2019年06月
2019年06月29日
出町座の三本
久しぶりに出町座で「嵐電」をみて予告編やチラシに接すると、またすぐ映画が見たくなって、きょうはその想いを晴らしに、先日から終日電動ノコで硬くて太い木の枝を切った報いで痛めた腰をものともせず、朝から夕方まで、カフェのフレンチトーストを頬張りながら、3本連続で見てきました ^^;
最初は、チャン・リュル監督の「慶州(キョンジュ)~ヒョンとユニ」です。これは素晴らしかった。
チャン・リュル監督の作品は、「キムチを売る女」(2005)というのを、ビデオで以前に一本だけ見ていて、感想をこのブログで書いたことがあります(2017年8月28日記)。中国の辺境地域で、厳しい差別を受けながら社会の底辺に逞しく生きる朝鮮族の女性を描いた、すぐれた作品で印象に残っていました。
それで今回チラシを見て、ぜひ見たいと思ったのですが、今回の作品ですっかりこの監督のファンになりました。「キムチを売る女」が直球勝負といったところだとすれば、「慶州」はカーブもシュートも交え、一見肩の力を抜き、少し対象から引いた目線で、自然にその目に映るのは現在と過去が二重写しに重なって見える、といった多層性、多元性を内包した、繊細で奥行きを感じさせる、実に豊かな作品に仕上がっています。
2014年の作品らしいので、「キムチを売る女」から10年近くたって作られているわけで、監督は1962年生まれだそうですから52歳の作品ですね。やはりそれだけの人生の歳月を経なければつくれない作品だという気がします。
主役の パク・ヘイルとシン・ミナがほんとうに素晴らしい演技をみせてくれます。
パク・ヘイルが演じるのは若くて優秀な北京大学の教授チェ・ヒョンで、権威ぶったところなど微塵もない、どちらかといえば学生の延長みたいな、柔和な印象でカジュアルなライフスタイルをもついまふうの若い大学の先生です。ただし、既婚者の彼ですが、旅先でかつて関係を持った後輩の女性を呼び出したり、なかなか隅におけない先生ではあります(笑)。
彼は、自殺して亡くなった先輩の葬儀に出て、そのままその先輩といっとき過ごした過去の記憶に引き寄せられるようにして慶州へ赴き、その先輩ともう一人の先輩と3人で訪れた茶屋を訪ねて、3年前からそのオーナーをつとめる美しい女性ユニの接待を受け、彼が確かに見たという壁に貼ってあった春画の行方を尋ねます。
ユニはちょっと不思議な印象の美しい女性ですが、その不思議な印象というのはうまく説明できないけれど、たとえば日本でこういうところにたまたま美しい女性がいて旅先で出会っても、彼女に受けるような印象は受けないと思うのです。それはこの物語りの設定がそう感じさせる雰囲気なのか、それとも日本の女性と韓国の女性との精神文化みたいなものの微妙な違いがまるで異なる雰囲気を醸し出しているのか、私にはよくわからないところがあります。
彼女は訪れる客に、たとえばこの作品に登場する日本の韓流ファンみたいな二人のおばさまに対する接し方にみるように、サービス満点で愛想よく温かく客に接しているけれど、決して受身ではなく、客に媚びたりへつらったり、もてなす側として合わせていくような印象がなくて、最初から自立した一個の人間として客と対等な存在感をもって登場しています。この女優さん自身がそういう存在感を備えている、というべきなのでしょうか。
だから、或る意味でこの二人に何かが起こらないはずがない、という予感をおぼえるけれど、それは必ずしも二人が男女として惹かれ合って、恋愛感情を持つにいたる、というふうな通俗メロドラマ的予感ではないのです。むしろこの女性はそういう女性とは異なる自立した存在感をもっているようなのです。男性のヒョンのほうも、彼女のその不思議な魅力、存在感をまざまざと感じているけれど、それは逆に、男女のことではすみにおけないところのあるこのイケメンの若手教授ヒョンが、すっと通俗的なひとめぼれみたいな感情に滑り込んでいかない要因にもなっているような気がします。
けれども、それが見ていくうちに、私たち観客がふと気づくと、男女以外のなにものでもない親密な距離感に転じていて、その転換の自然さに舌を巻くようなところがあります。その流れのままに或る夜、ヒョンはユニを送って彼女の部屋に上がり込みます。「こうなるような気がしてたわ」とユニは言うのですが、結局二人は抱き合うこともないまま、ヒョンは彼女のもとを去って行きます。
セックスも殺しも暴力もなく、小さなこだわりをめぐるヒョンの不思議な過去と現在が重なる場への旅を淡々と描く、その手つきが非常に抑制のきいて洗練され、繊細で、心をゆさぶられます。慶州の青々とした墳墓の連なる光景が実に美しい幻想的な背景をかたちづくっています。
一本とばして、三番目に観たのは、同じチャン・リュル監督の「春の夢」(2016) です。モノクロ101分の作品で、これがまた滅茶苦茶面白かった。さきほどの野球のピッチャーの持ち球でいえば、この監督がストレートはもちろん、カーブ、シュートの定番に、チェンジアップ、超スローボールから時に星飛雄馬なみの魔球まで投げられる監督(笑)だと分からせてくれる、実に楽しい映画です。
それこそ社会の底辺で、どこにも自分の居場所がみつけられないような、はみだし者の3人の男たちが彼らのマドンナで、車椅子で眠りつづける父親の介護をしながら小さな場末の居酒屋を営む若い娘イェリを守るようにして、ついてまわったり、酒を飲んだり、映画に行ったり、なんということもないホームレス的な日常生活を描いているだけなのです。
だけどこの3人のキャラクターが実に人間味あふれて味わい深く、個々の小さなエピソードも彼らどうしの会話も立ち居振る舞いも、みな面白い。何度も声を挙げて笑ったほどで、それでいて軽喜劇というわけでもなくて、3人の男の中の兄貴分のイクチュンはさらに上のチンピラ兄貴分からヤバイ仕事に巻き込まれそうになっているし、父親の遺産でイェリの営む居酒屋の家主になっているジョンビンは癲癇もちだし、いま一人のジョンボムは北朝鮮からのわけありの脱北者で給料不払いのまま解雇されていたり、さらにマドンナ役のイェリもまた両親との過去をひきずって、いまの車椅子の父との現在があるわけだし、彼女と仲が良くてオートバイにいつも乗せてくれている詩を書く女の子はイェリに同性愛的な思慕を懐くひとであったり、社会の掃き溜めに生きる存在ならではのそれぞれの過去・現在をひきずっていて、そういう居場所のない、なにひとつ取柄のなさそうな、だけど純心で心優しい者たちがイェリに、またその居酒屋に引き寄せられるように身を寄せ合って生きている、その姿がふつうの人たちの人生、社会の姿を反転した陰画のように、しみじみと人生の一面を、世の中の一面を感じさせてくれます。
このこころやさしい三銃士を演じているのが、それぞれみな映画監督なんだそうです。その起用はみごとに成功していて、プロの俳優の演技よりもずっと自然で味のあるたたずまいや、相互のやり取りを見せてくれていると思います。
この二つのチャン・リュル監督の映画の間に、イザベル・コイシェ監督の「マイ・ブックショップ」(2017)を観ました。この映画もつくられたドラマとしては悪くなかったけれど、これをはさんだ二本の映画があまり素晴らしかったので、私の印象の中ではちょっと損をした感じでした。
でも190年代後半のイギリスの街の光景や自然に触れられたのは、英国ファンとしては嬉しい経験でした。主人公の書店を営むフローレンスはいかにもイギリス人女性という顔立ちだし、彼女を援けたいというナイト役の引きこもり老紳士ブランディッシュはいかにも英国の老紳士という風貌だし、書店員としてフローレンスを助ける少女クリスティーンもまたほんの子供なのにひどく大人びていて、取り澄ましてみえるいかにもイギリスの女の子らしい美少女だし、登場人物がいかにもイギリス人らしい役者で、それを見ているのも楽しかった。
タイトルを見た時は、「チャリング・クロス84番地」のような作品かな、と思っていたので、フローレンスが権力者のおばさんに憎まれて徹底的に苛め抜かれて、書店を開いた文化財的な住まいをも街をも追い出されていく結末にはちょっと暗然としてしまいましたし、もうひとつの驚愕の結末にも必ずしもいじめっ子のガマート夫人に対する鬱憤は晴れなかったので、それほど後味はよくありませんでしたが・・・
保守的な街で自分のセレクトした読んでほしい本を並べて街の人々の意識を変えて行こうというチャレンジングな女性の孤独な闘いを描いて、この書店の建物を買い取ってアートセンターをつくろうと、フローレンスの追い出しを謀る権力者ガマート夫人一派への「勇気あるたたかい」「勇気ある女性」を描いたというのがチラシの趣旨だけれど、突き放して見れば、フローレンスはそういう女性にしては少し脇が甘いのではないか(笑)。書店としてのありようにしても、街の人たちを味方につける戦略にしても、敵ガマート夫人に対する備えにしても、あまりに無防備で芸がなさすぎるのでは?と思わなくもありませんでした。まぁ善意の人というのは、敵意をもつ他人の屈折した悪意がなかなかわからないから、往々にして無防備になりやすいのかもしれませんが・・・
saysei at 00:07|Permalink│Comments(0)│
2019年06月27日
鈴木卓爾監督「嵐電」を観る
久しぶりに出町座で映画を見てきました。平日の午前中でしたが結構お客さんも多かった。さすがに若い人は寝てるか大学か職場かという時間だから、年輩の方がほとんどでしたが。
作品は鈴木卓爾監督の「嵐電」。京都へ来て半世紀以上、とりわけ嵯峨に住んでいた女性と結婚してからの四十年余の間は、ずっと馴染んできた嵐電を描いた作品というので、新聞でそういう映画ができると知ったときから見たいと思ってきました。
嵐電の車両の内部空間や駅やその周辺が舞台というか、それ自体が出ずっぱりの登場人物みたいに生き生きとした表情で顔を出しますが、もちろんドラマの主役は人間さまです。
登場人物は三組の世代の異なる男女。
最初は、嵐電にまつわる不思議話を聞いてまわり、本として出版する目的で京都へ一人でやって来て、嵐電の通る線路わきのアパートに下宿する四十代の男性(井浦新が演じる平岡衛星)と妻(安部聡子演じる斗麻子)。この男性は、そんな旅をつづけながら、自分が何を探しているのか自分でよく分かっていなかったようですが、京都へ来て嵐電の駅でボーッと座っていたり、かつて妻と訪れたことのある京都の旅館のことを思い出すうちに、それに気づき、失っていたものを再び見出すようです。
いつも駅のベンチにボーッと座っているような姿が印象的で、そうやってほかの登場人物とおのずと触れ合う、受身の要みたいな位置にあります。
次のカップルは、同世代の恋愛や結婚をやりすごしながら、何ごともなく過ぎていきそうな二十台後半の年齢になっても、自分に自信がなく、人と接することの不得手で、どこか硬く不器用なキャラの食堂(キネマキッチン)で働く女性(大西礼芳演じる小倉嘉子)と、彼女が出会い、巻き込まれる映画撮影現場に東京からやってきた同世代の男優(金井浩人演じる吉田譜雨)です。これが普通の恋愛映画だと軸になりそうな典型的な男女の出会と別れと再会の話になるのかもしれません。
最後に、東北(だと思う)から修学旅行に来ているグループの中のちょっと変わった女子中学生(窪瀬環演じ居る北門南天)と、彼女が好意を持って積極的に追っかける若い男性で、あらゆる嵐電駅にに出没しては嵐電車両を八ミリで撮影し続ける鉄道オタク(石田健太演じる有村子午線)です。男性のほうは全然彼女に関心を示さないのですが、彼女のほうがめちゃ積極的に彼につきまとい、おっかけして、とうとう京都へ転校してきちゃうという(笑)・・・いまふうの唐突でトンガッたキャラであり、ちぐはぐさが面白い関係性です。
という三組の世代の異なる男女のそれぞれ異なる関係性とエピソードをもった三つの軸が、嵐電を舞台に同じ時空に交錯している上、そこへ平岡衛星が拾おうとしている「不思議な話」に属する幻想的な時空間、具体的には狐の車掌と狸の駅員の最終電車が出たあとにやってくる妖怪電車の幻想的な時空が迫り出して現実と境目が分からないように重なってしまうところが、この作品に複雑なレイヤーと奥行きを与えているようです。そういう設定自体がとても現代的で面白い仕掛けになっていて楽しめます。
それぞれの男女の想いや関係性だけ取り出して見ると、実に純心純情な各世代の男女の対幻想を軸にした話で、その三つの軸が嵐電の現在の時空間で交錯する、そのベクトルの向きもバラバラな三つの軸が自然な形でやさしく交わり、人と人が出会い、触れあうように、平岡衛星自身がそういう役割を果たしたり、またカフェのマスター(水上竜士演じ居る永嶺巡)がいたりするのでしょう。マスターがほんの一言触れる嘉子の親との関りなどのシーンでも、それだけで嘉子の抱える世界が過去の時間のほうへ遡る形で奥行きを垣間見せ、いまの彼女の自信がなく他者に対していくぶん自分を閉ざした硬い表情やぎこちなさに自然につながっているといった風に・・「
しかし映像として見ていて何と言っても印象的なのは、これらの三対の男女のドラマのいたるところに「背景」として、「舞台」として顔を出し、その明かりを煌々と輝かせて走り、明るい車両内の空間をさらけ出し、また様々な表情と色合いを見せて走り去っていくいたずらっ子のような姿を見せ、或いはまた、ときにあのキツネや狸のように図々しく「ドラマの現実」世界へぬっと迫り出してくる嵐電で、まさにタイトルどおりの作品ですね(笑)。
駅名が明示されない駅でも私たちにとっては、あああの駅だ、あの片隅だ、とたいていはすぐにわかるから、京都で嵐電になじんできた観客にはたまらん映画ですわね。
私が個人的に好きなのは御室駅の嘉子と譜雨のラブシーンと、そのあと嵐電に乗り込んだ嘉子がふと気づくと譜雨の姿はなくほかの大勢の乗客たちで込み合う車内というあのシーンであったり、狐と狸のの登場する場面です。あれがどんなにこの作品を豊かに、楽しく、面白くしているか、ほんとうにワクワクするようなシーンがたくさんあります。
三つのまるで異なる軸が最初は見えないし、それぞれの軸が作品全体の複雑なレイヤー構造の中で、本来は決して交錯することのない別々のレイヤーに属しているように見えるために、個々のシーン、エピソード、登場人物がバラバラにみえて、散漫な印象を受けるけれど、異なるレイヤーにあった三つの軸が周到な設定でこの嵐電のいまの時空間で交錯する奇跡をこの作品に私たちは見ることになるわけで、それはなかなか稀有な体験だと言っていいように思います。その奇跡の瞬間にあの大好きなキツネや狸も現れるわけだし、何よりもそこへ平岡衛星の最初のほうでの視線がとらえていたように、坂の向こうから徐々にその上部のパンタグラフあたりから姿を現すようにあの嵐電の車両が登場してくるわけです。
ひとつ映画を見ると、予告編をみたりチラシを手にして、また次から次へと見たい映画があるなぁ、と思って帰ってきました。
同じ枡形商店街にある二軒の古書店も久しぶりに覗いたら、あれこれ一杯、読みたくなる本が100円から300円の間で売られていたので、ついつい肩が重くなるほど買い込んできてしまい、パートナーに見られないようにこっそりと二階の階段を上がって持ち込んだのでした。
出町座のカフェで日替わり定食をお昼に食べて帰りました。
三種のチーズのフレンチトースト(手前)と、チリコンカンという豆の料理。西部劇でよく平たい金属の更に豆の煮たのを入れて食べているけど、あれを豊かにしたようなやつですね。美味しかった。右上の小皿に入っているのは甘酸っぱい梅干し。800円で手ごろで楽しい昼食でした。
これはシソのジュース炭酸割り。これも美味しかった。
こちらはわが家のきょうの夕餉のメイン。ステロイドで落ちた筋肉を取り戻すために、鶏のもも肉を70°の低温殺菌で調理してくれて、やわらかくて、しかもパサパサにならずしっとりした美味しい蒸し肉になりました。
こちらのニンニク一個分はいった美味しいたれをつけていただきました。
ひさしぶりのモロヘイヤも美味しかった。
鯵の干物はアブラがよくのっていて、これも美味しかった。
定番になった寄せ豆腐。
同じく定番のとうもろこし(半分だけいただく)と枝豆(つい全部食べてしまう)。
saysei at 02:08|Permalink│Comments(0)│
2019年06月24日
旧三井家下鴨別邸のあじさい園
出町柳から端を渡って下鴨神社参道に入り、少し行ったところにある旧三井家下鴨別邸に寄ってきました。アジサイ園のアジサイが綺麗だと新聞記事で見たからです。3時までは無料。それ以降は410円払って建物の見学にまわれば、あじさい園も見られます。建物は見る価値があると思います。
あじさい園のほうは、わりとつつましいものでしたが・・・(笑)
でもみな咲いたら綺麗でしょうね。
池にはあじさいの花が浮かべてありました。
こんなふうにアジサイをあしらった池は初めて見ましたが、綺麗でした。
saysei at 00:28|Permalink│Comments(0)│
柄谷行人「丸山眞男の永久革命」への違和感~つづき
昨夜、雑誌『世界』7月号に掲載された柄谷行人の「丸山眞男の永久革命」を読んだときに感じた何とも言えない居心地の悪さというのか、違和感について用意もなく触れて、そのままずるずる書いたのが尾を引いて、もうひとことふたこと書いておかないと半世紀前には多少とも拾い読みしていた丸山眞男について感じていた自分(たち)の受け止め方とのあまりに大きな齟齬や、そこからくる柄谷の文章への違和感もうまく表現できないな、と思ったので、もう少し書いてみましょう。
当時、私が高校から大学入学までの時期くらい、ちょうど1960年安保が終わったころですね、言論界ではいまジャーナリズムで幅をきかせているような保守的な言説はほとんど例外的なもので(林房雄とか高坂正尭とか)、いわゆる進歩的文化人の花盛りといった状況で、まだ米ソ対立の時代で、社会主義に対する幻想も一部の先鋭な知識人を除けば、多くの市民主義的な知識人に共有されていて、共産党や社会党のようないわゆる「革新政党」に対する同伴者的な知識人、シンパサイザーが数多くいたと思います。
学校のテキストや参考書にも登場するような小林秀雄をはじめ、文芸評論家やエッセイストの文章は読んでいても、マルクスもレーニンもほとんど知らず、京都へ出てくるまで部落問題なんてのもまるで知らなかったオクテの少年として大学へ入学したとたんに、早熟な都会の新しい友人たちにあおられるようにして、羅針盤もなく手当たり次第に様々な思想的な言説に触れることになり、数多くの進歩的文化人の書くものにも目を通すことになりました。その中では、丸山眞男はあまりジャーナリズムの前面へ躍り出て軽薄に踊って見せるタイプではなく、ふだんはアカデミズムの奥の院に鎮座して、一目置かれる知識人という印象でした。
多くの進歩的文化人の書き散らすものには目を通しても、かれらの本業のほうの主著までは読む気にもならない、というのが多かった中で、丸山の著作は読んでみようという気を起こさせ、「超国家主義の論理と心理」や「日本の思想」を読んで、とても鋭利な分析だな、とそこそこ感心もしていました。
そういう「一目置く」ような存在としてのイメージが完全に崩れて、私(たち)の中で丸山が「終わった」のは、いわゆる大学闘争の時期でした。私は全共闘世代ではなくて本当は大学闘争がはじまる年には卒業しているはずでしたが、個人的な事情で転学部して卒業を延期し、学内でモラトリアムの期間を過ごしていたために、たまたま学部のストライキや学園封鎖などの事態に遭遇することになりました。
それはともかく、それ以前に私が数多くの知識人たちの言説の中で信用ができると思ってその著作を読んできたのが、理学部でもあったから、物理学者の武谷光男だったり、文系であったけれども彼を評価していた鶴見俊輔で、その鶴見が大学へ講演に来た時に、繰り返し「ヨシモトリュウメイ」という私にはまだ聞き覚えのなかった名を上げて、非常に高く評価していたのが印象的でした。それがきっかけで吉本さんの本を片っ端から読むようになり、それまでの社会主義観についても根底からゆさぶられ、自分が読んできた進歩的文化人たちがことごとく偽物だった、ということを痛感させられ、さらに「言語にとって美とはなにか」を読むにいたって、はじめてよりどころとなる文学理論にめぐりあった、という感触を得たのでした。
その吉本さんは大学人ではなかったから、大学闘争に関してはいわば遠くから、その距離感を正確に自覚した高い視点からの発言しかしていなくて、それは渦中にいる私(たち)にとって、非常に好ましい、さすがは吉本さんだな、と思えるような位置取りでした。だから井上清や羽仁五郎などもろに全共闘に寄り添い、あるいは煽ってみせるような知識人に対してはちっとも尊敬の念を持たなかったけれど、遠くから確かな目で見ている吉本さんには敬意を持ち続けていました。
吉本さんが直接大学闘争について語って記録に残っている数少ない機会の一つが、1969年の1月17日に中央大学自主講座で行われた講演の記録を掲載した雑誌「状況」の1969年3月号「大学共同幻想論」でした。
そこには丸山眞男に触れた次のような一節があります。
"私が、大学ということですぐ思い浮かべるのは、丸山真男が『現代日本の革新思想』の中で、私らのようなものを、心情的ラジカリズムとして批判している発言です。
心情的ラジカリズムを持っている連中ーたとえば評論家や編集者などーはいわば社会的な意味では無用なものという系譜に属しているから、大学教授のような社会的プレステージの高い人間に対して、劣等感を持ったり、反感を持ったりして、そういうものが自然に心情的ラジカリズムとなってくるのだといっているわけですが、そのことばはそのとき非常に私のカンにさわったわけです。
つまり、その発言の中には大学教授というものは社会的に偉いものだという無意識の思い上がりがあると思うのです。
大学教授が偉いとか、優秀であるとかいえるのは、自己の専門の学問の領域で一定年数研鑽をつんだとか、そういう意味でいえるのであって、それ以外の意味では決して偉くも何ともない。そういうところの認識が全くないということが、その当時私のカンにさわったわけですけれど、そのことが、たとえば学園闘争の中でも非常によく現れていると思います。
丸山真男はたとえばー新聞記事だからこれは話半分に聞かなければいけないがー法学部の封鎖が起った時、こういう風な暴挙は、軍国主義者もナチスもやらなかった、という風にいったそうですが、とんでもないことだと思います。
日本軍国主義が、太平洋戦争中に丸山真男の書斎にふみ込まなかったことは確かです。そして丸山真男の思想を許容し、兵隊として受け入れたということも確かです。
しかし問題は、そういう発言が自然に出てくる基盤で、この社会が通用せしめている特権に対して全く自覚的でないということだと思います。学問の専門の領域ではいかように自負を持ってもいいわけですが、しかしそのことの自負と、社会的な地位として社会で承認しているものを自分がそのまま受け入れるということとは違うということについての自覚が、全くないと思うのです。そこのところが完全に逆倒されない限り、大学紛争は続いていくだろうと思います。
そのところが一番重要なわけで、学園紛争の中に政治性というものがあり得るとすれば、社会の秩序が容認するものを無意識のうちに容認するか否かという極めて感性的な問題の次元で最もラジカルに出ているのだと思われます。”(吉本隆明「大学共同幻想論」『情況』1969.3)
当時、吉本さんが触れた『現代日本の革新思想』も確認のために読んだ記憶があります。それを読んだときに、私の中で丸山眞男は完全に「終わった」と言っていいでしょう。それは彼が専門領域でどんな業績を残しているとか、数多くのしょうもない進歩的文化人の中では一目置いてしかるべき政治的な洞察力や豊かな教養を持った知識人だということとは(構造的に根っこを掘って行けば無関係ではないけれども)かかわりなく、そこで彼が思わず漏らしたホンネのひとことだけで、彼が物書きとして書いてきたこと、言ってきたことがすべてパァになった、と当時の私(たち)には確信できました。
よく自民党の大臣などつとめる有力な政治家が、自分の支持者の集まる集会などで調子にのって喋っているときに、思わずポロリと漏らすホンネが、いまでいうヘイトスピーチにあたるような、民族差別や男女差別などポリティカル・コレクトネスに反するような意識まるだしで、野党やジャーナリストからやり玉にあげられて、いや本心ではない、「誤解」を招くような発言をしてしまって、などとしどろもどろで弁解して、結局撤回したり、辞任に追い込まれたりすることがありますが、緊張感のある公的な場ではタテマエでしゃべっていても、自分の気心の知れた連中と気軽な座談などしているときには、つい気が緩んでふだん思っているホンネが出てしまうのは、政治家ばかりではないのでしょう。
かえってそういうときに漏れるホンネのほうが、抽象的な論理で武装した言葉とは違って、その人のふだんのものの感じ方や考え方、偏見や差別意識など、いわば否定的、劣情的な側面を正直にあらわにしてしまうものです。
吉本さんが引いた丸山眞男の座談でのその発言は、彼の人間性を正直に暴露し、その思想の根っこに、どんな人間観、社会観があるか、を明らかにしてしまったのです。
”もう少し微視的に個々人を見てみると、こいうラディカルは政治的ラディカルというより、自分の精神に傷を負った心理的ラディカルが多いですね。その心の傷は、ある場合には党生活のなかでの個人的経験に根ざしているし、ある場合には戦中派の自己憎悪に発しているし、ある場合は、俺は一流大学を出て本来は大学教授(?)とか、もっと「プレスティジ」のある地位につく能力をもちながら、「しがない」「評論家」や「編集者」になっているという、自信と自己軽蔑のいりまじった心理に発している。”(梅本克己・佐藤昇・丸山眞男『現代日本の革新思想』における丸山発言)
こういう発言をする人物を、私(たち)は、決して人間として尊敬も信頼もできないし、思想について語る資格などない、と考えてきました。
結局、どんなに専門領域で業績を上げた人であっても、抽象的な論理の言葉で高度なことを語っている人であっても、自分の生き方とそうした仕事や人間として多元的に生きて感じ、考え、行動して、人と向き合っている中でとっている姿勢とが一貫して、きちんと結びついているようでなければ、それは本当にその人の思想であるとは言えないわけで、どんなに気の効いたことを言い、どんなに偉そうなことを言っても、結局は文明開化でヨーロッパの意匠を借りて偉くなったつもりの鹿鳴館知識人たちと何も変わりはないわけです。
日本の知識人というのはごくおおざっぱに見れば、ずっとそういうことを繰り返してきたので、本当に思想が一人の人間の血となり肉となり、根付いた、と言えるようになるのはいつのことか、というのが、ペイペイの学生だった私たちにも共有されていた思いで、知識や経験でどんなに敵わない知識人たちに対しても、内心ではある種の侮蔑感を懐き、決してその知識ゆえにその人物や思想を信頼したり尊敬したりしていなかった私(たち)の傲慢さにも、それなりの根拠があったのだと思います。
以前にも書いたことがありますが、ずっと後に私が家庭をもち、小学生の息子たちが近所の小さなレストランのご亭主や彼に賛同するもと父兄のオジサンたちの指導してくれるサッカーチームで面倒をみてもらっていたとき、その指導者の姿に心から感動して話していたとき、以前の職場で割と頻繁に一緒に仕事をしていた、当時たしか既に大学の講師か何かになっていた人が、「世の中でしかるべき社会的地位につけない人が、そのルサンチマンをそういうボランティアとかで頑張っちゃうケースがよくあるよね」という風な意味のことを言って、私のその指導者に対する尊敬の念に冷水を浴びせて、価値を低めるような言い方をしたので、カチンとくると同時に、あぁこの人はふだんは気の利いたことを言ったりもできる頭の悪くない人だけれど、人間としてはダメだな、人を見る目、人と接する姿勢、思想の根っこが腐っている人だな、と感じたことをいまも記憶しています。
丸山の発言を知ったとき、私(たち)はまだ20歳そこそこの青二才で、無知で未熟で、丸山が誇るような知識も知力も持ち合わせていなかったけれど、いわゆる知識人だの文化人だのと言われる人たち、物書きに対する一読者としての判断において、この人は人間として、物書きとして信頼できるかどうか、尊敬できるかどうか、要は「ホンモノ」か「ニセモノ」か、という判別に関しては、きわめて鋭敏で容赦なかったと思います。
私たちが自分の所属する学部の教授たちと話し合う場(丸山のいう「つるしあげ」に近いのもあったでしょうが・・笑)で教授たちに詰問し、やりとりする中で私(たち)が半ばあきらめながらも、あれでも一人二人、まともな人がいないか、と期待して待っていた反応というのは、まさに吉本さんが指摘しているような、「社会的な地位として社会で承認しているものを自分がそのまま受け入れ」ていることを自分の人間としてのありようとして、どう考えているのか、ということに対する真摯な答であり、それはその人の人間としての生き方、ものを感じ、考え、行動していく人間としての一番根本の姿勢がどうなのか、というきわめて素朴で端的な問いかけだったのですが、何十人も居並ぶ錚々たる教授陣の中で、私(たち)の期待にわずかでも答えてくれた人は、ただの一人もいなかったのです。
自然私(たち)は自分たちが直接知らない遠い存在へと書物をたどることになるわけですが、そこで出会った人の中でも、辛うじて信用のできる物書きとおもえたのは鶴見俊輔や江藤淳、あるいは吉本隆明のような指折り数えてあとが続かないほどわずかな人たちに過ぎませんでした。丸山眞男はそういう意味では上記の発言ひとつで完全に思想家としては失格でした。
丸山のこのときの発言と吉本さんの批判については、後日、まだ大学闘争のさなかというか余燼くすぶる中でのことでしたが、作家でもあり、まだ確か大学にも助教授として籍を置いていた高橋和巳を講演に来てもらったとき、高橋さんはそのことに触れて、「吉本さんの批判はまっとうなもので、丸山さんは当然応えるべきだったが、なにも応えないまま逃げて逃げて、とうとう逃げおおせてしまった。そうやって逃げることができたのは丸山さんがアカデミズムの中にいるからであって、これが私のいる文壇のような民間の物書きの世界であれば、もうその世界では生きられない、死を意味するはずです」という意味のことを語っていました。
言葉はもちろん正確に記憶していないし、どこかの雑誌社が掲載したいと言ってきたことがあったので、どこかに記録が残っているのかもしれませんが、なぜ覚えているかというと、私がたまたま高橋さんを呼んだ学生グループの端くれに属していて、その講演の録音テープ起こしを自分で担当したからです。
高橋さんのこの発言はとても印象に残りました。「憂鬱なる党派」や「邪宗門」はある意味で楽しんで読んでいたけれど、作家として好きというわけでもなく、またしかるべき敬意をもっていたとも言えず、学生にシンパシーを感じ、それを明らかにもしてくれていた数少ない教官の一人ではあったけれど、そのことを特別ありがたいとも思っていませんでしたが、先の彼の言葉を聞いて、あぁ、彼もさすがに作家だな、アカデミズムの奥の院であぐらをかいていたような教授連中とは一味ちがったな、と好感をもって聞いていました。
その後彼は大学の職を辞し、作家として生き、短い生をまっとうしました。たしか梅棹忠夫だったか、高橋和巳は作家などやめて中国文学者一本の研究者になるべきだった、とそれは彼の学者としての資質に好意的な立場から言っていたのをどこかで聴いたか読んだかしたことがありますが、私はそうは思いませんでした。もちろん彼が中国文学の一研究者として生涯を終わろうとかまわないわけだけれど、彼自身はそれを逃避であり、文学者としての死だと感じただろうと思うだけです。
いま丸山眞男の遺した3冊の私的メモのようなノートを編纂した『自己内対話』など読むと、丸山が大学闘争の渦中にあって、まったく自分の置かれた状況もその意味も分かっていなかったことが無惨なほどよく見えてくるような気がします。彼は闘争の中で飛び交う言葉のエモーショナルな側面を毛嫌いし、自己否定なる合言葉やノンセクトラディカルが自分たちを非政治的だと思っているなどと誤解と偏見に満ちた目で毒づき、大衆を語る者は大衆に媚びへつらい、すり寄る者としてそこにポピュリズムを見、みずからが「現代日本の革新思想」で語ったような特権を享受していることに無自覚なまま、「東大教授」であるがゆえに不当に攻撃されていると錯覚しては憤る、といったありさまで、今読めば目を覆いたくなるような混乱ぶりです。
もっとも、激動期の渦中に生きる者はだれしもそうした或る程度の錯乱は避けられず、今時分が生きている現実の意味を同時に透徹した目で見定めることは困難だと言えば言えるかもしれません。丸山ほどの知性でも、それは避けられないことなのでしょう。
彼は自らその渦中にある「大学紛争」についてこんな風に書いています。
「大学紛争はナショナルには社会問題であり、東大についていえば、管理運営の欠陥の問題だ。すくなくとも研修医問題からはるかに範囲をひろげた東大紛争はプライマリリーにそうである。」(『自己内対話』)
そうして彼は、「なぜこういう自明のことをいうか」として、”「師弟関係の崩壊」とか「研究者・教育者の自己否定をかけたたたかい」とか、あまりにもモラリスティックな発想が、まさに「良心」を自任する教官にも、またイデオロギー的にはそうしたモラリズムに全面的に否定的に立ち向かう筈の共闘会議の学生にも氾濫しているからである””と釈明しています。
彼が否定的に語る、その「モラリスティックな発想」がなぜここで必要だったのか、彼に何が問われているのか、残念ながら丸山にはまるで理解できなかったのです。
これを先の吉本さんの認識と比べて見れば、大学とは遠く距離を置いていながら鮮やかに示された、吉本さんの認識がいかに透徹したものであったか、いまではだれの目にも明らかでしょう。
”学園紛争の中で、私が思想的に一番着目している点は、いわゆる戦後民主主義者ーつまり市民主義者あるいは進歩主義者ですがーがちょうど教授とか助教授という形で、学園紛争に関与しているわけですが、その連中が、戦争中から戦後にかけてみがいてきた自分の思想にいかに耐えるか、あるいはいかに対応するかとということです。
いいかえればそれは、市民主義者、戦争中の一種の二重主義者ーつまり人殺しはやりたくないと心の中で思いながら、鉄砲かついで戦争に行ったという連中ですが、そういう連中が戦後にすべり込む過程において、いかに自分の戦争体験を思想的に咀嚼し、戦後二十年をやってきたかが問われている試金石であると思います。”
これを私的なノートの言葉とはいえ、大学紛争は「東大についていえば、管理運営の欠陥の問題だ」としか言えない丸山と比べて見れば、凡庸な大学の管理者としての管理主義的な視点と思想家としての高い視点の違いは誰の目にも明らかです。
こうした視点の高さ、透徹した事態の本質への眼差しを持っていた知識人は、私(たち)の知る限り吉本さんを措いてほかにはありませんでした。私たち渦中にあった学生が、党派に属してその影響下にあったもの以外は、身近な教授たちや自分たちにすり寄ってくる味方づらした知識人、文化人の類ではなく、またいわゆる全共闘のリーダーのように目されていた東大や日大のリーダーたちの言よりも、自分たちから遠い距離にありながら、そのことを自覚した上でこうしたみごとな認識を示す吉本さんの言葉のほうにはるかに信を寄せ、いつもその声に耳を傾けようとしていたことは当然でした。
吉本さんは上記の言葉につづけて、もう結論まで語り切ってしまっています。
”私は、戦争中から戦後にかけて、彼ら(引用註:市民主義者)とは全く違う位相にあるわけですが、しかし、その連中が、自分なりの市民主義原理で思想的にある場合に頑強に学生に立ち向かい、ある場合には市民主義原理を固守する形で、たとえ一人であってもそういう見事な形で自分の思想を提唱する人があったらというのが、私などの秘かな願望であったわけです。
しかし、そういう希望は無残に砕かれたという感じを持っています。つまりそれは、どたん場において、最もラジカルな部分を警察機動隊に売っておいて、学園紛争を収拾しようとする技術的な態度をとったことで、思想原理、つまり市民主義原理が完全に放棄されたという風に私には思われます。”
こうして彼は、”戦後民主主義は、現在の学園紛争の中で、思想的に完全に終ったといいっていいのではないかと私は考えています。”と引導を渡しています。
丸山は「知識層の役割。」と項目を立てたメモにおいて、「社会の異議申し立て人であること・・」云々と書いて、サルトルの定義を一瞥したのち、「知識人は社会的・政治的関心が例外的に高い階層である。・・・」云々と知識人前衛論的な発想の言葉がつづきます。そして、”知的エリートが管理者のなかにくみこまれる傾向がますます一般的であればこそ、「異議申し立て」階級としての知識層の役割は大きくなる。それも、社会を「動かす」には大衆運動との結合が不可欠だ。知的指導なき大衆のエネルギーは盲目であり、大衆のエネルギーに支えられない知的指導は空転する。」と非常に古典的な前衛、後衛の二分法を前提にした組織論めいたことが書かれています。
丸山は大衆におもねるポピュリズムを批判する箇所では、知識人も民衆の一人なんだぞ、と言いながら、知識人の役割を論じる箇所では、そのうちなる「民衆」と知識人をうまく内在的に接合することができず、「知識層の役割」を民衆の概念とは無関係に規定しています。その上で組織論として前衛としての知識層と大衆運動をつなごうというわけです。これはほとんど、戦前以来の共産党などの前衛論と同じで、知識層が「社会の異議申し立て人」として前衛的役割を果たし、いまだ目覚めぬ大衆を目覚めさせ、そのエネルギーを「知的指導」で導いて社会を「動かす」というポンチ絵的な構図です。
これも吉本さんの、知識人の役割は大衆の原像を繰り込むことだ、という言い方と比較してみれば、民衆なり大衆と言われる存在への二人の向き合い方の違いがよく分かるのではないかと思います。
柄谷の書いたものでは、丸山眞男は市民主義者ではなくて、社会主義者で、彼がずっと関心をもっていたのはマルクス主義だということで、講座派を継承するもの、というふうな前回書いたように私には奇妙に思える規定をしているわけです。
たしかに「自己内対話」にも、こんな言葉が遺されています。
”私はどのような意味で社会主義者であるか、もしくはありたいか。”(註:下線部は原文では傍点)
彼は社会主義者である、という自己規定をしていたか、そうありたいと願望していたのでしょう。でもそのことを今の時点であまり重くみるのはどうかと私は思います。
当時はまだ日本の進歩的文化人の間で社会主義に対する幻想が消えてしまったわけではなく、むしろ大盛況だったわけで、いまのように保守的な言論が幅を利かせているような状況とはまるで違っていたわけです。
敗戦直後のことだったでしょうか、なんと三島由紀夫までが小田切秀雄だったかに、共産党に入らないか、と大真面目に誘いの言葉をかけられた、と三島自身が嬉しそうに語っている(書いている)のを読んだことがあるくらいです。猫も杓子も、天皇制ファシズムのもとでも節を曲げなかった指折り数えるほどの共産党員をほめそやし、社会主義に希望を見ていた時代だった、と言ってもいいでしょう。
丸山にしても、そういう共産党員への個人的な尊敬の念と、民衆の前衛であり指導組織としての共産党など革新政党の理念と実践、組織のありようといったものとは区別してしかるべきで、後者は冷静な批判を免れるものではない、といった批判は展開したものの、吉本さんらがやっていたようなそれら既存の前衛党派やその理念に対する本質的な批判を展開できたわけでも何でもありませんでした。
その意味ではほかの同伴者的な市民主義的進歩的文化人と何ら変わりはなかったのです。それを今の時点で彼に「社会主義者である」あるいは「でありたい」という願望があったからといって、他と区別する主格助詞「は」を使って、"丸山「は」社会主義者であった"、と言えばむしろ虚偽に近くなるのではないか。"丸山「も」他の多くの、当時は知識人のほとんどがそんな雰囲気であったところの「社会主義者」だった"、というのなら分かりますが(笑)。
それに、私は丸山には潜在的な大衆嫌悪のホンネがあったのではないか、と思っています。
直接丸山が言葉で大衆嫌悪を表明しているわけではないけれど、「自己内対話」を通読して感じるのは、彼には潜在的か顕在的かは分からないけれど、大衆嫌悪があったのではないかと感じられるのです。文字面だけ追えば、いや彼は大衆を嫌悪したわけではなく、「民衆は偉大だとか、民衆の力を評価せよ、とかいう日本のインテリのポピュリズム」を嫌悪しただけだ、ということになるかもしれません。
それは、この引用句につづく ”・・・「民衆」にすりよってくるインテリにたいして、民衆が示す反応はおそらくあの「悪女の深情け」へのやりきれなさに似ていないか。”というような言い方によく現れているような気がします。大衆嫌悪をもたない人間には、こういう民衆のありようの譬え方はしないものだと、私には直観的に思えます。
彼は西欧文化にあこがれ、優秀でもあったから、研鑽を積んでその文化を消化し、少なくとも頭だけはどっぷりひたって、そこから日本社会を考え、その特異性や遅れを的確に指摘することができた、典型的な日本型知識人、文明開化の頃の紳士淑女よりははるかに洗練されてはいたかもしれないけれど、やっぱり本質的には鹿鳴館型知識人の典型だったと私などは思っています。
今回彼の遺した『自己内対話』を読んでいて面白かったのは、東大闘争の渦中に共闘会議の学生たちに拉致されたときのエピソードを記した箇所。
”私の眼前に座を占めているのは、あとできくと、文学部の院生が多かったようだが、もっともひどい言葉を使ったのはこの連中である。たとえば「そろそろなぐっちゃおうか」「ヘン、ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」等々。”
この「ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」には思わず笑ってしまいました。しかも、丸山眞男はその2ページほどあとで、帰宅して一人で寝室で横になって興奮さめやらず今日あったできごとを回想している場面でこう記しています。
”興奮が醒めないためか、精神的にはむしろ闘志が湧いて、それほどミゼラブルな気持がしなかった。ただ、いかに見知らぬ学生とはいえ、さきの「ベートーヴェン云々」の言葉に現われているような、むき出しの憎悪の表情にとりまかれたのは、これが初めての経験である。”・・・
ここでもう一度「ベートーヴェン云々」が登場するのが興味深い。ふつうはこれ、どちらかと言えば「なぐっちゃおうか」のほうが「むき出しの憎悪」をより強く表現する言葉のように思うし、そっちが先に出てきそうだけれど、丸山は「ベートーヴェン云々」のほうを、「むき出しの憎悪」の象徴のように挙げています。
たまたまかもしれませんが、なにか彼の心理の影が読み取れるようなところです。
もちろんベートーヴェンを聞きながら学問しようが、都はるみや美空ひばりを聞きながら学問しようが好きにすればいいわけですが(笑)、丸山は決して都はるみや美空ひばりを聞きながら学問はしなかったでしょう。彼は西洋のクラシック音楽に造詣が深く、たしか一冊音楽に関する著書か何かあったと思います。半端な趣味程度のものではなかったのでしょう。それもこれも、彼の西欧文化への憧憬の強さ、深さ、彼のなじんだ教養の源がどこにあったか、彼の資質的な志向がどういうものだったかを如実に示すものだと思います。それは文明開化以降の日本のすぐれた教養的知識人の典型みたいな資質、志向のありようだったのではないでしょうか。
柄谷がマルクスの方法にならって、小さな差異に着目して全体の評価を転倒させるような方法で、丸山眞男を単に西洋文化に憧れ、その目線で遅れた日本社会を批判した市民主義者、進歩的文化人ではなく、社会主義者として講座派の跡を継ごうとした者であった、というのは、こういった丸山眞男のトータルな人間のありようを考えれば、やっぱりそのトータルな人間のコンテクストを無視してその一部の特徴を無理に引っ張り出してきたもののように思えてなりません。
小さな差異に着目して、これを梃子に全体の評価を転倒させるのは、なにもマルクスゆずりの柄谷の専売特許というわけではなくて、まっとうな思想家はみんな先人たちの思想を継承する中でそうすることで自分の思想を生み出してきたのだと思います。それで不思議に思ったのは、吉本さんもマルクスの初期の著作、経哲手稿に記された自然哲学を読み込むことで、そこでマルクスが見出した人間と自然の相互関係を表象するものとしてあらわれる疎外の概念を武器に、マルクスの思想全体を読み替えていったことは周知のことだし、当然柄谷も知っているはずですが、奇妙なことにあるとき柄谷が書いたたしかライプニッツだったかに触れた文章で、なんだか吉本さんの思想についても主体性というキーワードのもとで初期マルクスを再評価するような世界的な気運の中に位置づけてしまうかのような書き方で言及したものを読んだことがあって、今回一所懸命掲載誌を探したのですが、残念ながら見つけられず、ここに証拠を出せません(笑)が、なぜ丸山については小さな差異に着目して、吉本さんについてはそういう通俗的な括りにしてしまうのか、不思議に思ったのでした。もちろん、マルクスを後期と初期に分けて初期の疎外論を評価するようなタイプの思想とは、吉本さんの思想はまるで違うことは吉本さん自身がまさにマルクスを論じる中で既に明確に語っていることで、そういう閉じた思想と同一視することはまったくの錯誤に過ぎません。
さて元へ戻って(笑)、現代の鹿鳴館型知識人たちが西洋文化に恋焦がれて、というのは、むろん良い、悪いの問題ではないので、単に個人の趣味の問題、恣意性の問題に過ぎないのではあるけれど、そうやって舶来の知識を取り込み、豊かな教養を身に着け、知的に上昇していくこと自体を至上の価値のようにみなしていく日本的な鹿鳴館型知識人のありよう自体に自覚的でなければ、仕入れた借り物の知識、技術、思想を自分が自分のよって立つ大地の土をこねて作り上げたもののように錯覚し、その基準によってやがて「遅れた」日本社会を見下し、その「特異性」を云々するだけのありふれた進歩的文化人に成り下がるだけのことで、その言辞にどんなに鋭利な分析があり、気の利いたセリフを吐いたとしても、日本社会の現実の岩盤にまるで一振りの鍬の跡もつけることができず、精神の肉体を持たない空虚な言葉の戯れに興じるだけの亡霊のような存在にすぎないものになっていくだけでしょう。
そして、そういう人間ほど、ただ日々の生活の中へ自らの思想性を還していく大衆をも、内心では嫌悪し、見下すものだろうと思います。
「ヘン、ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」という、たしかに憎悪むきだしの侮蔑の言葉は品のない罵倒だけれど、現代の鹿鳴館型知識人への揶揄としてみれば、まんざら当っていなくもないし、それを聞かされる側はへそのあたりで人知れず隠し持っていたものだけれども、思い当たるところがあるために、余計に侮辱として「こたえる」ものだったのではないかと思います。
知識人の大衆嫌悪のホンネはふだんは抽象的な論理の言葉の影に隠されて明かされることはないもののようだし、ことにそれがリベラルな言辞を弄する人の場合は、いっそう秘されているものなのでしょうが、ときにその種のホンネが明かされ、驚かされることがあります。
”マスとかいわゆる一般大衆というかいうものとは関係なしに生きたいと思う瞬間というのは、たぶん皆さん方にもあるかもしれないし、私には完全にあるわけです。これは主義主張の問題じゃあなく、アレルギーみたいな病気です。朝、電車を待っていますと、「10パーセントの飴の確率」という予報にごく忠実に慎ましく傘をかかえた人たちが電車のホームをうずめつくしている。これがまず気に入らない。そのうち必ず一人くらいは傘を逆さにして何かゴルフのスイングみたいなことを始めるわけですね(笑)。で、ああいう連中と同じ電車に乗るのは絶対に恥であるから家に帰ろうと思うわけですけれど、帰りません。やはり、どこかで妥協しているというところがあります。しかし、自分が一日をつつがなく生活するには、こんな人たちの姿が見えないようなところで暮らせたらなあという夢があるわけです。けれども、それはまあ誰もが持っている排除と差別への誘惑という程度のことであって、それを主義として論陣を張ろうというものではないわけです。”(蓮實重彦「物語の時代」GSfile)
実はこの引用は、吉本さんの出していた雑誌『試行』の1986年2月に掲載されたのを『完本 情況への発言』にまとめられたのを孫引きしました。昨日、丸山眞男の『現代日本の革新思想』での発言をたしか吉本さんが試行の情況への発言でも取り上げていたのではなかったか、と思って、この本のページを繰って探していたら、探し物はみつからずに、たまたま見つけた中にあって、読んで、とうに忘れていたけれど、蓮實がこんなことを言ってたんだ、と思い、やっぱりな、という感想を持ったので、先の丸山眞男の潜在的な大衆嫌悪みたいなものと同じ意味で引用してみたのです。
吉本さんはこういう引用をして蓮實さんを批判したり否定したりしているわけではありません。ただ、なんか気の毒だね、こんなことを思いながらやってるなんて、大変だよな、と同情しているというか(笑)、自分とあまりにも真逆な大衆への姿勢に呆れているというか(笑)そんな感じがする引用の仕方だったと思いますが、私はこういうホンネをもらすような人が、どんなリベラル風な口をきいても、民衆がどうの大衆がどうのと言っても、全然信用できません。
ついでに思い出したから書いておくと(笑)、吉本さんが亡くなったとき、なにかの雑誌で追悼の特集があった中に蓮實重彦も短い文章を書いていて、追悼らしからぬ文章だったけれど、ほかにも同じ趣旨の彼の書いたものを読んだ記憶がありますが、そこでも彼は吉本さんの「言語にとって美とはなにか」で打ち立てた理論に、それが出された当初の蓮實の受け止め方を回顧するような形で、そこに当然考慮さるべき(ソシュールに由来する)「差異」の概念が欠如していて驚いた、あるいは呆れた(?笑)といったニュアンスの文言が連ねられていたので、しつこいやつだな、と読むこちらのほうが呆れた記憶があります。
だいたい、吉本さんがドゥルーズだのデリダだのフーコーだの舶来流行の花々の間をきょうはこちら、明日はあちらと飛び回って「差異」か何か知らないが美味そうな蜜を集めてまわり、自分が創り出したものであるかのように吹聴してはしゃぎまわるなどと思うほうがどうかしています。文明開化の時代のような野暮な紳士淑女ではなく、現代でははるかに高度に洗練されているかもしれないけれども、そういう日本型知識人の伝統を固く守る鹿鳴館的紳士淑女はいまだにたくさんいるけれども(笑)、吉本さんが最初からそういう横文字好きの連中とは縁もゆかりもないことは誰もが知っていることです。
そう言えばもとに戻って柄谷行人も、誰かとの対談の記録だったか、忘れてしまったけれど、柄谷が吉本さんと個人的に話したときに、彼自身が「言語にとって美とはなにか」を書いたときに、ソシュールを十分理解していなかった、と率直に認めていましたね、などと語っているのを読んだことがあります。
あれも故意か偶然かは知らないけれど、ずいぶんミスリーディングな言い方というのか、個人的エピソードの披露の仕方だな、といぶかしく思いました。周知のように、吉本さんはのちに『ハイ・イメージ論』の拡張論において、ソシュールの言語学とみずからの言語美の理論とを丁寧にすり合わせて論じています。それを読めば、吉本さんが「言語にとって美とはなにか」を書いた時にまるでソシュールを理解しそこねて、後でそれを悟って、自分は理解しそこねていたね、と語ったかのようにも聞こえるのが、まったく嘘というのか、ほとんど誤解を与えるための言い草に聴こえます。
もとよりまっとうな思想が展開されていくとき、それまで触れあわなかった新たな思想に遭遇し、あるいは新たな現実の出来事に遭遇して影響を受け、遺伝子の組み換えのように交叉しあって新たな思想的展開にいたるとしても、それは現代でも鹿鳴館型知識人がやっているような、あっちの思想のほうが新しそうで流行の舶来思想だから、あっちに飛び移っちゃう、などというものでないことは明らかであって、自分がそれまでの思想をはぐくんできた延長上に、どう新たな出会いの契機を取り込んでいくか、という課題として取り込まれていくものでしょう。
だから、よく吉本さんの言語論にフランス舶来の差異概念がない、なんて欠陥のように言う者があるけれど、まったく馬鹿げたことで、いつも借り物の出来合いの概念でしか物事を考えてこなかった、そしてそういう最新流行の舶来概念をいち早く輸入して振りまくことをアドバンテッジと心得ているような連中だけがそんなことを言うのだと私などはずっとみてきました。
それにしても、ソシュール理解が間違っていたよ、あれはほんとは正しかったんだね、おれ間違ってたから修正しといたよ、なんて簡単なものでなかったことだけは確かで(笑)、ましてやハイ・イメージ論が出た後で柄谷があんなことを言ったのだとしたら(その前後関係は知りませんが)まったく故意にミスリーディングなことを言ったことになってしまうでしょう。
ずっと以前にやはり「情況への発言」の中で、吉本さんが柄谷を批判したことがあって、それは吉本さんが柳田国男全集の月報だったかに「無方法の方法」という短い文章を書いたのに触れて、吉本が柳田の方法を「無方法の方法」と呼んだが、自分はそうは思わない、柳田は体系的ではないけれども、そういう叙述形式とは別に、一貫した内的な体系があり、方法がある、という主張を展開したのに対して、その書きぶりについて「詐術」に等しいとかなり手厳しい批判をしていました。その末尾に「わたしは戦術や小才だけで、文学の世界をわたり歩く文学者の失墜を信じて疑わない。」とあって、これを半世紀近く前に読んだときは、何のことかよくわかりませんでした(笑)。
当時の柄谷はまだ若く、なんとなく上から目線でえらそうな人だな(笑)という印象はあったけれども、マクベス論などをおさめた「畏怖する人間」だったか、読んで面白いなと思っていたので、こういう言い方で吉本さんが叩くのはちょっと意外に思えたのです。もちろんその後、吉本さんが彼の優秀さも認めたうえで、直接にも面識があるらしい若い批評家を叱咤激励するような意味合いで叩いていたんだろうな、とは思いましたが・・・。
しかし、あれから4,50年たって、みな歳をとり、吉本さんが亡くなってしまってから、なぜ丸山眞男論なんだろう?(笑)。いや、そういえば近年、生後何周年とか没後何周年とか、いや海外に紹介するためとか、いろいろ現実的なきっかけはあるのでしょうが、丸山眞男や花田清輝をとりあげる企画が少なからずあったり、それも大抵はそのついでに、彼らの生前、思想的な敵対者であった吉本さんを(彼らを今の時点で対等に扱うことによって間接的に)相対的に価値を低めるような言説を陰に陽にその言説の中にもぐりこませるようなのがあったり、吉本さんの名を直接挙げずに、吉本さんが生前よく言っていた「自前の思想」を揶揄するようなことを言ってみたり、なんだかそういう輩が多くなりましたね。自分でみっともない、と思わないのでしょうか・・・。
私などは、ああ、またゾンビが一人甦って来たか(笑)・・・と思って見ていますが。私はホラーは嫌いで、とくにゾンビは大嫌いなので、これ以上はおつきあいしかねますが(笑)・・・
当時、私が高校から大学入学までの時期くらい、ちょうど1960年安保が終わったころですね、言論界ではいまジャーナリズムで幅をきかせているような保守的な言説はほとんど例外的なもので(林房雄とか高坂正尭とか)、いわゆる進歩的文化人の花盛りといった状況で、まだ米ソ対立の時代で、社会主義に対する幻想も一部の先鋭な知識人を除けば、多くの市民主義的な知識人に共有されていて、共産党や社会党のようないわゆる「革新政党」に対する同伴者的な知識人、シンパサイザーが数多くいたと思います。
学校のテキストや参考書にも登場するような小林秀雄をはじめ、文芸評論家やエッセイストの文章は読んでいても、マルクスもレーニンもほとんど知らず、京都へ出てくるまで部落問題なんてのもまるで知らなかったオクテの少年として大学へ入学したとたんに、早熟な都会の新しい友人たちにあおられるようにして、羅針盤もなく手当たり次第に様々な思想的な言説に触れることになり、数多くの進歩的文化人の書くものにも目を通すことになりました。その中では、丸山眞男はあまりジャーナリズムの前面へ躍り出て軽薄に踊って見せるタイプではなく、ふだんはアカデミズムの奥の院に鎮座して、一目置かれる知識人という印象でした。
多くの進歩的文化人の書き散らすものには目を通しても、かれらの本業のほうの主著までは読む気にもならない、というのが多かった中で、丸山の著作は読んでみようという気を起こさせ、「超国家主義の論理と心理」や「日本の思想」を読んで、とても鋭利な分析だな、とそこそこ感心もしていました。
そういう「一目置く」ような存在としてのイメージが完全に崩れて、私(たち)の中で丸山が「終わった」のは、いわゆる大学闘争の時期でした。私は全共闘世代ではなくて本当は大学闘争がはじまる年には卒業しているはずでしたが、個人的な事情で転学部して卒業を延期し、学内でモラトリアムの期間を過ごしていたために、たまたま学部のストライキや学園封鎖などの事態に遭遇することになりました。
それはともかく、それ以前に私が数多くの知識人たちの言説の中で信用ができると思ってその著作を読んできたのが、理学部でもあったから、物理学者の武谷光男だったり、文系であったけれども彼を評価していた鶴見俊輔で、その鶴見が大学へ講演に来た時に、繰り返し「ヨシモトリュウメイ」という私にはまだ聞き覚えのなかった名を上げて、非常に高く評価していたのが印象的でした。それがきっかけで吉本さんの本を片っ端から読むようになり、それまでの社会主義観についても根底からゆさぶられ、自分が読んできた進歩的文化人たちがことごとく偽物だった、ということを痛感させられ、さらに「言語にとって美とはなにか」を読むにいたって、はじめてよりどころとなる文学理論にめぐりあった、という感触を得たのでした。
その吉本さんは大学人ではなかったから、大学闘争に関してはいわば遠くから、その距離感を正確に自覚した高い視点からの発言しかしていなくて、それは渦中にいる私(たち)にとって、非常に好ましい、さすがは吉本さんだな、と思えるような位置取りでした。だから井上清や羽仁五郎などもろに全共闘に寄り添い、あるいは煽ってみせるような知識人に対してはちっとも尊敬の念を持たなかったけれど、遠くから確かな目で見ている吉本さんには敬意を持ち続けていました。
吉本さんが直接大学闘争について語って記録に残っている数少ない機会の一つが、1969年の1月17日に中央大学自主講座で行われた講演の記録を掲載した雑誌「状況」の1969年3月号「大学共同幻想論」でした。
そこには丸山眞男に触れた次のような一節があります。
"私が、大学ということですぐ思い浮かべるのは、丸山真男が『現代日本の革新思想』の中で、私らのようなものを、心情的ラジカリズムとして批判している発言です。
心情的ラジカリズムを持っている連中ーたとえば評論家や編集者などーはいわば社会的な意味では無用なものという系譜に属しているから、大学教授のような社会的プレステージの高い人間に対して、劣等感を持ったり、反感を持ったりして、そういうものが自然に心情的ラジカリズムとなってくるのだといっているわけですが、そのことばはそのとき非常に私のカンにさわったわけです。
つまり、その発言の中には大学教授というものは社会的に偉いものだという無意識の思い上がりがあると思うのです。
大学教授が偉いとか、優秀であるとかいえるのは、自己の専門の学問の領域で一定年数研鑽をつんだとか、そういう意味でいえるのであって、それ以外の意味では決して偉くも何ともない。そういうところの認識が全くないということが、その当時私のカンにさわったわけですけれど、そのことが、たとえば学園闘争の中でも非常によく現れていると思います。
丸山真男はたとえばー新聞記事だからこれは話半分に聞かなければいけないがー法学部の封鎖が起った時、こういう風な暴挙は、軍国主義者もナチスもやらなかった、という風にいったそうですが、とんでもないことだと思います。
日本軍国主義が、太平洋戦争中に丸山真男の書斎にふみ込まなかったことは確かです。そして丸山真男の思想を許容し、兵隊として受け入れたということも確かです。
しかし問題は、そういう発言が自然に出てくる基盤で、この社会が通用せしめている特権に対して全く自覚的でないということだと思います。学問の専門の領域ではいかように自負を持ってもいいわけですが、しかしそのことの自負と、社会的な地位として社会で承認しているものを自分がそのまま受け入れるということとは違うということについての自覚が、全くないと思うのです。そこのところが完全に逆倒されない限り、大学紛争は続いていくだろうと思います。
そのところが一番重要なわけで、学園紛争の中に政治性というものがあり得るとすれば、社会の秩序が容認するものを無意識のうちに容認するか否かという極めて感性的な問題の次元で最もラジカルに出ているのだと思われます。”(吉本隆明「大学共同幻想論」『情況』1969.3)
当時、吉本さんが触れた『現代日本の革新思想』も確認のために読んだ記憶があります。それを読んだときに、私の中で丸山眞男は完全に「終わった」と言っていいでしょう。それは彼が専門領域でどんな業績を残しているとか、数多くのしょうもない進歩的文化人の中では一目置いてしかるべき政治的な洞察力や豊かな教養を持った知識人だということとは(構造的に根っこを掘って行けば無関係ではないけれども)かかわりなく、そこで彼が思わず漏らしたホンネのひとことだけで、彼が物書きとして書いてきたこと、言ってきたことがすべてパァになった、と当時の私(たち)には確信できました。
よく自民党の大臣などつとめる有力な政治家が、自分の支持者の集まる集会などで調子にのって喋っているときに、思わずポロリと漏らすホンネが、いまでいうヘイトスピーチにあたるような、民族差別や男女差別などポリティカル・コレクトネスに反するような意識まるだしで、野党やジャーナリストからやり玉にあげられて、いや本心ではない、「誤解」を招くような発言をしてしまって、などとしどろもどろで弁解して、結局撤回したり、辞任に追い込まれたりすることがありますが、緊張感のある公的な場ではタテマエでしゃべっていても、自分の気心の知れた連中と気軽な座談などしているときには、つい気が緩んでふだん思っているホンネが出てしまうのは、政治家ばかりではないのでしょう。
かえってそういうときに漏れるホンネのほうが、抽象的な論理で武装した言葉とは違って、その人のふだんのものの感じ方や考え方、偏見や差別意識など、いわば否定的、劣情的な側面を正直にあらわにしてしまうものです。
吉本さんが引いた丸山眞男の座談でのその発言は、彼の人間性を正直に暴露し、その思想の根っこに、どんな人間観、社会観があるか、を明らかにしてしまったのです。
”もう少し微視的に個々人を見てみると、こいうラディカルは政治的ラディカルというより、自分の精神に傷を負った心理的ラディカルが多いですね。その心の傷は、ある場合には党生活のなかでの個人的経験に根ざしているし、ある場合には戦中派の自己憎悪に発しているし、ある場合は、俺は一流大学を出て本来は大学教授(?)とか、もっと「プレスティジ」のある地位につく能力をもちながら、「しがない」「評論家」や「編集者」になっているという、自信と自己軽蔑のいりまじった心理に発している。”(梅本克己・佐藤昇・丸山眞男『現代日本の革新思想』における丸山発言)
こういう発言をする人物を、私(たち)は、決して人間として尊敬も信頼もできないし、思想について語る資格などない、と考えてきました。
結局、どんなに専門領域で業績を上げた人であっても、抽象的な論理の言葉で高度なことを語っている人であっても、自分の生き方とそうした仕事や人間として多元的に生きて感じ、考え、行動して、人と向き合っている中でとっている姿勢とが一貫して、きちんと結びついているようでなければ、それは本当にその人の思想であるとは言えないわけで、どんなに気の効いたことを言い、どんなに偉そうなことを言っても、結局は文明開化でヨーロッパの意匠を借りて偉くなったつもりの鹿鳴館知識人たちと何も変わりはないわけです。
日本の知識人というのはごくおおざっぱに見れば、ずっとそういうことを繰り返してきたので、本当に思想が一人の人間の血となり肉となり、根付いた、と言えるようになるのはいつのことか、というのが、ペイペイの学生だった私たちにも共有されていた思いで、知識や経験でどんなに敵わない知識人たちに対しても、内心ではある種の侮蔑感を懐き、決してその知識ゆえにその人物や思想を信頼したり尊敬したりしていなかった私(たち)の傲慢さにも、それなりの根拠があったのだと思います。
以前にも書いたことがありますが、ずっと後に私が家庭をもち、小学生の息子たちが近所の小さなレストランのご亭主や彼に賛同するもと父兄のオジサンたちの指導してくれるサッカーチームで面倒をみてもらっていたとき、その指導者の姿に心から感動して話していたとき、以前の職場で割と頻繁に一緒に仕事をしていた、当時たしか既に大学の講師か何かになっていた人が、「世の中でしかるべき社会的地位につけない人が、そのルサンチマンをそういうボランティアとかで頑張っちゃうケースがよくあるよね」という風な意味のことを言って、私のその指導者に対する尊敬の念に冷水を浴びせて、価値を低めるような言い方をしたので、カチンとくると同時に、あぁこの人はふだんは気の利いたことを言ったりもできる頭の悪くない人だけれど、人間としてはダメだな、人を見る目、人と接する姿勢、思想の根っこが腐っている人だな、と感じたことをいまも記憶しています。
丸山の発言を知ったとき、私(たち)はまだ20歳そこそこの青二才で、無知で未熟で、丸山が誇るような知識も知力も持ち合わせていなかったけれど、いわゆる知識人だの文化人だのと言われる人たち、物書きに対する一読者としての判断において、この人は人間として、物書きとして信頼できるかどうか、尊敬できるかどうか、要は「ホンモノ」か「ニセモノ」か、という判別に関しては、きわめて鋭敏で容赦なかったと思います。
私たちが自分の所属する学部の教授たちと話し合う場(丸山のいう「つるしあげ」に近いのもあったでしょうが・・笑)で教授たちに詰問し、やりとりする中で私(たち)が半ばあきらめながらも、あれでも一人二人、まともな人がいないか、と期待して待っていた反応というのは、まさに吉本さんが指摘しているような、「社会的な地位として社会で承認しているものを自分がそのまま受け入れ」ていることを自分の人間としてのありようとして、どう考えているのか、ということに対する真摯な答であり、それはその人の人間としての生き方、ものを感じ、考え、行動していく人間としての一番根本の姿勢がどうなのか、というきわめて素朴で端的な問いかけだったのですが、何十人も居並ぶ錚々たる教授陣の中で、私(たち)の期待にわずかでも答えてくれた人は、ただの一人もいなかったのです。
自然私(たち)は自分たちが直接知らない遠い存在へと書物をたどることになるわけですが、そこで出会った人の中でも、辛うじて信用のできる物書きとおもえたのは鶴見俊輔や江藤淳、あるいは吉本隆明のような指折り数えてあとが続かないほどわずかな人たちに過ぎませんでした。丸山眞男はそういう意味では上記の発言ひとつで完全に思想家としては失格でした。
丸山のこのときの発言と吉本さんの批判については、後日、まだ大学闘争のさなかというか余燼くすぶる中でのことでしたが、作家でもあり、まだ確か大学にも助教授として籍を置いていた高橋和巳を講演に来てもらったとき、高橋さんはそのことに触れて、「吉本さんの批判はまっとうなもので、丸山さんは当然応えるべきだったが、なにも応えないまま逃げて逃げて、とうとう逃げおおせてしまった。そうやって逃げることができたのは丸山さんがアカデミズムの中にいるからであって、これが私のいる文壇のような民間の物書きの世界であれば、もうその世界では生きられない、死を意味するはずです」という意味のことを語っていました。
言葉はもちろん正確に記憶していないし、どこかの雑誌社が掲載したいと言ってきたことがあったので、どこかに記録が残っているのかもしれませんが、なぜ覚えているかというと、私がたまたま高橋さんを呼んだ学生グループの端くれに属していて、その講演の録音テープ起こしを自分で担当したからです。
高橋さんのこの発言はとても印象に残りました。「憂鬱なる党派」や「邪宗門」はある意味で楽しんで読んでいたけれど、作家として好きというわけでもなく、またしかるべき敬意をもっていたとも言えず、学生にシンパシーを感じ、それを明らかにもしてくれていた数少ない教官の一人ではあったけれど、そのことを特別ありがたいとも思っていませんでしたが、先の彼の言葉を聞いて、あぁ、彼もさすがに作家だな、アカデミズムの奥の院であぐらをかいていたような教授連中とは一味ちがったな、と好感をもって聞いていました。
その後彼は大学の職を辞し、作家として生き、短い生をまっとうしました。たしか梅棹忠夫だったか、高橋和巳は作家などやめて中国文学者一本の研究者になるべきだった、とそれは彼の学者としての資質に好意的な立場から言っていたのをどこかで聴いたか読んだかしたことがありますが、私はそうは思いませんでした。もちろん彼が中国文学の一研究者として生涯を終わろうとかまわないわけだけれど、彼自身はそれを逃避であり、文学者としての死だと感じただろうと思うだけです。
いま丸山眞男の遺した3冊の私的メモのようなノートを編纂した『自己内対話』など読むと、丸山が大学闘争の渦中にあって、まったく自分の置かれた状況もその意味も分かっていなかったことが無惨なほどよく見えてくるような気がします。彼は闘争の中で飛び交う言葉のエモーショナルな側面を毛嫌いし、自己否定なる合言葉やノンセクトラディカルが自分たちを非政治的だと思っているなどと誤解と偏見に満ちた目で毒づき、大衆を語る者は大衆に媚びへつらい、すり寄る者としてそこにポピュリズムを見、みずからが「現代日本の革新思想」で語ったような特権を享受していることに無自覚なまま、「東大教授」であるがゆえに不当に攻撃されていると錯覚しては憤る、といったありさまで、今読めば目を覆いたくなるような混乱ぶりです。
もっとも、激動期の渦中に生きる者はだれしもそうした或る程度の錯乱は避けられず、今時分が生きている現実の意味を同時に透徹した目で見定めることは困難だと言えば言えるかもしれません。丸山ほどの知性でも、それは避けられないことなのでしょう。
彼は自らその渦中にある「大学紛争」についてこんな風に書いています。
「大学紛争はナショナルには社会問題であり、東大についていえば、管理運営の欠陥の問題だ。すくなくとも研修医問題からはるかに範囲をひろげた東大紛争はプライマリリーにそうである。」(『自己内対話』)
そうして彼は、「なぜこういう自明のことをいうか」として、”「師弟関係の崩壊」とか「研究者・教育者の自己否定をかけたたたかい」とか、あまりにもモラリスティックな発想が、まさに「良心」を自任する教官にも、またイデオロギー的にはそうしたモラリズムに全面的に否定的に立ち向かう筈の共闘会議の学生にも氾濫しているからである””と釈明しています。
彼が否定的に語る、その「モラリスティックな発想」がなぜここで必要だったのか、彼に何が問われているのか、残念ながら丸山にはまるで理解できなかったのです。
これを先の吉本さんの認識と比べて見れば、大学とは遠く距離を置いていながら鮮やかに示された、吉本さんの認識がいかに透徹したものであったか、いまではだれの目にも明らかでしょう。
”学園紛争の中で、私が思想的に一番着目している点は、いわゆる戦後民主主義者ーつまり市民主義者あるいは進歩主義者ですがーがちょうど教授とか助教授という形で、学園紛争に関与しているわけですが、その連中が、戦争中から戦後にかけてみがいてきた自分の思想にいかに耐えるか、あるいはいかに対応するかとということです。
いいかえればそれは、市民主義者、戦争中の一種の二重主義者ーつまり人殺しはやりたくないと心の中で思いながら、鉄砲かついで戦争に行ったという連中ですが、そういう連中が戦後にすべり込む過程において、いかに自分の戦争体験を思想的に咀嚼し、戦後二十年をやってきたかが問われている試金石であると思います。”
これを私的なノートの言葉とはいえ、大学紛争は「東大についていえば、管理運営の欠陥の問題だ」としか言えない丸山と比べて見れば、凡庸な大学の管理者としての管理主義的な視点と思想家としての高い視点の違いは誰の目にも明らかです。
こうした視点の高さ、透徹した事態の本質への眼差しを持っていた知識人は、私(たち)の知る限り吉本さんを措いてほかにはありませんでした。私たち渦中にあった学生が、党派に属してその影響下にあったもの以外は、身近な教授たちや自分たちにすり寄ってくる味方づらした知識人、文化人の類ではなく、またいわゆる全共闘のリーダーのように目されていた東大や日大のリーダーたちの言よりも、自分たちから遠い距離にありながら、そのことを自覚した上でこうしたみごとな認識を示す吉本さんの言葉のほうにはるかに信を寄せ、いつもその声に耳を傾けようとしていたことは当然でした。
吉本さんは上記の言葉につづけて、もう結論まで語り切ってしまっています。
”私は、戦争中から戦後にかけて、彼ら(引用註:市民主義者)とは全く違う位相にあるわけですが、しかし、その連中が、自分なりの市民主義原理で思想的にある場合に頑強に学生に立ち向かい、ある場合には市民主義原理を固守する形で、たとえ一人であってもそういう見事な形で自分の思想を提唱する人があったらというのが、私などの秘かな願望であったわけです。
しかし、そういう希望は無残に砕かれたという感じを持っています。つまりそれは、どたん場において、最もラジカルな部分を警察機動隊に売っておいて、学園紛争を収拾しようとする技術的な態度をとったことで、思想原理、つまり市民主義原理が完全に放棄されたという風に私には思われます。”
こうして彼は、”戦後民主主義は、現在の学園紛争の中で、思想的に完全に終ったといいっていいのではないかと私は考えています。”と引導を渡しています。
丸山は「知識層の役割。」と項目を立てたメモにおいて、「社会の異議申し立て人であること・・」云々と書いて、サルトルの定義を一瞥したのち、「知識人は社会的・政治的関心が例外的に高い階層である。・・・」云々と知識人前衛論的な発想の言葉がつづきます。そして、”知的エリートが管理者のなかにくみこまれる傾向がますます一般的であればこそ、「異議申し立て」階級としての知識層の役割は大きくなる。それも、社会を「動かす」には大衆運動との結合が不可欠だ。知的指導なき大衆のエネルギーは盲目であり、大衆のエネルギーに支えられない知的指導は空転する。」と非常に古典的な前衛、後衛の二分法を前提にした組織論めいたことが書かれています。
丸山は大衆におもねるポピュリズムを批判する箇所では、知識人も民衆の一人なんだぞ、と言いながら、知識人の役割を論じる箇所では、そのうちなる「民衆」と知識人をうまく内在的に接合することができず、「知識層の役割」を民衆の概念とは無関係に規定しています。その上で組織論として前衛としての知識層と大衆運動をつなごうというわけです。これはほとんど、戦前以来の共産党などの前衛論と同じで、知識層が「社会の異議申し立て人」として前衛的役割を果たし、いまだ目覚めぬ大衆を目覚めさせ、そのエネルギーを「知的指導」で導いて社会を「動かす」というポンチ絵的な構図です。
これも吉本さんの、知識人の役割は大衆の原像を繰り込むことだ、という言い方と比較してみれば、民衆なり大衆と言われる存在への二人の向き合い方の違いがよく分かるのではないかと思います。
柄谷の書いたものでは、丸山眞男は市民主義者ではなくて、社会主義者で、彼がずっと関心をもっていたのはマルクス主義だということで、講座派を継承するもの、というふうな前回書いたように私には奇妙に思える規定をしているわけです。
たしかに「自己内対話」にも、こんな言葉が遺されています。
”私はどのような意味で社会主義者であるか、もしくはありたいか。”(註:下線部は原文では傍点)
彼は社会主義者である、という自己規定をしていたか、そうありたいと願望していたのでしょう。でもそのことを今の時点であまり重くみるのはどうかと私は思います。
当時はまだ日本の進歩的文化人の間で社会主義に対する幻想が消えてしまったわけではなく、むしろ大盛況だったわけで、いまのように保守的な言論が幅を利かせているような状況とはまるで違っていたわけです。
敗戦直後のことだったでしょうか、なんと三島由紀夫までが小田切秀雄だったかに、共産党に入らないか、と大真面目に誘いの言葉をかけられた、と三島自身が嬉しそうに語っている(書いている)のを読んだことがあるくらいです。猫も杓子も、天皇制ファシズムのもとでも節を曲げなかった指折り数えるほどの共産党員をほめそやし、社会主義に希望を見ていた時代だった、と言ってもいいでしょう。
丸山にしても、そういう共産党員への個人的な尊敬の念と、民衆の前衛であり指導組織としての共産党など革新政党の理念と実践、組織のありようといったものとは区別してしかるべきで、後者は冷静な批判を免れるものではない、といった批判は展開したものの、吉本さんらがやっていたようなそれら既存の前衛党派やその理念に対する本質的な批判を展開できたわけでも何でもありませんでした。
その意味ではほかの同伴者的な市民主義的進歩的文化人と何ら変わりはなかったのです。それを今の時点で彼に「社会主義者である」あるいは「でありたい」という願望があったからといって、他と区別する主格助詞「は」を使って、"丸山「は」社会主義者であった"、と言えばむしろ虚偽に近くなるのではないか。"丸山「も」他の多くの、当時は知識人のほとんどがそんな雰囲気であったところの「社会主義者」だった"、というのなら分かりますが(笑)。
それに、私は丸山には潜在的な大衆嫌悪のホンネがあったのではないか、と思っています。
直接丸山が言葉で大衆嫌悪を表明しているわけではないけれど、「自己内対話」を通読して感じるのは、彼には潜在的か顕在的かは分からないけれど、大衆嫌悪があったのではないかと感じられるのです。文字面だけ追えば、いや彼は大衆を嫌悪したわけではなく、「民衆は偉大だとか、民衆の力を評価せよ、とかいう日本のインテリのポピュリズム」を嫌悪しただけだ、ということになるかもしれません。
それは、この引用句につづく ”・・・「民衆」にすりよってくるインテリにたいして、民衆が示す反応はおそらくあの「悪女の深情け」へのやりきれなさに似ていないか。”というような言い方によく現れているような気がします。大衆嫌悪をもたない人間には、こういう民衆のありようの譬え方はしないものだと、私には直観的に思えます。
彼は西欧文化にあこがれ、優秀でもあったから、研鑽を積んでその文化を消化し、少なくとも頭だけはどっぷりひたって、そこから日本社会を考え、その特異性や遅れを的確に指摘することができた、典型的な日本型知識人、文明開化の頃の紳士淑女よりははるかに洗練されてはいたかもしれないけれど、やっぱり本質的には鹿鳴館型知識人の典型だったと私などは思っています。
今回彼の遺した『自己内対話』を読んでいて面白かったのは、東大闘争の渦中に共闘会議の学生たちに拉致されたときのエピソードを記した箇所。
”私の眼前に座を占めているのは、あとできくと、文学部の院生が多かったようだが、もっともひどい言葉を使ったのはこの連中である。たとえば「そろそろなぐっちゃおうか」「ヘン、ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」等々。”
この「ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」には思わず笑ってしまいました。しかも、丸山眞男はその2ページほどあとで、帰宅して一人で寝室で横になって興奮さめやらず今日あったできごとを回想している場面でこう記しています。
”興奮が醒めないためか、精神的にはむしろ闘志が湧いて、それほどミゼラブルな気持がしなかった。ただ、いかに見知らぬ学生とはいえ、さきの「ベートーヴェン云々」の言葉に現われているような、むき出しの憎悪の表情にとりまかれたのは、これが初めての経験である。”・・・
ここでもう一度「ベートーヴェン云々」が登場するのが興味深い。ふつうはこれ、どちらかと言えば「なぐっちゃおうか」のほうが「むき出しの憎悪」をより強く表現する言葉のように思うし、そっちが先に出てきそうだけれど、丸山は「ベートーヴェン云々」のほうを、「むき出しの憎悪」の象徴のように挙げています。
たまたまかもしれませんが、なにか彼の心理の影が読み取れるようなところです。
もちろんベートーヴェンを聞きながら学問しようが、都はるみや美空ひばりを聞きながら学問しようが好きにすればいいわけですが(笑)、丸山は決して都はるみや美空ひばりを聞きながら学問はしなかったでしょう。彼は西洋のクラシック音楽に造詣が深く、たしか一冊音楽に関する著書か何かあったと思います。半端な趣味程度のものではなかったのでしょう。それもこれも、彼の西欧文化への憧憬の強さ、深さ、彼のなじんだ教養の源がどこにあったか、彼の資質的な志向がどういうものだったかを如実に示すものだと思います。それは文明開化以降の日本のすぐれた教養的知識人の典型みたいな資質、志向のありようだったのではないでしょうか。
柄谷がマルクスの方法にならって、小さな差異に着目して全体の評価を転倒させるような方法で、丸山眞男を単に西洋文化に憧れ、その目線で遅れた日本社会を批判した市民主義者、進歩的文化人ではなく、社会主義者として講座派の跡を継ごうとした者であった、というのは、こういった丸山眞男のトータルな人間のありようを考えれば、やっぱりそのトータルな人間のコンテクストを無視してその一部の特徴を無理に引っ張り出してきたもののように思えてなりません。
小さな差異に着目して、これを梃子に全体の評価を転倒させるのは、なにもマルクスゆずりの柄谷の専売特許というわけではなくて、まっとうな思想家はみんな先人たちの思想を継承する中でそうすることで自分の思想を生み出してきたのだと思います。それで不思議に思ったのは、吉本さんもマルクスの初期の著作、経哲手稿に記された自然哲学を読み込むことで、そこでマルクスが見出した人間と自然の相互関係を表象するものとしてあらわれる疎外の概念を武器に、マルクスの思想全体を読み替えていったことは周知のことだし、当然柄谷も知っているはずですが、奇妙なことにあるとき柄谷が書いたたしかライプニッツだったかに触れた文章で、なんだか吉本さんの思想についても主体性というキーワードのもとで初期マルクスを再評価するような世界的な気運の中に位置づけてしまうかのような書き方で言及したものを読んだことがあって、今回一所懸命掲載誌を探したのですが、残念ながら見つけられず、ここに証拠を出せません(笑)が、なぜ丸山については小さな差異に着目して、吉本さんについてはそういう通俗的な括りにしてしまうのか、不思議に思ったのでした。もちろん、マルクスを後期と初期に分けて初期の疎外論を評価するようなタイプの思想とは、吉本さんの思想はまるで違うことは吉本さん自身がまさにマルクスを論じる中で既に明確に語っていることで、そういう閉じた思想と同一視することはまったくの錯誤に過ぎません。
さて元へ戻って(笑)、現代の鹿鳴館型知識人たちが西洋文化に恋焦がれて、というのは、むろん良い、悪いの問題ではないので、単に個人の趣味の問題、恣意性の問題に過ぎないのではあるけれど、そうやって舶来の知識を取り込み、豊かな教養を身に着け、知的に上昇していくこと自体を至上の価値のようにみなしていく日本的な鹿鳴館型知識人のありよう自体に自覚的でなければ、仕入れた借り物の知識、技術、思想を自分が自分のよって立つ大地の土をこねて作り上げたもののように錯覚し、その基準によってやがて「遅れた」日本社会を見下し、その「特異性」を云々するだけのありふれた進歩的文化人に成り下がるだけのことで、その言辞にどんなに鋭利な分析があり、気の利いたセリフを吐いたとしても、日本社会の現実の岩盤にまるで一振りの鍬の跡もつけることができず、精神の肉体を持たない空虚な言葉の戯れに興じるだけの亡霊のような存在にすぎないものになっていくだけでしょう。
そして、そういう人間ほど、ただ日々の生活の中へ自らの思想性を還していく大衆をも、内心では嫌悪し、見下すものだろうと思います。
「ヘン、ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」という、たしかに憎悪むきだしの侮蔑の言葉は品のない罵倒だけれど、現代の鹿鳴館型知識人への揶揄としてみれば、まんざら当っていなくもないし、それを聞かされる側はへそのあたりで人知れず隠し持っていたものだけれども、思い当たるところがあるために、余計に侮辱として「こたえる」ものだったのではないかと思います。
知識人の大衆嫌悪のホンネはふだんは抽象的な論理の言葉の影に隠されて明かされることはないもののようだし、ことにそれがリベラルな言辞を弄する人の場合は、いっそう秘されているものなのでしょうが、ときにその種のホンネが明かされ、驚かされることがあります。
”マスとかいわゆる一般大衆というかいうものとは関係なしに生きたいと思う瞬間というのは、たぶん皆さん方にもあるかもしれないし、私には完全にあるわけです。これは主義主張の問題じゃあなく、アレルギーみたいな病気です。朝、電車を待っていますと、「10パーセントの飴の確率」という予報にごく忠実に慎ましく傘をかかえた人たちが電車のホームをうずめつくしている。これがまず気に入らない。そのうち必ず一人くらいは傘を逆さにして何かゴルフのスイングみたいなことを始めるわけですね(笑)。で、ああいう連中と同じ電車に乗るのは絶対に恥であるから家に帰ろうと思うわけですけれど、帰りません。やはり、どこかで妥協しているというところがあります。しかし、自分が一日をつつがなく生活するには、こんな人たちの姿が見えないようなところで暮らせたらなあという夢があるわけです。けれども、それはまあ誰もが持っている排除と差別への誘惑という程度のことであって、それを主義として論陣を張ろうというものではないわけです。”(蓮實重彦「物語の時代」GSfile)
実はこの引用は、吉本さんの出していた雑誌『試行』の1986年2月に掲載されたのを『完本 情況への発言』にまとめられたのを孫引きしました。昨日、丸山眞男の『現代日本の革新思想』での発言をたしか吉本さんが試行の情況への発言でも取り上げていたのではなかったか、と思って、この本のページを繰って探していたら、探し物はみつからずに、たまたま見つけた中にあって、読んで、とうに忘れていたけれど、蓮實がこんなことを言ってたんだ、と思い、やっぱりな、という感想を持ったので、先の丸山眞男の潜在的な大衆嫌悪みたいなものと同じ意味で引用してみたのです。
吉本さんはこういう引用をして蓮實さんを批判したり否定したりしているわけではありません。ただ、なんか気の毒だね、こんなことを思いながらやってるなんて、大変だよな、と同情しているというか(笑)、自分とあまりにも真逆な大衆への姿勢に呆れているというか(笑)そんな感じがする引用の仕方だったと思いますが、私はこういうホンネをもらすような人が、どんなリベラル風な口をきいても、民衆がどうの大衆がどうのと言っても、全然信用できません。
ついでに思い出したから書いておくと(笑)、吉本さんが亡くなったとき、なにかの雑誌で追悼の特集があった中に蓮實重彦も短い文章を書いていて、追悼らしからぬ文章だったけれど、ほかにも同じ趣旨の彼の書いたものを読んだ記憶がありますが、そこでも彼は吉本さんの「言語にとって美とはなにか」で打ち立てた理論に、それが出された当初の蓮實の受け止め方を回顧するような形で、そこに当然考慮さるべき(ソシュールに由来する)「差異」の概念が欠如していて驚いた、あるいは呆れた(?笑)といったニュアンスの文言が連ねられていたので、しつこいやつだな、と読むこちらのほうが呆れた記憶があります。
だいたい、吉本さんがドゥルーズだのデリダだのフーコーだの舶来流行の花々の間をきょうはこちら、明日はあちらと飛び回って「差異」か何か知らないが美味そうな蜜を集めてまわり、自分が創り出したものであるかのように吹聴してはしゃぎまわるなどと思うほうがどうかしています。文明開化の時代のような野暮な紳士淑女ではなく、現代でははるかに高度に洗練されているかもしれないけれども、そういう日本型知識人の伝統を固く守る鹿鳴館的紳士淑女はいまだにたくさんいるけれども(笑)、吉本さんが最初からそういう横文字好きの連中とは縁もゆかりもないことは誰もが知っていることです。
そう言えばもとに戻って柄谷行人も、誰かとの対談の記録だったか、忘れてしまったけれど、柄谷が吉本さんと個人的に話したときに、彼自身が「言語にとって美とはなにか」を書いたときに、ソシュールを十分理解していなかった、と率直に認めていましたね、などと語っているのを読んだことがあります。
あれも故意か偶然かは知らないけれど、ずいぶんミスリーディングな言い方というのか、個人的エピソードの披露の仕方だな、といぶかしく思いました。周知のように、吉本さんはのちに『ハイ・イメージ論』の拡張論において、ソシュールの言語学とみずからの言語美の理論とを丁寧にすり合わせて論じています。それを読めば、吉本さんが「言語にとって美とはなにか」を書いた時にまるでソシュールを理解しそこねて、後でそれを悟って、自分は理解しそこねていたね、と語ったかのようにも聞こえるのが、まったく嘘というのか、ほとんど誤解を与えるための言い草に聴こえます。
もとよりまっとうな思想が展開されていくとき、それまで触れあわなかった新たな思想に遭遇し、あるいは新たな現実の出来事に遭遇して影響を受け、遺伝子の組み換えのように交叉しあって新たな思想的展開にいたるとしても、それは現代でも鹿鳴館型知識人がやっているような、あっちの思想のほうが新しそうで流行の舶来思想だから、あっちに飛び移っちゃう、などというものでないことは明らかであって、自分がそれまでの思想をはぐくんできた延長上に、どう新たな出会いの契機を取り込んでいくか、という課題として取り込まれていくものでしょう。
だから、よく吉本さんの言語論にフランス舶来の差異概念がない、なんて欠陥のように言う者があるけれど、まったく馬鹿げたことで、いつも借り物の出来合いの概念でしか物事を考えてこなかった、そしてそういう最新流行の舶来概念をいち早く輸入して振りまくことをアドバンテッジと心得ているような連中だけがそんなことを言うのだと私などはずっとみてきました。
それにしても、ソシュール理解が間違っていたよ、あれはほんとは正しかったんだね、おれ間違ってたから修正しといたよ、なんて簡単なものでなかったことだけは確かで(笑)、ましてやハイ・イメージ論が出た後で柄谷があんなことを言ったのだとしたら(その前後関係は知りませんが)まったく故意にミスリーディングなことを言ったことになってしまうでしょう。
ずっと以前にやはり「情況への発言」の中で、吉本さんが柄谷を批判したことがあって、それは吉本さんが柳田国男全集の月報だったかに「無方法の方法」という短い文章を書いたのに触れて、吉本が柳田の方法を「無方法の方法」と呼んだが、自分はそうは思わない、柳田は体系的ではないけれども、そういう叙述形式とは別に、一貫した内的な体系があり、方法がある、という主張を展開したのに対して、その書きぶりについて「詐術」に等しいとかなり手厳しい批判をしていました。その末尾に「わたしは戦術や小才だけで、文学の世界をわたり歩く文学者の失墜を信じて疑わない。」とあって、これを半世紀近く前に読んだときは、何のことかよくわかりませんでした(笑)。
当時の柄谷はまだ若く、なんとなく上から目線でえらそうな人だな(笑)という印象はあったけれども、マクベス論などをおさめた「畏怖する人間」だったか、読んで面白いなと思っていたので、こういう言い方で吉本さんが叩くのはちょっと意外に思えたのです。もちろんその後、吉本さんが彼の優秀さも認めたうえで、直接にも面識があるらしい若い批評家を叱咤激励するような意味合いで叩いていたんだろうな、とは思いましたが・・・。
しかし、あれから4,50年たって、みな歳をとり、吉本さんが亡くなってしまってから、なぜ丸山眞男論なんだろう?(笑)。いや、そういえば近年、生後何周年とか没後何周年とか、いや海外に紹介するためとか、いろいろ現実的なきっかけはあるのでしょうが、丸山眞男や花田清輝をとりあげる企画が少なからずあったり、それも大抵はそのついでに、彼らの生前、思想的な敵対者であった吉本さんを(彼らを今の時点で対等に扱うことによって間接的に)相対的に価値を低めるような言説を陰に陽にその言説の中にもぐりこませるようなのがあったり、吉本さんの名を直接挙げずに、吉本さんが生前よく言っていた「自前の思想」を揶揄するようなことを言ってみたり、なんだかそういう輩が多くなりましたね。自分でみっともない、と思わないのでしょうか・・・。
私などは、ああ、またゾンビが一人甦って来たか(笑)・・・と思って見ていますが。私はホラーは嫌いで、とくにゾンビは大嫌いなので、これ以上はおつきあいしかねますが(笑)・・・
saysei at 00:21|Permalink│Comments(0)│
2019年06月23日
晴れのち曇りときどき雨~柄谷行人「丸山眞男の永久革命」への違和感
陽が射していたと思えば暗い雲に空が覆われ、けっこうちゃんと雨が降って、これは植え替えたばかりの丹波大粒黒豆にとってはいい具合だな、と思っていたら、いつのまにか雨がやんで、十分な水の補給ができたのかどうか心許ない・・・というふうなお天気。
庭作業は無理だろう、と今日も剪定ゴミの処分はあきらめて、身体を休めることにし、終日家の中で身の回りの本や書類を整理して過ごしました。終活でだいぶ本を整理したおかげで、それまで半地下に眠っていた半世紀も前に買った本を全部上に出してきて、本箱に並べられるようになったので、なんだか新鮮な感じで、手にとると懐かしくてつい読みふけってしまいます。
今朝の新聞の書評欄で江藤淳を論じた本が好意的に紹介されていました。彼の文芸評論は信頼していたので、結構読んできたと思いますが、衝撃的な自死からもう20年が経つのだな、と知り、最近書店へ行くと江藤淳関係の本が目に付くのはそのせいだったのか、と気づきました。文芸評論で彼の評価がとくに時の話題になったりしたようなの、たとえば村上龍が登場したときの、結構激烈な否定的評価など、いまだに印象に残っているけれど、日本の敗戦後の占領軍の検閲の徹底ぶりと、その制約のもとにあった日本の言論空間のありようを実証的に論じた系列の著作については、啓発されるところもあったけれど、ずっとなにか江藤淳にやってほしいような仕事ではないような気がしていました。しかし、彼にとってはそれをやらなくては幾ら文学や思想を論じても砂上の楼閣だと切実に思えたのでしょう。
彼の著作集もほかの本と一緒にこれまでに全部手放してしまっていたけれど、また読んでみたくなって、二、三Amazonで発注してしまいました。同様に、先日『世界』の七月号を書店で手にとったら、柄谷行人が丸山眞男について書いていて、どうやら丸山の著作の中国語版の序文らしく、短い概説的なものなので、そのせいもあるかもしれませんが、半世紀ほど前にそれなりに読んできた丸山の印象の延長で読むと、え?え?と言いたくなるような違和感を覚えたので、またちょいと確かめたいような気になりました。
或いはあのころは吉本さんの丸山眞男論に影響された目で読んでいたせいかな、と思ったり、読んだと言っても、ちゃんと最初から最後まで読んだのは、当時必読みたいに言われた『超国家主義の論理と心理』や『日本の思想』くらいで、吉本さんが詳しく取り上げていた『日本政治思想史研究』も、当時は拾い読みで、のちに次男とその友達のサッカー少年たちに週一度英語教室と称して色々楽しんでつきあっていたときに、論語の素読をやって朱子の集注や徂徠、仁斎を自分なりに消化して紹介したりしていたときに、初めて目を通した程度だったし、良く取り上げられた『現代政治の思想と行動』もその中のごく一部を読んだだけで、例のごとく丸山の著作も一冊残らず売り払っていて手元にはなかったので、結局マーケットプレイスで一番安値のやつを買い戻す羽目になりました。
それでも半世紀前には知らなかった(出てなかった)日本政治思想史の講義録や丸山が遺した私的なメモというべき『自己内対話』なんてのがあるのを知って、この時期になってひどい寄り道(笑)。後者などちょっと読んでみると、彼がめったにみせない素顔というのかホンネが出ているようで面白くてつい本棚の前に座り込んで時間をつぶしてしまったり・・・。
いやそれにしても、丸山が「講座派の批判的継承者」として日本社会の政治的・観念的上部構造を考察しようとしたのだ、という柄谷の言い分にはずいぶんと違和感を覚えました。もちろん天皇制の問題やいわゆる「封建的遺制」として片付けられた幻想領域の問題を社会主義革命論を唱えた労農派がその理論上先験的に除外してしまったのに対して、二段階革命論を唱えた講座派の論理なら先験的には除外することにならなかった、という意味ではそうかもしれないけれど、それは別に講座派の志でも何でもないだろうという気がします。
そして、もし天皇制とは何かを問うきっかけを与えた、とか柄谷が一般化して言うように「観念的・政治的上部構造の次元は、根本的に経済的下部構造に規定されるとしても、それ自身、相対的に自立的な構造を有する、ゆえにそれを解明しなければならないという課題」に答えようとして地道な努力を重ねてきたのは、私の記憶ではマルク主義に意志論、国家論が欠けているという認識のもとにその領域を開拓してきた三浦つとむや、津田道夫らから滝村隆一にいたる政治的な同人誌みたいなマイナーなメディに拠りながら国家論を展開してきた戦後のマルクス主義者であり、それらを踏まえながらも、マルクスの自然哲学に柄谷流に言えば「可能性の中心」を見出して読み替えていくことで、全幻想領域に独自の理論を構成していった吉本隆明以外に、「下部構造とは相対的に自立的な構造を有する」幻想領域の理論を徹底的に追究しえたひとはいないだろう、ということになります。そんなところで丸山眞男など顔を出す幕はないでしょう、と。
もちろん日本の天皇制ファシズムがドイツやイタリアの社会ファシズムのようなものとは異質なものであることは丸山の論理展開の基軸にあるけれども、そういう政治思想史的な論及を上記引用の柄谷のように「一般化」して、幻想領域の(下部構造からの)相対的に自立的な構造を解明するという「講座派の継承者とみなすのは牽強付会もいいところのような気がしました。
だいたい、そういう一般化ができるとすれば、丸山の向かうのは、吉本さんのような全幻想領域の解明であるはずですが、彼が向かったのはあくまでも「(政治)思想史」です。そこを柄谷は奇妙に混同させた言い方で、幻想領域の次元は経済的下部構造に還元できず、固有の問題がある、という一般化した話を丸山の「政治学」に強引に結び付けて、こんなふうに言います。
”彼にとって、「政治学」は、経済的下部構造から相対的に自立した政治的次元を見るものであった。そして、それは観念的上部構造の歴史、つまり、思想史を問うことと重なる。”
おいおい、「観念的上部構造の歴史」イコール「思想史」(丸山について言っているのだから、もっと狭く「政治思想史」というべきでしょうが)なんですかね?(笑)
丸山が柄谷の評価のとおりなら、(政治)思想史の研究などではなく、三浦つとむや津田道夫らがそうしたように、意志論、国家論へと向かったことでしょう。マルクスはそうした幻想領域についてはヘーゲルまでの観念論でよく展開されてきた、として自らその構造に深入りして系統的な著作を残すことはなかったから、彼が比重を置かなかった幻想領域の構造の解明は残されたままで、マルクス主義者にとって国家論はひとつの理論的なアポリアのような様相を呈してきたのだと思います。それに正面から取り組んできたのは上述のような人たちであって、そこに丸山眞男の名を登場させるのはとても奇妙に思えます。
柄谷は市民運動を唱えた丸山の考えが、西欧の個人主義にもとづく市民主義だとみなされ、知的エリート主義だと非難されてきたと言い、1960年の反安保闘争のときにも、学生運動家からは「市民主義者」として軽く見られていた、云々と述べてそうした批判は当たっていない、丸山の取り組んできたのは市民主義やリベラリズムではなくて一貫してマルクス主義の問題だった、として先のような「講座派の批判的継承」者という位置づけに強引にもっていきます。
そこらから私の半世紀ほど前の印象とずいぶんずれてきて、わたし(たち)にとって、丸山はまさに市民主義者であり、リベラリズムの標榜者であり、もっと言えば西欧思想にあこがれ、知識人としてその思想を身に着け(たと自任し)、その視点から日本の遅れた社会、或いはその特殊性を否定的に剔抉していく、という典型的な鹿鳴館型日本的知識人にほかななりませんでした。それは、丸山の天皇制ファシズムの特質を指摘したり、日本政治思想史にすぐれた業績を残した、というようなこととは別の問題であって、その思想的な資質、態度、知識人としてのありようとして、私(たち)には見りゃわかるだろう、というほど自明のことだったように思います。
柄谷はしばしばマルクスが若いころにデモクリトスとエピクロスの哲学の「微細な差異」に着目して独自の自然哲学を形成していったエピソードに触れながら、通俗的な「対立」する思想のようなものではなく、いつも見過ごされがちな、わずかな差異に着目して、それを思考展開のバネにして、全体の見取り図を転倒してしまう、という風な方法を得意としてきたように思います。
丸山に対しても柄谷はどうやらそういう視点で、通説的な丸山観をひっくり返そうとしているのかもしれません。けれども、柄谷の方法というのは、ときに奇妙な矛盾に逢着するような気がしてなりません。たしかに、通説ではこうなっている。けれども、そこにある些細な差異に着目して掘り下げていくと、その通説全体がひっくりかえるような視野が開けてくるぜ、というのは、なかなか読み物としては面白い(笑)。小さなテコでもって既成の大きな説をひっくりかえすのですから、見ごたえがあります。しかし、そのことによって、逆に、その否定されるに至った従来の「通説」がもっていた、大局的に見た時やっぱりこうだよね、という真実のほうは何だかすっかりひっくり返されて、もはやそこにいかなる真実もないかのような印象を与えてしまいます。
例えばマルクスの価値形態論に「可能性の中心」を見出して、そこから既成のマルクス観を或る意味でひっくり返すような議論を展開した彼の著書をなかなか鮮やかなものだな、と思って読むのはよいけれど、じゃそれでマルクスというのはその「可能性の中心」に集約されてしまうものなのか。従来、私的唯物論の創始者のごとく言われ、いわゆる下部構造に還元された形で人間の歴史を自然過程として見る観点というのはそうした限定を付しても否定されるべきものなのか、或いはマルクスの「可能性の中心」に近視眼的に着目するあまり、彼が古典経済学の延長上にあったというようなことは嘘八百の俗説だと葬り去って大過ないのか?と言えば、そうではないでしょう。
同様に、丸山眞男の著作を(私も拾い読みしかしていないけれども)全体見渡してみれば、とても柄谷のように「講座派の批判的継承」者として、幻想領域の下部構造からの相対的自立の構造を探究したなんていう「可能性の中心」に集約した像をつくりあげることはできそうもありません。どうみても柄谷が否定する、西欧文化に憧れ、心酔し、その観点から日本社会の遅れや特殊性を指摘した「市民主義者」であり、「リベラリスト」にほかならない、と大局的には判断するのがまっとうな気がします。それは政治思想史研究のようなおかたい論文だけでなく、彼の音楽趣味やらその他の文化・教養のありようをみれば明らかであって、どう考えても柄谷の見出した「可能性の中心」をてこにひっくり返すことはできそうもない気がします。
もちろん、どんな思想もそう単純ではなく、多面的な要素を持っているものですから、その中に入り込んで部分を拾い出せば、いやこういう面がある、と不当に強調してひとつの虚像を作り出すことは不可能ではないでしょう。
書店でたまたま立ち読みした、プルードンの「貧困の哲学」の比較的新しい翻訳の訳者解説を読んでいたら、これを批判して揶揄するようなタイトル「哲学の貧困」を書いたマルクスが、いかにプルードンの思想にアンフェアに、偏った読み方をしてプルードンを不当に否定しているか、ということが憤懣やるかたない調子で書かれているのを見て笑ってしまいました。
私もプルードンを読まずにマルクスの批判を通じてプルードンのこの原著のことを知っていただけですから、本当のところは知りませんが、きっとそうなんだろうな、とは思いました。独創的な思想家というのは相手のタームに忠実に寄り添って理解していこうというより、強引に自分の思想のこやしとして引寄せて読むものだから、或る意味で誤読によって新たな思想を生み出していくようなところがあるものでしょうから、マルクスもきっとそういう読み方をしていて、プルードンを愛する研究者からみれば、なんという不公平な!と思うのは無理ないかもしれないな、と。
そういう意味でなら、きっとどんな思想も通説で片付けられてしまっている否定的評価に対して、いやそうじゃない、この人は本当はこういう現代にも通じる価値を持つ人なんだよ、と再発掘できる面が一つ二つはあるのかもしれないし、それは可能なのかもしれません。
こうしてたとえば蓮實重彦が吉本隆明と対談したときに、自分が尊敬する中村光夫を西洋のモデルで日本社会の遅れを指弾しただけのやつじゃないか、とコテンパに否定されて、いや中村さんはそういう人じゃない、こうこうで、と抗弁することができるだろうし、吉本さんに叩かれたあと「元気がなくなってしまった」(埴谷)花田清輝も古典的なマルクス主義者(≒スターリニスト)として否定されるべき人物ではなくアヴァンギャルド芸術論をはじめ現代の情報化社会の文化現象を論じた先駆者みたいな存在として再生できるし、丸山眞男もまた、講座派のやり残した課題に挑んで、幻想領域の相対的自立の構造を解き明かそうとした社会主義者であり、永久革命者として柄谷によって甦る、というわけなのでしょう。
庭作業は無理だろう、と今日も剪定ゴミの処分はあきらめて、身体を休めることにし、終日家の中で身の回りの本や書類を整理して過ごしました。終活でだいぶ本を整理したおかげで、それまで半地下に眠っていた半世紀も前に買った本を全部上に出してきて、本箱に並べられるようになったので、なんだか新鮮な感じで、手にとると懐かしくてつい読みふけってしまいます。
今朝の新聞の書評欄で江藤淳を論じた本が好意的に紹介されていました。彼の文芸評論は信頼していたので、結構読んできたと思いますが、衝撃的な自死からもう20年が経つのだな、と知り、最近書店へ行くと江藤淳関係の本が目に付くのはそのせいだったのか、と気づきました。文芸評論で彼の評価がとくに時の話題になったりしたようなの、たとえば村上龍が登場したときの、結構激烈な否定的評価など、いまだに印象に残っているけれど、日本の敗戦後の占領軍の検閲の徹底ぶりと、その制約のもとにあった日本の言論空間のありようを実証的に論じた系列の著作については、啓発されるところもあったけれど、ずっとなにか江藤淳にやってほしいような仕事ではないような気がしていました。しかし、彼にとってはそれをやらなくては幾ら文学や思想を論じても砂上の楼閣だと切実に思えたのでしょう。
彼の著作集もほかの本と一緒にこれまでに全部手放してしまっていたけれど、また読んでみたくなって、二、三Amazonで発注してしまいました。同様に、先日『世界』の七月号を書店で手にとったら、柄谷行人が丸山眞男について書いていて、どうやら丸山の著作の中国語版の序文らしく、短い概説的なものなので、そのせいもあるかもしれませんが、半世紀ほど前にそれなりに読んできた丸山の印象の延長で読むと、え?え?と言いたくなるような違和感を覚えたので、またちょいと確かめたいような気になりました。
或いはあのころは吉本さんの丸山眞男論に影響された目で読んでいたせいかな、と思ったり、読んだと言っても、ちゃんと最初から最後まで読んだのは、当時必読みたいに言われた『超国家主義の論理と心理』や『日本の思想』くらいで、吉本さんが詳しく取り上げていた『日本政治思想史研究』も、当時は拾い読みで、のちに次男とその友達のサッカー少年たちに週一度英語教室と称して色々楽しんでつきあっていたときに、論語の素読をやって朱子の集注や徂徠、仁斎を自分なりに消化して紹介したりしていたときに、初めて目を通した程度だったし、良く取り上げられた『現代政治の思想と行動』もその中のごく一部を読んだだけで、例のごとく丸山の著作も一冊残らず売り払っていて手元にはなかったので、結局マーケットプレイスで一番安値のやつを買い戻す羽目になりました。
それでも半世紀前には知らなかった(出てなかった)日本政治思想史の講義録や丸山が遺した私的なメモというべき『自己内対話』なんてのがあるのを知って、この時期になってひどい寄り道(笑)。後者などちょっと読んでみると、彼がめったにみせない素顔というのかホンネが出ているようで面白くてつい本棚の前に座り込んで時間をつぶしてしまったり・・・。
いやそれにしても、丸山が「講座派の批判的継承者」として日本社会の政治的・観念的上部構造を考察しようとしたのだ、という柄谷の言い分にはずいぶんと違和感を覚えました。もちろん天皇制の問題やいわゆる「封建的遺制」として片付けられた幻想領域の問題を社会主義革命論を唱えた労農派がその理論上先験的に除外してしまったのに対して、二段階革命論を唱えた講座派の論理なら先験的には除外することにならなかった、という意味ではそうかもしれないけれど、それは別に講座派の志でも何でもないだろうという気がします。
そして、もし天皇制とは何かを問うきっかけを与えた、とか柄谷が一般化して言うように「観念的・政治的上部構造の次元は、根本的に経済的下部構造に規定されるとしても、それ自身、相対的に自立的な構造を有する、ゆえにそれを解明しなければならないという課題」に答えようとして地道な努力を重ねてきたのは、私の記憶ではマルク主義に意志論、国家論が欠けているという認識のもとにその領域を開拓してきた三浦つとむや、津田道夫らから滝村隆一にいたる政治的な同人誌みたいなマイナーなメディに拠りながら国家論を展開してきた戦後のマルクス主義者であり、それらを踏まえながらも、マルクスの自然哲学に柄谷流に言えば「可能性の中心」を見出して読み替えていくことで、全幻想領域に独自の理論を構成していった吉本隆明以外に、「下部構造とは相対的に自立的な構造を有する」幻想領域の理論を徹底的に追究しえたひとはいないだろう、ということになります。そんなところで丸山眞男など顔を出す幕はないでしょう、と。
もちろん日本の天皇制ファシズムがドイツやイタリアの社会ファシズムのようなものとは異質なものであることは丸山の論理展開の基軸にあるけれども、そういう政治思想史的な論及を上記引用の柄谷のように「一般化」して、幻想領域の(下部構造からの)相対的に自立的な構造を解明するという「講座派の継承者とみなすのは牽強付会もいいところのような気がしました。
だいたい、そういう一般化ができるとすれば、丸山の向かうのは、吉本さんのような全幻想領域の解明であるはずですが、彼が向かったのはあくまでも「(政治)思想史」です。そこを柄谷は奇妙に混同させた言い方で、幻想領域の次元は経済的下部構造に還元できず、固有の問題がある、という一般化した話を丸山の「政治学」に強引に結び付けて、こんなふうに言います。
”彼にとって、「政治学」は、経済的下部構造から相対的に自立した政治的次元を見るものであった。そして、それは観念的上部構造の歴史、つまり、思想史を問うことと重なる。”
おいおい、「観念的上部構造の歴史」イコール「思想史」(丸山について言っているのだから、もっと狭く「政治思想史」というべきでしょうが)なんですかね?(笑)
丸山が柄谷の評価のとおりなら、(政治)思想史の研究などではなく、三浦つとむや津田道夫らがそうしたように、意志論、国家論へと向かったことでしょう。マルクスはそうした幻想領域についてはヘーゲルまでの観念論でよく展開されてきた、として自らその構造に深入りして系統的な著作を残すことはなかったから、彼が比重を置かなかった幻想領域の構造の解明は残されたままで、マルクス主義者にとって国家論はひとつの理論的なアポリアのような様相を呈してきたのだと思います。それに正面から取り組んできたのは上述のような人たちであって、そこに丸山眞男の名を登場させるのはとても奇妙に思えます。
柄谷は市民運動を唱えた丸山の考えが、西欧の個人主義にもとづく市民主義だとみなされ、知的エリート主義だと非難されてきたと言い、1960年の反安保闘争のときにも、学生運動家からは「市民主義者」として軽く見られていた、云々と述べてそうした批判は当たっていない、丸山の取り組んできたのは市民主義やリベラリズムではなくて一貫してマルクス主義の問題だった、として先のような「講座派の批判的継承」者という位置づけに強引にもっていきます。
そこらから私の半世紀ほど前の印象とずいぶんずれてきて、わたし(たち)にとって、丸山はまさに市民主義者であり、リベラリズムの標榜者であり、もっと言えば西欧思想にあこがれ、知識人としてその思想を身に着け(たと自任し)、その視点から日本の遅れた社会、或いはその特殊性を否定的に剔抉していく、という典型的な鹿鳴館型日本的知識人にほかななりませんでした。それは、丸山の天皇制ファシズムの特質を指摘したり、日本政治思想史にすぐれた業績を残した、というようなこととは別の問題であって、その思想的な資質、態度、知識人としてのありようとして、私(たち)には見りゃわかるだろう、というほど自明のことだったように思います。
柄谷はしばしばマルクスが若いころにデモクリトスとエピクロスの哲学の「微細な差異」に着目して独自の自然哲学を形成していったエピソードに触れながら、通俗的な「対立」する思想のようなものではなく、いつも見過ごされがちな、わずかな差異に着目して、それを思考展開のバネにして、全体の見取り図を転倒してしまう、という風な方法を得意としてきたように思います。
丸山に対しても柄谷はどうやらそういう視点で、通説的な丸山観をひっくり返そうとしているのかもしれません。けれども、柄谷の方法というのは、ときに奇妙な矛盾に逢着するような気がしてなりません。たしかに、通説ではこうなっている。けれども、そこにある些細な差異に着目して掘り下げていくと、その通説全体がひっくりかえるような視野が開けてくるぜ、というのは、なかなか読み物としては面白い(笑)。小さなテコでもって既成の大きな説をひっくりかえすのですから、見ごたえがあります。しかし、そのことによって、逆に、その否定されるに至った従来の「通説」がもっていた、大局的に見た時やっぱりこうだよね、という真実のほうは何だかすっかりひっくり返されて、もはやそこにいかなる真実もないかのような印象を与えてしまいます。
例えばマルクスの価値形態論に「可能性の中心」を見出して、そこから既成のマルクス観を或る意味でひっくり返すような議論を展開した彼の著書をなかなか鮮やかなものだな、と思って読むのはよいけれど、じゃそれでマルクスというのはその「可能性の中心」に集約されてしまうものなのか。従来、私的唯物論の創始者のごとく言われ、いわゆる下部構造に還元された形で人間の歴史を自然過程として見る観点というのはそうした限定を付しても否定されるべきものなのか、或いはマルクスの「可能性の中心」に近視眼的に着目するあまり、彼が古典経済学の延長上にあったというようなことは嘘八百の俗説だと葬り去って大過ないのか?と言えば、そうではないでしょう。
同様に、丸山眞男の著作を(私も拾い読みしかしていないけれども)全体見渡してみれば、とても柄谷のように「講座派の批判的継承」者として、幻想領域の下部構造からの相対的自立の構造を探究したなんていう「可能性の中心」に集約した像をつくりあげることはできそうもありません。どうみても柄谷が否定する、西欧文化に憧れ、心酔し、その観点から日本社会の遅れや特殊性を指摘した「市民主義者」であり、「リベラリスト」にほかならない、と大局的には判断するのがまっとうな気がします。それは政治思想史研究のようなおかたい論文だけでなく、彼の音楽趣味やらその他の文化・教養のありようをみれば明らかであって、どう考えても柄谷の見出した「可能性の中心」をてこにひっくり返すことはできそうもない気がします。
もちろん、どんな思想もそう単純ではなく、多面的な要素を持っているものですから、その中に入り込んで部分を拾い出せば、いやこういう面がある、と不当に強調してひとつの虚像を作り出すことは不可能ではないでしょう。
書店でたまたま立ち読みした、プルードンの「貧困の哲学」の比較的新しい翻訳の訳者解説を読んでいたら、これを批判して揶揄するようなタイトル「哲学の貧困」を書いたマルクスが、いかにプルードンの思想にアンフェアに、偏った読み方をしてプルードンを不当に否定しているか、ということが憤懣やるかたない調子で書かれているのを見て笑ってしまいました。
私もプルードンを読まずにマルクスの批判を通じてプルードンのこの原著のことを知っていただけですから、本当のところは知りませんが、きっとそうなんだろうな、とは思いました。独創的な思想家というのは相手のタームに忠実に寄り添って理解していこうというより、強引に自分の思想のこやしとして引寄せて読むものだから、或る意味で誤読によって新たな思想を生み出していくようなところがあるものでしょうから、マルクスもきっとそういう読み方をしていて、プルードンを愛する研究者からみれば、なんという不公平な!と思うのは無理ないかもしれないな、と。
そういう意味でなら、きっとどんな思想も通説で片付けられてしまっている否定的評価に対して、いやそうじゃない、この人は本当はこういう現代にも通じる価値を持つ人なんだよ、と再発掘できる面が一つ二つはあるのかもしれないし、それは可能なのかもしれません。
こうしてたとえば蓮實重彦が吉本隆明と対談したときに、自分が尊敬する中村光夫を西洋のモデルで日本社会の遅れを指弾しただけのやつじゃないか、とコテンパに否定されて、いや中村さんはそういう人じゃない、こうこうで、と抗弁することができるだろうし、吉本さんに叩かれたあと「元気がなくなってしまった」(埴谷)花田清輝も古典的なマルクス主義者(≒スターリニスト)として否定されるべき人物ではなくアヴァンギャルド芸術論をはじめ現代の情報化社会の文化現象を論じた先駆者みたいな存在として再生できるし、丸山眞男もまた、講座派のやり残した課題に挑んで、幻想領域の相対的自立の構造を解き明かそうとした社会主義者であり、永久革命者として柄谷によって甦る、というわけなのでしょう。
saysei at 01:12|Permalink│Comments(0)│