2019年03月
2019年03月29日
玉三郎の「阿古屋」
実はこの「阿古屋」を玉三郎が演じるのを観劇したことがあって、琴、三味線、胡弓を次々に弾きこなす玉三郎の離れ業に驚嘆させられた覚えがあったので、あのときの感動を思い出して懐かしく記事を読んだのですが、この記事の公演で阿古屋を演じたのは玉三郎ではなくて、31歳の四代目中村梅枝、同5日には24歳の六代目中村児太郎だったそうで、いずれも玉三郎がその芸を伝えたお弟子さんだったようです。そして、二人は同じ舞台上で立役の岩永を演じる玉三郎が見守る中、無事に阿古屋を演じたと。
かつて現代劇やオペラやと、本当に色々な新しい試みに挑戦して歌舞伎役者の新しい生き方を切り開いた玉三郎が、歌舞伎の秘芸を後継者たちに伝えようと本気になってやっているんだな、というのを感じさせる記事でした。
玉三郎の鷺娘や藤娘は舞台だけでなく何十回ビデオで見返したか分かりません。別に歌舞伎が特別好きなわけでも研究しているわけでもないけれど、一つには学生さんたちと一緒に見て、日本の歌・舞・伎の発展史の中で、こういう成熟したパフォーマンスが出て来たことの意味を味わってほしいと思ってきたせいもあるでしょう。ただ好きだったからかもしれませんが(笑)。
素顔の玉三郎さんには、一度計画倒れに終わった大阪の幻の「舞台芸術総合センター」のプレイベント、それも第1回に記念講演をしていただいたことがあります。私は事務局の末席にひかえていて、同じ会食の席について直接間近にお目にかかりましたが、女形にふさわしい細身・撫で肩の優しい顔立ちで、思っていたより背が高いなという印象がありました。舞台で女形を演じるときはずっと腰をかがめているのかもしれません。
いつだったか熊本の仕事をしていたときには、八千代座で玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」という有吉佐和子原作の幕末の横浜の遊廓を舞台にした、ちょっとかわったお芝居を見たことがあり、そのときには比較的間近の桝席で見たせいか、腰をかがめるような演技をしていなかったせいなのか、玉三郎が花魁の亀遊には少々長身の意外にがっしりした躯体を持て余し気味のように思えました。
舞台芸術センターの企画では、もうひとつ、ラストに近いほうで、先代の市川猿之助さんにご登場いただき、京都造形芸大でやったような歌舞伎ワークショップを、猿之助の若手軍団を率いて、公募で集まった若い受講生たちに手ずから指導してもらい、最後に中座(いまはありませんが・・・)で上演しました。プレイベントはもちろん運営組織と複合劇場施設が整えば、そこで引き継いでそのまま劇場の事業につながっていくものとして構想し、継続されてきたのですが、残念ながらバブル崩壊で予定の劇場の背後に立つオフィスビルの保留床の売却を劇場の建設・運営の財源に見込んだ計画は崩壊し、計画は頓挫してしまいました。
しかし、数年をかけてプロデューサーの林(信夫)さんや中根(公夫)さん、松原(利巳)さん、河内(厚郎)さんら、望みうる最高のワーキンググループのメンバーを中心に、国内外の劇場の綿密な調査をふまえ、じっくり練り上げた計画はいまも、できることならそのまま実現すればアジアを中心とする世界のパフォーミング・アーツに関わる人たちが集まり、ここで交わり、創造し、人材を生み出していくような拠点になるだろうと思っています。
もはや望みがなくなったのちのことですが、中根公夫さんにお会いしたとき「あれだけいい計画があそこまでできていたんだから、そのまま作ってくれたら言うことなかったのにね・・」と言われたことが耳の底にこびりついています。
あれから何十年、ふと新聞でまたぞろ中之島に劇場コンプレックス、梅棹さんらの中之島芸能センター構想の再現、なんていう小さな記事を見て、またそんな「振り出しに戻る」をやっているのか、と思いました。
日本の地方自治体というのは、まったく同じ目的のために膨大な時間をかけ、最も優秀な人たちの知恵を結集してそのエネルギーを惜しみなく注いで積み重ねて構築した計画、その過程での貴重な経験、創意の蓄積をいとも簡単に無視し、振り捨てて、まったくゼロからまた試行錯誤で膨大なエネルギーやお金(つまり市民の税金)を投じてやりたがるのですね。
ひどい場合には、前の経験を熟知してさえいれば絶対に犯すはずのない、以前に犯した過ちや、逆に前にやらなかったような過ちさえも、無知や未経験のために犯してしまったりもする。
いま大阪は4つの選挙でおおわらわのようですが、いずれが勝とうが敗けようが、こういうことは市府民にとっては議員さんや首長の顔が変わるよりずっと大事な問題だと思いますが、誰もそういうことには気づかないんですね。
話があっちへいっちゃいましたが(笑)、玉三郎というのは不思議な人ですね。いろんな境界を踏み越えていくのはきっと歌舞伎の世界では大変な、勇気の必要なことだと思いますが、ずっとそのチャレンジを続けてこられたし、本来の歌舞伎の精進のすごさというのは、あの「阿古屋」の三弦を聴いたときに生涯心に刻まれるほど深く感じさせられました。いま若い後進にその芸を伝えること全力を注いでおられるらしい姿もすばらしい。ずっと健康で本懐を遂げてくださるよう遠くから祈っていたいと思います。
本満寺の枝垂れ桜 咲く
先日、天使と二人で訪れたときは、まだやっと咲き始めだった、出町の本満寺境内の枝垂れ桜がみごとに花を咲かせていました。きょうも空は薄曇りなので、桜の色と空が溶け合ってしまいますが、これでスカッとした青空だったら、どんなに美しく映えることかと思います。
穴場と思って行ったけれど、やっぱりみんなウェブサイトとかで調べて知っているんですね。けっこうたくさんの人が見に来ていました。でもこうして全体を撮るのに邪魔にならない程度。互いにちょっとあとさきを譲り合って写真を撮っていました。
枝垂れはこうやって雪が雪崩れるように見えるところが素晴らしく綺麗ですね。
これは枝と花の傘の下に入って、下からみあげた図。
枝垂れる部分がとくにいい感じ。
雪崩れてくる花を見上げて
庭やお寺の建物とよく似あうようです。
うっすら青空がみえます。
しつこいようですが・・・みんなたった一本の枝垂れ桜です。
本満寺の入り口にある妙見宮の鳥居の脇の桜は染井吉野でしょうか。まだ蕾が多い。
境内にもう一本立派な、たぶん染井吉野らしい桜があるのですが、それもまだ蕾。でも来週には綺麗に咲きそうです。
本満寺を出て相国寺の東門のほうへ歩くと、どこかのお宅の塀ごしすぐそばに、とても綺麗なモクレンが咲いていました。
先日下見に来たときとは逆のコースをたどり、本満寺を出ると相国寺の東門から境内を西へ抜けます。
相国寺の西門を出て烏丸通りを北へ上がっていくと、同志社大学の烏丸校舎「高志館」というレンガ色の建物があって、その前に雪柳が綺麗に咲いていました。
そこからさらに少し上がって西へ入っていくと、妙顕寺の境内にでます。ここの桜も染井吉野でしょうか。まだ咲き始め。
本法寺の塔の前の桜は少し咲いていました。
本法寺の西側の路地から北へ出ると公園があって、水火天満宮の枝垂れ桜が目の前に見えます。
下見のときはまだまだでしたが、きょうは綺麗に咲いていました。本満寺の枝垂桜とはまた種類が違うのでしょうね。本満寺のは淡い色でしたが、こちらはかなり紅が濃い印象でした。
でも狭い境内にわっと広がって枝垂れ、とても綺麗。
ここも日本人観光客や外国人夫婦がいました。
でもどちらかといえばお花見スポットとしては穴場かもしれませんね。
きょうも「下見」のつもりで、いいお花見ができました。
そういえば昨日は天皇・皇后両陛下が、先日私が天使と散歩して訪れた京都御苑の旧近衛邸跡の桜をご覧になっていましたね。
また同じく「下見」と称して哲学の道へ行ってみて、近くの橋本関雪記念館の庭園へ入ったばかりですが、昨日の朝刊だったかにまさにその橋本関雪記念館のことが大きく出ていた(朝日か日経)ので、おやおや、と思いました。私にはなぜかこんな偶然がよくあるような気がして(笑)
2019年03月26日
哲学の道の桜と白沙村荘 橋本関雪記念館
きょうはコート要らずの温かな日でした。午後、日曜日に2人目の天使を迎えるための下見を兼ねて、ちょっと哲学の道を訪れてみました。
さすがにここの桜はまだ蕾。
あと5日たっても、そう綺麗に咲くというわけにはいかないなと見極めがつきました。
帰りに、哲学の道から銀閣寺道へ行くところに、いつも見ていたこんな看板があり、入って見たことがなかったので、ちょっと寄ってみました。橋本関雪という画家の絵は何度も見たことはありますが、私には関心が持てなかったので、これまでは通り過ぎていたのです。
画家橋本関雪が精魂こめて30年かけてつくったとか。1万平米におよぶ広い敷地に、いくつかの瀟洒な建物や池があり、流れがあり、樹々の下には苔が美しく植えられ、そこに古い石仏や灯籠などが据えられて、散策によい庭園です。
芙蓉池と名付けられているらしい池の向こうに立つのは1919年建造の、大作を制作するための画室存古楼でしょうか。
こんな小道で庭園内をめぐっていきます。
池に橋がかかっていて向こうに見えているのは1932年建造の小間と広間を備えた茶室倚翠亭でしょうか。
これはさきほどの存古楼。
これは芙蓉池の南側の瑞月池の東岸にある茅葺きの四阿(あずまや)如舫亭というのかな。1917年建造、1932年移築とあります。
如舫亭のほうから向かいの倚翠亭(向かって右)と憩寂庵が並ぶのを見たところ。
おなじく。如舫亭の後ろを左手に回り込んだ位置から。
瑞月池の石橋を渡って憩寂庵のほうから逆に如舫亭を振り返る。
瑞月池の橋から北をながめる。
倚翠亭越しに。
倚翠亭の裏(ほんとはこっちが表ですか‥玄関ですもんね)へ回り込んでみる。背後に遠く大文字。
存古楼の西側にある持仏堂です。鎌倉時代の地藏尊立像が祀られた御堂だそうで、1919年建造左の池は浄土池というのだそうで、持仏堂の背後をぐるっと細くめぐって芙蓉池につながっています。
浄土池の背後の小高い、小さな竹林には幾体もの羅漢さんらしき石仏が坐してござった。
画室存古楼を西側の窓を通して見てみました。ここは右手の入り口から上がれましたが、別に何もありませんでした(笑)。
裏側から全体を見ると、階上のあるなかなか入り組んだ建築のようです。
観音石柱と書いてあったのかな・・・。桃山時代と会ったので、ずいぶん古いもんですね。石灯篭みたいな形ですが、灯籠なら空洞になっていて蝋燭を立てるところも石で表面に幾体もの観音像のレリーフが彫られています。
存古楼の脇にある夕佳門と名づけられているらしい門。葺いて苔むした屋根が大きくて旅僧の笠のようなイメージのちょっと面白い門です。
存古楼の池に面した縁に坐って芙蓉池を眺める。黄金色の大きな鯉が悠然と泳いでいました。
存古楼を背景に、脇に立つ碑。「不許酒肉・・」までは読めますが、あとが読めません。現場で良く確かめてくればよかった!「・・葷辛食入門」かな・・・要は酒や肉のような臭いの強いものを持ち込んだらあかんよ、ということなのでしょう。寺の門前なんかに建てられたのを持ってきたのでしょうね。静かな環境ですから、そんなのもち込む人はないでしょうが・・・
存古楼のほうから、もう一度倚翠亭と如舫亭のほうを振り返る。
実はこの庭園の一番西端の奥に、コンクリートの2階建ての美術館というのが建てられていて、2014年から開館して関雪の作品や資料を展示してあるんですね。私は来た園内の道を引き返して入ったところから出てしまったので、園を出てから入るときもらったチラシの地図や解説を見て、あぁあれば美術館だったのか(笑)。そういえば受付でおばさんがなんか一番奥に美術館がある、みたいなことを言ってたな、と思いだいましたが、時すでに遅し。庭園の中の風情ある木造家屋の数々を見たあとで、隅っこに立っているあんなつまらないコンクリートの箱が、まさか関雪の美術館だなんて思わず、趣味の悪いいまの管理者が管理棟か何かとして建てたんだろう、くらいに思ってパスしちゃいました。
関雪の作品が好きならほぞを噛むところですが、私の場合は、庭だけで結構堪能して疲れちゃったし、まぁいっか・・・(笑)
2019年03月25日
20年前の花見句会
大学に奉職して1年目、はじめてのゼミの卒業生をたった1年だけみて送り出し、これほど気持ちが落ち込むものか、これでこの先自分はやっていけるんだろうか、と心許なく思ったことがあります。
そのときの学科6期生は、全員がいまも「元祖・天使」(笑)として、関西在住の人とは毎年あつまって会っています。先日数えてみたら、彼女たちのお子さんが(私の把握している限りで)なんと平均一人2.1人!いま集まると子供の数の方が多くて、周囲を駆けまわっています。「天使」というよりは、もはや「マリア様」ですね(笑)
彼女たちがゼミなら、クラス担任は彼女たちが卒業して翌月4月の新年度に担当した学科の10期生です。私にとっては黄金時代(笑)、今お付き合いのあるOGの中では「お姉さん天使」かな。
学生さんに至れり尽くせりの大学は、クラス担任という制度を設けて、ゼミに配属されるまでの2年間、なにかと面倒をみていたわけです。週1度、クラス担任が担当する初期演習というのがあって、何をやってもいい(と少なくとも私は学科長に言われて、そう理解していました)ということで、私はとにかく色んなところから来て、知らない者どうしが40数名も集まってこれから学生生活を送る上で不安がいっぱいだろう、と思ったので、何はともあれ互いに知り合い、仲良くなることだ、とそれだけを目標にして、そのしょっぱな、1学期の最初の初期演習の時間に、荷物を全部鍵のかかる私の研究室に置かせて、近くの河川敷の公園へ花見に行く!と。
しかし、ただ花見に行くのじゃなくて、そこで一人最低3句、俳句をつくること。それをあとで回収して発表する!ということにしました。みんな日本の学生さんだったので、小学校のときから何らかの形で俳句ってものがどうやら季節の風物を五・七・五の音数律で詠めばいいんだな、くらいのことは理解しています。私にしたって、実は殆どそれ以外の季語がどうの切れ字がどうの、なんてやかましいことは知らない(笑)。要はちょっとくらい頭もひねりながら、わいわいやって友達を作ってくれればいい、と思っていたのです。
河川敷までは私なら歩いて10分ですが、彼女たちがおしゃべりをしながら歩くとまず30分はかかる(笑)。往復で1時間。次の授業までに帰ろうとすれば向こうには30分しかいられないな、と思ったけれど、ままよ!と出席番号順に適当に即席の班をつくって出発。
これが結構うまくいって、彼女たちは積極的に互いにお喋りしあい、一気にクラスとしての雰囲気が醸成できたようです。
おどろいた 初期演習で お花見へ
先生の 緑のポシェット かわゆいな
桜道 新しき日に 友とゆく
てくてくと 歩くだけで 友増える
先生は 1年D組の お父さん
散りかけだ それでもサクラ きれ(綺麗)かった
満開の 桜の下で 笑い声
・・・・・
あとで回収した、彼女たちが詠んだ「名句」(迷句?)の一部です。そういえばあのころマリメッコの小さな肩掛けカバンを持っていってたな、と懐かしく思い出します。また、お花見と言いながら、もう桜の季節も終わりかけ、河川敷公園には薄紅の花びらがいっぱ散り敷かれていました。しかも雨もようの空。ひどいお花見でしたが、彼女たちは結構はしゃいでついてきてくれました。次の授業には少し遅れて、あとでひとことお詫びを入れなくてはなりませんでしたが・・・
先生もつくらな!ということで、俳句のできない私も無理やり、五・七・五だけを頭にひねり出しました。
雨まじり桜ふみしめ「初期演習」
桜道少女(をとめ)らの声花吹雪
見上げればさくら啄むすずめかな
花影にはや萌え出(いづ)る緑かな
チューリップ 花の杯(さかずき)雨をうけ
民俗学者だった友人がいまプロの俳人にまじって俳句論などを本格的にやっていて、自分でも句作しているので、一度教えを乞わないといけませんね(笑)。
私は小学校2,3年のころに、父母が会社の人と休日にうちへ集まって月一度くらい、趣味的な句会をやったりしていたので、そのときに母が何を思ったか急に「あんたも作ってみ」というので梅の句かなにかを何句がつくったのです。どうやら母はそれをこっそり句会へ出してやろうといういたずらを企てていたらしいのですが、親しい父の同僚のおじさんに訊かれて私が自作を言ってしまったものだから、それを知った母が「な~んや、言うてしもたらあかんやない。あんたが作ったんやったら入れたろか、ってなるでしょ。」
それでは面白くない、と出すのをやめてしまって、私の方はそんなものか、と何だかやる気をなくして、それ以来俳句…ともいえない五・七・五とは縁のない人生をすごしてきました。
私には五・七・五ではどうしても足りなくて(笑)、あとに七・七とつくほうがしっくりきます。でももちろん短歌なんてものも、人のを読むことはあっても、恐れ多くて作ろうなんて思ったことはありません。でも初期演習のこの句会の時は、学生さんたちと一緒に調子に乗ってつくったのが残っていました。
春は残酷な季節と歌ひし詩人あり 六期生巣立つ
振り向かずゆけと君をば送りにし 踏みしだかれしさくらみちかな
散る花に小雨まじりのさくら道 一年のはじめ「初期演習」
薄紅のさくら踏みしめ少女(をとめ)らの さんざめく声川面に響く
薄紅の花踏みしめて少女(をとめ)らは はや見つけおり新しき友
花散りて人影もなきさくらみち 幼子(おさなご)のごとブランコをこぐ君
めぐり来し春の川辺のさくらみち 亡き母と掛けし石垣に寄る
渾名(あだな)言ひ 葉が先ゆえとからかひし 母みまかりて山桜咲く
お粗末!(笑)。学生さんらに見せたら短歌をつくりなれている親に見せて、大恥をかいても・・・となんとか凡庸でもいちおう歌になる程度に直してもらえんかと思って、早川幾忠さんに歌を習いすごく歌作のうまかった義母に見せたら、「これはあなたの表現としか言いようがないから・・・」と苦笑して、そっと返されました(笑)。
口直しに私がそのころ書き留めていたらしい、プロの花の歌を写しておきましょう。ただし桜以外の花もまじっていました。家持のこの歌や、與謝野晶子の歌はいまでも好きです。
春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つをとめ(大伴家持)
いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな(伊勢大輔)
久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ(紀友則)
花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町)
人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞむかしの香ににほひける(紀貫之)
高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞たたずもあらなむ(大江匡房)
清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき(與謝野晶子)
なにとなく君に待たるるここちして 出でし花野の夕月夜かな(與謝野晶子)
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ(石川啄木)
くずの花ふみしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり(釈迢空)
こんなことを思い出したのをきっかけに、そろそろ好き放題放言だらけの「(極私的)女子大の15年」ってやつを書いておこうと思っているのですが、なにしろ気が多くて、実行力はまことに貧弱なので、その前にくたばってしまうかもしれません。そしたらホッと胸をなでおろす人があるかも(笑)。
つくし摘み
春になったら二人で自転車で青葉の瀧を見に行かう・・・
太宰の『人間失格』で葉蔵がひとを疑うことを知らない、汚れなきヨシ子の「ヴァジニティ」に打たれて、即座に結婚しようと心を決め、たとい「どんな大きな悲哀(かなしみ)がそのために後からやって来てもよい」と思い、人なみに結婚して、ささやかな幸せをつかむんだ、と自分を励ますように考える場面に登場する言葉です。
彼のいう「ヴァジニティ」は、処女性と言い換えたりされていますが、『人間失格」の文脈で言えば、本当は人を疑うことを知らない無垢の信頼を宿すことのできる性質を指すといってよく、猜疑心が強く人一倍傷つきやすい主人公は幾度も自分が信じた人に裏切られ、酒とクスリでごまかすほかに命を長らえることのできないほど繊細な男で、何も信じられなくなっているから、「ヴァジニティ」なんて「馬鹿げた詩人の甘い感傷の幻に過ぎぬ」と思ってきたのです。それがヨシ子に出会って、いやそれは「やはりこの世の中に生きて在るものだ」と感じて、ささやかな夢を見るわけです。
自分で自分をもてあまして、どうすることもできない袋小路に迷い込んでいるように感じていたころ、親しい友人たちとの間で、この「青葉の瀧を見に行く」ことは、すぐそこにあるようにみえて、既に汚れてしまった自分たちには、望んでも得られないかもしれない、そしてこの手に掴んだと思ったら脆くも消え失せてしまうかもしれない永遠の夢を象徴するようなイメージでした。
先日、私を訪ねて来てくれた若い天使と二人で、郊外の川辺でつくしを摘んだとき、そのことをふと思い出しました。私はかねて彼女がもしこの季節に来てくれたら、その川辺へぜひ連れて行って、幼な子のように嬉々として、一緒につくしを摘みたいな、と思っていたのです。あまり何度もその姿を想像したので、すっかりその光景が親しいものになっていたほどです。
幼いころ、伊勢の祖父母のところへ(母の長年の闘病生活のために)預けられていたころですが、近所の仲良しの女の子と二人で、村の境界を形づくっている川の堤の草叢で顔を出したつくしを摘んだ記憶があります。夕陽が沈むのを見ながら、ここにもある、こっちにも、とただひたすら小さな手でつくしを摘んでいた、何を喋っていたのかも、それから彼女がどうなったのかも、いまではすべて記憶の彼方、ゆめ幻のごとくです。
しかし、幼い私が、大人たちも年上の子たちもいないそんな二人だけの世界で、ひたすら堤のつくしを摘んでいるだけの時間を、とても幸せに感じていたことだけは確かです。
天使はつくし摘みは初めてだったらしく、私の勝手な夢につきあってくれて、狭い川辺の傾斜面に下りて手をのばし、よく伸びたつくしを一緒に摘んでくれました。彼女のために買ったよもぎ餅を出して空いた小さなビニール袋に摘んだつくしを入れると、一杯になるほどとれました。
その日の夜、持ち帰ったつくしをパートナーと、胞子化した頭や袴をはずし、彼女が煮込んで佃煮にしてくれました。シャキシャキとしたはごたえがあって、独特の苦みがとても美味しい佃煮ができ、ここ数日はご飯のときに食べていて、長男の弁当にも添えられているようです。
籠(こ)もよ み籠(こ)もち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
万葉集の冒頭に置かれた雄略天皇作とされるこの歌は大好きな歌です。
籠をもち、掘串をもって若菜を摘む少女(おとめ)はきっと巫女かなにかなのでしょうし、神事に用いる初春の若菜を丘で摘む姿なのでしょう。
私にとって、つくしを摘む少女は、この巫女のように無垢な天使。葉蔵のいう「ヴァジニティ」の本当の意味、<信頼>について希望を与えてくれるような存在です。
私は左肩を折ったせいでまだ自転車に乗るのは怖いけれど、どうやらあの世へ行く前に天使と二人で「青葉の瀧」を訪れることができたような気がしています。きっと葉蔵は泣いてくやしがるでしょうが(笑)・・・
つくしの生えていた川辺はほんとうに小さな川で、つくしのある堤もわずかな斜面の帯状の草叢にすぎません。パートナーは「つくしがあったなら、クレソンなんかもあるかもしれないわよ」と言うので、次の機会にはパートナーと二人でクレソン摘みに行って見ようと思っています(笑)。