2020年02月

2020年02月15日

論語しらずの論語よみ ~隠士との出会い

 論語の中で以前に一番面白いと思っていたのは、老荘思想を持った隠者のような人物が登場して、論語の主役である孔子をその弟子へのことばを介してではあるけれど、からかうというか、やりこめるようなエピソードでした。

 先日論語をあらためて最初から最後まで読んでみたところでは、あのエピソードは第十八微子篇にいくつかあるだけでした。もっとたくさんあったような気がしていたのですが、それは荘子などに書かれた話とごっちゃにしてしまっていたのかもしれません。

 微子篇の6番目の挿話は次のようなものです。
 長沮と桀溺が二人で田を鋤いているところへ通りかかった孔子が、渡し場がどこか子路に尋ねさせます。すると長沮があの車で手綱を取るのは誰かと訊くので、子路が孔子だというと、「その人なら渡し場を知っているはずだよ」と言うのです。

 まぁ、あの有名の先生なら、人にものを尋ねるまでもなく、なんでも知ってるんじゃないの?と、ちょっと意地悪なからかい方をして、まともに相手にしてくれなかったのでしょうね。

 それで子路が次に傍らの桀溺にきくと、名を訊くので、子路は仲由だと答えた。すると桀溺が、魯の孔丘の一家かね、と言い、子路は、そのとおりです、と応じた。すると桀溺はこう言ったというのです。

 曰わく、滔滔たる者は、天下皆これなり。而して誰と以(とも)にかこれを易(か)えん。且つ而(なんじ)その人を辟(さ)くるの士に従わんよりは、豈(あに)世を辟くるの士に従うに若(し)かんや

 「ひたひたと洪水が押し寄せるように、天下は一面にこんなになってしまった。いったいおまえはだれといっしょに治めるつもりかね。おまえは人間をよける先生についているより、どうだひとつ世をよける先生についてみたら」(貝塚茂樹・訳。上の読み下し文も)

 天下はどこもかしこも荒れ果ててしまった。こんな世の中をおまえさんはいったい誰と治めようというのかね。人間を避けるような先生についているより、世を避ける先生についてみたらどうかね、というのですが、ここで、孔子のことを「辟人之士」(人を辟くるの士)と呼んでいるのはどういうことでしょうか。

 貝塚さんの訳注によれば、「人を辟くる」は、「孔子が政治運動をしながら、政治家の人物を批評してえり好みをしているのを皮肉った」という意味だそうです。人を選り好みして、気に入らないものを避ける人物ということですね。

 子路が孔子のところへ戻って報告すると、孔子は「憮然」として言います。

 鳥獣とは与(とも)に群を同じくすべからず。吾(われ)斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん。天下道あるときは、丘もって易(か)えざるなり。

 「鳥や獣と仲間になれるわけはないよ。私が人間の仲間からはずれて、いったい、だれといっしょに暮らすことができよう。天下に秩序が行われているのなら、何もわたしが改革に手をつける必要がないではないか」(貝塚茂樹・訳。上の読み下し文も。)

 朱熹は「論語集注」で、ここのところを以下のように解説しています。

 言うこころは、当に与に群(むれ)を同じくすべき所の者は、斯の人のみ。豈に人を絶ち世を逃れて以て潔しと為す可けんや。天下若し已に平治すれば、則ち我之を変易するを用うること無し。正に天下道無きが為めに、故に道を以て之を易えんと欲するのみ。

 この語の意味はこうである。ともに社会を形成すべきものは、人間なのである。どうして人を絶ち世を逃れて自分だけを高潔としてよいものであろうか。天下がもし平治しているのであれば、私はこれを変える必要は無い。まさに天下に道が行われていないために、道によって変えようと望んでいるだけである。(上田健次郎訳注)

 伊藤仁斎の「論語古義」は、読み自体が違っています。

 鳥獣には与(とも)に群を同じうすべからず。吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰れと与にかせん。天下道有り。丘与に易(か)えず。

 自分は鳥獣と共にいようとするものではない。わたしが常に共にいようとするのはこの人びとである。この人びとと共にいずして、いったい誰と共にいようとするのか。天下にこの人の道がある。この道を誰れと共に変えようとするのか、変えたりすることは決してない。(仁斎訳の現代語訳は子安宣邦による)

 これだけ違うと驚いてしまいますが、独創的な解釈ですね。仁斎は、天下の「道」は永遠の人倫の真理なのであって、万古不易のもの、変わることも変えることもあり得ないと考えていて、それが人の行くべき道であり、その人というのは、言うなればそこらにいる普通の民衆のこと。鳥や獣に対するものとして人と言っているわけで、つねにそういう世の中の普通の人々とともにあって人倫の道をきわめるのが私の目指すところであって、世を避けて鳥獣と共に暮らすことはできないよ、と。

 そこで仁斎は「桀溺は天下を變易せんと欲す。聖人は天下を變易することを欲せず」(桀溺は天下を変えることを欲している。聖人孔子は天下を変えることを欲せられてはいない)と述べています。天下を変えようというのは、私の道を天下に強いるものだ、というのですね。

 仁斎の孔子は現実のこの社会の中で生きる人々と関係を取り結び、ともに生きていく中で人倫の道をめざそうという、民衆の中で生きる精神的指導者、人倫の師としての姿で、春秋戦国の乱世に政治を説いてまわり、ときに現実のグーデターまで起こそうと画策するような孔子の姿とはかなり隔たり、むしろ仁斎の生きた江戸期の成熟した町人社会の中で人倫の道を説く仁斎その人の似姿にみえてきます。

 これを厳しく批判したのが荻生徂徠です。

 「人を辟(さ)く」の「人」は、本(も)と人君を指す。見るべし「天下皆な是れ」も亦た人君を指すことを。學者多く天下の人みな道なしと言ふ者は、孔子の時の語彙にあらず。
 ・・・『吾れ斯の人の徒と與(とも)にするにあらずして誰と與にかせん」も、亦た人君を指す。「天下道有らば、丘與(とも)に易(か)へじ」も、亦た謂ふ若し天下の人君をして皆な道あら使めば、則ち丘何ぞ必ずしも之れを輔(たす)けて風俗を變易せん哉(や)と。
 ・・・凡そ諸書の、「天下に道あり」、「邦に道あり」「道なし」は、みな人君を以て之を言ふ。しかうしていはゆる「道」とは、みな先王の道なり。かつ「風(ふう)を移し俗を易(か)ふるは、樂(がく)より善きは莫(な)し」(孝經、廣要道章)。聖人何ぞ嘗て變易せんと欲せざらん也(や)。(「論語徴」)


 「人を避ける」の「人」は、もともと君主を指す。「天下皆な是れ」(の天下皆)というのもまた、(天下のもろもろの)君主たちを指していることを理解しなくてはならない。多くの学者たちが、世の中の人々がみな道を見失っていると解しているのは、孔子の時代の言葉の用い方ではない。
 ・・・「吾れ斯の人の徒と與にするにあらずして誰と與にかせん」(の「人」)もまた、君主を指す。「天下道有らば、丘與に易へじ」もまた、世の中の君主がみな道を違えず道に従うなら、わたし孔丘とてどうしてそれを輔佐して風俗を変え改めたりしようとするだろうか、いやその必要はないだろう。
 ・・・およそもろもろの書に「天下に道あり」、「邦に道あり」、「道なし」とあるのは、みな君主のことを言っているのだ。そうして、いわゆる「道」とは、みな(孔子が理想とした周の)先王の道である。さらに「民人のよくない風俗を、よい方に移しあらためて善良な風俗にするのには、民人に音楽を奨めるのがもっともよい」(孝經、廣要道章)というのである。孔子がどうして風俗を変えあらためることを望まなかったことがあろうか。いやそんなことはない。

 従って、当然初めのほうの一節も解釈が違ってきます。

 「滔滔たる者は天下皆な是れなり。而うして誰か以て之れを易(か)へん」、言ふこころは天下の人君、與(とも)に爲すこと有る可き者あること莫し、しかうして何人を輔(たす)けて以て天下を變易せんと欲するかとなり。

 「世の中の君主たちはみな滔々たる世の流れに逆らえず大勢に流されるままだ。それでいったい誰がこんな世の中を変えようというのかね」、この意味は、世の君主たちは(みな大勢に流されていて)共に何事かを爲すべき者もいない。それなのにいったい誰を輔けて世の中を変えたいというのだろうね、というのだ。

 さすがは徂徠で、本当に独創的な読みだし、私には論語をつらぬく孔子の思想を深く読み込んでいなければ読めない、まさに孔子の思想に即した読み方だと思えて舌を巻かずにはいられません。

 孔子の言葉は単に人倫を説く道徳家のものではなく、春秋戦国の血なまぐさい乱世に、なんとか権力を持つ君主たちに先王の道を説き、これを内面化させることを通じて、現実的に世の中の秩序を改め、それを通じて人々の生活を安らかにしたいと切望する実践的な思想家の言葉で、その点では常に一貫していたようです。

 顔淵篇の中に、樊遅という弟子が孔子に「仁」とは何かと問う場面があります。孔子は「愛人」人を愛することだ、と答えます。では「知」とは、と樊遅が再び尋ねます。孔子は「知人」人を知ることだ、と答えます。

 仁が「人を愛する」ことだ、というのはなんとなく腑に落ちるとして、一般的に「知」を、「人を知る」ことだと言われると、ん?と思いますね。案の定私たちと同様、凡才だったらしい樊遅も「未だ達せず」腑に落ちなかったとみえて、首を傾げたのでしょう。すると孔子はこう説明を加えます。

 直(なお)きを挙げて諸(これ)を枉(まが)れるに錯(お)けば、能く枉れる者をして直からしむ。

 正直者を引き立てて、不正直者の上におけば、不正直者を正直者にすることができる。(貝原茂樹・訳)
 
 樊遅はそれ以上問いただすのを憚って師のもとから引き下がったものの、まだしっくりこなかったようで、子夏に、先生はこう言われたが、どういう意味だろう?と尋ねます。秀才の子夏はそれを聞いて、師の言葉は何と示唆に富んだものだろうと感嘆し、それには史実の裏付けがあるのだと樊遅に説明してやります。
 舜帝の世に、大勢の中から欄で皐陶という(根のまっすぐな)者を(裁判官として)とりたてたので、悪者共は遠ざかった。また湯王の世にも、おおぜいの中から伊尹という(殷の時代に湯王とその子大甲の輔佐をした名臣)人物を引き立てたので、悪者共は遠ざかった、と。

 しかしいま私たちが孔子のこの言葉を聞くと、やっぱり樊遅と同様に首をかしげるでしょう。
 孔子の「知」は徂徠が言うようにつねに「人君」(君主)のまつりごとのありかたをめぐる実践的な意味を孕んでいて、単なる哲学的、道徳的な文言ではないのです。あくまでも人を治める上での「知」について彼は語っていることがわかります。そして、その「知」は、権力維持のための権謀術策の「知」ではなくて、あくまでも先王の「道」に即した「知」のありようです。言い換えれば「道」である「礼」にのっとり、「義」に沿ったまつりごとのありよう、孔子自らの挙げた例で言えば、根の曲がっていない、まっすぐな人間を、そうでないものより上に引き立てる、ということは礼の秩序にかない、義の道に沿った「知」のありようでしょう。正直なこと、まっすぐであることは、「徳」に属することで、こうした人々の良き性質(徳)を伸ばし、開花させていくことが、先王の立てた「道」のあるべき姿だったはずです。

 こうした解釈の一貫性、独創性において、徂徠は一頭地を抜く天才肌の学者だったようです。
 

saysei at 16:23|PermalinkComments(0)

2020年02月12日

友人への手紙~「選択」と「転換」について

 先日このブログに山本健吉の「芭蕉全発句」を読んだ(書写した)感想など書いたのに関連して、俳論を書き自身も句を詠む友人とメールで言葉を交わした折に、吉本さんの「言語にとって美とはなにか」でいう「韻律・選択・転換・喩」という方法が日本の文芸作品の(言語芸術としての価値を生み出すための)方法のすべてだ、という議論が正当だとすれば、俳句の五七五だって、この4つで読み解けるはずだ、というようなことを書いたのに対して、友人は、韻律(リズム)や喩というのは、俳句を論じるほかの評論家もよく言うことだし分かるけれど、「選択」と「転換」というのはよくわからんな、と言うので、昨日少し考えて返事を書いてみました。このブログに書いた感想から始まったやりとりなので、私の考えたことをここにも転載しておきます。言語表現に関心のあるかたや、吉本さんの思想に理解の深い方で、それは違うぜ、と考えられる方があれば、いつでもご意見歓迎します。

 件の友人はこのブログは読まないというか、なぜか彼のシステムで読めないんだとかで(ウェブサイトにつながるのに、そんなはずないだろうと思うのですが)読まないので、友人の返事がきても無断でここでご紹介はできないので、一方的に私の考えだけ転載することになりますが。(以下メールから)

 「選択」と「転換」がよくわからん、というので、具体的な句をそんなの(そんな概念装置)で読めるかどうか、ちょっと考えてみました。必ずしもうまく綺麗にはいかないけれど、私としてはこんな風にそのキーワードを理解しています、ということは伝わると思うので、午前中ちょっと考えていたことを書いてみることにします。忘れないうちに送りますね(笑)・・

 吉本さんのこの発想を理解する上では、彼が「言語にとって美とはなにか」を書こうとしていたころに読んで影響を受けた、三浦つとむの「日本語はどういう言語か」に戻ってみる方が分かりやすいと思うので、手元にあったのを確かめてみました。

 三浦つとむは「レーニンから疑え」で早くから、ロシア的マルクス主義を一貫して批判してきた独学のマルクス主義者で、私も吉本さん以前から読んでいましたが、彼のレーニン批判は非常にすぐれた先見的なものでした。

画

 「日本語とはどういう言語か」の中で、彼は添付ファイル(上図)のような二人の子供に同じ机を写生させた絵を示して、二つの絵のどこが違うか、と読者に問い、「A図(左図)は机の前側しか描いていないが、B図は机の上まで描いてある」、という答と、「子供の見方がちがう」という二つの答えができるでしょう、と易しく教えています。つまり、写生するには、描く子供と机とが現実に一定の関係を持たなければならない。作者は机に対して一定の位置を占めなければならない。そうして描かれた絵は、子供が意識しようとしまいと、対象としての机だけではなく、描いた子供自身の位置をも示すことになる、と。

 あたりまえのことですが、こういうのをコロンブスの卵というのでしょう。日本の近代文芸批評、いかなる表現論も、こうした自明ともいえる認識論をしっかりと基礎に据えた議論を展開しえないまま、党派的な議論や恣意的な印象批評に終始してきた、というのが「言語美」に着手した吉本さんの動機です。

 絵の方がわかりやすいから、啓蒙主義者としての文体を持っていた三浦つとむは、絵の例で説明して、「ちょっと考えると、写生されたり撮影されたりする相手についての表現と思われがちな絵画や写真は、実はそれと同時に作者の位置についての表現という性格をもそなえており、さらに作者の独自の見かたや感情などの表現さえも行われているという、複雑な構造をもち、しかもそれらが同一の画面に統一されているのです。」という風な語り方をしています。もうすこし硬質な表現で「絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現のきりはなすことのできない統一体」だと述べてもいます。

 ふつうに俳句などの意味をたどるというのは、上の例で言えば、机の前側しか見えていないか、机の上が描かれているか、という違い、つまり対象の在り方、客体的表現を中心にみていることになるでしょう。吉本流に言えば「指示表出」に沿って辿る、ということになります。

 しかし、それだと、たとえば俳句の五七五の「枠」を解いて散文に直して「意味」を辿ってみればわかるように、たいていは、「古い池があるよ、蛙が飛び込む水の音がきこえたよ」なんていう、恥ずかしいような何でもないことしか言われていないわけです。でもそういう句がなぜこちらの心を動かしたり、良い作品だと言われたりするのか、と考えると、それは対象性、三浦つとむのいう客体的表現、吉本さんの言う指示表出の面だけを見ていたらわからないわけで、先の絵で言えば、その対象をどういう位置で見ているか、もっといえば、どういう角度で、どういう思いを込めてみているか、ということまで含めて、対象を描く主体の側の主観性というのか、三浦つとむのいう主体的表現、吉本さんの自己表出を合わせてみて行かないと分からないわけです。

 ふつうはそれを、「古池や」と言えば、古池は対象をあらわす名詞だからただ対象の概念であって、「や」が詠嘆の助詞だから、詠嘆という主観をあらわす語だと考えるわけですが、ほんとうはそうじゃない。すでに「古池」という言葉でとらえようとした対象性の選択、ひらたくいえば描きたい場面を選んだこと自体に、単なる指示性だけで考えられない自己表出の面があるわけで、「古池」という表現自体が、そうした自己表出と指示表出、三浦のいう主体的表現と客体的表現の統一体ということになるでしょう。「や」というのはじゃ、何も指示しない助詞じゃないか、ということになるけれども、たしかにそれは指示表出≒0%、自己表出≒100%という、ちょうど名詞の指示表出≒100%、自己表出≒0%とは正反対の語ですが、それが直前の名刺「古池」につくことによって、その指示性を強めているわけですね。それが「や」という助詞がつくことで実現される「古池や」という言葉のリズムなのでしょう。吉本さんはリズムというのは指示表出に属すると言っていますが、私の理解はそういうことになります。

 こんなふうに、三浦つとむ→吉本さんの言語芸術論は、作品のことばをあくまでも「表現」として読もうとするもので、あたりまえのことだけれど、作品という以上は誰かがつくったわけで、その人の心の内が表現されたものですが、それが作品自体に外在化(対象化)されている、と考えるわけです。だから、先の絵のように、何かを見て描いている(言葉なら言葉で描いている)として、意味だけ(指示表出、客体的表現)を辿れば、単にそこに机の像があるだけだけれど、それは同時に、その机を見ている描き手の位置や視覚、描くときの想いが、描き手が意識しようがすまいが、その像自体に表現されているわけです。だから、その絵を理解する、ということは、描かれた対象性である机の像を、あぁ机だな、と認知するだけではなくて、そこに同時に対象化されている描き手の位置、視覚、内面を辿り、理解するのではなくてはならないはずです。

 そして、それは、作品を大雑把に読んでその印象から、描き手の内面を推測する、なんていうことではなくて、三浦の言う主体的表現というのは、その作品自体に体現されているわけですから、あくまでも作品そのものの色や形、描かれた角度と言った客観的要素の中にしか手掛かりはないし答えもない、ということですね。それは先の絵でいえば、描かれた机が前面しか見えていないか、机の上にあるものが見えているか、という絵そのものの違いの中に、描いた人の描いた位置や視覚という主観の側のありかたが対象化されているわけですから、恣意的な印象から曖昧な作者の心理なんてものをあれこれ推測することは一切要らないわけで、それをやりたいなら、作品自体に客観化されている主観をきちんと分析する以外に「作者」に到達する道はないわけです。

 「選択」というのは絵にせよ言葉にせよ描こうとする対象、場面の「選択」だし、「転換」というのは、そうして選んだ対象や場面から、別の対象や場面へ「転換」する表現意識の動きが、作品自体に対象化されたもの(契機)を指しているわけで、先の絵で言えば、机の絵なら机を前の側から見た、その対象たる机の像と、そういう描き方(見え方)をしている表現の位置や視角が、そのように絵に投影されていることを指して「選択」と言っているわけで、それが表現の「価値」を生み出す源泉のひとつなんですよ、ということでしょう。また、机をある角度から見ていたのを、別の角度から見て別の机の像を描いたり、あるいは机から視線を離して外の景色を見てそれを描いたとすれば、それは当然描かれた絵や言葉の中に、その視線を移した目に見えた像が描かれると同時に、その像のありかた自体が、描いた目の位置や視角が定着されているわけですから、初めの対象性から次のそうした対象性へ移ることをもって「転換」と呼んでいるのでしょう。そして、その「転換」もまた表現の付加価値を創り出す源泉だということですね。

 言語芸術で「転換」というと分かりにくいかもしれませんが、映画なんかだとものすごくわかりやすいのではないでしょうか。場面を選択するのは、文字通りカメラを向けてある場面を撮るとすれば、そうしてあるシーンを選ぶこと、あるフレームで現実を切り取ること自体が「選択」だし、そこからパッとカメラが動いて(いわゆるパンだとかティルトだとか、ズームインだとかズームアウトだとか)別の対象に移ったり、「カット」して別のショットを撮ったとすれば、それが「転換」ですよね。言語芸術だって、言葉でそういうことをしているわけで、俳句の切れ字なんてのは、映画の「カット」だと思えば、おおざっぱだけど、直観的にはいいんじゃないんでしょうか。俳句の初句と切れ字をはさんだ後段との対比の鋭利さが付加価値を生む例があるとすれば、それは映画のエイゼンシュテインのモンタージュ理論にぴったりですよね。

 理屈はこういうごく単純で、考えてみれば当たり前のことにすぎないので、納得されているのではないでしょうか。じゃそれで具体的な俳句について分析して見せてくれ、と言われるとなかなか厄介ですけどね(笑)。
 試しにやってみましょう。

 さっきも出した、ブログの時も最初に書いたと思う「古池や蛙飛びこむ水の音」という、誰もが知っている句でやってみましょうか。

 これはもともと「古池や蛙飛ンだる水の音」、「山吹や蛙飛込む水の音」と詠まれていたそうですね。まず「古池や」と「山吹や」では全然場面選択(対象性の選択、選択した対象)が違いますね。「古池」だと自分もその中あるいはその脇にあるひとつの環境というか、古池という言葉が醸し出す一つの雰囲気のうちにある、という対象性の選択だと言っていいでしょう。でも「山吹」だと、これは一定の距離感を持って山吹の花が咲いている光景を見ているという作者の位置がこの選択自体に表現されていると言っていいでしょう。もちろん詠嘆の「や」でいずれも或る感慨深さを表現しているけれど、作者がとらえている空間の広がりや対象に対する作者の位置、対象のとらえ方というのは明らかに異なっていて、その違いは「古池」が「古沼」になった時の違いや、「山吹」が「たんぽぽ」になった時の違いとは異なります。

 「古池や」と切れ字で切って、この句の表出意識は、視線を「蛙」に向けます。「古池や」という広がりを持った環界を五官で受け止めているところから、一挙に非常に具体的な「蛙」という個別の対象に視線が転換されます。この「古池」から「蛙」への転換は、対象性としての場面転換であると同時に、そうした「広(大)」から「狭(小)」への空間的な対象認知の転換、離れたものから近いものへ、普通に景物も見る視点から一挙に特定の個物にクローズアップで迫るようなズームインだと言えるでしょう。これが初句が「山吹や」なら、単に場面転換、単に視線を「山吹」という個物から「蛙」という個物へ移しただけ、ともいえるでしょう。転換には違い無いけれど、その意味合い、はらむ奥行きはずいぶん違ってきます。
 
 次に、「蛙飛び込む」は、「蛙」という客体的表現≒100%に近い対象性から、動詞「飛び込む」に転じることで、この「蛙」自体が客体的に距離を置いて見る視線の対象ではなくなって、見ている自分と蛙が一瞬で重ね合わされるような転換の効果を伴っています。「飛び込む」という動詞が、まさにそういう「自分が飛び込む」表出位置で発せられる自動詞だからです。

 ここで、「蛙飛び込む」と初案のひとつらしい「蛙飛ンだる」の違いです。「蛙飛び込む」という表現は、「飛び込む」という言葉によって、その主語の本来は詠み手に取って客観視さるべき客体物に過ぎない「蛙」が、詠み手自身と重なるような⒥表出位置へフィードバック的に転じる役割を果たし、詠み手が蛙になって自ら飛び込む、かのような、疑似主体的行為というのか、自分自身が水に飛び込む、という表出位置(表出意識)で発せられるようなダイナミズムを創り出します。
 それに対して「蛙飛ンだる」は、ただ蛙が飛んだのを傍で見ている距離をとった客観視の表出位置(表出意識)で発せられています。ここは当然前者の方がダイナミックな表現になり、勢いを感じさせる効果を生じるでしょう。

 蛙というのは春の季語でしょうが、春になって卵からかえった蛙が元気よく水に飛び込む生気を感じさせるような動的な契機が、蛙飛び込む水の音、という後段の表現にはあるようです。

 そうすると、初句の「古池や」という、古くから変わらない静かな雰囲気を持った環界を五官で感じ取っている表出意識に対して、後段の蛙君のアクションやそれに伴う水音は、逆にダイナミックな新しい春の蠢動を受け止め、表現しようとする表出意識と対照的で、切れ字を介したこの対照が、一種の異化効果ともいうべきものを生み出して、そういうダイナミックな蛙君のアクションや水音を際立たせるような静かな古池の空気にフィードバックされて一層その動きと音が強調され、またその古池の静けさが後段の蛙君の振る舞いとその結果によってひきたつ、という響き合いを生んでいるのだろう、と。この切れ字を介した前段と後段の対比がシャープであるほど、このモンタージュの生み出す付加価値が高いでしょう。

 ここまでくると、ただ芭蕉は古池の光景に打たれて古池を詠んだのであって、切れ字のあとの蛙君の行動を具体的に詠んだ部分はその全体が、初句の喩である、ということもできることになるでしょう。それはあくまでも、上に述べたような両者の響き合いによって、古池の静寂が増すほどに水音が高まるように思え、水音が高まればいよいよ古池の静寂が増す、という響き合いの内にあって、初めて実現する効果なのですが。

 以上、言うまでもないことですが、私もこんな分析的な理屈で俳句や和歌に感動するなんてことはありませんよ。文芸にせよ美術にせよ映画にせよ音楽にせよ、感動するのはただそうした種々の効果の結果としての作品に対してであって、享受者としての我々はもちろん、創り手自身も、作品の成り立ちを分析的に解き明かすなんてことは、普通はやらないし、知りもしないでしょう。

 ただ、ある芸術作品に人が(あるいは自分が)心を動かされるのはなぜなのか、という問いに、ちょうど子供の素朴な好奇心が、大人が当たり前と思って生きている中でやっていることをなぜ?と問うて大人が答えられないように、なぜだろう?と問うのもごく自然な人間のありようであって、印象批評にすぎない恣意的な評価を普遍的なもののように振り回す連中がこういうジャンル的な芸術表現に関しては特に多くて、とても「(文学)理論」なんて言えるようなものじゃない、と考えるから、吉本さんなどが、最終的におれはこう思ったんだ、わるいか!と居直るしかないような似非理論ではなくて、誰もがベースにできるような客観的な理論を言語芸術について作り出したいと思ったのでしょう。

 まぁ普通の文学者の類が、俺が一番よく理解してるんだ、なんて好き勝手なことを言うなら言わせておけばいいのだけれど、吉本さんが若いころは、おもにマルクス主義の悪しき影響を受けたプロレタリア文学系の連中や日共が、客観的な理論でも何でもないのに、政治的なイデオロギーのフィルターで作品を読んで、普遍性を装ってまっとうな作家や作品を攻撃したり、プレッシャーを掛けたりしていたから、そういう党派性から文芸を解放したかった、というのが直接的な動機づけになっていたのでしょう。

 いま読んでみると、ごく当たり前のことが、ちょっと古めかしい言葉で語られているのが、微笑ましい感じで、とてもよく理解できるように思います。でも本当にこういうことを理解した上で理論的展開をやっていくのではなくて、またぞろフランスから入ってきたニューフェイスの言説を借りて吉本はもう古いとか、ドゥルーズだ差異だ、なんて言ってる連中がいまの日本の思想や文芸の世界の「先生」みたいな顔して威張っているのだから、日本の人文系の知識人のありようは、鹿鳴館の時代からちっとも変わらないな、と思います。私自身はまだ文芸の理論で、吉本さんを超えるようなものに出合ったことがありません。新しがっている奴はいっぱいいるけど(笑)

 
 わたしの体の方は、あいかわらずガタガタなれど、なんとか生きております。今日は今週で唯一終日晴れる日だそうなので、少し長めの散歩をして、出町柳まで行って川べりの遊歩道を往復し、ベンチでひなたぼっこして帰ってきました。
 長男はいま入試で東京へ帰ったり、またこっちへ来たり、四月までは結構べったり家にいて科研費の共同研究をやっているようです。家にいるといっても、朝7時過ぎには出ていくし、夜は10時、11時に帰宅して入浴して寝るだけなので下宿人とかわりませんが、私のパートナーは安心なようだし、私に何かあっても長男がいてくれれば確かに心強いので助かっています。
 次男のほうは、このところ誰かの映画作りの手伝いでずっとどこかへ行って不在のようです。あまりどこへ行っていつ帰るとか、家族にも言わないタイプなので、われわれはもちろん、孫もママも、どこへ行ってるの?と聞いても「さぁ・・・」(笑)。でも帰ってきたときは、娘にべたべたの父親で、相手にされなくても可愛がっているようです。なかなか売れるような映画作家にはなってくれそうもないけどね。彼もまだ「パラサイト」に近いんだけど…(笑)


 ではでは、また少し暖かくなりましたら・・・


saysei at 13:19|PermalinkComments(0)

2020年02月05日

論語知らずの論語よみ ~つづきのつづき

 子路曰わく、衛の君、子を待ちて政を為さしむれば、子将に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。子路曰わく、是有るかな、子の迂なるや。奚(なん)ぞそれ正さん。子曰わく、野(や)なるかな由や。君子はその知らざる所に於いて蓋闕如(かつけつじょ)たり。名正しからざれば則ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば則ち刑罰中(あ)たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子これに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行なうべきなり。君子その言に於いて苟(いやし)くもする所なきのみ。[子路篇3]
 
 子路が言った。
 「衛の王が先生を引き留め、政をさせるなら、先生は何から着手しますか。」
 先生が言われた。
 「必ずや名を正そうとするだろう。」
 子路が言った。
 「これだからなぁ、先生の迂遠なことと言ったら。どうして名を正そうなどと?」
 先生が言われた。
 「 由(子路)はがさつだねぇ。君子は自分が分からないことは黙っているものだよ。名が正しくなければ言葉の筋道が通らない。言葉の筋道が通らなければ物事の筋道も通らない。物事の筋道が通らなければ礼楽の道も興りようがない。礼楽の道が興らなければ刑罰も適正を欠くようになる。刑罰が適正を欠けば人民は手足の置きどころもなくなってしまう。だから君子は名づけたら必ずその名のとおり言葉の筋道も立てるべきであり、言葉を立てれば必ずそのように事の筋道を立てて行うべきだ。君子はその言葉においていい加減にすることはないものだ。」

 今回論語を読み直して、一番興味深いと感じたのはこの孔子と子路との問答でした。
 以前読んだときは、背景について触れた訳注などはすっとばして、書き下し文やその現代語訳だけ一読して、「名を正さん」というようなところを、「名目を正しくしたいね」(貝塚茂樹)、「名称の整頓から始める」(吉川幸次郎)、「スローガンを正しくしなければならぬ」(宮崎市定)といった文言でやりすごしてしまっていたのです。

 しかし、ここは師に絶対的な畏敬の念をもってつき従っている子路が、なんと孔子の答えに対して「是有るかな、子の迂なるや(これだからなぁ、先生の迂遠なことと言ったら)」と、まるで孔子が世間知らずの単なる理屈屋であるみたいに、ほとんど馬鹿にしたような反発の仕方をしている点に異様なものを感じるべきだったでしょう。

 もとより直情径行の子路は、仁者とはどのような人物かと問うて孔子から、勇をもって義を貫く汝が如き人物とでも言ってほしいのに、自分がコントロールできて人に迷惑をかけない気配りのできる慎重な人物みたいなことを言われて大いに不満で次々に、それだけのことでいいんですかい?と反問するようなヤンチャなところのある弟子ですから、師の言葉に反発したり、不満顔に反問することは珍しくないけれど、ここは師の言葉がまわりくどい、という子路には子路なりの根拠があるわけです。

 子路はそのころ衛の孔家に仕えていたわけですが、その衛は国内がひどく乱れていたようです。国の乱れのもとは霊公の夫人南子というのがひどく淫乱な女性で、政にも口を出すので、公叔戍という者がまず彼女を排斥しようと企てるものの返って讒言され、失敗して魯国に逃げ、次いで霊公の子・蒯聵太子がこの義母南子を刺し殺そうとして、これまた失敗して晋国に亡命するというありさま。そうこうするうち霊公が死んでしまいます。

 霊公が亡くなって太子が逃亡していて不在なので、やむをえず蒯聵の幼い子、つまり霊公の孫にあたる輒を即位させて出公と称します。前太子蒯聵はこの混乱に乗じ、晋の助けでひそかに衛に戻って復権を謀ります。その衛では政界の大黒柱だった孔叔圉が亡くなって、その一子悝があとを継ぐものの、ここでも孔叔圉の未亡人で蒯聵の姉伯姫というのが、甥にあたる現衛侯輒よりも弟蒯聵に肩入れし、蒯聵は悝を公宮に脅して衛侯擁立を宣言させることに成功します。

 この政変の土壇場で公宮にかけつけた子路は、伯母伯姫や蒯聵にとらわれた悝を救おうと蒯聵らと対峙し、火をかけようとして逆に蒯聵の部下の剣士二人に殺されてしまうのですが、孔子との問答はおそらくその少し前、迂遠なことなどしていられない、せっぱつまった状況下にあった子路の言葉だったのでしょう。

 「名を正す」と孔子が言うのも、そういう子路の切羽詰まった状況下での問いに対する答えですから、修身道徳的な建前や形式的な規範を述べた言葉ではないでしょう。衛候の継承をめぐる現実の争いを背景に、孔子は誰が霊公の正統な後継者であるべきか、その実際に就くべき人とその名が一致し、名分が立つようにしなければ、政の基礎がゆらぎ、すべて筋道がとおらないことになってしまう、というのでしょう。

 結局は本来衛候たるべき太子でなく、霊公の孫の輒を立てて出公としたことが「名と実」の相反する事態になったもとであり、これを正さなければすべてがおさまるところへ収まらないじゃないか、ということでしょうか。現衛候出公に仕える子路としては、そう簡単に出公に対して譲位せよというわけにはいかないし、孔子の言う名実を一致させることが可能だとしても相当回り道をしないといけない、どちらかと言えば非現実的な言い分に思えたのかもしれません。

 ここで、貝塚茂樹さんの訳注だと、孔子は、蒯聵は霊公から追放されてはいるが父子の縁が切れてはいないので「出公は父である蒯聵に位を譲らねばならないと考えた」とし、「名を正さん」とはこのことをさしている、としています。

 しかし、朱熹の「論語集注」は、胡氏曰わく、とする引用の形で、もともと蒯聵が義母を殺そうとして失敗し、出奔したとき、霊公は末子の郢にあとを継がせようとしたのですが、郢が断り、霊公が亡くなった折にも夫人が郢を擁立しようとしたのに、郢が固辞したために、やむなく蒯聵の子輒を擁立した、と。そこで;

 夫れ蒯聵母を殺さんと欲し、罪を父に得て、輒国に拠りて以て父を拒む。皆な父を無みするの人なり。其の国を有(たも)つ可からざるや明らかなり。夫子政を為すに、名を正すを以て先と為す。必ず将に其の事の本末を具して、諸(これ)を天王に告げ、方伯に請い、公子郢に命じて之を立てんとす。


 蒯聵は義母を殺そうとして逃亡し、父霊公を拒んだのだし、その子輒は祖父を父と呼んで実父蒯聵を拒んで衛候となった。どちらも父をないがしろにするもので、国を治めるべき人物ではない。もし孔子が衛の政をするなら、まず名を正すことを先にするだろう。そして、公子郢を擁立するだろう、というのですね。

 「論語古義」の仁斎はこれを引いて、なるほど正論かもしれないが、人情の許すところではない、むしろ輒が誠意をもって孔子を迎え、己を虚しくして孔子に政を委ねれば「名を正す」ことができる、と言っています。
 
 なるほど蒯聵は義母を殺そうとして、父に背く形で国を出たわけですが、それをもって孝に反するといった道徳的な批判から、国を治めるにふさわしくない、とするのは、論語を修身道徳の思想のように解釈するに近く、朱子の系統にありそうなことだけれど、ここは個人道徳などより、いかに礼の道に即して民のために国を治めるか、というもともとの孔子の観点で、「名を正す」ことが第一義と考えれば、もともと霊公が後継ぎと決めて太子とした蒯聵が「実」であり、これが衛候の「名」と一致すべく出公に代わることが「名を正す」ことになるのではないか、と思います。彼が殺そうとした南子は、国の乱れる元を為すような女性だったようですから、なおさらです。

 それにしても、この孔子と子路の問答は、差し迫った政変を背景とする非常に現実的な選択を問うような厳しい問答で、緊迫感に満ちた対話だったというべきでしょう。常に現実の政治を通じて思想の実現を図ろうとしていた孔子とその弟子たちは、単なる口舌の徒とは異なり、自分たちもまた生きるか死ぬかのきわどい選択に関わる言葉を戦わせていたのだということがよくわかる一節だと思いま 

to be continued ・・・



saysei at 17:54|PermalinkComments(0)

2020年02月02日

旧陸軍被服支廠の活用

 今朝の日経新聞コラム「春秋」は、国会で、広島市内にある被爆建築「旧陸軍被服支廠」の保存についての質疑があったことに触れ、広島県が倉庫3棟のうち2棟を解体する方針だ伝えています。老朽化のため地震で倒壊するおそれがあり、耐震工事には巨費がかかるから、との理由だそうです。

 1931年(大正2年)に作られたこの老朽化して倉庫として使われていた歴史的建造物を再活用する方途については、別のブログ「幻の文化施設」で詳しく触れたように、広島県が赤レンガの壮麗な外観と構造を残しながら改修し、「瀬戸内海文化博物館」にするという構想を打ち出し、その具体的な中身に関して事実上のプロポーザル・コンペでアイディアを募ったとき、たまたま当時勤務していたシンクタンクの営業の一環で訪れた県の担当部局からこのことを聞いた私は、ただちに現地を見に行き、自分なりの企画提案書を書き上げて県に提出し、たしか競合する16社を差し置いて採用され、専門家・有識者の委員会で1年間検討して、ほぼ原案通りの基本構想をつくりあげたことがあります。
 →http://blog.livedoor.jp/saysei-culture/archives/30082715.html
  (「幻の文化施設 ~ 第15回 瀬戸内海文化博物館の構想 2019年08月20日)

 残念ながらこの構想は、私の提案で県が招聘した全国区ベースの専門家からは高い評価を受けたけれど、県内部の委員は「落下傘部隊」が持ち込んだ構想として消極的な姿勢が見られ、委員会として一応原案通り了承されたものの、ややしこりを残すような結果になり、かつ県担当部局による県議会議員の実力者らしい古株などへの根回しが十分できていなかったようで、知事が当時全国最年少知事という若さだったこともあって、事実上、一年でつぶされてしまい、次の基本計画段階まで進むことができませんでした。

 その後色々な再活用案が提案されてきたようですが、いずれも実現にいたらず、建物の老朽化だけが進んで、震度6程度の地震によって倒壊の恐れがあるということで、県として解体の方針を打ち出したようで、とりあえずは爆心地に最も近い1号棟の壁や屋根を補修し、2,3号棟は22年までに解体する、ということのようです。
  
 これに対して市民から、被爆施設として保存を求める声が出て、国の支援を求める質問が国会でなされたようです。衆議院の国会の議論の質問票を見ると、無所属の初鹿明博議員の質問が受理された記録がありましたが、中身は分かりませんでしたが、別途、サイト上に「被服支廠キャンペーン」というのがあって(https://note.com/hiroshima_0806/n/n4c56197671da)その1月24日付の記事によれば、公明党の斉藤鉄夫議員から、この被服支廠の解体について質問があり、被爆遺構の保存に国が支援すべきであり、平和学習の拠点として活用すべきだ、という趣旨のことが述べられています。

 安倍首相もこれに対して、県の議論を踏まえて国としても対処していく、といった趣旨の答弁をしたようです。

 広島県内でも、県議会の3会派が解体を急がないで決定を先送りして充分に検討するようにと要望したとか伝わっています。

 今朝の新聞が触れているように、この被服支廠の建物は、原爆投下時は、傷つき焼かれた市民が運び込まれた臨時の避難所のように使われたらしく、その様子を峠三吉は「倉庫の記録」という作品に描いています。→青空文庫 峠三吉「原爆詩集」   
 https://www.aozora.gr.jp/cards/001053/files/4963_16055.html

 その日
 いちめん蓮の葉が馬蹄型ばていがたに焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げて来た者たちが向きむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
 足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋そかいかおくの跡片付に出ていた女学校の下級生だが、顔から全身へかけての火傷や、赤チン、凝血ぎょうけつ、油薬ゆやく、繃帯ほうたいなどのために汚穢おわいな変貌をしてもの乞の老婆の群のよう。
 壁ぎわや太い柱の陰に桶おけや馬穴ばけつが汚物をいっぱい溜め、そこらに糞便をながし、骨を刺す異臭のなか
「助けて おとうちゃん たすけて
「みず 水だわ! ああうれしいうれしいわ
「五十銭! これが五十銭よ!
「のけて 足のとこの 死んだの のけて
 声はたかくほそくとめどもなく、すでに頭を犯されたものもあって半ばはもう動かぬ屍体だがとりのける人手もない。ときおり娘をさがす親が厳重な防空服装で入って来て、似た顔だちやもんぺの縞目しまめをおろおろとのぞいて廻る。それを知ると少女たちの声はひとしきり必死に水と助けを求める。
「おじさんミズ! ミズをくんできて!」
 髪のない、片目がひきつり全身むくみかけてきたむすめが柱のかげから半身を起し、へしゃげた水筒をさしあげふってみせ、いつまでもあきらめずにくり返していたが、やけどに水はいけないときかされているおとなは決してそれにとりあわなかったので、多くの少女は叫びつかれうらめしげに声をおとし、その子もやがて柱のかげに崩折くずおれる。
 灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声をこめて夜の闇にのまれてゆく。
 ・・・・・

 一度解体してしまえば、もうこの被爆建築はこの世から消えてしまい、やがて人々の記憶からも失われていくでしょう。アウシュビッツや長崎の礼拝堂や広島の原爆ドームと同じように、この施設は人間の負性の遺産として将来にわたって残し、常に記憶を新たにしていける契機であり続けるべきだと、私も思います。その意味では保存を、という市民に賛成です。

 しかし、そこで提案されているのが、単なる被爆遺構として、老朽化した建物を耐震工事をして残すだけ、あるいは何か他の原爆資料を展示する記念館のようなものとして残す、というやり方には、必ずしも賛成ではありません。確かにそれで、原爆ドームのようにそこを訪れる人を厳粛な気持ちにさせ、人間の犯す過ちについて内省するよすがにはなるかもしれないし、私が訪れた英国やドイツにもそうした破壊された教会を瓦礫とともにそのまま囲って保存した例に遭遇したことはありますし、そうした施設も必要だとは思うものの、被爆施設を全てそのような形で残していくことがベストかと言えば、私にはそれは疑問です。

 建物の外観や構造だけはしっかり残し、内部を全面的に改修して、まったく新たな現代的な機能を備えた施設としてつくりかえ、再活用する試みにチャレンジすることも、ひとつの選択肢ではないかと思います。

 広島と言えば原爆、というのはいまでは世界中に定着した都市イメージということになるでしょう。それはそれで世界平和への希求を現実化していく出発点として、核兵器廃絶や世界平和の実現に向けての精神的な拠り所となる広島の原像といっていいかもしれません。しかし広島という都市が未来永劫そうした一元的な都市像の内にとどまっていることが望ましとは思えません。原爆を経験した悲劇の都市であると同時に、そこから不死鳥のようによみがえり、未来へ力強く羽ばたいていく姿を示すような新たな都市像が形作られ、広島という都市に重なるイメージになっていくことが、より望ましいのではないかと思うのです。

 私の考えて「瀬戸内海文化博物館」はそのような広島の新たな都市像形成への契機となるような文化の発信源として構想されています。それは瀬戸内海を文明の通路(パサージュ)ととらえ、今残るレンガづくり高層の3棟を、それぞれ「水のパサージュ」、「火のパサージュ」、「風のパサージュ」と名付けた最新のミュージアムとして、瀬戸内海文化を世界に発信する計画でした。

 「水のパサージュ」は美術館の雰囲気を持つ美しい空間で、全天周型水槽を瀬戸内海の魚が泳ぎ、ガラス床の下の瀬戸内海模型で潮の流れや干満が見られる水族館です。
 「火のパサージュ」は工場あるいは古くは鍛冶屋さんの雰囲気を持つ活気に満ちた空間で、船の技術など瀬戸内海に関するあらゆる技術が体験できる産業技術史博物館です。
 「風のパサージュ」は劇場のように人間のドラマが演じられる生き生きとした空間で、生きた人=歴史の証人や街並み再現、映像技術を駆使した最新装置で歴史のドラマが体感できる歴史博物館です。

 こんな3つのミュージアムが100メートルほど直線状に、直列に並び、そのそれぞれの内部が街空間のように開かれ、天井からはガラスを通して陽光が差し込み、パリのパサージュのように明るいオシャレな空間となります。パサージュは、もともと貴族の邸宅を結ぶ回廊だった通路を改修したアーケード商店街で、生まれた当時は最新情報の発信源であり、流行の発信源ともなった場所です。

 そのパサージュのような素敵な内装と多彩な店のような展示装置がしつらえられた空間の魅力が人々を集め、現実の瀬戸内海の島々に設けたカメラによってリアルタイムで瀬戸内海を船が行く光景を館内に展開し、またこの博物館の様子を都心のブランチで公開する、情報的にも開かれた新しいタイプのミュージアムとして、広島の新たな都市像を世界に発信する、といったアイディアでした。

 いま県が解体すると言っているのは、耐震工事をするだけで1棟20億円かかるからということのようです。3棟で60億、もうひとつL字型の端の折れたところにある1棟は国の物らしいけれど、それも入れれば80億。たしかになにもポジティブなものを生み出さない耐震工事だけで60億、80億は大金でしょう。でも解体するにも1棟あたり8憶円かかるのだそうです。それで24億、ないし32億円ですか。それこそ跡形もなく歴史的遺産を消去してしまうのに24億、32億・・・

 私はここは、そんな消極的、否定的で何も新たな価値を生まないような投資をうるよりも、ずっと多くのコストがかかっても、逆転一発、将来にわたって、投資額の何倍も新たな価値を生み出すような投資をすべきではないか、と思います。

 しかし、バブル崩壊でいま全国どの都市でも、ハコモノは一種のタブーで、この種の新規投資で新たな価値を生むという発想は誰も怖気づいてできなくなってしまっているのが実情でしょう。特に首長やその下で働くお役人は議会から叩かれるから、とてもそんな思い切った将来へ向けてのヴィジョンを打ち出す勇気のあるような人はいません。議員たちも、ほんとうにチマチマしたことしかことしか考えず、誰も子供や孫の世代の将来まで展望して、なすべきことをなす、という覚悟がまるでありませんから、首長やお役人の中にマシな人が居て、せっかくいい提案をしても、これ幸いと足を引っ張って潰すことで自分たちの力を見せつけることができる、と思っているような連中ばかりで希望がありません。

 結局は広島県のこのせっかくの貴重な遺産も、金のないのを言い訳に消滅させられ、忘れられてしまうか、せいぜいあってもなくてもいいような、つまらないカビの生えた資料館みたいなものにされて人々に忘れ去られていくだけなのでしょう。広島に10年前後は暮らし、思春期を過ごした身としては、とても残念ですが、これも時の流れというのか、本当に時代の先を見据えて優れたヴィジョンを共有できるような人がいなくなってしまったこの時代の不幸とあきらめるしかないのでしょう。


saysei at 15:08|PermalinkComments(0)

2020年02月01日

論語知らずの論語読み~つづき

 昨日なぜいまごろになって論語を読もうなんて思ったのか、ちょっと書きましたが、今日から少し中身に入って見たいと思います。引用した論語の原文は長年親しんできた中公文庫の貝塚茂樹訳注による書き下し文です。

 君子は言(こと)に訥(とつ)にして、行ないに敏ならんことを欲す。(里仁篇24)

 司馬牛、仁を問う。子曰わく、仁者はその言や訒(じん)。曰わく、その言や訒、これこれを仁と謂うべきか。子曰わく、これを為すこと難し。これを言うに訒なることなきを得んや。(顔淵篇3)

 子曰わく、剛毅朴訥は仁に近し。(子路篇27)

 論語を初めて習ったころは、孔子と言えばなんだか修身の道徳にうるさい説教臭い老人という印象だったと思いますが、その後論語全体に目を通したり、白川静の「孔子伝」など読んで、孔子という人がただ書斎で自分が理想とした古き良き時代の祭祀、政など調べてその徳を弟子に説いていただけの老人でもなければ、実現しそうもない理想をこともあろうに春秋の乱世に空しく説いてまわって漂泊の旅をつづけただけの口舌の徒ではないことは分かりましたが、今回再読して、あらためて孔子が非常に行動的な人間で、積極的に政治に関わり、野心もあり、敵を追い落とそうともし、失敗して亡命せざるをえなかったり、襲撃されて殺されそうになっては九死に一生を得るような修羅場を潜り抜けてきた人だというのを、論語の記述からあらためて実感したように思いました。

 昔は、「仁」という孔子のキーワードともいうべき徳目と、「剛毅朴訥」というのとが、どうにもしっくり合わないような気がしていたのですが、彼自身が「魯の勇士の子で、武術のたしなみもあった」(貝塚茂樹の注)ような人物で、剛毅朴訥をよしとする行動的な人物であったようですし、彼が愛したのもそういう人物であったことがよくわかるようになりました。

 論語を読んで面白いと思うところのひとつに、孔子の弟子との付き合い方や彼のそれぞれの弟子に対する評価があります。彼が最も愛し、期待をかけ、自分の後継者とも思い定めた弟子は、言うまでもなく顔淵(顔回)でしょうし、彼に先立たれたときは天を仰いで嘆いたことが、繰り返し論語の中で描かれています。

 顔淵死す。子曰わく、噫(ああ)、天予(われ)を喪(ほろ)ぼせり。天予を喪ぼせり。(先進篇9)
 顔淵死す。子哭(こく)して慟(どう)す。従者曰わく、子慟せりと。子曰わく、慟するありしか、夫(か)の人の為に慟するに非ずして誰が為にか慟せん。(先進篇10)


 しかし、この優等生の顔淵は先生のおっしゃることを砂地に水がしみこむようにたちまち理解し、吸収してしまうことのできる優等生ではあったようですが、孔子はこんなつぶやきを漏らしてもいます。

 子曰わく、回や我を助くる者に非ず。吾が言に於いて説(よろこ)ばざる所なし。(先進篇4)

 顔回(顔淵)は私の学問の助けにはならない。私の話すことをそっくり喜んで聞いているばかりだから、というのですね。確かに他の個所で、他の弟子たちが時々孔子の言に納得できずに、それぞれでもこうじゃないですか?と反問してみたり、否定的なニュアンスで問い糺すようなところが少なからずみられますが、顔回にはほとんどそういうところがありません。

 私にも経験がありますが、自分の言うことにじっと耳を傾けて、ほんとに水が砂地に染みこんでいくみたいに、よくわかったという納得と時には感動をおぼえたかのような面持ちで聞き入ってくれて、実際わかってくれているかな、と確かめてみても、よく理解してくれている、そういう優等生に出合うことがまれにあります。
 もちろんそれは理解してもらえて嬉しいけれども、さてそれでこちらに何か進歩があるかというと、ただ一方的に教えた、伝えた、という満足感があるだけで、私自身はなにもそのことから触発されるということがありません。

 これに対して、少々このやろう!生意気な奴め、と思うくらい、あれこれ反発したり、まっこうから、でもこうじゃないですか?とつっかかってくるやつは、つまらない揚げ足取りや最初からこちらを嫌っていて反発しているだけというようなのでない限り、手ごたえがあって応じ甲斐がある、というようなケースも稀にあります。
 その時はかなり激しいやりとりになって、あいつはちっともわかってねぇじゃん、と思うこともあるけれど、あとで考えてみると、あいつの言うところにも一理あるな、と自分の主張の弱点に思い至り、考えを修正したり、深めたりする、良いきっかけになることが少なくありません。

 顔淵は、一を聞いて十をさとるほど、師の言葉を理解することにかけては並ぶ者のない大秀才だったけれど、師に挑み、師を触発し、師を変える契機となるようなクリエイティブな能動性というのはなくて、孔子も「欲を言えば」ではあっても、物足りないところがあったのかもしれません。

 孔子の弟子で顔淵なきあと二番手の秀才と言えば、学問もでき、辯も立ち、その上商売も上手な子貢だったでしょうが、次のような孔子の子貢評を聴くと笑ってしまいます。孔子が他の弟子を君子だとほめるのを聞いて、自分こそ君子だよと言ってもらいたくて割ってはいった自信家の子貢です。

 子貢、問いて曰わく、賜(し)や何如(いかん)。子曰わく、汝は器(うつわ)なり。曰わく、何の器ぞや。曰わく。瑚璉(これん)なり。(公冶長篇4)

 子貢がたずねた。
 「わたくしはいかがでしょう。」
 先生がこたえられた。
 「おまえは器(うつわ)だ」
 子貢がまたたずねた。
 「どんな器でしょうか」
 先生がこたえられた。
 「宗廟(おたまや)のお供えを盛る瑚璉の器だよ」

 良く知られているように、論語の別の個所で孔子は次のように語っているのです。

 子曰わく、君子は器(うつわ)ならず。(為政篇12)

 これじゃ秀才子貢も形無しですね。それで、まあ器の中では最高品質の器だよ、と言ってやったのでしょうけれど・・・。

 一方、子路はこういう人物だったといいます。

 子路、聞けることありて、未だ行なう能わざれば、唯、聞くあらんことを恐る。(公冶長篇14)

 「子路は、先生から聞いた教訓がまだ実行できない間は、さらに新しい教訓を聞くことをたいへんこわがった」というのですね。孔子からこうすべきと教えられたら直ちにひたむきにそれを実行しようと努め、それがまだ自分には十分にできない、と思っているときには、次の教えを聞くことさえおそれた、と。それくらい直情径行型の実践派、行動派だったわけで、実践を重んじた孔子門下でもこの点で子路に勝るものはいなかったようです。

 こうした子路の性格を、孔子はいつも何かとてつもないことをやらかすんじゃないかハラハラしながらもこよなく愛していたと思われます。弟子の中でだれが一番かわいかったか、と言えば、疑いもなく子路だろうと思います。いつも孔子の傍にいて、孔子の教えを忠実にすぐさま実行しようというのが子路という愛弟子でした。


 子曰わく、道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由か。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由は勇を好むこと我に過ぎたり。材を取るところなからん。」(公冶長篇7)

 孔子が、自分の理想は実現しそうもないし、いっそいかだに乗って東の海上にでも逃れ出ようか、とぼやいたわけですね。ついてくるのは由(子路)よ、おまえだろうかな、と。
 ひたすら師を慕う愛弟子としてはその師にこんなことを言われて喜ばないはずはありませんよね。孔子としてはほんの冗談半分のぼやきだったでしょうから、それを言うのに、冗談だよ、なんて興ざめなことを言わずに、お前は確かに勇敢なのは私より上だけど、はていかだを組むのに必要な材木の調達ができるかな?と、多分笑って返したのでしょう。

 このように孔子は子路の勇敢さ、直情径行の行動力を高く評価しながら、他方ではハラハラと危惧して見守っていたのだと思います。

 剛毅朴訥は仁に近し、とか、君子は口下手でもいいから、迅速に行動できないと、とか言っていた孔子が、剛毅朴訥で行動に躊躇しない子路に対して仁を説くときには、少々異なるニュアンスの答え方をしています。

 子路、君子を問う、子曰わく、己れを脩(おさ)めて以て敬す。曰わく、斯くの如きのみか。曰わく、己れを脩めて以て人を休んず。曰わく、斯くの如きのみか。曰わく、己れを脩めて以て百姓(ひゃくせい)を安んず、己れを脩めて以て百姓を安んずるは、堯舜もそれ猶諸(これ)を病めり。
(憲問篇44) 

 子路が君子の心得をたずねたら、孔子は剛毅朴訥であることだ、とも口下手でもいいからすぐ実践できる人物だとも答えずに、「自分の行ないを正しくして、慎み深くすることだ」と、むしろ自分の行動を理性的に制御できることを条件として挙げたわけですね。
  
 当然子路は不満なので、それだけでいいんですか?と反問します。するとまた孔子は「自分の行ないを正しくして、仲間の君子の人々を安心させること」だと同様の答えかたをします。まるで直情径行は駄目よ、良く自制して周囲の人たちに配慮し、それらの人々が安心し信頼できるような行動がとれなくちゃね、というかのようです。

 当然子路は面白くありませんわね。「それだけの事でいいんですか?」と反問します。最後の孔子はそうした自制的な行動のありようがなぜ必要なのかを、周囲の人々から広く人民一般にまで広げて、孔子たちの理想とする堯舜の聖人にとってもそれはなかなか困難なことだったんだから、そう簡単じゃないんだよ、と子路も納得できるような着地点へもっていきます。実に巧みな導きかただと思います。

 こうやって、弟子の性格に応じて、長所を誉め伸ばすと同時に、欠点をよくわかっていて、そこに自ら気づくようにもっていく応答の様子は、論語のような断片的な言葉の集合でも、ちゃんとうかがうことができます。孔子の教育者としての素晴らしい資質が活写されていて、手に取るようにわかります。


 柴は愚、参は魯、師は辟(かざ)り、由は喭(いや)し。(先進篇18)

 子羔(しこう)は愚直、曽子は遅鈍、子張は誇張、子路は粗暴。・・・と手厳しい評ですが、孔子が直接言ったことかどうかは不明らしいけれど、こんな言葉が論語に残されています。孔子の率直な弟子評として当たらずと雖も遠からずといったところだったのでしょう。
 これで行くと、のちに曽子、曽先生と呼ばれて数少ない「子」扱いで論語にも登場する曽参も、形無しです。


 閔子騫(びんしけん)、側(かたわ)らに侍す。誾誾(ぎんぎん)如(じょ)たり。子路は行行(こうこう)如たり、冉子(ぜんし)と子貢(しこう)とは侃侃(かんかん)如たり。子楽しむ。曰わく、由の若(ごと)きはその死を得じ。(先進篇13)

 閔子騫らが孔子の傍に座っていた。閔子騫のさまはほどがよい。子路のさまはぎしぎししている。冉子と子貢とはなごやかにしている。孔子はいかにも楽しげだが、こう言われた。「子路のような態度では、天寿をまっとうすることはできまい。」

 はたして直情径行、行動の人、武勇の士であった子路は、紀元前480年、衛国で高官にとりたてられたものの、衛の太子の反乱を諫めたおりの言動に激怒した太子の家臣の投げた戈によって非業の死を遂げます。その遺体は塩漬けにされ、晒しものにされたそうで、孔子はそれを聞いて悲しみ、家の塩漬けの肉をみな捨てさせたと言います。


   孔子が弟子たちと楽しく語らう素敵な場面が先進篇にあります。子路、曽哲、冉有、公西華の3人が孔子の傍に座しているとき、孔子が言います。「私が年長だからと言って今日は少しも遠慮はいらない。諸君は平生『自分たちはちっとも認められない』と不平を言っているが、もしだれか諸君たちを認める者があるとしたら、いったい何をやるつもりか聞かせてほしいね」(貝塚茂樹訳。以下同じ)と。

 まず子路が言います。「千台の戦車の兵力を持った並みの国家が、大国の間に挟まり、その侵略を受け、おまけに飢饉がおこったとします。わたくしにその国の政治を担当させたら、三年間のうちに、勇敢で責任感のある国民に仕立ててみせます」。

 孔子はただ微笑して、次に冉有を促します。

 「わたくしの対象とするのは、方六、七十里か、方五、六十里の小国です。わたくしがその政治を担当しましたら、二年間で国民の生活を満足なものにしてやれましょう。礼・楽など文化的な面は、りっぱなかたがたが控えていられますから、その方々にお願いします」

 孔子はつづいて公西華を促します。公西華は、「これから申し上げることは、やりおおせる自信があるわけではありません。学んでそうしたいだけなのです。」と謙遜しながら「国のご祖先の廟のお祭や、外国の殿さまとご会合なさる席で、玄端(げんたん)の服をつけ、章甫の冠をいただき、儀式の進行係になりたいと願っているのです」

 ここで玄端とは赤黒色の礼服、章甫は礼式の冠だそうです。今の私たちから見れば、公西華は古きよき時代から伝わる礼を重んじる孔子の立場に即した優等生らしい答えなんでしょうけれど、つまらねえやつだな(笑)、ということになりますよね。

 冉有もなんか器がちまちましていそうだな、と。

 それに比べれば子路は勇ましいし、孔子一門が単に修身道徳の喧伝者などではなく、一国の政治・軍事を左右し、その興亡に関わる生々しい活動をする連中だったことを示していて、興味深いところがあります。

 しかし、子路の勇ましい言葉に、いかにも直情径行の武人的資質旺盛な子路らしいヴィジョンだと微笑しながらも、最後に曽哲に「先生はなぜ子路のことばを笑われたのですか」と訊かれて、「国家を治めるには、礼によらねばならない。子路の発言には、謙譲が欠けていた。そこで笑ったのだ。」と答えています。冉有や公西華の言葉にも寸評的な感想を述べるのですが、孔子は曽哲の語った夢に共感を示しています。

 おまえはどうするね?と訊かれた曽哲は瑟(こと)を爪弾いていましたが、ひざの上の瑟をぶるんといわせて下に置いてから立ち上がり、かしこまって答えます。

 曰わく、暮春には、春服既に成り、冠者五六人・童子六七人を得て、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう)に風(ふう)し、詠じて帰らん。先進篇26)

 (春の終わりごろ、春の晴れ着もすっかり仕立てあがって、冠をかぶった大人の従者五、六人、未成年の従者六、七人をうちつれ、沂水(きすい)でみそぎし、そこの雨乞い台で舞を舞わせてから、歌を口ずさみながら帰ってまいりたいものだと存じます)

 これを聞いて孔子は、「喟然(きぜん)として歎じて曰わく、吾は点に与(くみ)せん。」(ううん、とうなって、感心していわれた。わたしは曽哲に賛成だ。)と言ったそうです。

 ここで孔子が求めていたのは建前としての当為ではなくて、各自の情感にフィットしたホンネともいうべき、こんなことをやってみたいな、という夢、それぞれのものの考え方の根っこにある、感性に根差したヴィジョンのようなものだったのでしょう。

 曽哲の描いて見せた光景は、暮春の頃、新しい春服を着て、従者と童子を連れて曲阜(孔子たちの居所)の郊外を流れる沂水の澄み切った流れに浴して身を清め、城門の脇の雨乞いの壇で舞を舞わせる、そんな牧歌的な光景で、国家を論じ政争に巻き込まれて休む暇もなかった孔子には、ほっとするような光景であったかもしれません。

 訳注の貝塚さんは、ここで孔子は曽哲の意見に賛成することで、「人生の目的は幸福を求めることにあるとしたのである」と言い、その幸福とは「もちろん永久的で、できるだけ多数の人間とともにする幸福」であって、「孔子の道徳は、こういう幸福論によって基礎づけられていたとみてよかろう」、としています。しかし、孔子の普遍的な幸福観がそこにあるというよりも、その時の孔子の心境がこのような曽哲の描いて見せた牧歌的な光景に惹かれるものだったと考える方がよさそうに思いますがどうでしょうか。

 いずれにせよ、自分を師と敬い慕う弟子たちに囲まれてほっと一息つく感じで安らぐ、孔子の幸せな時間であったことは間違いないでしょう。この部分の原文は、貝塚さんによれば、論語第一の名文といわれているそうです。それはもちろん私にはわかりませんが、なにかほっとするような孔子の幸せな時間の印象が伝わってくるような場面で、私も論語全体の中で大好きな場面のひとつです。

to be continued ・・・
 
 

 

saysei at 14:41|PermalinkComments(0)
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