2019年02月
2019年02月25日
手当たり次第に XXXⅥ ~ここ二、三日みた映画
ここしばらく寒いのと金欠病で(笑)、映画館通いはしばらくお休み。映画館で見たのは2本だけで、あとはビデオです。
シンプルメン(ハル・ハートリー監督)1992
前回書いた「アンビリーバブル・トゥルース」(1989)、「トラスト・ミー」(1990)に続く、ハル・ハートリー監督の1992年の作品で、同じく出町座で見ました。
「犯罪者の兄と真面目な学生の弟が、父を探す旅の途中で真実の愛に出会う姿を描くハードボイルド調の人間ドラマ」(Movie Walker)、一口に言ってしまえばそうですね、たしかに(笑)。
だけどこの「犯罪者の兄」ビル・マッケイブは根っからの悪党というわけでもなく、どちらかというとドンクサイ、ドジな犯罪者で、最初のほうでもう仲間と恋人にあっさり裏切られる孤独な犯罪者ですね。
二人の父親ウィリアムはもと大リーガーの野球選手だったらしいけれど、国防省の爆破テロの犯人として逮捕され、病気を装って運ばれた病院から脱走しているんですが、どうやら思想犯(アナキスト)らしくて、最後のほうで兄弟が彼をみつけて訪ねて行ったら、船の上でなんか昔の古典的な新左翼のアジテーターみたいに演説している。風貌は戦後一人で毎度選挙に立候補していた右翼の赤尾敏みたいなおじさんですが(笑)。
その話を聞いているごくごく少数の聴衆(たしか2-3人でしたが・・・笑)の中に、ウィリアムのずいぶん歳の離れた若い愛人でルーマニア人のエリナがいて、アナキストとしてのウィリアムに心酔したような面持ちで演説を聞いています。
このエリナに兄弟の弟デニスのほうが好意を持つのですが、エリナの方は父親のウィリアムを愛していて、脱走犯であるウィリアムが夜中にこっそりと愛人の彼女のところを訪ねて来て、彼女が翌朝いなくなっていることに気づいた兄弟が、きっとエリナの愛人であるウィリアムがひそかに来てエリナを連れ出したんだ、というので探して、とうとう父親をみつける、というストーリーです。
デニスのほうは父親に会うのは初めてだったんですね。そして、会うなり父親から殴られ、「俺の女に手を出すな」と言われる(笑)。デニスがウィリアムに国防省の爆破をほんとうにやったのかと訊くと、やっていない、とホンマかどうかは分からないけど、否定します。で、デニスはこの父親と一緒に手配されている兄も船で逃がそうとします。
その兄のドジな犯罪者ビルのほうは、父親を捜して訪ねて来て泊まっていた民宿の大家ケイトという女性が好きになり、関係を結びますが、彼女にはジャックという前の夫がいて、彼がいつ帰ってくるか、というのも一つの緊張感を与えています。
ラストは、兄を逃がそうとしたデニスのほうが先に保安官につかまり、ビルはいったんはケイトに別れを告げて船が待つ港へ車を走らせますが、父親の出航を見送って、自分は保安官につかまるのを承知でケイトのもとへ帰ってきてしまいます。
ものすごく古典的なアナキストの爺さんと、その彼の愛人で、彼にというよりその思想に心酔しているらしい、今どきあり得ない感じの若い女性、その女に惚れる生真面目哲学生デニス君、そしてドジな強盗犯で一夜限りのはずの女に惚れて捕まりに戻ってきてしまうビル、男なんてみんな愛を囁いていいようにするけれど、思い入れすれば裏切られ、去って行ってしまう勝手な存在だと分かっていながら関係をもち、男が去っていけば男なんてそんなものだと自分に言い聞かせ、あきらめようとする女ケイト、そして脇役だけど、なんか人格崩壊寸前みたいな若い保安官・・・と変な人ばっかり、そしてなんともチグハグな相互の関係・・・・
この幾分か滑稽味も感じさせるチグハグさの中で、それだからこそ、唯一おおまじめで監督が残そうというのが兄弟それぞれのメロドラマ的純愛なんでしょうか。
まぁそういう物語のほうは、正直のところ、しょうもないと思いました。でも、登場する女性、ケイトとエリナは、一風変わった個性的な存在感があって、この映画の中でひとつの魅力になっているように思いました。二人共ちっとも美人じゃないし、ケイトさんなどはちょっとマツコさんタイプだし(笑)、なかなか個性的でした。
兄ビルを演じたロバート・ジョン・バークって人は「アンビリーバブル・トゥルース」でも主演男優でした。この人はいいですね。
でも、今回みたハル・ハートリー監督のロング・アイランド・トリコロジー三作についての私の評価は、1位「トラスト・ミー」、2位「アンビリーバブル・トゥルース」、3位「シンプルメン」でした。
ランジェ伯爵夫人(ジャック・リヴェット監督) 2007
これはDVDで見ました。昔々大好きでバルザック全集を読みふけっていた中で読んでいた原作を、今回この映画を見たのをきっかけに引っ張り出してきて、もう一度読みました。バルザックとしては短いほうだし、私の記憶では、映画になるほどのドラマチックな展開があったっけなぁ、というちょっとした疑問があったからです。もっとも、あの短編「絶対の探究」から4時間の「美しき諍い女」という素晴らしい映画を作り出すリヴェット監督だから・・・という期待もあって。
今回も失望しませんでした。予想したよりずいぶん原作に忠実で、その点は原作で具体的なプロセスなどほとんど描かれない画家の創作過程を画家とモデルが対峙する姿に焦点をしぼって息づまるような戦いの姿として描き出してみせた「美しき諍い女」とはずいぶん違って、狙いもストーリー展開も原作に忠実だったと思います。
朴訥、無骨、不器用で思い込んだら一途な軍人としてしか能のない哀れな男の心を手玉にとって、意地悪くもてあそびながら自家薬籠中のものとし、自分に夢中にさせていくランジェ伯爵夫人の社交界の花形らしい手練手管がものすごくて、実に勉強になります(笑)。最初は私には夫がいるんですよ、という世俗の倫理観を楯にし、それが効かなくなってくると、次は神様が罪をお許しにならないという、宗教を楯にして、将軍の欲望を拒み続けるわけです。
もうすっかり自分の虜にしてしまって、しかも自分は何も与えない、この妖艶にして冷酷無慈悲な女性の本性があますところなく描かれています。曖昧なほのめかし、強い誘惑の言葉、むなもとの開いた大胆な服装、わざと疲れた風をして横たわり、そのくせ立ち去らせないで誘いかけるような仕草、わざと待たせる、わざと行かない、わざとつめたくする、おいでおいでをしながら拒否するダブルバインドの罠・・・将軍は社交界で「伯爵夫人の当番兵」と陰口を叩かれ、嗤われる身にまで自分を貶めてしまいます。
モントリヴォー将軍は無骨な将軍らしく社交べた。ナポレオンの将軍として軍功をあげて、単に軍人として英雄視されているがゆえにイタリア社交界に受け容れられているに過ぎないので、社交界の花としてしたたかにその社交界で生きている夫人の手にかかればイチコロ。
だからその「じらし」が度を超え、将軍の忍耐の限界を超えたとき、そのいわば復讐が乱暴なやり方になるのも、まぁ男としては(笑)やむを得んだろう、あそこまでいいようにあしらわれては、と同情したくもなりますが、将軍は彼女を拉致するわけです。
しかし将軍は彼女を殺すわけでも乱暴するわけでもありません。面白いのはこの事件がきっかけで、立場が逆転してしまい、夫人は将軍を本気で恋してしまってその身を任せようと将軍を訪ねる。ところが、将軍のほうはここで自分がかつてされてきたように夫人を冷淡に拒否し、その後自分がまだ彼女を愛していることを想い知って翻意するけれども、タッチの差で失意の夫人は修道院へ入ってしまいます。
映画の冒頭のシーンは、その修道院を探してようやくみつけた将軍が軍人の任務にかこつけてスペインのその修道院を訪れ、なんとか彼女に面会しようと画策して、ついにそれに成功し、フランス語の分からない院長を傍らに置いて、彼を拒む夫人に愛を告げて修道院からの脱出を乞う場面で、それが夫人の手で幕を下ろされたところから、回想が始まるわけです。
そして最後は将軍が手下を使って船で修道院のある場所へ近づき、断崖絶壁を超えて修道院に侵入して夫人を強奪してこようと試みますが、彼が発見するのは一室の床に寝かされた夫人の遺骸だった、という・・・これも原作のとおりです。
ランジェ伯爵夫人がそれほど魅力的な女性にみえるかと言えば、私にはそうは思えず、どちらかと言えばもう自分の年齢からくる女性としての容色の衰えが明らかで、それをとりつくろうのが精いっぱいで、社交界でかつてはその手練手管で花形だったかもしれないけれど、若い美しい女性が次々デビューして地位をだいぶ前から脅かされているにちがいない、とみられるような女性じゃないか、なんて思って、その点ではちょっと覚めて見ていました。首から肩、胸にかけてのあたり、痩せて骨ばって、ちょっと貧相で、とても妖艶さが漂ってくるようには思えませんでした。
でも服装はさすがにすごい。この映画の見どころは、彼が将軍を誘惑し、じらせ、引寄せながら拒み続け、どんどん将軍を自分の手のひらでいいようにもてあそぶようになっていく、戦略的な言葉や態度、仕草、そしてそういう彼女の社交界の花形としての「格」を支える、彼女の衣装や豪華な室内空間とそこに置かれた家具調度の類などのあらゆる要素にあると思います。
私が世界のありとあらゆる小説の中でもっとも好きなスタンダールの「パルムの僧院」でも、ナポレオン軍の若い兵士たちがイタリアの社交界のひとたちに「歓迎」される場面がありますが、そこではフランス人はどちらかと言えば野暮で野蛮な、よくいえば素朴でウブな田舎者扱いされていて、文明的に上なのはイタリア人たちのほう。フランス人がイタリアの文化に憧れを感じている様子が活写されていました。あれと同じ時代なので、ランジェ公爵夫人たちのイタリア社交界の面々とモンリヴォー将軍との関係にも同じ文化的、民族的、心理的背景が感じられ、的確に描かれているのを感じました。
いまでは私たちはイタリア人のほうが田舎者で、フランス人は文明人のように感じると思いますが、あの当時は逆だったんだろうな、と思います。
暗夜行路(豊田四郎監督) 1959
京都文化博物館での、芥川也寸志の映画音楽を特集するシリーズのうちの一本として上映されたのを見てきました。
中学か高校のころ、当時は教科書に必ず載っていた「小説の神様」志賀直哉の文章を読んで、彼の著作をいくつか読んだおぼえがあり、「暗夜行路」の全体として暗い印象と、主人公の時任謙作が動き出している列車に無理の乗ろうとする妻直子を蹴飛ばす(となぜか私は記憶していた)場面が印象にのこっていました。
今回映画を見て、原作に忠実な映画化だなと思いましたが、蹴飛ばしたわけじゃなく、謙作の手につかまって引き上げてもらおうとした直子を、あぶないからと突き飛ばすようにして列車から離そうとした、という映像をみて、原作を確かめてはいないけれど、自分の記憶違いだろうなと思いました。蹴飛ばすほど謙作が悪人だったわけではない(笑)。
でも記憶の中の時任謙作という男がひどく身勝手な、冷たい男だ、という印象はずっと残っていました。今回映画を見て、それは表面的には彼が不在の間に直子が従兄と過ちを犯したことから、彼が苛立ち、彼女に冷淡になったようにみえるけれども、従兄が無理に直子を手籠めにしたようなものだったし、直子の不義とは言いがたいところがあり、謙作は彼女を倫理的に責めることはできない。それが分かっているから彼は妻を赦す、許している、と言い、自分もそう思い込もうとしているのだけれども、感情がそれを許さない。どうしてもひっかかる。その苛立ちを彼女にぶつけてはいるけれども、彼が本当に戦っているのは彼の内部の感情であって、いわば彼の内部の理性と感情の相剋なので、それを解決するために彼は大山へ出掛けていくのだ、ということが、とても分かりやすく描かれています。
そのへんは原作ではきっと謙作の悩める内面の相剋というのをかなり詳細に描いていたのではないかと思いますが(すっかり忘れているので確かとはいえないけど)、映画ではやさしくひらたくそれが分かるようになっていて、謙作の言葉自体でもそれが説明されています。そして、大山で体調を崩して生死の境をさまようほど朦朧とする彼を、直子が駆け付けてきて、いわば和解するような場面で終わるわけですが、そのときの謙作の晴れ晴れした表情や、これから何があってもこの人についていくんだ、という直子の気持ちを語るナレーションが、その和解を、つまりは謙作の内部の悟りというのか、理性と感情の相剋の終焉を映像的に物語っていました。
ただ、こういう物語の展開だけ追えば、これはありふれた夫婦間の不倫ともいえない、妻のちょっとした過ちを頭では許しながら心では許せない狭量な夫が、その内面化した問題の「解決」のために自然の中へ逃れて行って、そこで日本的な「悟り」に至って和解する、というだけの、しょうもない話になってしまいます。それだと、謙作ってほんとに狭量なつまらない男で、作家かなんかしらんけど考え方も唯我独尊で、彼が勝手な独り相撲をとっているだけで、この主人公に寄り添ってこの映画を見ることはできそうもありません。
しかし、実はこの夫婦の物語には前段があって、そこでは、この謙作と、彼の面倒を見て来た、かつて謙作の祖父の妾であった女「お栄」との関係が軸になっています。謙作は幼馴染との結婚を相手の親に断られてその理由もわからずに悩んだ末、いつも同居してきたお栄と結婚しようと思い立つが、このときにお栄からも拒まれ、そのときも京都へ逃げ出すわけですが、そこへ兄の手紙が来て、謙作が祖父と母との不義の子であることを知らされることになります。幼馴染との結婚が断られたのも、お栄が拒むのもそれが原因であったことがわかります。
また、謙作が京都で知り合った直子と結婚することを契機に、お栄が杉村春子演じるやりて婆みたいな「お才」の誘いで謙作のもとを去って朝鮮へ出て行き、謙作の生活がここで変わる。さらに、そのお栄が騙されたような形でむこうで財産も失って困窮しているという知らせを受けて、謙作が迎えに行く、その間に直子の過ちがある、というふうに節目節目の展開をお栄が動かしています。
また、謙作が京都で知り合った直子と結婚することを契機に、お栄が杉村春子演じるやりて婆みたいな「お才」の誘いで謙作のもとを去って朝鮮へ出て行き、謙作の生活がここで変わる。さらに、そのお栄が騙されたような形でむこうで財産も失って困窮しているという知らせを受けて、謙作が迎えに行く、その間に直子の過ちがある、というふうに節目節目の展開をお栄が動かしています。
謙作が知らずに自分の生まれてくるときから背負ったこういう背景が、謙作という人物の内面と行動を動かしているので、単に夫婦の間で不運な過ちが生じて、というのとは違います。つまり彼にとってはそれもこれも自分が生まれる前から負わされてきた宿命だと思えるような必然性がセッティングされています。お栄とのことで京都へ逃げだし、直子とのことで大山へ逃げ出す、同じパターンが二度繰り返されるのも、それを強調していると考えればいいでしょう。
このへんは、蓮實重彦が昔、『「私小説」を読む』という文芸評論を書いて、その中でこの「暗夜行路」を論じて、この作品の中で時任謙作が特権的な立場であるのは、彼が偶数性に支配されているからだ、というような奇抜な(とそのころ思えた‥笑)議論を展開していて、それは謙作にとっては「父親」が二人(それまで実父だと思ってきた形の上での父と、実は実の生物学的な父親であった祖父)、「母親」も二人(実の母と、自分が祖父の子であるとすればその妾だったお栄は、祖父のもう一人の配偶者と考えれば謙作にとってはpseud「母親」になるでしょう。蓮實の議論はすっかり忘れていてこれとは違うかもしれませんが、お栄が謙作を拒むのは少なくとも潜在心理的には擬似母子相姦的なその関係が彼と男女になることを忌避させるからでしょう)、妻と過ちを犯す時任家への闖入者の従兄たちも二人、というようなことで、ほかの登場人物には負う必要のない偶数性を背負う宿命にあるというようなことだったかと思います(うろおぼえ・・・笑)。
この前、リヴェットの「パリはわれらのもの」を見たときに、あれに出てくるシェイクスピアの「ペリクリーズ」を読んでなかったので、先日読んだら、その中に娘である王女と近親姦の関係にある父王が娘を手放したくないために、求婚者に謎かけをして、即答できなければ殺してしまう掟を定めて、既に数え切れぬほどの娘への求婚者の首を斬っている。そこへペリクリーズが現れて、謎の文を読まされます。
”我は蝮(まむし)にはあらねど
生みの母の肉を食らう。
夫を求めんとして
その情けを父の中に見出せり。
その人は父にして息子、かつまた優しき夫。
我は母にして妻、かつまたその人の子。
六人にしてただ二人とはこれいかに"
ペリクリーズは直ちにこの謎を解くのですが、解き明かしてみせれば王が自分を殺すことは判っている、どちらにせよ生かすつもりのない王の罠を見抜いているので、「謎の答えを申し上げればあなたを厳しく非難することになる」から、「王の所業をすべて記した本を持っているなら、開いて見せたりせず閉じておくのが身のためです」と言います。
仕掛けた王アンタイオカスは「おのれ、その頭はこっちのものだ、嗅ぎつけたな」とペリクリーズが謎を解いてしまったことを悟り、殺さずにおくものかと敵意を持ちますが、表向きは「あなたは謎の意味を誤解なさっている」だから本来なら命をいただくところだが、あなたは見込みのある若者だからいま殺すのは惜しい、よって40日の猶予を与え、その間に謎が解ければ息子として迎えよう、などとごまかしてやり過ごします。
「暗夜行路」を見ていて、この「謎」の言葉を思い出したのです。「我が母にして妻、かつまたその人の子」とはまさに謙作の母その人ではなかったでしょうか。
蓮實重彦の評論は原作の小説に対するものですが、この映画は原作に忠実ですから、彼の分析は映画にも当てはまるでしょう。
この前、リヴェットの「パリはわれらのもの」を見たときに、あれに出てくるシェイクスピアの「ペリクリーズ」を読んでなかったので、先日読んだら、その中に娘である王女と近親姦の関係にある父王が娘を手放したくないために、求婚者に謎かけをして、即答できなければ殺してしまう掟を定めて、既に数え切れぬほどの娘への求婚者の首を斬っている。そこへペリクリーズが現れて、謎の文を読まされます。
”我は蝮(まむし)にはあらねど
生みの母の肉を食らう。
夫を求めんとして
その情けを父の中に見出せり。
その人は父にして息子、かつまた優しき夫。
我は母にして妻、かつまたその人の子。
六人にしてただ二人とはこれいかに"
ペリクリーズは直ちにこの謎を解くのですが、解き明かしてみせれば王が自分を殺すことは判っている、どちらにせよ生かすつもりのない王の罠を見抜いているので、「謎の答えを申し上げればあなたを厳しく非難することになる」から、「王の所業をすべて記した本を持っているなら、開いて見せたりせず閉じておくのが身のためです」と言います。
仕掛けた王アンタイオカスは「おのれ、その頭はこっちのものだ、嗅ぎつけたな」とペリクリーズが謎を解いてしまったことを悟り、殺さずにおくものかと敵意を持ちますが、表向きは「あなたは謎の意味を誤解なさっている」だから本来なら命をいただくところだが、あなたは見込みのある若者だからいま殺すのは惜しい、よって40日の猶予を与え、その間に謎が解ければ息子として迎えよう、などとごまかしてやり過ごします。
「暗夜行路」を見ていて、この「謎」の言葉を思い出したのです。「我が母にして妻、かつまたその人の子」とはまさに謙作の母その人ではなかったでしょうか。
蓮實重彦の評論は原作の小説に対するものですが、この映画は原作に忠実ですから、彼の分析は映画にも当てはまるでしょう。
まあ具体的な登場人物をその役割や位置に応じて、数学的な要素のように還元してしまうと、その要素間を結んで構成される「構造」のように見立てることで一風変わった分析の視点が得られるということでしょうか。
そういう「構造」を負うことで謙作が悩み、またその余波が他者にどう及ぶかみたいなことで物語が展開していくということかと思います。
そして、その要に位置するのがお栄という女性で、これを淡島千景が演じているのですが、これが実に素晴らしいのです。色気もあるし、かといって謙作に対してコケットリーを示すわけでもない、謙作との距離感というか関係が絶妙で、それをみごとに体現していました。
私はこの「暗夜行路」の映画は初めて見たのですが、まえに「夫婦善哉」で感心した淡島千景にあらためて惚れ直しました(笑)。ほんとうに魅力的な女性で・・・いや魅力的な女性を演じていて、彼女を見るためだけにこの映画をみても価値があると思いました。
謙作を演じたのは池部良ですが、ちょっと小説を読んだ印象よりは内面の深さ、暗さが表に出てこない憾みはあったように思いましたが、よくやっているな、と思いました。
この俳優については、エッセイの文章がすばらしいのに感嘆したおぼえがあります。飛行機の座席のポケットに入っていた航空会社のPR誌に載っていたのを初めて読んだときに、俳優でこんな文章のうまいやつがいるのか、と驚いて、それ以来、彼のエッセイのファンです。
俳優としてはあまり彼の出演作を見ていないので何とも言えませんが、「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」だけは座右のDVDです(笑)。
この映画のキャストをいま眺めると、すごい名優たちが出演しているなあ、という印象を受けます。並べてみましょうか。
池部良、山本富士子、淡島千景、千秋実、中村伸郎、荒木道子、長岡輝子、中谷昇、北村和夫、杉村春子、加藤治子、市原悦子、小池朝雄、仲代達矢、加藤武、岸田今日子・・と、この手の現代ものの日本映画などほとんど見たことがなかった私でも見たことがある、あるいは名前くらいはよく聞いているような俳優さんが、ほんのちょい役で出たりしています。
杉村春子などいつも感心しますが、ちょいと顔を出すだけで強烈な印象を残しますね。それがちっとも厭味じゃないというのか、その役柄にはまっていて、いまの器用な役者のように「あぁ、あの人が出る映画だとこういうパターンだよね、どんな映画に出ても器用にこなして、うまいかもしれないけど、金太郎飴で面白くもなんともないよね」というのとは微妙だけど決定的に違っています。
強烈な個性を持っているけれど、自分の個性に居直って「わたしゃこうしかできないんだから、自然態でいくよ」なんて言いながら臭い芝居をする役者とは違って、ひとつの役ごとにたぶん極限まで考え抜いて役を創造し、納得のいくまで自主トレして仕上げて現場に臨んでいるに違いない、と思えるような、いつも発展途上のほんとのプロフェッショナルだという気がします。若いころ見ると、この杉村春子の役が憎たらしくてしかたがなかったけど(笑)・・・
東宝の制作で脚色は八住利雄、音楽が芥川也寸志です。
天が許し給うすべて(ダグラス・サーク監督) 1955
「天はすべて許し給う」という邦題も並べてカバーに書いてあったりしたけど、原題は"All That Heaven Allows"だから、標記したとおりでいいでしょう。ずいぶん日本語の意味は違ってきますけど。
ウィキペディアの梗概にうまくストーリーがまとめてあります。これを借りましょう。
「郊外の瀟洒な一軒家に暮らす未亡人のケリー(ジェーン・ワイマン)は、大学生の息子と娘も家を出ているため、一人で時間を持て余していた。そんなある日、夫の存命中から庭の手入れをしてもらっている若い庭師の青年ロン(ロック・ハドソン)と言葉を交わしたことをきっかけに2人は急速に親しくなる。最初はただの友人として、ロンが語る樹木の話やロンの仲間たちとの付き合いを楽しんでいただけのケリーだったが、二人はごく自然に愛し合い、結婚を考えるようになる。しかし、保守的な町で二人の関係はスキャンダラスな形で噂されるようになり、それを知った息子や娘に激しく反対されたケリーはロンと別れることにする。
元の生活に戻ったケリーだったが、心に空いた隙間が埋まることはない。息子も娘もいずれは自立し、家を出ていく。そのことに改めて気付いたケリーはロンのもとへと向かう。」
ストーリーが重要なのは、これがごくありふれたメロドラマだからで、映像として何か革新性があるとか、表現として新鮮なところがあるといったことは、少なくとも私には感じ取れなかったからです。
でもトリュフォーやゴダールがサークの映画の色彩に注目して評価したとか、とんがった作品をつくったファスビンダーがこの作品をもとに「不安と魂」をつくったりして、このメロドラマの大家らしい監督に敬意を持っていたようだし、ほかにも影響を受けた映画人は少なくないようです。
まあ日本でも、もとはラジオドラマだけど「君の名は」(最近流行したアニメとは全然関係ありません)が一世を風靡したり、「愛染かつら」が人気を博したり、メロドラマというのはいつの世も多数の大衆の心をとらえてその時代と社会のいわば共同的な感性みたいなもののベースをつくるところがあるのでしょうから、そのあれこれの作品からそれぞれに示唆を受けて新たなとんがった作品を生み出す人があっても何も不思議はないのかもしれません。
ただ、だからといって、そのもとのメロドラマがすぐれた作品だという保証はないので、どうみてもただのメロドラマだよね、というところはこの作品についてもあります。
ちょっとネットで垣間見た感想の類の中には、この作品の監督は、メロドラマの装いの中に社会批判を込めたような書き方をしているようなのがありました。この作品でも、ケリーがロンとの結婚を決意したとたんに、それまで親しくつきあってきた町の人たちが態度を豹変させて、あんな庭師なんかと、と言い、ロンは夫が存命のときから出入りしていた職人だったため、夫が生きている間から不倫でもしていたんじゃないかとか、それはまあひどい職業差別、階級的差別観、排他的な保守性、未亡人への偏見などといったものを感じさせますし、息子や娘は、町の人のうわさに脆くも自分たちが最大の被害者であるかのように母親を非難し、ケリーのロンとの結婚は亡くなった父親への侮辱だとか、あんな職人なんかと・・・だとか、ケリーがロンの家へ引っ越すと言えば、この代々受け継いできた家を守っていかなくてどうするんだと激しく非難し、自分たちをどうする気か、われわれは絶対にロンと一緒には住まないし、ロンの新居などには行かないぞ、と言い張ります。
挙句の果てに、ケリーがロンとの結婚を息子や娘の絶対反対に敗けて諦めたと思ったら、まったく自分たちの勝手で、この家を出ていくと言い、あれほど手放すことに反対して固執していた家はさっさと売ってしまおうなどと言い出す始末で、そういう世代的な乖離もちゃんと描かれています。
ただ、それらはいかにも典型的な保守的な町の人々のとらわれている倫理観にひそむ偏見、差別意識であり、またいかにも典型的な若い世代の身勝手さであって、そこに何らの新味も感じさせるところはありません。
二枚目俳優ロック・ハドソンが植木の剪定をする庭師を職業としながら、植木を育てる仕事にシフトしていこうとする生真面目な自然志向の職人で、町の人たちの社交の場のようなものとは縁遠い、自分の生き方を追求してその余のことには無関心な男、という設定に、或る種の面白みがあり、彼がケリーを愛するようになって、彼女と暮らせるように温室住宅みたいな小屋風の住まいを改修して素敵な住居空間を作り出したりする、そのあたりは物語の要素として新鮮味がなくはありません。
また、もう子供たちも成人し、ひとりになることが予想される自分の、一人の人間として、女性としての生き方を求めるケリーが、最初はロンの住む世界がそれまで自分の生きて来た世界とずいぶん違うために戸惑いもあったけれど、ロンに導かれてその世界に生きる自分をイメージするまでになり、町の人たちの冷ややかな目に遭遇することになってもひるまずに自分の生き方を貫こうとする強さは、過去の日本の女性にはちょっと見られない未亡人の姿で、それはそれで、おう、なかなかいいね、と見ていられます。
ひどい中傷や陰口、あからさまな侮蔑、嘲笑にもかかわらず、自分の生き方を貫こうとする彼女の強さが折れるのは、息子と娘の激烈な反対のせいで、母親としての彼女はやっぱり彼らの絶対反対に勝てなかったわけです。ここをもうひとつ超えていたら、或いは当時としてはすごい展開がみられたかもしれないのですが(笑)。
でもまあ、そうして折れることで、以前に一人であったときよりも、はるかに孤独で空虚な内面をかかえた女性にもどってしまうケリーですが、再び身勝手な息子や娘の言い草を聴いて、自分が折れて幸せを諦めたのは何のためだったのか、とより一層空しさをおぼえる。そんなときに再びロンと巡り合って・・・という、そこはまあメロドラマの典型になるわけです。
彼女はロンが従妹と愛し合うようになったと誤解して諦めていたわけですが、その従妹がロンとは何でもなくて、別の男と結婚していった、とロンの友人から聞くことで、もう一度希望を持って、雪深い中をいそぎ郊外へ車を走らせて彼の新居を訪れるのですが、彼が不在で引き返していく。
それを出かけていてちょうど帰って来たロンが崖の上から見ていて、大声で呼ぶのだけどもう気づかれず、ロンは雪深い崖から足を滑らせて落下、大けがをしてしまいます。これが最後の試練で、ケリーは生死の境をさまようロンのもとに駆け付け、二人が本当の再会を果たすという結末。めでたしめでたし。
もしこういうメロドラマを、愛し合う主人公たちの邪魔をする周囲の人々の偏見や差別観を摘出してみせるための隠れ蓑だと考え、こういう作品を「社会批判」の作品とみなすとすれば、わが「君の名は」(昔のラジオドラマおよびその映画化作品のことで、最近のアニメとは別のものです)や「愛染かつら」だって、愛し合う二人の邪魔をし、引き裂こうとする周囲の人々の偏見、差別感の表現はすべて「社会批判」ということになるでしょう。
女主人公が看護婦なら、当時の社会にあった看護婦といった職業への差別観を抜きにはもちろん語れないでしょうから。私の母などは、たぶん潜在的にはずっと看護婦とか女優といった職業に差別的な意識を持っていたと思いますね。たぶんそれはそういう職業の女性が異性の肌に触れるとか、そういうことが社会的な倫理観と抵触するところがあったからではないかと思います。
私はこういうのは「社会批判」とは考えていませんし、そういう映画だとはみなしません。もちろんそういう登場人物の言動に監督が批判的で、主人公に寄り添って、その置かれた位置を際立たせるためにそれを強調して表現してはいるでしょうが、だからといって、その作品が「社会批判」の作品というわけではなくて、単にメロドラマの道具立てとして、愛し合う主人公たちの試練となる「周囲の圧力や抵抗」の典型として、既存のパターンとしての偏見や差別意識等々を使っているだけのことです。
そういうのを「社会批判」とするのは、まったく過大評価もいいところで、便所の落書きに「安倍政権を許さないぞ!」とあったら、これを立派な政権批判の表現として拾い出して評価するのと変わらないでしょう。
ただ、私は別段メロドラマ自体を馬鹿にするつもりはありません。それは私も含めてごく普通の市民の大多数が求める感性の癒しみたいな娯楽に不可欠な要素のひとつだと思うし、子供のころ、私もラジオで「君の名は」を聴いていたことがあるし(少しませていたか・・笑)、のちに映画でも見ました。また、「愛染かつら」も映画館に観に行きました。どちらも好きでした(笑)。いまも韓流メロドラマを見るとよく泣きます。
けれども、それはドラマとして、映画としていい作品だな、と評価する表現価値としての評価とはまた別問題です。作品の中のある種の部分的なメッセージ性だけを拾い上げて、社会批判だとかなんとか、それが作品の表現価値を支えるものであるような言い方を聴くと、おいおい正気かよ?と思ったりします(笑)。
これまでのところ「メロドラマ」という言葉を無造作に使ってきたので、「映画(あるいは文芸)おたく」を自称するような人の中には、何も知らん奴め、「メロドラマ」ってのはな・・・と講釈をはじめたくてうずうずするような人もあるかと思います(笑)。
そんなことを考えると、すぐ連想するのは、私がつきあっていたイタリア人で映画好きの友人(自称作家で、映画ではパゾリーニのファン。よく場末の映画館へパゾリーニを見に連れていかれました)とロンドン大学のカレッジでやっていた映画のコースを受講したときのことです。
そのコースでは若い講師が隔週で映画のエクストラクトを見せ、その間の隔週には前週に見せた映画と監督について解説やら受講生との質疑応答や議論を展開する、というのをつづけていて、映画が見れるだけでも面白かったので二人で通っていたのです。
或る時、私の記憶では「地下水道」というポーランド映画だったと思うのですが、私はいたく感激して涙を流していたら、隣で友人のイタリア人は冷ややかに嗤って、映画のあと講師が受講生に感想を求めると一番に挙手して、「こんなのはまったくのメロドラマで・・・」とこき下ろし始めました。
とたんに私と同様に感動の余韻さめやらぬ他の受講生のブーイング寸前といった感じのざわめきが起き、その中の一人から「<メロドラマ>って言葉は本来悪い意味じゃないぜ!」と茶々が入ったのですが、友人は即座に「そんなことは判ってる。俺の言うのは ”悪い意味“ だ!」と返して満座を苦笑させ、講師が「なぜこれが君の言う"悪い意味"でのメロドラマなんだ?」と訊くと、友人は「だって、こういうシーンなんてまったくイージーで・・」と、彼なりの主張を展開して、その主張は表現だけでなく、どだいレジスタンスなら、こうなってからじゃなくて、もっと前の段階でこうすべきだろう、なんて登場人物のレジスタンスの戦略的誤謬にまで及び、講師もわかったわかった、たしかにこの作品には君の言うようなイージーなところはある、しかし・・・と、自分がこの映画をとりあげた理由を釈明したのでした。
私たちがごく普通に使っている言葉でなにか小説や映画の感想を語ると、小説オタク、映画オタクはよく、その言葉尻をとらえて、君の言うのは厳密じゃない、その言葉は本来・・・とやり始めることがあります。
いま現在にしか関心のない、ごくふつうの生活者と違って、インテリさんというのは歴史性とか由来とかが大好きで、そういう情報を生活の糧にしているところがあるから、いわば重箱の隅をほじくるようにそういう言葉のどうでもいいような微細な差異に過敏です。
たしかに研究者は重箱の隅をほじくることが使命のひとつみたいなもので、概念を整理して共通の議論ができるだけ厳密にできるようにすることは大切だろうと思います。
中には従来の概念をひっくり返したり、ずらしたりして、自分なりの「定義」を与えて、それを前提に論議を進めていく人もあります。それはそれで学問的に意味のある行為だとは思いますが、別に誰もがそういう人の定義する言葉づかいに寄り添い、そのような意味でのみその言葉を使用してなにごとかを語らなくてはならないかと言えば、全然そんなことはないと思います。
或る哲学者なり批評家の思想を論じると言うのであれば、その人がどういう意味でキーワードを使っているか、その使用法に即して見極めなければその思想を理解することはできないでしょう。その使い方にも変化があるかもしれません。でもそういうのに誰もが付き合う必要はありません。
ハイデッガーを論じたい研究者なら、彼のいう「現存在」とは、と厳密に追い詰めて彼の思想に即してその著作を読む必要があるでしょうが、普通に私たちが私たちなりに、「人間ってやつはこうだよね」と議論する場合に、いや簡単に「人間」って言葉をつかってもらっちゃ困る、ハイデッガーによれば・・・なぁんて、彼のいう「現存在」は・・・とかやられても挨拶に困ります。
そんな哲学者個人の語法など知らなくても、ふつうの人は誰だって「人間」と言えばその意味は「分かる」でしょう。
よくこういう言葉づかいにこだわって、厳密に言葉の意味を定義して使うべきで、曖昧なことでは何を言っているか分からない、という人があります。でもそれは大抵の場合は嘘ですね。
例えばいまの「メロドラマ」にしても、映画通の間で流布される「厳密な」定義なんて知らなくても、普通の人なら誰でもその意味を「知っている」わけです。
言葉の意味というのは、定義しなければ分からないというものではない。みんな赤ん坊のときから周囲の人が使うのを聞きおぼえて自然にこういう場合にこういう意味で使うんだな、と理解していって、自然に使うようになるわけです。学校で辞書の引き方を習って、言葉の意味なるものを辞書で学ぶなんてのは、のちのちのことで、しかも私たちが使う言葉のごく一部に過ぎません。
学者さんに定義してもらわなくても、母国語なら私たちは多かれ少なかれ日常的に使う言葉の意味は分かっています。「メロドラマ」などもそういう語彙のひとつです。
もちろんその言葉から連想することがらは人によってさまざまに異なるかもしれませんが、例えばそういう連想語なり、その言葉のイメージや意味を別の言葉に置き換えたり、説明したり、連想を語ってもらって、そこに登場する語彙を調べて集計してみればよい。十分なサンプル数をとることができれば、ほぼ間違いなくジップの法則に従ってそれらの語彙の発現頻度の分布はごく限られた種類の語彙が大きな発現確率を示し、そこから急速に発現確率は低くなっていく双曲線型の分布を示すでしょう。これは以前にたとえば「自然」なんて言葉のイメージで実際に私自身も試みたことがあります。
そうやって得られる発現頻度の高い置き換え語なり連想語で表現されるものが、その言葉の「意味」だと考えておおむね間違いないでしょう。それが人々がその言葉を聴いたり使用したりするときに、その言葉からうけとり、あるいはその言葉に込める「意味」にほかなりません。
もちろん、辞書編纂者や語彙研究者はジップの法則に従って描かれる連続曲線に切れ目を入れ、分布図に境界線を書き込んで、その境界線の内側だけをその言葉の「意味」とみなすでしょう。それは研究者の自由です。あるいは恣意といってもいいでしょう。
けれども、生きた言語は中国政府が引く領海線みたいに、そんなふうに研究者が勝手に線引きして囲い込めるようなものではありません。あくまでも連続した意味分布の中の分布確率が高い領域を示すだけのことで、それ自体もまた時間とともに、また使われる地域とともに変化していく生き物です。
なにかの「専門家」を自称するひとたちの中には、しばしばそういう当たり前のことを忘れがちな、いわゆる「専門馬鹿」になってしまったような人もあるようです。そして、ごく普通の知性を持った素人の人々なら誰でも一定の了解のもとで使っている言葉に曖昧だと言いがかりをつけ、厳密さの要求を錦の御旗に、自分の引いた線の内側しか認めない狭量さを示して、中国政府のように(笑)他人にもその境界線を認めさせようと躍起になることがあるようです。そういう神経症的な厳密主義にはほとんど意味はないので、私たちはいつもそういう業界の中だけで取り交わされるそんな目くばせは軽々とパスして自由に語ればいいと思います。
「メロドラマ」とはあんたのような否定的な意味で使う通俗的な用法じゃなくて、映画史においてはこうなんだ、と茶々を入れたような、かの映画オタクの青年などには、そんなに厳密がお好きなら、せめて「存在と時間」の論証とか、「資本論」の価値論あたりを読んで、ああいう「厳密な」議論をどうぞご自身でやっておくんなさい、ふだんいいかげんなことを言っていて、そんなところだけ普段詰め込んだ知識をひけらかして、厳密、厳密って言いたてても滑稽だよ、とでもいうしかないでしょう。
私のイタリア人の友人はそういう感じで、「メロドラマって言葉の意味は必ずしも否定的なものじゃなくて」などと知識をひけらかそうとしたオタク青年を嘲弄していました。彼自身が文芸にも精通した映画オタクでしたから、「メロドラマ」がいかなる内包をもった言葉かは重々承知のうえで、通俗的な「悪い意味で」あえて挑発的に「地下水道」をこきおろしてみせたわけです。
それはあの映画でほろりとなって思わず落涙した感傷癖の私へのあてつけでもあったので、あとでもう一人一緒に見ていた彼のイタリア人の友人に、こいつはあのメロドラマに感動したんだってさ、と念押しで馬鹿にしていましたが(笑)、まぁ口の悪い彼はいつものことだったので、苦笑するしかありませんでした。だいたい私は涙腺が弱くて、メロドラマ(「悪い意味での」!)には弱いのです。
しかし、このサークという監督の経歴をみるとなかなか興味深い人で、両親はデンマーク人で、ヴァイマール共和制のもとで舞台監督としてキャリアをスタートし、1934年に映画製作に携わるも、妻がユダヤ人だったのでナチスの弾圧を逃れてドイツからアメリカに亡命、1942年にハリウッドで反ナチ映画"Hitler's Madman"を監督した(ウィキペディアによる)のだそうで、やっぱり映画を撮るうえで単なるメロドラマ(「悪い意味」での!)作家ではなくて、政治思想・社会批判の思想的ベースを持つ人ではあったのでしょう。
もちろんそれはなんら、その後に彼が量産したらしいメロドラマの質を保証するものではないにしてもです。ただ、私が彼の作品を見たのは今回がたぶん初めてで、一本きり、一回こっきりですから、どんな作家なのかはこれからまたもし彼の作品を見る機会があれば、なにがそんなに後続の若い監督たちを刺激したのか、確かめられるなら確かめてみたいという気はします。
反ナチの映画というのが、作品としてとんがった作品だったかどうかは知りませんが、もしそうだとしたら、そういう監督がメロドラマを量産するときの転位の仕方というのは若干興味をひかれるところがあります。
たとえばそれは、日本の衣笠貞之助監督が、「狂った一頁」や「十字路」のようなとんがった作品を作ったのち、山ほどの大衆娯楽時代劇の生産に転じたことに若干興味をひかれるのと似たところがあります。
地獄に墜ちた勇者ども(ルキノ・ヴィスコンティ監督) 1969
以前はタイトルだけ見て、戦争映画かいな、と思っていましたが(笑)、今回はじめてビデオで見て、そうじゃないことを知りました。私は超有名な監督の中でもとりわけこの監督の作品はなんとなく宣伝を見るだけで敬遠してきたようなところがあって、きっと性に合わないだろうな、と思っていたので、今回(たぶん)はじめて見て、結構面白いな、先入観や偏見は持たないほうがよさそうだな、とあらためて感じました。
イタリア・西ドイツ合作の1969年制作で、私が見たのは英語版ですから、みんな英語でしゃべっています。VHSでカラー155分です。
冒頭の激しい炎を上げて燃える溶鉱炉の映像、激しいリズムの音楽、導入からぐっと引き込まれます。巨大な製鉄会社を経営する一家の物語で、時代はまさにナチスが台頭して政権を握る瞬間に前後するときで、その激動の時代の荒波をもろに受けて、この強固な歴史をもつ一族も分裂し、衰亡の道をたどる物語で、流動的な時代のダイナミズムがそのまま家族に生じる事件とそれぞれの選択のうちに反映されてドラマチックな展開が見られます。
この大家族の家長ですべてを支配しているヨアヒムという老人の誕生日を祝う晩餐の席に集まった家族、客人たちですが、ヨアヒムの跡目を狙っているのが、ヨアヒムの娘ゾフィ(イングリッド・チューリン)の婚約者フリードリヒ・グルックマン(ダーク・ボガード)及び、彼に張り合うヨアヒムの甥で突撃隊員でもあるコンスタンチン、そしてフリードリヒが友人(客人)として連れてくるナチの親衛隊高級中隊指揮官(字幕では大佐となっていますが)のアッシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)、そしてゾフィの息子のマルチン(ヘルムート・バーガー)、コンスタンチンの息子ギュンター、ナチとつきあうことに反対して晩餐の席を立ち、ナチが共産党による国会議事堂への放火事件をでっち上げたその日の夜のうちに親衛隊の捜索を受けて逃亡を余儀なくされる製鉄会社の重役ヘルベルト・タルマン、その妻でヨアヒムの姪の娘エリーザベトなどが主な登場人物になります。この複雑な家族関係の中で、それぞれが野心を抱き、異なる考えを持って時代の荒波にどう向き合うか選択を迫られる中で、いやおうなく対立し、分裂し、消されていきます。
最初に消されるのは家長で会社でも家族の中でも最大の権力を保持していたヨアヒムです。ナチ(アッシェンバッハ)の謀略であることは明らかですが、それに協力するフリードリヒが、親衛隊の捜索の目を逃れて邸を脱出しようとする反ナチの思想を持つヘルベルトから拳銃を預かり、その銃でヨアヒムを殺害して罪をヘルベルトになすりつけます。
フリードリヒはゾフィと一体となって、むしろゾフィの野心に煽られる形で、アッシェンバッハと組んで、死んだヨアヒムの後継者である直系男子でゾフィの子マルチンを傀儡として会社を支配しようとし、社長となったマルチンに、自分を副社長に任命させます。
他方、社長の座をフリードリヒに奪われたコンスタンチンは、自身が親衛隊と対立を深める突撃隊員であり、フリードマンの許可を得ずに会社が開発した機関銃などの武器を突撃隊に納品して、フリードリヒやアッシェンバッハの怒りを買います。
そして、親衛隊によって突撃隊が襲撃される「長いナイフの夜」、久しぶりに集まって酒をのみ、乱痴気騒ぎをして眠りについた突撃隊員たちを、明け方、親衛隊の兵士たちが襲撃し、機関銃で皆殺しにします。その襲撃隊の中にアッシェンバッハとフリードリヒの姿があり、二人はコンスタンチンを探しだして確実に仕留めます。
こうしてフリードリヒはゾフィと組んですべての権力を手に入れたかに思えましたが、彼は権力を手に入れるにつれて、アッシェンバッハの奴婢のように彼に屈従している身を物足りなく思うようになり、自分で判断したがるようになったために、アッシェンバッハはついに彼を見放し、ゾフィのほうが頼りになると踏んで彼女に誘いかけ、自分の思うような方向へ会社を持っていこうとし、ゾフィもその方向でアッシェンバッハに接近します。
しかし、もうひとつゾフィとフリードリヒにとって頭の痛いことは、自分たちの言いなり、とりわけゾフィの手のうちにあった息子マルチンがだんだんコントロール不能になってきたのです。
このマルチンという青年は一種の性的異常者で、おそらくは母親との母子関係の歪み、いわゆる母源病というやつで、ペドフィリアと呼ばれる類の病的な性癖を持つ人物で、あからさまな場面は避けられているけれど、ちょうどドストエフスキーの「悪霊」で最初削除されていたらしいスタヴローギンの告白にある、少女姦を示唆するような映像があり、その家主の娘である少女は自殺してしまう、というエピソードがメインストリームの中に挿入されています。この少女がユダヤであったために、ナチス政権下では問題にもされない、ということがゾフィを口説くアッシェンバッハの口からさりげなく語られます。
このマルチンは確かに母親には頭が上がらず、なにもかも彼女の言いなりでしたが、母親を心から愛し慕っていたわけではなく、極度に屈折した愛憎が表裏する感情を持っていて、彼女に支配され、屈服しつづけてきた自分を嫌悪しています。やがてフリードリヒばかりかゾフィをも見放すアッシェンバッハがマルチンに接近して彼を取り込もうとするとき、マルチンを母親に対する裏切りへと突き動かすのは、母が自分から「何もかも奪った」という想いでした。
マルチンは家族を前にして、フリードリヒがコンスタンスを殺したことを暴露し、フリードリヒともども母ゾフィをも裏切ります。家族の中で孤立したフリードリヒは、ソフィアと結婚して、この一族の正式の一員としての名目をものにしますが、その結婚式の当日、フリードリヒとソフィアはマルチンによって別室に導かれて毒薬を渡され、それを呑んで死にます。
2時間47分の長尺ですが、密度が濃くて複雑な人間関係が政治的背景のもとでうごめき、息をのんでみる感じです。
さすがに少し長すぎやしない?と思う唯一の箇所は、突撃隊の兵士らが騒いで飲んだくれる夜のシーンだけです。酒と女、歌にダンス、えんえんと賑やかな宴が夜を徹して行われ、みなくたくたに疲れ果て酔いつぶれて眠り入ってしまいます。そこへ明け方、ようよう日が昇るか昇らないかという時刻にジープやオートバイの響きが遠くから聞こえ(このシーン、美しい)、たくさんの車がやってきて、そのダンスホールだか飲食店だか突撃隊の兵士らが乱痴気騒ぎしていた建物を取り囲みます。あとは凄惨な地獄絵図です。
まあ突撃隊員たちの運命を考えれば、あの楽し気なドンチャン騒ぎの徹底があってこその、あの凄惨な悲劇が凄みを増すところがあるので、それは仕方のないことではあるのですが・・・
とにかく人間の欲望が政治権力と結びついていくときに、どれだけそれが凄惨な地獄への道か、滅びに至る道か、というのが、妖艶なまでに、というのかほとんど美しいとさえいえるほどの映像美と迫力を持って描かれていて、ゾクゾクしました。
私は無知を承知で何の情報もなくあてずっぽうで言うのですが、このヴィスコンティっていう人は、ちょうど日本の作家でいうと三島由紀夫みたいな人なんじゃないか、って気がしました。
人間の欲望をただ人間の存在にまつわるドロドロとした資質とか個人の負う宿命的なものとみるのではなくて、たとえば政治権力とか企業を支配する資本にまつわる権力だとか、そういう権力と骨がらみの、共同性の地平で非常にスケールの大きい絵柄として把握していて、個人の欲望がただちに政治権力や資本の権力に直通するようなものとして描き出されるところは、どこか三島由紀夫の思想的資質と通じるものがあるような気がしたのです。
そういえば三島には「わが友ヒトラー」という優れた戯曲があって、文芸雑誌に出たときに読んだ記憶があります。もう中身は忘れてしまったけれど、あれも突撃隊と親衛隊の争いが背景になっていたと思います。
ヴィスコンティが政治的にどういう思想の持主だったかは知りませんが、少なくともこの作品に関する限り、戦後の思想的風潮に従って一方的にナチを悪者として描くような単純なところは微塵もありません。もちろん肯定的なものではなく、否定的・批判的な視点は十分に感じられるけれど、それは一方的なイデオロギー的裁断ではなくて、あくまでもこの作品の世界の内部で、鉄鋼会社の一族を襲う時代の嵐の先頭切って押し寄せてくる強烈な風なり波なりとしてそれを描いていて、或る意味ではそれはナチであろうと共産主義であろうと、どこかの独裁政治権力であろうとかまわないので、圧倒的な政治的権力としてこの一族を襲い、互いに対立させ、家族を引き裂いていく力としてのナチスであって、ナチスの思想の内実に分け入って否定したり、批判したりといったものではありません。
しかし、その圧倒的な力の恐ろしさというのは十二分に描き切っていると思いますし、それまでに展開される人間関係の癒着と対立、妥協と敵対、陰謀、愛情の裏表、屈折した感情等々、すべての流れが注ぎ込み、ひとつに集約され、凝縮され、一挙に爆発して華麗なまでの凄惨な光景となって噴出するのがあの「長いナイフの夜」の映像でした。結局人間の欲望が政治権力、資本の権力等々に直結してひとつのあからさまな形をあらわすとき、それはあぁいう姿にならざるを得ないんだ、というのを理屈抜きに映像の力で見せつけるようなところがあります。圧倒的な作品でした。
ニーベルンゲン(フリッツ・ラング監督) 1924
ずいぶん以前に買っておいたDVDを封をしたまま置いてあって、いつか見ようと思っていたのをようやく封を切って見ました。なにしろ286分という長尺なので、なかなか見始める決心がつかなかったのです。モノクロ・サイレントで一部二部合わせてではあるけれど、4時間46分というのはさすがに長くないですか?(笑)
でも、これが見始めたらやめられない、めちゃくちゃ面白い映画でした。フリッツ・ラングという人の作品を最初に見たのは(たぶん)映画館でみた「メトロポリス」で、オリジナルバージョンを再編集だか音楽だけつけなおしたんだったか、サイレントですが音楽が素晴らしくて、劇場でいい音で大画面で見たら、素晴らしい迫力でした。物語は単純だし、マンガ的なところもあるけれど、あの人造人間の造型は素晴らしかったし、スピーディーな展開と現代音楽のリズムがぴったり合って、サイレントにこんな素晴らしい映画があったなんて!とそのとき思いました。ラングの作品はいくつか見たけれど、あの時映画館で見た感動を超えるものはなかったものの、どれもいい作品でした。
今回はDVDで見たので、私専用の中古テレビのブラウン管に映る映像ですから、映画館で見る印象とはずいぶん違うだろうし、映画館で見たらどんなに素晴らしいかと思いましたが、それでもこの作品のすばらしさは感じられました。
それで、長いあいだ本棚の隅でツンドク状態だった、原作の「ニーベルンゲンの歌」(岩波文庫で相良守峯訳。前後編2冊本)を、今回は拾い読みでなく、最初から最後まで通読してみました。これまた映画同様にすばらしく面白かった。
「万一ドイツ民族がこの世から消え失せた暁に、ドイツ民族の名をもっとも輝かしく世に残すべき作品を挙げよと言われたら、われわれはそれをただ2編の文学に局限することができる。それはニーベルンゲンの歌とゲーテのファウストだ」と評した人もあるそうで、「ドイツのイリヤス」と言われた作品のようですから大変なものなのでしょう。
第一部は英雄ジークフリートが故国のニーベルンゲンを出て竜退治をし、その血を全身に浴びることによって、木の葉一枚肩に落ちた部分だけ残して、あとはどこをどう撃たれようが突かれようが不死身という身体になります。
この竜退治の話は、原作ではジークフリートの過去の英雄譚として語られるだけで、あっさりしていますが、映画では映像としての見せどころで、前半のハイライトシーンのひとつでしょう。巨大な竜が登場して、けっこういい動きをします。血を浴びて不死身になるが、一カ所だけ弱点を残す、というエピソードはあとで彼が暗殺される場面で効いてきます。
またジークフリートは、小人アルベーリヒをとらえて姿が見えなくなる頭巾を与えられ、数々の宝玉とバルムングの剣を手に入れます。このとき、宝物を乗せた巨大な石皿みたいな容器を支えている小人たちがいたのが、一斉に石に変容していきます。ここのところも、サイレント時代の映像としてすごいな、と驚きました。いまのようにコンピュータグラフィックスでチョイチョイ、というわけにはいかない時代でしょうから、どうやって撮ったんだろうと思いました。
日本の時代劇で深作欣二が撮った里見八犬伝という真田広之や薬師丸ひろ子が出た結構面白い映画があって、あれの最後の戦闘場面で、敵の巣窟である巌窟のトンネルの中を敵と戦いながら進む中で、主役級の真田などを先に行かせるために、味方の身体の大きいのと小さいのと二人がセットになって岩を支え、小さな通路を体でトウセンボして敵を防いでいた、その体がまるごと石塊と化していくシーンがあって、素敵な場面だな、と印象に残っていますが、ちょうどあれみたいに、それまで生きた小人だったのが、すっとそのまま小人の形をした石塊に変わっちゃうのですね。
ところで、それらの冒険を経たジークフリートは、ヴォルムスのブルク王国のグンター王のところに赴いて、そこで評判の王の妹クリームヒルトを得るために滞在して、グンター王が望む女性ブルンヒルトを獲得するために協力することを約束します。
このブルンヒルトは男勝りの女傑で、求婚者に投槍、石投げ、幅跳びの三種競技を自分と競わせ、勝てば嫁ぐが、もし求婚者が敗ければ首を置いて行ってもらう、というとんでもない女。しかし彼女にも勝る力のジークフリートは姿が消える隠れ頭巾をかぶってグンターに力を貸して、この女傑を打ち破り、グンター王は望み通りブルンヒルトを連れて帰って王妃に、ということになります。透明人間になれれば万能です。これってずるいですよね(笑)。
この機会にクリームヒルトは兼ねての願いが成就されるようグンターに願い、望み通りクリームヒルトと結ばれます。これはまことにめでたい。ジークフリートが庭園のベンチに一人で腰かけて、木の枝にとまっている小鳥と言葉をかわす(彼は小鳥の言葉がわかるのですね)場面がとてもよくて、そこへクリームヒルトがやってきて横に坐って楽しそうに話す、幸せそうな場面がとっても素敵です。映像として第一部の幸せな二人の世界を象徴するようないい場面です。
他方ブルンヒルトは渋々グンター王に従って王妃となったものの、初夜の寝床で容易にグンター王に身を任せようとはせず、逆にグンター王を力任せに組み伏せて縛り上げる始末。原作では紐で縛り上げられて釘にひっかけられ、二度と私にさわらないと誓わされたり、グンター王もさんざんです(笑)。
さて、これを知ったジークフリートは再び隠れ頭巾に身を隠し、この頭巾は姿が隠せるだけではなく、誰にでも化けることができる魔法の頭巾であったので(このへんは非常に便宜主義的ですな)、グンター王の姿に化けて抵抗するブルンヒルトを組み伏せ、ブルンヒルトが観念したところでホンモノのグンター王に代わったので、めでたくグンター王はブルンヒルトをものにすることができた(笑)。
ところがここに、ジークフリートも余計なことをしなきゃいいのですが、ブルンヒルトを制したときに、どういうつもりか、彼女が腕につけていた宝玉の腕輪を奪っていたのです。原作では妻にプレゼントするために奪ったような書かれ方ですから、わかりますが、映画では妻に渡すでもなく自分で持っていただけのようですから、よくわからない。
でも、とにかくこれを彼の妻のクリームヒルトが彼の荷物を整理していてみつけ、自分の腕にはめます。それを見たジークフリートは驚いて、ぜったいにそれはブルンヒルトにみせてはならぬ、と念押しするのですが・・・
どうもこのブルンヒルトとクリームヒルトの仲はすこぶる良くないのです。というのは、対等な客人であるはずのジークフリートが、最初はクリームヒルトをわが妻とするために、またブルンヒルトという女傑をグンターのものにするために助力しようという目的で、何かといえば自分はグンターの忠実な家臣である、と言ってグンターを立ててやっていたわけです。
だからブルンヒルトは当然、ジークフリートは自分の亭主の家来だと思っていて、その家来である彼にグンター王が妹を嫁がせること自体に驚いているわけです。身分ちがいの自分の家来に、大事な王家の妹を嫁がせるなんて、と。
しかしグンター王もクリームヒルトも実際にはジークフリートはグンター以上の国の王であり、豊かな財産も持ち、英雄的な騎士としての実力もグンターより上であることをよく知っていて、あくまでも対等な友となった客人であると思っているから、そういう付き合い方をしています。
王妃となったブルンヒルトはだいたいこれが気に入らないところへ、家臣の妻となった以上、王妃である自分よりも身分的には下になったはずのクリームヒルトが王妃と対等であるかのように大きな顔をしているのが気に食わない。
それでクリームヒルトとぶつかっては、ジークフリートのことを家臣のくせに、と蔑み、その妻にすぎないクリームヒルトは王妃の私より前に出ることはできない、となにかにつけて押さえつけようとする。クリームヒルトも負けてはいないから言い返す。
それがついに爆発するのが、聖堂でのミサに出るにあたって、どちらが先に入るかで、両者がぶつかって相譲らず、家来の癖にと言い募るブルンヒルトに対して、クリームヒルトは夫に口止めされていたにも関わらず、ブルンヒルトが初夜を共にしたベッドにいたのはグンターではなくてジークフリートなのだ、と暴露し、なにを証拠に根も葉もないことを、と怒るブルンヒルトに対して、これが証拠だわね、とジークフリートが奪ってクリームヒルトに与えたもともとはブルンヒルトがはめていた腕輪を見せるわけです。
ここは原作では、指輪と腰ひもということになっています。原作のクリームヒルトはかなり気の強い意地悪なところのある女性で、あんたが初夜に寝て操を捧げたのは兄の王ではなくてうちの旦那のジークフリートだよ!というような言わずもがなの、徹底的に相手を侮辱する言葉を投げつけるんですね。
事実を知ったブルンヒルトは怒らいでか!(笑)当然ですよね。
もう自分の屈辱を晴らすには、ジークフリートを殺すしかない、と固く思い定めて、誰彼とない側近の武将たちに、ジークフリートを殺せ!と命じ、懇願し、夫のグーター王に対しても、ジークフリートを死に追いやる方向へなんとか導き唆そうと謀りますが、ジークフリートの助力に感謝もし、友情も感じているグーター王としては、なかなか容易にはジークフリートを裏切る決断がつきません。
しかし、ここにグンター王の古くからの側近で王の信頼も厚い勇猛果敢な騎士で片目を戦でなくしているらしい将軍ハーゲンがいて、彼はもともとジークフリートを快くは思っておらず、下手をするとグンター王の治めるヴォルムを支配下におさめようとするのではないかという危惧ももっているようで、むしろクリームヒルトとの結婚を機に、ジークフリートがニーベルンゲンにもつという膨大な財産を財政の傾いているヴォルム(ブルク王国)のために手にいれようと考えていて、しきりにグンター王にジークフリートを亡き者とする方向で煽ります。
このへんもジークフリート側に立って見れば悪だくみをする陰謀家ということになりますが、一国を安定的に運営する国王の補佐役の武将としては、ジークフリートのような金も力も存分に供えた異国の王がいつまでも客人として王の傍らをうろついているのは、なにか魂胆があるのではないか、王にとって代わってこの国をのっとろうというのではないか、という警戒心を懐くのはわりと自然なことのような気がします。
そういう意味では早くジークフリートを追い払ってしまいたいのもわかるし、それが王の信頼を得て妹を嫁がせてしまった以上、簡単に関係を断って追い払うこともできないから、事が起きる前に殺してしまうほうがのちのちの国家安泰のためにはいいんじゃないか、と考えるのも無理はないかもしれません。ハーゲンはグンター王には終始忠実な部下なんですね。
そうとも知らぬジークフリートは惜しげもなくニーベルンゲンの財宝を取り寄せ、人々に分け与え、グンターにも提供を惜しみません。ブルンヒルトはクリームヒルトから初夜の事実をあかされて屈辱を味わい、なんとしてもジークフリートを殺そうと、グンター王に私から腕輪を奪った者(ジークフリート)が私の操を奪ったのだ、と告げてジークフリートを殺して自分の恥を雪ぐように言い含め、ついにグンターもジークフリートを裏切る決心をします。
このときハーゲンは一計を案じて、忠臣の振りをしてクリームヒルトに近づき、予知夢のような悪夢を見てジークフリートの身を心配でならないクリームヒルトに、自分が必ず彼を守るから心配ない、しかし、彼を守るためには彼の弱点を知らないと守れない。竜の血を浴びて不死の身になったらしいが、木の葉が落ちてくっついたところだけが弱点らしい。その弱点の場所さえわかれば、そこを絶対に攻撃されないように守ってやることができる・・・と欺いて、アホなクリームヒルト(笑)をいとも簡単にだまし、こともあろうに、ジークフリートの着衣のその弱点になる場所にX印を縫い込んで分かるようにしおくことを承知させるのです。クリームヒルトはそれが夫の命を奪うための導きの糸になるとも知らず、夫の衣服にせっせとX印を縫い込みます。
こうしてハーゲンの画策で狩りに出かけることになり、みなで鹿狩りの用意をして狩場に出かけます。狩りも終わる頃、大活躍で喉が渇いたジークフリートが酒だったか水だったかを所望すると、その場にはないが、冷たい水の湧く場所を知っている、とハーゲンが言い、そこまで競争しよう、と提案します。ジークフリートが剣も置いて身に武器一つ帯びずに森の中を駆けてゆくのを、ハーゲンは槍をたずさえて追います。湧き水の場所に先に着いて、水面にかがんで水を飲むジークフリートの背後から、その背に縫い込まれたX印をめがけて、ハーゲンが長槍を投げ、みごとX印を貫いてジークフリートの背に深々と刺さります。こうして一代の英雄はここにその生涯を閉じたのです。
ここまでが第一部で、ここからが第二部。クリームヒルトの復讐がはじまります。
彼女はジークフリートの喪に服していましたが、ここに彼女の美貌を伝え聞いたフン族のアッチラ王がちょうど先妻をなくしたところで、后をもとめていたので、彼女を后にと望んで使者をつかわし、求婚します。最初は相手にもしない素振りのクリームヒルトですが、一晩考えて、自分ガアッチラ王に嫁いでその権力と財力を支配し、多数の兵士たちを思うままに動かせるなら、と復讐の機会を想い、求婚に応じる返事を伝えて、辺境伯リューディガ―の導きでフン族の地へ出立します。
このリューディガ―も立派な騎士で、グンター王の支配地域の内で領土を安堵された或る意味では王なのではないかと思いますが、みなから一目置かれる勇猛果敢で名誉を重んじる騎士道精神を備えた武将で、フン族とも交流があり、グンター王とフン族との仲介をするわけです。
ですから、のちのちフン族とグンター王らとの争いが生じたときも、どちらからも一定の距離を保って一方に最初から味方することはなく独立を保つわけです。しかし、すぐあとで述べる事情で、やむなく一方に加担して落命することになるのですが・・・
さて、クリームヒルトを迎えに来てアッチラ王に仲介したリューディガ―は、「あなたを侮辱する者があればアッチラ王が許しません」と言って渋るクリームヒルトを説得しますが、クリームヒルトは「それを十字架ではなく、そなたの剣にかけてお誓いください」と言い、リューディガ―は自分の剣にかけて誓います。これがのちのち効いてきます。
クリームヒルトは出立にあたり、夫ジークフリートが暗殺された林に出かけ、夫の血を吸った土を削って布にくるみ、懐に入れて行きます。ジークフリートの血を呑み込んだ大地よ、いつかハーゲンの血で染めてやろう、と決意します。「待っておれ、かならず戻ってきてみせる!」
このときのクリームヒルトの目つきがすごい!
この女優さん、本当に素晴らしい。第一部から通してもちろん同じ女優さんですが、第一部のジークフリートと愛し合い、戯れる清楚で可愛らしい彼女のイメージは第二部にいたって一変し、動きの乏しい、しかし表情だけはものすごい表現力で、心が冷え切って復讐の念のみに固まった女の姿を実にみごとに演じています。
またモノクロだから色彩はないけれども、おそらく白が基調の明るい彼女の可憐な衣装に対して、第二部は黒が基調の暗いシャープなデザインの衣装。冠といい、長い裾の黒を基調としながら、三角形の中に大小の同心円を描いたユニットの組み合わせによる実にモダンなデザインのファッションで、服装を見ているだけでもワクワクします。
あれは色彩はモノクロだけれど、意匠としてはクリムトの描いた女性を見るようなところがありますね。
ついでに書いてしまえば、服装だけでなく、建物のデザイン、外観も内観も、非常にモダンで面白い。リアリズムではなくて、ドイツの表現主義というのかな、単純な直線と曲線から成る、抽象的な印象を与える実にモダンなデザインで、これも見る者をひきつけます。
さてフン族はニーベルンゲンやヴォルムスの人々に比べれば荒野の蛮人といった感じで、半分裸で兵士もきちんとした騎士のような鎧兜も槍楯などの武具もそろわず、思い思いの手斧やら蛮刀やら槍やら手製の弓みたいなのを持っていて、烏合の衆みたいな感じです。でも横山ノックみたいな頭をした王様は絶対権力を持っているようで、その王様は美しいクリームヒルトを大歓迎。
クリームヒルトはここで王の一子をもうけ、王様は大よろこびで、何でも彼女の言うことをききそうです。クリームヒルトの心はなおも復讐一筋。なんとか兄王グンターを呼び寄せれば仇のハーゲンらをこちらの手中に落とせると謀り、グンターを迎えに使者を送ります。
グンター王は気が進まぬ様子ですが、夏至の前日にアッチラの宮殿へやってきます。クリームヒルトは家来たちに、わが感謝を得たい者はわが悲しみを癒すべし、と言い、アッチラ王にも、「私を侮辱した者は断じて許さないという誓いを思い出して下さい、ジークフリートを殺した下手人はあなたの手のうちに居るのですよ」と唆すのですが、アッチラ王は「女よ、ジークフリートが忘れられぬか」と言い、なおも「子供の命にかけて誓いを果たすのです!」と迫るクリームヒルトに、「わたしは荒地の出身だ。そこでの唯一の宝は客人だ。ハーゲンはわが家の平和を乱さぬ限り平穏でいるのだ。」とまっとうなことを言って、彼女の煽動にも動じず、請け合いません。このへんのアッチラ王という人物の造型もなかなかのものです。
クリームヒルトはフン族の兵士たちに、ハーゲンの首をわれに届ける者には金を与えよう、と煽り、試みようとする者もありますが、グンターやハーゲンは警戒を怠らず、機会はなかなか訪れません。翌日は夏至の祭り。盛大な宴が催され、グンターも部下の諸将をつれ、武器を携行して正餐の席につきます。
クリームヒルトはある謀を胸に、このような宴会にアッチラの王の相続者が欠けてはならぬのではないか、と言って、王と自分の子である赤ん坊を連れて来させます。誇らしげに赤子を抱き上げ、客人にも回して見せるアッチラ王。赤子を抱いて正面に見据えたハーゲン、「この子が長生きすることはないと思う。我々がこの子の宮廷へ行くこともないだろう」と予言めいたセリフを吐き、アッチラ王はムッとして座が白けた様子。
クリームヒルトがわが子をこの宴席へ連れて来させたのは、自分の手の者がハーゲンらを襲うとき、ハーゲンがこの子を殺すであろうことを予見し、そうすることでアッチラ王を憤激させ、いまは客人には手を出そうとしないアッチラ王にハーゲンらを殺させよう、という残酷・冷酷な思惑があったためと思われます。事実、その通りにことが進んでいきます。
他方、この宴席の影で、フン族の者たちの手から手へと武器が手渡されていく様子が、宴席の王たちのやりとりの合間に映し出されます。クリームヒルトがひそかにフン族の兵士たちに命じておいたハーゲンらを殺害する準備が進められていたわけです。
用意が着々と進み、まずは広間のこの宴席から離れた、ニーベルンゲンの兵士たちの宿舎で、フン族は突然客人である兵士たちを襲い、たちまち両者入り乱れての戦闘になります。宴の最中だった広間にも、矢を受けて逃げて来たクンター側の兵士の報せで事態の発生を知ったハーゲンは直ちにまず王の後継者たる赤子を殺します。
「客人が殺したのです!」と叫ぶクリームヒルト。子供を抱きしめて嘆くアッチラ王もことここに至って「いまやニーベルンゲンのやつらは保護の外に置かれた!」と叫びます。
しかし、ニーベルンゲンの兵士たちは圧倒的に武力に勝り、襲い掛かるフン族をことごとく返り討ちにしていきます。グンター王とその兄弟やハーゲン以下臣下の騎士たちとは距離をおく(クリームヒルトをフン族の王妃にと仲介した)リューディガ―辺境伯はみなが一目を置く武功の誉れも高い騎士で、彼ともう一人の騎士とは、グンター王たちとは別れ、クリームヒルトとフン族の王アッチラを守りながら広間を出て行きます。
そのあと広間の扉は閉じられ、残っていたフン族はグンター王の配下の騎士たちの手でことごとく殺されて、一人だけその様子をクリームヒルトに伝えよ、と扉の外へ放り出され、彼がクリームヒルトに広間の中の仲間が皆殺しにされた一部始終を伝えます。
「死者の復讐を!」というクリームヒルトの命令で、フン族は仲間をさらに増やして広間の扉を叩き、中から出て来たニーベルンゲンの騎士たちと戦闘が再開されますが、ここでもニーベルンゲンの騎士たちは圧倒的に強くて、フン族はクリームヒルトの足もとに服して「無理です」(笑)。
城壁の階上から顔を出したグンターの弟が、クリームヒルトの姿をみつけて、姉上!と嬉しそうに呼びかけるシーンなども印象的です。その姉上はハーゲンともども、夫や義弟をも殺してしまおうという復讐の鬼と化して城を見上げているのです。
しかしニーベルンゲンの騎士たちは強くて、またしても押し返し、扉を固くしめて、フン族の兵たちの死体が累々というありさまです。これを見てクリームヒルトは、リューディガ―辺境伯を呼べ!と呼びにやり、彼がそばにくると、「時は来たれり。リューディガ―殿、誓いを果たしなされ!」と自分をアッチラ王のもとへ連れて行くときに誓わせた剣にかけての誓いを思い出させて迫ります。「ジークフリート殺害の下手人を求めます!そなたはハーゲンを守って自分の兄弟に剣を差し向けている。剣の刃にかけて誓いを立てたはず」と。
リューディガ―はこれより前に、自分の一人娘をヘルダー王の末弟ギルダーに嫁がせたばかりなので、アッチカ王の前へ出て、どうかわが一人娘を殺させないでください、と哀願しますが、赤子の遺骸を抱いたまま茫然と座っていたアッチカ王は、黙って自分の抱いた子の遺骸を示すだけでした。
ことここに至ってはやむなしと、リューディガ―は宮殿の門の前にまかり出て呼びかけます。中のニーベルンゲンの騎士たちは、立派な騎士として経緯を払うリューディガ―が来たとあって、彼は和平をもたらす、とギルダーが扉を開けて導き入れます。「あなたは何を私たちにもたらすのですか、お義父さん?」と問うギルダーに、リューディガ―はひとこと、「死を!」と叫んで挑みます。
アッチカ王は、子供を殺した者を渡せばほかは見逃すと呼びかけますが、ニーベルンゲンの騎士たちは、「ドイツ魂を知らぬと見えるな、アッチカ王!」と叫んで、最後の闘いに臨みます。
リューディガ―も、「クリームヒルトが私に立てさせた近いが、そなたたちのよりも古いのだ」と言ってニーベルンゲンの騎士たちとの戦いに臨みます。騎士にとって自分が剣にかけて誓った誓いは命よりも重いのでしょう。それも古い誓いのほうが効力が大きいらしい(笑)。
ハーゲンに闘いを挑むリューディガ―に義息ギルダーが止めに入ろうとして傷つき、死にます。リューディガ―は動揺しますが闘い、みずからも討たれてしまいます。ギルダーを抱いたクリームヒルトの義弟が「姉上、あなたの仕業です!」と言いながら出てきます。
「ハーゲンを引き渡せばそなたたちは自由じゃ」とクリームヒルト。でもフン族が弟を取り囲み、殺してしまいます。動揺するクリームヒルト、急ぎ建物から下へ降りていきます。
フン族が城内へなだれこみます。ハーゲンが出て来て、クリームヒルトに向かって言います。
「そなたの復讐を楽しむがいい。そなたの弟は死んだ。リューディガーもその部下たちもみな死んだ。だがジークフリートを殺したハーゲンはまだ生きておる!」
そういうと、傷ついた仲間、仲間の死体を部下らに運ばせ、再び門を閉じて中へこもります。
そこでクリームヒルト、「広間に火を放て!」と命じます。フン族が宮殿に火矢を放ちます。懸命に火矢を払い落とすニーベルンゲンの兵士らですが、宮殿は燃え上がります。
アッチラ王は、クリームヒルトは正しい!と叫び、ハーゲンらが出てきたらクリームヒルトの側につく、と最後の戦いに身構えます。そしてクリームヒルトに言います。「そなたと私は愛でひとつにはならなかったが、憎しみでひとつになった」と。
クリームヒルトは応えて言います。「アッチラ殿。わが心がいまほど愛で満たされたことはなかった」と。
広間の内部では、ハーゲンがグンター王に、「グンター殿下は火の中で死んではなりません。私の首を差し出しましょう」と提案します。「いや忠義は鉄のように火でも融けぬ」とグンター王。
勇猛な騎士にして楽士のフォルカーが最後の歌のために楽器を調整しています。
外ではクリームヒルトに対して、リューディガ―と共に居た老騎士が、武器で負かせない者らを火で滅ぼうというのは恥辱だ、と火攻めによる攻撃を非難し、やめさせようとしますが、クリームヒルト聴く耳を持たず、「聴け、フォルカーが歌っている」と聞こえてくるフォルカーの歌に耳を傾けます。
あぁ、冷たい緑色のライン川のほとりにいられれば・・・
屋根が燃え落ちてくる中、ハーゲンは楯でグンターを守りながら火を避けています。
老騎士が再びクリームヒルトに、「人間ではござらぬか」と諫めますが、クリームヒルトは「ジークフリートが死んだとき、私も死んだのです」ともはや老人の助言に聴く耳を持ちません。
煙の噴き出る扉から、ハーゲンがグンター王を支えながら出てきます。クリームヒルト、こちらの騎士から剣を手渡され、クンタ―をハーゲンから引き離させ、ハーゲンに対して「すべてのあやまちが償われるまであの世に行くことはできぬ」と言い、ハーゲンが奪ったニーベルンゲンの宝物をどこへ隠したかを言うようにと迫ります。
ハーゲンは、「最後の一人の王が生きている限り、誰にも宝物のありかを明かさぬと誓った」と答えます。するとクリームヒルトはすぐに斬らせたグンターの首を高くかかげさせます。最後の一人の王の死です。ハーゲンはショックを受けますが、もはやニーベルンゲンの宝物は誰の目にも触れぬだろう、と言って、クリームヒルトの剣に斬られて果てます。
長年の宿願であった復讐を果たしたクリームヒルトは、懐から、ジークフリートの血に染まった土を取り出し、「さあ大地よ、たっぷりと飲み干せ」と敵の血を吸わせるのでした。
しかし、すべてを果たし終えたクリームヒルトは、その場に倒れ、そのまま息をひきとります。
アッチカ王はその姿を見て「彼女をジークフリートのもとへ!彼女はジークフリート以外の誰のものでもなかった」と叫びます。
このラストは原作「ニーベルンゲンの歌」とは違っています。原作ではクリームヒルトは騎士として敵将たちにも敬意を払っていた老将軍ヒルデブラントが、クリームヒルトが自らハーゲンを斬殺したのを見て、女の手で勇士を討つとは見過ごせぬ、と勇士の仇を討つとして怒りに燃えてクリームヒルトに一太刀あびせて殺してしまうのです。
映画ではすべてをやり終えたクリームヒルトが生命力のすべてを復讐のために蕩尽して死んでしまうような形になっています。そのほうが自然な気がしますが、原作はあくまで騎士道の倫理みたいなものが最優先で、主人公さえその道理の前では命を差し出さなくてはならないようです。
ストーリーはもちろん古典的な神話の世界の物語で、けっこう起伏はあって複雑ですが、ひとつひとつの挿話は単純で、全体としても、一人の英雄の輝かしい姿と、その絶頂で裏切られて死んでしまい、その妻が生涯かけて復讐を果たす、という一貫した物語になっていて、サイレントだけれどとてもわかりやすい。
ただ、敵味方がはっきりした勧善懲悪型の話ではありません。第一部でヒーローを暗殺するハーゲンをはじめ、それにそそのかされてヒーローの友情と信頼を裏切り、暗殺を許容するグンター王なども悪者の典型みたいに見え、残されたヒーローの妻は悲劇のヒロインに見えます。
でも第二部に入ると、もはや弱々しい被害者としての彼女の姿はどこにもなく、首尾一貫徹頭徹尾復讐の鬼として燃える炎を氷のように冷たい外見に隠して、策略を用い、新しい夫アッチカも、自分とアッチカの間の子の命までも復讐の道具として利用し、第一部のハーゲンの悪知恵に勝るとも劣らない謀略を用いて仇を自分たちの城へ招き入れ、襲撃し、最後は火焔でみな焼き殺そうと謀る、とてつもない悪女のように変貌します。
むしろ仇であったハーゲンなどのほうが、クリームヒルトの企みを察しながら、主君グンターへの忠誠心から、逃げ出しもせずにつき随ってみすみす敵の巣穴へ入り、勇猛果敢な騎士として主君を最後まで守りながら堂々と力尽きるまで戦うというどっちがヒーローだかわからなくなりそうな具合です。
登場人物もグンターやハーゲンの一党とアッチカ王の支配するフン族との二元対立ではなく、リューディガ―に代表されるように、両者をもともと仲介していた、両者に対して一定の距離感と親和性とを併せ持った、やはり名誉を重んじ誓いを必ず守る騎士として尊敬を集める武将がいたり、クリームヒルトの敵の中にも兄グンターをはじめその兄弟たち、彼女を姉さんと慕う弟がいたり、リューディガ―の一人娘が王の末弟(だったか)ギルダーと結婚したりと、複雑に人間関係が入り組んで、決して、敵味方、白か黒か、みたいな割り切り方のできない構図になっています。
それは原作の物語自体がそうなのですが、この映画でもそれがきちんと反映されていて、俗っぽい単純化がないところがとてもいいと思います。
フン族がニーベルンゲンの騎士たちが立てこもる広間のある城の壁に梯子を立てて続々と侵入していき、燃えあがる城で壮絶な戦いがくりひろげられるあたりは、すでにグリフィスの「イントレランス」でお馴染みの壮大な戦闘場面を見ていると、目新しいとは言えませんが、それでもよくまあサイレントの時代にこれだけのことができたなぁ、と感心します。
私はこの「暗夜行路」の映画は初めて見たのですが、まえに「夫婦善哉」で感心した淡島千景にあらためて惚れ直しました(笑)。ほんとうに魅力的な女性で・・・いや魅力的な女性を演じていて、彼女を見るためだけにこの映画をみても価値があると思いました。
謙作を演じたのは池部良ですが、ちょっと小説を読んだ印象よりは内面の深さ、暗さが表に出てこない憾みはあったように思いましたが、よくやっているな、と思いました。
この俳優については、エッセイの文章がすばらしいのに感嘆したおぼえがあります。飛行機の座席のポケットに入っていた航空会社のPR誌に載っていたのを初めて読んだときに、俳優でこんな文章のうまいやつがいるのか、と驚いて、それ以来、彼のエッセイのファンです。
俳優としてはあまり彼の出演作を見ていないので何とも言えませんが、「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」だけは座右のDVDです(笑)。
この映画のキャストをいま眺めると、すごい名優たちが出演しているなあ、という印象を受けます。並べてみましょうか。
池部良、山本富士子、淡島千景、千秋実、中村伸郎、荒木道子、長岡輝子、中谷昇、北村和夫、杉村春子、加藤治子、市原悦子、小池朝雄、仲代達矢、加藤武、岸田今日子・・と、この手の現代ものの日本映画などほとんど見たことがなかった私でも見たことがある、あるいは名前くらいはよく聞いているような俳優さんが、ほんのちょい役で出たりしています。
杉村春子などいつも感心しますが、ちょいと顔を出すだけで強烈な印象を残しますね。それがちっとも厭味じゃないというのか、その役柄にはまっていて、いまの器用な役者のように「あぁ、あの人が出る映画だとこういうパターンだよね、どんな映画に出ても器用にこなして、うまいかもしれないけど、金太郎飴で面白くもなんともないよね」というのとは微妙だけど決定的に違っています。
強烈な個性を持っているけれど、自分の個性に居直って「わたしゃこうしかできないんだから、自然態でいくよ」なんて言いながら臭い芝居をする役者とは違って、ひとつの役ごとにたぶん極限まで考え抜いて役を創造し、納得のいくまで自主トレして仕上げて現場に臨んでいるに違いない、と思えるような、いつも発展途上のほんとのプロフェッショナルだという気がします。若いころ見ると、この杉村春子の役が憎たらしくてしかたがなかったけど(笑)・・・
東宝の制作で脚色は八住利雄、音楽が芥川也寸志です。
天が許し給うすべて(ダグラス・サーク監督) 1955
「天はすべて許し給う」という邦題も並べてカバーに書いてあったりしたけど、原題は"All That Heaven Allows"だから、標記したとおりでいいでしょう。ずいぶん日本語の意味は違ってきますけど。
ウィキペディアの梗概にうまくストーリーがまとめてあります。これを借りましょう。
「郊外の瀟洒な一軒家に暮らす未亡人のケリー(ジェーン・ワイマン)は、大学生の息子と娘も家を出ているため、一人で時間を持て余していた。そんなある日、夫の存命中から庭の手入れをしてもらっている若い庭師の青年ロン(ロック・ハドソン)と言葉を交わしたことをきっかけに2人は急速に親しくなる。最初はただの友人として、ロンが語る樹木の話やロンの仲間たちとの付き合いを楽しんでいただけのケリーだったが、二人はごく自然に愛し合い、結婚を考えるようになる。しかし、保守的な町で二人の関係はスキャンダラスな形で噂されるようになり、それを知った息子や娘に激しく反対されたケリーはロンと別れることにする。
元の生活に戻ったケリーだったが、心に空いた隙間が埋まることはない。息子も娘もいずれは自立し、家を出ていく。そのことに改めて気付いたケリーはロンのもとへと向かう。」
ストーリーが重要なのは、これがごくありふれたメロドラマだからで、映像として何か革新性があるとか、表現として新鮮なところがあるといったことは、少なくとも私には感じ取れなかったからです。
でもトリュフォーやゴダールがサークの映画の色彩に注目して評価したとか、とんがった作品をつくったファスビンダーがこの作品をもとに「不安と魂」をつくったりして、このメロドラマの大家らしい監督に敬意を持っていたようだし、ほかにも影響を受けた映画人は少なくないようです。
まあ日本でも、もとはラジオドラマだけど「君の名は」(最近流行したアニメとは全然関係ありません)が一世を風靡したり、「愛染かつら」が人気を博したり、メロドラマというのはいつの世も多数の大衆の心をとらえてその時代と社会のいわば共同的な感性みたいなもののベースをつくるところがあるのでしょうから、そのあれこれの作品からそれぞれに示唆を受けて新たなとんがった作品を生み出す人があっても何も不思議はないのかもしれません。
ただ、だからといって、そのもとのメロドラマがすぐれた作品だという保証はないので、どうみてもただのメロドラマだよね、というところはこの作品についてもあります。
ちょっとネットで垣間見た感想の類の中には、この作品の監督は、メロドラマの装いの中に社会批判を込めたような書き方をしているようなのがありました。この作品でも、ケリーがロンとの結婚を決意したとたんに、それまで親しくつきあってきた町の人たちが態度を豹変させて、あんな庭師なんかと、と言い、ロンは夫が存命のときから出入りしていた職人だったため、夫が生きている間から不倫でもしていたんじゃないかとか、それはまあひどい職業差別、階級的差別観、排他的な保守性、未亡人への偏見などといったものを感じさせますし、息子や娘は、町の人のうわさに脆くも自分たちが最大の被害者であるかのように母親を非難し、ケリーのロンとの結婚は亡くなった父親への侮辱だとか、あんな職人なんかと・・・だとか、ケリーがロンの家へ引っ越すと言えば、この代々受け継いできた家を守っていかなくてどうするんだと激しく非難し、自分たちをどうする気か、われわれは絶対にロンと一緒には住まないし、ロンの新居などには行かないぞ、と言い張ります。
挙句の果てに、ケリーがロンとの結婚を息子や娘の絶対反対に敗けて諦めたと思ったら、まったく自分たちの勝手で、この家を出ていくと言い、あれほど手放すことに反対して固執していた家はさっさと売ってしまおうなどと言い出す始末で、そういう世代的な乖離もちゃんと描かれています。
ただ、それらはいかにも典型的な保守的な町の人々のとらわれている倫理観にひそむ偏見、差別意識であり、またいかにも典型的な若い世代の身勝手さであって、そこに何らの新味も感じさせるところはありません。
二枚目俳優ロック・ハドソンが植木の剪定をする庭師を職業としながら、植木を育てる仕事にシフトしていこうとする生真面目な自然志向の職人で、町の人たちの社交の場のようなものとは縁遠い、自分の生き方を追求してその余のことには無関心な男、という設定に、或る種の面白みがあり、彼がケリーを愛するようになって、彼女と暮らせるように温室住宅みたいな小屋風の住まいを改修して素敵な住居空間を作り出したりする、そのあたりは物語の要素として新鮮味がなくはありません。
また、もう子供たちも成人し、ひとりになることが予想される自分の、一人の人間として、女性としての生き方を求めるケリーが、最初はロンの住む世界がそれまで自分の生きて来た世界とずいぶん違うために戸惑いもあったけれど、ロンに導かれてその世界に生きる自分をイメージするまでになり、町の人たちの冷ややかな目に遭遇することになってもひるまずに自分の生き方を貫こうとする強さは、過去の日本の女性にはちょっと見られない未亡人の姿で、それはそれで、おう、なかなかいいね、と見ていられます。
ひどい中傷や陰口、あからさまな侮蔑、嘲笑にもかかわらず、自分の生き方を貫こうとする彼女の強さが折れるのは、息子と娘の激烈な反対のせいで、母親としての彼女はやっぱり彼らの絶対反対に勝てなかったわけです。ここをもうひとつ超えていたら、或いは当時としてはすごい展開がみられたかもしれないのですが(笑)。
でもまあ、そうして折れることで、以前に一人であったときよりも、はるかに孤独で空虚な内面をかかえた女性にもどってしまうケリーですが、再び身勝手な息子や娘の言い草を聴いて、自分が折れて幸せを諦めたのは何のためだったのか、とより一層空しさをおぼえる。そんなときに再びロンと巡り合って・・・という、そこはまあメロドラマの典型になるわけです。
彼女はロンが従妹と愛し合うようになったと誤解して諦めていたわけですが、その従妹がロンとは何でもなくて、別の男と結婚していった、とロンの友人から聞くことで、もう一度希望を持って、雪深い中をいそぎ郊外へ車を走らせて彼の新居を訪れるのですが、彼が不在で引き返していく。
それを出かけていてちょうど帰って来たロンが崖の上から見ていて、大声で呼ぶのだけどもう気づかれず、ロンは雪深い崖から足を滑らせて落下、大けがをしてしまいます。これが最後の試練で、ケリーは生死の境をさまようロンのもとに駆け付け、二人が本当の再会を果たすという結末。めでたしめでたし。
もしこういうメロドラマを、愛し合う主人公たちの邪魔をする周囲の人々の偏見や差別観を摘出してみせるための隠れ蓑だと考え、こういう作品を「社会批判」の作品とみなすとすれば、わが「君の名は」(昔のラジオドラマおよびその映画化作品のことで、最近のアニメとは別のものです)や「愛染かつら」だって、愛し合う二人の邪魔をし、引き裂こうとする周囲の人々の偏見、差別感の表現はすべて「社会批判」ということになるでしょう。
女主人公が看護婦なら、当時の社会にあった看護婦といった職業への差別観を抜きにはもちろん語れないでしょうから。私の母などは、たぶん潜在的にはずっと看護婦とか女優といった職業に差別的な意識を持っていたと思いますね。たぶんそれはそういう職業の女性が異性の肌に触れるとか、そういうことが社会的な倫理観と抵触するところがあったからではないかと思います。
私はこういうのは「社会批判」とは考えていませんし、そういう映画だとはみなしません。もちろんそういう登場人物の言動に監督が批判的で、主人公に寄り添って、その置かれた位置を際立たせるためにそれを強調して表現してはいるでしょうが、だからといって、その作品が「社会批判」の作品というわけではなくて、単にメロドラマの道具立てとして、愛し合う主人公たちの試練となる「周囲の圧力や抵抗」の典型として、既存のパターンとしての偏見や差別意識等々を使っているだけのことです。
そういうのを「社会批判」とするのは、まったく過大評価もいいところで、便所の落書きに「安倍政権を許さないぞ!」とあったら、これを立派な政権批判の表現として拾い出して評価するのと変わらないでしょう。
ただ、私は別段メロドラマ自体を馬鹿にするつもりはありません。それは私も含めてごく普通の市民の大多数が求める感性の癒しみたいな娯楽に不可欠な要素のひとつだと思うし、子供のころ、私もラジオで「君の名は」を聴いていたことがあるし(少しませていたか・・笑)、のちに映画でも見ました。また、「愛染かつら」も映画館に観に行きました。どちらも好きでした(笑)。いまも韓流メロドラマを見るとよく泣きます。
けれども、それはドラマとして、映画としていい作品だな、と評価する表現価値としての評価とはまた別問題です。作品の中のある種の部分的なメッセージ性だけを拾い上げて、社会批判だとかなんとか、それが作品の表現価値を支えるものであるような言い方を聴くと、おいおい正気かよ?と思ったりします(笑)。
これまでのところ「メロドラマ」という言葉を無造作に使ってきたので、「映画(あるいは文芸)おたく」を自称するような人の中には、何も知らん奴め、「メロドラマ」ってのはな・・・と講釈をはじめたくてうずうずするような人もあるかと思います(笑)。
そんなことを考えると、すぐ連想するのは、私がつきあっていたイタリア人で映画好きの友人(自称作家で、映画ではパゾリーニのファン。よく場末の映画館へパゾリーニを見に連れていかれました)とロンドン大学のカレッジでやっていた映画のコースを受講したときのことです。
そのコースでは若い講師が隔週で映画のエクストラクトを見せ、その間の隔週には前週に見せた映画と監督について解説やら受講生との質疑応答や議論を展開する、というのをつづけていて、映画が見れるだけでも面白かったので二人で通っていたのです。
或る時、私の記憶では「地下水道」というポーランド映画だったと思うのですが、私はいたく感激して涙を流していたら、隣で友人のイタリア人は冷ややかに嗤って、映画のあと講師が受講生に感想を求めると一番に挙手して、「こんなのはまったくのメロドラマで・・・」とこき下ろし始めました。
とたんに私と同様に感動の余韻さめやらぬ他の受講生のブーイング寸前といった感じのざわめきが起き、その中の一人から「<メロドラマ>って言葉は本来悪い意味じゃないぜ!」と茶々が入ったのですが、友人は即座に「そんなことは判ってる。俺の言うのは ”悪い意味“ だ!」と返して満座を苦笑させ、講師が「なぜこれが君の言う"悪い意味"でのメロドラマなんだ?」と訊くと、友人は「だって、こういうシーンなんてまったくイージーで・・」と、彼なりの主張を展開して、その主張は表現だけでなく、どだいレジスタンスなら、こうなってからじゃなくて、もっと前の段階でこうすべきだろう、なんて登場人物のレジスタンスの戦略的誤謬にまで及び、講師もわかったわかった、たしかにこの作品には君の言うようなイージーなところはある、しかし・・・と、自分がこの映画をとりあげた理由を釈明したのでした。
私たちがごく普通に使っている言葉でなにか小説や映画の感想を語ると、小説オタク、映画オタクはよく、その言葉尻をとらえて、君の言うのは厳密じゃない、その言葉は本来・・・とやり始めることがあります。
いま現在にしか関心のない、ごくふつうの生活者と違って、インテリさんというのは歴史性とか由来とかが大好きで、そういう情報を生活の糧にしているところがあるから、いわば重箱の隅をほじくるようにそういう言葉のどうでもいいような微細な差異に過敏です。
たしかに研究者は重箱の隅をほじくることが使命のひとつみたいなもので、概念を整理して共通の議論ができるだけ厳密にできるようにすることは大切だろうと思います。
中には従来の概念をひっくり返したり、ずらしたりして、自分なりの「定義」を与えて、それを前提に論議を進めていく人もあります。それはそれで学問的に意味のある行為だとは思いますが、別に誰もがそういう人の定義する言葉づかいに寄り添い、そのような意味でのみその言葉を使用してなにごとかを語らなくてはならないかと言えば、全然そんなことはないと思います。
或る哲学者なり批評家の思想を論じると言うのであれば、その人がどういう意味でキーワードを使っているか、その使用法に即して見極めなければその思想を理解することはできないでしょう。その使い方にも変化があるかもしれません。でもそういうのに誰もが付き合う必要はありません。
ハイデッガーを論じたい研究者なら、彼のいう「現存在」とは、と厳密に追い詰めて彼の思想に即してその著作を読む必要があるでしょうが、普通に私たちが私たちなりに、「人間ってやつはこうだよね」と議論する場合に、いや簡単に「人間」って言葉をつかってもらっちゃ困る、ハイデッガーによれば・・・なぁんて、彼のいう「現存在」は・・・とかやられても挨拶に困ります。
そんな哲学者個人の語法など知らなくても、ふつうの人は誰だって「人間」と言えばその意味は「分かる」でしょう。
よくこういう言葉づかいにこだわって、厳密に言葉の意味を定義して使うべきで、曖昧なことでは何を言っているか分からない、という人があります。でもそれは大抵の場合は嘘ですね。
例えばいまの「メロドラマ」にしても、映画通の間で流布される「厳密な」定義なんて知らなくても、普通の人なら誰でもその意味を「知っている」わけです。
言葉の意味というのは、定義しなければ分からないというものではない。みんな赤ん坊のときから周囲の人が使うのを聞きおぼえて自然にこういう場合にこういう意味で使うんだな、と理解していって、自然に使うようになるわけです。学校で辞書の引き方を習って、言葉の意味なるものを辞書で学ぶなんてのは、のちのちのことで、しかも私たちが使う言葉のごく一部に過ぎません。
学者さんに定義してもらわなくても、母国語なら私たちは多かれ少なかれ日常的に使う言葉の意味は分かっています。「メロドラマ」などもそういう語彙のひとつです。
もちろんその言葉から連想することがらは人によってさまざまに異なるかもしれませんが、例えばそういう連想語なり、その言葉のイメージや意味を別の言葉に置き換えたり、説明したり、連想を語ってもらって、そこに登場する語彙を調べて集計してみればよい。十分なサンプル数をとることができれば、ほぼ間違いなくジップの法則に従ってそれらの語彙の発現頻度の分布はごく限られた種類の語彙が大きな発現確率を示し、そこから急速に発現確率は低くなっていく双曲線型の分布を示すでしょう。これは以前にたとえば「自然」なんて言葉のイメージで実際に私自身も試みたことがあります。
そうやって得られる発現頻度の高い置き換え語なり連想語で表現されるものが、その言葉の「意味」だと考えておおむね間違いないでしょう。それが人々がその言葉を聴いたり使用したりするときに、その言葉からうけとり、あるいはその言葉に込める「意味」にほかなりません。
もちろん、辞書編纂者や語彙研究者はジップの法則に従って描かれる連続曲線に切れ目を入れ、分布図に境界線を書き込んで、その境界線の内側だけをその言葉の「意味」とみなすでしょう。それは研究者の自由です。あるいは恣意といってもいいでしょう。
けれども、生きた言語は中国政府が引く領海線みたいに、そんなふうに研究者が勝手に線引きして囲い込めるようなものではありません。あくまでも連続した意味分布の中の分布確率が高い領域を示すだけのことで、それ自体もまた時間とともに、また使われる地域とともに変化していく生き物です。
なにかの「専門家」を自称するひとたちの中には、しばしばそういう当たり前のことを忘れがちな、いわゆる「専門馬鹿」になってしまったような人もあるようです。そして、ごく普通の知性を持った素人の人々なら誰でも一定の了解のもとで使っている言葉に曖昧だと言いがかりをつけ、厳密さの要求を錦の御旗に、自分の引いた線の内側しか認めない狭量さを示して、中国政府のように(笑)他人にもその境界線を認めさせようと躍起になることがあるようです。そういう神経症的な厳密主義にはほとんど意味はないので、私たちはいつもそういう業界の中だけで取り交わされるそんな目くばせは軽々とパスして自由に語ればいいと思います。
「メロドラマ」とはあんたのような否定的な意味で使う通俗的な用法じゃなくて、映画史においてはこうなんだ、と茶々を入れたような、かの映画オタクの青年などには、そんなに厳密がお好きなら、せめて「存在と時間」の論証とか、「資本論」の価値論あたりを読んで、ああいう「厳密な」議論をどうぞご自身でやっておくんなさい、ふだんいいかげんなことを言っていて、そんなところだけ普段詰め込んだ知識をひけらかして、厳密、厳密って言いたてても滑稽だよ、とでもいうしかないでしょう。
私のイタリア人の友人はそういう感じで、「メロドラマって言葉の意味は必ずしも否定的なものじゃなくて」などと知識をひけらかそうとしたオタク青年を嘲弄していました。彼自身が文芸にも精通した映画オタクでしたから、「メロドラマ」がいかなる内包をもった言葉かは重々承知のうえで、通俗的な「悪い意味で」あえて挑発的に「地下水道」をこきおろしてみせたわけです。
それはあの映画でほろりとなって思わず落涙した感傷癖の私へのあてつけでもあったので、あとでもう一人一緒に見ていた彼のイタリア人の友人に、こいつはあのメロドラマに感動したんだってさ、と念押しで馬鹿にしていましたが(笑)、まぁ口の悪い彼はいつものことだったので、苦笑するしかありませんでした。だいたい私は涙腺が弱くて、メロドラマ(「悪い意味での」!)には弱いのです。
しかし、このサークという監督の経歴をみるとなかなか興味深い人で、両親はデンマーク人で、ヴァイマール共和制のもとで舞台監督としてキャリアをスタートし、1934年に映画製作に携わるも、妻がユダヤ人だったのでナチスの弾圧を逃れてドイツからアメリカに亡命、1942年にハリウッドで反ナチ映画"Hitler's Madman"を監督した(ウィキペディアによる)のだそうで、やっぱり映画を撮るうえで単なるメロドラマ(「悪い意味」での!)作家ではなくて、政治思想・社会批判の思想的ベースを持つ人ではあったのでしょう。
もちろんそれはなんら、その後に彼が量産したらしいメロドラマの質を保証するものではないにしてもです。ただ、私が彼の作品を見たのは今回がたぶん初めてで、一本きり、一回こっきりですから、どんな作家なのかはこれからまたもし彼の作品を見る機会があれば、なにがそんなに後続の若い監督たちを刺激したのか、確かめられるなら確かめてみたいという気はします。
反ナチの映画というのが、作品としてとんがった作品だったかどうかは知りませんが、もしそうだとしたら、そういう監督がメロドラマを量産するときの転位の仕方というのは若干興味をひかれるところがあります。
たとえばそれは、日本の衣笠貞之助監督が、「狂った一頁」や「十字路」のようなとんがった作品を作ったのち、山ほどの大衆娯楽時代劇の生産に転じたことに若干興味をひかれるのと似たところがあります。
地獄に墜ちた勇者ども(ルキノ・ヴィスコンティ監督) 1969
以前はタイトルだけ見て、戦争映画かいな、と思っていましたが(笑)、今回はじめてビデオで見て、そうじゃないことを知りました。私は超有名な監督の中でもとりわけこの監督の作品はなんとなく宣伝を見るだけで敬遠してきたようなところがあって、きっと性に合わないだろうな、と思っていたので、今回(たぶん)はじめて見て、結構面白いな、先入観や偏見は持たないほうがよさそうだな、とあらためて感じました。
イタリア・西ドイツ合作の1969年制作で、私が見たのは英語版ですから、みんな英語でしゃべっています。VHSでカラー155分です。
冒頭の激しい炎を上げて燃える溶鉱炉の映像、激しいリズムの音楽、導入からぐっと引き込まれます。巨大な製鉄会社を経営する一家の物語で、時代はまさにナチスが台頭して政権を握る瞬間に前後するときで、その激動の時代の荒波をもろに受けて、この強固な歴史をもつ一族も分裂し、衰亡の道をたどる物語で、流動的な時代のダイナミズムがそのまま家族に生じる事件とそれぞれの選択のうちに反映されてドラマチックな展開が見られます。
この大家族の家長ですべてを支配しているヨアヒムという老人の誕生日を祝う晩餐の席に集まった家族、客人たちですが、ヨアヒムの跡目を狙っているのが、ヨアヒムの娘ゾフィ(イングリッド・チューリン)の婚約者フリードリヒ・グルックマン(ダーク・ボガード)及び、彼に張り合うヨアヒムの甥で突撃隊員でもあるコンスタンチン、そしてフリードリヒが友人(客人)として連れてくるナチの親衛隊高級中隊指揮官(字幕では大佐となっていますが)のアッシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)、そしてゾフィの息子のマルチン(ヘルムート・バーガー)、コンスタンチンの息子ギュンター、ナチとつきあうことに反対して晩餐の席を立ち、ナチが共産党による国会議事堂への放火事件をでっち上げたその日の夜のうちに親衛隊の捜索を受けて逃亡を余儀なくされる製鉄会社の重役ヘルベルト・タルマン、その妻でヨアヒムの姪の娘エリーザベトなどが主な登場人物になります。この複雑な家族関係の中で、それぞれが野心を抱き、異なる考えを持って時代の荒波にどう向き合うか選択を迫られる中で、いやおうなく対立し、分裂し、消されていきます。
最初に消されるのは家長で会社でも家族の中でも最大の権力を保持していたヨアヒムです。ナチ(アッシェンバッハ)の謀略であることは明らかですが、それに協力するフリードリヒが、親衛隊の捜索の目を逃れて邸を脱出しようとする反ナチの思想を持つヘルベルトから拳銃を預かり、その銃でヨアヒムを殺害して罪をヘルベルトになすりつけます。
フリードリヒはゾフィと一体となって、むしろゾフィの野心に煽られる形で、アッシェンバッハと組んで、死んだヨアヒムの後継者である直系男子でゾフィの子マルチンを傀儡として会社を支配しようとし、社長となったマルチンに、自分を副社長に任命させます。
他方、社長の座をフリードリヒに奪われたコンスタンチンは、自身が親衛隊と対立を深める突撃隊員であり、フリードマンの許可を得ずに会社が開発した機関銃などの武器を突撃隊に納品して、フリードリヒやアッシェンバッハの怒りを買います。
そして、親衛隊によって突撃隊が襲撃される「長いナイフの夜」、久しぶりに集まって酒をのみ、乱痴気騒ぎをして眠りについた突撃隊員たちを、明け方、親衛隊の兵士たちが襲撃し、機関銃で皆殺しにします。その襲撃隊の中にアッシェンバッハとフリードリヒの姿があり、二人はコンスタンチンを探しだして確実に仕留めます。
こうしてフリードリヒはゾフィと組んですべての権力を手に入れたかに思えましたが、彼は権力を手に入れるにつれて、アッシェンバッハの奴婢のように彼に屈従している身を物足りなく思うようになり、自分で判断したがるようになったために、アッシェンバッハはついに彼を見放し、ゾフィのほうが頼りになると踏んで彼女に誘いかけ、自分の思うような方向へ会社を持っていこうとし、ゾフィもその方向でアッシェンバッハに接近します。
しかし、もうひとつゾフィとフリードリヒにとって頭の痛いことは、自分たちの言いなり、とりわけゾフィの手のうちにあった息子マルチンがだんだんコントロール不能になってきたのです。
このマルチンという青年は一種の性的異常者で、おそらくは母親との母子関係の歪み、いわゆる母源病というやつで、ペドフィリアと呼ばれる類の病的な性癖を持つ人物で、あからさまな場面は避けられているけれど、ちょうどドストエフスキーの「悪霊」で最初削除されていたらしいスタヴローギンの告白にある、少女姦を示唆するような映像があり、その家主の娘である少女は自殺してしまう、というエピソードがメインストリームの中に挿入されています。この少女がユダヤであったために、ナチス政権下では問題にもされない、ということがゾフィを口説くアッシェンバッハの口からさりげなく語られます。
このマルチンは確かに母親には頭が上がらず、なにもかも彼女の言いなりでしたが、母親を心から愛し慕っていたわけではなく、極度に屈折した愛憎が表裏する感情を持っていて、彼女に支配され、屈服しつづけてきた自分を嫌悪しています。やがてフリードリヒばかりかゾフィをも見放すアッシェンバッハがマルチンに接近して彼を取り込もうとするとき、マルチンを母親に対する裏切りへと突き動かすのは、母が自分から「何もかも奪った」という想いでした。
マルチンは家族を前にして、フリードリヒがコンスタンスを殺したことを暴露し、フリードリヒともども母ゾフィをも裏切ります。家族の中で孤立したフリードリヒは、ソフィアと結婚して、この一族の正式の一員としての名目をものにしますが、その結婚式の当日、フリードリヒとソフィアはマルチンによって別室に導かれて毒薬を渡され、それを呑んで死にます。
2時間47分の長尺ですが、密度が濃くて複雑な人間関係が政治的背景のもとでうごめき、息をのんでみる感じです。
さすがに少し長すぎやしない?と思う唯一の箇所は、突撃隊の兵士らが騒いで飲んだくれる夜のシーンだけです。酒と女、歌にダンス、えんえんと賑やかな宴が夜を徹して行われ、みなくたくたに疲れ果て酔いつぶれて眠り入ってしまいます。そこへ明け方、ようよう日が昇るか昇らないかという時刻にジープやオートバイの響きが遠くから聞こえ(このシーン、美しい)、たくさんの車がやってきて、そのダンスホールだか飲食店だか突撃隊の兵士らが乱痴気騒ぎしていた建物を取り囲みます。あとは凄惨な地獄絵図です。
まあ突撃隊員たちの運命を考えれば、あの楽し気なドンチャン騒ぎの徹底があってこその、あの凄惨な悲劇が凄みを増すところがあるので、それは仕方のないことではあるのですが・・・
とにかく人間の欲望が政治権力と結びついていくときに、どれだけそれが凄惨な地獄への道か、滅びに至る道か、というのが、妖艶なまでに、というのかほとんど美しいとさえいえるほどの映像美と迫力を持って描かれていて、ゾクゾクしました。
私は無知を承知で何の情報もなくあてずっぽうで言うのですが、このヴィスコンティっていう人は、ちょうど日本の作家でいうと三島由紀夫みたいな人なんじゃないか、って気がしました。
人間の欲望をただ人間の存在にまつわるドロドロとした資質とか個人の負う宿命的なものとみるのではなくて、たとえば政治権力とか企業を支配する資本にまつわる権力だとか、そういう権力と骨がらみの、共同性の地平で非常にスケールの大きい絵柄として把握していて、個人の欲望がただちに政治権力や資本の権力に直通するようなものとして描き出されるところは、どこか三島由紀夫の思想的資質と通じるものがあるような気がしたのです。
そういえば三島には「わが友ヒトラー」という優れた戯曲があって、文芸雑誌に出たときに読んだ記憶があります。もう中身は忘れてしまったけれど、あれも突撃隊と親衛隊の争いが背景になっていたと思います。
ヴィスコンティが政治的にどういう思想の持主だったかは知りませんが、少なくともこの作品に関する限り、戦後の思想的風潮に従って一方的にナチを悪者として描くような単純なところは微塵もありません。もちろん肯定的なものではなく、否定的・批判的な視点は十分に感じられるけれど、それは一方的なイデオロギー的裁断ではなくて、あくまでもこの作品の世界の内部で、鉄鋼会社の一族を襲う時代の嵐の先頭切って押し寄せてくる強烈な風なり波なりとしてそれを描いていて、或る意味ではそれはナチであろうと共産主義であろうと、どこかの独裁政治権力であろうとかまわないので、圧倒的な政治的権力としてこの一族を襲い、互いに対立させ、家族を引き裂いていく力としてのナチスであって、ナチスの思想の内実に分け入って否定したり、批判したりといったものではありません。
しかし、その圧倒的な力の恐ろしさというのは十二分に描き切っていると思いますし、それまでに展開される人間関係の癒着と対立、妥協と敵対、陰謀、愛情の裏表、屈折した感情等々、すべての流れが注ぎ込み、ひとつに集約され、凝縮され、一挙に爆発して華麗なまでの凄惨な光景となって噴出するのがあの「長いナイフの夜」の映像でした。結局人間の欲望が政治権力、資本の権力等々に直結してひとつのあからさまな形をあらわすとき、それはあぁいう姿にならざるを得ないんだ、というのを理屈抜きに映像の力で見せつけるようなところがあります。圧倒的な作品でした。
ニーベルンゲン(フリッツ・ラング監督) 1924
ずいぶん以前に買っておいたDVDを封をしたまま置いてあって、いつか見ようと思っていたのをようやく封を切って見ました。なにしろ286分という長尺なので、なかなか見始める決心がつかなかったのです。モノクロ・サイレントで一部二部合わせてではあるけれど、4時間46分というのはさすがに長くないですか?(笑)
でも、これが見始めたらやめられない、めちゃくちゃ面白い映画でした。フリッツ・ラングという人の作品を最初に見たのは(たぶん)映画館でみた「メトロポリス」で、オリジナルバージョンを再編集だか音楽だけつけなおしたんだったか、サイレントですが音楽が素晴らしくて、劇場でいい音で大画面で見たら、素晴らしい迫力でした。物語は単純だし、マンガ的なところもあるけれど、あの人造人間の造型は素晴らしかったし、スピーディーな展開と現代音楽のリズムがぴったり合って、サイレントにこんな素晴らしい映画があったなんて!とそのとき思いました。ラングの作品はいくつか見たけれど、あの時映画館で見た感動を超えるものはなかったものの、どれもいい作品でした。
今回はDVDで見たので、私専用の中古テレビのブラウン管に映る映像ですから、映画館で見る印象とはずいぶん違うだろうし、映画館で見たらどんなに素晴らしいかと思いましたが、それでもこの作品のすばらしさは感じられました。
それで、長いあいだ本棚の隅でツンドク状態だった、原作の「ニーベルンゲンの歌」(岩波文庫で相良守峯訳。前後編2冊本)を、今回は拾い読みでなく、最初から最後まで通読してみました。これまた映画同様にすばらしく面白かった。
「万一ドイツ民族がこの世から消え失せた暁に、ドイツ民族の名をもっとも輝かしく世に残すべき作品を挙げよと言われたら、われわれはそれをただ2編の文学に局限することができる。それはニーベルンゲンの歌とゲーテのファウストだ」と評した人もあるそうで、「ドイツのイリヤス」と言われた作品のようですから大変なものなのでしょう。
第一部は英雄ジークフリートが故国のニーベルンゲンを出て竜退治をし、その血を全身に浴びることによって、木の葉一枚肩に落ちた部分だけ残して、あとはどこをどう撃たれようが突かれようが不死身という身体になります。
この竜退治の話は、原作ではジークフリートの過去の英雄譚として語られるだけで、あっさりしていますが、映画では映像としての見せどころで、前半のハイライトシーンのひとつでしょう。巨大な竜が登場して、けっこういい動きをします。血を浴びて不死身になるが、一カ所だけ弱点を残す、というエピソードはあとで彼が暗殺される場面で効いてきます。
またジークフリートは、小人アルベーリヒをとらえて姿が見えなくなる頭巾を与えられ、数々の宝玉とバルムングの剣を手に入れます。このとき、宝物を乗せた巨大な石皿みたいな容器を支えている小人たちがいたのが、一斉に石に変容していきます。ここのところも、サイレント時代の映像としてすごいな、と驚きました。いまのようにコンピュータグラフィックスでチョイチョイ、というわけにはいかない時代でしょうから、どうやって撮ったんだろうと思いました。
日本の時代劇で深作欣二が撮った里見八犬伝という真田広之や薬師丸ひろ子が出た結構面白い映画があって、あれの最後の戦闘場面で、敵の巣窟である巌窟のトンネルの中を敵と戦いながら進む中で、主役級の真田などを先に行かせるために、味方の身体の大きいのと小さいのと二人がセットになって岩を支え、小さな通路を体でトウセンボして敵を防いでいた、その体がまるごと石塊と化していくシーンがあって、素敵な場面だな、と印象に残っていますが、ちょうどあれみたいに、それまで生きた小人だったのが、すっとそのまま小人の形をした石塊に変わっちゃうのですね。
ところで、それらの冒険を経たジークフリートは、ヴォルムスのブルク王国のグンター王のところに赴いて、そこで評判の王の妹クリームヒルトを得るために滞在して、グンター王が望む女性ブルンヒルトを獲得するために協力することを約束します。
このブルンヒルトは男勝りの女傑で、求婚者に投槍、石投げ、幅跳びの三種競技を自分と競わせ、勝てば嫁ぐが、もし求婚者が敗ければ首を置いて行ってもらう、というとんでもない女。しかし彼女にも勝る力のジークフリートは姿が消える隠れ頭巾をかぶってグンターに力を貸して、この女傑を打ち破り、グンター王は望み通りブルンヒルトを連れて帰って王妃に、ということになります。透明人間になれれば万能です。これってずるいですよね(笑)。
この機会にクリームヒルトは兼ねての願いが成就されるようグンターに願い、望み通りクリームヒルトと結ばれます。これはまことにめでたい。ジークフリートが庭園のベンチに一人で腰かけて、木の枝にとまっている小鳥と言葉をかわす(彼は小鳥の言葉がわかるのですね)場面がとてもよくて、そこへクリームヒルトがやってきて横に坐って楽しそうに話す、幸せそうな場面がとっても素敵です。映像として第一部の幸せな二人の世界を象徴するようないい場面です。
他方ブルンヒルトは渋々グンター王に従って王妃となったものの、初夜の寝床で容易にグンター王に身を任せようとはせず、逆にグンター王を力任せに組み伏せて縛り上げる始末。原作では紐で縛り上げられて釘にひっかけられ、二度と私にさわらないと誓わされたり、グンター王もさんざんです(笑)。
さて、これを知ったジークフリートは再び隠れ頭巾に身を隠し、この頭巾は姿が隠せるだけではなく、誰にでも化けることができる魔法の頭巾であったので(このへんは非常に便宜主義的ですな)、グンター王の姿に化けて抵抗するブルンヒルトを組み伏せ、ブルンヒルトが観念したところでホンモノのグンター王に代わったので、めでたくグンター王はブルンヒルトをものにすることができた(笑)。
ところがここに、ジークフリートも余計なことをしなきゃいいのですが、ブルンヒルトを制したときに、どういうつもりか、彼女が腕につけていた宝玉の腕輪を奪っていたのです。原作では妻にプレゼントするために奪ったような書かれ方ですから、わかりますが、映画では妻に渡すでもなく自分で持っていただけのようですから、よくわからない。
でも、とにかくこれを彼の妻のクリームヒルトが彼の荷物を整理していてみつけ、自分の腕にはめます。それを見たジークフリートは驚いて、ぜったいにそれはブルンヒルトにみせてはならぬ、と念押しするのですが・・・
どうもこのブルンヒルトとクリームヒルトの仲はすこぶる良くないのです。というのは、対等な客人であるはずのジークフリートが、最初はクリームヒルトをわが妻とするために、またブルンヒルトという女傑をグンターのものにするために助力しようという目的で、何かといえば自分はグンターの忠実な家臣である、と言ってグンターを立ててやっていたわけです。
だからブルンヒルトは当然、ジークフリートは自分の亭主の家来だと思っていて、その家来である彼にグンター王が妹を嫁がせること自体に驚いているわけです。身分ちがいの自分の家来に、大事な王家の妹を嫁がせるなんて、と。
しかしグンター王もクリームヒルトも実際にはジークフリートはグンター以上の国の王であり、豊かな財産も持ち、英雄的な騎士としての実力もグンターより上であることをよく知っていて、あくまでも対等な友となった客人であると思っているから、そういう付き合い方をしています。
王妃となったブルンヒルトはだいたいこれが気に入らないところへ、家臣の妻となった以上、王妃である自分よりも身分的には下になったはずのクリームヒルトが王妃と対等であるかのように大きな顔をしているのが気に食わない。
それでクリームヒルトとぶつかっては、ジークフリートのことを家臣のくせに、と蔑み、その妻にすぎないクリームヒルトは王妃の私より前に出ることはできない、となにかにつけて押さえつけようとする。クリームヒルトも負けてはいないから言い返す。
それがついに爆発するのが、聖堂でのミサに出るにあたって、どちらが先に入るかで、両者がぶつかって相譲らず、家来の癖にと言い募るブルンヒルトに対して、クリームヒルトは夫に口止めされていたにも関わらず、ブルンヒルトが初夜を共にしたベッドにいたのはグンターではなくてジークフリートなのだ、と暴露し、なにを証拠に根も葉もないことを、と怒るブルンヒルトに対して、これが証拠だわね、とジークフリートが奪ってクリームヒルトに与えたもともとはブルンヒルトがはめていた腕輪を見せるわけです。
ここは原作では、指輪と腰ひもということになっています。原作のクリームヒルトはかなり気の強い意地悪なところのある女性で、あんたが初夜に寝て操を捧げたのは兄の王ではなくてうちの旦那のジークフリートだよ!というような言わずもがなの、徹底的に相手を侮辱する言葉を投げつけるんですね。
事実を知ったブルンヒルトは怒らいでか!(笑)当然ですよね。
もう自分の屈辱を晴らすには、ジークフリートを殺すしかない、と固く思い定めて、誰彼とない側近の武将たちに、ジークフリートを殺せ!と命じ、懇願し、夫のグーター王に対しても、ジークフリートを死に追いやる方向へなんとか導き唆そうと謀りますが、ジークフリートの助力に感謝もし、友情も感じているグーター王としては、なかなか容易にはジークフリートを裏切る決断がつきません。
しかし、ここにグンター王の古くからの側近で王の信頼も厚い勇猛果敢な騎士で片目を戦でなくしているらしい将軍ハーゲンがいて、彼はもともとジークフリートを快くは思っておらず、下手をするとグンター王の治めるヴォルムを支配下におさめようとするのではないかという危惧ももっているようで、むしろクリームヒルトとの結婚を機に、ジークフリートがニーベルンゲンにもつという膨大な財産を財政の傾いているヴォルム(ブルク王国)のために手にいれようと考えていて、しきりにグンター王にジークフリートを亡き者とする方向で煽ります。
このへんもジークフリート側に立って見れば悪だくみをする陰謀家ということになりますが、一国を安定的に運営する国王の補佐役の武将としては、ジークフリートのような金も力も存分に供えた異国の王がいつまでも客人として王の傍らをうろついているのは、なにか魂胆があるのではないか、王にとって代わってこの国をのっとろうというのではないか、という警戒心を懐くのはわりと自然なことのような気がします。
そういう意味では早くジークフリートを追い払ってしまいたいのもわかるし、それが王の信頼を得て妹を嫁がせてしまった以上、簡単に関係を断って追い払うこともできないから、事が起きる前に殺してしまうほうがのちのちの国家安泰のためにはいいんじゃないか、と考えるのも無理はないかもしれません。ハーゲンはグンター王には終始忠実な部下なんですね。
そうとも知らぬジークフリートは惜しげもなくニーベルンゲンの財宝を取り寄せ、人々に分け与え、グンターにも提供を惜しみません。ブルンヒルトはクリームヒルトから初夜の事実をあかされて屈辱を味わい、なんとしてもジークフリートを殺そうと、グンター王に私から腕輪を奪った者(ジークフリート)が私の操を奪ったのだ、と告げてジークフリートを殺して自分の恥を雪ぐように言い含め、ついにグンターもジークフリートを裏切る決心をします。
このときハーゲンは一計を案じて、忠臣の振りをしてクリームヒルトに近づき、予知夢のような悪夢を見てジークフリートの身を心配でならないクリームヒルトに、自分が必ず彼を守るから心配ない、しかし、彼を守るためには彼の弱点を知らないと守れない。竜の血を浴びて不死の身になったらしいが、木の葉が落ちてくっついたところだけが弱点らしい。その弱点の場所さえわかれば、そこを絶対に攻撃されないように守ってやることができる・・・と欺いて、アホなクリームヒルト(笑)をいとも簡単にだまし、こともあろうに、ジークフリートの着衣のその弱点になる場所にX印を縫い込んで分かるようにしおくことを承知させるのです。クリームヒルトはそれが夫の命を奪うための導きの糸になるとも知らず、夫の衣服にせっせとX印を縫い込みます。
こうしてハーゲンの画策で狩りに出かけることになり、みなで鹿狩りの用意をして狩場に出かけます。狩りも終わる頃、大活躍で喉が渇いたジークフリートが酒だったか水だったかを所望すると、その場にはないが、冷たい水の湧く場所を知っている、とハーゲンが言い、そこまで競争しよう、と提案します。ジークフリートが剣も置いて身に武器一つ帯びずに森の中を駆けてゆくのを、ハーゲンは槍をたずさえて追います。湧き水の場所に先に着いて、水面にかがんで水を飲むジークフリートの背後から、その背に縫い込まれたX印をめがけて、ハーゲンが長槍を投げ、みごとX印を貫いてジークフリートの背に深々と刺さります。こうして一代の英雄はここにその生涯を閉じたのです。
ここまでが第一部で、ここからが第二部。クリームヒルトの復讐がはじまります。
彼女はジークフリートの喪に服していましたが、ここに彼女の美貌を伝え聞いたフン族のアッチラ王がちょうど先妻をなくしたところで、后をもとめていたので、彼女を后にと望んで使者をつかわし、求婚します。最初は相手にもしない素振りのクリームヒルトですが、一晩考えて、自分ガアッチラ王に嫁いでその権力と財力を支配し、多数の兵士たちを思うままに動かせるなら、と復讐の機会を想い、求婚に応じる返事を伝えて、辺境伯リューディガ―の導きでフン族の地へ出立します。
このリューディガ―も立派な騎士で、グンター王の支配地域の内で領土を安堵された或る意味では王なのではないかと思いますが、みなから一目置かれる勇猛果敢で名誉を重んじる騎士道精神を備えた武将で、フン族とも交流があり、グンター王とフン族との仲介をするわけです。
ですから、のちのちフン族とグンター王らとの争いが生じたときも、どちらからも一定の距離を保って一方に最初から味方することはなく独立を保つわけです。しかし、すぐあとで述べる事情で、やむなく一方に加担して落命することになるのですが・・・
さて、クリームヒルトを迎えに来てアッチラ王に仲介したリューディガ―は、「あなたを侮辱する者があればアッチラ王が許しません」と言って渋るクリームヒルトを説得しますが、クリームヒルトは「それを十字架ではなく、そなたの剣にかけてお誓いください」と言い、リューディガ―は自分の剣にかけて誓います。これがのちのち効いてきます。
クリームヒルトは出立にあたり、夫ジークフリートが暗殺された林に出かけ、夫の血を吸った土を削って布にくるみ、懐に入れて行きます。ジークフリートの血を呑み込んだ大地よ、いつかハーゲンの血で染めてやろう、と決意します。「待っておれ、かならず戻ってきてみせる!」
このときのクリームヒルトの目つきがすごい!
この女優さん、本当に素晴らしい。第一部から通してもちろん同じ女優さんですが、第一部のジークフリートと愛し合い、戯れる清楚で可愛らしい彼女のイメージは第二部にいたって一変し、動きの乏しい、しかし表情だけはものすごい表現力で、心が冷え切って復讐の念のみに固まった女の姿を実にみごとに演じています。
またモノクロだから色彩はないけれども、おそらく白が基調の明るい彼女の可憐な衣装に対して、第二部は黒が基調の暗いシャープなデザインの衣装。冠といい、長い裾の黒を基調としながら、三角形の中に大小の同心円を描いたユニットの組み合わせによる実にモダンなデザインのファッションで、服装を見ているだけでもワクワクします。
あれは色彩はモノクロだけれど、意匠としてはクリムトの描いた女性を見るようなところがありますね。
ついでに書いてしまえば、服装だけでなく、建物のデザイン、外観も内観も、非常にモダンで面白い。リアリズムではなくて、ドイツの表現主義というのかな、単純な直線と曲線から成る、抽象的な印象を与える実にモダンなデザインで、これも見る者をひきつけます。
さてフン族はニーベルンゲンやヴォルムスの人々に比べれば荒野の蛮人といった感じで、半分裸で兵士もきちんとした騎士のような鎧兜も槍楯などの武具もそろわず、思い思いの手斧やら蛮刀やら槍やら手製の弓みたいなのを持っていて、烏合の衆みたいな感じです。でも横山ノックみたいな頭をした王様は絶対権力を持っているようで、その王様は美しいクリームヒルトを大歓迎。
クリームヒルトはここで王の一子をもうけ、王様は大よろこびで、何でも彼女の言うことをききそうです。クリームヒルトの心はなおも復讐一筋。なんとか兄王グンターを呼び寄せれば仇のハーゲンらをこちらの手中に落とせると謀り、グンターを迎えに使者を送ります。
グンター王は気が進まぬ様子ですが、夏至の前日にアッチラの宮殿へやってきます。クリームヒルトは家来たちに、わが感謝を得たい者はわが悲しみを癒すべし、と言い、アッチラ王にも、「私を侮辱した者は断じて許さないという誓いを思い出して下さい、ジークフリートを殺した下手人はあなたの手のうちに居るのですよ」と唆すのですが、アッチラ王は「女よ、ジークフリートが忘れられぬか」と言い、なおも「子供の命にかけて誓いを果たすのです!」と迫るクリームヒルトに、「わたしは荒地の出身だ。そこでの唯一の宝は客人だ。ハーゲンはわが家の平和を乱さぬ限り平穏でいるのだ。」とまっとうなことを言って、彼女の煽動にも動じず、請け合いません。このへんのアッチラ王という人物の造型もなかなかのものです。
クリームヒルトはフン族の兵士たちに、ハーゲンの首をわれに届ける者には金を与えよう、と煽り、試みようとする者もありますが、グンターやハーゲンは警戒を怠らず、機会はなかなか訪れません。翌日は夏至の祭り。盛大な宴が催され、グンターも部下の諸将をつれ、武器を携行して正餐の席につきます。
クリームヒルトはある謀を胸に、このような宴会にアッチラの王の相続者が欠けてはならぬのではないか、と言って、王と自分の子である赤ん坊を連れて来させます。誇らしげに赤子を抱き上げ、客人にも回して見せるアッチラ王。赤子を抱いて正面に見据えたハーゲン、「この子が長生きすることはないと思う。我々がこの子の宮廷へ行くこともないだろう」と予言めいたセリフを吐き、アッチラ王はムッとして座が白けた様子。
クリームヒルトがわが子をこの宴席へ連れて来させたのは、自分の手の者がハーゲンらを襲うとき、ハーゲンがこの子を殺すであろうことを予見し、そうすることでアッチラ王を憤激させ、いまは客人には手を出そうとしないアッチラ王にハーゲンらを殺させよう、という残酷・冷酷な思惑があったためと思われます。事実、その通りにことが進んでいきます。
他方、この宴席の影で、フン族の者たちの手から手へと武器が手渡されていく様子が、宴席の王たちのやりとりの合間に映し出されます。クリームヒルトがひそかにフン族の兵士たちに命じておいたハーゲンらを殺害する準備が進められていたわけです。
用意が着々と進み、まずは広間のこの宴席から離れた、ニーベルンゲンの兵士たちの宿舎で、フン族は突然客人である兵士たちを襲い、たちまち両者入り乱れての戦闘になります。宴の最中だった広間にも、矢を受けて逃げて来たクンター側の兵士の報せで事態の発生を知ったハーゲンは直ちにまず王の後継者たる赤子を殺します。
「客人が殺したのです!」と叫ぶクリームヒルト。子供を抱きしめて嘆くアッチラ王もことここに至って「いまやニーベルンゲンのやつらは保護の外に置かれた!」と叫びます。
しかし、ニーベルンゲンの兵士たちは圧倒的に武力に勝り、襲い掛かるフン族をことごとく返り討ちにしていきます。グンター王とその兄弟やハーゲン以下臣下の騎士たちとは距離をおく(クリームヒルトをフン族の王妃にと仲介した)リューディガ―辺境伯はみなが一目を置く武功の誉れも高い騎士で、彼ともう一人の騎士とは、グンター王たちとは別れ、クリームヒルトとフン族の王アッチラを守りながら広間を出て行きます。
そのあと広間の扉は閉じられ、残っていたフン族はグンター王の配下の騎士たちの手でことごとく殺されて、一人だけその様子をクリームヒルトに伝えよ、と扉の外へ放り出され、彼がクリームヒルトに広間の中の仲間が皆殺しにされた一部始終を伝えます。
「死者の復讐を!」というクリームヒルトの命令で、フン族は仲間をさらに増やして広間の扉を叩き、中から出て来たニーベルンゲンの騎士たちと戦闘が再開されますが、ここでもニーベルンゲンの騎士たちは圧倒的に強くて、フン族はクリームヒルトの足もとに服して「無理です」(笑)。
城壁の階上から顔を出したグンターの弟が、クリームヒルトの姿をみつけて、姉上!と嬉しそうに呼びかけるシーンなども印象的です。その姉上はハーゲンともども、夫や義弟をも殺してしまおうという復讐の鬼と化して城を見上げているのです。
しかしニーベルンゲンの騎士たちは強くて、またしても押し返し、扉を固くしめて、フン族の兵たちの死体が累々というありさまです。これを見てクリームヒルトは、リューディガ―辺境伯を呼べ!と呼びにやり、彼がそばにくると、「時は来たれり。リューディガ―殿、誓いを果たしなされ!」と自分をアッチラ王のもとへ連れて行くときに誓わせた剣にかけての誓いを思い出させて迫ります。「ジークフリート殺害の下手人を求めます!そなたはハーゲンを守って自分の兄弟に剣を差し向けている。剣の刃にかけて誓いを立てたはず」と。
リューディガ―はこれより前に、自分の一人娘をヘルダー王の末弟ギルダーに嫁がせたばかりなので、アッチカ王の前へ出て、どうかわが一人娘を殺させないでください、と哀願しますが、赤子の遺骸を抱いたまま茫然と座っていたアッチカ王は、黙って自分の抱いた子の遺骸を示すだけでした。
ことここに至ってはやむなしと、リューディガ―は宮殿の門の前にまかり出て呼びかけます。中のニーベルンゲンの騎士たちは、立派な騎士として経緯を払うリューディガ―が来たとあって、彼は和平をもたらす、とギルダーが扉を開けて導き入れます。「あなたは何を私たちにもたらすのですか、お義父さん?」と問うギルダーに、リューディガ―はひとこと、「死を!」と叫んで挑みます。
アッチカ王は、子供を殺した者を渡せばほかは見逃すと呼びかけますが、ニーベルンゲンの騎士たちは、「ドイツ魂を知らぬと見えるな、アッチカ王!」と叫んで、最後の闘いに臨みます。
リューディガ―も、「クリームヒルトが私に立てさせた近いが、そなたたちのよりも古いのだ」と言ってニーベルンゲンの騎士たちとの戦いに臨みます。騎士にとって自分が剣にかけて誓った誓いは命よりも重いのでしょう。それも古い誓いのほうが効力が大きいらしい(笑)。
ハーゲンに闘いを挑むリューディガ―に義息ギルダーが止めに入ろうとして傷つき、死にます。リューディガ―は動揺しますが闘い、みずからも討たれてしまいます。ギルダーを抱いたクリームヒルトの義弟が「姉上、あなたの仕業です!」と言いながら出てきます。
「ハーゲンを引き渡せばそなたたちは自由じゃ」とクリームヒルト。でもフン族が弟を取り囲み、殺してしまいます。動揺するクリームヒルト、急ぎ建物から下へ降りていきます。
フン族が城内へなだれこみます。ハーゲンが出て来て、クリームヒルトに向かって言います。
「そなたの復讐を楽しむがいい。そなたの弟は死んだ。リューディガーもその部下たちもみな死んだ。だがジークフリートを殺したハーゲンはまだ生きておる!」
そういうと、傷ついた仲間、仲間の死体を部下らに運ばせ、再び門を閉じて中へこもります。
そこでクリームヒルト、「広間に火を放て!」と命じます。フン族が宮殿に火矢を放ちます。懸命に火矢を払い落とすニーベルンゲンの兵士らですが、宮殿は燃え上がります。
アッチラ王は、クリームヒルトは正しい!と叫び、ハーゲンらが出てきたらクリームヒルトの側につく、と最後の戦いに身構えます。そしてクリームヒルトに言います。「そなたと私は愛でひとつにはならなかったが、憎しみでひとつになった」と。
クリームヒルトは応えて言います。「アッチラ殿。わが心がいまほど愛で満たされたことはなかった」と。
広間の内部では、ハーゲンがグンター王に、「グンター殿下は火の中で死んではなりません。私の首を差し出しましょう」と提案します。「いや忠義は鉄のように火でも融けぬ」とグンター王。
勇猛な騎士にして楽士のフォルカーが最後の歌のために楽器を調整しています。
外ではクリームヒルトに対して、リューディガ―と共に居た老騎士が、武器で負かせない者らを火で滅ぼうというのは恥辱だ、と火攻めによる攻撃を非難し、やめさせようとしますが、クリームヒルト聴く耳を持たず、「聴け、フォルカーが歌っている」と聞こえてくるフォルカーの歌に耳を傾けます。
あぁ、冷たい緑色のライン川のほとりにいられれば・・・
屋根が燃え落ちてくる中、ハーゲンは楯でグンターを守りながら火を避けています。
老騎士が再びクリームヒルトに、「人間ではござらぬか」と諫めますが、クリームヒルトは「ジークフリートが死んだとき、私も死んだのです」ともはや老人の助言に聴く耳を持ちません。
煙の噴き出る扉から、ハーゲンがグンター王を支えながら出てきます。クリームヒルト、こちらの騎士から剣を手渡され、クンタ―をハーゲンから引き離させ、ハーゲンに対して「すべてのあやまちが償われるまであの世に行くことはできぬ」と言い、ハーゲンが奪ったニーベルンゲンの宝物をどこへ隠したかを言うようにと迫ります。
ハーゲンは、「最後の一人の王が生きている限り、誰にも宝物のありかを明かさぬと誓った」と答えます。するとクリームヒルトはすぐに斬らせたグンターの首を高くかかげさせます。最後の一人の王の死です。ハーゲンはショックを受けますが、もはやニーベルンゲンの宝物は誰の目にも触れぬだろう、と言って、クリームヒルトの剣に斬られて果てます。
長年の宿願であった復讐を果たしたクリームヒルトは、懐から、ジークフリートの血に染まった土を取り出し、「さあ大地よ、たっぷりと飲み干せ」と敵の血を吸わせるのでした。
しかし、すべてを果たし終えたクリームヒルトは、その場に倒れ、そのまま息をひきとります。
アッチカ王はその姿を見て「彼女をジークフリートのもとへ!彼女はジークフリート以外の誰のものでもなかった」と叫びます。
このラストは原作「ニーベルンゲンの歌」とは違っています。原作ではクリームヒルトは騎士として敵将たちにも敬意を払っていた老将軍ヒルデブラントが、クリームヒルトが自らハーゲンを斬殺したのを見て、女の手で勇士を討つとは見過ごせぬ、と勇士の仇を討つとして怒りに燃えてクリームヒルトに一太刀あびせて殺してしまうのです。
映画ではすべてをやり終えたクリームヒルトが生命力のすべてを復讐のために蕩尽して死んでしまうような形になっています。そのほうが自然な気がしますが、原作はあくまで騎士道の倫理みたいなものが最優先で、主人公さえその道理の前では命を差し出さなくてはならないようです。
ストーリーはもちろん古典的な神話の世界の物語で、けっこう起伏はあって複雑ですが、ひとつひとつの挿話は単純で、全体としても、一人の英雄の輝かしい姿と、その絶頂で裏切られて死んでしまい、その妻が生涯かけて復讐を果たす、という一貫した物語になっていて、サイレントだけれどとてもわかりやすい。
ただ、敵味方がはっきりした勧善懲悪型の話ではありません。第一部でヒーローを暗殺するハーゲンをはじめ、それにそそのかされてヒーローの友情と信頼を裏切り、暗殺を許容するグンター王なども悪者の典型みたいに見え、残されたヒーローの妻は悲劇のヒロインに見えます。
でも第二部に入ると、もはや弱々しい被害者としての彼女の姿はどこにもなく、首尾一貫徹頭徹尾復讐の鬼として燃える炎を氷のように冷たい外見に隠して、策略を用い、新しい夫アッチカも、自分とアッチカの間の子の命までも復讐の道具として利用し、第一部のハーゲンの悪知恵に勝るとも劣らない謀略を用いて仇を自分たちの城へ招き入れ、襲撃し、最後は火焔でみな焼き殺そうと謀る、とてつもない悪女のように変貌します。
むしろ仇であったハーゲンなどのほうが、クリームヒルトの企みを察しながら、主君グンターへの忠誠心から、逃げ出しもせずにつき随ってみすみす敵の巣穴へ入り、勇猛果敢な騎士として主君を最後まで守りながら堂々と力尽きるまで戦うというどっちがヒーローだかわからなくなりそうな具合です。
登場人物もグンターやハーゲンの一党とアッチカ王の支配するフン族との二元対立ではなく、リューディガ―に代表されるように、両者をもともと仲介していた、両者に対して一定の距離感と親和性とを併せ持った、やはり名誉を重んじ誓いを必ず守る騎士として尊敬を集める武将がいたり、クリームヒルトの敵の中にも兄グンターをはじめその兄弟たち、彼女を姉さんと慕う弟がいたり、リューディガ―の一人娘が王の末弟(だったか)ギルダーと結婚したりと、複雑に人間関係が入り組んで、決して、敵味方、白か黒か、みたいな割り切り方のできない構図になっています。
それは原作の物語自体がそうなのですが、この映画でもそれがきちんと反映されていて、俗っぽい単純化がないところがとてもいいと思います。
フン族がニーベルンゲンの騎士たちが立てこもる広間のある城の壁に梯子を立てて続々と侵入していき、燃えあがる城で壮絶な戦いがくりひろげられるあたりは、すでにグリフィスの「イントレランス」でお馴染みの壮大な戦闘場面を見ていると、目新しいとは言えませんが、それでもよくまあサイレントの時代にこれだけのことができたなぁ、と感心します。
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2019年02月14日
カルロス・ゴーン元会長と弘中惇一郎弁護士
昨日、高校の同窓会の人から、去年11月の中央公論の記事を添付したメールが配信されてきました。アドレスが分かっている同期のOBにはみな送ってくれたようで、その記事の最初に卒業生として取り上げられていたのが弁護士の弘中惇一郎氏。実は同じ高校の出身者で、しかも同期(同年生まれ)です。
冤罪事件の典型例として全国に知られることになった「障害者郵便制度悪用事件」で逮捕された村木厚子・元厚生労働省局長の弁護人をつとめて無罪を勝ち取ったのは、同期の同窓生であるわたしたちだけでなく、データ改竄などで罪状をでっち上げたあげく敗北して国民の信頼をも失った検察以外の世の中の人々みなの喝采を浴びるようなめざましい仕事でした。
ところが、それ以外で新聞にスキャンダラスに取り上げられる彼の弁護活動は、薬害エイズ事件の安倍英だとか、人相だけみてもこりゃなんかやったに違いない!(笑)と世間が考えそうな小沢一郎だとか鈴木宗男だとか、あらゆる週刊誌の類で完全にもう殺人鬼と決めつけられていた三浦和義みたいな、容疑者として社会的に「華のある」(笑)被告の事件が多くて、私の同窓生だと聞いたパートナーなどは、「なんであんな権力をもった悪人ばかり弁護するのかな。世の中にはあぁいう権力者に虐められて苦しんでいる人たちや困っている人たちがいっぱいいるのに、せっかくエリートで有能なはずの弁護士になったのに、そういう人たちのために働かずに、金と権力を持った人たちにすり寄って、いくら有能雄弁かもしれんけど、その才能を黒をシロと言いくるめて勝つことに使うんじゃ何もならないよね」とかねがねご不満でした。
中学、高校時代を通じて、中高6年一貫の受験重視の私立進学校で何よりも重視されていた成績において、彼は一貫してトップを走る秀才であったことは事実です。昨日送られてきた記事での取材にも、「中一の最初の中間試験で学年トップに」なり、「中学時代は一番から六番の間を行ったり来たりだったが、高校入学後の三年間は・・・定期試験も模擬試験もずっと一番を取りました」と語っているのも、私が記憶するかぎり、ほぼ事実です。高校進学後の最初の模擬テストだったか定期試験だったかは、弘中君ではなくて、九州芸工大へ行った小川君というのが一番だったと記憶しているけれど、まあほぼほぼ常勝だったことは間違いありません。
おまけに確か彼には同じように成績抜群の弟がいて、当時から「弘中兄弟」の秀才ぶりは全校に知られていました。
そういういかにも秀才の発言らしい記事を読むと、知らない人は厭味なやつだと思うかもしれませんが、私の知る限り、秀才によくある鋭利な刃物みたいな冷たさや人を見下すような傲慢さとか凝り固まった偏屈さみたいなものはほとんど感じさせない、どこか飄々とした自由な雰囲気を持った人物で、淡々と仕事のよくできそうなふつうの人という印象です。
もっとも、私は6年間、一度も同じクラスになったことがなく、在学中もたぶん一度も個人的に言葉を交わしたことはなかったと思うので、こんな「印象」でしか語れませんが。
ただ、進学校の典型みたいな学校でしたから、模擬試験の成績など、ひどいときは成績順に1番から350人くらいかな、ビリッケツまで、全学年の生徒の実名や点数を壁面にデカデカと貼り出したりするので、毎度それでトップになるようなやつは否応なく記憶に残るわけです。
彼からすれば視野の内にも入らない野辺(笑)をさまよっていた私など、彼の記憶になくても不思議はないのですが、大阪で関西合同の同窓会があって彼が東京から講演に来たとき、会合のあとちょっと同期生だけで集まったとき、近くにいたのでひとこと二言、言葉を交わしたときには、どうやら向こうも覚えてくれてはいたようです。まあ記憶力も抜群なんでしょうが(笑)。
昨日送られた記事を読んで、彼が小学校6年の一学期まで東京の成城学園に通っていて、そこが非常に自由な、試験も宿題も通信簿もなく、授業もいわゆる講義なんかなくて、自習を基本とし、分からないところがあれば教室にいる先生に質問する、といういま一部の先端的な教育現場で積極的に取り入れようという動きが広がっているなんとかっていう方式の、当時としてはもちろん極端に先進的かつ特異な教育を受けていたらしいことを、初めて知りました。
家庭も裕福だったのでしょうし、日本では例外的なその種の教育方式をとる学校へ通わせたのは、これは単なる憶測ですが、たぶんご両親がその種の意識の高い自由主義的な教育の信奉者・・・というより、子どもをいじらずに好きにさせといてくれると学校ならいい、というまっとうな考え方の人だったのかもしれません。小学生の彼に麻雀を教え、中学の入学祝いが麻雀牌だったそうですから、勝海舟の父・勝小吉みたいな(笑)器の大きい磊落なお父さんだったのかもしれませんね。
本人も取材に対して、「まったく勉強することなどなかった」けれど、引っ越してから周囲が受験勉強をはじめたから自分も勉強を始めたと言っていますが、学ばなかったわけではなくて、「勉強」(強いられて、いやいやノルマをこなすような)しているという意識などまったく必要としない教育環境の中で学んできた、ということなのでしょう。
だから、中学に入って最初の中間試験で学年トップになり、先生に「お前は東大に行くんだ」と言われて「はあ、東大」くらいにピンとこなかった、というのも正直なところでしょう。彼の備えているどこか超秀才のエリートらしくない、ノンシャランな自由人みたいな雰囲気の根っこは、そういう少年期の学校や家庭の自由な環境にあるんじゃないかな、と今度の記事を読んで腑に落ちるようなところがありました。
彼は中学高校時代、美術部に属して、好きな絵を描いていたそうで(それも今回初めて知りました)、いまも忙しい中で楽しんで描きつづけていて、個展を開いたりしているそうです。
ところで、いまでは全国でも最も著名で有能な「無罪請負人」とあだ名されるような弁護士になって、法曹界などに関心のない私でも噂を仄聞するようになっていたので、実はカルロス・ゴーンが逮捕された、というニュースに接したときに、「きっと弘中が出てくるぜ」(笑)と冗談半分でパートナーと喋っていたのです。
なにせマスメディアで噂を聞くだけの私たちでしたから、彼が弁護しているのは村木さんを例外として、世の著名な悪玉ばかり(笑)。顔見ただけでも、あれは絶対やってるぜ!みたいな(それは事実に反するのでしょうし、顔で判断しちゃいけませんが・・笑)、まあ勧善懲悪の芝居でいえば、権力をかさに私服を肥やしたり(汚職)、弱い者いじめしたり、(薬害)の悪代官、人知れず殺人を犯す極悪人、というような表の顔は大物というような社会的犯罪者ばかりを、なんでわざわざ選んで弁護しなきゃならんの?と市井の熊さん八っつぁんとしては思っていたわけですね。"派手好み"も過ぎるんじゃないか、って。
いや、もちろん本当は弘中事務所も、もっと多様な人たちの弁護をいっぱいやっているのかもしれませんが、私たちに聴こえてくるのは、そういう ”派手な” 連中(笑)ばかりですからね。
ああいう「世の中の敵」みたいな大物を弁護して無罪を勝ち取れば、そりゃ弁護士としては力量を世に認められて注目を浴びるだろうし、味方して勝っても実のとれない貧乏人の庶民とは違って、そういう被告は権力も金もたっぷり持っているから、弁護すれば実入りも良かろうし、いろいろいいことがあるんだろうなぁ、と・・・まぁゴーンさんの報酬へのやっかみと似たような、やっかみ半分のゲスの勘繰りってやつですわね(笑)。仮に彼らが罪を犯していたとしても、もちろん被告としての人権は守られなきゃいけないし、万が一の冤罪や事実誤認を防ぐために弁護人は不可欠なのもよく分かっています。
だけどそういうのをなんとなくいやだな、と正直のところ思っていたのは、必ずしもその職業的成功や報酬へのやっかみばかりでは無くて、弁護士ってのは、どんなやつでも被告を無罪にして裁判に勝ちさえすればいいのかね?という素人なりの疑問があったからでしょう。弁護士ってのは被告人に寄り添って無罪にさえすればいいのか?弁護士は被告の人権を守る義務もあるけれど、「社会正義」の実現をめざす職業だったはずじゃないのかい?ってね。
もちろん「社会正義」にも諸説あって(笑)人によって解釈いろいろでケンケンガクガクだから、これ以上はほじくりませんし、ああいえばこういう(あるいは「ああいえばじょうゆう」・・笑)で弁護士さんに弁舌で勝てるわけないから深入りはしませんが、どうみても「不正義を守っている」ようにしか見えない(笑)ってのが、私たち熊さん八っつぁん的素人の受ける印象です。
その前提にはもちろん「あいつら絶対やってるぜ!」という、証拠調べも何もなしの、きっと週刊誌等々をはじめとするマスメディアや世間の噂に影響された偏見と思い込みがあるわけで、容疑者たちが多かれ少なかれ、起訴事実に類するような犯罪を犯しているんじゃないか、しかもそれが貧しさや虐げられたあげくやむにやまれず弱者が一線を越えた、なんていう松本清張的な犯罪ではなくて、社会的にステータスが高くて権力も財力も備えたような連中が、権力をかさにきて私服を肥やしたり、罪の無い弱者をさらにいたぶるようなことをして責任逃れをしたり、愛情や信頼を裏切って他者を謀殺したり、というような犯罪者であるとすれば、徹底的にその責任を追及して、二度とそういうことが起きないように社会的な制度設計までつなげていかなければいけないようなことで、明々白々な犯罪の証拠や自白がないからといって本当に無実だとはとても思えない、限りなく黒に近いグレーじゃないか、という印象がどこかにあるから、そんな風に思うのでしょうね。
そんなのを「疑わしきは罰せず」を金科玉条として、無罪放免で世に放っていいのか?十分に「疑わしい」し、「罰」はともかくとして、事実を明らかにして、もしも実際に悪事に手を染めていたら、ご当人の弁護士であっても、ただ無罪にしてしまおう、っていうんじゃなくて、事実を正確に把握する努力をして有罪相当の犯罪をおかしているとすれば、逆にチャンと全部白状して心から反省せなあかんやろ!と諭すのが正しいんじゃないの?というのが、私たち熊さん、八っつぁんのホンネじゃないでしょうかね。
だいぶ以前に、クリストファー・ノーランの映画だったか、殺人事件の弁護士をも騙しおおせて無罪を勝ちとる犯罪者を描いたのがあって、ラストシーンでよかったよかった、と弁護士が容疑者に背を向けて去った直後に、その容疑者がニヤッと笑って、実はやっていたことを観客に暗示して終わる不気味な映画でしたが、そういうことがあり得ないとはいえない。
とくに経済だか政治だかのからんだ事件だと刑事事件のように現場に残された血痕や毛髪でDNAが・・・なんて物的証拠で確定できるような具合にはいかず、被告の行動やその意図についても「解釈」の問題になってくるような場面が無数に入ってくるでしょうからね。
だから現実の裁判で、六法全書的な、いまの裁判の証拠主義による ”やった”、”やってない”、という判断と、ごくふつうの常識人が「もう十分な証拠があるじゃないか」と判断したり、限りなく黒、というふうに推定できる結果との間にはかなり大きなずれがあるんじゃないか、という気がします。裁判所ではそれは限りなくグレーでも裁けないけれど、実際はあきらかにやってるじゃないか、というのが、必ずしも週刊誌的な誇張や虚偽ではなくて、限りなく黒に近いグレーのような状況として起こることは十分あり得る、と。
そのギャップを法律の専門家として埋めて、グレーをシロにしてしまうのが「無罪請負人」なのかもしれません。いまの法治国家での裁きというのが、世間の「常識」といかにかけ離れていたとしても、「疑わしきは罰せず」の原則のもとで、限りなく黒に近いグレーであっても、「法的にはシロ」であるなら、それはやむを得ないことかもしれません。
わたしたちがときどき感じる法曹への違和感も、そういう法的な判断と世間の「常識」とのギャップなのでしょう。専門家はもちろん、常識のほうが間違っていて、ただ無責任な噂や週刊誌などジャーナリズムの偏りに影響されているだけだ、と考えるかもしれませんし、もちろん証拠が明確でもないのに「疑わしきは罰する」なら、冤罪の山になってしまうでしょうから、それを良いと言っているわけではありません。
ただ、先日も、たまたまラジオのニュースを聞いていたら、なにか3人で争いになって、被告が刃物で、被害者のほうはプラスチックケースかなにかで争ったらしく、被害者の一人は刺殺され、今一人は重傷を負わされたらしい。ところが、判決は、被害者がプラスチックケースをもって襲ったから、被告がナイフで刺したのも「正当防衛」だとかで、相手を刃物で刺し殺しているのに、たったの7年の懲役ということで、もう一人に重傷を負わせた件は無罪!だそうです。7年の懲役でも大人しく服役していれば半分くらいで出所できるのが常識のようですから、実際には人を殺して3~4年で出て来てしまうわけです。
被害者が同じように刃物のような人を殺す道具で襲ってきたならまだ「正当防衛」も理解できますが、これでは被害者も浮かばれないな、殺され損だな、と熊さん八っつぁんとしては思わずにいられませんね。だけど、それが法律の専門家の裁きなんでしょう。法的には、つまり六法全書に書いてあったり裁判の前例にてらせば、そうなってしまうのでしょう。それって、どこか間違ってるんじゃない?と思われませんか?
もちろんこれは犯罪事実の認否の問題ではなくて、犯罪の軽重とそれに見合った量刑の問題でしょうけれど、その軽重や量刑を判断する根拠になっているのが、法律と判例に関する「専門家」の解釈です。
法律や判例に従わなくてはならないのはもちろんですが、「解釈」はその時代、その社会の特定の個人が行うわけで、偏りも広い狭いもあれば、どう排除しようとしても主観が入ることは自明です。個人の誤謬は裁判官や上級審で修正の機会があるでしょうが、法曹界全体のある種の時代的、社会的な偏りがどんどん市民社会の「常識(共通感覚・・コモンセンス)」から乖離していくときには、それ自体が怪しくなってくるのではないかという気がします。
たぶんそれがもう限界まで来ているところで、よしあしは別として市民の参加する「裁判員裁判」制度みたいなものが導入されたのではないかと思います。それがいま機能しているかどうかは別として。
原発が絶対安全だ、という原子力関係の「専門家」たちの見解が、どんどん市民の「常識(共通感覚)」から乖離していった挙句が福島原発事故だったのと同じではないかと思います。
いや弘中さんのことから話がそれてしまったけれど、私はこういう法曹関係の「専門家」なるものに、ずっと違和感を持っています。自分が被告となれば弁護士に頼らざるを得ないのでしょうけれど、いまの法や判例を絶対化してしかものを考えられない単なる法律技術者なんかじゃなく、法もまた人間が作った、時代や社会によって変わっていく、相対的なものにすぎないことを忘れない、ふつうの人間としてのバランス感覚を持った弁護士だといいな、と思っています。
さて今回弘中君を弁護士につけたゴーンさんのほうは、もちろん私は直接会ったこともないけれど、彼の下で働いていた役員を昔々の個人的な縁で知っていて、その人には学生さんたちに話をしてもらいに私が勤めていた大学まで来てもらったこともあります。まだゴーンさんが日産のV字回復で英雄扱いされていたころで、彼もゴーンさんに心酔していて、ゴーンさんの言葉なんかを使ってV字回復の解説などしてくれました。
そんなわけで別に自動車産業にも企業経営にも何の関心もないけれど、ゴーン逮捕のニュースには関心をもって少しウェブ上の解説や評論家の書いたものに目を通したりもしましたが、司法取引でいろいろ内部的な不正の証拠を固めたように報じられているけれども、最初に逮捕した理由が有価証券報告書に収入を記載しなかった、みたいな話だったので、おいおい大丈夫かいな、と思っていました。
そんなのは単なる記載漏れだとか、或いは解釈の違いだとか、なんぼでも言い訳、抜け道があるんじゃないか、ゴーンほどの人物がそういうつまらないことで足がつくなんてヘマをするだろうか?万一のときのために、最小限身を護るための仕掛けを用意せずに、会社の金を私用に使ったりして私服を肥やすとか、違法な取引をしていたとか、そんな古典的な犯罪を無防備にやるだろうか?と甚だ疑問でした。
案の定、ゴーンは無実を主張し、あの収入も確定したものではない、とか、子会社?なんかを通して日産の金を私用に流用したとかいうのも、日産のために働いてもらうやつへの報酬なんだとか、みなそれなりに合法的な取引であり、取締役たちも了解した上でのことだとか、主張しているようです。つまり解釈の違いにすぎないところへもっていこうとしているのでしょう。
それは当然予想されたことで、逮捕する以上は、そんな主張を真向から否定できる明白な証拠がなければならないはずですが、いまのところなぜか特捜部は色々リークしているのに、肝心の明々白々な有罪の証拠はこうだ、こういうものを握っているから、もういくらあがいてもダメよ、というのを出していません。だから、逮捕はしたものの特捜部は彼を有罪にできるのかいな、という「心配」をしています。いや別にゴーンさんに恨みも妬みもないので、有罪になればいいとか、特捜部さんを応援したいわけでも何でもないけれど、大丈夫かいな、と感じてきたことは事実です。
そこへ本命の弘中君登場です(笑)。いや最初から彼が出てきそうな気がして、パートナーと喋っていたのはなぜなんだろう?と考えると、弘中君の扱ってきた私がマスメディアで知る限りの事件というのが、ほとんどゴーンさんみたいな、世の中で権力を持った大物で、もちろんお金もたっぷりもっていて、いわば社会的な「強者」と言われている存在で、その中でもとりわけ派手に立ち回って来たような連中、いわゆる大物政治家とかこういう成功した実業家とか、有名なタレントとかが目立っているので、今回もゴーンさんなら弘中弁護士にとってはすごく「おいしいクライアント」じゃないか、と思ったからでしょう。
実際にそうなってみて、私は、これで勝負あったな。検察は敗けるだろうな、と思いました(笑)。ゴーンさん一人でも結構がんばれるだけのタマだし、それに無敵の「無罪請負人」弘中弁護士がつけば鬼に金棒じゃないでしょうか。無責任な外野としては、実際のところゴーンさんがどうなろうと知ったこっちゃないわけですが、行方を注視して外野席から楽しませてもらいます。一塁側に近く座るか三塁側に近く座るかは内緒です(笑)。
冤罪事件の典型例として全国に知られることになった「障害者郵便制度悪用事件」で逮捕された村木厚子・元厚生労働省局長の弁護人をつとめて無罪を勝ち取ったのは、同期の同窓生であるわたしたちだけでなく、データ改竄などで罪状をでっち上げたあげく敗北して国民の信頼をも失った検察以外の世の中の人々みなの喝采を浴びるようなめざましい仕事でした。
ところが、それ以外で新聞にスキャンダラスに取り上げられる彼の弁護活動は、薬害エイズ事件の安倍英だとか、人相だけみてもこりゃなんかやったに違いない!(笑)と世間が考えそうな小沢一郎だとか鈴木宗男だとか、あらゆる週刊誌の類で完全にもう殺人鬼と決めつけられていた三浦和義みたいな、容疑者として社会的に「華のある」(笑)被告の事件が多くて、私の同窓生だと聞いたパートナーなどは、「なんであんな権力をもった悪人ばかり弁護するのかな。世の中にはあぁいう権力者に虐められて苦しんでいる人たちや困っている人たちがいっぱいいるのに、せっかくエリートで有能なはずの弁護士になったのに、そういう人たちのために働かずに、金と権力を持った人たちにすり寄って、いくら有能雄弁かもしれんけど、その才能を黒をシロと言いくるめて勝つことに使うんじゃ何もならないよね」とかねがねご不満でした。
中学、高校時代を通じて、中高6年一貫の受験重視の私立進学校で何よりも重視されていた成績において、彼は一貫してトップを走る秀才であったことは事実です。昨日送られてきた記事での取材にも、「中一の最初の中間試験で学年トップに」なり、「中学時代は一番から六番の間を行ったり来たりだったが、高校入学後の三年間は・・・定期試験も模擬試験もずっと一番を取りました」と語っているのも、私が記憶するかぎり、ほぼ事実です。高校進学後の最初の模擬テストだったか定期試験だったかは、弘中君ではなくて、九州芸工大へ行った小川君というのが一番だったと記憶しているけれど、まあほぼほぼ常勝だったことは間違いありません。
おまけに確か彼には同じように成績抜群の弟がいて、当時から「弘中兄弟」の秀才ぶりは全校に知られていました。
そういういかにも秀才の発言らしい記事を読むと、知らない人は厭味なやつだと思うかもしれませんが、私の知る限り、秀才によくある鋭利な刃物みたいな冷たさや人を見下すような傲慢さとか凝り固まった偏屈さみたいなものはほとんど感じさせない、どこか飄々とした自由な雰囲気を持った人物で、淡々と仕事のよくできそうなふつうの人という印象です。
もっとも、私は6年間、一度も同じクラスになったことがなく、在学中もたぶん一度も個人的に言葉を交わしたことはなかったと思うので、こんな「印象」でしか語れませんが。
ただ、進学校の典型みたいな学校でしたから、模擬試験の成績など、ひどいときは成績順に1番から350人くらいかな、ビリッケツまで、全学年の生徒の実名や点数を壁面にデカデカと貼り出したりするので、毎度それでトップになるようなやつは否応なく記憶に残るわけです。
彼からすれば視野の内にも入らない野辺(笑)をさまよっていた私など、彼の記憶になくても不思議はないのですが、大阪で関西合同の同窓会があって彼が東京から講演に来たとき、会合のあとちょっと同期生だけで集まったとき、近くにいたのでひとこと二言、言葉を交わしたときには、どうやら向こうも覚えてくれてはいたようです。まあ記憶力も抜群なんでしょうが(笑)。
昨日送られた記事を読んで、彼が小学校6年の一学期まで東京の成城学園に通っていて、そこが非常に自由な、試験も宿題も通信簿もなく、授業もいわゆる講義なんかなくて、自習を基本とし、分からないところがあれば教室にいる先生に質問する、といういま一部の先端的な教育現場で積極的に取り入れようという動きが広がっているなんとかっていう方式の、当時としてはもちろん極端に先進的かつ特異な教育を受けていたらしいことを、初めて知りました。
家庭も裕福だったのでしょうし、日本では例外的なその種の教育方式をとる学校へ通わせたのは、これは単なる憶測ですが、たぶんご両親がその種の意識の高い自由主義的な教育の信奉者・・・というより、子どもをいじらずに好きにさせといてくれると学校ならいい、というまっとうな考え方の人だったのかもしれません。小学生の彼に麻雀を教え、中学の入学祝いが麻雀牌だったそうですから、勝海舟の父・勝小吉みたいな(笑)器の大きい磊落なお父さんだったのかもしれませんね。
本人も取材に対して、「まったく勉強することなどなかった」けれど、引っ越してから周囲が受験勉強をはじめたから自分も勉強を始めたと言っていますが、学ばなかったわけではなくて、「勉強」(強いられて、いやいやノルマをこなすような)しているという意識などまったく必要としない教育環境の中で学んできた、ということなのでしょう。
だから、中学に入って最初の中間試験で学年トップになり、先生に「お前は東大に行くんだ」と言われて「はあ、東大」くらいにピンとこなかった、というのも正直なところでしょう。彼の備えているどこか超秀才のエリートらしくない、ノンシャランな自由人みたいな雰囲気の根っこは、そういう少年期の学校や家庭の自由な環境にあるんじゃないかな、と今度の記事を読んで腑に落ちるようなところがありました。
彼は中学高校時代、美術部に属して、好きな絵を描いていたそうで(それも今回初めて知りました)、いまも忙しい中で楽しんで描きつづけていて、個展を開いたりしているそうです。
ところで、いまでは全国でも最も著名で有能な「無罪請負人」とあだ名されるような弁護士になって、法曹界などに関心のない私でも噂を仄聞するようになっていたので、実はカルロス・ゴーンが逮捕された、というニュースに接したときに、「きっと弘中が出てくるぜ」(笑)と冗談半分でパートナーと喋っていたのです。
なにせマスメディアで噂を聞くだけの私たちでしたから、彼が弁護しているのは村木さんを例外として、世の著名な悪玉ばかり(笑)。顔見ただけでも、あれは絶対やってるぜ!みたいな(それは事実に反するのでしょうし、顔で判断しちゃいけませんが・・笑)、まあ勧善懲悪の芝居でいえば、権力をかさに私服を肥やしたり(汚職)、弱い者いじめしたり、(薬害)の悪代官、人知れず殺人を犯す極悪人、というような表の顔は大物というような社会的犯罪者ばかりを、なんでわざわざ選んで弁護しなきゃならんの?と市井の熊さん八っつぁんとしては思っていたわけですね。"派手好み"も過ぎるんじゃないか、って。
いや、もちろん本当は弘中事務所も、もっと多様な人たちの弁護をいっぱいやっているのかもしれませんが、私たちに聴こえてくるのは、そういう ”派手な” 連中(笑)ばかりですからね。
ああいう「世の中の敵」みたいな大物を弁護して無罪を勝ち取れば、そりゃ弁護士としては力量を世に認められて注目を浴びるだろうし、味方して勝っても実のとれない貧乏人の庶民とは違って、そういう被告は権力も金もたっぷり持っているから、弁護すれば実入りも良かろうし、いろいろいいことがあるんだろうなぁ、と・・・まぁゴーンさんの報酬へのやっかみと似たような、やっかみ半分のゲスの勘繰りってやつですわね(笑)。仮に彼らが罪を犯していたとしても、もちろん被告としての人権は守られなきゃいけないし、万が一の冤罪や事実誤認を防ぐために弁護人は不可欠なのもよく分かっています。
だけどそういうのをなんとなくいやだな、と正直のところ思っていたのは、必ずしもその職業的成功や報酬へのやっかみばかりでは無くて、弁護士ってのは、どんなやつでも被告を無罪にして裁判に勝ちさえすればいいのかね?という素人なりの疑問があったからでしょう。弁護士ってのは被告人に寄り添って無罪にさえすればいいのか?弁護士は被告の人権を守る義務もあるけれど、「社会正義」の実現をめざす職業だったはずじゃないのかい?ってね。
もちろん「社会正義」にも諸説あって(笑)人によって解釈いろいろでケンケンガクガクだから、これ以上はほじくりませんし、ああいえばこういう(あるいは「ああいえばじょうゆう」・・笑)で弁護士さんに弁舌で勝てるわけないから深入りはしませんが、どうみても「不正義を守っている」ようにしか見えない(笑)ってのが、私たち熊さん八っつぁん的素人の受ける印象です。
その前提にはもちろん「あいつら絶対やってるぜ!」という、証拠調べも何もなしの、きっと週刊誌等々をはじめとするマスメディアや世間の噂に影響された偏見と思い込みがあるわけで、容疑者たちが多かれ少なかれ、起訴事実に類するような犯罪を犯しているんじゃないか、しかもそれが貧しさや虐げられたあげくやむにやまれず弱者が一線を越えた、なんていう松本清張的な犯罪ではなくて、社会的にステータスが高くて権力も財力も備えたような連中が、権力をかさにきて私服を肥やしたり、罪の無い弱者をさらにいたぶるようなことをして責任逃れをしたり、愛情や信頼を裏切って他者を謀殺したり、というような犯罪者であるとすれば、徹底的にその責任を追及して、二度とそういうことが起きないように社会的な制度設計までつなげていかなければいけないようなことで、明々白々な犯罪の証拠や自白がないからといって本当に無実だとはとても思えない、限りなく黒に近いグレーじゃないか、という印象がどこかにあるから、そんな風に思うのでしょうね。
そんなのを「疑わしきは罰せず」を金科玉条として、無罪放免で世に放っていいのか?十分に「疑わしい」し、「罰」はともかくとして、事実を明らかにして、もしも実際に悪事に手を染めていたら、ご当人の弁護士であっても、ただ無罪にしてしまおう、っていうんじゃなくて、事実を正確に把握する努力をして有罪相当の犯罪をおかしているとすれば、逆にチャンと全部白状して心から反省せなあかんやろ!と諭すのが正しいんじゃないの?というのが、私たち熊さん、八っつぁんのホンネじゃないでしょうかね。
だいぶ以前に、クリストファー・ノーランの映画だったか、殺人事件の弁護士をも騙しおおせて無罪を勝ちとる犯罪者を描いたのがあって、ラストシーンでよかったよかった、と弁護士が容疑者に背を向けて去った直後に、その容疑者がニヤッと笑って、実はやっていたことを観客に暗示して終わる不気味な映画でしたが、そういうことがあり得ないとはいえない。
とくに経済だか政治だかのからんだ事件だと刑事事件のように現場に残された血痕や毛髪でDNAが・・・なんて物的証拠で確定できるような具合にはいかず、被告の行動やその意図についても「解釈」の問題になってくるような場面が無数に入ってくるでしょうからね。
だから現実の裁判で、六法全書的な、いまの裁判の証拠主義による ”やった”、”やってない”、という判断と、ごくふつうの常識人が「もう十分な証拠があるじゃないか」と判断したり、限りなく黒、というふうに推定できる結果との間にはかなり大きなずれがあるんじゃないか、という気がします。裁判所ではそれは限りなくグレーでも裁けないけれど、実際はあきらかにやってるじゃないか、というのが、必ずしも週刊誌的な誇張や虚偽ではなくて、限りなく黒に近いグレーのような状況として起こることは十分あり得る、と。
そのギャップを法律の専門家として埋めて、グレーをシロにしてしまうのが「無罪請負人」なのかもしれません。いまの法治国家での裁きというのが、世間の「常識」といかにかけ離れていたとしても、「疑わしきは罰せず」の原則のもとで、限りなく黒に近いグレーであっても、「法的にはシロ」であるなら、それはやむを得ないことかもしれません。
わたしたちがときどき感じる法曹への違和感も、そういう法的な判断と世間の「常識」とのギャップなのでしょう。専門家はもちろん、常識のほうが間違っていて、ただ無責任な噂や週刊誌などジャーナリズムの偏りに影響されているだけだ、と考えるかもしれませんし、もちろん証拠が明確でもないのに「疑わしきは罰する」なら、冤罪の山になってしまうでしょうから、それを良いと言っているわけではありません。
ただ、先日も、たまたまラジオのニュースを聞いていたら、なにか3人で争いになって、被告が刃物で、被害者のほうはプラスチックケースかなにかで争ったらしく、被害者の一人は刺殺され、今一人は重傷を負わされたらしい。ところが、判決は、被害者がプラスチックケースをもって襲ったから、被告がナイフで刺したのも「正当防衛」だとかで、相手を刃物で刺し殺しているのに、たったの7年の懲役ということで、もう一人に重傷を負わせた件は無罪!だそうです。7年の懲役でも大人しく服役していれば半分くらいで出所できるのが常識のようですから、実際には人を殺して3~4年で出て来てしまうわけです。
被害者が同じように刃物のような人を殺す道具で襲ってきたならまだ「正当防衛」も理解できますが、これでは被害者も浮かばれないな、殺され損だな、と熊さん八っつぁんとしては思わずにいられませんね。だけど、それが法律の専門家の裁きなんでしょう。法的には、つまり六法全書に書いてあったり裁判の前例にてらせば、そうなってしまうのでしょう。それって、どこか間違ってるんじゃない?と思われませんか?
もちろんこれは犯罪事実の認否の問題ではなくて、犯罪の軽重とそれに見合った量刑の問題でしょうけれど、その軽重や量刑を判断する根拠になっているのが、法律と判例に関する「専門家」の解釈です。
法律や判例に従わなくてはならないのはもちろんですが、「解釈」はその時代、その社会の特定の個人が行うわけで、偏りも広い狭いもあれば、どう排除しようとしても主観が入ることは自明です。個人の誤謬は裁判官や上級審で修正の機会があるでしょうが、法曹界全体のある種の時代的、社会的な偏りがどんどん市民社会の「常識(共通感覚・・コモンセンス)」から乖離していくときには、それ自体が怪しくなってくるのではないかという気がします。
たぶんそれがもう限界まで来ているところで、よしあしは別として市民の参加する「裁判員裁判」制度みたいなものが導入されたのではないかと思います。それがいま機能しているかどうかは別として。
原発が絶対安全だ、という原子力関係の「専門家」たちの見解が、どんどん市民の「常識(共通感覚)」から乖離していった挙句が福島原発事故だったのと同じではないかと思います。
いや弘中さんのことから話がそれてしまったけれど、私はこういう法曹関係の「専門家」なるものに、ずっと違和感を持っています。自分が被告となれば弁護士に頼らざるを得ないのでしょうけれど、いまの法や判例を絶対化してしかものを考えられない単なる法律技術者なんかじゃなく、法もまた人間が作った、時代や社会によって変わっていく、相対的なものにすぎないことを忘れない、ふつうの人間としてのバランス感覚を持った弁護士だといいな、と思っています。
さて今回弘中君を弁護士につけたゴーンさんのほうは、もちろん私は直接会ったこともないけれど、彼の下で働いていた役員を昔々の個人的な縁で知っていて、その人には学生さんたちに話をしてもらいに私が勤めていた大学まで来てもらったこともあります。まだゴーンさんが日産のV字回復で英雄扱いされていたころで、彼もゴーンさんに心酔していて、ゴーンさんの言葉なんかを使ってV字回復の解説などしてくれました。
そんなわけで別に自動車産業にも企業経営にも何の関心もないけれど、ゴーン逮捕のニュースには関心をもって少しウェブ上の解説や評論家の書いたものに目を通したりもしましたが、司法取引でいろいろ内部的な不正の証拠を固めたように報じられているけれども、最初に逮捕した理由が有価証券報告書に収入を記載しなかった、みたいな話だったので、おいおい大丈夫かいな、と思っていました。
そんなのは単なる記載漏れだとか、或いは解釈の違いだとか、なんぼでも言い訳、抜け道があるんじゃないか、ゴーンほどの人物がそういうつまらないことで足がつくなんてヘマをするだろうか?万一のときのために、最小限身を護るための仕掛けを用意せずに、会社の金を私用に使ったりして私服を肥やすとか、違法な取引をしていたとか、そんな古典的な犯罪を無防備にやるだろうか?と甚だ疑問でした。
案の定、ゴーンは無実を主張し、あの収入も確定したものではない、とか、子会社?なんかを通して日産の金を私用に流用したとかいうのも、日産のために働いてもらうやつへの報酬なんだとか、みなそれなりに合法的な取引であり、取締役たちも了解した上でのことだとか、主張しているようです。つまり解釈の違いにすぎないところへもっていこうとしているのでしょう。
それは当然予想されたことで、逮捕する以上は、そんな主張を真向から否定できる明白な証拠がなければならないはずですが、いまのところなぜか特捜部は色々リークしているのに、肝心の明々白々な有罪の証拠はこうだ、こういうものを握っているから、もういくらあがいてもダメよ、というのを出していません。だから、逮捕はしたものの特捜部は彼を有罪にできるのかいな、という「心配」をしています。いや別にゴーンさんに恨みも妬みもないので、有罪になればいいとか、特捜部さんを応援したいわけでも何でもないけれど、大丈夫かいな、と感じてきたことは事実です。
そこへ本命の弘中君登場です(笑)。いや最初から彼が出てきそうな気がして、パートナーと喋っていたのはなぜなんだろう?と考えると、弘中君の扱ってきた私がマスメディアで知る限りの事件というのが、ほとんどゴーンさんみたいな、世の中で権力を持った大物で、もちろんお金もたっぷりもっていて、いわば社会的な「強者」と言われている存在で、その中でもとりわけ派手に立ち回って来たような連中、いわゆる大物政治家とかこういう成功した実業家とか、有名なタレントとかが目立っているので、今回もゴーンさんなら弘中弁護士にとってはすごく「おいしいクライアント」じゃないか、と思ったからでしょう。
実際にそうなってみて、私は、これで勝負あったな。検察は敗けるだろうな、と思いました(笑)。ゴーンさん一人でも結構がんばれるだけのタマだし、それに無敵の「無罪請負人」弘中弁護士がつけば鬼に金棒じゃないでしょうか。無責任な外野としては、実際のところゴーンさんがどうなろうと知ったこっちゃないわけですが、行方を注視して外野席から楽しませてもらいます。一塁側に近く座るか三塁側に近く座るかは内緒です(笑)。
saysei at 15:06|Permalink│Comments(0)│
2019年02月13日
手当たり次第に XXXⅤ ~ここ二、三日みた映画
一昨日書いたXXXⅣのつづきで、ここからがほんとに「ここ二、三日でみた映画」です(笑)。
修道女(ジャック・リヴェット監督) 1966
ジャック・リヴェットをはじめ、フランスのヌーヴェルヴァーグの旗手となった映画監督たちは、『カイエ・デュ・シネマ』で映画批評をやっていた連中だそうです。
文芸の世界では、批評文で食っていたような人が年取って突然小説を書いてもろくなものが書けないというのが通り相場で、そんな例があるかどうかは知りませんが、映画批評で飯を食っていたやつで後に映画史を革新するような映画を撮ったやつなんているのかな、と思いますが、フランスでは現実にそういうことが起きたんですね。まあ映画を作り始めたのも若いころだから、もともとそういう資質を持った連中が(お金がないとかいろんな現実的な理由で)既存の映画への批判にかまけていただけなのかもしれませんが・・・。
小説を書いたり、絵を描いたり、映画を撮ったりというクリエイターの仕事にも、それがすぐれたものであれば、「批評」が内在していることは当然でしょうけれど、それは彼らが批評家のような言葉で考え、書き、評論として論理を展開するという意味ではないので、批評家の資質とクリエイターの資質とはもともとまるで異なるものだと思いますし、むしろ、まったく相反するものだと考えるほうがよさそうです。
ですから、ヌーヴェルヴァーグの旗手と言われる人たちもまた、批評家から出発して、古い映画に飽き足らず、自分たちで撮ってしまえ、というので映画表現のありようを変えてしまったのでしょうが、それが今の時点からみてどれほどの水準のものだったのか、所詮は批評家の撮った頭でっかちな映画だね、というようなものでしかなかったのか、あるいはまた、批評は批評として、映画を撮るときはそれぞれの創造的な個性のはたらきで結果的に結構いい線いったのか、あるいは批評と創造という普通は相いれない矛盾を絶対矛盾の自己同一ではないけれども、奇跡的な融合がそこで起きて、本当に素晴らしい作品を創り出したのか、ということは、映画史の常識とか、彼らを神様扱いして崇拝するだけの連中とは関わりなく、半世紀遅れで彼らの映画を何の先入観も持たずに、あらためて手ぶらで見て、一つ一つ自分の目で確かめてみるのは面白いかもしれないな、と思っています。
その意味ではリヴェットと言う人は結構面白そうな人で、先日DVDで見た「美しき諍い女」は本当にいま見ても素敵な作品でした。ただ、それはたまたまテーマがバルザックの「絶対の探究」に想を得た芸術家の創造のためのたたかいを描くというものでしたから、リヴェットに備わっているのだろう批評家的資質の自己言及的な批評性がうまく創造的な資質と融合できたところがあったのかもしれない、と思ったりしています。また制作時期が円熟期のものであるとか、若い頃の習作的なもの、あるいは力こぶのはいった力み過ぎの作品であるとかいったことも、できばえと無関係ではないかもしれません。
それが「パリはわれらのもの」だと、意図が推察できなくはないけれど、ずいぶん頭でっかちな理屈っぽい作品で、いかにも批評家が作った作品だという印象です。おそらく意図は壮大だけれど、実際の作品としての出来栄えは・・・というふうに思えます。映画史的な意味や映画作家個人の表現史の中での意味はあるかもしれないけれど、先入観なしに作品にだけ向き合うごく普通の観客がいま見れば、大方は訳の分からない退屈な作品だという印象を持つのではないでしょうか。
さて、今回観た「修道女」は、やっぱり多少頭でっかちなところは感じましたが、それがあまり前面に出てこないで、作品として素直に見て、けっこうおもしろく見ることのできる作品でした。
18世紀のディドロが書いた小説が原作だそうです。私は原作は読んでないので、どの程度原作に依拠しているのかは知りません。
シュザンヌ・シモナンという女性が自分の意に反して修道院へ入れられることになって、修道女としての清潔、清貧、服従を誓う誓願をさせられようとする場面から始まります。なぜそんなことが本人の意思に反して強制されるのかというと、彼女の家は貧乏貴族で、彼女を含めて3人の姉妹があり、それぞれ嫁がせなくてはならないけれども、貴族としての体面を保つような嫁がせ方をするには相当な持参金と費用がかかります。上の二人を嫁がせるだけで精一杯で、とても三女のシュザンヌを嫁がせるような財産はない。そういうとき当時の貴族社会では娘は修道女になって生涯修道院に入る以外に道がなかった、ということらしいです。なるほど、そういうものか、と当時の貧乏貴族の事情が面白く思えます。
しかし、シュザンヌは修道院にだけは入りたくないと思っていて、これを拒否し、自分が強制的に連れて来られたのだと抗って騒ぎを引き起こしたため、そのときは免れますが、母親から、自分が姉2人とは違って、不義で生まれた子であることを明かされ、父親の意志が変わらないこと、母親の助けも期待できないことを聞かされ、結局別の修道院に入れられることになり、再び誓願式に臨みますが、誓願をした記憶がまるで失われるという不思議なことが起きます。
この修道院の女性院長モ二がとても優しい、すぐれた指導者で、修道女として生きることへの懐疑と不安がぬぐえないシュザンヌに対して、神への信仰があればほかのことはついてくる、と優しく寛容にふるまい、彼女がチェンバロを巧みに弾き、美しい声で歌うことを称揚してくれます。
しかし、この院長はシュザンヌに「あなたが来ると神が遠ざかり、無口になるような気がする」と不安に満ちた預言的な言葉を吐きます。そしてこの優しい院長は亡くなってしまい、前任者の築いてきたものをことごとく変えて、強権的な支配を修道院内部に打ち立てようとする新院長が、聖書を持つことさえ禁じてそれに違反し、前院長を慕うシュザンヌが新院長のやりかたにことごとく抗うのに対して厳しい懲罰で臨み、礼拝の特殊な仕方を強制し、パンと水しか与えず、他のシスターに近づいたり会話したりすることも禁じてシュザンヌいじめを徹底していきます。
シュザンヌは一計を案じて告解を書くための筆記用具と紙を用意させ、弁護士を通じて大司教に修道院の内情と虐待を知らせる手紙を書いて、親しい修道女を通じて、手紙を外へ送り出すことに成功します。しかし、告解用にと入手した紙をめぐって新院長がシュザンヌの意図を見抜いてしつこく追及し、彼女の衣服を剥ぎ取って幽閉します。
彼女の手紙を受け取った弁護士マヌリがローマの許可を得たと面会に来て、内情査察が行われることや、訴訟手続きが始まれば院内ではひどい目に遭うだろうと聞かされます。事実、査察が行われることを知った院長は厳しくシュザンヌを問い詰め、徹底的に抗うシュザンヌを、「悪魔にとりつかれている」とみなして、すべての院内聖務を禁じ、食事を与えず、祈りは床に完全にひれ伏すこと、また誰にも接触してはならないこと、などを命じます。
その結果、シュヴェンヌは院内浮浪者みたいなみじめな姿になって肉体的にも衰弱し、自分を虐待する院長にすがって、私を生かしてくださいと懇願しますが、院長は冷たく「考慮します」と言うのみです。
しかし、修道院に事情を探りに来た教会の査察官は、シュザンヌと院長の言い分を聞いて、シュザンヌへの迫害、虐待が行われていることを察知し、教会側内部の会議で、院長を解任するのが妥当だと主張しますが、枢機卿か誰かステータスが彼より上らしいやつが、院長の縁戚の身分が高いことから、それは不都合だ、と同意しません。
こうして宗教裁判として敗訴したシュザンヌは絶望し、すべては終わった、と考え、弁護士マヌリが使いをよこして修道院を移るようアドバイスしますが、もう移る気も失せたと言います。
しかし、彼女への虐待を知った査察官エベールは、シュザンヌに、君の友達が弁護士に言い、大司教にも実情が伝わって院長はほかの修道院へ移されることになった、と言います。そして、またシュヴァンヌ自身も別の修道院へ移されることになります。
新たにはいった修道院は、前の修道院とは打って変わり、とても修道院とは思えないほど、修道女たちが明るく自由にはしゃぎまわっていて、明るい雰囲気ですが、すぐに微妙な雰囲気が漂っていることに気づかされます。
そこの女院長はシュザンヌを大歓迎して、シュザンヌが歌が得意と聴いていて、チェンバロを弾かせ、歌わせるので、シュザンヌは聖歌のようなのを歌います。すると院長は、いいけど何だか聖堂にいるみたいだわ、とやめさせて、他の歌を、と言いますがシュザンヌが歌を知らない、と言うと、愛の歌を、と所望し、それなら姉たちが歌っていたことがある、と覚えていたシュザンヌはよく知られた(私も聴いたことがある)愛の歓びの歌を歌います。
シスターの一人が、ウルスラのほうがうまいわ、とそれまでみんなから歌の名人と思われていたらしいシスターのことを言いますが、院長は否定して、シュザンヌを依怙贔屓するような言葉を吐き、シスターたちの雰囲気が微妙な感じになり、シュザンヌと院長だけを部屋に残して、他のシスターたちはみな部屋を出て行ってしまいます。
どうやらこの女院長はカワイコちゃん好みの同性愛者で、シュザンヌが来るまではテレーズというシスターを可愛がっていたらしいのですが、テレーズがシュザンヌに打ち明けたところでは、その院長を拒んだためにいまは不幸だというのです。傍目に見ていると、院長の依怙贔屓とシュザンヌに対する同性愛的な想いは誰の目にもあきらかなほど露骨なのですが、シュザンヌ自身が純粋でオクテで未経験であるために、贔屓されて過剰に目をかけられていることは判って戸惑ってはいるものの、院長の本当の狙い、欲求については何もわかっていないのです。
ですから、院長が二人だけになりたがり、二人になるとしきりに話を個人的なところへもっていって、官能の欲望の話へ近づけようとしているのが観客のわたしたちにはミエミエなのですが、シュザンヌは、何のことを言われているのかピンとこない感じで、院長がうずうずしているのがわかって、そういう場面はとても可笑しい。
官能のことを知りたいと思わない?教えましょうか・・・と水を向けても、シュザンヌは「知りたくありません」「清純でないなら、死を選びます」と取りつく島もありません。
ある夜、院長は蝋燭の火をもってシュザンヌの部屋へやってきます。「夢が苦しくて眠れないのよ」。シュザンヌは驚いてベッドで起き上がり、「どうなさったの?涙を流されたりして・・・」あぁまだわかってくれないのね、とたまりかねた院長、シュザンヌのベッドへダッと駆け寄る。さすがにシュザンヌは驚いて、はっとベッドを飛び降ります。するとドアをドンドンと叩く音。事情を察したテレーズが助け舟を出してくれたようです。
ここに至って、シュザンヌは男性神父がシスターたちの告解を順に聞いていく、告解の日に、院長のことを告解します。神父は、とにかく院長を避けよ、扉に鍵をかけ、一人では決して院長のところへ行くな、それでも院長が部屋へ入ってきたら、大声で人を呼べ、悪魔だと思って追い払え、とアドバイスします。そして、今晩だけは眠らずに祭壇室で夜を徹して祈りなさい、と指示し、院長から離れていることがおまえの苦行だ、と言います。
夜中に祭壇の前で祈るシュザンヌ。まだ寝ないの?と近づいてくる院長。「去れ!悪魔よ!」とシュザンヌ。「悪魔じゃないわ。友達よ」と院長はしつこく誘惑しますが、では今夜だけよ、と諦めて去っていきます。
院長はたくらんで、シュザンヌの告解を受けた神父を中傷する訴状を教会中枢に送り、神父を左遷させてこの修道院から追い払ってしまいます。それで新任の神父がやってきます。彼は、自分も実は誓願式を経ていないのだ、お前と同じだ、気持ちはよくわかる、というようなことを言います。だが、禁欲生活をしても、世俗の享楽に生きても、いずれにせよ地獄へ落ちるのだ、というようなことを言います。
院長はもう狂ったようにシュザンヌにまとわりつき、しがみつき、自室の扉を固くしめて閉じこもるシュザンヌに、扉の外でしがみついてへたりこむ院長です。それでもまだシュザンヌは「親愛の情がなぜいけないのかわかりません」と神父に告げるように、官能の欲望も喜びも知りません。それで新任の神父は、「(前任者である)ルモワール神父の忠告に従え、理由は訊くな」とだけシュザンヌに言います。
その院長は、神父のところへきて、「私は地獄に落ちました」と告解します。
さてその新任の神父がまたシュザンヌにぞっこんで(笑)、シュザンヌに別の機会に会いたいと言うので、シュザンヌは「告解以外の場で会いたくありません」ときっぱり断りますが、神父のほうは「私のほうが告解するのだ」と言います。事実上の愛の告白ですね。そして、馬車を待たせてある、一緒に逃げ出そうとシュザンヌを誘います。一難去ってまた一難(笑)。戸惑うシュザンヌは「2日だけ待って」と言います。
2日後、石垣をよじ登って越え、神父はシュザンヌを連れて修道院から逃亡します。そして、その後道端に倒れているところを、シュザンヌひとり、2人の農夫に助けられ、ひろわれて次の画面では農家らしいところで屋内での作業を手伝って働いています。女たちが噂話に、逃げた尼のほうはまだつかまっていないが、坊さんはつかまって修道院へ逆戻りさ、とまさかシュザンヌがその尼さんだと知る由もなくおしゃべりしています。
その次の画面はもうその農家をも逃げ出してきたのか、石造りの建物の入り口のところに立ちん坊をしてそこを通る人から小銭をめぐんでもらう、お乞食さんをやっているシュザンヌの姿があります。そこを通りかかった婦人がシュザンヌに目を止め、一緒にいらっしゃい、と誘い、シュザンヌは従います。
次の画面では、綺麗な衣服に着飾ったシュザンヌがアイマスクをつけて、同じような恰好をした女たちがテーブルについてくつろぐ男たちの傍に寄り添う階上の豪奢な部屋に入っていきます。仮面舞踏会か何かかと思ったら、どうやらそこは高級娼婦の館(娼館)のようです。
シュザンヌは男に抱かれ、それを拒むと、開いていた窓から一気に身を投じます。
これで幕です。
長々と思い出しながらたどってきましたが、古典的な物語のように、ちゃんと明快なストーリーがたどれる誰にでも理解でき、楽しめる作品です。楽しめる?・・・う~ん、つらい話ではあります。現代日本のごく一般的な生活をする私たちにとっては縁遠い修道院生活、しかも昔の話で、貧乏貴族の妻の不倫の子のたどる宿命ですから、直接にはまことに縁遠い話です。
でも、ヌーヴェルヴァーグと言われる映画の革新をめざしていたリヴェットにとっても、修道院生活だの修道女の話なんてのは縁遠い世界だったはずでしょう。
ではなぜそんな題材を選んだのでしょうか。これを宗教批判とか教会批判の作品だとみなす人もあるかもしれませんが、1966年にパリで映画の革新を考えているような男がそんなことを自分の中心的な課題だと考えるはずがないと思います。
もちろん、描かれているのは修道院にいやいや入れられた貧乏貴族の娘の話で、彼女が修道院で受ける虐待、迫害のありさまがこれでもか、というくらい具体的に描かれ、やっと救われたかと思った新たな修道院でも、今度は同性愛の院長から迫られて逃げなきゃいけない、そのあげくが乞食にまで身を落とし、最後は娼館に拾われて、皮肉にも彼女が拒否しつづけた「誓願」のうちにある身の「清潔」であることを守り通して、(キリスト教では許されないはずの)自死を選ぶにいたる過程が描かれているので、作品の作り手の視線がキリスト教にも教会にも批判的で、人間性を殺してしまうようなものだと言いたげであることは誰の目にも明らかです。
でも映像としてわたしたちの目の前で展開されているのは、修道院という閉じた空間でシュザンヌが不本意にもそのうちに閉じ込められ、そこで生きるほかはない状況の中で、自由を求め、様々な束縛を嫌う彼女に対するいやがらせ(懲罰)、迫害、虐待へとどんどんひどくなる仕打ちを受けながらも、神への本来持っていた信仰心は失うことなく、自由を求め続けて或る意味で頑固に自分を守りつづけて生きている姿です。修道院を脱出してからのごく短いいくつかのシーンを別とすれば、すべては二つの修道院の中の世界でのできごとですから、そう言えると思います。
その映像を支えている枠組は、この二つの彼女がでられない修道院の空間です。修道院の中庭らしき空間には出られますから、屋内とは限りませんが、いずれにせよ修道院の敷地に限定された場所で、別に牢屋のように物理的に狭い空間に閉じ込められているわけではないし、宗教生活をしていく上では十分にその中で必要十分に動き回れる空間ではあるわけです。だけどシュザンヌの本来生きたい、また生き得たはずの世界からみれば、それは著しく制限され、閉ざされた空間には違いありませんし、彼女がそこで快適平穏に生きられるわけではなく、自由を求める気持ちを失わず、神への純粋な信仰も失わない彼女は、本質的にそれらと矛盾する院内の世界でのしきたり、戒律の壁にことごとにぶつかって空しく抗い、その都度きつくなる懲罰を受け、右往左往して衰弱していきます。修道院という静謐で清潔な閉じた空間の内部はそこで生きざるを得ないシュザンヌにとっていたるところで壁にぶつかり、どうそれをたどって行っても、外に出ることだけはできない、複雑な迷路の世界のようで、その迷路の中をせかせかとした足取りで彷徨う彼女の姿がこれらの映像がとらえている、それが無ければこの作品ではなくなる原型的な映像ということになるような気がします。
こう考えると、極端に言えば、この物語からキリスト教やら神父やら尼さんやら祭壇やらといった具体的な表象を全部抜いてしまっても、この作品が私たちに見せたいものの骨格は残るんじゃないか、と思います。カフカの城は外部から近づこうとして永遠に近づけそうもない測量士の話ですが、逆にあの城の内部は、シュザンヌのいる修道院のように静謐で清潔な、でも無数の白い壁で仕切られた複雑な迷路の空間になっていて、もし城の中に入れたとしても、測量士はその複雑な迷路の中をふらふらになって彷徨い、もはや出ることができない、と感じるのではなかろうか、なんて空想します。
また、このまえ、「双子は驢馬に跨がって」という不思議な、とても面白い小説を読みましたが、あそこで双子が助けにくるのをひたすら待っている親子と彼らがひたすら壁画を描いたりしているあの空間も、この映画の修道院の空間と通じるところがあるんじゃないか、なんて連想しながら見ていました。
そんなふうに色々置き換えてみても、この映画は楽しむことができるでしょう。トポロジーで把手つきのコーヒーカップを変形していけばドーナツと同じなんだってのと同じで、この映画も余計な凸凹をならしてシンプルなこれ以上変えたらこの作品じゃなくなるぜ、ってところまで捏ねてやったら、自由を渇望しながらほかのすべては与えられても自由だけは与えられない閉じた迷路空間みたいなものが後に残るのではないか。そして、そういう空間を逃れて別の空間へいってもまた同じことで、自由を求めて空しく抗っては生そのものをすり減らしたいう・・・
この映画では、なんとか脱出するわけですが、実は外の世界も渇望した自由を与えてくれるわけではなくて、メビウスの帯のようにねじれて、それ自体が閉じた空間であるかのような場所に戻ってきているともみえて、ここを脱出するのは死ぬときだけ、というふうな構造をもった作品の世界のようにみえてきます。
シュザンヌは自由を求めていても、別段修道院の外の享楽的な世界を求めているわけじゃなくて、信仰心を失わず、官能の欲望からも遠い、禁欲的な生活で満たされる女性ですから、修道院の生活でも何が欠けているのかと言えば、自由、つまりその空間を出ていくことができる、という可能性以外に実際には欠けているものは何もないとも言えるわけです。
ここからは(ここまでも、か・・・笑)妄想になりますが、じゃどうすれば彼女は救われるのか、と考えると、それは彼女が汚れることでしか救われないんじゃないか。彼女は最後まで神への信仰を失わず、「清潔を失うなら死を選びます」という彼女の言葉どおり死を選んでしまいます。最後まで「清潔」なままです。いくら同性愛者の院長がほのめかしながら強く迫っても、彼女は基本的に官能の喜びも知らなければ、その欲望も持っていないから、何を院長が求めているのかさえ、本当のところよくわかっていないようです。彼女は院長の誘惑に溺れてしまったほうが救われたのかも(笑)。
というのも、もし彼女が当初修道院だけはいや、と誓願の言葉を言うことさえ拒否したような意志を貫けるような客観的条件があって、姉たちのように普通の貴族の娘のように他の貴族の子弟に嫁いでいたとすれば、いくら信仰深い生活を送ったにせよ、こんなにピュアなままで生涯を終えることはなかったので、多かれ少なかれ世俗の毒を受け入れて汚れながら生きて行ったわけですね。
だから修道院へ入るということは、そういう世俗の毒を浴びずに済む環境に遁れることでもあったわけです。修道院が閉じた世界であることが、彼女の純粋な清潔さや神への信仰を守る上の防御壁になっているわけで、自由でありたい、そこから脱出したい、という彼女の願望は、自己矛盾でもあるわけです。
そうすると修道院の閉じた空間から脱出したいと願う彼女は、一見もっぱら神へのピュアな信仰に生きるための自由を求めているようにみえて、実はそれとは真逆の世俗の毒にまみれた世界を求めていることにならないかな・・・。でもそういう毒を遮断した修道院という世界で、そこにも存在した様々な誘惑を拒んでピュアな信仰を守ってきた彼女は、もろに世俗の毒を浴びるような世界に脱出した結果、不適応を起こして死んでしまう・・・
だんだん見当違いの方向へ飛んでいちゃってるかもしれませんね(笑)。でもこの作品は、修道院のそれなりの強固な掟だの秩序だのを持った世界でも自分を頑固に守って抗い、それゆえに迫害され虐待され、その中でどうやって自分の居場所や行くべき道をみつけられるのか分からないままその閉じた世界の内で彷徨うシュザンヌの姿がとても現実感をもって描かれていて、リアルだからむしろ悪夢にも似て、細部まであまりにも鮮明な夢のように、したがってまた修道院そのものが問題なのではなく、それが何か別の世界を意味するものであるかのように私たちの前に展開されていく、密度の濃い作品です。
恐怖分子(楊徳昌=エドワード・ヤン監督) 1986
以前にビデオで見た「恐怖分子」を出町座の台湾シリーズで上映したので、また見に行ってきました。物語をたどるような見方をすれば、起承転結があるわけじゃなし、あまりよく分からない作品ですが、インパクトの強い作品だし、映像が、つまり映像がとらえる場面の「選択」とその「転換」が非常にシャープな映画だったので、それをもう一度味わいたいな、と思ったのです。
説明的な描写やセリフ、構成の仕方を排除して、台北の話でみなそこの住人なのでしょう、カメラマンの若者。ツツモタセの少女。女流作家と、病院勤めのその夫、作家の元カレ、病院づとめの夫の旧友の刑事・・・といった登場人物それぞれの表情や行動の一場面を切り取ってきて、一見無造作につないでいくような作品。
映画館のスクリーンの大きい画面で見ると、ビデオで見た時と違って、表情がとても瑞々しく、生きた表情の演技がとらえられていることがよく分かる気がします。
それともうひとつ、ビデオでみたときのテレビのディスプレイではどうということもない風景として流して観ていた都市の自然のカットがすごい、ということに気づかされました。
予告編でもそのカットが入っていますが、音が階段を上がっていく向こうで雨風を受けて揺れる樹々の映像、人の姿がなくなってその樹々の立ち騒ぐ映像だけがほんのちょっと間だけれど目にやきつけられますが、これが別段特別かわった風景でもなく、作為されたようなおあつらえ向きの映像でも、曖昧な映像でもなく、そこらの大通りの並木やなんかでみられそうな風景だし、鮮明な映像ですが、なんとも不穏なものを予感させるような非常に魅力的な映像です。
登場人物ではツツモタセの女の子が素晴らしい。最初にカメラマンの男の子が援けるときの、やばい事件の現場から逃げ出してきて物陰に隠れて顔を出すときの彼女の表情もとてもいいけれど、その男の子とガランとした部屋でちょっとはすかい位置で向き合って、微妙な光と影の空間で言葉を交わすシーンも構図といい光と影の具合といい、色合いといい、なんでもない室内空間の映像なのにすごく魅力的。
それから彼女が、ホテルへ連れ込んだ男の金を男がシャワーを浴びる間に盗んでいてみつかり、男がバンドで暴力をふるおうかという直前、みずから脱兎のごとく男の身体に飛び込んで行って脚に隠し持ったナイフで刺す。このシーンからすべてが劇的に動き出すような感じで、その転調がすごい。それまで比較的スローテンポで大したことも起きず、日常的な行き違いやそこで溜まってくる鬱積が潜在化して積み重ねられる感じはあるけれど、あの場面を契機に一人一人の心に潜む暴力的なものが一気に表に噴き出してくるような印象で、細い糸でつながっているけれども何の関係もない個人、家庭が、それぞれに破綻し、大小の爆発を起こして崩壊していく姿を、とてもスタイリッシュな映像で見せてくれます。
ゴールデンスランバー(ノ・ドンソク監督) 2018
出町座で見てきました。日本映画のリメイクとしての韓国版ゴールデンスランバーです。
原作は伊坂幸太郎で、好きな作家なので初版で読んでいますが、オリジナル日本版の映画「ゴールデンスランバー」のほうは見ていません。だから比較はできなくて、この韓国版は独立した作品としてどうだったか、という印象だけです。原作については読んで面白かったことだけは覚えているけれど、何度も書いているように私はひどく記憶力が乏しいので、細部どころか主要なストーリーさえほとんど覚えていまえん。(だから間違えて前に見たビデオを借りて来ては、まるで初めて見るように楽しむことができるという特技の持ち主です。)
日本版の映画は、出演者リストを見て予想したとおり、とても評判が良かったようですね。いずれそちらも見てみたいと思います。
今回観た韓国版も、私はとても楽しめました。展開が中身のせいもあるでしょうがとてもスピーディーで、見せ場もいっぱいあって、どうなるんだろう、とハラハラしながら追っかけているうちに1時間48分はあっという間に終わってしまいました。後味も悪くなかった。
日本版の堺さんはきっと良かったに違いありませんが、こちらのキム・ゴムを演じたカン・ドンウォンもまじめで気が弱そうで人が好さそうな、みんなに愛されそうな主人公のキャラにぴったりの俳優さんで、好演していたと思います。
原作もうろ覚えの上、日本版の映画を見ていないので、ほんとは何ともいえないのですが、暗殺される要人は首相とか日本の要人よりもやっぱり韓国の「大統領候補」のほうがふさわしそうだし、国家情報院だったか、要は国家のインテリジェンスを担う厚い秘密のヴェールに覆われたような機関なども、ちょっと日本では少なくともいまのところ空想的に思えて、内閣情報室とか警察の狙撃部隊とか、自衛隊の秘密部隊(そんなのがあるかどうか知りませんが・・笑)とか言ったとしても、どうもそれほど迫力がないけれど、韓国ならもろ現実の組織を連想させてリアリティが断然違うし、他国の日本まできて大統領候補の金大中を誘拐して殺害しそうになったその種の機関ですから、「国家のため」なら平気で暗殺くらいしそうです。それゆえ、これくらいの話はほんとに現実にありそうな話で、少なくとも軍事政権のときの韓国だったら「実話にもとづいています」と字幕が入ったって不思議のない国でしょうから、ちょっとした怖さがあります。まあ映画としてもそのへんが迫力を感じさせます。
ただ、敵はともかくとして、味方のほうに元国家情報院のメンバーがついて、決定的に重要な役割を果たす、というのは、私の記憶違いでなければ、原作にはこの種の人物は登場しなかったのではないかと思います。日本版の映画はどうか知りませんが、これはやはり韓国のオリジナルって感じがします。この映画をみたとき、原作はうろ覚えではあるけれど、もっと友達とかいろんな「こちら側」ないしこちらに応援してくれるような人物が色々いたんじゃなかったかな、と思い、そういう人たちが逃亡する主人公を援けるような話だったような気がしています。
だから、ミンという名前でしたか、元国家情報院のメンバーみたいな武器も使いこなし、いかに戦闘するかに精通した味方が頼りないヒーローを援けて代わりにドンパチやってくれるみたいなのは、ちょっと伊坂幸太郎のセンスとは違うんじゃないか、と思いました。
でもまあこれがオリジナルな作品と考えれば、現実的にはそういう人がいないと、強力な国家の暴力装置を挙げての包囲網に太刀打ちはできないでしょうから、伊坂幸太郎流の奇想の楽しい作品というのから、よりリアリズムっぽいテイストの作品にするには、ああいう007的人物というかボーン的人物というか(笑)が必要だったのかもしれません。そのかわりそういうリアリズムを笑い飛ばしたり、奇想で肩透かしをくらわせたり、という伊坂流の楽しさは失われた部分が大きいのではないかと思います。
その代わり、この映画にはたぶん韓国の都会の大通りでドカーンと爆弾が爆発して自動車が高く吹っ飛び、回転して叩きつけられるような華麗なるテロ現場のシーンだとか、迷路みたいな路地を走るオートバイと追っかける車のカーチェイスだとか、日本では警察や消防の許可が得られないだろうような撮影をしたと思われる迫力のあるアクションシーンには見ごたえがあります。冒頭の爆弾の炸裂シーンなどは、ハリソン・フォードの「いまそこにある危機」の冒頭で、やっぱり大都会の大通りで主人公がテロに巻き込まれるあのシーンとなんとなく印象が似ています。
ああいうシーンや元国家情報院メンバーの味方がついた敵との肉弾戦、敵の策謀の裏をかいた反撃といったところを楽しめれば、この作品はけっこう現代的なスピード感を持っているし、お金をかけて撮っているようですから、不満をおぼえることはなさそうで、原作や日本版オリジナルとテイストは違っても、独立したエンターテインメント映画として楽しむことができると思います。
ラストは楽しく綺麗にまとめていたと思います。ここもかすかな記憶にあるなんか余韻を感じた原作とは違ったように思いますが、まあハッピーエンドで良かった良かった、と娯楽作品としてはっきりした結末で、余韻はないかわりに心残りもなく、後味よくおわてくれたと思います。
トラスト・ミー(ハル・ハートリー監督) 1990
この監督の作品を見るのは初めてでしたが、出町座で3本出してくれている中の1本です。
主人公は二人、一人はマリア・コフリン(演じるのはエイドリアン・シェリー)という16歳の、妊娠して高校を中途退学させられたどうしようもないアバズレに見えるような女の子で、父親に口答えばかりしているような子。もう一人は最初彼女とは関係のない、テレビの修理工場らしき現場で働いているエンジニアと思われるマシュー・スローターという男。彼も家族とうまくいっていません。でもマリアと同様彼も父親に妙に従順なところもあるのが面白い。日本の反抗的な息子ならさっさと父親を見捨てて家を出ていきそうですが、いろいろ抗いはしても日常的なことでは父親の言うことを大人しく聴いたりしているところがおかしい。もう父親としての愛情とか母親としての愛情とか、そんなものはどこにもないようにみえて、やっぱり本質的な意味で時間差の性としてつながっている、いわゆるエディプス・コンプレックスなんて言われるようなところでは切れないわけでしょうね。
この作品の面白さの一つは、このマシューの父子関係とマリアの母子関係のちぐはぐさです。
でも結局は家を出ていきます。
彼は修理工場で働いてはいますが、テレビは脳を駄目にするとかで憎んでいるようで、それを作らされていること自体に腹を立てていて、しかもそれに使う基盤に古い欠陥の多かったやつを使っていることで上役に抗議しても無視され、苛立って目の前の修理中のテレビを台から叩き落として無茶苦茶に破壊してしまって辞表をたたきつけてくるといった、社会的に不適応とも思える頑なで偏屈な男。
この二人がそれぞれに行くところもなく仮の宿りみたいに行き着いていた廃屋で、偶然出会い、言葉をかわし、それから時間をかけて次第に心を通わせていくプロセスを描いた作品です。ほかに重要人物としては、マリアのやはり頑固な父親でしたが、映画のまだ冒頭で、マリアを叱りつけて口論になり、マリアが平手打ちをした途端に、倒れて心臓麻痺で急死してしまいます。ここらが面白いところで、私たち観客もびっくりしてしまいます。で、マリアの母親ペグはマリアにお前が殺した、とマリアを責め、召使のように彼女を使い、また家から彼女を追い出したりします。それでマリアはマシューと出会うわけです。
もうひとり、マリアの姉ペグというのがいます。これもあんまりパッとしない女性で、まだ少女っぽいマリアに比べると年上ですから成熟した女性といった感じはあります。母親は、マリアと親しくなって出入りするようになったマシューが姉のペグとくっついてくれないかと期待しています。もちろんマシューはマリーのほうが好きなので、ペグには全然関心を示しません。
マシューはマリーに結婚しようと言い、おなかの赤ん坊も自分たちの子として育てると言います。マリーにはまだ迷いがありますが、マシューの愛情を受け入れます。ただ、この作品では「愛」というのは登場人物の誰も信じていない概念として扱われているようです。主人公のマリアとマシューにしても、二人の間で、愛という言葉でそれぞれの気持ちが語られるのではなく、「尊敬、称賛、信頼」のほうが愛よりもランクが上、みたいなことをマリアが言い、マシューもそれを受け入れるみたいな会話が交わされる場面があります。ラスト近くで、自暴自棄的な行動で自分自身に愛想尽かししているようなマシューが「なぜぼくのことをそんなに我慢してくれる?」とマリアに訊いたときも、「愛しているからよ」とは答えずに、「誰かがそうしないと」というような答え方をします。
誰でもええんかい!?と半畳を入れたくならないわけではないけれど(笑)、どうもこの映画の作り手は、家族も恋愛関係も完膚なきまで崩壊、解体していって、いわゆる家族の愛情とか男女の愛情とか、そういうものがもう信じられなくなったあと、それでも異なる人間どうしが共存して生きていかなくてはならないとしたら、いったいその関りのなかで、どんな出会い方をし、どんなかかわり方をしていけばいいのか、そこに何らかの新しい結びつきが生まれてくる可能性があるとすれば、それはどんなものなのか、というふうな絶望的な状況をくぐったあとの切実な問いかけの果てに、そういうセリフを主人公たちに吐かせているのではないか、という気がします。それはつまり「愛」というものではない、「誰かがそうしないと」というふうな、他者への気がかり、配慮、思いやり、あるいはそういう情緒的な言葉を嫌うなら、高化がそうする必要があるから、という必要性みたいな概念に近いものなのかもしれません。
二人が出会って間もなく、マリアが互いに信頼しあえるかを確かめる、という趣旨で、高い位置に直立した姿勢から、真後ろに倒れ込んで、あわててマシューが抱きとめるシーンがあります。マリアは今度はマシューに同じことをするように求め、マシューは大男だし、痩せてちっぽけなマリアに受け止められるとはとても思えないのでマシューはいやそれは無理だと思うよ、というようなことを言ってためらいますが、マリアは、それこそ"Trust me !”で実行しようとします。まあ実際には別の関心が二人をとらえて話がそれていくので、マシューが後ろ向きに真っ逆さまに倒れ込んでマリアが潰れる(笑)シーンはないのですが・・・でも、このシーンはとても印象的な素敵なシーンでした。
さて、先走っちゃいましたが、話の展開としては、二人がスムーズに結ばれるわけではなくて、ここに、マリアの母親は一計を案じて、マシューに酒の飲み比べをしよう、と言ってマシューにはウィスキーを飲ませ、自分はジンを呑むと称して実は水を飲んでマシューを泥酔させて、長女ペグのベッドに寝かせ、マリアの姉ペグと一つベッドで寝ているシーンをつくり出します。
家に帰ってきて、何も事情を知らないマリアに母親が姉ペグの部屋で何か裁縫の道具だったかをとっておいで、とわざと部屋に行かせて、二人が寝ている姿を見せつけるようにします。
2階へあがって行って、その二人を見たはずのマリアは黙って降りて来て、騒ぎも何も言いません。母親は不思議に思って確かめに2階へいってみると、彼女の思惑どおり、まだマシューとペグは一つベットでだらしなく寝ています。
マリアはおそらく実際には深く傷ついて、自分一人の決意でおなかの子供を降ろしに病院へいって堕胎します。
そんなことはあったけれども、マシューとマリアの絆は失われず、マシューの"Trust me"という言葉を信じてマリアはマシューに抱かれます。ラストはマシューが再び勤務していた修理工場でやっぱり工場のやり方にキレて、父親が朝鮮戦争から持ち帰っていた手榴弾を持ち込んで工場ごと自爆しようという事件を引き起こし、マリアが駆け付けますが、手榴弾は不発・・・と思いきや爆発し、二人は無事でしたがマシューは逮捕されてパトカーに乗せられて去って行き、マリアはマシューがいいねと言っていたメガネをかけてそれを見送る、そこで終わりです。
この言って見れば純愛映画と言えるような、もう中年にさしかかろうという不器用で偏屈な男と、まだ16歳というほとんどとりえがなさそうに見える美人でもカワイコちゃんでもなく、むしろいいかげんなアバズレに見えるような女の子とが、それぞれ自分の欠点もよくよく知っていて、自分にも世界にも大きな期待をしておらず、それぞれ孤独で、深く傷ついているような者どうしが、ふとしたことで知り合い、徐々に心を許し合って、普通の言葉で言えば、「愛」をはぐくんでいきます。
はじめは、とてもこりゃ共感できそうにもない主人公たちだな、と思ってみていましたが、だんだんそうじゃなくなってきて、途中で二人がかなり心を通わせるころになると、アップでとらえられる二人の表情が、とてもなにか人間的に大きな存在のように見えてくるところがあって、見ていて自分で驚きました。
彼らは家族とも職場など周囲の人ともうまくいかず、自分自身も不器用で頑固で偏屈なのはよくわかっていて、そんな自分に深く傷ついているわけです。家族なんてものはもうとっくに崩壊しつくしているし、どこにも拠るべきところはない、それぞれ孤独な身に孤独な魂を抱えて生きているわけです。それが手探りでもうひとつの誠実な魂をさぐりあて、おそるおそる触れていって、そのぬくもりややさしさを感じ取り、確かめていく、といった感じです。
こういう映画を見ると、日本でも森田芳光が「家族ゲーム」で見事に描いたように、家族崩壊はとうの昔に起きた歴史的事実ですが、アメリカの家族はもちろんそれに先駆けて徹底して崩壊しつくして、昔のように100%のものがいまは50になり30%になっちゃったなぁ、というのではなく、とことん解体されてゼロになり、個々バラバラの孤独な一人一人にまでなって、マイナス30, マイナス50 くらいまでゼロ水準から針が下まで下がってしまったかたちで、虚像のような家族の形をつくっているだけの状態だろうという感じですが、マシューやマリアは、そういうところから、また一つ、二つと要素を取り集め、バラバラの孤独な魂をつなげて、なんとかこれまでとは違った形で、絆らしいものを自らの魂ともうひとつの魂との間に見出していこうとしているかのようです。
たぶんそれが、もしそんなものが可能だとすれば、新しい家族の形を見出していくかもしれない可能性への手探りであるかもしれない、と思わずにはいられませんでした。
アンビリーバブルトゥルース(ハル・ハートリー監督) 1989
「トラスト・ミー」のあとで出町座で見たのですが、ハートリー監督の最初の長編はこちらのようです。冒頭、刑務所帰りの青年ジョシュが畑の光景が広がるような自動車道でヒッチハイクするシーンから始まります。
子どもを後ろの座席に乗せていて、助手席に乗り込んだジョシュに、運転の男が彼の風采を見て、「神父か?」と訊きますが、修理工だと答え、どこから来た? どこどこから。そのどこだ?と次々きかれると隠そうという様子もなく淡々と「刑務所」・・・で、車を降ろされてまたヒッチハイク・・・出だしからユーモラスで、映像も素敵で、期待させてくれます。
このジョシュはロバート・バークという男優が演じていますが、なんか若いころのカーク・ダグラスをもっと都会的にスマートにしたような風貌で、なかなかいいです。でもその服装、風采から、色んな初対面の人に「神父か?」と言われ、殺人犯で刑務所を出て来たばかりの男がみんなに神父か?と訊かれるギャップが笑えます。
彼は自分の恋人を自分の飲酒運転か何かで事故死させてしまい、その後謝罪に行った父親ともめて階段から突き落として殺してしまったという殺人の罪で服役したのち、刑期を終えて故郷のニューヨーク郊外の住宅地(リンデンハースト)へ帰ってきたところで、彼の姿を見た、彼が「殺した」恋人の妹パール(とっても綺麗な人です)は驚きのあまり失神します。実はかなりあとでパールの言葉によって明らかになるのですが、ジョシュが恋人の父親を階段から突き落として殺したというのはまったくの冤罪で、驚いた父親が後ずさりして階段から落ちて事故死したので、それを幼いパールは目撃していたのですが、姉を殺したジョシュへの憎しみもあって証言しなかったのだ、ということがわかります。
それは後日判ることで、当面は殺人の汚名を背負った男が帰ってきて、自動車修理店で働き始めます。経営者のおやじヴィク(クリストファー・クック。好演です)は刑務所帰りのジョシュの雇用に消極的でしたが、たった一人の雇い人の腕が悪くて人が必要なところへもってきて、このジョシュは刑務所で習ったという修理工としての腕が抜群に良かったので、最初は渋々ながら雇います。
ところがこのジョシュがヴィクの娘で17歳のオードリー(エイドリアン・シェリー)と親しくなっていき、ヴィクはジョシュに、娘には近づくなと釘をさします。オードリーは愛読書らしい「The End of the World」をいつも読んでいて、近いうちに世界は核戦争や環境破壊で滅亡する、とどうも半ば本気で信じているらしく、始終そういうことを言っています。
オードリーの父親ヴィクはオードリーを大学のコミュニケーション学科みたいなところへ行かせたいと思っていますが、オードリーは行くなら文学部がいいと譲らず、いつの間にかハーヴァード大学に合格した、というのですから驚き。こんな蓮っ葉なオカルト娘みたいな子が行けるんかな?(笑)
でもオードリーは殆ど大学へ行く気などなくて、アルバイトの雑誌モデルで日に1000ドル稼ぐようになり、やがてもっと稼ぐプロのグラビアモデルとして成功して、ニューヨーク(だったかな)のマンションに移り住んで、父親のもとを離れます。
彼女が出ていく前、ジョシュが食堂(飲み屋だったか?)のウィとレスのお姉さんとかわす会話がすごく面白い。 女性の方はイケメンの彼に気があるようで、ちょっと誘いかけるように声をかけます。
「必要なんでしょ?」
「何だって?」
「女が・・」
「は?」
「あの子はイカレテるわ」
「知ってる。だけど好きなんだ」
「でも町を出ていくって・・」
「らしいな」
「どうするの?‥必要なんでしょ?」
「何だって」
・・・・・
これが循環する録音テープのように3-4回繰り返されます(笑)。
まあこんな風に笑えるところもいっぱいあって楽しい映画です。オードリーの母親がヴィクには内緒でオードリーのニューヨークでの住所をこっそり教えたり、オードリーには近づくな、と言っていた父親ヴィクもまたジョシュをニューヨークへ行ってこいとけしかけて金を渡してやったりで、ジョシュがオードリーのマンションの前まで行くと、車で帰ってきたオードリーが男とマンションへ入っていきます。苛立ちながら待っていたジョシュですが、そのうちしびれを切らせて、オードリーに借りていた愛読書を放り投げて彼女の住む部屋の窓ガラスにぶつけて割ると、去っていきます。
オードリーと部屋にいた男は彼女に迫っていたけれど彼女の方は気がなくて拒絶していたところで、投げ入れられた本をみてジョシュが来たことを知り、急いで追っかけていきます。
・・・まあそんな風に、恋人や父親を殺してしまったという心の傷と負い目を持った男と、父親との確執の中で家族とも折り合い悪く、自分なりの生き方を模索していた若い娘とが出会って心を通わせ、愛し合うようになって、それが本来のあるべき自分を見出していくこととパラレルになっているような純愛物語です。
ジョシュもオードリーもヴィクも頑固な、或る意味で偏屈な人間ですが、彼らも含めてこの映画には悪人はいません。それぞれの思いから行き違いやぶつかり合いも起きるけれど、或る意味でみんないい人間ばかりで、それぞれが妥協はしないけれど、相手のことを想いやりながら自分の生き方をつらぬいていこうというような人間です。映画の作り手の人間を見るまなざしが温かいなという印象です。
修道女(ジャック・リヴェット監督) 1966
ジャック・リヴェットをはじめ、フランスのヌーヴェルヴァーグの旗手となった映画監督たちは、『カイエ・デュ・シネマ』で映画批評をやっていた連中だそうです。
文芸の世界では、批評文で食っていたような人が年取って突然小説を書いてもろくなものが書けないというのが通り相場で、そんな例があるかどうかは知りませんが、映画批評で飯を食っていたやつで後に映画史を革新するような映画を撮ったやつなんているのかな、と思いますが、フランスでは現実にそういうことが起きたんですね。まあ映画を作り始めたのも若いころだから、もともとそういう資質を持った連中が(お金がないとかいろんな現実的な理由で)既存の映画への批判にかまけていただけなのかもしれませんが・・・。
小説を書いたり、絵を描いたり、映画を撮ったりというクリエイターの仕事にも、それがすぐれたものであれば、「批評」が内在していることは当然でしょうけれど、それは彼らが批評家のような言葉で考え、書き、評論として論理を展開するという意味ではないので、批評家の資質とクリエイターの資質とはもともとまるで異なるものだと思いますし、むしろ、まったく相反するものだと考えるほうがよさそうです。
ですから、ヌーヴェルヴァーグの旗手と言われる人たちもまた、批評家から出発して、古い映画に飽き足らず、自分たちで撮ってしまえ、というので映画表現のありようを変えてしまったのでしょうが、それが今の時点からみてどれほどの水準のものだったのか、所詮は批評家の撮った頭でっかちな映画だね、というようなものでしかなかったのか、あるいはまた、批評は批評として、映画を撮るときはそれぞれの創造的な個性のはたらきで結果的に結構いい線いったのか、あるいは批評と創造という普通は相いれない矛盾を絶対矛盾の自己同一ではないけれども、奇跡的な融合がそこで起きて、本当に素晴らしい作品を創り出したのか、ということは、映画史の常識とか、彼らを神様扱いして崇拝するだけの連中とは関わりなく、半世紀遅れで彼らの映画を何の先入観も持たずに、あらためて手ぶらで見て、一つ一つ自分の目で確かめてみるのは面白いかもしれないな、と思っています。
その意味ではリヴェットと言う人は結構面白そうな人で、先日DVDで見た「美しき諍い女」は本当にいま見ても素敵な作品でした。ただ、それはたまたまテーマがバルザックの「絶対の探究」に想を得た芸術家の創造のためのたたかいを描くというものでしたから、リヴェットに備わっているのだろう批評家的資質の自己言及的な批評性がうまく創造的な資質と融合できたところがあったのかもしれない、と思ったりしています。また制作時期が円熟期のものであるとか、若い頃の習作的なもの、あるいは力こぶのはいった力み過ぎの作品であるとかいったことも、できばえと無関係ではないかもしれません。
それが「パリはわれらのもの」だと、意図が推察できなくはないけれど、ずいぶん頭でっかちな理屈っぽい作品で、いかにも批評家が作った作品だという印象です。おそらく意図は壮大だけれど、実際の作品としての出来栄えは・・・というふうに思えます。映画史的な意味や映画作家個人の表現史の中での意味はあるかもしれないけれど、先入観なしに作品にだけ向き合うごく普通の観客がいま見れば、大方は訳の分からない退屈な作品だという印象を持つのではないでしょうか。
さて、今回観た「修道女」は、やっぱり多少頭でっかちなところは感じましたが、それがあまり前面に出てこないで、作品として素直に見て、けっこうおもしろく見ることのできる作品でした。
18世紀のディドロが書いた小説が原作だそうです。私は原作は読んでないので、どの程度原作に依拠しているのかは知りません。
シュザンヌ・シモナンという女性が自分の意に反して修道院へ入れられることになって、修道女としての清潔、清貧、服従を誓う誓願をさせられようとする場面から始まります。なぜそんなことが本人の意思に反して強制されるのかというと、彼女の家は貧乏貴族で、彼女を含めて3人の姉妹があり、それぞれ嫁がせなくてはならないけれども、貴族としての体面を保つような嫁がせ方をするには相当な持参金と費用がかかります。上の二人を嫁がせるだけで精一杯で、とても三女のシュザンヌを嫁がせるような財産はない。そういうとき当時の貴族社会では娘は修道女になって生涯修道院に入る以外に道がなかった、ということらしいです。なるほど、そういうものか、と当時の貧乏貴族の事情が面白く思えます。
しかし、シュザンヌは修道院にだけは入りたくないと思っていて、これを拒否し、自分が強制的に連れて来られたのだと抗って騒ぎを引き起こしたため、そのときは免れますが、母親から、自分が姉2人とは違って、不義で生まれた子であることを明かされ、父親の意志が変わらないこと、母親の助けも期待できないことを聞かされ、結局別の修道院に入れられることになり、再び誓願式に臨みますが、誓願をした記憶がまるで失われるという不思議なことが起きます。
この修道院の女性院長モ二がとても優しい、すぐれた指導者で、修道女として生きることへの懐疑と不安がぬぐえないシュザンヌに対して、神への信仰があればほかのことはついてくる、と優しく寛容にふるまい、彼女がチェンバロを巧みに弾き、美しい声で歌うことを称揚してくれます。
しかし、この院長はシュザンヌに「あなたが来ると神が遠ざかり、無口になるような気がする」と不安に満ちた預言的な言葉を吐きます。そしてこの優しい院長は亡くなってしまい、前任者の築いてきたものをことごとく変えて、強権的な支配を修道院内部に打ち立てようとする新院長が、聖書を持つことさえ禁じてそれに違反し、前院長を慕うシュザンヌが新院長のやりかたにことごとく抗うのに対して厳しい懲罰で臨み、礼拝の特殊な仕方を強制し、パンと水しか与えず、他のシスターに近づいたり会話したりすることも禁じてシュザンヌいじめを徹底していきます。
シュザンヌは一計を案じて告解を書くための筆記用具と紙を用意させ、弁護士を通じて大司教に修道院の内情と虐待を知らせる手紙を書いて、親しい修道女を通じて、手紙を外へ送り出すことに成功します。しかし、告解用にと入手した紙をめぐって新院長がシュザンヌの意図を見抜いてしつこく追及し、彼女の衣服を剥ぎ取って幽閉します。
彼女の手紙を受け取った弁護士マヌリがローマの許可を得たと面会に来て、内情査察が行われることや、訴訟手続きが始まれば院内ではひどい目に遭うだろうと聞かされます。事実、査察が行われることを知った院長は厳しくシュザンヌを問い詰め、徹底的に抗うシュザンヌを、「悪魔にとりつかれている」とみなして、すべての院内聖務を禁じ、食事を与えず、祈りは床に完全にひれ伏すこと、また誰にも接触してはならないこと、などを命じます。
その結果、シュヴェンヌは院内浮浪者みたいなみじめな姿になって肉体的にも衰弱し、自分を虐待する院長にすがって、私を生かしてくださいと懇願しますが、院長は冷たく「考慮します」と言うのみです。
しかし、修道院に事情を探りに来た教会の査察官は、シュザンヌと院長の言い分を聞いて、シュザンヌへの迫害、虐待が行われていることを察知し、教会側内部の会議で、院長を解任するのが妥当だと主張しますが、枢機卿か誰かステータスが彼より上らしいやつが、院長の縁戚の身分が高いことから、それは不都合だ、と同意しません。
こうして宗教裁判として敗訴したシュザンヌは絶望し、すべては終わった、と考え、弁護士マヌリが使いをよこして修道院を移るようアドバイスしますが、もう移る気も失せたと言います。
しかし、彼女への虐待を知った査察官エベールは、シュザンヌに、君の友達が弁護士に言い、大司教にも実情が伝わって院長はほかの修道院へ移されることになった、と言います。そして、またシュヴァンヌ自身も別の修道院へ移されることになります。
新たにはいった修道院は、前の修道院とは打って変わり、とても修道院とは思えないほど、修道女たちが明るく自由にはしゃぎまわっていて、明るい雰囲気ですが、すぐに微妙な雰囲気が漂っていることに気づかされます。
そこの女院長はシュザンヌを大歓迎して、シュザンヌが歌が得意と聴いていて、チェンバロを弾かせ、歌わせるので、シュザンヌは聖歌のようなのを歌います。すると院長は、いいけど何だか聖堂にいるみたいだわ、とやめさせて、他の歌を、と言いますがシュザンヌが歌を知らない、と言うと、愛の歌を、と所望し、それなら姉たちが歌っていたことがある、と覚えていたシュザンヌはよく知られた(私も聴いたことがある)愛の歓びの歌を歌います。
シスターの一人が、ウルスラのほうがうまいわ、とそれまでみんなから歌の名人と思われていたらしいシスターのことを言いますが、院長は否定して、シュザンヌを依怙贔屓するような言葉を吐き、シスターたちの雰囲気が微妙な感じになり、シュザンヌと院長だけを部屋に残して、他のシスターたちはみな部屋を出て行ってしまいます。
どうやらこの女院長はカワイコちゃん好みの同性愛者で、シュザンヌが来るまではテレーズというシスターを可愛がっていたらしいのですが、テレーズがシュザンヌに打ち明けたところでは、その院長を拒んだためにいまは不幸だというのです。傍目に見ていると、院長の依怙贔屓とシュザンヌに対する同性愛的な想いは誰の目にもあきらかなほど露骨なのですが、シュザンヌ自身が純粋でオクテで未経験であるために、贔屓されて過剰に目をかけられていることは判って戸惑ってはいるものの、院長の本当の狙い、欲求については何もわかっていないのです。
ですから、院長が二人だけになりたがり、二人になるとしきりに話を個人的なところへもっていって、官能の欲望の話へ近づけようとしているのが観客のわたしたちにはミエミエなのですが、シュザンヌは、何のことを言われているのかピンとこない感じで、院長がうずうずしているのがわかって、そういう場面はとても可笑しい。
官能のことを知りたいと思わない?教えましょうか・・・と水を向けても、シュザンヌは「知りたくありません」「清純でないなら、死を選びます」と取りつく島もありません。
ある夜、院長は蝋燭の火をもってシュザンヌの部屋へやってきます。「夢が苦しくて眠れないのよ」。シュザンヌは驚いてベッドで起き上がり、「どうなさったの?涙を流されたりして・・・」あぁまだわかってくれないのね、とたまりかねた院長、シュザンヌのベッドへダッと駆け寄る。さすがにシュザンヌは驚いて、はっとベッドを飛び降ります。するとドアをドンドンと叩く音。事情を察したテレーズが助け舟を出してくれたようです。
ここに至って、シュザンヌは男性神父がシスターたちの告解を順に聞いていく、告解の日に、院長のことを告解します。神父は、とにかく院長を避けよ、扉に鍵をかけ、一人では決して院長のところへ行くな、それでも院長が部屋へ入ってきたら、大声で人を呼べ、悪魔だと思って追い払え、とアドバイスします。そして、今晩だけは眠らずに祭壇室で夜を徹して祈りなさい、と指示し、院長から離れていることがおまえの苦行だ、と言います。
夜中に祭壇の前で祈るシュザンヌ。まだ寝ないの?と近づいてくる院長。「去れ!悪魔よ!」とシュザンヌ。「悪魔じゃないわ。友達よ」と院長はしつこく誘惑しますが、では今夜だけよ、と諦めて去っていきます。
院長はたくらんで、シュザンヌの告解を受けた神父を中傷する訴状を教会中枢に送り、神父を左遷させてこの修道院から追い払ってしまいます。それで新任の神父がやってきます。彼は、自分も実は誓願式を経ていないのだ、お前と同じだ、気持ちはよくわかる、というようなことを言います。だが、禁欲生活をしても、世俗の享楽に生きても、いずれにせよ地獄へ落ちるのだ、というようなことを言います。
院長はもう狂ったようにシュザンヌにまとわりつき、しがみつき、自室の扉を固くしめて閉じこもるシュザンヌに、扉の外でしがみついてへたりこむ院長です。それでもまだシュザンヌは「親愛の情がなぜいけないのかわかりません」と神父に告げるように、官能の欲望も喜びも知りません。それで新任の神父は、「(前任者である)ルモワール神父の忠告に従え、理由は訊くな」とだけシュザンヌに言います。
その院長は、神父のところへきて、「私は地獄に落ちました」と告解します。
さてその新任の神父がまたシュザンヌにぞっこんで(笑)、シュザンヌに別の機会に会いたいと言うので、シュザンヌは「告解以外の場で会いたくありません」ときっぱり断りますが、神父のほうは「私のほうが告解するのだ」と言います。事実上の愛の告白ですね。そして、馬車を待たせてある、一緒に逃げ出そうとシュザンヌを誘います。一難去ってまた一難(笑)。戸惑うシュザンヌは「2日だけ待って」と言います。
2日後、石垣をよじ登って越え、神父はシュザンヌを連れて修道院から逃亡します。そして、その後道端に倒れているところを、シュザンヌひとり、2人の農夫に助けられ、ひろわれて次の画面では農家らしいところで屋内での作業を手伝って働いています。女たちが噂話に、逃げた尼のほうはまだつかまっていないが、坊さんはつかまって修道院へ逆戻りさ、とまさかシュザンヌがその尼さんだと知る由もなくおしゃべりしています。
その次の画面はもうその農家をも逃げ出してきたのか、石造りの建物の入り口のところに立ちん坊をしてそこを通る人から小銭をめぐんでもらう、お乞食さんをやっているシュザンヌの姿があります。そこを通りかかった婦人がシュザンヌに目を止め、一緒にいらっしゃい、と誘い、シュザンヌは従います。
次の画面では、綺麗な衣服に着飾ったシュザンヌがアイマスクをつけて、同じような恰好をした女たちがテーブルについてくつろぐ男たちの傍に寄り添う階上の豪奢な部屋に入っていきます。仮面舞踏会か何かかと思ったら、どうやらそこは高級娼婦の館(娼館)のようです。
シュザンヌは男に抱かれ、それを拒むと、開いていた窓から一気に身を投じます。
これで幕です。
長々と思い出しながらたどってきましたが、古典的な物語のように、ちゃんと明快なストーリーがたどれる誰にでも理解でき、楽しめる作品です。楽しめる?・・・う~ん、つらい話ではあります。現代日本のごく一般的な生活をする私たちにとっては縁遠い修道院生活、しかも昔の話で、貧乏貴族の妻の不倫の子のたどる宿命ですから、直接にはまことに縁遠い話です。
でも、ヌーヴェルヴァーグと言われる映画の革新をめざしていたリヴェットにとっても、修道院生活だの修道女の話なんてのは縁遠い世界だったはずでしょう。
ではなぜそんな題材を選んだのでしょうか。これを宗教批判とか教会批判の作品だとみなす人もあるかもしれませんが、1966年にパリで映画の革新を考えているような男がそんなことを自分の中心的な課題だと考えるはずがないと思います。
もちろん、描かれているのは修道院にいやいや入れられた貧乏貴族の娘の話で、彼女が修道院で受ける虐待、迫害のありさまがこれでもか、というくらい具体的に描かれ、やっと救われたかと思った新たな修道院でも、今度は同性愛の院長から迫られて逃げなきゃいけない、そのあげくが乞食にまで身を落とし、最後は娼館に拾われて、皮肉にも彼女が拒否しつづけた「誓願」のうちにある身の「清潔」であることを守り通して、(キリスト教では許されないはずの)自死を選ぶにいたる過程が描かれているので、作品の作り手の視線がキリスト教にも教会にも批判的で、人間性を殺してしまうようなものだと言いたげであることは誰の目にも明らかです。
でも映像としてわたしたちの目の前で展開されているのは、修道院という閉じた空間でシュザンヌが不本意にもそのうちに閉じ込められ、そこで生きるほかはない状況の中で、自由を求め、様々な束縛を嫌う彼女に対するいやがらせ(懲罰)、迫害、虐待へとどんどんひどくなる仕打ちを受けながらも、神への本来持っていた信仰心は失うことなく、自由を求め続けて或る意味で頑固に自分を守りつづけて生きている姿です。修道院を脱出してからのごく短いいくつかのシーンを別とすれば、すべては二つの修道院の中の世界でのできごとですから、そう言えると思います。
その映像を支えている枠組は、この二つの彼女がでられない修道院の空間です。修道院の中庭らしき空間には出られますから、屋内とは限りませんが、いずれにせよ修道院の敷地に限定された場所で、別に牢屋のように物理的に狭い空間に閉じ込められているわけではないし、宗教生活をしていく上では十分にその中で必要十分に動き回れる空間ではあるわけです。だけどシュザンヌの本来生きたい、また生き得たはずの世界からみれば、それは著しく制限され、閉ざされた空間には違いありませんし、彼女がそこで快適平穏に生きられるわけではなく、自由を求める気持ちを失わず、神への純粋な信仰も失わない彼女は、本質的にそれらと矛盾する院内の世界でのしきたり、戒律の壁にことごとにぶつかって空しく抗い、その都度きつくなる懲罰を受け、右往左往して衰弱していきます。修道院という静謐で清潔な閉じた空間の内部はそこで生きざるを得ないシュザンヌにとっていたるところで壁にぶつかり、どうそれをたどって行っても、外に出ることだけはできない、複雑な迷路の世界のようで、その迷路の中をせかせかとした足取りで彷徨う彼女の姿がこれらの映像がとらえている、それが無ければこの作品ではなくなる原型的な映像ということになるような気がします。
こう考えると、極端に言えば、この物語からキリスト教やら神父やら尼さんやら祭壇やらといった具体的な表象を全部抜いてしまっても、この作品が私たちに見せたいものの骨格は残るんじゃないか、と思います。カフカの城は外部から近づこうとして永遠に近づけそうもない測量士の話ですが、逆にあの城の内部は、シュザンヌのいる修道院のように静謐で清潔な、でも無数の白い壁で仕切られた複雑な迷路の空間になっていて、もし城の中に入れたとしても、測量士はその複雑な迷路の中をふらふらになって彷徨い、もはや出ることができない、と感じるのではなかろうか、なんて空想します。
また、このまえ、「双子は驢馬に跨がって」という不思議な、とても面白い小説を読みましたが、あそこで双子が助けにくるのをひたすら待っている親子と彼らがひたすら壁画を描いたりしているあの空間も、この映画の修道院の空間と通じるところがあるんじゃないか、なんて連想しながら見ていました。
そんなふうに色々置き換えてみても、この映画は楽しむことができるでしょう。トポロジーで把手つきのコーヒーカップを変形していけばドーナツと同じなんだってのと同じで、この映画も余計な凸凹をならしてシンプルなこれ以上変えたらこの作品じゃなくなるぜ、ってところまで捏ねてやったら、自由を渇望しながらほかのすべては与えられても自由だけは与えられない閉じた迷路空間みたいなものが後に残るのではないか。そして、そういう空間を逃れて別の空間へいってもまた同じことで、自由を求めて空しく抗っては生そのものをすり減らしたいう・・・
この映画では、なんとか脱出するわけですが、実は外の世界も渇望した自由を与えてくれるわけではなくて、メビウスの帯のようにねじれて、それ自体が閉じた空間であるかのような場所に戻ってきているともみえて、ここを脱出するのは死ぬときだけ、というふうな構造をもった作品の世界のようにみえてきます。
シュザンヌは自由を求めていても、別段修道院の外の享楽的な世界を求めているわけじゃなくて、信仰心を失わず、官能の欲望からも遠い、禁欲的な生活で満たされる女性ですから、修道院の生活でも何が欠けているのかと言えば、自由、つまりその空間を出ていくことができる、という可能性以外に実際には欠けているものは何もないとも言えるわけです。
ここからは(ここまでも、か・・・笑)妄想になりますが、じゃどうすれば彼女は救われるのか、と考えると、それは彼女が汚れることでしか救われないんじゃないか。彼女は最後まで神への信仰を失わず、「清潔を失うなら死を選びます」という彼女の言葉どおり死を選んでしまいます。最後まで「清潔」なままです。いくら同性愛者の院長がほのめかしながら強く迫っても、彼女は基本的に官能の喜びも知らなければ、その欲望も持っていないから、何を院長が求めているのかさえ、本当のところよくわかっていないようです。彼女は院長の誘惑に溺れてしまったほうが救われたのかも(笑)。
というのも、もし彼女が当初修道院だけはいや、と誓願の言葉を言うことさえ拒否したような意志を貫けるような客観的条件があって、姉たちのように普通の貴族の娘のように他の貴族の子弟に嫁いでいたとすれば、いくら信仰深い生活を送ったにせよ、こんなにピュアなままで生涯を終えることはなかったので、多かれ少なかれ世俗の毒を受け入れて汚れながら生きて行ったわけですね。
だから修道院へ入るということは、そういう世俗の毒を浴びずに済む環境に遁れることでもあったわけです。修道院が閉じた世界であることが、彼女の純粋な清潔さや神への信仰を守る上の防御壁になっているわけで、自由でありたい、そこから脱出したい、という彼女の願望は、自己矛盾でもあるわけです。
そうすると修道院の閉じた空間から脱出したいと願う彼女は、一見もっぱら神へのピュアな信仰に生きるための自由を求めているようにみえて、実はそれとは真逆の世俗の毒にまみれた世界を求めていることにならないかな・・・。でもそういう毒を遮断した修道院という世界で、そこにも存在した様々な誘惑を拒んでピュアな信仰を守ってきた彼女は、もろに世俗の毒を浴びるような世界に脱出した結果、不適応を起こして死んでしまう・・・
だんだん見当違いの方向へ飛んでいちゃってるかもしれませんね(笑)。でもこの作品は、修道院のそれなりの強固な掟だの秩序だのを持った世界でも自分を頑固に守って抗い、それゆえに迫害され虐待され、その中でどうやって自分の居場所や行くべき道をみつけられるのか分からないままその閉じた世界の内で彷徨うシュザンヌの姿がとても現実感をもって描かれていて、リアルだからむしろ悪夢にも似て、細部まであまりにも鮮明な夢のように、したがってまた修道院そのものが問題なのではなく、それが何か別の世界を意味するものであるかのように私たちの前に展開されていく、密度の濃い作品です。
恐怖分子(楊徳昌=エドワード・ヤン監督) 1986
以前にビデオで見た「恐怖分子」を出町座の台湾シリーズで上映したので、また見に行ってきました。物語をたどるような見方をすれば、起承転結があるわけじゃなし、あまりよく分からない作品ですが、インパクトの強い作品だし、映像が、つまり映像がとらえる場面の「選択」とその「転換」が非常にシャープな映画だったので、それをもう一度味わいたいな、と思ったのです。
説明的な描写やセリフ、構成の仕方を排除して、台北の話でみなそこの住人なのでしょう、カメラマンの若者。ツツモタセの少女。女流作家と、病院勤めのその夫、作家の元カレ、病院づとめの夫の旧友の刑事・・・といった登場人物それぞれの表情や行動の一場面を切り取ってきて、一見無造作につないでいくような作品。
映画館のスクリーンの大きい画面で見ると、ビデオで見た時と違って、表情がとても瑞々しく、生きた表情の演技がとらえられていることがよく分かる気がします。
それともうひとつ、ビデオでみたときのテレビのディスプレイではどうということもない風景として流して観ていた都市の自然のカットがすごい、ということに気づかされました。
予告編でもそのカットが入っていますが、音が階段を上がっていく向こうで雨風を受けて揺れる樹々の映像、人の姿がなくなってその樹々の立ち騒ぐ映像だけがほんのちょっと間だけれど目にやきつけられますが、これが別段特別かわった風景でもなく、作為されたようなおあつらえ向きの映像でも、曖昧な映像でもなく、そこらの大通りの並木やなんかでみられそうな風景だし、鮮明な映像ですが、なんとも不穏なものを予感させるような非常に魅力的な映像です。
登場人物ではツツモタセの女の子が素晴らしい。最初にカメラマンの男の子が援けるときの、やばい事件の現場から逃げ出してきて物陰に隠れて顔を出すときの彼女の表情もとてもいいけれど、その男の子とガランとした部屋でちょっとはすかい位置で向き合って、微妙な光と影の空間で言葉を交わすシーンも構図といい光と影の具合といい、色合いといい、なんでもない室内空間の映像なのにすごく魅力的。
それから彼女が、ホテルへ連れ込んだ男の金を男がシャワーを浴びる間に盗んでいてみつかり、男がバンドで暴力をふるおうかという直前、みずから脱兎のごとく男の身体に飛び込んで行って脚に隠し持ったナイフで刺す。このシーンからすべてが劇的に動き出すような感じで、その転調がすごい。それまで比較的スローテンポで大したことも起きず、日常的な行き違いやそこで溜まってくる鬱積が潜在化して積み重ねられる感じはあるけれど、あの場面を契機に一人一人の心に潜む暴力的なものが一気に表に噴き出してくるような印象で、細い糸でつながっているけれども何の関係もない個人、家庭が、それぞれに破綻し、大小の爆発を起こして崩壊していく姿を、とてもスタイリッシュな映像で見せてくれます。
ゴールデンスランバー(ノ・ドンソク監督) 2018
出町座で見てきました。日本映画のリメイクとしての韓国版ゴールデンスランバーです。
原作は伊坂幸太郎で、好きな作家なので初版で読んでいますが、オリジナル日本版の映画「ゴールデンスランバー」のほうは見ていません。だから比較はできなくて、この韓国版は独立した作品としてどうだったか、という印象だけです。原作については読んで面白かったことだけは覚えているけれど、何度も書いているように私はひどく記憶力が乏しいので、細部どころか主要なストーリーさえほとんど覚えていまえん。(だから間違えて前に見たビデオを借りて来ては、まるで初めて見るように楽しむことができるという特技の持ち主です。)
日本版の映画は、出演者リストを見て予想したとおり、とても評判が良かったようですね。いずれそちらも見てみたいと思います。
今回観た韓国版も、私はとても楽しめました。展開が中身のせいもあるでしょうがとてもスピーディーで、見せ場もいっぱいあって、どうなるんだろう、とハラハラしながら追っかけているうちに1時間48分はあっという間に終わってしまいました。後味も悪くなかった。
日本版の堺さんはきっと良かったに違いありませんが、こちらのキム・ゴムを演じたカン・ドンウォンもまじめで気が弱そうで人が好さそうな、みんなに愛されそうな主人公のキャラにぴったりの俳優さんで、好演していたと思います。
原作もうろ覚えの上、日本版の映画を見ていないので、ほんとは何ともいえないのですが、暗殺される要人は首相とか日本の要人よりもやっぱり韓国の「大統領候補」のほうがふさわしそうだし、国家情報院だったか、要は国家のインテリジェンスを担う厚い秘密のヴェールに覆われたような機関なども、ちょっと日本では少なくともいまのところ空想的に思えて、内閣情報室とか警察の狙撃部隊とか、自衛隊の秘密部隊(そんなのがあるかどうか知りませんが・・笑)とか言ったとしても、どうもそれほど迫力がないけれど、韓国ならもろ現実の組織を連想させてリアリティが断然違うし、他国の日本まできて大統領候補の金大中を誘拐して殺害しそうになったその種の機関ですから、「国家のため」なら平気で暗殺くらいしそうです。それゆえ、これくらいの話はほんとに現実にありそうな話で、少なくとも軍事政権のときの韓国だったら「実話にもとづいています」と字幕が入ったって不思議のない国でしょうから、ちょっとした怖さがあります。まあ映画としてもそのへんが迫力を感じさせます。
ただ、敵はともかくとして、味方のほうに元国家情報院のメンバーがついて、決定的に重要な役割を果たす、というのは、私の記憶違いでなければ、原作にはこの種の人物は登場しなかったのではないかと思います。日本版の映画はどうか知りませんが、これはやはり韓国のオリジナルって感じがします。この映画をみたとき、原作はうろ覚えではあるけれど、もっと友達とかいろんな「こちら側」ないしこちらに応援してくれるような人物が色々いたんじゃなかったかな、と思い、そういう人たちが逃亡する主人公を援けるような話だったような気がしています。
だから、ミンという名前でしたか、元国家情報院のメンバーみたいな武器も使いこなし、いかに戦闘するかに精通した味方が頼りないヒーローを援けて代わりにドンパチやってくれるみたいなのは、ちょっと伊坂幸太郎のセンスとは違うんじゃないか、と思いました。
でもまあこれがオリジナルな作品と考えれば、現実的にはそういう人がいないと、強力な国家の暴力装置を挙げての包囲網に太刀打ちはできないでしょうから、伊坂幸太郎流の奇想の楽しい作品というのから、よりリアリズムっぽいテイストの作品にするには、ああいう007的人物というかボーン的人物というか(笑)が必要だったのかもしれません。そのかわりそういうリアリズムを笑い飛ばしたり、奇想で肩透かしをくらわせたり、という伊坂流の楽しさは失われた部分が大きいのではないかと思います。
その代わり、この映画にはたぶん韓国の都会の大通りでドカーンと爆弾が爆発して自動車が高く吹っ飛び、回転して叩きつけられるような華麗なるテロ現場のシーンだとか、迷路みたいな路地を走るオートバイと追っかける車のカーチェイスだとか、日本では警察や消防の許可が得られないだろうような撮影をしたと思われる迫力のあるアクションシーンには見ごたえがあります。冒頭の爆弾の炸裂シーンなどは、ハリソン・フォードの「いまそこにある危機」の冒頭で、やっぱり大都会の大通りで主人公がテロに巻き込まれるあのシーンとなんとなく印象が似ています。
ああいうシーンや元国家情報院メンバーの味方がついた敵との肉弾戦、敵の策謀の裏をかいた反撃といったところを楽しめれば、この作品はけっこう現代的なスピード感を持っているし、お金をかけて撮っているようですから、不満をおぼえることはなさそうで、原作や日本版オリジナルとテイストは違っても、独立したエンターテインメント映画として楽しむことができると思います。
ラストは楽しく綺麗にまとめていたと思います。ここもかすかな記憶にあるなんか余韻を感じた原作とは違ったように思いますが、まあハッピーエンドで良かった良かった、と娯楽作品としてはっきりした結末で、余韻はないかわりに心残りもなく、後味よくおわてくれたと思います。
トラスト・ミー(ハル・ハートリー監督) 1990
この監督の作品を見るのは初めてでしたが、出町座で3本出してくれている中の1本です。
主人公は二人、一人はマリア・コフリン(演じるのはエイドリアン・シェリー)という16歳の、妊娠して高校を中途退学させられたどうしようもないアバズレに見えるような女の子で、父親に口答えばかりしているような子。もう一人は最初彼女とは関係のない、テレビの修理工場らしき現場で働いているエンジニアと思われるマシュー・スローターという男。彼も家族とうまくいっていません。でもマリアと同様彼も父親に妙に従順なところもあるのが面白い。日本の反抗的な息子ならさっさと父親を見捨てて家を出ていきそうですが、いろいろ抗いはしても日常的なことでは父親の言うことを大人しく聴いたりしているところがおかしい。もう父親としての愛情とか母親としての愛情とか、そんなものはどこにもないようにみえて、やっぱり本質的な意味で時間差の性としてつながっている、いわゆるエディプス・コンプレックスなんて言われるようなところでは切れないわけでしょうね。
この作品の面白さの一つは、このマシューの父子関係とマリアの母子関係のちぐはぐさです。
でも結局は家を出ていきます。
彼は修理工場で働いてはいますが、テレビは脳を駄目にするとかで憎んでいるようで、それを作らされていること自体に腹を立てていて、しかもそれに使う基盤に古い欠陥の多かったやつを使っていることで上役に抗議しても無視され、苛立って目の前の修理中のテレビを台から叩き落として無茶苦茶に破壊してしまって辞表をたたきつけてくるといった、社会的に不適応とも思える頑なで偏屈な男。
この二人がそれぞれに行くところもなく仮の宿りみたいに行き着いていた廃屋で、偶然出会い、言葉をかわし、それから時間をかけて次第に心を通わせていくプロセスを描いた作品です。ほかに重要人物としては、マリアのやはり頑固な父親でしたが、映画のまだ冒頭で、マリアを叱りつけて口論になり、マリアが平手打ちをした途端に、倒れて心臓麻痺で急死してしまいます。ここらが面白いところで、私たち観客もびっくりしてしまいます。で、マリアの母親ペグはマリアにお前が殺した、とマリアを責め、召使のように彼女を使い、また家から彼女を追い出したりします。それでマリアはマシューと出会うわけです。
もうひとり、マリアの姉ペグというのがいます。これもあんまりパッとしない女性で、まだ少女っぽいマリアに比べると年上ですから成熟した女性といった感じはあります。母親は、マリアと親しくなって出入りするようになったマシューが姉のペグとくっついてくれないかと期待しています。もちろんマシューはマリーのほうが好きなので、ペグには全然関心を示しません。
マシューはマリーに結婚しようと言い、おなかの赤ん坊も自分たちの子として育てると言います。マリーにはまだ迷いがありますが、マシューの愛情を受け入れます。ただ、この作品では「愛」というのは登場人物の誰も信じていない概念として扱われているようです。主人公のマリアとマシューにしても、二人の間で、愛という言葉でそれぞれの気持ちが語られるのではなく、「尊敬、称賛、信頼」のほうが愛よりもランクが上、みたいなことをマリアが言い、マシューもそれを受け入れるみたいな会話が交わされる場面があります。ラスト近くで、自暴自棄的な行動で自分自身に愛想尽かししているようなマシューが「なぜぼくのことをそんなに我慢してくれる?」とマリアに訊いたときも、「愛しているからよ」とは答えずに、「誰かがそうしないと」というような答え方をします。
誰でもええんかい!?と半畳を入れたくならないわけではないけれど(笑)、どうもこの映画の作り手は、家族も恋愛関係も完膚なきまで崩壊、解体していって、いわゆる家族の愛情とか男女の愛情とか、そういうものがもう信じられなくなったあと、それでも異なる人間どうしが共存して生きていかなくてはならないとしたら、いったいその関りのなかで、どんな出会い方をし、どんなかかわり方をしていけばいいのか、そこに何らかの新しい結びつきが生まれてくる可能性があるとすれば、それはどんなものなのか、というふうな絶望的な状況をくぐったあとの切実な問いかけの果てに、そういうセリフを主人公たちに吐かせているのではないか、という気がします。それはつまり「愛」というものではない、「誰かがそうしないと」というふうな、他者への気がかり、配慮、思いやり、あるいはそういう情緒的な言葉を嫌うなら、高化がそうする必要があるから、という必要性みたいな概念に近いものなのかもしれません。
二人が出会って間もなく、マリアが互いに信頼しあえるかを確かめる、という趣旨で、高い位置に直立した姿勢から、真後ろに倒れ込んで、あわててマシューが抱きとめるシーンがあります。マリアは今度はマシューに同じことをするように求め、マシューは大男だし、痩せてちっぽけなマリアに受け止められるとはとても思えないのでマシューはいやそれは無理だと思うよ、というようなことを言ってためらいますが、マリアは、それこそ"Trust me !”で実行しようとします。まあ実際には別の関心が二人をとらえて話がそれていくので、マシューが後ろ向きに真っ逆さまに倒れ込んでマリアが潰れる(笑)シーンはないのですが・・・でも、このシーンはとても印象的な素敵なシーンでした。
さて、先走っちゃいましたが、話の展開としては、二人がスムーズに結ばれるわけではなくて、ここに、マリアの母親は一計を案じて、マシューに酒の飲み比べをしよう、と言ってマシューにはウィスキーを飲ませ、自分はジンを呑むと称して実は水を飲んでマシューを泥酔させて、長女ペグのベッドに寝かせ、マリアの姉ペグと一つベッドで寝ているシーンをつくり出します。
家に帰ってきて、何も事情を知らないマリアに母親が姉ペグの部屋で何か裁縫の道具だったかをとっておいで、とわざと部屋に行かせて、二人が寝ている姿を見せつけるようにします。
2階へあがって行って、その二人を見たはずのマリアは黙って降りて来て、騒ぎも何も言いません。母親は不思議に思って確かめに2階へいってみると、彼女の思惑どおり、まだマシューとペグは一つベットでだらしなく寝ています。
マリアはおそらく実際には深く傷ついて、自分一人の決意でおなかの子供を降ろしに病院へいって堕胎します。
そんなことはあったけれども、マシューとマリアの絆は失われず、マシューの"Trust me"という言葉を信じてマリアはマシューに抱かれます。ラストはマシューが再び勤務していた修理工場でやっぱり工場のやり方にキレて、父親が朝鮮戦争から持ち帰っていた手榴弾を持ち込んで工場ごと自爆しようという事件を引き起こし、マリアが駆け付けますが、手榴弾は不発・・・と思いきや爆発し、二人は無事でしたがマシューは逮捕されてパトカーに乗せられて去って行き、マリアはマシューがいいねと言っていたメガネをかけてそれを見送る、そこで終わりです。
この言って見れば純愛映画と言えるような、もう中年にさしかかろうという不器用で偏屈な男と、まだ16歳というほとんどとりえがなさそうに見える美人でもカワイコちゃんでもなく、むしろいいかげんなアバズレに見えるような女の子とが、それぞれ自分の欠点もよくよく知っていて、自分にも世界にも大きな期待をしておらず、それぞれ孤独で、深く傷ついているような者どうしが、ふとしたことで知り合い、徐々に心を許し合って、普通の言葉で言えば、「愛」をはぐくんでいきます。
はじめは、とてもこりゃ共感できそうにもない主人公たちだな、と思ってみていましたが、だんだんそうじゃなくなってきて、途中で二人がかなり心を通わせるころになると、アップでとらえられる二人の表情が、とてもなにか人間的に大きな存在のように見えてくるところがあって、見ていて自分で驚きました。
彼らは家族とも職場など周囲の人ともうまくいかず、自分自身も不器用で頑固で偏屈なのはよくわかっていて、そんな自分に深く傷ついているわけです。家族なんてものはもうとっくに崩壊しつくしているし、どこにも拠るべきところはない、それぞれ孤独な身に孤独な魂を抱えて生きているわけです。それが手探りでもうひとつの誠実な魂をさぐりあて、おそるおそる触れていって、そのぬくもりややさしさを感じ取り、確かめていく、といった感じです。
こういう映画を見ると、日本でも森田芳光が「家族ゲーム」で見事に描いたように、家族崩壊はとうの昔に起きた歴史的事実ですが、アメリカの家族はもちろんそれに先駆けて徹底して崩壊しつくして、昔のように100%のものがいまは50になり30%になっちゃったなぁ、というのではなく、とことん解体されてゼロになり、個々バラバラの孤独な一人一人にまでなって、マイナス30, マイナス50 くらいまでゼロ水準から針が下まで下がってしまったかたちで、虚像のような家族の形をつくっているだけの状態だろうという感じですが、マシューやマリアは、そういうところから、また一つ、二つと要素を取り集め、バラバラの孤独な魂をつなげて、なんとかこれまでとは違った形で、絆らしいものを自らの魂ともうひとつの魂との間に見出していこうとしているかのようです。
たぶんそれが、もしそんなものが可能だとすれば、新しい家族の形を見出していくかもしれない可能性への手探りであるかもしれない、と思わずにはいられませんでした。
アンビリーバブルトゥルース(ハル・ハートリー監督) 1989
「トラスト・ミー」のあとで出町座で見たのですが、ハートリー監督の最初の長編はこちらのようです。冒頭、刑務所帰りの青年ジョシュが畑の光景が広がるような自動車道でヒッチハイクするシーンから始まります。
子どもを後ろの座席に乗せていて、助手席に乗り込んだジョシュに、運転の男が彼の風采を見て、「神父か?」と訊きますが、修理工だと答え、どこから来た? どこどこから。そのどこだ?と次々きかれると隠そうという様子もなく淡々と「刑務所」・・・で、車を降ろされてまたヒッチハイク・・・出だしからユーモラスで、映像も素敵で、期待させてくれます。
このジョシュはロバート・バークという男優が演じていますが、なんか若いころのカーク・ダグラスをもっと都会的にスマートにしたような風貌で、なかなかいいです。でもその服装、風采から、色んな初対面の人に「神父か?」と言われ、殺人犯で刑務所を出て来たばかりの男がみんなに神父か?と訊かれるギャップが笑えます。
彼は自分の恋人を自分の飲酒運転か何かで事故死させてしまい、その後謝罪に行った父親ともめて階段から突き落として殺してしまったという殺人の罪で服役したのち、刑期を終えて故郷のニューヨーク郊外の住宅地(リンデンハースト)へ帰ってきたところで、彼の姿を見た、彼が「殺した」恋人の妹パール(とっても綺麗な人です)は驚きのあまり失神します。実はかなりあとでパールの言葉によって明らかになるのですが、ジョシュが恋人の父親を階段から突き落として殺したというのはまったくの冤罪で、驚いた父親が後ずさりして階段から落ちて事故死したので、それを幼いパールは目撃していたのですが、姉を殺したジョシュへの憎しみもあって証言しなかったのだ、ということがわかります。
それは後日判ることで、当面は殺人の汚名を背負った男が帰ってきて、自動車修理店で働き始めます。経営者のおやじヴィク(クリストファー・クック。好演です)は刑務所帰りのジョシュの雇用に消極的でしたが、たった一人の雇い人の腕が悪くて人が必要なところへもってきて、このジョシュは刑務所で習ったという修理工としての腕が抜群に良かったので、最初は渋々ながら雇います。
ところがこのジョシュがヴィクの娘で17歳のオードリー(エイドリアン・シェリー)と親しくなっていき、ヴィクはジョシュに、娘には近づくなと釘をさします。オードリーは愛読書らしい「The End of the World」をいつも読んでいて、近いうちに世界は核戦争や環境破壊で滅亡する、とどうも半ば本気で信じているらしく、始終そういうことを言っています。
オードリーの父親ヴィクはオードリーを大学のコミュニケーション学科みたいなところへ行かせたいと思っていますが、オードリーは行くなら文学部がいいと譲らず、いつの間にかハーヴァード大学に合格した、というのですから驚き。こんな蓮っ葉なオカルト娘みたいな子が行けるんかな?(笑)
でもオードリーは殆ど大学へ行く気などなくて、アルバイトの雑誌モデルで日に1000ドル稼ぐようになり、やがてもっと稼ぐプロのグラビアモデルとして成功して、ニューヨーク(だったかな)のマンションに移り住んで、父親のもとを離れます。
彼女が出ていく前、ジョシュが食堂(飲み屋だったか?)のウィとレスのお姉さんとかわす会話がすごく面白い。 女性の方はイケメンの彼に気があるようで、ちょっと誘いかけるように声をかけます。
「必要なんでしょ?」
「何だって?」
「女が・・」
「は?」
「あの子はイカレテるわ」
「知ってる。だけど好きなんだ」
「でも町を出ていくって・・」
「らしいな」
「どうするの?‥必要なんでしょ?」
「何だって」
・・・・・
これが循環する録音テープのように3-4回繰り返されます(笑)。
まあこんな風に笑えるところもいっぱいあって楽しい映画です。オードリーの母親がヴィクには内緒でオードリーのニューヨークでの住所をこっそり教えたり、オードリーには近づくな、と言っていた父親ヴィクもまたジョシュをニューヨークへ行ってこいとけしかけて金を渡してやったりで、ジョシュがオードリーのマンションの前まで行くと、車で帰ってきたオードリーが男とマンションへ入っていきます。苛立ちながら待っていたジョシュですが、そのうちしびれを切らせて、オードリーに借りていた愛読書を放り投げて彼女の住む部屋の窓ガラスにぶつけて割ると、去っていきます。
オードリーと部屋にいた男は彼女に迫っていたけれど彼女の方は気がなくて拒絶していたところで、投げ入れられた本をみてジョシュが来たことを知り、急いで追っかけていきます。
・・・まあそんな風に、恋人や父親を殺してしまったという心の傷と負い目を持った男と、父親との確執の中で家族とも折り合い悪く、自分なりの生き方を模索していた若い娘とが出会って心を通わせ、愛し合うようになって、それが本来のあるべき自分を見出していくこととパラレルになっているような純愛物語です。
ジョシュもオードリーもヴィクも頑固な、或る意味で偏屈な人間ですが、彼らも含めてこの映画には悪人はいません。それぞれの思いから行き違いやぶつかり合いも起きるけれど、或る意味でみんないい人間ばかりで、それぞれが妥協はしないけれど、相手のことを想いやりながら自分の生き方をつらぬいていこうというような人間です。映画の作り手の人間を見るまなざしが温かいなという印象です。
saysei at 14:25|Permalink│Comments(0)│
2019年02月11日
手当たり次第に XXXⅣ ~ここ二、三日みた映画
出町座の上映作品は私など半世紀遅れて来た映画観客みたいな人間には、名前さえ知らなかったような監督の作品や、名前だけ聞いたことはあってもはじめて見るような作品がいっぱいあって新鮮だし、文化博物館へ行くと一昨日だったかもそうでしたが、客席はみごとに70代~80代のほとんど後期高齢者といった感じで若者は一人もいないような状態(笑)で、なつかしの日本映画が見られて、それはそれで、おうこんなに見ごたえのある映画が作られていたんだな、とか、いまみるとほんとに古臭くなってしまったな、とかそれなりに愉しめます。
でもいずれにせよ、受動的に上映される作品を受け止めるだけなので、そういうのから触発されて、同じ監督の作品をレンタルビデオを借りたり、自分でちょっと付け足してDVDを買ってみたりして、少しこの手の作品をつづけて見てみようかな、と思うことがあります。「手当たり次第に」を少しだけ「手当たり次第」から似たような石を見つけてひろっていくみたいな(笑)。
映画ファンならもちろん若いころに見ているような著名な作品ばかりですが、映画ファンがそういった作品群をみて映画ファンになったような作品を若いころほとんど見ていなくて、映画史的な関心以外のきっかけでたまたま一つ二つ見ている作品もある、という程度なので、逆にいま初めて見るそれらの作品を新鮮な気持ちで楽しめるところもあります。きょうもそんな中から、忘れないうちに走り書きの感想です。いきなりSNSに書き込んでいくので、いつも誤字脱字だけあとで読み直す機会があれば直すようにはしていますが、御見苦しい点、ご容赦を。
(「ここ二、三日」で書くつもりが、老々介護に家族のお誕生日会やら共同庭の掃除やら、出町座、文博館通いやらしているうち、あっという間に1週間はすぐ過ぎ去ってしまい、「ここ1週間」とか「ここ10日間」にタイトルをあらためないといけないほどになってしまいますが、まぁこのまま続けることにします・・・)
獅子座(エリック・ロメール監督) 1959
フランスのヌーヴェル・バーグと言われた作品群のひとつで、エリック・ロメールの長編デビュー作だそうで、古いモノクロ映画ですが、いまみても主人公が落ちぶれて、眩い陽射しの降り注ぐパリの石畳をフラフラになってさまよう姿をしつこく追っかけるこだわりようが、とても面白くて、楽しめました。
パリに住んでいるけれど、アメリカ生まれの、いかにもアメリカ人らしい、調子がよくて、考えも行動も粗雑で、行き当たりばったり、とても音楽家とは思えないほどまるで繊細さとは無縁の、無神経で無鉄砲な38歳の作曲家ピエールは、6月22日、富豪の伯母が死んで莫大な遺産を従兄と共に受け継ぐことになったという電報を受け取って、すぐに親友のジャン=フランソワをはじめとする友人・知人、その場に居合わせる誰彼とはなしに声をかけ、自分のマンションの部屋に招いてどんちゃん騒ぎ。俺は獅子座の男、俺の星は金星だ、と夜の11時に部屋から金星めがけて銃をぶっ放したりするような男です。
ところがその後伯母の遺言がみつかって、遺産はすべて従兄が継ぎ、ピエールはまったくもらえないことが判明。もともとルーズな暮らし方をしていたピエールは、どんちゃん騒ぎの費用も借金だし、家賃も滞納して払えず、家主から追い出され、ホテルもその日の代金も前払いできない状態で、締め出されて泊まるところもない状態になってしまいます。
裕福な友人たちに助けを求めようとしますが、ちょうど夏の休暇シーズンに入って、みなパリを離れていたりして、連絡もつきません。7月の末には、露店の古本屋に本を売ってようやく食事にありついたり、仕事を紹介されたところへ電車賃もないので郊外へ歩いていったところが相手は不在であったり、腹を空かして捨てられた食材を拾って食べたり、河を流れてきた食べ物らしき袋を拾って食べようとしたり、とうとう万引きまでして殴られたり、子どもづれの夫人がベンチに置いてちょっと離れたすきに失敬しようとしたり、というところまで落ちぶれ、腹ペコだし夏の日差しの中を、底のはがれた靴で歩き回って疲れ果て、セーヌ川のほとりでへたり込んでしまいます。
そんな彼に食べ物をめぐんでくれて、仲間にしてくれたのは、ベビーカーを押して街を歩いては街頭やレストランのウィンドウ越しに道化芸をみせて笑いをとっては小銭を恵んでもらうお乞食さんの男。ピエールは彼と行動を共にし、ベビーカーに乗ってパリの街を彷徨する身です。
8月22日、休暇シーズンが終わり、友人たちがパリに戻ってきます。親友だったジャン=フランソワは同じ友人仲間だったフィリップから、ピエールが無一文になって助けを求めてきたが断ったという話を聞きますが、誰もピエールの行方を知りません。
ところが、そんなとき、莫大な遺産を受け継ぐはずだったピエールの従兄が自動車事故で亡くなり、ピエールに再びその遺産が転がり込むことになったという新聞記事が出て、ピエールのもとの住まいを訪ねていたジャン=フランソワは彼宛てに届いた公証人からの通知を手にして彼を探そうとしますが杳として行方が知れません。
いつものように或るレストランのウィンドウの外で、中の客に向けて道化をして小銭稼ぎをしていた浮浪者のいまでは相棒のピエールが、レストランの中で演奏していたヴァイオリニストの楽器を貸せと言って、自分がひきはじめます。そこへ入って来たジャン=フランソワが演奏する男を見て、それがピエールのなれの果ての姿であることに気づいて、ようやく再会を果たします。
今度こそ本当に自分が莫大な遺産を継ぐことを知らされたピエールは、「みんなうちへ来いよ!」と友人の車に乗って去っていく、という皮肉なハッピーエンド(笑)。
この作品の見どころはどこか。最初は粗雑なやつだけれど、裕福な友人・知人のサークルとおつきあいもある普通の身なりをしたいちおう作曲や演奏の才能もある中年紳士としての体裁を保っていたピエールが、たまたま遺産が転がり込む話でどんちゃん騒ぎをしたのをきっかけに、その話がパアになって無一文になったとたんに、急速に転落の道をたどっていく姿が、文字通り彼の衣服や靴の状態や髭づら、空腹、疲労の表情等々の変化として克明にたどられ、友人の助けを求め、仕事を求め、宿をもとめ、食べ物を求めて、夏の日差しの照り付けるパリの街を歩き回る、孤独でみじめな姿を延々と撮っていく、それに従って当然彼が歩き回るパリの街の姿もまたとらえられていく、そこにこの映画のみどころがあります。
そのパリはピエールがしばしば訪れるセーヌ川も、彼が対岸に仰ぎ見るノートルダム寺院も、石畳の街並みも、ピエールがへたり込んだり、子供や婦人たちが憩う公園や川辺の木陰のベンチなど、何気ない光景も美しい。でもピエールはその街を空腹と疲労に倒れそうになって歩き回りながら、「汚い街だ!猥雑な街だ!」と街を呪詛する言葉を吐きます。彼が落ちぶれていくと同時に、彼にとって、彼が馴染んできたパリの街はどんどんよそよそしいものになり、いわば他人化して、汚い、猥雑な、へどの出るような街に変わっていってしまいます。
でもそれはあくまでもピエールにとって、であって、私たち観客にとっては、どんどん汚く、猥雑になっていくのはピエールのほうなので、そういう彼が徘徊するパリの街はとても美しく、ただ夏の日差しだけがやや強すぎて、ピエールにはきついだろうな、という印象を与え、かつ暑い日差しのパリが印象づけられます。
実際、どんどん汚らしくなっていくピエールですが、家賃を滞納して信用を失ったマンションやホテル、あるいは万引きした店の店主はともかくも、公園のベンチで語り合う女性たちと同じベンチに腰かけても避けられる様子もなく、また母親らしい婦人と子供が遊ぶ河畔のベンチに腰かけていても、警戒されるふうもありません。そして、彼が上着を逆さにして転がり出た小銭で、辛うじて6フランを手にし、パン屋で6フランでバケットを、と言ったら店員の女性は9フランのバケットを持ってきて、6フランしかない、と言うと、6フランでいいわ、とそのパンを渡してくれるのです。また、浮浪者としてレストランの客に向けて道化のまねごとをして小銭を恵んでもらう乞食に対する客たちの態度も、決して見ていて苛立たしいものではなく、むしろ穏やかな寛容を示すものでしかありません。
こんなふうにパリの人々も、落ちぶれた彼に対して、避けたり嫌ったりするわけでもなく、とくに都会だからといって冷たい人々にもみえない、むしろ温かいところをみせる、ごくふつうの街の人々でしかありません。
にも関わらず、ピエールはこの街に呪詛のつぶやきを履き続けるので、そのこと自体がピエールがどんどん落ちていく姿、自業自得で尾羽打ち枯らした彼がこの街から拒まれているように感じていくこと、自分でパリの街を他人化して、その美しさや温かさから疎隔されていくありようを示しているようで、印象に残りました。
バーニング(イ・チャンドン監督) 2018
村上春樹の短編「納屋を焼く」の映画化だというので、期待して見に行きました。珍しく京都シネマで(笑)。私のとっている新聞、朝日でも日経でも、この作品をそれだけで取り上げて比較的好意的な評価をしていました。でも、私はこれは原作とは全然違う作品だな、と思いました。
もちろん話の構成は、少なくとも結末以外は原作の構成をそのまま借りたことは一目瞭然だし、登場人物の、たとえばミカンの皮むきのパントマイムみたいな独創的なシーンやそこでのセリフまでそっくりそのまま使っているから、原作の映画化というのは形としてはそのとおりです。
しかし、この映画は小説で言えば純文学というよりエンターテインメントであるジャンル小説としての推理小説、犯罪小説に属するものなんだろうと思います。
村上春樹の作品では、もちろんこの映画のような結末のシーンはありませんし、それだけではなくて、そういう結末を暗示したり、実はこうだったんですよ、というようなことを匂わせたり、方向づけたりするような要素は私の記憶する限りは無かったと思います。文字通り、彼女はふっつりといなくなるし、納屋が「わたし」の綿密な調査では焼かれていないはずなのに、男がもう焼いた、というのも、「わたし」にとっても、読者にとっても謎のまま残されていたと思います。
謎が謎として残されるのは、作者にはちゃんと明確な結末があって、そこをわざと隠蔽し、省略し、曖昧にしている、ということとは全く別のことだと思います。もしもそうであるならば、この映画のように、無数の暗示させる(実際には顕在化させている)伏線的要素をあらかじめ作品のうちに散りばめて、その物語の内的な運動が指し示すゴールに向かう必然性をかならずや与えるはずで、作品のうちに書かれていないものによってその作品を語ることはできません。
この映画作品では、村上春樹の「原作」とは全く異なって、映画の作り手には、最初からこれは男ベンが女へミを殺す、作品自体には明示的映像として現れはしないけれど、物語の見えない着地点が明確に見えていて、その着地点だけは見せないけれども、あらゆる明示的な要素がその見えない着地点へ向かうベクトルになるように作品自体が作られています。
語り手が「原作」のように既に名の知られた作家で、彼女が旅行先で連れて帰る男のほうが、彼が知られた作家だから興味をもったという若造であるのに対して、映画では語り手のジョンスのほうが頼りない若造で、彼女が連れて帰る男のほうが海千山千の年上の男であるという設定自体も、この作品なりの(「原作」とはまるで異なる)必然性に沿って変更されています。
ベンが色んな国で拾って来たらしい若い女たちを集めたパーティーと、そのパーティーで語る女たちの話にまったく興味がなさそうな顔してあくびばかりしているベンの姿とか、ベンの家のトイレの引き出しにストックされた女たちの数々のアクセサリー、とりわけ最初の出会いのころにジョンスがへミに与えた景品のピンクのバンドのついた安物の腕時計とか、ジョンスがヘミから旅行中の餌やりを頼まれた猫がヘミが消えたあとベンのところにいて、逃げたのを探していて、ジョンスがヘミのつけた猫の名を呼ぶとすり寄ってきて、ベンは自分が拾ってきた猫だと嘘を言っていたがまさにそれはヘミの飼いネコだったことがわかる場面とか、それこそ、これでもか、これでもか、というくらい「物証」を挙げて、この作品はベンが青髭みたいな若い女性の連続殺人者で、ヘミもその犠牲になったんですよ、ということを語っています。
いや、それは決定的な「証拠」にはならないよ、というのは、現実の裁判の証拠と混同しているからであって、そりゃ退屈な話にあくびくらいするさ、アクセサリーは別に殺した女から奪ったわけじゃなくてプレゼント用のストックさ、ピンクのバンドの安物の景品時計なんか類似商品がいくらでもあるさ、猫が自分の名を呼ばれたからって理解している、って生物学的に厳密に立証できるのか?とか(笑)いくらでも弁護人は反論できますからね。
でも映画の映像として先に挙げたような場面を出すということは、映画的には明白な「証拠」でなくてはなりません。そうでなければ逆に、なぜそういう場面があるのか、まったく意味のない、たんに観客を混乱させ、惑わせるためだけのお遊びで、それこそ支離滅裂なC級映画になってしまいます。この映画ではそれらの要素がみな同じ方位を指すベクトルをもっているので、たとえ監督さんが、いや俺の意図はそうじゃなかったんだけどなぁ、なんて無責任なことを言ったとしても(笑)、作品自体がそれを示しているのだから、そういう見方しかできないようになっています。小説であれ映画であれ、作品として作って不特定多数の他者の前に公開してしまえば、もはや作り手の「意図」などに還元してしまうことはできません。
中学生のころ現代国語の時間に、志賀直哉の短編など教科書に載っているのを読んで、この部分はどういう意味か?と解釈させられることがよくあった折に、先生の解釈が疑問で、そんなこと作者が生きていたら訊けば分かるじゃないか、と不満に思っていたことがあったけれど、そのときは深くも考えずにいました。大学へ入りたてのころ、武谷光男がニールス・ボーアの相補性原理を批判して、すぐれた理論物理学者もしばしば自分のやっていることを間違った解釈で語る、と書いていたのを、なるほどなぁと思って読んだ覚えがあり、芸術家が自分の作品を語るときも同じなんだろうな、と思ったり、マルクスがどこでだったか忘れたけれど、歴史を生きている渦中にある人間にはその歴史的意味を理解することは困難(あるいは不可能)だ、という意味のことを書いているのを読んで、あれも同じことを言っているんだろうな、と考えたりしていたことがありました。いまも私のものの見方の根幹を作っていることの一つです。
これも何十年か前に、テレビドラマで、そのころ人気のあった若い女優さんが、ふだんは清楚で従順なお嬢さんにしか見えないけれども、親に隠れて援助交際で男とひそかにつきあい、或る時は友達の家に泊まると言って、ひそかに男とハワイだかグアムだかへ行ってくるくるような日常を送っている女子高生を演じたことがあります。
母親が娘の引き出しにその証拠を見つけて問いつめ、こんなことをして自分がどうなるか、将来どうなるか、と嘆き、責める場面で、娘が母親の一般的な道徳律による裁断に対して、そんな先のことどうなるか分からないじゃないの、というように抗うと、母親が、あんたも大人になったらわかるわよ、とか、私の歳になればわかるわ、とか、もう少し生きて見たらわかるわよ、というような意味のことを言うのです。それに対して娘が返した言葉が「生きてみなきゃわからないじゃないの!」でした。このセリフにまだ若かった私はいたく感動したものです。
この娘にとっては、いま幼いかもしれない、無知かもしれないけれど、自分の感性と身体を挙げて、リスクを負って、全力で自分自身の生を生きていくことでしか、なぜ生きなくてはならないのか、なぜあれをしてはいけない、これはいいのか、どんな些細なことも自分自身で本当に心の底から納得して生きることはできないじゃないか、ということでしょう。そうでなければ、いつも親や先生や世間が外部から与えられる規範に従って生きるしかないし、それは自分の人生じゃないよ!というのが、その少女の言いたいことだったでしょう。
人は生きて見なければ生きるとはどういうことか分からないし、生きている渦中にあるとき、人は地べたを這う蟻のように生きることはできても、その生の意味を鳥のような目で俯瞰してとらえることはできない・・・矛盾するようでもあり、結局人生不可解みたいなことになってしまいそうですが(笑)、でも私が色んなことを考える上で、こんなものの見方が基本になっているように感じます。さて、閑話休題。話をこの映画に戻しましょう(笑)。
「原作」とは違って、この映画では、納屋ならぬ「ビニールハウス」を焼くことが、殺人のメタファーになっていることはあきらかですが、それは他のあらゆる要素のベクトルが示すとおり、ベンが殺人者だからこそ、明確にその言葉が殺人のメタファーだと言えるのだと思います。
この作品の結末部分には、韓国社会の階級的格差みたいなものとそれに対する怒りの爆発というようなことを感じさせるところがあります。ベンという男は単なる殺人者というだけでなく、貿易関係の仕事をしているとかいうけれど、なにか汗水たらして働いているようには見えないくせに高級マンションで女たちと享楽の日々を過ごし、世界を旅行してまわり、外車を乗り回しているような有閑階級らしいし、語り手のジョンスのほうは貧しい出身のようです。
また、ジョンスの父子関係も結末に至る成り行きの背景として暗示されています。一度だけあらわれるビニールハウスが焼かれる炎を少年がみつめるシーンは、ビニールハウスに火をつけるベンではなくて、ジョンスの幼いころの悪夢だったと思います。ジョンスの父親は暴力事件で裁判中で最終的に有罪の判決を受ける、という話の本筋と一件無関係な話が出てきますが、ジョンスがこの父親の暴力の血筋を引いている、ということでしょうし、それがラストシーンにつながっています。それは階級的な差別に抗う者の怒りの爆発としての暴力なのでしょう。
そういう意味では、この作品は村上春樹の「納屋を焼く」からストーリー、プロット、セリフなどみな借りているけれども、本質的にはその「原作」とは似ても似つかぬものを目指していて、むしろフォークナーの ”Barn burning" と相通じるものがあるように思います。フォークナーのこの短編はもちろんストーリーはまったく今回の物語とは関係がありませんが、やっぱり自分の敵とみなした農家の納屋に放火して燃やしてしまって息子にも世の中には敵か味方かしかいないんだみたいなめちゃくちゃな理屈で裁判官の前で嘘をつかせるような男が登場して、息子も父の暴力的な性格を恐れているような小説でしたから、父子関係や暴力が主題として通じるところがあるように感じます。
この映画の英語のタイトルがたしか"Barn burning"でしたから、フォークナーの短編と同じです。村上春樹の「納屋を焼く」のほうも英訳はそうだから、それでどうこう、というわけではありませんが・・・そして、もともと村上春樹の短編自体が、フォークナーの作品から或る示唆というか刺激を受けて、まったく別の形で成立したものかもしれません。作家のエッセイとか証言で確かめているわけではないから単なる思いつきの想像ですが、こういうタイトルをつけてフォークナーの結構有名な短編を意識していないはずはない、と思うからです。そう考えれば村上春樹の「原作」も、納屋を焼くことに、得体のしれない暴力的なもののイメージを込めたのかもしれません。
でも、それは百歩譲ってそうだとしても、この映画の解釈(それが原作の「解釈」だとして見たときに)のように、殺人の意図をあらわにした殺人者による殺人ではないでしょう。それは作中の青年の言葉にあったように、焼かれるのを待っている存在、ということのほうに力点があるような、それを消滅させてしまう力ということになるでしょう。或いはそういうものを村上春樹の「原作」は暗示しているかもしれません。そこまで抽象度を高くすれば、それは可能な解釈だと思います。それなら、村上春樹の短編はこの映画のおどろおどろしい場面よりも、ずっと怖いです。
ところで、この映画には美しい場面がいくつもあります。ヘミが半裸でダンスする場面がその中でもとりわけ素敵でした。
ジョンスを演じたユ・アインは、「六龍が飛ぶ」でしたか、テレビの韓流史劇の第五王子の役で、父に事実上の謀反をして幼い弟らを斬り殺す、板挟みの心情を見事な表情の演技で感心させた若手俳優ですが、この「バーニング」では、いつも少し口をあけた、あまり鋭敏な回転の速い青年ではなく、実は心中深くには父親から受け継いだ暴力性や屈折した田舎者の心情、性格を秘めているのでしょうが、物語の中では主として、ヘミやベンに翻弄され続ける、少し頭の硬いうすぼんやりした青年を演じているので、表情も豊かとはいえず、その演技派ぶりを十分に引き出す機会を与えられていないように思いました。
美しき諍い女(ジャック・リヴェット監督) 1991
これはDVDで見たのですが、素晴らしい映画でした。ほぼ4時間の長尺ですが、全然飽きることがありませんでした。それは別に「無修正」(こういうことをこんな映画についてでも言わなくてはならないんですかね・・・笑)のエマニュエル・べアールの肢体のせいではありません。
この作品はバルザックの短編「知られざる傑作」を原作としていますが、原作では描かれない、老画家の画業が逐一映像化されて目の前に展開される、そこが見どころです。
完成した「美しき諍い女」という老画家の畢生の大作はついに私たち観客が見ることができません。その点は原作と同じですが、それを描くために、一番最初の、ペンにインクをつけて画帳にガリガリとどちらかと言えば不快な擦過音を聴かせながら荒っぽく描いていく線画や指にインクをつけて塗りつけたりぼかしたりする手法から、デッサン用木炭で大きなキャンバスに描いていく、それから絵具をつけた絵筆で描いていく、そういう過程を丁寧に全部手元で見せてくれます。それがプロの画家の手で見せてくれているらしくて、ざっくり描いていくのですが、見事なもので、なんだか素人には魔法のように思えるほどです。
肝心のモデルであるマリアンヌのほうは、たしかに終始「無修正」の全裸をさらしているけれど、全然セクシーでもエロティックでもありません。むしろ結構がっしりとした体つきだなぁ、逞しい身体だなぁ、なんて思うけれど、いわゆる色気はないのです。なぜかというと、それは徹底的に老画家の目にあわせて映像自体が、この女性を客体としてのモデルとしてしかみていないからです。オブジェ、絵を描かれる対象としての物体でしかないのです。最初から画家の中にあるエロティシズムの観念なり情欲なりのフィルターで見るのではなくて、まったく客観的にそこに存在するオブジェでしかないものを描きとる中で、そのオブジェがほんとうは一個の人間としてか女性としてか生きた存在として持っている内面が立ち現れてくる。それまではただ外観を見ても、そこにオブジェとしての身体があるだけ、ということになるでしょうか。
この画家の視線≒観客の視線と描かれるオブジェとしてのマリアンヌという女性との関係、その変貌と最終的な「美しき諍い女」という生きた「血の通う」創造物にいたる過程が、この映画で描かれる内容だと言ってもいいでしょう。
もちろん「知られざる傑作」を原作とする物語の結構はちゃんと備えています。かつては、いま妻となっているリズという女性をモデルとして同じタイトルの作品を命がけで描こうとしたけれども、それを完成させずに放棄し、もう描く気力も失せていた老画家フレンホーフェルが、自分を畏敬する若い画家二コラが女友達マリアンヌを伴って訪れたとき、画商にも勧められて、この女性をモデルにすればもう一度あの絵を描いて完成させることができるかもしれない、と思うようになり、まず二コラに話したところ、完成した絵が見たい二コラは勝手に了承してしまいます。
そのことをマリアンヌに話すと、彼女は裸体モデルでしょう、勝手にそんなこと決めて!と怒り、拒む姿勢を見せますが、翌朝になると二コラには告げずに自分で老画家を訪ねて、モデルを了承します。
そこから延々と老画家の彼女をモデルとする創作の過程が描写されます。そのプロセスが最大のみどころで、実にテンションの高い場面の連続です。二コラは自分がOKしたことを後悔し、また、老画家の妻リズは最初は歓迎するかのようにマリアンヌを励まし、助言し、温かく接しますが、次第に嫉妬なのかどうか、自分の過去と絡んで複雑な心理を見せるようになります。
老画家が絵には生きた人間と同じように血が通い生命が宿るのだと考えて、そういう作品をほとんど苦行僧のようにほかのすべてを忘れてめざしているのに対して、彼の妻リズが生命を奪われ血を抜かる鳥の剥製を作っているのは不気味です。
でも別段異常なことが起きるわけではありません。カメラはリズやニコのやきもきするのとは別に、ひたすら「美しき諍い女」の完成を目指して自分に残された全エネルギーを注ぎこもうとする天才老画家と、その厳しい要求に反発も覚えながらも従順に従い、だんだんと難しいアクロバット的なポーズにも耐えていくマリアンヌとの行き詰るような、描くものと描かれるものとの対峙する姿をとらえていきます。
老画家は、マリアンヌに様々なポーズをとらせ、彼女が内面で葛藤しながらその指示に従っていく過程で、マリアンヌを単に肉体の表面において裸にしているだけではなく、その内面をもあらわにし、いわば精神の衣に隠れている精神の裸体を引きずり出すようにしていくようです。
けれども、先にダウンしかかるのは老齢の画家のほうです。もうだめだ、自分には完成できない、というところまで彼は自分を追い詰め、追い詰められていきます。けれども、ちょうどそれと入れ替わるように、それまでは受け身に彼の指示に従い、内面で葛藤しながらも乗り越えてその指示に従い、難しいポーズに身を任せて、内面を少しずつ露わにしてきていたマリアンヌの方が、今度は逆に画家に対して、逃げ出すな、と叱咤し、自分で積極的に敷物を敷いてその上に自分の内面を露出するポーズをとって彼を促します。そうしてまたひたすら二人の行き詰るような対峙、描き、描かれる中で二つの魂が火花を散らして融合して一つの作品へと結実していくようなプロセスが、今度はややテンポを速めて描かれます。
もちろん夜は眠り、食事もするわけですから、その間にマリアンヌはニコと語り、リズは夫と語り、不安を投げかけたり、励ましたり、過去が明らかになったり、いろいろありますが、それはまぁいいでしょう。
ずっとこの老画家がなぜリズを描いて「美しき諍い女」を完成させることができなかったのかが謎でした。マリアンヌが問うたとき、老画家は、「描くよりもまず寝たいと思った」「恐怖を感じた」というふうな言葉で答えていたと思います。じゃなぜやめたの?というマリアンヌに、画家は「どちらかが破滅するから」というような答を返していたと思います。答自体がマリアンヌあるいは観客に対する謎かけのようですが、最後まで見ると、この画家の答は正直で、正確だったんだな、と感じます。
「描くよりもまず寝たいと思った」というのは、リズに関してはモデルつまりオブジェとして見るよりも、女性として見る気持ちを消すことができなかった、ということでしょう。彼は女性としてリズを愛していたからです。そして、「恐怖を感じた」というのは、自分の天賦の画才が、マリアンヌの人間性、その内面を醜悪さも暗さもひっくるめて、あらゆる否定性をも裸にしてさらけ出させてしまうことへの恐れだったに違いありません。そのことが最後に絵を完成してマリアンヌがそれを見た時の反応でわかるようになっています。
老画家が妻をもはや愛しておらず、別れたりしていたなら話は早いけれど、いまも二人は愛し合っている夫婦で、二コラが心配したような、老画家が若いマリアンヌに変な気を起こすような気配などはまったくないのです。それは彼がマリアンヌを純粋にモデル≒オブジェとしか見ていないからで、彼の視線は徹底的に「絶対」の芸術を求める芸術家の視線です。
やがて絵が完成します。老画家自身は満足の面持ちで、アトリエでマリアンヌと芸術家として対峙していたときの激しいテンションから解放されて穏やかなゆとりの表情です。
また、老画家の妻であるリズはひそかに夜中に一人、アトリエに来て、完成した作品を見て、「やっぱり・・・」というふうなつぶやきを漏らして、どちらかと言えば安堵したような、満足したような表情でアトリエを出ていきます。
これに対して、そのあと一人でこの絵を見に来たマリアンヌは、自分を描いたこの絵をみて激しい拒否的な反応を示し、アトリエを飛び出していきます。おそらくそこには、マリアンヌが見たくない自分の姿があったのでしょう。
老画家はこの絵の完成度に満足しているので、おそらくこの絵は画家の願いのとおり、完璧にマリアンヌの内面を裸にしてしまい、その姿をあらわに示す、まさに血の通う、生きた絵になっていたのでしょう。しかし、それはきっとマリアンヌの内面の貧しさなり醜さなり、否定性をあらわにしていたに違いありません。私たちはその絵を見ることができなかったのですが、絵を見たマリアンヌの反応がそれを示していました。
老画家はこの絵を永遠に壁の中に封じ込めてしまいます。もう誰もこの絵を見ることはできないのです。
そして老画家はマリアンヌの背中だけの別の絵を仕上げ、それを画商や二コラたちには「美しき諍い女」の絵として披露します。画商はそれに良い値をつけて売る、と言い、若き画家二コラは、失望して老画家に「同情します」と言って、マリアンヌと共に去っていきます。画家は寛容とゆとりとの表情で彼の言葉を受け、見送ります。
老画家の妻リズは老画家に寄り添い、いい絵だったわ、というような肯定的な評価をし、老画家はもう自分のなしとげたことに満足して穏やかな表情で妻に接します。
こうして最後までみて、先の謎、老画家がなぜリズをモデルとして「美しき諍い女」を完成させずに途中で放棄したのかを、観客は正確に知ることになります。老画家は心の底からずっとこの妻リズを愛していたのだな、ということが画面から確認できるので、おそらく描いていくうちに自分の神業のような天賦の画才が目の前の愛する女性の肉体ばかりか、その内面の衣服をもはぎとり、その精神の裸体を、美しさも醜さも、ありのままに、あまりにもありのままにさらけ出してしまうことに気づいて、怖くなったのではないでしょうか。老画家はマリアンヌに、その「怖さ」ということについては語っていたと思います。
リズを愛するからこそ、その内面をも自分の天分が裸にしてさらけださせることに、この画家は耐えられなかったのでしょう。女性としての愛情をもたないマリアンヌだからこそ、彼は最後まで描けたのでしょう。そのことでマリアンヌは傷つくのですが・・・・まぁ彼には二コラという帰っていく場所があったからいいのですが・・・
こんな種類の映画というのは初めて見ました。そして感動しました。少しも古さを感じさせず、いまも芸術を愛する人なら誰もが見て心を動かされる映画だと思います。
あの頃、君を追いかけた(九把刀 = ギデンズ・コー監督) 2011
ギデンズ・コー監督の作品は先日やはり出町座で見た「怪怪怪怪物!」というマンガみたいなとんでもないホラー映画(笑)で懲りて、もう観まいと思っていたのですが、たまたまほかに見るものがなかったので、台湾シリーズをできるだけ見ておきたいと思って、出町座で見てきました。
今回は、見てよかった!と思いました(笑)。この監督さんはどうも文学で言うと純文学作家じゃなくて、そうかといって大人しい大衆迎合の大衆小説作家でもなくて、ちょっと異端狙いの人(笑)じゃないかという気がします。ちょうど韓国のキム・ギドクみたいな(でもキム・ギドクはどんどん純文学作家に近づこうとしているみたいですけど・・・)
だけどこの作品はどうやら自伝的作品らしくて、それほどケレン味が強くなく、素直な青春ラブロマンスになっていて好感が持てました。ただ、この監督さんらしく(と私が勝手に2本みて推測するだけですが)仲間とつるんでいたずらばかりしている少年を主人公にして、ふざけのめすようなところのある作品になっています。そこがとても良くて、映画館がすいていたせいもあって、久しぶりに声を挙げて笑い、大っぴらにハンカチを取り出して泣きました(笑)。
時は1990年代、舞台は台湾中西部の町、彰化の高校。仲間の男子クラスメイトと、いつもつるんでヤンチャばかりして成績は万年下位の男子高校生コートンが主人公で、ヤンチャが過ぎて、彼は教師から、クラスの優等生シェン・チアイ―の前の席に座るように指示され、彼女の監督を受けるはめになります。
シェンは可愛らしい女の子で、コートンの仲間をはじめクラスの男子の憧れの的ですが、彼女自身は勉強ばかりしているような、どちらかと言えばガリ勉タイプの女の子のようです。教師から言われて渋々コートンの世話を焼き、そのうち自分で模擬試験問題まで作ってコートンにやらせ、採点して返すような個人教授的なことまでやるようになります。
はじめは迷惑そうだったコートンが、それでも渋々シェンの言うとおりに従ううち、二人は次第に親密になっていきます。あるとき珍しく教科書を忘れて来たシェンがカバンの中を探して焦っていると、コートンが自分の教科書を彼女の机の上に投げ出して、自分が忘れてきた罰として椅子を頭にのっけて兎跳びを引き受けます。また或る時はクラスでみなから集めた何かのお金が紛失し、犯人捜しのために、警備員みたいなのが、生徒に、怪しいと思うやつの名を書かせようとします。これに反発したシェンが立ち上がって書くことを拒否し、これに動かされたコートンたちも次々に立ち上がって抗い、シェンやコートンをはじめいつものいたずら仲間たちは罰として両手を上げ、腰をかがめて立たされる罰を一緒に受けます。恥だと泣きながら罰を受けているシェンを、コートンはいまの君は誰よりも美しいと言います。
またある時、コートンは自分が本気でやればシェンをも上回る成績をあげることができると豪語し、試験での勝負を申し出て、もし自分が敗けたら坊主になる、そのかわりもしシェンが敗けたら、髪がたをいまの長くおろした髪をあげてポニーテイルにするように迫り、シェンも了承します。勝負の結果は、コートンも善戦しますが、シェンのほうがやはり上回りました。コートンは散髪屋で坊主頭にしてきます。でも、彼が運動場の見物席で仲間と前を通る女子を眺め、ひやかしているとき、親友の女子と並んで通っていくシェンを見ると、勝負に勝ったのに、シェンの髪はポニーテイルに結われています。
このシーンは本当に素敵でした!
こんな小さなエピソードを積み重ねて次第に親しくなっていく二人の爽やかな青春の姿を描く部分は本当に素敵で、笑いもいっぱいあって、心から楽しめます。
互いに愛情を感じるようになり、つきあってはいたけれど、好きな子には何も言えない本質的にはシャイなコートンで、手も握らずうぶで不器用な付き合い方をするうち、進学の時を迎え、頑張ってきた甲斐あってコートンは希望の大学へ進学しますが、試験当日腹痛に見まわれたシェンは志望校を落ち、教育大学のほうに行くことになります。二人は別れていくことになります。
祭りの日、二人は向き合ってスカイランタンに思い思いの願いの言葉を書いて飛ばします。前に、コートンは好きだと伝え、これからもつきあってくれるか、俺が好きか、という意味の問いかけをしていましたが、シェンは明確に答えていませんでした。このランタンを飛ばす前に、シェンはこの場で答えを言おうと思っていて、コートンに答えが聴きたくない?と言います。答えてくれ、と言われたらすぐに彼女は返事をしたでしょう。でもコートンは、いまは答えないでくれ、と言います。彼は自分にまだ自信がなく、彼女の答によっては、もう会うこともできなくなるかもしれない、という恐れが彼にそう言わせるのです。それで、彼女は何も言わないままにランタンを空へ飛ばします。コートンが書いたのは、世界一すごいやつになる、みたいなマンガ的な「願い」でしたが、その裏側にシェンが書いた文字は「好」、いいよ、つきあうよ、というコートンのかつての問いかけへの答だったのです。
このランタン飛ばしは本当にロマンチックな場面で、よく台湾や韓国の映画、ドラマには登場しますね。日本の灯籠流しは死者の霊を弔う意味で川に浮かび流れて、ひっそりと海の方、闇の世界へと消えていく、数は多くても、静かでしんみりとした行事ですが、スカイランタンは垂直に空へ飛んでいくのを上向きに見上げることもあって、軽やかな飛翔感や華麗さがあり、子どもの夢のように心躍るロマンチックな光景です。
その後、何を思ったか、コートンは自分の肉体的な強さをアピールしようとしたのか、大学で喧嘩大会なるものを主催して自らも選手として参加し、シェンが見る前でボコボコにされます。彼女は「幼稚だ」と怒り、彼はその言葉に逆に憤って反発、彼女を置き去りして別れが決定的になります。
ここのところの設定は、いくら何でも少々不自然ではあるけれど、まぁコートンの幼さ、青春の幼い面が出てしまって、彼らの運命をこう変えちゃった、ってことで呑み込んでおくしかないでしょう。
シェンはコートンの悪友の一人でやはりシェンに憧れていた男子とつきあいますが、五カ月ほどで別れ、やがて別の男と結婚します。
お祝いに集まったかつての悪友たちとシェンの親友でクラスメイトだった子。花嫁にキスを、と悪友たちが懇願し、新郎は「花嫁が良ければ」と言い、シェンがいいわと言うと新郎あわてて「ただし、どんなキスの仕方か、まず私にやってみせてから・・・」と言います。その言葉が終わるか終わらぬかにコートンが新郎に飛びついて、その唇にディープキスをして皆が驚く中、新郎を押し倒してキスし続けます。その間、コートンの頭の中ではキスの相手はシェンに変わっていて、それまでのシェンと過ごした日々の思い出の場面が走馬灯のように入れ替わり立ち替わり登場します。
このシーンは泣かずに見れません。こういう回想シーンはもうお決まりの手だと思いつつも泣かされてしまいます。ちょうど「ニューシネマパラダイス」のラストで、映画館で子どもの自分を助手にして可愛がってくれた撮影技師の爺さんが、自分が不道徳だと思ったキスシーンを全部カットしていた、そのフィルムだけを全部つなぎ合わせて一巻のテープにしたのを、いまでは都市へ出て映画監督として成功し、爺さんの葬儀で何十年ぶりかで故郷の街へ帰ってきた彼に、爺さんが彼にと残したテープを見るあのシーンと同じです!自分が爺さんと一緒に映写機にかけたフィルムの一本一本、そのフィルムから切り取られたキスシーンばかりが、次々にスクリーンに映し出される。それを彼がひとりで見るシーンですね。あれを見て泣かない人はいないでしょう。
ほんとうに愉しませてもらった映画でした。物語りが終わり、クレジットが流れたあとに、メイキングのNG場面があって、最後の最後まで笑わせてくれました。
美しきセルジュ(クロード・シャブロル監督) 1999
フランスの田舎町なのでしょう。むこうに高い丘や林が見えカーブする一本道をバスが走ってきて村に入り、一人のちょっとおしゃれな感じの青年が降り立ち、友人が迎えます。どうやら肺結核を病んでいるらしく、夏はスイスで、冬はこの村で静養するように、ということで12年のブランクの後に故郷へ戻って来たらしい。
皮ジャンの背を少しかがめたような姿勢で向こうへ行く男を、「セルジュか?」と懐かしそうに呼び止めます。男は半ば振り返りますが、そのまま向こうを向いて行ってしまいます。迎えに来ていた友人は、その男がへべれけなんだ、と言います。
物語はこの肺病病みのフランソワ・バイヨンと、かつての親友だがいまは義父グロモーといつもつるんで飲んだくれてへべれけになっている村の鼻つまみ者のセルジュとを軸とする、セルジュの妻イヴォンヌ、同居するその妹マリー、そして妻たちの「父親」グロモーらとの間の、人間くさい関係が中心です。
セルジュはすっかり頽落してしまった自分に愛想をつかしていて、なかなかかつての親友フランソワと旧交をあたためようとはせず、避けているふしがあります。フランソワはそうした旧友の姿が気にかかり、積極的にセルジュを訪ね、或る意味でその家庭に幾分か土足で踏み込んでいくようなところがあります。
ネタバレ的にさっさと言ってしまえば、セルジュと妻の関係は、二人の最初の子供が障害が原因の死産だったので、医者は次に生まれる子もそうなると決め込んでいる状況で、それ以来ぎくしゃくしたものがあります。
そして、セルジュは妻イヴォンヌの妹でまだ17歳のマリーと関係して(一度だけとマリーは言いますが)酔っ払った時それを妻にも打ち明けたために、同居しているけれど、三者の間には緊張関係があります。マリーはまだ17歳だけれど、性に関しては既に大人びていて、セルジュによれば「あいつはセックスのことしか頭にない」少女で、フランソワに関心を持ち、近づきます。
その上、マリーの父親ということになっているグロモーですが、亡くなった母が打ち明けたところでは実はマリーの実の父親はほかにいてグロモーではなく、マリーは不倫の子であり、このことはマリー本人を含めてほかの周囲のみんなが知っていてグロモー本人だけ知らない、というわけです。ところが、セルジュの家に出入りしているうちに親しく言葉をかわし、未成年だけれど女性としてのマリーに惹かれていくフランソワは、マリーからグロモーが実の父ではないことを聞かされます。
そして、あるときフランソワは酒場でグロモーにからまれ、「未成年の娘にちょっかいを出すなどけしからん」みたいな言いがかりをつけられたうえ、「父親のこの俺が言うのだぞ」と繰り返しマリーの父親であることを強調し、しまいには「俺はマリーの父親だ、そうだな?」としつこく食い下がるので、フランソワはとうとう「(あんたはマリーの)父親じゃない」とホントウノコトを言い放ってしまいます。
するとグロモーはとたんにその脅迫的な態度が変わり、勝ち誇ったように笑いだして、ほら、とうとうこの男が証拠を見せたぞ、というようなことを言い、マリーから聴いて知ったであろうフランソワの言葉を、自分がマリーの父親ではないらしい、という彼自身が以前から持っていた疑念の確証とみなして、そのことを確信します。そして、その直後にグロモーはセルジュの留守宅へ行き、一人でいた「自分の本当の娘」ではないことを確信したマリーを凌辱します。フランソワは墓場へ逃げるグロモーをつかまえて激しく殴打しますが、後の祭りです。フランソワはセルジュにこのことを伝えますが、セルジュはむしろグロモーの弁明の言葉をなぞるかのように、自分の娘でもない若い女と同居して3年間も我慢したんだ、と同情的な言葉さえ漏らすのでした。
フランソワは村の教会の神父とも親しく何度か話す場面があります。そのつと最初は互いに紳士的に言葉を交わしているけれど、基本的に信仰薄く、教会は村人たちの苦を少しも救おうとしてこなかったし、お説教をして、ただ祈れ、というだけの口ばかりの存在だと考えているフランソワの態度は、話をするうちに漏れ出てしまい、傲慢だと神父の怒りを買います。けれどもフランソワは、じゃ神父は行動するのか?と反問し、自分はセルジュを救いたいのだ、村人を助けるために自分は行動する、と神父と教会に訣別します。
彼は変わり果ててしまった、かつての親友とその一家を、彼の言葉で言えばなんとか「救いたい」と考えて行動し、繰り返しセルジュの家を訪ね、セルジュの相談に乗ろうとし、そのつど拒まれたり避けられたりして落胆し、肩透かしをくらい、そんな中でマリーとも親しくなり、セルジュの家庭の複雑さを知っていきます。はじめはセルジュの妻イヴォンヌのことが嫌いで、セルジュに彼女といたら幸せになれない、別れるべきだ、と助言したりしていたフランソワですが、徐々にイヴォンヌとも接して、当初のイメージがくつがえされていきます。
ダンス会場でマリーと踊るセルジュ。一人で座っているイヴォンヌは先に帰っていく。それを送って行けと勧めるフランソワを断り、マリーとダンスを続けるセルジュ。言い争いになり、フランソワを殴り倒して、お前にはうんざりなんだ、とマリーとの見直しにいくセルジュ、といった場面があり、宿のおかみから、ここにいてもあんたは苦しむだけだよ、帰りなさい、と村を出ることを勧められ、神父からも村を離れよと忠告されます。しかしフランソワはセルジュは僕を必要としている、と言い、やっとわかりかけてきたんだ、言葉じゃだめだ、手本を必要としている、と言って神父からお前は自分がイエス様のつもりか、と罵られます。しかし、フランソワは「何かをすることが大切なんだ。こもっていたことが間違いだ。外へ出ます。村人を助けるためにー。あなたにできますか?」と言います。
セルジュの妻イヴォンヌは第二子を身ごもっています。彼女が森の中で焚火のための小枝を拾い集めていると、フランソワが来て手伝って運びます。1カ月先に生まれると言っていた赤ん坊でしたが、イヴォンヌの陣痛が始まり、フランソワが報せを聴いてかけつけ、彼女をベッドへ運んで大雪の中、医者を呼びに飛び出します。医者は発作で倒れたグロモーのところだと聞いて、また吹雪の中を歩いてグロモーの所へ行くと、ベッドのグロモーの脇にマリーがついています。医者は、もともと第一子が障害か何かで死産だったので、第二子を孕んだと聞いても、どうせだめだと言っていた男で、このときも、どうせ無駄だ、と動こうとしません。マリーも、医者を連れて行くな、と拒みます。しかし、ベッドに横たわるグロモーは、行ってやれ、と医者を促します。
フランソワは強引に引き連れるようにして医者をイヴォンヌの所へ連れて帰り、取って返して行方不明のセルジュを探しにみなが止めるにも関わらず咳をしながら雪の中へ飛び出していきます。
そしてとうとう洞窟の奥?かなにかで、また酒に酔って眠り込んでいるセルジュを引きずり出し、ようやくの思いで家に連れ帰ります。
そのとき赤ん坊の泣き声が聞こえ、ほっとしますが、その声が途切れて沈黙が訪れ、フランソワは「だめか・・・」と壁に凭れた背からずり落ちていきます。けれど次の瞬間、再び元気のよい赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。セルジュの笑顔のアップ「聴いたか!」と。
この作品では一見どうしようもなく頽落してしまったかに見えるセルジュ、グロモー、マリー、そしてイヴォンヌらが、それぞれに運命に翻弄され、互いに不幸な関係の捩れで傷つけあい、閉塞的な村の環境の中でみなの蔑みや憐れみの視線を浴びながら、自分たちではどうしようもない泥沼であえぐ姿が的確にとらえられていて、ここへ12年ぶりにかえってきたセルジュの親友フランソワが、かつて友人たちの中でも飛び抜けて優秀で親しかったセルジュの変わり果てた姿を見て、その理由をさぐり、なんとか元のセルジュに戻したい、救い出したいと願い、肺結核の身を顧みずに献身的な行動をつらぬいて、セルジュの救いの糸口にたどりつく、という物語です。
どこにも悪者はいないし、酒に溺れて本当に頽落してしまった人間、悪意の人間、欲望だけに囚われた救いのない人間はいません。酒に溺れてへべれけになっても、本当はイヴォンヌへの愛もフランソワへの友情も心の底では失っていないセルジュ、まさに美しきセルジュで、そのありのままの姿を、彼の陥っている閉塞的な環境から救い出そうとするのがフランソワ。そういう一人一人の人間が実に丁寧に描かれています。人の救いに関して無力な教会や神父に対する鋭利な批判もフランソワの口を借りて出てきます。人間の堕落を悪ときめつけ、見放してしまう無力な教会に対して、フランソワは友情によって、かつての親友の人間としてのやさしさや愛情、友情を最後まで疑わずに、埋もれ火のように深く厚い灰の層に埋もれていたそれを必死で掘り出し、掻き立てて、ついには本来の輝きを取り戻させる賭場口までもっていきます。
セルジュが関係をもった妻の妹の17歳のマリーは、小悪魔的な女ではありますが、自分を犯した「父」の瀕死の床に寄り添い、医者を連れて行こうとするフランソワにノー!と拒否します。また、その「父」グロモーは、悪の血筋のおおもとであるかのような男ですが、妻の不倫でマリーが生まれ、そのことを知らない者は自分だけという屈辱的な状態に置かれてきた男で、実はそのことにうすうす気づいて内心真実を知るのを恐れながら、酒浸りになってセルジュとつるんでいたわけで、その背景を知れば、さもありなんと肯定はできないまでも納得はできます。フランソワを挑発して、マリーから彼がマリーの実の父親ではないと聞いたフランソワの口からはっきりと、自分がマリーの父親ではないと聞かされ、すぐにマリーを犯すとんでもない老人なのですが、その彼も発作で倒れ、診察に来ていた医者をフランソワが呼びに来たとき、どうせ赤ん坊は今度もダメと動こうとしない医者を促して、イヴォンヌのところへ行ってやれ、と言うのです。
こんな風に、ひとりひとりの、かなりひどい人物にも救いがあり、人間としての彫りが浅くないところが素晴らしい。根っからの悪人はおらず、みな善悪ともに備え、状況と関係性によって、なるべくしてそうなる必然性をもってそうなっているようにみえてくるのです。みなそれぞれに、驚くような行動、一般的にはどうかと思うような行動をとるけれど、また同時に、それと矛盾するような行動に出たりもします。そして、或る行動をとったことを自分の心中で深く悔やみ、次には変化もします。
主要人物の中で、唯一、最初から最後まで変わらないのは、自信家の神父だけで、彼は自分の言動が正しいと信じて疑わず、つねにその固定した立場、視点からフランソワを批判し、攻撃します。これに対してフランソワは現実の人間関係の中で行動し、自分自身を変えながら手探りで親友を救おうと走り回り、失望し、挫折し、また起き上がって走り出します。その姿は、村人にとっては、長い間村にいなかったために実情を知らない、お坊ちゃん的な理想主義者に見えていたでしょうが、やがてそうではなかったことがわかるでしょう。
挽歌(五所平之助監督) 1957
京都文化博物館での鑑賞です。観客は全員70~80代と思われます(笑)。
釧路に住む元気のいい22歳のわがまま娘(久我美子)が、偶然知り合ったロマンスグレーの中年男(森雅之)のことが好きになり、その家庭に入り込んで男に知られずにその美しい夫人(高峰三枝子)とも親しくなり、可愛がられます。夫人は、若い男性と一度の過ちを過去に持っていて、夫もそれを知っていて寛容な態度をとっていたのですが、もともとその傷から夫に対して後ろめたい想いをして、夫の愛が離れていくのではないか、という怖れ、不安をもっていたのです。その事情を知った娘は、自分が夫人とも親しくなっていたことを男に知られたとき、夫人に男と自分の情事を打ち明けるのですが、そのことがかねて夫人の心に会った不安と怖れを確信に変え、夫が今も自分を赦していないことを知り、自死を選ぶのです。
まぁ、物語はそんなふうにつまらないけれど(笑)、映画自体としてはけっこう見ごたえがありました。それはただただ主役の3人がとてもいいからだったでしょう。
久我美子はもともとたしかお嬢さんタイプの役柄が似あう人で、情事をするようなタイプのお色気のある女優さんではないと思いますが、まだ精神的な幼さ、無鉄砲さ、無防備さの残る年頃の娘を演じて、けっこう好演しています。かえって、そういう幼さ、無鉄砲さ、無防備さを表現するには、彼女のキャラがプラスに働いているかもしれません。
それに、一番驚いたのは、自分の情事を男の妻に告げたときに、自分が可愛がってもらい、本気でその人を好きになった当の女が表情は変えずとも深い衝撃を受ける有り様を見て、悪魔のような笑いの表情を見せる場面。あれはなかなか凄みがあって、ゾクッと鳥肌が立つ感じでした。久我美子にあんな悪女的な表情ができるなんて!
しかし、ここで妻が受ける衝撃は、夫が裏切ったこと自体、あるいは娘が考えるように自分が可愛がってやった小娘に裏切られたことによる衝撃なんかではなく、やっぱり夫はいまにいたるまで自分を許してはいなかったのだ、ということを思い知ったからでしょう。
そのことは若い娘にはわからないのです。夫婦は大人の男女として、互いに深い愛情を持ち合っていたのでしょうね。だからこそ夫は妻を赦そうと苦悩し、寛容な態度をとりながら、どうしても妻が許せなかった。そこに若い娘とできてしまう心の隙ができる余地があった。妻の方も夫を愛していたがゆえに、自分のただ一度の過ちを夫が本当に許してくれたらと思い、それを願いながら、一方で、夫が本心では許してくれていないのではないか、と怖れ、不安にさいなまれ、それがはっきりすることを恐れていた。
そこへ何も知らないノーテンキな娘が入り込んできて、男にとっては本当はどうでもいいような情事だったはずですが、この夫婦に、やっぱり愛しているがゆえに許すことのできない、許されない過去のただ一度の過ちを再び明確に認識させ、絶望に向かうほかはなかった・・・
ほんとうの隠れた焦点は、この夫婦の愛情とそれに相反する過去の過ち、許せない気持ちの相剋にあるのでしょうね。大人の夫婦愛のひとつの姿とそれが毀れるまでを、外部からの闖入者を置くことでくっきりと描いてみせたということでしょうか。森、高峰のクローズアップを多用した表情の演技がとてもよかった。
河(蔡明亮 = ツァイ・ミンリャン監督) 1997
出町座の台湾シリーズの一環で見ました。
この種の内容の映画は、実は苦手です(笑)。
最初、台北の新光三越百貨店の前の上り下りに分かれた階段の片方を主人公の男シャオカンが上がって行き、他方を旧知の女友達が白いスーツ(だったか)姿で降りていく、すれ違ったと思ったら女が振り返り、男の名を呼び、男が振り返って・・・という出会いの場面があり、この女が映画の撮影現場で働いていて、次のシーンはそのロケ現場。
おばさん監督が指示して、橋のたもとの川面にマネキンをうつぶせに浮かべて、死体に見せようとしているけれど、足が浮いてしまって全然だめ。脚の中に泥を詰めて重くして、なんとかもう一度やってみるけれど、どうにも死体には見えない。昼食休憩にしようと、ということで、今度は石の丸い台座みたいなところに腰かけて弁当を食べるおばさん監督。
その傍らに、さきほど旧知の女と出会ってここへついてきたシャオカンが所在なげに坐っていて、おばさん監督に声をかけられ、あんた死体をやってくんない?というわけです。「水が汚いですよ」とシャオカンは弱々しく抵抗するけれども、次のシーンでは死体になって川に浮かびます(笑)。
そのあとは友達のその女につれられてホテルでシャワーを浴び、なぜか彼女とセックスする。そこまでは順調なのですが(笑)・・・そこから今度は彼の首が左側へクキっと曲がってしまって、どうにももとに戻らない。一種の奇病にとりつかれてしまいます。
このあたりから、もうそれまでのような、いささかでも前へストレートに進んでいくような物語の流れはありません。いちおう彼のパパが彼の奇病を直してやろうとして一所懸命医者へ連れて行ったり、霊媒師?みたいなところへ泊りがけで連れていったりするのですが、先走りして言うなら、一向に効能はありません。
むしろ焦点はシャオカンの家族、彼と父親と母親の一人一人のありようとその関係に移ってしまいます。父親はごっつい顔したおっさんですが、どうもゲイらしくて、ゲイサウナみたいな専門機関(笑)に出入りしているみたいだし、母親は母親で裏ビデオを売っているらしい愛人がいたりします。彼らが見ているのは日本のAVですね(笑)。そういえばギデンズ・コーの「あの頃、君を追いかけた」でも、いたずら好きの高校生らが熱心に見ていたのが日本のAVで、主人公のコートンだったかが、「飯島愛も年取ったなぁ。おっぱいの先が黒くなってる・・」なんてセリフを言う(笑)。いや閑話休題。
とにかくそんなふうで(どんなふうや?・・笑)、家族は互いにそれなりに思いやり、親密そうにみえて、実は一人の人間としては、それぞれの心の闇と孤独をかかえて生きている感じです。それが一番シャープな形で映像化されているのが、ゲイ・サウナの場面です。
寡聞にしてこういうゲイ・サウナなんてものを見たことも聴いたこともなかったオクテの私には大いに勉強になりましたが(笑)、不気味で不思議な世界ですね。最初たしかにサウナへこれから入るのか、既に入ったあとなのか、というようにバスタウルを腰に巻いて上半身裸の男たちがフラフラと狭い廊下を歩きながら、両側のひとつひとつの部屋の戸をちょっとだけ開けて中を覗き見るようにしては、また歩いて行く。いったい何をしてるんだろう?中に何があるんやろ?と興味津々で見ていましたが(笑)どうやら先に誰か男が入っていて、あとで来る客は好みをみつけるためにああして次々に覗いていくんですね。「飾り窓の女」の室内版、男性版というわけでしょう。
で、シャオカンは一人ふらふら歩いてきて、一番奥のほうの小部屋に入り、そこで顔が蔭になって観客にも見えない男に後ろから抱かれるわけです。まぁ男同士のそういうシーンをあまり見たいとは思いませんし、別に人様の好みやなさることを差別意識を持ってとやかく言おうなんて決して思いませんけれど、なにせこの手のシーン、もっと広げれば、殺人、流血、同性愛、暴力、自殺、いじめ・・・とそういうシーンはいまどきの映画にこれでもか、これでもか、というほど出てきますから、たしかに現代の社会の中にそういうことが事実として存在し、それが社会のひずみの一つの集約点であったり、象徴的な現象であることは理解できなくはないので、映画でもそういう場面が繰り返し登場するのはやむを得ない面があるとは思いますが、正直のところいい加減食傷していて、もうそんな要素が一切登場しないような映画を作ろう、と潔く考えてくれるような監督はいないものだろうか、そんなものがなければ現代を本当に描けないんだろうか、たしかに刺激が強くて印象的な画面が作れるのかもしれないけれど、逆にそういうものに寄っかかった映画なんて、ほんとうに創造的な作品をつくる努力をどこかでさぼって、既存の小道具に依拠して本質的なところで欠如しているインパクトを血の色やセックスのどぎつさで補おうとしているだけなんじゃないのかしら、と考えたくもなるのです。
だから、あのシーンに来た時も、ヤレヤレ、またこれかよ・・・と正直のところ思わなくはなかったのです。でもまあ目をつぶって(比喩表現)目を見開いて(現実描写)見てきました。
その結果、少し違った感触を持ったことは確かです。うまく説明はできませんが、私は実は韓国のキム・ギドクの作品の中で一番好きなのが「悪い男」です。あれはすさまじい暴力とセックスと流血の映画ですが(笑)、それでも最後はあの主人公の「悪い男」がイエス・キリストの生まれ変わりのように見えてくるから不思議です。血や暴力やセックスも、もうたくさん、と思うけれど、徹底的にあそこまでやって、そういういやだなぁ、またかよ、というところをものすごい映像のエネルギーで突き抜けてしまうと、不思議に聖的なところまで行ってしまうような気がします。
この作品の・・・実はシャオカンが抱かれた相手は実の父親だったわけですが・・・あのシーンはまさにそういうシーンでした。そして、あのシーンがこの映画のハイライトで、すべてが凝縮されたようなものすごいエネルギーを持った映像でした。父親に抱かれたシャオカンの姿は十字架からちょうどおろされるときのキリストの姿態とそっくりに見えました。
いとこ同志(クロード・シャブロー監督) 1959
監督の長編第一作「美しきセルジュ」に次いで、それと並んでフランス・ヌーヴェルヴァーグの旗揚げにあたる監督の長編第二作にあたる作品だそうで、いちおう観ておかなくっちゃということで、半世紀遅れのお勉強と思ってビデオで拝見。
地方からパリへ出て来た生真面目な青年シャルルが、同じ年齢のいとこで、都会派のいささか軽薄な遊び人の青年ポールのところへ下宿して、いろいろとポールにひきまわされ、数々の誘惑を受けながら、それでも自分の田舎者の生真面目な青年としての資質を守り続けていくものの、最後に皮肉で悲劇的な結末を迎えるという物語。
たぶんここでポールやその友人でポール以上に軽薄な遊び人クロヴィス、その仲間たちのような若者がパリという都会で親のすねをかじったりしながら毎日酒を飲み、女と遊び歩き、パーティーでこんなどんちゃん騒ぎをして、籍だけは置いている大学なんかで要領よくカンニングなどしてやりすごし、既成の秩序や道徳を鼻で笑って享楽の日々をすごす、そんな連中と多かれ少なかれ似通った連中が現実にいたのでしょう。
そういう若者の生態を厳しく大人の秩序の側から批判的に描いて指弾したり嘆いて見せたりするのではなく、むしろその中に既存の秩序への反抗とまで言えるほどのポジティブなものはゼロにしても、そんな既成の「良識」のバカバカしさ、無意味さを嘲笑し、空虚さを皮肉な目で眺めて、ほらこんなものに過ぎないでしょ、という姿勢が、この映画の創り手にはあるのでしょうかね。
ポールとシャルルは寓話で言えば「都会のネズミと田舎のネズミ」か「蟻とキリギリス」ですね。でも「蟻とキリギリス」は遊んでばかりいたキリギリスがみじめな最後を迎えて蟻さんの勤勉が称揚される寓話だし、「都会のネズミと田舎のネズミ」は、前者が田舎の退屈に耐えられずやっぱり都会の暮らしがいい、と都会へ戻って行き、後者が都会へ出て目まぐるしい生活のストレスに耐えられずにやっぱり田舎がいい、と田舎へ帰っていく話で、フィフティ・フィフティなのに対して、このシャブローさんの映画は、都会のネズミの圧勝です(笑)。
可哀想に田舎のネズミは楽しく遊び暮らす都会のネズミを横目でみながら、その誘惑にも硬い勉学の意志を崩すことなく猛勉強するにも関わらず試験に落第し、逆に都会のネズミはカンニングか何かで要領よく合格してしまいます。
また、田舎のネズミが惚れた彼女(フロランス)は、都会のネズミがなんだかんだ言い含めて自分の彼女にしてしまい、それでも友達でいてほしいとか言われて、田舎のネズミは、いいよいいよ、順番を待つよ(笑)と実に卑屈な態度で、三人での不自然な同居をつづけるのです。なさけないったらありゃしない。
これを見ても、この監督さんの二人の扱い方は、とても不公平ですね(笑)。
ネタバレしちゃうと、最後に試験にも落ち、勉強のプリントも学生証も破って河に捨ててしまったシャルルは 酔っ払って帰り、ポールが引き出しに入れていたピストルに一発だけ弾を入れて、ぼくのチャンスは6分の1、君のチャンスは6分の5だ、なんて言って、眠っているポールの頭に銃口を向けて、引き金を引きますが、不発です。
銃を椅子の上に抛って、彼はベッドに倒れ込んで眠ろうとして眠れず、椅子の上の拳銃を手に取ろうとしていると、ポールが歯磨きを使いながら起きてきます。(試験に)落ちたよ、もうおしまいだ、なんて報告していると、ポールが置いてあった拳銃を手にして、彼は弾は自分が前に抜いて入れてないと思い込んでいるから、シャルルがおいおい!と叫ぶ間もなく引き金を引いて、シャルルはバッタリ・・・死んでしまうのです。なんということ!それはないでしょう!茫然とするポール。ベルが鳴り、ワグナーのレコードが終わってプレヤーのアームが元へ戻る、はいおしまい!(笑)
なんとも皮肉な結末です。でも頽廃の都市パリに適応して棲息するこの種の都会のネズミと、その都会へ出て来てかたくなに自分を守り通しながら、不適応の果てに交通事故に遭遇したかのような死に方をしてしまう田舎のネズミの対比はとてもよく描かれていて、その意味では寓話として面白かった。ちょっと田舎のネズミを馬鹿にしすぎだと思うし、もう一匹の田舎のネズミとしては可哀想だと思いましたが・・・
パリはわれらのもの(ジャック・リヴェット監督) 1958
これはちょっと不思議な味わいの作品でした。主人公と言っていいパリの女子学生アンヌが見聞きし、巻き込まれるできごと、それはひょっとしたら実態のない妄想かもしれないのだけれど、ファシズムの亡霊みたいな秘密結社がからむ陰謀による殺人事件(最初のはひょっとすると自殺かもしれない)と、いまひとつ関わる人物が重なることでこれと同時並行的に進行する演劇公演に向けてのリハーサル
で、この二つの糸が何人かの登場人物を相互につなぎ、複雑にからませながら、何が起きているのか、自分や周囲の人間がそこにどんな意味をもって関わっているのか、謎がむしろ深まって、次の殺人が起きる予感と不安の中を、謎を解こうと走り回るアンヌと共にわたしたち観客も暗中模索の感じで歩くような展開の中で、第二、第三の殺人あるいは自殺が起き、それで通常のクライムサスペンスのように犯人は誰某でした、こうした陰謀が仕掛けられた結果でした、というふうな種明かしにはならず、一見そうとも見える登場人物のセリフはあるものの、それ自体が真実かどうかもわからないし、ひょっとする妄想に過ぎないかもしれない、という不可解さを残したまま幕となるお話です。
この不可解さというのは、解答がちゃんとあるのに登場人物なり映画のつくり手なりが隠して見せないようにしている、あるいは意図的に曖昧化しているために、ヒロインと観客にだけ真実が見えなくなっている、というものとは違います。例えば黒澤の「羅生門」あるいはその話の中心部分の原作である芥川龍之介の「藪の中」は真実が観客・読者には分からないけれども、起きた現実は一つであり、登場人物はみなそのたった一つの事実を知っていて、それぞれ誰が本当のことを言い、誰が嘘をついているかも知っているはずです。ただ、それぞれ自分の利害というか名誉を守るためというか、或いは憎悪や愛情や嫌悪の感情でひきよせたためというか、いずれにせよ認識とのズレを承知で虚偽を含む証言をしているわけで、その作品が指し示しているのは、そういう虚偽の証言の背後にある人間のエゴであって、必ずしも、世の中にたったひとつの真実なんてない、とか、事実がひとつであっても、それがこうだと語る真実は、それをとらえる主観の数だけあるんだ、という一種の不可知論あるいは相対主義的な考え方ではないだろうと思います。私が多襄丸を裁く裁判官であれば、彼らの証言は聞き置いて、その証言外の物的証拠や状況証拠をより綿密に調査して、証言の嘘をあばき、真実はどうかをさぐりあてようとするでしょうし、「羅生門」あるいは「藪の中」の設定なら、それは可能なのだと思います。
しかし、「パリはわれらのもの」で起きている「陰謀」「犯罪」らしきものについては、おそらく個々の証言に確たる根拠がないことは、個別に精査していって明らかにできると思いますが、「真実」が明らかになるかと言えば、大変疑問です。
だいたい「ファン」という、登場人物たちのつながりの最初の要の位置にある人物の、それ自体が物語の発端となる死自体が、自殺なのか他殺なのかも本当にはわかりません。アンヌが彼が死んだ家を尋ね当てて、ファンが死んだすぐあとに見た女性が自殺だったと言うのではありますが、それは「恐ろしい秘密を洩らされ、追い詰められ、耐えきれずに」死んだ、秘密結社による陰謀による事実上の他殺に相当するような死であったかもしれないからで、登場人物たちによって、そういった可能性が繰り返し強調されるのです。
いや、少し先走りすぎました。冒頭は1957年6月のパリ、と明示された時と場所。本を朗読しているアンヌの姿で始まり、彼女の耳にすすり泣く女の声が聞こえてきます。すぐ隣の部屋で、覗いてみるとソファで泣いている女がいて、ファンという男が殺された、と言います。「これが始まりで、彼の友達が次々に殺されていくだろう、世界に危険が迫っている、皆に知らせないと・・・」とその女はちょっと頭がおかしいんじゃないか、と思える妄想みたいなことを喋ります。
あとでアンヌは兄のピエールにこの女のことを言い、部屋を再度兄と訪れますが、彼女は忽然と姿を消しています。
ピエールは統計の仕事みたいなことをしているとかで、町でアンヌと待ち合わせて二人で話しているところでは、アンヌはひと月ほど前にパリに来たばかりのようです。兄は親と意見が違う、ということでもっと前からパリに一人で住んでいたようです。アンヌはいまパリの大学に通っていて、試験に悩まされていると言っています。
この兄のピエールが、画家ベルナールのところへ行くからついておいで、とアンナを誘い、彼女がその家へ兄と行くと、あとで出てくるピエールの友人・知人たちが集まっていて、その中で、アメリカからマッカーシズムの赤狩りを逃れてパリへ来たという国際記者かなにかを名乗るフィリップ・カウフマンというちょっとエキセントリックな感じの政治亡命者といった位置づけの男に出会います。
ここでアンナはフィリップから、ファンがスペイン人のギタリストで、ナイフで自殺したと言われているが、実際には「パリに殺された」のだ、ファンを自殺に追いやったものがある、という話を聞かされます。
フィリップはこのサークルで鼻つまみのようで、「ここはグリニッジ・ヴィレッジじゃないんだ、俺たちと離れてはどうだ?」と事実上出ていけと言われますが「泊まる場所がない」と言うと「今夜はいいさ、著名人を宿なしでほうりだすわけにもいかんしな」みたいなことを言われるような場面があります。
ここでフィリップはかなり酩酊していて、しゃべっている相手をひっぱたいて騒動を起こしたりします。
また、この集まりの中にテリーという女もいて、最近ファンを捨てた女だ、と言われています。
翌日、友達だったか、ジャン=マルクという男と待ち合わせたアンヌは大学の食堂みたいなところで順番待ちしています。彼女らの少し前に昨晩話したフィリップが並んでいて、食堂のおばさんに学生証か何か求められて、持っていないので、断られ、列を出ていきます。
アンヌたちも列を出て、ベンチでバケットをかじることにします。
ここでアンヌはジェラール・レンツという男(演出家)に会い、シェイクスピアの「ペリクリーズ」上演のために劇団員を集めた、来ないか、と誘われて、リハーサルの場所へ行きます。
舞台で演出家のジェラールが、リハーサルで劇団員を厳しく指導しています。劇団員の男が、劇団をやめる、とジェラールに言って出ていきます。アンヌは稽古を見て言ってもいいと了解をもらって観ています。
すると、ジェラールが脚本を読んでくれると助かると言います。戸惑いますが、アンヌは引き受けます。
アンティオキアの海岸が舞台のようです。
"・・・ひと突きさ・・・バレるはずがない・・・・決心は・・・・"
朗読で聴こえてくるのはどうもやばそうな陰謀の場面です。(私はペリクリーズを読んでいないので中身は知りませんが・・・)
"大地から花を奪い・・・"と台本を読み始めるアンナ。小さな扇風機を当てられ、髪なびかせて、風になったのでしょうか。" この風は・・・南風・・・私が生まれたときは北風でした・・・"
ジェラールと話しているアンヌの会話から、彼女はいま文学部の学生であることを私たちも知ります。
テリーがフィリップを同乗させた車でやってきます。
「またあいつか。やつは被害妄想だ」とフィリップのことを言ったのはジェラールだったか。
女性のことは「テリー・ヨーダンだ」とアンヌに教えます。ジェラールといまつきあっている女性のようで、リハーサルを客席で見ています。
フィリップのセリフ。たまたま後を追うような感じになっていたのを「なぜぼくを監視する?」
彼は今夜からカネット通リのホテル住まいだ、とアンヌに告げます。また、「ファンは自殺かどうか分からない、重大な秘密に耐えられず自殺した。次に殺されるのはジェラールだ。でも君なら助けられるかもしれない。」そう言われたアンヌは戸惑うばかり。なぜ私?
(このあたりで、アンヌが、「隣のスペイン人の女の子が消えたのよ」とピエールに告げます。)
アンヌはフィリップの感化か「テリーのせいで、ジェラールに危険が迫っている」とピエールに告げます。ピエールはむしろ「あやしいのはジェラールだ」と言います。混乱するアンヌ。試験は明日です。
カネット通りのホテルにフィリップを訪ねるアンヌ。でもホテルの人から、彼が泊まっていない、と告げられます。彼女は電話を借りてジェラールに連絡しようとしますが、不在のようです。
それから、これは別のホテルだったのかな、アンヌがカウフマンさんは?と尋ねると、いるとの答えで、5階の19号室だ、と。
行って見るとドアが開いていて、室内にフリップが倒れています。でも、すぐにフィリップは起き上がり、なんともないようで、倒れるのはミッドウェイでの後遺症で、とのこと。癲癇みたいな発作をときどき起こすようです。
フィリップはアンヌに「すべて忘れろ」と言います。そこへテリーが入って来ます。フィリップはテリーに、「ジェラールと別れろ。彼には荷が重い」と言います。でも彼女は「いやよ。彼が必要なの」と答えます。
ここらで、フィリップとテリーは何らかの秘密組織のメンバーとしてつながっていて、秘密を共有しているらしいこと、テリーはつきあっているジェラールに、その組織の秘密をまだ明かしていないようだけれど、近い将来明かして彼に何かさせようというのか、企んでいるらしいこと、しかしフィリップは同じ組織のメンバーとしてジェラールを信用しておらず、やめたほうがいい、と思っているらしいことがうかがえます。でもそれがどんな組織なのか、どんな秘密なのか、何をしようとしているのか、といったことは何も分からないままです。ただ秘密―組織ー陰謀みたいな妄想かもしれない表象が登場人物をつないでいる(つないでいく)ことだけが目の前で展開される物語の推進力になっています。
アンヌはジェラールに会い、出演依頼を受け、同時に「ペリクリーズ」についてどう思うかと意見を訊かれます。彼女は「まとまりがない。でも目的をもった物語。そのちぐはぐさがいい。バラバラだけれど、つながっている全てが大団円でピタリとおさまるべきところへ収まる。・・」というような意見を述べ、ジェラールは賛意を表し出演を請います。このときの彼女の「まとまりがないが、すべての要素がひとつの方向に収束していく」という意味の「ペリクリーズ」評は、この「パリはわれらのもの」自体にもなんとなくあてはまるような気がします。大団円とはいかない(と思う)けれど、見ていて一貫したひとつのストーリーを追えばたどれるような物語りでもないし、あらわれる様々な人物、様々な要素にまとまりがあるようにも思えない、という点で。
ジェラールはアンヌに、「ファンに曲を頼みたかったが、テリーの部屋で彼が作った音楽を録音していたが、そのテープが消えてしまったんだ」というようなことを言います。ひとつ具体的な謎が生まれているわけで、アンヌは以降、この消えたテープを追うことになります。それはなぜ消えたのか、誰が持ち去ったのか・・・。こうして謎が謎を生み、それを追っかけることが物語の推進力になっているけれど、それを追うことにどんな意味があるのか、それ自体が謎のまま、ただ追っかけるという契機が生まれ、それが物語をひろげ、推し進めることだけが重要であるかのようです。
ファンはテリーの彼氏で、ジェラールの親友でもあった、とジェラールは語ります。
セーヌ川を行く船が橋の下を通って行きます。こういうパリの光景を見るのもこの映画のひとつの楽しみです。
アパートに帰ってくるアンヌ。隣(56号室)のスペインの女性は消え、部屋はからっぽです。ピエールに試験は?と訊かれ、やめた、いまはそんな気分になれない、とアンヌ。もうすっかりファンに始まる謎が謎を呼び次々に目の前にあらわれてくる迷路の中に迷い込み、巻き込まれてしまったアンヌ。
迷っていたアンヌですが結局演劇への出演を了解します。リハーサルの現場ではまた一人、ジェラールとぶつかって劇団員が去っていきます。アンヌはセリフを間違え、棒立ち。客席でテリーが見ている中で、動揺している様子です。
テリー「音楽を付ければいい。ファンのを」
ジェラール「君が見つけてくれればね」
テリー「いや!」
・・・と、ファンの作曲し、録音されたはずのテープをめぐって、そんな会話が交わされます。
テリーが恐ろしい秘密を洩らしたことでファンが死に追い込まれた、とフィリップに言われたことを、劇団員の親しくなった女性(ミナと言ったかな・・)に告げ、彼女の協力で、ファンの死んだ家を探し当てたアンヌは、そこへ行ってファンの死について尋ね、テープを探そうと、訪ねて行きます。
ファンの死んだ家には、ファンが死んだとき一緒に住んでいた女がいて、テープのことは聴いていないが、あの日、彼女が母の家から夜になって帰ってきたら、ファンはおなかを(ナイフで)刺して死んでいた、と言います。そして、世の中の堕落だろか、世界の終わりだとか、そんな話ばかりしていた、と証言します。「覚悟の上の死だ」と。
アンヌは、テリーの何かがファンを変えたのだと確信します。陰謀とか・・・と。
アンヌはファンに目をかけていた、という大学教授ジョルジュ博士(経済学)を訪ねます。なにか独善的な感じのするえらそうな老人です。ファンのことを聴くと、目をかけていたようにも思えない酷評を言って聴かせます。いわく、「過激な個人主義者、破壊主義者だった。彼の音楽には失望した。テープは一度聴いたな。ひどいものだった。彼は録音を録らない主義だった。これ以上テープを探してもみつからないよ」と、取り付く島もない言い草。
教授のところを訪ねたことを聴いたピエールは、無謀だ、と心配しますが、アンヌは「(彼は)何か隠しているわ」と教授に疑いの目を持っています。
場面かわって舞台稽古の場。ピエールが、稽古をみてもいいか?本心は困る、だろう?とジェラールに声をかけますが、どうも本心はピエールの言うとおり、ジェラールは迷惑そうだけれど、勝手にしろ、と放任します。メンバーがまた欠けています。苛立つジェラール。
アンヌも動きが乏しくて、ダメ出しばかりされています。
劇団員の友人(ミナ?)は「テリーに訊くだけ無駄」と言います。「ジェラールは謎めいたテリーに夢中だしね」と。
稽古途中でアルバイトに出ていく、役者をやっている劇団員。怒るジェラールに、じゃ給料をくれるのか、みたいに居直って反抗して出ていく劇団員。ジェラールの苛立ちは増すばかり。
アンヌがフィリップの部屋を訪ねると女といちゃついていたけれど、女を追い出して、アンヌの相手をします。「舞台なんてインテリの暇つぶしだ」とジェラールのやっていることには極めて冷淡なフィリップです。そして「テリーは危険な女だ」と言います。フィリップの言うことを聴いていると、フィリップ自身が妄想癖なんじゃないかと思えてきます。
アンヌはまた、テリーの住まいを訪ねます。テリーは、腐りきった社会、最後まで居たくない、脱出したい、というようなことを口走ります。
アンヌは再びフィリップを訪ねます。隣室の女に部屋へ導かれると、壁に彼女の写真が貼ってあります。パリで自由人に会えるという幻想をもっていたようだ、とファンのこと(だったと思う)を聞かされます。ニューヨークから来た女に振られたらしい、と。どうも写真はファンの妹らしい。ファンの妹は活動的な闘士だったが、行方不明だ、と。
どうもファンがスペイン人だというのが一つのポイントで、彼も彼の妹も「活動的な闘士」だった、というのは、おそらく反フランコ派の闘士で、スペイン内戦が収束し、ドイツ、イタリアのファシズム政権が打倒されたあとも、ファシストたちの秘密結社みたいな組織の陰謀で、パリに亡命していた彼らは消されてしまった、という一つの仮説的な妄想を、この映画を見ている私たちのほうも思い描くことになるでしょう。そのファンは自殺ということになっているし、妹はまったく行方不明、この作品で何度もその名がかたられるファンその人も、遺骸としてでも肖像としてでも、全然登場しないのですから、本当のところは何もわかりません。
スペイン内戦はヨーロッパやヘミングウェイなどアメリカからも義勇軍が参戦した人民戦線側がフランコ・ファシスト側に敗れて、人民戦線に参加したスペイン人たちは亡命を余儀なくされたわけですが、フランコは悪賢いやつで、ドイツ、イタリアのファシスト政権が倒れても、ピレネー山脈の南までは連合国の影響を這い込ませず、硬軟両様の巧みな支配を打ち立てて、その軍事独裁を守ったわけで、地下にもぐったドイツ、イタリアなど枢軸国側のファシストたちとは秘密裏につながって戦後もその秘密組織が暗躍する後ろ盾となってきたことは明らかでしょう。そうした背景がこのファンをめぐる謎にはひかえているのだろうと思います。
アンヌが部屋に帰るとジェラールから集合の置手紙があり、行って見ると、シテ劇場での劇団公演が決まり、30公演の契約を結んだ、と。予定に穴があいて偶然舞い込んだ吉報でした。
ここでテリーはジェラールに、お別れよ、と別れを告げていきます。
劇団の公演は決まったけれど、上演には役を換えること、という条件がある、ということで、アンヌは御用済みになってしまいます。申し訳なさそうにそれを言い渡すジェラールは、音楽も押し付けられるだろう、と言います。「何かの罠では?」とアンヌ。台本をジェラールに返して劇団を去っていきます。
テリーの部屋へアンヌから会いたいという電話。テリーは誰とも会わない、と答えています。
フィリップを訪ねるアンヌ。何か頼んでいますが、フィリップは拒んでいます。
隣の女から、警察の手入れがあった、フィリップは逃げたけれど、これを待っていた、こういう形でしか自分の正当性を明らかにできないから、と言っていた、と。
劇場にジェラールと訪ねるアンヌ。舞台では新たに決められた役者の一人が、脚本にはなかった、指をなめて風にさらす動作を提案し、ジェラールは反対しますが、上のやつがいいだろう、と許可します。また演出になかった船を登場させる話が出て、これもジェラールは驚いて反対しますが、上のやつが美術監督に任せろ、と受け容れます。もう完全にジェラールの芝居ではなくなっています。
ジェラールはアンヌが(王妃の代役よ、という口実で)楽屋へ来ていることを知ってメモを届けます。そこには、「タニヤ・フェディンス(失踪した女)のことを知っている。日曜に会った。」とあります。
テリーが演技の練習をしています。
”ロンドンで男が死んだ。遺体にはヒロシマの跡があった。終末は・・・”
テリーはアンヌに語ります。「ファンが死の3日前に取りに来たわ、と。妹のマリア・アルメイは使命を帯びて来ていた。彼女は既に逮捕され、死んだと思う」と。「秘密に触れた人間は死ぬ。アメリカ人が(フィリップのことだろう)が帰るのを待ちなさい。私には耐えられない・・・あきらめるわ。待つことは難しい。・・・」(テリーの言葉は意味不明なことが多い。妄想かもしれない、という想いを一層強く持ちます。クールにみえて、現実と妄想が入り混じっている印象は彼女が一番強い。)
ジェラールがアンヌを訪ねてきます。劇場の契約をやめた、と。一つ譲歩すればきりがない。上のやつ(ボワローとかいう)が自分の演出でやることになった。劇団員は全員クビだ、と。そして、アンヌに(自分の)支えが必要だ、と言いますが、アンヌは「好きよ」と言いながら、「でも勉強しないと。10月に試験が・・」と答えます。「じゃ平凡な結婚をして人生を終わるんだね」みたいな皮肉な捨て台詞みたいなことを言うジェラールは、「それじゃ逃げ道はただ一つだ。窓から飛び降りること・・」と演劇の台本のセリフらしい言葉をお芝居めかして言うと、出て行きます。
そうしたやりとりを兄ピエールに話したアンヌは、慰めてもらい、送ってもらいます。
部屋に帰ると置手紙がドアの下にあります。
「12時までに電話を。自殺する」とジェラールです。時計を見ると既に12時をまわっています。アンヌは手紙を丸めて投げ捨てますが、再び拾って、椅子に座り、雑誌を広げますが、時計を確かめ、結局コートを着て出かけるアンヌです。
凱旋門の横を通り、パリの石畳を小走りに駆けていくアンヌ。フィリップを訪ねて行きますが応答なし。電話をかけますが、カウフマンさんは1週間は見ませんよ、と。
そこでピエールに電話しますが、彼の方は女とベッドにいて、電話に出ようとしません。
ジャン=マルクに電話し、車でジャンの待つところへ急ぎます。車中から見えるパリの揺れ動く不安げなモノクロの光景はアンヌの心象風景そのもののようです。
ジャンの待つところへ行くと、ジャンは、冗談さ、部屋に誰もいない。仲直りしてテリーの家にいるのかも、と言います。
そこでまた2人でtクシーに乗って走り、電話ボックスへ駆けこむアンヌ。テリーはジェラールのことを知らないようで、フィリップと一緒です。すぐ来られる?とテリー。
それを横に居て、「なぜ(アンヌを)呼ぶんだ?俺は会いたくないよ」と隠れるフィリップ。アンヌが来て、テリーは「あんたが動いたって駄目よ」と言います。アンヌがテーブルの上のテープに目を止め、それは?ときくと、「ファンの録音よ」。
「なぜジェラールに渡さないの?」
「さあ・・・こわかったのよ。ファンの時と同じで・・・」
「どんな秘密なの?」
「フィリップよ。・・・よく話してた・・・1945年のあの男の死で、今度は世界規模で企てられた陰謀なのよ。この30年で手法が変わった。水面下で、すべてを政治と科学と一つにして捧る・・・その日のために彼らは準備してきた・・・屈しない者は潰される・・・秘密を守ること。裏切れば死。一人では抱えられない・・・。ヨーロッパへ来れば逃げられると思ったのよ。ある日私に打ち明け、彼は気が楽に・・・。秘密をかかえた二人が暮らすのが息苦しくて別れた。解放されるには、誰かに話すか自殺するしかない・・・」(テリーの言葉はいつも不可解さを含み、よくわからない。妄想のようにも思えます。)
アンヌはジェラールの所へ行って、ドアを破ってでも会う、と。そうしてアンヌがかけつけると、アパートの前で、女性劇団員と二人でいて、ぴんぴんしているジェラールに遭遇します。彼からの手紙というのを見せると、「ぼくがこんなものを書くわけがない」と一笑に付します。
バベルの塔を描いたモノクロ無声映画を見る人たち。
悪夢が終わって「常識で考えるのが一番さ」とピエール。
フィリップからアンヌに電話がかかります。彼が死んだ?嘘よね?!すぐ行く・・・とアンヌ。「ジェラールよ」とピエールに言うと、ピエールは「行くな」と言います。「もう許せん。すえてバラシてやる」とピエール。ピエールも何か秘密結社がらみの秘密を持っているようです。
テリーが見守るベッド。横たわる(死んでいる)ジェラートにだきつくアンヌ。
(アンヌ)「みつけたのは?」
(フィリップ)「テリーだ」
(アンヌ)「本当に自殺なの?」
(テリー)「たぶん」
(アンヌ)「殺人?」
(テリー)「たぶん」
(アンヌ)「自殺でないと言えるの?」
(フィリップ)「わからん」
(テリー)「私が悪いのー彼を助けようと思って・・・ ・・世界を強制収容所にする・・・」
アンヌにピエールから電話が入ります。
「罪は俺にある・・・俺は止めたんだ。・・・理由も犯人も知っている。口止め料を断ったら脅された。助けてくれ。地下鉄で××駅へ来てくれ・・」
アンヌはテリーが運転する車で待ち合わせ場所へ行きます。二人のりだから、とアンヌに後でタクシーでフィリップのところに来るように言ってアンヌを降ろし、ピエールを乗せていきます。ピエールは「パリを離れたい」と言います。
フィリップのところへアンヌが行くと、先に出たはずのテリーたちは来ていません。
フィリップは、ピエールを疑っていた、とアンヌに打ち明けます。ファンの妹の手紙に、ファンがファランヘ党の指示で殺されたとあった、と。(ファランヘ党はスペインのファシスト党ですね。)
ここで、テリーがピエールを拳銃で撃つシーンが入ります。
そして、テリーだけが車でアンヌたちのところへやってきます。
「ピエールは?」
「降りたわ。」
テリーが殺したのよ!とアンヌはテリーにつかみかかります。フィリップはテリーに「ピエールは犯人じゃなかった!」と叫びます。どうもピエールが裏切り者で、ファンの殺害者だとフィリップやテリーは考えていたようです。
突然フィリップが倒れますが、テリーは「いつもの発作だから」と気にもとめません。
「ジョルジュが資金を握ってジェラールを上演中止に追い込んだのよ。ピエールはジョルジュの手下だった。組織なんてフィリップの妄想よ。組織ならもっとうまくやるわ。ピエールはただの番犬だった。どんな命令にも従っていた・・」
こんなふうにテリーの口から一応種明かしらしいことが語られますが、それが真実かどうかは分かりません。フィリップもテリーも、どこまで真実を語り、どこまでが「組織」の一員ゆえの嘘なのか、あるいはそんなものは何もなくて、ただ個人的な妄想にすぎないのか、それも含めて謎のままです。
テリーも去り、アンヌのうしろに劇団員の男の姿。ペリクリーズをやる、と。
ラストシーンは、湖を低く飛んでいく白鳥の姿です。暗いモノクロの風景で、白鳥の啼き声らしきものも聞こえます。ここで幕です。
さて・・・(笑)長々と追っかけてきましたが、いっぱい欠けている重要なエピソードがあったかもしれませんし、見過ごしたところ、見れていない部分、セリフの聞き間違いなど無数にあることでしょう。一度見たきりで、ネット上に出ているあらすじの類を横目にみながら、網膜に焼きついている映像を忘れないうちに書き留めた中身としてはこの程度が精いっぱいです。またいつか見る機会があれば、あぁ、あのときこんな重要な場面を見過ごしていたな、とか、セリフが全然違っていたな、とかいまの見方の欠落がよく見えるだろうと思います。そのときのためにも、ちょっとややっこしいこの作品についてはこれだけ自分だけの記録を残しておいた方がいいかも、と思ったのです。
このいい加減なトレースによっても、確かに2時間21分の比較的長尺の作品ではありますが、場面転換が多いことがわかると思います。映画業界固有の言葉は知らないので、小説なんかでいう場面転換なんて言葉を使いましたが、場面の選択と転換は小説では価値の源泉の一つですが、映画でもその点は同様でしょう。この作品の場合は、アンヌが謎の解明を求め、失われたテープを求めて、フィリップを訪ね、テリーを訪ね、ジェラールと会い、ファンが死んだ場所を訪ね、とパリの街をめまぐるしく駆けずりまわることが、この場面選択と転換の頻度と多様性を支えています。そして、それが言語で言えば指示表出の広がりに相当する、彼女の他者との出会い、つながりを広げ、深めていくと同時に、謎は解き明かされるよりも、ますます深まっていきます。それは、彼女が関わる一人一人の登場人物、その言葉や行動が、彼女やジェラールが「ペリクリーズ」について評したように、「つながってはいるけれど、バラバラで、まとまりがない」からで、いわば指示表出のベクトルがそれぞれてんでバラバラな方向を向いているからです。
それが最後は「大団円でぴたりと収ま」ったと見るかどうかは見る人で違うかもしれません。いちおうテリーの言葉で、フィリップの言うような秘密結社的な「組織」があったかどうかは別として(テリーは「組織」なんてフィリップの妄想だと言います)、背後にスペインのファランヘ党につながるようなファシストたちによる(亡命)左翼分子抹殺の力学が働いており、ジョルジュ博士などはそちらの側で、ファンやジェラールは実質的には彼らに殺された、少なくとも、追い詰められた状況に耐えられなくなって死を選んだのであり、それに抗い亡命左翼分子を支援するテリーーフィリップーファンーピエールらの組織ないしは秘密の結束があって、ピエールは実はジョルジュの手下で、裏切り者だから殺した、でもフィリップによればそれは間違いだった・・・等々というような絵解き的なものを描いてみることができなくはないと思います。
けれども、よくリヴェットのミステリアスな作品に現れる特徴的な表象としての、秘密結社、陰謀といった政治的な意味を背後に担ったこういう要素は、私にはちっともリアルなものと思われず、むしろなんだか子供じみた滑稽なものに見えます。だから、フィリップのエキセントリックな物言いが典型的ですが、落ち着き払って冷徹にみえるテリーにせよ、彼らがこういう要素について、おおまじめに語ったり、ほのめかしたりすると、笑ってしまいます。
常識的に考えて、こういうことを言うやつがいたら、馬鹿げた妄想だと一笑に付すでしょう。おいおい、大丈夫か?と語る本人がイカレテるんじゃないか、と疑うでしょう。マッカーシズムに逐われて亡命してきたフィリップが被害妄想なのは判らなくはありませんが・・・。
それにしてもそういう要素をつないで、「世界規模で企てられた陰謀」だの「世界を強制収容所化する」動きだと断じるのは、被害妄想、誇大妄想とみなされて仕方がないでしょう。別に何の証拠もないし、私も子供のころ親しい友達と「秘密基地」を持つ「秘密何とか団」みたいな秘密結社ごっこのように見えます。もし大真面目で現実のそういうものを示唆したいのであれば、この作品はその点ではうまくいっていません。
ただ、すべてが妄想かもしれない、とは実は考えることができません。なぜなら、ファンの死、ジェラールの死、ピエールの死という3人の死という現実だけは疑い得ないので、ファンとジェラールに関しては自殺の可能性が高いけれど、ピエールについてはテリーが拳銃で殺しているわけですから、それも妄想の場面かというと前後関係からそうは決して言えそうもないから、少なくともテリーはピエールを殺しています。あとはすべてフィリップやテリーの妄想だとしてもそれは疑い得ない。そうすると、もしもそれ以外はみな登場人物の妄想だとすれば、結局ここで起きているのは、ヒッチコックの「サイコ」みたいなことで、一人の妄想狂の女(テリー)が色々妄想を振りまいて周囲の人間を不安と恐怖に陥れたあげく、自分もまた自身の妄想と現実とが不分明な中で、現実に殺人を犯してしまった、というだけのことになってしまうでしょう。
テリーやフィリップの陰謀説や秘密結社説が、あまりに無根拠で子供じみているので、かえって、これはみなテリーという妄想狂の考えた世界であって、周囲の人間がこれに巻き込まれ、振り回されたにすぎない、と見た方がむしろ自然にも思えます。しかし、そこは確定的に描かれてはいません。フィリップは現実のマッカーシズムに逐われてパリへ事実上亡命してきた人間ですから、被害妄想に囚われやすい状況にあるでしょうから、一番テリーの影響を受けやすくて、むしろテリーの陰謀説を誇張的に振りまく役割を果たしているとも考えられるでしょう。スペインの人民戦線側の闘士だった妹をもつらしい自殺した(とすれば)ファンも、おそらく同じ政治思想的立場で事実上パリへ亡命してきていたと考えられるようなスペイン人だから、フィリップと同様の政治亡命犯に固有の恐れ、不安、強迫観念にとらわれていた可能性があります。また、彼を援けてきた友人たち、ジェラールやピエールもおそらくはそうしたシンパサイザーとして、なおヨーロッパで隠然たる力を維持していたファシズム勢力に対する不安、恐れ、強迫観念を多かれ少なかれ共有する立場にあったわけで、テリーの陰謀説に感化されやすい友人たちであったとも考えられましょう。
つまりテリーが「サイコ」のアンソニー・パーキンスのような存在(笑)だと仮定すると、ここに描かれた世界は、ファシストたちの秘密結社による陰謀説という彼女の異常な心理が生み出した妄想の世界であり、それに感化される条件を多かれ少なかれ具えていた友人サークル内部の自己崩壊だということになるでしょうか。
ただ、繰り返し書いているように、この映画の作り手は、そうだ、と断定してこの作品をつくっていないわけで、そうかもしれない、というほのめかしをしながら、そうではないかもしれない可能性をもほのめかしながら、最後までいずれとも決めつけずに、ただそうした妄想と現実との境が判然としなくなるような世界のリアリティだけを、現実に右往左往して謎を探ろうとするアンナの目を通して示しているわけです。
もちろんフリップが現実に隆盛をきわめたマッカーシズムに逐われて亡命してきたことは事実だし、「(ファンが?)ファランヘ党の指示で殺された」というファンの妹の手紙があるとフィリップがアンヌに語る場面があって、手紙を見た事実はフィリップの妄想とは考えられないし、スペイン内戦の結果ファシストが政権を維持して人民戦線の生き残りを弾圧した歴史的事実など、当時のヨーロッパの現実の政治・社会情勢が背景にあることは確かで、いかにテリーらの秘密結社妄想、陰謀妄想が幼稚なもので、本当に妄想にすぎなかったとしても、それを生む背景がこの作品を生む背景として、またこの作品の世界の背景として、一定のリアリティをもっていたことは疑いのないところです。だからといって、いまの日本に住む私たちには当時のパリの進歩的インテリゲンチャの置かれた精神状況はわからんだろう、というわけで、テリーらの妄想にリアリティがある、と評価するとすれば、それはおかしなことだと思います。あれはいま見ようが当時見ようが、またパリに居て見ようが(笑)、リアリティのある妄想ではありません。何の根拠もないし、妄想の中身も幼稚きわまりない子供の秘密結社ゴッコの概念のようなものに過ぎないのですから。そんなことはこの映画の作り手は判り切ったこととして、戯画的に誇張したり(フィリップ)、わざと大真面目に(テリー)描いたに違いないので、それでも、だからといってすべてが彼女らの妄想であった、と断じることができないようにだけはちゃんと描いてみせているわけで、だからこそこの作品が状況を映し出す作品たりえたのではないでしょうか。
ところで、最初に述べたこの物語に設定された二つの軸、一つは秘密結社&陰謀をキーワードとするつながりが広げていく系で、いままで述べて来たとおりですが、もうひとつの軸であるジェラールが演出する舞台のリハーサルに関わる系はどうでしょうか。なぜそんなものが必要だったのか。演劇を持ってきたのはリヴェットの経て来た体験的なものもあるでしょうし、演劇を介して映画を革新してきたようなところもあるようですから、そういう背景はあるかもしれないけれど、それは作品の外部事情にすぎず、作品世界での必然性にはかかわりがありません。
もちろん一番浅いところで掬い取れば、そこで登場人物たちが出会い、揃っていく場として適当な場だということは便宜主義でいけばありますよね。アンヌは偶然にジェラールに出会うようにみえるけれど、文学部に属して、もともと演劇には興味があって、ジェラールが上演しようとしているシェイクスピアの「ペリクリーズ」も読んでいて的確な意見を述べ、朗読にも演技者としてもすっと入っていける条件を備えていたわけですし、兄のピエール、ジェラールがこの時点でつきあっているテリー、それにつらなるフィリップ、そして不在(すでに亡くなった)ファンも、この磁場を介してつながっていくわけです。
しかし、そういう登場人物が出会い、つながる場としての便宜主義的な使い方としてこの演劇というのが出てくるのか、というと、たぶん違うんじゃないかと思います。本当は「ペリクリーズ」を読んでから考えればわかるのかもしれませんが、きっとその演劇の中身、アンヌがジェラールに意見を求められて語るようなその内容が、この「パリはわれらのもの」の世界とパラレルな関係にあるのではないでしょうか。まったくのあてずっぽうに過ぎませんが(笑)。
それは、もちろんアンヌが述べた、「まとまりがない・・・でもつながっているすべてに・・・ちぐはぐさがいい・・・」というような作品の世界だということに示唆されて勝手な推測を逞しくしているわけですが、それだけではなくて、このジェラール演出の劇団による公演のたどる運命をみると、やっぱりこの「パリはわれらのもの」の世界とパラレルな構造をもっていて、それを象徴するようなひな型を入れ子構造としてこういう劇団を描くことでつくっておいたんじゃないか、という気がします。
というのは、ジェラールの主宰する劇団は、シテ劇場の予定プログラムに穴があいたのを埋めるために突然降ってわいた公演のチャンスをつかみ、ジェラールたちは意気揚々と劇場へ乗り込むわけです。ところが、劇場側の上層部の指示した条件で、アンヌをはじめ、劇場側が要らぬと考える役者ははじかれて、首をすげかえられるし、それで替わった役者が役者の分際で演出家ジェラールの演出を否定してつまらない所作を提案し、それをまた上層部の男が肯定してジェラールの反対はつぶされ、さらにジェラールの演出にはなかった船まで登場する、という。もう演出家としてのジェラールは機能しなくなって、彼は辞任していくわけです。
これはつまり、商業演劇の世界で、資本の論理がジェラールらの芸術創造の論理より力をもち、簡単に演劇のありよう、つまり役者の位置も動き方もセリフも道具類もみな鶴の一声で変えてしまい、もとのありようをほしいままに変え、また必要ないと思えば消してしまうことができるわけです。この構造は、テリーの「妄想」が語る、秘密裏に世界を支配し、ほしいままに人を操り、ときには人を消すこともできるという「秘密結社」の「陰謀」の支配する世界と変わるところがないでしょう。ジェラールの思い描くような公演の夢は実現することなく、舞台で演じられるのは、その舞台の背後の暗がりで支配する資本の論理がほしいままに動かす役者らの動きであり、セリフであり、道具類であって、それとは異なる夢を持った個人は演劇の世界そのものからはじき出され、つぶされ、ときに文字通り消されていくほかはなかったのです。
(あまり長くなるので、今回の「手当たり次第に」はここらで休憩します。実はほんとうのここ二、三日にみた映画はこれからなのですが・・・笑)
でもいずれにせよ、受動的に上映される作品を受け止めるだけなので、そういうのから触発されて、同じ監督の作品をレンタルビデオを借りたり、自分でちょっと付け足してDVDを買ってみたりして、少しこの手の作品をつづけて見てみようかな、と思うことがあります。「手当たり次第に」を少しだけ「手当たり次第」から似たような石を見つけてひろっていくみたいな(笑)。
映画ファンならもちろん若いころに見ているような著名な作品ばかりですが、映画ファンがそういった作品群をみて映画ファンになったような作品を若いころほとんど見ていなくて、映画史的な関心以外のきっかけでたまたま一つ二つ見ている作品もある、という程度なので、逆にいま初めて見るそれらの作品を新鮮な気持ちで楽しめるところもあります。きょうもそんな中から、忘れないうちに走り書きの感想です。いきなりSNSに書き込んでいくので、いつも誤字脱字だけあとで読み直す機会があれば直すようにはしていますが、御見苦しい点、ご容赦を。
(「ここ二、三日」で書くつもりが、老々介護に家族のお誕生日会やら共同庭の掃除やら、出町座、文博館通いやらしているうち、あっという間に1週間はすぐ過ぎ去ってしまい、「ここ1週間」とか「ここ10日間」にタイトルをあらためないといけないほどになってしまいますが、まぁこのまま続けることにします・・・)
獅子座(エリック・ロメール監督) 1959
フランスのヌーヴェル・バーグと言われた作品群のひとつで、エリック・ロメールの長編デビュー作だそうで、古いモノクロ映画ですが、いまみても主人公が落ちぶれて、眩い陽射しの降り注ぐパリの石畳をフラフラになってさまよう姿をしつこく追っかけるこだわりようが、とても面白くて、楽しめました。
パリに住んでいるけれど、アメリカ生まれの、いかにもアメリカ人らしい、調子がよくて、考えも行動も粗雑で、行き当たりばったり、とても音楽家とは思えないほどまるで繊細さとは無縁の、無神経で無鉄砲な38歳の作曲家ピエールは、6月22日、富豪の伯母が死んで莫大な遺産を従兄と共に受け継ぐことになったという電報を受け取って、すぐに親友のジャン=フランソワをはじめとする友人・知人、その場に居合わせる誰彼とはなしに声をかけ、自分のマンションの部屋に招いてどんちゃん騒ぎ。俺は獅子座の男、俺の星は金星だ、と夜の11時に部屋から金星めがけて銃をぶっ放したりするような男です。
ところがその後伯母の遺言がみつかって、遺産はすべて従兄が継ぎ、ピエールはまったくもらえないことが判明。もともとルーズな暮らし方をしていたピエールは、どんちゃん騒ぎの費用も借金だし、家賃も滞納して払えず、家主から追い出され、ホテルもその日の代金も前払いできない状態で、締め出されて泊まるところもない状態になってしまいます。
裕福な友人たちに助けを求めようとしますが、ちょうど夏の休暇シーズンに入って、みなパリを離れていたりして、連絡もつきません。7月の末には、露店の古本屋に本を売ってようやく食事にありついたり、仕事を紹介されたところへ電車賃もないので郊外へ歩いていったところが相手は不在であったり、腹を空かして捨てられた食材を拾って食べたり、河を流れてきた食べ物らしき袋を拾って食べようとしたり、とうとう万引きまでして殴られたり、子どもづれの夫人がベンチに置いてちょっと離れたすきに失敬しようとしたり、というところまで落ちぶれ、腹ペコだし夏の日差しの中を、底のはがれた靴で歩き回って疲れ果て、セーヌ川のほとりでへたり込んでしまいます。
そんな彼に食べ物をめぐんでくれて、仲間にしてくれたのは、ベビーカーを押して街を歩いては街頭やレストランのウィンドウ越しに道化芸をみせて笑いをとっては小銭を恵んでもらうお乞食さんの男。ピエールは彼と行動を共にし、ベビーカーに乗ってパリの街を彷徨する身です。
8月22日、休暇シーズンが終わり、友人たちがパリに戻ってきます。親友だったジャン=フランソワは同じ友人仲間だったフィリップから、ピエールが無一文になって助けを求めてきたが断ったという話を聞きますが、誰もピエールの行方を知りません。
ところが、そんなとき、莫大な遺産を受け継ぐはずだったピエールの従兄が自動車事故で亡くなり、ピエールに再びその遺産が転がり込むことになったという新聞記事が出て、ピエールのもとの住まいを訪ねていたジャン=フランソワは彼宛てに届いた公証人からの通知を手にして彼を探そうとしますが杳として行方が知れません。
いつものように或るレストランのウィンドウの外で、中の客に向けて道化をして小銭稼ぎをしていた浮浪者のいまでは相棒のピエールが、レストランの中で演奏していたヴァイオリニストの楽器を貸せと言って、自分がひきはじめます。そこへ入って来たジャン=フランソワが演奏する男を見て、それがピエールのなれの果ての姿であることに気づいて、ようやく再会を果たします。
今度こそ本当に自分が莫大な遺産を継ぐことを知らされたピエールは、「みんなうちへ来いよ!」と友人の車に乗って去っていく、という皮肉なハッピーエンド(笑)。
この作品の見どころはどこか。最初は粗雑なやつだけれど、裕福な友人・知人のサークルとおつきあいもある普通の身なりをしたいちおう作曲や演奏の才能もある中年紳士としての体裁を保っていたピエールが、たまたま遺産が転がり込む話でどんちゃん騒ぎをしたのをきっかけに、その話がパアになって無一文になったとたんに、急速に転落の道をたどっていく姿が、文字通り彼の衣服や靴の状態や髭づら、空腹、疲労の表情等々の変化として克明にたどられ、友人の助けを求め、仕事を求め、宿をもとめ、食べ物を求めて、夏の日差しの照り付けるパリの街を歩き回る、孤独でみじめな姿を延々と撮っていく、それに従って当然彼が歩き回るパリの街の姿もまたとらえられていく、そこにこの映画のみどころがあります。
そのパリはピエールがしばしば訪れるセーヌ川も、彼が対岸に仰ぎ見るノートルダム寺院も、石畳の街並みも、ピエールがへたり込んだり、子供や婦人たちが憩う公園や川辺の木陰のベンチなど、何気ない光景も美しい。でもピエールはその街を空腹と疲労に倒れそうになって歩き回りながら、「汚い街だ!猥雑な街だ!」と街を呪詛する言葉を吐きます。彼が落ちぶれていくと同時に、彼にとって、彼が馴染んできたパリの街はどんどんよそよそしいものになり、いわば他人化して、汚い、猥雑な、へどの出るような街に変わっていってしまいます。
でもそれはあくまでもピエールにとって、であって、私たち観客にとっては、どんどん汚く、猥雑になっていくのはピエールのほうなので、そういう彼が徘徊するパリの街はとても美しく、ただ夏の日差しだけがやや強すぎて、ピエールにはきついだろうな、という印象を与え、かつ暑い日差しのパリが印象づけられます。
実際、どんどん汚らしくなっていくピエールですが、家賃を滞納して信用を失ったマンションやホテル、あるいは万引きした店の店主はともかくも、公園のベンチで語り合う女性たちと同じベンチに腰かけても避けられる様子もなく、また母親らしい婦人と子供が遊ぶ河畔のベンチに腰かけていても、警戒されるふうもありません。そして、彼が上着を逆さにして転がり出た小銭で、辛うじて6フランを手にし、パン屋で6フランでバケットを、と言ったら店員の女性は9フランのバケットを持ってきて、6フランしかない、と言うと、6フランでいいわ、とそのパンを渡してくれるのです。また、浮浪者としてレストランの客に向けて道化のまねごとをして小銭を恵んでもらう乞食に対する客たちの態度も、決して見ていて苛立たしいものではなく、むしろ穏やかな寛容を示すものでしかありません。
こんなふうにパリの人々も、落ちぶれた彼に対して、避けたり嫌ったりするわけでもなく、とくに都会だからといって冷たい人々にもみえない、むしろ温かいところをみせる、ごくふつうの街の人々でしかありません。
にも関わらず、ピエールはこの街に呪詛のつぶやきを履き続けるので、そのこと自体がピエールがどんどん落ちていく姿、自業自得で尾羽打ち枯らした彼がこの街から拒まれているように感じていくこと、自分でパリの街を他人化して、その美しさや温かさから疎隔されていくありようを示しているようで、印象に残りました。
バーニング(イ・チャンドン監督) 2018
村上春樹の短編「納屋を焼く」の映画化だというので、期待して見に行きました。珍しく京都シネマで(笑)。私のとっている新聞、朝日でも日経でも、この作品をそれだけで取り上げて比較的好意的な評価をしていました。でも、私はこれは原作とは全然違う作品だな、と思いました。
もちろん話の構成は、少なくとも結末以外は原作の構成をそのまま借りたことは一目瞭然だし、登場人物の、たとえばミカンの皮むきのパントマイムみたいな独創的なシーンやそこでのセリフまでそっくりそのまま使っているから、原作の映画化というのは形としてはそのとおりです。
しかし、この映画は小説で言えば純文学というよりエンターテインメントであるジャンル小説としての推理小説、犯罪小説に属するものなんだろうと思います。
村上春樹の作品では、もちろんこの映画のような結末のシーンはありませんし、それだけではなくて、そういう結末を暗示したり、実はこうだったんですよ、というようなことを匂わせたり、方向づけたりするような要素は私の記憶する限りは無かったと思います。文字通り、彼女はふっつりといなくなるし、納屋が「わたし」の綿密な調査では焼かれていないはずなのに、男がもう焼いた、というのも、「わたし」にとっても、読者にとっても謎のまま残されていたと思います。
謎が謎として残されるのは、作者にはちゃんと明確な結末があって、そこをわざと隠蔽し、省略し、曖昧にしている、ということとは全く別のことだと思います。もしもそうであるならば、この映画のように、無数の暗示させる(実際には顕在化させている)伏線的要素をあらかじめ作品のうちに散りばめて、その物語の内的な運動が指し示すゴールに向かう必然性をかならずや与えるはずで、作品のうちに書かれていないものによってその作品を語ることはできません。
この映画作品では、村上春樹の「原作」とは全く異なって、映画の作り手には、最初からこれは男ベンが女へミを殺す、作品自体には明示的映像として現れはしないけれど、物語の見えない着地点が明確に見えていて、その着地点だけは見せないけれども、あらゆる明示的な要素がその見えない着地点へ向かうベクトルになるように作品自体が作られています。
語り手が「原作」のように既に名の知られた作家で、彼女が旅行先で連れて帰る男のほうが、彼が知られた作家だから興味をもったという若造であるのに対して、映画では語り手のジョンスのほうが頼りない若造で、彼女が連れて帰る男のほうが海千山千の年上の男であるという設定自体も、この作品なりの(「原作」とはまるで異なる)必然性に沿って変更されています。
ベンが色んな国で拾って来たらしい若い女たちを集めたパーティーと、そのパーティーで語る女たちの話にまったく興味がなさそうな顔してあくびばかりしているベンの姿とか、ベンの家のトイレの引き出しにストックされた女たちの数々のアクセサリー、とりわけ最初の出会いのころにジョンスがへミに与えた景品のピンクのバンドのついた安物の腕時計とか、ジョンスがヘミから旅行中の餌やりを頼まれた猫がヘミが消えたあとベンのところにいて、逃げたのを探していて、ジョンスがヘミのつけた猫の名を呼ぶとすり寄ってきて、ベンは自分が拾ってきた猫だと嘘を言っていたがまさにそれはヘミの飼いネコだったことがわかる場面とか、それこそ、これでもか、これでもか、というくらい「物証」を挙げて、この作品はベンが青髭みたいな若い女性の連続殺人者で、ヘミもその犠牲になったんですよ、ということを語っています。
いや、それは決定的な「証拠」にはならないよ、というのは、現実の裁判の証拠と混同しているからであって、そりゃ退屈な話にあくびくらいするさ、アクセサリーは別に殺した女から奪ったわけじゃなくてプレゼント用のストックさ、ピンクのバンドの安物の景品時計なんか類似商品がいくらでもあるさ、猫が自分の名を呼ばれたからって理解している、って生物学的に厳密に立証できるのか?とか(笑)いくらでも弁護人は反論できますからね。
でも映画の映像として先に挙げたような場面を出すということは、映画的には明白な「証拠」でなくてはなりません。そうでなければ逆に、なぜそういう場面があるのか、まったく意味のない、たんに観客を混乱させ、惑わせるためだけのお遊びで、それこそ支離滅裂なC級映画になってしまいます。この映画ではそれらの要素がみな同じ方位を指すベクトルをもっているので、たとえ監督さんが、いや俺の意図はそうじゃなかったんだけどなぁ、なんて無責任なことを言ったとしても(笑)、作品自体がそれを示しているのだから、そういう見方しかできないようになっています。小説であれ映画であれ、作品として作って不特定多数の他者の前に公開してしまえば、もはや作り手の「意図」などに還元してしまうことはできません。
中学生のころ現代国語の時間に、志賀直哉の短編など教科書に載っているのを読んで、この部分はどういう意味か?と解釈させられることがよくあった折に、先生の解釈が疑問で、そんなこと作者が生きていたら訊けば分かるじゃないか、と不満に思っていたことがあったけれど、そのときは深くも考えずにいました。大学へ入りたてのころ、武谷光男がニールス・ボーアの相補性原理を批判して、すぐれた理論物理学者もしばしば自分のやっていることを間違った解釈で語る、と書いていたのを、なるほどなぁと思って読んだ覚えがあり、芸術家が自分の作品を語るときも同じなんだろうな、と思ったり、マルクスがどこでだったか忘れたけれど、歴史を生きている渦中にある人間にはその歴史的意味を理解することは困難(あるいは不可能)だ、という意味のことを書いているのを読んで、あれも同じことを言っているんだろうな、と考えたりしていたことがありました。いまも私のものの見方の根幹を作っていることの一つです。
これも何十年か前に、テレビドラマで、そのころ人気のあった若い女優さんが、ふだんは清楚で従順なお嬢さんにしか見えないけれども、親に隠れて援助交際で男とひそかにつきあい、或る時は友達の家に泊まると言って、ひそかに男とハワイだかグアムだかへ行ってくるくるような日常を送っている女子高生を演じたことがあります。
母親が娘の引き出しにその証拠を見つけて問いつめ、こんなことをして自分がどうなるか、将来どうなるか、と嘆き、責める場面で、娘が母親の一般的な道徳律による裁断に対して、そんな先のことどうなるか分からないじゃないの、というように抗うと、母親が、あんたも大人になったらわかるわよ、とか、私の歳になればわかるわ、とか、もう少し生きて見たらわかるわよ、というような意味のことを言うのです。それに対して娘が返した言葉が「生きてみなきゃわからないじゃないの!」でした。このセリフにまだ若かった私はいたく感動したものです。
この娘にとっては、いま幼いかもしれない、無知かもしれないけれど、自分の感性と身体を挙げて、リスクを負って、全力で自分自身の生を生きていくことでしか、なぜ生きなくてはならないのか、なぜあれをしてはいけない、これはいいのか、どんな些細なことも自分自身で本当に心の底から納得して生きることはできないじゃないか、ということでしょう。そうでなければ、いつも親や先生や世間が外部から与えられる規範に従って生きるしかないし、それは自分の人生じゃないよ!というのが、その少女の言いたいことだったでしょう。
人は生きて見なければ生きるとはどういうことか分からないし、生きている渦中にあるとき、人は地べたを這う蟻のように生きることはできても、その生の意味を鳥のような目で俯瞰してとらえることはできない・・・矛盾するようでもあり、結局人生不可解みたいなことになってしまいそうですが(笑)、でも私が色んなことを考える上で、こんなものの見方が基本になっているように感じます。さて、閑話休題。話をこの映画に戻しましょう(笑)。
「原作」とは違って、この映画では、納屋ならぬ「ビニールハウス」を焼くことが、殺人のメタファーになっていることはあきらかですが、それは他のあらゆる要素のベクトルが示すとおり、ベンが殺人者だからこそ、明確にその言葉が殺人のメタファーだと言えるのだと思います。
この作品の結末部分には、韓国社会の階級的格差みたいなものとそれに対する怒りの爆発というようなことを感じさせるところがあります。ベンという男は単なる殺人者というだけでなく、貿易関係の仕事をしているとかいうけれど、なにか汗水たらして働いているようには見えないくせに高級マンションで女たちと享楽の日々を過ごし、世界を旅行してまわり、外車を乗り回しているような有閑階級らしいし、語り手のジョンスのほうは貧しい出身のようです。
また、ジョンスの父子関係も結末に至る成り行きの背景として暗示されています。一度だけあらわれるビニールハウスが焼かれる炎を少年がみつめるシーンは、ビニールハウスに火をつけるベンではなくて、ジョンスの幼いころの悪夢だったと思います。ジョンスの父親は暴力事件で裁判中で最終的に有罪の判決を受ける、という話の本筋と一件無関係な話が出てきますが、ジョンスがこの父親の暴力の血筋を引いている、ということでしょうし、それがラストシーンにつながっています。それは階級的な差別に抗う者の怒りの爆発としての暴力なのでしょう。
そういう意味では、この作品は村上春樹の「納屋を焼く」からストーリー、プロット、セリフなどみな借りているけれども、本質的にはその「原作」とは似ても似つかぬものを目指していて、むしろフォークナーの ”Barn burning" と相通じるものがあるように思います。フォークナーのこの短編はもちろんストーリーはまったく今回の物語とは関係がありませんが、やっぱり自分の敵とみなした農家の納屋に放火して燃やしてしまって息子にも世の中には敵か味方かしかいないんだみたいなめちゃくちゃな理屈で裁判官の前で嘘をつかせるような男が登場して、息子も父の暴力的な性格を恐れているような小説でしたから、父子関係や暴力が主題として通じるところがあるように感じます。
この映画の英語のタイトルがたしか"Barn burning"でしたから、フォークナーの短編と同じです。村上春樹の「納屋を焼く」のほうも英訳はそうだから、それでどうこう、というわけではありませんが・・・そして、もともと村上春樹の短編自体が、フォークナーの作品から或る示唆というか刺激を受けて、まったく別の形で成立したものかもしれません。作家のエッセイとか証言で確かめているわけではないから単なる思いつきの想像ですが、こういうタイトルをつけてフォークナーの結構有名な短編を意識していないはずはない、と思うからです。そう考えれば村上春樹の「原作」も、納屋を焼くことに、得体のしれない暴力的なもののイメージを込めたのかもしれません。
でも、それは百歩譲ってそうだとしても、この映画の解釈(それが原作の「解釈」だとして見たときに)のように、殺人の意図をあらわにした殺人者による殺人ではないでしょう。それは作中の青年の言葉にあったように、焼かれるのを待っている存在、ということのほうに力点があるような、それを消滅させてしまう力ということになるでしょう。或いはそういうものを村上春樹の「原作」は暗示しているかもしれません。そこまで抽象度を高くすれば、それは可能な解釈だと思います。それなら、村上春樹の短編はこの映画のおどろおどろしい場面よりも、ずっと怖いです。
ところで、この映画には美しい場面がいくつもあります。ヘミが半裸でダンスする場面がその中でもとりわけ素敵でした。
ジョンスを演じたユ・アインは、「六龍が飛ぶ」でしたか、テレビの韓流史劇の第五王子の役で、父に事実上の謀反をして幼い弟らを斬り殺す、板挟みの心情を見事な表情の演技で感心させた若手俳優ですが、この「バーニング」では、いつも少し口をあけた、あまり鋭敏な回転の速い青年ではなく、実は心中深くには父親から受け継いだ暴力性や屈折した田舎者の心情、性格を秘めているのでしょうが、物語の中では主として、ヘミやベンに翻弄され続ける、少し頭の硬いうすぼんやりした青年を演じているので、表情も豊かとはいえず、その演技派ぶりを十分に引き出す機会を与えられていないように思いました。
美しき諍い女(ジャック・リヴェット監督) 1991
これはDVDで見たのですが、素晴らしい映画でした。ほぼ4時間の長尺ですが、全然飽きることがありませんでした。それは別に「無修正」(こういうことをこんな映画についてでも言わなくてはならないんですかね・・・笑)のエマニュエル・べアールの肢体のせいではありません。
この作品はバルザックの短編「知られざる傑作」を原作としていますが、原作では描かれない、老画家の画業が逐一映像化されて目の前に展開される、そこが見どころです。
完成した「美しき諍い女」という老画家の畢生の大作はついに私たち観客が見ることができません。その点は原作と同じですが、それを描くために、一番最初の、ペンにインクをつけて画帳にガリガリとどちらかと言えば不快な擦過音を聴かせながら荒っぽく描いていく線画や指にインクをつけて塗りつけたりぼかしたりする手法から、デッサン用木炭で大きなキャンバスに描いていく、それから絵具をつけた絵筆で描いていく、そういう過程を丁寧に全部手元で見せてくれます。それがプロの画家の手で見せてくれているらしくて、ざっくり描いていくのですが、見事なもので、なんだか素人には魔法のように思えるほどです。
肝心のモデルであるマリアンヌのほうは、たしかに終始「無修正」の全裸をさらしているけれど、全然セクシーでもエロティックでもありません。むしろ結構がっしりとした体つきだなぁ、逞しい身体だなぁ、なんて思うけれど、いわゆる色気はないのです。なぜかというと、それは徹底的に老画家の目にあわせて映像自体が、この女性を客体としてのモデルとしてしかみていないからです。オブジェ、絵を描かれる対象としての物体でしかないのです。最初から画家の中にあるエロティシズムの観念なり情欲なりのフィルターで見るのではなくて、まったく客観的にそこに存在するオブジェでしかないものを描きとる中で、そのオブジェがほんとうは一個の人間としてか女性としてか生きた存在として持っている内面が立ち現れてくる。それまではただ外観を見ても、そこにオブジェとしての身体があるだけ、ということになるでしょうか。
この画家の視線≒観客の視線と描かれるオブジェとしてのマリアンヌという女性との関係、その変貌と最終的な「美しき諍い女」という生きた「血の通う」創造物にいたる過程が、この映画で描かれる内容だと言ってもいいでしょう。
もちろん「知られざる傑作」を原作とする物語の結構はちゃんと備えています。かつては、いま妻となっているリズという女性をモデルとして同じタイトルの作品を命がけで描こうとしたけれども、それを完成させずに放棄し、もう描く気力も失せていた老画家フレンホーフェルが、自分を畏敬する若い画家二コラが女友達マリアンヌを伴って訪れたとき、画商にも勧められて、この女性をモデルにすればもう一度あの絵を描いて完成させることができるかもしれない、と思うようになり、まず二コラに話したところ、完成した絵が見たい二コラは勝手に了承してしまいます。
そのことをマリアンヌに話すと、彼女は裸体モデルでしょう、勝手にそんなこと決めて!と怒り、拒む姿勢を見せますが、翌朝になると二コラには告げずに自分で老画家を訪ねて、モデルを了承します。
そこから延々と老画家の彼女をモデルとする創作の過程が描写されます。そのプロセスが最大のみどころで、実にテンションの高い場面の連続です。二コラは自分がOKしたことを後悔し、また、老画家の妻リズは最初は歓迎するかのようにマリアンヌを励まし、助言し、温かく接しますが、次第に嫉妬なのかどうか、自分の過去と絡んで複雑な心理を見せるようになります。
老画家が絵には生きた人間と同じように血が通い生命が宿るのだと考えて、そういう作品をほとんど苦行僧のようにほかのすべてを忘れてめざしているのに対して、彼の妻リズが生命を奪われ血を抜かる鳥の剥製を作っているのは不気味です。
でも別段異常なことが起きるわけではありません。カメラはリズやニコのやきもきするのとは別に、ひたすら「美しき諍い女」の完成を目指して自分に残された全エネルギーを注ぎこもうとする天才老画家と、その厳しい要求に反発も覚えながらも従順に従い、だんだんと難しいアクロバット的なポーズにも耐えていくマリアンヌとの行き詰るような、描くものと描かれるものとの対峙する姿をとらえていきます。
老画家は、マリアンヌに様々なポーズをとらせ、彼女が内面で葛藤しながらその指示に従っていく過程で、マリアンヌを単に肉体の表面において裸にしているだけではなく、その内面をもあらわにし、いわば精神の衣に隠れている精神の裸体を引きずり出すようにしていくようです。
けれども、先にダウンしかかるのは老齢の画家のほうです。もうだめだ、自分には完成できない、というところまで彼は自分を追い詰め、追い詰められていきます。けれども、ちょうどそれと入れ替わるように、それまでは受け身に彼の指示に従い、内面で葛藤しながらも乗り越えてその指示に従い、難しいポーズに身を任せて、内面を少しずつ露わにしてきていたマリアンヌの方が、今度は逆に画家に対して、逃げ出すな、と叱咤し、自分で積極的に敷物を敷いてその上に自分の内面を露出するポーズをとって彼を促します。そうしてまたひたすら二人の行き詰るような対峙、描き、描かれる中で二つの魂が火花を散らして融合して一つの作品へと結実していくようなプロセスが、今度はややテンポを速めて描かれます。
もちろん夜は眠り、食事もするわけですから、その間にマリアンヌはニコと語り、リズは夫と語り、不安を投げかけたり、励ましたり、過去が明らかになったり、いろいろありますが、それはまぁいいでしょう。
ずっとこの老画家がなぜリズを描いて「美しき諍い女」を完成させることができなかったのかが謎でした。マリアンヌが問うたとき、老画家は、「描くよりもまず寝たいと思った」「恐怖を感じた」というふうな言葉で答えていたと思います。じゃなぜやめたの?というマリアンヌに、画家は「どちらかが破滅するから」というような答を返していたと思います。答自体がマリアンヌあるいは観客に対する謎かけのようですが、最後まで見ると、この画家の答は正直で、正確だったんだな、と感じます。
「描くよりもまず寝たいと思った」というのは、リズに関してはモデルつまりオブジェとして見るよりも、女性として見る気持ちを消すことができなかった、ということでしょう。彼は女性としてリズを愛していたからです。そして、「恐怖を感じた」というのは、自分の天賦の画才が、マリアンヌの人間性、その内面を醜悪さも暗さもひっくるめて、あらゆる否定性をも裸にしてさらけ出させてしまうことへの恐れだったに違いありません。そのことが最後に絵を完成してマリアンヌがそれを見た時の反応でわかるようになっています。
老画家が妻をもはや愛しておらず、別れたりしていたなら話は早いけれど、いまも二人は愛し合っている夫婦で、二コラが心配したような、老画家が若いマリアンヌに変な気を起こすような気配などはまったくないのです。それは彼がマリアンヌを純粋にモデル≒オブジェとしか見ていないからで、彼の視線は徹底的に「絶対」の芸術を求める芸術家の視線です。
やがて絵が完成します。老画家自身は満足の面持ちで、アトリエでマリアンヌと芸術家として対峙していたときの激しいテンションから解放されて穏やかなゆとりの表情です。
また、老画家の妻であるリズはひそかに夜中に一人、アトリエに来て、完成した作品を見て、「やっぱり・・・」というふうなつぶやきを漏らして、どちらかと言えば安堵したような、満足したような表情でアトリエを出ていきます。
これに対して、そのあと一人でこの絵を見に来たマリアンヌは、自分を描いたこの絵をみて激しい拒否的な反応を示し、アトリエを飛び出していきます。おそらくそこには、マリアンヌが見たくない自分の姿があったのでしょう。
老画家はこの絵の完成度に満足しているので、おそらくこの絵は画家の願いのとおり、完璧にマリアンヌの内面を裸にしてしまい、その姿をあらわに示す、まさに血の通う、生きた絵になっていたのでしょう。しかし、それはきっとマリアンヌの内面の貧しさなり醜さなり、否定性をあらわにしていたに違いありません。私たちはその絵を見ることができなかったのですが、絵を見たマリアンヌの反応がそれを示していました。
老画家はこの絵を永遠に壁の中に封じ込めてしまいます。もう誰もこの絵を見ることはできないのです。
そして老画家はマリアンヌの背中だけの別の絵を仕上げ、それを画商や二コラたちには「美しき諍い女」の絵として披露します。画商はそれに良い値をつけて売る、と言い、若き画家二コラは、失望して老画家に「同情します」と言って、マリアンヌと共に去っていきます。画家は寛容とゆとりとの表情で彼の言葉を受け、見送ります。
老画家の妻リズは老画家に寄り添い、いい絵だったわ、というような肯定的な評価をし、老画家はもう自分のなしとげたことに満足して穏やかな表情で妻に接します。
こうして最後までみて、先の謎、老画家がなぜリズをモデルとして「美しき諍い女」を完成させずに途中で放棄したのかを、観客は正確に知ることになります。老画家は心の底からずっとこの妻リズを愛していたのだな、ということが画面から確認できるので、おそらく描いていくうちに自分の神業のような天賦の画才が目の前の愛する女性の肉体ばかりか、その内面の衣服をもはぎとり、その精神の裸体を、美しさも醜さも、ありのままに、あまりにもありのままにさらけ出してしまうことに気づいて、怖くなったのではないでしょうか。老画家はマリアンヌに、その「怖さ」ということについては語っていたと思います。
リズを愛するからこそ、その内面をも自分の天分が裸にしてさらけださせることに、この画家は耐えられなかったのでしょう。女性としての愛情をもたないマリアンヌだからこそ、彼は最後まで描けたのでしょう。そのことでマリアンヌは傷つくのですが・・・・まぁ彼には二コラという帰っていく場所があったからいいのですが・・・
こんな種類の映画というのは初めて見ました。そして感動しました。少しも古さを感じさせず、いまも芸術を愛する人なら誰もが見て心を動かされる映画だと思います。
あの頃、君を追いかけた(九把刀 = ギデンズ・コー監督) 2011
ギデンズ・コー監督の作品は先日やはり出町座で見た「怪怪怪怪物!」というマンガみたいなとんでもないホラー映画(笑)で懲りて、もう観まいと思っていたのですが、たまたまほかに見るものがなかったので、台湾シリーズをできるだけ見ておきたいと思って、出町座で見てきました。
今回は、見てよかった!と思いました(笑)。この監督さんはどうも文学で言うと純文学作家じゃなくて、そうかといって大人しい大衆迎合の大衆小説作家でもなくて、ちょっと異端狙いの人(笑)じゃないかという気がします。ちょうど韓国のキム・ギドクみたいな(でもキム・ギドクはどんどん純文学作家に近づこうとしているみたいですけど・・・)
だけどこの作品はどうやら自伝的作品らしくて、それほどケレン味が強くなく、素直な青春ラブロマンスになっていて好感が持てました。ただ、この監督さんらしく(と私が勝手に2本みて推測するだけですが)仲間とつるんでいたずらばかりしている少年を主人公にして、ふざけのめすようなところのある作品になっています。そこがとても良くて、映画館がすいていたせいもあって、久しぶりに声を挙げて笑い、大っぴらにハンカチを取り出して泣きました(笑)。
時は1990年代、舞台は台湾中西部の町、彰化の高校。仲間の男子クラスメイトと、いつもつるんでヤンチャばかりして成績は万年下位の男子高校生コートンが主人公で、ヤンチャが過ぎて、彼は教師から、クラスの優等生シェン・チアイ―の前の席に座るように指示され、彼女の監督を受けるはめになります。
シェンは可愛らしい女の子で、コートンの仲間をはじめクラスの男子の憧れの的ですが、彼女自身は勉強ばかりしているような、どちらかと言えばガリ勉タイプの女の子のようです。教師から言われて渋々コートンの世話を焼き、そのうち自分で模擬試験問題まで作ってコートンにやらせ、採点して返すような個人教授的なことまでやるようになります。
はじめは迷惑そうだったコートンが、それでも渋々シェンの言うとおりに従ううち、二人は次第に親密になっていきます。あるとき珍しく教科書を忘れて来たシェンがカバンの中を探して焦っていると、コートンが自分の教科書を彼女の机の上に投げ出して、自分が忘れてきた罰として椅子を頭にのっけて兎跳びを引き受けます。また或る時はクラスでみなから集めた何かのお金が紛失し、犯人捜しのために、警備員みたいなのが、生徒に、怪しいと思うやつの名を書かせようとします。これに反発したシェンが立ち上がって書くことを拒否し、これに動かされたコートンたちも次々に立ち上がって抗い、シェンやコートンをはじめいつものいたずら仲間たちは罰として両手を上げ、腰をかがめて立たされる罰を一緒に受けます。恥だと泣きながら罰を受けているシェンを、コートンはいまの君は誰よりも美しいと言います。
またある時、コートンは自分が本気でやればシェンをも上回る成績をあげることができると豪語し、試験での勝負を申し出て、もし自分が敗けたら坊主になる、そのかわりもしシェンが敗けたら、髪がたをいまの長くおろした髪をあげてポニーテイルにするように迫り、シェンも了承します。勝負の結果は、コートンも善戦しますが、シェンのほうがやはり上回りました。コートンは散髪屋で坊主頭にしてきます。でも、彼が運動場の見物席で仲間と前を通る女子を眺め、ひやかしているとき、親友の女子と並んで通っていくシェンを見ると、勝負に勝ったのに、シェンの髪はポニーテイルに結われています。
このシーンは本当に素敵でした!
こんな小さなエピソードを積み重ねて次第に親しくなっていく二人の爽やかな青春の姿を描く部分は本当に素敵で、笑いもいっぱいあって、心から楽しめます。
互いに愛情を感じるようになり、つきあってはいたけれど、好きな子には何も言えない本質的にはシャイなコートンで、手も握らずうぶで不器用な付き合い方をするうち、進学の時を迎え、頑張ってきた甲斐あってコートンは希望の大学へ進学しますが、試験当日腹痛に見まわれたシェンは志望校を落ち、教育大学のほうに行くことになります。二人は別れていくことになります。
祭りの日、二人は向き合ってスカイランタンに思い思いの願いの言葉を書いて飛ばします。前に、コートンは好きだと伝え、これからもつきあってくれるか、俺が好きか、という意味の問いかけをしていましたが、シェンは明確に答えていませんでした。このランタンを飛ばす前に、シェンはこの場で答えを言おうと思っていて、コートンに答えが聴きたくない?と言います。答えてくれ、と言われたらすぐに彼女は返事をしたでしょう。でもコートンは、いまは答えないでくれ、と言います。彼は自分にまだ自信がなく、彼女の答によっては、もう会うこともできなくなるかもしれない、という恐れが彼にそう言わせるのです。それで、彼女は何も言わないままにランタンを空へ飛ばします。コートンが書いたのは、世界一すごいやつになる、みたいなマンガ的な「願い」でしたが、その裏側にシェンが書いた文字は「好」、いいよ、つきあうよ、というコートンのかつての問いかけへの答だったのです。
このランタン飛ばしは本当にロマンチックな場面で、よく台湾や韓国の映画、ドラマには登場しますね。日本の灯籠流しは死者の霊を弔う意味で川に浮かび流れて、ひっそりと海の方、闇の世界へと消えていく、数は多くても、静かでしんみりとした行事ですが、スカイランタンは垂直に空へ飛んでいくのを上向きに見上げることもあって、軽やかな飛翔感や華麗さがあり、子どもの夢のように心躍るロマンチックな光景です。
その後、何を思ったか、コートンは自分の肉体的な強さをアピールしようとしたのか、大学で喧嘩大会なるものを主催して自らも選手として参加し、シェンが見る前でボコボコにされます。彼女は「幼稚だ」と怒り、彼はその言葉に逆に憤って反発、彼女を置き去りして別れが決定的になります。
ここのところの設定は、いくら何でも少々不自然ではあるけれど、まぁコートンの幼さ、青春の幼い面が出てしまって、彼らの運命をこう変えちゃった、ってことで呑み込んでおくしかないでしょう。
シェンはコートンの悪友の一人でやはりシェンに憧れていた男子とつきあいますが、五カ月ほどで別れ、やがて別の男と結婚します。
お祝いに集まったかつての悪友たちとシェンの親友でクラスメイトだった子。花嫁にキスを、と悪友たちが懇願し、新郎は「花嫁が良ければ」と言い、シェンがいいわと言うと新郎あわてて「ただし、どんなキスの仕方か、まず私にやってみせてから・・・」と言います。その言葉が終わるか終わらぬかにコートンが新郎に飛びついて、その唇にディープキスをして皆が驚く中、新郎を押し倒してキスし続けます。その間、コートンの頭の中ではキスの相手はシェンに変わっていて、それまでのシェンと過ごした日々の思い出の場面が走馬灯のように入れ替わり立ち替わり登場します。
このシーンは泣かずに見れません。こういう回想シーンはもうお決まりの手だと思いつつも泣かされてしまいます。ちょうど「ニューシネマパラダイス」のラストで、映画館で子どもの自分を助手にして可愛がってくれた撮影技師の爺さんが、自分が不道徳だと思ったキスシーンを全部カットしていた、そのフィルムだけを全部つなぎ合わせて一巻のテープにしたのを、いまでは都市へ出て映画監督として成功し、爺さんの葬儀で何十年ぶりかで故郷の街へ帰ってきた彼に、爺さんが彼にと残したテープを見るあのシーンと同じです!自分が爺さんと一緒に映写機にかけたフィルムの一本一本、そのフィルムから切り取られたキスシーンばかりが、次々にスクリーンに映し出される。それを彼がひとりで見るシーンですね。あれを見て泣かない人はいないでしょう。
ほんとうに愉しませてもらった映画でした。物語りが終わり、クレジットが流れたあとに、メイキングのNG場面があって、最後の最後まで笑わせてくれました。
美しきセルジュ(クロード・シャブロル監督) 1999
フランスの田舎町なのでしょう。むこうに高い丘や林が見えカーブする一本道をバスが走ってきて村に入り、一人のちょっとおしゃれな感じの青年が降り立ち、友人が迎えます。どうやら肺結核を病んでいるらしく、夏はスイスで、冬はこの村で静養するように、ということで12年のブランクの後に故郷へ戻って来たらしい。
皮ジャンの背を少しかがめたような姿勢で向こうへ行く男を、「セルジュか?」と懐かしそうに呼び止めます。男は半ば振り返りますが、そのまま向こうを向いて行ってしまいます。迎えに来ていた友人は、その男がへべれけなんだ、と言います。
物語はこの肺病病みのフランソワ・バイヨンと、かつての親友だがいまは義父グロモーといつもつるんで飲んだくれてへべれけになっている村の鼻つまみ者のセルジュとを軸とする、セルジュの妻イヴォンヌ、同居するその妹マリー、そして妻たちの「父親」グロモーらとの間の、人間くさい関係が中心です。
セルジュはすっかり頽落してしまった自分に愛想をつかしていて、なかなかかつての親友フランソワと旧交をあたためようとはせず、避けているふしがあります。フランソワはそうした旧友の姿が気にかかり、積極的にセルジュを訪ね、或る意味でその家庭に幾分か土足で踏み込んでいくようなところがあります。
ネタバレ的にさっさと言ってしまえば、セルジュと妻の関係は、二人の最初の子供が障害が原因の死産だったので、医者は次に生まれる子もそうなると決め込んでいる状況で、それ以来ぎくしゃくしたものがあります。
そして、セルジュは妻イヴォンヌの妹でまだ17歳のマリーと関係して(一度だけとマリーは言いますが)酔っ払った時それを妻にも打ち明けたために、同居しているけれど、三者の間には緊張関係があります。マリーはまだ17歳だけれど、性に関しては既に大人びていて、セルジュによれば「あいつはセックスのことしか頭にない」少女で、フランソワに関心を持ち、近づきます。
その上、マリーの父親ということになっているグロモーですが、亡くなった母が打ち明けたところでは実はマリーの実の父親はほかにいてグロモーではなく、マリーは不倫の子であり、このことはマリー本人を含めてほかの周囲のみんなが知っていてグロモー本人だけ知らない、というわけです。ところが、セルジュの家に出入りしているうちに親しく言葉をかわし、未成年だけれど女性としてのマリーに惹かれていくフランソワは、マリーからグロモーが実の父ではないことを聞かされます。
そして、あるときフランソワは酒場でグロモーにからまれ、「未成年の娘にちょっかいを出すなどけしからん」みたいな言いがかりをつけられたうえ、「父親のこの俺が言うのだぞ」と繰り返しマリーの父親であることを強調し、しまいには「俺はマリーの父親だ、そうだな?」としつこく食い下がるので、フランソワはとうとう「(あんたはマリーの)父親じゃない」とホントウノコトを言い放ってしまいます。
するとグロモーはとたんにその脅迫的な態度が変わり、勝ち誇ったように笑いだして、ほら、とうとうこの男が証拠を見せたぞ、というようなことを言い、マリーから聴いて知ったであろうフランソワの言葉を、自分がマリーの父親ではないらしい、という彼自身が以前から持っていた疑念の確証とみなして、そのことを確信します。そして、その直後にグロモーはセルジュの留守宅へ行き、一人でいた「自分の本当の娘」ではないことを確信したマリーを凌辱します。フランソワは墓場へ逃げるグロモーをつかまえて激しく殴打しますが、後の祭りです。フランソワはセルジュにこのことを伝えますが、セルジュはむしろグロモーの弁明の言葉をなぞるかのように、自分の娘でもない若い女と同居して3年間も我慢したんだ、と同情的な言葉さえ漏らすのでした。
フランソワは村の教会の神父とも親しく何度か話す場面があります。そのつと最初は互いに紳士的に言葉を交わしているけれど、基本的に信仰薄く、教会は村人たちの苦を少しも救おうとしてこなかったし、お説教をして、ただ祈れ、というだけの口ばかりの存在だと考えているフランソワの態度は、話をするうちに漏れ出てしまい、傲慢だと神父の怒りを買います。けれどもフランソワは、じゃ神父は行動するのか?と反問し、自分はセルジュを救いたいのだ、村人を助けるために自分は行動する、と神父と教会に訣別します。
彼は変わり果ててしまった、かつての親友とその一家を、彼の言葉で言えばなんとか「救いたい」と考えて行動し、繰り返しセルジュの家を訪ね、セルジュの相談に乗ろうとし、そのつど拒まれたり避けられたりして落胆し、肩透かしをくらい、そんな中でマリーとも親しくなり、セルジュの家庭の複雑さを知っていきます。はじめはセルジュの妻イヴォンヌのことが嫌いで、セルジュに彼女といたら幸せになれない、別れるべきだ、と助言したりしていたフランソワですが、徐々にイヴォンヌとも接して、当初のイメージがくつがえされていきます。
ダンス会場でマリーと踊るセルジュ。一人で座っているイヴォンヌは先に帰っていく。それを送って行けと勧めるフランソワを断り、マリーとダンスを続けるセルジュ。言い争いになり、フランソワを殴り倒して、お前にはうんざりなんだ、とマリーとの見直しにいくセルジュ、といった場面があり、宿のおかみから、ここにいてもあんたは苦しむだけだよ、帰りなさい、と村を出ることを勧められ、神父からも村を離れよと忠告されます。しかしフランソワはセルジュは僕を必要としている、と言い、やっとわかりかけてきたんだ、言葉じゃだめだ、手本を必要としている、と言って神父からお前は自分がイエス様のつもりか、と罵られます。しかし、フランソワは「何かをすることが大切なんだ。こもっていたことが間違いだ。外へ出ます。村人を助けるためにー。あなたにできますか?」と言います。
セルジュの妻イヴォンヌは第二子を身ごもっています。彼女が森の中で焚火のための小枝を拾い集めていると、フランソワが来て手伝って運びます。1カ月先に生まれると言っていた赤ん坊でしたが、イヴォンヌの陣痛が始まり、フランソワが報せを聴いてかけつけ、彼女をベッドへ運んで大雪の中、医者を呼びに飛び出します。医者は発作で倒れたグロモーのところだと聞いて、また吹雪の中を歩いてグロモーの所へ行くと、ベッドのグロモーの脇にマリーがついています。医者は、もともと第一子が障害か何かで死産だったので、第二子を孕んだと聞いても、どうせだめだと言っていた男で、このときも、どうせ無駄だ、と動こうとしません。マリーも、医者を連れて行くな、と拒みます。しかし、ベッドに横たわるグロモーは、行ってやれ、と医者を促します。
フランソワは強引に引き連れるようにして医者をイヴォンヌの所へ連れて帰り、取って返して行方不明のセルジュを探しにみなが止めるにも関わらず咳をしながら雪の中へ飛び出していきます。
そしてとうとう洞窟の奥?かなにかで、また酒に酔って眠り込んでいるセルジュを引きずり出し、ようやくの思いで家に連れ帰ります。
そのとき赤ん坊の泣き声が聞こえ、ほっとしますが、その声が途切れて沈黙が訪れ、フランソワは「だめか・・・」と壁に凭れた背からずり落ちていきます。けれど次の瞬間、再び元気のよい赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。セルジュの笑顔のアップ「聴いたか!」と。
この作品では一見どうしようもなく頽落してしまったかに見えるセルジュ、グロモー、マリー、そしてイヴォンヌらが、それぞれに運命に翻弄され、互いに不幸な関係の捩れで傷つけあい、閉塞的な村の環境の中でみなの蔑みや憐れみの視線を浴びながら、自分たちではどうしようもない泥沼であえぐ姿が的確にとらえられていて、ここへ12年ぶりにかえってきたセルジュの親友フランソワが、かつて友人たちの中でも飛び抜けて優秀で親しかったセルジュの変わり果てた姿を見て、その理由をさぐり、なんとか元のセルジュに戻したい、救い出したいと願い、肺結核の身を顧みずに献身的な行動をつらぬいて、セルジュの救いの糸口にたどりつく、という物語です。
どこにも悪者はいないし、酒に溺れて本当に頽落してしまった人間、悪意の人間、欲望だけに囚われた救いのない人間はいません。酒に溺れてへべれけになっても、本当はイヴォンヌへの愛もフランソワへの友情も心の底では失っていないセルジュ、まさに美しきセルジュで、そのありのままの姿を、彼の陥っている閉塞的な環境から救い出そうとするのがフランソワ。そういう一人一人の人間が実に丁寧に描かれています。人の救いに関して無力な教会や神父に対する鋭利な批判もフランソワの口を借りて出てきます。人間の堕落を悪ときめつけ、見放してしまう無力な教会に対して、フランソワは友情によって、かつての親友の人間としてのやさしさや愛情、友情を最後まで疑わずに、埋もれ火のように深く厚い灰の層に埋もれていたそれを必死で掘り出し、掻き立てて、ついには本来の輝きを取り戻させる賭場口までもっていきます。
セルジュが関係をもった妻の妹の17歳のマリーは、小悪魔的な女ではありますが、自分を犯した「父」の瀕死の床に寄り添い、医者を連れて行こうとするフランソワにノー!と拒否します。また、その「父」グロモーは、悪の血筋のおおもとであるかのような男ですが、妻の不倫でマリーが生まれ、そのことを知らない者は自分だけという屈辱的な状態に置かれてきた男で、実はそのことにうすうす気づいて内心真実を知るのを恐れながら、酒浸りになってセルジュとつるんでいたわけで、その背景を知れば、さもありなんと肯定はできないまでも納得はできます。フランソワを挑発して、マリーから彼がマリーの実の父親ではないと聞いたフランソワの口からはっきりと、自分がマリーの父親ではないと聞かされ、すぐにマリーを犯すとんでもない老人なのですが、その彼も発作で倒れ、診察に来ていた医者をフランソワが呼びに来たとき、どうせ赤ん坊は今度もダメと動こうとしない医者を促して、イヴォンヌのところへ行ってやれ、と言うのです。
こんな風に、ひとりひとりの、かなりひどい人物にも救いがあり、人間としての彫りが浅くないところが素晴らしい。根っからの悪人はおらず、みな善悪ともに備え、状況と関係性によって、なるべくしてそうなる必然性をもってそうなっているようにみえてくるのです。みなそれぞれに、驚くような行動、一般的にはどうかと思うような行動をとるけれど、また同時に、それと矛盾するような行動に出たりもします。そして、或る行動をとったことを自分の心中で深く悔やみ、次には変化もします。
主要人物の中で、唯一、最初から最後まで変わらないのは、自信家の神父だけで、彼は自分の言動が正しいと信じて疑わず、つねにその固定した立場、視点からフランソワを批判し、攻撃します。これに対してフランソワは現実の人間関係の中で行動し、自分自身を変えながら手探りで親友を救おうと走り回り、失望し、挫折し、また起き上がって走り出します。その姿は、村人にとっては、長い間村にいなかったために実情を知らない、お坊ちゃん的な理想主義者に見えていたでしょうが、やがてそうではなかったことがわかるでしょう。
挽歌(五所平之助監督) 1957
京都文化博物館での鑑賞です。観客は全員70~80代と思われます(笑)。
釧路に住む元気のいい22歳のわがまま娘(久我美子)が、偶然知り合ったロマンスグレーの中年男(森雅之)のことが好きになり、その家庭に入り込んで男に知られずにその美しい夫人(高峰三枝子)とも親しくなり、可愛がられます。夫人は、若い男性と一度の過ちを過去に持っていて、夫もそれを知っていて寛容な態度をとっていたのですが、もともとその傷から夫に対して後ろめたい想いをして、夫の愛が離れていくのではないか、という怖れ、不安をもっていたのです。その事情を知った娘は、自分が夫人とも親しくなっていたことを男に知られたとき、夫人に男と自分の情事を打ち明けるのですが、そのことがかねて夫人の心に会った不安と怖れを確信に変え、夫が今も自分を赦していないことを知り、自死を選ぶのです。
まぁ、物語はそんなふうにつまらないけれど(笑)、映画自体としてはけっこう見ごたえがありました。それはただただ主役の3人がとてもいいからだったでしょう。
久我美子はもともとたしかお嬢さんタイプの役柄が似あう人で、情事をするようなタイプのお色気のある女優さんではないと思いますが、まだ精神的な幼さ、無鉄砲さ、無防備さの残る年頃の娘を演じて、けっこう好演しています。かえって、そういう幼さ、無鉄砲さ、無防備さを表現するには、彼女のキャラがプラスに働いているかもしれません。
それに、一番驚いたのは、自分の情事を男の妻に告げたときに、自分が可愛がってもらい、本気でその人を好きになった当の女が表情は変えずとも深い衝撃を受ける有り様を見て、悪魔のような笑いの表情を見せる場面。あれはなかなか凄みがあって、ゾクッと鳥肌が立つ感じでした。久我美子にあんな悪女的な表情ができるなんて!
しかし、ここで妻が受ける衝撃は、夫が裏切ったこと自体、あるいは娘が考えるように自分が可愛がってやった小娘に裏切られたことによる衝撃なんかではなく、やっぱり夫はいまにいたるまで自分を許してはいなかったのだ、ということを思い知ったからでしょう。
そのことは若い娘にはわからないのです。夫婦は大人の男女として、互いに深い愛情を持ち合っていたのでしょうね。だからこそ夫は妻を赦そうと苦悩し、寛容な態度をとりながら、どうしても妻が許せなかった。そこに若い娘とできてしまう心の隙ができる余地があった。妻の方も夫を愛していたがゆえに、自分のただ一度の過ちを夫が本当に許してくれたらと思い、それを願いながら、一方で、夫が本心では許してくれていないのではないか、と怖れ、不安にさいなまれ、それがはっきりすることを恐れていた。
そこへ何も知らないノーテンキな娘が入り込んできて、男にとっては本当はどうでもいいような情事だったはずですが、この夫婦に、やっぱり愛しているがゆえに許すことのできない、許されない過去のただ一度の過ちを再び明確に認識させ、絶望に向かうほかはなかった・・・
ほんとうの隠れた焦点は、この夫婦の愛情とそれに相反する過去の過ち、許せない気持ちの相剋にあるのでしょうね。大人の夫婦愛のひとつの姿とそれが毀れるまでを、外部からの闖入者を置くことでくっきりと描いてみせたということでしょうか。森、高峰のクローズアップを多用した表情の演技がとてもよかった。
河(蔡明亮 = ツァイ・ミンリャン監督) 1997
出町座の台湾シリーズの一環で見ました。
この種の内容の映画は、実は苦手です(笑)。
最初、台北の新光三越百貨店の前の上り下りに分かれた階段の片方を主人公の男シャオカンが上がって行き、他方を旧知の女友達が白いスーツ(だったか)姿で降りていく、すれ違ったと思ったら女が振り返り、男の名を呼び、男が振り返って・・・という出会いの場面があり、この女が映画の撮影現場で働いていて、次のシーンはそのロケ現場。
おばさん監督が指示して、橋のたもとの川面にマネキンをうつぶせに浮かべて、死体に見せようとしているけれど、足が浮いてしまって全然だめ。脚の中に泥を詰めて重くして、なんとかもう一度やってみるけれど、どうにも死体には見えない。昼食休憩にしようと、ということで、今度は石の丸い台座みたいなところに腰かけて弁当を食べるおばさん監督。
その傍らに、さきほど旧知の女と出会ってここへついてきたシャオカンが所在なげに坐っていて、おばさん監督に声をかけられ、あんた死体をやってくんない?というわけです。「水が汚いですよ」とシャオカンは弱々しく抵抗するけれども、次のシーンでは死体になって川に浮かびます(笑)。
そのあとは友達のその女につれられてホテルでシャワーを浴び、なぜか彼女とセックスする。そこまでは順調なのですが(笑)・・・そこから今度は彼の首が左側へクキっと曲がってしまって、どうにももとに戻らない。一種の奇病にとりつかれてしまいます。
このあたりから、もうそれまでのような、いささかでも前へストレートに進んでいくような物語の流れはありません。いちおう彼のパパが彼の奇病を直してやろうとして一所懸命医者へ連れて行ったり、霊媒師?みたいなところへ泊りがけで連れていったりするのですが、先走りして言うなら、一向に効能はありません。
むしろ焦点はシャオカンの家族、彼と父親と母親の一人一人のありようとその関係に移ってしまいます。父親はごっつい顔したおっさんですが、どうもゲイらしくて、ゲイサウナみたいな専門機関(笑)に出入りしているみたいだし、母親は母親で裏ビデオを売っているらしい愛人がいたりします。彼らが見ているのは日本のAVですね(笑)。そういえばギデンズ・コーの「あの頃、君を追いかけた」でも、いたずら好きの高校生らが熱心に見ていたのが日本のAVで、主人公のコートンだったかが、「飯島愛も年取ったなぁ。おっぱいの先が黒くなってる・・」なんてセリフを言う(笑)。いや閑話休題。
とにかくそんなふうで(どんなふうや?・・笑)、家族は互いにそれなりに思いやり、親密そうにみえて、実は一人の人間としては、それぞれの心の闇と孤独をかかえて生きている感じです。それが一番シャープな形で映像化されているのが、ゲイ・サウナの場面です。
寡聞にしてこういうゲイ・サウナなんてものを見たことも聴いたこともなかったオクテの私には大いに勉強になりましたが(笑)、不気味で不思議な世界ですね。最初たしかにサウナへこれから入るのか、既に入ったあとなのか、というようにバスタウルを腰に巻いて上半身裸の男たちがフラフラと狭い廊下を歩きながら、両側のひとつひとつの部屋の戸をちょっとだけ開けて中を覗き見るようにしては、また歩いて行く。いったい何をしてるんだろう?中に何があるんやろ?と興味津々で見ていましたが(笑)どうやら先に誰か男が入っていて、あとで来る客は好みをみつけるためにああして次々に覗いていくんですね。「飾り窓の女」の室内版、男性版というわけでしょう。
で、シャオカンは一人ふらふら歩いてきて、一番奥のほうの小部屋に入り、そこで顔が蔭になって観客にも見えない男に後ろから抱かれるわけです。まぁ男同士のそういうシーンをあまり見たいとは思いませんし、別に人様の好みやなさることを差別意識を持ってとやかく言おうなんて決して思いませんけれど、なにせこの手のシーン、もっと広げれば、殺人、流血、同性愛、暴力、自殺、いじめ・・・とそういうシーンはいまどきの映画にこれでもか、これでもか、というほど出てきますから、たしかに現代の社会の中にそういうことが事実として存在し、それが社会のひずみの一つの集約点であったり、象徴的な現象であることは理解できなくはないので、映画でもそういう場面が繰り返し登場するのはやむを得ない面があるとは思いますが、正直のところいい加減食傷していて、もうそんな要素が一切登場しないような映画を作ろう、と潔く考えてくれるような監督はいないものだろうか、そんなものがなければ現代を本当に描けないんだろうか、たしかに刺激が強くて印象的な画面が作れるのかもしれないけれど、逆にそういうものに寄っかかった映画なんて、ほんとうに創造的な作品をつくる努力をどこかでさぼって、既存の小道具に依拠して本質的なところで欠如しているインパクトを血の色やセックスのどぎつさで補おうとしているだけなんじゃないのかしら、と考えたくもなるのです。
だから、あのシーンに来た時も、ヤレヤレ、またこれかよ・・・と正直のところ思わなくはなかったのです。でもまあ目をつぶって(比喩表現)目を見開いて(現実描写)見てきました。
その結果、少し違った感触を持ったことは確かです。うまく説明はできませんが、私は実は韓国のキム・ギドクの作品の中で一番好きなのが「悪い男」です。あれはすさまじい暴力とセックスと流血の映画ですが(笑)、それでも最後はあの主人公の「悪い男」がイエス・キリストの生まれ変わりのように見えてくるから不思議です。血や暴力やセックスも、もうたくさん、と思うけれど、徹底的にあそこまでやって、そういういやだなぁ、またかよ、というところをものすごい映像のエネルギーで突き抜けてしまうと、不思議に聖的なところまで行ってしまうような気がします。
この作品の・・・実はシャオカンが抱かれた相手は実の父親だったわけですが・・・あのシーンはまさにそういうシーンでした。そして、あのシーンがこの映画のハイライトで、すべてが凝縮されたようなものすごいエネルギーを持った映像でした。父親に抱かれたシャオカンの姿は十字架からちょうどおろされるときのキリストの姿態とそっくりに見えました。
いとこ同志(クロード・シャブロー監督) 1959
監督の長編第一作「美しきセルジュ」に次いで、それと並んでフランス・ヌーヴェルヴァーグの旗揚げにあたる監督の長編第二作にあたる作品だそうで、いちおう観ておかなくっちゃということで、半世紀遅れのお勉強と思ってビデオで拝見。
地方からパリへ出て来た生真面目な青年シャルルが、同じ年齢のいとこで、都会派のいささか軽薄な遊び人の青年ポールのところへ下宿して、いろいろとポールにひきまわされ、数々の誘惑を受けながら、それでも自分の田舎者の生真面目な青年としての資質を守り続けていくものの、最後に皮肉で悲劇的な結末を迎えるという物語。
たぶんここでポールやその友人でポール以上に軽薄な遊び人クロヴィス、その仲間たちのような若者がパリという都会で親のすねをかじったりしながら毎日酒を飲み、女と遊び歩き、パーティーでこんなどんちゃん騒ぎをして、籍だけは置いている大学なんかで要領よくカンニングなどしてやりすごし、既成の秩序や道徳を鼻で笑って享楽の日々をすごす、そんな連中と多かれ少なかれ似通った連中が現実にいたのでしょう。
そういう若者の生態を厳しく大人の秩序の側から批判的に描いて指弾したり嘆いて見せたりするのではなく、むしろその中に既存の秩序への反抗とまで言えるほどのポジティブなものはゼロにしても、そんな既成の「良識」のバカバカしさ、無意味さを嘲笑し、空虚さを皮肉な目で眺めて、ほらこんなものに過ぎないでしょ、という姿勢が、この映画の創り手にはあるのでしょうかね。
ポールとシャルルは寓話で言えば「都会のネズミと田舎のネズミ」か「蟻とキリギリス」ですね。でも「蟻とキリギリス」は遊んでばかりいたキリギリスがみじめな最後を迎えて蟻さんの勤勉が称揚される寓話だし、「都会のネズミと田舎のネズミ」は、前者が田舎の退屈に耐えられずやっぱり都会の暮らしがいい、と都会へ戻って行き、後者が都会へ出て目まぐるしい生活のストレスに耐えられずにやっぱり田舎がいい、と田舎へ帰っていく話で、フィフティ・フィフティなのに対して、このシャブローさんの映画は、都会のネズミの圧勝です(笑)。
可哀想に田舎のネズミは楽しく遊び暮らす都会のネズミを横目でみながら、その誘惑にも硬い勉学の意志を崩すことなく猛勉強するにも関わらず試験に落第し、逆に都会のネズミはカンニングか何かで要領よく合格してしまいます。
また、田舎のネズミが惚れた彼女(フロランス)は、都会のネズミがなんだかんだ言い含めて自分の彼女にしてしまい、それでも友達でいてほしいとか言われて、田舎のネズミは、いいよいいよ、順番を待つよ(笑)と実に卑屈な態度で、三人での不自然な同居をつづけるのです。なさけないったらありゃしない。
これを見ても、この監督さんの二人の扱い方は、とても不公平ですね(笑)。
ネタバレしちゃうと、最後に試験にも落ち、勉強のプリントも学生証も破って河に捨ててしまったシャルルは 酔っ払って帰り、ポールが引き出しに入れていたピストルに一発だけ弾を入れて、ぼくのチャンスは6分の1、君のチャンスは6分の5だ、なんて言って、眠っているポールの頭に銃口を向けて、引き金を引きますが、不発です。
銃を椅子の上に抛って、彼はベッドに倒れ込んで眠ろうとして眠れず、椅子の上の拳銃を手に取ろうとしていると、ポールが歯磨きを使いながら起きてきます。(試験に)落ちたよ、もうおしまいだ、なんて報告していると、ポールが置いてあった拳銃を手にして、彼は弾は自分が前に抜いて入れてないと思い込んでいるから、シャルルがおいおい!と叫ぶ間もなく引き金を引いて、シャルルはバッタリ・・・死んでしまうのです。なんということ!それはないでしょう!茫然とするポール。ベルが鳴り、ワグナーのレコードが終わってプレヤーのアームが元へ戻る、はいおしまい!(笑)
なんとも皮肉な結末です。でも頽廃の都市パリに適応して棲息するこの種の都会のネズミと、その都会へ出て来てかたくなに自分を守り通しながら、不適応の果てに交通事故に遭遇したかのような死に方をしてしまう田舎のネズミの対比はとてもよく描かれていて、その意味では寓話として面白かった。ちょっと田舎のネズミを馬鹿にしすぎだと思うし、もう一匹の田舎のネズミとしては可哀想だと思いましたが・・・
パリはわれらのもの(ジャック・リヴェット監督) 1958
これはちょっと不思議な味わいの作品でした。主人公と言っていいパリの女子学生アンヌが見聞きし、巻き込まれるできごと、それはひょっとしたら実態のない妄想かもしれないのだけれど、ファシズムの亡霊みたいな秘密結社がからむ陰謀による殺人事件(最初のはひょっとすると自殺かもしれない)と、いまひとつ関わる人物が重なることでこれと同時並行的に進行する演劇公演に向けてのリハーサル
で、この二つの糸が何人かの登場人物を相互につなぎ、複雑にからませながら、何が起きているのか、自分や周囲の人間がそこにどんな意味をもって関わっているのか、謎がむしろ深まって、次の殺人が起きる予感と不安の中を、謎を解こうと走り回るアンヌと共にわたしたち観客も暗中模索の感じで歩くような展開の中で、第二、第三の殺人あるいは自殺が起き、それで通常のクライムサスペンスのように犯人は誰某でした、こうした陰謀が仕掛けられた結果でした、というふうな種明かしにはならず、一見そうとも見える登場人物のセリフはあるものの、それ自体が真実かどうかもわからないし、ひょっとする妄想に過ぎないかもしれない、という不可解さを残したまま幕となるお話です。
この不可解さというのは、解答がちゃんとあるのに登場人物なり映画のつくり手なりが隠して見せないようにしている、あるいは意図的に曖昧化しているために、ヒロインと観客にだけ真実が見えなくなっている、というものとは違います。例えば黒澤の「羅生門」あるいはその話の中心部分の原作である芥川龍之介の「藪の中」は真実が観客・読者には分からないけれども、起きた現実は一つであり、登場人物はみなそのたった一つの事実を知っていて、それぞれ誰が本当のことを言い、誰が嘘をついているかも知っているはずです。ただ、それぞれ自分の利害というか名誉を守るためというか、或いは憎悪や愛情や嫌悪の感情でひきよせたためというか、いずれにせよ認識とのズレを承知で虚偽を含む証言をしているわけで、その作品が指し示しているのは、そういう虚偽の証言の背後にある人間のエゴであって、必ずしも、世の中にたったひとつの真実なんてない、とか、事実がひとつであっても、それがこうだと語る真実は、それをとらえる主観の数だけあるんだ、という一種の不可知論あるいは相対主義的な考え方ではないだろうと思います。私が多襄丸を裁く裁判官であれば、彼らの証言は聞き置いて、その証言外の物的証拠や状況証拠をより綿密に調査して、証言の嘘をあばき、真実はどうかをさぐりあてようとするでしょうし、「羅生門」あるいは「藪の中」の設定なら、それは可能なのだと思います。
しかし、「パリはわれらのもの」で起きている「陰謀」「犯罪」らしきものについては、おそらく個々の証言に確たる根拠がないことは、個別に精査していって明らかにできると思いますが、「真実」が明らかになるかと言えば、大変疑問です。
だいたい「ファン」という、登場人物たちのつながりの最初の要の位置にある人物の、それ自体が物語の発端となる死自体が、自殺なのか他殺なのかも本当にはわかりません。アンヌが彼が死んだ家を尋ね当てて、ファンが死んだすぐあとに見た女性が自殺だったと言うのではありますが、それは「恐ろしい秘密を洩らされ、追い詰められ、耐えきれずに」死んだ、秘密結社による陰謀による事実上の他殺に相当するような死であったかもしれないからで、登場人物たちによって、そういった可能性が繰り返し強調されるのです。
いや、少し先走りすぎました。冒頭は1957年6月のパリ、と明示された時と場所。本を朗読しているアンヌの姿で始まり、彼女の耳にすすり泣く女の声が聞こえてきます。すぐ隣の部屋で、覗いてみるとソファで泣いている女がいて、ファンという男が殺された、と言います。「これが始まりで、彼の友達が次々に殺されていくだろう、世界に危険が迫っている、皆に知らせないと・・・」とその女はちょっと頭がおかしいんじゃないか、と思える妄想みたいなことを喋ります。
あとでアンヌは兄のピエールにこの女のことを言い、部屋を再度兄と訪れますが、彼女は忽然と姿を消しています。
ピエールは統計の仕事みたいなことをしているとかで、町でアンヌと待ち合わせて二人で話しているところでは、アンヌはひと月ほど前にパリに来たばかりのようです。兄は親と意見が違う、ということでもっと前からパリに一人で住んでいたようです。アンヌはいまパリの大学に通っていて、試験に悩まされていると言っています。
この兄のピエールが、画家ベルナールのところへ行くからついておいで、とアンナを誘い、彼女がその家へ兄と行くと、あとで出てくるピエールの友人・知人たちが集まっていて、その中で、アメリカからマッカーシズムの赤狩りを逃れてパリへ来たという国際記者かなにかを名乗るフィリップ・カウフマンというちょっとエキセントリックな感じの政治亡命者といった位置づけの男に出会います。
ここでアンナはフィリップから、ファンがスペイン人のギタリストで、ナイフで自殺したと言われているが、実際には「パリに殺された」のだ、ファンを自殺に追いやったものがある、という話を聞かされます。
フィリップはこのサークルで鼻つまみのようで、「ここはグリニッジ・ヴィレッジじゃないんだ、俺たちと離れてはどうだ?」と事実上出ていけと言われますが「泊まる場所がない」と言うと「今夜はいいさ、著名人を宿なしでほうりだすわけにもいかんしな」みたいなことを言われるような場面があります。
ここでフィリップはかなり酩酊していて、しゃべっている相手をひっぱたいて騒動を起こしたりします。
また、この集まりの中にテリーという女もいて、最近ファンを捨てた女だ、と言われています。
翌日、友達だったか、ジャン=マルクという男と待ち合わせたアンヌは大学の食堂みたいなところで順番待ちしています。彼女らの少し前に昨晩話したフィリップが並んでいて、食堂のおばさんに学生証か何か求められて、持っていないので、断られ、列を出ていきます。
アンヌたちも列を出て、ベンチでバケットをかじることにします。
ここでアンヌはジェラール・レンツという男(演出家)に会い、シェイクスピアの「ペリクリーズ」上演のために劇団員を集めた、来ないか、と誘われて、リハーサルの場所へ行きます。
舞台で演出家のジェラールが、リハーサルで劇団員を厳しく指導しています。劇団員の男が、劇団をやめる、とジェラールに言って出ていきます。アンヌは稽古を見て言ってもいいと了解をもらって観ています。
すると、ジェラールが脚本を読んでくれると助かると言います。戸惑いますが、アンヌは引き受けます。
アンティオキアの海岸が舞台のようです。
"・・・ひと突きさ・・・バレるはずがない・・・・決心は・・・・"
朗読で聴こえてくるのはどうもやばそうな陰謀の場面です。(私はペリクリーズを読んでいないので中身は知りませんが・・・)
"大地から花を奪い・・・"と台本を読み始めるアンナ。小さな扇風機を当てられ、髪なびかせて、風になったのでしょうか。" この風は・・・南風・・・私が生まれたときは北風でした・・・"
ジェラールと話しているアンヌの会話から、彼女はいま文学部の学生であることを私たちも知ります。
テリーがフィリップを同乗させた車でやってきます。
「またあいつか。やつは被害妄想だ」とフィリップのことを言ったのはジェラールだったか。
女性のことは「テリー・ヨーダンだ」とアンヌに教えます。ジェラールといまつきあっている女性のようで、リハーサルを客席で見ています。
フィリップのセリフ。たまたま後を追うような感じになっていたのを「なぜぼくを監視する?」
彼は今夜からカネット通リのホテル住まいだ、とアンヌに告げます。また、「ファンは自殺かどうか分からない、重大な秘密に耐えられず自殺した。次に殺されるのはジェラールだ。でも君なら助けられるかもしれない。」そう言われたアンヌは戸惑うばかり。なぜ私?
(このあたりで、アンヌが、「隣のスペイン人の女の子が消えたのよ」とピエールに告げます。)
アンヌはフィリップの感化か「テリーのせいで、ジェラールに危険が迫っている」とピエールに告げます。ピエールはむしろ「あやしいのはジェラールだ」と言います。混乱するアンヌ。試験は明日です。
カネット通りのホテルにフィリップを訪ねるアンヌ。でもホテルの人から、彼が泊まっていない、と告げられます。彼女は電話を借りてジェラールに連絡しようとしますが、不在のようです。
それから、これは別のホテルだったのかな、アンヌがカウフマンさんは?と尋ねると、いるとの答えで、5階の19号室だ、と。
行って見るとドアが開いていて、室内にフリップが倒れています。でも、すぐにフィリップは起き上がり、なんともないようで、倒れるのはミッドウェイでの後遺症で、とのこと。癲癇みたいな発作をときどき起こすようです。
フィリップはアンヌに「すべて忘れろ」と言います。そこへテリーが入って来ます。フィリップはテリーに、「ジェラールと別れろ。彼には荷が重い」と言います。でも彼女は「いやよ。彼が必要なの」と答えます。
ここらで、フィリップとテリーは何らかの秘密組織のメンバーとしてつながっていて、秘密を共有しているらしいこと、テリーはつきあっているジェラールに、その組織の秘密をまだ明かしていないようだけれど、近い将来明かして彼に何かさせようというのか、企んでいるらしいこと、しかしフィリップは同じ組織のメンバーとしてジェラールを信用しておらず、やめたほうがいい、と思っているらしいことがうかがえます。でもそれがどんな組織なのか、どんな秘密なのか、何をしようとしているのか、といったことは何も分からないままです。ただ秘密―組織ー陰謀みたいな妄想かもしれない表象が登場人物をつないでいる(つないでいく)ことだけが目の前で展開される物語の推進力になっています。
アンヌはジェラールに会い、出演依頼を受け、同時に「ペリクリーズ」についてどう思うかと意見を訊かれます。彼女は「まとまりがない。でも目的をもった物語。そのちぐはぐさがいい。バラバラだけれど、つながっている全てが大団円でピタリとおさまるべきところへ収まる。・・」というような意見を述べ、ジェラールは賛意を表し出演を請います。このときの彼女の「まとまりがないが、すべての要素がひとつの方向に収束していく」という意味の「ペリクリーズ」評は、この「パリはわれらのもの」自体にもなんとなくあてはまるような気がします。大団円とはいかない(と思う)けれど、見ていて一貫したひとつのストーリーを追えばたどれるような物語りでもないし、あらわれる様々な人物、様々な要素にまとまりがあるようにも思えない、という点で。
ジェラールはアンヌに、「ファンに曲を頼みたかったが、テリーの部屋で彼が作った音楽を録音していたが、そのテープが消えてしまったんだ」というようなことを言います。ひとつ具体的な謎が生まれているわけで、アンヌは以降、この消えたテープを追うことになります。それはなぜ消えたのか、誰が持ち去ったのか・・・。こうして謎が謎を生み、それを追っかけることが物語の推進力になっているけれど、それを追うことにどんな意味があるのか、それ自体が謎のまま、ただ追っかけるという契機が生まれ、それが物語をひろげ、推し進めることだけが重要であるかのようです。
ファンはテリーの彼氏で、ジェラールの親友でもあった、とジェラールは語ります。
セーヌ川を行く船が橋の下を通って行きます。こういうパリの光景を見るのもこの映画のひとつの楽しみです。
アパートに帰ってくるアンヌ。隣(56号室)のスペインの女性は消え、部屋はからっぽです。ピエールに試験は?と訊かれ、やめた、いまはそんな気分になれない、とアンヌ。もうすっかりファンに始まる謎が謎を呼び次々に目の前にあらわれてくる迷路の中に迷い込み、巻き込まれてしまったアンヌ。
迷っていたアンヌですが結局演劇への出演を了解します。リハーサルの現場ではまた一人、ジェラールとぶつかって劇団員が去っていきます。アンヌはセリフを間違え、棒立ち。客席でテリーが見ている中で、動揺している様子です。
テリー「音楽を付ければいい。ファンのを」
ジェラール「君が見つけてくれればね」
テリー「いや!」
・・・と、ファンの作曲し、録音されたはずのテープをめぐって、そんな会話が交わされます。
テリーが恐ろしい秘密を洩らしたことでファンが死に追い込まれた、とフィリップに言われたことを、劇団員の親しくなった女性(ミナと言ったかな・・)に告げ、彼女の協力で、ファンの死んだ家を探し当てたアンヌは、そこへ行ってファンの死について尋ね、テープを探そうと、訪ねて行きます。
ファンの死んだ家には、ファンが死んだとき一緒に住んでいた女がいて、テープのことは聴いていないが、あの日、彼女が母の家から夜になって帰ってきたら、ファンはおなかを(ナイフで)刺して死んでいた、と言います。そして、世の中の堕落だろか、世界の終わりだとか、そんな話ばかりしていた、と証言します。「覚悟の上の死だ」と。
アンヌは、テリーの何かがファンを変えたのだと確信します。陰謀とか・・・と。
アンヌはファンに目をかけていた、という大学教授ジョルジュ博士(経済学)を訪ねます。なにか独善的な感じのするえらそうな老人です。ファンのことを聴くと、目をかけていたようにも思えない酷評を言って聴かせます。いわく、「過激な個人主義者、破壊主義者だった。彼の音楽には失望した。テープは一度聴いたな。ひどいものだった。彼は録音を録らない主義だった。これ以上テープを探してもみつからないよ」と、取り付く島もない言い草。
教授のところを訪ねたことを聴いたピエールは、無謀だ、と心配しますが、アンヌは「(彼は)何か隠しているわ」と教授に疑いの目を持っています。
場面かわって舞台稽古の場。ピエールが、稽古をみてもいいか?本心は困る、だろう?とジェラールに声をかけますが、どうも本心はピエールの言うとおり、ジェラールは迷惑そうだけれど、勝手にしろ、と放任します。メンバーがまた欠けています。苛立つジェラール。
アンヌも動きが乏しくて、ダメ出しばかりされています。
劇団員の友人(ミナ?)は「テリーに訊くだけ無駄」と言います。「ジェラールは謎めいたテリーに夢中だしね」と。
稽古途中でアルバイトに出ていく、役者をやっている劇団員。怒るジェラールに、じゃ給料をくれるのか、みたいに居直って反抗して出ていく劇団員。ジェラールの苛立ちは増すばかり。
アンヌがフィリップの部屋を訪ねると女といちゃついていたけれど、女を追い出して、アンヌの相手をします。「舞台なんてインテリの暇つぶしだ」とジェラールのやっていることには極めて冷淡なフィリップです。そして「テリーは危険な女だ」と言います。フィリップの言うことを聴いていると、フィリップ自身が妄想癖なんじゃないかと思えてきます。
アンヌはまた、テリーの住まいを訪ねます。テリーは、腐りきった社会、最後まで居たくない、脱出したい、というようなことを口走ります。
アンヌは再びフィリップを訪ねます。隣室の女に部屋へ導かれると、壁に彼女の写真が貼ってあります。パリで自由人に会えるという幻想をもっていたようだ、とファンのこと(だったと思う)を聞かされます。ニューヨークから来た女に振られたらしい、と。どうも写真はファンの妹らしい。ファンの妹は活動的な闘士だったが、行方不明だ、と。
どうもファンがスペイン人だというのが一つのポイントで、彼も彼の妹も「活動的な闘士」だった、というのは、おそらく反フランコ派の闘士で、スペイン内戦が収束し、ドイツ、イタリアのファシズム政権が打倒されたあとも、ファシストたちの秘密結社みたいな組織の陰謀で、パリに亡命していた彼らは消されてしまった、という一つの仮説的な妄想を、この映画を見ている私たちのほうも思い描くことになるでしょう。そのファンは自殺ということになっているし、妹はまったく行方不明、この作品で何度もその名がかたられるファンその人も、遺骸としてでも肖像としてでも、全然登場しないのですから、本当のところは何もわかりません。
スペイン内戦はヨーロッパやヘミングウェイなどアメリカからも義勇軍が参戦した人民戦線側がフランコ・ファシスト側に敗れて、人民戦線に参加したスペイン人たちは亡命を余儀なくされたわけですが、フランコは悪賢いやつで、ドイツ、イタリアのファシスト政権が倒れても、ピレネー山脈の南までは連合国の影響を這い込ませず、硬軟両様の巧みな支配を打ち立てて、その軍事独裁を守ったわけで、地下にもぐったドイツ、イタリアなど枢軸国側のファシストたちとは秘密裏につながって戦後もその秘密組織が暗躍する後ろ盾となってきたことは明らかでしょう。そうした背景がこのファンをめぐる謎にはひかえているのだろうと思います。
アンヌが部屋に帰るとジェラールから集合の置手紙があり、行って見ると、シテ劇場での劇団公演が決まり、30公演の契約を結んだ、と。予定に穴があいて偶然舞い込んだ吉報でした。
ここでテリーはジェラールに、お別れよ、と別れを告げていきます。
劇団の公演は決まったけれど、上演には役を換えること、という条件がある、ということで、アンヌは御用済みになってしまいます。申し訳なさそうにそれを言い渡すジェラールは、音楽も押し付けられるだろう、と言います。「何かの罠では?」とアンヌ。台本をジェラールに返して劇団を去っていきます。
テリーの部屋へアンヌから会いたいという電話。テリーは誰とも会わない、と答えています。
フィリップを訪ねるアンヌ。何か頼んでいますが、フィリップは拒んでいます。
隣の女から、警察の手入れがあった、フィリップは逃げたけれど、これを待っていた、こういう形でしか自分の正当性を明らかにできないから、と言っていた、と。
劇場にジェラールと訪ねるアンヌ。舞台では新たに決められた役者の一人が、脚本にはなかった、指をなめて風にさらす動作を提案し、ジェラールは反対しますが、上のやつがいいだろう、と許可します。また演出になかった船を登場させる話が出て、これもジェラールは驚いて反対しますが、上のやつが美術監督に任せろ、と受け容れます。もう完全にジェラールの芝居ではなくなっています。
ジェラールはアンヌが(王妃の代役よ、という口実で)楽屋へ来ていることを知ってメモを届けます。そこには、「タニヤ・フェディンス(失踪した女)のことを知っている。日曜に会った。」とあります。
テリーが演技の練習をしています。
”ロンドンで男が死んだ。遺体にはヒロシマの跡があった。終末は・・・”
テリーはアンヌに語ります。「ファンが死の3日前に取りに来たわ、と。妹のマリア・アルメイは使命を帯びて来ていた。彼女は既に逮捕され、死んだと思う」と。「秘密に触れた人間は死ぬ。アメリカ人が(フィリップのことだろう)が帰るのを待ちなさい。私には耐えられない・・・あきらめるわ。待つことは難しい。・・・」(テリーの言葉は意味不明なことが多い。妄想かもしれない、という想いを一層強く持ちます。クールにみえて、現実と妄想が入り混じっている印象は彼女が一番強い。)
ジェラールがアンヌを訪ねてきます。劇場の契約をやめた、と。一つ譲歩すればきりがない。上のやつ(ボワローとかいう)が自分の演出でやることになった。劇団員は全員クビだ、と。そして、アンヌに(自分の)支えが必要だ、と言いますが、アンヌは「好きよ」と言いながら、「でも勉強しないと。10月に試験が・・」と答えます。「じゃ平凡な結婚をして人生を終わるんだね」みたいな皮肉な捨て台詞みたいなことを言うジェラールは、「それじゃ逃げ道はただ一つだ。窓から飛び降りること・・」と演劇の台本のセリフらしい言葉をお芝居めかして言うと、出て行きます。
そうしたやりとりを兄ピエールに話したアンヌは、慰めてもらい、送ってもらいます。
部屋に帰ると置手紙がドアの下にあります。
「12時までに電話を。自殺する」とジェラールです。時計を見ると既に12時をまわっています。アンヌは手紙を丸めて投げ捨てますが、再び拾って、椅子に座り、雑誌を広げますが、時計を確かめ、結局コートを着て出かけるアンヌです。
凱旋門の横を通り、パリの石畳を小走りに駆けていくアンヌ。フィリップを訪ねて行きますが応答なし。電話をかけますが、カウフマンさんは1週間は見ませんよ、と。
そこでピエールに電話しますが、彼の方は女とベッドにいて、電話に出ようとしません。
ジャン=マルクに電話し、車でジャンの待つところへ急ぎます。車中から見えるパリの揺れ動く不安げなモノクロの光景はアンヌの心象風景そのもののようです。
ジャンの待つところへ行くと、ジャンは、冗談さ、部屋に誰もいない。仲直りしてテリーの家にいるのかも、と言います。
そこでまた2人でtクシーに乗って走り、電話ボックスへ駆けこむアンヌ。テリーはジェラールのことを知らないようで、フィリップと一緒です。すぐ来られる?とテリー。
それを横に居て、「なぜ(アンヌを)呼ぶんだ?俺は会いたくないよ」と隠れるフィリップ。アンヌが来て、テリーは「あんたが動いたって駄目よ」と言います。アンヌがテーブルの上のテープに目を止め、それは?ときくと、「ファンの録音よ」。
「なぜジェラールに渡さないの?」
「さあ・・・こわかったのよ。ファンの時と同じで・・・」
「どんな秘密なの?」
「フィリップよ。・・・よく話してた・・・1945年のあの男の死で、今度は世界規模で企てられた陰謀なのよ。この30年で手法が変わった。水面下で、すべてを政治と科学と一つにして捧る・・・その日のために彼らは準備してきた・・・屈しない者は潰される・・・秘密を守ること。裏切れば死。一人では抱えられない・・・。ヨーロッパへ来れば逃げられると思ったのよ。ある日私に打ち明け、彼は気が楽に・・・。秘密をかかえた二人が暮らすのが息苦しくて別れた。解放されるには、誰かに話すか自殺するしかない・・・」(テリーの言葉はいつも不可解さを含み、よくわからない。妄想のようにも思えます。)
アンヌはジェラールの所へ行って、ドアを破ってでも会う、と。そうしてアンヌがかけつけると、アパートの前で、女性劇団員と二人でいて、ぴんぴんしているジェラールに遭遇します。彼からの手紙というのを見せると、「ぼくがこんなものを書くわけがない」と一笑に付します。
バベルの塔を描いたモノクロ無声映画を見る人たち。
悪夢が終わって「常識で考えるのが一番さ」とピエール。
フィリップからアンヌに電話がかかります。彼が死んだ?嘘よね?!すぐ行く・・・とアンヌ。「ジェラールよ」とピエールに言うと、ピエールは「行くな」と言います。「もう許せん。すえてバラシてやる」とピエール。ピエールも何か秘密結社がらみの秘密を持っているようです。
テリーが見守るベッド。横たわる(死んでいる)ジェラートにだきつくアンヌ。
(アンヌ)「みつけたのは?」
(フィリップ)「テリーだ」
(アンヌ)「本当に自殺なの?」
(テリー)「たぶん」
(アンヌ)「殺人?」
(テリー)「たぶん」
(アンヌ)「自殺でないと言えるの?」
(フィリップ)「わからん」
(テリー)「私が悪いのー彼を助けようと思って・・・ ・・世界を強制収容所にする・・・」
アンヌにピエールから電話が入ります。
「罪は俺にある・・・俺は止めたんだ。・・・理由も犯人も知っている。口止め料を断ったら脅された。助けてくれ。地下鉄で××駅へ来てくれ・・」
アンヌはテリーが運転する車で待ち合わせ場所へ行きます。二人のりだから、とアンヌに後でタクシーでフィリップのところに来るように言ってアンヌを降ろし、ピエールを乗せていきます。ピエールは「パリを離れたい」と言います。
フィリップのところへアンヌが行くと、先に出たはずのテリーたちは来ていません。
フィリップは、ピエールを疑っていた、とアンヌに打ち明けます。ファンの妹の手紙に、ファンがファランヘ党の指示で殺されたとあった、と。(ファランヘ党はスペインのファシスト党ですね。)
ここで、テリーがピエールを拳銃で撃つシーンが入ります。
そして、テリーだけが車でアンヌたちのところへやってきます。
「ピエールは?」
「降りたわ。」
テリーが殺したのよ!とアンヌはテリーにつかみかかります。フィリップはテリーに「ピエールは犯人じゃなかった!」と叫びます。どうもピエールが裏切り者で、ファンの殺害者だとフィリップやテリーは考えていたようです。
突然フィリップが倒れますが、テリーは「いつもの発作だから」と気にもとめません。
「ジョルジュが資金を握ってジェラールを上演中止に追い込んだのよ。ピエールはジョルジュの手下だった。組織なんてフィリップの妄想よ。組織ならもっとうまくやるわ。ピエールはただの番犬だった。どんな命令にも従っていた・・」
こんなふうにテリーの口から一応種明かしらしいことが語られますが、それが真実かどうかは分かりません。フィリップもテリーも、どこまで真実を語り、どこまでが「組織」の一員ゆえの嘘なのか、あるいはそんなものは何もなくて、ただ個人的な妄想にすぎないのか、それも含めて謎のままです。
テリーも去り、アンヌのうしろに劇団員の男の姿。ペリクリーズをやる、と。
ラストシーンは、湖を低く飛んでいく白鳥の姿です。暗いモノクロの風景で、白鳥の啼き声らしきものも聞こえます。ここで幕です。
さて・・・(笑)長々と追っかけてきましたが、いっぱい欠けている重要なエピソードがあったかもしれませんし、見過ごしたところ、見れていない部分、セリフの聞き間違いなど無数にあることでしょう。一度見たきりで、ネット上に出ているあらすじの類を横目にみながら、網膜に焼きついている映像を忘れないうちに書き留めた中身としてはこの程度が精いっぱいです。またいつか見る機会があれば、あぁ、あのときこんな重要な場面を見過ごしていたな、とか、セリフが全然違っていたな、とかいまの見方の欠落がよく見えるだろうと思います。そのときのためにも、ちょっとややっこしいこの作品についてはこれだけ自分だけの記録を残しておいた方がいいかも、と思ったのです。
このいい加減なトレースによっても、確かに2時間21分の比較的長尺の作品ではありますが、場面転換が多いことがわかると思います。映画業界固有の言葉は知らないので、小説なんかでいう場面転換なんて言葉を使いましたが、場面の選択と転換は小説では価値の源泉の一つですが、映画でもその点は同様でしょう。この作品の場合は、アンヌが謎の解明を求め、失われたテープを求めて、フィリップを訪ね、テリーを訪ね、ジェラールと会い、ファンが死んだ場所を訪ね、とパリの街をめまぐるしく駆けずりまわることが、この場面選択と転換の頻度と多様性を支えています。そして、それが言語で言えば指示表出の広がりに相当する、彼女の他者との出会い、つながりを広げ、深めていくと同時に、謎は解き明かされるよりも、ますます深まっていきます。それは、彼女が関わる一人一人の登場人物、その言葉や行動が、彼女やジェラールが「ペリクリーズ」について評したように、「つながってはいるけれど、バラバラで、まとまりがない」からで、いわば指示表出のベクトルがそれぞれてんでバラバラな方向を向いているからです。
それが最後は「大団円でぴたりと収ま」ったと見るかどうかは見る人で違うかもしれません。いちおうテリーの言葉で、フィリップの言うような秘密結社的な「組織」があったかどうかは別として(テリーは「組織」なんてフィリップの妄想だと言います)、背後にスペインのファランヘ党につながるようなファシストたちによる(亡命)左翼分子抹殺の力学が働いており、ジョルジュ博士などはそちらの側で、ファンやジェラールは実質的には彼らに殺された、少なくとも、追い詰められた状況に耐えられなくなって死を選んだのであり、それに抗い亡命左翼分子を支援するテリーーフィリップーファンーピエールらの組織ないしは秘密の結束があって、ピエールは実はジョルジュの手下で、裏切り者だから殺した、でもフィリップによればそれは間違いだった・・・等々というような絵解き的なものを描いてみることができなくはないと思います。
けれども、よくリヴェットのミステリアスな作品に現れる特徴的な表象としての、秘密結社、陰謀といった政治的な意味を背後に担ったこういう要素は、私にはちっともリアルなものと思われず、むしろなんだか子供じみた滑稽なものに見えます。だから、フィリップのエキセントリックな物言いが典型的ですが、落ち着き払って冷徹にみえるテリーにせよ、彼らがこういう要素について、おおまじめに語ったり、ほのめかしたりすると、笑ってしまいます。
常識的に考えて、こういうことを言うやつがいたら、馬鹿げた妄想だと一笑に付すでしょう。おいおい、大丈夫か?と語る本人がイカレテるんじゃないか、と疑うでしょう。マッカーシズムに逐われて亡命してきたフィリップが被害妄想なのは判らなくはありませんが・・・。
それにしてもそういう要素をつないで、「世界規模で企てられた陰謀」だの「世界を強制収容所化する」動きだと断じるのは、被害妄想、誇大妄想とみなされて仕方がないでしょう。別に何の証拠もないし、私も子供のころ親しい友達と「秘密基地」を持つ「秘密何とか団」みたいな秘密結社ごっこのように見えます。もし大真面目で現実のそういうものを示唆したいのであれば、この作品はその点ではうまくいっていません。
ただ、すべてが妄想かもしれない、とは実は考えることができません。なぜなら、ファンの死、ジェラールの死、ピエールの死という3人の死という現実だけは疑い得ないので、ファンとジェラールに関しては自殺の可能性が高いけれど、ピエールについてはテリーが拳銃で殺しているわけですから、それも妄想の場面かというと前後関係からそうは決して言えそうもないから、少なくともテリーはピエールを殺しています。あとはすべてフィリップやテリーの妄想だとしてもそれは疑い得ない。そうすると、もしもそれ以外はみな登場人物の妄想だとすれば、結局ここで起きているのは、ヒッチコックの「サイコ」みたいなことで、一人の妄想狂の女(テリー)が色々妄想を振りまいて周囲の人間を不安と恐怖に陥れたあげく、自分もまた自身の妄想と現実とが不分明な中で、現実に殺人を犯してしまった、というだけのことになってしまうでしょう。
テリーやフィリップの陰謀説や秘密結社説が、あまりに無根拠で子供じみているので、かえって、これはみなテリーという妄想狂の考えた世界であって、周囲の人間がこれに巻き込まれ、振り回されたにすぎない、と見た方がむしろ自然にも思えます。しかし、そこは確定的に描かれてはいません。フィリップは現実のマッカーシズムに逐われてパリへ事実上亡命してきた人間ですから、被害妄想に囚われやすい状況にあるでしょうから、一番テリーの影響を受けやすくて、むしろテリーの陰謀説を誇張的に振りまく役割を果たしているとも考えられるでしょう。スペインの人民戦線側の闘士だった妹をもつらしい自殺した(とすれば)ファンも、おそらく同じ政治思想的立場で事実上パリへ亡命してきていたと考えられるようなスペイン人だから、フィリップと同様の政治亡命犯に固有の恐れ、不安、強迫観念にとらわれていた可能性があります。また、彼を援けてきた友人たち、ジェラールやピエールもおそらくはそうしたシンパサイザーとして、なおヨーロッパで隠然たる力を維持していたファシズム勢力に対する不安、恐れ、強迫観念を多かれ少なかれ共有する立場にあったわけで、テリーの陰謀説に感化されやすい友人たちであったとも考えられましょう。
つまりテリーが「サイコ」のアンソニー・パーキンスのような存在(笑)だと仮定すると、ここに描かれた世界は、ファシストたちの秘密結社による陰謀説という彼女の異常な心理が生み出した妄想の世界であり、それに感化される条件を多かれ少なかれ具えていた友人サークル内部の自己崩壊だということになるでしょうか。
ただ、繰り返し書いているように、この映画の作り手は、そうだ、と断定してこの作品をつくっていないわけで、そうかもしれない、というほのめかしをしながら、そうではないかもしれない可能性をもほのめかしながら、最後までいずれとも決めつけずに、ただそうした妄想と現実との境が判然としなくなるような世界のリアリティだけを、現実に右往左往して謎を探ろうとするアンナの目を通して示しているわけです。
もちろんフリップが現実に隆盛をきわめたマッカーシズムに逐われて亡命してきたことは事実だし、「(ファンが?)ファランヘ党の指示で殺された」というファンの妹の手紙があるとフィリップがアンヌに語る場面があって、手紙を見た事実はフィリップの妄想とは考えられないし、スペイン内戦の結果ファシストが政権を維持して人民戦線の生き残りを弾圧した歴史的事実など、当時のヨーロッパの現実の政治・社会情勢が背景にあることは確かで、いかにテリーらの秘密結社妄想、陰謀妄想が幼稚なもので、本当に妄想にすぎなかったとしても、それを生む背景がこの作品を生む背景として、またこの作品の世界の背景として、一定のリアリティをもっていたことは疑いのないところです。だからといって、いまの日本に住む私たちには当時のパリの進歩的インテリゲンチャの置かれた精神状況はわからんだろう、というわけで、テリーらの妄想にリアリティがある、と評価するとすれば、それはおかしなことだと思います。あれはいま見ようが当時見ようが、またパリに居て見ようが(笑)、リアリティのある妄想ではありません。何の根拠もないし、妄想の中身も幼稚きわまりない子供の秘密結社ゴッコの概念のようなものに過ぎないのですから。そんなことはこの映画の作り手は判り切ったこととして、戯画的に誇張したり(フィリップ)、わざと大真面目に(テリー)描いたに違いないので、それでも、だからといってすべてが彼女らの妄想であった、と断じることができないようにだけはちゃんと描いてみせているわけで、だからこそこの作品が状況を映し出す作品たりえたのではないでしょうか。
ところで、最初に述べたこの物語に設定された二つの軸、一つは秘密結社&陰謀をキーワードとするつながりが広げていく系で、いままで述べて来たとおりですが、もうひとつの軸であるジェラールが演出する舞台のリハーサルに関わる系はどうでしょうか。なぜそんなものが必要だったのか。演劇を持ってきたのはリヴェットの経て来た体験的なものもあるでしょうし、演劇を介して映画を革新してきたようなところもあるようですから、そういう背景はあるかもしれないけれど、それは作品の外部事情にすぎず、作品世界での必然性にはかかわりがありません。
もちろん一番浅いところで掬い取れば、そこで登場人物たちが出会い、揃っていく場として適当な場だということは便宜主義でいけばありますよね。アンヌは偶然にジェラールに出会うようにみえるけれど、文学部に属して、もともと演劇には興味があって、ジェラールが上演しようとしているシェイクスピアの「ペリクリーズ」も読んでいて的確な意見を述べ、朗読にも演技者としてもすっと入っていける条件を備えていたわけですし、兄のピエール、ジェラールがこの時点でつきあっているテリー、それにつらなるフィリップ、そして不在(すでに亡くなった)ファンも、この磁場を介してつながっていくわけです。
しかし、そういう登場人物が出会い、つながる場としての便宜主義的な使い方としてこの演劇というのが出てくるのか、というと、たぶん違うんじゃないかと思います。本当は「ペリクリーズ」を読んでから考えればわかるのかもしれませんが、きっとその演劇の中身、アンヌがジェラールに意見を求められて語るようなその内容が、この「パリはわれらのもの」の世界とパラレルな関係にあるのではないでしょうか。まったくのあてずっぽうに過ぎませんが(笑)。
それは、もちろんアンヌが述べた、「まとまりがない・・・でもつながっているすべてに・・・ちぐはぐさがいい・・・」というような作品の世界だということに示唆されて勝手な推測を逞しくしているわけですが、それだけではなくて、このジェラール演出の劇団による公演のたどる運命をみると、やっぱりこの「パリはわれらのもの」の世界とパラレルな構造をもっていて、それを象徴するようなひな型を入れ子構造としてこういう劇団を描くことでつくっておいたんじゃないか、という気がします。
というのは、ジェラールの主宰する劇団は、シテ劇場の予定プログラムに穴があいたのを埋めるために突然降ってわいた公演のチャンスをつかみ、ジェラールたちは意気揚々と劇場へ乗り込むわけです。ところが、劇場側の上層部の指示した条件で、アンヌをはじめ、劇場側が要らぬと考える役者ははじかれて、首をすげかえられるし、それで替わった役者が役者の分際で演出家ジェラールの演出を否定してつまらない所作を提案し、それをまた上層部の男が肯定してジェラールの反対はつぶされ、さらにジェラールの演出にはなかった船まで登場する、という。もう演出家としてのジェラールは機能しなくなって、彼は辞任していくわけです。
これはつまり、商業演劇の世界で、資本の論理がジェラールらの芸術創造の論理より力をもち、簡単に演劇のありよう、つまり役者の位置も動き方もセリフも道具類もみな鶴の一声で変えてしまい、もとのありようをほしいままに変え、また必要ないと思えば消してしまうことができるわけです。この構造は、テリーの「妄想」が語る、秘密裏に世界を支配し、ほしいままに人を操り、ときには人を消すこともできるという「秘密結社」の「陰謀」の支配する世界と変わるところがないでしょう。ジェラールの思い描くような公演の夢は実現することなく、舞台で演じられるのは、その舞台の背後の暗がりで支配する資本の論理がほしいままに動かす役者らの動きであり、セリフであり、道具類であって、それとは異なる夢を持った個人は演劇の世界そのものからはじき出され、つぶされ、ときに文字通り消されていくほかはなかったのです。
(あまり長くなるので、今回の「手当たり次第に」はここらで休憩します。実はほんとうのここ二、三日にみた映画はこれからなのですが・・・笑)
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2019年02月03日
手当たり次第に XXXⅢ ~ここ二、三日みた映画
今回はちょっとひとやすみ、ほんの数本、出町座とビデオのちゃんぽんで。
百年恋歌(侯孝賢監督)2005
先日出町座で「ナイルの恋」を見たら、また侯孝賢監督の「悲情城市」でも見たくなって自宅で探してもあったはずが見当たらず、仕方なくレンタルビデオ屋へいったら、そこにも無くて、彼の作品なら何でもいいから見たくなったので、たまたま見つけた、まだ見ていなかったこの作品を借りてきました。
いいなぁ、と思い、とくに第1話、第2話は素晴らしいと思って見ていましたが、第3話で女性の顔がうまく認識できずに(私は人の顔を覚えるのが苦手)、あれ?この人はさっきの女性と違う人かいな、なんて思いながら???で見終わってしまったので、もう一度見てようやく、あ、そういう関係ですか(笑)と納得。第3話も分かって見るとすごくよくて、この作品は侯孝賢監督の映画の中でも最良の作品の一つなんじゃないかと思いました。
三話がそれぞれ台湾史の異なる三つの時期の話になっていて、登場人物の生きる場も、社会的背景も異なるので、この作品を理解するにはそうした背景を知ってどうのこうと、と難しい理屈をこねて切り刻んで見せる人もいるでしょうけれど、素直に映画を楽しむふつうの観客が見れば、三話ともこれは男女の恋愛の話で、1966年、1911年、2005年というそれぞれの時代の男女の「コイバナ」としてしっとりと楽しめばいい作品ですから、若い女性にもぜひぜひのおすすめ。
第1話が一番好きですが、冒頭から私などの世代にも懐かしい英語の歌"Smoke Gets In Your Eyes"(煙が目にしみる)が流れているビリアード場で玉を突く男女の光景。舞台になっているのは1966年の台湾の都市高雄です。主人公は大学受験で2浪して徴兵されることになっている青年で、兵隊刈りみたいな頭をしているとちょっと渡辺謙の若い時ってこんな顔だったのでは、と印象が似ている気がしました。彼はビリヤード場で働く女性が好きで、自転車を走らせてラブレターを届け、再び会いに来るのですが、春子というその女性は彼の手紙をビリアード場のテーブルの引き出しに放り込んだまま、既に台中へ異動しています。どうもそのビリアード場は台湾の諸都市にチェーン店として運営されているのか、係の女性は定期的に店を異動させられているようです。
このビリヤード場に春子の後任として来ていたのが秀美(映画全体の冒頭のビリヤード場のシーンで玉を突いていた女性)というこの話のもう一人の主人公で、彼女は春子が引き出しに残して行った男の手紙を読みます。そこには召集令状が来たことや、春子に恋歌の詞を教える内容が書かれていました。
その手紙を書いた男が、次に春子を訪ねてこのビリヤード場へやってきたときには、春子がもういないことを聴かされます。男は秀美と玉を突き、二人は楽しくプレイし、男は彼女に手紙を書くよ、と言って帰っていきます。
繰り返しのように、この徴兵された男が休みに再びこのビリヤード場へ、今度は秀美を訪ねてやってきますが、秀美はもう嘉義という街へ異動したあとでした。
今度は男もそのまま諦めてしまわずに、秀美を探しに嘉義へ行きますが、ここでも10日前にやめたよ、と言われ、彼女の母親を訪ねて彼女の居場所を教わって、さらに彼女の足跡を追います。そして虎尾という街のビリヤード場でスタッフをしている彼女に行き着きます。彼の姿を見た秀美は一瞬驚き、次の瞬間には嬉しさと衒いとを隠すかのように、体を折るようにして声を上げずに笑い出します。
いまの若い日本の女子大生なんかだったら「えぇ~っ!どうして!どうして!」と叫んで、どうしてはるばる自分を訪ねて来たかなんてとっくにわかっているだろうに、大げさに叫んで、笑ってみせるところでしょうか(笑)。
このあとの彼女の本当に心から嬉しそうなニコニコとした満面の笑顔が、この作品全体の中で一番素敵な、すばらしい表情で、私はもうそれだけでもこの作品が大好きになりました。この女優さんは舒淇(スー・チー)という有名な女優さんらしいのですが、本当に彼がこんなところまで追っかけて訪ねてきてくれたのが嬉しくて嬉しくてたまらない、という、でもそれを言葉や大げさな身振りで表そうとはしないで、抑えた演技で、いつ仕事が終わる?と訊かれて「まだ2時間もあるわ」と答え、「お茶を飲む?」とお茶を淹れ、「タバコは?」と気遣って、ほかの男からもらって彼に与え、傍に腰かけて、ときどき彼の表情をうかがいながら、自分はただ本当に嬉しそうにニコニコしている、その笑顔が・・・
でも彼は翌朝の9時には兵舎に戻っていなければなりません。ビリヤード場から出た二人は、屋台みたいな簡素な店のカウンターに並んで座って、食事をしています。何も言わず語らずに、でももう深い親密さを感じさせるようなたたずまいで、ひたすら椀のスープか何かをすすり、食べている二人。食事が終わると、雨の中、二人は一本の傘の下で小走りに、列車の時刻表か何かを見に行きますが、もうその時刻には翌朝の9時に兵舎に帰れる列車がないことを確認します。「バスの時刻表を見ようか」と二人で今度はバス停へ行ってみる。雨が降りしきるなか、相合傘の下で二人はしっかり手を取り合ってバス停のところに佇んでいます。・・・
ええ、それだけなんですね。だからいいんです。ものすごくいい。
その一瞬の触れあいのあと、すぐに男は兵舎へ戻って行かなくてはならないわけです。
少し長い暗転のあと、画面はいきなり、1911年(清朝末期)の台北の遊郭内部の光景になります。第2話「自由の夢」はいつも夜のような暗い閉ざされた世界、でも室内は華麗な装飾とスリガラス、重厚な木造り、赤い灯の色で画面が彩られているような気がします。ここで客を待ち受けるおそらくは一番格上の娼妓らしい女性が第2話の主役。そして彼女が待ち受ける顧客であり恋人でもある男が、実在した政治家・ジャーナリストだった梁啓超に共鳴して随伴行動をとっている財産家の子弟らしい辮髪の男。
この主役の女性を演じるのは第1話の主役を演じている舒淇(スー・チー)、男性を演じているのも第1話の主役の男と同じ張震(チャン・チェン)で、これは第三話でも同じです。だからこそ「百年の恋」、まったく別の男女だけれど、時代を超え、空間を超えてつながっているかのようで、そこに台湾人を一貫した眼差しで見つめる侯孝賢の想いがあるのでしょう。
この第2話で素晴らしいのは、南管と呼ばれるらしい歌曲を悲しみに満ちた表情で舒淇が琵琶を弾き、歌うシーンです。福建省・泉州に生まれた室内楽、南音とも呼ばれるもので、使われる楽器や演奏方法などに古くからの形態を残す数少ない音楽のひとつ、台湾では主に南管と呼ばれているそうです。
この第2話が始まってまず驚かされるのは、いきなりセリフが聞こえなくなって、かわりに画面中央に文字が登場する、いわゆるサイレント映画になってしまうことです。これは1911年の出来事を描く物語にふさわしい枠組みで、物語の内容や人物の立ち居振る舞いにいたるまで前近代的な様相を呈しているので、まったく違和感がありません。
主人公の男女は廓の娼妓と顧客ですが、信頼し合う親密な間柄で、やはり娼妓である彼女の妹が妊娠していて、蘇なる男がその妹を身請けしたい、と言い、廓の女将は身請け料に300元を要求しますが、200元なら出せるが300元は出せないと言われ、100元足りずに困っている事情を、女が男に告げると、男は不足の100元を自分が出そうと言います。娼妓が身請けされて(たとえ第二夫人、要するに妾としてではあっても)財産家に嫁いでいくことは、苦界からの脱出であり、将来の暮らしの安定が図れるランクアップなのでしょうね。
ただ、主人公のこの男は本来は保守的な地主階級の資産家なのでしょうが、梁啓超についてまわっているように、近代的な思想にかぶれているので、妾制度に反対で、自分もこの女を愛し、通いつめてはいても、妾として身請けしようとは考えていません。でも、女のほうは、ほんとうは彼に身請けされたがっているのでしょう。だから他人が彼女の妹を妾として身請けする金を出そうというこの男に対して彼女は「妾制度に反対の記事を書いていたのに、どうして?」と尋ねます。男は「妊娠したのだから、妹の将来を考えてあげなくては」と答えるのです。
女は妹がそうして嫁ぐことで幸せになれることを喜び、男に感謝する一方で、女将はもともと妹のほうを残して、自分を身請けさせてくれるはずだったのに、約束とちがう、と男にぼやき、複雑な内心を吐露します。
そして、男にひとつ訊きたいことがある、と言って問いかけます。
「妹の将来を考えなくては、と言ったでしょう? あなたは私の将来を考えたことはある?」
男は一言も返す言葉をみつけることができません。
廓の女将は男に感謝し、また嫁いでいった妹と旦那も彼に謝意を表しに廓へやってきて会食します。女は傍らで悲しみを深く胸中に懐いて、南管の極を絶唱します。すばらしい場面です。
男は日本と大陸とを股にかけて活動している政治家にしてジャーナリスト「梁先生」(梁啓超)に心酔していて、行動を共にしていましたが、その最中に辛亥革命が勃発し、女の所へ帰ってくる予定だった男は女に手紙をよこし、そこには上海へ向かう、とあって、梁が書いた詩の一節、「ここは傷心の地なり・・・船をつなぎて振り返る・・・」が引用され、涙したといったことが書かれていました。女は閉ざされた廓の部屋にいつものように座って、その手紙を読み、その詩句を男とはまたおそらく違った思いで、自分たちの関係と自らの想いに重ねて読んだことでしょう。
暗転の後、突如こんどは高速道路を突っ走るオートバイの映像。やはり張震が演じる男が運転するそのオートバイの後ろには、舒淇が演じるヘルメットをかぶった女性がしがみついています。2005年の台北。高速道路のガードレールからはみ出すように覗ける風景は、台北の高層ビルが立ち並ぶ都市的な風景です。ここから第3話「青春の夢」。
マンションで抱き合う二人のうち女性は、歌手の靖(ジン)。男性はあとで、彼女がステージで歌うのを間近で写真に撮りまくっていたから、どうもカメラマンかジャーナリストか何かかな、と思われますが、よく分かりませんでした。また、二人は知り合って間もないようで互いのこともまだあまり知ってはいなかったようです。
しばらくあとで、男が友人或いは同僚から彼女の情報をメールでもらって、パソコンで開いてみる場面がありますが、そこに出てくる彼女の情報によれば、彼女は未熟児に生まれ、骨が弱く、癲癇症で、右目がほとんど見えない、喉元に¥の烙印があるとか、ちょっとぎょっとするような身体的な生まれながらの傷を負っている女性のようです。
でも彼女は歌手としてクラブのステージで脚光を浴びる中、堂々とすばらしい歌いっぷりで、男はその彼女に触れんばかりまで近づいてあらゆる角度からカメラのシャッターを切っています。ほかにもそうしているやつがいたから、そういうのはジャーナリストかあるいは客にも許されているのかもしれませんが・・・また、その彼女を客席の暗がりでじっと見つめる女の目が不気味に光っています。どうもこれが靖(ジン)の同性愛の彼女らしい。舞台を下りてから、彼女は靖(ジン)に食って掛かっています。連絡を取ろうと何度も試みたのになぜ拒んでいたのか、と。靖は同性愛の彼女の怒りを適当にはぐらかしてなだめ、仲直りして一緒に靖の部屋に伴い、泊まります。
けれど靖はすでに男のほうに気が行ってしまっているので、朝早く抜け出して、男と出かけてしまいます。目覚めて靖が消えていることを知ったレスビアンの彼女は、「モトカノ(前に自殺したモトカノがいたらしい)みたいに、私も死んでやる!」というメールを残していきます。
部屋に帰ってきた靖はそのメッセージを読みますが、彼女を必死でさがしたりしようとはしないようです。
次の映像、ラストシーンは冒頭と同じで、オートバイをとばす男の胴に手をまわして、その背にしがみついている靖の姿をとらえています。
1966年の懐かしい音楽とビリヤード場の雰囲気、そして純情な男女の物語、そして、この1911年の南管の響、廓の豪奢だけれど閉ざされた空間、社会的に開かれた男性と抑圧され閉ざされた場に生きて自由を夢見る女性の屈折した思い、その愛と悲しみ、最後に2005年(映画のつくられた「現在」)の男女を乗せ、風を切って疾走するオートバイのスピード感、主人公の女性が煌々たるスポットライトを浴びながらステージで歌う歌、仮寝の場所でしかないようなマンションの空間、一個の肉体としても、「n個の性」的な関係性としても傷ついてしか生きられない若い男女の姿・・・とそれぞれに特徴的な音楽や空間や基調となるリズムを形作る要素が配されて、見事な対照を見せながら三部構成で台湾百年の恋をインテグレイトしきっている、という印象です。
もちろん、それぞれの時代背景、台湾の社会事情などを勉強することは、この作品の背景を知る上で役に立つでしょう。侯孝賢監督がなぜこの三つの時期を選んだのか、というふうなことを明らかにするためには、そうした情報が必要でしょう。
でも、そういった情報がなければ、この作品のすばらしさを味わえないか、と言えば、全然そんなことはありません。私ならそんなことは、それが商売の評論家や研究者に任せて、作品そのものを楽しみます。圧倒的多数の映画観客のみなさんもそうだろうと思います。とりわけ私が接してきた女子大生みたいな若い女性には、ぜひ自分の素直な感性でこの作品をただただ味わい、楽しんでほしいと思います。
甘い罠(クロード・シャブロル監督)2011
これは不思議なサスペンスー犯罪映画でした。怖いとかハラハラするというより、ちょっと不気味なところが、そしてその不気味さが何に由来するのかよく分からないまま進行していくところが、サスペンディング、ということでサスペンスということになるし、実際そこで行われてきたのは犯罪にほかならないでしょうから、犯罪映画と言ったのですが、そういうジャンル映画的な言い方をするとちょっとはみ出るような不思議な質感をもった映画でした。
冒頭から登場するのは実質的な主役と言っていい中年女性ミカ・ミュレールと彼女がかつて結婚して一度離婚したピアニストの男性アンドレ・ボロンスキーと再婚する2度目の結婚式のパーティーでの二人。そしてアンドレの先妻であるミカの妹リズベットとの間にできた子でいまは青年になっているギョーム。場所はどうやらスイスらしい。
一方、ここにピアニストを目指す若い女性ジャンヌ・ボレとその恋人で化学の会社か研究所みたいなところに勤務する恋人アクセル、および二人の、互いに仲良しの友達らしい母親が4人でレマン湖らしい湖のほとりで会食しているシーンが出てきます。
アクセルの母が、ジャンヌの出生時に病院で子供を取り違えられたことがあったという、ジャンヌ自身は母親から聞かされていなかったエピソードをうっかり話して聞かせ、ジャンヌの母親はちょっといやな顔をしますが、ジャンヌは「じゃひょっとすると私はボロンスキーの子供かも」と言います。ジャンヌの母で法医学研究所の所長である母親は一笑に付し、ジャンヌ自身も本気でそう思ったわけではなかったのですが、ピアニストを志し、コンクールの審査を真直に控えたジャンヌは、彼女なりの打算もあって、突然、ボロンスキーを訪ねるという思い切った行動に出ます。
ボロンスキーと妻ミカは戸惑いながらもジャンヌを温かく迎え、ジャンヌがピアノのコンクールで演奏することを知ったポロンスキーは彼女に翌日また来て演奏してみるようにと強く勧めます。彼女が弾く曲はリスト「葬送」です。この曲は全編に鳴り響いて、この作品全体が真の主役への、また彼女を含むこの家族(家庭)そのものへの「葬送」であるかのような様相を呈しています。
翌日来たジャンヌに試し弾きさせたボロンスキーは、彼女がすっかり気に入って、つききりで熱心に指導します。ミカは自家製ココアをジャンヌに勧めますが、ジャンヌは鏡に映る背後のミカがわざとココアの入ったボトルを落として床にぶちまけるのを見て不審を懐き、恋人アクセルに、自分の服の袖についたココアの成分を勤め先で分析するよう頼みます。その結果、ココアにはベンゾジアゼビンという、催眠成分が入っていたことがわかります。
一方、ミカはジャンヌの母を彼女が所長をつとめる法医学研究所に訪ね、子供の取り違えの件でジャンヌが動揺しているようにみえたから、と言い訳しながら、ポロンスキーの子かどうかさぐりを入れます。ジャンヌの母は、感情的には違う(親子ではない)けれども、医学的には可能性がないとは言えない、という意味の答えを返します。血液型は同じだ、と。
ギョームはジャンヌがどういう目的で自分たちに近づいたんだ、と不審がり、ジャンヌに問います。そのギョームにジャンヌは、自分もボロンスキーの娘だなんて信じてはいないこと、それよりも、ミカの淹れたココアに睡眠薬が入っていた、と告げ、「事実を言っただけ、警告はしたわよ」と言います。
それに応えてギョームは、自分の母リズベットの死因が運転していた車ごと崖から落ちた居眠り運転であり、ふだん決して睡眠薬に手を出さなかった母の死体から睡眠薬とアルコールが検出されて不思議に思ったことを告げます。彼も内心は叔母である義母に不審を感じていたわけです。
ボロンスキーは睡眠薬なしでは眠れないが、或る夜それがなくて、夫のために車で買いに出たリズベットが、居眠り運転で事故に遭ったのです。
カメラは、ジャンヌの母親を訪ねて、ジャンヌがリズベットとポロンスキーの娘である可能性がゼロではないことを聴いたミカが、何事かよからぬ企みをして考えにふけっているかのように、眠れぬままに目をランランと見開いたままベッドに横たわっている姿を映します。
翌日、ミカは、ジャンヌの母親に電話で、(本当は自分が提案してそうさせたのに)夫ボロンスキーが4日かくらい泊まり込みの合宿でジャンヌを集中的に教えたがっている、と伝え、母親はジャンヌの判断に任せると答えて、ジャンヌは2日間ボロンスキーの家に泊まることにしたと母親に伝えます。その時、母親は、実はジャンヌの父親は、それまで父親だと思っていた建築家の男でもなく、またボロンスキーでもない、別の人間であると告げます。何をいまさら、と反発する娘に、夫のジャンが不妊症だったこと、従ってドナーの精子で妊娠した人工授精による子供がジャンヌであったことを告白します。
前にミカがココアのポットをひっくり返したのと同様に、今度はミカは台所で鍋の熱湯をひっくり返してそばにいたギョームの脚にやけどを負わせます。ジャンヌはギョームにミカがわざとやった、と言いますが、ギョームはそんなことはない、と否定します。
夜になって、ミカがココアを入れ、ギョームはジャンヌの言ったことがひっかかって、ぼくはコーヒー、と言ってコーヒーを前にしながら、どちらも飲みません。
ポロンスキーがあの晩と同じように、睡眠薬を買うのを忘れた、と言い出し、ジャンヌが私が買いに行ってくると言うと、ギョームがぼくも行くと言って一緒についていきます。運転はジャンヌがします。ここで観客の私たちは当然、リズベットに起きたことが繰り返される予感にとらわれます。
台所でコーヒーカップなどを洗うミカのところへポランスキーが現れて、なぜカップを洗うんだ?と不審の目でとがめだてします。あの日の夜も君は洗っていた・・・と。ミカはそんな夫に、「私は悪に長けているの」と言い、自分がリズベットに睡眠薬を飲ませたことを告白します。「私の愛は言葉だけなの」と。
カメラは助手席にギョームを乗せて車を運転するジャンヌに切り替わります。彼女は強い眠気に襲われ、車を石垣にぶつけます。カメラは再びポロンスキーとミカの台所へ。
「あの子たちに何をした?!」と妻ミカを責めるポロンスキー。
二人は死んでしまったのかと思わせるシーンでしたが、ポロンスキーに電話がかかり、二人は事故を起こしたものの軽い怪我だけで、無事でジャンヌが母親と警察に居ることが分かります。ポロンスキーは、妻ミカに「今夜は君の負けだ。」と言うと、ひとりピアノを弾きに行きます。ミカを連れて警察へはよ行かんかい!と半畳を入れたいところですが、まぁこういう気どりは黙認しましょう。
元のタイトルは"Merci pour le chocolat "で、「ココアをありがとう」らしいです。洒落たタイトルですね。
物語は、赤ん坊のときの取り違えの話を奇貨として高名なピアニストポロンスキーに近づき、ピアニスト志望者として成り上りたいジャンヌに寄り添って、彼女の視点から、リスクを犯しながら、ポロンスキーの家庭の謎、不審なミカの正体を、彼らの息子であるギョームを取り込みながら探っていき、ミカの不気味さが醸し出す危険な雰囲気、けれどもなぜなのかが分からないままサスペンディングな状態で進行していき、次第に色々なことが明らかになっていくという語りの構造になっています。
どちらかと言えば、そのサスペンスの進行で、謎がすっきり解けて、カタルシスが得られるサスペンスドラマ、というよりも、焦点はポロンスキーと、この妹の夫と結婚し、離婚し、また再婚したミカと言う女性、そして息子のギョーム、亡くなったミカの妹リズベットという一つの家族~有名なピアニストの家族であり経済的には豊かなハイソな生活を楽しむらしい家庭の内に潜む秘密、過去の闇、とりわけその闇の中心に蹲っているミカの隠された姿にあって、その謎が発する不気味さが全編を覆っているようなところがあり、その謎が外部からいわば闖入してきた小娘によって暴かれていくことが、同時にこの安定したハイクラスの平和な家庭にみえたものが瓦解していく過程でもあるわけで、そこらへんに作品の展開の主眼が置かれているようです。
しかし、どうもよく分からないのは、どう考えてもこの家庭はポランスキーという名ピアニストの家庭という特殊な家庭であって、そこに社会派の一般的な家庭劇のような、貴族社会の家族であるとか、ブルジョワ家庭の典型であるとかいった普遍的な家庭像やその瓦解を描くといった志向があるようには思えないし、ミカの「犯罪」動機もそうした階級的、社会的な背景が感じられない、きわめて個人的な広義の性的な関係性に要因があるので、何を描きたかったのか、何を訴えたかったのか、肝心のテーマ性が私にとっては不可解なところがある作品でした。
ただ、既存のサスペンス劇、犯罪劇の語り口を借りながら、実際にはむしろこういう背景をもった上流家庭の瓦解と一人の女性の破綻に焦点をあてたドラマをつくりたかった、方法的な試みとして受け止めるべきなのかな、と思って観ていました。
斬、(塚本晋也監督) 2018
塚本晋也監督初の時代劇!というので期待して観に行きました。出町座です。
この作品で、一番印象に残っているのは、刀の重量感みたいなものです。存在感といってもいいのかもしれません。主人公都築杢之進が抜く刀は重そうです。
私も祖父が少し日本刀を蒐集していた人で、そのうち2本を譲り受けた母が結婚しても持ってきていて、よく父が手入れをしているのをみかけたことがあり、幼いころの私は触らせてもらえなかったけれど、実は中学くらいになると、両親が不在の折に、こっそりと収めてあるところから取り出して、鞘から抜いて振ってみたこともあります。やってみてこんなに重いとは思わず、こわくなって早々に鞘に収めたおぼえがあります。これじゃ、チャンバラみたいに振り回したり、横に振って人間の胴を斬るなんて、よほど名人でないと無理だな、と思いました。のちに、何人も斬って無敵だったらしい二刀流の宮本武蔵が、幼いころから大男で、腕っぷしが強い男児だったらしいことを(講談や小説の類だけの話だと思うけれど)知って、あんな刀を2本も振り回せるのは馬鹿力の大男でなきゃ無理だな、と納得したものです。
その刀の重量感みたいなものは、人を斬ったことがない都築杢之進が刀で人を斬ることになるという設定のもとで、いっそう増して、この映画での刀の扱い方、撮り方に、ある種のリアリティを生み出していたのかもしれません。
だいたいこの監督は「鉄男」で名をなした人で、私も観ましたけど、あの鉄の巨大なペニスドリル(笑)はすごいインパクトでした。あれを発明しただけで、一挙に世界に躍り出ることができるほどのものですよね(笑)。
それに比べれば、この「斬、」の刀も鉄でこしらえてはあるけれども、ひ弱です。道具としての刀もありきたりの既存の道具だし、それを使う人もひ弱。それは鉄そのものに徹底的に焦点をしぼっていくのじゃなくて、それを使うはずの人のありよう、「斬る」ことに焦点を移してしまっているから、そちらの物語がしっかりしていないと、どうにも作品そのものとしての重みが飛んでしまう感じがします。
残念ながら、物語のほうは、それに比べて、ずいぶんお粗末な気がしました。この都築杢之進という浪人は風雲急を告げる幕末の京(だったと思う)へ上って行こうとしていたらしいのですが、旅費にも事欠いて、道中通りがかった村の農家を手伝って食わせてもらっていて、そろそろ旅立とうかという男。人を斬ったことはないけれど、剣術はうまいらしく、世話になっているところの娘の弟市助が剣術を習いたがっているために、彼に教えて暇さえあれば木刀で撃ち合っています。
或る時やはり都に上って幕府方に加勢しようと考えている澤村という侍が、都築杢之進と市助の棒振りを見て、ちょうど何人か腕の立つ仲間を率いて上京したいと考えていた折から、一緒に行こうと誘い、市助も「予備として」連れて行ってやると言い、杢之進は市助は残っていよ、と止めますが、市助は自分も仲間入りと大歓びです。ところがさあ出発、というときになって、杢之進が高熱で倒れ、やむなく出発を一日延期。
折も折り、村へ極悪の人相をした数人の荒くれ男たちがやってきます。何をするでもなくたむろしていますが、村人たちはせっかくの収穫期を目前にして、みなやられてしまう、と怯えています。念のために杢之進が見に行って彼らと会い、言葉を交わすと、彼らは「俺らは権力と結託した悪徳商人で儲けているような悪い奴は襲うが、百姓なんか襲わねえよ」と言います。杢之進ははいそうですか、と聴いて(笑)それを村人たちに伝え、あの人たちは顔は悪いけど、悪い人たちじゃありません、と言います。彼らと直接喋ったときも、なんで俺たちをそんなに怖がって悪者だと思うんだろう?と訊かれて、顔が悪いからです、なんてシャァシャァと答えていました。
これはいまどきの幼稚園の先生あたりが、桃太郎にやっつけられる鬼さんたちが可哀想、という子供さんに配慮して、実は鬼さんたちは顔が悪いだけでそんな悪い人じゃなかったんですね、人はみかけで判断しちゃいけません、っていうのと似ていますね(笑)。
ところが、その心優しいはずの鬼さんたちを、折あしくサムライ志願の市助が挑発し、かえって彼らにボコボコにされて帰ってきます。澤村は、既に市助もわれらが一味、それをやられてこのまま放置できんと、病身の杢之進がやめてくれと頼むのを振り切って出かけ、悪相の男たちをぶった斬って、一人だけ逃げられたが全部斬り捨てたと帰ってきます。
村人たちは、これでお侍さんたちがいなくなっても安心して稲刈りができる、と大喜びでした。ところがそうはいかず、逃げたやつが仲間を呼んで復讐に舞い戻って来たらしく、百姓家に押し入った賊たちは市助も含めて村の人々を大勢惨殺します。
だから言ったでしょう、暴力をふるえば、暴力が返ってくる、際限なく人殺しを繰り返す悪循環に陥るだけです、という意味の、現代の非暴力主義者の言い草のようなことを言って、ひたすらやめてください、と叫ぶ杢之進ですが、市助をも殺された姉のゆうは、それまでとは打って変わって「仇を討って!」と叫びます。
澤村は、杢之進にお前の腕を見せろ、と自分はひとまず後ろに身を隠して、山中の巣窟へ戻って来た賊たちには、杢之進が前面に出て対応します。しかし仲間を殺した澤村を求めていきりたつ賊たちにとっては杢之進は澤村の仲間に過ぎず、杢之進に斬りかかると同時に、後を追ってきたゆうを手籠めにします。それでも刀を抜かずに木切れで戦って、なんとか「話し合いで」解決しようとする?おかしなおかしな杢之進さん(笑)。
そうしてとうとう本命の澤村さんが出て来て、バッタバッタと賊たちを切り倒し、頭目らしい男の片腕を斬って肩のあたりの袖口からドドッと血が流れ落ちる姿に向けて、もう少し痛みを感じてから死ぬがいい、といった冷酷な言い方をして時間をかけてなぶり殺すのを楽しむように眺める澤村君。頭目のほうも、あの世で出会ったら同じことをしてやるぜ、とこっちも片腕斬られて死にかけているわりには余裕の表情で死んでいきます。
とにもかくにも全部やっつけて、草原に倒れ伏している杢之進。澤村が近づいて、明日出発するぞ、と最後の誘い。でも杢之進はこんなことでは私は行けません・・・とかなんとか、この期に及んで丁寧語を使いながら(笑)言います。「お前が来ないというなら、ここでわしがお前を斬る!」と恫喝して伏せたままの杢之進に近づき、あわや刺そうと切っ先を触れんばかりに迫ったとき、杢之進、伏せたまま刀をふるって一閃。
それでいよいよ杢之進と澤村君の最後の対決となり、それまでに見せてきた剣の腕と人斬りの経験からふつう誰もが懐くであろう案に相違して(でも物語の都合上はちっとも案に相違せず、予想どおり)杢之進が澤村君を斬ってしまって一巻の終わり。杢之進はフラフラと草叢を這うがごとくよろめきながら歩き去るのでありました。
がっかりです。
これだけ旬のキャストを揃えてこれかよ!と恨み言も言いたくなります。「MOZU」の池松壮亮などはとても素晴らしかったし、蒼井優が演技派女優なことは、「ハチミツトクローバー」や「フラガール」「百万円と苦虫男」などで十分見せてもらっているので、こういう演出をした責任者を出せ!とファンが怒らないかな。この作品での二人は可哀想です。俳優で一人イイカッコしているのは塚本監督自身では?(笑)それはないやろ!
別段、昔の時代劇全盛時代の時代劇のような様式美を絶対視しているわけでもないし、「用心棒」の娯楽に徹した娯楽リアリズムみたいなのばっかり求めているわけじゃないけれど、これはいったい何だろう?と思いました。
イネの穂が実った村に野盗がやってきて、おそれおののく百姓たちを、腹を空かせた歴戦の勇士だったボランティア武士たちが援けて、大流血の激闘を繰り返して野盗たちをやっつけちゃう、という話はどこかで聞きませんでした?(笑)
・・・ってことは、これ、「七人の侍」のパロディなんですかね?いやいや、とてもパロディですよ、っていう目くばせも何もしてくれていないので、大真面目に「七人の侍」の侍観、野盗観、人間観、世界観に反旗を翻して批判していらっしゃるんでしょうか・・・(驚!)
はたまた、野盗たちを北朝鮮の金さん、都築杢之進を韓国の文さん、澤村をトランプさんか安倍さんに置き換えたら、なんとなく分かりそうな・・・(笑) ひょっとしたら現代世界政治のパロディなのかな。
「金のやつが好き放題暴力をふるってみんなを恫喝している、けしからんから俺が叩き斬ってやる」(安倍さん)
「いや、待ってください。なにごとも話し合いで平和にいかなきゃ。私が行って話してきますよ。もしもし、そこの金さん。あなたがたをみんなが怖がっているんだけど、みんなを襲ったりしようと思ってるんですか?」(文さん)
「なんで弱いやつらに手を出したりするもんかね。おれたちは権力を握ってみんなを牛耳てるトランプなんてやつの関係するところを襲って、わずかな金品をかすめとってるだけじゃないか。なのに、おれたちは何でこんなにみんなに嫌われるんだろうね?」(金さん)
「そうかそうか、あんたがたがいい人だってことはよくわかったよ。みんなに誤解されて嫌われるのは、きみの顔が悪いからじゃないかなぁ」(文さん)
(みんなに向かって)「みなさん、金さんって、案外悪い人じゃないですよ。みなさんを襲ったりしないって言ってましたから安心してください。仲良くしていきましょうよ。」(文さん)
・・・云々。
パンフレットだかチラシだか予告編だかでチラッと見た「人を斬る、ってどういうことだ?」みたいなことをこの杢之進さんに託して問いたいのなら、何か基本的な錯覚があるんじゃないでしょうか。「人はなぜ人を斬るのか?」なんて問い方自体が間違っていますよね。
戦国時代の武士ならともかく、徳川300年泰平の眠りを経た時代の人を斬ったこともない、斬るのを見たことも無い武士にとって、斬る、ってことの本質は「(自分の)腹を斬る」ことしかなかったのではないでしょうか。「斬る」ことと武士とは何か、武士の社会とはなにか、を問うことが同義であるような問い方ができるとすれば、たぶん「(自分の)腹を斬る」こと以外にないのでは?
それが労働せずに支配だけしてきた武士階級のぎりぎりのレーゾン・デートルみたいなもので、自らの死によってしか、その存在の空虚さに拮抗することができなかったでしょう。
どうせやるなら、そのことをしっかり追究して、武士というものを、あるいは斬る、ということを全く別の形で見せてほしかったな、と思いました。
杢之進も澤村さんも、風雲急を告げる都へ幕府軍に加勢するために上ろうとするはずだったけれど、それを納得させるだけの思想的背景も彼ら個人の来歴もまったく描かれておらず、どことも知れない山間の村に閉ざされた舞台で繰り広げられる、暴力と非暴力をめぐるお粗末な「思想性」のせめぎあいだけに焦点をしぼるために、便宜的に外部から借りて荒っぽく描いた背景の絵柄にすぎないものになってしまっています。
「鉄男」以来、この監督さんは人間のすさまじい暴力性というのを描きたくて仕方がないようで、「鉄男」では確かにそれは非常に大きなインパクトを与えていました。ただ、その暴力性の表出が何を意味し、どのようなものに突き動かされ、何に向けられ、どんな帰結をもたらすのか、そういうことが問われると、なにかとんでもない錯覚を覚えるようなところへ出てしまっているんじゃないか、という気がします。
「野火」もあの人間が肉片となり骨片となり、鮮血のミンチになって飛び散るあの映像は、確かに無数の戦争映画の中でも凄絶な映像美・・・いや美と言っちゃっていいのかどうか、どうも不謹慎な気がするけれども、そういうインパクトのある映像を創り出していましたが、人間のドラマとしては、原作があるからしょうがないとはいえ、深い感動を与えるような作品ではなかったと少なくとも私には思えました。
私が見た戦争映画(戦後映画と言うべきか・・・)で一番インパクトがあったのは、「ゆきゆきて神軍」でした。あの映画が怖いのは、戦中の軍隊の中での人肉食が描かれている(示唆されている)からでもなく、戦争の悲惨をそういう形で描いているからでもなく、この事件に関与した人たちが、とくべつ残虐な人間でも異常者でもなく、わたしたちの大多数となにも変わるところのない、ごく平凡な「ふつうの」庶民であり、戦争を生き延びて引き揚げてきて、幸せな家庭を持ち、黙々とまじめに会社づとめなどして戦後の何十年を生きて、よき父親、よきおじいちゃんとしていまなお生きている、その事実だと思います。塚本監督の人間認識や「暴力」に対する認識の中に、こういう「ふつうの」人間の姿があるのかどうか・・・と今回も疑問に思いながら見ていました。
愚なる妻(エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督) 1922
108分のビデオだったのですが、もとは4時間の映画だったのだそうです。営業上の理由でどんどんカットされていま残っているのはこれだけだとか。でもサイレント・モノクロ時代の映画として、とても面白かった。
だいたいロシアの貴族を騙って上流社会に紛れ込んで、金をかっぱらっていこうという詐欺師の設定が面白いし、そのためにアメリカ大使夫人を攻略するストーリーがなかなか面白い。
一番驚かされるのは、舞台となったモナコのモンテカルロの賭博場などの華麗な建物群が並ぶ夜の煌々と灯りの灯る光景のすばらしさ。なんと、これ、出費を惜しまず、というか製作費を無視して、全部最初にセットで作ってしまったのだそうです。これで会社を追い出された監督はそれでも浪費癖というのか徹底主義をやめず、呪われた監督と言われているそうですが・・・できてしまったものは、とても美しい。
「斬、」の塚本監督じゃないけど、このシュトロハイム監督、この映画では主役のロシア貴族を語る詐欺師「カラムジン(偽)伯爵」を演じています。のちに俳優専業になった人だけあって、みごとなものです。また相棒役の従妹なんかも、とてもいいですね。サイレントだから口パクですけど、文字で表現されているセリフがおしゃれ。ラスト近くで、やっぱり彼が騙して金をまきあげていたメイドの嫉妬で放火されて、攻略中の大使夫人をほったらかして、自分が先に危うく命からがら逃げたものの、正体を見破られて金を手に入れることもできなかった彼に、かねがね、狙いは金であって女じゃないから間違えないでね、と警告していた従妹のオルガが、「女の胸に火をつけるだけでよかったのに」なんて彼の失敗をなじるところなんか、思わずクスリと笑ってしまいます。いいセリフ。
この従妹が相棒として、男が大使夫人を攻略する手助けをし、男が大使夫人をホテルに返さずに道を迷ったと婆さんの小屋に富める連絡を彼女にしたとき、男からの指示ではなく、自分で気をきかせて大使に電話して、私たちと一緒に夫人はホテルにいますからご安心を、と言い、また大使の元へ翌朝帰っていく夫人に、ご主人に訊かれたらホテルに私たちと一緒にいたと言うほうがいいわよ、とアドバイスし、「彼は悪さはしなかった?」と付け加えるなど、ほんとうにチャーミング。
実は大使夫人を小屋に連れ込んだまではよかったけれど、「わるさ」をしようとすると、そこへやはり道に迷ってから泊めてくれ、と神父が入ってくるところなんぞ、よく出来た話だなぁと感心しました。
そして、大使夫人がいつも愛読しているのが、この映画のタイトルにもなっている「Foolish Wives」愚かなる妻たち、という本なんですね。そして、すべてが終わって、火事のホテルから救出され、疲労困憊、ベッドで寝ている大使夫人の傍らによりそう夫君の大使が、うっすら目をあけた妻に、その本を広げて、ラストの一行を指さすのです。
And thus it happened that disillusionment came finally to a foolish wife, who found in her own husband the nobility she had sought for in - a counterfeit.
かくして愚かな妻は、ついに深い失望を味わうこととなり、それまでニセモノのうちに探していた気高さを彼女自身の夫のうちに見出したのです。
この記述自体が、この映画の物語の終りの一行でもあるわけですね。本当にお洒落な工夫をする監督さんだな、と思います。
男が大使夫人に雨で濡れた服の着替えを老婆から借りて与え、反対向きに椅子に座ったような恰好をしながら、手鏡で夫人の着替えを覗いていたり(笑)、彼に結婚して貴族の妻にしてやるとだまされて金をまきあげられるメイドが、大使夫人を階上の部屋に連れ込んで誰も入れるなと言われて、不審に思い、鍵穴から二人の行状を覗き見たり、ふつうの映像とは違った工夫を登場人物の行動を描くのに使っていて、そういうところも当時としてはとても新しい映像だったんじゃないでしょうか。
ラストも男の悲惨な末路をさりげなく見せて衝撃的な映像です。
監督はサイレントなのに俳優には普通に会話させ、セリフを言わせて撮ったんだそうで、口パクだけれど、その言葉を交わす仕草に不自然なところがありません。いいテンポだし、古いサイレントのモノクロ映画なのに退屈せずに面白く観ることができました。
グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督) 1924
「愚なる妻」で会社を追い出され、拾う神にひろわれて撮った次の映画がこれだそうで、強欲とか貪欲とかいう意味のグリード。これまた本来は9時間くらいの超長尺の物語だったようですが、ズタズタにされて、いま私たちが見られるのはごく普通の映画の時間でしかありません。それでもこれが結構見られるから不思議です。
マクティーブという金鉱で働く坑夫が、或る時巡回歯科医の弟子になって、サンフランシスコで歯科医を開業し、ここで知り合ったマーカスと言う友人の彼女トリナが好きになってしまって純情な女知らだったマクティーブは寝ても覚めても彼女のことばかり考えてノイローゼ気味。心配してくれたマーカスに告白したところ、マーカスは案に相違して、譲ってくれます。
それでめでたくトリナと結ばれたマクティーブ。しかも彼女が買った富くじが大当たりで、5000ドルも手に入ります。友人マーカスの心に嫉妬が芽生えます。
一方何不自由なく幸せな家庭を築く条件の整ったマクティーブとトリナでしたが、トリナは自分が手にした富くじの5000ドルは貯金して一切手を触れようとせずお金に執着を深めていきます。
嫉妬心をもってマクティーブが無許可の歯科医営業をしていることをマーカスが暴露したらしく、それ以上歯科医を続けられなくなったマクティーブは仕事を探しますが、思うような職につけず、ついても運悪く職をくびになって収入がなくなり、彼女はほそぼそと内職みたいなことをして僅かな収入を得ますが、だんだんお金に異常な執着をみせるようになり、自分の金は小銭でも使わずに、夫の金を出させます。そういう彼女のありようにだんだんとマクティーブも嫌気がさして、家を出ていき、トリナは逆にほっとして、家でベッドに硬貨を敷き、金貨をなぜさすって、お金への執着はますます偏執的になっています。
そこへ結局はどうにも仕方がなく腹をすかせて戻って来たマクティーブでしたが、トリナは彼を家へ入れようとせず、拒否します。これに起こったマクティーブは無理に押し入り、あの5000ドルを出せ、と脅し、争いになって、とうとうトリナを殺し、金を奪って逃げます。
いまは西部の街で暮らしていたかつての友人マーカスが、マクティーブのおこしたトリナ殺人事件の手配書を見て、追手を組織し、砂漠へ逃亡したマクティーブを追います。やがて水不足で追手はそれ以上の深追いをあきらめて馬を返しますが、マーカスだけはあきらめずに追い、とうとう水も切らせて砂漠に倒れたマクティーブに追いつきます。そこでも金をめぐって争いますが、もう二人共水がなく、また100マイル以内には水の出る場所もなく、俺たちはもうだめだ、と二人共さとります。「たとえ死んでもあの5000ドルは手放すつもりはない」とマック(マクティーブ)はこの期に及んでも言い張って、二人はさらに争い、とうとうマックがマーカスを斃します。
しかしマックの手首にはマーカスが自分の手首とつないではめた手錠がかかっていました。マックは驢馬に積んで持ち運んでいた、うちにあった鳥籠の中の小鳥をいまは放してやり、へたりこみます。でも小鳥も力なく空の水筒の上に落ちて動かなくなります。砂漠の中にへたり込んだマックのロングショットで The End です。
お金への飽くことの人間の執着、強欲を描いた作品ですが、どうも金銭欲でなく、人間のさまざまな欲望、強欲の数々を全部描き出してやろうというのが監督の当初の9時間版の狙いだったようです。
そのお金の部分だけが残されて一筋の或る程度読める物語をつくっているわけですが、わずかに他の欲望のうちの一つだろうと思われる食に関する貪欲さにまつわると思われるシーンが残っています。
トリナとマックの、新居での結婚式での参列者の食事風景です。みんな異様にガツガツと食べている光景がかなりしつこく撮られています。でも、食に関しての貪欲を示すようなシーンは多分そこだけだったと思います。
マックとトリナの部屋に、鳥籠が吊るしてあって、2羽の小鳥が飼われています。これが最後に上に書いたようにマックの手で放たれるのですが、それまでのところでも何度か登場し、とりわけ、2人を嫉妬したマーカスが、自分はバカだった、あの女さえ手放さなきゃ、大金も俺のものになったのに、とマックに悪意をもって、マックが無許可の診療所を開業していることを暴露して、その件で廃業しないと法に訴える旨の書簡を受け取ったマックとトリナが窮地に追い込まれるシーンでは、しきりにこの鳥籠と、それを狙う猫のクローズアップが多用され、最後にはネコが鳥籠にとびついて籠の上にのっかる場面まであります。このへんは状況の深刻化、二人にとっての危機をそんな形で強調して表現していて、なかなか面白いな、と思って観ていました。
ラストの砂漠のロングショットもよかった。
百年恋歌(侯孝賢監督)2005
先日出町座で「ナイルの恋」を見たら、また侯孝賢監督の「悲情城市」でも見たくなって自宅で探してもあったはずが見当たらず、仕方なくレンタルビデオ屋へいったら、そこにも無くて、彼の作品なら何でもいいから見たくなったので、たまたま見つけた、まだ見ていなかったこの作品を借りてきました。
いいなぁ、と思い、とくに第1話、第2話は素晴らしいと思って見ていましたが、第3話で女性の顔がうまく認識できずに(私は人の顔を覚えるのが苦手)、あれ?この人はさっきの女性と違う人かいな、なんて思いながら???で見終わってしまったので、もう一度見てようやく、あ、そういう関係ですか(笑)と納得。第3話も分かって見るとすごくよくて、この作品は侯孝賢監督の映画の中でも最良の作品の一つなんじゃないかと思いました。
三話がそれぞれ台湾史の異なる三つの時期の話になっていて、登場人物の生きる場も、社会的背景も異なるので、この作品を理解するにはそうした背景を知ってどうのこうと、と難しい理屈をこねて切り刻んで見せる人もいるでしょうけれど、素直に映画を楽しむふつうの観客が見れば、三話ともこれは男女の恋愛の話で、1966年、1911年、2005年というそれぞれの時代の男女の「コイバナ」としてしっとりと楽しめばいい作品ですから、若い女性にもぜひぜひのおすすめ。
第1話が一番好きですが、冒頭から私などの世代にも懐かしい英語の歌"Smoke Gets In Your Eyes"(煙が目にしみる)が流れているビリアード場で玉を突く男女の光景。舞台になっているのは1966年の台湾の都市高雄です。主人公は大学受験で2浪して徴兵されることになっている青年で、兵隊刈りみたいな頭をしているとちょっと渡辺謙の若い時ってこんな顔だったのでは、と印象が似ている気がしました。彼はビリヤード場で働く女性が好きで、自転車を走らせてラブレターを届け、再び会いに来るのですが、春子というその女性は彼の手紙をビリアード場のテーブルの引き出しに放り込んだまま、既に台中へ異動しています。どうもそのビリアード場は台湾の諸都市にチェーン店として運営されているのか、係の女性は定期的に店を異動させられているようです。
このビリヤード場に春子の後任として来ていたのが秀美(映画全体の冒頭のビリヤード場のシーンで玉を突いていた女性)というこの話のもう一人の主人公で、彼女は春子が引き出しに残して行った男の手紙を読みます。そこには召集令状が来たことや、春子に恋歌の詞を教える内容が書かれていました。
その手紙を書いた男が、次に春子を訪ねてこのビリヤード場へやってきたときには、春子がもういないことを聴かされます。男は秀美と玉を突き、二人は楽しくプレイし、男は彼女に手紙を書くよ、と言って帰っていきます。
繰り返しのように、この徴兵された男が休みに再びこのビリヤード場へ、今度は秀美を訪ねてやってきますが、秀美はもう嘉義という街へ異動したあとでした。
今度は男もそのまま諦めてしまわずに、秀美を探しに嘉義へ行きますが、ここでも10日前にやめたよ、と言われ、彼女の母親を訪ねて彼女の居場所を教わって、さらに彼女の足跡を追います。そして虎尾という街のビリヤード場でスタッフをしている彼女に行き着きます。彼の姿を見た秀美は一瞬驚き、次の瞬間には嬉しさと衒いとを隠すかのように、体を折るようにして声を上げずに笑い出します。
いまの若い日本の女子大生なんかだったら「えぇ~っ!どうして!どうして!」と叫んで、どうしてはるばる自分を訪ねて来たかなんてとっくにわかっているだろうに、大げさに叫んで、笑ってみせるところでしょうか(笑)。
このあとの彼女の本当に心から嬉しそうなニコニコとした満面の笑顔が、この作品全体の中で一番素敵な、すばらしい表情で、私はもうそれだけでもこの作品が大好きになりました。この女優さんは舒淇(スー・チー)という有名な女優さんらしいのですが、本当に彼がこんなところまで追っかけて訪ねてきてくれたのが嬉しくて嬉しくてたまらない、という、でもそれを言葉や大げさな身振りで表そうとはしないで、抑えた演技で、いつ仕事が終わる?と訊かれて「まだ2時間もあるわ」と答え、「お茶を飲む?」とお茶を淹れ、「タバコは?」と気遣って、ほかの男からもらって彼に与え、傍に腰かけて、ときどき彼の表情をうかがいながら、自分はただ本当に嬉しそうにニコニコしている、その笑顔が・・・
でも彼は翌朝の9時には兵舎に戻っていなければなりません。ビリヤード場から出た二人は、屋台みたいな簡素な店のカウンターに並んで座って、食事をしています。何も言わず語らずに、でももう深い親密さを感じさせるようなたたずまいで、ひたすら椀のスープか何かをすすり、食べている二人。食事が終わると、雨の中、二人は一本の傘の下で小走りに、列車の時刻表か何かを見に行きますが、もうその時刻には翌朝の9時に兵舎に帰れる列車がないことを確認します。「バスの時刻表を見ようか」と二人で今度はバス停へ行ってみる。雨が降りしきるなか、相合傘の下で二人はしっかり手を取り合ってバス停のところに佇んでいます。・・・
ええ、それだけなんですね。だからいいんです。ものすごくいい。
その一瞬の触れあいのあと、すぐに男は兵舎へ戻って行かなくてはならないわけです。
少し長い暗転のあと、画面はいきなり、1911年(清朝末期)の台北の遊郭内部の光景になります。第2話「自由の夢」はいつも夜のような暗い閉ざされた世界、でも室内は華麗な装飾とスリガラス、重厚な木造り、赤い灯の色で画面が彩られているような気がします。ここで客を待ち受けるおそらくは一番格上の娼妓らしい女性が第2話の主役。そして彼女が待ち受ける顧客であり恋人でもある男が、実在した政治家・ジャーナリストだった梁啓超に共鳴して随伴行動をとっている財産家の子弟らしい辮髪の男。
この主役の女性を演じるのは第1話の主役を演じている舒淇(スー・チー)、男性を演じているのも第1話の主役の男と同じ張震(チャン・チェン)で、これは第三話でも同じです。だからこそ「百年の恋」、まったく別の男女だけれど、時代を超え、空間を超えてつながっているかのようで、そこに台湾人を一貫した眼差しで見つめる侯孝賢の想いがあるのでしょう。
この第2話で素晴らしいのは、南管と呼ばれるらしい歌曲を悲しみに満ちた表情で舒淇が琵琶を弾き、歌うシーンです。福建省・泉州に生まれた室内楽、南音とも呼ばれるもので、使われる楽器や演奏方法などに古くからの形態を残す数少ない音楽のひとつ、台湾では主に南管と呼ばれているそうです。
この第2話が始まってまず驚かされるのは、いきなりセリフが聞こえなくなって、かわりに画面中央に文字が登場する、いわゆるサイレント映画になってしまうことです。これは1911年の出来事を描く物語にふさわしい枠組みで、物語の内容や人物の立ち居振る舞いにいたるまで前近代的な様相を呈しているので、まったく違和感がありません。
主人公の男女は廓の娼妓と顧客ですが、信頼し合う親密な間柄で、やはり娼妓である彼女の妹が妊娠していて、蘇なる男がその妹を身請けしたい、と言い、廓の女将は身請け料に300元を要求しますが、200元なら出せるが300元は出せないと言われ、100元足りずに困っている事情を、女が男に告げると、男は不足の100元を自分が出そうと言います。娼妓が身請けされて(たとえ第二夫人、要するに妾としてではあっても)財産家に嫁いでいくことは、苦界からの脱出であり、将来の暮らしの安定が図れるランクアップなのでしょうね。
ただ、主人公のこの男は本来は保守的な地主階級の資産家なのでしょうが、梁啓超についてまわっているように、近代的な思想にかぶれているので、妾制度に反対で、自分もこの女を愛し、通いつめてはいても、妾として身請けしようとは考えていません。でも、女のほうは、ほんとうは彼に身請けされたがっているのでしょう。だから他人が彼女の妹を妾として身請けする金を出そうというこの男に対して彼女は「妾制度に反対の記事を書いていたのに、どうして?」と尋ねます。男は「妊娠したのだから、妹の将来を考えてあげなくては」と答えるのです。
女は妹がそうして嫁ぐことで幸せになれることを喜び、男に感謝する一方で、女将はもともと妹のほうを残して、自分を身請けさせてくれるはずだったのに、約束とちがう、と男にぼやき、複雑な内心を吐露します。
そして、男にひとつ訊きたいことがある、と言って問いかけます。
「妹の将来を考えなくては、と言ったでしょう? あなたは私の将来を考えたことはある?」
男は一言も返す言葉をみつけることができません。
廓の女将は男に感謝し、また嫁いでいった妹と旦那も彼に謝意を表しに廓へやってきて会食します。女は傍らで悲しみを深く胸中に懐いて、南管の極を絶唱します。すばらしい場面です。
男は日本と大陸とを股にかけて活動している政治家にしてジャーナリスト「梁先生」(梁啓超)に心酔していて、行動を共にしていましたが、その最中に辛亥革命が勃発し、女の所へ帰ってくる予定だった男は女に手紙をよこし、そこには上海へ向かう、とあって、梁が書いた詩の一節、「ここは傷心の地なり・・・船をつなぎて振り返る・・・」が引用され、涙したといったことが書かれていました。女は閉ざされた廓の部屋にいつものように座って、その手紙を読み、その詩句を男とはまたおそらく違った思いで、自分たちの関係と自らの想いに重ねて読んだことでしょう。
暗転の後、突如こんどは高速道路を突っ走るオートバイの映像。やはり張震が演じる男が運転するそのオートバイの後ろには、舒淇が演じるヘルメットをかぶった女性がしがみついています。2005年の台北。高速道路のガードレールからはみ出すように覗ける風景は、台北の高層ビルが立ち並ぶ都市的な風景です。ここから第3話「青春の夢」。
マンションで抱き合う二人のうち女性は、歌手の靖(ジン)。男性はあとで、彼女がステージで歌うのを間近で写真に撮りまくっていたから、どうもカメラマンかジャーナリストか何かかな、と思われますが、よく分かりませんでした。また、二人は知り合って間もないようで互いのこともまだあまり知ってはいなかったようです。
しばらくあとで、男が友人或いは同僚から彼女の情報をメールでもらって、パソコンで開いてみる場面がありますが、そこに出てくる彼女の情報によれば、彼女は未熟児に生まれ、骨が弱く、癲癇症で、右目がほとんど見えない、喉元に¥の烙印があるとか、ちょっとぎょっとするような身体的な生まれながらの傷を負っている女性のようです。
でも彼女は歌手としてクラブのステージで脚光を浴びる中、堂々とすばらしい歌いっぷりで、男はその彼女に触れんばかりまで近づいてあらゆる角度からカメラのシャッターを切っています。ほかにもそうしているやつがいたから、そういうのはジャーナリストかあるいは客にも許されているのかもしれませんが・・・また、その彼女を客席の暗がりでじっと見つめる女の目が不気味に光っています。どうもこれが靖(ジン)の同性愛の彼女らしい。舞台を下りてから、彼女は靖(ジン)に食って掛かっています。連絡を取ろうと何度も試みたのになぜ拒んでいたのか、と。靖は同性愛の彼女の怒りを適当にはぐらかしてなだめ、仲直りして一緒に靖の部屋に伴い、泊まります。
けれど靖はすでに男のほうに気が行ってしまっているので、朝早く抜け出して、男と出かけてしまいます。目覚めて靖が消えていることを知ったレスビアンの彼女は、「モトカノ(前に自殺したモトカノがいたらしい)みたいに、私も死んでやる!」というメールを残していきます。
部屋に帰ってきた靖はそのメッセージを読みますが、彼女を必死でさがしたりしようとはしないようです。
次の映像、ラストシーンは冒頭と同じで、オートバイをとばす男の胴に手をまわして、その背にしがみついている靖の姿をとらえています。
1966年の懐かしい音楽とビリヤード場の雰囲気、そして純情な男女の物語、そして、この1911年の南管の響、廓の豪奢だけれど閉ざされた空間、社会的に開かれた男性と抑圧され閉ざされた場に生きて自由を夢見る女性の屈折した思い、その愛と悲しみ、最後に2005年(映画のつくられた「現在」)の男女を乗せ、風を切って疾走するオートバイのスピード感、主人公の女性が煌々たるスポットライトを浴びながらステージで歌う歌、仮寝の場所でしかないようなマンションの空間、一個の肉体としても、「n個の性」的な関係性としても傷ついてしか生きられない若い男女の姿・・・とそれぞれに特徴的な音楽や空間や基調となるリズムを形作る要素が配されて、見事な対照を見せながら三部構成で台湾百年の恋をインテグレイトしきっている、という印象です。
もちろん、それぞれの時代背景、台湾の社会事情などを勉強することは、この作品の背景を知る上で役に立つでしょう。侯孝賢監督がなぜこの三つの時期を選んだのか、というふうなことを明らかにするためには、そうした情報が必要でしょう。
でも、そういった情報がなければ、この作品のすばらしさを味わえないか、と言えば、全然そんなことはありません。私ならそんなことは、それが商売の評論家や研究者に任せて、作品そのものを楽しみます。圧倒的多数の映画観客のみなさんもそうだろうと思います。とりわけ私が接してきた女子大生みたいな若い女性には、ぜひ自分の素直な感性でこの作品をただただ味わい、楽しんでほしいと思います。
甘い罠(クロード・シャブロル監督)2011
これは不思議なサスペンスー犯罪映画でした。怖いとかハラハラするというより、ちょっと不気味なところが、そしてその不気味さが何に由来するのかよく分からないまま進行していくところが、サスペンディング、ということでサスペンスということになるし、実際そこで行われてきたのは犯罪にほかならないでしょうから、犯罪映画と言ったのですが、そういうジャンル映画的な言い方をするとちょっとはみ出るような不思議な質感をもった映画でした。
冒頭から登場するのは実質的な主役と言っていい中年女性ミカ・ミュレールと彼女がかつて結婚して一度離婚したピアニストの男性アンドレ・ボロンスキーと再婚する2度目の結婚式のパーティーでの二人。そしてアンドレの先妻であるミカの妹リズベットとの間にできた子でいまは青年になっているギョーム。場所はどうやらスイスらしい。
一方、ここにピアニストを目指す若い女性ジャンヌ・ボレとその恋人で化学の会社か研究所みたいなところに勤務する恋人アクセル、および二人の、互いに仲良しの友達らしい母親が4人でレマン湖らしい湖のほとりで会食しているシーンが出てきます。
アクセルの母が、ジャンヌの出生時に病院で子供を取り違えられたことがあったという、ジャンヌ自身は母親から聞かされていなかったエピソードをうっかり話して聞かせ、ジャンヌの母親はちょっといやな顔をしますが、ジャンヌは「じゃひょっとすると私はボロンスキーの子供かも」と言います。ジャンヌの母で法医学研究所の所長である母親は一笑に付し、ジャンヌ自身も本気でそう思ったわけではなかったのですが、ピアニストを志し、コンクールの審査を真直に控えたジャンヌは、彼女なりの打算もあって、突然、ボロンスキーを訪ねるという思い切った行動に出ます。
ボロンスキーと妻ミカは戸惑いながらもジャンヌを温かく迎え、ジャンヌがピアノのコンクールで演奏することを知ったポロンスキーは彼女に翌日また来て演奏してみるようにと強く勧めます。彼女が弾く曲はリスト「葬送」です。この曲は全編に鳴り響いて、この作品全体が真の主役への、また彼女を含むこの家族(家庭)そのものへの「葬送」であるかのような様相を呈しています。
翌日来たジャンヌに試し弾きさせたボロンスキーは、彼女がすっかり気に入って、つききりで熱心に指導します。ミカは自家製ココアをジャンヌに勧めますが、ジャンヌは鏡に映る背後のミカがわざとココアの入ったボトルを落として床にぶちまけるのを見て不審を懐き、恋人アクセルに、自分の服の袖についたココアの成分を勤め先で分析するよう頼みます。その結果、ココアにはベンゾジアゼビンという、催眠成分が入っていたことがわかります。
一方、ミカはジャンヌの母を彼女が所長をつとめる法医学研究所に訪ね、子供の取り違えの件でジャンヌが動揺しているようにみえたから、と言い訳しながら、ポロンスキーの子かどうかさぐりを入れます。ジャンヌの母は、感情的には違う(親子ではない)けれども、医学的には可能性がないとは言えない、という意味の答えを返します。血液型は同じだ、と。
ギョームはジャンヌがどういう目的で自分たちに近づいたんだ、と不審がり、ジャンヌに問います。そのギョームにジャンヌは、自分もボロンスキーの娘だなんて信じてはいないこと、それよりも、ミカの淹れたココアに睡眠薬が入っていた、と告げ、「事実を言っただけ、警告はしたわよ」と言います。
それに応えてギョームは、自分の母リズベットの死因が運転していた車ごと崖から落ちた居眠り運転であり、ふだん決して睡眠薬に手を出さなかった母の死体から睡眠薬とアルコールが検出されて不思議に思ったことを告げます。彼も内心は叔母である義母に不審を感じていたわけです。
ボロンスキーは睡眠薬なしでは眠れないが、或る夜それがなくて、夫のために車で買いに出たリズベットが、居眠り運転で事故に遭ったのです。
カメラは、ジャンヌの母親を訪ねて、ジャンヌがリズベットとポロンスキーの娘である可能性がゼロではないことを聴いたミカが、何事かよからぬ企みをして考えにふけっているかのように、眠れぬままに目をランランと見開いたままベッドに横たわっている姿を映します。
翌日、ミカは、ジャンヌの母親に電話で、(本当は自分が提案してそうさせたのに)夫ボロンスキーが4日かくらい泊まり込みの合宿でジャンヌを集中的に教えたがっている、と伝え、母親はジャンヌの判断に任せると答えて、ジャンヌは2日間ボロンスキーの家に泊まることにしたと母親に伝えます。その時、母親は、実はジャンヌの父親は、それまで父親だと思っていた建築家の男でもなく、またボロンスキーでもない、別の人間であると告げます。何をいまさら、と反発する娘に、夫のジャンが不妊症だったこと、従ってドナーの精子で妊娠した人工授精による子供がジャンヌであったことを告白します。
前にミカがココアのポットをひっくり返したのと同様に、今度はミカは台所で鍋の熱湯をひっくり返してそばにいたギョームの脚にやけどを負わせます。ジャンヌはギョームにミカがわざとやった、と言いますが、ギョームはそんなことはない、と否定します。
夜になって、ミカがココアを入れ、ギョームはジャンヌの言ったことがひっかかって、ぼくはコーヒー、と言ってコーヒーを前にしながら、どちらも飲みません。
ポロンスキーがあの晩と同じように、睡眠薬を買うのを忘れた、と言い出し、ジャンヌが私が買いに行ってくると言うと、ギョームがぼくも行くと言って一緒についていきます。運転はジャンヌがします。ここで観客の私たちは当然、リズベットに起きたことが繰り返される予感にとらわれます。
台所でコーヒーカップなどを洗うミカのところへポランスキーが現れて、なぜカップを洗うんだ?と不審の目でとがめだてします。あの日の夜も君は洗っていた・・・と。ミカはそんな夫に、「私は悪に長けているの」と言い、自分がリズベットに睡眠薬を飲ませたことを告白します。「私の愛は言葉だけなの」と。
カメラは助手席にギョームを乗せて車を運転するジャンヌに切り替わります。彼女は強い眠気に襲われ、車を石垣にぶつけます。カメラは再びポロンスキーとミカの台所へ。
「あの子たちに何をした?!」と妻ミカを責めるポロンスキー。
二人は死んでしまったのかと思わせるシーンでしたが、ポロンスキーに電話がかかり、二人は事故を起こしたものの軽い怪我だけで、無事でジャンヌが母親と警察に居ることが分かります。ポロンスキーは、妻ミカに「今夜は君の負けだ。」と言うと、ひとりピアノを弾きに行きます。ミカを連れて警察へはよ行かんかい!と半畳を入れたいところですが、まぁこういう気どりは黙認しましょう。
元のタイトルは"Merci pour le chocolat "で、「ココアをありがとう」らしいです。洒落たタイトルですね。
物語は、赤ん坊のときの取り違えの話を奇貨として高名なピアニストポロンスキーに近づき、ピアニスト志望者として成り上りたいジャンヌに寄り添って、彼女の視点から、リスクを犯しながら、ポロンスキーの家庭の謎、不審なミカの正体を、彼らの息子であるギョームを取り込みながら探っていき、ミカの不気味さが醸し出す危険な雰囲気、けれどもなぜなのかが分からないままサスペンディングな状態で進行していき、次第に色々なことが明らかになっていくという語りの構造になっています。
どちらかと言えば、そのサスペンスの進行で、謎がすっきり解けて、カタルシスが得られるサスペンスドラマ、というよりも、焦点はポロンスキーと、この妹の夫と結婚し、離婚し、また再婚したミカと言う女性、そして息子のギョーム、亡くなったミカの妹リズベットという一つの家族~有名なピアニストの家族であり経済的には豊かなハイソな生活を楽しむらしい家庭の内に潜む秘密、過去の闇、とりわけその闇の中心に蹲っているミカの隠された姿にあって、その謎が発する不気味さが全編を覆っているようなところがあり、その謎が外部からいわば闖入してきた小娘によって暴かれていくことが、同時にこの安定したハイクラスの平和な家庭にみえたものが瓦解していく過程でもあるわけで、そこらへんに作品の展開の主眼が置かれているようです。
しかし、どうもよく分からないのは、どう考えてもこの家庭はポランスキーという名ピアニストの家庭という特殊な家庭であって、そこに社会派の一般的な家庭劇のような、貴族社会の家族であるとか、ブルジョワ家庭の典型であるとかいった普遍的な家庭像やその瓦解を描くといった志向があるようには思えないし、ミカの「犯罪」動機もそうした階級的、社会的な背景が感じられない、きわめて個人的な広義の性的な関係性に要因があるので、何を描きたかったのか、何を訴えたかったのか、肝心のテーマ性が私にとっては不可解なところがある作品でした。
ただ、既存のサスペンス劇、犯罪劇の語り口を借りながら、実際にはむしろこういう背景をもった上流家庭の瓦解と一人の女性の破綻に焦点をあてたドラマをつくりたかった、方法的な試みとして受け止めるべきなのかな、と思って観ていました。
斬、(塚本晋也監督) 2018
塚本晋也監督初の時代劇!というので期待して観に行きました。出町座です。
この作品で、一番印象に残っているのは、刀の重量感みたいなものです。存在感といってもいいのかもしれません。主人公都築杢之進が抜く刀は重そうです。
私も祖父が少し日本刀を蒐集していた人で、そのうち2本を譲り受けた母が結婚しても持ってきていて、よく父が手入れをしているのをみかけたことがあり、幼いころの私は触らせてもらえなかったけれど、実は中学くらいになると、両親が不在の折に、こっそりと収めてあるところから取り出して、鞘から抜いて振ってみたこともあります。やってみてこんなに重いとは思わず、こわくなって早々に鞘に収めたおぼえがあります。これじゃ、チャンバラみたいに振り回したり、横に振って人間の胴を斬るなんて、よほど名人でないと無理だな、と思いました。のちに、何人も斬って無敵だったらしい二刀流の宮本武蔵が、幼いころから大男で、腕っぷしが強い男児だったらしいことを(講談や小説の類だけの話だと思うけれど)知って、あんな刀を2本も振り回せるのは馬鹿力の大男でなきゃ無理だな、と納得したものです。
その刀の重量感みたいなものは、人を斬ったことがない都築杢之進が刀で人を斬ることになるという設定のもとで、いっそう増して、この映画での刀の扱い方、撮り方に、ある種のリアリティを生み出していたのかもしれません。
だいたいこの監督は「鉄男」で名をなした人で、私も観ましたけど、あの鉄の巨大なペニスドリル(笑)はすごいインパクトでした。あれを発明しただけで、一挙に世界に躍り出ることができるほどのものですよね(笑)。
それに比べれば、この「斬、」の刀も鉄でこしらえてはあるけれども、ひ弱です。道具としての刀もありきたりの既存の道具だし、それを使う人もひ弱。それは鉄そのものに徹底的に焦点をしぼっていくのじゃなくて、それを使うはずの人のありよう、「斬る」ことに焦点を移してしまっているから、そちらの物語がしっかりしていないと、どうにも作品そのものとしての重みが飛んでしまう感じがします。
残念ながら、物語のほうは、それに比べて、ずいぶんお粗末な気がしました。この都築杢之進という浪人は風雲急を告げる幕末の京(だったと思う)へ上って行こうとしていたらしいのですが、旅費にも事欠いて、道中通りがかった村の農家を手伝って食わせてもらっていて、そろそろ旅立とうかという男。人を斬ったことはないけれど、剣術はうまいらしく、世話になっているところの娘の弟市助が剣術を習いたがっているために、彼に教えて暇さえあれば木刀で撃ち合っています。
或る時やはり都に上って幕府方に加勢しようと考えている澤村という侍が、都築杢之進と市助の棒振りを見て、ちょうど何人か腕の立つ仲間を率いて上京したいと考えていた折から、一緒に行こうと誘い、市助も「予備として」連れて行ってやると言い、杢之進は市助は残っていよ、と止めますが、市助は自分も仲間入りと大歓びです。ところがさあ出発、というときになって、杢之進が高熱で倒れ、やむなく出発を一日延期。
折も折り、村へ極悪の人相をした数人の荒くれ男たちがやってきます。何をするでもなくたむろしていますが、村人たちはせっかくの収穫期を目前にして、みなやられてしまう、と怯えています。念のために杢之進が見に行って彼らと会い、言葉を交わすと、彼らは「俺らは権力と結託した悪徳商人で儲けているような悪い奴は襲うが、百姓なんか襲わねえよ」と言います。杢之進ははいそうですか、と聴いて(笑)それを村人たちに伝え、あの人たちは顔は悪いけど、悪い人たちじゃありません、と言います。彼らと直接喋ったときも、なんで俺たちをそんなに怖がって悪者だと思うんだろう?と訊かれて、顔が悪いからです、なんてシャァシャァと答えていました。
これはいまどきの幼稚園の先生あたりが、桃太郎にやっつけられる鬼さんたちが可哀想、という子供さんに配慮して、実は鬼さんたちは顔が悪いだけでそんな悪い人じゃなかったんですね、人はみかけで判断しちゃいけません、っていうのと似ていますね(笑)。
ところが、その心優しいはずの鬼さんたちを、折あしくサムライ志願の市助が挑発し、かえって彼らにボコボコにされて帰ってきます。澤村は、既に市助もわれらが一味、それをやられてこのまま放置できんと、病身の杢之進がやめてくれと頼むのを振り切って出かけ、悪相の男たちをぶった斬って、一人だけ逃げられたが全部斬り捨てたと帰ってきます。
村人たちは、これでお侍さんたちがいなくなっても安心して稲刈りができる、と大喜びでした。ところがそうはいかず、逃げたやつが仲間を呼んで復讐に舞い戻って来たらしく、百姓家に押し入った賊たちは市助も含めて村の人々を大勢惨殺します。
だから言ったでしょう、暴力をふるえば、暴力が返ってくる、際限なく人殺しを繰り返す悪循環に陥るだけです、という意味の、現代の非暴力主義者の言い草のようなことを言って、ひたすらやめてください、と叫ぶ杢之進ですが、市助をも殺された姉のゆうは、それまでとは打って変わって「仇を討って!」と叫びます。
澤村は、杢之進にお前の腕を見せろ、と自分はひとまず後ろに身を隠して、山中の巣窟へ戻って来た賊たちには、杢之進が前面に出て対応します。しかし仲間を殺した澤村を求めていきりたつ賊たちにとっては杢之進は澤村の仲間に過ぎず、杢之進に斬りかかると同時に、後を追ってきたゆうを手籠めにします。それでも刀を抜かずに木切れで戦って、なんとか「話し合いで」解決しようとする?おかしなおかしな杢之進さん(笑)。
そうしてとうとう本命の澤村さんが出て来て、バッタバッタと賊たちを切り倒し、頭目らしい男の片腕を斬って肩のあたりの袖口からドドッと血が流れ落ちる姿に向けて、もう少し痛みを感じてから死ぬがいい、といった冷酷な言い方をして時間をかけてなぶり殺すのを楽しむように眺める澤村君。頭目のほうも、あの世で出会ったら同じことをしてやるぜ、とこっちも片腕斬られて死にかけているわりには余裕の表情で死んでいきます。
とにもかくにも全部やっつけて、草原に倒れ伏している杢之進。澤村が近づいて、明日出発するぞ、と最後の誘い。でも杢之進はこんなことでは私は行けません・・・とかなんとか、この期に及んで丁寧語を使いながら(笑)言います。「お前が来ないというなら、ここでわしがお前を斬る!」と恫喝して伏せたままの杢之進に近づき、あわや刺そうと切っ先を触れんばかりに迫ったとき、杢之進、伏せたまま刀をふるって一閃。
それでいよいよ杢之進と澤村君の最後の対決となり、それまでに見せてきた剣の腕と人斬りの経験からふつう誰もが懐くであろう案に相違して(でも物語の都合上はちっとも案に相違せず、予想どおり)杢之進が澤村君を斬ってしまって一巻の終わり。杢之進はフラフラと草叢を這うがごとくよろめきながら歩き去るのでありました。
がっかりです。
これだけ旬のキャストを揃えてこれかよ!と恨み言も言いたくなります。「MOZU」の池松壮亮などはとても素晴らしかったし、蒼井優が演技派女優なことは、「ハチミツトクローバー」や「フラガール」「百万円と苦虫男」などで十分見せてもらっているので、こういう演出をした責任者を出せ!とファンが怒らないかな。この作品での二人は可哀想です。俳優で一人イイカッコしているのは塚本監督自身では?(笑)それはないやろ!
別段、昔の時代劇全盛時代の時代劇のような様式美を絶対視しているわけでもないし、「用心棒」の娯楽に徹した娯楽リアリズムみたいなのばっかり求めているわけじゃないけれど、これはいったい何だろう?と思いました。
イネの穂が実った村に野盗がやってきて、おそれおののく百姓たちを、腹を空かせた歴戦の勇士だったボランティア武士たちが援けて、大流血の激闘を繰り返して野盗たちをやっつけちゃう、という話はどこかで聞きませんでした?(笑)
・・・ってことは、これ、「七人の侍」のパロディなんですかね?いやいや、とてもパロディですよ、っていう目くばせも何もしてくれていないので、大真面目に「七人の侍」の侍観、野盗観、人間観、世界観に反旗を翻して批判していらっしゃるんでしょうか・・・(驚!)
はたまた、野盗たちを北朝鮮の金さん、都築杢之進を韓国の文さん、澤村をトランプさんか安倍さんに置き換えたら、なんとなく分かりそうな・・・(笑) ひょっとしたら現代世界政治のパロディなのかな。
「金のやつが好き放題暴力をふるってみんなを恫喝している、けしからんから俺が叩き斬ってやる」(安倍さん)
「いや、待ってください。なにごとも話し合いで平和にいかなきゃ。私が行って話してきますよ。もしもし、そこの金さん。あなたがたをみんなが怖がっているんだけど、みんなを襲ったりしようと思ってるんですか?」(文さん)
「なんで弱いやつらに手を出したりするもんかね。おれたちは権力を握ってみんなを牛耳てるトランプなんてやつの関係するところを襲って、わずかな金品をかすめとってるだけじゃないか。なのに、おれたちは何でこんなにみんなに嫌われるんだろうね?」(金さん)
「そうかそうか、あんたがたがいい人だってことはよくわかったよ。みんなに誤解されて嫌われるのは、きみの顔が悪いからじゃないかなぁ」(文さん)
(みんなに向かって)「みなさん、金さんって、案外悪い人じゃないですよ。みなさんを襲ったりしないって言ってましたから安心してください。仲良くしていきましょうよ。」(文さん)
・・・云々。
パンフレットだかチラシだか予告編だかでチラッと見た「人を斬る、ってどういうことだ?」みたいなことをこの杢之進さんに託して問いたいのなら、何か基本的な錯覚があるんじゃないでしょうか。「人はなぜ人を斬るのか?」なんて問い方自体が間違っていますよね。
戦国時代の武士ならともかく、徳川300年泰平の眠りを経た時代の人を斬ったこともない、斬るのを見たことも無い武士にとって、斬る、ってことの本質は「(自分の)腹を斬る」ことしかなかったのではないでしょうか。「斬る」ことと武士とは何か、武士の社会とはなにか、を問うことが同義であるような問い方ができるとすれば、たぶん「(自分の)腹を斬る」こと以外にないのでは?
それが労働せずに支配だけしてきた武士階級のぎりぎりのレーゾン・デートルみたいなもので、自らの死によってしか、その存在の空虚さに拮抗することができなかったでしょう。
どうせやるなら、そのことをしっかり追究して、武士というものを、あるいは斬る、ということを全く別の形で見せてほしかったな、と思いました。
杢之進も澤村さんも、風雲急を告げる都へ幕府軍に加勢するために上ろうとするはずだったけれど、それを納得させるだけの思想的背景も彼ら個人の来歴もまったく描かれておらず、どことも知れない山間の村に閉ざされた舞台で繰り広げられる、暴力と非暴力をめぐるお粗末な「思想性」のせめぎあいだけに焦点をしぼるために、便宜的に外部から借りて荒っぽく描いた背景の絵柄にすぎないものになってしまっています。
「鉄男」以来、この監督さんは人間のすさまじい暴力性というのを描きたくて仕方がないようで、「鉄男」では確かにそれは非常に大きなインパクトを与えていました。ただ、その暴力性の表出が何を意味し、どのようなものに突き動かされ、何に向けられ、どんな帰結をもたらすのか、そういうことが問われると、なにかとんでもない錯覚を覚えるようなところへ出てしまっているんじゃないか、という気がします。
「野火」もあの人間が肉片となり骨片となり、鮮血のミンチになって飛び散るあの映像は、確かに無数の戦争映画の中でも凄絶な映像美・・・いや美と言っちゃっていいのかどうか、どうも不謹慎な気がするけれども、そういうインパクトのある映像を創り出していましたが、人間のドラマとしては、原作があるからしょうがないとはいえ、深い感動を与えるような作品ではなかったと少なくとも私には思えました。
私が見た戦争映画(戦後映画と言うべきか・・・)で一番インパクトがあったのは、「ゆきゆきて神軍」でした。あの映画が怖いのは、戦中の軍隊の中での人肉食が描かれている(示唆されている)からでもなく、戦争の悲惨をそういう形で描いているからでもなく、この事件に関与した人たちが、とくべつ残虐な人間でも異常者でもなく、わたしたちの大多数となにも変わるところのない、ごく平凡な「ふつうの」庶民であり、戦争を生き延びて引き揚げてきて、幸せな家庭を持ち、黙々とまじめに会社づとめなどして戦後の何十年を生きて、よき父親、よきおじいちゃんとしていまなお生きている、その事実だと思います。塚本監督の人間認識や「暴力」に対する認識の中に、こういう「ふつうの」人間の姿があるのかどうか・・・と今回も疑問に思いながら見ていました。
愚なる妻(エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督) 1922
108分のビデオだったのですが、もとは4時間の映画だったのだそうです。営業上の理由でどんどんカットされていま残っているのはこれだけだとか。でもサイレント・モノクロ時代の映画として、とても面白かった。
だいたいロシアの貴族を騙って上流社会に紛れ込んで、金をかっぱらっていこうという詐欺師の設定が面白いし、そのためにアメリカ大使夫人を攻略するストーリーがなかなか面白い。
一番驚かされるのは、舞台となったモナコのモンテカルロの賭博場などの華麗な建物群が並ぶ夜の煌々と灯りの灯る光景のすばらしさ。なんと、これ、出費を惜しまず、というか製作費を無視して、全部最初にセットで作ってしまったのだそうです。これで会社を追い出された監督はそれでも浪費癖というのか徹底主義をやめず、呪われた監督と言われているそうですが・・・できてしまったものは、とても美しい。
「斬、」の塚本監督じゃないけど、このシュトロハイム監督、この映画では主役のロシア貴族を語る詐欺師「カラムジン(偽)伯爵」を演じています。のちに俳優専業になった人だけあって、みごとなものです。また相棒役の従妹なんかも、とてもいいですね。サイレントだから口パクですけど、文字で表現されているセリフがおしゃれ。ラスト近くで、やっぱり彼が騙して金をまきあげていたメイドの嫉妬で放火されて、攻略中の大使夫人をほったらかして、自分が先に危うく命からがら逃げたものの、正体を見破られて金を手に入れることもできなかった彼に、かねがね、狙いは金であって女じゃないから間違えないでね、と警告していた従妹のオルガが、「女の胸に火をつけるだけでよかったのに」なんて彼の失敗をなじるところなんか、思わずクスリと笑ってしまいます。いいセリフ。
この従妹が相棒として、男が大使夫人を攻略する手助けをし、男が大使夫人をホテルに返さずに道を迷ったと婆さんの小屋に富める連絡を彼女にしたとき、男からの指示ではなく、自分で気をきかせて大使に電話して、私たちと一緒に夫人はホテルにいますからご安心を、と言い、また大使の元へ翌朝帰っていく夫人に、ご主人に訊かれたらホテルに私たちと一緒にいたと言うほうがいいわよ、とアドバイスし、「彼は悪さはしなかった?」と付け加えるなど、ほんとうにチャーミング。
実は大使夫人を小屋に連れ込んだまではよかったけれど、「わるさ」をしようとすると、そこへやはり道に迷ってから泊めてくれ、と神父が入ってくるところなんぞ、よく出来た話だなぁと感心しました。
そして、大使夫人がいつも愛読しているのが、この映画のタイトルにもなっている「Foolish Wives」愚かなる妻たち、という本なんですね。そして、すべてが終わって、火事のホテルから救出され、疲労困憊、ベッドで寝ている大使夫人の傍らによりそう夫君の大使が、うっすら目をあけた妻に、その本を広げて、ラストの一行を指さすのです。
And thus it happened that disillusionment came finally to a foolish wife, who found in her own husband the nobility she had sought for in - a counterfeit.
かくして愚かな妻は、ついに深い失望を味わうこととなり、それまでニセモノのうちに探していた気高さを彼女自身の夫のうちに見出したのです。
この記述自体が、この映画の物語の終りの一行でもあるわけですね。本当にお洒落な工夫をする監督さんだな、と思います。
男が大使夫人に雨で濡れた服の着替えを老婆から借りて与え、反対向きに椅子に座ったような恰好をしながら、手鏡で夫人の着替えを覗いていたり(笑)、彼に結婚して貴族の妻にしてやるとだまされて金をまきあげられるメイドが、大使夫人を階上の部屋に連れ込んで誰も入れるなと言われて、不審に思い、鍵穴から二人の行状を覗き見たり、ふつうの映像とは違った工夫を登場人物の行動を描くのに使っていて、そういうところも当時としてはとても新しい映像だったんじゃないでしょうか。
ラストも男の悲惨な末路をさりげなく見せて衝撃的な映像です。
監督はサイレントなのに俳優には普通に会話させ、セリフを言わせて撮ったんだそうで、口パクだけれど、その言葉を交わす仕草に不自然なところがありません。いいテンポだし、古いサイレントのモノクロ映画なのに退屈せずに面白く観ることができました。
グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督) 1924
「愚なる妻」で会社を追い出され、拾う神にひろわれて撮った次の映画がこれだそうで、強欲とか貪欲とかいう意味のグリード。これまた本来は9時間くらいの超長尺の物語だったようですが、ズタズタにされて、いま私たちが見られるのはごく普通の映画の時間でしかありません。それでもこれが結構見られるから不思議です。
マクティーブという金鉱で働く坑夫が、或る時巡回歯科医の弟子になって、サンフランシスコで歯科医を開業し、ここで知り合ったマーカスと言う友人の彼女トリナが好きになってしまって純情な女知らだったマクティーブは寝ても覚めても彼女のことばかり考えてノイローゼ気味。心配してくれたマーカスに告白したところ、マーカスは案に相違して、譲ってくれます。
それでめでたくトリナと結ばれたマクティーブ。しかも彼女が買った富くじが大当たりで、5000ドルも手に入ります。友人マーカスの心に嫉妬が芽生えます。
一方何不自由なく幸せな家庭を築く条件の整ったマクティーブとトリナでしたが、トリナは自分が手にした富くじの5000ドルは貯金して一切手を触れようとせずお金に執着を深めていきます。
嫉妬心をもってマクティーブが無許可の歯科医営業をしていることをマーカスが暴露したらしく、それ以上歯科医を続けられなくなったマクティーブは仕事を探しますが、思うような職につけず、ついても運悪く職をくびになって収入がなくなり、彼女はほそぼそと内職みたいなことをして僅かな収入を得ますが、だんだんお金に異常な執着をみせるようになり、自分の金は小銭でも使わずに、夫の金を出させます。そういう彼女のありようにだんだんとマクティーブも嫌気がさして、家を出ていき、トリナは逆にほっとして、家でベッドに硬貨を敷き、金貨をなぜさすって、お金への執着はますます偏執的になっています。
そこへ結局はどうにも仕方がなく腹をすかせて戻って来たマクティーブでしたが、トリナは彼を家へ入れようとせず、拒否します。これに起こったマクティーブは無理に押し入り、あの5000ドルを出せ、と脅し、争いになって、とうとうトリナを殺し、金を奪って逃げます。
いまは西部の街で暮らしていたかつての友人マーカスが、マクティーブのおこしたトリナ殺人事件の手配書を見て、追手を組織し、砂漠へ逃亡したマクティーブを追います。やがて水不足で追手はそれ以上の深追いをあきらめて馬を返しますが、マーカスだけはあきらめずに追い、とうとう水も切らせて砂漠に倒れたマクティーブに追いつきます。そこでも金をめぐって争いますが、もう二人共水がなく、また100マイル以内には水の出る場所もなく、俺たちはもうだめだ、と二人共さとります。「たとえ死んでもあの5000ドルは手放すつもりはない」とマック(マクティーブ)はこの期に及んでも言い張って、二人はさらに争い、とうとうマックがマーカスを斃します。
しかしマックの手首にはマーカスが自分の手首とつないではめた手錠がかかっていました。マックは驢馬に積んで持ち運んでいた、うちにあった鳥籠の中の小鳥をいまは放してやり、へたりこみます。でも小鳥も力なく空の水筒の上に落ちて動かなくなります。砂漠の中にへたり込んだマックのロングショットで The End です。
お金への飽くことの人間の執着、強欲を描いた作品ですが、どうも金銭欲でなく、人間のさまざまな欲望、強欲の数々を全部描き出してやろうというのが監督の当初の9時間版の狙いだったようです。
そのお金の部分だけが残されて一筋の或る程度読める物語をつくっているわけですが、わずかに他の欲望のうちの一つだろうと思われる食に関する貪欲さにまつわると思われるシーンが残っています。
トリナとマックの、新居での結婚式での参列者の食事風景です。みんな異様にガツガツと食べている光景がかなりしつこく撮られています。でも、食に関しての貪欲を示すようなシーンは多分そこだけだったと思います。
マックとトリナの部屋に、鳥籠が吊るしてあって、2羽の小鳥が飼われています。これが最後に上に書いたようにマックの手で放たれるのですが、それまでのところでも何度か登場し、とりわけ、2人を嫉妬したマーカスが、自分はバカだった、あの女さえ手放さなきゃ、大金も俺のものになったのに、とマックに悪意をもって、マックが無許可の診療所を開業していることを暴露して、その件で廃業しないと法に訴える旨の書簡を受け取ったマックとトリナが窮地に追い込まれるシーンでは、しきりにこの鳥籠と、それを狙う猫のクローズアップが多用され、最後にはネコが鳥籠にとびついて籠の上にのっかる場面まであります。このへんは状況の深刻化、二人にとっての危機をそんな形で強調して表現していて、なかなか面白いな、と思って観ていました。
ラストの砂漠のロングショットもよかった。
saysei at 00:49|Permalink│Comments(0)│