2020年11月

2020年11月21日

「24」オリジナル版を全部みて

(ネタばれあり)

 オリジナル版字幕での「24」シリーズをアマゾンのプライムビデオで無料で見ることができたので、結局シーズン1から主人公ジャックバウワーが活躍するシーズン9まで、それぞれ24回ずつの「エピソード」(シーズン9だけちょっと短かったようだけれど)すべて見てしまいました。シーズン10と題されたのもあって途中まで見ましたが、これはジャックバウワーとは何の関係もない、舞台はCTUの本部だったかで、似たような話ではあるけれど、主人公らしき人物も周囲の登場人物も、ストーリーも全く別仕立ての物語で、なぜこれを「24」のシーズン10としたのか、意味不明です。

 「24」が大ヒットしたので味を占めたテレビ局が、同じCTUを舞台に別の主人公で新たな物語を作って、また継続展開させようとしたのかもしれませんが、別段CTUが舞台なのが魅力の核心だったわけじゃないので、そんなもくろみであったとすれば大失敗でしょう。このあとシーズン11、12と続けるのかと問われて、製作者は10で終わりだと言ったそうです。きっと視聴率が取れなかったのでしょう。無理もありません。ジャック・バウアーのシーズン1~9を見たあとでシーズン10を数回見れば、いかに登場人物も脚本も格落ちの二番煎じかが誰の目にも明らかだからです。

 「24」オリジナル版の魅力は数えきれないほどあります。もちろんその中にはCTU、対テロ対策ユニットが舞台になっていて、国際的、国内的な陰謀をめぐる情報が集約される裏の世界の交差点みたいな場ですから、表の世界には出てこない、しかし表の世界に噴き出した時には、圧倒的多数の市民の生命に関わるような重大な、法を超えた権力と権力の死闘が一瞬の絶え間もなく繰り返され、その中で人知れず消されていく命が数限りない、といった場ですから、それを的確に描き出せばエンターテインメントとして面白くないはずがない、という舞台です。

 そこで死闘を繰り広げる権力には誰にも分かりやすい体制を異にする仮想敵国の権力、例えば米国にとってのロシアや中国のような国家権力があり、また国名は明示されないけれど、アラブ諸国がテロの支援者ではないか、というニュアンスでたびたび登場します。実際に手を下すのはテロリスト集団で、単に金が目当てという集団もなくはないけれど、多くは米国の中東への軍事介入の犠牲になったアラブ諸国の兵士たちや庶民の家族、身内の憤激が、どんな形であれ米国に復讐することを「大義」として自らの命を投げ出すこともいとわない恐るべきテロリストたちを生み出していることは明らかです。その辺は実にリアルに、ある意味でテロリスト側の必然性も公平に描き出しています。そこが騎兵隊=正義、インディアン=悪といった昔の西部劇や、ランボー的な能天気な愛国主義ドラマとは一味違っています。特に最初の方のシーズンで登場した爆弾テロのアラブ人などは、堂々たる主義主張の持ち主で、たしかにテロ行為は容認しがたいけれども、彼がテロリストになった経緯や、アメリカはもっとひどいことを我々にしてきたじゃないか、という主張自体を否定できるかと言えば、公平に見て困難でしょう。

 こういう「テロリスト」の描き方ひとつとっても、リアリティに富んでいるのがこのドラマの魅力です。最後のステルス無人機によるミサイルテロでアメリカ市民を恐怖に陥れるアラブ系の夫人リーダーも、家族さえも裏切る気配をみせれば傷つけ、殺すこともいとわない、氷のように冷たいキャラクターのように描かれているけれど、なぜ彼女がそこまで冷酷なテロリストになったかといえば、アメリカの軍事的な作戦によって、兵士でもない善良な市民だった夫を米軍の無人機のミサイルで無慙に殺されたからで、多分私でもそんなふうに何の罪もない子や孫や妻を殺されれば、自分にその力と機会さえあれば、必ずその首謀者に何らかの形で償いをさせずにおかないと考えるでしょう。それが個人なら比較的容易かもしれませんが、相手が自分個人ではとうていかないっこない強大な権力であったとすれば、弱者の方法と武器を選ばざるを得ないでしょう。高橋和巳がかつて講演で「私は弱者の暴力を容認する」という意味のことを語ったことがありました。彼の「暗殺の哲学」も同様の趣旨を述べていたと思います。私も核兵器やバイオテロを使って無辜の市民を大量に殺戮するようなテロを、どのような理由があっても決して容認しませんが、抑圧された民衆の蜂起(それは一つの暴力ですが)まで何が何でも暴力反対と言って否定することはできそうもありません。その意味では、ジャック・バウアーに必ずしも観客として一心同体にはなれません。

 
 CTUを舞台に繰り広げられる暗闘の背後にある権力は、こうした分かりやすい敵・見方の勢力だけではありません。むしろ内部の敵のほうが、ずっとこわい、ということをこのドラマは教えてくれます。内部の敵には、ごく狭い直接な範囲で言えば、主人公がいるCTU内部の裏切り者やスパイで、このドラマを見ていると、CTUというのはもう必ずスパイの一人や二人や居ると思わなければならない(笑)。それも、ほかのやつがスパイだと思わせる細工をするので、ドラマ展開の上では、ようやくスパイを突き止めて排除したと思った時が一番危ない、ということになります。それも最初からスパイである、というのはまだ分かりやすいけれども、途中から色々な個人的事情で裏切る、というのは信頼して動いているだけに、もっと危ない。その理由は色々あって、自分が愛する人を助けるためのギリギリの選択であったりするので、必ずしも本人が悪だくみをもっているというのではないから、単純に敵と決めつけられないところがあります。

 さらに、このドラマでは主人公のジャック自身が、普通で言えば組織のルールで遵守すべきことを、平気で破ってしまうことが頻繁に起きます。それはもちろんジャックの立場に立てば、場合によって数十万、数百万の命が失われるかもしれない瀬戸際で、ゆっくり周囲を説得したり、ルール通りの手順を踏んだりしている暇がないから、一瞬の判断で、味方にまで銃を突き付けて無理に従わせ、とらえた警官射殺犯を背後のテロリストに迫るために取引してわざと逃がすようなことを割と簡単にやってしまうのです。

 このドラマで始終登場する拷問なども、本来は戦争中でさえもやってはいけない、ましてや刑事犯やらなにやら普通の犯罪捜査で拷問などご法度なはずですが、バウワーはこの拷問が大の得意技(笑)。銃を突きつけたり、実際に身体の一部を撃ったり、おどしとはいえナイフを目の下にあてて眼球を片方くりぬくぞ、と脅したり、夫婦の罪のない妻の方の脚を拳銃で実際に撃って夫に白状させたり、テロリストの手指を一本折ってみたり、神経系を侵す薬剤を注射して激痛を与えるのはいつものこと。とにかくやりほうだいです。もちろんそのかわり自分もつかまると徹底的にやられるので、一時はテロリストの拷問で心停止迄起こしてしまうこともありますし、作戦で中国大使を死なせたことから中国の敵としてとらえられて中国本土に2年間だったかとらえられて拷問を受け続ける、というような目にも遭います。

 拷問の話が出てくると、やはり人間にとってのギリギリの倫理というのは何か、という問いが自然に出てきます。ドラマはただドラマ展開の上で必然的な「仮想的事実」が描かれるだけですが、みている観客としては、こういう場合にこういうことは人間として許されるのだろうか、という結構厳しい倫理的な問いを呼び起こされずには済みません。自分がそこで汚いことに手を染めるのをためらえば、数千、数万の無辜の市民が殺戮される、というとき、「正しさ」とは何なのか。

 ジャックはいつもギリギリのそういう選択を迫られる臨界線上を生きているので、自分を信じて躊躇なく踏み出します。それをあたりさわりなく勤務しているだけの上司などが、ルール違反だ、ととがめると、ジャックは「あんたはいつもそうやって、人に手を汚させ、自分は手を汚さずに成果だけ自分のものにする」という意味の反論をします。まさにそのとおりで、上司は一言もありません。ジャックのルールをはみ出す行為によってのみ、数千、数万の市民の命が辛うじて救われる、それがこのドラマのいつものパターンです。

 もちろん客観的に見ればジャックの行為はドラマ上は結果的に正当化されるかもしれないけれど、いま現実にこういう人がいて、こういうことが起きている、とすれば、彼の行為はたぶん私だって認めるかどうかはわかりません。彼の逸脱した行為以外に本当に一つも選択肢がないかどうか、それは検証されないままやってしまうからです。いつも、いわばジャックの「勘」だのみで、もしそれが外れていれば、単に重大なルール違反や人権侵害、場合によっては殺人や傷害などの犯罪そのものの行為者となってしまうでしょう。拷問にしても、本当に相手が無実で知らなければ、いくらジャックが勘で、こいつは知っているんだ、と頑張って相手が息絶えるまで拷問したとしても、情報を持っていなければ唯の殺人に終わります。それに近い過ちが一度描かれています。それは、CTUの同僚で国防相の娘オードリーの知り合いの男の会社の取引相手にテロの関係者らしき取引先があったというので、その男もテロの関与者と疑ってかかったジャックが拷問する場面があります。結果的にその男は何も知らず、多くの取引先にそのテロ関係の企業が混じっていただけで、本人は何も知らなかった。彼は痛めつけられたことを恨みにも思わず、そのあとジャックに協力してその取引先に赴き、証拠を入手するために命懸けの働きをするのですが、ジャックの「勘」というのも必ずしもあてにはなりません。

 しかしこれはドラマですから、そういうジャックの間違いは1%くらいしかないものとして話が作られています。現実には、どんなに優秀な捜査員がいたとしても、そうはいかないでしょう。そうするとやはりジャックのように安易にルールを破ってしまう人物をこういう役職にとどめておくことは危険だと言わなくてはならないでしょう。その経験と勘を信じないために数千人、数万人が犠牲になる結果もあるかもしれないけれど、やはり社会的なルールとしては、こういう個人の勝手な判断と行動に全面的に依拠することはできないでしょう。

 そこはドラマだから、ほぼジャックの経験と勘が瞬時に導き出す判断と行動指針は99%間違いがないのです。そうすると、ルールを盾にジャックに抵抗する上司のような存在は、みなせっかくのジャックの市民の生命を救うための行動を邪魔する抵抗勢力になってしまいます。当然ここには通常の世界でも下っ端の良心的な職員や勇気ある職員を押さえつける官僚主義的な上司の姿が投影されているでしょう。自分の保身や名誉欲、出世欲にとりつかれ、なにごとも穏便に、隠蔽して、うまくやっているようにみせたがる、小さな権力にしがみついている連中です。こういうのを軽々と突破してみせるところが、半沢直樹じゃないけど、観客の留飲を下げさせる一つの要素かもしれません。

 敵の権力というところに話を戻すと、この種の小さな権力としての抵抗勢力の他に、内部の敵としてもっと奥深く隠れている大きな権力は、最終的にはホワイトハウス迄行きつくわけで、このドラマでは善玉の大統領も悪玉の大統領も出て來るし、善玉だったのが悪玉に変わってしまう大統領も出てきます。また、彼らの権力に対して影響力を及ぼそうとする軍部の右翼、主戦派みたいな連中の圧力というのは常に働いています。これはケネディを抹殺したネオコン一派を髣髴とさせる、アメリカの現実でしょう。
 このドラマの面白さの要因のひとつは、そういう大きな権力、国のトップの権力内部の争いが末端のジャックの判断や行動と密接にかかわって展開されているところです。

 パーマー大統領はいわば理想主義的な善玉大統領ですが、ときにその権力維持のために不都合な真実の隠蔽を図るために権力を行使するところもありますが、概ねジャックを高く評価してこれと直接回線を結び、終始支援していく役割を果たします。このパーマーの妻シェリーというのが夫よりはるかに悪知恵の働く政治的人間で、初めは夫の権力維持のためのように見える行動に終始するのですが、だんだん夫との齟齬が明らかになって遠ざけられると逆に夫を陥れる側に回っていく役回りです。この女のしたたかさは本当にもうリアルすぎて、この顔が出てくると、またこいつが・・・ともう心底うんざりさせられるのですが、本当にこういうやつが権力の中枢に食い込んでいるんだろうなあ、と思わせるだけの説得力のある造型になっています。

 このドラマの魅力の大きな部分を占めるのは、いわゆる悪玉が大きくてリアルなところです。その典型がパーマー大統領の妻であり、新たな大統領ローガンです。レーガンの名と似た名を借りて中身はニクソンのような陰謀家を描いてみせたのでしょうが、いわゆる大統領の犯罪というやつで、まさか誰も大統領が・・・と思う様な悪党ぶりを演じていて見事です。しかも大統領を止めさせられてからも、再登場してその悪の辣腕を思うままに振るい、パーマー同様に理想主義的な大統領だったテイラー大統領をすっかり洗脳して、泥沼に引きずり込むことに成功して、バウワーを危機に陥れます。

 大体このドラマシリーズは人物の再登場が多くて、同じキャラを維持している者もあるけれど、すっかり人柄が代わってしまうような人物もあり、それがまた前の話を知る観客にはこたえられない魅力になっています。最初はCTUの同僚だったニーナが、後日別の場面で再登場して大活躍しますし、同じく同僚だったアルメイダもすっかり変わった形で再登場します。キャラは変わらないけど、同じく同僚で終始ジャックを助けるハッカーのクロエももはやCTU職員ではない形で闇のハッカー組織の一員として再登場します。こうした再登場人物は最初から脚本がそうなっていたかもしれないけれど、ひょっとしたら人気があったから脚本をそういう風に新鮮な再登場のさせ方で展開していったのかもしれません。
そもそもアルメイダなんか死んだはずなのに甦ってくるんだから(笑)。

 いまアメリカの市民が本当にリアルに脅威と感じているかもしれない核兵器、小型核爆弾、バイオテロ、無人機によるテロなど、ありとあらゆる手段によるテロが、このドラマでは非常に現実に在りそうな設定で描かれています。核兵器などは実際に爆発してしまうのです。主人公たちの活躍でなんとか大型の核爆弾は砂漠で爆発させ、鞄に入る小型核爆弾は郊外での爆発に何とか抑え込みますが、それでも1万2千人ほどの死傷者が出たことになっています。どちらも現実の核爆発のようにきのこ雲の立ち上がるのを見せていて、迫力があります。バイオテロでもホテルで細菌感染を引き起こされて宿泊客1000人ほどが無慙な死に方をします。また最後の無人機ミサイル攻撃にもなすすべなく軍の部隊や大病院にミサイルを撃ち込まれて惨事を引き起こされます。また中国に背いて母国への復讐を企てる中国人テロリストグループの国家情報システムののっとりで、原子力潜水艦に中国の空母攻撃命令が出され、実際に中国の空母が攻撃されて、米中戦争勃発の瀬戸際まできて中国の攻撃艦隊が日本の領海に踏み込んで沖縄を攻撃する一歩手前まできます。

 こうしたテロリストたちの手段、武器は、全く空想的なものではなくて、おそらく今のテロリストなら実際に保有しても何ら不思議のないもので、起爆装置を解除できない核爆弾だの、鞄に入れて容易に持ち運びできる小型核、あるいはバイオテロなど、いかにもありそうなテロリストの武器で、おそらく今後アメリカ政府が政策を誤れば、アメリカで実際にそうした武器が使われる可能性はかなり高いかもしれない、と戦慄させられます。どんなに警戒しても、四六時中毎日毎日何十年もの間、一瞬のすきも見せずに防御することは不可能ではないでしょうか。それほどテロリストの武器は「進化」し、持ち込み、持ち運びも容易になり、小型化し、威力の大きいものが登場しているんだと思います。結局そういうテロを生み出してきたアメリカ国家のありよう自体が変わって行かないと、その脅威はなくならないでしょう。

 テロリストたちの立場もある程度納得できるように描かれてはいますが、やはり米国製エンターテインメントですから、主人公はゴリゴリの愛国者で、結局のところアラブ系のテロリストである最後の無人機乗っ取りによるミサイル攻撃をするテロリストの女性も、大義に身を捧げる女性でも同情さるべき人物でもなく、冷酷非情なテロリストとして、要は悪玉として描かれています。そこはランボーと何も変わりません。ただ、いくぶんかそうしたテロリストの背景にも触れられ、他方で主人公の方もまっとうな正義の士ではなくて、性格的に欠点の多く、その判断と行動にも疑問の余地が多々あるような人物として描かれていることが、このドラマをいくらかでもリアルな迫真性のあるものとしている、とは言えるでしょう。

 24時間のできごとをリアルタイムで追う、という一話(エピソード)ごとの展開の手法が事件展開のテンポを著しく速め、その24時間の物語を内側へ織り込むように多くの要素を複雑で巧みな物語のうちに凝縮する凝縮度の高さを実現して、それが密度の濃い物語を作り出していることは確かで、従来のドラマが平面的な地平で展開されるものだとすれば、このドラマの結構は幾重にも連なって集積した超高層ビルのような構造の内部で、例えばある現場であるビルの10階の窓からすぐ目の前の隣のビルの12階の窓が見えて部屋の中まで見通せるばかりか、窓から窓へ隣のビルへ飛び移って舞台を変えることもできる、といった趣があります。そして、それらの行動がすべて隠しカメラで捉えられ、そのシステムに侵入したCTUのハッカーによってCTUの映像システムにリアルタイムでとらえられ、外に出れば衛星で追っかけられる、そういう世界のようです。しかもこれはもはやSFの世界ではなく、いま世界のどこかで現実に進行している事態なのでしょう。

 シリーズ1 大統領候補者パーマー上院議員暗殺計画、ジャックの娘の誘拐、過去の軍事作戦で見捨てられた兵士の復讐物語、大統領と妻シェリーの確執 CTU内部のスパイ、ジャックの妻テリーの死

 シリーズ2 核爆弾テロ、起動装置を解除できない核爆弾 政権内部の権力争い~右派のたくらみ

 シリーズ3 バイオテロ、大統領選をめぐる駆け引きと権力闘争 病院全体の感染

 シリーズ4 連続時間差多発テロ

 シリーズ5 空港占拠・神経ガス散布テロ パーマー大統領の死、アルメイダの妻ミシェルの死、

 シーズン6 連続自爆テロ・小型核爆弾テロ 中東和平を阻止しようとするテロリストと大統領側近

 シーズン7 生物ガステロ CTU解体後のバウアー アルメイダの再登場

 シーズン8 核兵器テロ 中東和平の妨害テロ

 シーズン9 ステルス無人機ミサイルテロ

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2020年11月11日

スナップショット28 武谷三男と坂田昌一

 理論物理学者の武谷三男さんと坂田昌一さんを間近に見たのはたった一度、二人そろって私が通学していた大学で開催された講演会に来てくれたときのことだ。私はまだ自分の実力もわきまえずに同じ学部へ入って来た多くの学生と同様に理論物理がやりたい、などと夢を抱いて大学に入学して間もない1回生だったはずだ。

どんなタイトルの講演だったかも、彼らを呼んだ主催者が大学だったのかどうかも覚えていない。私が記憶しているのはわずかに、講演後部会に分かれ、比較的少人数の学生に囲まれて質疑に応じた坂田さんの表情くらいのものだ。

 

 そのころ理学部で理論物理の研究などを目指そうという学生にとって、日本初のノーベル賞受賞者として日本中に知られた湯川秀樹さん、或いはそれに続いて良く知られていた朝永振一郎さんを別にすれば、次の世代の理論物理学の最先端を走っていると思われた坂田さんや、日本の理論物理学の展開を科学史的に分析して戦前からその進むべき道を正しく方向づけてきた理論家としての武谷さんは憧れの的だった。

 

 武谷さんの戦前からの文章を集めた『弁証法の諸問題』(第1119643月刊)は、分からないところもたくさんあったけれど、最初から最後まで熱心に読んだおぼえがあり、私にしては珍しく売り払ってしまわず、半世紀以上たったいまも手元にある。

 

 この著書の中で、武谷さんは、マルクス主義的な立場を明確にしながらも、当時のマルクス主義者らに支配的だった、技術とは「労働手段の体系」だとする見解を批判し、「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である。」という名高い技術の定義を示した。

 

19461月の論文だから、敗戦後間もない時期に書かれたものだが、技術の定義として、いまにいたるまで、これ以上のものはない。
 このころにもずっと後にも、武谷技術論には階級的視点が欠如しているとか、社会的観点が抜けているとか、バカなことを言う連中がやまほど出て来たが、技術の本質は自然と人間を媒介するものだというところにあるので、その内在的過程に階級だの社会的観点だのを外挿しようとするから、「プロレタリアートのための科学」などという奇妙な「科学」が唱える者が出てきたりしたのも、いまでは嗤える昔話だ。

 

自然科学とは外的自然の認識という、それ自体が実践的な活動であり、技術とはその認識によって得られる客観的法則性の意識的適用だ、というこの考え方は、その後の私の科学や技術に対する考え方の根幹を形作ってきた。

 

この定義は、科学と技術との関係をものの見事に、明晰にズバリと言い切っていた。その後科学や技術について考える上で、この定義で支障を感じたことは一度もない。

また、彼のこうした考え方は、理論と実践を観念的に分離してとらえるような自称マルクス主義者の誤謬を私に教え、政治的実践においても、デモに参加するようなことだけを実践と思い込んでいるような連中を批判的に見る観点を与えてくれた。

 

武谷さんがすでに学生時代から物理学史を検討する過程で導き出していたらしい、いわゆる「武谷三段階説」は、武谷さんがすでに昭和9年、卒業論文で唱えていた科学史的認識だったようだ。

 

…俗流認識論が、物理学の認識は経験から法則を抽象し、数学的に記述することであるといっていることは、全くの無意味であることを知った。わたしは昭和九年、卒業論文において、物理学の認識は、その発展において一つの重要な注目すべき段階、すなわち何がそこにあるか、いかなる構造になっているかということを知る段階を経、これをふみ台にしなければならないこと、原子核物理学の当時の状態は、まことにこのような段階にあり、素粒子の発見と原子核構造の解明の時期であり、矛盾はこの方向に吸収されることを指摘したのである。

これをわたしは実体論的方法と名づけ、これによりわたしは新カント派や、マッハ的な立場を完全にすてて唯物論の哲学に向って進んだ。(「現代物理学と認識論」より)

 

現象と本質、というのはもろもろの哲学をはじめ、誰もが言う認識のカテゴリーなので、武谷三段階説のポイントが「実体論的段階」を認識過程の重要な段階として認めたところにあることが、この文章でもよくわかる。さらにその少し先で、彼はあらためて三段階説を定式化して述べている。

 

物理学の発展は、第一に即自的な現象を記述する段階たる現象論的段階、第二に向自的な、何がいかなる構造にあるかという実体論的段階、第三にそれが相互作用のもとにいかなる運動原理にしたがって運動しているかという、即自かつ向自的な本質論的段階の、三つの段階においておこなわれること・・・(同前)

 

彼は理論物理学者として、こうした科学史的認識に依拠して、当時の理論物理学の研究に現実的な方向付けを与えようとし、例えばニールス・ボーアの相補性理論を厳しく批判している。もとより私に相補性理論の意味するところが理解できるわけもなかったけれど、武谷さんの記述から学んだことは、どんなにすぐれた理論物理学上の発見をした学者であっても、自分の仕事に対する彼自身の解釈が正しいか否かはまた別であり、解釈のほうはその人の世界観や認識論的な方法上の制約によって誤ることがあり、それは理論物理学の認識自体が実践的に試されるのとは別に、認識論的な根拠が試されなければならない、ということだった。

 

こうした見解は、理論物理学者に限らず、様々な分野で偉業を成し遂げた人々が、自分の成し遂げたことの意義を必ずしも正確に語るとは限らないこと、まして優れた仕事をした人がかならずしも別の領域のことに対してもまともな認識が示せるとは限らないことを私に教え、のちのち、一級の科学者が原子力や原発のことで馬鹿なことを言ったり、ノーベル賞受賞者が社会的な問題については誤った凡庸なことを発言するような場面で、冷静にそれらを批判的に聴く上で、私に大きな影響を与えたと思う。

 

のちに同じ大学へ来て講演した哲学者の鶴見俊輔は武谷三段階論を高く評価していた。ただ、そのときに「科学論をやるなら、(武谷のように)みずから科学者として、その技術も学んでやるべきだ」と言ったのが、既に数学や物理で落ちこぼれかけていた私にはひどくこたえた(笑)。もちろん、自然を対象とする認識である科学と、その科学を対象とする認識である哲学(認識論)とが全く別のものであることは武谷さんが書いていた通りで、鶴見さんのこういう言い方は原理としては両者を混同した誤謬に過ぎない。

 

しかし科学史の研究が扱う対象が科学という自然認識のありようである以上、科学の深い正確な理解なしに成り立たないことも明白であって、いくら科学史を研究し、科学者の成し遂げた結果としての現代科学の知識を身につけても、自らが第一線の科学者として研究の先端に身を置かずに例えば量子力学や素粒子論における自然認識のありようの正否を正しく言い当てることができるだろうか、という疑問は当然生じる。

 

その疑念がある以上、実際に科学の研究に携わる科学者たちの多くが、科学史的研究や科学哲学(認識論)などというものは、科学的実践の結果を合理的に説明するだけの哲学者のやることで、実際の科学研究の指針として役立つようなものではない、と考えるのも無理はないところがある。

 武谷さん自身は科学哲学(認識論)は哲学自体としての根拠をもって成立するものであり、科学研究の指針となるべきものだと考えていたけれども、実際に武谷さんの言説が当時の若い理論物理学者たちに、指針として一定の影響力をもっていたとすれば、それは武谷さん自身が第一線の理論物理学者として同じ研究者仲間から評価される活動しているからではないか、という疑問を拭い去ることはできなかった。

 

そう考えると、理論物理の方はあきらめて科学史のほうへ傾きかけていた思いにもつまづきが生じた。

 

それでも武谷さんの著作はその後私が物を考える上でのベースを形作るものの考え方のひとつになって定着していったと思う。

 

いま読むと、冒頭でスターリンの言語学や毛沢東の著書を推薦したり、ルイセンコを評価したり、マルクス主義に取り込まれたヘーゲル的な概念で三段階説を定式化したり、いたるところでエンゲルスの自然弁証法に影響された考え方や語彙が使われ、唯物弁証法によらなければ正しい認識に到達することはできない、といった感じで、読むに堪えないと思う読者も多いだろうが、それは時代的制約というものだろう。

 

このころはまだ戦後民主主義者、戦後マルクス主義者が全盛の時代で、日本の知識人の間ではソ連や中国のまだ一枚岩に見えていた「社会主義」への幻想が支配的だった。その中で武谷さんが、エンゲルスなどのいわゆる自然弁証法の発想や語彙にどっぷりとつかった物言いをしていたのも無理はないと思うし、それにもかかわらず、マルクス主義的な技術論を批判して独自の技術論を打ち立てたのは高く評価すべきことだと、いまも思う。

 

当時理学部の同級生だった友人で、父親が私たちの大学で自然科学系の教授をしていた男から、その父親が「武谷など読んでいるとろくな研究者にならん。数学とか物理とかを一所懸命やっていればいいんだ」と言っている、と聞かされたことがあった。のちに父親と同じ大学の教授として科学者の道をまっとうに歩んでどこやらの学長だか副学長を勤めた彼と、研究者にもなれずに単なる風来坊になった私とを見れば、彼の父親の忠告は当たっていたわけだ(笑)。

 

けれど、私自身は当時も今も、彼の父親の言うところは、私のような出来の悪い学生への忠告としては正解かもしれないが、本当に科学研究の先端を拓くような優秀な学生に対しては間違っている、と思っている。

 

…科学者たちの間には、これまでの科学論の無能にたいする反感から、「そういうことをいっても何にも役に立たない」という言葉が口ぐせになり、何にたいしてでも、形式的にこの言葉をいいさえすればよいという風潮がある。物理学が、方法の問題の反省なしには、原理的な重要な点の打開はつねに不可能であったことは、すでに科学史のしめすところである。原理的にどうでもよいような問題をやっている人間は、何らこのような問題になやむ必要はない。しごく平穏無事でなにも「いわなく」ても、ことはすむのである。物理学の第一義的な問題ととっ組んでいる人は、つねにこのような点で頭をなやましているのである。(同前)

 

当時、「物理学の散歩道」と題して、日常的な身の回りの現象を物理学の応用でちょっとした実験をして見せて解説する面白い読み物が出版されて、結構読まれていた。私も楽しんで読んでいた。たとえば、背広をハンガーにかけておいたら、ほんとうに皺が伸びるのか、というようなこと(笑)を実際に実験で確かめて、素人にもわかるように力学的に説明する、というような本だった。

この講演会の時、武谷さんだったと思うが、「物理学の第一義的な問題と取っ組む」気のない人は、「物理学の散歩道」でも散歩していればいいんですよ、というふうな随分皮肉っぽいことを言っていたのを記憶している。彼は戦後すぐに(19463月)「哲学はいかにして有効さをとり戻しうるか」という一文を書いて、哲学者を始め広く人文系の文化人らにも衝撃を与えたけれど、自身はあくまでも「物理学の第一義的な問題と取っ組んでいる」という強い自負を持っていたのだろう。

 

いま私の手元に残っている彼の著書は『弁証法の諸問題』(理論社)と『原子力発電』(岩波新書)だけだが、後者は一度手放してしまっていたので、福島の原発事故後に改めて古本で買い求めて通読した。福島原発事故はむろんのこと、スリーマイル島の原発事故もチェルノブイリ原発事故もまだ起きていない時期の記述にもかかわらず、現在でも原発関係の図書として最重要の必読基本図書と言っていい著作だと思う。

被爆のいわゆる「許容量」について流通している考え方に対する批判と再定義など、今もそのまま通用する。

福島原発で露呈された「原発ムラ」の原子核工学や原子力発電関係のいわゆる専門家たち、時の政権の掌の上でころがされた学者たちのご先祖にあたる連中のことも鋭く批判している。

 

 そのご菊池正士氏が米国から帰ってきて、原子炉をつくるべしという意見を出した(雑誌『科学』19529月号)。その夏頃、日本学術会議の茅誠司氏と伏見康治氏が秘密裡に原子力計画を進めていることを、八月の終り頃になって素粒子論の若手研究者たちが探知し、問題にしはじめた。これは政府部内に原子力のための委員会をつくり、それによって研究費をとろうという計画で、政府、自由党の政治家と連絡があるらしいということであった。原子力こそ計画をたてるならフェアに公開の討論を大いになすべきだのに、暗々裡にやっていることが若手学者たちから非難のまとになった。(『原子力発電』序にかえて)

 

日本学術会議というのは、このころからどうしようもない連中がトップを牛耳っていたんだな、と苦笑せざるを得ないが、政権とつるんで御用学者たちのやることは、いつも国民に対して閉ざされ、情報公開を拒み、少数の政権に取り込まれた連中だけで、隠密裡、暗々裡にやってのける、ということがよくわかる。
 彼らの末裔が日本の原発を絶対安全と保障してきた「原発ムラ」の学者たちだ。武谷さんが批判した当時は、まだしも多くの物理学者や原子核工学の専門家たちが、こうした政府と癒着して秘密裏に原子炉を創ろうというものたちに反対する立場を維持していた。しかし福島原発が起きる頃には、老いも若きもそうした分野の専門家として生きていくためには、御用学者として「原発ムラ」の住人にならざるを得ないほど状況は悪化していた。その結果が福島原発事故であることは明らかだ。

 

原発から出る「死の灰」廃棄物処理の問題への危惧も、武谷さんはこの本の中で強調している。しかし、彼は原子力の研究自体を否定してはいない。

 

若手物理学者の多くは、原水爆の今日の状勢の下では原子力の研究は一切否定すべきであるという見解であった。これに対して私の考えは、大国の核兵器独占、科学における機密体制を打破することが小国の1つの役割であり、日本のような被爆国がその主導権を取るべきであるというのであった。そのうえ日本においてわれわれ物理学者の主張は少数派であるから、たとえ原子力研究を否定しても、茅、伏見両氏らと政府が結びつけば、無原則的に推進されることは明らかであった。そのために、核兵器と、原子力の平和利用の間に明確な分離をするための原則を樹立すべきであると考えたのである。(同前)

 

当時の若手物理学者の多くが原子力の研究を一切否定すべきだと考えていた、というのは、事実だとすれば、今の状況とは本当に隔世の感がある。そして武谷さんの考え方は意外にも思える。スマイリー島原発事故やチェルノブイリ原発事故を経験したのちであったなら、武谷さんはどう考えただろうか、とは思うけれども、彼のこの時の考え方は、もちろん今の私たちから見れば原子力の負の面について楽観的に過ぎるように思えるだろうが、私は原理的にはしごくまっとうな議論だと思う。

 

彼の書いている「当時の若手物理学者の多く」の考え方は、いまでは朝の光の中に消えていく星の数よりまだ少なくなってしまった、かつての京大原子炉実験所の「熊取六人衆」と呼ばれた硬骨の研究者たち、反原発の立場に立つために生涯冷や飯を食わされ、研究費や昇進で明らかな差別を受けながら研究を続けてきた原子力安全研究グループの面々に受け継がれていただろう。他方、武谷さん的な考え方は、私が愛読してきた吉本(隆明)さんの『反核異論』などの論理と響き合うところがあると思う。

 

それはともかく、武谷さんの風貌は物理学者というよりやや気難しい評論家のように見えた。のちに江藤淳を知ったときに、見かけだけだけれど、顔立ちは違っても、何となく印象が似ているような気がした。陽性か陰性かといえば、陰性で、対他的に極めてシャープな批判的言辞が繰り出されるけれど、資質は内向的だと思われた。

 

これに対して坂田昌一さんは陽性で、外向的かどうかは分からないけれど、ソフトな印象を受けた。のちに考古学者の佐原真さんに接したとき、考古学少年がそのまま大人になって考古学者になったんだな、という印象を受けたけれど、坂田さんも少年時代に何か素朴な物理学的な現象に関心をもって好奇心を育てるうち、そのままの延長で理論物理学者までなってしまった、というふうにみえた。その眼は好奇心に輝く少年の目のように明るく澄んで、人懐っこそうにみえた。

 

分科会では一人の講師を囲んで学生たちとの質疑応答を交わすということだったので、武谷さんと坂田さんとどちらの分科会に行こうかと迷ったけれど、武谷さんの考え方はその一般向け著書でよくわかっていたので、その種の著書がなかったか、私が読んでいなかった坂田さんの分科会の方に参加した。何が話されたのか今では全く記憶にないけれど、坂田さんは学生たちの質問に対して終始にこやかに、本当に丁寧親切に答えていた印象だけが残っている。

 

坂田さんは、私たちの周辺で二中間子論でノーベル物理学賞の有力な候補者だと噂されていたけれど、学生の私たちにその理論が理解できるはずもなく、受賞の件は坂田さんの逝去で沙汰止みになってしまった。かれはイデオロギー的には当時、武谷さんと軌を一にして、私たちからみれば一心同体のようにいつも一緒にいるな、という印象を受けたけれど、武谷さんが先に引用した「哲学はいかにして有効さを取り戻しうるか」や、原子力発電について、物理学の領域を越えた思想的、社会的発言を盛んにおこなったのに対して、坂田さんの方はそうした方面でそれほど目立った発言や著書は無かったように記憶している。

 

当時はまだ日本ではマルクス主義、ソ連や中国のいわゆる「社会主義」への幻想が支配的であったから、武谷さんや坂田さんの発言もそうした進歩的文化人の言説の中にあったし、その政治的傾向は当時の日本共産党の路線に対して同伴的であったと思う。

 

その後、スターリン批判、中ソ対立、日本共産党と中国共産党の対立、文化大革命等々が生じる中で、武谷さんや坂田さんの思想や立場にどんな変化があったのか、なかったのか、もはや物理学とは関わりのない世界にはみ出た上に、思想的には吉本さんの安保闘争以後のいわゆる前衛批判、日共批判、中ソ共産党批判、進歩的文化人批判等々、一連の著作を読んで深甚な影響を受けて、もはや武谷さん流の「マルクス主義」にも全く関心を失った私には、フォローする気持ちも失せ、その後の二人について知らない。

 

ただ、番外のエピソードとしてちょっと書いておきたいのは、大学の教養部の時代に、クラスでベトナム戦争反対の決議をして、ビラをつくり、京都駅前などで自主的な署名活動をしたことがある。その折に集めたカンパを旅費に、クラスを代表して、数人の友人と東京のデモ行進に参加することになった。日共系だの反日共系だのといったことは、私たちにはどうでもよかったが、クラスで主導権をもっていたのが民青の連中だったせいか、日比谷公園の日共系の労働者や学生らの相当な規模のデモ隊に加わった。
 出発予定の時刻が来ても出て行かないので何事かと思えば、今ここを空けると反日共系の連中がなだれ込んでくるから、公園に立ち入らせないよう占拠をつづけてほしい、というようなことだったらしい。そんなこと知るか!さっさと出発してデモに移れというのが私たちの考え方だったけれど、まんまと党派的な意向に利用されてしまい、このときに日共系の党派的なものの考え方、自発的な民衆の意志を自分たちの党派的な思惑の為に好きなように利用する体質をささやかな体験のうちに覚り、その後の日共の様々な局面でのやり方やものの考え方を見抜く上でいい経験になった。

 

それはともかく、このとき散々待たされて真っ暗になってから公園を出たデモの中で、私の隣にいたのが坂田という学生だった。私は初対面だったが、一緒に行ったクラスメートの一人で民青の学生が、あれは坂田昌一の息子だ、と教えてくれた。クラスは違うが、同じ学年らしい。じゃ、やっぱり君と同じ民青なのか、と訊くと、いやぁ、彼が親父さんを見習ってくれるといいんだけど・・・とこぼすような言い方をしたところをみると、彼はどうやら民青ではなかったらしい。

 

細面で、細い目がどこか気弱な印象を受けたせいか、偉い親父さんを持つと大変なんだろうな、などと思ったのを覚えている。同じ理学部だというから、下手をすれば理論物理でもやって、親父さんと全く同じ道を歩むことになる。それは大変だろうな、と。

 

しかし彼は内向的というのでもなさそうで、割合平気で話しかけてきて、飄々とした軽みを感じさせもした。デモの最中だからほんの一言、二言かわしただけで、何を喋ったかも覚えてはいないが、父親のことは彼はもちろん私も口にしなかったことだけは確かだ。

 

あれは公園を出てどれくらいあとのことだったか、高架下へ行く直前くらいだったと思うが、向こうに大勢の機動隊員がずらっと並んでいるあたりで、自然発生的に高揚したデモ隊の一部が両手を広げて広い道幅いっぱいに広がる、いわゆるフランスデモを始めて、右へ左へ、激しくうねった。私がいたあたりもその波が来て、自然に気持ちが高ぶり、積極的にその波に乗ろうと手をいっぱいに広げようとした。

すると、手をつないでいた隣の坂田が、そんな私をいさめるように、「きょうはフランスデモはやらないから」と冷静に言って、手をひろげようとはしなかった。ちょっと笑みを浮かべて、けれども断固とした調子で、穏やかに諭すように言い、その一瞬で彼に対する私の印象は一変した。私は自分を恥じておとなしくもとの態勢に戻った。

 

右へ左へ、デモ隊が少し揺れはじめると、たちまち、行く手を封じて並んでいた機動隊員たちが、一斉に走り寄ってきて、私たちの横にピッタリ張り付いて盾を押し付け、うねりを押さえこみ、フランスデモの広がりを封じ込めにかかった。機動隊の盾が、ガチャガチャぶつかる鈍い金属音が緊迫感を高めた。彼らの組織的に統率のとれた力は圧倒的で、私たちの動きはすぐに封じられた。

 

たったそれだけのことだけれど、あのとき隣にいて手をとりあって夜の東京の街をデモ行進したのが坂田昌一さんの息子だった、ということと、きょうはフランスデモはやらないから、と穏やかに言った彼の表情はずっと記憶していた。その後は学内でも確か一度も彼に出会ったことはないし、彼がどんな生き方をしたのかも知らない。

 

今回坂田昌一さんをただ一度まぢかに観たときのことを書こうと思って、ふと彼の事を思い出し、ネットで調べてみると、1968年に京都大学の理学部を卒業した茨城大学の名誉教授らしい坂田文雄という人に行きついた。1944年生まれというから、同じ学年だろうし、あの坂田君に間違いないだろうと思った。プロフィールによれば、その職歴が「東京大学原子核研究所理論部助手」から始まっているので、やはり親父さんと同じ理論物理学を専攻したのだろうか。

 

そのサイトには彼の写真が添えられていた。恐らくすでに70歳を越えた今の年齢に近いとき撮られた写真で、白髪交じりの皺のある老顔には違いないが、その少し気弱そうな、優しい目は、まさにあの坂田君にほかならない、とすぐに直観できた。

 

彼は原子力関係の専門家として堂々たる人生を歩み、京大にも非常勤講師として戻って来たことがあり、最後はフランスのオルセー原子核研究所にも勤務したらしい。

 

彼とはあのデモのほんのひと時だけの接触だったけれども、いまも鮮明に彼のことは覚えている。もちろん私の大学入学時の憧れの研究者の一人だった坂田昌一さんの息子だったせいではあるけれど、親父さんとはまた全然違った資質を持つ青年として一瞬で強い印象を与えたことも間違いない。



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2020年11月10日

沈痾自哀の文(山上憶良)

 万葉集の中で山上憶良の作品が集中している巻の五に、「沈痾自哀の文」というのが採録されています。学生時代に買って以来ボロボロになっても傍に置いて時々見ている旺文社文庫の桜井満訳注『現代語訳対照万葉集』の現代語訳でその中の言葉をひろってみます。

 ひそかに思うに、朝夕に山野で狩をして鳥獣を食べている者でさえ、やはり災害にあわずに世を渡ることができ、また、夜昼河や海で魚を釣ったり網で捕えたりする者でさえ、やはり幸せを受けてこの世を過ごしている、言うまでもなく、私は生を受けてから今日に至るまで、みずから身を修め善行を志し、ついぞ悪事をなす心を抱いたことがない。それだから、仏・法・僧という三宝を礼拝して、一日として勤行しにということはなく、諸神を敬い重んじ、一晩として忘れるということがない。ああ恥ずかしいことだ、私はいったい何の罪を犯した報いで、こんな重病になったのであろうか。
 

 冒頭から嘆き節です(笑)。みずから身を修め、善行を志し、ついぞ悪事をなす心を抱いたことがない、・・・ホンマカイナ、と思うところはありますが、まあ彼の歌を詠んでも公的な仕事の場での同僚たちの間でも嫌われている様子もなく、また妻子を愛する良き家庭人でもあったらしいことがうかがえるので、信じてよいのかもしれません。こういうところは私とは違うので、私の場合は因果応報、悪事の報いだよ、と言われても、そうかもしれんな(笑)と思わなくもありません。でもこれに続く、、その病に苦しむ様子は、まったく憶良さんとかわるところがなく、同病相憐れむといったところです。

 最初に病気にかかってから、年月はだんだんと重なった。いま年は74で、髯髪も白髪交じりで、筋肉の力も弱く疲れやすい。ただ年老いたばかりでなく、さらにこの病気になった。諺に「痛い傷に塩をかけ、短い材(き)の端までも切る」というのは、まさにこのことである。手足は動かず、関節はみなうずき、体ははなはだだるく、まるで鈞石を背負っているようである。布につかまって立ち上がろうとすると、翼が折れた鳥のようであり、杖にすがって歩こうとすると、びっこのロバのようである。

 本当にお気の毒というしかない、惨憺たる状況ですね(笑)。でもこれが歳をとって病を得るということで、いまの私もまったく憶良翁と異なるところがありません。 
 思わず笑ってしまったのは次のようなところです。

 昔は良い医者がたくさんいて、人々の病気を救った。特に楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景などの如きに至っては、皆世に存在した良い医者であって、治せない病気はなかったという。こうした医者を望んでもとてもいないであろう。もし聖医や霊薬に巡りあえたら、乞い願わくは、五臓を切開し、百病を捜し求め、膏肓という体内の奥底までも尋ねて行き、病気の逃れ隠れている所をはっきりさせたいことだと思う。

 笑えるのは、「昔は良い医者がたくさんいて、人々の病気を救った」として、歴史上の名医の名を挙げ、今の世では「こうした医者を望んでもとてもいないであろう」と言っているところです。古代の昔も現代も、こういう悩みは同じなんですね(笑)。憶良の時代は日本人がやっと文字を(中国文字を借りて)使うようになった時代だから、歴史というのは存在しないわけで、記録は口承でしかないから、名医はみんな中国の医者。自分たちの歴史とは、中国の歴史だったんでしょうね。少なくとも文化的な伝統とか継承とかに関わる知識階級にとっては、自分たちの「いま」とつながっているのは、すべてが日々の生活のうちに還流して完結していた日本列島の住民たちの世界ではなくて、大陸の進化した文明の「むかし」であって、そこに連続した意識をもっていて違和感はなかったのかもしれません。

 ところでもう少し先のところで、憶良は「仏典では『この人間世界の人の寿命は120歳』と」書いてあると言っています。今の人間の寿命も最高齢の人を考えるとそのあたりにきているらしいから、その仏典(『寿延経』とか言ってますが)の説は案外当たっているのかもしれませんね。

 任徴君は、「病は口から入る。だから君子はその飲食を節制するのだ」と言った。この理によって言えば、人が病気になるのは、必ずしも妖鬼のしわざばかりではない。・・・(中略)・・・私の病気はおそらく飲食の招くところであって、自分で治せるようなものではないらしいということを知った。

 病は気から、という諺はよく聞きますが、昔から(中国古代の昔から、「病は口から入る」という認識があったんですね。これは現代の医学からみても、かなり当たっているでしょう。古代は魑魅魍魎妖鬼の類が横行する時代のように言われていますが、こういう憶良の言い方などみると、半分くらいはそういうものを信じているけれども~というより、なにかそういう超自然的な力の存在を想定せざるを得ないと感じているけれども~一方では、非常にリアルな合理的な認識をちゃんとしていたんじゃないか、という気がしますね。それはもちろんふだんの生活の中で飲食の如何が病の発病と関係があるという経験を繰り返すことで形成された生活思想の一端であって、それが古代的な魑魅魍魎妖鬼の存在と同居していたんだろうと思います。あまり後者に力点を置きすぎて、古代はその種の現代人には想像しがたい精神世界だったように思うのは間違いじゃないかという気がします。

 「帛公略説」に言うことには、「伏して思いみずから励むのは、この長生きをしたいがためである。生は貪るべく、死は恐れるべきである」と。天地の最大の福徳を生という。だから、死人は生きている鼠にも及ばないのである。王者諸侯であろうともいったん息の根が絶えると、金を山のように積みあげても、誰が富裕だと思おうか。威勢が海のように広大であっても、誰が富貴だと言おうか。「遊仙窟」に言うことには、「死人は一銭の値打ちもない」とある。

 人は生きている間が華で、死んだら鼠にも及ばず、一銭の価値もない、と(笑)。これは厳しいですね。ちょっと死者を冒涜しすぎじゃないでしょうか。まぁ少しあとでさすがに自ら反省はしていますが。自分自身が間近に死を控えている身だと実感しているから、思わず吐き捨てた捨て台詞。

 人の命のはかなさ、人生の虚しさを語って再び自分の病についての愚痴です。

 今私は病気のために悩まされ、寝たり起きたりすることもできない。とにかく、なすすべがない。不幸の最もはなはだしいものが、すべて私に集中している。「人が乞い願えば天が聞き入れてくれる」という。もしそれが真実なら、仰ぎ願わくは、「すぐにこの病気を除き、幸いに平復することができるようにー」と。死人を鼠に喩えた。恥ずかしいことだと思っている。

 最後に引用するのは、等しく人に訪れる死の恐怖とそれゆえの生の虚しさを語って、なかなかの名文だと思うので、読み下し文の方で引用しておきます。

 世に恒(つね)の質(もの)無く、所以(ゆゑに)陵谷(りょうこく)も更(あらた)め変わる。人に定まれる期(とき)無し、所以に寿と夭と同(ひと)しからず。撃目(まばたき)の間に百齢已(すで)に尽き、臂(うで)を申(のば)すの頃(ま)に千代も亦た空し。旦(あした)には席上の主と作(な)るも、夕には泉下の客と為る。白き馬の走り来るも、黄泉(よみ)に何ぞ及ばん。隴上(はかのべ)の青き松は空しく信(あざむかぬ)剣を懸け、野中(のべ)の白き楊(やなぎ)は但(た)だ悲風に吹かる。是(こ)れ知る、世俗には本(もと)隠れ遁(のが)るるの室(へや)無く、原野には唯だ長夜の台(うてな)有るのみなるを。
 先聖已に去り、後賢も留らず。如(も)し贖(あがな)いて免(まぬが)るること有らば、古人誰か価金(あがないのかね)無からん。未だ独り存(ながら)えて、遂に世の終りを見る者を聞かず。所以(ゆえ)に維摩大王も玉体を方丈に疾(や)ましめ、釈迦能仁(のうにん)も金容を双樹に掩(かく)せり。内教に曰く、黒闇の後に来るを欲せざれば、徳天の先に至るに入ること莫(な)かれ、と。故に知る、生まるれば必ず死有ることを。死を若(も)し欲せざれば、生まれざるに如かず。況(ま)してや縦(たと)い始終の恒(さだ)まれる数(ことわり)を覚るも、何ぞ存亡の大いなる期(とき)を慮(はか)る者ならんや。
 俗道の変化は目を撃つがごとく、人事の経紀
(けいき)は臂を申(の)ぶるが如し。空しく浮雲(ふうん)と大虚(たいきょ)を行き、心力共に尽きて寄(やど)る所無し。
                        (最後の2行以外、この書き下し文だけは福永光司によるものを引用)

 この世には永久不変の本質というものがなく、丘が谷になり谷が丘に変わる。また人にも定まった寿命というものがなく、長寿と夭折との差がある。あっという間に、百年も過ぎ、背伸びをする間に、千年も空しく去る。朝には宴会の主人としてふるまっていても、夕方にはもう黄泉の客となっている。白馬がいくら走って来ても、死のすばやさにはとても及ばない。墓の上の青松に空しく信義の剣がかかり、野中の墓地の白楊は、いたずらに悲風に吹かれている。ここにおいて、この世にはもとより死から免れて隠れ住むべき部屋はなく、荒野にもまた永久に続く夜の台、すなわち墓があるばかりであることを知った。昔の聖人たちもみな世を去り、近く聞えた賢人も留まってはいない。もし金で死を免れることができるものなら、古人の誰が死を免れるべき金がなかろうかー。これまで一人として生き長らえて、世の終りを見届けた者があることを聞かない。それゆえに維摩大士も玉体を方丈の室に病み、釈迦如来も尊い容姿を沙羅双樹で掩われたものでもある。仏典に言うことには、「黒闇天女が後ろから追って来ることを欲しない時には、功徳大天が先に来るのを受け入れるな」と言っている。(功徳大天とは生の女神であり、黒闇天女は死の女神である)。このことから、生まれた以上は必ず死ぬものだ、ということがわかる。死をもし望まない時には生まれてこないに限る。ましてや、たとえ始めがあれば終りがあるという世の道理を悟ったとしても、どうしてその生死の大事な定めを思い知ることができよう。
世の変転は瞬きをするほど短い間であり、人事の筋道は肘を延ばすほど短い間である。空しく浮雲と共に大空を行くようであり、心力共に尽きて寄る所もない。(現代語訳は桜井満訳より引用)


 こういう文章を読むと、万葉の時代の歌人が同時代人のように身近に感じられます。

saysei at 15:42|PermalinkComments(0)
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