2020年09月
2020年09月30日
スナップショット 25 中村錦之助と東千代之介
彼らの出演作で私が最初に映画館で見た映画として記憶しているのは昭和29(1954)年の暮れに公開された「紅孔雀」だ。
そのもとになったのは、NHKラジオでその年の初めから暮れまで放送されていたラジオドラマ「新諸国物語」シリーズの一環をなす「紅孔雀」で、私は毎日この放送のある夕刻6時台(たしか6時5分からか)には、外で遊んでいても必ず家に戻ってきてラジオの前で固唾をのんで放送に聴き入った。
実は「紅孔雀」の前年には同じ「新諸国物語」の一環として、「笛吹童子」というのがあって、これも全部聞いていた。放送時間は15分間とごく短くて、それがたっぷり一年間かけて放送されていたと思う。
私は自慢ではないが、NHKの英語のラジオ講座などは中学、高校の時に何度もテキストの4月号を買っては、よぉし1年間頑張るぞ!と思いながら、5, 6月号以上には行ったためしがない人間だが、この8歳、9歳のころにはそれこそ1年間、220回前後らしいけれど、ほぼ毎日欠かさずに「笛吹童子」と「紅孔雀」だけは聞き続けた。
笛吹童子の主題歌「ひゃらぁ~り、ひゃらりぃ~こ、ひゃらぁ~り、ひゃらりぃ~こ、誰が吹くのか不思議な笛だ・・・」や、紅孔雀の「まぁ~だ見ぬ国に住むという、紅き翼の孔雀どり、秘めし願いを知るという、秘めし宝を知るという・・・」のメロディーが流れはじめると一切をストップして聴き入った。
だからストーリーだけは全部頭の中に入っていて、「紅孔雀」が映画になったときは、即、父に連れて行ってもらって映画館で観た。
今調べてみると「笛吹童子」も映画化されているし、その前の同じシリーズの最初の「白鳥童子」も映画化されているようなので、それならきっと特別な事情がなければそれらも見ているはずだと思うが、なぜかはっきり記憶に残っているのは「紅孔雀」だけで、あとの二つは記憶があいまいだ。三つともみて、それらがごっちゃになっているのかもしれないし、最後に観たのが「紅孔雀」で、その強い印象だけ覚えているのかもしれない。
しかし、「白鳥童子」のときのものと思われる、歌舞伎の獅子頭みたいな真っ白な羽根飾りのようなのをつけて馬にまたがった剣士が助けに駆け付けるシーンの瞬間的な映像だけ記憶に残っているのだが、なぜそれだけが記憶にあるかといえば、そいつが登場したとき客席の大勢の子供たちの間からすごい拍手が沸き起こって館内が興奮の渦に巻き込まれたからだ。
さてわが中村錦之助と東千代之介は、この「紅孔雀」の中ではいずれもが主人公で、互いに敵役で、錦之助は「那智の小四郎」という典型的な善玉の若者、千代之介は浮寝丸という盲目・総髪撫付の美しい剣士で、本来は善玉の心を持ちながら妖術使いの婆に操られて小四郎と剣を交える敵役になっている。この二人の宿命の対決が、善玉と悪玉の戦いの核心になる。
これに小四郎を慕う美しい娘久美(高千穂ひずる)や、抜群の腕だが大酒のみで、ふだんはふらふらしているけれど、いざというときには小四郎の危機を救う主水(大友柳太朗)、それにこのころ悪役と言えばあの懐かしい吉田義夫(笑)などがからんで、波乱万丈の物語が展開していく。
舞台は戦国時代で、紅孔雀の秘宝をめぐる善玉と悪玉の宿命の対決、というような話だ。あのころの物語で両者の武器と言えば、剣だけではなく、「忍術」でもなく、「幻術」なのだった。なんというか、科学的にいうと忍術と催眠術を融合させて、敵にあらぬ幻を見せて幻惑させてやっつける、という・・・。私たちの世代は、マンガや幻燈の世界で、児雷也(×おろち丸×なめくじ姫)の三すくみの戦いの物語からなじみのものだった。
この「紅孔雀」の錦之助は、後のもったいぶった演技とセリフ回しの萬屋錦之助とは違って、実に初々しい笑顔のよく似合う陽性の若武者ぶりで、動きの良い華のある立ち回りをして、キラキラと輝いていたし、東千代之介は悪い幻術にたぶらかされた悪の側の剣士ながら、その盲目・総髪・清廉な印象の白っぽい衣装で錦之助以上に鋭い剣をふるう姿は、闇に咲く夕顔のように、影のある陰性の美しさながら、本当に美しくて幼心にほれぼれした。
ただ、なぜか私はこの映画を見て、どこか心の奥底では落胆していた。登場人物たちは素晴らしいと思ったけれど、どこか子供だましなチャチな印象がしたのだ。どうしてそう感じたのか、いまでは正確には思い出せない。子供だましは最初からこの物語がそういう幼い子供向けであったわけで、それには感動していたのだから、子供だましな話だから失望したというわけではなかったはずだ。
ひょっとすると、映画化の時に、もとの物語を不自然にカットして縮める無理をしていたからかもしれない。或いは先の幻術の場面なども含めて、映画のセットで撮られた当時の技術が、ラジオで膨らんでいた私の想像上の華やかな世界から見れば、随分貧相なものに思えたせいかもしれない。
だから、私は「笛吹童子」の映画も見て忘れているのではなく、見に行こうとせず、結局観ずじまいだったのかもしれない。
それでもこの映画「紅孔雀」をはじめとする新諸国物語の映画化はことごとく大ヒットし、誰より驚いたのは子供向けと軽く見ていた東映だったようだ。いずれにせよこのあとしばらく東映は、チャンバラと言えば東映、と時代劇で黄金時代を築き、テレビにしてやられるまで日本映画全体の黄金時代を築くことになる。
この時代を引っ張った二人の若武者、中村錦之助と東千代之介が二人そろってくるから、見に行くか、と父に誘われたのは、おぼろげな記憶では映画を見た翌年、私が父の転勤で広島から西宮の社宅へ引っ越した小学校4年生の時だろうと思う。
もう「笛吹童子」や「紅孔雀」は卒業して、そのころまだマンガは少なくて絵物語が全盛だった「少年クラブ」を楽しみに読み、明智小五郎の活躍に心躍らせていた少年だったけれど、あの錦之助と千代之介に会える、というので一も二もなくOKして出かけた。
当時父の勤務先の社宅は、家の2階にいると、球場の歓声が窓から飛び込んでくるほど、甲子園球場のすぐそばにあった。錦之助と千代之介はその甲子園球場へやってくるという。阪神がオフシーズンのファン・サービスとして呼んだのか、東映が宣伝のために球場を借りておこなったイベントだったのか分からないけれど、夕方から始まって、二人が登場したときはもう真っ暗で、グラウンドにしつらえられた舞台は、たしかあれはナイターの照明だったかと思うが、それと強烈なスポットライトで、眩く輝いていた。
私はなかなか二人が登場しないので、まだかまだかと待ちくたびれていたけれども、二人が出てくるときには、那智の小四郎や浮寝丸の姿形のまま登場するものと思い込んでいた。だから、司会の紹介とともに現れた二人が、芸能人らしいパリッとした黒いモーニングみたいな姿で現れたので、驚くと同時にひどくがっかりした。
どうやら私は二人が小四郎と浮寝丸のチャンバラを目の前で演じてくれるとでも思っていたらしい。もちろんすぐにその考えの馬鹿馬鹿しさに気づく年頃ではあったけれども、私の中の錦之助と千代之介は小四郎と浮寝丸以外のなにものでもなかったのだ。
最初に錦之助が、「皆さん、こんばんは!」から始まる礼儀正しい挨拶をした。のちのち何度も聴くことになるあの特有の甘さのある声。けれどものちのちのような、もったいぶった重々しさを演出してみせるような声ではなく、いきのいい上り調子の若い人気スターの明るいさっぱりした声だったと思う。続いて千代之介の生真面目そうなちょっと鼻にかかったような低めの声がきこえてきた。内野席ではあったけれども、遠くて表情まではうかがうことができないのが残念だった。
舞台に立っていたのはスクリーン上のスターではなくて、現実の世界で超人気スターになってしまったスマートな二人の現代青年だった。それは球場の最大限の人工的な照明を浴びてこの世のものとも思われないくらいキラキラ輝いていたけれど、銀幕の世界の輝きとは違っていた。
二人はほんのふたこと、みこと、挨拶のような言葉を観客に向かって投げかけただけで、じきにひっこんでしまった。
私が二人を見たのはこの時が最後になったし、その後二度と芸能人がこうした舞台に直接、生身の人間として登場するようなイベントに参加したことはない。俳優は銀幕で、という当たり前のことが、このときから私にとっても当たり前のことになった。
それでも、時に意図せずにこうした銀幕の人に、日常世界で遭遇することがある。前にこのスナップショットで書いた伊藤雄之助さんなどその典型だけれど、ほかにも、大川橋蔵、香川京子、松原智恵子、中尾彬、栗塚旭、…いま思い出せないけれどまだまだあるような気がする。
大川橋蔵さんとは、私がかかりつけだった市内の大きな病院の待合室で座っているところを、私のパートナーがみつけてささやいた。彼女は昔、太秦からそう遠くな中学校に通っていたので、多くの役者さんを見てきたし、大川さんの素顔を見ても一目でわかったようだ。でも私はテレビ画面では、銭形平次の愛好者としてずっと以前から毎週のように見ていたが、化粧を落とした彼の素顔を見るのは初めてで、全然気づかなかった。
そっと確かめると、なるほどそういわれてみればあの目は紛れもなく橋蔵さんだな、と思いはしたが、時代劇用にメイクアップした大川橋蔵とはまるで別人のようにさえ思えた。
「あまりデコボコしない、さらっとした顔のほうがメイクはうまくできるのよ」とパートナーに言われたが、なるほどそういうものかもしれない。顔の造作のバランスが小さくとれていて、唇が薄く、日本人の特徴たる反っ歯もなく、たしかにデコボコと骨ばった顔つきではなく、輪郭が優しい。
しかし舞台化粧をしたときの、あの殆ど色気を感じさせる目、眉間のあたり、唇等々にその特徴はまったく感じられず、なにかこうさらっと洗いさらしたような(笑)姿で、逆に映画俳優というのはすごいもんだなぁ、と感心してしまった。
あのころもう彼をとらえた病が進行していたのだろうか。あれはいつだったか、まだその表情は明るく、お隣に腰かけたご家族だったのか、気の置けない誰かと語らっているふうだった。
香川京子さんとは、私がシンクタンクに勤めていたころに、どんな事業でだったか失念したけれど、劇団四季の浅利慶太と一緒に香川さんにも出席してもらって、東京でミニ会議か、インタビューのようなことをした折にお目にかかった。
私は彼女の映画をいくつか見ていて、惹かれるのは岡田茉莉子のようにちょいと派手で華やかな魅力を持った人だけれど、お嫁さんにもらえるならこういう女性がいいなと(笑)厚かましくもひそかに思っていたので、香川さんがそばにいるだけでワクワクして、そのときの主役だった浅利慶太がなにを喋ったか、まるで覚えていない(笑)。
香川さんはずっと控えめだったけれど、発言されるときは、きちんと礼儀正しく、はっきりと自分の意見を述べておられたと思う。
松原智恵子さんは、家族旅行で海外へ行くとき、空港である距離を置いて見かけた。遠目にもそれとわかるほど綺麗で、ああやっぱり女優さんって綺麗だな、と思ったのを覚えている。むこうも彼女を中心に何人か、仕事の関係ではなさそうな人たちがいらして、休暇に家族で海外へ出かけられるような感じだった。残念ながら一緒の飛行機ではなかった。
中尾彬さんとは、東京へそのころ仕事の関係で協力してもらっていた作曲家の一柳慧さんを訪ねたとき、彼が作曲した曲の邦楽演奏会の会場で、一柳さんと一緒のところへばったり出くわした。
旧知の間柄だったのか、中尾さんが一柳さんに挨拶するのを傍らで眺めていた。中尾さんは実直そのものという印象で、ほとんど直立不動の姿勢で一柳さんを先生と呼び、かしこまって言葉を少しかわし、深々と一礼して別れた。
一柳さんは私が彼を知っていると思ったのか、あれが誰だというようなことは言わなかったが、私は顔を見ただけで、あの俳優さんだな、と顔だけは分かった。でも名前が思い出せず、後で調べてようやく中尾彬さんだった、と知った。見間違えようのない個性的な顔で、とくにギョロリとした大きな目が印象的だった。
栗塚旭さんは、私がパートナーと二人で、京都の街なかの骨董品を並べたような店をひやかしているときに、二人連れで店に入って来て、店の主人とひとことふたことかわし、棚の陶茶碗だったか何だったか、そんなものをちょっと手に触れて見ていた。私は彼だとは気づかなかったが、そういうことに詳しいパートナーは一目でわかったらしい。
こんなことは、つい4,50年前までは珍しくも何ともなかった。ことに太秦の撮影所のあたりでは、スタッフや役者さんが贔屓にしていた店が周囲にいくつもあって、ちょんまげ姿や仕事着のまま出入りする人が普通に見られた。
スターになった人たちの中には嵯峨野あたりに家や別荘を構える人もあり、嵯峨野に暮らしてきた義母などは、今日は誰それに会った、誰それがこんなことしてはった、などとよくスターに出会ったことを嬉しそうに話していた。
私たちが義母宅に行くのにいつも通る広沢の池から大覚寺のあたりでは、今でも時々やっているけれど、昔は始終撮影が行われていた。あのあたりの風景は国が土地を管理していて、昔の風景をそのまま残しているので、時代劇の撮影などに適しているらしい。
いつのことだったか、義母が面白い話を聞きこんできたことがあったそうだ。何処やらの店の人が、いつも來る髪結いさんから聴いた話らしかったが、今度撮影所にすごく可愛らしい子が入った。いや女優と言われるほどの子ならみなそこそこ美人やけど、この子はめったにないほど綺麗や。そやけどめっぽうヤンチャな子で、周囲をてこずらせている、と。それが大原麗子だった。まだ入りたての新人だった頃の話だ。
こんなうわさ話が山ほどあって、昔から京都に住むあの辺のごく普通の人に共有されていた。それが映画の街、京都という、おそらくは映画関係者の誇りでもあり、市民にとっても映画の世界がわがことのように感じられる根っこにあったのだと思う。私の古くからの友人で西陣の何代目だとかいう店のおやじは、親戚の誰それが撮影所のエライサンだったとか、どこの誰それが大部屋女優で、良く知っているとか、しばしば話してくれたものだ。
私が大学に入りたての頃にも、大学のそばでチャンバラの撮影をしているのを見かけたことがある。テレビでよく見かける若い俳優がやっていたが、もう誰だったかも忘れてしまった。まだそう名が知れた俳優ではなかったと思う。
だから京都造形芸大(元は洋裁学校だったと思うけど地の利を得て大きくなった。今また大学の名称を変えたか、変えようとしているらしい)の映像学科かなにかの学生たちが、ときどき街なかに下りてきて撮影などしているのに出会うと、なんだかちょっと嬉しくなる。
うちの団地でも、「かもめ食堂」を撮ったチームが「マザーウォーター」だったか、新作を撮ったときに根拠地にして、団地の一軒で撮影し、住民たちが共同庭のほうから覗いていたのをおぼえている。
いや、錦之助&千代之介から、つい大幅に脱線してしまった。今回は球場の高い観客席から遠くグラウンドに設けられた舞台に一瞬登場しただけの65年ほど前の二人を、表情もうかがえないのに、ほんの一瞬眩い光の中に撮っただけの文字通り一方的なスナップショットになった。
2020年09月26日
スナップショット24 山崎正和さん
私はこのプロジェクトの担当者ではなかったけれど、当時事務所を仕切っていたマネージャーの判断で、急遽担当以外の私もこのプロジェクトに関する海外調査に付き合わされることになり、マネージャーと一緒にヨーロッパの幾つかの国の政府広報の担当部局を回って資料をあつめたり、高速道路脇や街路に設けられた政府広報の写真を撮ったり、形ばかりの「調査」をしていた。
そんなわけで深くは関わらなかったものの、全体としてどんな調査内容になり、どんな報告書が出来上がるのかということに多少の関心がないわけではなかったし、名の知られた有識者が事務所の会議室に集まって議論するというので、隣の事務スペースにいて聴こえてくる声に耳を傾けていた覚えがある。
その時の有識者メンバーで覚えているのは、山崎さんのほか、小松左京、高坂正堯の二人だ。ほかにもいたのかもしれないが、記憶あるのはこの3人だけだ。
山崎さんについては「このアメリカ」(1967)を初版出版時に読んで以来、「世阿弥」などの劇作家であり、「柔らかい個人主義の誕生」などに見るような、文藝批評を超えた、変化していく日本社会に独特の観点で切り込む文明批評家としても、その書き物を通じて良く知っていたが、間近に見るのはこの時が初めてだったかと思う。
小松さんは当時わたしが勤務していた文化専門のシンクタンクの取締役だった。入社してすぐに副担当をさせられたNIRAの「21世紀プロジェクト」の一環で、日本の文化的状況の動向についての調査研究を行ったときには、ディレクターとして協力してもらっていたので、すでに何度も会っていた。
また高坂さんは私の学生時代には、保守政権に寄り添う右寄りの国際政治学者として知られ、あまり好印象をもっていなかった。『海洋国家日本の構想』というそのころ評判だった本を手にとってはみたが、最初から保守反動の御用学者というフィルターをかけて読むようなものだから、とてもその主張を冷静に受け止めたとは思えないし、何も記憶がない。
その一方で、彼が高坂正顕という、戦争を擁護した京都学派を代表する、悪名高い哲学者の息子で、彼が学んだ京都大学では、これまた私たち学生の間で評判の悪かった猪木正道という政治学者の高弟だった、というようなゴシップ的情報は良く知っていて、保守政党のブレーンをつとめ、国防を説き、アメリカを重視する現実主義の政治思想を、よく知ることもなく毛嫌いしていた。
当時はまだソ連も中国もそれらが奉じる社会主義の幻想も健在で、日本の論壇では進歩的文化人が大きな顔をしていて、社会党の非武装中立論などが幅をきかせ、いま振り返ればなんでもない現実主義的な政治思想がみな復古的な右派の保守反動的なものに見えていた。
こういうことは時代の空気が変わってしまうと、若い世代にとっては、ほとんど信じられないに違いない。当時は大学の教養部のクラスなどでも、いまの自民党はおろか、国民党程度の是々非々の中途半端な政党だった民社党のような政党を支持する学生でさえ、ほとんど変わり者の頑迷な保守派とみなされ、孤立するような空気に支配されていた。
そんな具合だから、高坂正堯なんて人に自分がニアミスの機会を持つなど、考えてもみなかったし、きっとゴリゴリの保守反動政治思想に凝り固まった、醜い長老政治家たちと似た頑迷を絵に描いたような印象の男がやってくるのだろう、と予想していた。
しかし実際にやってきたのは、存外若く、眼鏡の奥の眼が少年のようにあけっぴろげで、人懐っこい印象の小柄な男だった。今考えてみるとあのころまだ彼は40代のはじめだったのだ。私が曲がりなりにも読んだ『海洋国家日本の構想』は、彼が30歳になったばかりのころに書いた本だったらしい。いまウィキペディアを見ると、彼が師事した猪木正道は、自分が教えた弟子の中では「ピカイチの天才だった」と語っていたそうだ。
山崎さんの政治思想も、当時の色分けの中では、保守的なものだということは知っていたけれども、こちらのほうは文学畑の書き物のほうで、幅の広さや柔軟さにいくらかは触れていたので、それほどゴリゴリの硬い人物のような印象は持っていなかった。
それでも、江藤淳の「アメリカと私」を読んでしばらくのちに出た山崎さんの「このアメリカ」を読むと、自然比較して、江藤さんのアメリカ体験記が、自分が大学で教えた学生たちに囲まれていかに愛される教師であったか実にアッケラカンと書いたりして、そのアメリカ社会の観察にもナイーブな感性が生き生きと躍動しているのを感じたのに対して、山崎さんの著書は同じようにアメリカ社会の問題に鋭い目を向けた著作ではあったけれど、感性よりも理論的な構えが先立つ幾分骨ばった印象を受け、油断のならない秀才のレポートを読むようなところがあった。
そんな連中を集めて政府広報の委員会を開こうというのだから、担当するわが社の研究員の方も大変だな、とまだ新米の私は他人事ながら心配していた。調査結果を報告したのはベテランの先輩ではなく、その片腕として当時このプロジェクトに携わっていた大学院生だった。私より幾つか年下で、私の入社前から社に出入りして先輩の主任研究員の片腕として働いていた優秀な研究員ではあったものの、彼にこんな人たちを相手にして質疑応答をこなす役割ができるんだろうか、と思ったのだ。
しかし、彼はとても緊張はしていたものの、冷静沈着に調査結果を報告し、けっこう鋭い質問などが飛んでくるのに対しても落ち着いて応えていた。私は内容はほとんど聞こえないけれど、その様子をうかがいながら、自分はいつになったら、あんな連中を相手に、彼のように堂々と渡り合えるようになるだろうか、とちょっと先行き不安に思いながら聞いていた。
この室外から垣間見た委員会の中で、強く印象に残っているのは、山崎さんの「政府広報とはお上の高札である」という断定的な言葉だった。政府広報のあり方をめぐって、そもそも政府広報とはなにか、という彼ら文化人の好きな本質論が交わされていたらしい。
その時に、ほかのメンバーがあれこれ自説を展開するのに対して、それを十把一絡げに手斧を振り上げてドカッと切ってしまうように、「だから政府広報はお上の高札なんだよ」と恐ろしく断定的な口調で言い切り、そのたびに小松さんや高坂さんが、ダァーッと笑いながらのけ反って、「そんなこと言うてしもたらあんた・・・」と、途端にもう議論にならず、ふにゃけてしまうような雰囲気が会議室から伝わって来た。
どういう文脈でそういうことになるのか、詳細は分からないけれど、小松さんや高坂さんの反応を言葉にすれば、<そりゃそうかもしれんけどさ、それを言っちゃおしまいよ、具体的な政策論の話にならないじゃないの>という感じだった。でも山崎さんはおかまいなしに、その決め台詞を何度も持ち出して、いわばその「原理」から演繹的にすべてを展開していく、という戦略をとっていたのを、ああこれが山崎さんのやり口なんだ、と思い、それはどこか「このアメリカ」の印象とよく合うような気がしたのを覚えている。
彼のやり方は、生真面目に碁を打っている最中にいきなり碁盤をひっくり返すようなところがあったけれども、この3人の中ではそれも彼にだけ許容されたなれ合いのパフォーマンスのようなところがあって、議論としてみれば山崎さんの確信犯的な碁盤返しはルール違反でいくらでも異議申し立てできる類の独断的な行為にすぎないけれども、小松さんも高坂さんも、それに敢えて真っ向から反論して挑むわけでもなく、自分たちも手にした石を投げだして笑いだし、その話題はひとまずそこでおしまい、ちょっと休憩して次へ行きましょか、みたいな流れで和気藹々と会議が進行していくのだった。
私は彼ら同士がどれだけ個人的に親しいかなどまったく知らなかったが、どうやら互いによくよく知った間柄で、しかも気の合う仲間であるらしかった。小松さんはそのころには大阪万博に積極的な役割を果たし、体制内的な大物の文化人になりおおせた著名作家という印象だったけれど、若いころには過激な左翼のシンパだったようなことをほのめかしたこともあり、個人的にも高橋和巳のような作家と親しかった人だから、高坂正堯や山崎正和と気が合うというのが、私にはあまりピンとこなかった。
しかし、彼らの間にはただ言われるままに集まって議論している委員たち、というのとは違って、どこか馴れ合った親密さがあった。
山崎さんが彼らしい論理的に筋道立てた言い方で、「政府広報はお上の高札である」という原理を立てて、一切をそこから演繹的に説き起こすような議論を展開すると、小松さんや高坂さんは、その高飛車に決めつけるような議論の仕方に正面から反論するでもなく、水戸黄門の印籠を目の前に掲げられた者たちのように、ヘナヘナになってしまう。
小松さんはともかく(笑)、あの高坂正堯が、こうもフニャフニャになってしまうなんて、と私には意外でもあり、面白くもあった。
ただそれは、そうなるほうも、水戸黄門を演じる側も、自分たちがある種のゲームの世界で演技をしているのだということを心得ているようなところがあった。山崎さんのお堅い学者のような筋張った物言いは芝居の型にはまった演技であり、「政府広報はお上の高札である」という決め台詞を言うときは役者が見栄を切る瞬間のようなものだ。
山崎さんのこのときのような語り口は、後に直接味わう機会があった。それは、梅原猛さんのスナップショットの時に少し書いたけれど、梅棹忠夫さんが主導した、「新京都国民文化都市構想」の委員に加わるよう要請する電話をかけたときのことだったと思う。
一通りの趣旨は手紙で知らせてあり、電話で簡単に趣旨を述べると、じっと聞いていた山崎さんは、おもむろに、梅棹さんの構想については知っているし、自分のその種の文化振興に関する考え方は、すでにいついつの何という雑誌に書いた。それ以降、考えを改め、新しい提案ができるようなアイディアを持ち合わせていないので、今回のお誘いは辞退させてもいたい、というようなことを、極めて筋道立てた明晰な言葉で言った。
困ったな、と思ったが、あっさり引き下がるわけにもいかないので、それはそれとして山崎さんの観点から見て梅棹構想をどう評価されるか、委員会の席で披露していただきたい、というようなことを私なりにトツトツと返したと思う。
それに対して山崎さんは、ぼくはそういう会議に出るなら、自分がなにか新たなアイディアをもって貢献できるような用意がなければ意味がないと考えている、という自分なりの原則をまず持ち出した。しかしいま残念ながらその用意がない。何カ月も前の考えを再検討する暇もなく、そのまま同じことを言うために会議に出るのは自分にとって不本意なことだし、ほかのメンバーに対しても失礼に当たると思う、云々。
もちろんもう何十年も以前のことで、メモをとったわけでもないので、正確に言葉を覚えているわけではないけれど、ともかくそんなふうに、いちいちこちらが食い下がればいくらでも食い下がれそうにも思えるけれど、いくら言ってもそんな風に冷静に、それなりの理屈を立てて反論が返ってくる感じで、いい加減のところで諦めるほかはなかった。
梅原さん同様、山崎さんも関西の文化人として、この種の文化行政関連の会議などには始終引っ張り出されて顔を合わせるメンバーではあっても、梅棹さんとは一定の距離を保っていて、決していわば梅棹党に入ってしまうような人ではなかった。逆に梅棹さん側としては、そういう一家言のある少し肌合いの異なる人に入ってもらえば、この構想の担い手なり応援団なりに広がりができ、構想を実現していく上で大きな力になると考えたところがあったのだろう。しかし、梅原さん同様、山崎さんも、この話にはのってこなかった。
しかし、最初から断るつもりであったにせよ、にべもなく断るわけでもなく、通り一遍の今忙しいから、なんていう理由で断るでもなく、自分なりの理屈をつけて、一応梅棹さんの意向を受けて依頼の電話をかけている若造に、丁寧に論理的に言って聞かせる、というところが、いかにも山崎さんらしく、私も断られて悪い感じがしなかった。
私が少し幅のある期間、山崎さんと向き合ったのは、兵庫県の芸術文化センター建設の基本構想づくりのときだった。この基本構想づくりのための基礎調査と委員会のセッティングや記録などの業務を委託され、担当したのが私で、このときの基本構想・基本計画委員会の座長が山崎さんだった。
したがって、この基礎調査や委員会を進めるための打ち合わせに、最低一度や二度は彼のところを訪ね、相談し、その指示を仰いだはずだが、記憶力が抜群に悪い私は残念ながらそのときのことを全く記憶していない。そもそもこの時の県の委託は、後に数百億も投じるような施設の基本構想・基本計画づくりのための調査や計画立案に必要な作業が全然わかっていないとしか思えない、極端に低額の委託料で、ほとんど何もせずに作文だけすればいいよ、というような金額だった。
私にはその裏事情はわからないが、基本的にこのプロジェクト全体が、知事が山崎さんにお任せする、というような形でぶち上げた計画で、構想の内容も基本的なことはみな山崎さんの頭の中にあり、彼がこれと思うメンバーを集めて具体的なことを相談しながら形を決めていけばいい、と考えられていた節がある。
委員会のメンバーはいま手元にその時の資料が残っていないので正確には分からないが、山崎さんを座長として、確実に覚えているのが、音楽分野では後に完成後の兵庫県立芸術文化センターの芸術監督に就任する佐渡裕さん、それに演劇では私が学生時代に新入生として教養部の英語の授業を習っていた喜志哲雄さん、それにたぶん山崎さんも協力していたピッコロシアターの山根館長は兵庫県のプロジェクトでもあったし、確実に入っていたのではなかったかと思う。
しかし、委員会の委員一人一人の発言もほとんど記憶にない。なんだか山崎さんが一人で喋っていたような印象が強い。実際にはそんなことはないのだけれど、彼の頭の中にすでにこういうものをつくるんだ、というヴィジョンが明確にあって、それを実現するために彼が訊きたいことを訊き、相談し、協力してもらう各専門領域の人材を確保しておくための委員会みたいな気がしていた。当時の兵庫県知事もこの委員会に出席して、積極的にこの事業を進める姿勢を明瞭に示していた。
委員会の裏方の雑務をし、記録をとり、委員たちにフィードバックするようなことは造作もなかったが、調査や実際の構想案を作っていくのは、動ける予算が無かったこともあって、とても困難だった。委員会で山崎さんが、この点はヨーロッパの劇場ではどうなんだろうね、などと運営の具体的な進め方や運営組織の実態について疑問を投げかけたりするのに、委員たちはもちろんのこと、私も当時はまだ欧米で舞台芸術関係の調査をしたことも無かったので、答えることができない。調査にいく予算もない。
仕方なく、委員の一人が別の個人の仕事で英国に出かけるのに便乗して、僅かな謝金を彼に渡して、向こうの国立劇場の運営に関して訊きたいことを聞いてきてもらう、というような苦肉の策をとったりしていた。
さらに、これはどうしても一度自分でむこうの劇場に行ってヒアリングしてこないとダメだ、と思ったので、たまたま同じ時期に、大阪市の方で舞台芸術総合センターの計画が持ち上がり、その初期段階の調査も始まって、私がその担当も兼ねていたので、私は社内的に随分無理をして、両方のわずかな予算を合わせて、強引に海外調査のできる実行予算をデッチ上げ、一人でごく短期間の海外調査に出かけた。
このときは時差ボケのせいか緊張のせいか、幾日もまったく眠ることができず、顔全体がむくんで体に変調をきたしたのもかまわず24時間仕事漬けになり、途中でぶっ倒れるかもしれないな、などと思いながらなんとか多少の劇場調査をして帰国したというような経験もした。
私が山崎さんに相談や報告に行ったとき、ちょっと予算のことでぼやいたとみえて、山崎さんは知事も出席している委員会の席で、「調査予算が少ないというようなことをちょっと耳にしましたが、こういう施設を作るためには国内外の先行例については施設のことも運営のことも十分に調査してその経験を学ばないと、ちゃんとしたものはできませんよ。ぜひその点はしっかり手当していただきたい。」と言ってくれた。知事としては立場が無かっただろうから、事務局の職員たちは慌てていた。
私はその後の調査でしかるべき予算をつけて計画策定をやらせてもらえるかと期待していたが、残念ながらそうはならなかった。山崎さんと知事で話合って、知事が大きな決断をし、いきなり80億円の基金を積んで、この劇場計画を実現し、開館後は運営を維持していくための財団をつくり、そちらで計画づくりから実際の開館までの進捗と開館後の施設を維持していく役割を一手に担わせることにしたのだ。
これで委員会のいわば下請けのような形で基本構想・基本計画の作文をしたわが社はふっとんでしまった。しかし、私は個人的には山崎さんも知事も賢いな、と思った。行政の文化施設計画というのは、どんなに長く緻密な調査と検討の過程を経た計画であっても、建設準備室ができるまでは、極端な言い方をすれば、あくまでも絵に描いた餅にすぎない。ちょっと財政が窮屈になってきたとか、首長が変わってしまったとか、そんな外在的な要因によって、計画はあっという間に潰されてしまう。計画はあくまでも計画であって、行政にとっては、いつでも潰せるものなのだ。
首長が選挙で変わり、保守系に代わって革新系首長が誕生したとか、その逆が起きれば、たちまち前首長時代の施設建設計画などはどこかへ追いやられてしまう、といったことはよくあることだ。
兵庫県の芸術文化センターは、その建設と開館後の運営に特化した財団を始めにボーンと作って、すべてをそこに集約した。それは議会もまた何年かかろうと、芸術文化センターを作ることをその実現に至るまでの全過程、そして開館後の運営まで、すべてを承認した、ということだ。
もはやこの計画に携わる山崎さんや担当部局は、毎年予算を立てて議会で承認されないと動けない、という制約からも解放され、2,3年先の準備もきちんと予算の手当てまで含めて計画できるし、必ず実現できる。こういう仕組みを最初につくってしまうことは、この種の施設の建設計画では円滑に実現までの行程を進めるために、最も賢明なやり方だと思う。
私は裏事情は知らないが、おそらく山崎さんの強い進言で、知事が聞き入れて英断に及んだのではないかと推察した。私はこの件では仕事を失ったが、このやり方に納得し、むしろ良かったと思った。
その後、この芸術文化センター計画は全く予期しなかった天災、阪神淡路大震災によって中断され、前代未聞の出来事に、或いは頓挫か、と危惧されたが、兵庫県も山崎さんもあきらめずに事業の推進を継続し、見事に開館にこぎつけた。震災のとき、こんなときこそ文化が必要とされるのだと、私の記憶違いでなければ、この芸術文化センターのプレ事業の一環としてだったと思うけれど、山崎さんの演出したオリジナルな演劇の公演が行われたことは記憶にまだ新しい。
一方、私が同じようにかかわって来た大阪市の舞台芸術総合センター計画のほうは、バブル崩壊によってもろくも頓挫してしまった。
第一級の専門家が作業部会に集い、長い時間、国内外の劇場を含む膨大な調査を実施し、数えきれないほどの頻度で3つの部会を重ねて検討を繰り返して練り上げた計画は、蜷川幸雄のプロデューサーだった中根公夫さんが「あの計画書をそのまま実現してくれたら、すばらしい施設になったんだけどね」と後に残念がるような計画だったが、市があてにしていた土地の手当て、高層ビルを建ててその保留床の活用を資金源にする、という考えが、バブル崩壊でまさに絵に描いた餅になってしまったために全部無に帰してしまった。
施設内容や機能、運営計画などの立案を委ねられた私たちも、それらを実現するための土地や資金源など、インフラ部分に関してはまったく蚊帳の外で、そちらの計画が駄目になってもこちら、という選択肢が全く与えられなかったために、もう基本計画、実施計画という決定した立地を前提とする具体的な建築計画を含む計画段階へ踏み込む直前まで来ていて、インフラ計画もろとも私たちの計画もすべてが潰えてしまった。
大阪市の計画は、ハードウェアを中心に表現すれば、基礎調査→基本構想→基本計画→基本設計→実施設計→建設工事へ、というオーソドックスな段階を踏んで進められてきた。しかし、私たちが携わってきた基本計画までの段階は、ソフト、ハードいずれにせよ、単年度で区切られ、いちいち毎年春の議会でその予算を承認されてはじめて実際に動き出すことのできる作業で、数年後のオープンを見越して次第に高度かつ複雑になる実践的な試みを通じて既存の舞台芸術関係者やその組織との関係を深め、内部に開館後の活動の雛型を育て、内部に経験とノウハウを蓄積していくような、次第に急上昇カーブを描く継続的な事業を進めるためには、恐ろしく不自由な、制約の多い枠組みに縛られていた。
開館前から、開館後に予定される事業をプレ事業として小規模な形で実施し、経験を積み、人材ネットワークを形成し、開館後の活動へと円滑につなげていくような作業が是非とも必要だった。そのために数年にわたって、ワークショップを実施し、その最終段階では、ワークショップから実際の公演へ、という試みも実現した。
そこまで用意周到に進めてきた計画だったが、計画はあくまでも計画にすぎない。私たちも、中軸になってこの計画を作ってきたプロデュ-サーをはじめとする専門家たちも、市役所の職員ではない。市役所の内部には、この計画を最初から最後まで自分が背負い、自分がやりとげる、という人は一人もいない。単にその年々に配置された部署で、この事業を手掛けていたから関わっただけで、どんなに熱心に取り組んでくれる職員であっても、2年なり3年が過ぎれば他の部局に異動で去ってしまう。
計画は私たち外部の人間が作った計画書の中にだけあり、市役所のどこにも残らない。準備室も無ければ、専任でこれに当たる職員もおらず、この事業に特化した基金も財団もない。予定していた土地の手当てが困難になり、財政難となれば、「まだ引き返せる」計画段階に過ぎないこの種のハコモノ計画ほど切り捨てやすいものはない。いったん施設建設段階に足を踏み入れて虎の尾を踏めば、先には何十億、何百億もの経費負担が待っているのだから、計画段階のうちにきれいさっぱり切り捨てておくのが行政にとっては安全だ。
兵庫県と大阪市の、都市文化を代表するはずの中核劇場計画は、こんなふうにしてその命運が分かれてしまった。
山崎さんと最後に直接二人きりで会ったのは、私が大阪市の舞台芸術センター計画の方の仕事で、山崎さんにヒアリングをさせてもらったときだったと思う。彼は快く応じてくれて、たしか阪大のキャンパスだったか、学生食堂の一角で会ってくれて、昼食を食べながらヒアリングした。
彼は開口一番「あなたも素人じゃないんだから、一から説明するようなことはしないからね」と前置きして、私の質問にテキパキとツボを押さえた答え方をしてくれて、昼食を食べ終わると、授業だったか、急いでいたようで、じゃこれで、とトレイを持って立ち去った。
彼に対するヒアリングのメモは今も手元にある。ほかのどんな有識者、ヒアリングに対するヒアリングよりもコンパクトに聞きたかったことが聞けているな、と今読んでも思う。もちろん山崎さんの頭の中に確固とした考えが良く整理された形であり、論理的で明晰な話法でそれを語ってくれたからだ。
兵庫県の芸術文化センターは兵庫現代芸術劇場という名称で呼ばれていた。その名の通り、演劇を中心とすることははっきりしている、と山崎さんは言っていた。オペラは自らもその委員をしている第二国立劇場をあてにしている、と言い、半分くらいは貸館になるだろうしね、とその辺も現実的な認識だった。
兵庫の劇場ではもっぱら彼自身が劇作家でもあり演出家でもある演劇を主軸に運営していく。どんなレパートリーを持ち得るか、企画が勝負になる、と最初に強い意欲を語った。最初の半年くらいは客席を満杯にしてやろうと思っているんだけどね、と。
山崎さんはかねて「国民演劇」ということを言っていた。階層化された偏った観客ではなく、老若男女各界各層の多様な国民がそれぞれに楽しむことのできる演劇をめざすという。そのためには、プロデューサーの人材が極めて重要で、これは人材を固定せずに契約で来てもらうと、その辺は大阪で私たちが考えていることと認識が一致していた。
ローカリズムに関して否定的なのも同様で、プロデューサーは現実にはほとんど東京から呼ぶことになるだろうし、そんなところで兵庫出身者や県内で活動する人かどうかなんてことは一切考慮しない、むしろここへ来ればいい条件でいい仕事がしてもらえる、という活動拠点を目指している、と言われたのも大阪市での私たちの計画の理念そのままだった。
将来的には「新鋭作家劇場」のようなものも作りたいが、それはまず全国的に勝負してからの話で、はじめから大阪出身者を育てようというような発想はまったくない、と言い切った。
欧米流のレジデンスとしての専属劇団を持たない、ということについても山崎さんの考え方ははっきりしていた。いまそんなものを作っても、二流どころの人材しか集まってこない、というのが第一の理由だった。また、第二の理由として、人事のやりくりが大変だ、と語っていた。
こうした劇場の組織の在り方、運営の基本について、山崎さんの頭の中には非常に明瞭なヴィジョンがあり、こちらが問えば打てば響くように確定的な答が返って来た。
自身の「世阿弥」が新神戸オリエンタル劇場で25日間の公演を打つことができたこと、蜷川幸雄はたしか60日の公演を打ったことを例に、従来神戸では3~4日間の公演が普通だったが、いまでは1カ月公演が打てるようになった。優れた企画なら観客は集まるし、観客は劇場が作るものだ、というのが彼の考えで、優れた企画を打ち続けることで「国民演劇」の厚い観客層を作り出していくのだ、という彼の強い意志が垣間見えるようだった。
劇場の観客誘引圏として、東は京都、西は岡山、四国の北半分を考えているという。
兵庫で演劇を主体とする劇場をつくる必然性について、宝塚歌劇、演劇科のある高校、淡路の人形劇、三田の能、尼崎のピッコロシアターなど、県内のあれこれのシーズを挙げて見せはしたが、関西の人口集積から考えれば、京都や大阪も舞台芸術で行こう、と考えても不思議ではないので、そうお考えになっても差し支えないと思う、と。ただ、問題は誰がやるかだ、と山崎さんは言う。製作と簡単に言うけれども、製作にどれほどのノウハウが要るか・・・と。
大阪で小松左京さんに親委員会の委員長、従ってその事業全体のディレクターをお願いしている、ということはもちろん彼も良く知っていて、そのことについては、小松さんが委員長をしているなら、彼が芸術監督をやってもいいのではないか。私の場合は当面自分の作品を舞台へ上げることにはなるが、芸術監督は自らが製作するのでなくても、見識を持った人であればよい、と。そういう山崎さんの「芸術監督」は、私たちが大阪市で考えていた「ゼネラル・プロデューサー」に近いように思えた。
兵庫県の劇場計画では、山崎さんが芸術監督として、その方向を定めていくことになっていたわけだが、自分は県からは一銭の給料ももらっているわけではない。自分が大学も執筆活動もやめて専任の芸術監督になれるだけの予算は県では出せない。製作費も県は三分の一。あとは入場料収入、寄付・投資で、私が自分で集めてくる。失敗すれば家を手放さなければならないかもしれない。無給でリスクを負い、責任を負う代わりにいつでもやめられるのは強みで、入場料の設定まで含めて県に口出しはさせない。県が積んだ80億円からすべての事業費が出せるわけではなく、それは赤字ヘッジにすぎない。そもそもミュンヘンの劇場などでは1年間で使って捨てる金が80億円ほどあって、ボックスオフィスの収入など15%程度に過ぎない。あとは役所が口は出さずにそれだけの金を出している、と。
現実の仕事としては県から一種の進行表を与えられて、今年度はいくらという事業費を割り当てられ、「ひょうご舞台芸術」の事業についてだけ任されている、とのことだったが、この現代芸術劇場の行方については、自分がその基礎を築いてきた、という自負と意欲が強く感じられた。
その後、兵庫県現代芸術劇場は無事開館し、それ以前から続けてきた公演を連続的に打ち出して話題を呼んでいた。私は大阪市の計画の方に手いっぱいで、彼の成し遂げた結果を確かめに行く機会もないままに月日が流れた。あのヒアリングを最後に山崎さんに会う機会もなかった。ただ、それから随分月日を経てのちのことだが、この兵庫県の劇場がネットを使った無料の会員制度で、常に予約で満席になるほどの集客力を見せ、全国の劇場のモデルケースのようになっていることは、一度関係学会の見学会兼講演会で劇場を訪れた折に、劇場のスタッフから聴いて、本当に成功してよかったなと安堵した。
また、ごく最近のことだが、2年ほど前に出た彼の近著『リズムの哲学ノート』を書店で見つけて購入し、久しぶりに彼の著作を手にとった。少し前に雑誌か新聞に載った写真で山崎さんの近影に接して、ああもうずいぶんご高齢になられたな、と感じていたが、その本をぱらぱらとめくっていて、まだまだ衰えない知的な探求心の気迫に、おぅ、山崎さんもまだまだ若いなぁ、といった感想を持ち、そのときあらためて、ちょっと皮肉っぽい笑みを浮かべて自信満々に「政府広報はお上の高札である」という決め台詞を吐く彼を思い出した。
どうやらこの書物は、鷲田清一さんの『「ぐずぐず」の理由』オノオノマトペを論じた文章にみられるリズム論に触発されながら、ベルグソンやメルロ=ポンティをはじめもろもろの哲学者、思想家たちを経てリズムの本質を手にしようと取り組んだ「積年の思索の集大成にして、真の知的冒険の書」(本の帯のキャッチコピー)らしい。
私にも関心のない領域ではないので、読もう読もうと思いながら日を過ごしているうちに、著者の訃報に接することになった。つい先ごろ、8月19日のことだ。86歳であったそうだ。その後新聞に幾つかの追悼記事と、鷲田清一さんの心のこもった追悼文が載った。
改めてご冥福を祈りながら、彼の残した著作を開いてみたいと思う。
2020年09月20日
スナップショット 23 朝倉摂さん
私が舞台美術家で画家の朝倉摂さんに会ったのはただ一度、ほんの小一時間ほどのことだ。大阪市の舞台芸術総合センター構想の基礎調査を進める中で、日本の舞台美術家の草分けとして実績を積み、その世界でかけがえのない存在として尊敬を集めていたが、なお現場に立ちつづけているバリバリの現役だったと思う。
私たちの計画は単に上演施設をつくるというものではなく、ここに世界とりわけアジアの実演芸術を志す人々が集い、ここで優れた作品を創造し、世界に発信していく拠点となることを遠望しつつ、役者や演出家、プロデューサーは言うまでもなく、舞台美術も含む実演芸術の創造を支える様々な裏方のスタッフをも実践的な舞台の製作過程で育てていこうという長期的視点での人材育成を大きな柱のひとつとする計画だった。
そうした観点から、日本を代表する舞台美術家としての朝倉さんに、舞台美術はもちろんのこと、広く日本の舞台芸術とこれをとりまく環境について、ぜひ意見を聞いておきたいと考えて、ヒアリングを申し入れ、快く受けてもらうことができたのだ。
手元に全く記録がなく、そろそろボケ始めた私の記憶だけで書いているので確かとは言えないが、私たちがそうした調査をしていた時期から考えて、おそらく平成4,5年のことだっただろう。だとすれば、1922年生まれという朝倉さんは還暦にもう少しで手が届く年齢だったことになる。
私たちの一行はたしか計画の具体化を中心になって進めていた総合プロデューサーや、市の担当職員、それに市から委託を受けて事務局のお手伝いとしてプロデューサーと密接に協議しながらこのプロジェクト全体の作業の受け皿になっていた私の当時の勤務先シンクタンクのメンバーとして、私のほかにN君が同席していた。
一般にはこの種の有識者、専門家へのヒアリングは、委託された私たちの事務所のスタッフだけで実施し、その記録をまとめてプロデューサーや作業チームの委員たち、あるいは市の担当職員に報告し、情報共有するという形をとっていたが、私の記憶違いでなければ、東京まで行かなくてはならないのに、私たちはプロデューサーを筆頭に5,6人で押しかけたのではなかったかと思う。
それは一つには朝倉さんがこの分野で代わることのできる人がいない、かけがえのない逸材であったこと、それゆえプロデューサーも市の担当職員も日本の舞台芸術を取り巻く状況を朝倉さんがどう見ているかを知りたがった、というふうなことがあったのだと思う。
朝倉さんが舞台美術の仕事をした蜷川幸雄の「近松心中物語」や市川猿之助の「ヤマトタケル」は私も見てその華麗な舞台に心動かされる経験はしていたが、もとよりごく普通の観客の一人として見ていただけで、朝倉さんの仕事と意識してその舞台美術を見たわけではなく、彼女の仕事自体を知ってヒアリングの場に臨んだわけでもなんでもなかった。だから私が記憶しているのは、ただただ一度きりのヒアリングの場での、ほんの一瞬の印象にすぎない。
記憶力の乏しいことでは自信がある私(笑)は、あの時彼女がどんなことを話したか、という肝心の点については、まるで覚えていない。残念ながらその後転職もして身近な資料類を始末してしまったこともあって、30年近く前の記録も残ってはいない。
それでも朝倉さんに会った時の印象で、とても鮮やかに覚えていることが、ひとつだけある。それを語るためには、うんと遠回りして、彼女とは縁もゆかりもない一人の人物について書かなくてはならない。
その人物は、そのころ私が勤務していたシンクタンクで、当初アルバイトしていて、のちに研究員、主任研究員として、しばしば私とも同じプロジェクトをこなしてきた同僚で、大阪市の舞台芸術総合センター計画では、私の部下として中心的な役割を果たしてくれた人物だ。仮にA君としておこう。氏名のイニシャルではなく単なる記号だ。
なぜ彼にこのプロジェクトの作業を担わせようとしたかと言えば、彼が大学で建築を専攻し、また個人的に舞台芸術に関心が高く、全国に残る歌舞伎小屋をすべて実地に訪ねてその施設を調査し、ウェブサイトできちんとした紹介をしたり、友人の邦楽演奏家とのコラボで小規模な実演イベントを開いたりもし、建築にも伝統芸能、舞台芸術全般についても造詣が深かったからだ。
建築を学んだという人間は周囲にいくらでもいたし、舞台芸術に詳しい人間もほかにプロフェッショナルなダンスのプロデュースをしたり、セミプロ程度のピアニストがいたり、文化を専門とするシンクタンクだった勤め先には、長期アルバイターの形でそうした豊富な人材がいた。
しかし、芸能なり舞台芸術なりと建築の両方が分かる、という人はそうはいない。私たちの周辺ではA君がその貴重な人材だった。
ところがこのA君は、ごく一般的な企業人としては、甚だ問題の多い人物だった。おそらく大学を卒業後も一般的な企業に勤めた経験がなく、アルバイトでもして生計を立てていたか、実家に居候して生活していたかで、およそ社会化されていない。
そういう人は時々あるものだが、彼の場合はそれが極端だった。おそらく彼は長く手指の爪を切ったことがなかっただろう。歯も磨いたことがなかっただろう。彼の指はタバコを手放したことがなく、その手も、ニッと笑った時にむき出しになる歯も、タバコの脂(やに)で黄褐色に濃く染まっていた。およそ服装に気を遣う風はなかったし、幾日も着替えないのか、白かったはずのカッターシャツの襟が真っ黒なのが一目でわかる。
会社の従業員の大部分は女性だったが、彼女たちは差別意識もない知的でおしゃれな現代風の若い女性たちばかりであったけれども、このA君の存在そのものに戸惑いを隠せない様子であることも、私たち4人の上司(取締役)にはよくわかっていた。
彼は性格的には素直で、やさしいところがあったが、体つきや風采はどちらかと言えばいかつい印象で、生活上の不摂生もあってか若いのにおなかが出て、早すぎる中年太りと言った感を免れず、皮膚の吹き出物や肌荒れなど、どこか不健康な印象もあった。
おまけに彼は私たちと対話したり、電話に出たときに、相槌をうつのに、「はい」の代わりに「うん」とか「ふん」というのが癖になってしまっているようで、その性格に似ず、対話の相手にとっては、おそろしく横柄な態度にみえてしまう。
いや、彼が得意な芸能や舞台芸術の話になった場合は、自分の見解に対する思い込みが強く頑固で、疑問を呈する相手には、実際に相当横柄な態度をとるときもあった。
滋賀県でびわ湖ホールの広報戦略に関して某広告代理店を通してわが社に声がかかり、このホールをつくるときに基本構想、計画を作成した経験を買われて、受注のためのプロポーザルコンペに参加していた代理店のために、企画案を書き、それに関して県の担当者と打ち合わせをしてきてくれ、ということになった。
私はA君を伴って出かけたが、その打ち合わせの中で、県がオペラに力を入れようとしている、という説明があって、日本のオペラの状況や県立のホールでオペラに関して何ができるか、という話になったときに、ローカルなアーチストが自分の利害を前に押し出して、その活動の場を要求して、そういうことばかりに使われれば、せっかく県民に一流の舞台芸術を提供しようという目的で作られた第一級の施設が泣く、というようなことを言い、おそらくは地元の音楽家などを中心に地域の音楽文化を育てていこうと考えていた県の職員を、「地域のアーチストを中心に活動することのどこが悪い?」と反発させ、憤慨させてしまった。
同時に彼は、日本を代表するオペラの演出家某のことを口をきわめて腐し、日本のオペラと言ったってあんな人が牛耳っているレベルですからね、と馬鹿にして見せるような態度をみせたものだから、こいつはいったい何様のつもりだ!と思われただろう。もちろんわが社の関わっていた広告代理店には発注のあるはずもなかった(笑)
彼には彼の一定の評価軸とそれなりの見識があって、自分が評価する物や人に対しては素直に手放しで高い評価を与えているが、そうでないものには極めて手厳しい。
私にはその評価は極端で、偏っているとは思えたけれども、それほど的を外したものではない、とも思っていた。ローカルなアーチストが行政に圧力をかけて公共施設をすっかり自分たちに都合のよい活動の場にしてしまう、というのは、私がいくらか関わってきた美術館で言えば、北海道立近代美術館ができたときに、そこを本来的なミュージアムとしての機能を持ち、普遍性を持った活動をしようとする学芸員たちに対して、地元の美術作家たちが自分たちの作品の発表の場としてのギャラリー機能を要求して対立したのが典型的な事例として知られている。
市民の為に、本来的な美術館なり劇場なりの機能を持ち、地域の文化振興をはかっていこうというオーソドックスな立場と、自らの私的な利害に足場をもって、その活動の場を公共施設に要求する「地元作家」「地元実演家」等々との思惑の行き違いは、各地で見られるものだ。
どちらがまともかは分かり切ったことなのだが、行政が地元では有力なアーチストたちのプレッシャーをきちんと跳ね返すことができないために、しばしば「ミュージアムかギャラリーか」「劇場か多目的ホールか」というような不毛な議論が繰り返されてきた。
A君の主張の趣旨は私にはよくわかったけれど、県の担当者には、地方的な文化を馬鹿にした口舌としか思えなかったのだろう。
相手がどう受け取り、周囲が自分をどう見ているか、ということに彼がおそろしく鈍感だったことは否めないだろう。分かっていてあえて無視していたのかもしれないし、そんなことは重要ではない、と考えていたのかもしれない。
彼には私が見るところ、そうした私的な事柄に属する欠点に目をつぶれば、多くの長所があった。その最たるものは、新しいアイディアを思いつく、クリエイティブなところがあることだ。例えば会議を開くと、極端な言い方をすれば、ほかの研究員たちがようやく一つ二つアイディアを絞りだす間に、彼はたちまち5つ、6つのアイディアが出せる。これはシンクタンクにとってかけがえのない才能だ。
シンクタンクというのは何の資産も持たない、ほかに何の武器もない、ただ人だけが資産であり、その創造的なアイディアだけが本来の武器だ。何年も何十年も一つのことを考え、経験を積んできたような企業の人やお役人を前にして、彼らに思いもよらない発想、新鮮な視角から、まったく新しい課題解決の方途を見出し、筋道をつけて展開し、提案してみせる、そこにシンクタンクの理想像がある。
現実には、そうは言っても、同じ人間のことだ。そうそう目をむくような新しいアイディアをいくつも思いつけるわけではない。
課題を与えられれば、基本的なその分野の知識を即席で身に着けるべく文献を読み、その分野の専門家を訪ねて意見を聞き、それらを踏まえて内部で幾度もブレーンストーミングのような会議を開いて、なんとかクライアントの要求にこたえようとする。
しかし、そのもっとも重要なアイディア会議でも、そうそう新しい提案を出せるメンバーはいない。そんな場では、文字通り「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」で、良い意見を一つ出そうとする人よりも、殆どはつまらない意見であっても、とにかく100個の意見が言えるような人が必要だ。
そのころのわが社には、おそらく長期アルバイトも含めて二十数人から三十人近くのスタッフがいたと思うが、その中で「下手な鉄砲」でも2,3時間の会議の中で100発撃てるような者はA君以外にはなかった。
しかし、たぶんその100発のうち、99発までは外れだったかもしれない。だから、彼が何か発言すると、会議の参加者の多くが「またか・・・」という、いくぶんうんざりした表情を見せ、彼の「下手な鉄砲」を聴くと、「そんなこと実現できるわけないじゃないか」「クライアントがそんな提案受けるはずがないでしょう」と、鼻で笑ってやり過ごすか、無視することが多く、ほとんど相手にされないことが多かった。
実際くだらない提案が多かったのも事実だと思う(笑)。けれども、私が見るところ、その中にわずかに、ひょっとすると磨けば玉になるかも…と私には思えるような提案もあった。それを拾い上げるのが私たち「下手な鉄砲」も打てない者の仕事だと思って、私はできるだけ拾い上げたいと思い、特に舞台芸術関係の仕事では、彼のそういう原石のようなアイディアをいくつも活用させてもらった。
構想書や報告書を書く場合も同様で、彼の出したアイディアについては、自分でまとめてくれ、と指示することが多い。彼がなんとか書きあげた原稿をもってくる。ところがそれはたいてい日本語としてまともに読める文章になっておらず、意味不明な部分が少なくない。大幅に書き直さなくてはならないことが多いのだが、核になるアイディアは優れているので、きちんと表現すれば、とてもよい提案に仕上がることも少なくなかった。
彼にクライアントのところへ説明に行ってもらう場合は、かなりリスクがあった。人を見かけで判断してはいけない、と言い、人はみかけによらない、とはよく言われることだが、一般にはそうは言っても、見かけがひどいと、ついこいつはいい加減なやつだと判断し、信用できないように思ったり、最初から侮るような態度になりがちなものだ。
不幸にしてA君はまともなお役人たちからみれば、まさにそういう人物に見えたに違いない。また、彼が私を通さずに持って行ったレポートなど受け取った担当者からは、彼がお役所を出てから私に直接電話がかかり、ちょっとこれでは困る、あんたがちゃんと見てやってくれないと困るじゃないか、と言われることが一度ならずあった。
彼を非正規職員の身分から、主任研究員として正規職員にするときには、まったく異例なことだったが、取締役4人で面談して、正規雇用の条件として、毎朝顔を洗い、歯を磨くこと、長い爪を切り、ひげをそり、清潔を心掛けること。わが社は背広もネクタイも普段着用の必要がなくどんな服装をしてもよいが、清潔な身なりをすること。人と喋る時、電話に出る時、うん、うん、ふん、ふん、という返事はやめて、はい、と返事をし、丁寧な受け応えをすること、等々、幼稚園児や低学年の小学生に言うようなことを滾々と言って聞かせた。
ふつうに企業にやとわれようという、いい歳をした大人なら、バカにするな、と怒り出すところだが、彼は素直に「ふん、ふん」と(笑)相槌を打ちながら聴いていた。「ふん、じゃないだろ!」などと叱りつけながら、とにもかくにも彼は私の片腕になった。
おそらく取締役のうち若い2人は、彼と歳が近かったせいもあるだろうが、彼に対しては手厳しかった。私も自分の直接の部下としてよく仕事場でみなのいるところで叱りつけた。彼には感情的に反発して抗ったり、つむじを曲げたり、逃避したりといったことはなく、私の見る限り根は素直で、こちらの言うことに一理あるなら、どんなに怒鳴られても冷静に受け止めて、彼なりに直せるところは直すようなところがあった。だから私も遠慮せずに叱るべきところは大声で叱った。
しかし、そういう場をたびたび見てきたほかの若い女性研究員の一人などは、後日、彼が叱られる様子を見て、私の部下でなくてよかった、怖かった、と述懐していたことがある。私も結構厳しかったのだろう。
しかし、おそらく取締役4人の中で、Aのことを最も高く評価していたのは私だったのではないかと思う。
ある時、大阪市の担当者と、私を支えてくれていたもう一人の女性研究員Bと三人で仕事の打ち合わせの時にお喋りしていて、担当者がその場にはいないA君の仕事ぶりを否定的に評価していうので、私が、確かにそういう面はあるけれども、彼にはこういう優れた面があって、欠点を埋め合わせるだけの能力をもっているんだ、ということを、もちろんわが社のスタッフに対する否定的な心証を和らげようという意図はあったろうけれど、一所懸命説いていたら、
彼は、「いやぁA君は幸せな男やと思うわ。言うたらなんやけど、わしにはそれほどとはとても思えん。だけど、こんなに庇ってくれる上司を持つというのは、彼にも、そらええとこがあるんやろな。それをちゃんと見てくれる人がおるのは幸せなことや」と言った。
そばで聞いていた女性研究員Bは、いつも私の目の前でA君と仕事のことで正面衝突して、A君の仕事ぶりに苛立つことの多い人だったけれど、その時は笑って、「ほんとにそうですよねぇ」と市の担当者の、私がA君のことをかばってそう言っているのだろうという見解に同意するようなことを言った。
しかし、私は別段A君をかばって誇張していたわけではなく、直接彼を褒め上げるようなことはついぞなかったけれど、内心では彼を高く評価していた。
私は建築も学んだことはないし、芸能にも舞台芸術についてもとくに詳しかったわけではない。だからそういう知識や技術の面でA君や一緒に仕事をした女性研究員Bの知識、経験に負うところがとても大きかった。それだけではなくて、ことにA君に関しては先に述べたように、その発想力をとても高く評価していた。その点では女性研究員Bはずいぶん手厳しくて、同じように舞台芸術に関して豊富な経験も持ち、一家言あった彼女は、A君の芸能、舞台芸術に関する考え方、評価の仕方といったものに信を置いていないようだった。それは逆もまた同様だったので、二人はいつも私の面前でぶつかり、私を困惑させることもしばしばだった。
彼女が手厳しく批判するA君の仕事ぶりは、たしかに約束の期限を平気で遅れたり、出されるアイディアが粗削りで裏付けもなく乱暴な思い付きに過ぎなく見えたり、クライアントに対する説得力を明らかに欠くようなものであったりした。
だから女性研究員の批難にはいつも一理あって、小会議の席などではいつもつい彼女の側に立ってA君を叱る結果になりがちだった。しかし彼の出してくるアイディアの中には磨かれない原石のようなものがあることには気づいていた。そこが女性研究員Bにはうまく見えていないな、と思うこともたびたびだった。
こういうA君の本領が最もよく発揮されたのは、制約条件なしに自由にアイディア出しを競い合うブレーンストーミングにおいてだった。
あるときユングの性格類型を論じた本だったと思うが、読んでいたら、「循環性気質」について述べたところがあって、それはまさにA君にぴったりじゃないか、と思った覚えがある。なにか裏付けをもった確実なアイディアを温め、慎重に磨いて提案するようなタイプではなく、短時間に次々と脈絡なく新しいアイディアをポンポン思いつくようなのは、「循環性気質」という気質の問題なんだ、とそのときに思ったものだ。
そういう目で見ると、当時のわが社には彼以外に「循環性気質」らしい人物は見当たらなかった。けれども少し広げて身の回りを見渡すと、そんな人は他にもごく少数だがいるように思えた。
それは、同じこのシンクタンクに以前勤めていて、早いうちに大学教員に転じていた高田公理、そして時々委員会などの委員として協力してもらっていた若手の有識者の中では、やはり大学の教員をしていた藤本憲一といった人だ。ひょっとすると舞台芸術総合センターのプロジェクトで総合プロデューサーをしていた林信夫さんもそういう人だったかもしれない。
彼らに共通するところは、まず頭の回転が恐ろしく速いという印象だ。人の話を理解する速度が非常に早くて、打てば響くように返ってくる。咄嗟に帰ってくる言葉がまた一ひねりしてあって、気が利いている。
そして、知恵出しの会議ともなれば、こちらが一つ二つようやくアイディアらしきものをひねり出すころには、すでに五つ六つ、いやときには十も二十も矢継ぎ早に独創的なアイディアを放っている。
もちろんその多くは、「先生、それはないでしょう・・・(笑)」と周囲に居る私たち凡人が、現実味がないとか、荒唐無稽だとか感じるような<ハズレ>かもしれないが、予想もしないような視角から放たれた斬新なアイディアも少数ながら含まれていることが少なくはない。
ふつう、こういう人のことを「頭がいい」というのだろうけれど、それにひきかえこちらは「頭が悪い」のだな、と納得してしまったのでは身も蓋もないから(笑)、ユングを読んで以来、私はあれは「循環性気質」のせいなんだ、と思うことにしている。
もちろん、ブレストで少数の意見しか出さないけれど、じっくりと考えて素晴らしいアイディアを紡ぎ出す人は少なくないし、あの種の「頭の良さ」だけが、「頭の良さ」の唯一のありようだとは思わないけれども、やっぱり大勢あつまって知恵出しをしよう、という風な場合には、あの「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」式のアイディア100連発というのは、何と言っても貴重なものだ。
ではどこが高田公理、藤本憲一、林信夫のような人とわがA君との違いかと言えば、A君がそんな場合に本当に「下手な鉄砲」をみんなの前で100発全部ぶっぱなしてしまうのに対して、前三者は自分の内部で100発放ちながら、いったん自分の内部にフィードバックして他者的な目でフィルターにかけて、口にするのはマシな10発くらいにしておこう、ということができる人だ、ということではないかと思う。それでも人の数倍くらいは弾数が多い。
A君の場合は100発撃ち切ってしまうために、当たり弾まで、圧倒的な外れ弾に隠れて、ほかの人には見えなくなってしまう。外れ弾はとんでもないところへ飛んでいくので、みんなに笑われ、バカにされさえする。
しかし、私は彼のそういう稀有な才能が内心、とても好きだった。彼の日本語として読めない報告を読み、それを普通の日本語に直しながら、彼のアイディアの確かさ、新鮮さに舌を巻くことも何度かあった。彼の古典芸能に対する愛着も、彼なりの見識も、私には傾聴すべきプロフェッショナルな、年季の入ったものに思えた。
不幸なことに、私たちのシンクタンクに日ごろ協力してくれていた先のお三方のような私と同世代の優れた有識者たちは、必ずしもA君が自分たちと同じ「循環性気質」の「似たもの同士」だとは認めてくれなかったようだ。
のちに、そのいくつかはすでに私がこのシンクタンクを止めてからのことだが、A君が主担当として彼ら有識者の知恵を借りたり会議に出てもらったりするようなプロジェクトでお世話をするようになり、その折に、間接的に聞こえてきたのは、彼らがそれぞれ、A君の非常識で、横柄・無礼な程度に立腹している、というような噂が聴こえてきた。彼のことは自分が職を辞してからも気にかかっていたが、残念ながら彼の中の原石はついに磨かれないままに終わったのかもしれないな、とそんなときとても残念な気がした。
さて、ようやく朝倉摂さんのスナップショットが撮れるところまでやってきた(笑)。
事務所の小さな会議室のようなところで一方方向に向いて坐った私たちと向き合い、一人机の前に坐った朝倉さんは、一目で現役の仕事人であることが分かる、余計なものを一切そぎ取ったような、凛とした気配を感じさせた。
薄い色を帯びたサングラスをかけていただろうか。ふくよかでもなく、痩せぎすでもなく、こうしてじっと座って私たちのような人間と対面しているよりも、舞台の作業現場でバリバリと職人仲間と立ち働いている姿が似合いそうな一種<精悍な>印象を受けた。
それから小一時間、彼女は忙しい仕事の合間を縫って、私たちのヒアリングに応じてくれた。記憶喪失のごとくなにも覚えていない自分がはがゆいが、その内容については仕方がない。しかし、私が記憶する唯一のことは、私たちのヒアリングが少し進むにつれて、朝倉さんが私たちの中にいたA君にだけ向けて語ることが次第に多くなっていったことだ。
市の担当者や私は言うまでもなく、プロデューサーも(その場に居たという記憶が定かではないので、もし居たとしても、ということだけれど)もともと文化情報誌の編集等の経験を積んだ人ではあっても、舞台芸術そのものの芸人や職人たちの一人であったわけではないし、実際の舞台の演出や技術面を担当してきた人でもないので、芝居の裏方の技術的なことなどには疎い。それを一番良く知っているのは、いささかでもそうした現場を踏んできた経験のあるA君だった。
したがって、私たちが様々な質問をする中でも、A君の質問が最も朝倉さんの得意とする現場の技に一歩も二歩も踏み込んだものであったろうことは想像に難くない。おそらく、2,3の質問を受けるうちに、朝倉さんは、たちどころに、この中で一番舞台芸術の現場のことがよくわかっているのはA君だ、ということを見抜いたに違いない。
それからの朝倉さんの姿勢は気持ちがよいくらいはっきりしていて、徹底していた。その場にいる「その他大勢」は、その社会的立場やこのプロジェクトの内部での上下関係など一切かかわりなく、文字通り「その他大勢」であって、彼女が語り合うべきはA君ひとりなのだった。
そうかといって、別段彼女がほかの者からの質問に答えなかったわけでもなければ、じゃけんにあしらったわけでもない。しかし、彼女はあきらかにA君の問い掛けに、それを待っていた人のように喜々として身を乗り出すようにして応え、ちゃんと自分の言うことが分かる人間がここにいる、と安心している人の表情を見せていた。いや、すくなくとも私にははっきりとそれが感じられた。
私は仕事の必要上、様々な分野の文化関係のプロフェッショナルにヒアリングしてきた。大学の研究者はもちろんのこと、音楽家、演劇人、美術作家、音楽や演劇、美術等の評論家、芸術関係の教育者、劇場やホールの館長或いは運営責任者、スタッフ、裏方の技術者、あらゆる種類の博物館の学芸員たち等々。
それぞれ業種、職種によって共通した特徴があるのも面白いが、とりわけ劇場の裏方、舞台演出家あるいは舞台機構や照明或いは音響、美術等に関わっているような人たちには、ある種の「村」的な閉ざされた仲間意識と幾分屈折したプロ意識を持った人が少なくないな、ということを、ほかの業種・職種の人たちと比べて感じることがあった。
それは舞台の裏方のような世界が、もともと演劇人口自体が少ないのだから、非常に狭い世界であるうえ、裏方という日の当たらない世界での仕事、しかもそれぞれ高度な技術、技能を必要とし、最近は機械化、コンピュータ化が進行してきたものの、少し前までは属人的な技術・技能の徒弟制度的な実践の場での継承以外に方途のない形で成り立ってきた世界であって、それを担ってきた余人に代えがたい職人たちの自負は非常に大きいし、互いの技や実績を評価しあえる同業者との仲間意識も強いのはごく自然なことだろう。
私たちのような即席のお勉強で仕入れた言葉でもって彼らに対峙しても、通り一遍の答えはしてくれても、ホンネでは容易に心を開いてくれるものではなく、こいつは何も知らんやつだな、と思われて適当にあしらわれるのがオチだ。
一度、まだ稼働して1年前後だった愛知県の計術文化センターの劇場にA君とヒアリングに行ったことがあったが、最初に対応してくれたのは見るからにお役人というタイプの課長さんみたいな役の人だった。いろいろ質問しても、痒いところに手がとどかない感じなのでA君が舞台のことを色々ことこまかに尋ねるとお手上げで、課長さんはそれは現場の人間に訊いてくれ、と舞台技術の責任者のような方を呼んでくれた。
こうなると課長にも私にもよくわからない言葉がとびかって、その技術部長のような方とA君の間で丁々発止の質疑が交わされ、ついに私たちが知りたかった、開館してから1年間に、この大劇場ご自慢の回り舞台つき四面舞台が実際にはどんな使われ方をしたのか、ということが、つるりと技術部長さんの口から洩れた。
この大ホールは、当時全国でも評判になった大舞台で、主舞台と同面積の側舞台が種舞台の両脇に、さらに後ろにも同じ面積の後ろ舞台を持つ完全な四面舞台で、回り舞台も備え、グランドオペラにも大歌舞伎にも完全に対応できるという触れ込みで、完成時に見学したときは、無人の舞台にシャラシャラとすべて自動で吊り物を吊るバトンが天井から下りてきてまた上がり、舞台にしつらえられた数多くのセリがせり上がってはまた下り、平らになった床に今度は大道具、小道具を載せて運ぶワゴンがするすると伸び走る、そんな魔法か手品を見るようなビデオを見せられた覚えがあった。
ふつうヨーロッパのこの種の劇場で四面舞台というのは、あくまでもヨーロッパ固有のレパートリーシステムという制度、つまり劇場付きの劇団、オペラ団などを持っていて、その劇団が持つ数々の上演可能な演目、レパートリーから選ばれた幾つかを、そのシーズン中に日替わりで見せるために、あらかじめ大道具などを組み立てて、後ろ舞台や側舞台に組んでおき、一日の公演が終われば翌日はそれらの隠れていた建設済みの大道具などをワゴンで前へ出して翌日の公演を打つことができる、そういう仕組みを前提とし、そのためにつくられた施設スタイルであって、ある公演で主舞台だけでなく、側舞台も後ろ舞台も使って観客に見せるというような演出にこれらのスペースを使うことは、ごく例外的なことだ。
にもかかわらず、劇場専属の劇団も持たず、もちろん日替わりのレパートリーシステムによる公演などすべくもない日本で、なぜか「ヨーロッパのオペラ劇場のような」四面舞台がほしい、という首長が何人も現れて、おそらくはヨーロッパの劇場視察などしてオペラを見て感激したからだろうが、どうしても四面舞台を作れ、という困った人たちが出てきた。
こうして各地に四面舞台をもつ大劇場がいくつも建てられてきたのだが、名古屋のど真ん中につくられたこの劇場もその一つだった。あの四面舞台を実際にはどんなことに使っているんだろうかというのが、私たちの当時抱いた疑問だった。
技術の方は、あっさりとA君の問いに答えて、実は北島三郎の歌謡ショーを一度と、ある方の結婚披露宴に一度使われただけです、と言った。事務の方の課長さんは、ああぁ、言っちゃったよ、という感じで苦い表情をしておられたが(笑)、われわれはやっぱり、と思った。
このときも、私では技術屋さんの口からツルっと出た答えを引き出すことは難しかったかもしれない。おそらく彼とA君との間のそれまでのわずかな間ではあるけれども、「よくわかっている」者どうしの会話で或る種の信頼感が醸成されていたからこそ、正直に出てきた言葉だっただろうと思う。
私自身も美術館関係では、これに似た経験をした覚えがある。ミュージアム、特に美術系に関しては様々な角度から調査もし、学芸員にも作家にも鑑賞者の立場の人にも行政にも様々な角度から200人余のヒアリングをこなしたりする経験を積んできたので、日本の美術施設が抱える問題点は私の中に細部に至るまで捕捉されていた。
そのころになって或る政令指定都市の美術館の学芸員にヒアリングしたいと依頼状を送ったら、現場では4人くらいの各部門の学芸員が顔をそろえて対応してくれた。1時間少々、とお願いしていたが、私が知りたいことを調子に乗って次々に突っ込んで訊いていくと、彼らは私がかなり美術館の内情を良く知っていると分かったらしく、普通はオープンにしないような情報まで次々に明らかにして、一緒に問題点を含めて論じるような感じで、貴重な情報をもたらしてくれた。終わってみれば彼らの昼食の時間をはるかにはみ出して、3時間半を超えるような長時間を費やしていた。
或る程度属人的な技能に関わるようなところのある専門職と接していると、時々こういうことが起こる。その代わり逆に、こちらが実はあまり知らないことで委託をうけ、やむなくにわか勉強してヒアリングに行くときなどは、相手によっては非常に冷たくあしらわれることを覚悟しなくてはならないこともある。
朝倉さんは何も知らないわたしたちの問いに親切に答えてくれたが、短い時間でA君こそが自分が語るべき相手だと見抜き、はっきりと「彼に向けて」語っていた、というのが私の印象だった。
それは決して悪い気がしなかった。むしろ本当に朝倉さんは自分の仕事を愛し、その仕事に誇りをもっているのだなと、とても爽やかな印象を受けた。
還暦近いお歳だったはずだが、本当に現役バリバリで、これから現場へ直行して舞台背景を作るんだ、というふうな雰囲気を漂わせていた。
これほど一瞬の遭遇にすぎない出会いもないものだが、私にとっては非常に鮮やかな印象で記憶する数少ない人の一人だ。
2020年09月18日
スナップショット22 守屋毅さん
この「スナップショット」は、原則として、本来はいわゆる有名人だの文化人などというものに何の興味もない私などが近づくことも出遭うこともない著名人について、全く無名の「ただの人」である私が、仕事上の必要から、あるいはそれ以外の何らかの偶然で、ほとんど「ニアミス」と言ってよい形で一瞬の接触機会をもった人の、その一瞬の横顔といったものをミーハー的なアマチュアの俄かカメラマンがスマホでパチリと撮るように、文章でとらえてみたらどうだろう、という悪戯心に発して、雑文を書くことだけは若いころから好きだったので、思い出すまま、アトランダムに書きついできたものだ。
その原則から言えば、今回の守屋さんは、もう少し接触の期間に幅がある。私が行政の委託で文化施設の建設計画やそのための調査に関わっていた関係で、伝統的な文化、たとえば文楽、歌舞伎、能や、その歴史的な上演施設にも関心を持っていたため、『近世芸能興行史の研究』という彼の修士論文以来の研究テーマについての論文をまとめた著書や『京の芸能』などによって、彼が日本の芸能興行史の優れた研究者であることは知っていたし、『三都』や『元禄文化 遊芸・悪所・芝居』などでは狭い専門性を超えた視野を持った研究者であることも察しがついた。
今回この稿を書くにあたって、懐かしくなり、改めて大部な『近世芸能興行史の研究』をざっと最初から最後まで読み返して。その生き生きとした叙述に旧式な学者のお堅い論考などとは違った魅力を感じた。
その緒言で、彼は従来の芸能史研究が芸態論、環境論のいずれかの立場からなされてきたのに対して、自分は「芸能を政治・経済・風俗、ひいては社会的諸現象の一環としてとらえる」立場から、上演形態に着目し、「芸能が社会に対して果たす機能と、その機能を発揮するメカニズムを芸能上演の慣行・制度・組織を通じて解明」することによって、「社会一般の現象と芸能固有の環境とを接続する回路を見出そう」とした、と述べている。
芸能の上演形態に着目し、芸能の歴史を興行史の観点からとらえようという彼のもくろみは、従来のともすれば「芸能を社会の歴史動向と切り離していたずらに個別的・部分的実証の精緻さを競う傾向」からも、また「芸能に固有の問題を安易に歴史一般の問題に解消してしまう傾向」からも解き放たれ、芸能における近世を、芸能が興行というメカニズムの中で一種の商品として機能する時代とみなして、その具体的な時代と社会のうちに、芸態論と環境論とを結ぶ、動態的な芸能の像を描き出そうとしたものだった。そこに時代・社会と結びついた芸能のありようが生き生きと甦るような、「学者らしくない」彼の記述の魅力があるのだろう。
もとより単に文化施設、特にそのころ手掛けていた劇場のあり方に関心をもって彼の著作を拾い読みしていたにすぎない素人の私に、彼の研究者としての姿は、たとえ一瞬の横顔であっても的確にとらえるができないことは分かり切っている。
私は前掲の『近世芸能興行史の研究』、とりわけ第四章に収められた、元禄期の芝居に関する、非常に具体的なアイテム、例えば芝居の数と種類、規模、見物に関わる櫓や木戸、札場あるいは客席の様子、札銭(入場料)や役者の給金の金額、芝居を打つ座の人員、名代(興行権)の仕組みと座元(役者やスタッフを束ねる興行の責任者)、芝居主(上演の場である劇場の所有者)との関係等々をたくさん教えられた。
ほかの芸能史や劇場史の本を見ても、なかなか載っていないそれらのアイテムについて、守屋さんの著書では、まさにこちらが知りたいことについて、痒い所に手が届くとはこのことか、と思わせるほど的確な説明や数字が、学問的な証拠と合わせて記述されていた。
当時の私のように現実的な施設計画などに関わっている者にとっては、例えば計画中の施設を考える上で参考になりそうな海外の劇場の仕様はどうなのだろうか、それを使う劇団や運営組織の状況はどのようなものなのだろうか、といったことが知りたいのと同様、日本の歴史的な劇場の仕様がどうだったのか、これを使っていた組織である「座」の実態はどのようなものであったのか、施設なら間口、奥行き、タッパが何間何尺あったのか、座員は何人だったのか、給金はいくらだったのか、運営や権利関係は具体的にどうであったのか。また観客はどれくらい入っていたのか、木戸銭はいくらだったのか、そんなことを数値まで知りたい。
しかし、そういった数値のひとつひとつ、運営や権利関係にまつわる情報を入手することはおそろしく困難なことだ。海外の劇場や博物館では、各施設がインターネット上で基本的なことは施設の仕様から運営状況、財務迄全て公開するようになってから、まったく様子が一変したものの、それ以前は、大変な労力、時間、費用をかけて、実際に個々の施設を訪ねてヒアリングし、資料をもらって初めて一つの確かな数字がわかる、といったありさまだった。
実際、昭和52-53年(1977-1978)、私がそんな仕事をするシンクタンクに勤めて間もなく携わった文化庁の委託業務で、国内の美術館調査をやった折に、「ついでに」国内にある情報でよいから海外の主な美術館についても、延床面積や展示面積、スタッフ数や予算など「基本的な情報だけでも」調べて一覧表にしてくれ、と言われた。
そんな基本的な資料さえ文化庁は持っていないのか、と驚いたが、調査するうちにもっと驚いたのは、そんな情報はどうやらどこにもない(笑)ということに否応なく気づかされたことだった。
当時、美術行政や美術館では最先端をいく、と言わていたフランスの美術館に留学してあちらの最新式のシステムなど紹介するような本を書いていた専門家に、委託主の文化庁の口真似よろしく「ルーヴルやオルセー、ポンピドーなどの基本的なアイテムだけでいいですから教えてもらえませんか」などという依頼状を添えて、埋めてもらうための表を送ったところ、電話口でこう言われた。
「あなたね、こういう数字一つ得るために私など、お役所が予算を出してくれないから自費でフランスまで行って担当者に会って苦労して把握してくるんですよ。それをこんなアンケート表一枚送ってきて、記入してくれ、なんて、なんとまあ能天気でお気楽なことかと呆れてものが言えない。私のような専門家が何度こういうことを調査するために渡航するから旅費だけでも出せと要求してきたのに全く応じようともしない文化庁が、おたくみたいなところに調査に出して、まわりまわってこっちへ問い合わせがくるなんて、滑稽を通り越してあきれ果てた茶番ですよ!」
ごもっとも。全くこの時は一言も返す言葉がなかった。事実は彼の言うとおりであったからだ。彼はフランスの美術館に留学していたほどの人だから、いくらかは当然そうした情報を持っていただろうけれど、もちろん教えてはもらえなかったし、私も、自分が彼の立場ならそうすると思ったので、仕方がないと思った。
しかし、こちらも委託料をもらっての仕事だから、いくら「ついでに」と言われた付け足しの仕事でも、そのままあきらめて空欄だらけにしておくわけにはいかない。直接手紙を出して主だった海外の美術館に回答を求めたり、資料を求めたりして、なんとか表を埋めはしたが、資料というのもあてにならないことをいやというほど思い知らされた。
たとえば国立の美術館であれば、これを管轄する国の所管部局の出している資料の数値と、美術館連合のようなところが出している同じ美術館についてのデータと、さらに当の美術館自身が出している資料なり、回答なりの数値とが全部違う、というふうなことは、ごくありふれていた。同じ美術館の出してきた資料でも、資料により、また回答により違った数値が書かれていたりする。
これは、資料を作った当事者にその部分を指摘して、その内訳や根拠を問いただし、数値の意味するところを正確に追い詰めなければ決して解決しない矛盾で、翌年実際に行って担当者に確かめてはじめてある程度理解できるような数値だった。
日本の伝統的な劇場文化についても、素人なりに単行本になっているような文献は、或る程度あさってみたけれど、なかなかこちらが知りたいような情報は載っていない。もちろん研究者にとって必要な情報とこちらが求めるものとは違うので、仕方のない面はある。それでも、素人なりに素直に考えてみると、いくら専門家の関心がほかにあるからといっても、劇場について考察するなら、当然こういう基本的な情報は持っていて当然ではないか?というふうなアイテムというのはあるのではないか。
それが先に挙げたような、施設の細かな仕様であるとか、座の人数であるとか、役者の給金であるとか、見物客の規模や木戸銭の金額であるとか、一座の経営状態であるとか、そういった興行にまつわる当然のアイテムだ。
いくら関心が例えば初期の歌舞の上演から本格的な歌舞伎の公演のようなものへの芸能のアーティスティックな面での変化にあったとしても、また茶屋文化など周辺の都市文化の発展や観客層の社会階層的な研究であったとしても、劇場文化を核とするそれらのテーマについて考える上で、木戸銭がいくらだったと、座員の給金がいくらだったと、知らずにすむものだろうか?
あるいはまた、芝居が何時に始まり、何時におわり、その間に観客の入れ替えがあったのかなかったのか、観客数はどの程度で、興行主はどの程度もうけがあったのか、知らずに済むものだろうか?そんなことはあるまい。
けれども、そうした数値のひとつひとつは、おそらく確かな証拠を挙げて確定するには、大変な努力が必要であるに違いない。それは先に述べた私などが海外の美術館や劇場のアイテムを調査する場合と同様に、文献的な調査ではあっても、研究者としての長年の修練とそれによって身に着けた的確な方法、さらに長時間の労力をものともしない粘り強い探索が必要だろう。
だから、なのかどうか、私などが自分の必要に迫られてそうした関連の書物をひもといて多くの場合不満に感じるのは、先に述べたような、素人のごく普通の読書人なら、当然劇場のことがテーマなら、こういう基本的な事項は知っておきたいよね、というような情報が、必ずしも記載されていないことだ。
それは恐らく研究者の立場に立てば、自分の「専門領域」を少し外れることであったり、自分がまっしぐらに追究している当のテーマの解明にとって必ずしも直接に必要とされることではないと見なして、あえて触れない、というところはあるのかもしれない。
ひとつの確かな数値をつかむためにも多くの時間を必要とするなら、自分の当面の目標に絞り込んで、その余のことはできる限り触れずにすませたい、というのがホンネかもしれない。そうでなくても、自分で証拠調べまでしていない情報は不確かなものだから、揚げ足をとられたくはないのが学者だろう。
専門論文ならそれもいいだろう。しかし私たちが読むような一般向けの本でも、そんな不親切な(私たち普通の読者にとって)書物が少なくはない。
例えば源氏物語を読めばその物語にワクワクするだけではなく、この姫君が囲われていた邸宅というのは、どのくらいの広さがあったんだろう?などという疑問がわき、知りたくなるのは当然だろう。研究者も人間なら、そういうごく基本的な人間なら誰だって経験するはずの衣食住、どんな着物を着て、どんなものを食べ、どんな住まいに住んでいたのだろう?と想像してみるのは当然だ。
ところが、長い間、そういうことに対する研究者たちの感度は恐ろしく鈍かったと思う。もちろん近年はその種のテーマに正面から挑んで、源氏物語に登場するような貴族たちの衣食住を再現するのにそう不自由はないところまで来ているとは思うけれど、同様のことが近世の劇場文化についてはどうか、というようなことだ。
その点で、守屋さんの出した本には、私などがごく自然に思いつくような疑問に、よくぞ具体的に答えてくれた、と思うような数値や説明が的確に記述されていた。このような一人の人間としての素朴な「疑問」を失わずに、研究者としての活動のうちに繰り込んでいることが、彼の本を専門家でなくても楽しく、面白く読める魅力的なものにしているのだと思う。
これが、本来は学者、研究者としての彼の一面など語りようもないはずの私のような素人から言えそうな、学者さんとしての彼に対する唯一の感想だ。
私が守屋さんのもうひとつの面に触れたのは、いま記憶している限りでは、平成2(1990)年に開かれた大阪市がその文化振興施策への提案を得るために組織した若手有識者の会議でのことだった。
「若手有識者」と当時は思い、これまでもずっとそう思ってきたが、いま手元の資料を見ると、座長の守屋さんを含めて委員6人のうち、一番若い副座長の谷直樹さんが42歳、最年長の守屋さんが47歳で、平均年例は44.5歳で、立派な中年である。まぁ行政の施策に関する知恵出しのようなことをさせられるには、ベースとなる学識もあり、経験も十分の、「働かされ盛り」ではある。(年齢は単純にこの委員会が開催されていた1990年という数字から、ネットで調べられる彼らの生年を差し引いた数値による。)
ひとつ前の世代の人たちのように、前世代がいなくなってしまって、40代のころにはすでに功成り名遂げてひとかどの文化人として世に知られた梅棹忠夫、小松左京、山崎正和、米山俊直、木村重信等々といった前世代とは違って、その前世代の人たちが、まだ実質的な現役として、市がその施策を編むにあたってお知恵拝借などする際には、その種の会議の席にデンと坐っていたから、あくまでも前世代を「先生」と仰ぎながらそれなりに良い仕事をして可愛がってもらい、来るべき21世紀を自分たちの時代とする「次の世代」の「若手有識者」という印象をぬぐえなかったのだと思う。
また、もうそのころから日本人は昔に比べて10歳くらいは若返っていたから、この委員会のメンバーもみなまだ30代後半だと言ってもよいくらい若々しかったと思う。
大阪市は21世紀の大阪像を求めて「大阪市総合計画21」を策定し、文化を都市の魅力と活力の源泉としてとらえ、創造性にみちた大阪文化の実現を行政の課題としてかかげた。そして、この課題を具体化すべく、守屋さんをはじめとする6人の有識者による「大阪市文化振興施策構想委員会」を立ち上げ、議論を重ねて、市への提言書「世界の大阪文化をめざして」(1991)をまとめた。
それは単に依頼者であった市の市民局なりその文化振興課なりへの提言にとどまらず、大阪という都市全体の将来を見据え、文化を梃子にその都市格をワンランクアップするための、市のいずれの部局もが自分のこととして取り組むことが求められる、多岐にわたる提言となった。
この会議の事務局は市の担当部局だったが、そのお手伝いとして、会議に陪席し、記録をまとめ、最後に守屋座長と、副座長の谷直樹さんおよび市の担当者らと密度の濃い協議を経て提言書の原案作成に参加したのが、私が当時勤務したシンクタンクであり、実際に担当したのが私だった。
守屋さんの肩書は提言書で「国立民族学博物館教授」となっている。いまネットで見ると、委員会を間歇的に開催していた平成2(1990)年に助教授から教授になったようだから、教授に昇格したてのときだったんだな、と感慨深い。
私のような部外者からは、守屋さんは芸能史の専門家としては林屋辰三郎さんのお弟子さんであり、都市文化について語ったり、行政の文化施策について智慧出しをするような文化人として振る舞うときには、梅棹さんのお弟子さん、というふうに見えた。
実際、彼が書いたこの大阪市の委員会の答申「世界の大阪をめざして」の座長としての署名入りの「はじめに」には、次のような一節が見られる。
思えば、かつて文化は個人の趣味や道楽の問題にすぎなかった。したがって、道路や水道整備、産業振興や福祉・教育は公的な問題であって、行政が責任を負うべき領域であるが、文化は私事であり、公的な機関がかかわる局面はいちじるしく限定されてきた。・・・(中略)・・・しかし、国民の過半が文化的欲求をもち、文化が社会的欲求となるとき、それに応える諸条件の整備は、公的な課題でなくてはならない。現在、文化は行政がその責任の一端をになうべき問題となったのである。
わたしたちが「文化国事論」と呼んできたこの論理、文化は個人の趣味、私事や一部の芸術家やエリートに属するものではなく、社会的に生まれてくる膨大な余暇を持て余して文化の領域へなだれ込んでくる大衆の<放電>欲求が顕在化したものであって、この受け皿を用意することが国を挙げての行政の義務だ、という趣旨の、文化は私事から国事になった、という主張は、梅棹さんの文化行政論の柱の一つだった。当時の守屋さんはこれを忠実に踏襲している。
彼が梅棹さんから受け継いだものは、こうした議論だけではない。元々資質があったのだろうが、有識者会議の座長として、巧みにメンバーである委員たちの発言を促し、多岐にわたる議論を巧みに交通整理し、時に挑発し、時に褒め上げ、ついでに、ちょっとこれをまとめてみてくれ、などと実に上手に役割を与え、はたで見ていて感心するほど、人使いがうまかった(笑)。
「人使いがうまい」というのは、「人使いが荒い」というのとは似て非なるものだ。彼は実にきめ細かに気遣いのできる人で、一人一人の個性を見抜いて、それぞれの個性が溌剌と生きるよう、それぞれの創意がめいっぱい引き出せるよう、細心の注意を払って委員会の場を制御していたと思う。
委員に限らず、彼はお役人や私たち事務局のスタッフの一人一人に対しても、同様に非常に繊細な気遣いをした。彼一流のざっくばらんな声のかけ方は、一見きめが粗くみえるけれど、一人一人の性格をちゃんと見抜いてそれにふさわしい声のかけ方をし、からかい方をし、指示の仕方をしているのがよくわかった。
委員たちへの委嘱を終えてこれから委員会を立ち上げようというときだったかと思う。懇親会をする、ということでここへ行くように、という指示を市の担当者からもらった。私は大阪のことにまだその当時全く暗くて、何も知らなかったので、大阪の人ならだれでも知っているらしいその場所についても、まったく知らなかった。たしかタクシーで何人か乗り合わせて行ったのではなかったかと思う。行く先は飛田新地の「百番」と呼ばれる店だった。
タクシーでここです、と降ろされたところは、それまで見てきた大阪の他の街の様子とはまるで違っていた。周囲は暗く、中に玄関先だけ灯りが赤々と灯り、その真っ赤なカーペットの真中に和風の寝衣のようなものを着た女性が一人うずくまっていて、その横に年取った女性がもう一人控えていたりする。何か現実のものとは思えない、一種幻想的な光景のように思えた。
鈍感な私も、さすがにどういう場所なのか何となく感づいて、おそるおそるそれらの店構えの前を通り過ぎて、お目当ての店にいくと、そこがまたとびっきり風変わりで派手な外観の近代和風建築といった建物で、中へ足を踏み入れると、日本の色々な名所のまがい物がしつらえてあるような建築、これがキッチュってものかと思いながら座敷に通されたけれど、なんだか私などはこのおどろおどろしい雰囲気に馴染めず落ち着かなかった。
おまけにその日の朝刊では、大阪市の不祥事が露見したらしくて、デカデカと一面にその記事が載っていた。そんな日の当日、こういうところで宴会やっててええのかいな(笑)と仕事上の義務的なおつきあいとはいえ、なんだか後ろめたいような気分だったのを覚えている。
考えてみれば大阪市もいい度胸だ(笑)。別段法に反することをしているわけじゃないけれど、何だったか結構派手な不祥事で大手の新聞の第一面全面に近いスペースを使って叩かれている当日に、部局は異なるかもしれないけれども、こともあろうに飛田新地で宴会、いやこれから始まる委員会の景気づけの親睦会とは・・・
さすがに課長以上は来ていなかったと思うが、多分幹部クラスは朝刊の記事のことであたふたしているのであろう、と思われた。しかし百番に付き添ってきた市の職員も、守屋さんも実におおらかというのか、堂々たるもので、にこやかに鍋か何かつつきながら、和気藹々と楽しいおしゃべりに時を過ごし、懇親会の目的はちゃんと達成された。
こういう場での守屋さんのふるまいも堂に入ったものだった。一同の年長者として奉られる位置にあってそれらしく堂々と振る舞いながら、ちゃんと座の一人一人に目配りができ、市役所の職員一人にも、たとえばふと年齢を尋ねて、老けて見えるとは言わず、貫禄があるなあと一言。お役人云々ではなく一人の人間として対等な目で向き合っている姿勢がおのずと見えてくるようなところがあった。
委員会の席でも、守屋さんは終始陽気で、自分よりほんの少し若い委員たちの意見を素早く的確に理解し、位置づけ、一層価値あるアイディアとしてブラッシュアップしてみせる。おそらく発言したメンバーもとてもいい気分で参加できたことだろう。
私の学生時代の友人でもあった或る有識者は、以前あるテーマでヒアリングをしたとき、何の準備もないヒアリングだったので、回転の速い彼もあれこれ脱線しながら思い付きを並べて喋るだけはよく喋って結構長い時間ヒアリングに応じ、こちらもそれを記録して終わった。さてそれを整理して一つのストーリーにして、これでいいか、と彼に見せると、一読して「俺も、結構ええこと言うとるなぁ」と自ら感心していた(笑)。いや、有識者と接していると、よくそういうことがある。もちろんこちらがどれだけ<仕事>をした結果であるかは、裏方として語ることはない。
守屋さんには、そういうときの聴き手のように、相手の言葉にある価値の原石を見出すと、それを殆ど当人にさえ気づかれずにまさに相手のアイディアそのものであるかのように、あんたの言いたいことはこういうことだね、と彼が磨いて一層輝きを増した石を取り出して見せる才能があった。そして、その語り手を口を極めて褒める。誰だって悪い気がするはずがない。
もちろんこの会議に参加したメンバーはみな後々関西の文化人として活躍する人たちで、そのころすでに関西の府県市の行政から、文化行政関係等々のアイディア出しに引っ張りだこになろうとしていたので、いまいう「原石」は偽物ではなくて、ほんものだったからこそ守屋さんも手腕を発揮することができたのだろう。
例えば委員の一人で当時株式会社21世紀ディレクターズ・ユニオン代表という肩書で参加していたイベント・プロデューサー林信夫さんはイベント系の事業に関して、こんなことを言っていた。
イベントという概念は、従来ともすれば定型ホールのなかのプロセニアム・アーチにとじこめられてきた。これを「イベント型イベント」とでも呼ぶとすれば、イベントにはほかに、鳩時計のように繰り返しのきく「装置型イベント」、美しい風景がおのずから手にした楽器を奏でさせるように、場自体がイベントを引き寄せる「風景型イベント」が考えられる、と。
こうして彼は独特の言葉でイベントの概念を拡張してみせ、大阪ではこれらがバラバラに展開しているために、イベントが街の活性化に有効に機能していない。これらを連続的に企画し、街に広げていくことが大阪の文化振興の課題だと主張した。
私の見るところ、この種の独創的で鋭利な主張をこの委員会の場にもたらして議論を生産的なものにしてくれたのは、林さんを筆頭に、当時大阪市立大学助教授であった副座長の谷直樹さん、委員で当時愛知学泉大学教授であった高田公理さん、座長の守屋さん自身であり、これにサントリーの不易流行研究所の部長をつとめていた伊木稔さん、株式会社クリエイティブフォーラム代表取締役という肩書のデザイナー岩井珠恵さんがソフトにそれぞれの立場からアイディアを提案して豊富化し、和気藹々と活発な議論がなされた。
私は当時、彼らの平均年齢44.5歳とほぼ同じ45歳だったから、私自身も含めてみな同年代と言ってよかった。これに加えて最年長の守屋さん自身が堅苦しさのない、ざっくばらんで陽気な人柄だったから、本当に自由な雰囲気で、闊達な議論が交わされ、そばで聞いているだけで楽しかったのをよく覚えている。
6人の委員に共通した考え方のベースには、これからの大阪は国内で一番と二番とか、そんな根性ではダメだ。目指すべきは世界だ。しかも大阪のために何もかも大阪に取り込むというようなケチな根性では話にならない。逆に文化的にも世界に貢献することを目指さなければいけない、という志のようなものがあった。
また、従来の文化振興行政のように、文化を狭い領域、狭い概念で捉えていてはダメだ。そこは梅棹さんの文化国事論ではないが、都市全体を「文化化」する、という市民一人一人の生活全体を文化的なものにしていく、という全都市的な課題として取り組まなければダメだ、という視野の広さがあった。
さらに、当時よく「文化の時代、地方の時代」というようなことが言われて、日本各地で、周囲を田んぼに囲まれたような村にクラシック音楽専用のホールを建てたり、郷土にゆかりの作家や固有の伝統文化を頼りに町興しを試みるなど、非常に特化した文化の育成や、特化した文化施設の建設で名をはせたところがあったが、大阪という都市の性格を見誤らず、「あれかこれか、ではなく、あれも、これも」だ、と分かりやすい言葉で、総合的な施策の必要性を説いた。
市民・企業・行政の協力の必要性については、建前としてはよく言われることではあるが、後の私も関わることになる、この委員会のメンバーの一人であった林さんが総合プロデューサーをつとめたシアター・コンプレックス(舞台芸術総合センター)の計画においても、非常に実践的な市民・企業・行政の協力の在り方が模索されるなど、この計画の精神が後の様々な分野で生かされていくことになる。
提言は、最初に「基本的な四つの考え方」、つづいて「文化振興をめぐる五つの基本戦略」、次いで「八つの視点からのアプローチ」として、情報サービス系、人材養成系、歴史的遺産活用系、街頭・景観・環境系、イベント系、施設系、行政組織系、支援体制系と既存の施策系列に引き寄せ、最後に具体的な33に渡る構想-提案を記している。
私は四半世紀文化振興に関する行政への助言や計画の立案等のお手伝いをしてきたし、数多くの都道府県市長村の同種の計画理念や有識者の提言をかなりの数みてきたが、(自分が関わったものなので、過大に評価するつもりもないが、)50ページ足らずの簡潔な記述の中にも、めざす都市文化の将来ヴィジョンを明確に描き出し、新鮮で具体的な個々の提言とともに、その基礎をなす鮮新な思想を、これほど市民に分かりやすい言葉で巧みに表現した提言書を他に知らない。
もちろん委員6人の共同作業ではあるけれど、代表者(座長)としての守屋さんにとっても、学術的な研究ではない、この種の仕事の中では、出色の仕事だったのではないかと思う。
一般に研究者がこの種の行政の仕事に携わっても、とりわけ文化に関する領域のこととなると、いわば学者の「余技」のように見なされることが多い。研究者はあくまでも、その専門的な研究業績によって学界で評価されるもので、当人もまた研究者として自己規定している限り、同じ領域の研究者の世界で評価されることを望むのは当然だろう。
しかし、人間の面白いところは、そのような学者や業界の仲間内での評価や自己規定にもかかわらず、そのような一面的な存在としてだけ生きているものではない、というところではないかと思う。
そもそも歴史的にみても、人間の評価が学問や芸術や様々な職業的経験や知識、技術などといった一面的なものに偏って来たのは、ごく新しいことにすぎない。人間はその可能性において、もっと自由で多面的な存在だった。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、あるいはゲーテのような人を人は天才として例外的存在にしてしまうけれど、彼らのようなとびぬけた大才を持たないごく普通人間にも、それぞれの才能の規模に応じた自由と多面性は備わっていると考える方が自然だと思う。
かつて梅棹忠夫さんは、高橋和巳を評して、彼は小説を書くべきではなく、中国文学を専門とする研究に徹するべきだった、と語っていたらしい。それは将来を嘱望された若き中国文学者としての才能を作家としての高橋和巳よりも高く評価した上で、その研究者としてのエネルギーが分散されて学者として大成しないかもしれないと惜しんでの言葉だったろう。しかし、又聞きのような形だけれどこれを何かで読んだときに、私は大いに違和感を覚えた。
私にはもちろん高橋和巳の中国文学の研究者としての才能を評価するような能力はないから、そちらのほうはさっぱりわからない。学生の頃出版された小型本の中国詩人選集にあった彼の註釈による「李商隠」や「王士禎」を齧った程度で、まだしも何冊か読んだのは、当時学生の間でよく読まれた「憂鬱なる党派」や「悲の器」など小説作品やエッセイのほうだった。と言っても、彼の小説が好きというわけでも、読んで面白いとは思ったけれど、とりたててすぐれた作品だと思っていたわけでもなかった。ただよく読まれている小説だったから、そして自分が学ぶ大学に彼がまだ教員として在籍して、後にわずかな接点をもったこともあったような距離にいたから手に取った。
だから梅棹さんの言うように、或いは高橋和巳は作家の道を断念し、全共闘への肩入れもせず、ただ中国文学の古典に没入して、その師である吉川幸次郎のように学者の道に専心すれば、優れた研究者となったのかもしれない。また。作家として長生きしても大成しなかったのかもしれない。
しかし、私はそんな風には思わない。中国文学を研究しながら、小説も書かずにはいられず、同時に自分を取り巻く状況にも敏感に反応し、正面から向き合い、「解体」して行かざるを得なかった、そのどれもが高橋和巳だったのだと思う。
もしも梅棹さんの言うように中国文学者としての彼に優れたところがあったとすれば、私にはそれが小説を書き,状況に対峙した彼と無関係なものだったとは思えない。中国の古典詩人たちへの註釈にいいところがあるとすれば、そこに小説を書き、状況に向き合った彼の深い感性が生きていたからこそではないか、と思う。
精神分裂をおこし多重人格を呈するような特殊な場合でなければ、人間はいくつもの全く異なる存在として生きることはできないので、本来的に自分の内にある多様性を統合することで一人の人間として生きているに違いない。だから、仮にまるで異なった面を同時に幾つも見せていたとしても、それを統合的な一人の人間として見ることができなければ、そうした評価にはどこか欠陥があるとみなすよりほかはない。
高橋和巳は中国文学者に徹する道を歩むべきだった、と言ったらしい梅棹さん自身、もちろん民族学の分野で学術的な業績を持っている研究者だけれど、私などが関わってきた文化行政のような政策論とその実践的展開の分野に関しても、ことに博物館学の分野に関して、先駆的かつ根本的な影響を与えるような仕事をしてきたことは周知のとおりである。それはもちろん国立民族学博物館の建設、運営という形で象徴的に現実化されているが、そうした彼のありようを狭い学問分野の業績如何といった評価に閉じ込めても、本当の梅棹さんの姿は一向に見えてこないだろう。
梅棹さんの年若き友人を自任する知友は、最近になって梅棹さんのそうした行政への関わりの全貌をあらためておさらいしたのか、梅棹さんの業績で本当に残っていくものはむしろ文化行政に関する業績なのではないか、と言い出した。人を評価する上で、学術的論文や著作以外には目もくれない狭い視野しか持ち合わせない人の多い研究者の中に、そうした少し違った視点を持つ人が現れることは良き兆候だとは思うが、私は彼のいうような「あれかこれか」ではないだろう、と思う。
かなり脱線してしまったが、守屋さんもまた将来を嘱望された芸能史研究の才能ある研究者だったことは同じ分野の前世代の泰斗たちの称賛によっても明らかだが、私が関わってきた行政の文化政策の方向付けをしていくような仕事の中で、チームを巧みに駆動させながら彼が発揮した思想性、行動力、構想力、指導力・・・といった様々な能力とそれを人との関係の中で発揮していく上での魅力的なキャラクター、もちまえの気質は、まことに貴重な稀有のものであったと思う。
私には、それらの資質と能力が、『近世芸能興行史研究』といった学術書が、高度な専門的研究の成果を、私のような素人にも分かりやすく、普通の人間が抱く疑問に的確に答えてきわめて納得のいく、魅力的な記述によって伝えていることと無関係であるとは、とうてい思えない。
そうした資質、能力等々、すべての要素をも含めて、一人の人間をきちんと評価できるような物差しを、未だに私たちの社会は持っていないのだと思う。
この委員会から、八百八橋アウトドアミュージアム、食の文化アミュージアム、舞台芸術コンプレックス、プロデューサーのコンペ、ビジター・インダストリーの研究・人材養成機関、デザイン交流センター、キュー。ガーデンの東アジア版、なにわヒストリカル・パーク、大阪―文学の舞台、生活文化の歴史と未来の体験、文化情報24時間サービス、ミュージアム・アソシエーション、都市デザインのインセンティブ・システム、音と映像の「新なにわ百景」、ランドマーク・キャンペーン等々、33の具体的、個別的な提言が生まれた。
この種の提言書の最終的な形は、たいていの場合、会議に陪席し、記録してきた私たち事務局のお手伝いに任される。議論を整理し、再構成して、作文し、原案をつくって委員会にかける。多少の修正指示が出ても、もともと委員たちの発言、提案をとりまとめたものだから、ガラガッチャンとひっくり返されることはまず考えにくい。そして、多少議論が残る部分が出ても、そこは座長に一任ということで終わり、後は座長と私たち事務局が相談して、こうしておこうか、と完成形にして終わる。確かこの提言の場合は、予定の委員会が全部活発な議論で埋め尽くされ、時間的な関係もあって、「提言書」としてのとりまとめは、座長と事務局に一任されて終わってしまったのではなかったかと思う。
その場合、座長に一任といっても、ふつうは実際上、私たち事務局のお手伝いに作文が任され、最後に座長がほとんど形式的に一瞥して終わる、ということが多い。ところが、この提言書に関しては、座長の守屋さんが実質的に「わしがやるよ」、と積極的に関与する意志をはっきり示し、副座長の谷さんにも加わってもらって、大阪市やそのお手伝いの私を加えた少数のメンバーで、私が書いた素案を徹底的に、一つ一つの項目、文章ごとに逐一チェックして修正していく作業を行うことになった。
具体的なその作業の内容も、多忙な二人の研究者をまじえた検討を何回やったかまでは覚えていないけれど、そこまで実質的に座長や副座長が関与して、構成や表現の細部に至るまで検討し、注文を付け、修正していったのは私が関わってきた同種の仕事の中でも異例のことだった。
自然、守屋さん、谷さんと私との間の距離は、学識経験者とそのお知恵を借りる民間企業の一社員、あるいは私のクライアントが委嘱した「先生がた」とその会議のお世話をする裏方との関係以上に近いものになっていった。
ひとつには互いの年齢が近く、いわば同世代といっていい幅の中におさまっていて、年長者故の気遣いが要らなかったこともあるし、人を肩書や身分で分け隔てしない守屋さんのざっくばらんな性格が、私たちを束の間でも近しい、等距離で対等なもの言いのできる関係に導いてくれていたと思う。
そんなある日のこと、私たち3人は大阪のどこだったか、カフェの一角でコーヒーか何か飲みながら雑談していた。今では何を話していたかほとんど覚えていないのだが、一つだけはっきりと憶えているのは、谷さんが、このところちょっと目がおかしくて、近いところが見えにくいんですよ、というような話をしたときのことだ。
守屋さんと私はすぐに「それは老眼がはじまったんだ!」と言ったが、先に書いたように、彼は委員の中で最年少の42歳のはずだったから、まだ自分が老眼なんかになるとは夢にも思っていないようで、「いやいや、そうじゃなくて、ちょっと焦点が合わないだけで…」とか何とか言って否定するので、私たちは可笑しくてならず、「それが老眼というものなのです!」とすでにとっくに老眼を経験済みの<年長者>としてゆとりをもって諭したのだった。守屋さんが47歳、谷さんが42歳、私が45歳の時のことだったはずだ。
振り返れば30年も前のことだ。私たちは青年のように楽しく語らい、ほんとう幸せな時間を過ごした。
私はそのころ、もし私が学生時代に彼らに出会っていたら、或いは自らも研究者の道を歩んで、ごく若いうちに守屋さんや谷さんに出会っていたら、いま私が持っている数少ない学生時代の親友たちと同じように、きっとどれだけ月日が経ってもどこかで出会えば、おう〇〇!、おう守屋!、谷!、と互いに呼び合ってたちどころに打ち解け、何の気遣いも遠慮もなく、どのような硬い話題でも柔らかい話題でも自在に上がったり下りたり、あらゆる分野のことを自由に議論し合えるような、いい友達になることができただろうな、と思うことがあった。
功成り名遂げた彼らと現実の何ものでもない自分とをそんなふうに並べて空想するのは僭越なことかもしれないが、そんなこととは関係のない、人柄に惹かれて私がひとりで一方的に空想していただけのことだ。
実際には出会いのときの立ち位置が異なっていれば、自然にそれが尾を曳くところがあって、私たちの関係はその出会いの当初の立ち位置から大きく変わることはついになかった。それでも自分が信頼でき、好感を持って接することのできる人たちと仕事ができることは、大きな喜びだった。
シンクタンクと言っても一般の人には、いったいどんなことをしているのか、想像しにくいだろうが、要は国や都道府県、市町村などが政策理念を立て、様々な市民サービスを展開していく、或いは企業が何か新しい商品やサービスを企画し、製造販売し、宣伝していこうというときに、どのようにそれを進めていけばよいか判断するための情報を集め、分析し、提案を取りまとめたり、原案をつくったりといった、いわゆる政策志向的な、或いは実利志向的な調査研究をおこなうというのが大雑把な仕事の内容になる。
大学の専門的な研究者とは違って、数年がかり、ひょっとすると数十年がかりといった長いタイムスパンで一つの研究に従事するのではなく、多くは1年以下、短いと1カ月でそれなりの結論を出さなくてはならず、文化施設建設計画のように継続的に数年がかりで受注することもあるが、原則はその都度の契約にもとずく一回限りの与えられた課題にとりくむ課題解決型の業務だ。
ときにはその領域に関して基本的なことを即席で学び、長年の経験や知識を積み上げてきた専門家や企業人とわたりあって、対等に言葉を交わせるところまで何とか持って行って、その上、彼らの発想になかった何か新しい知的、情報的価値を生み出さなくてはならない。
タテマエはそんなところだけれど、その分野で何十年もそのことばかり考えてきた人たちに対峙して、彼らが思いつきもしないような発想で問題を解決に導く、というようなことは滅多にあるものではない。
知恵や方法を既存の学問の世界から借りることはごくありふれたことだから、大学などの研究者を「先生」と呼んでその専門的な見識を借り、曲りなりにも課題解決の方途を見出していくというのが日本の大部分のシンクタンクの実情だ。
大学の研究者は時間をかけた実証的な研究で慎重に結論を見出すけれども、シンクタンクの研究員は与えられた時間の中でとにもかくにも分析し、結論を出していく必要がある。当然大学の研究者などから見れば、根拠の薄弱な拙速な結論であったり、学問的な厳密さを欠く手法であったりするだろう。
そのためにあからさまに言わなくても、大学の研究者の多くがシンクタンク(の研究員)を自分たちよりも低い位置にある存在とみなしがちだ。何十年も以前のことだが、コンピュータのOSシステムを開発した中心人物として名をはせた或る東大教授(当時は助教授か何かだったかもしれない)が書いた本で、「シンクタンク」という自分が文章の中で書いた言葉にわざわざあらずもがなの註をつけ、シンクタンクとは、既存の資料を切り貼りし、糊とハサミで報告書を仕立てる連中の居る所だ、というようなことを書いているのを見たことがある。
そのとき私はまだシンクタンクの研究員ではなかったけれど、この人は、専門領域では高い評価を受ける仕事をした研究者だろうに、人間的には未熟な、随分傲慢な人だな、と思い、きっと秀才なのだろうけれど、敵も多い人だろうな、と思ったのを記憶している。
私自身は彼が書いたそのOSを中心とするコンピュータの将来的なあり方に関する思想に共感をおぼえて、実際にその仕様によるパソコンが市販されたらぜひ真っ先に購入しようと思っていたほどだ。しかしついにそのOSを搭載したパソコンが市販される日は来なかった。公式にはその当時の日米貿易摩擦のスケープゴートにされてプロジェクトを潰されたということになっているようだが、週刊誌的には同じ日本の内部に開発の中心にいた彼を快く思わない連中がいて、足をひっぱったのだとか、アメリカをけしかけて潰させたやつがいるんだとか言ったうわさを耳にしたこともある。いずれにせよ、多くの敵をつくってきた彼のめぐりあわせなのだろうな、と妙に納得できるところがあった。
自分がシンクタンクに勤めるようになってからは、この男が書いたことも一理ある(笑)と思うようになったが、なぜそうなのか、あるいはそう見えるのか、ということも、自分が同時に10本近くの仕事を抱えて締め切りに追われながら一回限りの仕事の「次」をとっていくために走り回るようになってから、よくわかった。彼のような放言は、所詮は象牙の塔に安全で特権的な位置を確保していて自らの特権に無自覚なお坊ちゃん学者が、そんな特権を持たない民間企業の労働者の仕事ぶりを上から目線で嗤うようなものだったのだ、ということも。
それは以前にとりあげた、大学教授などをプレスティジの高い職業と思い、編集者や評論家を「しがない」身分だと考えるような差別的発言を平然と行って、吉本さん(吉本隆明)にこっぴどく批判されてグウの音も出なかった丸山真男などと同じ穴の貉なのだ。
守屋さんや谷さんも国立の研究機関である博物館や公立大学で研究者として勤めるプロフェッショナルな研究者だが、この種の身に沁みついた優越意識と表裏する差別意識をもった連中とは違って、人を職業や身分で判断し、態度を変えるようなところが微塵もなく、一人の人間として対等につきあえる人間的な素地を備えたひとたちだった。
だからこの提言の最終段階での検討も、私にとってはしんどくても、楽しい作業だった。
従来の文化行政がともすれば「地域サービス型か、大都市振興型か」「ソフト優先か、ハード先行か」「ユーザーサイドか、メーカーサイドか」「アマチュア向けか、プロ対象か」「文化行政か、行政の文化化か」といった二元論ないし二者択一的な思考スタイルをとってきたことを批判して、大都市にはどちらも必要なので、「一村一品運動」みたいなことで済むはずがないよね、という議論をして、考え方は一致したけれど、言葉としてそれをどう表現すればよいか、一工夫必要だと誰もが感じていた。
そのとき、「大阪ほどの大都市には、当然のこととして、多様で異質の要素が共存している。地域住民もいれば、都市の利用者もいる。伝統文化もあれば、現代文化もある。さまざまな異質性とことなるスケールが共存しているのが、大都市の特性であるといえるであろう。大都市はこれら異なる諸要素やスケールを包括して文化化を推進しなければならない。」という一般論を挿入することで、論理が鮮やかに立つ、と考えてこの一文を入れた下案を持って行ったところ、守屋さんはちゃんとこのポイントを見抜いて、「さまざまな異質性とことなるスケールが共存しているのが、大都市の特性である」という一文をみずから声に出して読み、「巧いこと言うなぁ」と感心したように言ってくれた。
そんなふうに、打てば響くように、こちらがひと工夫して身を入れて表現を生み出したところは、たかが言い方の問題じゃないか、とパスしないで、きちんとその努力を的確に取り上げ、評価してくれた。これが私のいう「人使いがうまい」(笑)という意味だ。この委員会には、彼のほかに林信夫さんや高田公理さんのように、その点で守屋さんに負けず劣らず「人使いがうまい」若手有識者が奇しくも6人中の半数も集まっていたんだな、といまになって思う。
守屋さんは、私が書いていった下案の、べったりと活字の多いコピーをみて、それぞれの項目ごとに、そのエッセンスに当たる一文を取り出して、ページの冒頭に枠で囲んでゴシックで印刷する形にしてみてくれないか、と指示した。打ち合わせの中で市の担当者の一人が出したアイディアだったかと思うが、私自身、その方が読みやすく、わかりやすいな、と思って聞いていたら、守屋さんは直ちにその意見を拾い上げて同意した。
そして例えば、先に引いた「大都市にふさわしい総合的な文化振興施策を進める」という、施策の総合的性格を強調する論理を展開したページの冒頭には;
という箱書きが加えられた。原則として1ページに1項目書かれた20行ほどの文章のうちから、そのエッセンスにあたる短い一節を取り出したこの箱書きだけを拾い読みしていけば、ざっと全体の論旨がつかめる。この工夫は、提言書を読みやすいものにする上で大きな効果を持ったと思う。
二元論的、二者択一的な思考を批判し、大都市の多様性を包括する総合的な施策を求めたこの部分だけ見ても、この提言書の思想が決して水準の低いものではなく、十分に練られた高度な思想を、これ以上ないほど平易な言葉で表現することに徹していることがよくわかる。
「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」なのだ、という風な表現にそれは端的にあらわれている。このへんは畏友高田公理さんなどの、いつもの言葉遣いに関する考え方が生きているかもしれない。
この種の提言書や文化振興の方針を述べた文書、あるいは博物館の基本構想など、その理念を高らかに謳いあげるような文章においても、しばしば市民が一読して理解できるような文章で書こうとか、義務教育だけ受けた人がスラスラ読んで分かるような文章で、と言われることは多い。
私の経験した例では、熊本の県立博物館構想の折に、県外からの委員として加わった国立歴史民俗博物館の教授だった考古学の佐原真さんが、構想委員会の席で、構想書の記述はぜひ高校生が簡単に読めるほど平易なものにしてほしい、と注文をつけられた。
私と共にこの仕事にあたっていた歴史学の素養もあり、佐原さんのことも良く知っているらしい女性研究員は、あの人はいつもそういうことを言うんですよ、でもそんなこと無理ですよ、まともに取り合う必要はありませんよ、と否定的だったけれど、私は彼の言うことは正論だと思い、無理にでもやってみたいと思った。
実際にやろうと思うとそれは大変な悪戦苦闘にならざるを得なかった。専門的な事項を小学生にもわかるように易しく、併し知識としての正確さ、厳密さを失うことなく説明するのは、大学生や一般の人に説明するよりずっと難しく、基本構想のような基本的な理念を説く表現ほど一流の専門家でなければ難しい、というのが身に染みて分かるような経験をした。結局私の原案は、できるだけ平易に、といった程度で、結果的には中途半端なものになってしまったと思う。
滋賀県の琵琶湖博物館をつくるときには、展示の説明パネルの文章を、ほんとうに高校生を呼んできて10回ずつ読んでもらい、一度でもつっかえたら、文章のほうを修正する、というふうなことまでやった、と聴いたおぼえがある。それくらい徹底して実証的にやらないと、本当には実現しそうもない、困難なことだといまは思う。
しかし、大阪市へのこの提言集「世界の大阪文化をめざして」は、委員たちの共通したそうした思いと、それを受けた座長守屋さんの志によって、この種の文書としては、類まれな平易さと高度な思考とを矛盾なく融合した表現をつくりだしていると思う。
こうして提言書の作成は順調に進行しているようにみえた。ところが、私たちは全く気付かなかったのだが、この作業を続ける間に、守屋さんの健康が損なわれつつあった。
ほぼ提言集の文章を出来上がり、最終的に守屋さんがOKを出せば無事完了、というほどの段階にさしかかってからのことだったと思う。守屋さんは自分が一度持ち帰って、最終的なチェックをしたい、と言って実際に一切を持ち帰った。その前に修正案を自宅で見てくるから、と言って次の打ち合わせに出て来た時、珍しく、いや申し訳ない、まだ見てないんだ、というようなことがあった。
守屋さんはその時、あれは野球だったのか何か別のスポーツだったのか、それともスポーツ以外のイベントだったのか、みんなが夢中になって深夜までテレビを見ているような何か魅力的なイベントが行われていたと思う。私たちスタッフの中にも、それが見たい誘惑を感じていて不思議のないスポーツの試合の実況だったような気がするが、その時期私たちはこの提言の仕事に没頭していた。こういう背景があったからだが、このとき守屋さんは言い訳をするかのように、つい遅くまでテレビを見てしまったというようなことを言った。
もとより私たちは彼が本業の国立民族学博物館での仕事や本来の研究活動その他で極めて多忙な人であることを承知していたので、彼が引き取った仕事を思い通りこなせなかったからといって、まったくそれを責めるような思いは無く、言い訳は無用だったから、彼の言葉も思い通りやれなかったよ、という照れ隠しの冗談として受け止めていた。
ただ、市のほうは提言を上に上げて公表するタイミングなど内部的な手続きがあって、ある程度焦っていたところはあったのだろう。直接には守屋さんを急かすようなことはなかったと思うけれど、私などにはあとで少し困った顔をしてみせたりもした。
少し時間をくれ、という守屋さんの言葉を受けて、しばらく最終チェックについては彼に預けて待機することになった。私も、彼が直接修正しなくても、呼び出されれば参上して指示を受け、修正しよう、という構えで待機していた。
しかし、それからかなり時日が経過しても、守屋さんからの呼び出しも連絡もなかった。市から何度か催促を受けて、私から一度尋ねてくれということになって、ご自宅に電話をした。その時は奥様らしい方が電話に出られ、正確には記憶していないが、体調が思わしくないのでもう少し待つよう、またこちらから連絡すると言っているので、という風なことであったと思う。そのときすでに入院と言われたかもしれない。
いずれにせよ、私は彼の状態がそんなに重篤なものだとは全く気付かず、言葉通り体調を崩して一過性の病で寝込んでしまったのだろう、と思って市にもそう伝え、しばらく連絡があるまで待つしかないですね、という風なことで、引き続きそのまま待機していた。もちろんこちらも何本も同時に仕事を抱えて日々それらに追われる立場だったので、じりじりして待っていたわけではなく、彼に一任した以上、仕方がないじゃないか、と割り切ってこの件は放念していた。
ところが、別のところから、どうも守屋さんの病がかなり悪いらしい、という噂が飛び込んできた。この時になって初めて私は事態が深刻である可能性に気付いて、と言ってもまだすべてが曖昧なままで正確な情報が入ってくるあてもなかったから、病状が重いことをただ危惧して、すぐにつてをたどって病院を聞き、一人で見舞いに行った。
彼が重篤であることなど思いもよらなかったので、見舞いが許されているかどうかなど全く確かめもせず、ただ普通の病気見舞いのように、直接病院に赴いた。ところが、下で病室を訊いて、エレベーターで病室の階まで上がり、扉が開いたとき、目の前には車椅子に座った守屋さんの姿があった。いままさにエレベーターに乗りこもうとする彼と出くわしたのだった。
その表情を一目見て、多分私は不覚にも、無意識のうちに顔色を変えてしまったのではないかと思う。彼の陽気なあの笑顔は見る影もなく、頬が削げ、病魔との戦いに疲れ果てた患者の顔がそこにあった。
けれども、彼の方は私の顔を見るなり、まるで懐かしい友人にでも会ったように「おう、いまちょっと下へ行くところやから一緒に降りよう」と私を誘い、車椅子に寄り添う夫人も共に階下のソファーのある待合室のようなところに行った。
彼はそこでタバコに火をつけ、いつもの彼と変わらない悠然とした様子で、し残した仕事のことに触れたが、もちろんそんなことはいいから、養生して早く治してくださいとしか、こちらは言いようもなかった。
強い衝撃で正直のところ普通の心理状態ではなかった私は、その時の会話をもう覚えていないが、数少ない言葉の中で彼がひとりごととも私にともつかぬように「こうなってしもたらあかんなぁ」とつぶやいたことだけ、いま記憶に残っている。それは既に覚悟を決めた人の言葉だった。
病室にパソコンを持ち込んでいるというので、それはいけませんよ、養生に専念してください、と本心ではあっても虚しく響くようなありきたりのことを言うしかなかった。パソコンもたばこも、もう覚悟を決めた彼の「わがまま」として家族も医師も許容していたのだろう。彼が私に向かって話す間、夫人は背を向けて私に表情が見えないようにしておられた。おそらく一刻も早く私には立ち去ってほしかっただろう。
一日一本だけこうして下りてきて吸うのや、というようなことを彼は言っていたと思う。彼がタバコを吸い終わると私はすぐに立ち上がって辞した。もう守屋さんには会えないのだろう、と思うと、それまでつきあってもらった日々が胸に押し寄せてくるようで、涙がとまらなかった。
それからほどなく、守屋さん逝去の報が届いた。若くして逝ってしまった彼の通夜に訪れた親しい友人、知人、恩師らの表情は、悲しみというよりこのような苛酷な死をもたらした何ものかに対して内心から噴き出しそうな怒りを辛うじて抑え込んでいる人たちのように、どこか荒んだ気配に満ちているようだった。
後日谷さんに見舞いの日のことを話すと、私が守屋さんに会えたのは奇跡的な偶然によるもので、おそらくあのときはもう面会謝絶で、病室を訪れても入室を断られていただろう、という。たまたま何も知らされておらず、そんなに重篤だとはつゆ知らずに見舞いに出かけて、たまたまエレベーターの出口で一日一度わずかな時間一服に出てきた守屋さんに出会わなければ、彼に直接会うことはかなわなかっただろう、と。
きっと車椅子に付き添っておられた夫人には、何も知らない私、不覚にも不意を突かれて愕然とした表情をあらわしてしまっただろう私に、こんなときになんて鈍感な、と苛立たしい思いをさせてしまったことだろう。
私自身も、あの彼の最後の姿を見ずに、元気に冗談を飛ばしている会議の席での彼や、打ち合わせで的確な意見を吐いている彼の姿だけを胸に刻んでいれば、或いはもう少し心穏やかでいられたかもしれない。あれからほぼ30年近くを経た今も、エレベータで出会った時から、待合室を去る時まで見てきた彼の表情が胸にやきついている。
ただ、いまは私自身も現在の医療では治癒不能の進行性の病を得て、そろそろお迎えがくるのも間近になり、自分の中の守屋さんの表情と向き合ってもたじろぐことはない。
もし彼がいるのと同じところに行けるものなら、またぞろ大阪市は万博などと言っているけれど、というような話など、彼とのんびり一服しながらできるだろうか、などと夢想する。
2020年09月13日
スナップショット 21 梅原 猛さん
梅原さんと直接言葉を交わしたのは一度だけだ。
それは梅棹忠夫さんが提唱していた「新京都国民文化都市構想」の委員会に梅原さんの参加を要請するために電話をかけた折のことだ。
梅棹さんの構想は、都市と文化開発に関する論考を集めたその著作集第21巻の記すところによれば、1980年春の『中央公論』に掲載されているので、その前後のことだったろう。その2年前には大平内閣が成立し、梅棹さんはその政策研究会のうち田園都市国家グループの議長をつとめていた。他方、同じころに京阪奈丘陵に関西学術研究都市を建設しようという国家的プロジェクトが具体的な検討に入っていた。こうした状況を背景として、梅棹さんは関西学術研究都市が理工系に偏ったものになることを危惧し、余暇社会の到来に伴う国民文化の受け皿が必要だとするかねてからの主張に基づいて、文化の一大中心施設を作るよう訴えたのだ。彼は奈良時代の国分寺構想になぞらえて、その中心施設を全国に整備されるべき国分寺を束ねる総国分寺に当たるとも語っていた。
この構想をアピールし、その内容を具体化していくために、国家的な視野でこの種の問題を論じられるような文化人を集めて議論を深めようじゃないか、というので梅棹さんを中心に人選を進め、依頼することになった。その事務局を私が勤めていたシンクタンクが行うことになり、私がその主担当に命じられた。そのころ、このテーマに関連して京都府から委託を受け、委員会を開催したり、梅棹さんに長時間のヒアリングをして彼の意向を忠実に反映した同趣旨の報告書を書いたり、類似の仕事がいくつかあったために、いまでは、そのいずれのときであったか、記憶が定かではない。
前掲の著作集の記述に、梅棹構想の中核になる施設としての、「国立総合芸術センター(仮称)」の提唱、というのがあって、中央公論掲載の梅棹論文に記されたこの施設を具体化するために京都府が数人の委員に委嘱して討議を始めたとあり、そのメンバーに私の当時の勤務先の所長という肩書で川添登さんの名が委員の中に入っているから、おそらくこのときも私の勤務先が裏方をやったのではないかと思う。しかし梅棹さんが書いているこの時の委員に山崎正和さんが含まれているので、これは私が梅原さんに電話で要請を行った委員会とは違うようだ。なぜなら、梅原さんに電話をかけて参加を要請した委員会で、同様に山崎正和さんにも要請の電話をかけたことは今でもよく覚えており、二人とも断られていたからだ。
この種の依頼をするときには、ふつうはまず書面で趣旨を述べた依頼状を送り、それに相手が目を通したころに電話をかけて、相手の反応をうかがいながら、一度ご説明にうかがいたい、と申し出る。このとき、にべもなく断られるようなら、どう言葉を尽くそうとまず引き受けてはもらえない。しかし、電話口で或る程度こちらの話に耳を傾けてくれて、詳しい説明に伺いたい、という申し出にOKが出るようなら、ほとんど100%引き受けてもらえる。だから、最初の依頼状も大事だけれど、電話が決定的な分かれ目であり、この電話をかけるときはいつも緊張する。
相手のことをある程度は調べ、近著くらいには目を通しておき、依頼状を前もって読んでくれているだろうとは思うものの、万一まだ読んでいないときには、どういう手順で説明するかを考えておく。またもし相手が読んでいれば、こちらがあらためてくどくどと説明を始めたら苛立つ人もあるから、相手の気配をうかがいながら、といったところだ。
東京の文化人は委員会と言っても、与えられたテーマについて自分の専門的な意見を披露し、議論するという求められた役割を果たせば、さっさと帰っていくことが多い。それだけ文化人の数が多く、層が厚いから、委員を選ぶにも人脈よりもその専門分野や見識を過去の発言や著書にもとずいて判断するだけのことだ。
しかし関西の知的コミュニティは相対的に狭く、層が薄い。狭い意味の専門家はいても、国家社会を論じられるだけの視野の広さ、器量、見識、経験を持つ有識者となると、きわめて限られてくる。その種の課題が少ないわけではないから、彼らは一人当たりの引っ張り出される頻度がどうしても多くなる。あっちの委員会でも、こっちの委員会でも同じ顔に出会うことになる。自然、人のつながりが親密になり、議論のあとは、まあ一杯やりましょう、ということになる。そして、むしろそういう場で話されることの方が、公式の場で話されることよりも重要だという、日本的な人間関係のあり方は、おそらく東京などよりも関西でのほうがずっと色濃く残っているに違いない。
したがって、私たちが有識者に委員としての参加を依頼する場合も、もともと例えば梅棹さんが親しい、或いはいろいろなところで出会って良く知っている人を、単に専門分野や社会的地位だけを考慮してのことではなく、中心となる自分との距離感を正確に見定め、ほかのメンバーとの相性を考慮するなどして、その人柄、性格まで含め判断して選んでいるので、こちらもまずは「梅棹先生のご紹介(ご推薦)で」とか、「梅棹先生が是非ご参加いただきたいとのことで」といった枕詞を使うことが多い。
梅原さんにも、そんなところから入って、彼が依頼状に目を通していることが分かったので、ごく簡単に趣旨をおさらいし、ぜひご参加いただきたい、と要請した。
ところが、彼はうんとは言ってくれなかった。実は梅原さんについては、参加してくれないかもしれないな、という予感がなくはなかった。今では正確にすべてのメンバーを思い出せないけれど、梅棹さんが挙げた有識者の中で、山崎正和さんと梅原さんだけが、ほかの委員候補とは違って、私の感覚では梅棹さんと距離があった。考え方も肌合いも違う、ということが何となくわかった。みなそれぞれ有識者として国家社会の問題に関しても一家言を持つ人たちではあったけれど、ほかのメンバーは梅棹さんがこうと言えば、あからさまにいやそれは違うでしょう、とは言いそうもなかった。しかし山崎さんとこの梅原さんは、梅棹さんがどう言おうとおかまいなしに、いや、それはこうでしょう、と独自の主張をしそうだった。もっと言えば、むしろ積極的にさからうような(笑)異論をぶちそうな感じもあった。
案の定、「ぼくは梅棹構想にはあまり賛成できないんですよ。」そう梅原さんは言った。私は、梅棹さん流の、国民文化の受け皿を整備する、という考え方からくる、「文化はもはや<私事>ではなく、<国事>になったのだ」という考えに基づいて、国分寺―総国分寺の譬えにみるような国家が主導するハードウェア先行の文化施設整備のヴィジョン、例の<水道蛇口論>、文化の供給は水道のように、地方に居る人たちが水道の蛇口をひねればどこにいても中央から供給される水が出てくるように、文化が供給されるようなシステムであるべきだ、という考え方への反発が出て來るかな、と思った。私自身がそういう批判をひそかに持っていたからだ。
しかし、梅原さんの理屈は私の予想とは全然違う方向に向かった。「ぼくはね、文化というのは、施設を整備したからといって優れたものが育つとは限らないと思うんだ。文化というのは結局は才能の問題でね、どんなに貧しい環境でも、才能のある人は出てくるものですよ。何十億も何百億も金をかけて豪華な施設を作ったからと言って、優れた文化が育つかといったらぼくは疑問だな。・・・」
そんな調子で梅棹さんの<国分寺構想>に自分は異論があるのだ、ということを語る。こちらはなんとか委員になってもらいたいので、黙って拝聴しているわけにもいかず、「先生のお考えはわかりますが、それはごく一部の才能ある人についてのことで、やはり一般的には創造的な活動をつづけていくために、よりよい環境づくりをしていくことには大きな意味があるのではないでしょうか」というようなことを言ってみる。
すると、梅原さんの面白いところは、彼がまったく会ったことさえ覚えておらず、認知もしていないに違いない、私のようなただ委員会のセッティングをしようとしている事務局の一介の若造を相手に、たちまちムキになって「反論」してくるところだ。
「いやぁ、ぼくはそうは思わないなぁ。芸術というのはやっぱり才能でね、立派な施設をつくったからって、凡庸な人間が優れた芸術家になれるわけじゃない。教室で習ってアーチストが生まれる訳じゃないと思うんだな。」
変な議論だなぁ、と思いながら、こちらも一所懸命食い下がってみるのだけれど、彼はその「変な議論」に固執してちっとも噛み合わず、平行線のままだった。けっこうそんな噛み合わない「議論」をしたあげく、「そんなわけで、今回は失礼するので、梅棹さんにはよろしく伝えてください。」ってなことで終わってしまった。
けれども、断られて悪い気はしなかった。最初から断る気ではあったろうけれど、にべもなく断るでもなく、適当な理由をつけて逃げるふうでもなく、まるで自分もこちらと同じ青臭い若者になったかのように、こちらがこういえばああ言い、ああ言えばこう返す、と言った感じでムキになって理屈を返してくるところに好感が持てた。
普通、この種の依頼を断るときは、例えばいまちょっとかかりきりの仕事があって、とてもその種の委員会に参加している時間が取れない、というような断わり方が一般的だ。あたりさわりがなく、無難だからだ。どうせ嘘だろうな、と思っても、そんなことが当たり前になると、まあそれぞれ事情はあるわな、とこちらはとくに傷つくこともなく事務的に次の手を打っていく。
当時の東京分室長Oさんと雜談していたとき、私たちがいつも委員やプロジェクトのディレクターに委嘱する際に、ほとんど断られることがないね、というようなことを言うと、Oさんは「断わってくれたりすると、ホッとしたりしてね。」と言ってニヤリと笑った。
そういう気分はよくわかった。依頼するほうとしては、むろん引き受けてくれたほうが良いに決まっている。断られればあらたに代替候補を見つけて同じことを繰り返さなくてはならないし、そうそう代わりになるような有識者がいるわけではないから、限られた日程の中で見つけなくてはならないのはかなり厄介なことだから、こちらの依頼をつべこべ言わずに簡単に引き受けてくれる有識者はありがたい存在だった。
しかし、まことに不謹慎なことではあるが、そうした仕事上の便宜を離れて個人としての内心では、身近な有識者たちが、そのころ生意気な私などが、しょうもない、と思っていた行政主催の委員会などに声を掛けられると、ホイホイ出てきて、ろくでもない会議でろくでもない発言をし、僅かな謝金だけはしっかり受け取って帰っていく姿に、なにか節操のない尻軽男を見るような印象を持っていたことも事実だから、彼の言葉にはすぐに共感を覚えた。
梅原さんのこのときの拒絶にも、私は「ホッと」していたと思う。しかし、断わるために彼がふっかけてきた議論はまことに奇妙なものだった。しかし、奇妙な議論でありながら、それを単に依頼を断るために咄嗟に取り繕った屁理屈と感じさせず、自分はふだんから本当にそう思っているんだ、という風情で、ムキになって返してくるところが、いかにも梅原さんらしかった。
私が最初に読んだ彼の著作はベストセラーになった『隠された十字架―法隆寺論』で、その後、矢張りベストセラーになったと思うが、『水底の歌―柿本人麿論』も大変面白く読んだ。それは学術書というより、学術書の体裁をとった抜群に面白い歴史ものの推理小説という印象だった。聖徳太子についての彼の仮説も、柿本人麿の死をめぐる彼の仮説も、史料をもとに学術的な考証を経た推論のように書かれてはいるが、肝心のところで彼の思い込みに過ぎないかもしれない独特の文献解釈とそれに基づく推理があって、歴史学などに素人の私のような読者でも、面白いと思ってワクワクして読みながらも、一方では正直のところ真偽のほどはわからない、多分に梅原さんの創作まじりの歴史≒物語なのだろうと感じながら、眉に唾つけて読んでいた。
私が愛読していた吉本(隆明)さんは、梅原さんの上代史や上代文化の考察は残念ながら打率ゼロに近いとしか思えない、と手厳しく、過去への入射角の取り方がまずいのだ、というふうな言い方で批判をしていたが、専門家でさえ打率3割を出ない現状で、たとえ打率ゼロでも時折みられるその創見は十分に意義を認められるべきだ、という評価をしていた。そして、梅原さんの方法を、さしたる原理的な方法なしに、文献の深読みと場所詣をすることの危険さを示すものだと、自戒する如く語っていた。私は当時吉本さんが情況論の中で語っていたそうした言葉を読んで、梅原さんの著作を読んだ時に感じる面白さと危うさを的確に指摘していると共感を覚えた記憶がある。
確かこういう吉本さんの手厳しい批判よりかなり後のことだったかと思うが、梅原さんは吉本さんと対談している。いま『対話 日本の原像』という文庫本にもなっているその対話に追加された書下ろし「遥かなる世界からの眼を」という文章の冒頭で、梅原さんは「吉本隆明さんは、私が同時代の思想家として、もっとも尊敬する人の一人である。」とし、深い交流はないし、生き方も思想も異なるが、「吉本さんが文壇に登場したとき以来、私は、ずっと吉本さんに密かな敬意と友情を感じてきた。」とまで述べている。そしてその理由として「吉本さんが、実は日本では大変少ない独立自存の思想家であるからである。」と述べている。
自分を手厳しく批判した思想家に対しても率直に尊敬の念を表明し、「敬意と友情を感じてきた」とさえ記し、互いを尊重しながら対談の場に望んで意見交換ができる梅原さんの気質と器量は、往々にしてちっぽけなプライドにこだわり、自分があきらかに深甚な影響を受けながら吉本さんへの率直な敬意を表わすことも、逆に正面から対峙することもできず、別の知識人との対話でつまらない揚げ足をとってみたり、ご本人にぶつかる気概もなく吉本ファンを叩いたり揶揄したりしてみせることで鬱憤晴らしをしているような評論家や大学教師などに比べれば、驚くほど清潔で爽やかなものだと思えた。
日本ではアカデミズムに居場所をみつけて、ときおり小遣い稼ぎにシャバへ出撃しては、不都合が生じるとたちまちアカデミズムの世界に舞い戻って沈黙し、身分制度に守られて何事も無かったように特権を享受しつづけるという知識人の習性があって、このシリーズの前々回、山田晶さんを取り上げた文章の中で述べたように、かつて丸山真男が自らの属する大学教授を社会的「プレスティジ」の高い職業とみなし、評論家や編集者等々のような職業人を「しがない」存在と見下した言説で吉本(隆明)さんにこっぴどく批判されたエピソードに象徴されるように、アカデミズムの内部で自分が享受している特権に無自覚に、わけもなく在野の思想家や研究者を見下し、彼らが本当は大学教授のような「プレスティジ」のある地位につく能力をもちながら「しがない」評論家や編集者になっているという、自信と自己軽蔑の入り混じった心理を隠し持ち、それが心情的ラジカリズムとなって現れるのだ、というような考え方を隠し持っていることがなにかにつけて露見する。
しかし、梅原さんには、そういうところがまるでなかった。先に引いた対談に付け加えられた書下ろしの中でも、彼は吉本さんと人間の生き方について語りたいと思った、と述べ、吉本さんの生き方をひたすら自分の思想を追求する親鸞的な隠者の生き方になぞらえ、自身はそれを羨み、憧れながら、大学の学長になって以来、隠者の道から益々離れて、いわば空海的な生き方を選び、俗世間と交わりながら後世に利益を与えると信じる組織をつくろうとしている、と対照的な生き方として敬意を込めて語っている。こうした梅原さんには当時、とても好感を持った。
ただ、私が直接声を聴いた電話の印象でも、その著作を読んだ印象からも、ずいぶん思い込みの強い人だな、と思ったのは事実だ。
次に梅原さんを間近に見たのは、テーマは何であったかは記憶にないけれど、やはり行政がらみの何かの委員会で、たぶんゲストスピーカーのような形で彼を呼んだ時のことだ。そのとき彼は引き受けてくれて会議のような席でレクチャーをしただけだったが、会議が終わった後の雑談の折りに、その直前に出たばかりの自分の新著を何冊か取り出して会議のメンバーにプレゼントしてくれた。そして余った一冊を事務局に、と言って私の勤務先のマネージャーに手渡した。
その時に梅原さんは「古書店の主人と話していたら、私のサイン入りの本は結構高い値段で売れると言ってたんですよ…」と一座の笑いをとっていた。その本の表紙裏には、梅原猛、と大きく墨書してあった。
会議メンバーが解散して後片付けをしていると、マネージャーが近づいてきて「○○さん、読みますか?」と私に手渡し、「ぼくはどうもこの手のは、もひとつ苦手で・・・」と譲ってくれた。
その本のタイトルがいまどうしても思い出せないのだが、アマゾンの販売リストで調べてみると、どうやら『憲法十七条 Ⅱ』だったのではないか、と思う。それが単独で完結する書物ではなく、第二巻だったことだけは明瞭に覚えている。タイトルの方があやふやなのは、結局私もその本を読まずに,ほかの雜本を整理した折に一緒に手放してしまったからだ。その本が前のある第二巻であったことも、幾分読む意欲をなくした理由だったような気がする。
著者にいただいたサイン本を手放すのは悪い気がしないでもなかったけれど、梅原さんが「ぼくのサイン本は古本屋で高く売れるらしいんですよ」という風なことを言ったので、本気にはしなかったけれど、試してやれ、という悪戯心があったことも正直に告白しておくべきだろう。
結果は、残念ながら、ほとんど一冊としての値がつかないゾッキ本扱いだった。梅原さん、ごめんなさい!(笑)
梅原さんとの「ニアミス」はもう一度ある。私の勤め先が、京都市から歴史博物館建設計画に関する基礎調査やその後の基本構想、基本計画に関する調査を受託したとき、私が主担当に任じられて、数年間、その計画を実質的に動かしていった京都市歴史資料館の人たちと共に、新博物館の理念や具体的な施設、機能に関する考え方、さらに踏み込んで基本計画段階のモデル的な像をつくり上げていったときのことだ。
このプロジェクトは実質的には歴史資料館のM館長(当時)以下、同資料館の学芸員等スタッフを中心とし、市の関連組織の専門スタッフや大阪市で「住まいのミュージアム」を企画段階から完成後の運営まで一貫して中核を担ってきたTさんなどをくわえたワーキンググループで、時間と労力をかけた調査・検討を経て原案を練り上げ、ほぼ形が見えた段階で、市のほうで歴史の専門家にこだわらずより幅広い文化人や京都の産業界を代表するような財界人などを集めたいわば親玉委員会を構成し、市長も出席して基本構想案をオーソライズするに至った。
私自身末席に加わった作業部会の立場としては、こちらで十分に検討を尽くして練り上げた原案でもあり、よほどのことがなければ、そのままオーソライズしてもらえば立派な博物館ができる、という自負を持って、会議事務局の裏方としてその親玉委員会にも出席し、記録をとったりしていた。
この親玉委員会で大きな存在感を示したのが梅原さんだった。何冊ものベストセラーとなった著作を持ち、市川猿之助のスーパー歌舞伎の脚本まで書いて話題を集め、幅広く日本の文化について精力的に発言を続ける文化人であり、京都市にとっても、時間は前後するかもしれないけれど、市立芸大の学長をつとめ、国際日本文化研究センターのセンター長をつとめるなど、公職を歴任してきた、いまや押しも押されぬ京都を代表する顔であって、この人抜きで京都文化の将来像を考えることはできなかっただろうし、その発言は余人には代えがたい重みをもっていた。
おそらく梅原さんとしては、専門家であるMさんらが進める歴史博物館構想を応援しようという気持ちがあったのだろう。原案は原案として認め、具体的な検討はMさんたちに任せる、という立場は辛うじて守ってくれたと思うけれども、親玉委員会での発言はその立場を大きく踏み越えて、私たち作業部会の面々が困惑せざるを得ないほどの「勇み足」になった。
聞いていると、梅原さんの頭にあるには、むしろかつての梅棹さんの総国分寺構想のように、国立の文化施設が綺羅星のごとく建ち並ぶようなヴィジョンではないか、と思えるほどだった。梅棹さんはその構想の折に、万一、関東大震災のような苛烈な天災等々で東京が壊滅し、霞が関がぶっつぶれるような際には、お役所が全部引っ越して来ることができるような、代わりの器として機能する巨大なシャドウ・オフィスの如き施設群を、ワシントンDCのモールのスミソニアン博物館群のごとく、ミュージアム・コンプレックスとして用意しておくのだ、というようなヴィジョンを語っていたと思う。
梅原さんのヴィジョンもまた、それに負けず劣らず壮大なもので、1200年の古都としての伝統をはぐくんできた京都はそのように、国家が全力を挙げて文化の都として再生すべき特別な都市なのだ、という強い思い入れが感じられた。
正直のところ、これは困ったことになったな、というのが私や、おそらくは作業の中核を担ってきたMさん以下、原案の作成に尽力してきたスタッフらの思いではなかったかと思う。
私たちは決してただ、京都市の様々な分野の政策課題のひとつとして、他の政令指定都市が建設しているようなローカリズムに立脚した一個の歴史博物館を作ればよい、と考えていたわけではない。またそれを歴史学者たちのアカデミックな拠点のような専門的な機能に終始するものとして構想していたわけでもない。
埋蔵文化財ならば、この都市の地下には、もしひととおり掘り出せたとすれば、おそらく整理するだけで100年以上かかるほどの量の遺産が眠っているだろうが、通常の歴史博物館で収蔵し、展示するに値する高い史料的価値をもつものがいまどれほど残っているかと言えば現実にはほとんど残されていない。
もはやそのような「お宝」の収蔵・展示に終始するような歴史博物館を京都で建設するのは「手遅れ」としか言いようがないに違いない。しかし、京都という都市全体を対象としてその歴史を研究し、市民をはじめ京都を知りたいと望む現在、将来の世代に対して、京都市としてそれを可能とする拠点を持たないことは、京都市にとってほとんど恥ずべきことと言わなくてはならないだろう。
それと同時に、京都という都市の将来を長いスパンで展望するとき、そうした京都1200年の歴史というソフト資源を最大限に活用することこそが、京都にしかできないアドバンテッジであり、その優位性を生かすための要となるのがこの歴史博物館であるべきだ、というのが私たちの考え方の根本にあった。
このような博物館は、京都市民や、将来の京都市に対する責任において、京都市が全責任をもって、主体的に建設していくべきものであって、間違っても自らの主体的なヴィジョンを棄てて国におねだりしたり、民間に丸投げしたりして済むものではない。構想、計画の最初から建設、運営に至るまで一貫して京都市がその責任を負い、主体的にやりきる覚悟を持つことが、まず何よりも必要であった。
もしいまから京都市歴史博物館をつくるなら、そうした市民をはじめとする人々の要求に正面から応え、また将来の京都の発展を展望した戦略的思考が求めるところに正しく応えられるような博物館でなければならない。
そのためには、資料についても、その調査、蒐集、研究、公開等の活動についても、旧来の歴史博物館のイメージにとらわれていては一歩も前に進むことはできないに違いない。資料がない、という前に、資料を見るこちらの観点を根底から問い直さなければならない。博物館、というけれど、その「館」の意味を既存の博物館の建物など考えていてはどうしようもなく、これもまた白紙から問い直さなければならない。
そういう作業を部会で数年にわたって粘り強くつづけてきた。その結果が、京都という都市に関する<都市史>の博物館というテーマや、京都市域全体を<フィールド・ミュージアム>として編成し、いわゆる京都市歴史博物館は、そのネットワークの中枢として位置づける原案が生まれた。
京都市域は、いわゆる目に見える歴史遺産が残っている、いないに関わらず、いたるところに歴史の痕跡が、由緒因縁・故事来歴が残されている。ここは著名な歴史上の人物誰某が辻説法をした辻であり、ここは多くの仮設の芝居小屋が設けられた河原であり、ここは維新の志士の誰某が斬られた場所である、等々。そうした情報的資源もすべてをこのフィールド・ミュージアムは吸収し、再編成して、京都市民に、また京都を訪れる人々に分かりやすく、興味深く提供していく。
したがって、このミュージアムはただ文教政策の一環として、一個の博物館という文化施設をつくる、ということではなく、京都の1200年におよぶ歴史が形成してきた多様な時間の切り口を見せる京都の顔として、全国に、世界にこれが京都の過去、現在、未来だ、と訴える、都市戦略の要となる施設・機能として位置づけられるべきである。
こうした作業チームの原案もまた壮大なものではあるが、京都をめぐる歴史学の現状をふまえ、博物館学の達成を踏まえ、かつ今の日本の文化施設建設をめぐる状況を踏まえた、極めて現実的な提案だった。
この提案に与する私の個人的な印象では、梅原さんと彼に同調した親玉委員会の主なメンバーたちの、威勢の良い、国立の大規模な施設を本来なら幾つもぶっ建てるべきだ、という風な議論は、色々な意味で現実離れしたものとしか思えなかった。日本文化の中心、日本のふるさと京都だからこそ国家の力でそうした施設を整備すべきである、というのは京都にいるともっともらしく聞こえもするが、今どき霞が関へそんな話を持ち込めば、京都セントリズムとして鼻で笑われるのがオチではないか、と思った。
あるいは梅原さんの頭の中には、フランスが国家的威信をかけて、文化を梃子にしたパリの大改造をやってのけた「グラン・プロジェ」のイメージがあったのかもしれないが、国家的背景としても、時代状況としてもまるで異なり、京都にいま巨大な国立の歴史博物館を建設しなければならない必然性があるという論理を組み立てることは、どうみても困難だった。
京都市歴史博物館の構想は、この段階で親玉委員会と作業チームの原案との間に、とても埋められない理念的な乖離を孕んだまま、とにもかくにも形の上では原案が基本構想として容認され、引き続きMさんの下で検討を、ということになったと思う。
私たちは基本構想の理念を具体化して行くために、次の基本計画の段階、すなわち必要な機能や施設、設備等のモデル的なビジョンを明確にする作業にすでに入っていた。歴史資料館では既存の情報システムを拡張して、京都市域全体をフィールドミュージアムとして、その主要スポットについての情報を学術的にも正確に、一般の人たちに分かり良い形で提供すべく、博物館完成時にひきつぐべきシステムの雛型のようなものをつくっていく、プレ事業ともいうべき物にも着手していた。
しかし、基本構想から基本計画へというこの段階で、日本はいわゆる「バブル崩壊」に見舞われ、その中で京都市はかねてからの財政の緊迫が限界に達して、そのままでは財政再建団体になってしまいかねない危機に直面し、緊急に抜本的な財政の立て直しを図らざるをえなくなった。その一環として、いわゆる「ハコモノ」、施設建設を伴う事業については一時凍結する、という市政方針が示され、当然のごとく私たちの京都歴史博物館建設計画も一旦停止ということになった。
財政再建にめどがつけば、やみくもな「ハコモノ」否定の風潮も緩和されて、長期的なスパンで京都市の将来をみすえ、その発展のための戦略的な展開の要として、私たちの計画が再浮上する可能性はある、それだけの仕掛けはこの計画自体の中に埋め込んである、と考えてきたけれど、その後、財政的には一息ついて緊急事態は解除されたにもかかわらず、一時凍結であったはずの博物館構想は凍土の下に埋もれさせたまま20年間が虚しく過ぎてしまった。
市長も変わり、現状を遠くから眺めていると、とてもそんな気配などさらさらなく、叡智を集め長い時間、精根傾けて練り上げてきた計画も水泡に帰してしまうのかもしれないな、という思いの方が、いまでははるかに強い。
ウェブサイトで京都市の文化政策を検索してみると、市だけではなくて、府や産業界も巻き込んで、どうやら今年行われるはずだった東京オリンピック・パラリンピックにゴールを合わせて打ち上げた花火らしく、2016-2020と時限を切った「京都文化力プロジェクト」基本構想なるものが見つかった。
滑稽なことに、その「事業構想」の中に、「国立京都歴史博物館(仮称)の誘致」という一項がある。中身は「1200年の都市としての歴史・記憶を活かして、日本の歴史・文化を綜合的に理解でき、日本の文化力を世界に発信する『国立京都歴史博物館(仮称)』の創設を強く働きかける」というものらしい。
要は京都市で作る気も無ければその甲斐性もないので、ひたすらお国におねだりして作ってもらおう、という主体性も無ければ根性もプライドもなく知恵もなく、現実的な状況認識もフィージビリティの考慮もない、まさにないない尽くしで国にすがりつくだけの「政策」だ。嗤わずにはいられない。
そういえば、私たちの構想が「一時凍結」されて、かなり日数がたったころに、既に大学へ転身していた私のところへ、かつての勤務先をとおして京都市から、歴史博物館構想を国立博物館誘致の計画にお化粧直しして国に要望するので、その下案の検討会に出てほしい、という依頼があった。
馬鹿馬鹿しい、と辞退する所存で、とにかく担当者に会ってくれというので旧勤務先に出向くと、市の担当者が縷々説明し、その内容はどうしようもないものだったので、やんわりお断りしようとしたところ、その担当者が言うには、私たちの歴史博物館構想を練り上げた折の作業チームを率いたリーダーだった歴史資料館のM館長(計画当時)が、どうしても私に参加してほしい、と言っておられるので、と二度、三度にわたってその点を強調される。これには困った。
Mさんはこの分野で並ぶもののない専門家で、林屋辰三郎さん亡きあとを継ぐ大御所であるにもかかわらず、博物館計画を練り上げる上では、そうした身分の上下など意に介さず、私などの言葉にもよく耳を傾け、対等な立場で議論しあい、共に計画を練り上げてきたいわば「戦友」の一人であって、こうした市の「国立博物館誘致」などということが、いかに非現実的で、単にあのときの親玉委員会で出た話を受けただけの、当初の私たちの構想から遠い、無内容なものであるか、よくご承知であろうに、ほかに代えがたいその立場ゆえに市からこんなことを委嘱されて、やむなく義務を果たしておられるのだろう、とその胸のうちを拝察することができた。
そこで私は、委員としてなにかこの国立博物館誘致にアイディアを出せと言われても無理だが、たまたま自分は市の博物館計画づくりに一貫して関わってきたので、それならばそうした過去の経緯を知る者として役に立つことがあればお伝えする、という役割でならば参加してもよい、と申し述べて引き受けることにした。
その会議には座長のMさんのほかに、市の歴史博物館計画の具体的な作業には参加していない二人の有識者が委員として加わり、また市の歴史資料館や埋蔵文化財センターの専門家も陪席していた。彼らは求められなければ発言はしなかったが、私の戦友たちであったから、市の博物館計画の理念も、それを練り上げてきた経緯も私同様に良く知っており、Mさんの心中もよくわかっていたと思う。ただ市の職員としての立場上、国立誘致を進めようとしている部局の方針に抗うような態度をとることはできなかったろう。
その場に示された国立歴史博物館誘致の趣意書らしきものの原案は、市の歴史博物館構想を考えてきた私から見れば、形だけはそれを受け継ぎながら、無理にいかに国立施設でなければならないか、という「論理」に引き寄せた作文で、霞が関のお役人から見れば笑うべき京都セントリズムの匂いが芬々と漂うものだった。
そこで、私は率直にそのことを否定的に述べた。Mさんはこの原案の作文に携わっておられたのか、ちょっと困った表情をされたが、驚いたことに今一人の有識者委員が、「それは先生がこう言っておられるのだから」と、私を制するように言い放った。
どこがどうという批判や反論ではなく、エライ先生がこうおっしゃっているのだから、お前はまことに結構な原案ですね、とでもお追従を言っていればいいのだとでも言わんばかりの上から目線のおさえつけるような咄嗟の発言だった。
若い身空で何という権威主義的な態度をとるやつだ、と私はその見当違いの番犬ぶりに唖然としたが、それと同時に、この会議がそもそも「国立歴史博物館誘致」という京都市の既定路線をオーソライズするための会議であり、市の歴史博物館計画を担ったMさんにその役割を押し付けたものであるから、彼の意向に逆らわずにすでに用意してある国へのおねだり状をすなおに容認することだけが求められているのだ、ということも悟った。
有識者が咄嗟に発した上から目線丸出しの言葉は、いわばTPOをわきまえない私への叱責のつもりだったのだろう。もちろん私は対等な個人として自由に意見が言えない会議などというものは認めないし、Mさんとも京都市の歴史博物館計画を作るときは、そういう態度を貫いてきた。そして彼もそれを受け入れてきた。だから、この時に市が設定した内輪の会議は、まったく会議の名に値しない、お役人が自分たちのやりたいようにやるための形式的なオーソライズの場に過ぎなかった。
私がこんなつまらないことを長々と書いたのは、あの親玉委員会での梅原さんたちの提言が、こんなところにも尾を曳いて、こちらに迷惑が掛かっている(笑)ということを書いておきたかったからだ。梅原さんなら、あの世で会う時、いやぁ、すまんすまん、と素直に詫びてくれるような気がする。