2020年08月
2020年08月31日
仔鹿 ~昨日の高野川
川を渡る仔鹿
川の中に立つ仔鹿
まだお母さんのおっぱいが恋しい仔鹿
お母さんは軽々とジャンプしたけど・・・
ぼく(わたし?)はちょっと躊躇するなぁ・・・
どうしよう?とこっちを見たりして・・・
でも思い切ってジャンプ!
無事にママを追ってこちらの岸へ
耳の大きなダンボ君です。
夕暮れが迫り、再び向こう岸へ。ダンボ君は真っ先にへたり込んで寝る準備。
一番先に寝てしまいました。昨日31日はこの3頭でした。
昨日の夕餉。チキンのトマト煮パスタ添え。
レンコン、ニンジン、セロリのツナサラダ。
白菜とベーコンのクリームスープ。
グリーンサラダ。
パン。
今日、31日の夕暮れの比叡。きょうは鹿の姿は一頭も見つかりませんでした。週に一度くらいはパパのところへ戻っていくのかな?
南の方の空。
西の空。
きょうの夕餉。鯛のアラの酒蒸し。このアラは頭二つ分で198円だったそうです。アラは安くてとてもおいしい。小ぶりなほうが味が良いそうで、とても美味しかった。けっこう食べるところも多くて、ほぐして骨の裏についている身を食べていくと、半透明の骨の山ができます。目玉はパートナーが苦手なので、両方とも私が戴きます。とろけるようです。
筑前煮。
シュウマイ。
揚げ出しの茄子とマンガンジ。
モズクと胡瓜。
グリーンサラダ。以上です。
2020年08月29日
警戒音を発した母鹿~きょうは3頭、高野川の鹿
きょうはこの3頭。馬橋のすぐそばにいましたが、母鹿らしい鹿がしきりに下流の方を見て警戒音らしい鋭い声を間歇的に発していました。
警戒音を発する母鹿。犬が高い声でキャンッ!というような声。
こんんふうにずっと後ろを気にしていました。
その原因はこの方。川床に降りて釣りをしたのです。かなり距離は離れていましたが、ふだん人が侵入しない川の仲間で入ってきていて、自分たちと同じ平面に居ることで、警戒したのでしょう。私が聞いただけでも20回くらい、良く響く高い声で間歇的に鳴くので、川端通りを通る人が皆、なんだろうと立ち止まって見ていました。
しばらくはそれでも、そんなに動かずにいたのですが・・・
何がきっかけだったのか、突然駆けだして、ぴょんぴょん跳ぶように逃げていきます。
駆ける姿もまた、とても楽しい。
そのうちに川を渡りはじめ、中央あたりまでくると立ち止まって躊躇する様子。
段差のある滝のように水が落ちる所をジャンプしていきます。縦一列に母鹿がリードしていくときは、つねに一番小さな仔鹿は真中です。
みんなジャンプして高いところへ上がるのはなんなくやってみせます。
松ヶ崎橋の手前の緑地で落ち着いて草を食んでいるとき、突然仔鹿がお姉さん鹿だと思っていた2番目のに大きな鹿のおなかの下に潜り込んでお乳をのみはじめました。まだほんの赤ちゃんなんですね。しばらく飲んでいました。そうしてみると、この仔の母親はこのしんがりをつとめていた鹿なのかな。すると警戒音を発したり、3頭が行くときいつも先頭を歩いて導いていたのは、おばあちゃん鹿?
しばらく草を食んでいましたが、やがて夕闇が迫ってきて、先頭だった鹿が腰を下ろして伏せた姿勢になり、しばらくすると仔鹿もダウン。どうやらきょうはここで眠るようです。
今日はテレビでたまたま、「熊を叱る男」だったっけ、以前に放映した北海道知床でヒグマとすぐ近距離で共存している人たちのリーダー役の人のドキュメンタリーが再放送されているのを、また見てしまいました。再度見てもすばらしいドキュメンタリーでした。ヒグマが何頭も、漁師たちが漁の網を干す浜辺までやってきて、網に魚が残っていないかあさるのですが、近づきすぎると、その人が「コラッ!」と叱ると、なんとあの全長2メートル、200kgも300kgもあるというヒグマがすごすごと退散するのです。コツは決して餌を与えないことだそうで、あとは気合らしい。
餌がなくて本当に痩せこけて、顔の相が犬のようになってしまったヒグマたち、必死で何も残っていない網をひっくり返して探す母と仔の2頭連れのヒグマを見ていると哀れですが、えさを一度与えると人間を襲うようになるので与えないそうです。それでたまたまカメラがとらえていたその子熊は栄養失調で死んでしまいます。死んだわが子を舐める母熊の姿も哀れですが、彼女もたまたま見つけた魚一匹を飢えて泣き叫ぶわが子に与えるゆとりもなく、自分で食べてしまいます。それほど自身の飢えが激しかったのでしょう。別の熊の母子は仔熊が1歳。オス熊が交尾の時期に相手を求めてくると、ときに仔熊を殺すそうで、母熊は子熊と逃げてから仔熊を置き去りにしてきます。
ところが仔熊のほうは母熊を求めて捜し歩き、見つけるとしつこく付きまといます。母熊ははじめじゃけんにして追い払おうとしますが、仔熊がしつこく離れようとしないのを見て、驚いたことに自分の父を幼子に与えるように飲ませるのです。もう結構図体の大きい仔熊が母親の胸の乳房を吸うのを許容して胸を拡げているのです。しかし、飲み終わると、その仔熊はいさぎよく母親のもとを去り、二度と母親のもとに甘えには来ません。すごいなぁ、と思いますね。
この知床半島の一帯はユネスコの自然の世界遺産に登録されたんだったか、申請中なのか、とにかくユネスコで審査を担当する自然保護の権威と称するアメリカ人(だったかと思う)の何とか博士という専門家たちが車を連ねて現地視察にやってきます。そして、その博士とやらは、自然はそのままにまったく人の手をくわえず保全されるべきだと考えていて、別の場所での熊の生息地でも、熊たちと人間とは画然と区別され、囲いで隔てられ、高い位置に設けたプラットホームみたいなものの上から熊たちを安全に観察できるような環境になっています。この博士とやらは、知床でもそういうふうに自然と人間は画然と隔離されるべきだという考えにこりかたまっています。
そして、知床のこの地域の川に設けられた人工的なダムや、道路や橋を撤去しろ、というのです。これに対してこの地域(漁師たち)を代表して、さきの「ヒグマを叱る男」が質問に答え、自分たちの意見や立場を申し述べます。その言葉はこの土地の生活から生まれた必然性を持ち、確固とした裏付けを持つものだけれど、博士と称するようないわゆるインテリさんとは違って、饒舌ではなく、とつとつとしています。おそらく論理と論理をぶつけあうとすれば、博士さんは彼の言葉を理解しないでしょう。
しかし、さすがのアメリカ人の専門家と称する博士たちも、ヒグマたちが彼らのすぐそばまで来て見守っているのを見て驚くのです。こんなのを見るのは初めてだ、と。
それでも、そのユネスコのインテリさんは、人間と自然は画然と区別され、隔てられるべきだ、という考えに固執してあらためることはなかったそうです。所詮西欧流の、人間と自然を対立的にしかとらえられない文化が骨の髄までしみこんだ連中に、知床の自然の中で、みずからもその生活も自然の一部なのだ、と考え、その通り生きてきた人たちの生活思想が理解できるはずがないでしょう。しかし、映像は正直なもので、この「熊を叱る男」と、自然保護の権威那留アメリカ人とを並べてみれば、どちらが人間として上等かは一目瞭然で、自然保護の専門家博士なんてものがいかに、人間的にも薄っぺらな存在かというのが、顔を見るだけでわかってしまうのです。もちろんその自然保護の思想も薄っぺらな西洋流の自然観のコピーにすぎず、とても「熊を叱る男」の生きてきたほんものの自然と、その中で自らも自然の一部として生きてきた歳月を刻んだ存在感やその生活思想、自然観に太刀打ちできるものではないな、ということが、このドキュメンタリーを見ている人には直観的にわかってしまいます。所詮人間としての存在感が違い、格が違うのです。ユネスコも、あんな薄っぺらな自然保護の権威なんてやつを大将にしているようでは、ほんとうに世界各地の自然の中でそれぞれの自然観を背負って生きてきた人たちに軽んじられても仕方がないでしょう。自分たちは世界遺産審査の権力を持っているから、えらそうにしているのだろうけれど、あれでは世界遺産なるものも、仕方のないものだと思わされます。
今日の夕餉。ゴーヤとチクワ、ニンジン、じゃこのかき揚げ。コーンのかき揚げ。
白菜と玉葱、牛肉のすき焼き風煮。
厚揚げのメンタイ炒め。
アラメの五目煮。
ししゃも。
丁字麩と胡瓜の酢味噌和え。
揚げ出し豆腐。
小松菜のおひたし。
グリーンサラダ。以上でした。
2020年08月27日
スナップショット18 上野千鶴子さん
私が上野さんと直接ひとこと、ふたこと言葉を交わしたのは、確か二度だけだ。
最初は以前の勤務先の会議室で、どんな集まりだったか、どんなテーマだったのかも忘れてしまったけれど、上野さんが1時間足らずレクチャーして、それについて参加していた7,8人のメンバーが質問したり互いに自由に議論し合う、ちょっとしたお勉強会のような場でのことだ。
私以外のメンバーはたぶん定期的にそんなことをやっている互いに良く知った間柄だったのではないかと思うが、私が顔見知りの若手有識者も一人、二人いた。勤務先の会議室を場所に使ったので、私はたまたま同僚に誘われ、最初にきっかけになる話をするのが上野さんだというので、興味を覚えて顔を出したのだ。
いまからいえばもう何十年も前のことで、上野さんも、そこにいたメンバーもみな若くて、多くが大学の講師とか助教授クラスだったのではないだろうか。しかし上野さんの名はフェミニズムに何の興味も持っていなかった者にも、新聞、雑誌の類で報じられた武勇伝によって早くから轟いていた。とりわけマスコミを賑わせたのは、彼女が或る女性に不実な真似をしたどこかの男性を、その勤務先まで仲間と一緒に押しかけて大っぴらに糾弾した、多分まだ彼女が20代のころの戦闘的なフェミニストとしての活動は強く記憶に残っていた。
だからいわば週刊誌的興味本位で、一体どんなことをしゃべるんだろう?と聞きに行ったのだ。もちろんきっとコワイ女性なんだろうな、と思って(笑)。
その時彼女が喋った肝心の中身のほうはまるで覚えていないのだけれど、京都の社寺の配置について触れ、それをある種の都市機能のネットワークとして捉える、といった話だったような、かすかな記憶がある。京都という都市の郊外にあたる、盆地の三方を囲む山の中腹などにいくつもの寺が位置する事実を、そのネットワークの仮説で機能的に意味づけたような部分が、おぼろげな記憶に残っている。京都の歴史的な都市機能を、一つの単純明快なシステムモデルに置き換えるその知的操作の手際はとても鮮やかだった。
私は上野さんの論理とその帰結が、あまりに鮮やかで綺麗だったので、かえって疑問を感じて、ちょっと何か言って見たくなった。彼女が歴史的な事実を踏まえて言っているのか、現存する寺社の機能的な意味合いを取り出して論理的な整合性のあるモデルを組み立てたものなのか確かめてやろうなんて思ったわけだ。
それで、レクチャーが終わった後の質疑の時に、「そんなに綺麗に言っちゃえるものですかね」とちょっと皮肉なニュアンスを込めた言い方になった。「ああいう場所に寺が作られたのは、もっと後の時代のことだと思うけど・・・」
私にそんな歴史的な知識があったわけではもちろんない。後半は完全にハッタリだ(笑)。単に「綺麗すぎる」彼女の論理に疑問を呈しただけだった。
それを聞いた上野さんは間髪を入れずに応えた。
「私の社会学は<クリスタル社会学>と言われておりまして・・・」(笑)
あとは記憶にないけれど、司会役をやっていたメンバーだったろうか、私も良く知っていたメンバーの一人が上野さんの言葉をひきとって、論理的な整合性を持った解釈でモデルを作ろうとすると、どうしても歴史的な事実とはズレが生じる所が出てきて・・・というような、まあ取りなすようなことを言って、だけどとても面白い問題提起だったね、というようなことで、また別の質疑へと移っていった。
私はもちろん上野さんの議論に注文をつけるようなつもりはなかったし、彼女が論じたようなテーマについて何らの見識をもっているわけでもなかったので、ただちょっとその「綺麗すぎる」印象に疑問を呈してみたくなっただけだった。
それに対して間髪入れず自分の学問は<クリスタル社会学>と呼ばれていて、と返した機転にこちらはほとほと感心した。自分の思考の特徴も人からはそう見えるだろう弱点なり限界なりも全部わかっていて、むきになって反撥するでもなく、降参するでもなく、ちょっとユーモラスで、これまた綺麗な言葉にして、即座に打ち返してくる頭の回転の速さ、邪気のない透明さみたいなものが一瞬で伝わってくるようだった。
会議が終わってエレベーターで階下へ降りるとき、ほかの人と一緒に上野さんも乗り合わせた。目の前に立った私に、少し小柄な上野さんは、ちょっと上目使いをするように顔を上げて、見知らぬ人間に問いかけるように少しシャイな感じで「どちらの方なんですか?」と私の所属を尋ねた。
私がまさに私たちが今までいた場所の人間だと伝えると、とたんに上野さんは破顔一笑「なぁんだ・・・」と言って柔らかな笑顔になった。
私には彼女がなぜ「なぁんだ」と言ったのか本当のところは分かっていなかった。どこの誰とも知らない、少し年上らしい不機嫌な顔をした男が、自分の話にいちゃもんをつけてきたので、何者なのかと少し緊張していたのが、別に何かの専門家でもなんでもなく、会議室を借りた会社のスタッフと聞いて安堵したのかもしれないな、と思った。私が歴史的事実は違うんじゃないか、などとハッタリを言ったので、或いは歴史を専門にする人間かと思ったのかもしれないな、と。
実は上野さんがまだ大学院生の頃、私の勤め先であったこの会議室のある民間の会社(文化専門のシンクタンク)でアルバイトをしていたことがあるのを、この時まだ私は知らなかったのだ。彼女が来ていたのは、私が入社するよりもかなり以前のことで、私の知る彼女はマスコミで知ったフェミニズムの闘士でしかなかった。
あとで同僚Hから彼女がアルバイトに来ていた事実を聞き、もう一人の、私の学生時代からの親しい友人でもある同僚Tのもとで働いていたことを聞かされ、「Tとは親しいよ。だいぶ年下やから、彼のことはお兄ちゃんみたいに思ってるんじゃないかな」などと言うのを聞いて、ずいぶんと上野さんのイメージが変わった。
後日友人であるその同僚Tにこのことを話すと、「あぁ、知らん男はあいつのこと恐がっとるけど、可愛らしいとこがある子やで」(笑)などと言った。
「なぁんだ・・・」と言う彼女のあの言葉は、自分がアルバイトをして馴染んできたこの会社の社員だったのか、ということと、そのときに親しく接していただろう私の友人Tや同僚Hたちと私が同類とわかって、ある種の親しみを感じてくれての言葉だったのだろう。あのときの、パッと表情が融けるように柔らかになって、明らかに安堵感が漂うようだったのが、とても印象に残っていて、後日友人が言った「可愛らしい」という言葉はそのまま素直に受け取ることができた。
上野さんと言葉を交わした、もう一度の機会は、当時私が勤めていた会社の株主総会のあとの宴席でだった。文化専門のシンクタンクだったこの会社では、「株仲間」と称して著名な有識者、文化人にいくばくかの株式を持ってもらうが、目的は資本ではなくて、お知恵を拝借しようということだった。一種のゆるやかな知的共同体をつくって支えてもらおうというのだ。
私が入社してしばらくして、旧世代の株仲間に加えて、次の時代を担う私たちと同世代の若手有識者にも積極的に声をかけて株仲間になってもらっていた。上野さんもその一人だった。
普段はプロジェクトに応じて、適任の方に知恵を借りに行ったり、委員になってもらったりする個別の関係だが、年に一度の株主総会のときには全員に声をかけて、出席できる方に来てもらって一通りの総会の手順を終えれば、和気藹々とした酒席、夕食会を催して親睦を深めてきた。
上野さんはこの株主総会にはめったに出席しなかったと思うけれど、たまたまその時は出席してくれて、良く知られた料亭の座敷でずらっと並んだ株仲間の末席に近い位置に坐っていた。気の利く同僚が次々に酌をしてまわる。気の利かない私も、遅ればせながら先輩の真似をしてひとめぐり。お猪口に一杯だけ注いで、一言二言かわす、それだけのご挨拶と総会に来てもらったお礼の意味合いだけのことだが、何かプロジェクトで特に依頼することでもなければ、一対一で話す機会のない人たちだから、お近づきになるチャンスではあった。
上野さんの前に坐って挨拶すると、早速彼女は「いまどんなプロジェクトをしているんですか?」と訊いてきた。私はたまたまその時、或る宗教団体の依頼で、若者たちの共感を呼ぶイベントのありかたについての研究、というのをやっていた。
私たちの組織はふだん国や自治体の仕事を数多くこなしているので、政治的、宗教的なある意味の「偏り」を嫌い、政治団体からの依頼は受けていなかったし、宗教団体からの依頼もそれが初めてで最後の受託だったと思う。どういう経緯で受託したのかは記憶がないけれど、そのころはまだ私たちの世代が経営に加わっておらず、仕事の受注に関しては年長の三人の代表取締役の決定事項で、私たち研究員は受託した仕事を割り振りされて担当するだけだった。
その宗教団体は、どちらかと言えば穏やかな、あまりとんがった宗教性なりイデオロギー性なりとは無縁な団体であったし、表立った政治性というのも感じさせない、それでいて信者数は非常に多く、有力な宗教団体でもあったのだが、信者の高齢化もあって、若い世代にも受け入れられる宗教団体の在り方を模索していたのだろう。おそらくそんことで向こうからアプローチしてきて、どこかからの紹介でわが社のマネージャーが会い、内容に際立った宗教性がないテーマであることを確認して受注したのかもしれない。
委託の趣旨は宗教性を特に考える必要はないので、若い世代の共感を呼び、集客できるようなイベントの在り方について提案してほしい、というようなものだった。それで担当を仰せつかった私は、これを完全に宗教抜きの「イベントを中心とする集客についての研究」と読み替えて、様々なイベントにおける集客性について調べ、それをもとにして、文化的なイベントにおける若い世代の集客についての提案、というようなことを目的にして調査していた。
宗教団体からのイベント集客の在り方をテーマにやっています、と答えると、上野さんはこのときもほとんど間髪を入れずに「宗教団体は理想的な集客装置じゃないの!」と言った。「だってお客さんのほうがすすんでやってきて一方的にお金まで置いてってくれるんだから、こんな理想的な集客装置ってないでしょ」(笑)
こういうことを咄嗟にぱっと返してくる上野さんはほんとに回転の速いひとだなぁ、と思った。こういう人と話しているときっと楽しいだろうな、とも。
でも「難しい話題」になると切れ味鋭い論客になるからコワイだろうなと常々思っていたことも事実(笑)。私が愛読していた吉本隆明さんとの対談を読んだときはその通り、吉本さんもタジタジだった。
それまで吉本さんの書いたものに違和感を覚えたことはほとんどなかったが、この対談を読んでいると上野さんの言っていることのほうがまともで、吉本さんは私のような吉本ファンからみても分が悪い。対幻想の原理論では未踏の地に分け入って全く新たな領域を拓いた人だけれど、現実の女性がどんな状況にあって何を考えているか、といったことについてはだいぶ吉本さんの認識はズレてしまっているな、と思わざるを得なかった。
しかしこの対談を読んで上野さんの方にもひとつだけ、危惧と言うのか、ある種の違和感を覚えた点があった。
それは、子供が3歳までは母親が子供に寄り添って徹底的に愛情を注いで育てるほうがよくて、そのあとは手を放しても大丈夫、という風な、吉本さんがあの頃よく言っていた言葉を批判して、そんなことは誰にとっても検証不能なのに、吉本さんがそんなことを断言すれば、幼児を持つ母親は仕事に出たりしてわが子に寄り添っていられないことに自責の念を覚えて追い詰められてしまう。吉本さんの言説は母親を3年間子供にしばりつけることになるので、そういうことを言うべきではない、と言っている箇所だった。
吉本さんの議論が正しいかどうかは、科学的にか原理的にか吟味されるべきだとは思うけれど、それが現実に幼児を持つ母親を拘束することになるから、そういうことを言うべきではない、というのは、次元の異なる問題を短絡させた議論だと思ったのだ。
たしかに若い知的な女性たちを含む多くの人たちに思想家として信頼されている吉本さんが、3歳児までは母親が寄り添ってめいっぱい愛情を注ぐ方がいい、と言えば、それを子育ての現実的な指針のように見なして、現実的にそれが困難な母親は自責の念にかられるかもしれない。しかしだから吉本さんが自身の対幻想論から原理的にこうだと考えたことを主張すべきではない、というのは正しいだろうか。
吉本さんの主張は、対幻想論の原則から幼児期の対人関係を段階論的に想定して導かれてはいるが、具体的に3歳児まではこう、ということの根拠は私が読んできた限りでは、論理的にも実証的にも明らかではない。むしろそのことは問題にされてよいし、正されるべきだと当時の私も考えていた。
しかし、その主張がいま幼児を抱えて子育て中の女性を追い詰めることになるから、言うべきではない、という批判の仕方は間違ってやしないか、と思った。
これこれの原則的な議論はひょっとしたら正しいかもしれない(あるいは間違っているかもしれない)が、いまの状況だとこういう役割を果たしてしまうからまずい、或いは味方にとって不利だから言うべきではない、というような「論理」には、学生時代からさんざん悩まされ、うんざりさせられてきた。思想を現実的な有効性の論理で肯定したり否定したりするような考え方は、党派的な立場でものをいう人にはよく見られるものだ。
吉本さん自身は発達心理学で検証すべき問題として言っているわけではなく、彼自身の思想的な観点から、対幻想の発展過程として導き出した考えだという風な言い方をしていると思うので、それが間違っている、と考えるなら、その思想を思想としての内在的構造自体で批判すればいい。それをいわば状況の論理の中で思想の効用というのか、それが結果的に誰かを抑圧することになるとか、誰それにとって不利であるとか、そういう外在的な理由で否定することはできないだろう。それは常に党派的な思想でしかなく、否定されるべきものだと私には思われた。
女性がもし3年間、幼児に寄り添って愛情を注ぎたいと思っても、それができない状況にあるとすれば、そういう状況を変えていくように、企業社会の常識を変えていく方向へ一歩でも二歩でも歩み出すことに批判力を行使すべきであって、幼児期の対幻想のありようをめぐる原理的な考察から導かれた、3歳児までは母親が寄り添って愛情を注ぐ方がよい、という主張(それが正しいか否かにかかわらず)を封じようとするのは党派的な論理に陥ることになる、というのが私の受け止め方だった。
むろん、その時感じた「党派性」というのは、現実のどこやらの具体的な党派に所属してその見解を代弁すると言った意味ではない。ただ、ものの考え方の中に、思想の内在性に対しては同じように思想の内在性で勝負する、というのではなく、そこにいきなり現実の状況の下で或る困難に遭遇する女性を持ってきて、本来は状況の論理には状況の論理で解決をめざすべき、思想にとっては外在的な論理を持ち込む危うさを、そういう言葉で考えていただけのことだ。
もちろん上野さんの言葉の背後には、わが子に寄り添いたくても寄り添えない状況に自責の念を感じてしまう女性たちの怨嗟の声がある、という意味では現実的な「党派性」と言ってもよいのかもしれないが、そのときにはそこまで現実的な意味合いで思い浮かんだ言葉ではなかった。ただ、その対談を読んでから、上野さんの非常に明晰で透明にみえるものの考え方に、そうした或る種の「党派性」を感じてきたことは事実だ。
あるとき井上章一さんの本を読んでいたら、その註みたいな部分に、面白いことが書いてあった。
関西の知識人はそれほど数も多くないから、何か思想だの文化だのが絡んだテーマになると似たようなメンバーが集められて、いつも金太郎飴のように同じ顔ぶれになってしまう、とよく言われるが、そんな有識者の一人である彼も、いろんな会議で「上野さん」や「浅田(彰)君」とよく同席することがある、という。その時自分が何か発言したことを、まとめ役をやっている「浅田君」なり「上野さん」なりが、ほかのメンバーの意見とあわせて整理し、要点をまとめて紹介しようとするとき、「浅田君」の場合はいつも全く自分の発言が正確に要約されたという透明な印象を受けるのだが、「上野さん」の場合は、同様に非常に手際よく見事に要約してくれるのではあるけれども、いつもどこかほんの少し自分が言いたかったこととは違うな、という、言葉にするのも難しいほどわずかなズレを感じ、違和感をおぼえるところがあるのだ、と。
もちろんそれは意図的な歪曲などではないので、井上さんもそうは思っていない。おそらく上野さん自身が気づかない、彼女が他者を映す鏡のわずかな歪みなのかもしれない。今そんなことを思い出したのは、あの吉本さんと上野さんの対談を読んで感じた違和感の由来と、もしかするとどこかで関わりがあるかもしれない、と思ったからだ。
もしそういうものであるなら、それがどこから来ているものかというのは、彼女を論じる上では興味深い課題になるだろう。
もちろんそんなことは私の任ではない。私は上野さんの良い読者ではなかった。ただ、彼女が現代日本の消費社会を記号論的な、サンタグム・パラディグムの図式で綺麗に分析して見せてくれた論考などは、とても明快でわかりやすく、授業での学生への説明や卒論の助言に際して借用させてもらった覚えがある。
フェミニズムの理論家としての上野さんは書物の上でも敬して遠ざけてきたところがあって、いまに至るまで私の中の上野さんは、マスコミで報じられた企業に押しかけたときのたぶん20歳そこそこの上野さんの虚像から一歩も出ていないが、会議のあとのエレベーター内でのニアミスで一瞬見せてくれた「なぁんだ・・」と言った時の柔らかな笑顔のほうは、そんな彼女の虚像を無化するように私の記憶のうちでいつも甦ってくる。
2020年08月25日
スナップショット17 安藤忠雄さん
建築家安藤忠雄さんを間近に見たのは、多分一度だけ、大阪府の芸術文化センター(仮称)構想の企画会議の時だったと思う。木村重信さんを座長とする委員会で検討していたこの計画の事務局の手伝いを私のかつての勤務先が大阪府の担当部局から受託していたのだが、私はその主担当ではなく、別のプロジェクトとの関係で確かめたいこともあり、また受託組織として委員会の際に一応スタッフを二人出していますよ、というエクスキューズの為に、枯木も山の賑わいという意味もあったのだと思うが、主担当にくっついて会議に陪席した。
この計画の内容についても、もうおぼろげな記憶しかないが、美術が専門の木村重信さんが取りまとめ役になっていたので、芸術文化センターという仮称で検討してはいたけれど、中身は美術系のギャラリーだったと思う。同じころに私は大阪市で計画していた舞台芸術総合センター(仮称)計画の裏方で主担当をしていて、その計画と一部でもバッティングするのではないか、という点を確認するために、木村さんには別の機会に、彼が任されているこの府の芸術文化センター構想について、どんなものを考えているのかヒアリングに行った。そのとき彼は、府のほうは、一応メンバーにホール関係(音楽家だったかもしれない)の人も入ってはいるが、あくまでも美術系の施設にするつもりだから、市の構想とは全然バッティングしない、と確言していた。
委員会にも私は確か一度しか陪席していないので、安藤さんがそのメンバーであったことと、座長が木村さんだったことは覚えているけれど、全員でほんの5,6人だったにもかかわらず、ほかのメンバーが誰だったか記憶にない。おまけに、この委員会で検討した結果、その施設ができたのかどうかも情けないことに記憶がない。1980年代のことで、おそらくバブル景気の中で構想されて、バブル崩壊とともに頓挫したのではなかったかと思う(当時はそうして頓挫したその種の公共文化施設計画がたくさんあった)が、或いは中身や名称を変えて曲がりなりにも実現していたのかもしれない。
この会議で座長のはずの木村さんが一人よく喋っていて、座長が先にそんなに喋ったらほかの人は喋りにくかろうに、などと思ったことだけは覚えているけれど、中身の方は記憶がない。安藤さんもそう頻繁に発言してはいなかったと思うけれど、強く印象に残っているのは、何とも言えない存在感があったせいだろう。少なくとも大阪圏では名の知れた文化人から成る委員たちの中で、安藤さんはむしろつとめて存在感をなくすように控えめな態度をとっていたように思うけれど、いったん発言すると、その声はいわゆる「ドスの効いた」、迫力のある声だった。
それでも発言内容は今では何も覚えていない。
会議は何ということもなく木村さんペースで委員たちがそれに同意して、原案をオーソライズして終わったが、会議が終わってから木村さんは委員たちに、ちょっと一緒に一杯やりましょう、というような誘いかけをして、委員たち数人はそのまま残っていた。
私と同僚は、府の人と共に事務的な手じまいをし、座長にだけ挨拶してさっさと帰社しようとエレベーターに乗り込んで下りようとしたところへ、安藤さんが一人乗り込んできた。私の同僚は、安藤さんとも何度かこの計画の委員会で会い、個人的に依頼や説明をし、謝金渡しなどもして既に顔見知りだったので、一人でやって来た安藤さんに、「あれ?今から飲みに行くんじゃないんですか?」と訊いた。
安藤さんはニヤッと笑って、「どうもエライさんたちは苦手で」・・・
思わず笑ってしまった。安藤さんはすでに「住吉の長屋」(1976)で建築界に衝撃を与え、おそらくこの会議の少し前に完成していただろう「六甲の集合住宅」(1983)などとともに、そのころ盛んに一般の雑誌でも取り上げられ、おそらく最も脚光を浴びている建築家だったのではないかと思う。私たち後世代から見れば、もうエスタブリッシュメントになってしまった旧世代の建築家たちに対して全く新しい独創的なスタイルで挑戦状をたたきつけ、私たちの生活スタイルまでひっくり返してしまうような衝撃を与える最前衛の建築家として、どうみても「一番エライ」人はあなたでしょう、と思うような人だったからだ。
その後も安藤さんは、中之島プロジェクトで大阪市の中央公会堂の中に卵型の空間を創ってしまう「アーバンエッグ計画」(1988)で私たちを驚かせ、北海道の「水の教会」や茨木市の「光の教会」(1989)といった斬新な現代の宗教空間を創造し、私自身も彼が設計したから、という理由で、「姫路文学館」(1991)、「陶板名画の庭」(1994)、「直島コンテンポラリーアートミュージアム”オーバル“」などの現物を見に行ったものだ。
でも彼本人に間近に会えたのはあの委員会のあとのエレベーターの中でほんの一瞬だけだった。その後、ただ一度、どこかが主催した全国的な文化行政か何かの会議かシンポジウムに合わせて企画された目玉イベントとして彼が講演したとき、何百人かひょっとしたら千人以上もの来場者が詰めかけた会場の比較的前の席で彼の講演を聴いたことがあった。
久しぶりに見る彼は、相変わらず内側に強烈なエネルギーを秘めた人のように存在感があり、喋り方にも迫力があった。彼は高校時代にプロボクサーのライセンスを取ってフェザー級のボクサーだった時期があるらしいが、あの精悍な顔つきはまさにプロボクサーのもので、頭でっかちな知識人タイプの対極にあるものだった。そういう人が喋ると、言葉も筋骨たくましい肉体を持つようなところがあって、なまじっかな文化人の言葉とは違って信頼感があった。
彼は私の同僚によれば、私たちのような事務局の手伝いをしているだけの若いスタッフにも「エライさん」めいた緊張感を強いるようなところはまるでなく、私の一瞬の出会いの際も、少しはにかみがちな優しい人物に見え、講演会で一人演壇で語っている強面の印象とはだいぶ違っていた。
しかし、彼は怒るとものすごく恐いひとで、自分の主宰するアトリエでは腹を立てるといきなりスタッフに灰皿を投げつけたりするそうだ、などという噂をたまに聞くことがあった。そんな噂を伝える人が現場を見たわけでもないし、ひょっとしたら、すぐ灰皿を投げつける癖があるらしい蜷川幸雄の話とごっちゃになっているのではないか(笑)と思わないでもなかったが、そんな噂を聞いた人はあの強面の顔を思い出して嘘でも納得してしまうのではないか(笑)と思わないでもない。
実際、或る時テレビで安藤さんを追っかけたドキュメンタリー番組のようなものがあって、自分のアトリエでの彼の仕事ぶりも垣間見せてもらったが、その中では例の強面そのままに、スタッフの若い「東大出」の何人かの若い建築家のたまごをこっぴどく叱りつけていた。叱られる東大君のほうは緊張のあまりコチコチに固まってしまって、一言も発することもできず直立不動で叱責されていた。「あれはコワイよなあ、あの顔でやられたら」(笑)と私は一緒に見ていたパートナーに言ったものだ。
安藤さんファンのパートナーは、「でも自分は破天荒な前半生で一流の建築家になったのに、自分の事務所で使うのはやっぱり東大生なのね」とちょっとがっかり(?笑)していた。
私は建築については無知で、住宅については住む人が住みよい家であればいいし、仕事で関わりのある公共文化施設などは、使う人にとって使いやすい施設であればいい、と考えてきたので、「住吉の長屋」がトイレに行くにも雨が降れば傘の要る中庭を通らなければならない、などというのを聞くと、私にそんな甲斐性とコネがあったとしても、自分の住む家は彼に設計してほしくないと思った。
もちろん彼の設計の建築史的な意義だとか、彼の建築思想の意味など、私はまったく理解していないけれども、ある時、自動車メーカーのポルシェ展に行き、その図録を隅から隅まで見てポルシェの歴史に触れたとき、自分なりに安藤さんの挑戦について分かるような気がしたことがあった。
ポルシェのスタイルを日常生活に乗り回す乗用車に適用すれば、それはきっと使いにくい車だろう。ポルシェはスピードに徹底的にこだわり、もちろんエンジンなどメカの革新なしにそれは不可能だったろうけれど、何よりも特徴的なあの流線型のモデルのようなデザインから高速化を遮るものを全部取っ払って、自動車レースでぶっちぎりの首位を走り続けた。そのあげくただポルシェだけを狙い撃ちにして出走車の規格条件を変更し、ポルシェがレースに出場できないようにする、といった陰謀がめぐらされたりもしたそうだ。
ポルシェはそんな車で、一見して日常的に私たち庶民が乗り回すような車とは縁もゆかりもないように見える。けれども、ポルシェはその中身もスタイルも、世界の自動車の進化の先端をかつてない高みに導き、大きな影響を与えたことがいまでは良く知られているようだ。
デュシャンがブランクーシやレジェら友人のアーティストたちと航空展を訪れ、展示会場を見て回ったあとで突然ブランクーシに「絵画は終わった。このプロペラに勝るものをいったい誰がつくれるか。どうだね、君は!?」と問いかけたという。最新鋭の工業技術が生み出した機能美が、自分の感覚に依拠して美を生み出してきたアーチストとしての彼に衝撃を与えたのだろう。そして彼がこの時に受けた衝撃が、「レディ・メイド」と呼ばれる一連の作品を生み出すきっかけになったこともまたよく知られている。
美と機能について、しばしば機能的にすぐれたものは美しい、と言われる。デュシャンが衝撃を受けた航空機の部品のデザインはそういうものだったかもしれない。しかし、美と機能はときに乖離することがあると思う。いや、むしろ常時乖離し、その乖離があるところまで大きくなると、その乖離を一挙になくすような内発力が働いて、機能と美が一致する幸福な瞬間を実現するのだ、と言った方が適切かもしれない。
機能と美のいずれが先を行くかはその時々で違うのだろう。ポルシェの場合はもちろんエンジンを始め機能的な革新があったに違いないけれど、素人目にはあの流線型のボディが示すような美がつねに先導して、その機能を引っ張っていったように見える。デュシャンに衝撃を与えた航空機の部品など工業製品の例をとれば、逆に機能の追及がその美を生み出していったと言えるだろう。
住宅は人が住みやすく、公共文化施設は利用者が使いやすいものであることが望ましいという原則は不変だと思う。けれども、ときにそこにみられる美と機能の調和がより高い次元での両者の調和への志向を妨げるものと化してしまうとき、これに挑戦し、新たな次元を拓く試みは、その時代に支配的な美と機能の安定した調和を破壊する野蛮な行為に見えるかもしれない。
機能が先行するときには、私たち素人には理解しやすい。便利さや使いやすさ、快適さは誰もが肌で感じられるからだ。一方、美が先行するときには、その美を理解する人々は常に少数だろう。美は幻想の領域に属するので、ある時代の共同幻想を突き破るものを理解する者は常に少数にとどまる。
美と機能が乖離する中で美が先行して新たな次元を切り拓くためには、クリエイターの<手仕事>に導かれた感性だけが頼りの創造によるしかない。それは誰の役に立つとかどんな役に立つとか一切顧みることもなく、それ自身の行為の意味さえ問うこともなく、ただ美を更新する一種のオートマティズムな運動のようにしか見えないだろう。人間不在で、生活と接点を失った、高踏的な美の追究といった批難を受けやすいかもしれない。しかし、それ自体が創造の新しい次元を切り拓く上で決定的な役割を果たす道筋の1つであることは間違いないのではないか。
ポルシェに出会ってから、私は安藤さんの建築的挑戦を、そんなふうに勝手に解釈して遠くから眺めてきた。もちろん安藤さんは一度エレベーターに乗り合わせ、「社会的距離」圏内に居合わせたというだけの私のことなど覚えているはずもないが、私のほうでは「エライさんは苦手で」と笑って退散した彼の表情がいまだに好ましく印象に残っている。
もっとも、いま私がそんなことができる立場にあるとしても、自分の住宅を彼に設計してほしいとは思わないけれど(笑)。
2020年08月24日
「ROMA/ローマ」とそのメイキング
作品は昨日書いたように、とてもいい作品でしたが、きょうそのメイキング「ROMA/ローマ完成までの道」という監督自身が語り手としてこの作品の成り立ち、手法について率直に語るもう一つの映像ドキュメンタリーを見て、監督の意図が非常によくわかり、作品の印象がもう一段深まったような感じがしました。
キュアロン監督はメキシコの中産階級の出身らしく、幼いころこの映画で描かれたそのままの街と家庭環境の中で育って来たらしく、それを徹底的に細部まで再現しようという強い意志に導かれて、台本なしで「感覚だけによって」映像を制作してきたということで、その少年の日々の細部へのこだわりは徹底しているようです。
だから彼自身が撮影していてある日自分でも確たる理由もなくイライラして不機嫌になり、現場を離れて散歩して、すべて順調だし、スタッフは良くやっていて申し分ない。何も悪いことは無い、と自分に言い聞かせて現場へ戻ったらしいのですが、実はその日に撮影したシーンは、作品の舞台になっている家族にとって一つの決定的な区切りになる日で、父親が家族を棄てて出て行ってしまう日だったのです。妻があり、4人も子供がいて、何不自由ない中産階級の家庭を営んでいた父親が、おそらくはほかに女を作って、所用で出かけると嘘をついて車で出て行き、それきり帰ってこなくなるのですが、その最後に車で出ていくとき、何かを察したように妻が夫を背後から抱きしめ、二人はキスをする。その時に、夫を演じた俳優が、息が詰まるような感じがする、と言うので、監督は君の体験で感じるとおりにやればいい、と言ったらしいのですが、その時に初めて、自分が何に苛立っていたかを覚るのです。
キュアロン監督の父親は、この作品で描かれた通り、彼が少年の頃に、家族みなを棄てて出て行ったのですね。キュアロンはずっとその父親を憎み、出て行ったその時の父親の気持ちを全く理解できなかったし、理解しようともしてこなかったわけです。ところがこのシーンを撮っているときに、俳優の言葉を聴き、その演技を見ていて、はじめてその時の父親の気持ちが分かった、と思うのです。父親を許そうとは思わなかったけれども、それまでまったく分からなかった父親のそのときの気持ちが分かった、と。
すごいなぁ、と思いましたね。映画とそれを創る人間とがこんな風に関わるのか、と思って。
こういう作品はキュアロン監督ほどの映画監督でも、多分一生に一度しか創れないでしょうね。彼自身、はじめて自分が作りたかった映画が作れた、と言っていました。
主役はキュアロンたち兄弟の子供時代の面倒をみてくれた家政婦で先住民族の女性でリボという実在の人物をモデルにした、矢張り先住民族の素人の女性を何千人ものオーディション応募者の中から見出したようで、監督にとってのリボのイメージとぴったり重なる人でなくてはならなかった、と。プロの女優とは違ったあるがままの存在感があって、非常にその起用が成功しています。キャストの中でプロの俳優は、子供たちの母親役をした女優だけで、あとはみな素人だそうです。プロの女優さんはかえってやりにくかったようだ、とのこと。
なにしろ台本無しで、すべては監督の頭の中にある記憶とその記憶の中で感じていた彼の感覚から生まれてくる世界を展開していくというのですから、周囲は訳も分からないまま振り回されることになるでしょう。けれども監督のその記憶の世界が非常に強固なゆるぎない感覚に支えられているので、そこから非常にリアルな感情が沸き起こり、出来事が展開していきます。監督自身は、1970年初頭の時代に自分の周囲にあったものを、ことごとく集めて当時のままに配置し、どうしてもないものは、そっくりそのままに細部まで徹底して作り込むことによって、自分を取り巻いていた空気を再現していったようで、それが徹底しているので、私たち観客も自然にその空気を吸って生きることになります。
門を開くと中から犬のボラスがいつも吠えながら門からでようとして駆けていく。それを出ないように抑えて、門内の狭い幅の通路に車を迎え入れるのも家政婦の役目。門内通路の幅の狭さに比べて豪華すぎるギャラクシーとかいう乗用車を運転する奥さんは、夫が出て行った苛立ちもあって、ガンガン壁にぶつけながら入ってきたりします。
このいつも登場するワン公が実にいい。父が帰ってくるとわっと門へ駆け寄って内側から迎えていた子供たち。中産階級と言っても、日本で1億みな中流なんて言われたころの日本人のいわゆる「中流」なんかとはおよそラベルが、いやレベルが違います。私などからみれば、でっかい二階建てのお屋敷で、4人も子供がいてそれぞれ子供部屋を持っていて、おばあちゃんもいて、家政婦が2人もいるわけです。
この家庭を棄てて何も言わずに父親は出て行ってしまう。一方、家政婦のクレオはこの家族に愛され、子供たちにもなつかれて幸せだったのですが、フェルミンという武術に凝っている筋骨たくましい若者と恋仲になったまでは良かったけれど、妊娠したと告げたとたんに男は消え、或る時所在をつきとめて行ってみると、おなかの中の子を男は自分の子と認めないばかりか、脅すように大声で怒鳴りつけて去ってしまいます。
次に男に会うのは1971年6月10日、メキシコで学生たちの民主化要求を権力が暴力で応えた流血の日で、学生たちを殺す権力の手先として利用された暴力殺人集団の一員としてのフェルミンだった。生まれてくる赤ん坊のためのベビーベッドを買いに街の家具店の2階に来ていて、学生を追ってきた拳銃を手にしたフェルミンに再会したあと、クレオはショックで破水し、病院に運び込まれます。そして結果的に死産。この病院のシーンは、実際に医師、看護師が演じたのだそうですから、徹底してリアリズムを追究しています。
夫が自分の荷物を取りに家に来ると聞いた夫人は、子供たちとともに、おなかの中の子を失って何をする気力もなくしたクレオも誘って、車で海辺へ遊びに行きます。食事の席で、楽しさにはしゃぐ子供たちに、夫人は、もうお父さんは帰ってこない、と告げます。つとめて明るく、子供たちを励ますように気丈に。でも子供たちはショックをうけて、みな沈んでしまいます。
翌日の浜辺で、ちょっと夫人が上の子と浜辺を離れ、下の子たちには決して波打ち際から向こうへ行かないようにと言い渡し、クレオに託して行った間に、幼い子供二人は言いつけを守らず深い方へ行っておぼれかけ、危うく泳げないクレオに助けられます。要約の思いで砂浜に倒れ込むように子供たちと共に崩れ落ちるクオ。そこへ母親たちも戻ってきて、子供たちは口々に、クレオが助けてくれたの、と言います。クオも含めてくずおれた格好のまま抱き合う夫人、子供たち、クレオの家族。このシーンは美しく、またとても感動的です。
劇的なシーンといえばそんなところで、特に何かとてつもないドラマチックなことが起きるわけでもなんでもありません。こうしたある家庭の日常が淡々と細部まで徹底的に作り込まれた1970年代初頭の時代の空気を再現する形で描き出されて行きます。監督はメイキングの中で「世界を描くストーリーでは、人物はその中を通り過ぎるだけです」というようなことを語っていましたが、その言葉どおり、主人公クレオも含めて、登場人物たちはただこの再現された濃密なリアリティを持つ世界の空気を吸い、その世界を通りすぎていくだけです。でもそれが何ともいえない愛惜の情を呼び起こす、懐かしくも美しくもある世界に思えるのです。
モノクロですが、古い時代の映画のモノクロではなくて、65ミリ、4Kのデジタル時代の技術で撮られた最新の映像で、素晴らしく美しいシーンと創り出しています。冒頭にこの門内の通路の石畳を掃除して泡立つ石鹸水か何かがザーッと流され、それが排水溝に吸い込まれていく直前に次第に泡が消えて一瞬透明になって、その青天井の路地の真上の空がそこに鏡のように映される映像がずっととらえらた映像で始まるのですが、最後もこの路地の真上の空を遠く飛行機が飛ぶ何でもない映像で終わります。
監督はメイキングで、メキシコシティはいつも空を飛行機が飛んでいるんだ、と言い、また作品の冒頭で何度も排水溝の周囲の石畳に石鹸水がぶっかけられて、その水鏡に空と建物の一部が写る、その映像を作る撮影の現場を映して解説している中で、「こうして石畳に撒かれた水に映る映像の方が現実をいっそうよく捉えることができる」と言う意味のことをちらっと述べているのが耳に残りました。直に空を見上げるよりも、こうして石畳に流される水の鏡に映してみる方が、現実の核心によりよく触れることができるんだよ、と。それは彼の映画づくりの秘密に触れる言葉のように聞こえました。