2020年04月
2020年04月27日
おこもり読書~つづきのつづき
ソシュールの「一般言語学講義」を読んで、なるほど、なるほど、ちょっとどういうことを言っているのかよくわからないところもあったけれど、すんなり読めるし、わかるじゃないの(笑)、と気をよくして、そのあと念の為、丸山圭三郎さんの「ソシュールを読む」を読んで、丁寧に解説してもらって、なるほどよくわからなかったところも分かったなぁ、と安心して、そういえばこんな本がどっかにあったなぁ、と本棚の奥に「ツンドク」していた前田英樹さんの「沈黙するソシュール」を読みだしたら、これがいけない(笑)・・・
???の連続で、行きつ戻りつして、ここ3,4日ほとんどかかりきりになってしまいました。ようやく327ページのあとがきまで、残さず眼は通しましたが、はたしてこれが「読んだ」と言えるのかどうか。
中身を理解しようと考えあぐねた結果、いったい「わからない」というのはどういうことなんだろう?こうしてひとの本を読んで「わかる」というのはどういうことなんだろう?ということの方に思いが行ってしまいました。
前田さんの本はソシュールのテキストやその引用の中でソシュール自身がフランス語の例を挙げているところ以外は日本語で書かれているので、私も75年ほど日本で暮らしているので(笑)、辞書的な意味で「わからない」語彙というのは、あとのほうで登場する「セーム」だの「アポセーム」、「パラセーム」、「ソーム」みたいなソシュールが使った言語学的なカタカナ用語などわずかな語彙以外にはありません。
だから例えば「言語(ラング)とは自己産出的に発生する単位の様々な質の度合にほかならず」なんていう言葉も、そこに使われた語彙の一つ一つの辞書的語義を知らないわけではないので、もしひとの言葉をわかる、ということが、私の頭の中にある辞書の語義と照合して、そういう意味なんだ、と思うだけのことなら、私はこういう文章を「わかった」ことにして先へ読み進めて支障ないはずです。
しかし、そんなことをしても、ちっとも「わかった」気にならないことは言うまでもありません。なぜなんだろうか、と考えると、それはたぶん、ここで言われている「自己産出的」とか「単位」とか「質」とか「度合」という語彙、それらの文字イメージと概念の結びつき、ソシュールのいう言語(ラング)がこれを書いた前田さんの言語(ラング)とは違っているから、と考えるべきでしょうか。いやそうなると言語(ラング)が個人的なものになってしまうから、きっと言語(ラング)という社会的産物としては、私たちの頭に共通して入っている心理的実体としての或る特定の文字イメージと或る特定の最大公約数的な概念との結びついたものとして、私たちが文字を使ったり読んだりするときに呼び起こされる記号としての言語は同じものなのでしょう。
しかしまた、彼がこれを書いたときには、そのようが言語を「使った」というのは実は語弊のある言い方で、「呼び起こした」ときに、それは同時にすでに彼や私の頭のなかにある社会的産物としての記号とは異なる前田さん固有の言葉として、ソシュール的な言い方を借りれば、新たな分節だか差異化だか知らないけど、そういうものとして書いていて、私がその書かれた言葉を読むときにも、私はそこに書かれた文字から自分の頭の中の社会的産物たる同じ文字イメージと概念の結合した言語を呼び起こされながら、同時にその呼び起こされるものとして、それに還元されない私固有の新たな分節だか差異化だか知らないけれども、そういう読み方において書かれたものを分節化し、差異化しながら受け取っている、ということになるのではないかしら。
そうすると当然、前田さんの書いているときの分節だか差異化だかと、私が彼の書いたものを読むときの分節だか差異化だかとはそれぞれが頭の中で書くとき、読むときに呼び起こされた社会的産物は同じでも、それぞれのその呼び起こした結果としての固有の分節なり差異化なりとは違うのは当然ということになりますわね。
まあそういうわけで、この本の後半はほとんどズレっぱなしで(笑)、感想らしきものも書けそうにもありません。
しかし、この本でも私が少なくとも、わかったような気になった個所が皆無かと言えばそういうわけではないのですが、それはつまり彼が否定的な主張を書いているところばかりです。
たとえばほとんどラストの320ページの次のような個所:
実体論者の枠組は、実体それじたいの設定にあるのではなく、<空虚対実体>の図式のなかに事象発生の過程を組みこむことにある。同じく関係論者の枠組は、関係性それじたいではなく、<実質対関係>の図式なのだ。・・・<実体>の実定性が<空虚>の否定性を基盤としているように、<関係>の否定性は<実質>の実定性を基盤としているにすぎない。
こういうところは、そこまでの話の流れが頭に入っていれば、なるほどうまくまとめたな、そのとおりだな、と得心がいきます。とくに構造言語学などソシュールを関係論的に読んでそれなりに言語学の領分で成果を上げて来たような考え方をありもしない礎石を「実質」の概念を充ててバベルの塔を積み上げている能天気な連中を主なターゲットとする舌鋒鋭い批判が繰り返されるのを見て来た読者としては、すんなりと読めます。
それはしかし、こういう個所だけでなく、ソシュールのテキストに丹念な注釈を加え、敷衍していく文章の肝心の部分はほとんど、と言っていいくらい、「~ではなくて」という否定形で主張が書かれています。
画定とは、数えることではなく、質のさまざまな「度合」における分離、あるいは差異化のことである。(p292)
言語(ラング)がシステムであるのはレヴィ=ストロースがあっさり考えているように「伝達」という「目的」のためではない。言語それ自身の無基盤性を、その比類のない<時間>、「単一ー空間的」な反復によって、存続させるためなのだ。(p316)
「連合」は、その発生=画定のなかで成り立つ反復であって、一つの語が記憶中で比較される対立語のリストではない。同じく、それは意識の深層に一度きりで拡がっていくような「諸差異の戯れ」でもない。(P317)
ソシュールにとっては、言語(ラング)は世界を分節するためにあるのでも、思考を伝達するためにあるのでもない。言語セームの否定性は、実体概念のたんなる反転、<空虚対実体>図式のたんなる反転で成り立ちはしない。(p322)
挙げて行けば切りがないし、昨日までに読んだ以前のところにも無数にありました。こういう文章の中で、否定された部分は、相対的に分かりやすいように思えました。それは私が彼がありふれた誤謬と考える「実体論的」思考や、ソシュールを読んでようやくそういうもんかと「誤解」したらしい「関係論的」思考にはまっているから、ということになるのかもしれませんが、必ずしもその否定が間違っているとは感じられません。なるほど、実体論的発想はこういうところが駄目なんだな、とか、関係論的発想はこういうところが駄目と言われているんだな、というのは、前田さんの論述を読んでいくと、おぼろげながら(笑)私の頭脳でも感じられる(「わかる」とは恐れ多くて言えないけど・・・笑)のです。
ところが、前田さんが否定形ではなくて、肯定的に、ポジティブに「こうだ」と語る部分は、私にはおっそろしく難解で、多分こういうことを言おうとしているのかいな、と察知できそうな感じがすることもあるものの、せいぜいその程度で、正直のところチンプンカンプンと言っておいた方がよさそうです。
キーワードの一つと言っていい「単位」についての、先日も引用した次のような一節などその典型みたいなものです。
「単位」の本性とは、いったい何か。それは、無基盤な自己差異化を通して、絶えず不安定な一種のシステムを成していくことだ、と取りあえずは言っておこう。「単位」がシステムを構成するのではない。「単位」という「現象」が、一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じるのだ。あるいは、ひとつの「単位」は、そのままひとつのシステムとなって回帰するまで自己差異化をつづけると言ってもいい。「単位」の存在は、「単位」の生成に送り返されながら、再び「単位」の存在それじたいに循環してくるほかない。(P217)
肯定的、積極的な言葉の部分がほとんどわからないので、ひょっとすると彼が言いたいことは「~ではない」という否定形を無限に積み重ねることによってしか指示できない類のことなのかしら、と思ってみたりしました。
学生時代によく読んだ埴谷雄高が確か、獄中で読んだカントに震撼されて「死霊」を書き始めたということでしたが、エッセイで彼がカントの無限判断、「~ではない」を無限に積み重ねて或る命題を証明しようとするような話を書いていたのを思い出しました。ヘーゲルにもそういう無限判断というのがあったと思いますが、埴谷さんのはたぶんカントが原典だったと思います。「死霊」は伝説的に難解な小説と言われてきましたが、彼のエッセイはとても明晰で分かり良い言葉で書かれていました。
前田さんのこの本を「読んで」いて感じたのは、繰り返し繰り返し「~ではない」という否定の無限判断みたいなのを重ねていくような文体で、私にはそれらの文章が指し示そうとする方向がうまく見えなかったけれど、きっとこの種の議論や予備知識を持った思考力のある人なら、多分こういう言い方でしか指し示せないところにあるものの形が見えたのでしょう。そうすれば、あるいは私には全然わからなかった肯定形の部分の意味も明らかになるのかもしれません。
私にはせいぜい彼が批判して駄目だダメだと否定している「関係論」的な発想というのでしょうか、ソシュールの言う混沌とした星雲のごときものから根拠なく、つまり何か自然的なものと結びついてではなく、聴覚イメージと概念の連合としての言語(ラング)なるものが、恣意的な分割、つまり何らかの必然的な分割ではない偶然的な分割として、何らそれ自体は積極的にそのものである根拠を持たない他の項目に対する差異としてだけ存在する心的実体として、つまりは価値として他の項目に対峙する価値として発生している、そういう社会的産物としての心的実体がラングなんだ、といった理解にとどまっています。もしこれが「関係論」的な発想というのも間違いでなければ、ですが。
しかし、これはほんの1週間ばかり前にソシュールの訳本を一冊読んで習い覚えた概念にすぎないので(笑)、疑問はいっぱいあります。ソシュールはたしか、そういう分割が、つまりラングが生じるのはなぜか、というか、どうやってか、という疑問に対しては、発話(パロール)の集合というのか、もちろんその言語を使う無数の人々が実際に喋ることによってだ、とどこかで書いていたと思いますが、それは言語(ラング)が社会的産物だ、という彼の言葉から当然でしょうね。
でもそれは答えになっているかどうか、人が発話できるのはラングという状態があるからだとすれば、鶏か卵かの堂々巡りになりそうです。
それに、「関係論」的な考え方をとるとしても、前田さんがいうように能天気で安心していられるかというと、そうは思えなくて、じゃその分割だとかって、何を分割するんだ、とか(ソシュールは星雲だとか比喩でしか言っていないようですし)、その分割って何がどうやって引き起こすんだとか考えるとわけがわからなくなります。今西さん(今西錦司)じゃないけど「起こるべくして起こる」んでしょうかね?(笑)
まあこういう疑問は素人ならではのもので、なぁんだ、それはこうだよ!と前田さんがいらしたら、パッと答えてくれるようなものかもしれません。
ただ、ソシュールを最初読んだときの分かりやすい(かのような)印象というのは、なんだったんだろう、という気がいまもしています。こういっちゃ何だけど、前田さんのを読んだら、ソシュール本人よりもソシュールがずっとわかりにくくなってしまった(笑)。
前田さんが言うところでは、どうやらソシュールも、こうだ、と肯定的な言い方で指し示すことができない、あるいは容易にはできないことがらを言おうとして、あえて通俗的な私たちも分かるような言い方をしたり、比喩を使ったりして、すっと読んだのではきわめてミスリーディングな表現をいたるところでやっている、と。ただし、彼自身は自分が講義で言ったり、言おうとした言葉に、色々注釈を加えていて、彼が一見たしかに「言った」ようなことを修正し、あるいは時に否定してしまうようなことを言うことによって、なんとか「本当に言いたいこと」に近づこうとしていたんだ、ということになるようです。
そういわれると、前田さんの文体が、なんだか「~ではない」を積み重ねて、決して言えないかもしれない「~である」に近づこうとする、相当しんどい作業の跡のような感じがするのは、ソシュール先生の姿勢に倣ったものかもしれないな、などという感想を持ちました。
この種の哲学的な本の多くは、抽象度の高い言葉の水準でずっと一貫していて、私たちが普段使っている日本語の会話や、何気なく書いている雑文などの日本語の文章といった日常性の方へは決して降りてこようとしないので、私たちド素人が手ぶらで読んでも、一体それが、例えば私たちの使う言葉の性質のうち、どういうことについて言われているのか、まったくイメージできません。
どんな難しい思想を語る人も、頭の中では自分のなじんだ日常世界の中の具体的なイメージを思い浮かべながら書いている、なんて誰かが言っていましたが、それはちょっと正確じゃないように思いますし、なんでも心の内で絵のように思い描ける「イメージ」になるわけではないと思いますが、イメージになろうと、ただ意味を追い、論理を追っていくだけにせよ、語られているのが言語という私たちもふだん「使って」いるものであるかぎりは、それを論じる言葉にも、両者の不断の往還があってもいいような気がするのですが、少なくとも日本で書かれるこの種の多くの書物では、学問は学問、厳密でなきゃ、ということなのでしょうけれど、選ばれた抽象度を動かないで、その内部での無矛盾性さえあればいい、という文体になってしまうのはどうしてなんだろう、という気がします。
その点は、私がいくらか若い頃に馴染んだ、三浦つとむさんの「日本語とはどういう言語か」などは、マルクスの疎外論(対象化、疎外)の発想をベースに、意志論を掘り下げて来た三浦さんらしい言語論で、ごく日常的な私たちの言葉の世界とつねに往還しながら展開されていて、とても分かりやすかったのを記憶しています。
また、彼に多くを学んだと言っていた吉本隆明さんの「言語にとって美とはなにか」も、基本にそういう姿勢があって、言語論に深入りはしていないけれど、そこで彼なりに抽出した概念を古代以来の日本の文芸作品に適用して、極めて具体的に分析して見せることで、彼の概念がどういうものか、またそれが、従来の文芸批評などの言葉に対して、どういう意味をもっているのかを、ド素人の学生などにも確かに直観的に理解させるような文体というのか、書く姿勢のようなものがあったと思います。
そこは、せっかく今の時代に言葉を考えるなら、明治時代に西洋流の学問を移入して苦労して、対応する言葉を漢語に探し、みつからないものは新たにつくってきた先人たちのようにではなく、いまの時代にふさわしい、ド素人が素直にたどれるような、それでいて内容的には全然妥協のない高度な作品であるような言語論なり言語哲学なりというのが書かれるといいな、と自分の不勉強を棚に上げて(笑)思ったりしながら読み終えたのでした。ヤレヤレ・・・
???の連続で、行きつ戻りつして、ここ3,4日ほとんどかかりきりになってしまいました。ようやく327ページのあとがきまで、残さず眼は通しましたが、はたしてこれが「読んだ」と言えるのかどうか。
中身を理解しようと考えあぐねた結果、いったい「わからない」というのはどういうことなんだろう?こうしてひとの本を読んで「わかる」というのはどういうことなんだろう?ということの方に思いが行ってしまいました。
前田さんの本はソシュールのテキストやその引用の中でソシュール自身がフランス語の例を挙げているところ以外は日本語で書かれているので、私も75年ほど日本で暮らしているので(笑)、辞書的な意味で「わからない」語彙というのは、あとのほうで登場する「セーム」だの「アポセーム」、「パラセーム」、「ソーム」みたいなソシュールが使った言語学的なカタカナ用語などわずかな語彙以外にはありません。
だから例えば「言語(ラング)とは自己産出的に発生する単位の様々な質の度合にほかならず」なんていう言葉も、そこに使われた語彙の一つ一つの辞書的語義を知らないわけではないので、もしひとの言葉をわかる、ということが、私の頭の中にある辞書の語義と照合して、そういう意味なんだ、と思うだけのことなら、私はこういう文章を「わかった」ことにして先へ読み進めて支障ないはずです。
しかし、そんなことをしても、ちっとも「わかった」気にならないことは言うまでもありません。なぜなんだろうか、と考えると、それはたぶん、ここで言われている「自己産出的」とか「単位」とか「質」とか「度合」という語彙、それらの文字イメージと概念の結びつき、ソシュールのいう言語(ラング)がこれを書いた前田さんの言語(ラング)とは違っているから、と考えるべきでしょうか。いやそうなると言語(ラング)が個人的なものになってしまうから、きっと言語(ラング)という社会的産物としては、私たちの頭に共通して入っている心理的実体としての或る特定の文字イメージと或る特定の最大公約数的な概念との結びついたものとして、私たちが文字を使ったり読んだりするときに呼び起こされる記号としての言語は同じものなのでしょう。
しかしまた、彼がこれを書いたときには、そのようが言語を「使った」というのは実は語弊のある言い方で、「呼び起こした」ときに、それは同時にすでに彼や私の頭のなかにある社会的産物としての記号とは異なる前田さん固有の言葉として、ソシュール的な言い方を借りれば、新たな分節だか差異化だか知らないけど、そういうものとして書いていて、私がその書かれた言葉を読むときにも、私はそこに書かれた文字から自分の頭の中の社会的産物たる同じ文字イメージと概念の結合した言語を呼び起こされながら、同時にその呼び起こされるものとして、それに還元されない私固有の新たな分節だか差異化だか知らないけれども、そういう読み方において書かれたものを分節化し、差異化しながら受け取っている、ということになるのではないかしら。
そうすると当然、前田さんの書いているときの分節だか差異化だかと、私が彼の書いたものを読むときの分節だか差異化だかとはそれぞれが頭の中で書くとき、読むときに呼び起こされた社会的産物は同じでも、それぞれのその呼び起こした結果としての固有の分節なり差異化なりとは違うのは当然ということになりますわね。
まあそういうわけで、この本の後半はほとんどズレっぱなしで(笑)、感想らしきものも書けそうにもありません。
しかし、この本でも私が少なくとも、わかったような気になった個所が皆無かと言えばそういうわけではないのですが、それはつまり彼が否定的な主張を書いているところばかりです。
たとえばほとんどラストの320ページの次のような個所:
実体論者の枠組は、実体それじたいの設定にあるのではなく、<空虚対実体>の図式のなかに事象発生の過程を組みこむことにある。同じく関係論者の枠組は、関係性それじたいではなく、<実質対関係>の図式なのだ。・・・<実体>の実定性が<空虚>の否定性を基盤としているように、<関係>の否定性は<実質>の実定性を基盤としているにすぎない。
こういうところは、そこまでの話の流れが頭に入っていれば、なるほどうまくまとめたな、そのとおりだな、と得心がいきます。とくに構造言語学などソシュールを関係論的に読んでそれなりに言語学の領分で成果を上げて来たような考え方をありもしない礎石を「実質」の概念を充ててバベルの塔を積み上げている能天気な連中を主なターゲットとする舌鋒鋭い批判が繰り返されるのを見て来た読者としては、すんなりと読めます。
それはしかし、こういう個所だけでなく、ソシュールのテキストに丹念な注釈を加え、敷衍していく文章の肝心の部分はほとんど、と言っていいくらい、「~ではなくて」という否定形で主張が書かれています。
画定とは、数えることではなく、質のさまざまな「度合」における分離、あるいは差異化のことである。(p292)
言語(ラング)がシステムであるのはレヴィ=ストロースがあっさり考えているように「伝達」という「目的」のためではない。言語それ自身の無基盤性を、その比類のない<時間>、「単一ー空間的」な反復によって、存続させるためなのだ。(p316)
「連合」は、その発生=画定のなかで成り立つ反復であって、一つの語が記憶中で比較される対立語のリストではない。同じく、それは意識の深層に一度きりで拡がっていくような「諸差異の戯れ」でもない。(P317)
ソシュールにとっては、言語(ラング)は世界を分節するためにあるのでも、思考を伝達するためにあるのでもない。言語セームの否定性は、実体概念のたんなる反転、<空虚対実体>図式のたんなる反転で成り立ちはしない。(p322)
挙げて行けば切りがないし、昨日までに読んだ以前のところにも無数にありました。こういう文章の中で、否定された部分は、相対的に分かりやすいように思えました。それは私が彼がありふれた誤謬と考える「実体論的」思考や、ソシュールを読んでようやくそういうもんかと「誤解」したらしい「関係論的」思考にはまっているから、ということになるのかもしれませんが、必ずしもその否定が間違っているとは感じられません。なるほど、実体論的発想はこういうところが駄目なんだな、とか、関係論的発想はこういうところが駄目と言われているんだな、というのは、前田さんの論述を読んでいくと、おぼろげながら(笑)私の頭脳でも感じられる(「わかる」とは恐れ多くて言えないけど・・・笑)のです。
ところが、前田さんが否定形ではなくて、肯定的に、ポジティブに「こうだ」と語る部分は、私にはおっそろしく難解で、多分こういうことを言おうとしているのかいな、と察知できそうな感じがすることもあるものの、せいぜいその程度で、正直のところチンプンカンプンと言っておいた方がよさそうです。
キーワードの一つと言っていい「単位」についての、先日も引用した次のような一節などその典型みたいなものです。
「単位」の本性とは、いったい何か。それは、無基盤な自己差異化を通して、絶えず不安定な一種のシステムを成していくことだ、と取りあえずは言っておこう。「単位」がシステムを構成するのではない。「単位」という「現象」が、一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じるのだ。あるいは、ひとつの「単位」は、そのままひとつのシステムとなって回帰するまで自己差異化をつづけると言ってもいい。「単位」の存在は、「単位」の生成に送り返されながら、再び「単位」の存在それじたいに循環してくるほかない。(P217)
肯定的、積極的な言葉の部分がほとんどわからないので、ひょっとすると彼が言いたいことは「~ではない」という否定形を無限に積み重ねることによってしか指示できない類のことなのかしら、と思ってみたりしました。
学生時代によく読んだ埴谷雄高が確か、獄中で読んだカントに震撼されて「死霊」を書き始めたということでしたが、エッセイで彼がカントの無限判断、「~ではない」を無限に積み重ねて或る命題を証明しようとするような話を書いていたのを思い出しました。ヘーゲルにもそういう無限判断というのがあったと思いますが、埴谷さんのはたぶんカントが原典だったと思います。「死霊」は伝説的に難解な小説と言われてきましたが、彼のエッセイはとても明晰で分かり良い言葉で書かれていました。
前田さんのこの本を「読んで」いて感じたのは、繰り返し繰り返し「~ではない」という否定の無限判断みたいなのを重ねていくような文体で、私にはそれらの文章が指し示そうとする方向がうまく見えなかったけれど、きっとこの種の議論や予備知識を持った思考力のある人なら、多分こういう言い方でしか指し示せないところにあるものの形が見えたのでしょう。そうすれば、あるいは私には全然わからなかった肯定形の部分の意味も明らかになるのかもしれません。
私にはせいぜい彼が批判して駄目だダメだと否定している「関係論」的な発想というのでしょうか、ソシュールの言う混沌とした星雲のごときものから根拠なく、つまり何か自然的なものと結びついてではなく、聴覚イメージと概念の連合としての言語(ラング)なるものが、恣意的な分割、つまり何らかの必然的な分割ではない偶然的な分割として、何らそれ自体は積極的にそのものである根拠を持たない他の項目に対する差異としてだけ存在する心的実体として、つまりは価値として他の項目に対峙する価値として発生している、そういう社会的産物としての心的実体がラングなんだ、といった理解にとどまっています。もしこれが「関係論」的な発想というのも間違いでなければ、ですが。
しかし、これはほんの1週間ばかり前にソシュールの訳本を一冊読んで習い覚えた概念にすぎないので(笑)、疑問はいっぱいあります。ソシュールはたしか、そういう分割が、つまりラングが生じるのはなぜか、というか、どうやってか、という疑問に対しては、発話(パロール)の集合というのか、もちろんその言語を使う無数の人々が実際に喋ることによってだ、とどこかで書いていたと思いますが、それは言語(ラング)が社会的産物だ、という彼の言葉から当然でしょうね。
でもそれは答えになっているかどうか、人が発話できるのはラングという状態があるからだとすれば、鶏か卵かの堂々巡りになりそうです。
それに、「関係論」的な考え方をとるとしても、前田さんがいうように能天気で安心していられるかというと、そうは思えなくて、じゃその分割だとかって、何を分割するんだ、とか(ソシュールは星雲だとか比喩でしか言っていないようですし)、その分割って何がどうやって引き起こすんだとか考えるとわけがわからなくなります。今西さん(今西錦司)じゃないけど「起こるべくして起こる」んでしょうかね?(笑)
まあこういう疑問は素人ならではのもので、なぁんだ、それはこうだよ!と前田さんがいらしたら、パッと答えてくれるようなものかもしれません。
ただ、ソシュールを最初読んだときの分かりやすい(かのような)印象というのは、なんだったんだろう、という気がいまもしています。こういっちゃ何だけど、前田さんのを読んだら、ソシュール本人よりもソシュールがずっとわかりにくくなってしまった(笑)。
前田さんが言うところでは、どうやらソシュールも、こうだ、と肯定的な言い方で指し示すことができない、あるいは容易にはできないことがらを言おうとして、あえて通俗的な私たちも分かるような言い方をしたり、比喩を使ったりして、すっと読んだのではきわめてミスリーディングな表現をいたるところでやっている、と。ただし、彼自身は自分が講義で言ったり、言おうとした言葉に、色々注釈を加えていて、彼が一見たしかに「言った」ようなことを修正し、あるいは時に否定してしまうようなことを言うことによって、なんとか「本当に言いたいこと」に近づこうとしていたんだ、ということになるようです。
そういわれると、前田さんの文体が、なんだか「~ではない」を積み重ねて、決して言えないかもしれない「~である」に近づこうとする、相当しんどい作業の跡のような感じがするのは、ソシュール先生の姿勢に倣ったものかもしれないな、などという感想を持ちました。
この種の哲学的な本の多くは、抽象度の高い言葉の水準でずっと一貫していて、私たちが普段使っている日本語の会話や、何気なく書いている雑文などの日本語の文章といった日常性の方へは決して降りてこようとしないので、私たちド素人が手ぶらで読んでも、一体それが、例えば私たちの使う言葉の性質のうち、どういうことについて言われているのか、まったくイメージできません。
どんな難しい思想を語る人も、頭の中では自分のなじんだ日常世界の中の具体的なイメージを思い浮かべながら書いている、なんて誰かが言っていましたが、それはちょっと正確じゃないように思いますし、なんでも心の内で絵のように思い描ける「イメージ」になるわけではないと思いますが、イメージになろうと、ただ意味を追い、論理を追っていくだけにせよ、語られているのが言語という私たちもふだん「使って」いるものであるかぎりは、それを論じる言葉にも、両者の不断の往還があってもいいような気がするのですが、少なくとも日本で書かれるこの種の多くの書物では、学問は学問、厳密でなきゃ、ということなのでしょうけれど、選ばれた抽象度を動かないで、その内部での無矛盾性さえあればいい、という文体になってしまうのはどうしてなんだろう、という気がします。
その点は、私がいくらか若い頃に馴染んだ、三浦つとむさんの「日本語とはどういう言語か」などは、マルクスの疎外論(対象化、疎外)の発想をベースに、意志論を掘り下げて来た三浦さんらしい言語論で、ごく日常的な私たちの言葉の世界とつねに往還しながら展開されていて、とても分かりやすかったのを記憶しています。
また、彼に多くを学んだと言っていた吉本隆明さんの「言語にとって美とはなにか」も、基本にそういう姿勢があって、言語論に深入りはしていないけれど、そこで彼なりに抽出した概念を古代以来の日本の文芸作品に適用して、極めて具体的に分析して見せることで、彼の概念がどういうものか、またそれが、従来の文芸批評などの言葉に対して、どういう意味をもっているのかを、ド素人の学生などにも確かに直観的に理解させるような文体というのか、書く姿勢のようなものがあったと思います。
そこは、せっかく今の時代に言葉を考えるなら、明治時代に西洋流の学問を移入して苦労して、対応する言葉を漢語に探し、みつからないものは新たにつくってきた先人たちのようにではなく、いまの時代にふさわしい、ド素人が素直にたどれるような、それでいて内容的には全然妥協のない高度な作品であるような言語論なり言語哲学なりというのが書かれるといいな、と自分の不勉強を棚に上げて(笑)思ったりしながら読み終えたのでした。ヤレヤレ・・・
saysei at 16:35|Permalink│Comments(0)│
2020年04月24日
おこもり読書 ~ソシュールは難しい、・・らしい(笑)
引き続き、前田英樹さんの『沈黙するソシュール』を読んでいる、というより、一歩進んで二歩退く(笑)といった感じで、たいていの小難しい本でも、1日、2日で読んでしまう習慣の私としては例外的な遅足です。
前に、ソシュール先生は生徒に優しい先生だなぁ、わかりやすいポンチ絵など描いて・・・と感心したんですが、前田さんはこれも一刀両断、実にミスリーディングな(誤解を導くような)図式だとして、共時態、通時態を図示した「言語の四角形」や植物の茎の横断面、縦断面の譬えをほとんど全否定です。ヤレヤレ・・・ ^^:
だからと言って前田先生の教えが分かるかというと、一層分からなくなること請け合いですから(笑)
「実質」を分節するものとしてしか、関係それじたいの存在はない。けれども、その「実質」は、関係それじたいの析出とともに生みだされてくるものだ。この循環のうちに、構造言語学は「ある」ことへの問いを解消する、あるいは解消しうる装置としてこの循環を発明し続ける。(P206)
日本語で書かれてはいるのですが、なにかこう自分が普段使い慣れ、読み慣れている日本語とはちがう異次元にある別種の言語で書かれた文章のような気がしてきます。
それでも前半の部分はソシュールの言語観(として先にソシュールの訳本を読んだとき受け止めた者)から言語(ラング)の定義として語られていることを別の言い方をしただけだと思うので、別段分からないという感じはないように思えます。
言語(ラング)の項と項、たとえば或る語と別の語との「関係」は、あらかじめ「項」というそれ自体で存立の根拠を持つ積極的な何かがあってのことではないし、なにかそういう「項」を析出するようないわば未分化な混沌みたいな「実質」がまずあって、これを分画することで「関係」が(従って当然「項」もでしょうが)生み出されるというものでもない。普通考えると、分節とか画定とか分画とか、要するに何かを区切ってその輪郭を定めるとすれば、その「何か」に実質的、実体的な何かを想定するのが私たちの当然の考えになりますわね。
でも前田さんは、構造言語学なんてのはそうかもしれないけど、おれの言うのは(≒ソシュールの言うのは)そうじゃないんだ、と。そんな「実質」なんてものはあらかじめあるわけじゃなくて、分節によって「関係」が(従って当然私が思うに「項」も)析出される「とともに」うみだされるんだ、と。
ということになると、普通「分節する」というのは、「だれかが何かを分節する」わけですが、その「何かを」という目的語が無くなってしまうのではないでしょうかね(笑)。「だれかが」というのは仮に言葉を使う主体だのそういう意識だの、まあ面倒な区別はおいといて、とにかく言葉を聴くなり喋るなりする主体だと考えておけばわからなくはありません。でも、何かを、というのが無くても「分節する」というのは成り立つんですかね。
多分前田さんは、成り立つというんでしょうね。分節する、というのを言いかえれば、「差異化」と言ってもいいでしょうから、「何かを」分節する、という風な、最初から主体と客体があって、主体が客体に働きかける、そういう行為の「対象」が無くちゃならん、と考えるのは、もともと主客二元論的なこちとらの認識の枠組みに過ぎず、一元論的に、いわば勝手に「差異化」が起きるんだ、と自動詞的に語れば別に問題はないわけで、言語の成立における「分節」というのが、そういうものであるなら、そのとき他動詞的な目的語としての「実質」は消えてしまいます。残るのは、「差異化」という自動詞的なモメントだけです。
我流でそう読んじゃうとして(笑)、でも後半はわかりにくいですね。前田さんは一貫して、構造言語学に批判的で、それは「ある」ことへの困難な問いを回避している、というのが彼の批判のポイントらしいのですが、こいつがどうも哲学的過ぎて?私にはまだよくわかりません。彼は、ソシュールはその困難な問いから逃げなかった、と言ってるんですね。
そこで彼が引き合いに出しているのが、一見それほど関係があるとは思われてこなかったベルグソンの「持続」であり「時間」であり、その考え方のうちにあると彼が考える「差異化」のモメントです。
彼(ベルグソン)が言っているのは、事物は空虚な環境を転変するひとつのものではなく、質が質に対して不断に生み出す差異だということだろう。事物は、空虚な地と充実した図の関係にあるのではなく、その事物自身が産出しつづける差異にあり、そのはたらきこそ彼の言う質、ないし「持続」なのだ。(p212)
このベルグソンの「持続」が、ソシュールの「状態」に対応する、というところまでは、少なくとも直観的にはついていけます。ただ、前田さんは、それは対応であって同一性ではない、として(それはそうでしょうが・・・)、「状態」が「状態」であるのは、それがベルグソン的「持続」におけるような異質性の無限の産出では決してありえないからだ、と述べています。このへんからまた分からなくなります(笑)。
違いがあるのはわかるけれど、どのように異なるのか、というところでの前田さんの説明が今のところは、うまく理解できないのです。つまり、「・・・ではない」というのは分かる(つもりになれる)けれど、「・・・である」と前田さんが言うと、とたんに滅茶苦茶分かりにくくなる(笑)。ひょっとしたら、これは否定形でしか言えないものなのかな。
「単位」の本性とは、いったい何か。それは、無基盤な自己差異化を通して、絶えず不安定な一種のシステムを成していくことだと、取りあえずは言っておこう。「単位」がシステムを構成するのではない。「単位」という「現象」が、一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じるのだ。あるいは、ひとつの「単位」は、そのままひとつのシステムとなって回帰するまで自己差異化をつづけると言ってもいい。「単位」の存在は、「単位」の生成に送り返されながら、再び「単位」の存在それじたいに循環してくるほかない。(P216-217)
これはわからない(笑)。でもこれを丸ごと飲み込んでしまえば、だからソシュールの「状態」とベルグソンの「持続」は違うんだ、ベルグソンの「持続」に「単位」はないし、「単位」がないところでは、差異化が「状態」をつくることはなく、そのまま「変化」しつづけるわけで、ソシュールのいう差異化は反復によって「単位」を生み出すので、ベルグソン流の「変化」は「永遠に差異化の外部に押し出される」ので、差異化は「状態」でしかありえない、という理屈は理解できることになります。
でも肝心の真ん中がブラックボックス(笑)。
またここで我流のポンチ絵的類推をやると、そんなの全然違うぜ、と言われそうですが、「単位」がシステムを構成するのではなく、「単位」という「現象」が、一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じる、という難解な言い回しの部分を思い描くとすれば、たくさんの風船を膨らませてぎゅうぎゅうに詰め合わせた部屋を考え、その風船とか部屋とかを実体と考えないことにすれば、一つの類推的イメージとして描けるんじゃないか、と思ったのですがどうでしょうか。
つまり、こういう状態の風船は一つ一つの形を自分で決めているわけじゃなくて、互いに押しくらまんじゅうしあっている他のすべての風船のありよう、つまるところシステムによってその形をきめられ、自分の輪郭をもつ(もたされる)ことで、ひとつの「単位」としてあるわけで、そういう全体のシステムが無ければ、つまり閉じ込めてある部屋の壁がなくなって開放されれば、風船は空へ飛び去ってしまって、風船を実体と考えなければ、このとき同時に「単位」もなくなってしまうわけです。
言語(ラング)は風船と違って、自然性としての実質を持たない、ただ他の単位と異なるという否定性でしか「存在」しない差異だったわけですから、システムの生成と同時にでなければ生成しないものでしょう。
しかし、この類推では、前田さんが言う「単位という現象が一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じる」という、その差異化が永遠に持続するのではなく、どこかで限界をつくって閉じるんだという、彼の言う「反復」とか「循環」と言っているモメントは全然入ってこないし、理解もできません。それはまだ私にとっては依然として謎です(笑)。
これでやっと、とにかく目で追いました、というのが221ページまで。まだ先は長そうだし、繰り返し行きつ戻りつするしかなさそうです。
ところでまだよくわからないけれども、言語についてポジティブな言い方をしている所で、気になっている個所は次のような、例の言語学の四角形のa-a'(言語事象を、a-a'-b-b'-b-aと順に四角形につないで、a-a'、b-b'という縦の方向は時間の価値、a-b、a'-b'という横の開きは共存価値、線は結べる関係を示すものだとし、対角線の関係はありえず、歴史的発想を締め出すなら、これをa-bに縮めてしまうべきだなどと述べている)について、次のように述べているところです。
a-a'におけるaあるいはa'は、非質的な空虚のなかを転変する充実としての「事象」である。それを「音声形」と呼ぼうが「形態」と呼ぼうが、どちらでもいい、どちらでもいいからこそ定義の仕事は無視されるのだ。必要なのは、<空虚>対<充実>の二項対立だけだろう。これらの「事象」が、言語的存在として他の諸事象から区別される特徴はひとつしかない。それは、これらが自己の外部にある「観念」の対応物、ないしは表徴だということだ。この支えがなければ、「音声形」や「形態」が言語学的存在として非質的な空虚のなかにうかびあがることはない。「状態」の「ありかた」は、この支えを取り払うこと、すなわち「観念」を「意味する力」として内部化することによってしか視えてはこない。a-bにおけるaは、それ自身のなかに「意味する力」を産出しつづけるaであり、それが「事象」であるのは、そのことによってのみだ。・・・(中略)・・・aが存在するのは、aがa自身の差異化によって不断にbを生んでしまうからである。(p214-215)
私などはソシュールの先の本を読んで、「aはbとの対立によって存在する」という前田さんが「構造主義のきまり文句」として嘲笑し、そんなのは、「<空虚>対<充実>の古典的、ないしは実体論的二項対立を、<辞項>対<辞項>の関係論的二項対立に置き換える」ものに過ぎない、と否定するような考え方に自然になってしまっています。
「aはbとの対立によって存在する」という表現の仕方はあまりいい表現ではないけれど、いずれにせよ、aはaというポジティブな単独の項として成立するものではなくて、b,c,d,e・・・という他の項目との差異として、いわば「b,c,d,e・・・ではないもの」という否定形でしか析出されない差異として存在する、ということで、一つ一つつき合わせれば、それを「aはbとの対立によって存在する」という語弊のある表現ではあるけれど、同じことを言おうとしているんだろうと思うのです。そうすると、なぜそれが間違っているのか、あたかもaの生成はaの自己差異化による、いわばそれ単独でポジティブな何かとして存在する項目の自己差異化の運動のよって別の項目bが生まれるかのように前田さんの言葉は読めてしまって、これはソシュールの考え方かな?と疑問に思えます。
しかし、一方で、彼が構造言語学が無意識に仮定する「実質」という外部の支えを否定するところは、う~ん、なるほど、そういう「実質」はソシュールも否定しているよな、と思います。そうすると何か実質というものがあって、それを切り取る切り取り方として言語(項目)が生成するような考え方ではないとして、何かを切り取ったり、分節したりするという目的語をなくして、自動詞的な差異の生成をイメージするとすれば、その分節を可能にするものは何なのか、システムでも項目でも関係でもいいけれど、それらを生成するものは何なのか、生成するとはどういうことか、むしろ謎が深まります。
ここで「自己の外部にある『観念』の対応物、ないしは表象」という風な言い回しが出てくると、ちょっとびっくりします。記号学的還元の下で言語について語っていたと思っていたので、突然「外部」とか「表象」とか言われると混乱してしまうところがあります。でも素直に「外部」はそうした記号学的還元の下での言語にとっての「外部」だと考えればいいのでしょう。これはソシュールの言う「言語は概念と聴覚イメージの結合」というときの「概念」ではなくて(それは言語のいわば「内部」の話だから)、ソシュールが「物質音に対立できるのは、音ー観念のグループであって、どんなことがあっても観念ではない」と言うときの「観念」なのでしょう。
私はこの「観念」は世界とつながっていると思うので、その「『観念』の対応物、ないしは表象」という風な言葉を読むと、素朴な反映論での客観的世界の像だとか、現象学的な意識はつねに何かについての意識だという意識とか、対象への指示性といった、記号学的還元から排除された「外部」についての(を指向する)意識、といったものを思い浮かべます。
ただ、前田さんはこの「外部」を言語に内在的なものとも、「内部」と「外部」の関係づけだとも考えずに、あくまでも言語にとっては「外部」であるこの”「観念」を「意味する力」として内部化する”ことが言語の生成という事態なんだと考えているようです。
この「観念」をソシュールの言語は聴覚イメージと概念の結合だというときの「概念」みたいに考えると、そんなものが言語(という差異の分節以前)にアプリオリに「ある」かのように考えるのはどうかしている、ということになるけれども、この「観念」はそうではなくて、あくまでもそうした差異化としての言語の「外部」にあるもので、これを「意味する力」として内部化するのが言語なんだ、ということでしょうかね。
そういえば、ソシュールが言語とは、というので、聴覚イメージと概念の結合というポンチ絵を描いたのへ、前者の方から後者の方へ矢印を置いて、「意味作用」と呼んでいたのを思い出します。彼は、「意味作用は聴覚イメージに対応するものであり、それ以上の何ものでもありません。」と述べていました。(『一般言語学講義』第5章)
前田さんのいう「『観念』を『意味する力』として内部化する」というのは、シンプルに言えば、単に概念と結合する聴覚イメージの働き、というだけのことなのでしょうか。言語が言語として生成するとき、聴覚イメージが概念と結びつくことで意味が発生するのだから、それならば当然のことですね。
正直のところ、もひとつこの「観念」と言われているものの位相が良く分からないですね。たとえばさ、と具体的に私たちが使う日本語に即して、こういうことを言うときに、私たちの頭の中にどういうことが起きているのか、と語ってくれると分かると思うのですが(笑)、ずっと用例はフランス語の(当然ながら)ソシュールの言葉に輸入語として始まった明治以来の「哲学用語」の水準で抽象的に「観念」は「観念」として語られていくだけなので、日常語との往復を欠いた専門的な言葉の列についていくのは、やっぱりなかなか骨が折れます。
その言葉の抽象度で何とか追って行って、ふ~ん、そういうものか、と言葉の並びとしては理解できても、はてそれが自分たちの日常使う日本語に当てはめてみて、果たしてそんなことが言えますか?となると、そういう検証のしようがないというか、言葉がそこまで下りて来てくれることは決してないので、検証不能のまま、つまり腑に落ちないまま、ただ理解したければ俺の語彙について来い、俺の語彙の抽象度で論理をたどってその間に無矛盾であればいいんだ、ということになってしまいます。
日本語で書かれたほとんどの哲学書というか、輸入学問の書物というのはそういうものなので、日常的なことを考えるということと、こういう本を読んで考えましたということとが、全然交わることのない異次元の行動ということになってしまうのが常態です。
私はできれば、日常的に私たちが話したり、絵を描いたり、文章を書いたりすることがどういうことなのか、日常的な考えを深めたいだけなので、ときどき虚しいような気持ちになってしまうことは確かですが・・・まぁぼやいてばかりいないで、もうしばらく読んでみることにしましょう。
前に、ソシュール先生は生徒に優しい先生だなぁ、わかりやすいポンチ絵など描いて・・・と感心したんですが、前田さんはこれも一刀両断、実にミスリーディングな(誤解を導くような)図式だとして、共時態、通時態を図示した「言語の四角形」や植物の茎の横断面、縦断面の譬えをほとんど全否定です。ヤレヤレ・・・ ^^:
だからと言って前田先生の教えが分かるかというと、一層分からなくなること請け合いですから(笑)
「実質」を分節するものとしてしか、関係それじたいの存在はない。けれども、その「実質」は、関係それじたいの析出とともに生みだされてくるものだ。この循環のうちに、構造言語学は「ある」ことへの問いを解消する、あるいは解消しうる装置としてこの循環を発明し続ける。(P206)
日本語で書かれてはいるのですが、なにかこう自分が普段使い慣れ、読み慣れている日本語とはちがう異次元にある別種の言語で書かれた文章のような気がしてきます。
それでも前半の部分はソシュールの言語観(として先にソシュールの訳本を読んだとき受け止めた者)から言語(ラング)の定義として語られていることを別の言い方をしただけだと思うので、別段分からないという感じはないように思えます。
言語(ラング)の項と項、たとえば或る語と別の語との「関係」は、あらかじめ「項」というそれ自体で存立の根拠を持つ積極的な何かがあってのことではないし、なにかそういう「項」を析出するようないわば未分化な混沌みたいな「実質」がまずあって、これを分画することで「関係」が(従って当然「項」もでしょうが)生み出されるというものでもない。普通考えると、分節とか画定とか分画とか、要するに何かを区切ってその輪郭を定めるとすれば、その「何か」に実質的、実体的な何かを想定するのが私たちの当然の考えになりますわね。
でも前田さんは、構造言語学なんてのはそうかもしれないけど、おれの言うのは(≒ソシュールの言うのは)そうじゃないんだ、と。そんな「実質」なんてものはあらかじめあるわけじゃなくて、分節によって「関係」が(従って当然私が思うに「項」も)析出される「とともに」うみだされるんだ、と。
ということになると、普通「分節する」というのは、「だれかが何かを分節する」わけですが、その「何かを」という目的語が無くなってしまうのではないでしょうかね(笑)。「だれかが」というのは仮に言葉を使う主体だのそういう意識だの、まあ面倒な区別はおいといて、とにかく言葉を聴くなり喋るなりする主体だと考えておけばわからなくはありません。でも、何かを、というのが無くても「分節する」というのは成り立つんですかね。
多分前田さんは、成り立つというんでしょうね。分節する、というのを言いかえれば、「差異化」と言ってもいいでしょうから、「何かを」分節する、という風な、最初から主体と客体があって、主体が客体に働きかける、そういう行為の「対象」が無くちゃならん、と考えるのは、もともと主客二元論的なこちとらの認識の枠組みに過ぎず、一元論的に、いわば勝手に「差異化」が起きるんだ、と自動詞的に語れば別に問題はないわけで、言語の成立における「分節」というのが、そういうものであるなら、そのとき他動詞的な目的語としての「実質」は消えてしまいます。残るのは、「差異化」という自動詞的なモメントだけです。
我流でそう読んじゃうとして(笑)、でも後半はわかりにくいですね。前田さんは一貫して、構造言語学に批判的で、それは「ある」ことへの困難な問いを回避している、というのが彼の批判のポイントらしいのですが、こいつがどうも哲学的過ぎて?私にはまだよくわかりません。彼は、ソシュールはその困難な問いから逃げなかった、と言ってるんですね。
そこで彼が引き合いに出しているのが、一見それほど関係があるとは思われてこなかったベルグソンの「持続」であり「時間」であり、その考え方のうちにあると彼が考える「差異化」のモメントです。
彼(ベルグソン)が言っているのは、事物は空虚な環境を転変するひとつのものではなく、質が質に対して不断に生み出す差異だということだろう。事物は、空虚な地と充実した図の関係にあるのではなく、その事物自身が産出しつづける差異にあり、そのはたらきこそ彼の言う質、ないし「持続」なのだ。(p212)
このベルグソンの「持続」が、ソシュールの「状態」に対応する、というところまでは、少なくとも直観的にはついていけます。ただ、前田さんは、それは対応であって同一性ではない、として(それはそうでしょうが・・・)、「状態」が「状態」であるのは、それがベルグソン的「持続」におけるような異質性の無限の産出では決してありえないからだ、と述べています。このへんからまた分からなくなります(笑)。
違いがあるのはわかるけれど、どのように異なるのか、というところでの前田さんの説明が今のところは、うまく理解できないのです。つまり、「・・・ではない」というのは分かる(つもりになれる)けれど、「・・・である」と前田さんが言うと、とたんに滅茶苦茶分かりにくくなる(笑)。ひょっとしたら、これは否定形でしか言えないものなのかな。
「単位」の本性とは、いったい何か。それは、無基盤な自己差異化を通して、絶えず不安定な一種のシステムを成していくことだと、取りあえずは言っておこう。「単位」がシステムを構成するのではない。「単位」という「現象」が、一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じるのだ。あるいは、ひとつの「単位」は、そのままひとつのシステムとなって回帰するまで自己差異化をつづけると言ってもいい。「単位」の存在は、「単位」の生成に送り返されながら、再び「単位」の存在それじたいに循環してくるほかない。(P216-217)
これはわからない(笑)。でもこれを丸ごと飲み込んでしまえば、だからソシュールの「状態」とベルグソンの「持続」は違うんだ、ベルグソンの「持続」に「単位」はないし、「単位」がないところでは、差異化が「状態」をつくることはなく、そのまま「変化」しつづけるわけで、ソシュールのいう差異化は反復によって「単位」を生み出すので、ベルグソン流の「変化」は「永遠に差異化の外部に押し出される」ので、差異化は「状態」でしかありえない、という理屈は理解できることになります。
でも肝心の真ん中がブラックボックス(笑)。
またここで我流のポンチ絵的類推をやると、そんなの全然違うぜ、と言われそうですが、「単位」がシステムを構成するのではなく、「単位」という「現象」が、一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じる、という難解な言い回しの部分を思い描くとすれば、たくさんの風船を膨らませてぎゅうぎゅうに詰め合わせた部屋を考え、その風船とか部屋とかを実体と考えないことにすれば、一つの類推的イメージとして描けるんじゃないか、と思ったのですがどうでしょうか。
つまり、こういう状態の風船は一つ一つの形を自分で決めているわけじゃなくて、互いに押しくらまんじゅうしあっている他のすべての風船のありよう、つまるところシステムによってその形をきめられ、自分の輪郭をもつ(もたされる)ことで、ひとつの「単位」としてあるわけで、そういう全体のシステムが無ければ、つまり閉じ込めてある部屋の壁がなくなって開放されれば、風船は空へ飛び去ってしまって、風船を実体と考えなければ、このとき同時に「単位」もなくなってしまうわけです。
言語(ラング)は風船と違って、自然性としての実質を持たない、ただ他の単位と異なるという否定性でしか「存在」しない差異だったわけですから、システムの生成と同時にでなければ生成しないものでしょう。
しかし、この類推では、前田さんが言う「単位という現象が一種のシステム性によって、自己産出の限界線をみずから閉じる」という、その差異化が永遠に持続するのではなく、どこかで限界をつくって閉じるんだという、彼の言う「反復」とか「循環」と言っているモメントは全然入ってこないし、理解もできません。それはまだ私にとっては依然として謎です(笑)。
これでやっと、とにかく目で追いました、というのが221ページまで。まだ先は長そうだし、繰り返し行きつ戻りつするしかなさそうです。
ところでまだよくわからないけれども、言語についてポジティブな言い方をしている所で、気になっている個所は次のような、例の言語学の四角形のa-a'(言語事象を、a-a'-b-b'-b-aと順に四角形につないで、a-a'、b-b'という縦の方向は時間の価値、a-b、a'-b'という横の開きは共存価値、線は結べる関係を示すものだとし、対角線の関係はありえず、歴史的発想を締め出すなら、これをa-bに縮めてしまうべきだなどと述べている)について、次のように述べているところです。
a-a'におけるaあるいはa'は、非質的な空虚のなかを転変する充実としての「事象」である。それを「音声形」と呼ぼうが「形態」と呼ぼうが、どちらでもいい、どちらでもいいからこそ定義の仕事は無視されるのだ。必要なのは、<空虚>対<充実>の二項対立だけだろう。これらの「事象」が、言語的存在として他の諸事象から区別される特徴はひとつしかない。それは、これらが自己の外部にある「観念」の対応物、ないしは表徴だということだ。この支えがなければ、「音声形」や「形態」が言語学的存在として非質的な空虚のなかにうかびあがることはない。「状態」の「ありかた」は、この支えを取り払うこと、すなわち「観念」を「意味する力」として内部化することによってしか視えてはこない。a-bにおけるaは、それ自身のなかに「意味する力」を産出しつづけるaであり、それが「事象」であるのは、そのことによってのみだ。・・・(中略)・・・aが存在するのは、aがa自身の差異化によって不断にbを生んでしまうからである。(p214-215)
私などはソシュールの先の本を読んで、「aはbとの対立によって存在する」という前田さんが「構造主義のきまり文句」として嘲笑し、そんなのは、「<空虚>対<充実>の古典的、ないしは実体論的二項対立を、<辞項>対<辞項>の関係論的二項対立に置き換える」ものに過ぎない、と否定するような考え方に自然になってしまっています。
「aはbとの対立によって存在する」という表現の仕方はあまりいい表現ではないけれど、いずれにせよ、aはaというポジティブな単独の項として成立するものではなくて、b,c,d,e・・・という他の項目との差異として、いわば「b,c,d,e・・・ではないもの」という否定形でしか析出されない差異として存在する、ということで、一つ一つつき合わせれば、それを「aはbとの対立によって存在する」という語弊のある表現ではあるけれど、同じことを言おうとしているんだろうと思うのです。そうすると、なぜそれが間違っているのか、あたかもaの生成はaの自己差異化による、いわばそれ単独でポジティブな何かとして存在する項目の自己差異化の運動のよって別の項目bが生まれるかのように前田さんの言葉は読めてしまって、これはソシュールの考え方かな?と疑問に思えます。
しかし、一方で、彼が構造言語学が無意識に仮定する「実質」という外部の支えを否定するところは、う~ん、なるほど、そういう「実質」はソシュールも否定しているよな、と思います。そうすると何か実質というものがあって、それを切り取る切り取り方として言語(項目)が生成するような考え方ではないとして、何かを切り取ったり、分節したりするという目的語をなくして、自動詞的な差異の生成をイメージするとすれば、その分節を可能にするものは何なのか、システムでも項目でも関係でもいいけれど、それらを生成するものは何なのか、生成するとはどういうことか、むしろ謎が深まります。
ここで「自己の外部にある『観念』の対応物、ないしは表象」という風な言い回しが出てくると、ちょっとびっくりします。記号学的還元の下で言語について語っていたと思っていたので、突然「外部」とか「表象」とか言われると混乱してしまうところがあります。でも素直に「外部」はそうした記号学的還元の下での言語にとっての「外部」だと考えればいいのでしょう。これはソシュールの言う「言語は概念と聴覚イメージの結合」というときの「概念」ではなくて(それは言語のいわば「内部」の話だから)、ソシュールが「物質音に対立できるのは、音ー観念のグループであって、どんなことがあっても観念ではない」と言うときの「観念」なのでしょう。
私はこの「観念」は世界とつながっていると思うので、その「『観念』の対応物、ないしは表象」という風な言葉を読むと、素朴な反映論での客観的世界の像だとか、現象学的な意識はつねに何かについての意識だという意識とか、対象への指示性といった、記号学的還元から排除された「外部」についての(を指向する)意識、といったものを思い浮かべます。
ただ、前田さんはこの「外部」を言語に内在的なものとも、「内部」と「外部」の関係づけだとも考えずに、あくまでも言語にとっては「外部」であるこの”「観念」を「意味する力」として内部化する”ことが言語の生成という事態なんだと考えているようです。
この「観念」をソシュールの言語は聴覚イメージと概念の結合だというときの「概念」みたいに考えると、そんなものが言語(という差異の分節以前)にアプリオリに「ある」かのように考えるのはどうかしている、ということになるけれども、この「観念」はそうではなくて、あくまでもそうした差異化としての言語の「外部」にあるもので、これを「意味する力」として内部化するのが言語なんだ、ということでしょうかね。
そういえば、ソシュールが言語とは、というので、聴覚イメージと概念の結合というポンチ絵を描いたのへ、前者の方から後者の方へ矢印を置いて、「意味作用」と呼んでいたのを思い出します。彼は、「意味作用は聴覚イメージに対応するものであり、それ以上の何ものでもありません。」と述べていました。(『一般言語学講義』第5章)
前田さんのいう「『観念』を『意味する力』として内部化する」というのは、シンプルに言えば、単に概念と結合する聴覚イメージの働き、というだけのことなのでしょうか。言語が言語として生成するとき、聴覚イメージが概念と結びつくことで意味が発生するのだから、それならば当然のことですね。
正直のところ、もひとつこの「観念」と言われているものの位相が良く分からないですね。たとえばさ、と具体的に私たちが使う日本語に即して、こういうことを言うときに、私たちの頭の中にどういうことが起きているのか、と語ってくれると分かると思うのですが(笑)、ずっと用例はフランス語の(当然ながら)ソシュールの言葉に輸入語として始まった明治以来の「哲学用語」の水準で抽象的に「観念」は「観念」として語られていくだけなので、日常語との往復を欠いた専門的な言葉の列についていくのは、やっぱりなかなか骨が折れます。
その言葉の抽象度で何とか追って行って、ふ~ん、そういうものか、と言葉の並びとしては理解できても、はてそれが自分たちの日常使う日本語に当てはめてみて、果たしてそんなことが言えますか?となると、そういう検証のしようがないというか、言葉がそこまで下りて来てくれることは決してないので、検証不能のまま、つまり腑に落ちないまま、ただ理解したければ俺の語彙について来い、俺の語彙の抽象度で論理をたどってその間に無矛盾であればいいんだ、ということになってしまいます。
日本語で書かれたほとんどの哲学書というか、輸入学問の書物というのはそういうものなので、日常的なことを考えるということと、こういう本を読んで考えましたということとが、全然交わることのない異次元の行動ということになってしまうのが常態です。
私はできれば、日常的に私たちが話したり、絵を描いたり、文章を書いたりすることがどういうことなのか、日常的な考えを深めたいだけなので、ときどき虚しいような気持ちになってしまうことは確かですが・・・まぁぼやいてばかりいないで、もうしばらく読んでみることにしましょう。
saysei at 14:43|Permalink│Comments(0)│
2020年04月23日
おこもり読書 ~"沈黙するソシュール"~
昨日も百万遍までのお散歩以外は引きこもりで、ブログ日記で雑文を書く以外は、本を読んでいました。
一昨日と昨日は、前田英樹さんの『沈黙するソシュール』という大判の300ページ以上ある分厚い本で、正直言うとずいぶん以前に購入して、例によって「ツンドク」しておいたあげく、体調が最悪のころ、もうそろそろお迎えが来るかなと終活に精出していたので、マーケットプレイスで他の大量の本と一緒に売り払ってしまおうとして値段を調べたら、もとの定価4000円(税別)なのに、そのときは何と1円(!)で売られていたのを見て、さすがになんだか哀しくなって、自分が新刊書店だったか古書店だったか、まだそのころはネットで買ってはいなかった頃だから、実際に手にとり、パラパラと開いて読む価値があるはずだと見込んだ本が、1円で売られている、ということが許せない(笑)ような気持ちになって、本棚に残しておいたのです。
それが、先日から、ソシュールの『一般言語学講義~コンスタンタンのノート』を私にしては少しじっくり、2日くらいかけて読んで刺激を受け、すぐに続いて丸山圭三郎さんの『ソシュールを読む』を読んで、分からなかったところもよくわかったような気になったところで、ふとこういう本がどこかにあったな、と思い出して本棚の奥から取り出してきたのです。
で一昨日から読んでほぼ3分の2まで行くかどうか、190ページばかり読んできて、これがなかなか難しいけれども、とても引き込まれるところがあって、売り払わなくてよかった!と、ようやく、昔支払ったかもしれない4000円(古本屋でもきっと2000円くらいは)という、私の「昔」の懐にしたら(今でもですが!)「大金」だったはずの本代のモトをとるぞ!(笑)というところです。
この本はソシュールが伝説的な「沈黙」に先立つ2年ほど前、34歳のときにジュネーヴ大学の就任講演のノートとして残したテキストや、私もとても重要だと思う「形態論」の草稿などのテキストに、著者の前田さんが「ノート」として註を加えるような形で、その解釈と主張を存分に展開したもので、誰が書いてもそうなるのかもしれないけれど、単なるソシュールの解説本なんてもんじゃくて、俺にとってのソシュールはこういうものでしかありえない、という強烈な前田さん自身の主張、従って、従来の(と言っても私が知っているわけじゃないけど・・笑)ソシュール解釈を全部間違いだ、と否定しちゃうくらいの意気込みの著書になっています。
だから言語学者でもなければ哲学者でもない私のようなド素人が読むには、ものすごく歯ごたえがあって、歯がボロボロに欠けそうですが(笑)、なんとか読み進めているところで、このへんまでで、だいたい前田さんの主張のポイントは出そろっているのではないかと思います。
とりわけ「形態論」に入って、ソシュールのテキストを読んでいるうちは、さらっと読んでしまえたのですが、その何倍にもなる前田さんの解釈というのか論考のとりわけ後半の肝心な部分になると、遅々として理解進まず、本の欄外は疑問符だらけ。
ソシュールがいったん「語根、語基、接尾辞などはみな純然たる抽象だ」と言いながら、すぐそのあとで、じゃこういうカテゴリーに正当性がないとしたら、いったいどんな理由で設定するのか、と自問し、それゆえ「いささか妄説の汚名を浴びた命題を、私はあえて口にしよう」と述べて、さきほどとは正反対のこと、つまり「語根、語基、接尾辞のような区分を純然たる抽象とすることは、間違いなのだ」と述べ、それが正しいとか間違いだというためには、「形態論では何を実在的と呼べるのか、その基準を確定する必要がある」と述べています。
当然この「実在的」は、語根だの語基だの接尾辞だのといった、語の下位概念として語られてきた文法的な言い方、区分が、言語学者による「抽象」に過ぎない、という言い方に対するもので、「抽象』と対置させられた「実在的なもの」でしょう。
ソシュール自身の言葉によれば、それは「語る主体が何らかの度合で意識しているもののこと」だということで、先ほどのような、語の単位より下の形態的要素は、「表意単位として感じられている」から、単なる「抽象」ではなくて、「実在的」なものなんだ、ということです。私は彼が例に挙げるフランス語はわからんので、英語でいえば、operatorとか、directorとか、narratorとか、helper、couter, computer, buyer, speakerなんて語の語尾 -orとか -erなんてのは、みんな行為者の観念、つまり表意的単位にあたるものなんじゃないでしょうか。
それらを言語(ラング)として析出される画定(先日読んだソシュールの訳本で「境界を定める]と言われ、丸山さんの本では「分節」と訳されていた概念でしょう)の単位、聴覚映像(シニフィアン)と概念(シニフィエ)の連合とみなさなければ、みな形態論で区分され設定されるような根拠のない文法学者のスコラ的な「抽象」、つまりシニフィアンを実体化して、言語から頭の中でだけ「切り離して」しまう、空疎な「抽象」に過ぎなくなってしまう。そういうことじゃないんでしょうか。
そんなふうに素直に読んでいけば「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象だということを思い出そう」という彼の言葉も、「言語には抽象的なものは何もない」「言語においては、すべて語る主体の意識に現れるものは具体的である」という『一般言語学講義』の言葉も、素直に理解できる(ような気がする)し、当たり前のことを言っているように読んでしまえます。
ところが前田さんの「ノート」に入って特に後半の方に至ると、これがなかなか(笑)。
ソシュールが何気なく優しい説明として言っているように見える「意識」とか「度合」といった言葉が、何か特別な意味を背負っているかのように深掘りされていくようです。
「意識」は意識一般について現象学が想定するような、あの「何ものかについての意識」などではない。下位単位が実在(レアリテ)なのは、あれこれの下位単位について意識が現に働くからではないだろう。そうではなくて、下位単位という「意識」がそこにあるからなのだ。
こういう文章になると私などはお手上げです。哲学者に任せておきましょう(笑)。
実在性の根拠は、結合そのものにはない。結合の活動があろうとなかろうと、下位単位を「何らかの度合で意識している」、もっと正確に言えば、下位単位という「意識」が「何らかの度合」で発生しているということがある。この発生を、単位の確定と呼んでもいい。聴取における下位単位の画定ということがあるのだ。「語根」「語基」「接尾辞」は、まず何よりも画定される単位であって結合させる単位ではない。
ソシュールの言語(ラング)観からは当然のことが言われているだけだと思うのですが、一つの語であろうと、その下位単位であろうと、「表意単位として感じられる」ものは、「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象」なのであって、そうした「単位」と呼ぼうと「実体」と呼ぼうと同じことですが、言語におけるそれらはみな事前に与えられているものではなく、「画定」とソシュールが呼んだ、圧力をかけられた空気が、接する水面に波動を生じる、そのような働きによって、そういう言い方をしていいなら「発生」しているわけで、それは他の言語の単位と同様に心理的なものであって、「意識」以外の何ものでもないでしょう。
前田さんの文を読んでいてわかりにくいには、引用の最後の文のように、「画定」と「結合」を対立的な概念のようにみなしているらしい個所で、それは私にはうまく理解できません。それは果たして言語を考える上での対立概念なんでしょうか。私にはそうとは思えないのです。
言語の「単位」が「画定」の働きで生まれてくる否定的な(お隣さんの要素とは違うよ、という)要素だというソシュール流の言語観に立つ限りそれが「画定」によって生まれる実体であるというのは(ひとつの語であれ下位の要素であれ)言語(ラング)の定義にすぎず、ソシュールがその「単位」の「結合」を語るときには、そうして頭脳の中に蓄えられた言語(ラング)要素を、具体的な語られる場面で他の要素と結びついて用いる発話(パロール)行為に属することとして、言語の問題と切り離してみせた領域に属する問題ではないでしょうか。
私にとって一番わかりにくい前田さんの文章は次のような箇所でした。
新語を形成していくことと、「文」を形成していくことに本質的な違いはないので、結局それは、画定によって送り込まれてくる単位を新たに結合する行為になる。この行為が、ラングをパロールに向けて押し拡げ、転換させるのだ。パロールが成立するのは、この結合が世界のなかのある層に喰い入ったとき、その独自の侵入をはたすときだろう。ラングは、決して重なり合わない二重の活動から成っている。画定によって事象を発生させ、その事象を質の差異の度合に送り込む活動と、結合によって自己をたえずパロールへと押し拡げる活動、前者を下降的とするなら後者は上昇的なものだ。
言語の訓詁学にのめり込むつもりはないので、さっぱりわからねえや、と放り出してもいいのですが、せっかくここまで読んできたので辛抱強くつきあってみることにしましょう。
ここで書かれている「画定によって送り込まれてくる」とか「新たに結合する」とか、「ラングをパロールに向けて押し拡げ、転換させる」というふうな、ソシュールの言葉ではない(たぶん)、前田さん独自の言葉づかいが大仰で、かえってわかりにくくさせているような気がします。
ここで書かれている「この行為」って、別にこんな大仰な言い方で言わなくてはならないものではなく、ソシュールが「言語活動」(ランガージュ)と呼んでいる、あるいは「言述」(デゥスクール)と呼んでいる、ごく当たり前の人間の活動、ふつうには言葉での表現と言っているものことでしょ、と言ったら前田さんはひっくり返るでしょうか(笑)。
「送りこむ」って、いったい何がどうやって何をどこへ送り込むのさ?とか、「押し拡げる」って、何をどう「押し」たり「拡げ」たりするのさ?って半畳入れたくなりません?(笑)
「下降的」とか「上昇的」と前田さんが言っていることも、私はソシュールにそんな考え方は無いような気がします。もちろん私は、前田さんのように色んなソシュールの草稿をフランス語で読んだような専門家とはまるで違って、75の手習い(笑)で、こないだ初めて少しゆっくりと(2日かけて)ソシュールを、それもたった一冊読んだだけのド素人だから、いやいやちゃんとソシュールはここでこう言ってるぜ、と証拠を見せられたら、ハイ、そうでっか!と引っ込みますけど(笑)。
でも一冊ソシュールの講義を読んだだけでも、ソシュールって人はそんな風には考えなかったんじゃないかな、もっとシンプルに言語(ラング)は恣意的な「画定」によって生まれる差異のシステムであって、前田さんが「画定によって事象を発生させ、その事象を質の差異の度合に応じて送り込む」というのは、単に言語(ラング)は分節で生まれるということを言っているだけのことで、それはもともとソシュールの言語(ラング)の定義にすぎないので、別段どこやらへ「下降」する類の運動でもなんでもないんじゃないか、という気がします。
また、「結合によって自己をたえずパロールへと押し拡げる活動」というのは、私たちが頭の中にソシュールの言う言語(ラング)を、そのつなぎ方のパターンまで含めて、語弊をおそれずにいえば「持って」いて、こうした既成の要素とそのつなぎ方のパターンを用いて、新たな差異化として、一つのつながりをもった言葉として語っていく、そういうパロール(発話)とソシュールが呼んだ行為は、ソシュールのいう言語(ラング)という社会的産物ではなくて、発話行為(パロール)という個人的な行為だけれど、他者と関わっていく行為だという面から見れば社会的行為だから、前田さんも「押し拡げる」というような言葉で語ったのかもしれませんね。でもそこに見られる要素の「結合」を、「ラングの活動」?であるかのように、言語の領域で、「画定」の対立概念として語るのは疑問です。それに、「上昇」って何?どこへ上昇するんでしょう?(笑)
前田さんの鋭い舌鋒はついにソシュールにも向けられるに至り、前田さんのいう「下降的」と「上昇的の「区別を曖昧にしてしまった」のは、ソシュール自身にも責任の一端がある、と言いたげで、「すべての統辞論は、画定による連辞ではなく、結合による文を扱うのだ。言いかえれば、上昇方向におけるラングの活動を扱う」「逆に形態論が扱うのは、これはどうしても画定、下降方向の活動でしかない。」という持論を述べた上、「要するに、ソシュールは連辞論と統辞論を区別するふたつの方向線を、ここで一瞬見失ってしまうのだ。」と批判?しています。
そのすぐ後のところで、彼はもっとひどい場面もある、と縷々述べてたところで、こんな風に書いています。
ラングとは、まず何よりそういう単位の発生であって、それこそソシュールが果てもはく入り込んでいった問題だろう。発生する単位を結合していく活動は、ラングがパロールへ転換していく運動であって、この過程のなかにあるものは、何であろうといっさい連辞ではない。連辞は、単位が画定されていく下降方向の活動から切り離しては考えられないのだ。
最初の一文は、ソシュールによる言語(ラング)の定義にすぎないものを、前田さん流の言葉にホンヤクしただけですから、さして問題はないけれど、後の二つの文は意味不明です。「ラングがパロールへ転換していく運動」という大仰な言い方で言われているのは、単に言語活動(ランガージュ)のことでしょうし、もっと細密にパロールに重点を置いてい痛ければ、発話行為(パロール)それ自体であり、そのパロールのつながりとしての言説(ディスクール)で、その時に主体の内部で起きていることを指しているのでしょう。
しかし、それならば、「この過程のなかにあるものは、何であろうと、いっさい連辞ではない」というのがさっぱり理解できません。
丸山圭三郎さんの「ソシュールを読む」に引用されたソシュールの言葉(SM75-2019)には、次のような一節があります。
我々が語るのは連辞によってのみである。そのメカニズムは恐らく、我々が連辞の型を頭脳の中に持っていて、それらの型を用いる時に連合語群を介入させているのである。
それぞれの連合語群の内部で何を変えれば単位を差異化し得るかということを、我々は知っている。だから、連辞が作り出さる瞬間には連合群が介入しているのであって、連合群なしには連辞は形成されないと言えるのである。
これが前田さんの言う「ラングがパロールへ転換していく運動」、簡単に言えば発話行為(パロール)で何が起きているかについての、ソシュールによる簡潔かつ的確な説明でなくて何でしょうか。それはまさに連辞を作り出す行為そのものではないのでしょうか。
こうして読んでいくと、きりなく疑問がわいてきますが、別段私は前田さんの思考や用語法に最初から最後までお付き合いする義理があるわけではないので(笑)、いい加減に切り上げましょう。
前田さんの本で一番興味を持ったのは、しかし、先ほど私がさっぱり分からん、と引用したあたりにある、ソシュールが形態論を講じるにあたって、「実在的なものとは語る主体が何らかの度合で意識しているもののことだ」「彼らが意識するものがすべてであり、意識できるもののほかは何でもない」「語る主体は語の単位より下の形態論的ーつまり表意的ー単位を意識している」「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象だ」などと述べたその「意識」「度合」「感情」といった言葉にこだわり、深掘りする部分です。
その中で、このソシュールの形態論では使われていない(と思う)「質」という言葉を前田さんは登場させて、次のように言います。
言語事象とは直接に感じられるひとつの<質>だということだろう。<質>は感じられる質なので、他の何ものでもない。言語事象とはそういう<質>であり、<質>はそれを感じる「感情」と同じものだ。
彼は自問します。「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象だ」というようなことを、なぜ彼は繰り返し言わなくてはならないのか。「同時代との関係」によって決定される機能が、言語現象の正体だとなぜ言ってしまわないのか。
ここで彼が登場させるのが、「彼(ソシュール)の用語ではないし、特に好んで使われたことばでもない」<質>なのです。この<質>について語られる部分が、私が読んだところまでに関する限り、この本のハイライトになっています。
それは、「語る主体」が「関係」によって認識する現象は、その存在においては<質>として働くほかないものだからだ。正体は、この<質>であって、「関係」による機能などという概念ではない。彼の言語学を、もっとも強く捉え込んでいるのは、まちがいなく言語的な<質>の問題であり、そのことはたとえば、「度合」という言葉の使用に示されている。「何らかの度合で」とは、いったい何なのか。「語る主体」が -eurを意識するには、「何らかの度合」がある。これは、「意識」「感情」の強さの「度合」であると同時に、-eurがひとつの質として、事象として現出してくる「度合」でもあるだろう。だから、これは言うまでもなく、量的に表示される計測値ではなくて、むしろ質の存在にとって不可欠な「度合」と考えるべきだ。ひとつの質には、それがその質であることのさまざまな「度合」、言いかえればその質自身の無数の緊張弛緩がある。このことは、何についてであれその質を問題にする以上、同じように言えることだ。たとえば、私たちが林檎という<質>を(もちろん「林檎」という言葉とともに)定立させたとしたら、その質は、林檎か非・林檎かの対立だけで成り立つのではない、それは林檎であることのさまざまな質の度合によっても成り立つのだ。<質>が<質の差異>によっていったん定立させられれば、たちまちその差異には、それがひとつの質であることの様々な度合が発生する。関係論、特にその二項対立主義に冒された諸科学の目には、このことは決して見えてはこないのだ。
ここは一番面白いところでした。
ただ、前田さんのいう「質」は、ソシュールのいわゆる記号学的還元で排除されてしまうものではないでしょうか。
この還元によって恣意的な分節によって発生する言語の本質が手に入り、言語は差異の戯れだという、前田さんの言う「関係性」でしかないところまで行ってしまうわけですが、それはそれですっきりした機能主義的なシステム論を構成していくことになって、色々使い道はあるのでしょうが、「ソシュールの沈黙」が抱え込んだ問題は前田さんが指摘しているように、前田さんの言う意味での「質」の問題だったのではないか。
ソシュールが言語を扱う上で不可避の基礎だと考えた記号学的還元によって、きわまるところ言語の無根拠性が明らかになり、それはある意味で「自由」を獲得したかのように、つまりソシュールを言語「関係」論に還元して満足する機能的論理の信奉者たちのように、ソシュールだって能天気になりえたかもしれなかったわけでしょうが、前田さんが言っていることは、そういう言い方はしていないけれど、ソシュール自身にとって不幸にも、彼は記号学的還元自体が、あらかじめ排除してしまうものがあって、それを排除すれば人間が言語を使うということ自体に意味がなくなってしまうという背理に気づいていた、ということになるのではないでしょうか。残されるのは何もない砂漠のように空虚で無根拠な差異の戯れだけだ、と。
その記号学的還元によっておのずと排除されたものが、「質」と前田さんが言っているもので、それはたぶん、私たちが人と言葉を交わす中で言葉から受け取り、言葉に託している最も大切なものなのではないでしょうか。
私はいまでは非常に古典的に見える、三浦つとむさんの意識の「対象化」(外化)としての表現論や吉本隆明さんの疎外論をベースにした「表出」として言語表現論になじんできたので、ソシュールのような主体だの表出だのといった概念を一掃し、実質的な(substantial)ものを一切合切、無根拠な境界の画定によって辛うじて恣意性を否定的なしかたで限定された差異のシステムに還元してしまった言語観には新鮮な驚きを覚えますが、それでもその記号学的還元が消去してしまったところにしか、自分の言語についての関心はないように思うし、むしろその関心の的となるものは、古典的な疎外論的パラダイムの内に位置づけられるだろう「対象化」や「表出」といった概念のうちに保存されていると思っています。
このことは結局言語論にとどまらず、経済的な商品の価値をめぐる議論にあっても同じことで、資本論での労働価値説的なもの言いがちょうど三浦さんや吉本さんの疎外論的な言語観にあたるでしょうし、ソシュール的な観点に近づけて表現すれば次のようなことになるのでしょう。
本章のはじめでは、世間なみの流儀で、商品は使用価値および交換価値であるといったが、これは、正確にいえば誤りであった。商品は使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、それの価値がそれの自然的形態と異なる独自な現象形態・交換価値という現象形態・をとるや否や、あるがままのこうした二重者としてとして自らを表示するのであるが、商品は、孤立的に考察されたのでは決してこうした形態をとらぬのであって、つねにただ、種類を異にする第二の商品にたいする価値関係または交換関係においてのみこうした形態をとる。(K.Marx )
一昨日と昨日は、前田英樹さんの『沈黙するソシュール』という大判の300ページ以上ある分厚い本で、正直言うとずいぶん以前に購入して、例によって「ツンドク」しておいたあげく、体調が最悪のころ、もうそろそろお迎えが来るかなと終活に精出していたので、マーケットプレイスで他の大量の本と一緒に売り払ってしまおうとして値段を調べたら、もとの定価4000円(税別)なのに、そのときは何と1円(!)で売られていたのを見て、さすがになんだか哀しくなって、自分が新刊書店だったか古書店だったか、まだそのころはネットで買ってはいなかった頃だから、実際に手にとり、パラパラと開いて読む価値があるはずだと見込んだ本が、1円で売られている、ということが許せない(笑)ような気持ちになって、本棚に残しておいたのです。
それが、先日から、ソシュールの『一般言語学講義~コンスタンタンのノート』を私にしては少しじっくり、2日くらいかけて読んで刺激を受け、すぐに続いて丸山圭三郎さんの『ソシュールを読む』を読んで、分からなかったところもよくわかったような気になったところで、ふとこういう本がどこかにあったな、と思い出して本棚の奥から取り出してきたのです。
で一昨日から読んでほぼ3分の2まで行くかどうか、190ページばかり読んできて、これがなかなか難しいけれども、とても引き込まれるところがあって、売り払わなくてよかった!と、ようやく、昔支払ったかもしれない4000円(古本屋でもきっと2000円くらいは)という、私の「昔」の懐にしたら(今でもですが!)「大金」だったはずの本代のモトをとるぞ!(笑)というところです。
この本はソシュールが伝説的な「沈黙」に先立つ2年ほど前、34歳のときにジュネーヴ大学の就任講演のノートとして残したテキストや、私もとても重要だと思う「形態論」の草稿などのテキストに、著者の前田さんが「ノート」として註を加えるような形で、その解釈と主張を存分に展開したもので、誰が書いてもそうなるのかもしれないけれど、単なるソシュールの解説本なんてもんじゃくて、俺にとってのソシュールはこういうものでしかありえない、という強烈な前田さん自身の主張、従って、従来の(と言っても私が知っているわけじゃないけど・・笑)ソシュール解釈を全部間違いだ、と否定しちゃうくらいの意気込みの著書になっています。
だから言語学者でもなければ哲学者でもない私のようなド素人が読むには、ものすごく歯ごたえがあって、歯がボロボロに欠けそうですが(笑)、なんとか読み進めているところで、このへんまでで、だいたい前田さんの主張のポイントは出そろっているのではないかと思います。
とりわけ「形態論」に入って、ソシュールのテキストを読んでいるうちは、さらっと読んでしまえたのですが、その何倍にもなる前田さんの解釈というのか論考のとりわけ後半の肝心な部分になると、遅々として理解進まず、本の欄外は疑問符だらけ。
ソシュールがいったん「語根、語基、接尾辞などはみな純然たる抽象だ」と言いながら、すぐそのあとで、じゃこういうカテゴリーに正当性がないとしたら、いったいどんな理由で設定するのか、と自問し、それゆえ「いささか妄説の汚名を浴びた命題を、私はあえて口にしよう」と述べて、さきほどとは正反対のこと、つまり「語根、語基、接尾辞のような区分を純然たる抽象とすることは、間違いなのだ」と述べ、それが正しいとか間違いだというためには、「形態論では何を実在的と呼べるのか、その基準を確定する必要がある」と述べています。
当然この「実在的」は、語根だの語基だの接尾辞だのといった、語の下位概念として語られてきた文法的な言い方、区分が、言語学者による「抽象」に過ぎない、という言い方に対するもので、「抽象』と対置させられた「実在的なもの」でしょう。
ソシュール自身の言葉によれば、それは「語る主体が何らかの度合で意識しているもののこと」だということで、先ほどのような、語の単位より下の形態的要素は、「表意単位として感じられている」から、単なる「抽象」ではなくて、「実在的」なものなんだ、ということです。私は彼が例に挙げるフランス語はわからんので、英語でいえば、operatorとか、directorとか、narratorとか、helper、couter, computer, buyer, speakerなんて語の語尾 -orとか -erなんてのは、みんな行為者の観念、つまり表意的単位にあたるものなんじゃないでしょうか。
それらを言語(ラング)として析出される画定(先日読んだソシュールの訳本で「境界を定める]と言われ、丸山さんの本では「分節」と訳されていた概念でしょう)の単位、聴覚映像(シニフィアン)と概念(シニフィエ)の連合とみなさなければ、みな形態論で区分され設定されるような根拠のない文法学者のスコラ的な「抽象」、つまりシニフィアンを実体化して、言語から頭の中でだけ「切り離して」しまう、空疎な「抽象」に過ぎなくなってしまう。そういうことじゃないんでしょうか。
そんなふうに素直に読んでいけば「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象だということを思い出そう」という彼の言葉も、「言語には抽象的なものは何もない」「言語においては、すべて語る主体の意識に現れるものは具体的である」という『一般言語学講義』の言葉も、素直に理解できる(ような気がする)し、当たり前のことを言っているように読んでしまえます。
ところが前田さんの「ノート」に入って特に後半の方に至ると、これがなかなか(笑)。
ソシュールが何気なく優しい説明として言っているように見える「意識」とか「度合」といった言葉が、何か特別な意味を背負っているかのように深掘りされていくようです。
「意識」は意識一般について現象学が想定するような、あの「何ものかについての意識」などではない。下位単位が実在(レアリテ)なのは、あれこれの下位単位について意識が現に働くからではないだろう。そうではなくて、下位単位という「意識」がそこにあるからなのだ。
こういう文章になると私などはお手上げです。哲学者に任せておきましょう(笑)。
実在性の根拠は、結合そのものにはない。結合の活動があろうとなかろうと、下位単位を「何らかの度合で意識している」、もっと正確に言えば、下位単位という「意識」が「何らかの度合」で発生しているということがある。この発生を、単位の確定と呼んでもいい。聴取における下位単位の画定ということがあるのだ。「語根」「語基」「接尾辞」は、まず何よりも画定される単位であって結合させる単位ではない。
ソシュールの言語(ラング)観からは当然のことが言われているだけだと思うのですが、一つの語であろうと、その下位単位であろうと、「表意単位として感じられる」ものは、「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象」なのであって、そうした「単位」と呼ぼうと「実体」と呼ぼうと同じことですが、言語におけるそれらはみな事前に与えられているものではなく、「画定」とソシュールが呼んだ、圧力をかけられた空気が、接する水面に波動を生じる、そのような働きによって、そういう言い方をしていいなら「発生」しているわけで、それは他の言語の単位と同様に心理的なものであって、「意識」以外の何ものでもないでしょう。
前田さんの文を読んでいてわかりにくいには、引用の最後の文のように、「画定」と「結合」を対立的な概念のようにみなしているらしい個所で、それは私にはうまく理解できません。それは果たして言語を考える上での対立概念なんでしょうか。私にはそうとは思えないのです。
言語の「単位」が「画定」の働きで生まれてくる否定的な(お隣さんの要素とは違うよ、という)要素だというソシュール流の言語観に立つ限りそれが「画定」によって生まれる実体であるというのは(ひとつの語であれ下位の要素であれ)言語(ラング)の定義にすぎず、ソシュールがその「単位」の「結合」を語るときには、そうして頭脳の中に蓄えられた言語(ラング)要素を、具体的な語られる場面で他の要素と結びついて用いる発話(パロール)行為に属することとして、言語の問題と切り離してみせた領域に属する問題ではないでしょうか。
私にとって一番わかりにくい前田さんの文章は次のような箇所でした。
新語を形成していくことと、「文」を形成していくことに本質的な違いはないので、結局それは、画定によって送り込まれてくる単位を新たに結合する行為になる。この行為が、ラングをパロールに向けて押し拡げ、転換させるのだ。パロールが成立するのは、この結合が世界のなかのある層に喰い入ったとき、その独自の侵入をはたすときだろう。ラングは、決して重なり合わない二重の活動から成っている。画定によって事象を発生させ、その事象を質の差異の度合に送り込む活動と、結合によって自己をたえずパロールへと押し拡げる活動、前者を下降的とするなら後者は上昇的なものだ。
言語の訓詁学にのめり込むつもりはないので、さっぱりわからねえや、と放り出してもいいのですが、せっかくここまで読んできたので辛抱強くつきあってみることにしましょう。
ここで書かれている「画定によって送り込まれてくる」とか「新たに結合する」とか、「ラングをパロールに向けて押し拡げ、転換させる」というふうな、ソシュールの言葉ではない(たぶん)、前田さん独自の言葉づかいが大仰で、かえってわかりにくくさせているような気がします。
ここで書かれている「この行為」って、別にこんな大仰な言い方で言わなくてはならないものではなく、ソシュールが「言語活動」(ランガージュ)と呼んでいる、あるいは「言述」(デゥスクール)と呼んでいる、ごく当たり前の人間の活動、ふつうには言葉での表現と言っているものことでしょ、と言ったら前田さんはひっくり返るでしょうか(笑)。
「送りこむ」って、いったい何がどうやって何をどこへ送り込むのさ?とか、「押し拡げる」って、何をどう「押し」たり「拡げ」たりするのさ?って半畳入れたくなりません?(笑)
「下降的」とか「上昇的」と前田さんが言っていることも、私はソシュールにそんな考え方は無いような気がします。もちろん私は、前田さんのように色んなソシュールの草稿をフランス語で読んだような専門家とはまるで違って、75の手習い(笑)で、こないだ初めて少しゆっくりと(2日かけて)ソシュールを、それもたった一冊読んだだけのド素人だから、いやいやちゃんとソシュールはここでこう言ってるぜ、と証拠を見せられたら、ハイ、そうでっか!と引っ込みますけど(笑)。
でも一冊ソシュールの講義を読んだだけでも、ソシュールって人はそんな風には考えなかったんじゃないかな、もっとシンプルに言語(ラング)は恣意的な「画定」によって生まれる差異のシステムであって、前田さんが「画定によって事象を発生させ、その事象を質の差異の度合に応じて送り込む」というのは、単に言語(ラング)は分節で生まれるということを言っているだけのことで、それはもともとソシュールの言語(ラング)の定義にすぎないので、別段どこやらへ「下降」する類の運動でもなんでもないんじゃないか、という気がします。
また、「結合によって自己をたえずパロールへと押し拡げる活動」というのは、私たちが頭の中にソシュールの言う言語(ラング)を、そのつなぎ方のパターンまで含めて、語弊をおそれずにいえば「持って」いて、こうした既成の要素とそのつなぎ方のパターンを用いて、新たな差異化として、一つのつながりをもった言葉として語っていく、そういうパロール(発話)とソシュールが呼んだ行為は、ソシュールのいう言語(ラング)という社会的産物ではなくて、発話行為(パロール)という個人的な行為だけれど、他者と関わっていく行為だという面から見れば社会的行為だから、前田さんも「押し拡げる」というような言葉で語ったのかもしれませんね。でもそこに見られる要素の「結合」を、「ラングの活動」?であるかのように、言語の領域で、「画定」の対立概念として語るのは疑問です。それに、「上昇」って何?どこへ上昇するんでしょう?(笑)
前田さんの鋭い舌鋒はついにソシュールにも向けられるに至り、前田さんのいう「下降的」と「上昇的の「区別を曖昧にしてしまった」のは、ソシュール自身にも責任の一端がある、と言いたげで、「すべての統辞論は、画定による連辞ではなく、結合による文を扱うのだ。言いかえれば、上昇方向におけるラングの活動を扱う」「逆に形態論が扱うのは、これはどうしても画定、下降方向の活動でしかない。」という持論を述べた上、「要するに、ソシュールは連辞論と統辞論を区別するふたつの方向線を、ここで一瞬見失ってしまうのだ。」と批判?しています。
そのすぐ後のところで、彼はもっとひどい場面もある、と縷々述べてたところで、こんな風に書いています。
ラングとは、まず何よりそういう単位の発生であって、それこそソシュールが果てもはく入り込んでいった問題だろう。発生する単位を結合していく活動は、ラングがパロールへ転換していく運動であって、この過程のなかにあるものは、何であろうといっさい連辞ではない。連辞は、単位が画定されていく下降方向の活動から切り離しては考えられないのだ。
最初の一文は、ソシュールによる言語(ラング)の定義にすぎないものを、前田さん流の言葉にホンヤクしただけですから、さして問題はないけれど、後の二つの文は意味不明です。「ラングがパロールへ転換していく運動」という大仰な言い方で言われているのは、単に言語活動(ランガージュ)のことでしょうし、もっと細密にパロールに重点を置いてい痛ければ、発話行為(パロール)それ自体であり、そのパロールのつながりとしての言説(ディスクール)で、その時に主体の内部で起きていることを指しているのでしょう。
しかし、それならば、「この過程のなかにあるものは、何であろうと、いっさい連辞ではない」というのがさっぱり理解できません。
丸山圭三郎さんの「ソシュールを読む」に引用されたソシュールの言葉(SM75-2019)には、次のような一節があります。
我々が語るのは連辞によってのみである。そのメカニズムは恐らく、我々が連辞の型を頭脳の中に持っていて、それらの型を用いる時に連合語群を介入させているのである。
それぞれの連合語群の内部で何を変えれば単位を差異化し得るかということを、我々は知っている。だから、連辞が作り出さる瞬間には連合群が介入しているのであって、連合群なしには連辞は形成されないと言えるのである。
これが前田さんの言う「ラングがパロールへ転換していく運動」、簡単に言えば発話行為(パロール)で何が起きているかについての、ソシュールによる簡潔かつ的確な説明でなくて何でしょうか。それはまさに連辞を作り出す行為そのものではないのでしょうか。
こうして読んでいくと、きりなく疑問がわいてきますが、別段私は前田さんの思考や用語法に最初から最後までお付き合いする義理があるわけではないので(笑)、いい加減に切り上げましょう。
前田さんの本で一番興味を持ったのは、しかし、先ほど私がさっぱり分からん、と引用したあたりにある、ソシュールが形態論を講じるにあたって、「実在的なものとは語る主体が何らかの度合で意識しているもののことだ」「彼らが意識するものがすべてであり、意識できるもののほかは何でもない」「語る主体は語の単位より下の形態論的ーつまり表意的ー単位を意識している」「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象だ」などと述べたその「意識」「度合」「感情」といった言葉にこだわり、深掘りする部分です。
その中で、このソシュールの形態論では使われていない(と思う)「質」という言葉を前田さんは登場させて、次のように言います。
言語事象とは直接に感じられるひとつの<質>だということだろう。<質>は感じられる質なので、他の何ものでもない。言語事象とはそういう<質>であり、<質>はそれを感じる「感情」と同じものだ。
彼は自問します。「語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象だ」というようなことを、なぜ彼は繰り返し言わなくてはならないのか。「同時代との関係」によって決定される機能が、言語現象の正体だとなぜ言ってしまわないのか。
ここで彼が登場させるのが、「彼(ソシュール)の用語ではないし、特に好んで使われたことばでもない」<質>なのです。この<質>について語られる部分が、私が読んだところまでに関する限り、この本のハイライトになっています。
それは、「語る主体」が「関係」によって認識する現象は、その存在においては<質>として働くほかないものだからだ。正体は、この<質>であって、「関係」による機能などという概念ではない。彼の言語学を、もっとも強く捉え込んでいるのは、まちがいなく言語的な<質>の問題であり、そのことはたとえば、「度合」という言葉の使用に示されている。「何らかの度合で」とは、いったい何なのか。「語る主体」が -eurを意識するには、「何らかの度合」がある。これは、「意識」「感情」の強さの「度合」であると同時に、-eurがひとつの質として、事象として現出してくる「度合」でもあるだろう。だから、これは言うまでもなく、量的に表示される計測値ではなくて、むしろ質の存在にとって不可欠な「度合」と考えるべきだ。ひとつの質には、それがその質であることのさまざまな「度合」、言いかえればその質自身の無数の緊張弛緩がある。このことは、何についてであれその質を問題にする以上、同じように言えることだ。たとえば、私たちが林檎という<質>を(もちろん「林檎」という言葉とともに)定立させたとしたら、その質は、林檎か非・林檎かの対立だけで成り立つのではない、それは林檎であることのさまざまな質の度合によっても成り立つのだ。<質>が<質の差異>によっていったん定立させられれば、たちまちその差異には、それがひとつの質であることの様々な度合が発生する。関係論、特にその二項対立主義に冒された諸科学の目には、このことは決して見えてはこないのだ。
ここは一番面白いところでした。
ただ、前田さんのいう「質」は、ソシュールのいわゆる記号学的還元で排除されてしまうものではないでしょうか。
この還元によって恣意的な分節によって発生する言語の本質が手に入り、言語は差異の戯れだという、前田さんの言う「関係性」でしかないところまで行ってしまうわけですが、それはそれですっきりした機能主義的なシステム論を構成していくことになって、色々使い道はあるのでしょうが、「ソシュールの沈黙」が抱え込んだ問題は前田さんが指摘しているように、前田さんの言う意味での「質」の問題だったのではないか。
ソシュールが言語を扱う上で不可避の基礎だと考えた記号学的還元によって、きわまるところ言語の無根拠性が明らかになり、それはある意味で「自由」を獲得したかのように、つまりソシュールを言語「関係」論に還元して満足する機能的論理の信奉者たちのように、ソシュールだって能天気になりえたかもしれなかったわけでしょうが、前田さんが言っていることは、そういう言い方はしていないけれど、ソシュール自身にとって不幸にも、彼は記号学的還元自体が、あらかじめ排除してしまうものがあって、それを排除すれば人間が言語を使うということ自体に意味がなくなってしまうという背理に気づいていた、ということになるのではないでしょうか。残されるのは何もない砂漠のように空虚で無根拠な差異の戯れだけだ、と。
その記号学的還元によっておのずと排除されたものが、「質」と前田さんが言っているもので、それはたぶん、私たちが人と言葉を交わす中で言葉から受け取り、言葉に託している最も大切なものなのではないでしょうか。
私はいまでは非常に古典的に見える、三浦つとむさんの意識の「対象化」(外化)としての表現論や吉本隆明さんの疎外論をベースにした「表出」として言語表現論になじんできたので、ソシュールのような主体だの表出だのといった概念を一掃し、実質的な(substantial)ものを一切合切、無根拠な境界の画定によって辛うじて恣意性を否定的なしかたで限定された差異のシステムに還元してしまった言語観には新鮮な驚きを覚えますが、それでもその記号学的還元が消去してしまったところにしか、自分の言語についての関心はないように思うし、むしろその関心の的となるものは、古典的な疎外論的パラダイムの内に位置づけられるだろう「対象化」や「表出」といった概念のうちに保存されていると思っています。
このことは結局言語論にとどまらず、経済的な商品の価値をめぐる議論にあっても同じことで、資本論での労働価値説的なもの言いがちょうど三浦さんや吉本さんの疎外論的な言語観にあたるでしょうし、ソシュール的な観点に近づけて表現すれば次のようなことになるのでしょう。
本章のはじめでは、世間なみの流儀で、商品は使用価値および交換価値であるといったが、これは、正確にいえば誤りであった。商品は使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、それの価値がそれの自然的形態と異なる独自な現象形態・交換価値という現象形態・をとるや否や、あるがままのこうした二重者としてとして自らを表示するのであるが、商品は、孤立的に考察されたのでは決してこうした形態をとらぬのであって、つねにただ、種類を異にする第二の商品にたいする価値関係または交換関係においてのみこうした形態をとる。(K.Marx )
saysei at 14:40|Permalink│Comments(0)│
2020年04月19日
おこもり読書
きょうもあまりいい天気ではなかったし、家の中で掃除をしたり、本を読んだり。
昨日に引き続き,ソシュールの『一般言語学講義 コンスタンのノート』の第二部を、じっくり読みました。若い頃読んだ小林英夫訳の、他の弟子が編集した原書からの訳本でソシュールの基本的な言語観は(もちろんその影響を受けた色々な思想家たちの著書を通じてということもあるけれど)理解していた(つもり・・・)だったけれど、今回の訳本は、講義の感じが良く伝わってくるような感じで、とても分かりやすかったので、とても興味深く読めました。
ソシュールは先生としては、とても親切な先生だったようで、自分の言語観を構成する概念を、繰り返し繰り返し色んな角度から語るだけでなく、それぞれに、とても分かりやすい比喩で説明してくれています。講義ノートだからかもしれませんが、ポンチ絵をつけたりして(笑)。きっと黒板にこんな絵を描いて、色々身近な例を挙げ、譬え話をしていたんだろうな、とその光景が目に浮かぶような記述です。
譬えでは、共時態・通時態を言うのにチェスのゲームを持ち出して、チェスの或る時点での盤面とその盤面の配置を変え、駒を動かす一手という比喩を使ったり、通時的な投影による射像を共時態に例えてみたり、あるいはまた、植物の茎を水平に切った横断面に垂直の繊維の切り口だけが束となって並ぶぶ、その断面を共時態に、茎の垂直の断面を通時態になぞらえたり、ほんとに親切な語り口で思わず微笑をもらす感じになります。
彼にとっては、言語は話し言葉で考えられていて、私たちが普通文字言語と言っているものは単に彼のいう言語(話し言葉)を表記するためだけにあって、ひどい言い方ですが、「一方は他方の召使いあるいは像にすぎません」ということになるようです。
そして彼の言語はあくまでも聴覚イメージと概念の連合であって、「脳の中にだけある」心理的なものにすぎません。そして、それは個人的なものではなく、「集団的な心の中にある」もの、つまり社会的なもの(慣習)であって、吉本さんの著書に学んだ私(たち)から言えば、ソシュールがしばしば我々が意志的に改変できる法などと対比させて、でも社会的なものだという点では同種のものとして語っているように、それは「共同規範」に当たります。
従って、共同規範としての言語(ラング)については仔細に論じられているけれど、そこには個人の表現としての言語という概念が入る余地がないようです。これは、文字言語を言語とみなさないからではなくて、話ことばを扱っても同じことで、私などが一番関心をもっている、表現としての言語、という位相自体が入る余地がなく、発話という「心理物理的現象」としてひとからげに彼の論理からは排除されているようです。
構造主義と言われる一群の思想が、このソシュールの言語学から大いに学んだ、というのは分かるけれど、それ以降の欧米の思想家たちで文学を論じたりする人たちが、これでどうやってソシュールの言語学に学べたのか、そのほうが何だか不思議に思えてきます。
私がまだ学生時代に、レヴィ=ストロースがローマン・ヤコブソンと一緒に、ボードレールの詩「猫たち」を構造主義の手法で解析してみせた、というので訳本ではあったけれど読んでみたことがありました(『構造主義』という論文集みたいな本に集められた文章の一つでした)が、文芸批評としては、全然面白くなかった(笑)。内容はすっかり忘れたけれど、こんなものが構造主義的な読み方なんだとすれば、つまらないもんだな、とがっかりしたことだけ覚えています。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』はものすごく面白くて、彼が京都へ来てセミナーみたいな少人数での大学人相手の集いに来てくれたときは、誰でも行きたい人は行けたので、聴きに行った(顔を見に行った?・・・笑)くらいでしたが、「猫」はダメでした。
本当は、ソシュールのこの講義ノートには第三部が書かれるはずで、それが「個人における言語活動の能力と行使」というプランだったらしいのが、そこまで入れないままで終わっているらしいので、もしそこまでやっていたら、たとえ彼自身はそれは言語論じゃなくて、彼が峻別する言語活動について述べただけさ、というかもしれないけれど、個人の表現としての言語、ということに踏み込んで面白いことを語ってくれたんじゃないか、という気がして残念な気がしました。
しかし、今回読んだ講義ノートでも、彼が価値論をやるところは、なかなか面白くなってきたな、という感じで読めました。彼は言語を語りながら、つねに経済学を含む「価値」を扱う場合に一般化して考えていくので、そういうところは興味津々でした。共時態・通時態の峻別につながる同時性の軸と継起性の軸とか、価値と同時性は類義語だと言っているところとか、価値を形成する条件として、「似ていないけれども交換できるもの」、「似ていて比較できるもの」を持つという二つを挙げているところとか、そこから「価値とは、交換される概念に対置された、比較可能な項の総体」だと言っているようなところ。
彼がmoutonと英語の1sheepとは「同じ価値」は持たない、なぜなら、sheepは、テーブルの上にのった羊の肉ではなく、歩いている羊について話すときに使うからだ、と言うとき、おい、それは「価値」じゃなくて「意味」だろう、と私などは思ってしまいますが、彼のいう言語の「意味」も「価値」も私などが三浦つとむや吉本さんから学んで考えてきた「意味」や「価値」、つまり表現としての言語の位相でいうのとはまるで異なる、共同規範としての言語の位相で語っているので、読んでいて同じ文字面なので、注意して辿っていても、つい途中でソシュール頭から三浦―吉本頭にもどって、あれっ?これおかしいじゃねえか、となってしまいます。
ソシュールは「価値はもちろん意味の要素ですが」などと書いていて、そういうところへ来ると、私は躓いてしまいます。なにが「もちろん」なんじゃろ?と(笑)。それにつづいて、「重要なのは、意味を価値以外のものととらないことです。」・・・???
彼の言う「価値」は「意味」(の要素)なのですね。つまりさっき、私がmoutonとsheepの違いって、それは「価値」じゃなくて「意味」だろう!と言ったのは、ソシュールだったら、いやそうじゃねえよ、と否定せずに、ケロッとして、そうだよ、意味だよ、意味の要素だよ、と言うんでしょうね。
彼は「意味」というのをきちっと定義していないようだけれど、むしろ「意味作用」という言葉を使っています。訳語だから元の言葉がどうだか知らないけれど、「意味」をひとつの「はたらき」としてとらえている、ってことでしょう。だから、一つの言語だけとらえて考えた図、概念と聴覚イメージの連合としての言語の図を示して、聴覚イメージのほうから概念のほうへ延びる矢印を描いて、「矢印は聴覚イメージに対応するものとしての意味作用を示している」と注しています。
この説明でいくと、彼にとっての「意味」は聴覚イメージと結合する概念ということになるでしょう。あくまでも「意味作用」というとらえ方をするなら、「聴覚イメージ」を「意味するもの」(シニフィアン)とする「意味されるもの(シニフィエ)としての「概念」、ということでしょう。それでこの辺から、彼は「聴覚イメージ」/「概念」を「シニフィアン」/「シニフィエ」と言い換えています。
ソシュールにとっての言語の「価値」(「意味」の要素としての)は、しかし、こうして抽象化して取り出された単一の言語(項)の内部で発生するものではなくて、いわば「項」と「項」の間から立ち上がってくるものです。つまり最初から言語は孤立したものではなくシステムとして他の言葉と隣り合って存在するもので、そうした交換可能な他の項と共存し、互いに制限され、比較されることではじめて価値として成立するというのでしょう。
ただ、彼は価値というのを言語に内在する実体的なものとみなしてはいないので、項と項、語と語の「あいだ」で、あくまでもその「差異」として生じるものを「価値」と呼んでいます。
最後の章では、この「価値」の考え方を徹底して、その概念自体を消してしまって、もう言語には差異しかないんだ、という言い方をしています。そこまでは、「語」と呼ぼうと「項」と抽象化しようと、何かその種の「実定的な項」があって、その間から価値が生まれるとか言ってきたけれど、そんな「実定的な項」なんてないんだ、記号なんて無いんだ、あるのはただ「差異」だけなんだ、それが言語の本質なんだよ、と言っているのです。
最後のご託宣は、言語のシステム全体が、音の差異と概念の差異との結びつきにすぎないんだよ、ということです。そしてそれもこれも、記号の恣意性(聴覚映像と概念との結びつきが恣意的)という原理から派生する論理の系にすぎないんだ、というのが彼の言語観のようです。
表現された言語としての話し言葉であれ書き言葉であれ、差異のシステムだと見なして、その「差異」の様相を子細に分析していけば、結局のところ私(たち)が考えてきたような言語の「意味」も「価値」もその中に全部入れて考えていくことはできるでしょうから、ソシュールが彼の学問的対象とした言語が話し言葉だけで、それも共同規範としての言語という位相でしかとりあげなかったとしても、これを拡張して書き言葉にも、個人の表現としての言語にも展いていくことはできるのかもしれません。
それは言語を実体的なものと見て「意味」や「価値」が言語に内在する「実定的」なもののように見なす観点にどこか残る古典的な言語観の痕跡を払拭して、言語表現を動的な関係性の網の目のようなもう少し軽やかなものとして扱う、ある意味でいま風のやり方に道を拓く方途なのかもしれません。
今日の夕餉。グジの塩焼き、あとで熱々の出汁かけをいただく。
ゴボウ、牛肉、蒟蒻、ニンジンのきんぴら。
にしんなす。
せせりとネギの炒めもの。
モズク酢。
味噌漬けのケンサキイカと春野菜の炒めもの。この味噌漬けのケンサキイカは、先般ある方に頂いて少しずつ大事に食べて来た豪華な各種味噌漬けの類の詰め合わせの最後の一品で、これが一番美味しかった。野菜にその味が染みて、とっても美味でした。
ホウレンソウのおひたし。
タケノコゴハン。
昨日に引き続き,ソシュールの『一般言語学講義 コンスタンのノート』の第二部を、じっくり読みました。若い頃読んだ小林英夫訳の、他の弟子が編集した原書からの訳本でソシュールの基本的な言語観は(もちろんその影響を受けた色々な思想家たちの著書を通じてということもあるけれど)理解していた(つもり・・・)だったけれど、今回の訳本は、講義の感じが良く伝わってくるような感じで、とても分かりやすかったので、とても興味深く読めました。
ソシュールは先生としては、とても親切な先生だったようで、自分の言語観を構成する概念を、繰り返し繰り返し色んな角度から語るだけでなく、それぞれに、とても分かりやすい比喩で説明してくれています。講義ノートだからかもしれませんが、ポンチ絵をつけたりして(笑)。きっと黒板にこんな絵を描いて、色々身近な例を挙げ、譬え話をしていたんだろうな、とその光景が目に浮かぶような記述です。
譬えでは、共時態・通時態を言うのにチェスのゲームを持ち出して、チェスの或る時点での盤面とその盤面の配置を変え、駒を動かす一手という比喩を使ったり、通時的な投影による射像を共時態に例えてみたり、あるいはまた、植物の茎を水平に切った横断面に垂直の繊維の切り口だけが束となって並ぶぶ、その断面を共時態に、茎の垂直の断面を通時態になぞらえたり、ほんとに親切な語り口で思わず微笑をもらす感じになります。
彼にとっては、言語は話し言葉で考えられていて、私たちが普通文字言語と言っているものは単に彼のいう言語(話し言葉)を表記するためだけにあって、ひどい言い方ですが、「一方は他方の召使いあるいは像にすぎません」ということになるようです。
そして彼の言語はあくまでも聴覚イメージと概念の連合であって、「脳の中にだけある」心理的なものにすぎません。そして、それは個人的なものではなく、「集団的な心の中にある」もの、つまり社会的なもの(慣習)であって、吉本さんの著書に学んだ私(たち)から言えば、ソシュールがしばしば我々が意志的に改変できる法などと対比させて、でも社会的なものだという点では同種のものとして語っているように、それは「共同規範」に当たります。
従って、共同規範としての言語(ラング)については仔細に論じられているけれど、そこには個人の表現としての言語という概念が入る余地がないようです。これは、文字言語を言語とみなさないからではなくて、話ことばを扱っても同じことで、私などが一番関心をもっている、表現としての言語、という位相自体が入る余地がなく、発話という「心理物理的現象」としてひとからげに彼の論理からは排除されているようです。
構造主義と言われる一群の思想が、このソシュールの言語学から大いに学んだ、というのは分かるけれど、それ以降の欧米の思想家たちで文学を論じたりする人たちが、これでどうやってソシュールの言語学に学べたのか、そのほうが何だか不思議に思えてきます。
私がまだ学生時代に、レヴィ=ストロースがローマン・ヤコブソンと一緒に、ボードレールの詩「猫たち」を構造主義の手法で解析してみせた、というので訳本ではあったけれど読んでみたことがありました(『構造主義』という論文集みたいな本に集められた文章の一つでした)が、文芸批評としては、全然面白くなかった(笑)。内容はすっかり忘れたけれど、こんなものが構造主義的な読み方なんだとすれば、つまらないもんだな、とがっかりしたことだけ覚えています。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』はものすごく面白くて、彼が京都へ来てセミナーみたいな少人数での大学人相手の集いに来てくれたときは、誰でも行きたい人は行けたので、聴きに行った(顔を見に行った?・・・笑)くらいでしたが、「猫」はダメでした。
本当は、ソシュールのこの講義ノートには第三部が書かれるはずで、それが「個人における言語活動の能力と行使」というプランだったらしいのが、そこまで入れないままで終わっているらしいので、もしそこまでやっていたら、たとえ彼自身はそれは言語論じゃなくて、彼が峻別する言語活動について述べただけさ、というかもしれないけれど、個人の表現としての言語、ということに踏み込んで面白いことを語ってくれたんじゃないか、という気がして残念な気がしました。
しかし、今回読んだ講義ノートでも、彼が価値論をやるところは、なかなか面白くなってきたな、という感じで読めました。彼は言語を語りながら、つねに経済学を含む「価値」を扱う場合に一般化して考えていくので、そういうところは興味津々でした。共時態・通時態の峻別につながる同時性の軸と継起性の軸とか、価値と同時性は類義語だと言っているところとか、価値を形成する条件として、「似ていないけれども交換できるもの」、「似ていて比較できるもの」を持つという二つを挙げているところとか、そこから「価値とは、交換される概念に対置された、比較可能な項の総体」だと言っているようなところ。
彼がmoutonと英語の1sheepとは「同じ価値」は持たない、なぜなら、sheepは、テーブルの上にのった羊の肉ではなく、歩いている羊について話すときに使うからだ、と言うとき、おい、それは「価値」じゃなくて「意味」だろう、と私などは思ってしまいますが、彼のいう言語の「意味」も「価値」も私などが三浦つとむや吉本さんから学んで考えてきた「意味」や「価値」、つまり表現としての言語の位相でいうのとはまるで異なる、共同規範としての言語の位相で語っているので、読んでいて同じ文字面なので、注意して辿っていても、つい途中でソシュール頭から三浦―吉本頭にもどって、あれっ?これおかしいじゃねえか、となってしまいます。
ソシュールは「価値はもちろん意味の要素ですが」などと書いていて、そういうところへ来ると、私は躓いてしまいます。なにが「もちろん」なんじゃろ?と(笑)。それにつづいて、「重要なのは、意味を価値以外のものととらないことです。」・・・???
彼の言う「価値」は「意味」(の要素)なのですね。つまりさっき、私がmoutonとsheepの違いって、それは「価値」じゃなくて「意味」だろう!と言ったのは、ソシュールだったら、いやそうじゃねえよ、と否定せずに、ケロッとして、そうだよ、意味だよ、意味の要素だよ、と言うんでしょうね。
彼は「意味」というのをきちっと定義していないようだけれど、むしろ「意味作用」という言葉を使っています。訳語だから元の言葉がどうだか知らないけれど、「意味」をひとつの「はたらき」としてとらえている、ってことでしょう。だから、一つの言語だけとらえて考えた図、概念と聴覚イメージの連合としての言語の図を示して、聴覚イメージのほうから概念のほうへ延びる矢印を描いて、「矢印は聴覚イメージに対応するものとしての意味作用を示している」と注しています。
この説明でいくと、彼にとっての「意味」は聴覚イメージと結合する概念ということになるでしょう。あくまでも「意味作用」というとらえ方をするなら、「聴覚イメージ」を「意味するもの」(シニフィアン)とする「意味されるもの(シニフィエ)としての「概念」、ということでしょう。それでこの辺から、彼は「聴覚イメージ」/「概念」を「シニフィアン」/「シニフィエ」と言い換えています。
ソシュールにとっての言語の「価値」(「意味」の要素としての)は、しかし、こうして抽象化して取り出された単一の言語(項)の内部で発生するものではなくて、いわば「項」と「項」の間から立ち上がってくるものです。つまり最初から言語は孤立したものではなくシステムとして他の言葉と隣り合って存在するもので、そうした交換可能な他の項と共存し、互いに制限され、比較されることではじめて価値として成立するというのでしょう。
ただ、彼は価値というのを言語に内在する実体的なものとみなしてはいないので、項と項、語と語の「あいだ」で、あくまでもその「差異」として生じるものを「価値」と呼んでいます。
最後の章では、この「価値」の考え方を徹底して、その概念自体を消してしまって、もう言語には差異しかないんだ、という言い方をしています。そこまでは、「語」と呼ぼうと「項」と抽象化しようと、何かその種の「実定的な項」があって、その間から価値が生まれるとか言ってきたけれど、そんな「実定的な項」なんてないんだ、記号なんて無いんだ、あるのはただ「差異」だけなんだ、それが言語の本質なんだよ、と言っているのです。
最後のご託宣は、言語のシステム全体が、音の差異と概念の差異との結びつきにすぎないんだよ、ということです。そしてそれもこれも、記号の恣意性(聴覚映像と概念との結びつきが恣意的)という原理から派生する論理の系にすぎないんだ、というのが彼の言語観のようです。
表現された言語としての話し言葉であれ書き言葉であれ、差異のシステムだと見なして、その「差異」の様相を子細に分析していけば、結局のところ私(たち)が考えてきたような言語の「意味」も「価値」もその中に全部入れて考えていくことはできるでしょうから、ソシュールが彼の学問的対象とした言語が話し言葉だけで、それも共同規範としての言語という位相でしかとりあげなかったとしても、これを拡張して書き言葉にも、個人の表現としての言語にも展いていくことはできるのかもしれません。
それは言語を実体的なものと見て「意味」や「価値」が言語に内在する「実定的」なもののように見なす観点にどこか残る古典的な言語観の痕跡を払拭して、言語表現を動的な関係性の網の目のようなもう少し軽やかなものとして扱う、ある意味でいま風のやり方に道を拓く方途なのかもしれません。
今日の夕餉。グジの塩焼き、あとで熱々の出汁かけをいただく。
ゴボウ、牛肉、蒟蒻、ニンジンのきんぴら。
にしんなす。
せせりとネギの炒めもの。
モズク酢。
味噌漬けのケンサキイカと春野菜の炒めもの。この味噌漬けのケンサキイカは、先般ある方に頂いて少しずつ大事に食べて来た豪華な各種味噌漬けの類の詰め合わせの最後の一品で、これが一番美味しかった。野菜にその味が染みて、とっても美味でした。
ホウレンソウのおひたし。
タケノコゴハン。
saysei at 22:05|Permalink│Comments(0)│
2020年04月16日
カミュ『ペスト』半世紀ぶりの再読
カミュの「ペスト」の主人公で語り手のベルナール・リウー、アルジェリアのオランの医師は、次々に変死を遂げる大量のネズミの出現や病人の発生という兆候を見ながらも、まだ現実感を持って事態を見ることができないでいます。
さまざまのニュアンスはあるにせよ、彼の示した反応は、すなわちわが市民の大部分の示したそれであったのである。天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつもと同じくらい無用意な状態にあった。医師リウは、わが市民たちが無用意であったように、無用意であったわけであり、彼の躊躇はつまりそういうふうに解すべきである。同じくまた彼が不安と信頼との相争う思いに駆られていたのも、そういうふうに解すべきである。戦争が勃発すると、人々はいう - 「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気づくはずである。わが市民諸君は、この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかりを考えていたわけで、別のいいかたをすれば、彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)であった。つまり、天災などというものを信じなかったのである。天災というものは人間の尺度とは一致しない。したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。わが市民たちも人並以上に不心得だったわけではなく、謙譲な心構えを忘れていたというだけのことであって、自分たちにとって、すべてはまだ可能であると考えていたわけであるが、それはつまり天災は起りえないと見なすことであった。彼らは取引を行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らは自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。(宮崎嶺雄訳・以下、引用は同じ)
「ペスト」を「新型コロナウィルス」に置き換えれば、いまの私たちの状況を述べたものと考えてもほとんどそのまま通用しそうな一節です。少し以前に、スペイン風邪について書かれた専門的な研究書についてのコメントを読んだら、スペイン風邪では、国内で総計45万人の死者を出したそうですが、この感染症について正面から向き合った専門的な研究書は、これしかないんだ、と書かれていました。
感染症の広がりが、医学、細菌学、疫学、薬学、或いは実践的な医療や看護などの領域でそれ以前のありように深甚な反省と決定的な変革を迫るような深手を負わせていくだけでなく、社会学や社会心理学、コミュニケーション学等々が繰り込まざるを得ない現実をつきつけ、産業・経済・金融等々への大きな影響について再考を迫り・・・等々、人間の関わるあらゆる知の分野に荒々しい足跡を残すに違いないと思われるのですが、国民の45万人の国民を殺した感染症についても、たった1冊の研究書しか書かれなかったとすれば、わが国民性というのはいったい、どういうものなのでしょう?あるいはカミュがここに書くように、それはどこの国の人々にとっても、同じ、人間のもつ不可避の楽天性とでもいうべきものなのでしょうか。
この小説で非常に重要な役回りでもあり、過去の分からない、魅力的な人物でもあるタル―に、ペストと戦い続けるリウーは、あるとき「あなたの勝利は常に一時的なものですね。ただそれだけですよ」と言われます。リウーは暗い気持ちになったようだったが、「常にね、それは知っています。それだからって、戦いを辞める理由にはなりません」と応じます。
たるーがさらに「確かに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとって果してどういうものになるか」と追い打ちをかけると、リウーは「ええ、そうです。際限なく続く敗北です」と宜うのです。
封鎖されたこの街を何とか(違法に)抜け出して妻のところへいこうとする新聞記者ランベールもまた、そういうリウーに、タル―と同様の問いかけをします。リウーはただ「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」と答えて、黙々と人々の死を看取っていきます。誠実さってどういうことですかと、にたいして、彼はただ、自分の場合には、と断って「自分の職務を果すことだ」と答えます。
このランベールが一度逃亡計画がうまくいかず、ようやく今度はうまく脱出できそうな段取りがついたときになって、突然心を翻し、「僕は行きません。あなた方と一緒に残ろうと思います」という場面は、なかなか感動的です。医師リウーは、「それは愚かしいことだし、幸福のほうを選ぶのになにも恥じるところはない」と言いますが、ランベールは、「これまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分には、あなたがたはなんのかかわりもない」と思ってきたが、「現に見たとおりのものを見てしまった今では、もう確かに僕はこの町の人間です。自分でそれを望もうと望むまいと。この事件はわれわれみんなに関係のあることなんです。」と言ってとどまります。
先のタルーは後にリウーに個人的な過去について打ち明け話をします。彼は思春期の頃、初めて裁判官である父の仕事場へ行き、父が死刑判決を下す現場に立ち会って、心に深手を負うことになります。そして、「僕は単純にそう気がついたのだが、ほかの連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理のなかに含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなしえないのだ。」と考える人間となって、「直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心した」人間であることが、リウーへの告白の中で明らかにされます。
彼はいわばこの作品の中で最もドストエフスキー的な人物、キーロフ、スタヴローギン、あるいはカラマーゾフならイワンのある部分を受け継ぐ人物で、非常に奥行きのある暗い魅力に満ちた人物ですが、その彼はリウーを助ける保健隊なるtasu forceを組織することを申し出て、リウーの活動をバックアップします。
語り終ると、タルーは片足をぶらぶらさせながら、足先でテラスの床をそっとたたいていた。ちょっと沈黙があった後、リウーは少し身を起し、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーには何かはっきりした考えがあるか、と尋ねた。
「あるね。共感ということだ」
この会話の後、二人は突然「友情の記念に、いいことをしようか」というタルーの提案で、港へ海水浴に出かけます。この場面は、この作品の中で最も美しい場面です。
海は突堤の大きな堆積の足もとで静かに音をたてていたが、やがて二人が突堤を登って行くと、目の前に、さながらビロードのような厚みのある、獣のようにしなやかに滑らかな姿を現わした。二人は沖のほうへ向いた岩の上に腰を下ろした。水は膨れ上っては、またゆるやかに下降して行った。この静かな海の息づきが、水面に油のような反射を明滅させていた。彼らの前には夜の闇がはてしなく広がっていた。リウーは、指の下にあばたの岩肌を感じながら、異様な幸福感に満たされていた。タルーのほうを向いてみると、友の静かに重々しい顔つきにも、その同じ幸福感 - 何ものも、例の殺人さえも忘れていない、幸福感が感じとられた。
このあと二人は服を脱いで、海に飛び込み、一緒に泳ぎます。このわずか2ページほどの場面は涙が出てくるほど素敵です。若い頃同じところに感動したかどうか、もう半世紀も前のことで記憶の彼方ですが、きっと心動かされずにはいなかったろうと思います。
やっぱり素晴らしい作品でした。
さまざまのニュアンスはあるにせよ、彼の示した反応は、すなわちわが市民の大部分の示したそれであったのである。天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつもと同じくらい無用意な状態にあった。医師リウは、わが市民たちが無用意であったように、無用意であったわけであり、彼の躊躇はつまりそういうふうに解すべきである。同じくまた彼が不安と信頼との相争う思いに駆られていたのも、そういうふうに解すべきである。戦争が勃発すると、人々はいう - 「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気づくはずである。わが市民諸君は、この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかりを考えていたわけで、別のいいかたをすれば、彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)であった。つまり、天災などというものを信じなかったのである。天災というものは人間の尺度とは一致しない。したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。わが市民たちも人並以上に不心得だったわけではなく、謙譲な心構えを忘れていたというだけのことであって、自分たちにとって、すべてはまだ可能であると考えていたわけであるが、それはつまり天災は起りえないと見なすことであった。彼らは取引を行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らは自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。(宮崎嶺雄訳・以下、引用は同じ)
「ペスト」を「新型コロナウィルス」に置き換えれば、いまの私たちの状況を述べたものと考えてもほとんどそのまま通用しそうな一節です。少し以前に、スペイン風邪について書かれた専門的な研究書についてのコメントを読んだら、スペイン風邪では、国内で総計45万人の死者を出したそうですが、この感染症について正面から向き合った専門的な研究書は、これしかないんだ、と書かれていました。
感染症の広がりが、医学、細菌学、疫学、薬学、或いは実践的な医療や看護などの領域でそれ以前のありように深甚な反省と決定的な変革を迫るような深手を負わせていくだけでなく、社会学や社会心理学、コミュニケーション学等々が繰り込まざるを得ない現実をつきつけ、産業・経済・金融等々への大きな影響について再考を迫り・・・等々、人間の関わるあらゆる知の分野に荒々しい足跡を残すに違いないと思われるのですが、国民の45万人の国民を殺した感染症についても、たった1冊の研究書しか書かれなかったとすれば、わが国民性というのはいったい、どういうものなのでしょう?あるいはカミュがここに書くように、それはどこの国の人々にとっても、同じ、人間のもつ不可避の楽天性とでもいうべきものなのでしょうか。
この小説で非常に重要な役回りでもあり、過去の分からない、魅力的な人物でもあるタル―に、ペストと戦い続けるリウーは、あるとき「あなたの勝利は常に一時的なものですね。ただそれだけですよ」と言われます。リウーは暗い気持ちになったようだったが、「常にね、それは知っています。それだからって、戦いを辞める理由にはなりません」と応じます。
たるーがさらに「確かに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとって果してどういうものになるか」と追い打ちをかけると、リウーは「ええ、そうです。際限なく続く敗北です」と宜うのです。
封鎖されたこの街を何とか(違法に)抜け出して妻のところへいこうとする新聞記者ランベールもまた、そういうリウーに、タル―と同様の問いかけをします。リウーはただ「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」と答えて、黙々と人々の死を看取っていきます。誠実さってどういうことですかと、にたいして、彼はただ、自分の場合には、と断って「自分の職務を果すことだ」と答えます。
このランベールが一度逃亡計画がうまくいかず、ようやく今度はうまく脱出できそうな段取りがついたときになって、突然心を翻し、「僕は行きません。あなた方と一緒に残ろうと思います」という場面は、なかなか感動的です。医師リウーは、「それは愚かしいことだし、幸福のほうを選ぶのになにも恥じるところはない」と言いますが、ランベールは、「これまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分には、あなたがたはなんのかかわりもない」と思ってきたが、「現に見たとおりのものを見てしまった今では、もう確かに僕はこの町の人間です。自分でそれを望もうと望むまいと。この事件はわれわれみんなに関係のあることなんです。」と言ってとどまります。
先のタルーは後にリウーに個人的な過去について打ち明け話をします。彼は思春期の頃、初めて裁判官である父の仕事場へ行き、父が死刑判決を下す現場に立ち会って、心に深手を負うことになります。そして、「僕は単純にそう気がついたのだが、ほかの連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理のなかに含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなしえないのだ。」と考える人間となって、「直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心した」人間であることが、リウーへの告白の中で明らかにされます。
彼はいわばこの作品の中で最もドストエフスキー的な人物、キーロフ、スタヴローギン、あるいはカラマーゾフならイワンのある部分を受け継ぐ人物で、非常に奥行きのある暗い魅力に満ちた人物ですが、その彼はリウーを助ける保健隊なるtasu forceを組織することを申し出て、リウーの活動をバックアップします。
語り終ると、タルーは片足をぶらぶらさせながら、足先でテラスの床をそっとたたいていた。ちょっと沈黙があった後、リウーは少し身を起し、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーには何かはっきりした考えがあるか、と尋ねた。
「あるね。共感ということだ」
この会話の後、二人は突然「友情の記念に、いいことをしようか」というタルーの提案で、港へ海水浴に出かけます。この場面は、この作品の中で最も美しい場面です。
海は突堤の大きな堆積の足もとで静かに音をたてていたが、やがて二人が突堤を登って行くと、目の前に、さながらビロードのような厚みのある、獣のようにしなやかに滑らかな姿を現わした。二人は沖のほうへ向いた岩の上に腰を下ろした。水は膨れ上っては、またゆるやかに下降して行った。この静かな海の息づきが、水面に油のような反射を明滅させていた。彼らの前には夜の闇がはてしなく広がっていた。リウーは、指の下にあばたの岩肌を感じながら、異様な幸福感に満たされていた。タルーのほうを向いてみると、友の静かに重々しい顔つきにも、その同じ幸福感 - 何ものも、例の殺人さえも忘れていない、幸福感が感じとられた。
このあと二人は服を脱いで、海に飛び込み、一緒に泳ぎます。このわずか2ページほどの場面は涙が出てくるほど素敵です。若い頃同じところに感動したかどうか、もう半世紀も前のことで記憶の彼方ですが、きっと心動かされずにはいなかったろうと思います。
やっぱり素晴らしい作品でした。
saysei at 21:38|Permalink│Comments(0)│