ、遠慮申し上げました。
これも境内にある「お玉の井」と呼ばれてきた井戸だそうです。お玉ちゃんって誰にことかと思って解説を読むと、これが徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院のことだったんですね。彼女は西陣の八百屋さんの次女に生まれて、公家に出入りしていた人の娘になって、関白の鷹司孝子に仕えるようになり、孝子が三代将軍家光に嫁ぐのに伴って大奥へ入るのですが、きっと器量よしで賢くて気が利いたのでしょうね。春日局に認められて家光の側室になるんですね。
それで綱吉を生み、わが子が将軍様に成っちゃったんですから、彼女の方も大奥で並ぶもののいない権勢を誇るようになるわけで、彼女はもともとお玉さん言ったらしくて、そこから「玉の輿」という言葉が生まれたんだそうです。ほんまかいな?(笑)
家に帰って、そうなんだって、とこの話をしたら、パートナーは、そんなこと、わたしでもとうの昔に聞いて知ってるよ(笑)。無知なのは私だけであったか・・・
彼女の意見では、お玉さんは可愛いとかよく気が付く子だったからじゃなくて、八百屋の娘だから、きっと公家のお嬢さんなんかと違って、健康で体が丈夫そうで、腰まわりがしっかりしていて、丈夫な子を産みそうな体をしていたに違いない、それを、徳川家の将来を考え抜いた春日局が目をつけて、家光の側室に選んだんだわ、とのこと。う~む、実にリアルですな。^^;
そのお玉さん、いまや女性では並ぶもののない権力者で、従一位という女性が贈られる最高の身分の叙せられ、自分の産土の神であったこの今宮神社が荒廃していたのに心をいためて、巨大な投資をして神社を再興したんだそうです。おかげで今宮神社はすっかりもとのように息を吹き返したとか。
この井戸は、そのお玉さん、桂昌院が神社に贈った井戸として残されているんだそうです。ほんとに思わぬところで思わぬ人に出会うものですね。これも異なる時間の切り口が無数に開いている古都ならではでしょう。
きょうは疫病封じのこの2カ所だけで十分、と思って帰る途中、もうひとつ碑が門前にあるお寺を見つけて解説を読んでみました。
西法寺(さいほうじ)という浄土真宗本願寺派のお寺で、安居院と号しているそうです。安居院というのは、解説によれば延暦寺山内の竹林院の里坊で、平安時代以来、名僧が住んでいたところなのだそうです。
例えば、と挙げてあったのが、藤原信西(通憲)の子澄憲(ちょうけん)僧正と孫の聖覚(せいかく)法師という方で、浄土宗の安居流と呼ばれた説法唱導の元祖。親鸞も聖覚を尊敬していて、その唱道の技術を学んで後に自分が興す真宗の布教に役立てたようです。聖覚の墓はこのお寺にあるのだそうです。
門の傍らに立っていたのはその聖覚さんゆかりの地だよ、という碑なんですね。彼のお祖父さんにあたる信西(出家前は藤原通憲)という人は、もともとは学者として碩学の誉が高かったのに、世を果敢なんで出家したものの、なかなかそれで世の中の動きと縁の切れない生臭坊主で、保元の乱では後白河法皇方について活躍し、法王の側近として権力を握りますが、平治の乱ではクーデターを起こされ、反信西連合軍に首を討たれてさらし首になった人です。
私たちが高校までの歴史で習うのは、法然→親鸞までで、途中のちょっとわき道にそれる感じの澄憲だの聖覚というのは登場しなかったように思います。別段覚えなくてもいいから(「入試には出ないから」(笑))、と前置きしてそういう人たちが何をやっていたか、法然や親鸞とどうかかわるか、ってなことをちょいと喋ってくれていると、俄然歴史が人間のドラマとして面白くなるように思うのですが、どうでしょうか。
これは今宮神社の鳥居の前から眺めた比叡山です。
今日の夕餉
ブリカマの塩焼き。290円だそうで、ふつうのブリの身を買うと一切れ500円もするそうです。なんでみんなこっちを買わないのか不思議、とのこと。もちろんブリカマの方がずっと油がのっていて美味しい。たしかに4人も5人も家族がいたら子供たちから、骨ばっかりで食べる所が少ない!と文句が出るかもしれないけど、二人だけなら十分な身がついています。
豆入りマカロニグラタン。
カボチャ煮。
砂肝、豆苗、キュウリ、白ネギの中華風サラダ。
ほうれん草のおひたし。
鶏のから揚げ。
グリーンサラダ。
厚揚げと畑菜の味噌汁。以上でした。
saysei at 21:20|Permalink│Comments(0)│
百々橋あたり自転車行
先日も訪れたのですが、堀川通リから寺之内通りをちょっと東に入ったところの角にミニ公園的なスペースが設けられていて、そこに「小川(こがわ)と百々橋(どどばし)の礎石」という解説板が立っており、この大きな岩がひとつ、デンと置かれています。
解説の中に示された上図に描かれたように、ここにはもともと「小川」(こがわ)という小さな流れがあり、そこに「百々橋」(どどばし)という木の橋がかかっていたのだそうで、1467-1477の応仁の乱ではこの橋を挟んで、細川勝元の東軍と山名宗全の西軍とが激突した合戦の最前線だったようです。
近世になって石橋になったときの礎石(図の赤丸)の1つが、ここに置かれた岩なんだそうで、いまひとつは室町小学校に、また橋の素材は洛西ニュータウンの竹林公園に移されて保存されているそうです。小川という流れは昭和60(1960)年に埋め立てられたとのことですから、割と最近まであったのですね。
百々橋という名称は、応仁の乱以前の風景を描いたとされる「中昔京師地図」にこの位置が「百々の辻」と記されていたことに由来するのであろうとのことです。
また、上杉本洛中洛外図屏風には、「法鏡寺」(いまの宝鏡寺)の脇を流れる小川が描かれ、そこに木橋(百々橋)が架かっているのが描かれている、と上図が解説板に示されて、わかりやすい、良い案内になっています。
これがいまの「宝鏡寺」山門で、中を覗くと「拝観謝絶」と書かれた札が立っていました。ここは公明天皇(幕末の攘夷論の総元締めになってしまった人ですね。公武合体で徳川家茂のもとへ降嫁した和宮の異母兄)の遺品である人形など、多くの人形を所蔵していて、春秋の年に2度だけ人形展を開いて、その期間だけ公開しており、平生は参拝も断っているようです。1370年ごろに創建されたとされているようで、臨済宗のお寺。皇女が入って継承していく「尼門跡」ということになります。格式の高いお寺ですね。「百々御所」とも呼ばれていたそうです。
その百々の辻から北へ、本法寺の山門の前に出る細い路地ですが、ここには表千家、裏千家の関係の建物が並び、付近には茶道具の店などもあって、とても落ち着いたいい雰囲気です。
たとえばこれは「千利休居士遺蹟不審庵」の碑の立つ庵。
これは先の路地をまっすぐ行ってすぐ左手にある本法寺の山門。ここも立派なお寺で、以前に御庭も拝見しました。
もとの百々の辻が面している寺之内通リに戻ると、すぐ東隣にあるのが、これも前に御庭まで拝見したことのある妙顕寺です。元亨元年(1321)、日像上人による創建の日蓮宗・関西初の法華霊場だそうです。ここの建物もとても風格のある美しい姿をしていて、とくに建物をつなぐ回廊などの部分は、とても好きです。
これはその一例です。本堂の中もお庭も以前に拝見しているので、昨日はちょっと敷地内を一巡しただけで戻りました。
妙顕寺の敷地内らしいけれど、裏(東側)の道を一筋隔てたところにある朽ちた石塀で囲まれ、高い樹木が鬱蒼とした荒れ寺風のところ、ここが前から気になっていました。西側の観光客も大勢訪れるであろう敷地内の立派な建物群と比べてみれば一目瞭然の朽ち果てた姿が、なんともいえず人を惹きつけるところがあります。門扉には「野良猫に餌を与えないでください」という猫のイラスト入りの貼り紙が貼ってありましたが、その崩れかけた土塀の前に野良猫らしいのが一匹悠然としゃがみこんでいるのが可笑しかった。近づいて写真を撮ったら、こちらを振り返りはしたけれど、悠然と構えて逃げもしませんでした。
ここは安全対策だけは施して、朽ち果てた姿も樹木もそのままにして、この土塀囲いの中へ観光客を入らせ、藤原道隆・道長兄弟が宴の松原で肝試しをやったような、古代風の肝試しの場(あるいは「お化け屋敷」)にしつらえてPRしたらどうでしょうね?夜中にこの朽ち果てた土塀の中へ足を踏み入れ、鬱蒼とした樹木の間、生い茂る草を踏み分けて進むと、向こうのこれまた崩落しそうなお堂の脇からいくつもの妖しく光るものが近づいてくる(野良猫たちの目)、なんてのは、なかなかコワイと思うけど・・・
これはその朽ちた石塀の並び北側にある尾形光琳顕彰碑。光琳が作品の隅に書いたという「法橋光琳」の字体でその文字と朱印による押印の形が刻まれています。この妙顕寺は光琳ゆかりの寺とされており、その名庭「曲水の庭」は光琳の描いた絵を仕立てたものとされているようです。また彼の作品も寺に所蔵されているようです。
帰りに出雲路橋の西詰から見た比叡山。キレイに晴れていました。
昨日の夕餉。
トントロと牛の焼肉
チャプチェ
グリーンサラダ
畑菜の辛子和え
ノッペ汁
モズク酢
焼き絹厚揚げ。以上でした。
saysei at 11:42|Permalink│Comments(0)│