2019年09月
2019年09月27日
天使との夢のような一日
The sky was clear and green was
dazzling when we lost our way, talking happily walking between the fields
where rice ears were dripping ・・・
The angel says she wants to see the "yuka midori" ,
that is the green of the garden reflected on the floor.
“”Yuka midori ” in the photo
sold at the shop of the temple is bright and vivid green, but the
real thing was quite different. So my angel said the photo must have been
corrected in 'Photoshop' ! (laughs)
The next temple we visited was this. This is one of my
favorite buddhist temple where I have wanted to bring my angel.
We were very lucky to see the tea house
with eight windows (at the end of the corridor)
despite our sudden visit for usually reservation is required.
Pine branch
in the shape of a crane.is separated from the base of the trunk.
Well
maintained garden.
The third place to visit was here, also
my favorite temple. ’Jugyu no Niwa' (meaning ten cows' garden, thinking of the
garden stones as 10 cows in a Buddhist narrative) is known for its
beautiful autumn colors.
I love this backyard sight the best.
My angel listened to the tip of the bamboo
tube and heard the sound played by 'Suikinkutsu'.
We rushed to the last entry time of 'Shisendo'. A series of
Susuki was in the sunset.
We also found 'Sui-fuyo' in the garden.
We had lunch at this Japnese-style restaurant before
departure.
It was a dream time for me.
dreamy lunch with an angel
①先附 菊花和え
②造里 鰹 烏賊
③椀物 萩真丈 焼き茄子 柚子
④八寸、煮物、焼物、揚げ物
⑤食事
⑥水物
⑦ぜんざい
⑧炒香(水出し緑茶)
2019年09月25日
溝口健二監督「元禄忠臣蔵」
やっぱり最初に「護れ興亜の丘の家」と出て、「情報局国民映画祭参加作品」と来ると、こちらも構えてしまいますね(笑)。1941年ですか・・・
もちろん時局柄というのか、それはメディアの外面的なあり方だけではなくて、その表現も時局の色に染め上げられています。主君の殿中刃傷沙汰の報せを聴いて国元では幕府の裁きに対して、さてどうするかですったもんだの議論が交わされる中、大石内蔵助は一人何かを待っている、というので、一体何を待っているのかと言えば、京都でこの件を朝廷にお詫びしたときの天皇あるいはその取り巻き公家らの反応がどうであったかの報せを待っているのですね(笑)。
そして、どうやら天皇あるいはその周辺の反応が浅野内匠頭に同情的で、刃傷はもってのほかではあるが、武士として上野介を打ち果たせなかったことはさぞかし無念であったろう、と思いやるような言葉をもらった、と聴いて、内蔵助は都の方角を向いて平伏し、かたじけないと感謝し、主君が切腹させられお家断絶、家来がみな路頭に迷うなんてことはそっちのけで、刃傷沙汰が勅使を迎えるこの上なく大事な場でなされたにもかかわらず、これで浅野藩が朝廷に弓引く逆賊にならずに済む、いわば絶対に侵してはならない道徳規範を踏みにじったわけではない、ということになるから、それがもう何よりだ、と喜ぶわけです。
これはもちろん今の感覚から言えばまことに奇妙な、どこか狂気じみた内蔵助の行動で、まるで大石が幕末の純粋培養された勤王の志士になってしまったかのように見えて、戦後の数多くの忠臣蔵を見て来た目で見ると驚いてしまいます。しかし、この作品における内蔵助の行動原理は一貫してそうしたものであって、にっくき上野介をただ打ち果たしさえすればよい、というのではない。いわば四十七士は道徳的に正しくなければならない、というのが内蔵助の行動原理になっているわけです。
もっとも、その道徳的に正しい、というのが、いま私たちが聴けば、とても奇妙に思える中身だとしても、こういう原理で動くことが、ただ敵討ちを成就すればいい、というので、あとはそのための準備であり目くらましであり・・・といったエンターテインメントになっていかない理由であり、この作品をなかなか面白いものにしている理由でもあるようです。
ただ仇さえ討てばいい、と血気にはやる助右衛門でしたっけ、これをとめる綱吉が、内蔵助の心中を察して助右衛門を諫め言い聞かせる台詞の中に、物言わぬ内蔵助の心中が語られます。まぁ真山青果の原作自体がそうなっているのかもしれませんが、内蔵助を寡黙な昼行燈にしておいて、脇で語られるエピソードの中で助右ヱ門に中村翫右衛門、綱吉に市川歌右衛門など大物を充てて、饒舌でない内蔵助の心中をそうした挿話の中で表現しているところなど、なかなか心憎いところがあります。
もうひとつは、この作品は松の廊下へ入る隅から、向こうに続いている廻廊や柱、その上の庇や前に広がるまばゆいように真っ白な白洲の広がりをとらえる長廻しのカメラから始まるのですが、ちょっとバランスを欠くほど、人影のない殿中の廊下や柱、白洲をえんえんと撮りながらカメラが右へゆっくりと移動していくと、なぜ浅野内匠頭ごとき無能な人間に相談して、このわしに相談しないのだ、と向こうに控える内匠頭に聞えよがしの大声で梶川を叱責してみせる吉良上野介の声が聞こえて来て、やがてその上野介と梶川の姿をとらえ、ドラマが始まるのですが、そのあと二人が背を向けて松の廊下を去っていく、その背中に向けて、それまで奥でこちらを向いて裃姿で座って神妙に上野介の当てこすりに耐えていた内匠頭がついに立ち上がって後を追い、上野介めがけて切りかかるわけです。
上野介が内匠頭にさんざん意地悪してどったらこったら、という話は全部かット。上野介が梶川をなじっているようにみせて内匠頭への強烈なあてこすりの罵倒を浴びせている、その短い場面だけですべとを表現していて、物語はいきなり内匠頭の刃傷沙汰から始まるわけです。これもいいですね。
赤穂浪士には城明け渡しのあと、それぞれに色んなエピソードがあるけれど、この作品ではたしか助右ヱ門が能を舞うはずの上野介を討とうとして綱豊にとめられ、いさめられる挿話と、磯貝十郎左衛門が吉良家の内情をさぐらせるために利用したところが磯貝に本気で惚れた女が男装で磯貝の元を訪れ、はじめ拒否されるが大石の計らいで会って、女の琴の爪を磯貝が大切に持ち歩いていたことを知って納得し、自裁して果てる、という挿話の二つだけが採用されているようです。
前者は先に書いたように、大石とは逆に血気にはやって、ただ仇を討ちさえすればよいという助右ヱ門を登場させることで、逆に大石の行動原理を浮かび上がらせる役割をしているエピソードですし、後者は女ながらに筋を通し、ニセの武士になりすましながら、最後にはそれをホンモノにしてしまうために自裁して果てる、という、色恋話を超えた、きわめて倫理的なエピソードになっています。
さらに面白いことに、この忠臣蔵には討ち入りの場面がない!(笑)。これにはちょっと驚かされますが、それはこの作品がエンターテインメントではない何よりの証拠かもしれませんね。
周囲がどう言おうと、また極端に言えば勝ち負け、いや吉良を討ち果たせるかどうかも最終的には問題ではない、ただその目標を掲げて、道徳的に正しい行動原理を守って、老いとの戦い、貧乏との戦い、生活との戦い、時間との戦いを耐えに耐え、一糸乱れずことをなす、という、そのことに意味があるんだ、というのがこの作品の内蔵助ですね。それはそのまま世界の誰が認めなくても自分たちが正しいと信ずる神国日本の理念に殉じ、あらゆる個人的な、あるいは党派的な利害を振り捨てて、その内的な道徳律に従って行動し、たとい世界中を相手に戦ってもひるまない「理想的な」戦中日本の人間像に重なっていくでしょう。
「私は日本の映画のあり方を規準するものは、無上命法的な芸術観ではなくて、超個人的な国家的世界観だと思う。ドグマだと叱られるかもしれないが、ドグマでも何でも我々は足場がなくては動けないのだ。但し私の斯うした映画のあり方の規準は、今の日本の歴史的現実に立っての上の事である。」
溝口はそんなふうに言い(『元禄忠臣蔵』の根本態度~『時代映画』1941年9月号)、「元禄忠臣蔵」については;
「この一篇は原作がそうであった如く、日本独自の歴史的伝統や国家的ミリウを省察し掘下げる事なしには成立しない作品なのである。と云う事は決して史実的な考証の深さ、確さを云っているのではなく、国家史観の妥当を意味しているので、それも芸術の足場を外ずして了って、学術のまたは政治のと云った芸術以外の足場に立っての史観の正当さではない。」
彼がナチスドイツの宣伝相ゲッペルスの言葉を引いて「国民映画に当面する我々映画作家に豊富な示唆を与える事だけは動かしがたい」と持ち上げるのを読むのはつらいけれども、こういう理念を語る溝口はもともと大したことはないし、信用もできない、というのは既に映画関係者には周知の事なんだろうと思います。
むしろ具体的な映画制作の手つきを語り始めると、とても面白くなります。
「・・・日本画はむしろ描かれざる余白の部分に構成の良さを持っている。偉大な傑作における描かれざる絹上の余白は、しばしば、描かれてある部分そのものよりも多くの意味に充ちている。一幅の二本画の全景に描かれた髪形の大写的な部分と、淡彩を以て描かれた恰も内の方に秘められたかのような部分、外に向って見せびらかすのではなくて、ほのめかすということ、観る者の想像力に感銘を与えるために余地を残すということは、日本的描写の重大なる描法ではなかろうか。映画に於てクローズアップ的誇張を以て偉大な描写と歓喜したのは、実は西洋画の描写であった。美の表現、即ち事物の生命の活動は、外に向って表示された場合よりも内の方に秘められているときの方が、つねにより深いものである。描写と誇張に関する西洋的誤謬に陥っている今日の日本映画人達は、静かに平凡な日本画の前に立って、自らの筆致を学び取らなければならない。そのとき、クローズアップショットこそ描写を誇張する手段とする、この描写と誇張に関する誤れる理論を知るであろう。科学的撮影法の発達と共にクローズアップ的描写に関する理論を訂正しつつ、日本画的な全体的画面構成に偉大な創造を為さねばならない。」(元禄忠臣蔵演出記~『日本映画』1941年11月号)
「元禄忠臣蔵」のロングショット、長廻しのカメラや、寡黙な昼行燈内蔵助の描き方を見ていると、映画について何も知らない素人の私でも、彼がこの思うところを忠実に映画作りの現場で実現しようとしていたことが察せられるような気がしてきます。
2019年09月19日
大岡信・谷川俊太郎の「詩の誕生」をよむ
最初に詩の誕生と死についての会話があって、書かれた詩は書かれることで永遠に残っていくかのようにみなす通俗的な考え方には二人とも否定的で、詩もそのつど生き死にするものと考えられているのですが、じゃその都度生まれては死んでいく個々の詩がどう伝統と関わるかというところで、大岡さんはT.S.エリオットの「伝統論」を引き合いに出しています。
ある時代に生まれてくる新しいものは、ただ新しいものとして単独にあるのではなくて、それが加わることによって過去に蓄積されたものの全体もじわっと変わる。その総体が伝統というもので、伝統は日々変わっていくものだ、という話。
これを踏まえて大岡さんは、詩ってのは死ぬことによって実は伝統を変えて行くんだ、という言い方をしています。ここは「いいね!」(笑)
二人とも子供のころに読んでひどく印象に残ったらしい『印度童話集』の「誰が鬼に食はれたのか」という話がまた、なかなか面白かった。旅人が行き暮れて原の中の空き家で一夜を過ごしていると、夜中に人の死骸を担いだ一匹の鬼が入って来たと思えば、すぐ後からまたもう一匹の鬼が追っかけてきて、その死骸は俺のだ、と互いに争ったあげく、旅人に、この死骸を担いで来たのは俺か、それともこいつか、と訊きます。
どっちにしても殺されるくらいなら正直に言おうと、旅人が前に来た鬼だというと案の定、後の鬼が怒って旅人の手を体から引きちぎってしまう。すると前の鬼がすぐに死骸の手を持って来て代わりに旅人の体にくっつけてくれます。後の鬼はますます怒って、すぐ別の腕を引き抜く。するとまた前の鬼がすぐに死骸の腕をくっつけてくれる。こうして後の鬼が旅人の脚も頭も胴も残らず引き抜くのを前の鬼がいちいち死骸の脚や頭や胴をもってきて継ぎ足して、旅人の体と死骸とがすっかり入れ代わってしまうと、鬼たちも争うのをやめて半分ずつその死骸を食って去って行きます。
自分の体を残らず鬼に食われて、どこの誰ともわからない人の死骸が自分の体になってしまった旅人は、いま生きている自分がいったい本当の自分であるかないかもわからなくなって、夜が明けて空き家を飛び出すとやみくもに走って、一軒のお寺にたどりつき、そこのお坊さんに尋ねます。
「私の体はいったいあるのかないのか、どうか早く教えて下さい」
わけを聞いた坊さんはこう言ったというのです。
「あなたの体がなくなったのは、何も今に始まったことではないのです。いったい、人間のこの『われ』といふものは、いろいろの要素が集まって仮にこの世に出来上がっただけのもので、愚な人達はその『われ』に捉へられていろいろの苦しみをしますが、一度この『われ』といふものが、ほんとうはどういふものかといふことがわかってみれば、さういふ苦しみは一度になくなってしまふのです」
(アルス刊・インド童話集)
さぁ、旅人の苦しみが「一度になくなってしま」ったかどうか(笑)・・・でもこの話はなかなか面白かったですね。人間の自我を相対化してしまうというか、「われ」のいわば無根拠性を説くみたいな坊主の理屈はともかくとして、二匹の鬼が争って、一匹が旅人の肉体の部品を千切り取ると、他方が死骸の部品を千切ってくっつけて、とうとう旅人の身体と死骸とを入れ替えちゃう、という実にダイナミックな(笑)光景が素晴らしいですね。
古い童話にはよくこういう残酷で衝撃的な場面が描かれています。たしかずっとのちに知ったところでは御伽草子の中におさめられていた話だったかと思いますが、「物食わぬ女房」だったか、昔の百姓の理想の嫁みたいな、よく働いて、しかも何も食べない、という評判の女房があったのですが、あるとき不思議に思った亭主がこっそりと家に帰って覗いていると、その女房の頭がパカッと二つに割れたその大きな口へ手当たり次第に食べ物を投げ入れ、飯を櫃ごと放り込んで「食べて」いた、というような話なんかも昔読んでやたら怖かったのを覚えています。子供向けに書き換えられていたと思うけれど、後に元の古典として読むより、こどものころ祖父母から聴く話のように、昔むかし、ほんとうにこういうことがあったげな、という話として読むほうがずっと迫力があって怖かったですね。
歌の起こりについては、歌垣なんかのことを思えば当然とはいえ、「和というのは唱和する和で、答えるということでしょう。歌というのは単独に存在しなかったんだよ。必ず応えた。応えるものがあるから、それで空間に向って放つことができるものだったのじゃないか」という大岡さんの発言に納得。
それに続いて、彼が、大野晋の「古語辞典」の語釋など引きながら、”「うた」は疑い、転(うた)たのウタと同根で、自分の気持ちを真っ直ぐに表現する意 ” で、”疑いのカイというのは交の意で、したがって「疑い」は事態に対して自分の思うところを曲げずに差しはさむ意" と述べているのは、一層興味深く読めました。
あと、ドナルド・キーンがヨーロッパ人にとって詩は人間を超える超越的存在と人間の世界とを媒介するもので、詩人はそれを代弁する人だという考え方があるのに、日本では古今集の紀貫之の序文などみると、生きとし生けるものはみな詩を語るし、人間が自分の心の内にある感動を自ずと表わして言葉になったものが詩であるといっており、人間の内部に潜んでいる力を外部に押し出すのが詩だという考え方らしい、とその違いに驚いていた、という話を大岡さんが紹介していて、これなどもなるほどね、と納得できますね。私たちにとっては詩に限らず、表現というのはごく自然にそういうものだと考えられているところがあるように思います。
「マザー・グースの唄」という小見出しが立てられたあたりの会話で、谷川さんが平野敬一という人が、日本の英米文学研究者には、マザー・グースの唄を見る視点が決定的に欠落しているという指摘をしている、と紹介しているところがあります。私も大学を出てからイギリスに行くまで、マザー・グースについてほとんど何も知りませんでした。別段英文学をやろうなんて思っていなかったけれど、向こうに居てあれこれ活字に触れているうちに、これはもうそれを知らずにはイギリス文化なんてまるで分からないんじゃないか、と思ったりしました。
日本人で、なにかで「どんぶらこ(っこ)~どんぶらこ」なんて耳にしたら、川を大きな桃が流れてくる光景を思い描かない人はまずいないでしょう。同じように、「カチカチ山にボウボウ山」と聴けばウサギが火をつける音を聴き、タヌキの背中で燃える柴の音を聴くことが私たちにはできるでしょう。あるいはまた「皮を剥かれて赤裸」と聴けば、ワニに皮を剥がれてヒリヒリいたむ因幡の白うさぎの赤い肌を思い浮かべるでしょう。
でも、ちょっと以前までの日本でなら、こういう小さな子供でもだれでもすぐにわかったことほど、外国人には理解することが難しいでしょう。マザー・グースはちょうどその逆で、私にしても中高6年間、かなりみっちり英語を習ってきたはずですが、学校のテキストにはそのころ、出てこなかったのではないかと思います。
わたしも息子たちが幼いころ、寝付かせるためにいろんな話をしてやりましたが、もちろんその中にはこんなおとぎ話の類もたくさんありました。桃太郎を話すとき、「ひとつ私にくださいな」と、犬、猿、雉がそれぞれ同じセリフで黍団子をねだるシーンになると、次男がいつも「いや~っ!」と笑いながら拒否のセリフの合いの手を入れたなぁ、と今でも懐かしく思い出すことがあります。
そうやって日本の精神風土に根差した言葉が、その意味として、というより心地よいリズムとして体の中に入り、一人一人の精神の肉体を形作ってきたようなところがあるだろうと思います。それを知識として分析的に理解していくことはできるかもしれませんが、表現と響き合うようにして自らの精神の肉体で「わかる」ことは、そのような精神風土に育ってこなかった外国の人間にとっては、なかなか難しいことではないかと思います。
アラン&ジャネット ・アールバーグの絵本「もものきなしのきプラムのき」(Each Peach Pear Plum)などのような楽しい幼児向き絵本でも、マザー・グースを知らなければよく分からないでしょう。今の日本の子供たちだと、因幡の白兎の話なんかよりよほどよく知っているかもしれませんが(笑)。
あと、古今集の話で、紀貫之ら編者がどれほど歌の配列に心血を注いだか、ということで、「たとえば恋の歌だと、恋の予感から始まって、恋の爛熟を過ぎ、かつての恋を偲ぶところまで、時間に沿って歌が並べてある。また、その流れの部分部分も、たとえば恋の深い淵をうたった歌の前には、自分の思いは浅瀬を走る水のように激しいという歌が置かれているというような、コントラストの原理が大いに活用されている」という大岡さんの指摘があり、「それは古今集の編者たちが、集というものは個人の思いのたけを述べた歌を並べるだけではだめで、集全体がつくりだすハーモニーのなかにこそ本質があると考えてた証拠だ」と述べているところなどは、大いに啓発されました。
こういう古典を手に取るとき、一応解説にはざっと目を通していて、その中にも歌集ならその歌の配列法がいかなるものであったかについては触れてあったはずだと思うのですが、記憶しているのはせいぜい春夏秋冬とか恋歌だとか羇旅歌だとか、なんかそんな括り方をしていたっけな、といった程度で、やっぱり自分が見て行くときは、これという歌の詠み手に目をとめて、個別の歌を読んで、いいなぁと思ったり、ピンとこないなと思ったり、というような読み方をしているので、「集」自体を編者たちの作品として読むようなそういう読み方はまったくできていないなぁ、とあらためて気づくのです。
最後のほうで芭蕉を語って、その「切り捨て」ていく、捨て身の凄みに触れているところは、大変興味深い指摘で、谷川さんが、芭蕉の句で一番有名なのが、「古池や蛙飛こむ水のをと」だというのが、前からとてもおもしいろいと思っていて、この句を一番有名にしているのは、文学史家や批評家の評価ではなくて、日本人全体の評価であり、この句はシンボリックな見方なんかじゃなくて、ただ古池に蛙がとびこんだという事象しか言っていない、そう見た時に異様なぐらい新しいと感じる句で、これを選んでくる日本人の感性が非常に不気味な気もする、と語っているのも面白い。二人共、西洋人ならぜったいにこの句を選ばなかっただろう、と言っているのです。
熟年になってから俳句をやり、専門の民俗学の知見を活かしながら、俳諧論をプロの俳人たちの雑誌に書いたりしている友人の刺激もあって、もしもう少し私に残された時間があれば、俳諧を芭蕉の前から少し網羅的に読んでみたいな、と思っているところだったので、とりわけこのへんの会話に興を覚えたのかもしれませんが・・
2019年09月16日
手当たり次第~4本のDVD映画
深作欣二監督「仁義の墓場」。1975年の映画で渡哲也の主演です。これはふつう、組織暴力団からさえも手に負えない狂犬とみなされるであろうような、存在そのものが暴力みたいな若い組員が、その存在のありようから必然的に自滅していく話です。
他愛ないといえば他愛ないけれども、意味だの理屈だの最初から最後まで徹底的に排除して、突発的に発生する暴力とそれに伴って噴出する血の色で染め上げられた映画。面白いのは、そういういわば無意味にみえる一個の若い極道の肉体がたどる自滅の一本道を眺めているうちに、彼を目の敵にする組やら、厄介者扱いする所属組やら兄弟分やらの連中を、実に凡庸な「常識人」(笑)にみえてきてしまうところです。子が親に逆らうとは何事か?!とかね(笑)。
監督は忘れたけれど(どうでもいいような・・笑)トム・クルーズ主演の「アウトロー」。たしか2作目とかできていたような気がしますが、ジャック・リーチャーものというのか、そういう名の、もと特殊部隊だか何だか知らないけれど、いまは組織に属さない一匹オオカミの、スーパーマンみたいな凄腕の男が、企業乗っ取りか何かの企みによる殺人のカモフラージュのために殺人犯に仕立てられた悪漢の無実を証そうとする女性弁護士を援けて大活躍、というおはなし。背景も政治権力のような深い暗部があるわけでもないし、肝心の主人公の過去もなんだかよくわからない、まあ西部劇の流れ者シェーンの末裔と申しましょうか、木枯紋次郎の同類と申しましょうか、ただ人質の弁護士をとらえて主人公をおびきよせようと鉄壁の防御陣をしいているおおぜいの敵さんをものともせずやっつけちゃう、そこだけにすべてがかかっているような活劇エンターテインメント。
メイベル・チャン監督「三城記」。2015年中国映画だそうです。これ、ジャッキー・チェンの両親の実話がベースになっているんだそうです。タイトルは「三都物語」の中国風の表現のようで、その三都ってのは、安徽省、上海、香港の三つだとか。主人公のダオロンだっけ、ラウ・チンワンという男優が演じているジャッキー・チェンのお父さんに当たる人物と母親にあたるユエロンというタン・ウェイていう女優さんが演じる人物とが出会い、戦争のどさくさで色々あって引き裂かれ、また再会する都市(地方)をあらわしているんですね。両親が戦争中に中国にいて、私は上海で生まれたので、多少とも戦前戦中の上海の雰囲気とか再現してあると思うと、見てみたい気にならなくもありません。
ジャッキー・チェンのお父さんは映画で描かれたとおり、国民党の工作員(特務)だったようですね。ジャッキー・チェンはいまの共産中国にすり寄るような発言をしたりしたようで、非常に評判を落としているようですが、お父さんは共産中国に批判的なことを言っていたらしくて、この映画は中国製だけど、あまりジャッキー・チェンとの関係は喧伝されていない(そう宣伝すればもっと売れるだろうに)とか。また、作品の物語の中で、もとの工作員仲間に裏切り者として拳銃で撃たれて瀕死のラウ・チンワンに輸血、手術して命を救うのが、わき役のインテリ青年(読み書きのできる古物商)の友人で、共産党員だというのは、さすが中国製映画で(笑)、それは実話じゃなくて、フィクショナルに加えたことなんでしょうね。
映画自体はどうということもない、戦争を背景とした夫婦純愛もののメロドラマですが、良かったのは主役のラウ・チンワンという中年に近い男優ですね。この人は全然男前でもなんでもないけど、とても存在感があってうまかった。それから、わき役ですが、ダオロンを援け、知り合いになって行動を共にする若い古物商の男と恋仲になるシャオ・リンというちょっと色っぽい女性を演じる、チン・ハイルーという女優さん。彼女がほとんどラスト近い香港の一番のシーンで、卵を買いに来て、一個の卵をかざして同じように上海の卵売りに値切りながら卵を買っていたときのことを思い出すように、黙ってじっとかざした手指のあいだにある卵をみている、あの表情がたまらなく素敵でした。この人はただものではないな、と、あの一瞬のシーンだけで分かるようなところがありました。アンディ・ラウ主演の名作「桃(タオ)さんのしあわせ」にも出演していたらしいけれど、私はよく覚えていませんでした。
これも監督さん忘れたけど「ウィンストン・チャーチル」 ~ヒトラーから世界を救った男」。ゲイリー・オールドマン主演で、日本人のメイクのプロが手掛けたチャーチルのメイクが評判になったことがある映画で、いつか見たいと思っていました。とてもゲイリー・オールドマンだとは思えないほどメイクは見事でしたが、映画は見事とはいえない映画でした(笑)。メイクはいいけれど、やっぱりゲイリー・オールドマンの目は優しすぎる・・・。まぁ、家庭人としてのチャーチルをちょっと滑稽味をもて描いたりして、半ば喜劇的な要素を押し出した作品ですから、そう賢そうで鋭利なチャーチルでなくっていいのでしょうが、それにしても、メイクだけじゃなくて、中身のほうに、チャーチルらしい存在感がどこかにないといけないだろう、と思いました。ドラマのつくりも、いくら史実は動かせないにしても、もうちょっと描き方、切り込み方があるやろ、と思えるほどお粗末。
リュック・ベッソン監督「ジャンル・ダルク」。ミラ・ジョボヴイッチ主演の作品です。いままで見たジャンヌ・ダルク映画では、一番現実のジャンル・ダルクに近いんだろうな、というふうな印象を与えるような作品でした。ただ、それが肯定的評価につながるか、と言えば、そうとは言えないところが微妙です。最初、アバタ面の少女が花畑や草原をひた走るシーンとか、綺麗だな、と思って期待したのですが・・・。
神の声が聞こえるわけはないし、奇跡なんて起きやしないんだよ、ということを映画で語る必要があるのかな?(笑)彼女に聴こえたのなら、別段監督が現代人として信じなくても、観客が信じてなくても、少女が信じているなら、そのとおり描いていいんじゃないですかね。変にリアリズム風の絵解きをしようとするから変になっちゃうんじゃないでしょうか。
ジャック・リヴェットの二部だてのもみましたが、私の好みはロベール・ブレッソンの「ジャンヌ・ダルク裁判」。あのジャンヌは私の期待を裏切らなかった、いまのところ唯一のスクリーン上のジャンヌです。
2019年09月13日
天使の訪れ
きょうは13日の金曜日、英米では不吉な日らしいけれど、私には素敵な一日でした。
朝は天気予報に反して雨だったので、ちょっと心配していましたが、待ち合わせのお昼にはすっかり上がって、涼しく快適な一日でした。今夜は中秋の名月でもあったのですね。
前にもう一人のangelさんが来てくれたときに行ったブラン・ピエールがこじんまりしてお洒落な店で、美味しくもあったので、ランチはそちらで。
アミューズ(つきだし)ですね。
オードブル(前菜)は選択でパテ。
スープ
アントレ(肉料理)は、歯の関係で(笑)私はフォアグラ入りのハンバーグ。
デセール(デザート)。私の選択はブリュレ。
味覚障害の私にもきょうはどれもちゃんと味がわかって美味しく食べられたのを不思議に思いましたが、考えてみれば、パテもレバーが主原料だろうし、メインディッシュの選択も無意識にフォアグラ入りのハンバーグを選んだので、フォアグラって考えてみればレバーですよね。
不思議なことに甘味、塩味、酸味くらいしかわからないのに、レバーは何のレバーでもいまのところちゃんとレバーの味として味わえるのです。先日来、それがわかって、パートナーもよくレバー料理をしてくれます。
昨日は試しにサンマの塩焼きを久しぶりに食べたのですが、面白いことにサンマの身は良く味が分からないのに、あの苦みのあるハラワタの美味しさはちゃんとわかるので、身にいちいちハラワタ、いわば「レバー」をつけて美味しくいただきました。昨日はイカのミソヤキ、まあこれもイカのレバーにあたりますよね、あれもアルミホイールに包んで焼いてくれたのですが、これも美味しくて最後はご飯にまぶして、最後のひとしずくまでいただきました。レバーは普通のうまみの刺激とは異なる化学成分を持っていて、味覚障害の舌にも感じ取れる刺激を与えてくれるみたいです。
天使の旦那様がコーヒー好きだけど、自分はコーヒー飲まないからわからないし、仕事で疲れて帰って来られる旦那様にネスカフェなんか淹れてるっていうから、富小路三条まで戻って、ウィークエンダーズへ連れて行って、スペシャリティーコーヒーの豆をご紹介したら、旦那様へのおみやげを買って行かれました。さすがは天使さん。
それから天使が行ってみたいというロームシアターのツタヤと2階のカフェへ。このもと京都会館は、京都会館だったころには何かとよく行ったのですが、改修時のゴタゴタで嫌気がさして、ロームになってからはけったいくそが悪くてほとんど行ったことがなかったので、本当に久しぶりでした。
京都会館の改修計画を報じた日経新聞記事が、京都にオペラハウス、なんていう、あとでほとんど誤報だとしか思えない記事だったことがわかるのですが、京都会館を海外の一流オペラ、バレエを招聘して公演できるオペラハウスに改修するんだ、というような、とんでもない記事が出て、その改修構想の委員の一人として参画された方も、委員会で当初検討してつくった案には無かった話が議論もなく追加される形で、事後にこうなりました、と市の役人が説明にきておしまい、という普通考えられないようなひどいやり方で強引に「海外の一流のオペラ、バレエが出来る」みたいな文言が付け加えられたらしく、それが日経新聞の「京都にオペラハウス」という記事になったらしいのです。
本来はコンサートホールとオペラ劇場のような劇場とは施設のありようも基本的に異なるので、後の運営のことをよく考えて、じっくり検討しなくてはいけないことなのに、なぜそんな拙速な決定を、しかも委員にさえ事前に検討させることなく、市長が一方的に決めてしまったのか、手続き上も非常に問題の多いそんなやり方をなぜしたのか、少し調べるうちに、タイミング的な状況証拠からも、どうやら市長がロームのトップと談合した折りに、そのトップの意向で、突如そういう変更がなされたらしい、ということがわかりました。
この種の市長の独断的な行動と、本来そこで議論されるべき委員会を素通りし、外部の特定の人間の介入によるその意向に沿った恣意的な政策変更は、議会制民主主義に反する政治的行動でもあり、当時ブログで批判する論陣を張ったことがありました。
そもそもあんなスペースでいくら改修したって、まともなオペラハウスなんかできっこないし、運営上も本気でオペラハウスとして運営しようなんて考えたら、どれほどの市民の税金を費やさなくてはならないのか、わかってんのかと呆れて、かつて欧米のオペラハウスを含む多種多様な劇場を調査した経験を踏まえて具体的に数字を挙げたりして批判してきたわけです。
市長は民間から大金を出させたら舞台芸術関係者はひれ伏すだろうと思ったのか、自分の手柄になると思ったのか、ロームのトップと談合して、おそらくは向こうの希望を聞いて、突然オペラもバレエも、みたいな文言を計画の中に突っ込んだのでしょう。
議員たちのなかにも、分かる人がいなかったらしくて、市会のやりとりもその当時のものを全部読みましたが、まともな批判ができていた党派はありませんでした。我々が声をあげてから、共産党の議員が集会に出て来たりして批判的な意見を述べていましたが、結局大きな声にはならず、反対していた市民たちが反対の署名運動などもしていましたが、結局そのまま押し切られて「ロームシアター」ができてしまったわけです。
私も当初は日経新聞の記事しか情報がなかったので、それを仮に事実だとすれば、と言う前提で批判を組み立てていたので、どうやらあの記事自体がひどいものだ、と分かってきて、すっかりシラケてしまったおぼえがあります。
まあそんなわけで、ロームシアターというのはなんだかケッタイクソが悪い(笑)と思っていたのですが、きょうは天使が一緒なので喜んで一緒に行って、2階カフェでアフタヌーン・ティーを楽しみました。
どうやら天使が仕組んでくれたらしく、ウエイターが運んできたスウィーツのプレートには、チョコで、でかでかと私の名と、ハッピー・バースデイの文字が書かれていて、天使さんに誕生日祝いとしてごちになりました。
お昼から、外が暗くなるまで、きょうは終日天使とずーっと二人でおしゃべりして、本当に楽しい、素敵な一日をすごすことができて、こんな嬉しいことはありませんでした。いつもなら夕食も一緒にというところなのですが、天使が私の体調を気づかって、今回は夕方までということであらかじめ約束していたので、再会を約束して別れました。