2020年06月

2020年06月29日

『言葉と物』第二部第九章 一、二 ~私的メモ

 第九章は「人間とその分身」と題されています。いよいよ<人間>の登場です。よく引用されるこの本のラストの「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」という言葉の<人間>は、ここで見出される<人間>以外のものではないので、先に述べた<歴史>と同様に、19世紀(以後)の知の配置の中で生み出された、この時代の知の地層に固有の概念にすぎません。

 

一、言語の回帰

 

 フーコーによれば古典主義時代には表象の表(タブロー)として統一性を保っていた言語は、19世紀の初め、近代のはじまりにあたって、「表象から解き放たれ」、「分散させられた様態でしかもはや実在しない」ことになります。

 

 その「分散させられた様態」とは、つぎの三つの様態です。

     具体的内容を失い、普遍的に有効な形式だけを表わす形式論理の言語

     解釈(批評)の対象としてのテクスト

     自己以外の何ものをも指示しない書く行為のうちで顕われる文学の言語

 

 同じ近代初期に生み出された知の配置を共通の基盤とする経済過程や生物が統一性を失わなかったのに対して、ここにみる「分散」は、同じ知の配置のもとに出現した19世紀初めの言語に固有のものでした。

 

 博物学の表(タブロー)が分裂させられたとき、生物は分散させられることなく、逆に生命の謎のまわりでまとめなおされた。富の分析が消滅したとき、あらゆる経済過程は生産と生産を可能にしたものとのまわりでまとめなおされた。ところが、一般文法の統一性 ─ 言語 ─ が解消させられたとき、言語は、その統一性がたぶん回復されることの不可能な多様な様態で出現したのである。p323

 

 ここまでは素直にたどってこれるのですが、この先が私にはまだフーコーの語ることについていけません。

 

  生物や経済過程に対しては早くから哲学的反省がなされたのだが、言語に対する哲学的反省はそれらよりずっと遅れた、とフーコーは言います。それは、「哲学的反省にとって問題だったのは、言語が哲学的反省の作業に対立せしめうる障害を除去することだったわけで、たとえば、語を疎外していた沈黙の内容から語を自由にするか、あるいはまた、言語をしなやかにし、それを内部から流体のようなものとすることによって、悟性の空間化作用から解放された言語が生命の運動やその固有の持続を示しうるようにするか、そのいずれかが必要とされたのである。」(p323-324)というふうな記述は、フーコー自身はとても具体的な指示物を頭の中に描いて言っているのでしょうが、私にはそれが何を指しているのかが分からないし、使われている比喩も意味不明です。

 

 言語が直接自分自身のため思考の場にもどってきたのは、十九世紀末のことにすぎない。文献学者としてのニーチェが最初に哲学的作業を言語についての根源的反省に近づけたのでなかったとすれば、それは二十世紀になってからだとさえ言うことができるであろう。p324

 

 経緯は分からないけれど、とにかく彼は、そういう言語に対する哲学的反省が再開される道はニーチェが拓いたと考えているようです。そして「ニーチェがわれわれのために開いたその哲学=文献学的空間に、いまや言語が姿をあらわし、その謎めいた多様性を制御することが必要とされる」ことになった。そのとき、「おびただしい投企」としてあらわれるのが次のようなものだというのです。

 

 あらゆる言説の普遍化的形式化の諸テーマであり、同時に世界の完全な非神話化でもあるような世界の全体的釈義の諸テーマであり、記号の一般理論の諸テーマであり、さらに、あらゆる言説を唯一の語に、あらゆる書物を一ページに、全世界を一冊の書物にあますところなく変形し、完全に吸収するというテーマにほかならない。マラルメが死にいたるまで一身を捧げた偉大なる作業こそ、われわれを今日支配している作業なのだ。p324

 

  バラバラにされた言語の統一性を、哲学的反省のもとに、再度統一的なものとして再構成するための努力の事例として、神話にかわる世界の成り立ちとその全体像を説明するような言葉、あるいは具体的な物を記号の相互関係と操作に置き換える汎記号論的な世界の解釈、さらにあらゆる言説を凝縮した一つの喩に置き換え、世界を一冊の書物に集約してしまうといった詩人の試みが挙げられているのでしょうが、マラルメ・・・まあもともと翻訳で読んで分かるような詩人ではないことは当然でしょうけれど、マラルメにせよニーチェにせよもう少し媒介的な論理を記述してくれないと、フーコーさん自身の読み方を当然の前提として、その結論だけ別の文脈に嵌め込んでその根拠であるかのように語っていくやり口というのは、ちょっといかがなものか(笑)。

 

 私のような手ぶら読みの読者に対してはいつでも、予習してからまたおいで、と著者はこの種のボヤキを突き返すことができるでしょうが、それにしてもそうした嵌め込まれたひとつひとつの哲学者や詩人の評価、解釈はひどく彼自身に独特のものですから、たとえ「予習」したって、ますます疑問が深まって拡散して収拾がつかなくなるような気がします。結局フーコーのこの書物を理解するには、ネタ本を読んで予習したって駄目で、この書物自体に、つまり彼の語彙、彼の言いまわし、彼があらかじめ持っている哲学者や詩人への評価、解釈をさしあたり受け入れ、牛刀で牛をまるごとさばくような力任せの、見事ではあるけれど、いささか強引な切り分けかたや、内臓、組織を手早く腑分けしていく手さばきの見事さをたどっていくしかないようです。

 

 いや、これだけ緻密な論理を何が強引だ、と言うファンだの専門家だのといった人はあるかもしれないけれど、およそ500年分のヨーロッパの思想の地層を牛刀でぶった切って、その地層をはぎ取って、地層自体を支えるプレートの構造を露出させようというような企てですから、そりゃ一人一人の思想家や思想の捕まえ方が大雑把になるのはやむを得ないところがあると思います。

 

 いい例が、世間で未だに力をふるっていることが面白くないらしいマルクス主義のつかまえ方です。前にその個所には触れましたが、リカードと並べて、要するに<歴史>の読み方の向きが逆だっただけで、マルクスは知の深層にいかなる断層ももたらさなかった、ブルジョワジーを代表する理論家たちとの対立なんて、子供の遊びとしての「盥の中の嵐」に過ぎなかった、なんてね。ムカッ!(笑)

 

 こういうときのフーコーの眼は、マルクスも「マルクス主義者」も、まったく区別していないし、その違いも見えていません。それこそマルクスが初期のエピクロスとデモクリトスについての比較論文でやったような、微細な差異にこそひそむ決定的な違いを見ていない。そういうときのフーコーはマルクスも「マルクス主義者」も一緒くたにマルクシズムとして扱うような凡庸な思想史家とかわらない凡庸な顔をみせてしまいます。また、ニーチェへの過剰な賛美と比較しても、まったくアンフェアな態度です。

 

 まあぼやきはこのくらいにして(笑)、ニーチェの問いに正面から答えようとしたのが、マラルメの詩だったんだそうです。彼の試みは、「言語の細分化された存在をおそらくは不可能なひとつの統一の拘束のもとにつれもどそうとする今日のわれわれのあらゆる努力を、そのなかに包み込んでいる」(p324)のだそうです。

 

 ニーチェとマラルメの応答については少し説明があります。

 

 ニーチェにとって問題は、善と悪がそれ自体何であるかではなく、自身を指示するための<アガトス>、他者を指示するため<デイロス>と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、<だれが語っているのか>、知ることであった。なぜなら、言語全体が集合するのは、まさしくそこ、言説を<する(トニール)>者、より深い意味において、言葉を<保持する(デトニール)>者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのもの ─ 語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰りかえすことを止めようとはしない。ニーチェがその設問を自分自身、すなわち語りかつ問う主体、<エッケ・ホモ>に基づかせるため、結局のところみずからこの設問の内部になだれこむことまで覚悟して、だれが語るのかという問いを最後まで発しつづけたのにたいして ─ マラルメは、言説がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである。p324-325

 

  こういうところになると、妙に「文学的」な表現になっています。言語の分散状況からその再構成、統一を志向するとき、認識に焦点を当て、その客体を語る言説に着目するのではなく、ニーチェは語る主体の「哲学的反省」に向かったということでしょうか。この文脈ではそういうことではないような気もしますが、よくわからない。「設問の内部になだれこむ」というふうな喩的な表現が具体的にニーチェの思想的態度のどのような点を指して言っているのか、私には分かりません。

 

マラルメについての記述は感覚的にはわかるような気がしなくもないけれど、「執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語から自分自身をたえず抹殺しつづける」というのが、マラルメの詩を彼がどう読んだからそんな風に言えるのかが私には見えていません。

 

しかしいずれにせよ、フーコーはニーチェの問いかけと、マラルメの応答との間には「埋められることのない隔たり」があると考えているようで、そのこと自体が私たちにとっての現在的な課題を示唆しているんだ、と言いたいようです。

 

そして、正解は分からないけれども、そういう問いかけがどこから私たちのもとへきたのかは分かっている、と。つまりそのような問いは「十九世紀のはじめに、言説の法則が表象から引きはなされ、言語の存在がいわば断片化されたという事実によって可能となった」のだ、と。

 

そして、ニーチェ、マラルメによって「思考がはげしく言語そのもののほうへ、その単一で困難な存在のほうへとつれもどされたとき」それらが(その問いがわれわれのものとなるということが、でしょうか)「必然的なものと」なったのだというのです。

 

こうして「われわれの思考のあらゆる好奇心は、いまは言語とは何か?言語をそれ自体完璧なかたちで出現させるためにはいかに迂回すべきか?という問いかけのうちに宿っている」のだそうです。それもこれもみな「言語の失われた統一を回復しようと望む」ことによってもたらされた帰結だったというのでしょう。


 二、 王の場所

 

古典主義時代の表徴の表(タブロー)が破綻し、消えて行ったところへ主体の側の先験的空間と同時に客体の側に経験的諸学、経済学、生物学、言語学などが、同じ思考のパラダイムの上に現われ、それ自身の組織、法則、歴史をもって実在することになったわけですが、ここに古典主義時代の表象の仕組みの中にはまったく姿をあらわすことのなかった存在が姿をあらわす、とフーコーは言います。

 

ここで持ち出されるのが、この本の冒頭に置かれたベラスケスが1656年に描いた「侍女たち」の絵とそれをめぐるフーコー自身の独立したエッセイのような分析の記述です。この絵は私もプラド美術館で見ましたが、宮殿の画家のアトリエなのか、暗い室内の非常に落ち着いた色調と、そこに穏やかに射し込んでいる光が、多様な動きのある様態を見せながらスタティックな人物たちの表情や衣装に与える微妙な陰影に焦点が絞られ、完璧な印象を与える絵でした。

 

奥の鏡に映っている国王夫妻を描いている画家自身が、向こうを向いたキャンヴァスと共に絵の中に描かれているので、当然絵の外部であるこちら側に国王夫妻がいるはずですが、それは同時にこの絵の世界全体を描いている画家の立つ位置でもあるはずだし、さらにこの絵を見ている私たち鑑賞者が立つ位置でもあるわけです。見る―見られる関係を辿っていくと、結構複雑な仕掛けのある絵だな、というのはこの絵を見る誰もが直観するだろうし、私もそういう意味で不思議な絵だな、と思って見ただろうと思います。半世紀も前のことだからその時の感覚を実際に覚えているわけじゃありませんが。

 

ただ、その不思議な絵だな、という感じは、変だとかおかしいぞ、というのとは違います。この絵の中に不合理なものがあると思ったわけではないのです。ただ、普通は画家が描いた対象だけが絵の中に描かれるところが、絵を描いている画家自身が絵の中に描かれていて、その画家が描いているはずの国王夫妻が絵の中にいない(鏡に映っている二次的な像として以外には、ですが)、というところが、不思議な印象を与えるわけです。本来は絵を描く主体である画家が描かれる客体の側にいて、その画家が描く客体であるべき国王夫妻のほうがあたかも絵を描く主体の側にあるかのような構造がここに仕組まれているわけです。

 

フーコーは、「古典主義時代の表象の仕組みと言えば、人はすすんで、あらかじめ存在するその法則を『侍女たち』の絵のなかに認めたがるかもしれない」と述べてこの絵を引き合いに出し、絵の中に描かれた様々な物や人物たちがみなその表象にほかならないことを述べた上で、絵の中の多くの人物たちの視線をはじめ、「絵の内部のあらゆる線、とりわけ、中心にあるその反映からくる線」は、「表象されつつ不在であるものそのものを目指している」とし、先の私が述べた主体―客体の転換については次のように述べています。

 

それは客体であり─表象された芸術家が画布のうえに写しつつあるものであるから─同時に主体である─画家が自身をその制作をつうじて表象しながら見ていたのは、画家自身にほかならず、絵に描かれている視線は、王というあの虚構の点に向けられているが現実にはそこに画家がおり、画家と至上のものとが瞬く間にいわば際限もなく交代していくこの両義的場所の主人公こそ、最終的には、その視線が絵をひとつの客体に、あの本質的欠如の純粋な表象にと変形していく、鑑賞者にほかならないからだ。p327

 

この絵に描かれている人物の視線をはじめ「あらゆる線」は私たち鑑賞者が客体として見ているこの絵の中には不在の「王」を表象しているけれど、わたしたち鑑賞者はそんなふうにこの絵を分解してみない限り、その「王」の不在をこの絵画における「欠落」だとは思いません。それは絵画の中に表象されたもの(画布や登場人物の視線等々)によってたえず充足させられているからです。私は「不思議な絵だな」とは思ったけれど、何か描かれるべきものが欠けているとか、見えているべきものが見えていなかったり、見えていないはずのものが見えていたりして不合理だとはまったく思わなかったのです。

 

古典主義時代の思考のなかで、そのために表象が実在する者、模像とか反映としてそこにみずからを認知することによって、表象のうちにそれ自身を表象する者、「表のかたちにおける表象」の交叉するあらゆる糸を結びつける者,そのような者は、それ自身、けっしてそこに現前しているわけではない。十八世紀末以前に、<人間>というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語の歴史的厚みもまた同様だった。<人間>こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない。p328

 

こうして不在の王の位置に<人間>が来れば、「侍女たち」の絵はまさに古典主義時代の表象の世界そのものの綺麗なモデルになるわけです。

 

もちろん、古典主義時代の経験的諸学はみなそれぞれにある意味では人間を認知する仕方だったと言えるでしょう。しかし、・・・

 

人間としての人間についての認識論的意識というものはなかったのである。古典主義時代の<エピステーメー>は、人間という固有で特異な領域をいかなる仕方においても孤立させないような、おおくの線にしたがって分節化されていた。p328

 

では、いま私たちが、<人間>が立っていると考えているその場所、表象と存在が出会う地点、自然と人間の本性とが交錯する地点に、古典主義時代の知は何を見ていたのか。フーコーによれば、それは「言説(ディスクール)の力」です。「つまり、表象をおこなうかぎりでの言語の力─物を語の透明さのうちに示しながら、物を名ざし、截断し、組み合わせ、結びつけてほどく、言語の力だった」。

 

言説のあるところ、表象は拡げられ並置され、物は集められ分節化される。古典主義時代の言語の深い使命は、・・・ともかくつねに「表(タブロー)」をつくることにあったわけだ。だから言語は、透明であるためにのみ実在し、十六世紀に判読すべき言葉として言語に厚みをつけ、言語を世界の物ともつれあわせた、あの人知れぬ手ごたえを失ってしまっていた。しかもまだそれは、今日われわれがみずからに問いかける、あの多様な実存を獲得してはいなかった。だから古典主義時代には、言説とは…表象と諸存在とがそれを横切っていく、あの半透明な必要物にほかならぬ。p330

 

古典主義時代の「語」は、ルネッサンス時代のように判読すべき標識でもなければ、実証主義時代に於けるような、多かれ少なかれ忠実で制御できる道具でもなく、「むしろ、そこから出発して諸存在が顕現し表象が秩序づけられる、無職の網目を形成する」ものであったわけです。

 

したがって、古典主義時代には、「人間の実存がそれ自体として問題とされることは可能ではなかった。言語のなかで結びつけられていたのは、表象と存在だったから」です。デカルトの「われ思う」と「われあり」を結びつけたのも、フーコーの言うところでは、表象と存在であり、「われ思う」から「われあり」への移行は、「みずからにたいして表象するものと存在するものとをたがいに連接させることからその全領域とその全作用とが成り立っている、ひとつの言説の内部で明証性の光のもとに遂行されたのである」(p331)ということになります。

 

 しかし、博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、言語についての反省が文献学となって、存在と表象がそこに共通の場を見いだしていた古典主義時代の言説が消えたとき、知にとって客体であるとともに認識する主体でもある両義的立場をもった<人間>が現れます。

 

 従順なる至上のもの、見られる鑑賞者としての人間は、「侍女たち」があらかじめ指定しておいたとはいえ、ながいことそこから人間の実際の現前が排除されていた、あの<王>の場所に姿を見せるのだ。p332

 少し第三節にはいりましたが、きょうはここまでにしておきます。だんだん私には難しくなってきます。終わりまで行き着けるかどうか。途中行き倒れになるかもしれません(笑)。
 きょうはほとんど、原典訳本の引き写しに終始した感があります。その間にも、わからない塊がたくさんあります。この本を読んだら、もう再びフーコーさんまで戻ってくる時間は私には与えられていないと思うので、最初で最後のお付き合いと思って、さっぱりわからなくても、とにかく最後まで(読むには読んだけど、自分なりに意味をとおしながらメモする作業を)続けてみたいとは思っています。



saysei at 20:43|PermalinkComments(0)

2020年06月27日

『言葉と物』第二部第八章 四 ボップ  ~私的メモ

 18世紀の知の地層と19世紀の地層との間に断層を生み出したものを、リカードの経済学、キュヴィエの比較解剖学に共通するものとして、そのそれぞれの領域でどのようにその思考の枠組み、知の配置が転換したかを語って来たフーコーが最後に取り上げるのが、『サンスクリット語の動詞活用体系について』(1816年 )を書いたドイツの比較言語学者フランツ・ボップです。同じ位置づけをもつものとして『インド人の言語および知恵について』(1808年)の著者フリードリッヒ・シュレーゲル、および『ドイツ語文法』(1818年)のグリムの名が挙げられています。

 

 手ぶら読みの読者としては、こういう読んだことのない連中を典型的な事例として分析を進められると、もう分析者の手際を信じて、あぁそうなんですね、と通り過ぎるしかないのが、少々つらいところです。リカードやスミス、ラマルク、キュヴィエならば、その著書を読んだことがなくても、だいたいこういうことを言った人だね、という最小限の中高生的知識はある(笑)ので、それはフーコーが描き出す像とは全然違うけれども、その落差そのものはある程度実感できるところがあります。中には主著を拾い読みしたことのある著者もあるから、一層馴染み深くも思われます。ところが、ボップやシュレーゲルとなると、著書どころか、そもそも何もので、どんなことをやった人か、というウィキペディア的情報さえ持っていないので、あわててネットを調べて、ああこういう人なのね、というくらいしか知りません。ましてフーコーが具体的な著作を手に取って、こういう知の配置の上にこれは成立しているだろう?と解き明かしている、その手の上に置かれた著作は見たこともない本ですから、その解き明かし自体を理解することが大変難しくなるのはやむを得ないところがあります。

 

 しかしこれはフーコーに限ったことではなくて、映画論の最新決定版みたいに扱われているドゥルーズの『シネマ』にしても、2冊の大部の訳本は出たものの、それは具体的な作品としての映画を論じることで成り立っている本ですから、それを最低半分くらいは見てないとお話にならないんじゃないか、と思うのですが、私のような手ぶら読みの読者にとっては、まず9割9分(数えたわけじゃないけど・・笑)見たことなんかない作品が取り上げられてああだこうだと、それを貫く議論をしているわけで、正直のところ読めた代物ではない(笑)。

 

 映画ほど極端ではないにしても、まあ思想史的な書物も、手ぶら読みの読者にとっては似たようなものですから、とくに近代の少々ややっこしい地層の話、その中でもややこしさにかけては、他に倍するような言語の地層を繊細に剥がしていく作業についていくのは、少々手にあまるようで、このへんから「???」マークがやたら多くなります(笑)。

 

 まあ、行けるところまで辿って見ましょう。

 

 フーコーの引用するシュレーゲルの『インド人の言語および知恵について』によれば、シュレーゲルはフーコーの分析のとおり、キュヴィエの比較解剖学とポッブや自身による、言語の内部構造の研究、ないし比較文法学が同じ一つの19世紀的なパラダイム(フーコーのいう<エピステーメー>)を拓いた、パラレルな知の営みであったことを正確に自覚していたということになります。

 

 キュヴィエ以前には、自然の手がかりであった「特徴」は、表象的価値を持ち、「表象されたものを分析し二重化し合成し秩序づける能力によって、はじめて実在するものだった」けれども、キュヴィエの登場によって、「特徴はその表象機能を喪失した」、いや、特徴はなお表象することはでき、隣接関係や近縁関係を設定することもできるけれど、それはその目に見える構造や特徴を構成する記述可能な諸要素の固有の効力、つまり表象自体の持つ力によってではなく、特徴が全体の組織に関係づけられていたからでした。

 

 これと同様に、「語」もまた、それを使いあるいは聞く人々の精神の中でひとつの意味を持ち、何かを表象できる点は変わりなかったけれど、語が文の内部でしかるべき位置づけを持ち、あの語と結びつくことを可能としてくれるものは、もはや表象の力、言説性の効力といったものではなく、語を組み立てている音や、語の果たす文法的機能に従って語が蒙る文法的変化、あるいは語の歴史的な変化等々の厳密な法則がこれを基礎づけている、と考えられるようになります。

 

 語がひとつの表象に結び付けられるのは、言語がそれをとおしてその固有の整合性を規定し保証する、文法組織の一部とまず語がなっているというかぎりにおいてのみなのである。p301

 

 フーコーはこのような語のみせた転移を「表象的諸機能の外への後方跳躍」というなかなか面白い言い方で語っています。

 

 言語はそれ自体自律的な法則をもち、<歴史>の厚みを持つに至ったわけですが、このように「言語が表象に対して透明であることを止めて、厚みを増し、固有の重みをもつようになったと意識するのは」大変困難でしょうから、言語におけるパラダイムの転換、「文献学」の誕生が、生物学や経済学よりずいぶん遅れたのはそのせいだろう、というのがフーコーの見立てです。

 

 文献学の形成につながる理論的な条件を、フーコーは「四つの理論上の線分」として考察しています。

 

  ある言語を内部から特徴づけ、他の言語と区別する、文法的構成の規則性についての考察(文法的諸要素の並列に関する規則性、屈折体系の規則性)

  言語を音声学的な諸要素の総体ととらえ、その内部組織の変化を辿る考察(音声の類型学、一つの音の変化を引き起こす条件の研究)

  語幹の新しい理論の確立(動詞の語幹はそれ自身動詞的意味を保持していて、「物」を指示するのではなく、行為や状態や意志を指示するものであり、言語は知覚されるものの側ではなく、活動する主体の側に根をもつ。)

  語根の分析から導かれる諸言語の間の<近隣関係の諸体系>についての新しい規定(表象的言語観にみられる連続性を断ち切ることで、語幹の変様、屈折体系、屈折語尾系列の研究によって言語と言語を直接比較できるようになった。)

 

 一つ一つかなり踏み込んだ記述がなされているので、もうこのへんまででいいか、とも思うのですが、結構大切なことが書かれているので、少々煩わしくはありますが、たどってみましょう。

 

 まず最初は、ある言語を他の言語から区別し、特徴づける方法とそのもとになっている考え方が古典主義時代とどう違うか、ということです。

 

 古典主義時代にも言語の個別性を様々な規準で規定し、区別していました。語を形成する音相互の比率(母音、子音それぞれの占める比率)、具体的実詞が多い言語か、抽象的実詞が多い言語か、語を秩序づける配置等々。しかし、こうした指標による言語間の区別は、「言語が表象を分析し、ついでその諸要素を合成することを可能にする、そのやり方以外のものにはけっしてかかわりはしなかった」。しかし、シュレーゲル以後は「言語を合成する固有の意味での言葉上の諸要素を、言語が互いにつなぎ合わせていく、そのやり方によって規定されることとなる」。

 

 要するに諸言語の表象としての連続性のうちで、様々な表象的要素(可視的特徴)の差異が、同一性と相違性の原理によって問題にされていたにすぎないのが、それぞれの言語の<歴史>に根をもつ固有の法則に基礎づけられた諸要素の比較によってその特徴づけがなされ、他の言語と区別されるようになった、ということですね。

 

 音や音節の語の配列によって構成される物的統一体は、表象の諸要素の純然たる結合によって支配されるわけではない。それは、さまざまな言語によって異なるその固有の原理を持っている。文法的構成には、言説の意味にたいして透明ではない規則性があるからだ。しかしながら、意味はほとんどそのままひとつの言語から他の言語へ移ることができるのであるから、ある言語の個別性を規定することを可能にしてくれるのは、文法的構成の規則性のほうにほかなるまい。それぞれの言語はひとつの自律的な文法的空間を所有している。p303

 

 たしかに意味の方は、猫→catchatKatze とほとんどそのまま他の言語に移ることができますからね。ひとつの言語を特徴づける規則性が意味に支配されているわけではなく、それぞれの歴史性に貫かれた固有の文法規則とその変化に規定されているわけです。それは表象の場を経由せずに直接相互に比較することができます。

 

 そうした文法的諸要素の組み合わせには大別して二つの様態があり、ひとつは「文法的諸要素を、それらが互いに限定しあうように並列することにある」。

p303

  もう一つの結びつきの様態としては、「内部から本質的音節や語―語幹となる形―を変質させる、屈折体系である」(p304)。

 

 最初の方は、抽象的でわかりにくい言い方なのですが、少しあとのところで、この「言語組織の二つの大きなタイプ」の例として、「シナ語」と「サンスクリット語」を挙げ、前者を「継起する諸観念を指示する小辞がそれぞれべつの実在をもつ単音節語」、後者を「構造がまったく有機的であって、いわば、屈折と内部の変様と語幹の多様なからみあいとの助けをかりて分岐していく」と解説しているのを読めば、どんなことを言おうとしているのかは分かります。屈折というのは前にも出てきたように、語尾とその変化の体系を指していると考えておけばいいと思います。だから欧米語なんてのは、この分け方で言えば全部サンスクリット側に入ってしまうでしょう。

 

 さてフーコーのいう「第二の線分」は、こうした<内部的変化>の研究です。古典主義時代の「一般文法」も、語源を探求して、語と音節の変形を研究はしてきました。しかし、フーコーによればその研究は三つの理由で制限されたものでした。ひとつには、それは「実際に発音される音が時間的に変様させられるその仕方というよりも、むしろアルファベット文字の変態をその対象としていた」こと、二つ目には、「それらの変形は、いついかなる条件のもとでもつねに可能な、文字相互のある種の類縁関係の結果と見なされてきた」(たとえばpbmnは相互に置き換えられる隣接関係にあるとみなされてきた)こと。三つ目に、「母音は、言語のもっとも流動的でもっとも安定性を欠く要素として取扱われ、他方、子音は、言語の堅固な建築を形成するものとされていた」といった限界でした。

 

 これに対して、「ラスク、グリム、ボップによってはじめて、言語は、音声学的な諸要素の総体として取扱われるようになる」。(p306

 

 一般文法にとって、言語は口あるいは唇の噪音が<文字>となったとき誕生するものだったが、いまや、そうした噪音が分節化され、たがいに区別される<音韻>の一系列に分けられるとき、言語があるということが認められる。言語の存在のすべてはいまや音声なのである。・・・言語は、それが現にそうであるところのものにもっとも近いもの、すなわち話されたもの(パロール)─ 書かれたもの(エクリテュール)が涸らし即座に凝固させるあの話されたもの ─ のなかに求められる。p306

 

 グリム兄弟らの、民間伝承や方言に対する関心も、こうした背景があったのだ、ということにも言及されていて、なるほど、と得心します。

 

 こうして「話されたものは至上の物となる」。そして言語は、『ポール=ロワイヤル論理学』が提出した<記号>(「能記と所記のあいだの遠近、類似、恣意性の度合いに差のある」)ではなくなり、「言語を音符に近づけるため目に見える記号からひきはなす、顫動という性質を獲得するのである」。

 

 「顫動(センドウ)」って難しいですね(笑)。「ふるえる」ことらしいのですが、音声としての言語ですから音波という空気の「ふるえ」には違いないけど(笑)。

 

 すぐあとに、ソシュールへの言及があります。

 

 そしてソシュールは、歴史的諸形態のかなたに言語(ラング)一般の次元を再興し、かくもおびただしい忘却をこえて、ポール=ロワイヤル以後最後の観念学派まで中断することなくすべての思考を活気づけてきた、記号という古い問題をふたたび取り上げるため、十九世紀の文献学全体にとって主たるものにほかならぬ、言[パロール](=話されたもの)というこの契機をまさしく避けてとおらなければならなかったのだ。p306-307

 

 フーコーの知の考古学では、ソシュールも18世紀的な思考の枠組みの中にすっぽりおさまってしまうのかもしれません。
 そういえば吉本さんが、フーコー流の考えだと自分(吉本)の思想は19世紀的な思考の枠組みに収まってしまうことになるだろう、というようなことをどこかで言ってましたね。彼は自分の主著の外国語への翻訳の話に水を向けられたときに、もし自分の著作がどうしても読まれなければならないものなら、遅かれ早かれ世界のほうがほうっておけなくなる。自分の著作がいまそれだけのものだとは思わない。だから、翻訳していま海外に読者を求めるなんてことは、どうでもいい二義的なことに過ぎない、という意味のことを言い、同じ意味で、ドゥルーズだのデリダだの色々邦訳されて移入されているけれども、そういうものは読まなきゃいけないとは思わない。しかしフーコーの『言葉と物』だけは、自分でものを考え、世界について、人間について考えようとするなら、どうしても読まなければ仕方がない唯一の現代思想ではないだろうか。他のものは読まずに済ませることができない、なんていうのは一つもないけれど、この著作は読まずに済ませることができないだろうし、読んでなきゃ<もぐり>だ(笑)と。

 

 それだけ日本でいつもどおり吉本さんのいう知的密売屋が流行させて、いまはこれだよ、と売りつけてきた、あれこれの海外の思想家たちとは峻別して、別格の思想家として高く買っていたのでしょう。

 

 フーコーの知の考古学のもとでは、前に読んだ「新記号論」(石田英敬・東浩紀)のような汎記号論的な思考も、交換から共同体やその権力の様態を考えていく「世界史の構造」(柄谷行人)の思考も、そういえば最近ライプニッツやスピノザを再評価するような雰囲気があるらしいのも、意匠だけは目新しいけれど、みんな18世紀的な表象の世界への回帰ということで、彼のいう古典主義時代。18世紀の地層にすっぽりと収まってしまうものなのかもしれません。

 

 だいぶ話がそれてしまいましたが、こうして19世紀になると、言語が話された言語に、音声としての言語になって、「これを転写することのできる文字から解放された、音韻の総体として取扱われる言語の分析」がはじまります。

 

 その分析は三つの方向においておこなわれた、とフーコーは言います。第一に音声の類型学、第二に「一つの音における変化を惹起しうる諸条件を対象とする」分析、第三に「<歴史>をつうじての変形の恒常性を対象とする」分析です。

 

 フーコーの言う文献学の誕生を導いた第三の「理論上の線分」は、子音や母音にかかわる歴史的変化の法則の探究から導かれた、<語幹の新しい理論>でした。

 

 古典主義時代の<一般文法>における語源研究は、ある言語が原初にそうあったと考えられる単純な要素を決定するために「なお言葉となっていない音がいわば表象の生気そのものに触れる想像上の接触点にいたるまで、遡っていかなければならなかった」(p308)。

 

 十八世紀には、語根は、そもそもの起源において具体的な物、直接的表象、視線あるいは感覚のどれかひとつに触れる対象を指示する、基礎的な名であった。言語とは、名によるその特徴づけの働きから出発して構築されたものだったのである。つまり、転移がその意味を拡げ、抽象作用が形容詞を誕生させると考えられていた。そして、活用させうる語の範疇が成立させられるには、そうした形容詞に、もうひとつの還元不能な要素、すなわち<ある>という動詞の大きな単調な機能をつけくわえる ─ いわば、それは存在と付加形容詞をひとつの動詞的形態に凝集させることだが ─ だけで充分だった。p309

 

 なかなか面白いのは次のくだりです。

 

 語幹はそれ自身動詞的意味を保持しているのであって、<ある>という動詞の活用から派生した屈折語尾はただそこに人称と時制の変様をつけ加えるにすぎない。つまり動詞の語根は、もともと「物」を指示するのではなく、行為や過程や欲望や意志を指示しているものにほかならない。p310

 

 言語はもはや、他の表象を截断し組み立てなおす力をもつ、表象のひとつの体系ではない。それは、もっとも恒常的なその語根において、行為や状態や意志を指示し、人の見るものというよりはむしろ、人のなすこと、あるいは蒙ることを最初から言おうと望むのであって、最終的には指によってのように物を指すことがあるとしても、それは、物がそのような行為の結果であり、対象であり、手段である限りにおいてなのである。(同前)

 

 だから名詞は表象の複雑な表(タブロー)を截断するのではなく、行為の過程を截断し静止させ凝固させるのにすぎない。言語は、知覚される物の側にではなく、活動する主体の側に「根をもつ」わけだ。おそらくこの場合、言語は表象を二重化するあの記憶というよりはむしろ、意志と力とから生じたものであろう。話すのは行動するからであって、以前に認知したものを再認知することによって認識をおこなうからではない。行動のように、言語は深い意志を表現する。(同前)

 

 こうして純粋文法の次元の発見によって文献学が成立したとき、言語の表現機能は単に起源を説明するためのものでも、音が物を表象することができることを説明するためのものでもなく、言語活動の全域にわたり、その複雑な形態においても、還元しえない表現価値をもつことになります。

 

 言語が表現するとすれば、それは、言語が物を模倣しなぞるからではなく、言語が話す人々の基本的意志を顕示し翻訳するからである。p311

 

 言語は「もはや物の認識につながるのではなく、人間の自由に結びつく」ものとなり、そのようなものとして民衆の精神によって諸文明に結びつけられるようになり、人間の自由な運命との間に深い近縁関係を取り結ぶことになります。「文献学は深い政治的共鳴を持ち続ける」こととなります。

 

 フーコーによる文献学成立のための第四の「理論上の線分」は、その語根の分析から導かれる、諸言語の間の<近縁関係の諸体系>についての新しい規定です。

 18世紀の<一般文法>では、言語のうちに二種類の連続性を認めることによって、比較を排除していました。しかし、19世紀のグリムとボップはその連続性を断ち切り、諸言語間の「直接的で横向きの比較」を可能にした、というのです。「直接的比較」というのは、もはや純粋な表象あるいは原初的な語根を経ることなく、語幹の変様、屈折体系、屈折語尾系列の研究によってそれが可能になったからです。また、「横向きの比較」というのは、「あらゆる言語に共通な要素にも、言語がそこから素材を汲みとってくる表象的基盤にも、遡ることがないから」です。

 

 こうした直接な相互比較が可能となった文法構造は、体系としてしか実在しないという特徴を持つと同時に、内在的、自律的な法則のもとで、生物の領域においてと同様に、歴史性を備えることになります。

 

 18世紀には諸言語を起源まで断絶なしに繋ぎ合わせてきた、大きな時間継起的連続性のもとにあったのですが、そこから言語をひきはがし、諸言語がとらえられている表象という共通した連続面から言語を解放することによって、言語の歴史性が導入されえたわけです。

 

 文献学と生物学(および経済学)が同じ知の地平にパラレルに成立したことを説きながら、フーコーは言語と生物の違いについても言及し、生物がその諸機能とその生存諸条件とのあいだの一定の関係によってのみ、ここでいう<歴史>を持つのであり、その歴史性を可能にするのは、有機的個体としてのその内在的構成であり、この歴史性が現実の歴史となるのは、生物の生きている外的世界をとおしてであるのに対して、グリムのいわゆる言語の<解剖学>は、逆に<歴史>の本領内で機能する、と述べています。

 

 生物の諸特徴あるいは文法諸規則が、分析される表象の諸法則から引きはなされ、そうすることで生命と言語の歴史性が可能とされたのだ。しかしこの歴史性は、生物学の領域では、個体と環境との諸関係を言表するはずの補足的な歴史を必要とした。つまり或る意味では、生命の歴史は生物の歴史性の外部にあるものなのである。そんなわけで、進化論は、進化のない生物学 ─ キュヴィエのそれ ─ を成立条件とする、生物学の一理論を構成するわけだ。それとは反対に、言語の歴史性はただちに媒介物もなく、言語の歴史をあらわにする。歴史性と歴史とは内部においてたがいに通じあっているからである。p315

 

 こうして「19世紀の生物学が身体の表面をつねにより浸透性のあるものとしつつ、しだいに生物の外部へ、その向う側へと進んでいく」のに対して、、「文献学は、文法学者が言語と外部の歴史のあいだに設定した諸関係を解消して、内部の歴史を規定していく」ことになります。

 

 ここで、その<内部の歴史>がいったん確実なものとされると、人々はもはや<歴史>の中でしか言語をとらえられなくなる、とフーコーは書いています。そこで再び言及されているのがソシュールです。

 

 よく知られていることだが、ソシュールが文献学のこうした通時的使命から逃れえたのは、一般文法に倣って二つの観念のあいだの結びつきにより記号を定義する、「記号学」にふたたび回帰することを覚悟したうえで、言語と表象との関係を再興したからにほかならない(p315)

 

  先ほど述べたように、やはりフーコーにとって、ソシュールは18世紀的な記号論的な思考の枠組みに回帰するものだったのでしょう。もちろんただ回帰したわけではなく、そこに言語と表象の新たな関係をつくりだそうとした、ということなのでしょうが、それはまたもう一度いつかソシュールに戻ったときに再考してみたいと思います。

 

 こうして文献学の考古学的基盤を構成する「四つの理論的線分」を語り終えたフーコーは、これらが、一般文法の規定を可能にした四辺形の各辺に照応し、対立していることを指摘しています。

 

四つの理論的線分の対応図
 

 諸言語の間の<近縁関係>の理論は<転移>の理論にあい対するものであり、<語幹>の理論は<指示作用>の理論に対立し、言語の<内部の諸変化>に関わる研究は、表象に関する<分節化>の理論に対立する。また言語の<内部分析>は、古典主義時代の<ある>という動詞に与えた優位とあい対する。

 

 古典主義時代の思考では<ある>という動詞が語と語の本源的紐帯であり、肯定の基本的力を保持することによって、言語を基礎づけ、思考の諸形態に繋げていたのですが、19世紀の文法構造の独立した分析は言語を孤立させ、それを自律的なひとつの組織体として扱い、その判断や主辞=属辞関係の定立や肯定との紐帯を断ち切っていました。「<ある>という動詞が話すことと思考することとのあいだに保証していた存在論的移行は中断され、こうして言語は固有の存在を獲得」します。

 

 十七世紀と十八世紀において、それ(言語)は表象の直接的で自然発生的な展開にほかならなかった。表象がその最初の記号をあたえられたのも、その共通の特質を截断し区わけしたのも、同一性のもしくは主辞=属辞の関係を創設したのも、まず言語のうちでであった。言語とは認識であり、認識は当然のこととして、言説だったのである。p316

 

 言語は認識であり、どんな認識との関係においても言語は基本的状況の中にあり、言語は世界を表象する際の、秩序の最初の素描であり、表象を表象する際の最初の避けられないやり方として、人々は言語を通してしか世界の物を認識することができなくなります。「古典主義時代の認識はきわめて唯名論的だった」とフーコーは述べています。

 

 19世紀以後、言語は「それ自身のうえに折れかさなり、それ固有の厚みを獲得し、言語にのみ属する歴史性と諸法則と客体性を展開」します。それは他の多くのものと同様の、「認識すべき客体となった」のです。

 

 この客体化(言語を純粋な客体の状態に引き下ろそうとする水平化)に対する「代償」と見なされるものが三つ現われたとフーコーは述べています。

 

 第一に、「言語は、言説としてあらわれようと望むあらゆる科学的認識に必要な、ひとつの媒介であるという事実」です。

 

 言語は他のものと同様に客体化され、分析の対象になるわけですが、それはまたつねに認識する主体の側に姿をあらわすわけですから、そのような物として、次のような二つの「配慮」が生まれてきた、という言い方がされています。

 

すなわち、ひとつは、「言語が固有のいかなる独異性の武装も解除され、その偶有性と不適格さから ─ あたかも言語の本質には属さないかのように ─ 純化され、言葉とは無縁な認識の正確な反映、丹念な模像、くもりない鏡となりうるほどに、科学的言語を中性化させ、いわば磨きあげようと望むこと」です。

これはあらゆる厳密な科学の記述に用いられる記述言語を思い浮かべればいいでしょう。何なら記号と数式ばかりの記述をです。

 

もうひとつは、「文法、語彙、統辞法上の諸形式、語、といったものから独立したひとつの論理学、すなわち、思考の普遍的含意を、それが隠されるおそれのある既成の言語の独異性を避けて維持しつつ、あきらかにし利用しうるような論理学を、求めること」です。

これはフーコー自身が例挙するように、ブールの登場に象徴されるような代数論理学、記号論理学の記述を思い浮かべればいいでしょう。

 

 フーコーはこの<代数論理学>と<インド=ヨーロッパ語族>は、<一般文法>の分裂の二つの所産だと言えるかもしれない、と述べています。「後者は認識される客体の側への言語の変位を示し、前者は、既成のどのような形態をも言語から奪い去ることによって、認識行為の側へ言語を急激に追いやる運動を示しているから」です。ただ、そう書きながらフーコーはこの二つ、つまり言葉と無縁な論理学の成立条件と歴史文法の成立条件とは、知の考古学のレベルでは同じだし、それらの実定性の基盤は同一だから、いま言ったのはちょっと消極的な言い方だったよね、と付け加えています。

 

 言語の水平化(客体化)に対する第二の「代償」は、「言語の研究に与えられた批評的価値」だそうです。

 

 ここのフーコーによる説明的展開は、私にはとても分かりにくい言い回しになっていて、うまくたどれません。あてずっぽうにこうじゃねえか、というのを書いておきますが、要は言語が表象の表(タブロー)に過ぎない表層的なものから、厚みのあるそれ自身の自律的な法則性をもって変移してきた確固たる歴史的現実となり、「伝統と、思考の無言の慣習と、民衆の晦冥な精神との場」を形成するようになり、人々は自分たちが主人であって言語は自分たちに従属していると信じてはいるが、実はその言語のほうが主人であり、言語の要請に従って自分たちはお喋りしているにすぎないのに、そのことに気づかないでいる、つまり「言語の文法的配置は、そこで言表されうるもののア・プリオリなのだ」という状況を解き明かし、人々がそれに従って語りながら、気づかないでいる「それ」つまり言説の深層に潜む構造、私たちが喋るときに感じる不安の底にあるもの、私たちの発語に伴う沈黙の部分を明るみに出すのが、文献学の罠としての、批評の近代的形態だろう、と。

 

 いまや問題となるのは、・・・われわれが話している語を不安にさせ、われわれの観念の文法的折り目をあきらかにし、われわれの語を活気づけている神話を一掃し、どのような言説も言表されるときともなうあの沈黙の部分をあらたに音のある聞きとれるものとすることであろう。p319

 

 このすぐあとに、それをやってのけた連中の名として、マルクス、ニーチェ、フロイトが挙げられるわけだから、上のような読み方も、まぁ当たらずといえども遠からずくらいで通り過ぎていいのではないか(笑)。

 

 『資本論』第一巻は、「価値」の釈義であり、ニーチェのすべては、ギリシャ語の数語の釈義であり、フロイトは、われわれの見かけの言説、われわれの見かけの言説、われわれの幻覚、われわれの夢、われわれの身体を同時にささえかつ穿つ、あらゆるあの無言の文の釈義である。言説の深層で語られることの分析としての文献学は、批評の近代的形態となった。p319

 

 フーコーにとっては、「言語の文法的配置は、そこで言表されうるもののア・プリオリなのだ」というときの、アプリオリな知の配置を摘出することが彼を含めた思想(文献学ないし「批評の近代的形態」)の課題であり目標と考えらえているようですが、その「アプリオリ」は「神」と言い換えてもいいのでしょう。

 

 神はおそらく、知の彼岸というよりはいわばわれわれの文の手前にあるものとなるであろう。そして西欧の人間が神から引きはなしえぬとすれば、それは、経験の限界を越えようとする打ちかちがたい性向によってではなく、人間の言語がその法則の闇のなかで神をたえず醸成しているからにほかならない。

「われわれは神をけっして追い払えないのではないかとわたしは恐れている。なぜならわれわれはいまだに文法を信じているからである。」[ニーチェ『偶像の薄命』仏訳版] p319

 

 なるほど、ニーチェは巧いこと言いますね。ニーチェの断片だけ読んでも、こういうことか!とはとても私などには読めないけれど、フーコーさんのしつっこい解説(笑)で、はじめてわかったような気になれました。

 

 十六世紀において解釈は、世界(物と同時にテクスト)から世界のうちに解読された神の<言葉>へと赴いたが、われわれの解釈は、いずれにせよ十九世紀に形成されたそれは、人間から、神から、諸認識から、あるいは妄想から、それらを可能とする語へと赴くのである。そして、それが発見するのは、第一義的言説の至上性ではない。われわれが、一言でも話そうとするその以前から、すでに言語に支配されつらぬかれていたという事実なのだ。近代批評が献身しているのは、この奇妙な註釈にたいしてにほかならぬ。なぜならこの註釈こそ、言語があるという確認から言語の語ろうとしていることの発見へと赴くのではなく、展開された表面的言説から生のままの存在における言語を白日のもとにさらすことへと進んでいくものだからである。p319

 

 アプリオリなんだ、と短い言葉で言っていたことをもう一度詳しく展開してくれていて、とても分かりやすい。ただ、「生のままの存在における言語」というような言い方は喩でしかないから、勝手に想像するしかありませんが、彼の言う「解釈」であきらかになる、わたしたちが一言でも話そうとする以前から、それを貫き支配してきた、いわば見えない言語、沈黙の言語、マルクスやニーチェやフロイトのような「解釈」者が見いだそうとしてきたシステム(もしそういう言葉を使っていいなら)だということなのでしょう。

 

 近代の思考というのは、実はこの<解釈>と形式化の諸技法しかないんだ、というのがフーコーさんの考えのようです。

 

 前者は、言語を、それ自身より奥で、言語のなか、しかも言語なしに語られているものにもっとも近いところで、話させるという狙いを持ち、後者は、ありうべきいっさいの言語をも検査し、語ることが可能であるものについての法則によってそれを支配するという狙いを持つのである。解釈することと形式化することは、われわれの時代の二つの大きな分析形態になったわけで、じつのところ、われわれはそれ以外の分析形態を知らない。p320

 

 解釈と形式化は、フーコーによれば「近代の発端で成立した言語の存在によって、その可能性の共通の地盤が形成されている、二つの相関的技法」なのだそうです。
 さきほど言語が客体化され、水平化された「代償」として、批評が言語を「引き上げた」というフーコーの主張を引用しましたが、そのことはまた、言語の研究に与えられた批評的価値に言及したところで述べたように、「言葉のいっさい混入しない純粋な認識行為にばかりでなく、われわれの言説それぞれのうちに認識されないものにも、同時に言語が近づくということを含意していた」わけで、「言語を認識の諸形式に対して透明にするか、無意識の内容のなかに深く食い込ませるか、そのいずれかをはたさなければならなかった」ということになり、前者は思考の形式主義を、後者は無意識の発見を導くことになります。つまり、ラッセルとフロイトが登場するというわけです。

 

 そこからさらに、その「一方を他方へと屈折させ、二つの方向を交叉させようという」誘惑も働くから、そこで生まれてくるのが、「あらゆる内容以前にわれわれの無意識に課せられている諸形式をあきらかにしようとするこころみ」つまり構造主義であり、また「経験の地盤、存在感覚、われわれのあらゆる認識の体験された地平、そうしたものをわれわれの言説のところまでこさせようとする努力」つまり現象学であり、そこに両者に<共通の場所>を規定する一般的空間が見いだされる、というのがフーコーさんの考えです。

 

 もうひとつ、言語の水平化に対する<代償>が残っていました。文学の出現だそうで、こいつがその<代償>のうちで最も重要かつ最も思いがけない代償なんだそうです。

 

 ここで彼がいう「文学」は、西欧世界でふつう「文学」と呼ばれてきたホメロス以来の作品系列を指しているのではなく、きわめて19世紀的な現象として生まれてきた、彼に言わせれば文献学の双生児にして文献学に対する異議申し立てにほかならない、ということになります。

 

 それは「十九世紀の初め、言語が客体としての厚みをもつにいたり、はしからはじまでひとつの知によってつらぬかれた時代に、言語は他の場所で、その誕生の謎に折り重なり、書くという純粋行為に完全に依拠する、近寄りがたい独立した形態のもとに再構成された」と。これではわかりませんね(笑)。

 

 文学は言語を文法から話すというむきだしの力につれもどし、そこで野生の傲然たる語の存在に出会うのだ(p321)

 

  これなら直観的にわかります。文献学は言語をその自律的な<歴史>を通じて形成してきた文法組織をもって私たちが自分の意志で話しているようなときにもあらかじめ私たちの言葉を支配していることを明らかにするわけだけれど、文学は言語をその文法から、それ以前のむき出しの力、つまりそもそも人間が言語を発するにいたった原初の叫びがもつ力が支配する場へ引き戻すことによって、文法にも支配されない野生の語に出会い、見いだすのだということですね。

 

 すごくおどろおどろしい言い回しになっていますが(笑)、吉本さん的な語彙を使って客観的かつ冷静な言い回し(笑)で言えば、共同規範としての言語の、共同的な表出の水準を、個々の作家が書くという行為を通じて、その自己表出の高さにおいて一歩超えていく、という事態を指していて、別段フーコーさんの言うように近代に固有の現象ではないと思うので、「文献学」に異議申し立てするその双生児だというなら何かもう少し媒介が必要だという気はしますが・・・。

 

 こういう個々の思想家による独特の言い回しというのは、誰にでもあるので、読者としてはその人が何を考えているかを知るためには、その独特の言い回しに慣れて、言わんとするところを理解しようと努めるしかないわけです。
 ここ12ケ月なにか言語についてのイメージのヒントになるような考えがないかな、と思って読んできた人たちにも、ソシュールにはソシュールの、フッサールにはフッサールの、メルロ=ポンティにはメルロ=ポンティの、ハイデガーにはハイデガーの固有の語彙と語り口があって、それは主張の内容とも結びついている面はあるけれど、鼻くそをほじくるのと大して変わらない単なる癖みたいなものにすぎない、という面もあるわけで、次々に読むと、いちいちその違った「癖」に付き合わなくてはならないのが、手ぶら読みの気楽な読み手としては少々面倒ではあるけれど、他方では面白いところでもあります。

 

 わざと誤解を招くような比喩を平気で使ったり、明晰ではあるけれど、あまりに厳密たらんとしてこまやかすぎて、まわりくどくて読んでいるほうがくたびれちゃうような進め方をするとか、才人らしく色々適切な例を出してイメージを明確にしてくれて親切だねえと思っていたら肝心のところになると、比喩で逃げてしまったり、論理的なことを語っているはずなのに全編これ暗喩みたいな重たい語り口だったり、フランス語で「プレシオジテ」というらしいけど、やたらサロン風の受け狙いみたいな、いわゆる知的にひねった「洒落た」言い回しを連発したり、まぁみんな好き勝手やってくれますね、という感じ(笑)。

 

 やれやれ、きょうも長くなりました。これで第8章まで終わって、次は第9章のメモですが、ここはこのまえ読んだ時「???」だらけで、ちょっと筋をとおして読み直してメモするというだけでも手に負えるかどうか(笑)。
 
 きょうはこのへんで。毎日が日曜日の後期高齢者ではありますが、明日は日曜何でお休み(笑)。

 きょうは何冊かイギリスの重農主義時代の人たちの本の古書らしい古書(笑)が何冊かとどいたので、ちょっとワクワクしてアルコール消毒液噴霧の後(笑)ページをめくって楽しみました。最高で一冊1300円、ほとんど1000円までの一番安いやつを選んだので、お得な買い物でした。
 私は少々ひとが赤線引っ張っていても平気だし、蔵書印が押してあっても、図書館の廃棄本でまだラベルが貼ってあったりしても気にならないたちなので、新刊で売っていないこういうのが安く手に入るととても嬉しい、経済学やっている人ならとっくの昔に読んでる本でしょうけど、私のようなド素人には重農主義とか重商主義と言ったって教科書の御題目だけ。読んだこともないから一体17-18世紀に生きた人たちがどんなこと言ってたのか、この歳でじかに聴けるのは楽しみです。



saysei at 20:39|PermalinkComments(0)

2020年06月24日

「言葉と物」第二部第八章 三  キュヴィエ ~私的メモ

 リカードが、労働を尺度としての役割から自由にし、すべての交換の手前で生産の一般的形態のなかに嵌め込んだように、キュヴィエは、特徴相互の従属関係を分類学的機能から自由にし、すべてのありうべき分類の手前で生物のさまざまな組織図面のなかに組みこんだのである(P282-283)

 

 フーコーの知の考古学にとっては、経済学、生物学、言語学、あるいはどんな知的活動をとってみても、その思考の基礎的な枠組み、それらの思考を基礎づけ、成り立たせる基盤そのもの、知を構成する諸要素の様態とその配置はまったく同じなので、ここでもキュヴィエが生物学の領域で知の地層に生じさせた断層が、リカードが経済学において生じさせた断層と、その知の深層のレベルでは同一ものであったことが、キュヴィエのやったことに踏み入る際、まず最初に述べられています。

 

 労働が単に市場で交換される商品の表象であるだけでなく、あらゆる価値の源泉であり、労働量は表象の結合の形づくる<表>の内部で、表象の量的比率で決められるのではなく、生産系列によって、つまり資本や生産用具等々の生産条件という、表象の世界の外部の諸要因によって決定されるように、生物の様々な特徴(その色形や構造)は、同一性と相違性の原理で分節される表象相互の関係、表象の出現頻度のような量的関係によって、その位置づけが決められるものではなく、そうした表象相互の関係の世界にとって外在的な<機能>によって位置づけられ、機能を媒介として相互に関係づけられるものだと考えられるようになったのは、キュヴィエが切り開いた思考だった、と。リカードが労働が価値の源泉であり、価値を担うものと考えたように、キュヴィエは機能が生命の源泉であり、生命を担うものと考えたと言ってもいいでしょうか。

 

 古典主義時代の<分類学>は、完全に、言語と視線によっていわばただひとつの動きで通覧された、記述上の四つの可変要素(形態、数、配置、大きさ)から出発して、構築されていた。そして可視的なもののこの展開のなかで、生命は、何らかの截断の結果─たんなる分類上の単純な境界線─と見えていた。キュヴィエ以後、類別の外部的可能性を基礎づけるのは、それのもつ知覚しえぬもの、純粋に機能的なものにおける生命なのである。p287

 

 もちろん古典主義時代の博物学も生物の身体の諸要素を正確に観察し、観察者の視線が分節化する諸要素或いはそのまとまりとしての<器官>に着目し、その<構造>も<機能>も把握していたのです。しかし、フーコーによれば、その把握は、二つの入口を持った体系のようなもので、構造(形態学的な可変要素、すなわち形態、大きさ、配置、数)から出発しようと、機能(その演ずる役割、たとえば生殖)から出発しようと、一つの生物個体をあますところなくとらえることができるし、その二つの解読法は「互いにきわめて正確に重なり合うとはいえ、それぞれ相互に独立している」のです。

 

 そして、機能から出発する解読法は<有用であるうるもの>を、構造から出発する解読法は<同一と見なされうるもの>を言いあらわしていたのだ、と。

 

 「キュヴィエが顛倒せしめたのは、このような配置にほかならない」というのがフーコーの見立てです。キュヴィエは器官との関係において、構造に対して機能を明確に優先させ、「器官の配置を機能の至上性にしたがわせる」。

 

 キュヴィエにとってもはや器官の独立性は無意味であり、重要な器官の中ではすべてが重要だと考えるのは誤りで、器官よりも機能そのものに注意を向けねばならないと主張し、形態、大きさ、配置、数といった可変要素で器官を定義する前に、まず器官をそれが保証する機能と関係づけなければならないと考えたのだ、と。

 

 機能との関係において器官を観察すれば、いかなる「同一の」要素もないところに「類似関係」が現れるでしょう。この場合、類似関係は、機能という目に見えないものに注意を向けることによってこそ理解できるものであり、その成立根拠であることがわかります。

 

 生物の多様性は目に見えるけれど、統一性はいわば隠されているわけです。キュヴィエは分類の基礎に機能を置くことで、生物の分類が、目に見える形態、大きさ、配置、数といった可変要素ではなく、目に見えない<機能>から出発して初めて可能になることをはっきりさせたわけです。

 

 この結果、表象を付加していくことによって一つの連続体として描かれる「自然」は消滅し、その自然を同一性と相違性の原理で分析していく<タクシノミア>の企ては無効なものとなります。

 

 キュヴィエは古典主義時代の生命の分類学的概念を綜合的概念へと移行させた、知の考古学の観点から言えば、その瞬間に<生物学>の成立の諸条件が創始されたのだ、とフーコーは述べています。

 

 博物学の空間は分裂し、そこに相関的な二つの技法が出現することになります。その最初のものが比較解剖学です。キュヴィエの『比較解剖学講義』という大著がその証なのでしょう。こいつが読めないかと思って検索したら、あるところで四十数万円で売っていました。ひょっとしてそんなセットを揃えた図書館があったとしても、もはやそこまで出かける体力はないし、宝くじでも当たらないと読めそうもないですね(笑)。

 

 解剖学といえば、「ありのままの有機体を通覧しながら、眼前一面に相違性が繁茂していくのを見る、単純な視線」そのものじゃないか、と思っていましたが(笑)、フーコーさんはまさにそういう単純な視線とは対照的に、「解剖学は、現実に身体を切りとり、それらを区別される小片に分割し、さらにそれらを空間において細分し、そうしなければ目に見えぬままであったに違いない、大きな分散性のしたにひそむ統一性を再構成するのにほかならない」と言います。

 

 つまり従来の可変的な諸要素の多様性を展開してみせるだけのものではなくて、むしろ解体することでしか見えなかった機能の系列を見出し、主要な機能系統をきわだたせ、生物体としての統一性を再構成するのが比較解剖学なのですね。

 

 もう一つの技法は、「表面的な、したがって可視的な諸要素と、身体の深層に隠されている他の諸要素とのあいだに、指示関係を設定すること」にあるのだといいます。具体例として挙げられているのは、昆虫の顎の形態が栄養摂取、消化といった機能を通じて、動物の本質的諸機能に結びついているがゆえに、触覚などそうでない器官よりも重視され、その解剖学的観察と「身体の深層に隠されている他の諸要素」との関係を究明することが課題となるわけです。

 

 こうした考え方は化石の読み方をも変えてしまいます。18世紀では化石は現在の諸形態を予示するものと考えられていて、そこに時間の大きな連続性が認められていたわけですが、一つの骨からもその役割を究明することを通じてその動物の全組織、生活様式を辿ることが可能となり、「いまや化石は、現実にそれが属していたところの形象を指示するもの」となります。

 

 こんなふうに「解剖学は、たんに同一性の等質な表(タブロー)の空間を粉砕したばかりではない。時間について想定されていた連続性をも断ち切ったのである」というのが、フーコーさんのキュヴィエに対する高い評価の理由です。

 

 脊椎動物と無脊椎動物を、いずれの向きにも移行の中間形態を見出すことのできない完全に独立した系列として峻別する「門」の理論が可能だったのも、伝統分類に補足的な分類学上の枠を付け加えるのではなく、構造の転移の背後に想定された連続的な時間を断ち切り、機能による分節と再秩序化によって、同一性と相違性のまったく新たな空間を切り拓いたからにほかならない、ということでしょう。

 

 その新たな空間というのは、「本質的連続性のない空間、最初から細分化した形で示されている空間、ときには分岐し、ときにはたがいに交叉する線によって横切られる空間」だ、と。

 

 もう少し具体的なイメージをフーコーは続けて書いています。

 

 その一般的形態を指示するには、十八世紀においてボネからラマルクまで、伝統的だった連続的階列のイメージに、放射線状のもの、というよりむしろ、そこからおおくの放射線が拡がっていくいくつもの中心の集まりのイメージを、置き換えなければならない。p292

 

 18世紀的な思考にあった「連続した時間」を断ち切ったのと同時に、キュヴィエは、表象の連続体と存在の連続体との強い相関をも断ち切ったのです。

 

表象の連続体(記号と特徴のそれ)と諸存在の連続体(構造相互の極端な近接性)とは、だから相関的だった。キュヴィエとともに決定的に断ち切られたのは、存在論と表象に同時にかかわる、このような横糸なのである。p292

 

 古典主義時代を通じて、生命は「延長と重さと運動にしたがうすべての物質的存在と同じような流儀でかかわる、ひとつの存在論に帰属していた」のですが、キュヴィエ以後はこの存在論の地平を脱して、「特定領域化して自律性を回復」します。

 

 したがって生命は、存在の境にあって、存在にたいして外部にありながら存在のなかに顕示される、そのようなものとなるのだ。p293

 

 禅問答的な抽象的な言い回しですが(笑)、要は18世紀には生命も、他の存在と同じように、存在を表象の網の目に分節してとらえた連続的な<表>のうちに位置づけられていたわけですが、もちろん個々の生物やその要素は依然としてこうした存在の世界で表象されることには変わりないけれど、もうそれはそうした表象の体系の一要素に過ぎない表象として、相互の差異(同一性と相違性)によって存立するだけのものではなく、そうした存在原理の外部にあって、それ自身の機能に基づく新たな秩序を構成し、自律的な原理(法則)によって成り立っている、というようなことでしょう。

 

 ここで私が面白いと思ったのは「生活条件」といった概念が登場することです。

 

 古典主義時代における存在と自然との古い連続性を断ち切って、生命の分断された力は、分散させられてはいるがそれぞれその生活条件にしっかりとつながれている諸形態を現前させることとなろう。p294

 

 古典主義時代の経験にとって、生物は、存在の普遍的<タクシノミア>における、ひとつの仕切り、ないし仕切りの一系列にほかならなかった。・・・キュヴィエ以後、生物は、自分自身にまきつき、その分類学上の隣接関係を断ち切り、連続性の広大な拘束力をもつ平面から身をはなし、新しいひとつの空間を成立せしめるのである。その空間は正確にいえば二重の空間である ─ つまりそれは、内部的空間として、解剖学的整合性と生理学的両立性の空間であると同時に、外部的空間として、生物が自身の身体を創るためそこに宿っている、諸要素の空間にほかならない。しかしながら、この二つの空間を律するものはただひとつなのだ。それはもはや存在の可能性の空間ではなく、生活条件の空間だからである。p294

 

  フーコーさんは少ししつこいくらいに同じことを言葉を変えて繰り返していますが、ここはとても分かりやすいまとめになっています。生物が存在の表象世界である時空を表象としてはそこに依然としてとどまりながら、本質的にはこの<表>の世界を離脱して、それ自身の自律的な原理、具体的には生命の顕現にほかならない<機能>が媒介する解剖学的、生理学的な身体性(<内部空間>)およびそれ自身を創るために、その身体が宿る環界(<外部空間>)というそれ自身が帰属する二重の空間を、キュヴィエの比較解剖学が作り出した、と。そして、この二つの空間はもはや存在の鏡としての表象空間内部ではなく、その外部にある「生活条件」が支配する空間なのだ、と。

 

 そこで起きる変化は、もはや表象の変化や付加ではなく、従って言語上の新たな截断や結合ではなく、経験的領域における生物の身体性独自の法則性と、代謝つまりこの身体性とかかわり、それを創り、また変える、それが宿る環界、つまり生物が生活する世界の諸要素、諸条件だ、ということでしょう。

 

 生物のことを語っていて「生活」という言葉が出てくるのは、「社会」という言葉と同様に人間社会や人間の生活からの擬人的な喩としては昔からよくありますが、私の学生時代に、生態学というのは「生物の生活についての学」だと、渋谷寿夫さん(といったと思う)という生態学者の本に書いてあるのを読んだ時は、それまでの擬人的比喩的な使い方ではなく、生物学的な定義として、なるほどな、と

感じたのを覚えています。「生活」という言葉ば、生物の身体や行動だけではなくて、それが宿る環境世界とかかわりながら生きていく、生物の本質的な存在様態、つまりその身体、生理だけではなく、トータルな生の様態そのものを指すことができます。

 

 ここでの「生活条件」も、そのような意味での環界との関わりを含めた生物の生存条件を指しているのでしょう。もっとも英語のlive 或いは名詞lifeにせよドイツ語のLebenにせよ、おそらくはフランス語の同じ言葉にせよ、日本語でいう「生命」あるいは「生存」の意味も「生活」の意味もあるでしょうから、本当のところどちらかはわかりません。
 マルクスの「Lebenの再生産」という言葉を、古くは「生命の再生産」と訳していたのを批判して、あれは「生活の再生産」と訳さないといけない、と指摘した論文を読んだことがありましたが、そういう場合はずいぶん前後の解釈に影響して、大きな論議の種になるのかもしれません。

 

 こういう時は、原書を訪ねて前後の文脈を確かめてみる、というのがいいのでしょうけれど、私の場合は原書を訪ねても読めないから(笑)、訳者を信頼してその日本語のとおり読むしかないわけです。まあここは日本語で前後を読んでも、「生活」でいいと思いますが。

 

 フーコーはラマルクよりキュヴィエを高く評価しています。キュヴィエはフーコーの言う新たなエピステーメーの地平を拓いたけれども、ラマルクは古典主義時代のエピステーメーのうちにとらわれたままだった、というのですね。私たちが習ってきたのは、キュヴィエは天変地異説を唱えた当時の言論界の大御所で社会的にも高い地位を占めて、けっこう権力的な人物だったみたいなことで、他方のラマルクは相対的には社会的な評価や地位には恵まれなかったけれども、ダーウィンの進化論の先駆をなすような進化論を唱え、獲得形質の遺伝を認めるような現代の進化学から見れば欠点もあるけれど、生物学史の流れの中でキュヴィエなどの「次の時代」の先駆者として位置づけられる存在、ということだったのではないかと思います。

 

 ところがフーコーさんの評価は逆です。これは最初読んだ時、ちょっと驚ろきました。ラマルクの<進化論>は、フーコーのいう経験的諸領域がそれぞれ自律性を備え、独自の法則を持って存立すると考えられるようになった時、必然的に導入される<歴史>の典型的な事例じゃないか、と思ったからです。でもフーコーさんの読みによれば、ラマルクのそうした<時間>はなお<空間>とともに表象の時空にとどまっていたようです。

 

 ラマルクは、漸進的推移、中断されることのない完成化、他のものから出発しながらたがいに形成しあうことのできるような諸存在の間断ない大連続面、そうしたものをまず想定していた。p295

 

 ラマルクの思考を可能にしたのは、きたるべき進化論の先んじた把握ではなく、自然分類のための「方法」によって発見され想定されていたかたちでの、諸存在の連続性にほかならない。(同前)

 

 重要であるのは、つまり思考の歴史をそれ自身として分節化することを可能にするのは、その可能性の内在的諸条件にほかならない。ところが、そうした内在的諸条件の分析をこころみるだけでも、ラマルクが、古典主義時代の人々の博物学のそれにほかならぬ、存在論的連続性から出発することによってしか種の変移を考えようとしなかったことに、だれしもただちに気づくにちがいない。p295

 

 そう簡単に「だれしもただちに気づく」と買いかぶられては迷惑ですが(笑)、考えてみればその名は有名なわりに、ラマルクの著作というのは岩波文庫の『動物哲学』を昔拾い読みした程度で、他には全然知らないし、この著作のうちで展開されていた彼の思想の基盤が、そうした「存在論的連続性」から成るものだとは、とても読み取れはしなかったので、これも時間があれば再読して確かめさせてもらおうと思います。いまはフーコーさんの読みをひと先ず受け入れてその論理をたどっていくしかないでしょう。

 

  フーコーの言う知の考古学的な断層を明らかにするのは、「その可能性の内在的諸条件」だという上記引用の言葉は、天変地異説か進化説かといった表層的な違いが思想の歴史を本質的に分節するものではない、それらの思想が、どんな新しい知の空間、あらたな知の配置の仕方を導くか、その可能性を拓く条件を、その思想自体がどれだけ自らのうちに備えているか、ということだろう、という意味だと思います。フーコーによれば、ラマルクの思想は、そうした新たなエピステーメーを形成する可能性を開くような条件を備えていないが、キュヴィエはそれを備えている、ということになります。

 

 キュヴィエに対する評価は極めて肯定的です。ダーウィンらの進化論への道を拓いたのはラマルクの進化説のようなものではなく、むしろキュヴィエによる古典主義時代の連続性の思考を断ち切った思想の可能性のうちにあったのだ、というのですから、驚きますよね。天変地異説のキュヴィエが進化論のラマルクよりもダーウィンの進化論を産んだ思考の可能性を孕んでいたというのですから。

 

 キュヴィエは、古典主義時代における、諸存在の階列のなかに、根源的不連続性を導入した。そしてまさしくそうすることにより、生物学的非両立性、外部の諸要素との関係、生活条件といった諸概念を浮きあがらせるとともに、生命を維持しているにちがいないある種の力と、死をもって生命を罰するようなある種の脅威とをあきらかにしたのだ。そこでこそ、進化論的思考のような何かを可能にする、諸条件の多くが結合されるのである。p295

 

 こうして解剖学的、生理学的身体とともに、それが宿る生活条件を生命の自律的な展開の動因として浮かび上がらせたことによって、キュヴィエは「生命に固有の歴史性、すなわち、生活条件のうちにおける生命維持の歴史性を発見することを可能にする」認識の地平を切り拓いた功労者となるわけです。ラマルクの進化論が生物の歴史性を発見したんじゃなくて!(笑)。

 

 そのような生命維持の分析としてのキュヴィエの「不変論」は、歴史性がはじめて西欧の知のなかに露出したとき、その歴史性を省察する最初のやり方だったわけである。(p296)

 

  なんと逆説的、なんとひねくれたものの見方かいな、と思わないではありませんが、ここは黙って承っておくことにしましょう。

 

 ただ、さすがに彼もあまりにも逆説的な打ち出し方が気になったのか、すぐあとのところで「・・・キュヴィエによって確言された種の不変性も、表面だけの検討では、歴史の拒否と見なされるかもしれない。」と、私のような疑り深い表情にちらっと配慮してみせています(笑)。

 

 

 だが実際にはそうではなくて、リカードとキュヴィエは、十八世紀に思考されていたようなかたちでの時間的継起の諸様相だけを拒否したにすぎず、表象の階層的ないし分類的秩序への時間の依存関係を断ち切ったわけだ。p296

 

  彼らの<歴史>に対する立脚点が端的に書かれています。リカードの<歴史>の終焉に関するペシミズムも、キュヴィエの種の<不変論>も、彼らがそうした古典主義時代の<時間>の連続性を断ち切って<歴史>の可能性から出発したがゆえに到達したものにほかならないのです。歴史は、キュヴィエにとっては生物の生活条件、リカードにとっては価値の生産条件によって与えられたものですが、それを出発点とすることによって、キュヴィエは種の不変論、リカードは歴史の終焉という、それぞれ現在あるいは未来の不動性を告知するに至るのです。

 

 富が連続的な進歩によって増大するとか、種が時間とともに互いに他の種に変化しうるといた、私たちがそれもまた<歴史>ではないかと思ってきた古典主義時代の観念、その等価性の体系に属する、継起する事物の時間上の列は、諸存在の秩序のひとつの特性であり、そのあらわられにすぎなかったのです。

 十九世紀以後、継起する事物の時間上の列は、「直接的な仕方で、物と人間にかかわる深く歴史的な存在様態を表現する」ことになります。

 

 この項の終わり近くで、フーコーはちょうど古典主義時代の終りを告げる文学として、『ドン=キホーテ』を挙げたように、キュヴィエやリカードらが切り開いた知の空間の誕生を告げる文学として、サドの作品を挙げ、たとえば「『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ」と述べています。

 

 その理由は少し複雑な言い回しになっていますが、キュヴィエが拓いた生物の歴史性の空間においては、表象のタブローの形をした空間に良く似合った植物よりも、隠された骨組み、おおわれた諸器官、多くの不可視な諸機能、すべての基礎でそれを生命のうちに維持している力、それら一切を一身に備える動物が特権的形象となります。

 

 動物は「呼吸や食事を通じて無機物から有機物へのたえざる移行、死の力による諸機能の大建築から生命のない灰への反対方向の変換」を示し、生と死の境にあって、死に従属するものであると同時に死の担い手として姿をあらわし、動物が自らの内部に、死という反=自然の核を秘めることによって、はじめて自然に所属する存在なのだということを示してくれます。

 そして「その秘めた本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる」のです。そのことによって生命は、みずから死すべきものであると同時に、殺戮者として現われ、生命は、生きているから殺す存在となります。

 

 生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引き離しえぬということ、それこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところp298

 

・・・というのがフーコーがサドをこの時代を象徴するものとする所以です。

 

 少し疲れました(笑)。今日はこの辺で。



saysei at 16:19|PermalinkComments(0)

2020年06月23日

『言葉と物』第8章 ~労働~私的メモ

 18世紀末、もはや表象の空間において綜合を行うことができなくなって、主観の先験的な場が開かれると同時に、経験的領域で客体の向こう側に<生命>、<労働>、<言語>という「擬=先験的なもの」、つまりその存在自体は私たちの認識の外部にありながら、まさにそれゆえに認識を基礎づける形而上学を客体の側に成り立たせるのですが、私たちはいまなおこうした知の枠組みの中にいる、というのがフーコーの言うところです。

 

 第8章ではその経験的諸領域へさらに踏み込んでいきます。というのは、既にそれまでのところでアダム・スミスが「労働の概念を転移させ」た、具体的には<交換>を<必要>に帰着させるための契機としてではなく、還元不能な交換価値の絶対的な計量単位とみなしたことなどを挙げて、18世紀末に生じた知の地層の断層の最初の局面を語ってきたわけですが、その例えばアダム・スミスの労働観は、なお古典主義時代の表象の世界をひきずっており、その価値は交換という行為で顕われる等価関係の全体的体系、商品が互いに他を表象しあう能力によって基礎づけられているわけで、そこにはなお何日分かの生活の資をつくりだす労働量によって表象される諸商品という表象の体系(商品交換の体系)という「表(タブロー)」の世界を前提として、物の価値が規定されていたわけです。

 

 このように古典主義時代の思考では、取引と交換が、富の分析の出発点であり、欠かせない前提とされていたわけで、アダム・スミスにおいても、分業が物々交換の規準によって律せられていたわけです。たしかにスミスの分析において、労働は、物の諸価値のあいだにひとつの恒常的尺度を設定する力を持っているがゆえに特権的なものとみなされています。

 

しかし、そのような特権的な役割を労働が果たせるのは、アダム・スミスが残していた、表象に優先権を与える古典主義的な思考のうちでは、交換過程において、或る物を生産するのに必要な労働量が、それによって逆に購入できる労働量と等しいという仮定のもとにおいてであって、必要や欲求と切り離されない物々交換の臍の緒を残す取引・交換によって労働の価値が基礎づけられていたのです。そこではいかなる商品も一定の労働を表象し、いかなる労働も商品の一定量を表象できて、人間の活動と物の価値とは、「表象の透明性のうちで通じ合って」いたわけです。

したがってまた、アダム・スミスにおいては、生産活動としての労働と、売買できる商品としての労働が無造作に同一視されています。

 

 しかし、市場における商品としての労働は、実際には同じように市場で売り買いされる商品や作物と同様に価値の変動を蒙るので、恒常的尺度として利用することはできないでしょう。

 

 アダム・スミスのこの古典主義的思考の弱点を批判して、「買われ売られる労働者のあの力、あの労苦、あの時間」「労働者が提供し、企業家が受け入れ、あるいは求め、賃金によって報いられる労働」(市場で売買される商品としての労働)と、「物の価値の起源にあるあの活動」「鉱石を採掘し、作物を生産し、品物を加工し、商品を輸送する、すなわち、そのようにして労働以前には実在せず、労働なしには現われなかったに違いない、交換価値を形成する労働」(あらゆる価値の源泉としての労働)とを根源的に区別したのがリカードでした。

 

 スミスにとっては、労働は、何日分の生活の資をもたらすかによって分析できるから、あらゆる他の商品に共通する単位として役立つのですが、リカードにとっては、労働量がある物の価値決定を可能にするのは、単にその物が労働単位によって表象されうるからとういうだけではなく、まず基本的に、生産活動としての労働が「あらゆる価値の源泉」だからです。

 

 そしてその「あらゆる価値の源泉」は、先ほど書いたように、古典主義時代のように、等価関係の全体的体系、商品のもちうる互いに表象しあう能力から出発して規定することは、もはやできません。「価値は記号であることを止め、生産物とな」ったのです。(P272-273)

 

  従って、物の価値がそのための労働と比例する、というのは、労働が固定した恒常的な、いついかなるところでも交換できる価値だから、という必要や欲求の裏付けによる取引・交換に根拠があってのことではなく、価値が労働に由来することに根拠をもっているわけです。

 

 市場に流通して互いに交換される以上、諸価値はなお表象力を持ってはいますが、この力を諸価値は表象の外部から、つまりどんな表象よりも原初的で根源的な、交換によって規定されることのない、生産労働から引いてきます。

 

 こうしてリカード以後、交換の可能性は逆に労働に基づくことになり、「生産の理論がつねに流通の理論に先行しなければならなくなる」わけです。

 

 ズルズルとリカードに入ってしまいましたが、フーコーは最初にこの知の地層に生じた断層の第二の局面(アダム・スミスの還元不能な価値の計量単位としての労働の発見を第一局面とする)を、<富の分析>から「資本の経済的役割」を分析するリカードの<経済学>への転移と同様、<博物学>から「生物における解剖学的配置と機能分布図との関係」を分析するキュヴィエの<生物学>への転移、および<一般文法学>から「サンスクリット語の文法体系」を分析するボップの<文献学>への転移と並べて、これらに共通する転移のあり方を、それまでの<マテシス>と結びついて形成された<表(タブロー)>的な水平に広がる連続面をなす知の空間における<タクシノミア>(秩序)が、垂直性に対して秩序づけられ、配置されて、ヨーロッパ文化がみずから垂直的な深層を創り出す、というふうな言い方をしています。

 

 そこで問題になるのは、もはや同一性でもなければ区別を示す<特徴>でもなく、可能なすべての道や順路の書きこまれた永続的な<表>でもなく、「近づき得ぬ原初の核から出発して発展してきた隠れた偉大なる諸力」(分割された知の主観の側に拓かれた先験的空間の外部としての客体、経験的諸領域はそれ自体の組織、法則によって生成するわけで、その背後に認識できないけれど、それゆえ認識自体を基礎づけるものとしての形而上学が作り出す擬先験的なものとしての、生命、労働、言語がもたらす力)であるところの、起源、因果性、歴史だろう、とも述べて、先に一括してこの知の断層の第二局面をいわば要約してくれています。

 

 ここまでは比較的まだ分かりやすい(笑)。ここから、その三つに具体的に入っていくと、それぞれの経験領域に無知なこちらのせいもあるでしょうが、フーコーさんの記述の仕方も、具体的な領域に踏み込んでいるわりには抽象的で、ときに曖昧に思えて、私にはよくわからないところが結構出てきました。

 

 最初のリカードですが、フーコーはアダム・スミスが労働を、もはや欲望や必要に還元できない、つまり単に欲望や必要の表象にすぎないものではなく、交換される価値の尺度とする、知の断層の第一局面を開いたと評価しながら、なおその思想は欲望や必要の表象としての労働という古典主義時代の表象優先の知のエピステーメーに依拠するものであり、そのような表象の体系としての取引・交換の等価関係の網の目、ひとつの「表(タブロー)」を、労働が価値の尺度であることの根拠としてきたところに不徹底さを指摘し、これを克服して知の断層の第二局面を開いたのがリカードだと評価しています。

 

 スミスとリカードの違いをフーコーがどう見ていたかについては、既に述べてきました。リカードによってはじめて、交換の可能性はあらゆる価値の源泉である労働にもとづくことになり、生産の理論が流通の理論に先行しなければならなくなります。

 

 フーコーはここから、3つの帰結が生じる、として、①ある因果系列の創設(生産系列、つまり価値を生み出す生産条件の遷移、結局は経済学における「歴史」の生成)、②稀少性に関する考え方の転倒(言い換えれば自然の<有限性>に基づく人間学の生成)、③<経済の進化>という<歴史>の行きつく先にその<歴史>の不動化、要は歴史の終着点が訪れるという問題、この3つを挙げています。それぞれ結構厄介です(笑)。

 

 彼のいう第一の帰結というのは、18世紀以来、経済上の様々な事象の決定要因として、貨幣がどのように流出或いは流入するか、物価が上昇或いは下落するか、生産が膨張し或いは減少するか、といったことの説明はなされてきた、と。しかし、それらの動きはみな、諸価値が互いに他を表象しうる<表(タブロー)>という空間から出発して規定されてきたのであって、例えば物価は、表象する諸要素が表象される要素よりも早く膨張するときに騰貴し、生産は表象手段が表象すべき物との関係において減少するとき減少する、というふうに説明されてきたわけです。そこではつねに、流通に関する表面的な因果性が問題にされているので、すべて表象の表象能力と表象と表象との関係の内部で問われ、答えられてきたわけです。

 

 しかしリカード以降は、「労働は、表象との関係にズレを生じ、表象のもはや力をもちえぬ区域におかれ、それ固有の因果性にしたがって組織化される」ことになったわけです。その「表象のもはや力をもちえぬ区域」というのは様々な生産条件、生産形態のことであって、たとえば「労働の分業化の程度、道具の量と性質、企業家の自由にする資本の総量と工場設備に投資した資本の総量」などのようなものです。これらの諸条件が、物の製造や収穫・輸送などに必要な労働量を決めるでしょう。

 

 つまり、こうした「生産系列」の諸条件が労働量を決定するという考え方が、古典主義時代の富の分析に使われた諸商品の表象としての労働という観点から労働量がそうした表象間の等価交換の体系を背景に相互的に決定されるという考え方を、はじめて根底から断ち切ることになったわけです。

 

 価値の源泉である労働の量を決定するのがそうした生産系列であり、その遷移であるとすれば、当然そこにその遷移をつらぬく垂直な時間として<歴史>という観念が生み出されることになるでしょう。

 

 フーコーの言い方によれば「リカードは、価値の形成と価値の表象性とを分離させ、経済の歴史への連接を可能にした」のです。

 

 「富」は、ひとつの表(タブロー)に配分され、そうすることよって等価関係の一体系を構成するかわりに、時間的連鎖の一環として組織化され集積される。あらゆる価値は、その分析を可能にする手段にしたがってではなく、価値を生み出した生産条件にしたがって決定される。p274

 

 ここで「その分析を可能にする手段」というのは、もちろん表象、すなわち諸商品の表象としての労働であり、労働の表象としての商品であって、その諸表象の関係が形作る等価関係の交換システムという一つの連続的な<表(タブロー)>を形づくっている知の空間がそうした分析を可能とする背景を成していたわけです。これに対してあらゆる価値の源泉が生産労働である、とする考え方からは、その労働を規定するのは生産形態、つまり表象としての労働のありようにとって外部的なさまざまの生産条件(資本や生産手段のありよう)にほかなりません。

 

 リカードの思想が生み出した第二の帰結とフーコーが言う「稀少性」は、言葉自体は私たちになじみのないものではなく、昔学校で、物に価値があるのは、それが有限で、稀少だからだ、と倣ったかすかな記憶(笑)があります。だから金を見よ、ダイヤモンドを見よ、みんな稀少だからみんな価値があると思って欲しがるし、高価な値段で取り引きされるんだ、と。いまなら、レアメタルのレアってのは稀少性ってことだぞ、なんて言われるのかも。

 

 フーコーは、古典主義時代には「<稀少性>は必要との関係において規定されるものだった」(p275)と述べています。必要と言おうと、欲求と言おうと同じことでしょう。それはいいのですが、この<稀少性>を経済学的な場面に移して語る時、ちょっと私のような素人には理解しにくい言い方になってくるところがあります。

 

 このような稀少性について、十八世紀の経済学者たちは―<重農主義者>であろうとなかろうと―土地もしくは土地にたいする労働が、すくなくとも部分的には、稀少性の克服を可能にすると考えていた。つまり土地は、それを耕作する人々の必要よりもよりおおくの必要を満たすことのできる、おどろくべき特性を持っているというわけだ。p275

 

 この一節の中へ入り込んでしまえば、理解の難しい文章ではありません。重農主義者の考え方では、価値の源泉は土地であり、地代にあるわけです。農業生産の生み出す価値は、その労働の再生産のための費用、つまり労働力を維持するための生活の資に充当する費用(労働報酬)と土地の再生産のための費用、つまり土地の生産力を維持するための肥料その他生産用具に充当する費用に充てられるけれども、そこで剰余価値が生じるとすれば、その富の源泉は、その土地が投下された資本(労働と土地の再生産のための費用の合計)を上回る価値を生み出すからで、この「純生産物」が地代にあたると考えたわけでしょう。つまり、土地という自然こそが人間のもつ限られた(有限の、稀少な)財を富に変えてくれる余剰を提供してくれるものなので、おそらくこのことを指して、上記で「土地もしくは土地にたいする労働が、すくなくとも部分的には、稀少性の克服を可能にする」と言っているのでしょう。

 

 古典主義時代の思考において、稀少性があるのは、人々がみずから所有しない品物をおのれのうちで表象するからであり、他方、富が存在するのは、ただちに消費されることなく、それだけに交換と流通の中で他の品物を表象しうる、そうした品物を土地が一定限度をこえて豊富に生産するからである。p275

 

 この次にフーコーは「リカードはこうした分析の二項を転倒させた。」と続けています。この「二項」というのは、その直前に書かれた、稀少性というものがあるのは、人々が自らの所有しない品物をおのれのうちで表象するから、つまり自分が持たない物を欲しがったり必要としたりするからだ、ということと、他方で富が存在するのはすぐに消費されない余剰(それは交換・流通の中でほかのものに交換できるものとして等価関係に置くことができる=交換価値をもつもの)を生み出すからだ、という二つのことでしょう。
 これを「転倒」したというのは、まず第一に、稀少性というのは別段人々が必要や欲求に対応する財を持たないでその欠如しているものを自分のうちで思い浮かべるからというわけではなくて、もともと人間にとって、土地という自然が産みだすものが不足しているからであって、「そもそも労働、つまり経済活動が世界の歴史に姿をあらわしたのは、人間が土地から自然発生的に生じたものを糧とするにはあまりにも数多くなってしまった日以後のことにほかならぬ」からなのです。エデンの園に住むうちは、人間にとって自然は十分足りていたのでしょうが、底を追い出されてアダムとイブがたくさんの子孫を作り出すようになってからは、労働によって不足を補っていくほかにしようがなくなったのでしょうね。

 

 従ってまた、富がすぐには消費されない余剰を生み出すからだ、というのも人のいい錯覚で、土地という自然はそんな「見かけの気前の良さ」とは正反対の「つのりゆく吝嗇」を本性としていて、人間が余剰だと思っているものは、みるみる極小化されてやがてにっちもさっちもいかなくなるぜ、というのがリカードのペシミスティックな見解だったようです。

 

 このあたりでリカードに代わって彼のペシミスティックな目でフーコーが描く人間の生産活動の歴史は、発展史観が身に沁みついた私などが読むと、本当に陽画と陰画のように印象が異なる、ひたすら自然に追い詰められ、窮迫してがけっぷち迄追われる人間の姿を描いているかのような隠隠滅滅たるものです。そして、このように「経済を可能とし必要とするものこそ、稀少性というたえざる基本的状況」なのだと断言されているのです。

 

 つまりここまでくると、経済活動というものが、自然と向き合い、自然に働きかけてきた人間のありよう、そのいかんともしがたい有限性に枠取られた、果敢ない存在としてのありようそのものに深く根差したものだということがわかり、そうした観点自体が存在論的な人間学を招き寄せざるを得ないことが明らかになります。

 

 最初読んだときはよくわからなくて「???」マークをつけていた「だから経済学は人間学的とよぶことのできる、かなり両義的なあの諸考察の領域と関係づけられるのだ」という風な言葉も、今回読んでみると納得できるような気がします。

 

 リカードと同時代のマルサスが人口論を書いた背景にも、こうした認識が共有されていたというのがフーコーの言及するところです。

 

 フーコーによれば、リカード以後の経済学は、「多少とも明瞭なやり方で、具体的諸形態を有限性にあたえようとこころみる、一つの人間学に基礎をおく」ことになるのだそうです。
 ここで「多少とも明瞭なやり方で」とか「具体的諸形態を」とか留保を付しているのは、カントの人間学に対して言っているからでしょう。その直前で「カント以後、有限性の問題が表象の分析(それはもはや有限生との関係において派生したものでしかありえない)よりより基本的なものとなったのとまさしく同じように、」とあるので、カントがあまり明瞭でないやり方で(笑)、抽象的な形で人間の有限性に着目して、そこに普遍的な人間学の基礎を築こうとしたのと同じ時代の知の地層のうちで、リカードはそれをより具体的な経験学としての経済学のうちで、ホモ・エコノミクスたる人間の有限性から説き起こす人間学をもってその学の基礎づけをしたのだということでしょう。

 

 こうした経済学の変容の中で、かつて人間の経済行動、労働の基礎づけをしてきた必要とか欲望は主観性の領域へ後退させられ、心理学の対象となってきていた領域へと追いやられたとフーコーは言います。19世紀後半に起きた限界効用学派が効用(=有用性)の概念を探求しにおもむくのは、この領域なのだ、とも言及しています。こういう位置づけの鮮やかさにはハァーッと、素人ながら感心してしまいますね(笑)。

 

 さてリカードの<有限性>の人間学に基礎づけられたペシミスティックな経済学から読み取られた<歴史>の中身です。

 従来地代は土地がもたらす豊かさのしるし、自然の生産力の結果だとみなされてきたけれど、リカードはむしろそれは土地という自然の本質的な吝嗇をあらわす物だと考えたのだ、と。
 
 どういうことかといえば、人口増加の結果人々はより豊かでない土地を開墾せざるえを得ず、より多くの労働が要求され、生産経費は肥沃な土地で当初得られた初期の収穫に比べて高騰していきます。
 しかし増加した人口を養うためにはその高価な作物も必要不可欠ですから、「一般に小麦の価格を決定するのは、たとえ、二分の一か三分の一の労働で手に入れられる小麦であってももっとも不毛な土地での小麦の生産経費」だということになります。そうするとより耕作しやすい土地での利益は増大するので、「土地の所有者はその土地を貸して莫大な小作料を先どりする」わけです。これが「地代は自然の生産力の結果ではなく、土地の吝嗇の結果だ」ということの意味です。

 

 当然人口増加とともに、この傾向は促進されていきます。人々はより貧しい土地での農耕を強いられ、生産経費は増大し、農産物価格は騰貴し、地代は上昇していきます。こうした経済環境のもとでは労働者の名目賃金も生活の資の最小限の費用を満たすために上昇するかもしれませんが、同じ理由で、つまり生産経費を最小限に抑え、利益を確保し、再生産していくためには、労賃は労働力の再生産に必要な最小限にとどめる必要があるでしょうから、その実質賃金が実際に労働者が生きるために必要不可欠なものを上回ることはないでしょう。
 こうして人口増加とともに生産費の上昇、地代の騰貴はとどまるところを知らず、遅かれ早かれ企業家の利潤は低下していきます。そして、「ある時期以後、工業利潤は新たな労働者を働かせるには低すぎるものとなり、賃金が追加されぬかぎり労働人口はもはや伸びることができず、人口は停滞せざるをえまい」ということになります。そのもとにあるのは土地という自然の吝嗇、人間が活用できる資源の<有限性>、自然とかかわって生きるしかない人間のありようの<有限性>だということになるでしょうか。

 

 このどんづまりに来た時、人口は停滞し、一種の平衡状態が訪れるのでしょう。「だからもう、以前のものよりさらに不毛な新しい土地を開墾する必要はなくなり、地代は上限に達し、もはや工業所得に従前の圧力をかけることもなく、工業所得は安定するであろう」と。

 

 こうした平衡状態に達することを、フーコーは<歴史>の終焉、とみなしているようです。

 

 <歴史>はついに静止するのである。人間の<有限性>は─決定的に、つまり<無際限の>時間にわたって、<規定される>こととなるわけだ。p278

 

 それまでは限界へ向って徐々に追い詰められているわけだから、まだ決定的ではなかったけれども、もはやそれ以上人口が増えればそれを養う生産力を高めることができず、地代は上限に達し、それによって上昇圧力を受けていた工業労働者の賃金はもはや工業生産による利潤を生むことができない限界に達するわけで、このどんづまり状態というのは人間と自然の関わりにおける人間の有限性(資源としての自然の有限性と言っても同じことだと思うけれど)、その限界を明確にあらわしているわけで、この動きのとまった(つまり時間のとまった)平衡状態によって人間の<有限性>がその具体的なありようを規定されている、というふうな意味でしょうか。

 

 <歴史>は、私などにとっては、人類が始まって以来、或いは文字で記録するということが始まって以来、ずっと人類全体の生活の総和として形づくられてきたものを指している、という感じでイメージされてきたと思うのですが、フーコーは、それは単にある時代が生み出したその時代に固有の歴史的概念に過ぎない、という使い方をしているようです。
 いやその言い方は正確ではなくて、そもそも私が「歴史的概念」なんて言いかえるときの「歴史」という概念自体をフーコーは根こそぎ相対化してしまっているわけです。私は或る時代に生み出された固有の概念という意味を「歴史的概念」と言っているのですが、その場合、「歴史」はやっぱり古代以来連綿とつづく連続的な時間を指しているわけで、その中の一部に帰属する概念ですよ、と言っているだけです。
 でもフーコーは、その「連綿とつづく連続的な時間」としての<歴史>なんてものは全く認めていないわけで、彼が確かなものとして分析の対象としているのは、決定的に不連続な断層を孕んだ幾重にも重なる知の地層といったもので、<歴史>はただ、そんな地層のうちのある部分で生み出されたものの見方であり、呼称であるにすぎない、ということになるでしょう。

 

 フーコーは経済学に導入されたこの<歴史>の概念がどのような基礎づけをもって成立したのかを、古典主義時代のものの考え方と比較して、やさしく解説してくれています。

 

 逆説的なことだが、<歴史>のこうした不動化を思考することを可能にしたのは、リカードによって経済に導入された歴史性である。古典主義時代の思考は、経済について、つねに開かれつねに変化していく将来を思い描いていた。しかし実際に問題だったのは、空間的タイプの変容にすぎなかった。つまり、富が、展開され交換され秩序づけっれることによって形成すると見なされていた。表(タブロー)は、何かを付けくわえることは可能だったが、依然としておなじ表(タブロー)のままであって、ただそれぞれの要素が相対的な表面積を減じ、そのかわりに新しい要素と関係を結ぶのにすぎなかった。それに反して、十九世紀以後、<歴史>の貧困化、その漸進的不活溌化、その化石化、そしてやがて訪れる岩のようなその不動性、そういったものについて思考することを可能にしたのは、人口と生産にかかわる二重の時間であり、稀少性の断絶のない歴史なのである。<歴史>と人間学とが、相互にかかわりあいながらどのような役割を演ずるか、いまはあきらかであろう。p278

 

 フーコーあるいは彼の語るリカードにとって、「自然の存在としての人間が有限であるかぎりにおいてしか、歴史(労働、生産、蓄積、そして実質経費の増大)はない」。歴史というのは、種としての人間が(エデンの園を追放されて以来!)その当初から持っていた限界、有限性をその肉体の直接の必要性を越えて、その有限性を自覚することなくせいいっぱい引き伸ばしてきたものの、その過程、つまり人々が文明の発展と考えてきたものに最初から最後まで随伴して、人間の営みを規定してきた、そのような有限性そのもののことなのだ、と。

 

 従って、「人間が世界の中心に身をおけばおくほど、自然の度合いをさらに強めるだろうが、一方では有限性によってますますつよく圧迫され、彼自身の死にいっそう近づく」、フーコーあるいは彼の語るリカードにとって<歴史>とは、かくもペシミスティックなものに見えてくるのは当然でしょう。

 

 ここまでは、なんとかフーコーさんのおっしゃることは、歴史の捉え方にしても、ついていけるような気がします。ただ、ここから先が私にはまだよく呑み込めません。彼は今写したような<歴史>の末期の姿をこんなふうに書いています。

 

 そうした境界まで達した瞬間、<歴史>はもはや停止し、一瞬その軸をのうえで身をふるわせてから、永遠に不動化するよりほかはなくなるのだ。だがこうしたことが生じる際の様態には二種類ある。p279

 

 こうして彼はその二種類の様態についてさらに説明していきます。ひとつはリカードの思想に代表される、と言い、いまひとつはマルクスの思想に代表される、と言って、それらはまったく同等、対等で対照的な逆方向からの<歴史>の「読み方の違い」に過ぎない、という位置づけをしてみせます。

 

 リカードの「ペシミズム」とマルクスの革命の約束とのあいだの二者択一など、ほとんどどうでもいいことなのだ。そうした選択方式は、経済学が稀少性と労働という二つの概念をつうじて創りだした、人間学と<歴史>との諸関係を通覧する二つの可能なやり方以上の何ものも示してはいない。リカードにとて、<歴史>は、人間学的有限性によってしつらえられ、たえざる欠乏によってあきらかにされる窪みを、歴史が最終的安定点に到達する瞬間までみたしつづけてくれるものであり、一方マルクスの読み方にしたがえば、<歴史>は、人間から労働を奪い取ることによって、人間の有限性の物的真実を─浮き彫りにしてみせてくれるものにほかならない。p280

 

 このあとの生物学におけるラマルクとキュヴィエの評価と並んで、このリカードとマルクスの位置づけは私を驚かせ、かなり違和感を覚えさせた部分にあたりますが、後者はともかく、ここでのリカードとマルクスの位置づけを、それぞれの思想をフーコー流の言葉で解き明かして対照させてみせる部分でのフーコーの言い回しはひどく抽象的かつ晦渋で、行を追って行っても私には読み切れないところがあります。

 

 しかしいずれにせよ、リカードをペシミスト、マルクスをオプチミストに見立てるかのように、前者は<歴史>を先ほど写した文章のように、どん詰まりに至る行程とみて、その平衡状態に<歴史>の死、永遠に不動化し、固まってしまったものとみるのに対して、後者は同じものをいわば<前史>の終りとして、そのどんづまりから、その<前史>を抹殺あるいは逆回転させることでいわば本当の<歴史>が拓かれると考えるかの違いにすぎず、いずれにせよ<歴史>(マルクス的には<前史>)のプロセス自体は人間の<有限性>によって導かれたものだという人間学的な基礎付けの上に成り立つ、時代的な思想基盤を共有する思想に過ぎない、と考えていることは確かでしょう。

 

 よせばいいのに、彼はわざわざ「西欧の知の深層のレベルにおいて、マルクス主義は実際にはいかなる断層も生じさせはしなかった」(p281)として、彼の語ってきた19世紀の思考的枠組みの中にすっぽりと収ってしまうものにすぎず、ブルジョワ理論に対して歴史の根源的転換を企てたと言ったって、それは俺の言うようなすべての<歴史>の奪取ではなくて、ブルジョワ経済学もいわゆる革命的経済学も共にその上に築かれたこの時代の知的地層に収まってしまう、子供の水遊びする「盥の中の嵐」みたいなものだよ、なんて憎まれ口をきいています。

 

 こういうところがこの本の出版当時、マルクス主義者ルフェーブルや同様の党派の同伴者サルトルのような人たちの反感を買ったのでしょうね。私はマルクス主義者ではないけれども、学生時代にマルクスはすごいな、と思って読んだり、多かれ少なかれ発展史観的な考え方の中でものを考えてきたので、全体としてフーコーの考え方がそれを根こそぎひっくり返して相対化してしまうのには驚嘆するところがあるけれど、マルクスの思想の位置づけに関しては、大雑把で、ちょっとアンフェアな印象があります。
 それは彼の思想から必然的に導かれるものかもしれないけれど、他方で、彼がこれを書いた当時のフランスの思想界ではマルクス主義者やサルトルのようなその同伴知識人が大きな知的権力をふるっていて、きっとフーコーのこういうそんな思想を根こそぎ相対化してしまうような革命的な思想を受け入れるどころか、きっと猛反発して、フーコーは四面楚歌みたいな状況に置かれたところがあったんじゃないかという気がするし、彼自身が仄聞するところでは共産党員として政治活動をしていた時期もあったようだから、思想的な転回をとげてこういう独自の思想に到達したとすれば、転向者独特の、自分がもともと帰属していた共同的な党派的思想には近親憎悪的な攻撃姿勢をとりがちなものでしょう。
 そういったことも外在的な要因としては、この種のあらずもがなの底意地の悪い表現の背後に窺うことができるような気がします。まあ、そんなことはどうでもいいといえば、どうでもいいことですが。

 

 本質的なことは、経済の歴史性(生産諸形態との関係における)、人間の実存の有限性(稀少性と労働との関係における)、<歴史>の終焉の期日─無限の速度減少であれ、根源的な逆転であれ─それら三者が同時に姿を現わす知の配置が十九世紀のはじめに成立したということである。(p281

 

 これはもう仰せのとおり、と承るしかなさそうです。

 そのあとのところで、ユートピア(この翻訳では「非在郷」と訳して、「ユートピー」のフリガナがつけてありますが)が古典主義時代には起源についての夢想として機能したのに対して、十九世紀には「時間の朝というよりもむしろその凋落にかかわってくる」と書かれているのも、いわゆる唯物史観が思い描いた<歴史>の終焉の後への夢想を連想して、なるほどと思って読みました。フーコーはさらに、その起源についての夢想が分類学的思考のユートピアであったように、<歴史>の最期についての夢想は因果性の思考のユートピアだったのだと述べています。

 

 そこには、知の世界がもはや<表(タブロー)>という様態でではなく、系列、連鎖、生成といった様態で成立させられることになった十九世紀の地層がうかがえるわけです。

 

 このリカードについての節の最後に、フーコーは、こうした十九世紀的な知の配置が長く拘束力を持っていたが、それを十九世紀末にニーチェが「最後に焼き払うことによってそれをきらめかせた」と書いています。

この文章の日本語はやや舌足らずで、ニーチェが「何を」焼き払い、「何を」きらめかせたのか、文法的に素直にみれば、その前の「このような配置はながいこと拘束力をもつものでありつづけるが」を受けて、こうした十九世紀の知の配置を指し、それをニーチェが始末したと読めますが、「きらめかせた」それ、というのも同じ知的配置であるなら、その知的配置はニーチェが「焼き払う」ことによって、その炎の中で最後のきらめきを放った、とでもいうことなのでしょうか。
 いずれにせよこの部分は唐突で、ニーチェの位置づけについてはいささか独断的な抽象的文言で、肯定的に決めつけるだけで、十分に論理的な説明が与えられてはいないので、よくわからないままです。

しかし、フーコーが、私たちの時代まで拘束しているという十九世紀的な知の配置を突き破って新しい知の空間が拓かれる可能性をニーチェに見ていることはうかがわれます。かれの<歴史>を相対化する手つきはニーチェに似ていると思えます。

 

 また長くなってしまったので、きょうはリカードまでにしておいて、素晴らしい快晴の空なので、川べりを散歩してきましょう。



saysei at 14:37|PermalinkComments(0)

2020年06月19日

『言葉と物』第二部の私的メモ

 いままでは本書全体の構成も顧みず、第一部の冒頭に置かれた「侍女たち」だけとばして、いきなり第二章から「手ぶら」で読み始めて第一部の終りまで読んできました。

振り返ってみれば、フーコーの知の地層を探る仕事は16世紀から始まり、このルネサンスの時代の地層にあっては、世界は「外徴」(記号)として自らをあらわすと同時にそれによって自らを覆い隠す存在であって世界は類似性によって成り立ち、外徴が世界を明かすのはそれが世界と類似するためであり、また外徴どうしが互いに類似しているからなので、外徴を見出し、その類似性を辿ることが、世界をとらえることにほかならなかったのです。そこでは言語も含めて記号(外徴)は物の中に埋もれた類似でつながる連続体としての実在的世界であって、書かれたテクストを註釈によって読み解くことが世界を読み解くことと同義であり、私たちの眼でみて「科学的・客観的な」観察記録も、伝聞や神話・伝説の類もテクストとして等価でした。この時代のあらゆる知的活動の基礎をなす思考の枠組み、フーコーの言う<エピステーメー>は、「類似」というキーコンセプトで表現できます。

 

 ところが17-18世紀、フランスの古典主義時代、いわゆるバロックの時代になると、こうした16世紀的な知の地層に深い断層が生じ、「類似」によって連なる連続的な世界(世界と外徴≒記号≒表象)には破れが生じ、この連続体を「同一性と相違性」の原理で分節化することによって、計量化、あるいは秩序づけることによって比較することになります。

類似によって辿られ、次々に要素を付加していく際限のない連続な世界像は、<同一性と相違性>の原理で分節化され、計量化の手法によって比較され、或いは単純な要素を見出し、これを出発点にして相違をできる限り細かに比較しながら配列することで新たな秩序が構築される、というふうに、いずれにしても類似をたどる無際限な連続する世界ではなく、比較という吟味にかけてその秩序が分析され、あらためて構造化された世界が現われます。

 

 フーコーはこの比較の二つの方法を、<マテシス>と<タクシノミア>と呼んでいます。<マテシス>は、mathematics matheに由来する言葉でしょうから、数学化、数式化、代数的方法への帰着と考えればわかりやすいけれど、フーコーは必ずしもそうではなく、計量的分析を意味する<マテシス>は秩序の分析を意味する<タクシノミア>と一対の概念として後者は前者に帰着し、前者は後者の特殊な場合にすぎない相互的な関係にある概念だと考え、古典主義時代の知がこれらとの関わりにおいて、秩序としての学である記号学を産んだと考えています。

 

 そして、記号による秩序づけこそが、あらゆる経験的な知を「同一性と相違性」の知として成立させ、古典主義時代の知の地平を形成したのだ、と。

 

 ここに古典主義は新たな知の領域として、三つの記号の学を拓くことになります。それが「語ること」「分類すること」「交換すること」についての学、つまり一般文法、博物学、貨幣と価値の理論です。

 

 思考の連続的な運動を分節化するための記号(言語)の学が「一般文法」、自然の連続性を分節化する記号(特徴)の学が「博物学」、富の連続性を分節化し、人々の必要や欲望の間に等価関係を設定して自在な交換を可能とした記号(貨幣)の学が、貨幣と価値の理論です。

 

 そのいずれをも可能としたこの時代の知の活動の要をなしたのは、この<マテウス><タクシノミア>との関わりが導いた記号であり、表象、その表象が自身のうちに拓く空間であった、と。

 

 フーコーは、こうした表象論的な知が再構成した世界を「表(タブロー)の空間」と呼んでいます。それは16世紀の類似によって無限に連続する世界を「同一性と相違性」原理によって分節化し、あらためて網羅的に秩序を形作ることによって再構造化された世界であり、あらゆるものが記号的表象としてそれぞれ自己顕示すると同時に指示しあう形で相互につながり、諸表象がそれぞれその内部に固有の表象空間を開く表象の世界なのです。

 

 私の一番関心をもっていた言語にかんする領域について、フーコーはこの時代の知の地層を代表するものとして、ポール=ロワイヤル文法を取り上げています。ルネサンス時代の言語観(一般に記号についての考え方)が「標識によって示されるもの」「標識となるもの」「後者のうちに前者の標識を認知することを可能にするもの」、いまの言葉で言えば、<シニフィエ>(意味されるもの)、<シニフィアン>(意味するもの)、そしてそれに加えて、両者を関係づける根拠にあたる概念、こうした3元的な言語観(記号観)で、最後のものがこの時代のエピスメーテーである類似性にほかならなかったわけですが、古典主義時代を象徴するポール=ロワイヤル文法では、「記号は、一方において表象するものの観念、他方において表象されるものの観念という二つの観念を含んでいる。記号の本性は、前者によって後者を喚起する点にある」と完全な二元論に置き換えられています。

 

 フーコーは、但し、記号が純然たる二元論になるためには、一つの条件がある、と述べ、「能記(シニフィアン)となる要素は、他の観念に連合もしくは置換された観念、心像、あるいは知覚というその単純な存在においては、まだ記号ではない。この要素が記号となるのは、それとそれが記号であるところのもの(シニフィエ)との関係を、さらにこの要素が顕示するという条件においてのみである。この要素は何かを表象していなければならないが、さらに、この表象作用がまたこの要素のうちに表象されていることが必要なのだ。」と述べています。

 

 言ってみれば、16世紀の言語観にあったシニフィエとシニフィアンを関係づける根拠がシニフィアンに内在化され、そのこと自体を表象していることが二元論的な言語の成立する条件になるということでしょう。

 

 シニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)、そして後者の内部にその表象機能の観念(意味するものが意味されるものを表象していること自体を表象する)が宿っていること、言い換えれば表象作用は<指示>であると同時に<自己提示>であって、他の対象との関係であると同時に自身の顕示だということを言っているわけです。

 

 これは言語についていうと、言語が表象に対していわば透明になっているので、わかりにくいところがありますが、例えば絵や写真や地図のような「記号」について考えれば実感的に分かりやすいように思います。

 

 写真なら撮影した対象があるでしょうから、写真という表現(記号)のうちにとらえられた対象の像がシニフィエ(意味されるもの)にあたるでしょうが、写真という具体的な紙の上に印刷されたり映像としてディスプレイ上に表示された表現は同時に、それを対象として指示しているものシニフィアン(意味するもの)でもあるでしょう。そして、その具体的な写真のうちに、それがどんな視点の位置からどんな角度で対象を捉えたものかという撮影主体のありよう、「自己提示」「自己顕示」と言っていいもの、シニフィアンがシニフィエを表象するありよう、その表象作用それ自体が表象されている、といっていいでしょう。つまり、表象は自らのうちに、こうしたもうひとつの自在な表象の空間を拓くのだ、ということができます。

 

 これら言語、博物学、貨幣と価値の理論の内部に踏み込んでいくと際限がないので、このあたりで第一部のおさらいはやめにして、とりあえずこんな素人読みで第一部まで読んだことにして、ごく最近読み終えた第二部の覚えに入りましょう。

 

 ちょっと中休みがてら、この本に限らず私がよく「手ぶら読み」と称している自分の読み方について書いておきましょう。「手ぶら読み」というのは、この種の小難しい本を読むのに普通は、例えばフーコーさんのこの書物の前、あるいは後に書かれた著書を読んで、いくらかでもこの著者の考え方や語り口に慣れておくとか、あるいは哲学の研究者なら当然ながら、彼以前の著名な、あるいは彼に多大な影響を与えたような思想家の著作をひもとくとか、この種の書物を読み解くのに必要な多少の知的修練を積むとか、あるいはもっと軽いところでは、いきなりこんな難解な大著にとっかかるのではなく、もう少しそれをかみ砕いた解説書の類を読んでおくとか、程度は色々考えられるにせよ、下準備というものがあっていいだろう、と考える方もあるだろうと思います。

 

 私も数学のテキストを読むのに、微分積分の基礎も習わずにいきなり偏微分だのテンソルだの大学院クラスのテキストを読もうたって無理なのは分かっていて、普通はそういうことはしないで諦めるか、せめて自分にできる簡単な下準備くらいはするのですが、小説を読んだり思想の本を読んだりするのに、そういう方法が必ずしも有効だとも適切だとも思っていないので、いつもたいがい、いきなりそれもその人の主著(もちろん翻訳ではあるけれど)にぶつかってみる、というのが若いころからの私のやり方になっています。

 

 それはほとんど直観的なもので、理屈を立てて、こういう理由で、などというのがあるわけでもないのですが、端的に言えば、よけいな解説など読んでいる暇があったら直接本人にあたってみる方が早い、といった気分ですね(笑)。

 

でも、もう少し細かく考えてみると、例えば解説書というのは、確かに原書を読んだ後で読むと、もやもやしてわからなかったところを、わかった、という気分にしてくれるところがあります。

しかし、さらによく考えてみると、それはホンマカイナ、というところがあります。大体この種の古典的な思想の解説本を出しているような人は、日本でもその思想家の研究者だったりして、そうそう変な人じゃないので(笑)、全然信用できないよ、というわけではないのです。けれども自分自身の問題として、そういう解説本を読むと、それに引きずられるところがありますよね。

 どうしてかというと、それは原著を読んだときに感じるわからなさ、曖昧さの中には、もちろんこちらが未熟で、用語もわからない、というのもあるけれど、そうじゃなくて、原著者の言葉がもともと多義性を孕んでいる、ということも少なくないわけです。というよりも、どんな思想書であっても、何もかもあらゆる読者が細部まで納得できるまでかみ砕いて具体的な例示をして、余すところなく伝える、なんてことは不可能であって、むしろあらゆる思想書はそう言ってよければ舌足らずで、多義的なテキストだと言ってもいいと思います。

 

 だから、う~ん、ここで著者が言いたいのはどういうことだろう?と疑問がわいて、ああも考えられる、こうも考えられる、いや全然違うことを言おうとしているのかもしれない、と読者は考え、迷うわけです。しかし、それは著者がそこを故意にごまかして曖昧化しようとしたわけじゃなくて、この抽象度でしか正確には言えないぞ、と考えてか、ここまで言えばあとはその言葉で何を思い浮かべようと、許容範囲はきっちり示してあるはずだ、と考えているのを、こちらでその指示が読み取れないのか分からないけれど、読む方としては曖昧模糊として、つまづいてしまうことはあるわけです。でもそれは、ひょっとしたら、もう一度読み返せばわかるかもしれないし、時間を置いて読み返せば、あっ、こういうことだったんじゃないか、と思い当たることがあるかもしれない。

 

 ところが、解説書の方を先に読んでしまうと、それが親切丁寧なものであればあるほど、原著が多義的なテキストであった部分が、一義的なものになってしまうわけです。だからああ、そうなのか、と確かに多義性が排除され、曖昧さがなくなり、「わかりやすく」なる。でも、それはどこか違うんじゃないか。いや解説者の考えが「間違っている」とは言えないのでしょうが、こちらがそのとき読んでいるのは著者の代理人の一人の考えであって著者自身の考えではない。

 

 つまり私は著者に出会いたい、と思って読んでいるわけだけれども、私が出会っているのは著者の代理人であって、それが著者だと思い込んだりすると、著者自身には永久に会えないことになりはしないか。

 

 せっかく思想家の著作を読むなら、そのご本人に出会いたいわけで、はじめて遭遇すれば、気難しいひとかもしれないし、てんで相手にされなくてがっかりするかもしれないけれど、それも含めてご本人に出会いました、という体験になるわけで、これがご本人以外の代理人なんかではしようがないじゃないか、というのが私の直観的に感じていることなのでしょう。

 

 そういうわけでフーコーさんご本人には一度半世紀ほど前に(この本の中で)お目にかかっているはずなんですが、おぼえているのはてんで相手にされなかった、ということと、ご本人に出会いました、ということだけですから、あれから半世紀たって、もう小難しい本など消化できる若々しい脳細胞ではなくなっているばかりか、細かい文字を読むこと自体が生理的に困難で虫眼鏡でたどるしかないように老いた今になって、おそるおそるお目にかかる、といったありさまでやっているわけです。それでもご本人にお目にかかる、というのは、またそれなりの感慨があるもので、わかるわからないは二の次で、とりあえず半世紀ぶりのご本人との出会いを楽しめた、というのが何よりと思っています。

 

 と言っても、「読む」というより、ほとんど彼の言葉を自分に分かるところを拾って、つなぎ合わせながら、覚えとして写しているだけで、ひたすら「写経」しているようなものです。フーコーさんの言ってることについて、とやかく自分はどう思うなんて、とても言えたもんじゃないし、取りあえず何がなんでも文字面だけでも追っかけて最後まで読んでみましょう、いや、有り難い「お経」のごときものを写し取って見ましょう。少しはその高貴な香りをかぐことができるかもしれない(笑)。

 

 閑話休題(笑)。いよいよ近代の地層へ踏み込んでいきましょう。

 

 第二部の初めに置かれた第七章は「表象の限界」です。古典主義時代には表象なくしては知的活動なし、という時代の知の要だった表象では知的活動がもうもたなくなったのでしょう。この章の最初が「歴史の時代」です。ようやくここで「歴史」が登場します。もう少しあとで「人間」も初めてお目見えします。フーコーにとっては、「歴史」も「人間」も、事実でも普遍的真理でもアプリオリな概念でもなく、それぞれの時代の地層で生み出された、いわば「時代の病」ならぬ「時代の観念」であって、私たちが使ってきた意味での歴史的概念、つまり歴史の中でそれぞれ固有の時代背景があってこそ生み出されたその時代固有の概念、人々があるときから信じるようになった、そしてまたそれゆえいつか忘れられるだろう、普遍性を持たない相対的な概念にすぎない、ということになります。

 

 先走ることになりますが、なにしろこの『言葉と物』の本文の正真正銘の結びの言葉は「賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」なんですからね(笑)。はじめてこの本が出たとき、ここまで読んできた人はそりゃショックだったでしょうね。私は若いころ拾い読みしたときは、ここまで辿りつけなかったから、それまでに読み手のほうが、波打ちぎわの砂の表情のように消えてしまったけど(笑)

 

 フーコーはこの第七章の冒頭で、18世紀末に、大きな知の断層、1718世紀的な「表(タブロー)」の空間が壊れ、認識論的な地平に不連続が生じたことを語っています。その時期を少し後のところで、フーコーは明確に、1775年から1825年と指定しています。

 

 それは一般文法において名詞に与えられていた主役の地位が消えて、新たに屈折体系(性・数・格をあらわす語尾変化)が重視され、生物学では「特徴」の分析が「機能」の分析に従属させられ、言説の分析に諸言語の分析がとってかわり、富に代わって生産の分析が登場した時期にあたります。

 

 知の空間はもう「同一性と相違性」との空間でも、<特徴>づけの空間、<マテシス>や<タクシノミア>的方法で世界を一つの連続的な<表(タブロー)>の形にとらえられるような空間でもなく、「様々な組織体からなる空間、全体として一つの機能を保証する多くの要素の内的相互関係から成る空間」、組織体内部の諸要素の関係の同一性、機能の同一性の原理によって出現する<類比>と<継起>の支配する空間にとって代わることになります。

 

 <継起>と<類比>、すなわち、互いに区別される組織体同士を結びつける類比関係が<歴史>によって時間的系列の中に展開される。ここに<歴史>が登場するわけです。それは単にこれまでに設定された事実の継起関係を指すのではなく、経験的諸領域の基本的なありようであって、古典主義時代の思考における<秩序>があらゆるものをそれに固有の空間や認識に先立って知の中に設定するものであったのと同様に、今度は<歴史>がそれに代わって、あらゆる存在が認識に対して現れる空間を形成することになります。

 

 フーコーが最初に取り上げる領域は、古典主義時代の「交換すること」、つまり貨幣と価値の理論に対応する領域における、アダム・スミスによる「労働という尺度」の分析です。

 

 アダム・スミスは一般には富の概念を基礎づけるために労働の概念を導入して近代経済学の基礎を築いたとされているけれど、フーコーはそんなことならスミスに先駆けて、カンティヨンらが使用価値と交換価値を区別し、交換価値の尺度として労働量を用いてきたのであって、スミスが経済学的概念としての労働を発明したわけではない、と言います。

 

 そうではなくて、スミスは労働という概念に交換される富を分析する機能(商品の交換価値の尺度という)を保たせてはいるが、その分析はもはや交換を必要に帰着させるための単純な契機ではなく、還元不能で越えることのできない絶対的な計量単位を明らかにするものであって、彼は労働の概念を転移させたのだ、というのがフーコーの評価です。

 

 必要(欲望)とそれに応ずる生産物の交換とが経済の原理であることは事実ですが、交換の内部、つまり等価性の秩序の中では、価値の異同を決定する尺度は必要とは別の性質のもの、つまり個人の移ろいやすい心や欲求に結びついたものではなく、そういったものに依存しないという意味では絶対的な尺度、言い換えれば外部から人間に課せられる尺度としての、人間の時間と労力なのです。

 

 アダム・スミスの分析は、彼に先立つ人々のそれとくらべて、ひとつの本質的な乖離を示している。それは、交換の動機と交換されうるものの尺度とを、また、交換されるものの性質とそのものの分解を可能にする単位とを、それぞれ区別するのである。人々は必要を感ずればこそ、交換、それもまさしく必要とする品物の交換をおこなうのだが、交換の場の秩序、その階層的秩序、そこにあらわれる相違関係は、問題の品物に注がれた労働の単位数によって決定される。・・・経済学者にとっては、物の形態で流通しているのは一定量の労働なのだ。もはや必要の対象がたがいに表象しあうのではなく、変形され、隠され、忘れられた、時間と労力があるにすぎない。(『言葉と物』渡辺一民・佐々木明訳p244

 

 フーコーはそのもう一歩先まで、このことの意味を問うて、<人間>の登場まで触れています。

 つまり、例えば金が銀の2倍の価値を持つのは互いに比較できる欲望によるのではない。それは、人々がみな、「時間、労力、疲労、さらに究極においては死そのものの、支配下におかれているから」なのだ、と。言い換えれば、彼らが交換を秩序づけることができるのは、「彼らが時間と大きな外的宿命の支配下にあるから」であって、それらの諸条件は、個人的技能や利益の計算によるよりも、産業の進歩、分業の増大、資本の蓄積、生産的労働と非生産的労働の分離などと言った表象の外部にあるわけで、古典主義時代の富に関する反省は表象の分析としての観念学の内部に宿っていたけれども、スミスの時代にはこれを人間学と経済学の二つの領域に委ねることになった、と。

 

 ここで人間学というのは、人間の有限性、人間と時間との関係、死の切迫といった人間の本質と、人間がそこに自分の直接的必要の対象を認めることができないにもかかわらず、日々の時間と労力を投入する対象とを問題とする学の領域であって、ここに「人間」が登場してくるのを私たちは見るでしょう。

 

 また経済学とは、もはや富の交換あるいはその基礎をなす表象の働きが問題なのではなく、現実における富の生産、すなわち労働と資本の形態を対象とするような学の領域としての経済学が立ち上がってくることになります。

 

 この経済学における時間は、もはや貧困と富裕のサイクル的時間ではなくなり、「固有の必然性に従って成長し、それ自体の法則にしたがって発展する、ひとつの組織体に内在するもの」になります。それが「資本と生産体制の時間」にほかならない、というのです。

 

 フーコーは次に、古典主義時代の「分類すること」つまり博物学の領域に対応する領域の知の変容について語り始めます。

 

 博物学における分類の原理は別段変わるわけではなく、分類が「特徴」の決定を目的とし、その「特徴」によって個体や種をより一般的な単位にまとめ、単位どうしを区別し、あらゆる個体や群を「表(タブロー)」のうちにはめ込むことができるようにすることがひきつづき行われてきたのであって、フーコーの挙げる多くの名前の中で私などが知る数少ない生物学者で言えばリンネの体系や、ラマルクの思想も、その域を出るわけではなかったとされているようです。

 

 しかし、経済学と同様に1775年から1795年の間に、ちょうどアダム・スミスによって、価値の尺度が必要や欲望の表象としての労働から絶対的な尺度として外部から課せられる労働に投入される労力と時間へと労働の意味するものが変容したように、<特徴>を設定するための技法やその原理に変容が生じます。

 

 18世紀の間、分類家たちは、可視的な構造を比較することによって、秩序づけの原理の選び方によっては、そのそれぞれが他のすべてを表象するものになりうるという意味では等質的ともいえる諸要素を関係づけることによって<特徴>を設定してきました。「記述された構造から分類上の特徴への移行は、完全に、可視的なものがそれ自身にたいしてはたす表象機能のレベルでおこなわれた」のです。

 

 ところが、ラマルク他の生物学者以降になると、この「構造の特徴への変換」は、可視的なものの領域とは無縁の原理、諸表象の相互作用に還元できない内的な原理にもとづくことになります。経済学における<労働>に照応する、生物学におけるこの原理が<組織>だということになります。

 

 以後、この<組織>が分類法の基礎になりますが、フーコーは4つの異なる仕方でそれがあらわれる、としています。

第一に、<特徴>間の階層的秩序として。例えば生殖が植物の重要な機能であるため、胚が植物の最も重要な部分で、その分類の原理として胚に着目することによって植物は無子葉植物、単子葉植物、双子葉植物の3綱に分類されます。こうして<特徴>は可視的構造の有無によって抽出されるのではなく、生物の本質的機能の実在とその重要度との関係において抽出されるものとなります。

 

 第二に、上述のことから、<特徴>は機能に結びつき、重要度の関係は機能上の従属関係によることになります。子葉の数が植物分類にとって重要なのは、子葉が生殖機能の中で一定の役割を果たし、植物の内的組織全体に結びついているからです。同様に、動物に在っては、栄養摂取機能が最も重要なものであることが見いだされます。

 こうして「特徴は、可視的なものそれ自体にたいする関係によって設定されるのではない。特徴は、それ自体、機能によって本質的に律せら決定されている複雑な階層的組織の一端が、可視的な面に露出したものにほかならぬ」ということになります。

 

 第三に、生命という概念が自然の諸存在の秩序づけに欠くべからざるものとなります。その理由のひとつは、可視的な器官と不可視の部分にあって本質的な機能を保証している器官との関係を身体の深層において把握することができなければならなかったからでした。

 生命という概念が欠くべからざるものとなった理由のもうひとつは、「分類することがもはや可視的な物の一要素にすべての要素を表象させることによって可視的なものをそれ自身に依拠させることではなく、まず可視的なものをその深い理由に関係づけるように不可視なものに関係づけ、ついでこの隠された建築物(<組織>)から、それを示すものとして身体の表面に与えられている顕在的なしるしへと再び上昇すること」となったからにほかなりません。

 以後<特徴>は埋もれた深層、すなわち、<組織>という整合的な総体を指し示す記号としての役割を取り戻し、そこに可視的なものも不可視的なものにも対応するものとなります。

 

 第四に分類と名称体系の平行関係が失われます。特徴が分類上の役割をもつにはまず個体の組織に依拠することが必要となって、「区別する」ことはもはや「名称をつける」ことと同一の規準、同一の操作にもとづいては行われないことになります。奥行のある<組織>の空間と平らな<表(タブロー)>の形をなす<名称>の空間とは重なり合うことなく、垂直に交わることになり、博物学と<タクシノミア>の優越性を崩壊させることになります。

 このことは、植物学の任務を、「名称の決定」と現実の類似関係の発見という、根源的に対立する異なるものと初めて指摘した功績はラマルクに帰せられる、とフーコーは述べています。

 

 こうして動物や植物の特徴が自然の模写としての表象として、名づけられ、言説の空間に配列されて一つの表(タブロー)の形をした知の空間を形作ってきた古典主義時代とは異なり、それらの特徴は単にそうした分類学的空間にはめ込まれる分節化された一断片ではなく、その背後に可視的・不可視的な構造と機能をもち、それぞれの内的な法則に従っている<組織>があって、これが自然を分節化する<構造>と指示する<特徴>とをつなぐことによって、「両者の間に、深い、本質的な、内部の空間」、近代的な自然認識につながる知の空間を拓いたのだということになるでしょう。こうした知の変動の1つの帰結として、有機的なものと無機的なものとを根源的に区別する二元的分割の定式化もまたラマルクらの功績だとフーコーは語っています。

 

 古典主義における表象の世界に最も遅れて転移をはたすのは、一般文法の領域であり、富の分析や博物学の分野が比較的早くから変容していたのに対して、言語はそれらよりもより深く、表象とその存在様式のうちに根を下ろしていたために、言語の学がそれらと同様の重要な変動を蒙るためには、「西欧文化における表象の存在そのものまでをも変化させうるほどの、さらに深い出来事が必要だった」と、フーコーは言います。

 

 19世紀初頭に至るまで、言語の分析において、語はその表象的価値から出発して考察されており、「ある言語のすべての語は、おおかれすくなかれ隠された意味、おおかれすくなかれ転移した意味をもつとはいえ、その意味のそもそもの存在理由は原初における指示作用のうちにあるとされていた」のです。

 

 しかし、18世紀の最後の25年間になると、諸言語間の水平方向の比較が、言語の表象的価値を確認するための、似た音が同じような意味をあらわすというような類似関係の発見と蒐集とは別の機能、すなわち「言語同士がどの程度に似ているか、それらの相似の濃度はいかなるものか、それらはどの程度にたがいに透明であるかを教えるべきものとなる」と。

 

 この表現はいささか抽象的でわかりにくいけれど、もう少し具体的に言語学の内部で起きたことに立ち入って見ると、18世紀の終わり近くまでは、こうした諸言語間の比較は、「一般文法」のものであった二つの原理に立脚していました。すなわち「原初的な共通の言語があって、それが語根の最初の配分を定めたという原理と、言語そのものとは無縁な一連の歴史的出来事(異民族の侵入、移住、認識の進歩、政治的自由や隷属など)が、言語を外側から押しまげ、摩滅させ、精錬し、柔軟にし、その諸形態を多様にし、あるいは混ぜ合わせたという原理」に立脚していた、と。

 

 これに対して18世紀末になされるようになった諸言語間の新たな対比にあっては、「意味内容の分節化と語根の価値とのあいだに、もうひとつの中間的形象があることをあきらかにした」と。それが<屈折>です。巻末事項索引は「屈折」を次のように解説しています。

 「flexion 性、数、格など語の文法的はたらきを示すためにおこなわれる語尾変化」

 要は、言語を表象とみなす時代には、その意味をあらわす指示機能を担う名詞、あるいは語根が重要であって、それと表象のうちに切り取られた意味との関係、つまり指示能力と分節化の能力との結びつきが<名>を至上とする言語観の要であったわけですが、従来は副次的な価値しか持たなかった<屈折体系>、つまり語尾の諸変化の体系が非常に重要なものとして独自の価値をもって言語に関する知の前面にせりあがってきます。

 

 その契機となったのは、諸言語の動詞の諸形態の比較において、それまで一般に認められてきたのとは逆の恒常的関係、すなわち変質しているのが語根のほうで、屈折のほうがたがいに似ている、つまりそうした屈折の平行関係のうちに共通の原初的言語の名残が認められる、という現象が見いだされたことだったそうです。つまり意味や表象の観点からは副次的なものとみなされていた屈折(語尾変化の体系)が、形態の面ではむしろ「堅固で恒常的な総体を構成」していて、その法則が表象的語根をも支配して、語根を変様させる、というのです。

 

 フーコーによれば、これらの分析はまだ「一般文法」のレベルにとどまってはいたけれど、その着眼点が、もはや原初の音節と最初の意味との結びつきではなく、二つの言語における形態上の変化の系列と、文法的機能、統辞的価値、意味上の変容と言った変化の系列との間の関係に移っていた、ということです。

 

 こうして、屈折体系を通じて、「純粋に文法的な物の次元がらあらわれ」ます。

 

 言語はもはや、さまざまな表象と、それらをさらに表象しつつ思考の結合の要求するとおりの秩序に配列される音という、この二つのものだけから構成されるのではない。言語はさらに、体系としてのまとまりをもつ形態上の要素から構成されており、それが、音、音綴、語根に表象体制とは異った体制を課するのである。こうして言語の分析の中に、表象に還元しえぬ要素が導入されたのだ(ちょうど、交換の分析に労働の概念が、特徴の分析に組織の概念が導入されたように)。P256

 

  音声学の出現もこうした文脈のうちに納得できます。

  様々な言語は、表象的言語観においては語の指示するものによって対比されていたのに対して、19世紀の言語観では語を互いに結びつけるものによって対比されることになります。

 表象としての言語が変容するのは、観念、物、認識、感情が変化したときだけであり、しかもその変容はそれらの変化に正確に比例すると考えられてきたのですが、いまや諸言語の内部にはひとつの「メカニズム」があり、それが各言語の個別性ばかりか、他の言語との類似をも決定することになった、というわけです。つまり言語もまたそれ固有の「歴史」を持つことになるわけです。

 

 こうして、一般文法、博物学、富の分析の三つの領域に生じた知の断層を順次語ったうえで、これらが同じタイプの変化であることを指摘して、フーコーは次のように簡潔にまとめています。

 

 表象にあたえられていた記号、それによって成立しえた同一性と相違性の分析、相似物の繁茂のなかに設けられていた連続的で分節化された表(タブロー)、無数の経験的事物のあいだに立てられていた秩序、こうしたすべては、これ以後、もはや表象のそれ自体にたいする二重化のみに基礎をおくことはできなくなる。この出来事が起って以来、欲望の対象となる品物を価値あらしめるのは、もはや欲望がみずからにたいして表象することのできる他の品物ばかりではなく、この表象に還元することのできぬ<労働>という要素である。自然の一存在を特徴づけることを可能ならしめるのは、もはやその存在と他のすべての存在との表象にもとづいて分析しうるたぐいの要素ではなく、<組織>と呼ばれる、その存在の内部におけるある種の関係なのだ。ひとつの言語を規定するのは、その言語が諸表象を表象する仕方ではなく、ある種の内的建築物、語が他の語にたいしてとる文法的姿勢に応じて語そのものを変様させるある種の仕方、すなわち、その言語の<屈折体系>にほかならない。いずれの場合にも、表象の表象それ自身にたいする関係と、この関係によっていかなる量的測定もなしに決定される秩序関係は、いまや、現にあたえられている表象そのものの外部にある諸条件によって媒介されることとなる。 P257

 

  古典主義時代と近代の始まりとの間の深い断層はこの要約のうちに尽くされているように思います。私たちが今の世界の知的空間のすべてだと思っている経験諸科学がいまようやくここにそれが成立する場を拓かれ、生成するにいたったわけです。

 

 そのためには、古典主義時代の表象の世界がもはや機能しなくなる必要があったわけで、表象がその力を喪失することによって、その外部にそれ自身の構造と機能、法則と歴史をもつ領域が姿を現わす、というわけです。この第七章のタイトル「表象の限界」を、フーコー自身は次のように語っています。

 

 表象が、その諸要素のあいだに成り立ちうる結合を、表象それ自体から出発して、表象固有の展開において、表象を二重化する仕組みによって、基礎づける力を喪失したのである。いかなる合成も、いかなる分解も、同一性と相違性へのいかなる分析も、もはや表象相互の結合を正当化することはできない。秩序も、それが空間化される場である表(タブロー)も、それによって規定される隣接関係も、その表面の様々な点のあいだでの可能な巡歴としての継起関係も、もはや表象同士、あるいは各表象の要素同士を結合する力をもたない。この結合の条件は、以後、表象の外部、その直接的可視性の彼方、表象それ自体よりも深く厚みのある一種の背後の世界に宿るのだ。諸存在の可視的形態が結ばれあう点―生物の構造、富の価値、語の統辞法―に達しるためには、あの突端、われわれの視線をのがれて物の核心そのものへとくいこんでいる、あの必要だがけっして到達しえぬ尖頂のほうへと向わなければならない。 P258-259

 

 18世紀末に生じたこの断層によって、表象は「物と認識とに共通な存在様態を規定する力を失い」、「表象されたものの存在自体が、いまや表象そのものの外にこぼれ落ちようとしている」。このとき知の空間は何によって支えられるのか。そこに現われる諸観念を、その相互の関係は、もはや表象相互の関係を基礎づける表象自身の力もその相互関係を規定する表(タブロー)も失われたとするなら、それらは何によって基礎づけられるのか。

 

 そこに登場するのが、同じ18世紀末における<観念学>とカントの批判哲学だとフーコーは述べています。

 

 <観念学>を代表して引用されたデステュット・ド・トランは、「<考える>とはつねに<感じる>ことであり、感じること以外の何ものでもない」と、関係についての思考をその関係が与える感覚によって、さらに思考一般を感覚によって定義し、表象の単純な始原形態である感覚、ほとんど人間の自然についての学と踵を接する生理学的条件によって基礎づけようとします。つまり、表象相互の結合関係を殆ど印象にすぎない感覚のところまでもっていって根拠づけようとします。

 

 カントは表象や表象うちに与えられるものを迂回して、それらの前提となる条件、表象内容に基づいて行われる経験判断や経験的確認の領野を超越した先験性(ア・プリオリ)のうちに、諸観念の結合関係の基礎付けを求めようとします。

 

 フーコーは<観念学>を「古典主義時代の最後の哲学」として、古典主義時代の最後の物語だと彼が述べたサドの『ジュリエット』と並べてみせ、それに対してカントの批判哲学を「われわれ近代の発端をしるしづける」ものとして対比させています。

 

 そしてカントの批判哲学が、「表象の由来と起源をなすすべてのものに表象の外部で問いかけることを意図するような、もうひとつの形而上学の可能性を開くもの」であり、<生命>、<意志>、<言葉(パロール)>の哲学への道を開いた、としています。

 

 カントの批判哲学の意義については、さらに詳しく展開されています。

 

 古典主義時代において、秩序に関する一般的学問としての<マテシス>とかかわりながら形成された一般文法、博物学、富の分析などの経験的な諸領域は、この時代に固有の或る一般的可能性を基盤として成立したものでした。

その一般的可能性とは、あらゆる表象のあいだに同一性と相違性を原理として成立する<表(タブロー)>を設定する可能性であり、この<表>の形をした空間こそが、諸表象をそれぞれしかるべき位置に配し、秩序づけて、古典主義時代の知の基盤を形づくってきた、整然たる等質な場であったわけです。

 

18世紀末にこのような場が解体されたことから、あらたに二つの思考形態が生まれてきます。

その一つは、表象相互の関係の条件を、表象一般を成り立たせる主体の側に求め、そこに経験を超越しながら、或いはそれゆえに経験一般を基礎づける先験的主体の分析です。

またいまひとつは、表象相互の関係の条件を、そこに表象されている存在そのものの側に求め、あらゆる表象の統一性の基礎をなしてその背後に潜む力、すなわち労働の力、生命の力、語る能力という、その存在においては認識の外にありながら、其の事によって認識の条件をなしている<先験的なもの>の分析です。

 

つまりフーコーの考えでは、カントの先験哲学の創設と生命、言語、経済に関する学問の存立とは照応関係にある、とされています。

 

ここのところは大変重要なので、そっくりそのまま引き写しておきましょう。

 

秩序づけうる諸表象のこの等質な場の十八世紀末における解体こそ、たがいに相関関係にある二つの新たな思考形態を生ぜしめたものなのだ。ひとつの思考形態は、表象相互の関係の条件を、表象一般を可能ならしめるものの側に求め、そうすることで、経験には決して与えられぬが(主体は経験的なものではないのだから)他方では有限である(知的直観というものはないのだから)主体が、客体=xとの関係において経験一般のあらゆる形式的条件を決定する先験的な場をあらわにする。それはすなわち、諸表象間における可能な総合の基礎をあきらかにする、先験的主体の分析にほかならない。先験的なものにたいして開かれたこの思考形態とはあたかも対称的に、もうひとつの思考形態は、表象相互の関係の条件を、そこに表象されている存在そのものの側に求める。現に与えられているあらゆる表象のはるかな地平にあって、それらの統一性の基礎としてみずからを指し示しているのは、あのけっして客体化されえない客体、あのけっして完全には表象されえない表象、あきらかだが目につかぬあの可視的なもの、われわれのまえに現出するものの基礎をなし、まさにそれゆえにみずからは奥まったところにひそんでいるあの実在、すなわち労働の力、生命の力、語る能力である。物の価値、生物の組織、諸言語の文法構造と歴史的類縁関係は、まさにわれわれの経験の外縁をさまようこれら諸形態から出発してわれわれの表象にまでいたり、認識というおそらくは果てしない作業をわれわれに要請するのだ。 P263-264

 

フーコーは最後のこの経験的領域の背後にひそむ諸力を「先験的なもの」と呼んでいますが、そこで断っているように、これはあくまでも客体の側、いわば具体的な労働場面や生物や言語活動の向こう側にあるもので、「現象を全体化し経験的多様性の<ア・プリオリ>な整合性を教えるもの」で、むしろ「<ア・ポステリオリ>な真理の領域と真理の綜合の原理にかかわるもの」であって、「あらゆる可能な経験の<ア・プリオリ>な綜合にかかわるものではない」。つまり先に述べた、カントによる主体の側の先験的な場の発見とは別のことであって、労働の力、生命の力、語る能力は客体化されず、完全には表象されず、むしろその背後に隠れて諸表象を基礎づけるもの、経験諸領域の側にありながら、認識の対象としてそこに見出される客体ではなく、認識の外にありながら、むしろ生産の法則や生物、あるいは言語の諸形態の認識を可能にする認識の条件をなすものですから、「先験的なもの」という言い方をしたのでしょう。

 

こうした客体の側におかれた「先験的なもの」はフーコーによればカントの専売特許ではなく、カントのように先験的主観のレベルで解明されるような認識条件の分析には背を向けながら、表象の領域を制限した形で客体の側にある「先験的なもの」を考えた例は、既にカント以前の形而上学の中にみられ、そうした「先験的なもの」がそれらの形而上学の出発点に置かれているのを見ることができるそうです。例えば、神の<言葉(パロール)>、<意志>、<生命>等々。つまりその点で、それらの形而上学は、批判哲学と同一の考古学的地盤にあるのだ、というのがフーコーの考えです。

 

また、このような意味での「先験的なもの」が<ア・ポステリオリ>な綜合にかかわるという事実は、そこに「実証主義」の出現を予感させるだろう、とも彼は記しています。つまり、経験の中に私たちは様々な現象の或る層が与えられるけれど、それらの現象自体は背後のいわば「先験的なもの」に基礎づけられており、私たちが認識できるのは「実体ではなくて現象、本質ではなくて法則、存在ではなくて存在の規則性」だというとらえ方であり、実証的認識の背後に、決して客体化し得ない根底(「先験的なもの」)についての形而上学がひそんでいる、というのがフーコーの見立てです。しかも、この種の批判哲学=実証主義=客体の形而上学という三角形は「十九世紀初頭からベルグソンにいたるヨーロッパの思考の基本的構成要素」だというのが彼の見るところです。

 

 このような知の空間の構図は、表象の純然たる内部分析によっては理解できない経験的な場の出現と結びついており、そのことと関連して新たな知の分割が生じます。

 古典主義時代には、これら経験的な場の前身ともいえる観察に基づく学問、文法知識、経済的経験を数学化する試みが行われなかったことは意外なようだけれど、その時代には、これら質的なものに関する学問はすべて、同一性と相違性にもとづく表象の分析と、永続的な表(タブロー)への表象の秩序づけによって、当然のこととして狭い意味の数学化を含む、普遍的な<マテシス>の場に位置づけられていたので、すべては<マテウス>的あるいは<タクシノミア>的な方法で分析されてきたのでしょう。

 

 18世紀末になると「表象相互の結合関係が、表象を分解する動きそのものの中に成立しなくなった」ため、ア・プリオリな諸科学とア・ポステリオリな諸科学、形式的で純粋な、数学と論理学に属する演繹的な諸科学と、帰納的な諸科学(フーコーの言い方では「演繹的な形式を狭い局部において断片的にしか用いない経験的な諸科学」)との新たな分割が生じます。

 

 この結果、かつての<マテシス>および秩序に関する普遍的な学問の解体によって失われた統一性を、別のレベルで再び見出そうとする認識論的配慮が生じ、経験的諸科学の領域をすべて形式化し、純粋化し、数学化することによって、認識論的な統一場を再建しようとする試みにつながります。

 それと同時に、この試みとは対照的に、生命のもつ還元不能な特異性を主張し、あるいはあらゆる方法論的還元に抵抗する人文諸科学の特性を主張することによって、その形式化の試みに抵抗する主張が同時に興ります。

 これが18世紀末、表象の空間から綜合の可能性を分離したことの帰結であったことは明らかであり、近代の<エピステーメー>の第一の性格をなす、すべての科学的な企ての核心に形式化あるいは数学化が置かれたことの意味、なぜ経験的なものの性急な数学化や素朴な形式化が批判哲学以前の独断論の様相を帯び、<観念学>の陳腐な主張に回帰したかと思われるかを説明してくれる、とフーコーは言います。

 

 近代の<エピステーメー>の第二の性格についてのフーコーの記述は第一の性格ほど簡明ではなく、晦渋な印象があります。

フーコーはその性格を述べる上で、<マテシス>の統一性が断ち切られた19世紀以降、再び総合の基礎を求めようとする近代の知が、同様にある種の普遍性をめざしたデカルトやライプニッツの試みに呼応するように見えながら、いかに両者が異なっているかを説くことから始めて、近代の<エピステーメー>の第二の性格を明らかにしようとしています。

 

彼が言うところでは、「デカルトやライプニッツの時代には、知と哲学は相互に完全に透明であって、知を哲学的思考のかたちに普遍化する際にも、何ら特殊な反省の様態を必要としないほどであった」と。

しかるに、カント以後問題は一変し、「知はもはや、それ自体統一を持つと同時にすべてを統一する、あの<マテシス>を背景にして展開することはできない。一方では、形式的な場と先験的な場の関係の問題が提起され、他方では、経験性の領域と認識の先験的基礎との関係の問題が提起されるであろう。だが、いずれの場合にも、普遍性についての哲学的思考は実際の知の場とおなじレベルにはなく、<基礎づけ>の可能性を含む純粋な反省として成立するか、<解明>の能力をもつ奪回作業として成立するかのいずれかである。」

 

とても難しい言い回しですよね。<マテシス>というのは古典主義時代のいわば世界把握の方法としての数学化或いは広く記号化と言ってもいいでしょうけれど、それは結局もう一つの<タクシノミア>と一対の世界を分節化し、秩序化して、表象の体系である表(タブロー)の形をした空間として統一的に把握することを基本的な方法ですから、表象がその力を失い、表象の形づくる<表>的世界の統一性、普遍性が破綻するとき、それらを基礎づけてきた<マテシス>的方法によって知の世界の統一を図ることはできなくなります。そこでは分析と綜合が。また先験的主観と客体の存在様態との乖離が起り、世界をとらえようとする知の眼差しとその普遍性を問う哲学的な反省の眼差しとに乖離が生じる、と言い換えてもいいのではないでしょうか。

 

こうして、認識の純粋な諸形態の領域が孤立し、あらゆる経験的な知に対して自律性と主権を主張するとともに、具体的なものを形式化して無理にも純粋科学を成立させようとする企てを、際限なく繰り返させる」(p268

 

従って、哲学的思考というのは、いわば世界をとらえようとする経験的領域における知的活動のありようを反省し、その成立基盤を確かめ、基礎づけるものとして、知的活動そのものとは別のレベルに置かれる。そうでなければ、「<解明>の能力をもつ奪回作業として成立する」とフーコーさんは書いているのですが、少し後で、その例としてヘーゲルの現象学を挙げて、「経験的領域の全体が、自己に対して精神―すなわち、経験的であると同時に先験的な場―としてあらわれる一個の意識の内部に奪回された」と書いているので、「奪回」っていったい何のこっちゃ、と思っていたら、そういうことなんだ、とある程度イメージできます。つまり、ヘーゲルにあっては、現実のすべてはその歴史性も含めて精神の疎外態として発展していくわけで、フーコーの言う経験的領域の全体がヘーゲル的精神のうちに回収されるわけで、それが展開される場は経験的であると同時にカントの開いた先験的な場でもあるわけです。その、ヘーゲル的精神のうちに回収される、というのをフーコーさんは「一個の意識の内部に奪回される」と言っているわけでしょう。

 

それは経験的領域における知的活動と別のレベルで、その知的活動を反省し、その基礎付けをするような哲学的思考のありようとは異なるけれど、経験的領域全体を一つの精神のありかたとしてまるごと取り込んでしまうことによって、経験的領域の知として世界を解明していく活動ができると同時に、その知的活動のあり方を自覚的にとらえ、その根拠を問うことも、意識がそれ自身を問う形でできるわけで、こういう形で世界を自身のうちに奪回するような哲学的思考のありかたもあるんだ、ということではないでしょうか。

 

いずれにせよ、こういう経験的領域に関わる知的世界と哲学的思考との乖離、後者による前者のあり方の反省とその基礎づけという課題の延長上に、はるか後の時代のフッサールの現象学が位置している、ということにも、フーコーは言及しています。

 

 この章の最後にフーコーは、「18世紀末に西欧の<エピステーメー>に起った基本的出来事の、もっとも遠い、われわれにとってもっとも回避しがたい帰結」を要約すれば、として、先に引用したp268の文言、つまり認識の純粋な諸形態の領域の孤立と経験的諸領域における形式化を「消極的意味においては」として挙げていますが、それに続けて「積極的意味においては」と同じ帰結を別の言い方で次のように述べています。

 

 「経験的諸領域が主観、人間存在、有限性に関する反省と結びつき、この反省が、哲学としての価値および機能とともに、哲学の滅却あるいは反=哲学としての価値と機能をもおびるのである。(p268)

 

 経験的諸領域がこれと乖離した哲学的思考による反省とうまく結びつき、その基礎付けが確かなものとして、それ自身のうちに内在化されうるものであれば、哲学というのものは無用になるはずですね。

 

 さて、まだ「写経」は140ページ分くらい残っていますが(笑)、あまり長くなるので今日はこの辺で打ち切っておきたいと思います。



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