2019年08月
2019年08月09日
平山周吉著『江藤淳は甦える』を読む
足掛け8日間の入院生活から、今朝無事退院してきました。
入院中時間はたっぷりあったので、750ページを超える平山周吉氏の大著『江藤淳は甦える』をなんとか最初から最後まで読みおえることができました。
評伝の対象が江藤淳という、その文芸批評を信用してきた評論家であったこと、そしてここに書かれた時代がだいたい自分が大学へ来て、文芸や思想関係の本を読むようになって以来、今日までの時期と重なっていることから、興味を持って読み進めることができました。
この本の中でも、江藤淳と吉本隆明が政治思想的にはまったく異なる見解を持ちながら互いの文学者的資質と能力を高く評価し、その思想的態度に一目置き合っていたことが、かなりのページを割いて描かれていますが、その中で、全共闘世代などが、江藤のいう「知的偶像」であった吉本さんを通じて、彼も評価する江藤淳を読むようになった、といった意味のことが書かれています。そうでなければ、時の政治権力にすり寄り、保守的な言動で進歩的文化人からの攻撃の的になっていた江藤を、全共闘世代が読むわけがなかっただろう、というわけです。
それはあたっているところがあるのかもしれませんが、私の場合は地方のオクテの高校生だったので60年安保もテレビ画面で冷ややかに眺めていただけだし、大学へ入って間もなく鶴見俊輔の口から吉本さんの名を聴くまでは彼のことを知らず、著書も読んでいなかったけれど、小説はひとなみには読むことがあったので、漱石を読んだ折りに江藤の『夏目漱石』も読み、またうちでとっていた朝日新聞でたしかそのころ執筆していた江藤の文芸時評はときどき読んでいて、若い優れた評論家として知っていたはずです。
大学へ入ってからは、大江健三郎をかなり読んでいた時期もあり、この作家の同世代のよき理解者としての江藤をあらためて認識したということがあったと思います。だからそのあとで吉本さんを知り、既に刊行されていた『言語にとって美とはなにか』を読んだときから、完全に吉本さんのほうにはまっていった(笑)けれども、彼が江藤淳と対談して互いに評価し合っているのを目の当たりにしたときには、とても嬉しかったのを覚えています。
ただ、彼の初期の最も重要な著作『作家は行動する』については当時読んでおらず、吉本さんが言語美の序文で賞揚して初めて読み、はじめて言語表現の文学性ということについて考える手がかりを文体論の形で教えられることになりました。
しかし私が関心を持ったのは、その後も江藤の文芸評論畑の著作であって、生身の彼個人の軌跡にはほとんど関心を持っていませんでした。
唯一の例外はちょうどそのころ(私が大学へ入ったころ)出版された『アメリカと私』を読んだことくらいでしょう。そのときの印象は、若くして秀才の誉れ高い研究者がアメリカへ行って、求められていた研究・教育的使命を堂々と果たし、同僚や先達に高く評価され、学生たちにも大変な人気、という優等生の留学記みたいなもので、著者の自由な感性で切り取られたアメリカでの生活が生き生き、のびのびとした筆致で描かれていて明るい印象でした。
だから、今回この平山氏の評伝を読んで、江藤さんとアメリカとの関係もなかなか複雑で、難しいものだったんだな、あの体験記の裏には色々と影もあり闇もありだったんだな、といったことを知って勉強になりました。
のちの日本占領研究会議が行われたアマースト大学での危機一髪のエピソードをはじめ、彼がアメリカで歴史の時計の針を逆廻ししようとしているだけだ、という猛反発をくらったというような話は、この本で初めて知りました。彼とアメリカとの関係はもっと蜜月的なものだと漠然と思っていたので驚いたのです。
たしかに60年安保以降の彼のいわゆる「転向」後の軌跡、アメリカの占領政策として推し進められた徹底的な検閲制度のもとで私たち日本の言論空間がそうと自覚されないまま大きく歪んだままで、そのことによって私たちは自身の言葉の拠るべき根っこを断たれている、といった主張をする江藤淳についても、一つ二つは著述を読んで知ってはいたけれど、彼のいつも初々しい感性を伴う肉声で語られるような魅力を持つ文芸評論のように興味をもってフォローしてこなかったので、ピンとこなかっただけで、あれをアメリカでぶつけたら、それはアメちゃんたちは怒っただろうな、とは思います。
めちゃくちゃ単純化して言えば、南北戦争で北軍は南軍に勝利して天下をとったけれど、だからってあれは北が南に対して道徳的に勝利したわけじゃない。同様に日本はアメリカと戦って敗けたけど、日本が道徳的に間違ってたわけじゃないぜ。こっちにはアメリカ人など望んでも持つことができない千年の時をつらぬく精神的伝統の拠り所、帰るべき母胎があるんだ。ただ敗戦時にアメリカ占領軍がそいつを断ち切ろうとし、そのこと自体を隠蔽しようとして徹底的な言論統制を布いていただけで、証拠は挙がってるぜ・・・みたいな主張だったんでしょうから。
文芸評論家としての江藤を愛してきた読者の多くは、こうした政治思想的な領分へのめり込んでいった江藤に困惑し、彼から距離を置くようになっていたのではないでしょうか。私もその一人でした。ただ、彼のそういう軌跡はもう一度少しは辿りなおしてみたいな、と思わなくはありません。その主張のある部分は、むしろこれから「甦って」くる可能性があるような気がするからです。
先般、これも私が信用していた文芸評論家の一人加藤典洋氏の近著に『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』という、ちょっとぶっそうな?タイトルの本がありました。まだ読んでいないけれど、なにか不穏な時代の空気を感じるのは多くの人に思い当たることではないでしょうか。それは一昔、二昔以前のように、右か左か、保守か革新か、といった二項対立に還元して考えていてはまったく対応できない事態のような気がします。
一足先に亡くなった奥さんの後をすぐ追うような形で自裁した「愛妻家」の江藤さんの内なる修羅については、この本で初めて知りました。奥さんが死を間近にした病床にあるとき訃報の入ったタマキという女性と江藤さんの関係についても、もちろんこの本で初めて知ったわけですが、いや男ってこういうもんさ、と通人のように言えれば簡単だけれど、私などはますます人間というのが複雑怪奇でどろどろで、矛盾そのもののような訳の分からない存在と思えてくるようなところがあります。奥さんが亡くなる前に言ったという「すべてを赦す」という言葉もこの本の著者が言うように、真相はわからないけれど、意味深な言葉とも受け取ることができますね。
福沢諭吉の「私立の活計」をモットーとした江藤さんが、生活の基盤を固めようと、大学教授の職を目指したり、契約したはずの論壇時評をドタキャンして朝日新聞の文芸時評を引き受けたり、時の政府のお声がかりではせ参じたりして御用学者的ともみられかねない言動をとったり、といった現世的上昇志向をもっていたことも、丹念にそのあとをたどっていて、この評伝の読みどころになっています。
また、若き日の江藤さんが自分の才能への自信に溢れ、いわば前へ出たがりの高慢ちきな秀才だったらしい(ただし実力が伴っていたので、周囲の同窓生や先輩後輩の多くは、驚きつつも高く評価している)こと、指導教授の西脇順三郎一派には毛嫌いされていたらしいこと、大学(院)を追い出されて世俗の世界で「指導教授」の役割をした埴谷雄高に師事し、ほとんどその家に入りびたっていたこと、さらに小林秀雄論を書き始めたころは大岡昇平に生の資料提供など様々な厚意と具体的な恩恵を受けていたこと、そしてこの埴谷とも大岡とも後には大喧嘩し、大岡に対しては概ね沈黙でやりすごすけれども、埴谷に対する批判では自分の過去の埴谷との具体的な親密さをある部分隠蔽するような文章を書いたりもしていたこと・・・等々、実に人間臭いというのかバタ臭い江藤さんの姿もこれでもか、という感じで暴かれていきます。
まぁ、だからといっていまさら幻滅するわけではなく、彼も文芸を主とした物書きとしての才能以外の部分では、ただの人やったんやなぁ、と思うだけではありますが・・・・
でもそうしたあれこれが、彼が祖父の代から引き継いできた名門の血筋であったことや、彼が病弱であったこと、さらに彼がそんな中でとびきり秀才で自信満々であったからこそ愛されもしたけれど、率直に他者を否定することで憎まれもし、たぶん世俗的な世界では周囲の人々とうまくやっていくことができず、孤立し、それにもめげず不器用なのに「私立の活計」をモットーに自分たちの生活基盤を確かなものにしようと無理に無理を重ねて行く・・・この本全体を通して読んでみると、そうしたことから生じる歪みが、家庭をも、彼の内面をも苛立たせ、傷つけ、侵していったという気がします。
この本の中で江藤さんとの関りで登場する作家、学者らの著作は、たいていは過去に手に取ったことのあるようなものが多かったけれど、私がこれまでまったく手にしてこなかった著作家として井筒俊彦氏が気になり、いずれ江藤さんが興奮して聴いたという言語学概論のノートに類する刊行物があるなら手に取ってみたいと思いました。彼はイスラム学者だくらいに思っていたので、私はこれまでイスラム教にほとんど関心をもったことがなかったから、手にしたことがなかったのです。
あとは正宗白鳥については、何だったか古い文学全集に出ていた短編は読んだことがあるけれど、文芸評論は、私がその種のものを読むようになったときには、もう確か文藝雑誌やメジャーな新聞で彼の名を見ることはなかったから(彼は私が大学へ入る年より前に亡くなっている)、ほとんど読んでいなかったと思うので、また古本ででも手に入れて読んでみたいと思いました。
人間ってのは本当に色んな人とかかわりをもち、色んな側面を持っていて、複雑怪奇なものだな、だけどそれにも関わらず、三つ子の魂というのか、宿命というのか、或る星のもとに生まれてしまうと生涯そこから脱することは難しいものなのかもしれないな、とか、いろんなことを考えさせられ、一人の人間の生涯(私たちよりはるかにすぐれた人の例外的な人生かもしれないけれど)の重さを感じさせてくれる本でした。
極私的なところでは、親友山川方夫が語った江藤評にこんな部分があるのが面白かった。
”山川方夫によれば、江藤淳という男は、奈良が京都の東にあるか西にあるかさえもわきまえず、皆が笑うと、「箱根から先のことは知らねえよ」と、ひどく古風なタンカを切って、平然としている。”
私の次男は、中学生のころ、サッカー仲間の友人たち4人と、週一度土曜の夕方わが家でやっていた私塾のまねごとで集まったとき、終わって雑談しているときに、どうやら横浜が名古屋のこちらにあるのか向こうにあるのかも知らなかったらしくて、友人たちが笑うと、「おまえは横浜行ったことあんの?」と言い、友人が「いや、ないけど・・」と答えると、「ほんなら、そんなこと知ってることが何になんの?」と言って平然としていたのです。
台所でその会話を聞いていた私たち夫婦は、次男の無知に呆れてこりゃヤバイと思わなきゃいけなかったのでしょうが、それよりも二人共思わず噴き出してしまったのでした。少なくともこういうところだけは江藤さん並み。大物になる素質があると思うのですが(笑)・・・
入院中時間はたっぷりあったので、750ページを超える平山周吉氏の大著『江藤淳は甦える』をなんとか最初から最後まで読みおえることができました。
評伝の対象が江藤淳という、その文芸批評を信用してきた評論家であったこと、そしてここに書かれた時代がだいたい自分が大学へ来て、文芸や思想関係の本を読むようになって以来、今日までの時期と重なっていることから、興味を持って読み進めることができました。
この本の中でも、江藤淳と吉本隆明が政治思想的にはまったく異なる見解を持ちながら互いの文学者的資質と能力を高く評価し、その思想的態度に一目置き合っていたことが、かなりのページを割いて描かれていますが、その中で、全共闘世代などが、江藤のいう「知的偶像」であった吉本さんを通じて、彼も評価する江藤淳を読むようになった、といった意味のことが書かれています。そうでなければ、時の政治権力にすり寄り、保守的な言動で進歩的文化人からの攻撃の的になっていた江藤を、全共闘世代が読むわけがなかっただろう、というわけです。
それはあたっているところがあるのかもしれませんが、私の場合は地方のオクテの高校生だったので60年安保もテレビ画面で冷ややかに眺めていただけだし、大学へ入って間もなく鶴見俊輔の口から吉本さんの名を聴くまでは彼のことを知らず、著書も読んでいなかったけれど、小説はひとなみには読むことがあったので、漱石を読んだ折りに江藤の『夏目漱石』も読み、またうちでとっていた朝日新聞でたしかそのころ執筆していた江藤の文芸時評はときどき読んでいて、若い優れた評論家として知っていたはずです。
大学へ入ってからは、大江健三郎をかなり読んでいた時期もあり、この作家の同世代のよき理解者としての江藤をあらためて認識したということがあったと思います。だからそのあとで吉本さんを知り、既に刊行されていた『言語にとって美とはなにか』を読んだときから、完全に吉本さんのほうにはまっていった(笑)けれども、彼が江藤淳と対談して互いに評価し合っているのを目の当たりにしたときには、とても嬉しかったのを覚えています。
ただ、彼の初期の最も重要な著作『作家は行動する』については当時読んでおらず、吉本さんが言語美の序文で賞揚して初めて読み、はじめて言語表現の文学性ということについて考える手がかりを文体論の形で教えられることになりました。
しかし私が関心を持ったのは、その後も江藤の文芸評論畑の著作であって、生身の彼個人の軌跡にはほとんど関心を持っていませんでした。
唯一の例外はちょうどそのころ(私が大学へ入ったころ)出版された『アメリカと私』を読んだことくらいでしょう。そのときの印象は、若くして秀才の誉れ高い研究者がアメリカへ行って、求められていた研究・教育的使命を堂々と果たし、同僚や先達に高く評価され、学生たちにも大変な人気、という優等生の留学記みたいなもので、著者の自由な感性で切り取られたアメリカでの生活が生き生き、のびのびとした筆致で描かれていて明るい印象でした。
だから、今回この平山氏の評伝を読んで、江藤さんとアメリカとの関係もなかなか複雑で、難しいものだったんだな、あの体験記の裏には色々と影もあり闇もありだったんだな、といったことを知って勉強になりました。
のちの日本占領研究会議が行われたアマースト大学での危機一髪のエピソードをはじめ、彼がアメリカで歴史の時計の針を逆廻ししようとしているだけだ、という猛反発をくらったというような話は、この本で初めて知りました。彼とアメリカとの関係はもっと蜜月的なものだと漠然と思っていたので驚いたのです。
たしかに60年安保以降の彼のいわゆる「転向」後の軌跡、アメリカの占領政策として推し進められた徹底的な検閲制度のもとで私たち日本の言論空間がそうと自覚されないまま大きく歪んだままで、そのことによって私たちは自身の言葉の拠るべき根っこを断たれている、といった主張をする江藤淳についても、一つ二つは著述を読んで知ってはいたけれど、彼のいつも初々しい感性を伴う肉声で語られるような魅力を持つ文芸評論のように興味をもってフォローしてこなかったので、ピンとこなかっただけで、あれをアメリカでぶつけたら、それはアメちゃんたちは怒っただろうな、とは思います。
めちゃくちゃ単純化して言えば、南北戦争で北軍は南軍に勝利して天下をとったけれど、だからってあれは北が南に対して道徳的に勝利したわけじゃない。同様に日本はアメリカと戦って敗けたけど、日本が道徳的に間違ってたわけじゃないぜ。こっちにはアメリカ人など望んでも持つことができない千年の時をつらぬく精神的伝統の拠り所、帰るべき母胎があるんだ。ただ敗戦時にアメリカ占領軍がそいつを断ち切ろうとし、そのこと自体を隠蔽しようとして徹底的な言論統制を布いていただけで、証拠は挙がってるぜ・・・みたいな主張だったんでしょうから。
文芸評論家としての江藤を愛してきた読者の多くは、こうした政治思想的な領分へのめり込んでいった江藤に困惑し、彼から距離を置くようになっていたのではないでしょうか。私もその一人でした。ただ、彼のそういう軌跡はもう一度少しは辿りなおしてみたいな、と思わなくはありません。その主張のある部分は、むしろこれから「甦って」くる可能性があるような気がするからです。
先般、これも私が信用していた文芸評論家の一人加藤典洋氏の近著に『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』という、ちょっとぶっそうな?タイトルの本がありました。まだ読んでいないけれど、なにか不穏な時代の空気を感じるのは多くの人に思い当たることではないでしょうか。それは一昔、二昔以前のように、右か左か、保守か革新か、といった二項対立に還元して考えていてはまったく対応できない事態のような気がします。
一足先に亡くなった奥さんの後をすぐ追うような形で自裁した「愛妻家」の江藤さんの内なる修羅については、この本で初めて知りました。奥さんが死を間近にした病床にあるとき訃報の入ったタマキという女性と江藤さんの関係についても、もちろんこの本で初めて知ったわけですが、いや男ってこういうもんさ、と通人のように言えれば簡単だけれど、私などはますます人間というのが複雑怪奇でどろどろで、矛盾そのもののような訳の分からない存在と思えてくるようなところがあります。奥さんが亡くなる前に言ったという「すべてを赦す」という言葉もこの本の著者が言うように、真相はわからないけれど、意味深な言葉とも受け取ることができますね。
福沢諭吉の「私立の活計」をモットーとした江藤さんが、生活の基盤を固めようと、大学教授の職を目指したり、契約したはずの論壇時評をドタキャンして朝日新聞の文芸時評を引き受けたり、時の政府のお声がかりではせ参じたりして御用学者的ともみられかねない言動をとったり、といった現世的上昇志向をもっていたことも、丹念にそのあとをたどっていて、この評伝の読みどころになっています。
また、若き日の江藤さんが自分の才能への自信に溢れ、いわば前へ出たがりの高慢ちきな秀才だったらしい(ただし実力が伴っていたので、周囲の同窓生や先輩後輩の多くは、驚きつつも高く評価している)こと、指導教授の西脇順三郎一派には毛嫌いされていたらしいこと、大学(院)を追い出されて世俗の世界で「指導教授」の役割をした埴谷雄高に師事し、ほとんどその家に入りびたっていたこと、さらに小林秀雄論を書き始めたころは大岡昇平に生の資料提供など様々な厚意と具体的な恩恵を受けていたこと、そしてこの埴谷とも大岡とも後には大喧嘩し、大岡に対しては概ね沈黙でやりすごすけれども、埴谷に対する批判では自分の過去の埴谷との具体的な親密さをある部分隠蔽するような文章を書いたりもしていたこと・・・等々、実に人間臭いというのかバタ臭い江藤さんの姿もこれでもか、という感じで暴かれていきます。
まぁ、だからといっていまさら幻滅するわけではなく、彼も文芸を主とした物書きとしての才能以外の部分では、ただの人やったんやなぁ、と思うだけではありますが・・・・
でもそうしたあれこれが、彼が祖父の代から引き継いできた名門の血筋であったことや、彼が病弱であったこと、さらに彼がそんな中でとびきり秀才で自信満々であったからこそ愛されもしたけれど、率直に他者を否定することで憎まれもし、たぶん世俗的な世界では周囲の人々とうまくやっていくことができず、孤立し、それにもめげず不器用なのに「私立の活計」をモットーに自分たちの生活基盤を確かなものにしようと無理に無理を重ねて行く・・・この本全体を通して読んでみると、そうしたことから生じる歪みが、家庭をも、彼の内面をも苛立たせ、傷つけ、侵していったという気がします。
この本の中で江藤さんとの関りで登場する作家、学者らの著作は、たいていは過去に手に取ったことのあるようなものが多かったけれど、私がこれまでまったく手にしてこなかった著作家として井筒俊彦氏が気になり、いずれ江藤さんが興奮して聴いたという言語学概論のノートに類する刊行物があるなら手に取ってみたいと思いました。彼はイスラム学者だくらいに思っていたので、私はこれまでイスラム教にほとんど関心をもったことがなかったから、手にしたことがなかったのです。
あとは正宗白鳥については、何だったか古い文学全集に出ていた短編は読んだことがあるけれど、文芸評論は、私がその種のものを読むようになったときには、もう確か文藝雑誌やメジャーな新聞で彼の名を見ることはなかったから(彼は私が大学へ入る年より前に亡くなっている)、ほとんど読んでいなかったと思うので、また古本ででも手に入れて読んでみたいと思いました。
人間ってのは本当に色んな人とかかわりをもち、色んな側面を持っていて、複雑怪奇なものだな、だけどそれにも関わらず、三つ子の魂というのか、宿命というのか、或る星のもとに生まれてしまうと生涯そこから脱することは難しいものなのかもしれないな、とか、いろんなことを考えさせられ、一人の人間の生涯(私たちよりはるかにすぐれた人の例外的な人生かもしれないけれど)の重さを感じさせてくれる本でした。
極私的なところでは、親友山川方夫が語った江藤評にこんな部分があるのが面白かった。
”山川方夫によれば、江藤淳という男は、奈良が京都の東にあるか西にあるかさえもわきまえず、皆が笑うと、「箱根から先のことは知らねえよ」と、ひどく古風なタンカを切って、平然としている。”
私の次男は、中学生のころ、サッカー仲間の友人たち4人と、週一度土曜の夕方わが家でやっていた私塾のまねごとで集まったとき、終わって雑談しているときに、どうやら横浜が名古屋のこちらにあるのか向こうにあるのかも知らなかったらしくて、友人たちが笑うと、「おまえは横浜行ったことあんの?」と言い、友人が「いや、ないけど・・」と答えると、「ほんなら、そんなこと知ってることが何になんの?」と言って平然としていたのです。
台所でその会話を聞いていた私たち夫婦は、次男の無知に呆れてこりゃヤバイと思わなきゃいけなかったのでしょうが、それよりも二人共思わず噴き出してしまったのでした。少なくともこういうところだけは江藤さん並み。大物になる素質があると思うのですが(笑)・・・
saysei at 17:25|Permalink│Comments(0)│
2019年08月08日
スナップショット(12)〜小松左京
私がシンクタンクに勤めて否応なくお付き合いするはめになった文化人の中で、一番苦手だったのが、今回取り上げる小松左京だった。
なぜ苦手なのか、うまく言葉にするのはなかなか難しいが、ひと言で言えば「波長が合わない」とでもいうのが一番近い。
彼と話すとき、私が何か相談したり尋ねたりすると、即座に「答」がマシンガンの弾みたいに大量かつ矢継ぎ早に返ってくるが、わたしには彼のマシンガンがほんの僅かにいつもズレていて、その弾は全部外れで、まともにこちらに返ってきていない、と感じる。
しかし、それはそれでいい、と思って、自分の思いや最初の問いにはこだわらず、ご高見を拝聴して、こんどはこちらが彼の言葉に合わせた合いの手を入れたりする。
それに対して、彼はまたもや即座に「そうなんや」と言って言葉のマシンガンを撃ちまくる。ところが、それもまたわずかに反射角がズレていて、正確に私のところへ返ってこない。
「そうなんや」とは同意の言葉だが、私にはとても同意してもらえたような気がしない。最初のうちは、このセンセイ、めっぽう早とちりで、人の言うことをきちんと受け止めずに勝手なことを喋りまくる自分しか眼中にない人なのかな、とも思った。
しかし、何度もそんな目に遭ううちに、これはもう彼の身に染み付いたコミュニケーションのやり方だと思わざるを得なくなった。
こちらの言うことを必ずしも受け止めていないわけではないけれど、受け止めた瞬間に彼の脳内のシナプスが異様に活性化して、その頭脳に蓄えられた膨大な情報の保管庫のそこかしこから関連情報が怒涛のように押し寄せて瞬時にスパークし、たちまちマシンガンの弾みたいな言葉に変じて吐き出されてしまう。
たぶん彼自身がその生理をうまく制御できないのではないか、と思われた。それほどその反応は瞬時にして圧倒的なボリュームを持っていた。
従って、彼との会話は、どれだけ話しても、つねに僅かずつ横へズレていき、長い時間、たくさん話を聴いたけれど、結局こちらが聞きたかったことは聞けなかったなあ、とか、小松さんが何を話したか要約しろと言われても困るなあ、と仕事上は困惑せざるを得ない結果になることがしばしばだった。
こういう人を評して、一般には、頭の回転が速い、という。まあ確かにその通りで、こちらの頭の回転が鈍いからついていけないのであろう。
ただその回転にはブレがあって、そのマシンが遠心力で飛ばす弾はいつも的から少しズレたところへ飛び、回転するたびにどんどんズレて、ついにどこかとんでもないところへ飛んで行ってしまう。
私などはこう球を打てばここへ返ってくると予想してラケットをかまえていると、つねにその予想を裏切って一つズレた位置に返ってくる速い球を追っかけるのに疲れはててしまう。
これが「苦手」である所以で、決して彼が嫌いだったわけではない。私が電波で言えば長波か、せいぜい中波なのに、彼は極超短波くらい波長が短く、振動数が桁違いに大きくて、私の受信機ではうまく捉えることができなかったのだろう。
ところが、そんな彼とぴったり波長を合わせられるような人もあるらしい。私の学生時代の友人で、仕事場でも同僚だったTがまさにそれで、どんどんズレていく小松さんの話に瞬時にして自分もすっと位置をずらせてラケットの正面で受け止め、正確なショットを小気味好く返す。
小松さんも上機嫌でまた即座に打ち返し、Tもまた即座に打ち返す。こうして楽しげな丁々発止のラリーがつづく。
私たちの同世代の友人たちの中でも、Tほどこういう芸当に長けた者はほかに見当たらなかった。その波長は小松さんとぴったり合っていた。Tは誰よりも小松さんのお気に入りだったと思う。
私が最初に小松さんと付き合うようになったのは、シンクタンクに勤めたばかりの見習いの時期、当時政府の肝いりでつくられたシンクタンクの親玉、総合研究開発機構N IRAが全国のシンクタンクを糾合して取り組んでいた、いわゆる「21世紀プロジェクト」に携わる中でのことだった。
21世紀を間近に控えて、情報化社会だとか高齢化社会だとかが到来すると言われる、そうした大きな社会の動きをとらえ、来たるべき社会のあり方を検討しようという試みで、私が勤めていたシンクタンクでは、21世紀の日本の文化的状況を考えてみる、といったテーマを与えられ、調査研究を受託していた。
その指導主査(ディレクター)が小松さんで、主担当がT、新米の私はTにくっついて調査や報告書執筆を分担していた。
たいていは私たちスタッフでやってしまうのだが、節目には小松さんに報告し、アドバイスをもらい、また小松さんと親しい何人かの文化人をメンバーとする委員会を開いて自由に議論し合う。
作家、文化人として多忙な小松さんにとって、親しいそうした文化人との気軽な雑談会みたいな集いは良い息抜きになっただろうし、若いスタッフに囲まれて薀蓄を披露する機会も結構気晴らしになったのかもしれない。彼は終始ご機嫌だった。
当時の勤務先では、もちろん小松さんのビッグネームを前面に押し出して会社のブランディングを企図し、当面のプロジェクトにも注目を集めたいと考えていたわけだが、小松さんはあてがわれたそんな役割を律儀にはたしながらも、機会あるごとに、私たち若いスタッフを立てよう、立てようとしてくれた。
いちおう報告書ができて、報告会が開かれたときには報道陣も含めて、彼が報告するというので普通の報告会などよりはるかに多く集まった聴衆を前に、彼は私たちの報告をもとに一報告者の役割を果たしてくれた。
その折にも、この調査は文化を計量化するという難しい課題に取り組んだ若い人たちが、既存の文化統計がない中で、大変な苦労をして生のデータを集めた成果で、などと言って主担当のTや副担当の私の名を挙げて、気恥ずかしいほど持ち上げてくれたものだ。
中には、スポーツ文化を捉える一環としてボクシングジムへ行って根掘り葉掘り聞いたりしてぶん殴られそうになって、ほうほうの体で逃げ帰った、なんて笑いをとるためのフィクションをまじえた古典的なユーモアといったご愛嬌も混じっていたけれど、ユーモアに満ちた飽きさせない語りで私たちの拙い仕事に花を添えてくれた。
そんなとき、彼が挙げる私たちの固有名詞で、彼はTの名は決して間違えなかったが、私の名は◯井君、◯林君、◯原君・・・と言うたびに変わっていくのだった。
これはその後もたびたび繰り返され、その度に私の名は変転した。彼は間違いなく私の顔を覚え、私のこともよく認知してはいたのだが、どうしても名前を正確に記憶できないでいた。
それだけ私の影が薄かったということだけれど、そこには、彼が私と正面から向き合おうとしなかった微妙な関係も映し出されているような気がする。
彼の数撃ちゃ当たる式の知恵出し会議での次々と思いつきアイディアが出てくる様子や速射砲のように繰り出すお喋りを聞いていると、彼は典型的な循環性気質だと思えたし、彼のお気に入りのTが典型的な循環性気質だから、二人の波長がよく合うのだな、と思ったのも事実だが、小松さんについてはかねがね留保が必要だとも思っていた。
彼には実に繊細で内向的な側面があって、決して見かけのようなプルドーザー的な押しの強い、パワフルな面、人を人とも思わないで目下の者を強引に引っ張っていくような面ばかりが彼の本領ではなかった。
そう言ってよければどこか小心で、とても神経質で、シャイな面があって、そこが彼の柔らかさ、優しさ、温かさの源泉になっているようなところがあった。
彼は頭の回転の速い、いわゆる頭のよい人だったかもしれないが、世の秀才にありがちな冷酷さや、底意地の悪さを感じさせたことは一度もなかった。またある種の知識人、文化人のもつ女々しさ、陰険さ、小狡さとも無縁で、律儀なところがあった。
私が小松さんの見かけとは異なる側面に気づいたのは、彼が高橋和巳の親友だったということを知ったときだったと思う。
それまで私とは縁のないSFという世界の売れっ子作家であり、マスメディアにも出ずっぱりで、小説ばかりか文明論やら何やら、何でもこい、の文化人の典型みたいな人種として、私がもっとも忌避してきたような人たちの一人だったから、純文学志向の内向的な作家として、大学闘争では学生サイドに寄り添って、結局大学を去った高橋和巳のような人と親友だったというイメージとは大きく乖離していた。
しかし、少し付き合っていくうちに、私にも小松さんがおそらくは本来、非常に繊細で内向的な人なのだろうな、と感じるようになった。
21世紀プロジェクトの報告書の仕上げ間近なある時、主担当のTと私とで、小松さんをあるホテルの一室に缶詰にして、私たちが書いた報告書の原稿をみてもらうことになった。
和室の低い机に生原稿を積み上げて、小松さんが几帳面に最初から全部読んでいくのを、二人は小松さんの向かいに並んで座り、
小松さんが「これはどういうことや?」といえば、即座に分担して書いた方が答える、という形で進行していく。
こんなとき、同僚のTが席を立ってトイレに行ったりするときはひどく緊張した。
小松さんと二人になるのは、私にとって一番避けたい事態だった。彼がいれば彼が丁々発止小松さんと受け応えしてくれる。
しかし、たまたま私の担当の部分だと、小松さんの問いに答えはするが、どうも小松さんが求める受け応えになっているのかどうか確信がもてない。
Tが傍にいてくれれば、「それは先生、こういうことちゃいますか?」などとひとことふたこと足して、小松さんと彼の応答になっていって、うまく落ち着くところに落ち着く。
それが私だけだと、適切に答えたつもりでも、小松さんは、うん、とか、そうか、と言葉少なに言うだけで、原稿から目を上げようともせず、納得してくれたかどうかもよくわからない。
私と小松さんの二人になると、なんだか空気が緊張し、とても互いに気詰まりになった。私だけでなく、なんとなく小松さんのほうも気詰まりを感じているようだな、というのが感じられて、よけいにどうすれば良いかわからなくなった。
小松さんは読むのは速いから、どんどん斜め読みしてページをめくっていく。それでも1時間、2時間と過ぎていき、これは最低5、6時間はかかるかも、と思っていると、さすがに小松さんも飽きてきて、途中で原稿から目を離し、書かれたことをきっかけにしたお喋りが延々と続く。
一応報告書へのアドバイスだから、最初から許可を得てテープレコーダーを回していた。ところが、うかつにも録音係の私はテープを二本しか持参していなかった。途中でそのことに気づいて、しまった、と思ったが、そのまま二本で間に合う僥倖をあてにして放置していた。
裏表使えるテープで、片面が終了すればカチャっと止まる音がするので、レコーダーの蓋を開けてテープを取り出し、裏返すか、新しいテープに入れ替える。
願いも虚しく二本裏表2時間のテープを使い切り、最後のカチャッが鳴った。
私は平然としてレコーダーの蓋を開き、再度テープをひっくり返して、そのまま中に入れた。その間も、小松さんは熱心に雄弁をふるっていた。
小松さんには悪いことをしたな、とは思ったけれど、どうせ録音はいざという時のための保険で、再度何時間ものテープを全部聞き直したり、起稿したりするものではない。
ポイントはメモしていたから、実際に使うのはメモのほうだけだ。
そんな気持ちもあって、ホテルのフロントにでも頼めばすぐ持ってきてもらえただろうテープもなしですませてしまった。
後で聞いたTからは、お前もひどいやつだな、と言われたが(笑)
私は小松さんの作品はまったく読んでこなかった。よく読んでいるTに、小松さんのべスト作品はなんだ、と訊いて、それだけは読もうと、「果てしなき流れ」だったか、もう正確なタイトルも忘れたが、読んだ。でもやっぱりだめだった。
小松さんは学者たちが委員の大部分を占めた何かの委員会での雑談のとき、「われわれ作家は学問の消費者やから」と、彼一流の言い方で、少々卑下するようなことを言ったことがあり、作家をもう少し上等なものと考えていた私は、何てこというんだ、作家としての矜持はないのか、などと内心で憤っていたものだ。
Tの推薦したベスト作も、私には「学問の消費」の産物としか思えなかった。
さすがに「日本沈没」だけは彼と付き合っていく上で読んでおかないとまずいだろうと思って、あわてて読んだ。それなりにエンターテイメントとして面白かったし、力技であることはよくわかったものの、同様の感想しか持てなかった。
しかし、かなりに後になって知ったのだが、そんな小松さんの著書を、まるで敬虔なクリスチャンが旧約聖書をまるごと暗記してしまうように、一言一句記憶しているという、驚くべき熱心な愛読者もあるらしい。
小松さんは後年、文化人の卵みたいな若い人たちを集めて、自分も喋るが若い人にも自由に喋らせて活発な議論をかわすような私的な集いを定期的に催すようになる。
その最初のころ、たしか私の勤務先がそのセッティングや招集、お茶出しなどのお世話をしていたので、私も先輩同僚のHと共に参加したことがある。
私はあとは行かなかったが、会は続いていたようで、そのある時のレクチャラーに、たしか視覚障害で聾唖者でもある方がこられて
奥さんとの指と掌でのコミュニケーションを介して話をされたのだが、その方が昔からの小松さんの熱烈なファンで、小松さんの主著を全部暗記していて、どこにどんな記述があるかを話題になる箇所があるとたちどころにその原文を復元して見せたというのだ。
その場にいた人がみな驚嘆したことは言うまでもなく、小松さんも大変な喜びようだったとのこと。
それは当然だろう。私の著作を読んで理解するのでは足りない、真に私の思想を捉えんとする者には、私は私の著作を暗記することを要求する、というようなことを言ったのはニーチェだったかな。
ジョイスもユリシーズかフィネガンズ・ウェイクを出したときだったか、こんなに難解じゃ読めやしないじゃないかというインタビュアーの言葉に対して、たしか、私はこの著作を書くのに生涯を費やした、この著作を理解しようという人にもその生涯の時間を要求する、というような答え方をしていた。
作家の密かな願望とはそういうものだろう。
だからこのときの熱烈な読者の言葉は、まさに作家冥利につきるものだっただろう。
ちなみに、この読者のかたというのは、情報学の分野の先端的な研究者で、ほどなく東大に招かれて教授になられたかただ。
その身体的ハンディキャップにもかかわらず、第一級の研究者でもある。小松さんと、この方の出遇いは、まさに奇跡的な瞬間だったんだな、と思う。
最近になって、東浩紀のエッセイか何か読んでいたら、彼も小松さんのファンであることが分かった。
小松さんが「学問の消費者」と卑下しながら、終生失わなかった宇宙スケールの知的関心から生み出される、あらゆる分野にわたる星の数ほどもありそうなアイディアの面白さや、途方もない想像力の翼を広げて描く巨大なスケールの幻想の世界のもつ力を、私は生身の小松さんのすぐそばに居ながら、或いは逆にそうであったからこそ、見過ごし、或いは故意に無視し、そこから何一つ学ぶこともなくやり過ごしてきたことを、いまになって悔むべきか嘆くべきか。
いや、所詮、私の長波がせいぜい中波しか受信できない装置では、小松さんの極超短波の信号を受け止めることはできなかったのだろう。
そんな私の中で、小松さんは、そんな大流行作家にして文明論までかたる大文化人にお愛想ひとつできない生意気な若造を、ほかの若い世代のはるかに器用な連中に対するのと同様に可愛がり、持ち上げようと不器用な好意を示してくれた心優しい上司(当時勤務先の取締役だった)として記憶されている。
私が一番好きな彼は、私が一番苦手な瞬間でもあった、二人きりで向き合ったときにみせる、気詰まりな表情、ムキになって原稿用紙に目を落としてひと言も発することなく読みつづけていた彼の表情である。
なぜ苦手なのか、うまく言葉にするのはなかなか難しいが、ひと言で言えば「波長が合わない」とでもいうのが一番近い。
彼と話すとき、私が何か相談したり尋ねたりすると、即座に「答」がマシンガンの弾みたいに大量かつ矢継ぎ早に返ってくるが、わたしには彼のマシンガンがほんの僅かにいつもズレていて、その弾は全部外れで、まともにこちらに返ってきていない、と感じる。
しかし、それはそれでいい、と思って、自分の思いや最初の問いにはこだわらず、ご高見を拝聴して、こんどはこちらが彼の言葉に合わせた合いの手を入れたりする。
それに対して、彼はまたもや即座に「そうなんや」と言って言葉のマシンガンを撃ちまくる。ところが、それもまたわずかに反射角がズレていて、正確に私のところへ返ってこない。
「そうなんや」とは同意の言葉だが、私にはとても同意してもらえたような気がしない。最初のうちは、このセンセイ、めっぽう早とちりで、人の言うことをきちんと受け止めずに勝手なことを喋りまくる自分しか眼中にない人なのかな、とも思った。
しかし、何度もそんな目に遭ううちに、これはもう彼の身に染み付いたコミュニケーションのやり方だと思わざるを得なくなった。
こちらの言うことを必ずしも受け止めていないわけではないけれど、受け止めた瞬間に彼の脳内のシナプスが異様に活性化して、その頭脳に蓄えられた膨大な情報の保管庫のそこかしこから関連情報が怒涛のように押し寄せて瞬時にスパークし、たちまちマシンガンの弾みたいな言葉に変じて吐き出されてしまう。
たぶん彼自身がその生理をうまく制御できないのではないか、と思われた。それほどその反応は瞬時にして圧倒的なボリュームを持っていた。
従って、彼との会話は、どれだけ話しても、つねに僅かずつ横へズレていき、長い時間、たくさん話を聴いたけれど、結局こちらが聞きたかったことは聞けなかったなあ、とか、小松さんが何を話したか要約しろと言われても困るなあ、と仕事上は困惑せざるを得ない結果になることがしばしばだった。
こういう人を評して、一般には、頭の回転が速い、という。まあ確かにその通りで、こちらの頭の回転が鈍いからついていけないのであろう。
ただその回転にはブレがあって、そのマシンが遠心力で飛ばす弾はいつも的から少しズレたところへ飛び、回転するたびにどんどんズレて、ついにどこかとんでもないところへ飛んで行ってしまう。
私などはこう球を打てばここへ返ってくると予想してラケットをかまえていると、つねにその予想を裏切って一つズレた位置に返ってくる速い球を追っかけるのに疲れはててしまう。
これが「苦手」である所以で、決して彼が嫌いだったわけではない。私が電波で言えば長波か、せいぜい中波なのに、彼は極超短波くらい波長が短く、振動数が桁違いに大きくて、私の受信機ではうまく捉えることができなかったのだろう。
ところが、そんな彼とぴったり波長を合わせられるような人もあるらしい。私の学生時代の友人で、仕事場でも同僚だったTがまさにそれで、どんどんズレていく小松さんの話に瞬時にして自分もすっと位置をずらせてラケットの正面で受け止め、正確なショットを小気味好く返す。
小松さんも上機嫌でまた即座に打ち返し、Tもまた即座に打ち返す。こうして楽しげな丁々発止のラリーがつづく。
私たちの同世代の友人たちの中でも、Tほどこういう芸当に長けた者はほかに見当たらなかった。その波長は小松さんとぴったり合っていた。Tは誰よりも小松さんのお気に入りだったと思う。
私が最初に小松さんと付き合うようになったのは、シンクタンクに勤めたばかりの見習いの時期、当時政府の肝いりでつくられたシンクタンクの親玉、総合研究開発機構N IRAが全国のシンクタンクを糾合して取り組んでいた、いわゆる「21世紀プロジェクト」に携わる中でのことだった。
21世紀を間近に控えて、情報化社会だとか高齢化社会だとかが到来すると言われる、そうした大きな社会の動きをとらえ、来たるべき社会のあり方を検討しようという試みで、私が勤めていたシンクタンクでは、21世紀の日本の文化的状況を考えてみる、といったテーマを与えられ、調査研究を受託していた。
その指導主査(ディレクター)が小松さんで、主担当がT、新米の私はTにくっついて調査や報告書執筆を分担していた。
たいていは私たちスタッフでやってしまうのだが、節目には小松さんに報告し、アドバイスをもらい、また小松さんと親しい何人かの文化人をメンバーとする委員会を開いて自由に議論し合う。
作家、文化人として多忙な小松さんにとって、親しいそうした文化人との気軽な雑談会みたいな集いは良い息抜きになっただろうし、若いスタッフに囲まれて薀蓄を披露する機会も結構気晴らしになったのかもしれない。彼は終始ご機嫌だった。
当時の勤務先では、もちろん小松さんのビッグネームを前面に押し出して会社のブランディングを企図し、当面のプロジェクトにも注目を集めたいと考えていたわけだが、小松さんはあてがわれたそんな役割を律儀にはたしながらも、機会あるごとに、私たち若いスタッフを立てよう、立てようとしてくれた。
いちおう報告書ができて、報告会が開かれたときには報道陣も含めて、彼が報告するというので普通の報告会などよりはるかに多く集まった聴衆を前に、彼は私たちの報告をもとに一報告者の役割を果たしてくれた。
その折にも、この調査は文化を計量化するという難しい課題に取り組んだ若い人たちが、既存の文化統計がない中で、大変な苦労をして生のデータを集めた成果で、などと言って主担当のTや副担当の私の名を挙げて、気恥ずかしいほど持ち上げてくれたものだ。
中には、スポーツ文化を捉える一環としてボクシングジムへ行って根掘り葉掘り聞いたりしてぶん殴られそうになって、ほうほうの体で逃げ帰った、なんて笑いをとるためのフィクションをまじえた古典的なユーモアといったご愛嬌も混じっていたけれど、ユーモアに満ちた飽きさせない語りで私たちの拙い仕事に花を添えてくれた。
そんなとき、彼が挙げる私たちの固有名詞で、彼はTの名は決して間違えなかったが、私の名は◯井君、◯林君、◯原君・・・と言うたびに変わっていくのだった。
これはその後もたびたび繰り返され、その度に私の名は変転した。彼は間違いなく私の顔を覚え、私のこともよく認知してはいたのだが、どうしても名前を正確に記憶できないでいた。
それだけ私の影が薄かったということだけれど、そこには、彼が私と正面から向き合おうとしなかった微妙な関係も映し出されているような気がする。
彼の数撃ちゃ当たる式の知恵出し会議での次々と思いつきアイディアが出てくる様子や速射砲のように繰り出すお喋りを聞いていると、彼は典型的な循環性気質だと思えたし、彼のお気に入りのTが典型的な循環性気質だから、二人の波長がよく合うのだな、と思ったのも事実だが、小松さんについてはかねがね留保が必要だとも思っていた。
彼には実に繊細で内向的な側面があって、決して見かけのようなプルドーザー的な押しの強い、パワフルな面、人を人とも思わないで目下の者を強引に引っ張っていくような面ばかりが彼の本領ではなかった。
そう言ってよければどこか小心で、とても神経質で、シャイな面があって、そこが彼の柔らかさ、優しさ、温かさの源泉になっているようなところがあった。
彼は頭の回転の速い、いわゆる頭のよい人だったかもしれないが、世の秀才にありがちな冷酷さや、底意地の悪さを感じさせたことは一度もなかった。またある種の知識人、文化人のもつ女々しさ、陰険さ、小狡さとも無縁で、律儀なところがあった。
私が小松さんの見かけとは異なる側面に気づいたのは、彼が高橋和巳の親友だったということを知ったときだったと思う。
それまで私とは縁のないSFという世界の売れっ子作家であり、マスメディアにも出ずっぱりで、小説ばかりか文明論やら何やら、何でもこい、の文化人の典型みたいな人種として、私がもっとも忌避してきたような人たちの一人だったから、純文学志向の内向的な作家として、大学闘争では学生サイドに寄り添って、結局大学を去った高橋和巳のような人と親友だったというイメージとは大きく乖離していた。
しかし、少し付き合っていくうちに、私にも小松さんがおそらくは本来、非常に繊細で内向的な人なのだろうな、と感じるようになった。
21世紀プロジェクトの報告書の仕上げ間近なある時、主担当のTと私とで、小松さんをあるホテルの一室に缶詰にして、私たちが書いた報告書の原稿をみてもらうことになった。
和室の低い机に生原稿を積み上げて、小松さんが几帳面に最初から全部読んでいくのを、二人は小松さんの向かいに並んで座り、
小松さんが「これはどういうことや?」といえば、即座に分担して書いた方が答える、という形で進行していく。
こんなとき、同僚のTが席を立ってトイレに行ったりするときはひどく緊張した。
小松さんと二人になるのは、私にとって一番避けたい事態だった。彼がいれば彼が丁々発止小松さんと受け応えしてくれる。
しかし、たまたま私の担当の部分だと、小松さんの問いに答えはするが、どうも小松さんが求める受け応えになっているのかどうか確信がもてない。
Tが傍にいてくれれば、「それは先生、こういうことちゃいますか?」などとひとことふたこと足して、小松さんと彼の応答になっていって、うまく落ち着くところに落ち着く。
それが私だけだと、適切に答えたつもりでも、小松さんは、うん、とか、そうか、と言葉少なに言うだけで、原稿から目を上げようともせず、納得してくれたかどうかもよくわからない。
私と小松さんの二人になると、なんだか空気が緊張し、とても互いに気詰まりになった。私だけでなく、なんとなく小松さんのほうも気詰まりを感じているようだな、というのが感じられて、よけいにどうすれば良いかわからなくなった。
小松さんは読むのは速いから、どんどん斜め読みしてページをめくっていく。それでも1時間、2時間と過ぎていき、これは最低5、6時間はかかるかも、と思っていると、さすがに小松さんも飽きてきて、途中で原稿から目を離し、書かれたことをきっかけにしたお喋りが延々と続く。
一応報告書へのアドバイスだから、最初から許可を得てテープレコーダーを回していた。ところが、うかつにも録音係の私はテープを二本しか持参していなかった。途中でそのことに気づいて、しまった、と思ったが、そのまま二本で間に合う僥倖をあてにして放置していた。
裏表使えるテープで、片面が終了すればカチャっと止まる音がするので、レコーダーの蓋を開けてテープを取り出し、裏返すか、新しいテープに入れ替える。
願いも虚しく二本裏表2時間のテープを使い切り、最後のカチャッが鳴った。
私は平然としてレコーダーの蓋を開き、再度テープをひっくり返して、そのまま中に入れた。その間も、小松さんは熱心に雄弁をふるっていた。
小松さんには悪いことをしたな、とは思ったけれど、どうせ録音はいざという時のための保険で、再度何時間ものテープを全部聞き直したり、起稿したりするものではない。
ポイントはメモしていたから、実際に使うのはメモのほうだけだ。
そんな気持ちもあって、ホテルのフロントにでも頼めばすぐ持ってきてもらえただろうテープもなしですませてしまった。
後で聞いたTからは、お前もひどいやつだな、と言われたが(笑)
私は小松さんの作品はまったく読んでこなかった。よく読んでいるTに、小松さんのべスト作品はなんだ、と訊いて、それだけは読もうと、「果てしなき流れ」だったか、もう正確なタイトルも忘れたが、読んだ。でもやっぱりだめだった。
小松さんは学者たちが委員の大部分を占めた何かの委員会での雑談のとき、「われわれ作家は学問の消費者やから」と、彼一流の言い方で、少々卑下するようなことを言ったことがあり、作家をもう少し上等なものと考えていた私は、何てこというんだ、作家としての矜持はないのか、などと内心で憤っていたものだ。
Tの推薦したベスト作も、私には「学問の消費」の産物としか思えなかった。
さすがに「日本沈没」だけは彼と付き合っていく上で読んでおかないとまずいだろうと思って、あわてて読んだ。それなりにエンターテイメントとして面白かったし、力技であることはよくわかったものの、同様の感想しか持てなかった。
しかし、かなりに後になって知ったのだが、そんな小松さんの著書を、まるで敬虔なクリスチャンが旧約聖書をまるごと暗記してしまうように、一言一句記憶しているという、驚くべき熱心な愛読者もあるらしい。
小松さんは後年、文化人の卵みたいな若い人たちを集めて、自分も喋るが若い人にも自由に喋らせて活発な議論をかわすような私的な集いを定期的に催すようになる。
その最初のころ、たしか私の勤務先がそのセッティングや招集、お茶出しなどのお世話をしていたので、私も先輩同僚のHと共に参加したことがある。
私はあとは行かなかったが、会は続いていたようで、そのある時のレクチャラーに、たしか視覚障害で聾唖者でもある方がこられて
奥さんとの指と掌でのコミュニケーションを介して話をされたのだが、その方が昔からの小松さんの熱烈なファンで、小松さんの主著を全部暗記していて、どこにどんな記述があるかを話題になる箇所があるとたちどころにその原文を復元して見せたというのだ。
その場にいた人がみな驚嘆したことは言うまでもなく、小松さんも大変な喜びようだったとのこと。
それは当然だろう。私の著作を読んで理解するのでは足りない、真に私の思想を捉えんとする者には、私は私の著作を暗記することを要求する、というようなことを言ったのはニーチェだったかな。
ジョイスもユリシーズかフィネガンズ・ウェイクを出したときだったか、こんなに難解じゃ読めやしないじゃないかというインタビュアーの言葉に対して、たしか、私はこの著作を書くのに生涯を費やした、この著作を理解しようという人にもその生涯の時間を要求する、というような答え方をしていた。
作家の密かな願望とはそういうものだろう。
だからこのときの熱烈な読者の言葉は、まさに作家冥利につきるものだっただろう。
ちなみに、この読者のかたというのは、情報学の分野の先端的な研究者で、ほどなく東大に招かれて教授になられたかただ。
その身体的ハンディキャップにもかかわらず、第一級の研究者でもある。小松さんと、この方の出遇いは、まさに奇跡的な瞬間だったんだな、と思う。
最近になって、東浩紀のエッセイか何か読んでいたら、彼も小松さんのファンであることが分かった。
小松さんが「学問の消費者」と卑下しながら、終生失わなかった宇宙スケールの知的関心から生み出される、あらゆる分野にわたる星の数ほどもありそうなアイディアの面白さや、途方もない想像力の翼を広げて描く巨大なスケールの幻想の世界のもつ力を、私は生身の小松さんのすぐそばに居ながら、或いは逆にそうであったからこそ、見過ごし、或いは故意に無視し、そこから何一つ学ぶこともなくやり過ごしてきたことを、いまになって悔むべきか嘆くべきか。
いや、所詮、私の長波がせいぜい中波しか受信できない装置では、小松さんの極超短波の信号を受け止めることはできなかったのだろう。
そんな私の中で、小松さんは、そんな大流行作家にして文明論までかたる大文化人にお愛想ひとつできない生意気な若造を、ほかの若い世代のはるかに器用な連中に対するのと同様に可愛がり、持ち上げようと不器用な好意を示してくれた心優しい上司(当時勤務先の取締役だった)として記憶されている。
私が一番好きな彼は、私が一番苦手な瞬間でもあった、二人きりで向き合ったときにみせる、気詰まりな表情、ムキになって原稿用紙に目を落としてひと言も発することなく読みつづけていた彼の表情である。
saysei at 12:38|Permalink│Comments(0)│
2019年08月07日
片山一道著『ポリネシア海道記〜不思議をめぐる人類学の旅』
著者の片山さんは、以前にこのプログで感想を書いた『掛谷誠著作集』の著者で私の学生時代の友人掛谷の、自然人類学における一年後輩にあたる人で、私も学生時代からの間歇的ながら長いお付き合いをさせてもらっています。
私が片山さん個人を多少なりと、あぁ、こういう人なのだな、と一目置くような形で認識したのは、私が大学四年生の夏休みに、広島県北部の渓谷、帝釈峡で、卒業実習のテーマに選んだ(半)野生ニホンザルの群の調査で帝釈峡に入っていたとき、掛谷と二人で訪ねて来てくれたときのことです。
一番印象に残っているのはこんな場面です。
彼は掛谷に向けて語っていたのですが、ちょっと挑むような口調で、「ぼくはもう全体がどうのこうのなんて信じないですよ。もっとコンクリートなことをやります。だって、いままでさんざん全体、全体って言ってきてどうだったのか。何にもならなかったじゃないですか。」と言ったのです。
言葉を正確に記憶しているわけではないけれど、だいたいそんな趣旨のことを言っていました。
「全体」というのは、或いは私の記憶違いで、ほかの言葉かもしれません。「ぼくはコンクリートなことをやりますよ」という言葉のほうは間違いありません。非常に印象的で、よく覚えています。
私たちはそのころ、いまの学術が高度に専門化していくにつれて細分化され、互いに蛸壺的になっていき、研究者たちの問題意識も狭小になっているとみて、そこに安穏として研究を続けることに疑問すらもたないような研究や研究者のありように不審や不満を持っていました。
私たちが学問をやるとすれば、それは私たち人間とはなにか、わたしたちはどこからやってきて、どこへ行こうとしているのか、そんな根源的な問いに何か答えを見出したい、というひそかな思いが私たちの胸の底にあるからではないのか。
掛谷が自然人類学を志したときには、きっとそういう思いがあったに違いないし、彼は終生そうした初志を手放さなかったと私は考えています。
また、そうしたら彼の姿勢が、私たち同年輩の若い仲間たちを彼に引き寄せ、その中でもっとも大きく、優れた器として、彼をある意味ではカリスマのようにみなす空気さえ生まれていたのだと思います。
私には、若き日の片山さんは、少し戯画的な言い方を許してもらうとすれば、そんな「掛谷教」信者の一人と見えていました。
だから、私の記憶が正しければ、「全体」というのは、狭小な専門領域に閉じこもって自足しているような研究者のありように対して、私たちのトータルな人間性と生き方を賭けた研究の姿勢なり生き方を対置するといった意味合いのものだったと思います。
それはすぐ一年半ほどあとに京大にも飛び火するように炎が上がる大学闘争の中で私たちが持っていた大学教員らへの批判の観点や、自分たちの行動を支える原理にそのまま通じていたと思います。
私自身はそのころすでに理学部を離れて文学部(哲学科)への転出を決めていましたが、考え方は同じで、哲学をやるにしても、哲学史上のだれか偉大な哲学者について深く研究して例えばカント論ををやるとか、そんなことは全く考えてはいませんでした。
私が生物系の学科を去ったのも、細分化されたその領域のどこかに所属して、生態学であれ、生理学であれ、なにか既存の学問をなぞるように研究に没頭する自分がどうしても実感的に想像できなかったから、と言ってもそれほど的外れではないでしょう。言い換えれば、そういう地道な研究生活に耐えられる自分だとは思えなかったのでしょう。
ただ、だからと言って、先のような曖昧模糊とした問いに対する答が一挙に掴めるはずもなく、私(たち)に具体的な方途や道筋が見えていたわけではありません。
だから、片山さんの「全体」に見切りをつけた気持は、当時の私にも、とてもよく理解できるような気がしました。
自分はまだ「全体」という幻を追っかけているし、ますます深みに嵌まっていこうとしているけれど、片山さんは踏ん切りをつけたんだな、潔いな、と感じたのを覚えています。
私たちの仲間うちで、そうした「全体」への思い、その思想を体現していたカリスマが掛谷だったので、片山さんの「全体」との断固とした訣別は、同時に彼の掛谷への思想的な訣れでもあることが、傍で聴いていた私にはすぐに分かりました。
こうして私は多分、片山さんの自立の瞬間に偶然立ち会うことになったのです。
片山さんの「コンクリートなもの」とは、具体的には同じ自然人類学教室でも生態系ではなく、形質人類学のほうに進むことだったと思います。
その後は私が別の学部へ移ったので、詳しくは知らないけれど、彼はのちに考古学も合わせて修め、何千体という人骨を調査し、日本人の起源の探求に力を注いだりしていたようです。
いつのことだったか、久しぶりにある時彼の研究室を訪ねたら、埋蔵出土品やら墓から出てきた人骨やらが雑然と置かれていて、ちょうどマスメディアで話題になっていた藤ノ木古墳の調査をしている最中だと言っていました。
その後、テレビを見ていたら偶然、彼が力士だった小錦と一緒にポリネシアを訪れている番組に出くわしました。
ああ、いま日本人のルーツ探しがポリネシアまで広がっているんだな、と思って見ていました。
私が勤めることになったシンクタンクで、広島県から委託されて、広島市内に瀬戸内海文化博物館をつくるという構想を請け負ったとき、海というテーマと、彼が広島出身であることから、まず彼のことが頭に浮かび、企画委員会の委員になってもらったこともあります。
今回送ってもらった新著は、その年季の入ったポリネシア研究を振り返って、私たちの乏しい知識からくる偏ったポリネシア像を覆すような観点を提示し、一般の読者にも興味深い数々のエピソードやその時々の自分の思いを織り交ぜて楽しめるエッセイになっています。
私自身、ポリネシアについては全く知識がなく、この本で書かれている通俗的で誤ったポリネシアの虚像である、ゴーギャンの描くタヒチのような「地上の楽園」であったり、なんだか放っておいても作物が育つから日がなのんびり温かい浜辺で時間が止まったようなゆったりペースで漁網をつくろったりしているだけの、文明からは遠いけれど精神的には満ち足りた豊かな暮らしをしている社会、みたいなお粗末なイメージしかありませんでした。
少しは関心に引っかかってくるとすれば、柳田國男の「海上の道」の影響か、浜辺に流れ着く椰子の実を落とした南洋の島々を、目に見えない、時間的にも空間的にも遠い日本人のルーツとしてはるかに臨む、といった漠然とした意識からだったかと思います。
この本でいくつも自分のそんな思い込みをただされる経験をしたように思います。
なかでも興味深かったのは、小錦や武蔵丸のような巨漢がなぜ数多く生まれてくるのか、なぜポリネシアの人々は体格がよいのか、肥満型も多いのかを説明して、それはもともと極端に貧しい自然環境に規定された、極端に貧しい食生活で代々培われてきた、低カロリーで最大のエネルギー効率を引き出す体質、「ためぐい」を可能とする体質だったからこそ、欧風の生活様式や食生活の激変によって生まれた体型なんだ、ということです。
私などが思い描いてきた、なんとなく豊かな南洋のイメージとは真逆に、ポリネシアの島々は、「無い無い尽くし」の極めて貧しい世界だということ。このことが、ポリネシアの人々やその暮らし、文化、歴史などを考える上で、すべてのベースに置かれなくては、勝手なイメージを描いて間違うことになりますよ、ということですね。
ポリネシアの人々の名前の「通称」の話には笑いました。ニンジャ、J.ボンド、マリオ、プレスリー、片山さんのカス(カズのはずがカスにされてしまったらしい)まで、自在に自分たちの通称名にしてしまう、素敵ですね!
しかし、私が一番面白かったのは、片山ささんがツアモツ諸島の人口160人ほどの小さな離島の古老と対話した場面です。
ある日古老が不審な表情を浮かべながら、彼に尋ねます。
“「おまえの仕事はなんだ」
「大学で教えており、人類学という学問をしている」
すると彼は鋭くつっこんできた。
「おまえが、いったい何を教えられるというのか。わしの目には、お前さんは、なにもできないし、知らないし、まったく体力もパワーもないじゃないか。ココヤシの樹に登りココナツを落とすこともできない。ブタに餌もやれない。気象のことも知らないようだし、海に潜って魚を獲ることもできない。家を作れるわけでもない。おまけに言葉も十分ではない。ないない尽くしで、生きていくのも難しいようじゃないかい。いったい大学で何を教えることができるというのか、ね。わしのほうが、よっぽど優れた教師となれるだれうよ。おまえか博士なら、わしは大博士、そうじゃないかい」”
これには、片山さんも、「ごもっともです・・・・・」と、“あとはひたすら沈黙の時”をやり過ごすほかはなかった“ようです。
私は掛谷が終生こだわり、愛したアフリカにも、片山さんが愛したポリネシアにも関心を持ったことがなく、行きたいと思ったこともありませんが、掛谷も片山さんも、こういう人々に出合うためにアフリカやポリネシアまで出かけていたんだろうな、と思いました。
あと、この新著の中は、ポリネシアの島々の名前や、メラネシアとかミクロネシアといった圏域区分、或いは日付変更線の設定にいたるまで、西欧人による自分たちの文明の横暴な押し付けがもたらした結果であるポリネシアの今に残る深い傷跡、数々の誤解や偏見を一つ一つ指摘し、その誤りをただすと同時に、そうした誤謬や偏見を疑いもせずに受け入れて勝手な南洋の島々のイメージをいだきつづけてきた私のような日本人に対しても、ユーモアに包まれた憤りをもって、事実を指し示してくれています。
ポリネシアについてあまりに無知な私たちには、この上ない、確かな導きの糸、良き啓発書と言っていいでしょう。
読み終えて思ったことは、西洋人たちが未知の世界に触れて、自分たちの社会との違いに驚き、その物珍しさを自分たちの目の基準で「未開社会」ととらうえたその文物を記述したことに始まる人類学が、ちょうど180度ぐるっと回って、真逆の位置までたどりついたんだな、と感慨深く思いました。
それは、片山さんが描写するポリネシアの自然や人々、その暮らしや社会のありよう等々の対象と向き合う視点、姿勢に明らかだし、同時にその描写の文体に潜む含羞のようなものに強くそれを感じます。
この新著は片山さんの「終活」の一環らしいけれど、まだまだ私たちの能天気な誤解や偏見をただして、まっとうなポリネシア像を作っていく上で、余人にはできない仕事をするキャパシティがありそうだから、ますますのご活躍を祈りたいと思います。
私が片山さん個人を多少なりと、あぁ、こういう人なのだな、と一目置くような形で認識したのは、私が大学四年生の夏休みに、広島県北部の渓谷、帝釈峡で、卒業実習のテーマに選んだ(半)野生ニホンザルの群の調査で帝釈峡に入っていたとき、掛谷と二人で訪ねて来てくれたときのことです。
一番印象に残っているのはこんな場面です。
彼は掛谷に向けて語っていたのですが、ちょっと挑むような口調で、「ぼくはもう全体がどうのこうのなんて信じないですよ。もっとコンクリートなことをやります。だって、いままでさんざん全体、全体って言ってきてどうだったのか。何にもならなかったじゃないですか。」と言ったのです。
言葉を正確に記憶しているわけではないけれど、だいたいそんな趣旨のことを言っていました。
「全体」というのは、或いは私の記憶違いで、ほかの言葉かもしれません。「ぼくはコンクリートなことをやりますよ」という言葉のほうは間違いありません。非常に印象的で、よく覚えています。
私たちはそのころ、いまの学術が高度に専門化していくにつれて細分化され、互いに蛸壺的になっていき、研究者たちの問題意識も狭小になっているとみて、そこに安穏として研究を続けることに疑問すらもたないような研究や研究者のありように不審や不満を持っていました。
私たちが学問をやるとすれば、それは私たち人間とはなにか、わたしたちはどこからやってきて、どこへ行こうとしているのか、そんな根源的な問いに何か答えを見出したい、というひそかな思いが私たちの胸の底にあるからではないのか。
掛谷が自然人類学を志したときには、きっとそういう思いがあったに違いないし、彼は終生そうした初志を手放さなかったと私は考えています。
また、そうしたら彼の姿勢が、私たち同年輩の若い仲間たちを彼に引き寄せ、その中でもっとも大きく、優れた器として、彼をある意味ではカリスマのようにみなす空気さえ生まれていたのだと思います。
私には、若き日の片山さんは、少し戯画的な言い方を許してもらうとすれば、そんな「掛谷教」信者の一人と見えていました。
だから、私の記憶が正しければ、「全体」というのは、狭小な専門領域に閉じこもって自足しているような研究者のありように対して、私たちのトータルな人間性と生き方を賭けた研究の姿勢なり生き方を対置するといった意味合いのものだったと思います。
それはすぐ一年半ほどあとに京大にも飛び火するように炎が上がる大学闘争の中で私たちが持っていた大学教員らへの批判の観点や、自分たちの行動を支える原理にそのまま通じていたと思います。
私自身はそのころすでに理学部を離れて文学部(哲学科)への転出を決めていましたが、考え方は同じで、哲学をやるにしても、哲学史上のだれか偉大な哲学者について深く研究して例えばカント論ををやるとか、そんなことは全く考えてはいませんでした。
私が生物系の学科を去ったのも、細分化されたその領域のどこかに所属して、生態学であれ、生理学であれ、なにか既存の学問をなぞるように研究に没頭する自分がどうしても実感的に想像できなかったから、と言ってもそれほど的外れではないでしょう。言い換えれば、そういう地道な研究生活に耐えられる自分だとは思えなかったのでしょう。
ただ、だからと言って、先のような曖昧模糊とした問いに対する答が一挙に掴めるはずもなく、私(たち)に具体的な方途や道筋が見えていたわけではありません。
だから、片山さんの「全体」に見切りをつけた気持は、当時の私にも、とてもよく理解できるような気がしました。
自分はまだ「全体」という幻を追っかけているし、ますます深みに嵌まっていこうとしているけれど、片山さんは踏ん切りをつけたんだな、潔いな、と感じたのを覚えています。
私たちの仲間うちで、そうした「全体」への思い、その思想を体現していたカリスマが掛谷だったので、片山さんの「全体」との断固とした訣別は、同時に彼の掛谷への思想的な訣れでもあることが、傍で聴いていた私にはすぐに分かりました。
こうして私は多分、片山さんの自立の瞬間に偶然立ち会うことになったのです。
片山さんの「コンクリートなもの」とは、具体的には同じ自然人類学教室でも生態系ではなく、形質人類学のほうに進むことだったと思います。
その後は私が別の学部へ移ったので、詳しくは知らないけれど、彼はのちに考古学も合わせて修め、何千体という人骨を調査し、日本人の起源の探求に力を注いだりしていたようです。
いつのことだったか、久しぶりにある時彼の研究室を訪ねたら、埋蔵出土品やら墓から出てきた人骨やらが雑然と置かれていて、ちょうどマスメディアで話題になっていた藤ノ木古墳の調査をしている最中だと言っていました。
その後、テレビを見ていたら偶然、彼が力士だった小錦と一緒にポリネシアを訪れている番組に出くわしました。
ああ、いま日本人のルーツ探しがポリネシアまで広がっているんだな、と思って見ていました。
私が勤めることになったシンクタンクで、広島県から委託されて、広島市内に瀬戸内海文化博物館をつくるという構想を請け負ったとき、海というテーマと、彼が広島出身であることから、まず彼のことが頭に浮かび、企画委員会の委員になってもらったこともあります。
今回送ってもらった新著は、その年季の入ったポリネシア研究を振り返って、私たちの乏しい知識からくる偏ったポリネシア像を覆すような観点を提示し、一般の読者にも興味深い数々のエピソードやその時々の自分の思いを織り交ぜて楽しめるエッセイになっています。
私自身、ポリネシアについては全く知識がなく、この本で書かれている通俗的で誤ったポリネシアの虚像である、ゴーギャンの描くタヒチのような「地上の楽園」であったり、なんだか放っておいても作物が育つから日がなのんびり温かい浜辺で時間が止まったようなゆったりペースで漁網をつくろったりしているだけの、文明からは遠いけれど精神的には満ち足りた豊かな暮らしをしている社会、みたいなお粗末なイメージしかありませんでした。
少しは関心に引っかかってくるとすれば、柳田國男の「海上の道」の影響か、浜辺に流れ着く椰子の実を落とした南洋の島々を、目に見えない、時間的にも空間的にも遠い日本人のルーツとしてはるかに臨む、といった漠然とした意識からだったかと思います。
この本でいくつも自分のそんな思い込みをただされる経験をしたように思います。
なかでも興味深かったのは、小錦や武蔵丸のような巨漢がなぜ数多く生まれてくるのか、なぜポリネシアの人々は体格がよいのか、肥満型も多いのかを説明して、それはもともと極端に貧しい自然環境に規定された、極端に貧しい食生活で代々培われてきた、低カロリーで最大のエネルギー効率を引き出す体質、「ためぐい」を可能とする体質だったからこそ、欧風の生活様式や食生活の激変によって生まれた体型なんだ、ということです。
私などが思い描いてきた、なんとなく豊かな南洋のイメージとは真逆に、ポリネシアの島々は、「無い無い尽くし」の極めて貧しい世界だということ。このことが、ポリネシアの人々やその暮らし、文化、歴史などを考える上で、すべてのベースに置かれなくては、勝手なイメージを描いて間違うことになりますよ、ということですね。
ポリネシアの人々の名前の「通称」の話には笑いました。ニンジャ、J.ボンド、マリオ、プレスリー、片山さんのカス(カズのはずがカスにされてしまったらしい)まで、自在に自分たちの通称名にしてしまう、素敵ですね!
しかし、私が一番面白かったのは、片山ささんがツアモツ諸島の人口160人ほどの小さな離島の古老と対話した場面です。
ある日古老が不審な表情を浮かべながら、彼に尋ねます。
“「おまえの仕事はなんだ」
「大学で教えており、人類学という学問をしている」
すると彼は鋭くつっこんできた。
「おまえが、いったい何を教えられるというのか。わしの目には、お前さんは、なにもできないし、知らないし、まったく体力もパワーもないじゃないか。ココヤシの樹に登りココナツを落とすこともできない。ブタに餌もやれない。気象のことも知らないようだし、海に潜って魚を獲ることもできない。家を作れるわけでもない。おまけに言葉も十分ではない。ないない尽くしで、生きていくのも難しいようじゃないかい。いったい大学で何を教えることができるというのか、ね。わしのほうが、よっぽど優れた教師となれるだれうよ。おまえか博士なら、わしは大博士、そうじゃないかい」”
これには、片山さんも、「ごもっともです・・・・・」と、“あとはひたすら沈黙の時”をやり過ごすほかはなかった“ようです。
私は掛谷が終生こだわり、愛したアフリカにも、片山さんが愛したポリネシアにも関心を持ったことがなく、行きたいと思ったこともありませんが、掛谷も片山さんも、こういう人々に出合うためにアフリカやポリネシアまで出かけていたんだろうな、と思いました。
あと、この新著の中は、ポリネシアの島々の名前や、メラネシアとかミクロネシアといった圏域区分、或いは日付変更線の設定にいたるまで、西欧人による自分たちの文明の横暴な押し付けがもたらした結果であるポリネシアの今に残る深い傷跡、数々の誤解や偏見を一つ一つ指摘し、その誤りをただすと同時に、そうした誤謬や偏見を疑いもせずに受け入れて勝手な南洋の島々のイメージをいだきつづけてきた私のような日本人に対しても、ユーモアに包まれた憤りをもって、事実を指し示してくれています。
ポリネシアについてあまりに無知な私たちには、この上ない、確かな導きの糸、良き啓発書と言っていいでしょう。
読み終えて思ったことは、西洋人たちが未知の世界に触れて、自分たちの社会との違いに驚き、その物珍しさを自分たちの目の基準で「未開社会」ととらうえたその文物を記述したことに始まる人類学が、ちょうど180度ぐるっと回って、真逆の位置までたどりついたんだな、と感慨深く思いました。
それは、片山さんが描写するポリネシアの自然や人々、その暮らしや社会のありよう等々の対象と向き合う視点、姿勢に明らかだし、同時にその描写の文体に潜む含羞のようなものに強くそれを感じます。
この新著は片山さんの「終活」の一環らしいけれど、まだまだ私たちの能天気な誤解や偏見をただして、まっとうなポリネシア像を作っていく上で、余人にはできない仕事をするキャパシティがありそうだから、ますますのご活躍を祈りたいと思います。
saysei at 14:26|Permalink│Comments(0)│
2019年08月04日
スナップショット(11) 多田道太郎
多田さんの文章は教科書に出てきたのだったか、書店でたまたま手にした本で知ったのかは記憶にないが、高校の頃にはすでに著名な文化人としてその名は知っていた。
しかし、彼の名を強く印象づけられたのは、大学へ入って間もないころ、たまたま講演に来た鶴見俊輔さんが、学生のころの彼のことにチラッと触れた折りのことだった。
それは鶴見さんが京都大学で初めて講義したときのことらしく、語学の授業だったのか、英文の原書を学生に訳させていたときのこと。
米国での生活が長かった鶴見さんは英文を読むのに苦労はないから、教えるにも予習などしていかない。ところが、その日、学生に当てて読ませたは良いが、その文章のなかに、自分の知らない単語があることに気づいた。
困ったな、と思っていたら、当てられた学生は、その部分もなんでもなくすらすら訳してしまったので、ほっとすると同時に、「ここの学生は優秀だな、と思った、それが私の京大に対する最初の印象ですね」と、鶴見さんはその場の聴衆であった私たちへのリップサービスでその講演を始めたのだった。
そして鶴見さんは続けて、「その学生が多田道太郎だったんですね」と言ったのだ。
それで、私が書き物でしか知らなかった多田道太郎という人物が、たちまち自分たちと同じ血の通った人間として身近に感じられるようになった。
その後、「複製芸術論」を始め、いくつかの彼の著作に人並みに触れてきたけれど、直接多田さん本人に接したのは、私が文化専門のシンクタンクに入ってからだ。
そのシンクタンクでは著名な文化人に、株仲間と称して、実際に幾ばくかの株式を持ってもらい、経済的によりも知恵出しに協力してもらい、また知恵を売るシンクタンクの顔として、そのブランディングに寄与してもらおうということで、株主になってもらっていた。
多田さんもその一人で、そのころはたん熊北店でひらいていた株主総会と懇親会の席や、なにかのプロジェクトの知恵出し会、座談会企画などの際に見かけることがあったが、個人的に話す機会はほとんどなかったと思う。
彼に協力を求めたプロジェクトで、私が主担当をつとめたのは、たしか岡山県から委託を受けた、岡山の中部高原地域の基礎調査といったテーマのものだった。
多田さんと個人的に身近に接したのは、たぶんこのときだけだったろう。
岡山県には中部高原という、中国山地の峻険な山並みとは異なる、至って平凡な低い山並みがつづく高原地帯がある。雑木林から成るそれらの山には一昔前なら炭焼きが入り、人も住み、また峠を越えていく人の往来もあって、そこそこ手入れもされてきたが、世の移りゆきと共に、生活の場ではなくなり、荒れてしまった。
県の職員も、以前は松茸なんかその辺でいくらでもとれて、炭で焼いてよく食べたものだ、などと話していた。
私たちが行ったときも、松茸のとれる山というのはあったけれど、山の中にも結界が設けられ、無断で立ち入った場合、金50万円申し受けます、なんて貼り紙があったりした。
経済のバブル期には有り余る金がそんなところにも投じられ、観光、娯楽施設やゴルフ場がたくさん作られたらしい。
しかし、瀬戸内海沿岸の市街地からははるか遠く、なんの変哲もない平凡な小山と谷が上がったり下がったり、クネクネと続く自動車道でつながれているだけの地域だから、物珍しいのは出来立てのころだけ。すぐにだれもわざわざそんなところまで遊びに行かなくなるし、すべて撤退。残るのは辛うじていくつかのゴルフ場と県の肝いりで作った研究所のようなものだけ。
そんなところに、県がまだ持っているたくさんの土地を、なにか有効活用できないか、知恵をくれ、というのが与えられた課題だった。
このときなぜ多田さんの協力を求めたのか記憶にないけれど、私たちが最初にしたことは、多田さんと、いまひとりの文化人で当時このシンクタンクの代表取締役のひとり、従って私の上司であったK、そして担当の私とで岡山県庁の職員の運転兼案内で、中部高原をぐるぐると車でめぐることだった。
高原と言っても見晴らしが良いわけでもなければ、美しい渓谷の風景に出会えるわけでもなく、クネクネとカーブしてアップダウンする自動車道から見えるのは、いずれも同じ雑木林の凡庸な風景で、視界も開けず、花も見ず、ただ小楢類のような樹々から成る小山の間をひた走るのみ。
あんな場所の有効活用策なんて、いったいどんな提案をしたのだったか(笑)まるで記憶にないが、車の中で退屈しのぎに雑談する中で、多田さんが話したことだけ、いまでもよく覚えている。
ぼくはね、いま真田十勇士のことを調べているんだ、と彼は好奇心に満ちた少年のような目で言った。
真田幸村は実在した人物だが、十勇士のほうは、たしか立川文庫かなにかの創作した架空の人物で、講談、小説、映画、テレビドラマなどでは大活躍だが、みな空想の産物にすぎないだろう。そんなものを高名な学者が調べている、というのはどういうことだろう?
多田さんはこちらの気持ちを見透かしたように続けて言った。
真田十勇士って、いかがわしいでしょう?ぼくはね、文化ってのは、そういういかがわしいものの中から、次の時代の中心になるようなものが生まれてくると思うんだ。
この多田さんの言葉を記憶しているのは、そのときに彼の学問の方法も私が読んだ「複製芸術論」のような主著の発想も、いっぺんに理解できたような気がしたからだろう。
鶴見さんや多田さんの「思想の科学」は高級文化をきわめたような秀才たちが、従来の輸入学問的な知識人言葉を使わずに、大衆の暮らしや言葉の世界へ降りて来ようとすることで、さまざまな新鮮な観点をもたらしたと考えられるが、多田さんの真田十勇士探索もそんな志向(嗜好)と方法の好例かもしれない。
私は幼いころ、「少年倶楽部」の絵物語や後には漫画で、真田十勇士に親しみ、忍者の世界にも興味津々で、麻の実を植えてその苗が成長するのを毎日飛び越えて跳躍の訓練をし、桐の灰を中身を抜いた卵の殻に詰めて目くらましの投げ礫を作り、撒き菱にするために遠い地方の池の傍へ菱の実を拾いに行き、天井の梁を掴んで潜めるまでになるのを目指して砂に指を差し入れては鍛え、両脚を大きく交差させる忍者の速歩きを修練するなど、かなり深入りした覚えがあったので、多田さんの言葉に、それは面白いですね、とすぐに反応した。
その後多田さんの真田十勇士がどんな結実をみたかは知らない。私のほうはいまや死に至る病で入院中の病院で、たまたまではあるが、昔NHKがやった「真田太平記」のDVDをレンタルで借りていたのを家人に持ってきてもらって、楽しみに見ている。
多田さんのことでもう一つ覚えていることがある。それも会社の懇親会のあとの気軽な雑談タイムのことだったと思う。
彼は少し離れたところでほかの株仲間のお相手をしている私の職場の先輩でもある同僚Hのことを、ぼくはHさんは優秀な人だとは思っていたけれど、この間話してほんとに偉い人だと思ったなぁ、としみじみとした調子で言った。
いや、ぼくは彼なんかどこか大学へ行ったら優れた研究者になると思ってそんなことを言ったんだけどね。彼は大学にだけは決して戻りません、って言うんだ。いまの仕事に誇りを持っていて、大学への幻想なんか全然持っていないんだね。ぼくは大学を勧めたりした自分を恥じたよ。
シンクタンクの起こりとされるアメリカのランドコーポレーションなどとは成り立ちからして異なる日本のシンクタンクは、そのほとんどが企業(群)にくっついた盲腸かトカゲの尻尾みたいなもので、研究実態も経営基盤も極めて脆弱で、あるとき全国のシンクタンクのメンバーに対するアンケートをとったところがあったが、その担当者から、ほとんどの研究員がいつまでもそこに居るつもりはない、という意向を示し、その多くが(親会社からの出向者は親会社へ戻りたいとしても)大学教員に転じたい意向を示している、と聞いたことがある。
シンクタンクの社会的地位は低く、その仕事に誇りを持って、良い仕事をしている研究員はむしろ少数あるいは例外的だったかもしれない。
Hは私と同世代で、大学院修士課程のころに、いわゆる大学闘争に遭遇し、所属学部学科によってかなり状況が異なるが、彼のいた学部では非常に厳しい闘争を担わざるを得なかったようだ。彼は学部の権力者たちに反旗を翻し、いわば戦い敗れて大学を出た。
私が彼に会ったときはすでにそれから5、6年が経ち、個人的にそのころのことを話すようなこともなかった。しかし、あるとき、彼の口から、大学にはもどらない、という決意を聞き、そのときに、いま大学に残っている連中について、「自分がさんざん攻撃していた教授に頭を下げて大学へ戻った」と一言、吐き捨てるように言ったことを記憶している。
たぶん、そんな想いが、私などよりはるかに研究者としての優れた資質を持つ彼に、大学にだけはもどらない、という決意をさせているのだろう。
多田さんはそういう彼に心底感心した様子だった。もちろんその背後には、大学の研究者が偉くて、シンクタンクの研究員は身過ぎ世過ぎでやっているのだろう、という、自分の置かれた社会的位置やそこから享受している特権に無自覚な大学人の「常識」があって、その「常識」からみてHの生き方が常識外れの意外なものに思えた
に過ぎないといえば言えるが、そこに気づき、心から尊敬するなぁ、とまで言うところが、多田さんのいいところだな、とそのとき私は思った。
自分が大学の中にいて、いわば上から目線で、シンクタンク研究員である(にもかかわらず・・・笑)優秀である彼の能力や実績を称揚し、大学へ来ないかと誘う大学人は少なくないが、そういう無自覚な誘いがいかに傲慢で滑稽なものであるかに気づいて、自身を深く恥じるとまで語ることのできる人は、やはり稀有な存在だと思う。
私が多田さんを最後にお見かけしたのは、河原町通りをたぶん奥様と二人でゆっくりと歩き去っていく姿だった。明るい小麦色の上下にお洒落な帽子、いつものようにとてもダンディな印象だった。
私はずいぶんのちに知ったのだが、多田さんは東京で弁護士をされていたお嬢さんを急の病で亡くされるという辛い体験をなさっている。その折のことを書かれた一文を後に読んだとき、あのいたずらっぽい少年のように好奇心できらきら輝く目、そしてほとんど弱々しく感じられさえする、優しく、温かみのある眼差しを思い、どんなに辛かったろう、と涙せずにいられなかった。
しかし、彼の名を強く印象づけられたのは、大学へ入って間もないころ、たまたま講演に来た鶴見俊輔さんが、学生のころの彼のことにチラッと触れた折りのことだった。
それは鶴見さんが京都大学で初めて講義したときのことらしく、語学の授業だったのか、英文の原書を学生に訳させていたときのこと。
米国での生活が長かった鶴見さんは英文を読むのに苦労はないから、教えるにも予習などしていかない。ところが、その日、学生に当てて読ませたは良いが、その文章のなかに、自分の知らない単語があることに気づいた。
困ったな、と思っていたら、当てられた学生は、その部分もなんでもなくすらすら訳してしまったので、ほっとすると同時に、「ここの学生は優秀だな、と思った、それが私の京大に対する最初の印象ですね」と、鶴見さんはその場の聴衆であった私たちへのリップサービスでその講演を始めたのだった。
そして鶴見さんは続けて、「その学生が多田道太郎だったんですね」と言ったのだ。
それで、私が書き物でしか知らなかった多田道太郎という人物が、たちまち自分たちと同じ血の通った人間として身近に感じられるようになった。
その後、「複製芸術論」を始め、いくつかの彼の著作に人並みに触れてきたけれど、直接多田さん本人に接したのは、私が文化専門のシンクタンクに入ってからだ。
そのシンクタンクでは著名な文化人に、株仲間と称して、実際に幾ばくかの株式を持ってもらい、経済的によりも知恵出しに協力してもらい、また知恵を売るシンクタンクの顔として、そのブランディングに寄与してもらおうということで、株主になってもらっていた。
多田さんもその一人で、そのころはたん熊北店でひらいていた株主総会と懇親会の席や、なにかのプロジェクトの知恵出し会、座談会企画などの際に見かけることがあったが、個人的に話す機会はほとんどなかったと思う。
彼に協力を求めたプロジェクトで、私が主担当をつとめたのは、たしか岡山県から委託を受けた、岡山の中部高原地域の基礎調査といったテーマのものだった。
多田さんと個人的に身近に接したのは、たぶんこのときだけだったろう。
岡山県には中部高原という、中国山地の峻険な山並みとは異なる、至って平凡な低い山並みがつづく高原地帯がある。雑木林から成るそれらの山には一昔前なら炭焼きが入り、人も住み、また峠を越えていく人の往来もあって、そこそこ手入れもされてきたが、世の移りゆきと共に、生活の場ではなくなり、荒れてしまった。
県の職員も、以前は松茸なんかその辺でいくらでもとれて、炭で焼いてよく食べたものだ、などと話していた。
私たちが行ったときも、松茸のとれる山というのはあったけれど、山の中にも結界が設けられ、無断で立ち入った場合、金50万円申し受けます、なんて貼り紙があったりした。
経済のバブル期には有り余る金がそんなところにも投じられ、観光、娯楽施設やゴルフ場がたくさん作られたらしい。
しかし、瀬戸内海沿岸の市街地からははるか遠く、なんの変哲もない平凡な小山と谷が上がったり下がったり、クネクネと続く自動車道でつながれているだけの地域だから、物珍しいのは出来立てのころだけ。すぐにだれもわざわざそんなところまで遊びに行かなくなるし、すべて撤退。残るのは辛うじていくつかのゴルフ場と県の肝いりで作った研究所のようなものだけ。
そんなところに、県がまだ持っているたくさんの土地を、なにか有効活用できないか、知恵をくれ、というのが与えられた課題だった。
このときなぜ多田さんの協力を求めたのか記憶にないけれど、私たちが最初にしたことは、多田さんと、いまひとりの文化人で当時このシンクタンクの代表取締役のひとり、従って私の上司であったK、そして担当の私とで岡山県庁の職員の運転兼案内で、中部高原をぐるぐると車でめぐることだった。
高原と言っても見晴らしが良いわけでもなければ、美しい渓谷の風景に出会えるわけでもなく、クネクネとカーブしてアップダウンする自動車道から見えるのは、いずれも同じ雑木林の凡庸な風景で、視界も開けず、花も見ず、ただ小楢類のような樹々から成る小山の間をひた走るのみ。
あんな場所の有効活用策なんて、いったいどんな提案をしたのだったか(笑)まるで記憶にないが、車の中で退屈しのぎに雑談する中で、多田さんが話したことだけ、いまでもよく覚えている。
ぼくはね、いま真田十勇士のことを調べているんだ、と彼は好奇心に満ちた少年のような目で言った。
真田幸村は実在した人物だが、十勇士のほうは、たしか立川文庫かなにかの創作した架空の人物で、講談、小説、映画、テレビドラマなどでは大活躍だが、みな空想の産物にすぎないだろう。そんなものを高名な学者が調べている、というのはどういうことだろう?
多田さんはこちらの気持ちを見透かしたように続けて言った。
真田十勇士って、いかがわしいでしょう?ぼくはね、文化ってのは、そういういかがわしいものの中から、次の時代の中心になるようなものが生まれてくると思うんだ。
この多田さんの言葉を記憶しているのは、そのときに彼の学問の方法も私が読んだ「複製芸術論」のような主著の発想も、いっぺんに理解できたような気がしたからだろう。
鶴見さんや多田さんの「思想の科学」は高級文化をきわめたような秀才たちが、従来の輸入学問的な知識人言葉を使わずに、大衆の暮らしや言葉の世界へ降りて来ようとすることで、さまざまな新鮮な観点をもたらしたと考えられるが、多田さんの真田十勇士探索もそんな志向(嗜好)と方法の好例かもしれない。
私は幼いころ、「少年倶楽部」の絵物語や後には漫画で、真田十勇士に親しみ、忍者の世界にも興味津々で、麻の実を植えてその苗が成長するのを毎日飛び越えて跳躍の訓練をし、桐の灰を中身を抜いた卵の殻に詰めて目くらましの投げ礫を作り、撒き菱にするために遠い地方の池の傍へ菱の実を拾いに行き、天井の梁を掴んで潜めるまでになるのを目指して砂に指を差し入れては鍛え、両脚を大きく交差させる忍者の速歩きを修練するなど、かなり深入りした覚えがあったので、多田さんの言葉に、それは面白いですね、とすぐに反応した。
その後多田さんの真田十勇士がどんな結実をみたかは知らない。私のほうはいまや死に至る病で入院中の病院で、たまたまではあるが、昔NHKがやった「真田太平記」のDVDをレンタルで借りていたのを家人に持ってきてもらって、楽しみに見ている。
多田さんのことでもう一つ覚えていることがある。それも会社の懇親会のあとの気軽な雑談タイムのことだったと思う。
彼は少し離れたところでほかの株仲間のお相手をしている私の職場の先輩でもある同僚Hのことを、ぼくはHさんは優秀な人だとは思っていたけれど、この間話してほんとに偉い人だと思ったなぁ、としみじみとした調子で言った。
いや、ぼくは彼なんかどこか大学へ行ったら優れた研究者になると思ってそんなことを言ったんだけどね。彼は大学にだけは決して戻りません、って言うんだ。いまの仕事に誇りを持っていて、大学への幻想なんか全然持っていないんだね。ぼくは大学を勧めたりした自分を恥じたよ。
シンクタンクの起こりとされるアメリカのランドコーポレーションなどとは成り立ちからして異なる日本のシンクタンクは、そのほとんどが企業(群)にくっついた盲腸かトカゲの尻尾みたいなもので、研究実態も経営基盤も極めて脆弱で、あるとき全国のシンクタンクのメンバーに対するアンケートをとったところがあったが、その担当者から、ほとんどの研究員がいつまでもそこに居るつもりはない、という意向を示し、その多くが(親会社からの出向者は親会社へ戻りたいとしても)大学教員に転じたい意向を示している、と聞いたことがある。
シンクタンクの社会的地位は低く、その仕事に誇りを持って、良い仕事をしている研究員はむしろ少数あるいは例外的だったかもしれない。
Hは私と同世代で、大学院修士課程のころに、いわゆる大学闘争に遭遇し、所属学部学科によってかなり状況が異なるが、彼のいた学部では非常に厳しい闘争を担わざるを得なかったようだ。彼は学部の権力者たちに反旗を翻し、いわば戦い敗れて大学を出た。
私が彼に会ったときはすでにそれから5、6年が経ち、個人的にそのころのことを話すようなこともなかった。しかし、あるとき、彼の口から、大学にはもどらない、という決意を聞き、そのときに、いま大学に残っている連中について、「自分がさんざん攻撃していた教授に頭を下げて大学へ戻った」と一言、吐き捨てるように言ったことを記憶している。
たぶん、そんな想いが、私などよりはるかに研究者としての優れた資質を持つ彼に、大学にだけはもどらない、という決意をさせているのだろう。
多田さんはそういう彼に心底感心した様子だった。もちろんその背後には、大学の研究者が偉くて、シンクタンクの研究員は身過ぎ世過ぎでやっているのだろう、という、自分の置かれた社会的位置やそこから享受している特権に無自覚な大学人の「常識」があって、その「常識」からみてHの生き方が常識外れの意外なものに思えた
に過ぎないといえば言えるが、そこに気づき、心から尊敬するなぁ、とまで言うところが、多田さんのいいところだな、とそのとき私は思った。
自分が大学の中にいて、いわば上から目線で、シンクタンク研究員である(にもかかわらず・・・笑)優秀である彼の能力や実績を称揚し、大学へ来ないかと誘う大学人は少なくないが、そういう無自覚な誘いがいかに傲慢で滑稽なものであるかに気づいて、自身を深く恥じるとまで語ることのできる人は、やはり稀有な存在だと思う。
私が多田さんを最後にお見かけしたのは、河原町通りをたぶん奥様と二人でゆっくりと歩き去っていく姿だった。明るい小麦色の上下にお洒落な帽子、いつものようにとてもダンディな印象だった。
私はずいぶんのちに知ったのだが、多田さんは東京で弁護士をされていたお嬢さんを急の病で亡くされるという辛い体験をなさっている。その折のことを書かれた一文を後に読んだとき、あのいたずらっぽい少年のように好奇心できらきら輝く目、そしてほとんど弱々しく感じられさえする、優しく、温かみのある眼差しを思い、どんなに辛かったろう、と涙せずにいられなかった。
saysei at 12:58|Permalink│Comments(0)│