2019年10月
2019年10月28日
時代祭 2019
昨日は時代祭の行列を見に行きました。本来は10月22日のはずが、即位礼と重なるので26日に変更されたそうです。御所を正午に出発、烏丸丸太町から南行して、先頭が12時50分頃から烏丸御池に来て、東へターンして河原町御池で再び南へ、三条通りを東へ神宮道まで行って北上し、14時30分に平安神宮に至るというコースだったそうです。私は高島屋のフォーションでパンを買って、三条まで歩いてチョコのお店へ寄ってから、御池へ出てそのまま烏丸通りを北上し、ちょうど先頭が烏丸丸太町へ出てきたところで、そこから少し下がった烏丸通りの東側で見ていました。先頭から末尾まで全部!(笑)
行列というのは動く博物館で、私は自分が関わった京都市歴史博物館構想のプロジェクトの時、この博物館の中に回廊を作って、京都三大祭の三種の行列を実際の人間の三分の一くらいの精巧な歩けるロボット(博物館ができるころには開発されているだろうと思っていたので)で厳密に再現して館内の回廊を常時巡回させられるといいな、とひそかに思っていました(笑)。映像よりずっとインパクトがあって、面白だろうな、と。
行列の先頭は「名誉奉行」と言って、府知事と市長が同乗する馬車が行きました。これまで何度か時代祭はみていましたが、こういうエライサンたちに関心がないせいか、これまで知事さんやら市長さんが先頭を走ってるなんてちっとも気づいていませんでした。
明治維新から時代を逆にたどるので、最初は錦の御旗を掲げ、鼓笛隊のおなじみの演奏を聴かせながらの「維新勤王隊列」。
「幕末志士列」の先頭は桂小五郎。
つづいて西郷吉之助。
坂本龍馬。ほかにも志士は中岡慎太郎、高杉晋作、吉田松陰、吉村寅太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、橋本左内、平野国臣、それに次の七卿落の公卿を守護していく真木和泉と久坂玄瑞も登場します。
七卿落。倒幕を企図した三条実美以下の尊王倒幕派公卿が京都から追放され、長州へ落ち延びる様子です。
志士列の中には、この近衛忠熈や姉小路公知らの姿もあり、それぞれ束帯姿、参朝姿で参加しています。
江戸時代に入って最初は「徳川城使上洛列」。朝廷の大事な儀式に幕府が上洛させた城使の行列で、これは挟箱持というのでしょうか、こいつを駕籠屋のように肩に担いで、けっこう激しい動きではねるように進むのでお疲れのようで、信号待ちでは荷を下ろしてほっと一息。
「江戸時代婦人列」はこの行列の観客から見た場合のハイライトの一つでしょう。衣装だけでも見ものです。これは徳川家茂のところへ降嫁した仁孝天皇の皇女和宮です。
「大田垣蓮月」。江戸末期の女流歌人で陶芸にも秀でたそうです。蓮月はのちに尼になったときの呼称で、行列は若き日の姿。
「 中村内蔵助の妻」。富豪の妻で、衣装の比べの逸話で有名なのだそうです。色鮮やかな衣装を競う婦人たちの中で、彼女は白無垢に最上級の黒羽二重の打掛けという姿で現れ、かわりに侍女たちにはほかの婦人にも劣らない豪華絢爛たる衣装をまとわせるという演出をしたといいます。
「玉瀾(ぎょくらん)」。画家池大雅の妻で画人としても知られるそうです。こういう人選って、誰がやったんでしょうね。そういえば江戸時代の女性とか和宮と吉野太夫くらいしか私は知らないんじゃないかな(笑)。こんな人は今回初めて知りました。
「祇園梶女」。ひとつ前の玉瀾さんのお母さんですって。祇園で水茶屋を営み、歌人でもあったそうです。
「吉野太夫」。さすがにこの方は知っておりました。彼女が山門を寄付した常照寺にも参りましたし。
「出雲阿国」。江戸時代と言ってもこれは時代の入り口で、むしろ安土桃山の雰囲気です。四条大橋の袂に銅像が立っていますね。
というわけで次は安土桃山時代。最初は「豊公参朝列」。維新で生まれた祭ですからね、朝廷優先ですね。武家もみなこうして参朝し、天子様に礼をつくしたのだぞ、と。(この祭自体が、桓武天皇、孝明天皇を合祀する平安神宮のもので、最後に登場する御神幸列の鳳輦も桓武、孝明両帝を祀っているようだから、当然と言えば当然でしょうか。)
「織田公上洛列」。
「織田信長」。
「滝川一益」。いい武者ぶりでした。
室町時代に入ります。「室町幕府執政列」より。
公家や医師なども行列に加わっています。
「室町洛中風俗列」より。
同前。
いわゆる南北朝の「吉野時代」(っていうのですね、時代祭では)にはいり、「楠公上洛列」の「楠木正成」。
「中世婦人列」もうひとつのハイライトですね。
「大原女」。頭上にのせた薪に紅葉が挿してあって、これが鞍馬の火祭の松明を連想させました。
こちらは「桂女」。
「淀君」
「藤原為家の室」。『十六夜日記』の著者。市女笠に虫の垂衣を垂れ、半足袋に草鞋を履き、道中安全を祈るお守袋をかけ、訴状を文杖にさしているということです。この方に会えただけで、長時間のこの行列を見ていた甲斐がありました!(笑)
ほんとうに鎌倉時代の美しい女性のようです。
すばらしく衣装も似合っていて、素敵でした。いやこういう時代祭の見方は邪道かもしれませんが(笑)、こんなに美しい女性に出合うと、美しいものは美しいと愛でて何が悪い?と居直りたくなりますね。今回の行列の婦人列には花街の舞妓さんや芸妓さんが多数参加されていると聞いていますが、祇園かどこかの舞妓さんなんでしょうか・・・
(追記: 中世婦人列を出しているのは、上七軒歌舞会だと、所功さんの『京都の三大祭』にありました。やっぱりね)
十六夜日記、まだ読んでない ^^; これは読まなきゃ死ねないな(笑)
「静御前」。後ろ姿で失礼。白拍子のもつ鼓が見えますね。
鎌倉時代は「城南流鏑馬列(じょうなんやぶさめれつ)」。1221年、後鳥羽天皇が朝廷の権威回復のため、城南離宮で近畿十余国の武士1700名を招集して行った流鏑馬の一場面をあらわすのだそうです。
藤原時代。「藤原公卿参朝列」。
「平安時代婦人列」の「巴御前」。
「横笛」
「常盤御前」
「清少納言と紫式部」
「紀貫之の女(むすめ)」
「小野小町」
「和気広虫」。多くの孤児の養育に励まれた方だそうです。
「百済王明信」。桓武天皇の御代に女官長として仕えていた方だそうです。唐衣に裳の唐風の装束で翳(さしは)を手にし、侍女を従えた姿。
延暦時代に入り、「延暦武官行進列」より。
こちらは「延暦文官参朝列」より。
ひととおり時代を遡って、最後は時代祭当日の神饌物を奉献する役目の人たちの「神饌講社列」、その前をいく「前列」、賢木を先頭にこの御鳳輦(ほうれん)がつづき、宮司以下神職が前後につき従う、この「神幸列」とつづきます。
「白川女献花列」より。
ラストは「弓箭組列(きゅうせんくみれつ)」。源頼政に従い、弓矢の技に優れた人たちの子孫の人々によって作られた、弓箭組の列だそうです。ちらっと左端に矢羽根がみえますね。馬上の方は弓はもっていないから、単にしんがりをつとめるかたかもしれません・・・。
以上、なが~い行列でしたが、あらためて一つ一つ見ると結構面白いものです。写真は自分で昨日撮ったものですが、説明文はウエブサイトの「時代祭2019 京都観光情報 KYOTOdesign」https://kyoto-desig.jp/special/jidaimatsuri を参考にさせていただきました。
最後にもう一枚だけ藤原為家の室を・・・
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2019年10月23日
タル・ベーラ監督「ニーチェの馬」を見る
タイトルを見て敬遠していたのですが(笑)、先日小田香さんの「鉱」を出町座で見て、このブログに感想を書きながら、小田監督がタル・ベーラのお弟子さんというだけじゃなくて、あの映画自体の「監修者」となっていたなぁ、と思ったら、なんとなく以前に見た「倫敦から来た男」というやたら長々と不必要に(と思えるほどの)長回しで登場人物の表情など捉えていた変な映画(笑)のことがまた思い出されて、レンタルビデオ屋にそれはなかったけれど、「ニーチェの馬」という同じ監督のこれまた変なタイトルのDVDがあることは前から気づいていたので、今日借りてきて見ました。
難しげな哲学がやりたいなら何も映画で迂回しなくたって 、論理の言葉できちっと詰めていけばいいじゃないか、という気持ちがあるので、こういうタイトルの作品は敬遠していたわけです。でも、英語のタイトルはThe Turin Horse で単なる「トリノの馬」で、ハンガリーは知らないけど、torinoらしき単語が入っているので、英語のタイトルと同じなんでしょう。
トリノならイタリア人の友達がいて、訪ねて行って、友達の友達の家に泊めてもらって、家族から歓待され、仮装してパーティーに出たりして楽しい思い出のある町。
誰やねん?「ニーチェの馬」なんて邦題つけたのは?(笑)やめてほしいですね、こういうペダンチズムだか神格化だか知らないけど、わざわざ話をややこしくするようなもったいぶったタイトルに変えちゃうなんてことは。
そうでなくても、これが伝説の巨匠の「最後の作品」だ!なんて、映画会社や配給会社の宣伝文句ならわかるけど、知ってか知らずか監督自身が自己神話化に加担してるみたいなところがあるんですから。
でもこの映画は前に見た「倫敦から来た男」よりは単純でわかりやすかったですね。もちろん監督を崇拝する信徒さんたちから見れば、「わかりやすい」なんてごくごく上っ面のことに過ぎない、ってことになるでしょう。もちろんここではそういう上っ面の意味で、ってことで十分です。
先に全体を見てすぐにわかることは、あぁこれは旧約聖書創世記の、神が世界を創り給うた6日間を逆に辿って見せる終末論的な寓話なんだな、ってことです。
それは「地は形なく、むなしく、闇が淵の面にあり」光もなかったところへ神が「光あれ」と光を創造した創世記の第一日目から、「すべて命あるものには食物」が与えられる第6日目に至る創世の六日間を、きちんと遡って、ランプの光の下に男も女もおり、水も食物も与えられた日々から、すべてが失わた闇と沈黙の世界に還っていく構成によって誰にでもわかるようにかたどられています。
登場する人物も物も舞台装置も最小限に絞られていて、その数少ない要素の組み合わせが作る世界は自ずと寓意を孕むようにできています。
そうじゃなきゃ、そもそも彼ら(二人の主役)はなぜここへ来たのか?なぜもっと早くこんな場所から脱出しなかったのか?なぜ必要なことが分かりきっている備えをもっと早くにしておかないのか?等々、普通なら疑問に思うでしょう。
これが余計なものを削ぎ落とした人間の様相だと言ったって、もともと家も井戸も竃もランプも彼らが着ている衣服も長靴も、なにもかもが、彼ら自身ではないだろう他者としての人間が作り出したものであって、現実に他者が現れようが現れまいが、彼らだって他者と関わり、社会的人間として生きているわけです。
そして、彼らがそうした社会に参加し、働きかければ、彼らが陥っていくような様々な困難、井戸が枯れるとか、ランプの火がつかなくなるとか、馬が動いてくれず町にも行くことができないとか、そんなことは簡単に解消できるのです。それはちっとも彼らの宿命などではない。
でもここで描かれた世界には、そうした外部はないし、他者もいません。たまたま登場する他者に見える人物たちは、皆二人が拒むための存在に過ぎず、寓話がその寓意を伝えるために必要な小道具にすぎません。
本来は主役を務める男は荷車で町へ行ったり来たりしていたはずなので、他者と関わりを持ち、限られてはいても直接的な一定の社会性を持っていたはずなのですが、ここでは敢えてそうした目に見える関係性を切断された状況が作り出されて、閉じた世界を舞台としています。
目に見える社会性を全部カットしてしまい、最小限の要素の組み合わせだけで描かれる墨絵のように間の多いシンプルなモノクロの世界は自ずと寓話の世界に転じます。
人が生きるために必要な最小限の要素、水とジャガイモ、そのジャガイモを茹でる竃とランプの為の火種、雨風を防ぐための粗末な家、荒塗りの土壁に小さく硬そうなベッド・・・そんなものとあとは外部との唯一の交流手段らしい駄馬と荷車だけを備えて、低い丘陵地帯で外の世界から隔離された吹きっさらしの荒地に、昨日と同じように今日があり今日と同じ明日があるような単調な繰り返しの日々を送る父と娘は、エデンの園を追放されたアダムとイヴのなれの果てでしょうか。
映像のドラマが始まる前に、ナレーションで、ニーチェのトリノでのエピソードが語られます。それは、ニーチェが精神を病んでしまう直前のことだったようですが、トリノの街路で一向に歩き出そうとしない荷馬車の馬に苛立った御者が激しく馬を鞭打つ光景に遭遇したニーチェが、駆け寄って馬の首を抱いて、御者に鞭打つのをやめさせた、というのですね。それからニーチェは心を病んで死ぬまでの10年間を母親らに見守られて生きた。だが、あの「ニーチェの馬」のその後は知られていない、と。
そこからこの映画が始まるので、この映画はあの「ニーチェの馬」のその後を描いたものですよ、ということが示唆されているんだと考えればいいのでしょう。このナレーションだけのことなら、何もわざわざ著名な哲学者先生を引っ張りださなくたっていいのに、なんでそう深遠っぽく見せたいわけ?と半畳を入れたくもなりますが、もう一箇所、2日目に髪のうすい変な男が突然やってきて、いきなり滔々とわけのわからないことを言うだけで言って出て行くのですが、そいつがまぁ神が死んだとか、昨日のように今日があり今日のように明日があると思っていたとか、永劫回帰を匂わすようなことを口走るのですね。これがタル・ベーラ先生のニーチェなんでしょうから、そいつが登場したらこの冒頭のナレーションを思い出してよね、っていう信者さんたちへの目配せなんでしょう。
映像としての冒頭のシーンは黒いコートを着た一人の髭面のやや険しい顔をした年配の男(後のナレーションで「オルスドルフェル」という名だと知れますが、別段その名に意味があるようには見えません)が駄馬に曳かせた荷車に乗って、強い風と靄の中を鞭を振るって進むのを延々と映し出します。後方の低い位置に靄に霞む白っぽい太陽が見えます。
男が馬に鞭を入れてただひたすらに風の中を疾走するこの映像はなかなか力強くて、長くても退屈はしません。駄馬と書きましたが、それは競馬のヒーローになるようなスマートな馬じゃなくて、首も胴も太くてずんぐりした、なんだか薄汚れたまだら模様みたいな肌合いの、どう見ても荷車を引っ張っていく労役用にしか見えない馬って意味です。
でもこの駄馬が画面では実に生きていて、その進行方向の左のすぐ前やや下方に視点を据えた移動するカメラによって風雨に逆らって進んでくるその表情をアップで捉えるような映像が、すごく迫力があって、駄馬がその一瞬ごとに映画的名馬になっています。
やがて男の家らしきものの前に着いて、一人の女が出迎え、荷車と馬を切り離し、厩へ入れたり、後始末をします。ひどく風が強く、寒そうです。向こうには囲むように丘陵地帯が見え、家のあるあたりは何もない吹きっさらしの荒地といった感じです。
手のひらにのる程度の石を粘土質の土にはめ込んだような壁の簡素な家の中に入ると、家の中は薄暗く、外へ開いているのは窓ひとつ。壁は荒塗りしたままのグレーの土壁で、その隅に男の狭くて硬そうなベッドがあります。男は右腕が使えないようで(麻痺か何かで)なんでも左手だけでやっていたらしいことにここで初めて気づきましたが、この男のために女が男の衣服を脱がせ、着替えさせたりします。着替えが済むと男はベッドに横たわり、女は蓄えの大きなジャガイモを二つ、鍋の水に入れ、竃の火にかけて茹でます。茹でる間、女は窓際の椅子に座って、窓を通して見える外の風景をじっと眺めています。この間聞こえてくる音楽は画面と同様に、とても単調です。
ジャガイモが茹で上がると、ここで初めて女が「食事よ」と男に声をかけます。それまで、この映画は男も女も一言も声を発しません。馬もです(笑)。
男は起きてきて、食卓らしい机の前に座ります。粘土づくりのようなごつい皿にのせられた大きなジャガイモ一個。これを男は熱がりながらも手で皮をむいて、適当なところで潰して小さくし、そのまま手掴みで食べます。食べる男の表情をアップで延々と撮るのがこの監督の流儀です。向き合って座った女の前にもジャガイモ一個。同じように手で皮を剥きながら手づかみで口に運びます。
粗末な食事が終わると女が後片付けをします。竃では火種の薪が赤々と燃えています。女は薪を足します。この調理に使う竃の火は部屋に三つあるオイルランプの灯りを灯す火種にもなるようです。
「もう寝ろ」と男の声。女は寝る前に水を使ってどうも顔を洗っているようでしたが、よくわかりませんでした。灯りが消えると闇です。
「おい、お前」と男が呼びます。
「何?」と女が応えます。
「木喰い虫の啼き声が聞こえん・・」みたいなことを男が言い、お前気づかないか、みたいなことをいいます。(実際のセリフはちょっと違っていたかも知れません)
「どうしてかしら、父さん」と女が応えるところで、初めて、あぁこれは父と娘なんだ、とわかります。いや、二人のどうも「男」と「女」ではなさそうな感じから、そうだろうなとは察しているのですが、本当のところはわからないので(だって、事情あって、伯父と暮らす姪かも知れないし、歳の離れた夫婦で旦那の方が大怪我をして不能な上偏屈なのかも知れないじゃないですか・・笑)、ここで初めて確信が持てるわけです。
「わからん」と父が応えます。
あとは暗闇の中で唯一明るい被写体、竃の火から漏れる明かりが延々と映されます。
ここまでは「一日目」です。
次に「二日目」の文字が出て、二日目が始まります。
朝父親が起きると、家の外の井戸で水を汲んで戻った娘が父親の着替えを手伝います。男も穿かせてもらったズボンをずり上げるくらいはやりますが、あとはほとんど突っ立ったまま娘に着せてもらっています。ベスト、上着、黒マント、長靴などを身につけて厩に行き、娘が荷車を引っ張り出し、馬を金具で牽き棒に馬を繋いで、父親は馬に鞭打って動かそうとしますが、馬は動こうとしません。
男は使える左手に持った鞭をやたらに振るって馬を打ち据えますが、馬はビクともせず娘がやめて、と父親を止め、男は諦めて馬を厩に戻して出かけるのをやめてしまいます。
この場面は当然、先に書いたように、映画の冒頭にナレーションで語られるニーチェのトリノでのエピソードと重なってきます。
仕方なく男は家の中で手斧を振るって薪を割る作業をしています。娘は金盥に湯気の出る湯を入れて洗濯して、白いシャツを屋内に干しています。干された白いシワシワのシャツの面を間近に捉えたカメラが故障したみたいに動かず、その像を捉え続けます。
常に家の外で吹きすさぶ風の音が聞こえています。
男の髭面の横顔のアップ、ランプの火、左手にアイスピックみたいなのを握って皮のベルトか何かを突き刺して穴を開けている男。
「食事よ」と娘が声をかけ、またジャガイモ一個。茹でたてのやつを手で皮をむしり取って食べます。食事の後、父は窓辺に座って外を眺め、娘は後片付け。
その時戸を叩く音がして、髪の薄い太り気味の中年男が入ってきます。バーリンカという焼酎を分けてもらえないか、と言うのです。いいよ、あげるよ、と言うと男は中へ入って机の前に座り、いきなり滔々と喋り始めます。それがものすごく長い長い語りで、その間ずっとオルスドハフェル(女の父親)は黙って聞かされているわけです。我々観客もね(笑)。
バーリンカはありふれたリキュールらしくて街でなんぼでも買えるのに、なんで?みたいな感じでオルスドハフェルが訊くと、「町は風でやられて滅茶苦茶だ」と髪の薄い男が答えます。まさか台風15号や19号が行ったわけじゃないでしょうが、何か街では途方も無いことが起きているらしい、ってことは男の話から伺えます。
しかしどうもそれは、台風で家屋が倒壊したとか、大雨で住居が浸水して泥にまみれた、というふうな具体的な話ではなさそうで、人間がみんな堕落してしまった、というようなデッカイお話のようです。風というのはどうやら「風邪」と書くほうが良さそうで、よほど悪いヴィールスを感染させてダウンさせる精神のインフルエンザみたいなもののようです。「町は風にやられた」じゃなくて「町は風邪にやられた、精神のインフルエンザに!」くらいに字幕変えたほうがいいかも(笑)。
人間が一切をダメにし、堕落させた。神も加担はしたが、人間自らが「審判」を下し、そのおかげで世界は堕落した。汚い手を使って不意打ちし、触れたものをみな堕落させ、大空も夢も自然も不死も奪っていった。優れた人たちは、この世に神も神々もいないってことをもっと早く理解すべきだった。気づいてはいたが傍観して理解しようとせずに、ただ途方に暮れてやり過ごしてきたのだ。神もいなければ善も悪もない。それなら自分自身も存在しない、だから優れた者たちは燃え尽きたのだ。俺も自分が間違っていたことに気づいたよ。俺は、この世は決して変わることはない、昨日あったように今日があり、今日のように明日があると思っていたが、それは間違いだったんだ。変化はすでに起きていたんだ!
・・・なんのことか分かります?(笑)
まぁ正確に記憶してるわけじゃないし、確かめるために見返す面倒もしてないので、実際に彼が語ったところとは違うでしょうけど、大雑把にはこんなところです。わかる方が異常では?(笑)
でもまあせっかくニーチェ先生の名前まで出して目配せしてくださっているのですから、彼の哲学でも読み直して、なるほど「神は死んだ」というセリフや永劫回帰みたいな概念をタル・ベーラ先生はこんなふうに解釈して、いま世界で起きていることをニーチェならこう読み解くだろうと考え、それをこのハゲちゃびん君の口から語らせてるんかもしれないなと思って、若い方はどうぞ頑張って哲学してくださいね。私はもう残された時間も少ないので遠慮しますが(笑)。
ともかく何分か独演会でこの人に喋らせた挙句、タル・ベーラ先生は、聞き手のオルスドハフェル君に「いい加減にしろ!くだらん!」と言わせています。そんなこと言わせるためだけに登場させるなら、最初からこんな長話させるの、やめときゃいいのにね(笑)。
さて三日目です。やれやれ、この調子だと先が長い(笑)。
でも大体が繰り返しですから、少々映画館で爆睡していても大丈夫。目が覚めて画面を見たら、さっきと同じだった、ってことがこの監督の映画に関しては珍しくなさそうですから(笑)。でもこの映画に関する限りは、あなたの見ているのは必ずしも「さっきと同じ場面」ではなくて、そう思えるほど同じことを毎日繰り返している父娘の日常の「さっきとそっくり同じように見える場面」にすぎないかも知れませんから、要注意です(笑)。
女、ベッドから起き上がる。水を汲みに出る。外は寒風吹きすさぶ。重い木の覆いを取り外して釣瓶を落として水を汲み、二つのバケツに入れて家の中へ戻ってきます。
そこへ馬車がやってきます。父が、追い払えと娘にいい、娘はまた外へ出て行きます。井戸のそばへ来た馬車にはなんと7人もの家族らしい人々が乗っていて、井戸で水が飲めるぞ、と騒々しく降りてきて井戸の覆いを勝手に外したりしています。
出てきた娘が追い払おうとしますが、一緒にアメリカへ行かないか、などと支離滅裂なことを言っていて、立ち去ろうとしません。今度は父親が手斧を持って出てきて脅したので、馬車の家族は騒がしく悪態つきながら去って行きます。
家の中に戻った娘、手にした聖書のような分厚い書物を開いて声を出して読みます。「教会という神聖な場所に来て許されているのは神に対する畏敬の念を表わす行為だけである」なんてことが書いてあるようです。なんだかこれもよくわからない。
風が不毛の地を吹く、ってなナレーションがあって、3日目も終わります。
4日目、竃の火に薪を足す女。バケツを持って水汲みにを出ます。ほとんど砂あらしみたいな風。
釣瓶を落とすけれど水がくめず、父を呼びます。井戸が枯れたようです。
娘は厩へ行きます。飼葉が減っていないのを見て馬に「なぜ食べないの?」と訊きますが、馬は返事をしません。当然か・・・。せめて水を飲んで、と娘は水を飲ませようとしますが、馬は水も飲もうとはしません。すでに死を予感したこの馬の微動だにしない無表情の演技はすごいです(笑)。
父親は娘に身の回り品を持ち出せるようまとめろと指示します。もうここにはいられない、と。
再び娘は厩へ行き、荷車を出し、荷物を積み、馬を後ろにつないで、その荷馬車を自分が馬になったように牽引して行きます。重そうな車輪をカメラが捉えます。
吹き荒ぶ風。風に舞う木の葉。丘の上に一本の木。画面の右端からその丘へ登っていき、中央のその木の近くで丘を向こうへ越えて見えなくなります。でもじきにまた姿があらわれ、全く同じ道を辿って画面の右端へ戻ってきてしまいます。この辺りのロングショット、うまいし綺麗です。
家に戻ってきて、家の中から、窓辺にいつものように座って外を眺めている娘の表情を外からカメラが捉えて、ゆっくりとアップにしていきます。なんだか窓が留置場か刑務所の窓のように見えます。
5日目。いつものようにベッドで起き上がる父親に靴下を履かせ、ズボンを穿かせる娘。
馬の顔。相変わらず無表情ですが・・・飲まず食わず動かず。娘は外に出て厩の扉を閉めます。それで厩の中は真っ暗闇でしょう。閉めた木の扉を延々とカメラが捉えます。
何度もこの「延々と」何かほとんど意味のないものを捉えるカメラというのは、この監督の特技です。彼はこの長回しが自分の映像言語だと言っているようです。そういうのを信徒さんのように深遠なものと捉える必要はないかと思います。言ってみればそれは癖のようなものでしょう。
大江健三郎はいつまでたっても句読点がない、ひどく屈折しまくっていて長ったらしい悪文を書く癖があります(笑)。でもそれが記述される中身にフィットする時は必然性のある表現として、スタンダードな国語の先生が褒めるような文章では表現できないものが表せるだろうし、それが文学として新しい文体を開いたと言われる所以でもありましょう。でも彼の文章は普通のエッセイを書いても悪文ですよ(笑)。それは彼の癖で、彼の資質と一体のものでしょう。まただからそういう小説が生み出せたのでもありましょう。タル・ベーラ先生の映像文体も、あの退屈で無意味な長回し(と思える部分があるの)は、単に彼の資質と骨がらみの「癖」だと思えばいいと思います。それが非常に効果を発揮する映像というのは、もちろんあるしこの映画では比較的それが多くて、非常によく効いていると思います。
さて、家の中で男は窓際でうずくまり、女は縫い物をし、ずっと風の音が聞こえています。
熱々のジャガイモを食う二人。途中でやめて窓際に座る男。
どうしたのー真っ暗だわ、と女。
ランプをつけろ、と男。
何かにつまずいて音を立てる女。忌々しい!と。
竃の火種をとってランプに火をつけます。ところが初めはつくように見えたランプの火がつかなくなります。油入れたというのに、火がどうしてもつかないのです。父親がやってみてもダメです。
何が起きているの? と娘。
わからん。。。寝るぞ、と父。
火種まで消えたわ、と娘。
また明日やってみよう、と父。
ナレーションで、寝息だけが聞こえる、と。もう嵐は去り、静まり返っている、と。
6日目。
音楽だけが聞こえ、真っ暗です。
やがて食卓を挟んでいつものように向き合って座る父と娘の姿。
父は皿にのったジャガイモの皮を手で剥こうとするけれど、水も火もなくして茹でることもできず、生のジャガイモだから固くて皮など剥けるはずもなく、潰すこともできません。
「食え・・・食わねばならん」と父は言いますが、娘は微動もせず、ただ目を伏せ俯き加減でじっと机についているだけです。
父は生のジャガイモを音を立てて一口齧ります。でもとても食べられた代物ではありません。
動かない二人。次第に画面は暗転します。真っ暗闇になって、the end でクレジットの文字が流れ始めます。その間の時間はタル・ベーラ先生にしてはそう長くなくて適度な時間です。先生の長回し癖の中では、ラストのこの暗闇の長回しが一番良かったのでは?(笑)
人間ってこんな風に生きて、こんな風に死んでいくものだぜ。いや今君らは楽しい毎日を送っているかもしれないけれど、もうすでに「大変なこと」は起きているんだよ。そして人類はこんな風に滅びの道を辿っているんだよ、というのかな。そんなネガティブな現代の寓話として、いや観る人が寓話とみなせば当然そこに色んな寓意を読み取るわけだから、それはそれでいいんだろうと思います。
寓意はイソップやラ・フォンテーヌみたいに一意的でなく、様々であった方が豊かになって楽しい。この作品もそんな色々な寓意の読みを喚起するような多義性があるんじゃないかと思うし、少なくとも映像的な強度があって、印象に残る作品でした。
ニーチェ先生の肯定だの否定だのなんてどうでもいいことで、私なら作品を見た人の色んな寓意の読み取り方の豊かさの方にずっと興味が持てます。
見終わって連想するのは、巨岩を山の上まで運び上げる懲罰を課されて、やっと山頂に手が届くと頃まで来ると必ず岩が転げ落ちてしまうので、この苦行を永遠に繰り返さなくてはならない、あのシシュフォスの神話です。
ここで描かれているのはシシュフォスのような永劫回帰的な世界ではないけれど、人間の課された宿命とでもいうほかはないような根源的な状況を強く印象づけるような像を与える点で、観る者に似た経験をさせるようなところがあります。
或いは馬いじめの場面からすぐ連想されるのは、ロバいじめの「バルタザールどこへ行く」(ロベール・ブレッッソン)でしょう。あれも暗い映画でしたね(笑)。
難しげな哲学がやりたいなら何も映画で迂回しなくたって 、論理の言葉できちっと詰めていけばいいじゃないか、という気持ちがあるので、こういうタイトルの作品は敬遠していたわけです。でも、英語のタイトルはThe Turin Horse で単なる「トリノの馬」で、ハンガリーは知らないけど、torinoらしき単語が入っているので、英語のタイトルと同じなんでしょう。
トリノならイタリア人の友達がいて、訪ねて行って、友達の友達の家に泊めてもらって、家族から歓待され、仮装してパーティーに出たりして楽しい思い出のある町。
誰やねん?「ニーチェの馬」なんて邦題つけたのは?(笑)やめてほしいですね、こういうペダンチズムだか神格化だか知らないけど、わざわざ話をややこしくするようなもったいぶったタイトルに変えちゃうなんてことは。
そうでなくても、これが伝説の巨匠の「最後の作品」だ!なんて、映画会社や配給会社の宣伝文句ならわかるけど、知ってか知らずか監督自身が自己神話化に加担してるみたいなところがあるんですから。
でもこの映画は前に見た「倫敦から来た男」よりは単純でわかりやすかったですね。もちろん監督を崇拝する信徒さんたちから見れば、「わかりやすい」なんてごくごく上っ面のことに過ぎない、ってことになるでしょう。もちろんここではそういう上っ面の意味で、ってことで十分です。
先に全体を見てすぐにわかることは、あぁこれは旧約聖書創世記の、神が世界を創り給うた6日間を逆に辿って見せる終末論的な寓話なんだな、ってことです。
それは「地は形なく、むなしく、闇が淵の面にあり」光もなかったところへ神が「光あれ」と光を創造した創世記の第一日目から、「すべて命あるものには食物」が与えられる第6日目に至る創世の六日間を、きちんと遡って、ランプの光の下に男も女もおり、水も食物も与えられた日々から、すべてが失わた闇と沈黙の世界に還っていく構成によって誰にでもわかるようにかたどられています。
登場する人物も物も舞台装置も最小限に絞られていて、その数少ない要素の組み合わせが作る世界は自ずと寓意を孕むようにできています。
そうじゃなきゃ、そもそも彼ら(二人の主役)はなぜここへ来たのか?なぜもっと早くこんな場所から脱出しなかったのか?なぜ必要なことが分かりきっている備えをもっと早くにしておかないのか?等々、普通なら疑問に思うでしょう。
これが余計なものを削ぎ落とした人間の様相だと言ったって、もともと家も井戸も竃もランプも彼らが着ている衣服も長靴も、なにもかもが、彼ら自身ではないだろう他者としての人間が作り出したものであって、現実に他者が現れようが現れまいが、彼らだって他者と関わり、社会的人間として生きているわけです。
そして、彼らがそうした社会に参加し、働きかければ、彼らが陥っていくような様々な困難、井戸が枯れるとか、ランプの火がつかなくなるとか、馬が動いてくれず町にも行くことができないとか、そんなことは簡単に解消できるのです。それはちっとも彼らの宿命などではない。
でもここで描かれた世界には、そうした外部はないし、他者もいません。たまたま登場する他者に見える人物たちは、皆二人が拒むための存在に過ぎず、寓話がその寓意を伝えるために必要な小道具にすぎません。
本来は主役を務める男は荷車で町へ行ったり来たりしていたはずなので、他者と関わりを持ち、限られてはいても直接的な一定の社会性を持っていたはずなのですが、ここでは敢えてそうした目に見える関係性を切断された状況が作り出されて、閉じた世界を舞台としています。
目に見える社会性を全部カットしてしまい、最小限の要素の組み合わせだけで描かれる墨絵のように間の多いシンプルなモノクロの世界は自ずと寓話の世界に転じます。
人が生きるために必要な最小限の要素、水とジャガイモ、そのジャガイモを茹でる竃とランプの為の火種、雨風を防ぐための粗末な家、荒塗りの土壁に小さく硬そうなベッド・・・そんなものとあとは外部との唯一の交流手段らしい駄馬と荷車だけを備えて、低い丘陵地帯で外の世界から隔離された吹きっさらしの荒地に、昨日と同じように今日があり今日と同じ明日があるような単調な繰り返しの日々を送る父と娘は、エデンの園を追放されたアダムとイヴのなれの果てでしょうか。
映像のドラマが始まる前に、ナレーションで、ニーチェのトリノでのエピソードが語られます。それは、ニーチェが精神を病んでしまう直前のことだったようですが、トリノの街路で一向に歩き出そうとしない荷馬車の馬に苛立った御者が激しく馬を鞭打つ光景に遭遇したニーチェが、駆け寄って馬の首を抱いて、御者に鞭打つのをやめさせた、というのですね。それからニーチェは心を病んで死ぬまでの10年間を母親らに見守られて生きた。だが、あの「ニーチェの馬」のその後は知られていない、と。
そこからこの映画が始まるので、この映画はあの「ニーチェの馬」のその後を描いたものですよ、ということが示唆されているんだと考えればいいのでしょう。このナレーションだけのことなら、何もわざわざ著名な哲学者先生を引っ張りださなくたっていいのに、なんでそう深遠っぽく見せたいわけ?と半畳を入れたくもなりますが、もう一箇所、2日目に髪のうすい変な男が突然やってきて、いきなり滔々とわけのわからないことを言うだけで言って出て行くのですが、そいつがまぁ神が死んだとか、昨日のように今日があり今日のように明日があると思っていたとか、永劫回帰を匂わすようなことを口走るのですね。これがタル・ベーラ先生のニーチェなんでしょうから、そいつが登場したらこの冒頭のナレーションを思い出してよね、っていう信者さんたちへの目配せなんでしょう。
映像としての冒頭のシーンは黒いコートを着た一人の髭面のやや険しい顔をした年配の男(後のナレーションで「オルスドルフェル」という名だと知れますが、別段その名に意味があるようには見えません)が駄馬に曳かせた荷車に乗って、強い風と靄の中を鞭を振るって進むのを延々と映し出します。後方の低い位置に靄に霞む白っぽい太陽が見えます。
男が馬に鞭を入れてただひたすらに風の中を疾走するこの映像はなかなか力強くて、長くても退屈はしません。駄馬と書きましたが、それは競馬のヒーローになるようなスマートな馬じゃなくて、首も胴も太くてずんぐりした、なんだか薄汚れたまだら模様みたいな肌合いの、どう見ても荷車を引っ張っていく労役用にしか見えない馬って意味です。
でもこの駄馬が画面では実に生きていて、その進行方向の左のすぐ前やや下方に視点を据えた移動するカメラによって風雨に逆らって進んでくるその表情をアップで捉えるような映像が、すごく迫力があって、駄馬がその一瞬ごとに映画的名馬になっています。
やがて男の家らしきものの前に着いて、一人の女が出迎え、荷車と馬を切り離し、厩へ入れたり、後始末をします。ひどく風が強く、寒そうです。向こうには囲むように丘陵地帯が見え、家のあるあたりは何もない吹きっさらしの荒地といった感じです。
手のひらにのる程度の石を粘土質の土にはめ込んだような壁の簡素な家の中に入ると、家の中は薄暗く、外へ開いているのは窓ひとつ。壁は荒塗りしたままのグレーの土壁で、その隅に男の狭くて硬そうなベッドがあります。男は右腕が使えないようで(麻痺か何かで)なんでも左手だけでやっていたらしいことにここで初めて気づきましたが、この男のために女が男の衣服を脱がせ、着替えさせたりします。着替えが済むと男はベッドに横たわり、女は蓄えの大きなジャガイモを二つ、鍋の水に入れ、竃の火にかけて茹でます。茹でる間、女は窓際の椅子に座って、窓を通して見える外の風景をじっと眺めています。この間聞こえてくる音楽は画面と同様に、とても単調です。
ジャガイモが茹で上がると、ここで初めて女が「食事よ」と男に声をかけます。それまで、この映画は男も女も一言も声を発しません。馬もです(笑)。
男は起きてきて、食卓らしい机の前に座ります。粘土づくりのようなごつい皿にのせられた大きなジャガイモ一個。これを男は熱がりながらも手で皮をむいて、適当なところで潰して小さくし、そのまま手掴みで食べます。食べる男の表情をアップで延々と撮るのがこの監督の流儀です。向き合って座った女の前にもジャガイモ一個。同じように手で皮を剥きながら手づかみで口に運びます。
粗末な食事が終わると女が後片付けをします。竃では火種の薪が赤々と燃えています。女は薪を足します。この調理に使う竃の火は部屋に三つあるオイルランプの灯りを灯す火種にもなるようです。
「もう寝ろ」と男の声。女は寝る前に水を使ってどうも顔を洗っているようでしたが、よくわかりませんでした。灯りが消えると闇です。
「おい、お前」と男が呼びます。
「何?」と女が応えます。
「木喰い虫の啼き声が聞こえん・・」みたいなことを男が言い、お前気づかないか、みたいなことをいいます。(実際のセリフはちょっと違っていたかも知れません)
「どうしてかしら、父さん」と女が応えるところで、初めて、あぁこれは父と娘なんだ、とわかります。いや、二人のどうも「男」と「女」ではなさそうな感じから、そうだろうなとは察しているのですが、本当のところはわからないので(だって、事情あって、伯父と暮らす姪かも知れないし、歳の離れた夫婦で旦那の方が大怪我をして不能な上偏屈なのかも知れないじゃないですか・・笑)、ここで初めて確信が持てるわけです。
「わからん」と父が応えます。
あとは暗闇の中で唯一明るい被写体、竃の火から漏れる明かりが延々と映されます。
ここまでは「一日目」です。
次に「二日目」の文字が出て、二日目が始まります。
朝父親が起きると、家の外の井戸で水を汲んで戻った娘が父親の着替えを手伝います。男も穿かせてもらったズボンをずり上げるくらいはやりますが、あとはほとんど突っ立ったまま娘に着せてもらっています。ベスト、上着、黒マント、長靴などを身につけて厩に行き、娘が荷車を引っ張り出し、馬を金具で牽き棒に馬を繋いで、父親は馬に鞭打って動かそうとしますが、馬は動こうとしません。
男は使える左手に持った鞭をやたらに振るって馬を打ち据えますが、馬はビクともせず娘がやめて、と父親を止め、男は諦めて馬を厩に戻して出かけるのをやめてしまいます。
この場面は当然、先に書いたように、映画の冒頭にナレーションで語られるニーチェのトリノでのエピソードと重なってきます。
仕方なく男は家の中で手斧を振るって薪を割る作業をしています。娘は金盥に湯気の出る湯を入れて洗濯して、白いシャツを屋内に干しています。干された白いシワシワのシャツの面を間近に捉えたカメラが故障したみたいに動かず、その像を捉え続けます。
常に家の外で吹きすさぶ風の音が聞こえています。
男の髭面の横顔のアップ、ランプの火、左手にアイスピックみたいなのを握って皮のベルトか何かを突き刺して穴を開けている男。
「食事よ」と娘が声をかけ、またジャガイモ一個。茹でたてのやつを手で皮をむしり取って食べます。食事の後、父は窓辺に座って外を眺め、娘は後片付け。
その時戸を叩く音がして、髪の薄い太り気味の中年男が入ってきます。バーリンカという焼酎を分けてもらえないか、と言うのです。いいよ、あげるよ、と言うと男は中へ入って机の前に座り、いきなり滔々と喋り始めます。それがものすごく長い長い語りで、その間ずっとオルスドハフェル(女の父親)は黙って聞かされているわけです。我々観客もね(笑)。
バーリンカはありふれたリキュールらしくて街でなんぼでも買えるのに、なんで?みたいな感じでオルスドハフェルが訊くと、「町は風でやられて滅茶苦茶だ」と髪の薄い男が答えます。まさか台風15号や19号が行ったわけじゃないでしょうが、何か街では途方も無いことが起きているらしい、ってことは男の話から伺えます。
しかしどうもそれは、台風で家屋が倒壊したとか、大雨で住居が浸水して泥にまみれた、というふうな具体的な話ではなさそうで、人間がみんな堕落してしまった、というようなデッカイお話のようです。風というのはどうやら「風邪」と書くほうが良さそうで、よほど悪いヴィールスを感染させてダウンさせる精神のインフルエンザみたいなもののようです。「町は風にやられた」じゃなくて「町は風邪にやられた、精神のインフルエンザに!」くらいに字幕変えたほうがいいかも(笑)。
人間が一切をダメにし、堕落させた。神も加担はしたが、人間自らが「審判」を下し、そのおかげで世界は堕落した。汚い手を使って不意打ちし、触れたものをみな堕落させ、大空も夢も自然も不死も奪っていった。優れた人たちは、この世に神も神々もいないってことをもっと早く理解すべきだった。気づいてはいたが傍観して理解しようとせずに、ただ途方に暮れてやり過ごしてきたのだ。神もいなければ善も悪もない。それなら自分自身も存在しない、だから優れた者たちは燃え尽きたのだ。俺も自分が間違っていたことに気づいたよ。俺は、この世は決して変わることはない、昨日あったように今日があり、今日のように明日があると思っていたが、それは間違いだったんだ。変化はすでに起きていたんだ!
・・・なんのことか分かります?(笑)
まぁ正確に記憶してるわけじゃないし、確かめるために見返す面倒もしてないので、実際に彼が語ったところとは違うでしょうけど、大雑把にはこんなところです。わかる方が異常では?(笑)
でもまあせっかくニーチェ先生の名前まで出して目配せしてくださっているのですから、彼の哲学でも読み直して、なるほど「神は死んだ」というセリフや永劫回帰みたいな概念をタル・ベーラ先生はこんなふうに解釈して、いま世界で起きていることをニーチェならこう読み解くだろうと考え、それをこのハゲちゃびん君の口から語らせてるんかもしれないなと思って、若い方はどうぞ頑張って哲学してくださいね。私はもう残された時間も少ないので遠慮しますが(笑)。
ともかく何分か独演会でこの人に喋らせた挙句、タル・ベーラ先生は、聞き手のオルスドハフェル君に「いい加減にしろ!くだらん!」と言わせています。そんなこと言わせるためだけに登場させるなら、最初からこんな長話させるの、やめときゃいいのにね(笑)。
さて三日目です。やれやれ、この調子だと先が長い(笑)。
でも大体が繰り返しですから、少々映画館で爆睡していても大丈夫。目が覚めて画面を見たら、さっきと同じだった、ってことがこの監督の映画に関しては珍しくなさそうですから(笑)。でもこの映画に関する限りは、あなたの見ているのは必ずしも「さっきと同じ場面」ではなくて、そう思えるほど同じことを毎日繰り返している父娘の日常の「さっきとそっくり同じように見える場面」にすぎないかも知れませんから、要注意です(笑)。
女、ベッドから起き上がる。水を汲みに出る。外は寒風吹きすさぶ。重い木の覆いを取り外して釣瓶を落として水を汲み、二つのバケツに入れて家の中へ戻ってきます。
そこへ馬車がやってきます。父が、追い払えと娘にいい、娘はまた外へ出て行きます。井戸のそばへ来た馬車にはなんと7人もの家族らしい人々が乗っていて、井戸で水が飲めるぞ、と騒々しく降りてきて井戸の覆いを勝手に外したりしています。
出てきた娘が追い払おうとしますが、一緒にアメリカへ行かないか、などと支離滅裂なことを言っていて、立ち去ろうとしません。今度は父親が手斧を持って出てきて脅したので、馬車の家族は騒がしく悪態つきながら去って行きます。
家の中に戻った娘、手にした聖書のような分厚い書物を開いて声を出して読みます。「教会という神聖な場所に来て許されているのは神に対する畏敬の念を表わす行為だけである」なんてことが書いてあるようです。なんだかこれもよくわからない。
風が不毛の地を吹く、ってなナレーションがあって、3日目も終わります。
4日目、竃の火に薪を足す女。バケツを持って水汲みにを出ます。ほとんど砂あらしみたいな風。
釣瓶を落とすけれど水がくめず、父を呼びます。井戸が枯れたようです。
娘は厩へ行きます。飼葉が減っていないのを見て馬に「なぜ食べないの?」と訊きますが、馬は返事をしません。当然か・・・。せめて水を飲んで、と娘は水を飲ませようとしますが、馬は水も飲もうとはしません。すでに死を予感したこの馬の微動だにしない無表情の演技はすごいです(笑)。
父親は娘に身の回り品を持ち出せるようまとめろと指示します。もうここにはいられない、と。
再び娘は厩へ行き、荷車を出し、荷物を積み、馬を後ろにつないで、その荷馬車を自分が馬になったように牽引して行きます。重そうな車輪をカメラが捉えます。
吹き荒ぶ風。風に舞う木の葉。丘の上に一本の木。画面の右端からその丘へ登っていき、中央のその木の近くで丘を向こうへ越えて見えなくなります。でもじきにまた姿があらわれ、全く同じ道を辿って画面の右端へ戻ってきてしまいます。この辺りのロングショット、うまいし綺麗です。
家に戻ってきて、家の中から、窓辺にいつものように座って外を眺めている娘の表情を外からカメラが捉えて、ゆっくりとアップにしていきます。なんだか窓が留置場か刑務所の窓のように見えます。
5日目。いつものようにベッドで起き上がる父親に靴下を履かせ、ズボンを穿かせる娘。
馬の顔。相変わらず無表情ですが・・・飲まず食わず動かず。娘は外に出て厩の扉を閉めます。それで厩の中は真っ暗闇でしょう。閉めた木の扉を延々とカメラが捉えます。
何度もこの「延々と」何かほとんど意味のないものを捉えるカメラというのは、この監督の特技です。彼はこの長回しが自分の映像言語だと言っているようです。そういうのを信徒さんのように深遠なものと捉える必要はないかと思います。言ってみればそれは癖のようなものでしょう。
大江健三郎はいつまでたっても句読点がない、ひどく屈折しまくっていて長ったらしい悪文を書く癖があります(笑)。でもそれが記述される中身にフィットする時は必然性のある表現として、スタンダードな国語の先生が褒めるような文章では表現できないものが表せるだろうし、それが文学として新しい文体を開いたと言われる所以でもありましょう。でも彼の文章は普通のエッセイを書いても悪文ですよ(笑)。それは彼の癖で、彼の資質と一体のものでしょう。まただからそういう小説が生み出せたのでもありましょう。タル・ベーラ先生の映像文体も、あの退屈で無意味な長回し(と思える部分があるの)は、単に彼の資質と骨がらみの「癖」だと思えばいいと思います。それが非常に効果を発揮する映像というのは、もちろんあるしこの映画では比較的それが多くて、非常によく効いていると思います。
さて、家の中で男は窓際でうずくまり、女は縫い物をし、ずっと風の音が聞こえています。
熱々のジャガイモを食う二人。途中でやめて窓際に座る男。
どうしたのー真っ暗だわ、と女。
ランプをつけろ、と男。
何かにつまずいて音を立てる女。忌々しい!と。
竃の火種をとってランプに火をつけます。ところが初めはつくように見えたランプの火がつかなくなります。油入れたというのに、火がどうしてもつかないのです。父親がやってみてもダメです。
何が起きているの? と娘。
わからん。。。寝るぞ、と父。
火種まで消えたわ、と娘。
また明日やってみよう、と父。
ナレーションで、寝息だけが聞こえる、と。もう嵐は去り、静まり返っている、と。
6日目。
音楽だけが聞こえ、真っ暗です。
やがて食卓を挟んでいつものように向き合って座る父と娘の姿。
父は皿にのったジャガイモの皮を手で剥こうとするけれど、水も火もなくして茹でることもできず、生のジャガイモだから固くて皮など剥けるはずもなく、潰すこともできません。
「食え・・・食わねばならん」と父は言いますが、娘は微動もせず、ただ目を伏せ俯き加減でじっと机についているだけです。
父は生のジャガイモを音を立てて一口齧ります。でもとても食べられた代物ではありません。
動かない二人。次第に画面は暗転します。真っ暗闇になって、the end でクレジットの文字が流れ始めます。その間の時間はタル・ベーラ先生にしてはそう長くなくて適度な時間です。先生の長回し癖の中では、ラストのこの暗闇の長回しが一番良かったのでは?(笑)
人間ってこんな風に生きて、こんな風に死んでいくものだぜ。いや今君らは楽しい毎日を送っているかもしれないけれど、もうすでに「大変なこと」は起きているんだよ。そして人類はこんな風に滅びの道を辿っているんだよ、というのかな。そんなネガティブな現代の寓話として、いや観る人が寓話とみなせば当然そこに色んな寓意を読み取るわけだから、それはそれでいいんだろうと思います。
寓意はイソップやラ・フォンテーヌみたいに一意的でなく、様々であった方が豊かになって楽しい。この作品もそんな色々な寓意の読みを喚起するような多義性があるんじゃないかと思うし、少なくとも映像的な強度があって、印象に残る作品でした。
ニーチェ先生の肯定だの否定だのなんてどうでもいいことで、私なら作品を見た人の色んな寓意の読み取り方の豊かさの方にずっと興味が持てます。
見終わって連想するのは、巨岩を山の上まで運び上げる懲罰を課されて、やっと山頂に手が届くと頃まで来ると必ず岩が転げ落ちてしまうので、この苦行を永遠に繰り返さなくてはならない、あのシシュフォスの神話です。
ここで描かれているのはシシュフォスのような永劫回帰的な世界ではないけれど、人間の課された宿命とでもいうほかはないような根源的な状況を強く印象づけるような像を与える点で、観る者に似た経験をさせるようなところがあります。
或いは馬いじめの場面からすぐ連想されるのは、ロバいじめの「バルタザールどこへ行く」(ロベール・ブレッッソン)でしょう。あれも暗い映画でしたね(笑)。
saysei at 01:18|Permalink│Comments(0)│
2019年10月20日
小田香監督「鉱」を見る
昨日の朝、出町座で小田香監督の映画「鉱」を見てきました。
若い人が結構来ていたようですが、私の前の席の若者は爆睡していたようです(笑)。
それはある意味でまっとうな(?)反応かもしれません。
私も事前に若い女性監督で、タル・ベーラ監督の指導を受けた期待の映像作家というふうな、チラシだったか予告編だったか雑誌の記事だったか忘れたけれど、そんな噂を聞いた上に、滑稽なことに、小森はるか監督と混同する思い込みがなければ(笑)見に行かなかったでしょう。
タル・ベーラ監督については宣伝文句で色んな他の映画監督やら評論家が神格化するような伝説めいたことを言うのを信用したわけではないけれど、たまたま「倫敦から来た男」というのを見て、ちっともいいとは思わなかったけれど(笑)、女性の何の表情の変化も動きもない顔を固定したカメラで延々と撮り続けるような映像に何でこんな撮り方をするんだろう?こんなことする必然性がどこにあるのかな?何考えてんだろう?と否定的な意味で妙に引っかかるところがあって記憶していたので、そのお弟子さんの日本人作家というので見に行ってみようと思っていました。
小森監督というのは、これもたまたま出町座で「息の跡」を見て、このブログで感想まで書いたのですが、もともと健忘症の上に、映画など見てもタイトルや作者名はほとんど気にしないし、見た晩にブログに感想を書くときは大抵すでに忘れているので、チラシやウェブサイトで確かめながら書く有様ですから、震災についてちょっと面白い視点で撮った映画だったな、というのと、確か小田とか小川とか小谷とか、「小」の字のつくドキュメンタリー映画で期待の若手女性監督とかだったな、くらいしか記憶になかったので、この小田監督と全く混同して同じ人だと思い込んで、福島のあとボスニアに行って炭鉱で撮ったんだ、と思っていた次第です。でも違った(笑)。
私の前の席で爆睡していた若者の反応を、ある意味でまっとうな反応かも、と書いたのは、小森監督をはじめとする数多くの著名な内外の映画監督や評論家の絶賛にも拘らず、多分私のようなごく平凡なたまに娯楽として映画を見る程度の観客がこの映画を見て面白いと感じたり、感動するかと言えば、多分何のことかわからないな、どうしてこんな映画を撮ったんだろう?と思うんじゃないかな、と考えるからです。
もちろん小田さんはたまたま自分が遭遇したボスニアの炭鉱夫の姿に、あるいは彼らが働く炭鉱の現場の光景に心を動かされるような刺激を受けたのでしょう。刺激という身も蓋もない言い方をしましたが、それが監督の感じた「美」かもしれないし、なにかもっと強く猛々しく、言葉に表わしようのない重い存在感を持つものかもしれないし、眩い閃光だとか強烈なリズムだとか体が震えるような恐怖だとか、そんなものだったのかもしれません。
それはある程度映像から伝わってきます。そのインパクトがこの作品の強さだという気がします。
わずかしか見てはいませんが、日本で作られる映画で少し評判の良い映画のように言われるものを見て、なるほど面白かったな、と思うことも少なくはないけれど、総じて何となくチマチマしているなと感じ、若い人の作品でも、なんか映画祭の新人賞の取りやすそうなちょっとトンガって見せたような作品はあっても、こちらの心身を揺さぶるインパクトを感じさせてくれるような作品にはまずお目にかかれないような気がしています。
そういう意味ではこの作品にはある種のインパクトを感じるところはあるような気がしました。でも若者が爆睡できる程度の、ですが(笑)・・・
そんな奴は見る資格がないんだ、そもそも映画ってものが分からないんだ!と言いたげな、シネフィルだかシネアスト気取りの連中の「上から目線」には、もとより私はそんな人種ではないので組みしません。むしろ爆睡する、当たり前の感覚の方をベースに物事を考えたいのです。
例えば冒頭の炭鉱の奥深くに炭鉱夫を運び、掘り出した鉱石を外へ運び出す坑道を走るトロッコを巻き上げる機械の歯車らしいものやら何やらを延々と捉え、それらの機械が噛み合い、軋み合う凄まじいノイズを延々と聞かせる冒頭から、普通の観客はちょっと引いてしまうところがあるでしょう。
ちなみにああいうノイズを団地の前ででも大音量で響かせたら、必ずや圧倒的多数の住民から苦情が出るでしょう。映像にしてもノイズにしても、決してそれ自体で「美しい」ものでも「心を揺さぶる」ものでもなく、むしろ一般的には何の変哲も無い退屈な光景であり、不快な騒音にすぎません。
それを延々と見せられ、聞かされれて、無理してその場にいれば、身体の自己防御の一環として拒否反応が起き、爆睡するのもごく自然なことだろうと思います。
もちろんそんな光景やノイズに「美」を感じ、心を動かされる感性があっても良いし、自分が心を動かされたものを再現あるいはより凝縮され強化された新たな表現として創造しようとすることが映像作家としての動機付けになることはあり得るのでしょう。
ただ、それにしてはこの作品の映像や音の表現に、そうした輝きが見られたかといえば、私にはそうは感じられませんでした 。
ただ延々と坑道を奥へ奥へ下っていく坑夫の眼差しで捉えられる地底の暗がりの光景や、坑夫(実際にはカメラを手にした監督の、でしょうが)が頭につけたヘッドランプの限られた光だけが、地底のそこここのスポットを連ねる形で次々に捉える、その映像のある種の面白さというのは楽しめるところがありました。
ただ、ごく普通の観客が、美術展会場でコンテンポラリー・アートを見て、わけわからんなぁ、と絵が見るものを拒むような感覚を味わうところがあるのではないか、という気がしました。
そこには別にドラマはありません。炭鉱夫同士が言葉を交わし合う場面はあるし、無字幕版を見たので何を言っているのかは私にはわからなかったけれど、多分ドラマが発生したり。それを暗示するような場面ではなかったでしょう。
むしろドラマが発生するような契機は周到に排除されているというべきでしょう。
本来なら、炭鉱夫同士の間にも色々と人間的なドラマが生まれているはずだし、炭鉱夫だって仕事を終えて家に帰れば家族がいて、そこにはそれぞれのドラマがあるでしょう。でもそういうことは一切この作品では捨象されていて、ひたすら炭鉱の仕事場での炭鉱夫とその目に映る同僚の行動や採掘場でヘッドライトなどわずかな明かりに浮かび上がるモノの姿とそれら一切を包んでいる深い闇だけが映しとられています、
この種の作品を見ると、作品そのものを見て何かを感じるというだけでなく、なぜこういう作品を撮ったのだろう?という問いを自然に誘発されるところがあります。
だからあたかも目の前のものをあるがままに撮りました、といいう風に見える映像に、そうみえれば見えるほど極めて意識的な方法を見ない訳にはいかないのですが、そうしたドラマの類を全部カットしてしまった後に何が残ったのかと言えば、炭鉱夫のヘッドライトなどわずかな明かりのうちに浮かぶそれらのモノの姿、光景であって、その外側の闇を含むその映像そのものが、この炭鉱の姿だ、と。これが監督の心を揺り動かした炭鉱というものの凝縮され、強化された姿なんだということになるのではないでしょうか。
こういういわば余計な(?)ドラマの捨象と、坑夫達のヘッドランプなどわずかな明かりが浮かび上がらせるスポットとそれを包む闇を含めた光景の強い選択性が、この作品の表出価値の源泉なんだろうと思います。
私には映画作りの技術的なことやら現場のことは何ひとつわかりませんが、ボスニアなんかの炭鉱でこんな映像を撮るには、撮影許可を得るところから始まって、きっと面倒なことが色々あって、言葉の壁やら現場の慣習やら、わんさと制約があり、想像以上の時間もかかり、さらにまた素人がこんな危険な作業現場深くまで立ち入ることで生じる厄介ごとやらをクリアした挙句に、肝心の撮影を意図通りに行えるチャンスたるやごく限られたものに違いないし、想像を絶するような苦労があるに違いありません。
しかし、それは同じような映画作家なら自分に引き寄せて感じ入ったり、監督の労を称揚するのはわからなくはないけれど、私のような素人観客には関わりのないことです。
或る作家がジョイスがフィネガンズ・ウェイクを書くのに17年かけたように一つの作品を仕上げるのに十数年かけたとしても、それが、太宰が口述筆記で一気に一晩で書き上げた「駆け込み訴え」より出来のいい作品かどうかはわからない訳で、制作に費やした時間や労力の多寡は作品の出来不出来とは関わりがないし、苦労しただろうから座布団一枚!というわけにもいかないのは自明の理です。
この作品の映像価値の源泉は、今述べたように、対象によく適合した強い選択性にあると思いますが、ある種のコンテンポラリー・アートのように見る者を拒むようなところがあるのは、師匠のタル・ベーラも同じだと感じます。
作り手は対象を見ているけれど、その視野に他者としての観客は入ってこないような気がします。それはタル・ベーラという映像作家の頑固な作家主義というのか、私は彼のことは何も知らないので聞いて見ないとわからないけれど(笑)、作家は観客なんかどうでもいい、自分が真に自分自身にとって不可避なものだと思えば、それにまっすぐ向かい、それを捉えれば良いので、それが芸術であって、観客なんてものはどうだっていいんだ、という古典的でオーソドックスな、芸術観の持ち主なのではないかな、という気がします。芸術=芸術家の自己表現、みたいなね。
だからこの作品も、監督が心を揺さぶられた炭鉱(で生きる人々)の光景を強い選択性を武器に再創造してみせた、その凝縮され強化された映像を「美しい」と心揺さぶられない者は縁なき衆生だ、と(笑)。
それで作家の方から観客を選ぶ作品、セレクトショップみたいに(笑)、わたしはその美を感じるセンスを持ってるぜ、と言いたいスノッブが大勢集まるようなところがあって、私のような通りがかりの観客はなるべくそんな人だかりは避けて通りたいけれど、作品自体は良い意味でインパクトのある、いまどきの日本の若手作家の作る映画としては珍しい作品だったので一言感想を記しておこうと考えた
次第です。
けれども、それにしてもなぜボスニアなんだろう?(笑) あるいはなぜ炭鉱なんだろう?
もちろんたまたまこうこうこういう経緯で出遭ったんだ、というのであったって構わないんですが。
でも別段ボスニアでなくたって、日本にいくらもあった(今は知らんけど)炭鉱でも良かったでしょうし、炭鉱じゃなくて町の豆腐屋さんでも良かったんじゃないか(笑)。
それは私たちの暮らす遠い島国にまで聞こえてきていた戦乱の地で生産を続ける炭鉱という厳しい現場でなければ出遭えない張り詰めた空気や働く男たちの表情というものがあったかもしれないけれど、どんなに平穏に見える日常の中にも、ボスニアの炭鉱夫たちがもつ存在感や、生死の境を渡るような緊張に満ちた時間を生きる仕事の現場というのはあると思います。
逆にまた、豆腐屋さんが仕事を終わればよき親父さん、よき夫として家族と団欒の時を過ごしたり、痴話喧嘩をしたりといった存在になるように、ボスニアの炭鉱夫たちも仕事が終わって家に帰れば夫として親父さんとして、家族と食事を共にし、痴話喧嘩もするでしょう。そこに何も違いはありません。
地下何百メートルか知らないけど闇の支配する地底深くの採掘現場で命を張って働く坑夫の姿や、その生き方に心を動かされるなら、まだ私たちが深い眠りのうちにある闇の中を起き出して今日1日の豆腐づくりの下ごしらえをする町の豆腐屋さんの生産現場もまた、彼の生をかけた張り詰めた空気の支配する現場であって、そこには少しも価値の違いはないように思いますし、そういう日常の中に人間の強さも弱さも、生きることの意味も見ることができるのが(映像)作家なのではないかと思います。
その余のことは、初期の民族学者たちのような自分たちの身近な世界にないものに心惹かれる異民族の生活への物珍しさやエキゾチシズムに過ぎないでしょう。
この作品を礼賛している著名な映像作家たちや評論家たちが、色々と自分の解釈をして塗り絵を塗るようにいろんな色で塗りたくるのは勝手だけれど、多分彼らはみんな幻想に携わる人たちで、自分が坑夫としてこういう坑道へ毎日降りていくような生活をしたことのない頭でっかちな人たちでしょう。私だってそんな経験はないけれど(笑)。
しかし、ここに捉えられた炭鉱夫たちは現に自分たち自身がこういう仕事をしているわけで、これが彼らの日常生活なのですから、こういうことはみな当たり前のことだと思っているわけです。だから、そういう彼らの姿を捉えに、彼らの間へ入っていく映像作家の姿勢、その目、その姿勢が必然的に厳しく問われることになると思います。それはそういう言い方をしてもよければ、余計なことだからです。
私たちは子供の頃から色んなことを学んで知的に上昇していくことで必然的に生活の地平から幻想によって乖離していくけれど、それはただ精神の遠隔対象性による自然過程に過ぎないので、そこに価値はなく、生き方としては多かれ少なかれ価値のある生き方からの逸脱に過ぎないんだ、ということは私が若い頃に尊敬する思想家から教えられた最も重要なことでした。
その「最も価値のある生き方」を体現しているのが、ここで描かれた炭鉱夫たちや私が対照させてきた豆腐屋さん(笑)のような生き方であって、彼ら自身は自分の仕事に誇りを持っていると思うけれど、別段インテリさんたちが考えるような意味で価値ある生き方だとか余計なことを考えているわけではないでしょう。
でもそこへ介在していく、余計なことを考える連中はその入り方を問われることになるでしょう。それは単なる物珍しさや好奇心で、あるいは素敵だと思いました、感動です!では済まないのではないか。
私が注目したのは、監督にカメラを向けられた時の坑夫たちの表情でした。
別に互いに言葉をかけるでもなく、何か働きかけをするわけでもない。 監督はカメラの目になって撮っているだけで、その捉えられた風景の中にたまたま姿を現す坑夫たちは、普通なら「お前こんなところで何してんだ!あぶねえじゃないか!」と咎めてさっさと追い出すでしょうが、こちらをチラッと見て、あぁ、あの映画を撮りに来てる姉ちゃんかという表情(笑)をして黙って通り過ぎたりするわけです。
その時のほんのわずかな瞬間だけれど、チグハグな被写体と撮影者の関係性が、こういう「作品」によって彼らの「最も価値のある生き方」に介在していく映像作家の困難さを物語っているように思います。多分私がそんなことを感じたようなシーンは、監督自身は全部カットしてしまいたかったのではないかなと思います。
多分そうすれば、この作品はもっと坑夫の目線で捉えた客観的な現場の断片映像の連なりのように見える作品になったでしょう。
そうすれば、多くの観客にとっては、へ〜え、あちらの炭鉱の現場ってこんなところなんだ!という、見たことのない世界が見られる物珍しさや好奇心で近づく以外には、拒絶されるほかはない、いっそう観客を拒みも選びもする性格をはっきりさせた作品になったでしょう。
この世界にあるとも思えないほどの別世界のようにも見えるもう一つの現実の世界、明るい日常世界を反転させたネガの世界みたいなボスニアの炭鉱の労働現場の光景を、あたかもただ客観的に切り取って見せたかのような、その意味で並みの観客を拒むような硬質な世界が、本当に今高く評価され、広く観客に受け入れられるとすれば、そこには一つの状況的な理由があるように思います。
おそらく既存の映画のドラマ性みたいな、この作品の対極にあるようなものがどれも皆嘘っぽく感じられてしまうようなところへ来ているせいではないか、という気がします。
そういう状況が物語性の復権によって打開されるのか、むしろそれをも拒否して、さらに徹底して解体の方向へ向かうことによって道が切り拓かれるのか、映画の動向なんてものにも疎い私には分かりませんが、こういうそれこそ鉱石みたいに硬い凝縮された得体の知れない何かの塊みたいな作品が、これを蹴飛ばしていくにせよ礼賛して後生大事に奉って進むにせよ、岐れ道に置かれた試金石みたいなものに見えてくるのは門外漢として面白いところです。
若い人が結構来ていたようですが、私の前の席の若者は爆睡していたようです(笑)。
それはある意味でまっとうな(?)反応かもしれません。
私も事前に若い女性監督で、タル・ベーラ監督の指導を受けた期待の映像作家というふうな、チラシだったか予告編だったか雑誌の記事だったか忘れたけれど、そんな噂を聞いた上に、滑稽なことに、小森はるか監督と混同する思い込みがなければ(笑)見に行かなかったでしょう。
タル・ベーラ監督については宣伝文句で色んな他の映画監督やら評論家が神格化するような伝説めいたことを言うのを信用したわけではないけれど、たまたま「倫敦から来た男」というのを見て、ちっともいいとは思わなかったけれど(笑)、女性の何の表情の変化も動きもない顔を固定したカメラで延々と撮り続けるような映像に何でこんな撮り方をするんだろう?こんなことする必然性がどこにあるのかな?何考えてんだろう?と否定的な意味で妙に引っかかるところがあって記憶していたので、そのお弟子さんの日本人作家というので見に行ってみようと思っていました。
小森監督というのは、これもたまたま出町座で「息の跡」を見て、このブログで感想まで書いたのですが、もともと健忘症の上に、映画など見てもタイトルや作者名はほとんど気にしないし、見た晩にブログに感想を書くときは大抵すでに忘れているので、チラシやウェブサイトで確かめながら書く有様ですから、震災についてちょっと面白い視点で撮った映画だったな、というのと、確か小田とか小川とか小谷とか、「小」の字のつくドキュメンタリー映画で期待の若手女性監督とかだったな、くらいしか記憶になかったので、この小田監督と全く混同して同じ人だと思い込んで、福島のあとボスニアに行って炭鉱で撮ったんだ、と思っていた次第です。でも違った(笑)。
私の前の席で爆睡していた若者の反応を、ある意味でまっとうな反応かも、と書いたのは、小森監督をはじめとする数多くの著名な内外の映画監督や評論家の絶賛にも拘らず、多分私のようなごく平凡なたまに娯楽として映画を見る程度の観客がこの映画を見て面白いと感じたり、感動するかと言えば、多分何のことかわからないな、どうしてこんな映画を撮ったんだろう?と思うんじゃないかな、と考えるからです。
もちろん小田さんはたまたま自分が遭遇したボスニアの炭鉱夫の姿に、あるいは彼らが働く炭鉱の現場の光景に心を動かされるような刺激を受けたのでしょう。刺激という身も蓋もない言い方をしましたが、それが監督の感じた「美」かもしれないし、なにかもっと強く猛々しく、言葉に表わしようのない重い存在感を持つものかもしれないし、眩い閃光だとか強烈なリズムだとか体が震えるような恐怖だとか、そんなものだったのかもしれません。
それはある程度映像から伝わってきます。そのインパクトがこの作品の強さだという気がします。
わずかしか見てはいませんが、日本で作られる映画で少し評判の良い映画のように言われるものを見て、なるほど面白かったな、と思うことも少なくはないけれど、総じて何となくチマチマしているなと感じ、若い人の作品でも、なんか映画祭の新人賞の取りやすそうなちょっとトンガって見せたような作品はあっても、こちらの心身を揺さぶるインパクトを感じさせてくれるような作品にはまずお目にかかれないような気がしています。
そういう意味ではこの作品にはある種のインパクトを感じるところはあるような気がしました。でも若者が爆睡できる程度の、ですが(笑)・・・
そんな奴は見る資格がないんだ、そもそも映画ってものが分からないんだ!と言いたげな、シネフィルだかシネアスト気取りの連中の「上から目線」には、もとより私はそんな人種ではないので組みしません。むしろ爆睡する、当たり前の感覚の方をベースに物事を考えたいのです。
例えば冒頭の炭鉱の奥深くに炭鉱夫を運び、掘り出した鉱石を外へ運び出す坑道を走るトロッコを巻き上げる機械の歯車らしいものやら何やらを延々と捉え、それらの機械が噛み合い、軋み合う凄まじいノイズを延々と聞かせる冒頭から、普通の観客はちょっと引いてしまうところがあるでしょう。
ちなみにああいうノイズを団地の前ででも大音量で響かせたら、必ずや圧倒的多数の住民から苦情が出るでしょう。映像にしてもノイズにしても、決してそれ自体で「美しい」ものでも「心を揺さぶる」ものでもなく、むしろ一般的には何の変哲も無い退屈な光景であり、不快な騒音にすぎません。
それを延々と見せられ、聞かされれて、無理してその場にいれば、身体の自己防御の一環として拒否反応が起き、爆睡するのもごく自然なことだろうと思います。
もちろんそんな光景やノイズに「美」を感じ、心を動かされる感性があっても良いし、自分が心を動かされたものを再現あるいはより凝縮され強化された新たな表現として創造しようとすることが映像作家としての動機付けになることはあり得るのでしょう。
ただ、それにしてはこの作品の映像や音の表現に、そうした輝きが見られたかといえば、私にはそうは感じられませんでした 。
ただ延々と坑道を奥へ奥へ下っていく坑夫の眼差しで捉えられる地底の暗がりの光景や、坑夫(実際にはカメラを手にした監督の、でしょうが)が頭につけたヘッドランプの限られた光だけが、地底のそこここのスポットを連ねる形で次々に捉える、その映像のある種の面白さというのは楽しめるところがありました。
ただ、ごく普通の観客が、美術展会場でコンテンポラリー・アートを見て、わけわからんなぁ、と絵が見るものを拒むような感覚を味わうところがあるのではないか、という気がしました。
そこには別にドラマはありません。炭鉱夫同士が言葉を交わし合う場面はあるし、無字幕版を見たので何を言っているのかは私にはわからなかったけれど、多分ドラマが発生したり。それを暗示するような場面ではなかったでしょう。
むしろドラマが発生するような契機は周到に排除されているというべきでしょう。
本来なら、炭鉱夫同士の間にも色々と人間的なドラマが生まれているはずだし、炭鉱夫だって仕事を終えて家に帰れば家族がいて、そこにはそれぞれのドラマがあるでしょう。でもそういうことは一切この作品では捨象されていて、ひたすら炭鉱の仕事場での炭鉱夫とその目に映る同僚の行動や採掘場でヘッドライトなどわずかな明かりに浮かび上がるモノの姿とそれら一切を包んでいる深い闇だけが映しとられています、
この種の作品を見ると、作品そのものを見て何かを感じるというだけでなく、なぜこういう作品を撮ったのだろう?という問いを自然に誘発されるところがあります。
だからあたかも目の前のものをあるがままに撮りました、といいう風に見える映像に、そうみえれば見えるほど極めて意識的な方法を見ない訳にはいかないのですが、そうしたドラマの類を全部カットしてしまった後に何が残ったのかと言えば、炭鉱夫のヘッドライトなどわずかな明かりのうちに浮かぶそれらのモノの姿、光景であって、その外側の闇を含むその映像そのものが、この炭鉱の姿だ、と。これが監督の心を揺り動かした炭鉱というものの凝縮され、強化された姿なんだということになるのではないでしょうか。
こういういわば余計な(?)ドラマの捨象と、坑夫達のヘッドランプなどわずかな明かりが浮かび上がらせるスポットとそれを包む闇を含めた光景の強い選択性が、この作品の表出価値の源泉なんだろうと思います。
私には映画作りの技術的なことやら現場のことは何ひとつわかりませんが、ボスニアなんかの炭鉱でこんな映像を撮るには、撮影許可を得るところから始まって、きっと面倒なことが色々あって、言葉の壁やら現場の慣習やら、わんさと制約があり、想像以上の時間もかかり、さらにまた素人がこんな危険な作業現場深くまで立ち入ることで生じる厄介ごとやらをクリアした挙句に、肝心の撮影を意図通りに行えるチャンスたるやごく限られたものに違いないし、想像を絶するような苦労があるに違いありません。
しかし、それは同じような映画作家なら自分に引き寄せて感じ入ったり、監督の労を称揚するのはわからなくはないけれど、私のような素人観客には関わりのないことです。
或る作家がジョイスがフィネガンズ・ウェイクを書くのに17年かけたように一つの作品を仕上げるのに十数年かけたとしても、それが、太宰が口述筆記で一気に一晩で書き上げた「駆け込み訴え」より出来のいい作品かどうかはわからない訳で、制作に費やした時間や労力の多寡は作品の出来不出来とは関わりがないし、苦労しただろうから座布団一枚!というわけにもいかないのは自明の理です。
この作品の映像価値の源泉は、今述べたように、対象によく適合した強い選択性にあると思いますが、ある種のコンテンポラリー・アートのように見る者を拒むようなところがあるのは、師匠のタル・ベーラも同じだと感じます。
作り手は対象を見ているけれど、その視野に他者としての観客は入ってこないような気がします。それはタル・ベーラという映像作家の頑固な作家主義というのか、私は彼のことは何も知らないので聞いて見ないとわからないけれど(笑)、作家は観客なんかどうでもいい、自分が真に自分自身にとって不可避なものだと思えば、それにまっすぐ向かい、それを捉えれば良いので、それが芸術であって、観客なんてものはどうだっていいんだ、という古典的でオーソドックスな、芸術観の持ち主なのではないかな、という気がします。芸術=芸術家の自己表現、みたいなね。
だからこの作品も、監督が心を揺さぶられた炭鉱(で生きる人々)の光景を強い選択性を武器に再創造してみせた、その凝縮され強化された映像を「美しい」と心揺さぶられない者は縁なき衆生だ、と(笑)。
それで作家の方から観客を選ぶ作品、セレクトショップみたいに(笑)、わたしはその美を感じるセンスを持ってるぜ、と言いたいスノッブが大勢集まるようなところがあって、私のような通りがかりの観客はなるべくそんな人だかりは避けて通りたいけれど、作品自体は良い意味でインパクトのある、いまどきの日本の若手作家の作る映画としては珍しい作品だったので一言感想を記しておこうと考えた
次第です。
けれども、それにしてもなぜボスニアなんだろう?(笑) あるいはなぜ炭鉱なんだろう?
もちろんたまたまこうこうこういう経緯で出遭ったんだ、というのであったって構わないんですが。
でも別段ボスニアでなくたって、日本にいくらもあった(今は知らんけど)炭鉱でも良かったでしょうし、炭鉱じゃなくて町の豆腐屋さんでも良かったんじゃないか(笑)。
それは私たちの暮らす遠い島国にまで聞こえてきていた戦乱の地で生産を続ける炭鉱という厳しい現場でなければ出遭えない張り詰めた空気や働く男たちの表情というものがあったかもしれないけれど、どんなに平穏に見える日常の中にも、ボスニアの炭鉱夫たちがもつ存在感や、生死の境を渡るような緊張に満ちた時間を生きる仕事の現場というのはあると思います。
逆にまた、豆腐屋さんが仕事を終わればよき親父さん、よき夫として家族と団欒の時を過ごしたり、痴話喧嘩をしたりといった存在になるように、ボスニアの炭鉱夫たちも仕事が終わって家に帰れば夫として親父さんとして、家族と食事を共にし、痴話喧嘩もするでしょう。そこに何も違いはありません。
地下何百メートルか知らないけど闇の支配する地底深くの採掘現場で命を張って働く坑夫の姿や、その生き方に心を動かされるなら、まだ私たちが深い眠りのうちにある闇の中を起き出して今日1日の豆腐づくりの下ごしらえをする町の豆腐屋さんの生産現場もまた、彼の生をかけた張り詰めた空気の支配する現場であって、そこには少しも価値の違いはないように思いますし、そういう日常の中に人間の強さも弱さも、生きることの意味も見ることができるのが(映像)作家なのではないかと思います。
その余のことは、初期の民族学者たちのような自分たちの身近な世界にないものに心惹かれる異民族の生活への物珍しさやエキゾチシズムに過ぎないでしょう。
この作品を礼賛している著名な映像作家たちや評論家たちが、色々と自分の解釈をして塗り絵を塗るようにいろんな色で塗りたくるのは勝手だけれど、多分彼らはみんな幻想に携わる人たちで、自分が坑夫としてこういう坑道へ毎日降りていくような生活をしたことのない頭でっかちな人たちでしょう。私だってそんな経験はないけれど(笑)。
しかし、ここに捉えられた炭鉱夫たちは現に自分たち自身がこういう仕事をしているわけで、これが彼らの日常生活なのですから、こういうことはみな当たり前のことだと思っているわけです。だから、そういう彼らの姿を捉えに、彼らの間へ入っていく映像作家の姿勢、その目、その姿勢が必然的に厳しく問われることになると思います。それはそういう言い方をしてもよければ、余計なことだからです。
私たちは子供の頃から色んなことを学んで知的に上昇していくことで必然的に生活の地平から幻想によって乖離していくけれど、それはただ精神の遠隔対象性による自然過程に過ぎないので、そこに価値はなく、生き方としては多かれ少なかれ価値のある生き方からの逸脱に過ぎないんだ、ということは私が若い頃に尊敬する思想家から教えられた最も重要なことでした。
その「最も価値のある生き方」を体現しているのが、ここで描かれた炭鉱夫たちや私が対照させてきた豆腐屋さん(笑)のような生き方であって、彼ら自身は自分の仕事に誇りを持っていると思うけれど、別段インテリさんたちが考えるような意味で価値ある生き方だとか余計なことを考えているわけではないでしょう。
でもそこへ介在していく、余計なことを考える連中はその入り方を問われることになるでしょう。それは単なる物珍しさや好奇心で、あるいは素敵だと思いました、感動です!では済まないのではないか。
私が注目したのは、監督にカメラを向けられた時の坑夫たちの表情でした。
別に互いに言葉をかけるでもなく、何か働きかけをするわけでもない。 監督はカメラの目になって撮っているだけで、その捉えられた風景の中にたまたま姿を現す坑夫たちは、普通なら「お前こんなところで何してんだ!あぶねえじゃないか!」と咎めてさっさと追い出すでしょうが、こちらをチラッと見て、あぁ、あの映画を撮りに来てる姉ちゃんかという表情(笑)をして黙って通り過ぎたりするわけです。
その時のほんのわずかな瞬間だけれど、チグハグな被写体と撮影者の関係性が、こういう「作品」によって彼らの「最も価値のある生き方」に介在していく映像作家の困難さを物語っているように思います。多分私がそんなことを感じたようなシーンは、監督自身は全部カットしてしまいたかったのではないかなと思います。
多分そうすれば、この作品はもっと坑夫の目線で捉えた客観的な現場の断片映像の連なりのように見える作品になったでしょう。
そうすれば、多くの観客にとっては、へ〜え、あちらの炭鉱の現場ってこんなところなんだ!という、見たことのない世界が見られる物珍しさや好奇心で近づく以外には、拒絶されるほかはない、いっそう観客を拒みも選びもする性格をはっきりさせた作品になったでしょう。
この世界にあるとも思えないほどの別世界のようにも見えるもう一つの現実の世界、明るい日常世界を反転させたネガの世界みたいなボスニアの炭鉱の労働現場の光景を、あたかもただ客観的に切り取って見せたかのような、その意味で並みの観客を拒むような硬質な世界が、本当に今高く評価され、広く観客に受け入れられるとすれば、そこには一つの状況的な理由があるように思います。
おそらく既存の映画のドラマ性みたいな、この作品の対極にあるようなものがどれも皆嘘っぽく感じられてしまうようなところへ来ているせいではないか、という気がします。
そういう状況が物語性の復権によって打開されるのか、むしろそれをも拒否して、さらに徹底して解体の方向へ向かうことによって道が切り拓かれるのか、映画の動向なんてものにも疎い私には分かりませんが、こういうそれこそ鉱石みたいに硬い凝縮された得体の知れない何かの塊みたいな作品が、これを蹴飛ばしていくにせよ礼賛して後生大事に奉って進むにせよ、岐れ道に置かれた試金石みたいなものに見えてくるのは門外漢として面白いところです。
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2019年10月19日
牧野省三「忠臣蔵」ほか(京都国際映画祭)
昨日は、京都国際映画祭の一環として押小路の富小路と柳馬場の間にある大江能楽堂で上映された、牧野省三没後90年企画と銘打った無声映画の上映会に行って、午後1時、3時20分、6時30分の3つの企画kで上映された長短8本の作品または作品の断片ともいうべきものを、弁士・演奏つきで、全部見てきました。
会場の能楽堂は明治41(1908)年の創建だそうで現在111年目だとか。大正八年、私の父が生まれた年に今の規模に改築され、平成13年に明治の面影を保存しながら、基礎部分の大改修をしたそうですが、それにしても大変な歴史を持つ建物です。
そんなところで映画の黎明期の作品を上映するというのも、すごくいい企画だと思いました。
豪傑児雷也
映画の父と呼ばれる牧野省三の1921年制作、21分の短編無声映画です。日本で最初の映画スターと言われる「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助主演の忍術(妖術あるいは幻術という方がいいでしょうか)ものです。
私が子供の頃にはよく子供向けの雑誌なんかにも登場し、幻燈でも見たことがあります。蝦蟇に化ける児雷也と敵の妖術使いで大蛇に変身する大蛇丸(おろちまる)、それに部が悪い児雷也を助ける、ナメクジに変身する綱手姫(つなでひめ)のジャンケンみたいな三すくみは、その後もずっと記憶に残っていたので懐かしかった。
天保10(1839)年から明治元(1868)年にかけて刊行された、戯作者美図垣笑顔の『児雷也豪傑譚』という原作があったようです(ウィキペディアによれば)。映画では戦国時代の話で、主人公児雷也は肥後国の城主だか豪族だかの若様で、両親を悪い家来の裏切りで殺され、その後世をしのんで蝦蟇仙人に妖術を習い、児雷也になって復讐を果たすという話だったんだというのは幼い頃のことで記憶になかったので、今回初めて知りました。
やはり子供心に一番印象に残ったのが忍術だったということでしょうね。児雷也がパッと消えて大きな蝦蟇の化け物が出てきたり、今見ると笑えるけれど、特撮だのフィルムのカットだの、そんなことは何も知らないから、不思議でワクワクして見ていたんでしょうね。
今回は弁士に坂本頼光さん、演奏に鳥飼りょうさんが熱演で、筋書きも人物もよく分かるし感情がこもって、迫力がありました。
尾上松之助という人はどさ回りの、どうということもない役者だったのを牧野省三が見出して映画に使って成功したという意味のことを弁士さんがおっしゃっていましたが、それでも立ち回りのシーンなど見ていると、歌舞伎役者的な様式的で美しい身振りで、映画が歌舞伎の立ち回りの様式を脱して以後の阪妻の雄呂血みたいなリアリズム系の大暴れとはまた違った良さがあるな、とあらためて思いました。
雷電
牧野省三の1928年制作の遺作だそうで、雷電の相撲の相手をしているのが息子の牧野正博だそうです。そして正博は監督と役者の両方をやっていたのを、役者の方はこの作品を最後にして監督業に専心することになるのだそうです。18分の短編無声映画で、やはり弁士坂本頼光さん、演奏鳥飼りようさんでの上映。
力士として強すぎて息子が憎まれることに心を痛めた老母が、一計を案じて、今際の際の天覧相撲で負けるようにと息子雷電に今際の際の頼みとして強く頼み、親孝行な雷電が八百長相撲をするという話で、相手の力士は、意地で雷電より強い力士を抱えていると啖呵を切った武家が実はそんな力士などいないので、急遽通りがかりのを医者を、相撲取りと同じ総髪だから、というだけで無理やり相撲取りに仕立てて対戦させるということで、その医者を正博が演じているわけです。それがひどく痩せぽっちの貧相な体なので、その(非)存在感だけで笑えます。もちろん喜劇ですが、喜劇としては古臭く、泥臭くて、ストーリーも無理があってちっとも笑えないけれど、死んだはずの老母がムックリ起き上がったり、この正博医者の相撲取りの肉体の貧相さとか、そういう物質的(身体的)要素が面白くて、それは映像ならではの可笑しさでしょう。
怪傑夜叉王
牧野省三監督1926年の製作。8分の断片が残っているだけですが、主役の市川右太衛門がマキノプロ入社して二年目のデビュー2作目だそうで、まだ19か20歳のはずですが、そんなに若いとは思えない貫禄で、しかも美しい。
この作品の原作は「石川五右衛門」だそうですが、当時の検閲制度で、石川五右衛門は共産主義者だという「その筋の見地から」題名、役名、内容まで変更を余儀なくされて公開にこぎつけた作品だとか。
中身の方は五右衛門ならぬ夜叉王が、秀吉ならぬ権力者伊賀守を討ち取ろうとする話で、目玉はこの立ち回りの中で見せる忍術。分身の術や、背丈が大きくなったり小さくなったりする幻術でしょうか。人形使い(傀儡師)が操る三番叟の子供が巨人になったと思うと小人になるあたりは、ちょっと喜劇の要素もあります。
国定忠治
牧野省三1924年製作。8分くらいの断片ですが、赤城の山の名セリフ「赤城の山も今宵を限り・・」の場面が見られました。主演を務めた新国劇の澤田正二郎がとてもカッコいい。
これも弁士坂本頼光さん、演奏鳥飼りょうさん。
崇禅寺馬場
牧野省三総指揮のもと、マキノ正博監督が撮った昭和3(1928)年の作品。マキノプロにとってはこの昭和3年は大変な年で、その前に撮った忠臣蔵の配役のことで、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎のスターたち
が独立してしまい、彼らに変わる俳優を緊急に探す必要に迫られた、と弁士さんの解説。それでこの映画の主役を南光明という人がやっているけれど、どうもこれが具合が悪い、という印象を割と強調されていました。
確かにあの役者さんはあまり存在感がありませんね。でもそれに変わって、彼を命がけで守り切ろうと狂気の刃を振って大立ち回りに及ぶお勝という女を演じた女優さんの方がすごい(笑)。あれを見るだけでも27分ほどのこの映像、見られて良かったな、と思います。
ストーリーは、実際にあった事件を下敷きにしたものだそうで、1715年、摂津国崇禅寺の松原で遠城治左衛門、安藤喜八郎の兄弟が、末弟宗左衛門の仇生田伝八郎を討とうとして返り討ちにあった事件が元になっていて、映画では生田伝八郎が、自分を普段から小馬鹿にしていたことからかねてより憎んでいた武士を騙し討ち(不意打ち)にして尋常の果し合いをしたかに見せかけるため死骸にタスキをかけたりして逃亡し、逃亡先で出会ったお勝という女(ヤクザの親分の娘だったか、とにかく大勢のならず者の子分を差配できる権力を持つ女)に惚れられて、その用心棒になって居候してぶらぶら日を過ごしています。そこへ生田が殺した武士の息子が敵討ちに来て、生田自身は単身で相手をするつもりだったが、彼に惚れたお勝が勝手に子分たちを大勢集めて返り討ちにしてしまいます。
結局はまた返り討ちにあった武士の仲間たち、藩の武士たちが大勢押しかけて、生田を殺そうとし、お勝が生田のところへ行かせまいと、一人で大立ち回りをするわけです。脇差一つで大勢の大刀を振るう武士たちを相手にものすごい形相で大立ち回り。これはほんまに凄い(笑)。まぁ坂本頼光弁士の語りの熱演のせいでもあるのですが。
それにしても、最初に憎い相手を騙しいうちにして、尋常な勝負に見せかける小細工までして逃げ落ちる生田伝八郎は卑怯な悪者ですが、後半はなんだか主人公みたいなこの人に寄り添った目線で、逃げおおせながらシメシメとほくそ笑む悪党ではなくて、妙に虚無的な風情で、女のところにヒモみたいに居候してブラブラ何もしないでいて、仇討ちきた武士を女が部下を集めて返り討ちにしてしまっても、
助かったわい、と喜ぶ風でもなく、むしろ自分一人で相手がしたかったなぁ、と思ったりしています。
こういうところが、ちょっと奇妙で、ありきたりの勧善懲悪でないのが面白いところです。
逆流
これは二川文太郎監督の1924年のマキノプロの作品。21分の、弁士(坂本頼光さん)、演奏(鳥飼量さん)つきの上映でした。主演は阪東妻三郎で、長門裕之や津川雅彦の母であるマキノ輝子(マキノ省三の四女。マキノ正博の姉)が、主人公の片思いの人で、のちに敵の妻になる操という女性を演じて共演しています。
家老の息子に母親を(早馬に蹴飛ばされて)殺され、姉を汚され(騙して弄んだ上に捨てる)た下級武士の主人公が復讐心に燃え、かつ自分の片思いしていた女まで家老の息子が妻としたことに恨み骨髄で、家老の息子の結婚式の場に押しかけるも相手の家中の者に追い払われ、七年間、落魄の身をかこつも、ある時、にっくき相手とその妻が船で海辺へ着くのを見かけ、かつての復讐心が再燃して抜刀大立ち回りの果てに二人とも斬り殺してしまいます。そして虚しくなった、と。
なんだかねぇ・・・(笑)
もともとこの主人公の女への片思いは全く一方的なもので、女は彼を裏切ったわけでもなんでもなく、彼女は元からの許嫁である家老の息子と結婚しただけで、なんの罪もありません。家老の息子が主人公の姉と許嫁を二股かけて付き合っていて振ったのは道義上よろしくはないけれど、世間にはよくあることですよね(笑)。嫌な男ではあるけれど、だからって殺されなきゃいけないほどのことか、といえば、いくら女性の操が命という時代だからといっても、微妙でしょう。逆に当時のことだと、これだけ身分の違いのある男女の間のことでもあるし・・・
それに、主人公がこういう思い込みの強い人であるところを見ると、お姉さんの方もきっとそういう傾向がありそうだし、男に騙され裏切られた、というのも、多分にお姉さんの一方的な思い込みである可能性は捨て切れませんし・・・
そうするとまあ色々あったけど、普通に許嫁と結婚して幸せな仲の良い夫婦として七年も過ごしてきた家老の息子夫婦を、いきなり七年前の思い込み過剰の恨み辛みで刀を振るって襲いかかって、夫婦共々斬り殺しちゃう、ってのはどうなんでしょう?
ちょっとこの二川文太郎って監督さん、おかしなところがある人じゃないんでしょうか(笑)。
でも、その異様さが、ありきたりでないから面白いところでもあります。下級武士の平生からの階級意識的な僻みと恨みつらみが、胸の内に積もり積もって激しい情念になって突如噴出する、っていうところに社会心理学的な?一定の感情的リアリティがありますよね(笑)。
これ、名作「雄呂血」の先駆をなす作品だと言われているそうで、なるほどそう言われてみれば最後に全部斬り殺した挙句、主人公が虚無的なつぶやきを吐くところなんぞは、そういう気がしました。
それでも「雄呂血」の方は、まだ主人公がなぜそこまで落ちて荒れていくのか、説得的に経緯が描かれていますからね。「逆流」の主人公にはちょっとついていけないところがありました。
でもやっぱり役者としての阪妻は冴えていて、とてもいいですね。
黒白双子
こくびゃくぞうし、と読むそうです。1926年、曽根純三という元警官だった監督の36分の無声映画。
黒が炭屋、白が洗濯屋で、互いに隣り合って商売していながら、ひどく仲が悪くて始終喧嘩ばかりしています。でも炭屋の息子と洗濯屋の娘は惚れ合っていて一緒になりたい・・・という典型的な漫画的設定でのコメディです。
弁士の坂本頼光さんも、終わって、疲れましたね、と言っておられたけど、ちょっとこういう作品にかたりをつけるのは疲れるでしょうね。笑いというのは時代の笑いってのがあって、笑いを本質とする昔の映画を今見て、今の感覚で本当にお腹の底から笑えるかといえばひどく難しいと思います。
マキノが生んだスターたち
昔の映画の多くはチャンバラのハイライトシーンだけを切り取って、子供が楽しめるような、チャンバラハイライトシーン集みたいなのが「おもちゃ映画」としてたくさん作られていたようで、そのおかげで、もう完全な形のフィルムがどこにも残っていない作品の断片が今も見られるんだそうで、映画のクレジットにおもち映画ミュージアム、というふうな記載があるのを見て、そういうところで保存されtりしているのかな、と思いました。
これはそういう断片をつないだ、スターたちの立ち回りのシーンで、大スターたちの活躍していた頃の元気な姿が見られます。
忠臣蔵
これが昨日見たサイレント映画の中のピカイチ、目玉の作品です。なんと明治43-48(1910-1915)年頃の作品だそうで、もちろん最古の忠臣蔵。牧野省三監督、尾上松之助主演。
このフィルムは国のフィルムアーカイブやマツダ映画社にはあったのだそうですが、今回この作品の弁士を務められた片岡一郎さんが2017年に京都の骨董屋で発見して3万円という安値で買われたのが、それら2本よりも状態の良いフィルムだったらしくて、国のアーカイブの方に寄贈されたその3つ目も合わせて合計3本を照合して、最長版87分のデジタル復元版を作ったのが、今回披露されたこの作品だそうです。
最長版だけあって、忠臣蔵の魅力に欠かせない様々なエピソードの場が入っているのが嬉しい。祇園一力茶屋の場などは新発見のフィルムによって初めて見出されたようです。
最初の内匠頭が上野介に意地悪される場面が非常に丁寧に描かれていたし、立花左近と対峙する場面、内蔵助が瑤泉院を訪ねる南部坂雪の別れの場面、それに続く隠密が密書を奪おうとするのを戸田が防いで密書を開いて内蔵助の真意に気づく場面なども結構丁寧に描かれていて嬉しかった。
弁士を片岡さん、演奏(ピアノ、三味線、太鼓)を上屋安由美さん、宮澤やすみさん、田中まさよしさんが熱演してくれました。
尾上松之助の内蔵助もなかなか良かった。内匠頭もよかった。
牧野省三の演出は動きが良くて、古い映画にしてはエンターテインメントとして飽きさせないスピード感がありました。
本懐を遂げて引き上げていく浪士たちが両国橋を渡っていこうとすると、ここは通せぬと馬上のぶしが立ちふさがります。三度、絶対ここは遠さない、と言うのですが、その言葉に、永代橋を通って行くなら行けるであろうが、ってなことをさりげなく言うわけです。内蔵助はすぐに察して、かたじけない、と礼を言って引き上げる。時代劇としては当然のやりとりではあるけれど、こういうのがあまり大仰にではなくさらっと演出され演技されるのはやっぱり気持ちがいいですね。
すごくいいものを見せてもらいました。語り、演奏も素晴らしかった。
上映の合間に行った近くのお洒落なカフェ。
紅茶とケーキをいただきました。美味しかった。
saysei at 18:57|Permalink│Comments(0)│
2019年10月13日
「天使の入江」を見る
「シェルブールの雨傘」のジャック・ドゥミが一つ前に撮った監督2作目という「天使の入江」、古いVHSテープに他の映画と一緒に録画してあったのを見つけて、見ました。きっとテレビでやったのを録画したのでしょうから、ひょっとしたら一部カットされたりしているかもしれないけれど、今みても結構楽しめました。
どうしようもなくギャンブルにハマってしまう人間が実にそれらしく描かれていて、自分も一度やったらあんな風になってしまうかも、と思わせるほど感覚的に納得できる(笑)。考えてみればギャンブルに限らず、いけないことだ、つまらないことだ、やばいぞ、と分かっていながら、こんな風にどうしようもなくのめり込んでしまって、自分からその地獄へ飛び込んでいって、そこからどうしても抜け出すことができない、ということは、少なからずあると思います。
「健全な」精神の持ち主から見れば、そういうのにはまっていく人間というのは、自分が制御できない意志薄弱な弱い人間ということになるのでしょうが、視点をそんなに「健全」ではない私たち普通の人間の中にも潜んでいるようなありようの方に移して見れば、むしろそういうありようの方が、人間本来のありようというか、いかにも人間らしいありようのようにも思えます。
麻薬患者のような典型的な症例に限らず、近頃マスメディアでよく取り上げられる児童虐待やDV、学校や職場でのいじめ、万引きのような常習犯罪、昔から言われるような酒に博打に女・・・いや失礼!性犯罪なども再犯が多くて本人たちにとってはやめられないらしい。人に迷惑はかからないかもしれないけれど、スマホ中毒だとかSNS浸りなんかもその類かもしれないし、私みたいにブログに駄文を書かずにいられないのもその種の症状なのかも。
そうしてみると、この映画を見ていて、アホやなあ、80万フラン儲けたところでやめときゃいいのに、400万フランも儲けたならあとは何もせずに左団扇で暮らせばいいのに、なんて「健全な」精神で持ってアホな主人公たちを冷めた目で見ている私たちも、彼らとなんら変わりのないアホな人間なんやろなぁ、と思えてくると、途端にこの映画がどうしようもないギャンブル狂いのアホな男女を描いたものというのから一挙にわれわれ誰もがそうなんじゃないの、という普遍的なものに転化して見えてくるような気がします。
男は女に対して愛情を感じていくけれど、女の方は別段男を騙して利用するというような悪意はない、ある意味で無邪気で単純な女性だけれど、あくまでも男との関係は偶然的な出会いにすぎず、その場その場の打算で行動を共にしてきただけ、と見えて、最後の最後にはそんな自分の中に男への愛情が根付き始めていたことに気づくのを暗示するラストになっていて救いもあります。人間ってみんなこん風に生きているのかも知れないな、と。
そう思うと、決してもう若くも美しくもなく、自分をコントロールすることもできない、弱く自堕落で醜くさえある女が、何かしらまだ世間知らずの無知で無邪気な少女のように可愛らしく、男にとって彼女がそう見えていただろうように、愛おしい存在にさえ見えてくるから不思議です。
そう見えるような非常に難しい役どころを、流石にジャンヌ・モローが見事に演じています。ギャンブルにハマっていくけれど、女ほどには自分を失わず、女に対する愛情を見出していく生真面目な銀行員を演じたクロード・マンもとても良かった。
ドゥミは私の好きな「幸福」の監督アニエス・ヴァルダの旦那さんだそうで、二人ともヌーヴェルバーグの左岸派と呼ばれていたそうですが、そういうレッテルは作品を見る上ではなんの意味もないんじゃないかと思います。私が学生の頃は、文学でもヌーヴォーロマンだとかアンチロマンだとか呼ばれたフランスの新しい文芸が次々に翻訳されて、そういう作品を新しい世界の文学として持て囃す翻訳家や評論家がたくさんいました。そんな小説が小説の書き方に多少の拡がりを与えたのかも知れませんが、正直のところどれを読んでもちっとも面白くなかった(笑)。
その面白さというのはちょっと理屈っぽいもので、「浮かれ女盛衰記」や「パルムの僧院」を読んで無条件に心を揺さぶられるような面白さとはまるで異質な、頭の先っぽで感じるだけの、閉じた小さな世界での体験に過ぎなかったから、その時期を過ぎてしまえばなにも残らない。今読めばきっとなんでこんなものを一所懸命読んだりしてたんかいな、と思うでしょう。
ヌーベルバーグも似たようなものだろうと思っていたけれど、こうしてたまたま個別の作品に遭遇売ると、案外そうではない作品もあったりするので、文芸と映画は違うんかな、と思ったり、面白いものだな、と思って「再会」を楽しんでいます。
どうしようもなくギャンブルにハマってしまう人間が実にそれらしく描かれていて、自分も一度やったらあんな風になってしまうかも、と思わせるほど感覚的に納得できる(笑)。考えてみればギャンブルに限らず、いけないことだ、つまらないことだ、やばいぞ、と分かっていながら、こんな風にどうしようもなくのめり込んでしまって、自分からその地獄へ飛び込んでいって、そこからどうしても抜け出すことができない、ということは、少なからずあると思います。
「健全な」精神の持ち主から見れば、そういうのにはまっていく人間というのは、自分が制御できない意志薄弱な弱い人間ということになるのでしょうが、視点をそんなに「健全」ではない私たち普通の人間の中にも潜んでいるようなありようの方に移して見れば、むしろそういうありようの方が、人間本来のありようというか、いかにも人間らしいありようのようにも思えます。
麻薬患者のような典型的な症例に限らず、近頃マスメディアでよく取り上げられる児童虐待やDV、学校や職場でのいじめ、万引きのような常習犯罪、昔から言われるような酒に博打に女・・・いや失礼!性犯罪なども再犯が多くて本人たちにとってはやめられないらしい。人に迷惑はかからないかもしれないけれど、スマホ中毒だとかSNS浸りなんかもその類かもしれないし、私みたいにブログに駄文を書かずにいられないのもその種の症状なのかも。
そうしてみると、この映画を見ていて、アホやなあ、80万フラン儲けたところでやめときゃいいのに、400万フランも儲けたならあとは何もせずに左団扇で暮らせばいいのに、なんて「健全な」精神で持ってアホな主人公たちを冷めた目で見ている私たちも、彼らとなんら変わりのないアホな人間なんやろなぁ、と思えてくると、途端にこの映画がどうしようもないギャンブル狂いのアホな男女を描いたものというのから一挙にわれわれ誰もがそうなんじゃないの、という普遍的なものに転化して見えてくるような気がします。
男は女に対して愛情を感じていくけれど、女の方は別段男を騙して利用するというような悪意はない、ある意味で無邪気で単純な女性だけれど、あくまでも男との関係は偶然的な出会いにすぎず、その場その場の打算で行動を共にしてきただけ、と見えて、最後の最後にはそんな自分の中に男への愛情が根付き始めていたことに気づくのを暗示するラストになっていて救いもあります。人間ってみんなこん風に生きているのかも知れないな、と。
そう思うと、決してもう若くも美しくもなく、自分をコントロールすることもできない、弱く自堕落で醜くさえある女が、何かしらまだ世間知らずの無知で無邪気な少女のように可愛らしく、男にとって彼女がそう見えていただろうように、愛おしい存在にさえ見えてくるから不思議です。
そう見えるような非常に難しい役どころを、流石にジャンヌ・モローが見事に演じています。ギャンブルにハマっていくけれど、女ほどには自分を失わず、女に対する愛情を見出していく生真面目な銀行員を演じたクロード・マンもとても良かった。
ドゥミは私の好きな「幸福」の監督アニエス・ヴァルダの旦那さんだそうで、二人ともヌーヴェルバーグの左岸派と呼ばれていたそうですが、そういうレッテルは作品を見る上ではなんの意味もないんじゃないかと思います。私が学生の頃は、文学でもヌーヴォーロマンだとかアンチロマンだとか呼ばれたフランスの新しい文芸が次々に翻訳されて、そういう作品を新しい世界の文学として持て囃す翻訳家や評論家がたくさんいました。そんな小説が小説の書き方に多少の拡がりを与えたのかも知れませんが、正直のところどれを読んでもちっとも面白くなかった(笑)。
その面白さというのはちょっと理屈っぽいもので、「浮かれ女盛衰記」や「パルムの僧院」を読んで無条件に心を揺さぶられるような面白さとはまるで異質な、頭の先っぽで感じるだけの、閉じた小さな世界での体験に過ぎなかったから、その時期を過ぎてしまえばなにも残らない。今読めばきっとなんでこんなものを一所懸命読んだりしてたんかいな、と思うでしょう。
ヌーベルバーグも似たようなものだろうと思っていたけれど、こうしてたまたま個別の作品に遭遇売ると、案外そうではない作品もあったりするので、文芸と映画は違うんかな、と思ったり、面白いものだな、と思って「再会」を楽しんでいます。
saysei at 13:59|Permalink│Comments(0)│