2020年01月
2020年01月31日
論語知らずの論語読み
昨日孫が夕食に来たとき話していて、国語の時間は嫌い、というので、どんなことを習っているのか聞くと、太宰の「走れメロス」を読んでいる、と言います。じゃ面白いじゃないの?と言うと、う~ん、先生が・・・と(笑)。
先生自身が「走れメロス」を朗読してくださるそうなので、きっと太宰のあの話体のリズムを聞かせてやろうと思われたんだろうな、と思いましたが、どうやら先生の想いは生徒さんたちにはうまく伝わらなかったようで「みんなほとんど寝てた」(笑)そうで、残念なことです。
実は先日、古いノートやファイルを整理していて、次男が中学生のころ、サッカー仲間の数人と、土曜の夜に親に頼まれて英語の初歩を教えるということで、引き受けはしたものの、受験勉強はしませんよ、という条件で、半分は私の好きなように、イギリスの生活文化のことを色々喋ったり、それにちなんでパートナーにスコーンを焼いてもらったり、子供たちもむしろ勉強のあとのティータイムを楽しみに来るようなことを中学、高校とひきつづき5-6年続けたことがありましたが、そのとき私自身がつくっていたノートが古いファイルの間から出てきました。
その中に、論語を読ませていたとき切り貼りしていたところがあって、懐かしく目を通すうちに、もう一回論語を最初から最後までしっかり読んでみたくなって、ここ数日、貝塚茂樹さんの訳注による中公文庫版の論語ばかり読んで、最初から最後まで、今までになくじっくり読むことができました。めちゃくちゃ面白かったです。これがざっとでも通読したのは3度目。最初は学生の頃、教養主義的に。2度目が次男たちに教えていたころ、注釈書なども参照しながら楽しんで。3度目が今回でした。
中学生たちに教えていたときも、白文をプリントして、読み下しさせる寺子屋式で、意味がわかってもわからなくても、まず繰り返し音読させてみる、というようなやりかたで、意味はあっさりと教え、そのかわり、朱熹の「論語集注」と、仁斎の「論語古義」、それに徂徠の「論語徴」の解釈をつきあわせて話してやって面白がるようなことをしていたのです。集注だけは訳本が手に入らなくて、中国の本を売ってる店で原文のを買ってきて、わかってもわからなくても、論語の今読んでいる文章とつきあわせて読むと、旧漢字だから、朱熹の言いたいことのおよそは理解できるので、そんな荒っぽいやり方で仁斎や徂徠が朱熹のどこが気に入らなくてどんな新解釈をしたのか、楽しみながら解いていったのです。
中学生の彼らにはまだ無理かな、という気がしないでもなかったし、事実9割がたはスルーしてしまったと思うけれど(笑)、やっているうちに、例えば原典の或る言葉に対する三者の解釈を話して、なぜ徂徠はこんなふうに朱子の解釈を批判しているのか、仁斎はなぜこういう批判をしているのだろうか、と訊くと、それ以上解説しないのに、彼らから、非常に的確な答えが返ってきて、こちらが驚くようなこともありました。
何回かそういうやり方をして話してやっているうちに、仁斎って人はこういう考え方をするんだな、徂徠という人はこういう考え方をする人だな、というのが彼らにも自然にわかるようになって、新しい章句を読んでも、その観点から読めるようになっていたんだな、とこちらが面白い発見をして楽しんだのを記憶しています。
いま読んでも、私が中学の頃から習った漢文なども、そんなふうに、朱熹はこう解釈しているけれど、仁斎はこう、徂徠はこうだ、君らはどれがいいと思う?・・・なんて訊いてくれてたら、どんなに面白かったか、と少々残念な気がします。
及ばずながら、自分が中高生のころ、こんなふうにやってくれれば少しは面白いと思ったかも、というやり方を次男たちに試みてみたわけです。むろんほとんどはスルーしてしまったと思うし、仁斎だ徂徠だなんてのはすっかり記憶の彼方だと思うけれど、そのときほんのわずかでも何か感じたり考えたりしていたとすれば、それはそれだけで意味があったんじゃないか、と思っています。
私の出た中高一貫校は進学校だったせいか、あるいはもともと藩校の流れを汲み、校祖をたどれば幕末の儒者に行きつくような伝統を持つ学校だったせいか、中学3年から漢文の授業があって、高校に上がってもそのままテキストの第1巻から第2巻、第3巻と進んで、わりとしっかり漢文を学ぶ機会があったのです。
私はもともと国語の授業は現代国語も古文も漢文も嫌いではなく、断片的な文章ではあっても古来の名文が並ぶコンテンツに触れるのは楽しい体験でした。
教科書で読んだリルケの若い詩人たちへの手紙や、高村光太郎の智恵子抄や、芥川龍之介の「鼻」や中島敦の「山月記」などは今でも強い印象を残しています。
漢文で最初に触れたのは、朱熹の「偶成」でした。あの「少年老い易く學成り難し」です。
これは漢文の授業ではなく、現代国語の時間に、退職間際だった清水先生という老先生が、中学一年生の一番最初の時間に、いきなり黒板にすらすらと書いて、教えてくださったのです。
たぶん当時の私の同期、300人前後の生徒は全員同じ時に同じように習っているはずで、たしか暗唱させられたはずですから、ひょっとすると300人全員、この詩を今でも暗唱できるのではないでしょうか。
中学に入って初めての授業で、いきなり初めての漢詩、それを本当に血肉化された言葉で、情熱をもって教えてくれた先生のことは、ほんとうにわずか一瞬の触れ合いといっていいような関係だったけれど、強烈な印象を残していて、同窓会でたまにこのことを話してもみんなちゃんと覚えています。これはつねに私にとって、教育とは何か、ということをあらためて考えさせるに足るできごとでありつづけてきました。
いまおそらくは当時の清水先生の年齢を超えた自分があの詩を暗唱してみるとき、あれをこれから人生へ踏み出す、右も左もわからない中学1年坊主に、いっとう最初に手向けのように語ってくれた先生の胸の内が実感としてわかるように想えて、ほとんど泣かずにはいられないほどです。
別の先生に習った正規の漢文の授業では、開隆堂というところが出した精選漢文読本という、全部で3冊のテキストに沿って教えていただきました。ほとんどが返り点をつけた漢文を読み下し、現代語に訳すというのか、解釈する、というだけの授業だったので、最初は物珍しくて興味がなくもなかったのに、だんだんといわゆる「サンモン」、読下し文も語釈も載っている虎の巻を写してくるだけのことになってしまいました。
それでも、今も覚えているのは、長恨歌や赤壁賦、項羽本紀などといったあたりで、それらは漢文というより、その内容に惹かれて印象に残っているのだろうと思います。特に長恨歌はそのロマンチシズムと悲劇性が好みに合ったせいか、繰り返し読んだのを覚えています。
残念ながら論語は当時の私には修身の教科書みたいな雰囲気しか感じ取れなくて、よく知られた言葉は自然記憶に残っていたものの、心動かされることはありませんでした。それよりは老荘、諸子百家の方が断片でも面白いと思って聞いていました。荘周夢に胡蝶と為る、などは大好きでした。
ちょうどそのあたりを習っていたとき、たまたまよその学校の生徒が見学に来るということがあって、男子校の私たちの教室の後ろへ何人もの女子生徒が入ってきて授業の様子を聞きに来ていました。当然私たちは後が気がかりで、先生の講義なんかまともに耳に入るはずがありません。
運悪くそんなときに、先生が私をあてます。
誰たらは内なる自己と外にある世間の評価が無関係だと知っていて、世間の評価にわずらわされることがない、しかしまだ彼は自己の立場を確立しているとはいえないところがある、と。これに比して、かの列子は風に乗って飄々と遊び、いかにも楽しげであって、わが身に幸福をもたらすものについて何の関心もいだくことがない。だから列氏は「行くを免ると雖も、猶待つところ有るものなり。もしそれ天地の正に乗じ、六気の辨を御し、以て無窮に遊ぶ者、彼まさにいづくにか待たんや。」・・・
「ここを訳してみぃ!」と言われて、私は虎の巻で見た通りの訳を機械的に答えて着席します。
「こりゃ!誰が座ってええ言うた?まだこれからじゃ!」・・・
どうやら先生は私が教室の後ばかりに気をとられて、授業を聞いてなかったことをご存じの上で、参観の女生徒たちの前で恥をかかせようとしているな、と気がつきました。しぶしぶ立ち上がって待ちますと、「その顔はなんじゃ?」と一喝したあと、
「ここんところ、” 行くを免ると雖も、猶待つところ有るものなり” というのはどういうことじゃ? "・・と雖も、猶・・" というのは、列氏はこうじゃが、まだ至らんとこがある、ちゅうことじゃろ?そりゃ、なしてなら?なにがまだ至らんというのか。」
う~ん、まともに読みさえせずに虎の巻の訳文だけ写していた、それらしきあたりの文言をあらためてちょっと見たけれど、どうせわかりそうもないや・・・とすぐに「わかりません」と座ろうとすると、「待て、考えもせんと分からん言うな。ちぃたぁ考えてみんか。」
しぶしぶちょっと考えてみたけれど、やっぱりわからないや、と思っていると、
「わからんか・・・〇〇〇〇〇わかると思うたがのぉ」
・・・と(〇〇は伏字にしておきますが・・・笑)こちらがちょっとムカッとして意地を張りたくなるような嫌味を言われたので、クソッとはぶてながら座りかけたら、ふっと思いついて、なんだそういうことか、というので答えたらアタリでした。
先生は「そうじゃ、そのとおりじゃ。ちぃと考えりゃわかるじゃないか。横着するな!」
はいはい、可愛らしい女子生徒らの前で、よくまぁ恥をかかせてくれましたよ、と思いながらようやく腰を下ろしたのでした。
まぁこういうよくも悪しくも思い出がいっぱい詰まったテキストではあったせいでしょうか、この漢文のテキスト3冊だけは、ボロボロになりながらも、60年前後たった今も私の手元に残っています。もちろん学校の教科書類で残っているものなど、小学校から大学まで含めて他には一冊もないのですが。
きょうは前書きで終わりましたが(笑)、ほんとはこの数日読みふけった論語について、論語知らずのド素人の目で論語読みしてみたかったのです。きょうは序説(笑)ってことで、次回から本論にはいります。
先生自身が「走れメロス」を朗読してくださるそうなので、きっと太宰のあの話体のリズムを聞かせてやろうと思われたんだろうな、と思いましたが、どうやら先生の想いは生徒さんたちにはうまく伝わらなかったようで「みんなほとんど寝てた」(笑)そうで、残念なことです。
実は先日、古いノートやファイルを整理していて、次男が中学生のころ、サッカー仲間の数人と、土曜の夜に親に頼まれて英語の初歩を教えるということで、引き受けはしたものの、受験勉強はしませんよ、という条件で、半分は私の好きなように、イギリスの生活文化のことを色々喋ったり、それにちなんでパートナーにスコーンを焼いてもらったり、子供たちもむしろ勉強のあとのティータイムを楽しみに来るようなことを中学、高校とひきつづき5-6年続けたことがありましたが、そのとき私自身がつくっていたノートが古いファイルの間から出てきました。
その中に、論語を読ませていたとき切り貼りしていたところがあって、懐かしく目を通すうちに、もう一回論語を最初から最後までしっかり読んでみたくなって、ここ数日、貝塚茂樹さんの訳注による中公文庫版の論語ばかり読んで、最初から最後まで、今までになくじっくり読むことができました。めちゃくちゃ面白かったです。これがざっとでも通読したのは3度目。最初は学生の頃、教養主義的に。2度目が次男たちに教えていたころ、注釈書なども参照しながら楽しんで。3度目が今回でした。
中学生たちに教えていたときも、白文をプリントして、読み下しさせる寺子屋式で、意味がわかってもわからなくても、まず繰り返し音読させてみる、というようなやりかたで、意味はあっさりと教え、そのかわり、朱熹の「論語集注」と、仁斎の「論語古義」、それに徂徠の「論語徴」の解釈をつきあわせて話してやって面白がるようなことをしていたのです。集注だけは訳本が手に入らなくて、中国の本を売ってる店で原文のを買ってきて、わかってもわからなくても、論語の今読んでいる文章とつきあわせて読むと、旧漢字だから、朱熹の言いたいことのおよそは理解できるので、そんな荒っぽいやり方で仁斎や徂徠が朱熹のどこが気に入らなくてどんな新解釈をしたのか、楽しみながら解いていったのです。
中学生の彼らにはまだ無理かな、という気がしないでもなかったし、事実9割がたはスルーしてしまったと思うけれど(笑)、やっているうちに、例えば原典の或る言葉に対する三者の解釈を話して、なぜ徂徠はこんなふうに朱子の解釈を批判しているのか、仁斎はなぜこういう批判をしているのだろうか、と訊くと、それ以上解説しないのに、彼らから、非常に的確な答えが返ってきて、こちらが驚くようなこともありました。
何回かそういうやり方をして話してやっているうちに、仁斎って人はこういう考え方をするんだな、徂徠という人はこういう考え方をする人だな、というのが彼らにも自然にわかるようになって、新しい章句を読んでも、その観点から読めるようになっていたんだな、とこちらが面白い発見をして楽しんだのを記憶しています。
いま読んでも、私が中学の頃から習った漢文なども、そんなふうに、朱熹はこう解釈しているけれど、仁斎はこう、徂徠はこうだ、君らはどれがいいと思う?・・・なんて訊いてくれてたら、どんなに面白かったか、と少々残念な気がします。
及ばずながら、自分が中高生のころ、こんなふうにやってくれれば少しは面白いと思ったかも、というやり方を次男たちに試みてみたわけです。むろんほとんどはスルーしてしまったと思うし、仁斎だ徂徠だなんてのはすっかり記憶の彼方だと思うけれど、そのときほんのわずかでも何か感じたり考えたりしていたとすれば、それはそれだけで意味があったんじゃないか、と思っています。
私の出た中高一貫校は進学校だったせいか、あるいはもともと藩校の流れを汲み、校祖をたどれば幕末の儒者に行きつくような伝統を持つ学校だったせいか、中学3年から漢文の授業があって、高校に上がってもそのままテキストの第1巻から第2巻、第3巻と進んで、わりとしっかり漢文を学ぶ機会があったのです。
私はもともと国語の授業は現代国語も古文も漢文も嫌いではなく、断片的な文章ではあっても古来の名文が並ぶコンテンツに触れるのは楽しい体験でした。
教科書で読んだリルケの若い詩人たちへの手紙や、高村光太郎の智恵子抄や、芥川龍之介の「鼻」や中島敦の「山月記」などは今でも強い印象を残しています。
漢文で最初に触れたのは、朱熹の「偶成」でした。あの「少年老い易く學成り難し」です。
これは漢文の授業ではなく、現代国語の時間に、退職間際だった清水先生という老先生が、中学一年生の一番最初の時間に、いきなり黒板にすらすらと書いて、教えてくださったのです。
たぶん当時の私の同期、300人前後の生徒は全員同じ時に同じように習っているはずで、たしか暗唱させられたはずですから、ひょっとすると300人全員、この詩を今でも暗唱できるのではないでしょうか。
中学に入って初めての授業で、いきなり初めての漢詩、それを本当に血肉化された言葉で、情熱をもって教えてくれた先生のことは、ほんとうにわずか一瞬の触れ合いといっていいような関係だったけれど、強烈な印象を残していて、同窓会でたまにこのことを話してもみんなちゃんと覚えています。これはつねに私にとって、教育とは何か、ということをあらためて考えさせるに足るできごとでありつづけてきました。
いまおそらくは当時の清水先生の年齢を超えた自分があの詩を暗唱してみるとき、あれをこれから人生へ踏み出す、右も左もわからない中学1年坊主に、いっとう最初に手向けのように語ってくれた先生の胸の内が実感としてわかるように想えて、ほとんど泣かずにはいられないほどです。
別の先生に習った正規の漢文の授業では、開隆堂というところが出した精選漢文読本という、全部で3冊のテキストに沿って教えていただきました。ほとんどが返り点をつけた漢文を読み下し、現代語に訳すというのか、解釈する、というだけの授業だったので、最初は物珍しくて興味がなくもなかったのに、だんだんといわゆる「サンモン」、読下し文も語釈も載っている虎の巻を写してくるだけのことになってしまいました。
それでも、今も覚えているのは、長恨歌や赤壁賦、項羽本紀などといったあたりで、それらは漢文というより、その内容に惹かれて印象に残っているのだろうと思います。特に長恨歌はそのロマンチシズムと悲劇性が好みに合ったせいか、繰り返し読んだのを覚えています。
残念ながら論語は当時の私には修身の教科書みたいな雰囲気しか感じ取れなくて、よく知られた言葉は自然記憶に残っていたものの、心動かされることはありませんでした。それよりは老荘、諸子百家の方が断片でも面白いと思って聞いていました。荘周夢に胡蝶と為る、などは大好きでした。
ちょうどそのあたりを習っていたとき、たまたまよその学校の生徒が見学に来るということがあって、男子校の私たちの教室の後ろへ何人もの女子生徒が入ってきて授業の様子を聞きに来ていました。当然私たちは後が気がかりで、先生の講義なんかまともに耳に入るはずがありません。
運悪くそんなときに、先生が私をあてます。
誰たらは内なる自己と外にある世間の評価が無関係だと知っていて、世間の評価にわずらわされることがない、しかしまだ彼は自己の立場を確立しているとはいえないところがある、と。これに比して、かの列子は風に乗って飄々と遊び、いかにも楽しげであって、わが身に幸福をもたらすものについて何の関心もいだくことがない。だから列氏は「行くを免ると雖も、猶待つところ有るものなり。もしそれ天地の正に乗じ、六気の辨を御し、以て無窮に遊ぶ者、彼まさにいづくにか待たんや。」・・・
「ここを訳してみぃ!」と言われて、私は虎の巻で見た通りの訳を機械的に答えて着席します。
「こりゃ!誰が座ってええ言うた?まだこれからじゃ!」・・・
どうやら先生は私が教室の後ばかりに気をとられて、授業を聞いてなかったことをご存じの上で、参観の女生徒たちの前で恥をかかせようとしているな、と気がつきました。しぶしぶ立ち上がって待ちますと、「その顔はなんじゃ?」と一喝したあと、
「ここんところ、” 行くを免ると雖も、猶待つところ有るものなり” というのはどういうことじゃ? "・・と雖も、猶・・" というのは、列氏はこうじゃが、まだ至らんとこがある、ちゅうことじゃろ?そりゃ、なしてなら?なにがまだ至らんというのか。」
う~ん、まともに読みさえせずに虎の巻の訳文だけ写していた、それらしきあたりの文言をあらためてちょっと見たけれど、どうせわかりそうもないや・・・とすぐに「わかりません」と座ろうとすると、「待て、考えもせんと分からん言うな。ちぃたぁ考えてみんか。」
しぶしぶちょっと考えてみたけれど、やっぱりわからないや、と思っていると、
「わからんか・・・〇〇〇〇〇わかると思うたがのぉ」
・・・と(〇〇は伏字にしておきますが・・・笑)こちらがちょっとムカッとして意地を張りたくなるような嫌味を言われたので、クソッとはぶてながら座りかけたら、ふっと思いついて、なんだそういうことか、というので答えたらアタリでした。
先生は「そうじゃ、そのとおりじゃ。ちぃと考えりゃわかるじゃないか。横着するな!」
はいはい、可愛らしい女子生徒らの前で、よくまぁ恥をかかせてくれましたよ、と思いながらようやく腰を下ろしたのでした。
まぁこういうよくも悪しくも思い出がいっぱい詰まったテキストではあったせいでしょうか、この漢文のテキスト3冊だけは、ボロボロになりながらも、60年前後たった今も私の手元に残っています。もちろん学校の教科書類で残っているものなど、小学校から大学まで含めて他には一冊もないのですが。
きょうは前書きで終わりましたが(笑)、ほんとはこの数日読みふけった論語について、論語知らずのド素人の目で論語読みしてみたかったのです。きょうは序説(笑)ってことで、次回から本論にはいります。
saysei at 22:00|Permalink│Comments(0)│
2020年01月26日
『芭蕉全発句』を読む
だいぶ以前に、山本健吉の『芭蕉全発句』(講談社学術文庫)の句を、習字の手習いを兼ねて手帳に毛筆の小筆で写経みたいに写し取って半分くらい終わったと書いたおぼえがあります。あとの半分は、いろいろ気が多くてほかのことをやっていて、合間に少しずつしか進展しなかったので、時間がかかりましたが、先日ようやく全部写し終えました。全973句。
写していて、意味が分からないと、傍らに山本健吉の解説があるので、すぐにあぁそういう意味か、とおよその意味や背景がわかって、勉強になりました。芭蕉の俳句と言えばだれもが小学校の時分から少なくとも幾つかの秀句に親しんで、いやおうなく記憶に残っているものですが、生涯に1000句前後詠んだと言われる彼の句をこうしてほぼ全部読んでみると、案外平凡な句も多いなぁ(笑)とか、こんなぶっ飛んだ句も作ったんだな、と新鮮な驚きがあったり、知っていてもなんだかよくわからなかった句の背景を知って、あぁこういう場でこの句が生まれのか、と納得できたり、機械的に書写していく中でも面白い経験ができました。
全部目を通して見て、やっぱり、すごいな、いいな、と思った句はほぼすべて以前からよく知っていた、誰もが知る有名な句でした。いくつか自分なりの目で、これまで自分が知らなかった句ですごいと思うのが見つからないかと思ったけれど、まず一句、二句といったところで、やっぱり解釈は色々人によって違っても、秀句として選ぶ句に違いはないんだな、と実感しました。それらは何度読んでも、どういじくりまわしても、すごいなぁ、と益々感嘆します。さんざん色んな人が解釈しているから、これらについてとやかく言おうなんて今は思いませんが・・
・荒海や佐渡によこたふ天河
・閑さや岩にしみ入る蝉の声
・秋深き隣は何をする人ぞ
・旅に病で夢は枯野をかけ廻る
ほかにもうめえなぁ、というのはほとんどよく知られた句でした。
・菊の香や奈良には古き仏達
・夏草や兵(つはもの)共がゆめの跡
・五月雨のふり残してや光堂
・行はるや鳥啼うをの目は泪
・おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
・雲雀より空にやすらふ峠哉
・山路来て何やらゆかしすみれ草
・海くれて鴨のこゑほのかに白し
ただ、すごいな、いいな、という気持と好きかどうかというのは違うので、全体を読んでみて、私にとって芭蕉の句は、たぶん「好き」という感情を強くひきおこすものであるようには感じませんでした。
残された時間があれば、もっといろんな俳人の句をこんな形で、できるだけ一人の俳人の句を全部読む形で読んでみて、あらためて自分にとっての芭蕉というのを省みてみたい気がします。
次はやっぱり蕪村かな、と思います。これも教科書に載っていたような句はもちろん口をついて出てくるものがいくつもあるけれど、じゃそれ以外に彼が若いころから晩年に至るまで、どんな句をどんなときに詠んできたのか、となると、評論家の蕪村論を一瞥して少し触れたことがある、というだけで、正直のところ自分で舐めるように全部読んでみた経験はないので、いまは文庫本で全部通して読めるから、ぼちぼちまたお習字の手習いとして(笑)写しながら読んでみたいと思います。
芭蕉で私が好きな句をと言われれば、次のような句です。
・象潟や雨に西施がねぶの花
越王勾践が戦い敗れて呉王夫差に国で一番の美女として献じた西施が心病んで敵地へ送られていく、その面を顰めたさまがまた美しかったので、国中の女が争ってこれに倣い、「西施の顰(ひそみ)」の故事が生まれたそうです。
「西施が眠り」に掛けた「ねぶの花」が、この薄倖の美女が憂い顔に半ば目を閉じた姿に重なり、蘇東坡が西施に比した西湖に重ねられた雨に煙る象潟の情景が、深い情感と時間の奥行きをもって伝わってくるような句です。
・四方より花吹入れて鳰(にほ)の海
「鳰(にほ)の波」と記憶していた句でしたが、今回の本では「海」になっていました。「波」のほうが動的な感じがあっていいと思っていましたが、「海」の方が広がりがあって、句全体が落ち着くかも、と思い直しているところです。とても美しい華やかな印象が好きです。
・花の雲鐘は上野か浅草歟
なんでもない句ですが、視覚と聴覚の転換で具体的な地名を入れて、見事なもんだな、と思います。
いい句だとは思いながら、いままでなぜそれがいいと思うのか、うまく表現することができなかった句の中には、今回山本健吉の解釈を読んで、なるほど、と合点がいった句があります。
・行春を近江の人とおしみける
去来抄にこの句に触れた有名な個所があります。
尚日がこの句をみて「近江」は「丹波」でもいいし、「行春」は「行歳」でもいい、と言ったので、芭蕉がお前さんどう思うね、と去来に訊いた、と。それで去来は、いやそうじゃないでしょ、「湖水朦朧として春ををしむに便(たより)有べし。殊に今日の上に侍る」つまり、琵琶湖だからこそその湖面に春霞が立ち、朦朧として春の風情をあらわして惜春の情を催すところに「近江」でなくてはならない拠り所があるのだし、とりわけこれは今目の前の光景を詠んでいるから臨場感があるわけでさ、もしこれが丹波だったら春を惜しむ情感を喚起されて詠むことはなかったろうし、春の代わりに歳の瀬に近江にいたからと言ってこういう情感が起きることはないでしょう、と応え、芭蕉師匠はおまえさんこそ共に風雅を語るべき人物だよなぁ、といたく気に入ってくれた、って話ですね。
この話は読んだことがあってかすかに記憶していましたが、山本健吉の解説でなるほど、と思ったのは「近江の人と」の部分の解釈です。彼によれば「近江の人」はこの句が詠まれた志賀辛崎に舟をうかべて春の名残を惜しみ合う「清遊に招いた人への挨拶の意を含み、三人称にして二人称を兼ね、貴方がた近江の人という気持が含まれてくる。対詠的な発想の中に、湖南の連衆との暖い連帯感情が匂い出てくる。」と。
さらに「去来の擁護論に加えて、芭蕉は古来風雅の士はこの国の春を惜しむこと、おさおさ都の春に劣らなかったことを(去来抄の上の引用個所のすぐあとで)言う。‥芭蕉の詩囊の中には、琵琶湖の春を詠んだ多くの古歌が存在していたらしい。それらとの中に開けていた詩的交通の道から、こういう句が生み出されたのである。」と。
やっぱり「近江の人」はただの滋賀県の人を漠然と指す指示言語などではなかったわけで(笑)、この解説を読んでこの句が腑に落ちました。そして、この句のどこにも現代語でいう湖も琵琶湖も出てこないけれど、近江の人と惜別となれば、ぱっと琵琶湖の春霞たなびく情景が目に浮かんでこなければ嘘だ、というのもよくわかります。
それでもこの句などは、確かに解説によって理屈でなるほどとよりよくわかりはするけれど、芭蕉の時代に生きてその空気を共に吸い、近江という土地の名をめぐる歴史的な感覚、行く春を惜しむこととその近江との文化史的に形成されてきた感覚などといったものを自然に共有していたとすれば、この句を聴くだけで直観的に完全に理解できるはずだ、という気がします。
いまはただ現在の目でこの句を読むだけでなく、少し解説のような予備知識を片手に持つことで、芭蕉の時代の人々の空気の中に入り込んでこの句を読むという複眼的な操作がないと十全な理解ができないかもしれないけれど、この句自体は一個の作品として自立した表現になっている、と考えられます。
しかし、例えば次のような句になると、もう歴史的な蘊蓄がないと、ちょっと素手で読んでもさっぱりわからないし、予備知識を以て理解したとしても、さて作品としてこれが自立した表現なのかと考えると、そうした外在的な知識なしに成り立たないという意味では、先の「行はるを・・・」などとは違うのではないか、という気がします。
・梅白しきのふや鶴を盗れし
・月さびよ明智が妻の咄(はな)しせむ
・盃にみつの名をのむこよひ哉
・忘れずば夜の中山にて涼め
「梅白し・・」というのは三井秋風の鳴滝の山家を訪ね、梅林に遊んだ時の句で、昔、中国は宋の国の林和靖なる隠士が西湖の孤山山麓に隠棲して梅を妻と呼んで愛し、鶴を飼って子として可愛がっていたという故事にちなみ、この梅林には梅は真っ白に咲き盛っているが、鶴の姿が見えないのは、昨日盗まれたのであろうか、・・・そういう句なんですね。芭蕉でもこんな理屈っぽい蘊蓄によっかかった上手くもない句を詠んだんだな、と微苦笑を誘うところがあります。
こんな故事が当時の知識人の間では、ぱっとこんな句を詠んでみな分かるほどよく知られていたのかどうか、私は無学にして知りませんが、こういう句を手ぶらで読むことは無理ですね。かといって、こんな蘊蓄を傾けなくちゃわからないような句が、句として自立的な表現価値を持つのかというのは疑問に思います。
二番目は、いま沢尻さんの、いやもとい!、NHKの大河ドラマでやっている明智光秀の奥さんの話で、日向守明智光秀がまだ貧しかったころ、連歌の会を催そうとしながら物入りのためにいたしかねていたので、妻がひそかに髪を切って売り、費用を捻出した、と。
これを知った光秀が発奮して、必ずや50日のうちにおまえを立派な籠に載せるような身分にしてやる、と言い、実際そのとおりになった、という逸話が背景にあって、月よ、さびさびと澄み輝け、わたしはその月を見ながら、光秀のあの心映えの話をホスト役の俳人又玄夫妻としようと思う・・・というのですね。
この「さびよ」は芭蕉好みの「さび」なんでしょうかね。「寂しい」の「寂」、「閑寂」というような意味なんでしょう。光秀の妻の立派な心映えを引き合いに出すというのは、自分をもてなしてくれた夫妻の奥さんの心遣いを賞揚する含みも同時にあるのでしょうね。そうでなければなぜ突然光秀が出てくるのかよくわからなくなりますから。
いずれにせよこれも、光秀の妻のエピソードを知らなければさっぱり分からないでしょうし、一句の表現としての自立性には疑問があります。
三番目の「盃にみつの名・・」は、もっと芭蕉の偶然の個人的なできごとが背景になっていて、前書に、案内してもらった人に名を問うたところ、そこで遭遇した三人ともが七郎兵衛という名だったということで、李白の詩「月下独酌」に、身一つながら身と影と月と三人を成している、という意味の一節があるのを引き合いに、盃に「三つの名」をのむ、という表現を思いついた、というわけです。ひとつの機智ではあるかもしれないけれど、いかにもわざとらしい、そして他愛もない句ですよね。
大体私は昔から、そう、清少納言のあの「香炉峰の雪」のエピソードからして好きじゃなかった(笑)。自分のちょっとした蘊蓄をひけらかして、なんてペダンチックな!と。だから紫式部が彼女のことを、「さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども…」と糞みそにやっつけているのを知って溜飲を下げていたこともありました。
でも、考えてみれば紫式部が勝ち組についていたのに対して、清少納言は負け組についていたわけだし、「さかしだち、真名書き散ら」すのも、隙あらば足を引っ張り合う女房たちの間にあっていかにも無防備で、無邪気なキャラで、それが一所懸命不遇の中宮定子を励まそうとして、いろいろ機転をきかせているのだと思えば、なんだかかわいそうな気がするし、性格は単純な彼女に比べて、紫式部の方が根性悪そうな気がしてきて(笑)、のちにはだいぶ印象が変わりましたが・・・
閑話休題。四つ目の「忘れずば・・」も、いきなり「忘れずば」で始まって、何のことか分からないですよね、手ぶらで読めば。でも、「佐夜の中山」と聴けば、私のような無知無学の者でも、あぁ、聞いたことあるな、と思うほどですから、当時はもうよくよく知られた東海道で知らぬ者のない峠で、古くからいろんな歌に詠まれたスポット。だから、そのことを忘れなければ、ということなのでしょう。いつも彼ら俳人には、古歌の世界とつながっている意識があったのでしょうね。
・梅が香やしららおちくぼ京太郎
これなども今手ぶらで読めば意味不明でしょう。「おちくぼ」くらいは知っていても、「しらら」だの「京太郎」だの言われても。
どうやらこれは浄瑠璃十二段草子「姿見」の段の文句を取ったもので、深窓の乙女が新春に「読み初め」として読む草子のタイトルを並べてみせたもののようです。最初に梅の香をもってきて、いかにも新春らしい空気感のところへ、草子の名を並べて見せる。この草子名のリズム感がすばらしいですね。
昔ロンドンにいたころ、親しくなった自称作家のイタリア人青年のアパートに行った時、彼が書いていた長編の一節を読んでくれたことがありました。それは私にはさっぱり分からないイタリア語の小説なのですが、彼は平然と一節をダーッと読んで聴かせたのですが、その中に、女性のファーストネームをずらっと列挙していくところがあって、そこはすばらしいリズムがあって、耳に心地よい感じだったので、そこだけよくわかるような気がして、すばらしい!と言ってやった覚えがあります。あれですね(笑)。
・梅若菜鞠子の宿のとろろ汁
これなんかも、食べ物をずらっと並べていて、手ぶらでこの句だけ読むと、いったい何なんだ、と思ってしまいますが、これは大津の乙州邸にあって、商用で江戸へ下る乙州のための送別の席で歌仙を巻いたときの発句だそうです。
これからあなたが下っていく東海道の道中には、初春のこととて、梅もあり、若菜もあろう、あの鞠子の宿には名物のとろろ汁もって、貴方を楽しませてくれるであろう、と旅立ちをことほぐ句なんだそうです。目の前にはおそらく梅も若菜もあって、それらを織り込んでこういう句を詠んだのだろう、と
。
そういう背景を知ると、なるほど、すばらしい即興の技だなぁと舌を巻きます。ただ具体的な梅や若菜、とろろ汁といった食べ物を並べるだけで、なにかこう旅での出会いをわくわく期待させるような、励ましとなる、まさに旅立ちを寿ぐ気持ちがちゃんと表現できているなぁ、と。そういう意味で、とてもいい句だと思います。
句が詠まれた背景と切り離せないけれど、表現として自立していないかというと、確かに背景に支えられてはいるけれども、微妙な気がします。そのへんは詩的表現としての俳句というものを考えていく上で考えどころだと思います。
・梅が香にのっと日の出る山路かな
この「のっと日の出る」という口語的(俗語的)表現を取り入れていくところなどが、芭蕉の面白いところかもしれません。ようやく日の出かという早朝、冷え冷えしたすがすがしい空気の中、山路を行くと、梅の香が漂ってくる。あぁ梅の香だな、とその匂いに気を取られていると、山の向こうに不意にお日さまが顔を出したよ、というのでしょう。この句の面白さは、「のっと」という不意をつく日の出の動的な光景の表現にあることはあきらかです。
・むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
これは謡曲「敦盛」、もとは平家物語のワンシーンに登場する「あな無慙」をふまえた言葉だそうですが、句の面白さがやはりこの一語にかかっていることは明らかでしょう。
・於春ゝ大哉春と云々(アゝはるはるだいナルカナはるとうんぬん)
これも歌舞伎「楼門五之桐」の石川五右衛門の科白「あゝ絶景かな絶景かな‥」と響き合っているように解説の山本健吉は書いていますが、芭蕉にもこんな句があるんだな、と可笑しい。ちょっと俳句のイメージとはかけ離れた感じです。まぁ自由な人だったのでしょうね。
・よく見れば薺(なづな)花さく垣根かな
「よく見れば」はないだろう!?と笑っちゃいますよね。こんな言葉も元祖芭蕉先生だから使えるんだなという気がします。七・五は出たけど最初の五が浮かばねえ!ってとき、写生句なら何でも使えそうですが(笑)・・・やっぱり垣根の蔭にひっそりと咲く薺だから、よく見れば、でいいんでしょうかね。
・さまざまの事おもひ出す桜かな
これも、これはないだろう!の筆頭みたいな句で、ほんとに芭蕉の句なの?と思いますが(笑)、でもそうなんでしょう。山本健吉は「こういう句は、句の善悪よりもその場に臨んだ作者の言語に絶した思いを汲みとるべきものである」と書いていますが・・・。「その場」というのは、句が収録された『笈日記』でついている前文にある「故主君蝉吟公の庭前にて」のことで、亡き主君の子の花見の席に招かれて作句したようです。それにしても・・・
・きみ火をたけよき物見せん雪まろげ
字余りもあるけれど、なんかちょっと俳句と思えない型破りな語法が、この句の勢いを実現しているようです。いきなり、「きみ火をたけ」と二人称で呼びかけるなんて、ちょっと普通の俳人では考えつかないでしょう。この勢いが、雪の中、友の訪れをよろこぶ高揚した気持ちを鮮やかに伝えてくれます。
・衰(おとろえ)や歯に喰(くひ)あてし海苔の砂
いやぁ、思い当たりますわね。こちらもそういう年齢なんで・・・。こういうので俳句がつくれるんだ、と感心しちゃいます。
・家はみな杖に白髪の墓参
元禄年間、伊賀上野の兄半左衛門宅に帰ったときの作だそうで、郷里の兄弟、親戚みな老いて、白髪頭に杖をついての墓参だと。これも身につまされる光景です。
・ほととぎす今は俳諧師なき世哉
こういうのは私たちが一筆で情景を切り取り写してみせるといったスケッチ風の俳句のイメージとはずいぶん異なるものだと思います。別にいい句だとは思わないけれど、批評を含んだ句を作ってきた芭蕉の生のつぶやきを聴くような印象があります。
・雪の魨(ふぐ)左勝 水無月の鯉
これもびっくりさせられるような「句」ですね。句会でそれぞれ詠んだ句を勝負判定する形をそのままもちこんで、雪のフグと水無月の鯉を対比させて、鯉の勝ち!という・・・解説によれば、杉風の採茶庵でもてなしを受けて、六月の鯉料理を賞美したんだそうで、杉風の野号が「鯉屋」だったとかで、それに引っ掛けているらしい。やっぱり座の芸なんですね。でもそれをこんな風に句合の形をそのまま表現に持ち込むところなんかは芭蕉ならではかと。
・から鮭も空也の痩も寒の内
無知無学が手ぶらで読んでさっぱりわからなかった句の一つですが、解説を読んで驚嘆した、数少ない秀句。乾鮭というのは、腸を取り覗き塩引きをしない、しらぼしの鮭。空也の痩とは、未明に腰に瓢(ふくべ)をつけ、踊躍(ゆやく)念仏をし、和讃を唱え、鉦を叩いて茶筌を売って洛中洛外を歩く空也僧のこと。
この乾鮭、空也という季の景物が「寒」と響き合い、「からび、やせ、冷え、という中世的芸術理念」がそれらの季物に滲透している、というのが山本健吉の言うところです。
「しかも、この三つの名詞(乾鮭、空也、寒)が、すべて乾いた破裂音の k 音の頭韻で並び、そこに一種凛烈の気が通っている。<も><の><も><の>という四つのテニヲハもよく働いている」と。この解説には納得させられました。
対象の選択が非常にシャープな言葉の選択になっていて、同時にそれは言葉の響き、音の選択になっている。ものすごい技巧で、しかも技巧ばかり前に出てうまくいってない句ではないですね。
これはさすがに多少の蘊蓄がないと理解できませんでした。
・馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
前に俳句を自分でも捻り、俳句雑誌に俳句論を書いている友人の著作の感想をこのブログに書いたときに、友人がこの句のことを書いていたので、ちょっと何か触れたような気がしますが、忘れてしまいました。
でもこの句はちょっと面白い句だと記憶に残っています。我をゑに見る、というのだから、絵に描かれた自分、夏野を「ぼくぼくと」馬の背にゆられて行く自分の姿を見ていることになります。
でも、「馬ぼくぼく」から始めているのですから、この現実感、今ここで起きているという現実感は、絵のなかのことではなくて、彼は現実にいま馬の背にゆられて夏野を歩んでいるんだと思います。
ただ、その姿を彼自身が「絵の中の自分を見るように」眺めている、という、そういう光景というか、構図そのものを句に詠んでいる。そういう自己回帰的な視点を対象化した表現ですね。これはちょっと珍しいものだと思います。
ぼくぼくと、ってのはのろのろと田舎の駄馬で行くちょっとイラつくような歩みで、そういう馬の背に揺られていく自分を客観視することによって、うんざりした気分と同時にそういう自分の姿を滑稽化する自嘲的な気分をも重ねて表現しているわけでしょう。
色々書いてきましたが、私のこんなのは他にないんじゃないか、というふうな驚きは、あてにはなりません(笑)。「ほか」をそんなに知っているわけじゃないから、そんなの芭蕉だけじゃなくて、誰それにこういう句があるぜ、なんてことがいっぱいあるに違いないので、とりあえずは私の素朴な手ぶら読みでの自分だけの感動のつぶやきといったところでしかありません。
・道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
昔は、なんでこんな「何でもない」句がいいんだろう?文学としての俳句として成立するんだろう?と不思議でならなかったけれど、いまのところ日本の文學表現には、韻律・選択・転換・喩という方法しかないので、この4つの契機で見て行けば必ず具体的な作品を解析できるはずだ、という吉本さんの『言語美』に導かれて、友人の俳句論を含む著作の感想を書くとき、いくつかの句の価値について、それを前提に考えてみたことがあります。
ただ今回芭蕉の全発句に目を通してみて、座の文學としての連句や挨拶代わりの句を脱して、一個の表現として自立したようにみえる芭蕉の句の中にも、けっこう五七五の内部だけでは解けない句が少なくなく、それは近代的な文学観からは作品として自立しない場に依拠した前近代的表現とみなす、かつての桑原武夫さんの第二芸術論のような理屈になるか、あるいは、桑原さんを批判した言語美の吉本さんのように、いやそれは俳句や短歌における五七五の音数律が言語美の価値にどう関わるかが分かっていないからだ、としてあくまでも五七五の内部で解いていくべきか、あるいはまた別の観点があり得るのか、もう少し色んな俳句を味わいながら、自分なりにもう一度考えてみたいな、と思います。
写していて、意味が分からないと、傍らに山本健吉の解説があるので、すぐにあぁそういう意味か、とおよその意味や背景がわかって、勉強になりました。芭蕉の俳句と言えばだれもが小学校の時分から少なくとも幾つかの秀句に親しんで、いやおうなく記憶に残っているものですが、生涯に1000句前後詠んだと言われる彼の句をこうしてほぼ全部読んでみると、案外平凡な句も多いなぁ(笑)とか、こんなぶっ飛んだ句も作ったんだな、と新鮮な驚きがあったり、知っていてもなんだかよくわからなかった句の背景を知って、あぁこういう場でこの句が生まれのか、と納得できたり、機械的に書写していく中でも面白い経験ができました。
全部目を通して見て、やっぱり、すごいな、いいな、と思った句はほぼすべて以前からよく知っていた、誰もが知る有名な句でした。いくつか自分なりの目で、これまで自分が知らなかった句ですごいと思うのが見つからないかと思ったけれど、まず一句、二句といったところで、やっぱり解釈は色々人によって違っても、秀句として選ぶ句に違いはないんだな、と実感しました。それらは何度読んでも、どういじくりまわしても、すごいなぁ、と益々感嘆します。さんざん色んな人が解釈しているから、これらについてとやかく言おうなんて今は思いませんが・・
・荒海や佐渡によこたふ天河
・閑さや岩にしみ入る蝉の声
・秋深き隣は何をする人ぞ
・旅に病で夢は枯野をかけ廻る
ほかにもうめえなぁ、というのはほとんどよく知られた句でした。
・菊の香や奈良には古き仏達
・夏草や兵(つはもの)共がゆめの跡
・五月雨のふり残してや光堂
・行はるや鳥啼うをの目は泪
・おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
・雲雀より空にやすらふ峠哉
・山路来て何やらゆかしすみれ草
・海くれて鴨のこゑほのかに白し
ただ、すごいな、いいな、という気持と好きかどうかというのは違うので、全体を読んでみて、私にとって芭蕉の句は、たぶん「好き」という感情を強くひきおこすものであるようには感じませんでした。
残された時間があれば、もっといろんな俳人の句をこんな形で、できるだけ一人の俳人の句を全部読む形で読んでみて、あらためて自分にとっての芭蕉というのを省みてみたい気がします。
次はやっぱり蕪村かな、と思います。これも教科書に載っていたような句はもちろん口をついて出てくるものがいくつもあるけれど、じゃそれ以外に彼が若いころから晩年に至るまで、どんな句をどんなときに詠んできたのか、となると、評論家の蕪村論を一瞥して少し触れたことがある、というだけで、正直のところ自分で舐めるように全部読んでみた経験はないので、いまは文庫本で全部通して読めるから、ぼちぼちまたお習字の手習いとして(笑)写しながら読んでみたいと思います。
芭蕉で私が好きな句をと言われれば、次のような句です。
・象潟や雨に西施がねぶの花
越王勾践が戦い敗れて呉王夫差に国で一番の美女として献じた西施が心病んで敵地へ送られていく、その面を顰めたさまがまた美しかったので、国中の女が争ってこれに倣い、「西施の顰(ひそみ)」の故事が生まれたそうです。
「西施が眠り」に掛けた「ねぶの花」が、この薄倖の美女が憂い顔に半ば目を閉じた姿に重なり、蘇東坡が西施に比した西湖に重ねられた雨に煙る象潟の情景が、深い情感と時間の奥行きをもって伝わってくるような句です。
・四方より花吹入れて鳰(にほ)の海
「鳰(にほ)の波」と記憶していた句でしたが、今回の本では「海」になっていました。「波」のほうが動的な感じがあっていいと思っていましたが、「海」の方が広がりがあって、句全体が落ち着くかも、と思い直しているところです。とても美しい華やかな印象が好きです。
・花の雲鐘は上野か浅草歟
なんでもない句ですが、視覚と聴覚の転換で具体的な地名を入れて、見事なもんだな、と思います。
いい句だとは思いながら、いままでなぜそれがいいと思うのか、うまく表現することができなかった句の中には、今回山本健吉の解釈を読んで、なるほど、と合点がいった句があります。
・行春を近江の人とおしみける
去来抄にこの句に触れた有名な個所があります。
尚日がこの句をみて「近江」は「丹波」でもいいし、「行春」は「行歳」でもいい、と言ったので、芭蕉がお前さんどう思うね、と去来に訊いた、と。それで去来は、いやそうじゃないでしょ、「湖水朦朧として春ををしむに便(たより)有べし。殊に今日の上に侍る」つまり、琵琶湖だからこそその湖面に春霞が立ち、朦朧として春の風情をあらわして惜春の情を催すところに「近江」でなくてはならない拠り所があるのだし、とりわけこれは今目の前の光景を詠んでいるから臨場感があるわけでさ、もしこれが丹波だったら春を惜しむ情感を喚起されて詠むことはなかったろうし、春の代わりに歳の瀬に近江にいたからと言ってこういう情感が起きることはないでしょう、と応え、芭蕉師匠はおまえさんこそ共に風雅を語るべき人物だよなぁ、といたく気に入ってくれた、って話ですね。
この話は読んだことがあってかすかに記憶していましたが、山本健吉の解説でなるほど、と思ったのは「近江の人と」の部分の解釈です。彼によれば「近江の人」はこの句が詠まれた志賀辛崎に舟をうかべて春の名残を惜しみ合う「清遊に招いた人への挨拶の意を含み、三人称にして二人称を兼ね、貴方がた近江の人という気持が含まれてくる。対詠的な発想の中に、湖南の連衆との暖い連帯感情が匂い出てくる。」と。
さらに「去来の擁護論に加えて、芭蕉は古来風雅の士はこの国の春を惜しむこと、おさおさ都の春に劣らなかったことを(去来抄の上の引用個所のすぐあとで)言う。‥芭蕉の詩囊の中には、琵琶湖の春を詠んだ多くの古歌が存在していたらしい。それらとの中に開けていた詩的交通の道から、こういう句が生み出されたのである。」と。
やっぱり「近江の人」はただの滋賀県の人を漠然と指す指示言語などではなかったわけで(笑)、この解説を読んでこの句が腑に落ちました。そして、この句のどこにも現代語でいう湖も琵琶湖も出てこないけれど、近江の人と惜別となれば、ぱっと琵琶湖の春霞たなびく情景が目に浮かんでこなければ嘘だ、というのもよくわかります。
それでもこの句などは、確かに解説によって理屈でなるほどとよりよくわかりはするけれど、芭蕉の時代に生きてその空気を共に吸い、近江という土地の名をめぐる歴史的な感覚、行く春を惜しむこととその近江との文化史的に形成されてきた感覚などといったものを自然に共有していたとすれば、この句を聴くだけで直観的に完全に理解できるはずだ、という気がします。
いまはただ現在の目でこの句を読むだけでなく、少し解説のような予備知識を片手に持つことで、芭蕉の時代の人々の空気の中に入り込んでこの句を読むという複眼的な操作がないと十全な理解ができないかもしれないけれど、この句自体は一個の作品として自立した表現になっている、と考えられます。
しかし、例えば次のような句になると、もう歴史的な蘊蓄がないと、ちょっと素手で読んでもさっぱりわからないし、予備知識を以て理解したとしても、さて作品としてこれが自立した表現なのかと考えると、そうした外在的な知識なしに成り立たないという意味では、先の「行はるを・・・」などとは違うのではないか、という気がします。
・梅白しきのふや鶴を盗れし
・月さびよ明智が妻の咄(はな)しせむ
・盃にみつの名をのむこよひ哉
・忘れずば夜の中山にて涼め
「梅白し・・」というのは三井秋風の鳴滝の山家を訪ね、梅林に遊んだ時の句で、昔、中国は宋の国の林和靖なる隠士が西湖の孤山山麓に隠棲して梅を妻と呼んで愛し、鶴を飼って子として可愛がっていたという故事にちなみ、この梅林には梅は真っ白に咲き盛っているが、鶴の姿が見えないのは、昨日盗まれたのであろうか、・・・そういう句なんですね。芭蕉でもこんな理屈っぽい蘊蓄によっかかった上手くもない句を詠んだんだな、と微苦笑を誘うところがあります。
こんな故事が当時の知識人の間では、ぱっとこんな句を詠んでみな分かるほどよく知られていたのかどうか、私は無学にして知りませんが、こういう句を手ぶらで読むことは無理ですね。かといって、こんな蘊蓄を傾けなくちゃわからないような句が、句として自立的な表現価値を持つのかというのは疑問に思います。
二番目は、いま沢尻さんの、いやもとい!、NHKの大河ドラマでやっている明智光秀の奥さんの話で、日向守明智光秀がまだ貧しかったころ、連歌の会を催そうとしながら物入りのためにいたしかねていたので、妻がひそかに髪を切って売り、費用を捻出した、と。
これを知った光秀が発奮して、必ずや50日のうちにおまえを立派な籠に載せるような身分にしてやる、と言い、実際そのとおりになった、という逸話が背景にあって、月よ、さびさびと澄み輝け、わたしはその月を見ながら、光秀のあの心映えの話をホスト役の俳人又玄夫妻としようと思う・・・というのですね。
この「さびよ」は芭蕉好みの「さび」なんでしょうかね。「寂しい」の「寂」、「閑寂」というような意味なんでしょう。光秀の妻の立派な心映えを引き合いに出すというのは、自分をもてなしてくれた夫妻の奥さんの心遣いを賞揚する含みも同時にあるのでしょうね。そうでなければなぜ突然光秀が出てくるのかよくわからなくなりますから。
いずれにせよこれも、光秀の妻のエピソードを知らなければさっぱり分からないでしょうし、一句の表現としての自立性には疑問があります。
三番目の「盃にみつの名・・」は、もっと芭蕉の偶然の個人的なできごとが背景になっていて、前書に、案内してもらった人に名を問うたところ、そこで遭遇した三人ともが七郎兵衛という名だったということで、李白の詩「月下独酌」に、身一つながら身と影と月と三人を成している、という意味の一節があるのを引き合いに、盃に「三つの名」をのむ、という表現を思いついた、というわけです。ひとつの機智ではあるかもしれないけれど、いかにもわざとらしい、そして他愛もない句ですよね。
大体私は昔から、そう、清少納言のあの「香炉峰の雪」のエピソードからして好きじゃなかった(笑)。自分のちょっとした蘊蓄をひけらかして、なんてペダンチックな!と。だから紫式部が彼女のことを、「さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども…」と糞みそにやっつけているのを知って溜飲を下げていたこともありました。
でも、考えてみれば紫式部が勝ち組についていたのに対して、清少納言は負け組についていたわけだし、「さかしだち、真名書き散ら」すのも、隙あらば足を引っ張り合う女房たちの間にあっていかにも無防備で、無邪気なキャラで、それが一所懸命不遇の中宮定子を励まそうとして、いろいろ機転をきかせているのだと思えば、なんだかかわいそうな気がするし、性格は単純な彼女に比べて、紫式部の方が根性悪そうな気がしてきて(笑)、のちにはだいぶ印象が変わりましたが・・・
閑話休題。四つ目の「忘れずば・・」も、いきなり「忘れずば」で始まって、何のことか分からないですよね、手ぶらで読めば。でも、「佐夜の中山」と聴けば、私のような無知無学の者でも、あぁ、聞いたことあるな、と思うほどですから、当時はもうよくよく知られた東海道で知らぬ者のない峠で、古くからいろんな歌に詠まれたスポット。だから、そのことを忘れなければ、ということなのでしょう。いつも彼ら俳人には、古歌の世界とつながっている意識があったのでしょうね。
・梅が香やしららおちくぼ京太郎
これなども今手ぶらで読めば意味不明でしょう。「おちくぼ」くらいは知っていても、「しらら」だの「京太郎」だの言われても。
どうやらこれは浄瑠璃十二段草子「姿見」の段の文句を取ったもので、深窓の乙女が新春に「読み初め」として読む草子のタイトルを並べてみせたもののようです。最初に梅の香をもってきて、いかにも新春らしい空気感のところへ、草子の名を並べて見せる。この草子名のリズム感がすばらしいですね。
昔ロンドンにいたころ、親しくなった自称作家のイタリア人青年のアパートに行った時、彼が書いていた長編の一節を読んでくれたことがありました。それは私にはさっぱり分からないイタリア語の小説なのですが、彼は平然と一節をダーッと読んで聴かせたのですが、その中に、女性のファーストネームをずらっと列挙していくところがあって、そこはすばらしいリズムがあって、耳に心地よい感じだったので、そこだけよくわかるような気がして、すばらしい!と言ってやった覚えがあります。あれですね(笑)。
・梅若菜鞠子の宿のとろろ汁
これなんかも、食べ物をずらっと並べていて、手ぶらでこの句だけ読むと、いったい何なんだ、と思ってしまいますが、これは大津の乙州邸にあって、商用で江戸へ下る乙州のための送別の席で歌仙を巻いたときの発句だそうです。
これからあなたが下っていく東海道の道中には、初春のこととて、梅もあり、若菜もあろう、あの鞠子の宿には名物のとろろ汁もって、貴方を楽しませてくれるであろう、と旅立ちをことほぐ句なんだそうです。目の前にはおそらく梅も若菜もあって、それらを織り込んでこういう句を詠んだのだろう、と
。
そういう背景を知ると、なるほど、すばらしい即興の技だなぁと舌を巻きます。ただ具体的な梅や若菜、とろろ汁といった食べ物を並べるだけで、なにかこう旅での出会いをわくわく期待させるような、励ましとなる、まさに旅立ちを寿ぐ気持ちがちゃんと表現できているなぁ、と。そういう意味で、とてもいい句だと思います。
句が詠まれた背景と切り離せないけれど、表現として自立していないかというと、確かに背景に支えられてはいるけれども、微妙な気がします。そのへんは詩的表現としての俳句というものを考えていく上で考えどころだと思います。
・梅が香にのっと日の出る山路かな
この「のっと日の出る」という口語的(俗語的)表現を取り入れていくところなどが、芭蕉の面白いところかもしれません。ようやく日の出かという早朝、冷え冷えしたすがすがしい空気の中、山路を行くと、梅の香が漂ってくる。あぁ梅の香だな、とその匂いに気を取られていると、山の向こうに不意にお日さまが顔を出したよ、というのでしょう。この句の面白さは、「のっと」という不意をつく日の出の動的な光景の表現にあることはあきらかです。
・むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
これは謡曲「敦盛」、もとは平家物語のワンシーンに登場する「あな無慙」をふまえた言葉だそうですが、句の面白さがやはりこの一語にかかっていることは明らかでしょう。
・於春ゝ大哉春と云々(アゝはるはるだいナルカナはるとうんぬん)
これも歌舞伎「楼門五之桐」の石川五右衛門の科白「あゝ絶景かな絶景かな‥」と響き合っているように解説の山本健吉は書いていますが、芭蕉にもこんな句があるんだな、と可笑しい。ちょっと俳句のイメージとはかけ離れた感じです。まぁ自由な人だったのでしょうね。
・よく見れば薺(なづな)花さく垣根かな
「よく見れば」はないだろう!?と笑っちゃいますよね。こんな言葉も元祖芭蕉先生だから使えるんだなという気がします。七・五は出たけど最初の五が浮かばねえ!ってとき、写生句なら何でも使えそうですが(笑)・・・やっぱり垣根の蔭にひっそりと咲く薺だから、よく見れば、でいいんでしょうかね。
・さまざまの事おもひ出す桜かな
これも、これはないだろう!の筆頭みたいな句で、ほんとに芭蕉の句なの?と思いますが(笑)、でもそうなんでしょう。山本健吉は「こういう句は、句の善悪よりもその場に臨んだ作者の言語に絶した思いを汲みとるべきものである」と書いていますが・・・。「その場」というのは、句が収録された『笈日記』でついている前文にある「故主君蝉吟公の庭前にて」のことで、亡き主君の子の花見の席に招かれて作句したようです。それにしても・・・
・きみ火をたけよき物見せん雪まろげ
字余りもあるけれど、なんかちょっと俳句と思えない型破りな語法が、この句の勢いを実現しているようです。いきなり、「きみ火をたけ」と二人称で呼びかけるなんて、ちょっと普通の俳人では考えつかないでしょう。この勢いが、雪の中、友の訪れをよろこぶ高揚した気持ちを鮮やかに伝えてくれます。
・衰(おとろえ)や歯に喰(くひ)あてし海苔の砂
いやぁ、思い当たりますわね。こちらもそういう年齢なんで・・・。こういうので俳句がつくれるんだ、と感心しちゃいます。
・家はみな杖に白髪の墓参
元禄年間、伊賀上野の兄半左衛門宅に帰ったときの作だそうで、郷里の兄弟、親戚みな老いて、白髪頭に杖をついての墓参だと。これも身につまされる光景です。
・ほととぎす今は俳諧師なき世哉
こういうのは私たちが一筆で情景を切り取り写してみせるといったスケッチ風の俳句のイメージとはずいぶん異なるものだと思います。別にいい句だとは思わないけれど、批評を含んだ句を作ってきた芭蕉の生のつぶやきを聴くような印象があります。
・雪の魨(ふぐ)左勝 水無月の鯉
これもびっくりさせられるような「句」ですね。句会でそれぞれ詠んだ句を勝負判定する形をそのままもちこんで、雪のフグと水無月の鯉を対比させて、鯉の勝ち!という・・・解説によれば、杉風の採茶庵でもてなしを受けて、六月の鯉料理を賞美したんだそうで、杉風の野号が「鯉屋」だったとかで、それに引っ掛けているらしい。やっぱり座の芸なんですね。でもそれをこんな風に句合の形をそのまま表現に持ち込むところなんかは芭蕉ならではかと。
・から鮭も空也の痩も寒の内
無知無学が手ぶらで読んでさっぱりわからなかった句の一つですが、解説を読んで驚嘆した、数少ない秀句。乾鮭というのは、腸を取り覗き塩引きをしない、しらぼしの鮭。空也の痩とは、未明に腰に瓢(ふくべ)をつけ、踊躍(ゆやく)念仏をし、和讃を唱え、鉦を叩いて茶筌を売って洛中洛外を歩く空也僧のこと。
この乾鮭、空也という季の景物が「寒」と響き合い、「からび、やせ、冷え、という中世的芸術理念」がそれらの季物に滲透している、というのが山本健吉の言うところです。
「しかも、この三つの名詞(乾鮭、空也、寒)が、すべて乾いた破裂音の k 音の頭韻で並び、そこに一種凛烈の気が通っている。<も><の><も><の>という四つのテニヲハもよく働いている」と。この解説には納得させられました。
対象の選択が非常にシャープな言葉の選択になっていて、同時にそれは言葉の響き、音の選択になっている。ものすごい技巧で、しかも技巧ばかり前に出てうまくいってない句ではないですね。
これはさすがに多少の蘊蓄がないと理解できませんでした。
・馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
前に俳句を自分でも捻り、俳句雑誌に俳句論を書いている友人の著作の感想をこのブログに書いたときに、友人がこの句のことを書いていたので、ちょっと何か触れたような気がしますが、忘れてしまいました。
でもこの句はちょっと面白い句だと記憶に残っています。我をゑに見る、というのだから、絵に描かれた自分、夏野を「ぼくぼくと」馬の背にゆられて行く自分の姿を見ていることになります。
でも、「馬ぼくぼく」から始めているのですから、この現実感、今ここで起きているという現実感は、絵のなかのことではなくて、彼は現実にいま馬の背にゆられて夏野を歩んでいるんだと思います。
ただ、その姿を彼自身が「絵の中の自分を見るように」眺めている、という、そういう光景というか、構図そのものを句に詠んでいる。そういう自己回帰的な視点を対象化した表現ですね。これはちょっと珍しいものだと思います。
ぼくぼくと、ってのはのろのろと田舎の駄馬で行くちょっとイラつくような歩みで、そういう馬の背に揺られていく自分を客観視することによって、うんざりした気分と同時にそういう自分の姿を滑稽化する自嘲的な気分をも重ねて表現しているわけでしょう。
色々書いてきましたが、私のこんなのは他にないんじゃないか、というふうな驚きは、あてにはなりません(笑)。「ほか」をそんなに知っているわけじゃないから、そんなの芭蕉だけじゃなくて、誰それにこういう句があるぜ、なんてことがいっぱいあるに違いないので、とりあえずは私の素朴な手ぶら読みでの自分だけの感動のつぶやきといったところでしかありません。
・道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
昔は、なんでこんな「何でもない」句がいいんだろう?文学としての俳句として成立するんだろう?と不思議でならなかったけれど、いまのところ日本の文學表現には、韻律・選択・転換・喩という方法しかないので、この4つの契機で見て行けば必ず具体的な作品を解析できるはずだ、という吉本さんの『言語美』に導かれて、友人の俳句論を含む著作の感想を書くとき、いくつかの句の価値について、それを前提に考えてみたことがあります。
ただ今回芭蕉の全発句に目を通してみて、座の文學としての連句や挨拶代わりの句を脱して、一個の表現として自立したようにみえる芭蕉の句の中にも、けっこう五七五の内部だけでは解けない句が少なくなく、それは近代的な文学観からは作品として自立しない場に依拠した前近代的表現とみなす、かつての桑原武夫さんの第二芸術論のような理屈になるか、あるいは、桑原さんを批判した言語美の吉本さんのように、いやそれは俳句や短歌における五七五の音数律が言語美の価値にどう関わるかが分かっていないからだ、としてあくまでも五七五の内部で解いていくべきか、あるいはまた別の観点があり得るのか、もう少し色んな俳句を味わいながら、自分なりにもう一度考えてみたいな、と思います。
saysei at 20:26|Permalink│Comments(0)│
2020年01月19日
ジャファル・パナヒ監督「ある女優の不在」を見る
原題は "3 faces" というらしく、原題のほうが邦題よりもこの映画の語ろうとしていることが、よりよく表現されているような気がします。素晴らしい作品でした。
新聞で評判になった映画をたまに見る程度の私はイラン映画というと日本でもよく知られたキアロスタミ(「友だちのうちはどこ?」「オリーブの林をぬけて」「桜桃の味」)とかモフセン・マフマルバフ(「サイクリスト」「ギャベ」「サイレンス」「カンダハール」)の本の数本を見ているだけで、他は全然知らないと思っていました。
ところが今回出町座のこの映画のチラシを見ていたら、パナヒ監督が「白い風船」の監督だと書いてあったので、はるか昔に見たあの映画のことが突然また目の前に置かれたように思い出されて、これはぜひ見ておきたいと思ったのです。
「白い風船」は少女を主人公にした子供の世界を描いた作品でしたが、それでも彼女の生きる世界が実に手触りのきく抒情的なタッチで描かれて、すごく印象に残っていました。あれは、たまたまテレビで放映したのを見て、私が大好きなフランス映画「赤い風船」を真似た中近東の映画かいなくらいに思って見ていたら、どんどん引き込まれて、見終わると深い感動を覚えていたので、記憶に残っているのです。そんな偶然の出会いでしたから、監督の名前も、どんな人なのかも知らないままで、その後どんな映画を作っているかも知りませんでした。
今回この映画を見て、パンフレットに目を通して、遅まきながら、あの「白い風船」がこの監督のデビュー作だったことや、その後素晴らしい作品をとりつづけながら、イラン社会の古い因習や強固な女性差別にユーモアたっぷり鋭く切り込む作品のために、イラン現政権に逮捕されたり、映画製作を禁じられたりして、それでもなお映画を撮り続けて、それがいずれも海外の映画祭で受賞するなど高い評価を受けている、ということを知りました。
映画を撮るのを禁じられて、「これは映画ではない」という作品を撮っているところなど、この監督の真骨頂で、まだ残念ながら見ていないけれど、今後見る機会があればぜひこの監督の作品は全部見たいと思いました。今回のこの「ある女優の不在」も素晴らしい作品でした。
ストーリーはネット上などでも紹介されていますが、イランで人気の女優ベナーズ・ジャファリ(本人が本人を演じています)のところへ、映画女優を志してテヘランの芸大へ合格しながら、親や周囲の猛烈な反対にその道を閉ざされた少女マルズィエというファンから、夢がかなわないならもう死ぬしかない、あなたしか助けてくれる人はないから、親を説得しに来てくれ、と親友に動画を託すメッセージを自撮りしたようで、そのラストは首をつって自死する動画になっている、そのメッセージを送りつけられ、連絡を試みるも連絡がとれず、少女の身を心配し、事の真偽を確かめるために、撮影現場を放り出してまでして、監督パナヒ(この映画の監督本人が演じています)とその少女の住むイランのアゼルバイジャンの村まで車で出かけます。
有名女優と映画監督が来たというので、村人たちが集まり、口々に歓迎の言葉をかけますが、マルズィエを探している、と言ったとたんに、あんな馬鹿娘に会いに来たのか!と罵りの言葉を放って散っていきます。どうやら少女が死んだ(とすれば)ことを村人たちはまだ知らず、しかも有名女優は歓迎するそぶりだったのに少女が女優を夢見ることに関しては、まるで女優など役立たずの人間の屑で、村の恥さらしだ、と言わんばかりの偏見に満ちた態度で強く否定しています。
少女の妹の案内で少女の自宅を訪ねると、少女の弟だという巨漢の青年が、姉を村の恥さらしだと憤っていて、二人に出て行けと威圧しますが、母親が彼を閉じ込めて、二人を招き入れ、マルズィエがもう3日間も帰宅せず、心配していると告げます。しかし彼女もまた娘の女優志願には反対で、あきらめさせるために、どうせ合格しないだろうと結婚と引き換えに芸大受験を認めたのですが、合格してしまったので困惑しているようです。
マルズィエの親友の少女も、マルズィエの行方を知らないというので、少女が送っていた動画に映っていた自死したと思われる場所、近くの洞窟のありかを聴いて、パナヒとジャファリは洞窟へ行き、少女が動画の中で首を括るときロープをぶらさげた木の枝をみつけますが、ロープもないし、死体も見当たりません。やはりお芝居なのかというジャファリに、パナヒは、いや家族の恥だと思っている彼女の家族が片づけてしまったのではないか、と言います。このあたりまで、ずっといわば推理小説仕立てと言っていいようなところがあって、冒頭の少女の自死の衝撃的な場面から、ぐいぐい引っ張っていく手際は、純文学的映画というより、上質のエンターテインメントというほうがいいような感じです。
しかし、その後マルズィエ本人がジャファリの前に現れ、ジャファリは自分を騙して村まで誘い出したマルズィエに怒り狂って、こうするほかになかったと言って謝罪しつつなお救いを求める彼女を激しくひっぱたきます。
ジャファリとパナヒは村を出て行こうとしますが、途中村の出入り口にあたる長い九十九折りの一本道で崖から落ちて傷つき、うずくまる巨漢の牛に遮られてしまいます。牛を連れた男は、その牛がただの牛ではない、稀有の精力絶倫なる種牛で、ちょうど十数頭の雌牛に種付けするために行く途中だったなどと物語ります。
この辺りは、そんなセリフを言ってる男は大真面目だけれど、観客の私たちが聴いていると思わず笑ってしまう、ユーモラスな場面です。また、ほかにも、ジャファリが誘いをうけてちょっと寄る村の老人の家の縁で接待を受けながら老人が息子の割礼についてとくとくと語り、そのときの息子の包皮を皮袋か何かに入れていて、これを自分がほとんど崇拝するようにポスターを何十年も大切にしまい込んでいたイランの男優ベヘルーズ・ヴスーギに渡してほしい、とジャファリに依頼する場面も同様に、爺さんはその包皮を埋める場所が好運や不運をもたらすという俗信を固く信じているような爺さんで、大真面目なのですが、それを困惑しながら受け取るジャファリとのこの場面も、大いに笑えてしまう場面です。
このベヘルーズ・ヴスーギという男優は、この場面で爺さんが言うように、もともとイランを代表するマッチョやヒーロー役を演じて人気のあった男優らしく、三船敏郎みたいな俳優だ言っている人もあるらしいのですが、私も近年ビデオで見た、亡命監督バフマン・ゴバディの映画「サイの季節」というイラン革命の創り出した社会状況に批判的でシリアスな作品の中で、革命の混乱の中で30年間投獄された詩人サデッグ・キャマンガールがモデルのサヘルを演じていたことが、パンフレットを読んでいるうちにわかりました。現在は米国在住です。
もともとなじみのないイランの俳優の名など記憶に残らない上、今回見た作品で老人が語るような役柄をやって人気のあった男優というのと、「サイの季節」のようなシリアスな作品で政治犯として獄中にあった詩人のようなインテリのイメージとの落差もあり、また名前の日本語表記が情報によってひどく違っているので、最初同じ人と思わなかったのですが、今回の作品のパンフレットに出演作の記述があったので、ちょっと調べてみたらこの人だとわかりました。ただ、今回の作品には老人の語りと彼が持っていたポスターの写真でしか登場せず、出演はしていません。
さて、牛に妨げられたこともあって、村へ引き返すことになったとき、パナヒはジャファリに、さっき少女に激しい怒りをぶつけてひっぱたいたのは、少々やりすぎじゃないか、どうせ村へ引き返すなら仲直りした方がいい、と言います。
こうして二人は少女がかくまわれている家へ行き、パナヒは車にとどまり、ジャファリだけが家へ行きます。少女をかくまっていたのは、往年の伝説的なイランの女優シャールザード(実在の女優。この映画では名前の使用を許諾し、自作の詩の朗読をして協力していますが、女優としては出演していません)で、イラン革命後は女優としての活動を禁じられ、村人たちに、女優なんてものになったら、あんなふうにみじめになる、などと言われながら、意に介さず、村人たちと接触することもなく、毎日絵を描きながら孤高の生活を送っています。ジャファリはマルズィエと共にシャールザードの家に行き、歓待され、彼女からパナヒへの贈り物だと、シャールザードの詩の朗読CDを車で待っているパナヒのところへ持ってきます。一人になったパナヒがそのCDをかけて、私たちはシャールザードの自作詩の朗読を聴くことになります。
この映画で、シャールザードはこの自作詩を朗読する声として登場するほかは、ただ車で待つパナヒの目で、夜の闇の向こうに遠く、明かりのともる家の中にいるらしい影としてしか姿を垣間見せるだけで、その表情も姿もどんな人かはわかりません。けれども、この作品では、ジャファリ、マルズィエとともに3人目の女性、3faces の一つとして、その要の位置を占めるような非常に重要な役割を与えられているように思います。おそらく、それを表現しようとして、邦訳は「ある女優の不在」と、彼女の欠落を強調したのでしょう。
しかしもう少し客観的にみれば、ジャファリがイラン映画史の「現在」を体現する女優だとすれば、シャールザードはその「過去」を体現し、また女優志願の少女マルズィエはその「未来」を体現するものでしょう。そして、ふつうの映画で言えば主人公として彼女のための物語が語られているかのようにこの作品が見えるジャファリは、村人たちも歓迎し、敬意を表する人気女優だけれど、そもそもの物語の発端を形づくるマルズィエを追い詰めるのは、女優を志す「未来」の女優と言っていい彼女に襲い掛かる、彼女の家族や村人たちの根強い偏見、いわれない侮蔑感、理不尽な敵意ですし、「過去」の女優シャールザードに対する視線も同様に彼女を忌避し、村八分的に孤独に追いやる力学が働いていて、実際には「過去」も「未来」も、従ってまた当然「現在」も、一つも変わることのない、その種の抑圧的な共同体の力学が働いているわけです。
ここで描かれているのはそういうイラン映画史の過去、現在、未来にわたる抑圧ですが、それを通してもちろんパナヒ監督が描こうとしたのはイランの政治的抑圧と同時に、それに正確に響き合うように根強く民衆の間に存在する共同性の抑圧力のようなものでしょう。それをジャファリに寄り添って村を訪れるパナヒ監督という、非常に微妙な距離感をもった視点から見、物語って、3人の女性、しかもその一人は姿も現さないのに要の位置に置くようにして、時間的な奥行きを鮮やかに浮かび上がらせていく、この脚本の見事さんには本当に感心しますし、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したというのもうなずけます。
当初の推理小説的なストーリーに惹かれて物語をたどろうとすると、ジャファリが入っていったシャールザードの家で何が起きたのか、またその後、車にとどまるパナヒを残して、ジャファリとマルズィエの二人だけでマルズィエの家に入っていって、荒ぶる弟やテヘランへ娘を探しに行って帰ってきていた頑迷な父親をどんなふうに説得し、どんなやりとりがあったのか、全然観客には知らされないので、肩透かしをくらったような気がするかもしれません。でもこの映画は推理小説のように、こうなってああなって、実は犯人がこいつで、こんな風につかまりました、と物語る映画ではありません。物語を起動し、次にどんな危機が待ち受けているかと私たちをハラハラさせ、引き込んでいく仕掛けとして、それは実にうまく仕組まれていますが、マルズィエが生きているとわかり、シャールザードが姿こそ現さないけれども、この物語の中に存在感を持って登場するあたりから、この作品の真に語りたかったことが明確に私たちの前に姿を現します。
シャールザードの家でのできごとは、遠く離れた位置にとめた車で待つパナヒの目を通して見える夜景の中の明かりのともった一軒の家の窓に映るわずかな影の動きしかわからないし、ジャファリとマルズィエが招き入れられたマルズィエの家の扉が閉ざされると、外の車で待つパナヒ同様、私たち観客にも中で何が起きたかは分かりません。
その間、マルズィエの荒ぶる弟は両親によって外に締め出され、車で待つパナヒと距離を置いて向き合う形になります。パナヒは弟の敵意ある視線と間の悪さを避けるかのように、車を降りて垣根の隙間越しに開けた風景が見える場所にやってきて、たまたまそこにシャールザードが一人、キャンヴァスに向かって座り、無心に風景画を描いている後ろ姿を目撃します。シャールザードの姿がはっきりとらえられるのはこの場面だけです。顔かたちも分からないけれど、一心にキャンヴァスに向かう彼女の姿は孤独ではあっても絵を描く自分の世界に没頭してやまない凛とした姿で、パナヒと共に私たちが聴いた彼女の朗読する自作詩と同様に、鮮やかに彼女の持続する立ち位置を示して、私たちに深い感動を与えます。
マルズィエの家で二人が両親とどんな話し合いをしたのか、そんな場面はありません。再び村を出る一本道に車を走らせ、村人の約束事通り、クラクションを鳴らし、行く手の道から姿の見えない対向車が急いでいるから先に通せという合図の二度のクラクションが聞こえ、それに対してこっちも急いでいるから、とさらにクラクションを長めに鳴らすパナヒ。それにまた遠くから、さらに長めのクラクションが聞こえ、パナヒは車をとめたまま待機し、同乗していたジャファリは、少し歩いてみるわ、と車を降りて長い九十九折の道をどんどん歩いていきます。その時向こうから、前日の牛男が言っていた、十数頭もの牝牛を載せたドラックが数台連なってやってきて、ジャファリとすれ違うようにこちらへやってきます。
ズイズイと歩いていくジャファリの背に、待って!と声を挙げ、駆け出して追っていくマルズィエ。彼女はジャファリに追いつき、二人の女、「現在」の人気女優とおそらくは「未来」の女優である少女とが手を携えてパナヒの視野から遠ざかっていきます。
この二人の女性の姿を、それを見送るように眺めているパナヒの位置に私たち観客が置かれて彼と共に眺めていると、シャールザードの家で二人が何を授かってきたのか、そしてマルズィエの家で二人がどんな風にふるまい、どんな結果におわったのか、そしていま二人がどんな未来へ踏み出そうとしているのかが、推理小説の種明かしとは違った形で、じわっと胸に迫るようにして全部わかるような気がします。本当に見事なラストです。
新聞で評判になった映画をたまに見る程度の私はイラン映画というと日本でもよく知られたキアロスタミ(「友だちのうちはどこ?」「オリーブの林をぬけて」「桜桃の味」)とかモフセン・マフマルバフ(「サイクリスト」「ギャベ」「サイレンス」「カンダハール」)の本の数本を見ているだけで、他は全然知らないと思っていました。
ところが今回出町座のこの映画のチラシを見ていたら、パナヒ監督が「白い風船」の監督だと書いてあったので、はるか昔に見たあの映画のことが突然また目の前に置かれたように思い出されて、これはぜひ見ておきたいと思ったのです。
「白い風船」は少女を主人公にした子供の世界を描いた作品でしたが、それでも彼女の生きる世界が実に手触りのきく抒情的なタッチで描かれて、すごく印象に残っていました。あれは、たまたまテレビで放映したのを見て、私が大好きなフランス映画「赤い風船」を真似た中近東の映画かいなくらいに思って見ていたら、どんどん引き込まれて、見終わると深い感動を覚えていたので、記憶に残っているのです。そんな偶然の出会いでしたから、監督の名前も、どんな人なのかも知らないままで、その後どんな映画を作っているかも知りませんでした。
今回この映画を見て、パンフレットに目を通して、遅まきながら、あの「白い風船」がこの監督のデビュー作だったことや、その後素晴らしい作品をとりつづけながら、イラン社会の古い因習や強固な女性差別にユーモアたっぷり鋭く切り込む作品のために、イラン現政権に逮捕されたり、映画製作を禁じられたりして、それでもなお映画を撮り続けて、それがいずれも海外の映画祭で受賞するなど高い評価を受けている、ということを知りました。
映画を撮るのを禁じられて、「これは映画ではない」という作品を撮っているところなど、この監督の真骨頂で、まだ残念ながら見ていないけれど、今後見る機会があればぜひこの監督の作品は全部見たいと思いました。今回のこの「ある女優の不在」も素晴らしい作品でした。
ストーリーはネット上などでも紹介されていますが、イランで人気の女優ベナーズ・ジャファリ(本人が本人を演じています)のところへ、映画女優を志してテヘランの芸大へ合格しながら、親や周囲の猛烈な反対にその道を閉ざされた少女マルズィエというファンから、夢がかなわないならもう死ぬしかない、あなたしか助けてくれる人はないから、親を説得しに来てくれ、と親友に動画を託すメッセージを自撮りしたようで、そのラストは首をつって自死する動画になっている、そのメッセージを送りつけられ、連絡を試みるも連絡がとれず、少女の身を心配し、事の真偽を確かめるために、撮影現場を放り出してまでして、監督パナヒ(この映画の監督本人が演じています)とその少女の住むイランのアゼルバイジャンの村まで車で出かけます。
有名女優と映画監督が来たというので、村人たちが集まり、口々に歓迎の言葉をかけますが、マルズィエを探している、と言ったとたんに、あんな馬鹿娘に会いに来たのか!と罵りの言葉を放って散っていきます。どうやら少女が死んだ(とすれば)ことを村人たちはまだ知らず、しかも有名女優は歓迎するそぶりだったのに少女が女優を夢見ることに関しては、まるで女優など役立たずの人間の屑で、村の恥さらしだ、と言わんばかりの偏見に満ちた態度で強く否定しています。
少女の妹の案内で少女の自宅を訪ねると、少女の弟だという巨漢の青年が、姉を村の恥さらしだと憤っていて、二人に出て行けと威圧しますが、母親が彼を閉じ込めて、二人を招き入れ、マルズィエがもう3日間も帰宅せず、心配していると告げます。しかし彼女もまた娘の女優志願には反対で、あきらめさせるために、どうせ合格しないだろうと結婚と引き換えに芸大受験を認めたのですが、合格してしまったので困惑しているようです。
マルズィエの親友の少女も、マルズィエの行方を知らないというので、少女が送っていた動画に映っていた自死したと思われる場所、近くの洞窟のありかを聴いて、パナヒとジャファリは洞窟へ行き、少女が動画の中で首を括るときロープをぶらさげた木の枝をみつけますが、ロープもないし、死体も見当たりません。やはりお芝居なのかというジャファリに、パナヒは、いや家族の恥だと思っている彼女の家族が片づけてしまったのではないか、と言います。このあたりまで、ずっといわば推理小説仕立てと言っていいようなところがあって、冒頭の少女の自死の衝撃的な場面から、ぐいぐい引っ張っていく手際は、純文学的映画というより、上質のエンターテインメントというほうがいいような感じです。
しかし、その後マルズィエ本人がジャファリの前に現れ、ジャファリは自分を騙して村まで誘い出したマルズィエに怒り狂って、こうするほかになかったと言って謝罪しつつなお救いを求める彼女を激しくひっぱたきます。
ジャファリとパナヒは村を出て行こうとしますが、途中村の出入り口にあたる長い九十九折りの一本道で崖から落ちて傷つき、うずくまる巨漢の牛に遮られてしまいます。牛を連れた男は、その牛がただの牛ではない、稀有の精力絶倫なる種牛で、ちょうど十数頭の雌牛に種付けするために行く途中だったなどと物語ります。
この辺りは、そんなセリフを言ってる男は大真面目だけれど、観客の私たちが聴いていると思わず笑ってしまう、ユーモラスな場面です。また、ほかにも、ジャファリが誘いをうけてちょっと寄る村の老人の家の縁で接待を受けながら老人が息子の割礼についてとくとくと語り、そのときの息子の包皮を皮袋か何かに入れていて、これを自分がほとんど崇拝するようにポスターを何十年も大切にしまい込んでいたイランの男優ベヘルーズ・ヴスーギに渡してほしい、とジャファリに依頼する場面も同様に、爺さんはその包皮を埋める場所が好運や不運をもたらすという俗信を固く信じているような爺さんで、大真面目なのですが、それを困惑しながら受け取るジャファリとのこの場面も、大いに笑えてしまう場面です。
このベヘルーズ・ヴスーギという男優は、この場面で爺さんが言うように、もともとイランを代表するマッチョやヒーロー役を演じて人気のあった男優らしく、三船敏郎みたいな俳優だ言っている人もあるらしいのですが、私も近年ビデオで見た、亡命監督バフマン・ゴバディの映画「サイの季節」というイラン革命の創り出した社会状況に批判的でシリアスな作品の中で、革命の混乱の中で30年間投獄された詩人サデッグ・キャマンガールがモデルのサヘルを演じていたことが、パンフレットを読んでいるうちにわかりました。現在は米国在住です。
もともとなじみのないイランの俳優の名など記憶に残らない上、今回見た作品で老人が語るような役柄をやって人気のあった男優というのと、「サイの季節」のようなシリアスな作品で政治犯として獄中にあった詩人のようなインテリのイメージとの落差もあり、また名前の日本語表記が情報によってひどく違っているので、最初同じ人と思わなかったのですが、今回の作品のパンフレットに出演作の記述があったので、ちょっと調べてみたらこの人だとわかりました。ただ、今回の作品には老人の語りと彼が持っていたポスターの写真でしか登場せず、出演はしていません。
さて、牛に妨げられたこともあって、村へ引き返すことになったとき、パナヒはジャファリに、さっき少女に激しい怒りをぶつけてひっぱたいたのは、少々やりすぎじゃないか、どうせ村へ引き返すなら仲直りした方がいい、と言います。
こうして二人は少女がかくまわれている家へ行き、パナヒは車にとどまり、ジャファリだけが家へ行きます。少女をかくまっていたのは、往年の伝説的なイランの女優シャールザード(実在の女優。この映画では名前の使用を許諾し、自作の詩の朗読をして協力していますが、女優としては出演していません)で、イラン革命後は女優としての活動を禁じられ、村人たちに、女優なんてものになったら、あんなふうにみじめになる、などと言われながら、意に介さず、村人たちと接触することもなく、毎日絵を描きながら孤高の生活を送っています。ジャファリはマルズィエと共にシャールザードの家に行き、歓待され、彼女からパナヒへの贈り物だと、シャールザードの詩の朗読CDを車で待っているパナヒのところへ持ってきます。一人になったパナヒがそのCDをかけて、私たちはシャールザードの自作詩の朗読を聴くことになります。
この映画で、シャールザードはこの自作詩を朗読する声として登場するほかは、ただ車で待つパナヒの目で、夜の闇の向こうに遠く、明かりのともる家の中にいるらしい影としてしか姿を垣間見せるだけで、その表情も姿もどんな人かはわかりません。けれども、この作品では、ジャファリ、マルズィエとともに3人目の女性、3faces の一つとして、その要の位置を占めるような非常に重要な役割を与えられているように思います。おそらく、それを表現しようとして、邦訳は「ある女優の不在」と、彼女の欠落を強調したのでしょう。
しかしもう少し客観的にみれば、ジャファリがイラン映画史の「現在」を体現する女優だとすれば、シャールザードはその「過去」を体現し、また女優志願の少女マルズィエはその「未来」を体現するものでしょう。そして、ふつうの映画で言えば主人公として彼女のための物語が語られているかのようにこの作品が見えるジャファリは、村人たちも歓迎し、敬意を表する人気女優だけれど、そもそもの物語の発端を形づくるマルズィエを追い詰めるのは、女優を志す「未来」の女優と言っていい彼女に襲い掛かる、彼女の家族や村人たちの根強い偏見、いわれない侮蔑感、理不尽な敵意ですし、「過去」の女優シャールザードに対する視線も同様に彼女を忌避し、村八分的に孤独に追いやる力学が働いていて、実際には「過去」も「未来」も、従ってまた当然「現在」も、一つも変わることのない、その種の抑圧的な共同体の力学が働いているわけです。
ここで描かれているのはそういうイラン映画史の過去、現在、未来にわたる抑圧ですが、それを通してもちろんパナヒ監督が描こうとしたのはイランの政治的抑圧と同時に、それに正確に響き合うように根強く民衆の間に存在する共同性の抑圧力のようなものでしょう。それをジャファリに寄り添って村を訪れるパナヒ監督という、非常に微妙な距離感をもった視点から見、物語って、3人の女性、しかもその一人は姿も現さないのに要の位置に置くようにして、時間的な奥行きを鮮やかに浮かび上がらせていく、この脚本の見事さんには本当に感心しますし、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したというのもうなずけます。
当初の推理小説的なストーリーに惹かれて物語をたどろうとすると、ジャファリが入っていったシャールザードの家で何が起きたのか、またその後、車にとどまるパナヒを残して、ジャファリとマルズィエの二人だけでマルズィエの家に入っていって、荒ぶる弟やテヘランへ娘を探しに行って帰ってきていた頑迷な父親をどんなふうに説得し、どんなやりとりがあったのか、全然観客には知らされないので、肩透かしをくらったような気がするかもしれません。でもこの映画は推理小説のように、こうなってああなって、実は犯人がこいつで、こんな風につかまりました、と物語る映画ではありません。物語を起動し、次にどんな危機が待ち受けているかと私たちをハラハラさせ、引き込んでいく仕掛けとして、それは実にうまく仕組まれていますが、マルズィエが生きているとわかり、シャールザードが姿こそ現さないけれども、この物語の中に存在感を持って登場するあたりから、この作品の真に語りたかったことが明確に私たちの前に姿を現します。
シャールザードの家でのできごとは、遠く離れた位置にとめた車で待つパナヒの目を通して見える夜景の中の明かりのともった一軒の家の窓に映るわずかな影の動きしかわからないし、ジャファリとマルズィエが招き入れられたマルズィエの家の扉が閉ざされると、外の車で待つパナヒ同様、私たち観客にも中で何が起きたかは分かりません。
その間、マルズィエの荒ぶる弟は両親によって外に締め出され、車で待つパナヒと距離を置いて向き合う形になります。パナヒは弟の敵意ある視線と間の悪さを避けるかのように、車を降りて垣根の隙間越しに開けた風景が見える場所にやってきて、たまたまそこにシャールザードが一人、キャンヴァスに向かって座り、無心に風景画を描いている後ろ姿を目撃します。シャールザードの姿がはっきりとらえられるのはこの場面だけです。顔かたちも分からないけれど、一心にキャンヴァスに向かう彼女の姿は孤独ではあっても絵を描く自分の世界に没頭してやまない凛とした姿で、パナヒと共に私たちが聴いた彼女の朗読する自作詩と同様に、鮮やかに彼女の持続する立ち位置を示して、私たちに深い感動を与えます。
マルズィエの家で二人が両親とどんな話し合いをしたのか、そんな場面はありません。再び村を出る一本道に車を走らせ、村人の約束事通り、クラクションを鳴らし、行く手の道から姿の見えない対向車が急いでいるから先に通せという合図の二度のクラクションが聞こえ、それに対してこっちも急いでいるから、とさらにクラクションを長めに鳴らすパナヒ。それにまた遠くから、さらに長めのクラクションが聞こえ、パナヒは車をとめたまま待機し、同乗していたジャファリは、少し歩いてみるわ、と車を降りて長い九十九折の道をどんどん歩いていきます。その時向こうから、前日の牛男が言っていた、十数頭もの牝牛を載せたドラックが数台連なってやってきて、ジャファリとすれ違うようにこちらへやってきます。
ズイズイと歩いていくジャファリの背に、待って!と声を挙げ、駆け出して追っていくマルズィエ。彼女はジャファリに追いつき、二人の女、「現在」の人気女優とおそらくは「未来」の女優である少女とが手を携えてパナヒの視野から遠ざかっていきます。
この二人の女性の姿を、それを見送るように眺めているパナヒの位置に私たち観客が置かれて彼と共に眺めていると、シャールザードの家で二人が何を授かってきたのか、そしてマルズィエの家で二人がどんな風にふるまい、どんな結果におわったのか、そしていま二人がどんな未来へ踏み出そうとしているのかが、推理小説の種明かしとは違った形で、じわっと胸に迫るようにして全部わかるような気がします。本当に見事なラストです。
saysei at 00:29|Permalink│Comments(0)│