2019年01月
2019年01月29日
手当たり次第に XXXⅡ ~ここ二、三日みた映画
今回もわずかですが忘れてしまいそうなので、まとめて感想走り書き・・・
麥秋(小津安二郎監督) 1951
いまさら、と思われるでしょうが、私は記憶力が極度に乏しいので、同じ映画を何度でも楽しめて、何度でも泣けます(笑)。今回は京都文化博物館のフィルムシアターで上映したのを見に行ってきました。
そしてやっぱり泣いたり笑ったりしました。
杉村春子が、子持ちの息子と翌朝秋田へ転任していくという前の晩、家に来た原節子に、私の胸のうちだけでこんな夢みたいなことを勝手に考えたりしてたのよ、怒らないでね、とさんざん言い訳しながら、もしもあんたみたいな人がうちへ来てくれたらどんなにいいかと・・・と思いをぶつけると、案に相違して原節子が、私のような売れ残りで良ければ、と答え、えっと驚く杉村春子。ほんと?!ほんとに?!と詰め寄って・・・というあの場面。あそこへ来るともう、自分が妻を亡くして子持ちのいい年をした息子をもつ杉村春子の気持ちに寄り添ってしまって、とめようにもとまらないほど涙が出てきます。毎度毎度、困ったものです(笑)・・・
同情で?みたいな声がいつもどこかから聞こえてきて、それが、話を決めてきて家族とのやりとりも終えてのちの原節子と義姉とが二人で語り合う場面ですっと消えてしまいます。
「それに私、40にもなってフラフラしている人より、彼のほうが信頼できると思うの」と原節子が言います。彼女がとても足が地についた現実的な考え方をしている人だということが、この一言でとてもよく分かります。なるほどなぁ、と今回も深く納得しました。
この「40にもなってフラフラしている人」というのは、上司が引き合わせようとしていた、いいとこの出の、エリートサラリーマンで初婚、上司も兄など家族も「いい話だよ」と考えていた相手のことです。彼女はその話に彼らのようには「いい話だ」と考えていなかったのでしょう。判断の基準が違うわけです。
でもまあ娘というのは親の世代(ここでは親も存命ですが兄が実質的にその役割をしていますが)とは違った判断をするものですよね。自分が生涯一緒に生きていく伴侶のことですから、職業・地位、家柄やら収入やら初婚か既婚かなどよりも、自分にとって信頼ができるか、という価値判断が優先するのは深く納得できますね。
彼女が少し遅くに帰宅し、台所でひとりでご飯を食べるシーンがあります。ちょっとおなかをすかして帰ってきた彼女が残りご飯をまぁどちらかといえばがつがつ(笑)かきこむ姿を正面から、真横からとじっくり撮っています。その上たっぷりおかわりまでする(笑)。あぁいう綺麗な女優さんのこういう姿をあんなふうに撮るってことはあんまりないんじゃないでしょうか。あそこに原節子演じるこの女性の地に足のついたものの考え方や生きる姿勢みたいなものがみんな凝縮されているような気がします。
家族は家族で親身になって彼女のことを心配しているのです。だからこそ言い争いも気まずい空気も生まれますが、そこには本当に自分の生き方を真摯に考える女性像も、互いに心からの信頼と愛情で結ばれている家族の姿があって、その姿にいまのわたしたちは涙せざるを得ない気がします。
他方、この作品で二人の幼いわんぱくそうな兄弟が出てくると、いつも笑ってしまいます。そして家族で食事をしているシーンなどみると、またうるうるしてくる(笑)。
私の次男が昔、中学の終りころだったか、もう勉強なんかしたくない、なんでこんなことせなあかんのかわからん、みたいなことを言って、じゃ何か他に好きなことでもあるのかと言うと、映画が好きだいうので、じゃ好きなだけ見りゃいいじゃないか、と言ったらほんとに毎日寝っ転がってビデオで映画三昧をはじめたのですが、たぶんそのころだったでしょう、「小津ってそんなすごい映画監督なん?」と言うので、「いいと思うけど、どうして?」と応じると、「だいぶ見たけど、これって<ふつう>やん?・・<ふつう>っていうか、別に何が起きるわけでもないし、<ふつう>のこと撮ってるだけやん・・・」
まぁ語彙が足りない年頃(笑)ですから、十分に自分の言いたいことを表現できてはいませんでしたが、言いたいことは判るから、「それがすごいこととちゃうの?」とかなんとか、適当にやりすごしておいたと思いますが、いまもその「ふつう」をこんなに完璧にとらえるような監督は小津しかいないような気がしています。
それは、私たちがふだん、呼吸するのと同じように、意識せずあたりまえのこととしてやっていることを、あらためて意識して取り出してみるとこんなに奇妙なものだよ、とか、こんなに滑稽なものだよ、といった、ちょうど日本人にとっての当たり前の風俗習慣を外国人が見てそう思うような視点で撮るというのとは、似て非なるものだという気がします。それはたとえば伊丹十三の「お葬式」みたいなものと比べてみればすぐわかります。小津のどの作品にも、ああいう皮肉な目もあざとさもありません。
でもまぁ、この作品については機会があれば、また触れることがきっとあるでしょう。小津の作品は私に残された時間があるなら、いずれじっくり何度でも見直して、自分にとっての意味を言葉にしてみたいという気がしています。
夫婦善哉(豊田四郎監督)1955
森繁と淡島千景、とてもよかった。どうしようもない大店のグータラおぼっちゃんを森繁はほとんど地でいくような演技で(笑)実にぴったりした役どころでしたが、今回観て、淡島千景がこんなに良かったんだ!と再認識しました。ダメ男に惚れて、けなげに尽くすもと芸者の女性の恋女房を演じて、とても魅力的でした。
この日とは1924年生まれというから、映画を撮ったときはちょうど30くらい。あぶらの乗り切った女ざかり、成熟した女性の魅力が開花している時期だったのでしょうね。宝塚歌劇団の娘役のスターだったそうですが、その後松竹でも東宝でもスター女優になった人。東京人なのに、根っからの関西人をよく演じていたと思います。
実は若いころの私の母が、自分で言うのだからあてにはならないけれど(笑)、周囲から淡島千景に似ていると言われたことがあったらしくて、もちろんあんな綺麗な人ではなかったけれど(笑)、今回の映画をみて、なるほどそういえば、その仕草みたいなところにふっと似たような面影を感じるところがあるな思いました。
彼女も娘時代に宝塚に憧れて行くといって、家族で唯一頭の上がらなかった父親に絶対反対され、その場でけたたましく階段を駆け下りて家を飛び出したこともあったような人なので、憧れる世界が似ていて、自分の立ち居振る舞いを無意識のうちに、その世界に生きる人に似せようとしてきたのかもしれません。
考えてみれば、私が同じ世代の大女優の中で淡島千景をどこか敬遠して、彼女が主役のような映画はまず見てこなかったのは、私自身は若いころかなり強く反発していた人に似ていたせいかもしれません。そこにあるのは「母親」ではなくてやはり「女」ですから、母親がそういう雰囲気を纏い続けていることへの反発があったのかもしれないな、と思います。いま淡島千景の女ざかりの姿をみると、とても魅力的にみえます。
ボヴァリー夫人(クロード・シャブロル監督) 1991
前にも見たことがあったのですが、今回はクロード・シャブロル監督の作品の一つだということで、あらためて拝見。
フローベールの原作は何度か読んでいたし、周知の物語で、原作にほぼ忠実な内容なので、どこかヌーヴェル・ヴァーグの旗手の一人だったらしいこの監督の「新しさ」がどういうところにあるのか、感じられないかな、と思いながら見ていたのですが、これだけではまだよくわかりませんでした。
映画としてはこの作品、ボヴァリー夫人エマを演じた女優さん(イサベル・シベール)の名演に多くを負う映画だな、という印象です。もともと演劇出身の人らしいので、演技派なのでしょうね。ただたぶん撮影時はアラフォーに近い年齢だったようですから、女性として魅力的な若いエマを演じる分には、ちょっと年齢が・・・あるいはお色気不足が・・・と思わなくもありませんでした。ドクター・ボヴァリーが一目惚れするような、あるいはロドルフがなんとか誑し込みたいと考えるような、女性としての魅力、お色気のようなものは残念ながら感じられなかったのです。
そのかわり、すべてが破綻して、追い詰められていくときの彼女の変貌ぶりはすごかった。金貸しの罠にハマって手形が不当りになって差し押さえをくらい、にっちもさっちもいかなくなって、最後は昔の愛人ロドルフのところへ金を借りに行って、金はない、と言われて彼をなじり、がなり声で罵る彼女はまさに手負いの野獣が咆哮するかのようで、ものすごい迫力でした。
色気のない、硬い感じの女優さんですが、舞踏会に行ってこんな幸せがあるんだ、とつかの間の夢に酔いながら、自分はこの何の楽しみも希望もない田舎に閉じ込められて生涯を朽ち果てさせるしかないのだ、と思い知り、何もかも諦めて心を閉ざしてしまい、夫と子供に尽くすようになって、次第に神経を病み始める、そういう姿を演じるときは、まさにその容貌や印象がぴったりになってきます。ここでボヴァリー夫人が自分のあこがれも夢も押し込めて、夫やわが子のために尽くそうとしたこと自体が、彼女の精神を蝕んでいく、このあたりは怖いですね。人間ってものの不可解さ、怖さを感じさせてくれます。
そして、最後に崖っぷちに追い詰められて金策に走り回り、ロドルフのところで、まるで人間が狼に変身するみたいな変貌ぶり、声まで獣の唸り声のように低くなる、その鬼気迫る演技は、この女優さんならではのもののようにみえました。
でも彼女のそれまでのつめたい、そっけない感じというのは、或いは監督の演出だったかもしれません。いかにも情緒たっぷりにそのつどの心理的な表情をおもてに出して見せるような演出はしていないので、逆にヒロインのエマほど、その行動様式、どういうときになにをどうして、いかにふるまうか、その私たちがカメラを通して観るとおりの姿でしか描かない、という戒律を課しているようなところがあるのかもしれません。
ふつうの、というと変ですが、よくあるこの種の不倫ものでは、肉体の演技もさりながら、心理的なものが割と情緒たっぷりに表に出てくるんじゃないかという気がします。原作では、誰某はどう思った、どう考えた、ってふんだんに出てきますからね。
ロドルフがエマを口説くシーンなどは、我々男性がどう始めて会ったばかりの女性に大胆にアプローチするにはどうすればいいかの教科書みたいなもので、大いに勉強になりました。いまごろ勉強しても仕方がないけれど(笑)。・・・あぁいうシーンでも、ひたすらロドルフは、傍で聴けば歯が浮くような言葉を速射砲のように連射しているだけで、そんなのは嘘八百の空疎な言葉ばかり。ロドルフはただただこの女は落とせると確信していて、その手段を講じているだけなわけです。それを聴いているエマはむしろそっけない態度をとっています。でもたやすく落ちるんですね(笑)。そういう描き方が心理主義的でない映像での描写としての新しさがあったのかもしれません。
13回の新月のある年に(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督)1978
この作品が日本で公開されるのは、東京、横浜、京都で上映される今回が最初なのだそうです。重要な映画作家の作品でも、そんなものなんですね。もちろん私にとってはこの監督自体が初体験でした。
ウェブサイトの感想などを適当に眺めてみると、この監督の作品は難解で知られているようなのですが、何の予備知識もなくこの作品を見て、そういう感じは少しもありませんでした。タイトルは何のことやらわからなかったけれど(笑)。どうやら、7年おきに来る太陰年に新月が13回めぐる年が重なると、なすすべもなく破滅する者が幾人も現れる、というような預言だか言い伝えだか迷信だか、そんなものに由来するようです。まぁそれが持って生まれた運命であるかのように破滅していく一人の男/女の生涯を描いた作品なので、そんなタイトルをつけたのでしょう。こういうのは、私は、仰々しいな、とかもったいぶっているな、と感じるだけですが、中身とフィットしていないわけではありません。
いま男/女と書いたのは、フォルカー・シュペングラー演じる主人公エルヴィンが、若いころ、精肉屋で働いていたときに知り合ったユダヤ人青年アントン・ザイツに同性愛的な愛情を告白したときに「おまえが女だったらよかったのにな」と言われて、本当に性転換手術をして女性になってしまい、エルヴィラとして生きてきて、この作品の中でも場面により、相手によって、エルヴィンと呼ばれたり、エルヴィラと呼ばれたりしているからです。
孤児として少年時代を修道院で過ごし、出来の良い少年として、恵まれた里親の家庭に引き取られることがほぼ決まっていたところが突然その話が立ち消えて夢見た将来を断ち切られ深く傷つきます。彼は仕事先の大将の娘と結婚し、一女ももうけますが、エルヴィラとしてクリストフという中年男を助ける形で同棲生活をつづけ、クリストフが立ち直るとかえってエルヴィラは彼にぶら下がるようなうっとうしい存在になって、クリストフのほうが家によりつかなくなり、エルヴィラは淋しさを男娼を求めて街路に立つような生活をしています。
そんな中でも、エルヴィン/エルヴィラはかつて愛したアントンを探し求め、とうとう訪ね当てますが、そのアントンは、ユダヤ人としてナチ時代の苦難をなんとか潜り抜けて、いまではフランクフルトのどっちかというと裏社会を牛耳る大物みたいな感じになっていて、エルヴィンを思い出しはするものの、エルヴィンの想いが若いころから一貫して、全く一方的なものであったことがはっきりします。
こんなふうに、結局この世に居場所のない感じのエルヴィラは、周囲の人とまじわり、生きていくほどに心の傷を深くするばかりで、最後は友人夫妻のところへ深夜に救いを求めて訪ねて拒まれ、自分で死を選びます。
こういう主人公に共感できるところがあるか、と言えば、まったくそれはありません。でも、それは彼/彼女がゲイだからではありません。彼/彼女が不幸な生い立ちや、そこで担うことになる運命に翻弄され、深く傷ついていることはよく理解できます。そういう傷ついた魂の彷徨とそうした人間の一生を描こうとしていることもよく理解できます。その不幸な生い立ちや成長の過程での不運には同情も覚えるけれど、この作品の描くいまの彼/彼女は、一人の人間として共感を誘うものではありません。既存の道徳、常識、戒律のごときものへの苛立ちや、そこを外れたものの感じ方、考え方に関しては、特別違和感はありません。けれども、彼/彼女は自分のそうした傷の深さ、自分の負った運命にしか関心がない人のようです。
彼/彼女は、またこの作品の作り手は、それを「愛」と呼びたいのだろうと思います。彼/彼女は妻子を愛し、また若いころから一貫してアントンを(一方的な片思いではあったけれど)愛し、また次第に自分を必要としなくなり、自分をうっとうしい存在とするようにはなるけれども、自分が助けてやって、その生活を支えてきた同棲相手のクリストフを愛し、最後に自分自身が拒絶される友人、隣人たちを愛し・・・と周囲の人々をことごとく愛する人です。けれども周囲の人々が結局のところ彼を受け容れずに拒んで、彼の居場所がなくなっていったんだ、と、そんな風にこの作品は言いたげです。
けれども、ごくふつうの凡庸な観客の一人としてこのエルヴィン/エルヴィラを見れば、そういう自分のことしか考えていない、自分しか実は見ていない、つまりそんな自分の「愛」の感情を至上のものとして自己陶酔して耽溺していくだけの人ではないか、と思えます。アントンに対する想いはそのいい例で、彼は一方的にアントンに同性愛的な愛情をもって彼に迫り、アントンのほうは全くその気がないから、軽く冗談のようにして、君が女だったらよかったのにな、と誰もが言うような言葉でかわす反応をした。これはどう考えてもアントンがまともです。
ところが、エルヴィンはこのアントンの言葉を、お前が女になるなら愛する、男であることをやめよ、という言葉として受け止めて性転換手術を受けてしまいます。普通の人間は、この時点でもうエルヴィンというのはまともじゃない。精神を病んだ人間だ、と考えるでしょう。それでアントンが「そう言ったじゃないか」と責任を負わされたのではたまったものではありません。その後のエルヴィン/エルヴィラのアントンを探し求める思いがどんなに切実であったとしても、それは単なる彼/彼女の一方的な妄想の世界のことに過ぎず、そういう主観的な想いは芸術にでも昇華されない限り、この社会で何ら客観的な意味を持つものではないし、私はこんなに熱い思いを持っているのよ、とか私はこんなに傷ついているのよ、とやたら周囲にまき散らしてよいような感情でもありません。そういう主観的な「愛」を持つからと言って、他者への現実的な働きかけの迷惑や、自堕落な生活が許される筋合いのものでもありません。もっと深く傷つきながら、その痛みに耐え、苦痛の表情を周囲にみせびらかすような真似をせず、心の奥深くしまって、まともな人生を送っている人はいくらでもあるのだといます。
こういう彼/彼女に突然再会を強いられたアントンが冷淡な態度をとるのは当然のことで、おかしいのはエルヴィン/エルヴィラのほうです。ことさらにユダヤ人アントンがナチス時代を切り抜けて戦後裏社会らしきものの大物になり上がって、チンピラみたいな人間になっているように、悪役っぽく描くのは不公平というものでしょう。
また、最後に彼を死に追いやる直接のきっかけであるかのように描かれる、夜の11時という時刻に夫婦の私宅を突然訪れて、話を聴いてほしい、傷ついた自分を慰撫してほしい、という態度をとるエルヴィラに対して、明日の朝も早く仕事があるし、もう夜中の11時だから、と遠慮がちに断る夫婦が、まるでエルヴィラを死に追いやった直接の下手人みたいな描かれ方をするのは、まことに不条理なことです。これは断わるのが当たり前でしょう。ましてそのすぐあとで自殺するなんて、友人としてかけつけた夫妻の気持ちはどんなだったかと気の毒になります。いやしくも友人である限り、自分たちがあのとき迎え入れてやっていれば・・・という後悔の念に苛まれるでしょう。でもそんな彼らにどんな罪があるというのでしょう?!みなエルヴィラが自分の勝手な妄想が潰え、自堕落な生活の結果相手にされなくなったりした結果、勝手に傷ついて、その慰めをなりふりかまわず、周囲の迷惑もかえりみずに、だれかれとなく救いをもとめて走り回っていただだけの話で、こんなのに当たってしまったら災難というほかはありません。
この社会で普通にまじめに生きていて、エルヴィン/エルヴィラなどよりずっと深い傷を負っていながら、悲鳴一つ挙げず、愚痴一つこぼさず、他者に迷惑をかけまい、自分の生活も精神も自分でできるかぎりコントロールして生きて行こう、と考えている大多数の人間にとって、このエルヴィン/エルヴィラのような自分のこと、自分の感情、自分がかかえこんだ傷にしか関心がなく、その補償を周囲の誰彼なしに求めるような人間は、他者が懸命に築き、守ろうとしているそれぞれの生活の秩序や安定した心の砦に土足で踏み込んできて汚物をまきちらし、それを求愛の行為だと言い張るような存在でしかないでしょう。
けれども、何が彼をそうさせたか、と問うなら、そこには彼を捨てた両親や、彼を「愛そうと努力しました」という修道女の言葉のような本当の愛と似て非なるものに取り囲まれた環境や、養子にと一旦は期待を抱かせながら突然破綻した夢の挫折や、同性愛が不幸にして受け入れられない片恋であったことなど、様々な要因があるでしょうし、その幾分かはこの社会の歪みに帰せられるべきものもあるでしょう。しかし過去がどうあれ、今の自分のありように責任があるのは第一に自分であって、このエルヴィラ/エルヴィンの姿はそれを負うことを拒んで自堕落な生き方に墜ちてしまっているとしか思えないので、おそらくよほど甘ったれた人間でない限り、そんな彼/彼女に共感をおぼえることはできないでしょう。
ただ、彼/彼女の傷の深さを描くところにはリアリティがあって、その自堕落な姿や彼/彼女が「愛」だと錯覚している妄想を拒まれることで傷つくありようについては、見ごたえのある映像を創り出しています。そういう傷の深さ、生々しさを映像的に象徴するシーンは、彼/彼女が若いころ働いていた精肉工場の、牛の血抜き、首切りの解体作業をする場面で、その惨事ともいえる流血の映像はインパクトがあります。
私もニホンザルの解剖学実習で、3カ月近く毎日午後の夏の暑い日に、ホルマリン漬けのヌルヌルの遺体を引っ張りだして、解剖台の上で皮を剥ぎ、肉を裂いて、神経や血管をより分け、内臓を調べるようなことを、辟易しながらやっていたことがあります。特にいやだったのは、顔の皮膚を剥いでいくときでした。
牛の顔の皮を剥いでいくシーンは、だから、あのときのいやな気分を思い出しました。でも、それはこの作品の主人公エルヴィン/エルヴィラの心が顔の生皮を剥がれるように表皮を剥がれていくことの比喩なんだろうな、と思います。そうやって夥しく流血しながら皮膚の下の生身の肉を痛々しく晒していくように、彼/彼女の生涯を私たちの前にさらけだしていく、そんな作品だからです。
映画のあとで、字幕をつけた渋谷さんというファスビンダーの研究者という方の懇切丁寧な解説レクチャーが出町座の3階で行われました。概論のあと、映像を最初からしまいまで早送りもまじえながら、丁寧に解説していく、ほとんど2時間余に及ぶ、大学の講義一コマ分より長い、ものすごく熱のはいった講義で、映画を観たすぐあとに、その専門家によるこんなレクチャーが受けられる機会などそうそうあるもんじゃないので、私も聴かせてもらいました。若い人がいっぱいで、渋谷さんは、東京でもなかなかこうもいっぱいにならない、と言っておられましたが、若い人にとっても、この映画の上映とつづくレクチャーのセットは、素晴らしい機会だったろうと思います。
監督自身が映画制作の前に書いていたらしいシノプシスで映画には表立って描かれていないようなエピソードや、はっきりそれとわかりにくい背景をも詳しく解説してくれたので、作品に描かれたことの背景や、時間が前後してわかりにくくなっているところも、ほとんど理解することができました。
渋谷さんのレクチャーで、この映画の背景に、実際に監督が同棲していたアルミンという(同性愛者かな)が自殺したという事件があって、それに衝撃を受けた監督が、もともと左翼的な社会派のテーマで映画をつくっていたのが、私的なものを取り込んで作った彼としてはわりと珍しい作品らしいことを教えてもらいました。
もうひとつ渋谷さんの講義で、えっ?と一瞬疑問に思い、かつ、なるほど、と気づいたのは、このエルヴィン/エルヴィラの生涯を描く作品で、「回想の場面はひとつもありません」と言われた点でした。彼によれば、すべては登場人物自身が体験として語る言葉か、主人公が自分の過去を訪ねて行って別の人物にヒアリングする形で聴かされる物語として語られ、回想場面として直接に過去の場面が登場することはない、と。一瞬、いやそんな・・・と思ったのは、時間が前後するエピソードを、私が回想場面として受け止めていたからかもしれません。
だけど例えば精肉店の牛の解体工程の映像は、エルヴィンの回想場面ではないのかな。漫画の吹き出しみたいに、これは彼の頭の中で起きていることですよ、という明示はしないけれど。それともあれば現在の精肉工場なんでしょうか。だとすればそんなものが現在の物語の中に入ってくるのは変です。それは物語世界の外にある現実の映像ということになってしまうほかはないでしょう。
あるいは時間を操作して前後させているだけで、あれは「回想」ではなくて、過去のある光景をじかに撮っているんだ、ということでしょうか。それもやっぱり変ですね。もうそんな大昔の過去なんて無いわけで、物語の世界はたしか主人公に寄り添って、現在を追っているわけで、「時間が前後する」というのは、登場人物たちの語りによって少年時代が語られたり、青年時代が語られたりするだけで、カメラが過去の光景をとらえているわけではなく、カメラはそういう過去を語る現在の登場人物、現在の光景をとらえているはずです。修道院で修道女の話を聞くときも、歩き回リながらエルヴィン/エルヴィラの少年時代を語る修道女の姿や、いまの修道院の子供たちの姿はとらえているけれど、少年時代のエルヴィンの姿をとらえていなかったんじゃないかな。いや撮っていたのかな?それならそれは修道女の回想としてしか意味を持たないはずですね。
その辺がもし徹底されていて、過去はすべて登場人物の語りの言葉の中でしか登場せず、映像として直接あらわれることはない、というのであれば、それはなかなか面白いと思います。それは監督の一つの明確な表現思想をあらわしているはずで、過去の世界というのは、そのような言説の中にしか存在しないものだということになるでしょう。当然それは作り手が、これが彼/彼女の過去だ、と決定づけられるような唯一の事実なんてものではなく、ときに相互に矛盾しあい、ときに誇張されたり、ゆがめられたり、嘘八百であったりするはずのものでしょう。今回はそういうところには焦点がしぼられていないけれど、もしも方法的にそうしたものを一貫して描いていたら、面白い作品ができるだろうな、という気はしました。
ほかにもレクチャーから色々、この監督や作品の背景とか、場面の意味について教えられましたが、映画を見てレクチャーを聴き終わったあとで思ったことは、たしかにレクチャーで詳細な解説を受けて作者や作品「についての」知識は少し増えて、或る意味で理解が深まったり広がったりしたけれど、それは「情報」であって、そうした情報がひとつもなくても、この作品を理解する上ではまったく支障がないだろうな、ということでした。
たとえば、先の述べた、監督自身がゲイで、同棲者の自殺がこの作品をつくる引き金になり、その私生活的な要素や思いがこの作品に織り込まれている、というような「情報」についてみればすぐにわかりますが、別段そんなことは知らなくても、この作品自体を理解することはまったく十全に可能です。そうした「情報」は作品世界の外部のことであって、監督がゲイではなく、そんな自殺者を身近に持たなくても、こういうゲイを主人公として、この種の作品を生み出すことはあり得るし、この作品自体をそういう情報に還元することはできません。作品の世界は作品の世界として完結し、自立したものであって、そうでなければ表現として不完全な作品というにすぎないでしょう。作品の中のゲイ(エルヴィン/エルヴィラ)は、監督がどういう育ち方をし、どういう人間関係を生きていようと、それ自身の生を作品の中で生きるのであって、作品の外部の人間の生を生きるわけではないし、再現するわけでもありません。
だから、私たちは基本的には作品だけを見ればいいので、私のようなどんな初歩的な映画観客であっても、作品で見ることがその作品の100%であって、作品外の情報を豊富に得たからといって、それが110%になる、というようなことはあり得ません。ただ、私たちが、この作品世界を作ったのはどういう人で、それにはどんな世界観なり人間観があったのか、社会的な背景はどうか、というような作品外の情報に関心を持てば、それを満たしてくれる、ということだろうと思います。もちろん誰にも知的好奇心があるので、ふつうは映画をみれば、そういう興味を持ち、そんな情報を知ることもまた映画を観ることとあわせて大きな楽しみであることは申すまでもないことですが・・・。
楢山節考(木下恵介監督) 1958
これは京都文化博物館のフィルムシアターで見てきました。破れ太鼓でがっかりしたけれど、二十四の瞳を思い出して、木下監督というのはどういう人だろう、となお疑問に思っていましたが、今回これもたぶん代表作の一つなのでしょうけれど、「楢山節考」をみて、やっぱりわからなくなりました(笑)。
昔語りの装いで、こういう伝説がありました、ということらしく、最初と最後に現代のその地方らしい風景がちょっと出てきます。あとは浄瑠璃と三味線に定式幕を使って歌舞伎の世界の枠組みの中で語られる昔語りの体裁になっています。
これはなかなか面白そうだな、と思ったのですが、いやそれなら俳優さんたちの演技も演出も全体としてもっと様式化してくれないと・・・というのが私の感想です。
田中絹代は例によって熱演していますが、登場人物みな、新劇的な演技で、そこには枠組の様式的なスタイルは全然みられません。だからとてもちぐはぐで、奇妙な感じがしました。
どうせ浄瑠璃で語らせるなら、増村保造が撮った「曽根崎心中」の宇崎竜童や梶芽衣子のように、人形のような硬い所作で動いてみたり、セリフも様式的なセリフ回しにしたほうが、しっくりその額縁に入る絵としておさまったでしょう。その場合は、登場人物たちのセリフはもっとずっと少なくてよかったと思います。やたらと思わせぶりに「お山へいく」いく、としつこく繰り返す必要もなかったでしょう。むやみに表情を歪めてみたり、暗い顔をしてみせたり、泣いてみせることもなく、ただ黙々、淡々とそのときへ向かう家族の沈黙の表情を撮ればよかったと思うのです。泣いたり叫んだりすることで、かえってその「思い」の丈は低くなってしまいます。
風櫃(フンクイ)の少年(侯孝賢=ホウ・シャオシェン監督)1983
風櫃は台湾の澎湖島にある場所の名のようです。そこでいつもつるんで遊んでは喧嘩ばかりしているちょっぴり不良っぽいところもある思春期の少年たち3人が、田舎でくすぶっている暮らしに飽きて都会にあこがれ、うち一人の姉を頼って大都市である高雄へ出てきます。英語のタイトルが"The Boys from Fengkuei"というのも、風櫃から来た少年たち、という意味で原題もそういうタイトルのようです。
3人ははじめ、頼って行った姉の友人の紹介で、同じ工場で働きますが、2人はじきに辞めて、露店でカセットテープを売る店を始めます。残された主人公のアーチン(阿清)は工場で働きつづけます。3人は同じアパートの隣組の同棲する若い男女と顔見知りになっていましたが、その男のほうが工場でなにかまずいことをして船で遠くへ行ってしまい、取り残された女性と次第に親しくなっていたアーチンは淡い恋心をもったようです。でも、その女性は台北の姉のところへいく、と言って、行ってしまい、アーチンの片恋もそこで終わります。
家族が貧しい中で身をよせあって、でもそれぞれ自分たちの家をもち、村の人々は顔見知りで、安心のできるような地域社会にいて、若者たちは自分たちの欲望や興味を満たしてくれるようなものを何もみつけられず、昨日のように今日があり今日のように明日がある暮らしに嫌気がさし、上の世代に反抗してみたり、つまらない喧嘩にあけくれているような鬱屈した日々を送っていて、大都市にあこがれて田舎を飛び出していくけれど、そこで暮らしを立てるにはそれ相応の仕事もしなければならないし、そんなにパッとした仕事につけるわけでもなく、あこがれてきたような生き方が開けていくわけでもない。そんな中で小さな世界で新しいふれあいも生まれて、そんなところにささやかな喜びを感じ始めている主人公ですが、それもはかなく消えていってしまう。
そんな田舎と都会の光景を対照的に少年たちの生きる日々の背景に置きながら、まだ純情な、都会の生活にもうまくとっかかりが見つけられない少年たちの様子を温かく、少し切ない眼差しでとらえた作品で、とても良かったと思います。
主人公のアーチンの父親が、アーチンの少年時代、野球をしていて、硬球が頭にあたり、前頭骨が壊れておでこがへこんでおり、命は失わなかったものの、ずっと椅子に座って食事を口まで運んで食わせてもらうだけの生きるしかばねのようになっています。おでこの一角がボコッとへこんだ顔はなかなかインパクトがあって、この作品の中で或る意味、映像の重しになっているところがあります。それはアーチン少年の心の重しでもあるのでしょう。こういう肉親を一人かかえている、ということは、彼が何も言わず、何もしないとしても、家族にとってはずっと心の重しでありつづけるわけですね。アーチンが「喧嘩ばかりしている」のも、友達と語り合って高尾へ飛び出していくのも、この重しから脱していく、ということと同義であるわけです。
その父親が死んで、アーチンは故郷へ戻っていきます。
超級大国民 スーパーシチズン(萬 仁=ワン・レン)1994
冒頭シーンは、池の縁のようなところに2台の車が乗りつけられ、後ろ手に縛られた囚人らしいのが引き立てられて池畔に並んで正座させられ、いきなり拳銃で後ろから撃たれて倒れるという衝撃的な場面です。
これは台湾の戒厳令時代の政治犯の軍による射殺のようです。
この物語の主人公は、その時代に隠れて進歩的な書物の読書会を開いていたグループの一人で、囚われて16年間刑務所暮らしをし、出所すると自分で頑なに老人ホームへ入るといって入ってしまってさらに18年間をすごし、あわせて34年間をひとり閉じこもった生き方をした末に、娘と一緒に暮らすようになったものの、今度はかつての読書会仲間やその消息を知る当時の生き残りを訪ね歩き、リーダー格だった男で、ほかのメンバーの罪を一人で背負って処刑された友人の墓を訪ね歩くという、過去に生きるような毎日を過ごします。
彼の妻は、まだ小学生くらいだった娘をかかえ、働きながら、沢山の交通機関を乗り換え乗り換えして孤島の監獄へ面会にいく苦労といとわず、彼の帰りを待とうとしていたけれど、彼は離縁の協議書にハンコを押して、面会に来た彼女にその書類に署名するように言います。夫の帰りを唯一の希望にして生きてきた妻は、放心状態に陥り、娘を残して服毒自殺してしまいます。
そのために彼の娘は居場所を失い、親戚の間をたらいまわしにされ、苦労を重ねて成人したので、自分の理想ばかり追っかけて家族を顧みなかった男を非難します。そして、いまもまた男が過去を追いかけ、自分のことばかりしか考えていないことに憤ります。そんなに理想を追いかけていたいのなら、なぜ結婚したのか、なぜ私を生んだのか、と。
それでも男はひたすら老身に鞭打ってかつての仲間を訪ね、自分たち囚人を運んだ軍人まで訪ねて、自分たちの身代わりになって死んだリーダーの墓を探し求めます。そしてついに、誰にも知られない林の中に散在する粗末な墓の中に、その男の名を見出します。
男は用意してきた沢山の蝋燭を林の中に立てて火を点し、リーダーだった男の墓の前に両手をついて謝罪するのでした。
たしか2時間ほどの映画ですが、3~4時間に感じるほど冗長といえば冗長な、スローペースの作品でした。まあ世の中から34年間も切り離され、引きこもっていて、心身ともに閉じていた、いまや衰弱した老人のゆっくりペースでの行動を追うのですから、或る程度そういう中身に見合ったスローペースなんだ、と言えなくはありませんが、それにしても長すぎ!(笑)
しかし内容的には台湾史の上では問題になる時代背景のもとで、友の犠牲死によって生きながらえた
思想犯の贖罪の旅といったところで、重い内容だと思いますし、それにふさわしい重量感のある作品だとは思います。
それと、音楽がとても印象的でした。出町座の台湾特集の一環で見ました。
第三世代(ファスビンダー監督) 1978-79
「13回の新月のある年に」と同様に出町座で、上映後のレクチャーとセットで見てきました。
これも難解な作品と言われているそうですが、私には素朴な観客として、すなおに見てそんなに難解な作品というふうには感じられませんでした。どうしてかな、と考えてみましたが、一番平凡で単純な答として、そういえばこの監督は私と生まれた年が同じで、死ぬまでは同時代を生きてきたんだな、ということが頭に浮かびました。同じ歳であっても、地球の裏に近い方とこっちに離れて何の関係もなく、その名さえしらなかったような映画監督の作品がわかる、わからないとは関係なさそうですが、たぶん彼が経験しただろうヨーロッパの例えばパリのいわゆる五月革命だとか、そのあとのドイツ赤軍派のテロで大騒ぎのドイツの状況というのは、私たちも日本で大学闘争やそのあとそうしたラディカリズムが敗走・自滅させられていく過程とパラレルで、世界的な同時性をもって起きていたことだし、似通った時代の空気を吸ってきた、ということだけは確かだろうという気がします。
たぶん、当日会場を満たした若い観客の多くは、上映後の渋谷哲也さんのレクチャーで時代背景を説明されて初めて知ったようなことも多かったと思いますが、私などの世代にとっては時代背景的な部分は体験的に自明のことでしたから、こういう作品が作られた背景は何の予備知識がなくても直観的に分かってしまうところがありました。
また、いわゆるテロリストが敗走・自滅していく中で、そのラディカリズム自体を権力に利用されたり、個別に権力に取り込まれたり、癒着していく過程についても、現実がそうであったので、必ずしも作家や監督の独創の問題とは受け止めることができないし、'70年代も末の制作当時としても、さほど目新しいものの見方、考え方というふうにも思いませんでした。むしろファスビンダーという監督は、その種の過去にもあり、その当時も繰り返されようとしていた現実を、どう戯画化して描くかというところに彼なりのオリジナリティを見出そうとしたようにこの作品を見た限りでは思いました。
日本でも70年代はもうラディカリズムは壊滅状態で、シラケの70年代と言われていて、四分五裂した党派の内ゲバのように理念を失ったただの"過激"だけが線香花火のように時折火を噴いて人々を驚かせるだけの状態になっていて、それ以前のラディカリズムは自壊してそう言いたければ資本のうちに取り込まれていった現実があるわけで、この「第三世代」という作品は、ちょうどその現実をなぞってみせたという意味では日本の70年代の気分にフィットする、基本的にはシラケた空気の中で拠るべき現実も理念も見失った者たちの虚脱感、けだるい気分、革命ごっこと現実の区別がつかなくなった幼児に拳銃を持たせらバンバン撃って人を殺してしまった、みたいなちぐはぐさ、そして全部、もはや押そうが引こうがびくともしない秩序の中にすべては回収されてしまうような現実を戯画的になぞってみせた作品と見ることができそうです。
最初からこれはコメディですよ、という断りを入れている作品ですが、もちろんコメディとしては中途半端で、麻薬中毒の女のことや、そのお友達らしいフランツが職業斡旋所へいっての帰り、せっかく職業訓練を受けたのにとがっくりきたりだとか、それとつるんでいるゲルハルトだとかの姿に象徴されるように、妙にベタベタした情緒的な思い入れやら、「意志と表象としての世界」を合言葉とするようなペダンティックで意味ありげで無意味なお遊びや大真面目な銃撃みたいなものが混在したごった煮で、それらが軽やかにぶつかり合って乾いた笑いを奏でてくれる、ほんもののコメディのようにはまいりません。これならおもちゃの鉄砲でもドンパチやらかして、唯武器主義の戯画化にでも絞ってくれたほうが笑えそうですが、妙に大真面目なところがあって、ウェットで重たい。
手入れの刑事に対してゲルハルトが付きまとって、がなり立てるようなシーンは本当に聞き苦しかったですね。あれではコメディには逆立ちしてもならないでしょう。ああいうシーンにどんな意味があるのか、ノイズの重ね合わせによる多重ノイズはこの映画の特徴のひとつでしょうけれど、一人一人の登場人物自体が言ってみれば騒音なので、そちらをちゃんとノイズとして聴かせてくれないと、全部ぶちこわしにしてしまうんじゃないか、と思いながら見て、いや聴いていました。
冒頭の絵面に登場するヴィルヘルム皇帝教会の廃墟は、私も1969年だったかに見たことがありました。映画のは修復前の廃墟だと解説してもらったように思いますが、それにしては私が見た時よりずいぶんきれいで、もう修復されたあとの建物のように見えました。そういうことについての情報は解説によってはじめて知るので、あ、あれはどこかで見たような、と思ったけれど、あの建物だったか、とか興味深くはありますが、この作品を見るうえでそれを知らないからといって「わからない」なんてことはありません。作品の中で前の映画のキャラクターを引用しているといった情報も興味深くはありますが、同様です。
政治的な季節が終焉する中で、まだその時代に執着して、寄るべき理念も生活も失ってテロに走るだけの自閉的な集団がいくつか生まれて、こんなカリカチュアで描かれるように奇妙な足跡を残して自壊し、少しは傷ついたかもしれない既存の秩序の回復していく中に取り込まれていったんだな、というのが感じられれば、いまの若い人たちでも核心のところで受け止められたことにはなるでしょう。もちろん映画の作り手はそういう彼らに幾分シンパシーを感じながら、ウェットになっているのかもしれませんが、それはいまの若い人には共感するのは難しいでしょう。
熊切監督の「鬼畜大宴会」のように徹底的に無理念にドライに観客をどっ引きさせるためにだけ、生首を切ってジュウジュウ音立てて血が噴き出すような映像で遊んでしまえば、たしかにブラックな笑いを笑うしかないコメディになるでしょうけれど、そこまで新しい世代のようにドライになり切れない、シンパシーを持つにせよ反発・嘲笑するにせよ前時代を引きずったウェットな監督の表情が伺えるような作品ではないでしょうか。
もちろん、30代半ばちょっとで亡くなったのに40本以上も映画を撮ったらしい多産な映画監督の作品を一本、二本、たまたま一度見ただけで深く理解できるはずもないので、こういうのはチラッとすれ違っただけの通りすがりの人をスナップショットで撮ってみた写真、それも性能の悪いポケットカメラかガラパゴス携帯に映ったボケ写真に類する個人の覚えにすぎないので、今回の専門家の先生のような熱烈なファンがもしたまたま読まれる方の中にいらしたら気分を悪くされませんように(笑)。
夏、19歳の肖像(チャン・ロンジー監督) 2017
これも出町座でみた比較的新しい中国映画です。B級サスペンス・青春もの恋愛映画、といえばいいのでしょうか。途中までずっと何が起きているんだろう?と引っ張っていくサスペンスはなかなか力のあるもののように感じましたが、種明かしをされて仕掛けがわかってしまうと、なぁ~んだ!と脱力してしまうようなところがB級(笑)。
手品でも種明かしされれば、なぁ~んだ、そんな簡単なことに騙されたのか、と笑ってしまうけれど、この作品の種明かしはちょっと仕掛けとして十分に納得しがたい(笑)。まぁこの種の作品でネタバレしちゃうのはさすがに良くないでしょうから、やめておきますが、それはないやろ!と思わせるようでは、あまり・・・。それに細部でも、主人公が簡単に留守宅の内部まで踏み込んじゃうようなところまでやってしまうとか、彼女の家をうかがってうろうろしていたカフェの男に、わが主人公が直接、おまえ彼女の家をこそこそ覗いていただろう、なんて言っちゃうところなんて、どうにも無防備で、現実だとありえないよなぁ、なんて思うし、彼女がいったん連れ去れて(そこは迫力があってよかったけど)、もう手掛かりがなくなって、彼女とデイトした食事の店のマークを塗料噴霧器で彼女が見るだろう向かいの壁に書き残して、あとはひたすら店の前で待ち続けて、そこへ彼女がやってくる、会いたかった、というのも、ちょっとうまくできすぎでしょ!と。まぁ最後のは、ミルクティーン向きの青春恋愛ものだと思えば、あれでいいのよ、ってことになるのかもしれませんが・・・
でも青春もの恋愛劇としては、女の子がさわやかでとてもいい感じだったし、男の子も純情でひたむきな感じの男の子だったし、とりわけ彼女の誘いで2カ月でしたっけ、追手の目の届かない海辺のホテルに滞留して天国のような日々を過ごすところは、ほんとに楽しそうで良かった。いや、羨ましかった(笑)。そんなうまいことあるかよ!と思いつつ(笑)。
それにしても、なぞのメールの送り主が誰かは戻って来ればわかる、というメールをみて、罠であることは判り切っているのに、ノコノコと一人で町へ帰っていくこの男の子も相当ノーテンキだわ、と思いました。こういう、それはないでしょ!というようなところがいっぱいあるのも、この手の青春恋愛ものにはお目こぼしされるのかも・・・
愛情萬歳(ツァイ・ミンリャン監督) 1992
出町座の台湾シリーズの一環で上映されたのを見てきました。ちょうど2時間の作品ですが、変な映画で、やたら長く感じました。
最初ずっと登場人物のセリフがありません。のちのちも、セリフは極端に少ない映画です。
不動産エージェントのメイというアラサーいやもうアラフォーかな、美人でもスマートでもないただのおばさんになりかけの女性だけれど、まだ若い時の名残りの色気はたっぷり残しているようなところのある女性ですが、貸家なのか分譲なのか、部屋を見に来る客の電話を受けてビルの入り口で待っていて客を案内したり、販促用のビラを街の街路樹や電柱に貼ったりしています。
このメイさんが仕事のために寝起きしている二区画(二軒分)つづいているらしい部屋があって、たまたま映画の冒頭アップで映されるようにその一つの入り口のキーを彼女が挿したまま忘れていたのを、お墓のロッカールームみたいなのを販売している営業マンのシャオカンというちょっと気の弱そうな若い男が盗んで、玄関の呼び鈴を押して誰もいないことを確かめては中へ入り、入浴したりベッドで寝たり好きに使っているわけです。
ところが、もう一人、そこへ違法な衣服の路上販売みたいなことをしているアローンというやはり若い男が、たまたま街でみかけたメイに連れ込まれる形でこのマンションに入ってセックスをして、その後も一人でこっそり入り込んで、やっぱり好きに使っているわけです。
その男たち二人が出会って共犯関係で、メイには知られないように逃げ出したり使ったりしています。ときにシャオカンが先に部屋に侵入しているときに、アローンとメイがやってきて、シャオカンがあわててベッドの下に潜り込んだら、上ではメイとアローンがセックスをはじめてしまって、というような滑稽なシーンがあり、さらにメイが去ってベッドでまだ一人眠っているアローンに、シャオカンが添い寝して気づかれぬようにキスして去るという、どうもこのシャオカン君はホモッ気がある様子。
まあこんなちょっと喜劇的な話を、大真面目にパントマイム劇ではないけれども、ほとんど会話なしに3人のそれぞれの行動が結果的にちぐはぐな行き違いや遭遇やニアミスを繰り返す面白さでひっぱっていくわけですが、それで何が起きる、というわけでもなく、3人の間に確固としたつながりができるわけでもありません。あくまでも3人はそれぞれこの街のどっちかというと一番下層のほうで生きている、もちろん一応まじめに働いて生計を立てているけれども、言って見ればどうでもいいような仕事を毎日やっていて、そのことにも自足できないし、他に何か楽しみがあるわけでも希望があるわけでもない、その日暮らし。親しい人もなく、ただ仕事上来ては去っていく客などと接するだけです。つまり度の一人をとってみても本当に孤独ですね。現代の都市に生きる下層の若者の孤独みたいなものは、ドライでコミカルな描き方を通してではあるけれども、伝わってきます。
彼らが一所懸命汗をかくのはセックスくらいのものだけれど、それもその都度一度限りの、終わってみれば空しい一過性の行為で、全然彼らの日々を満たしてくれる何かではないわけです。
だから、ラストは、一人で広い公園みたいなところの園内の小道みたいなところを歩いていくメイの姿をずっとカメラが追っかけていって、やがて彼女は野外劇場なのか単なる休憩所なのか知らないけれどたくさんベンチ式の椅子が並んでいるところへいって、腰かけて、正面を向いて、そのまま泣きだして、ずっと泣いている。その泣くメイの顔をずっとカメラがとらえ続けます。なんで泣いているのかも、周囲がどうかも何もなし。ただひたすら彼女は声を出して泣き、そうして泣いている彼女の表情をカメラがとらえつづけます。それで終わり(笑)。
変な映画でしょう?(笑)でもこれ、パンフレットによれば、ヴェネチア国際映画祭グランプリと国際映画評論家賞、金馬奨最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀録音賞を受賞しているんだそうです。
たしかにちょっと見たことのないような、面白い設定ではありますね。都市に生きる人間の孤独を描くにも本当にいろんな手法があるんだな、と思いました。でも、やっぱりちょっと長すぎた・・・(笑)
1987、ある闘いの真実(チャン・ジュナン監督)2017
これは韓国の比較的新しい映画。出町座です。
この映画はすごく良かった。いやちょっと怖い映画でした。129分の作品ですが、扱われたテーマは軍事政権下の学生の拷問死とそれを隠そうとする権力と、真実を暴こうとする人たちとの激烈な戦いで、韓国のいわゆる民主化運動が湧き起こるにいたる史実に基づいた作品です。
韓国で取り調べ中の学生が拷問の水攻めの最中に窒息死させられるという事件が起こり、これを直接責任のある治安本部ではひた隠しにして死体解剖もせずに遺体を焼いて真実を闇に葬ろうとします。それに対して法に基づいて解剖をさせようとするソウル地検公安部のチェ検事が最初に対立し、上部からの圧力に抗してチェ検事は火葬を許可せず、事態をかぎつけた新聞記者に、表向きは何も漏らさぬふりをしてわざと情報を残して与え、徐々にこの事件が世に広がる糸口をつくります。
治安本部は民主化運動家の指導者キム・ジョンナムをスパイの親玉として血眼になって探していますが、刑務所の中に囚われた仲間からも、民主化運動に協力する看守ハン・ビョンヨンが伝書鳩となって、通信が届き、民主化運動を指導しています。この看守ハンが父親代わりとなっている姪のヨニは、いつも検問を逃れるために叔父の代わりに渋々伝書鳩の役をつとめていますが、デモをしても何も世の中は変わらないわ、と思っている、ごくふつうの若者です。けれどもあるときデモ隊と機動隊がはげしくぶつかる騒動に巻き込まれ、あやうく怪我をするところを、一人の若者イ・ハニョルに手を引かれ、靴屋のおばさんの店に匿ってもらって助かります。片方の靴を失ってはだしの彼のために、ヨニは金のない彼に代わって靴を買ってやります。その後彼女は大学で彼と再会し、彼が民主化運動を推進するサークルの一員であることを知ります。彼に誘われるけれど、彼女はなお運動には懐疑的です。
ところが、叔父の看守ハンが、キム・ジョンナムに刑務所内からの同志の書信を届けようとして隠れ家の教会に近寄ったために足がついて囚われ、拷問をうけるはめになります。このことが契機となってヨニもイ・ハニョルたちと共に行動するようになります。
ひそかな民主化運動家たちの運動が広がりをもち、学生拷問死の事実がマスメディアに漏れて、治安本部がトカゲのしっぽを切ろうとして差し出した2人の「犯人」だけでなく、拷問死に責任Bのある真の犯人たちが明らかになり、学生・市民が立ち上がるときがきます。その先頭にはイ・ハニョルの姿がありました。しかし機動隊がデモ隊に放った催涙弾の後頭部直撃を受けたイ・ハニョルは血にまみれ、重体となり、字幕によれば、翌年死んでしまいます。
権力の拷問やその事実を押し隠そうとして、抗う者をすべて共産主義者とみなして威嚇し、暴力を振う治安本部の無法な姿がリアルで、ちょっと見ていて怖くなるほどです。
この治安本部のパク所長というのが、もともと北朝鮮の富裕層の生まれで、家族を殺されたために脱北して、韓国では共産主義思想の撲滅に手段を択ばず狂奔する人物、という役柄です。このパク所長を演じるキム・ユンスクがものすごい演技派で、アカを撲滅するためになら暴力的で残虐な手段をいとわない権力側を代表する悪役の最たるものであるにも関わらず、北朝鮮で家族を見ている前で殺された過去を引きずって、人間の味わう最も激しい苦しみ、悲しみを味わってきたと語る人物にふさわしい、奥深い悲しみを秘めた眼を見せてこの役を演じているのがたまらない魅力です。
カッコイイほうでは、彼に抗う硬骨の検事、チェ検事のハ・ジョンウもとっても良かった。この二人と、監獄の看守だけれど民主化運動に共鳴して伝書鳩の役割をつとめているハン・ビョンヨンを演じたユ・ヘジンの3人はほかの映画がテレビドラマかで見た顔でした。きっと著名な演技派俳優なのでしょう。
史実に基づいた作品というのが怖い。なにしろ1987年の話ですから、私のような年寄りにとっては、ほんの昨日の出来事のようなもので、韓国ではこんなことが起きていたんだ、と思うといまさらながら戦慄を覚えます。もちろん日本も戦時中はまさにこの治安本部のような憲兵隊や警察があって、同じようなことをやっていたわけですが・・・
この映画は史実に基づいてフィクションを交えたと断ってあったけれど、やっぱりドキュメンタリーのような見方をしてしまいます。若い世代の交流みたいなところや、個々の場面のやりとりはフィクショナルにつくったでしょうが、大筋、事件の構造や成り行きはこの映画のとおりだったのでしょう。こういう歴史を刻み、広く一般に知らせていくような映画も、それはそれで大きな存在意義があると思います。この作品はその役割に耐えられるような作品だと思うし、ドラマとしても力のこもった充実した作品だと思います。
麥秋(小津安二郎監督) 1951
いまさら、と思われるでしょうが、私は記憶力が極度に乏しいので、同じ映画を何度でも楽しめて、何度でも泣けます(笑)。今回は京都文化博物館のフィルムシアターで上映したのを見に行ってきました。
そしてやっぱり泣いたり笑ったりしました。
杉村春子が、子持ちの息子と翌朝秋田へ転任していくという前の晩、家に来た原節子に、私の胸のうちだけでこんな夢みたいなことを勝手に考えたりしてたのよ、怒らないでね、とさんざん言い訳しながら、もしもあんたみたいな人がうちへ来てくれたらどんなにいいかと・・・と思いをぶつけると、案に相違して原節子が、私のような売れ残りで良ければ、と答え、えっと驚く杉村春子。ほんと?!ほんとに?!と詰め寄って・・・というあの場面。あそこへ来るともう、自分が妻を亡くして子持ちのいい年をした息子をもつ杉村春子の気持ちに寄り添ってしまって、とめようにもとまらないほど涙が出てきます。毎度毎度、困ったものです(笑)・・・
同情で?みたいな声がいつもどこかから聞こえてきて、それが、話を決めてきて家族とのやりとりも終えてのちの原節子と義姉とが二人で語り合う場面ですっと消えてしまいます。
「それに私、40にもなってフラフラしている人より、彼のほうが信頼できると思うの」と原節子が言います。彼女がとても足が地についた現実的な考え方をしている人だということが、この一言でとてもよく分かります。なるほどなぁ、と今回も深く納得しました。
この「40にもなってフラフラしている人」というのは、上司が引き合わせようとしていた、いいとこの出の、エリートサラリーマンで初婚、上司も兄など家族も「いい話だよ」と考えていた相手のことです。彼女はその話に彼らのようには「いい話だ」と考えていなかったのでしょう。判断の基準が違うわけです。
でもまあ娘というのは親の世代(ここでは親も存命ですが兄が実質的にその役割をしていますが)とは違った判断をするものですよね。自分が生涯一緒に生きていく伴侶のことですから、職業・地位、家柄やら収入やら初婚か既婚かなどよりも、自分にとって信頼ができるか、という価値判断が優先するのは深く納得できますね。
彼女が少し遅くに帰宅し、台所でひとりでご飯を食べるシーンがあります。ちょっとおなかをすかして帰ってきた彼女が残りご飯をまぁどちらかといえばがつがつ(笑)かきこむ姿を正面から、真横からとじっくり撮っています。その上たっぷりおかわりまでする(笑)。あぁいう綺麗な女優さんのこういう姿をあんなふうに撮るってことはあんまりないんじゃないでしょうか。あそこに原節子演じるこの女性の地に足のついたものの考え方や生きる姿勢みたいなものがみんな凝縮されているような気がします。
家族は家族で親身になって彼女のことを心配しているのです。だからこそ言い争いも気まずい空気も生まれますが、そこには本当に自分の生き方を真摯に考える女性像も、互いに心からの信頼と愛情で結ばれている家族の姿があって、その姿にいまのわたしたちは涙せざるを得ない気がします。
他方、この作品で二人の幼いわんぱくそうな兄弟が出てくると、いつも笑ってしまいます。そして家族で食事をしているシーンなどみると、またうるうるしてくる(笑)。
私の次男が昔、中学の終りころだったか、もう勉強なんかしたくない、なんでこんなことせなあかんのかわからん、みたいなことを言って、じゃ何か他に好きなことでもあるのかと言うと、映画が好きだいうので、じゃ好きなだけ見りゃいいじゃないか、と言ったらほんとに毎日寝っ転がってビデオで映画三昧をはじめたのですが、たぶんそのころだったでしょう、「小津ってそんなすごい映画監督なん?」と言うので、「いいと思うけど、どうして?」と応じると、「だいぶ見たけど、これって<ふつう>やん?・・<ふつう>っていうか、別に何が起きるわけでもないし、<ふつう>のこと撮ってるだけやん・・・」
まぁ語彙が足りない年頃(笑)ですから、十分に自分の言いたいことを表現できてはいませんでしたが、言いたいことは判るから、「それがすごいこととちゃうの?」とかなんとか、適当にやりすごしておいたと思いますが、いまもその「ふつう」をこんなに完璧にとらえるような監督は小津しかいないような気がしています。
それは、私たちがふだん、呼吸するのと同じように、意識せずあたりまえのこととしてやっていることを、あらためて意識して取り出してみるとこんなに奇妙なものだよ、とか、こんなに滑稽なものだよ、といった、ちょうど日本人にとっての当たり前の風俗習慣を外国人が見てそう思うような視点で撮るというのとは、似て非なるものだという気がします。それはたとえば伊丹十三の「お葬式」みたいなものと比べてみればすぐわかります。小津のどの作品にも、ああいう皮肉な目もあざとさもありません。
でもまぁ、この作品については機会があれば、また触れることがきっとあるでしょう。小津の作品は私に残された時間があるなら、いずれじっくり何度でも見直して、自分にとっての意味を言葉にしてみたいという気がしています。
夫婦善哉(豊田四郎監督)1955
森繁と淡島千景、とてもよかった。どうしようもない大店のグータラおぼっちゃんを森繁はほとんど地でいくような演技で(笑)実にぴったりした役どころでしたが、今回観て、淡島千景がこんなに良かったんだ!と再認識しました。ダメ男に惚れて、けなげに尽くすもと芸者の女性の恋女房を演じて、とても魅力的でした。
この日とは1924年生まれというから、映画を撮ったときはちょうど30くらい。あぶらの乗り切った女ざかり、成熟した女性の魅力が開花している時期だったのでしょうね。宝塚歌劇団の娘役のスターだったそうですが、その後松竹でも東宝でもスター女優になった人。東京人なのに、根っからの関西人をよく演じていたと思います。
実は若いころの私の母が、自分で言うのだからあてにはならないけれど(笑)、周囲から淡島千景に似ていると言われたことがあったらしくて、もちろんあんな綺麗な人ではなかったけれど(笑)、今回の映画をみて、なるほどそういえば、その仕草みたいなところにふっと似たような面影を感じるところがあるな思いました。
彼女も娘時代に宝塚に憧れて行くといって、家族で唯一頭の上がらなかった父親に絶対反対され、その場でけたたましく階段を駆け下りて家を飛び出したこともあったような人なので、憧れる世界が似ていて、自分の立ち居振る舞いを無意識のうちに、その世界に生きる人に似せようとしてきたのかもしれません。
考えてみれば、私が同じ世代の大女優の中で淡島千景をどこか敬遠して、彼女が主役のような映画はまず見てこなかったのは、私自身は若いころかなり強く反発していた人に似ていたせいかもしれません。そこにあるのは「母親」ではなくてやはり「女」ですから、母親がそういう雰囲気を纏い続けていることへの反発があったのかもしれないな、と思います。いま淡島千景の女ざかりの姿をみると、とても魅力的にみえます。
ボヴァリー夫人(クロード・シャブロル監督) 1991
前にも見たことがあったのですが、今回はクロード・シャブロル監督の作品の一つだということで、あらためて拝見。
フローベールの原作は何度か読んでいたし、周知の物語で、原作にほぼ忠実な内容なので、どこかヌーヴェル・ヴァーグの旗手の一人だったらしいこの監督の「新しさ」がどういうところにあるのか、感じられないかな、と思いながら見ていたのですが、これだけではまだよくわかりませんでした。
映画としてはこの作品、ボヴァリー夫人エマを演じた女優さん(イサベル・シベール)の名演に多くを負う映画だな、という印象です。もともと演劇出身の人らしいので、演技派なのでしょうね。ただたぶん撮影時はアラフォーに近い年齢だったようですから、女性として魅力的な若いエマを演じる分には、ちょっと年齢が・・・あるいはお色気不足が・・・と思わなくもありませんでした。ドクター・ボヴァリーが一目惚れするような、あるいはロドルフがなんとか誑し込みたいと考えるような、女性としての魅力、お色気のようなものは残念ながら感じられなかったのです。
そのかわり、すべてが破綻して、追い詰められていくときの彼女の変貌ぶりはすごかった。金貸しの罠にハマって手形が不当りになって差し押さえをくらい、にっちもさっちもいかなくなって、最後は昔の愛人ロドルフのところへ金を借りに行って、金はない、と言われて彼をなじり、がなり声で罵る彼女はまさに手負いの野獣が咆哮するかのようで、ものすごい迫力でした。
色気のない、硬い感じの女優さんですが、舞踏会に行ってこんな幸せがあるんだ、とつかの間の夢に酔いながら、自分はこの何の楽しみも希望もない田舎に閉じ込められて生涯を朽ち果てさせるしかないのだ、と思い知り、何もかも諦めて心を閉ざしてしまい、夫と子供に尽くすようになって、次第に神経を病み始める、そういう姿を演じるときは、まさにその容貌や印象がぴったりになってきます。ここでボヴァリー夫人が自分のあこがれも夢も押し込めて、夫やわが子のために尽くそうとしたこと自体が、彼女の精神を蝕んでいく、このあたりは怖いですね。人間ってものの不可解さ、怖さを感じさせてくれます。
そして、最後に崖っぷちに追い詰められて金策に走り回り、ロドルフのところで、まるで人間が狼に変身するみたいな変貌ぶり、声まで獣の唸り声のように低くなる、その鬼気迫る演技は、この女優さんならではのもののようにみえました。
でも彼女のそれまでのつめたい、そっけない感じというのは、或いは監督の演出だったかもしれません。いかにも情緒たっぷりにそのつどの心理的な表情をおもてに出して見せるような演出はしていないので、逆にヒロインのエマほど、その行動様式、どういうときになにをどうして、いかにふるまうか、その私たちがカメラを通して観るとおりの姿でしか描かない、という戒律を課しているようなところがあるのかもしれません。
ふつうの、というと変ですが、よくあるこの種の不倫ものでは、肉体の演技もさりながら、心理的なものが割と情緒たっぷりに表に出てくるんじゃないかという気がします。原作では、誰某はどう思った、どう考えた、ってふんだんに出てきますからね。
ロドルフがエマを口説くシーンなどは、我々男性がどう始めて会ったばかりの女性に大胆にアプローチするにはどうすればいいかの教科書みたいなもので、大いに勉強になりました。いまごろ勉強しても仕方がないけれど(笑)。・・・あぁいうシーンでも、ひたすらロドルフは、傍で聴けば歯が浮くような言葉を速射砲のように連射しているだけで、そんなのは嘘八百の空疎な言葉ばかり。ロドルフはただただこの女は落とせると確信していて、その手段を講じているだけなわけです。それを聴いているエマはむしろそっけない態度をとっています。でもたやすく落ちるんですね(笑)。そういう描き方が心理主義的でない映像での描写としての新しさがあったのかもしれません。
13回の新月のある年に(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督)1978
この作品が日本で公開されるのは、東京、横浜、京都で上映される今回が最初なのだそうです。重要な映画作家の作品でも、そんなものなんですね。もちろん私にとってはこの監督自体が初体験でした。
ウェブサイトの感想などを適当に眺めてみると、この監督の作品は難解で知られているようなのですが、何の予備知識もなくこの作品を見て、そういう感じは少しもありませんでした。タイトルは何のことやらわからなかったけれど(笑)。どうやら、7年おきに来る太陰年に新月が13回めぐる年が重なると、なすすべもなく破滅する者が幾人も現れる、というような預言だか言い伝えだか迷信だか、そんなものに由来するようです。まぁそれが持って生まれた運命であるかのように破滅していく一人の男/女の生涯を描いた作品なので、そんなタイトルをつけたのでしょう。こういうのは、私は、仰々しいな、とかもったいぶっているな、と感じるだけですが、中身とフィットしていないわけではありません。
いま男/女と書いたのは、フォルカー・シュペングラー演じる主人公エルヴィンが、若いころ、精肉屋で働いていたときに知り合ったユダヤ人青年アントン・ザイツに同性愛的な愛情を告白したときに「おまえが女だったらよかったのにな」と言われて、本当に性転換手術をして女性になってしまい、エルヴィラとして生きてきて、この作品の中でも場面により、相手によって、エルヴィンと呼ばれたり、エルヴィラと呼ばれたりしているからです。
孤児として少年時代を修道院で過ごし、出来の良い少年として、恵まれた里親の家庭に引き取られることがほぼ決まっていたところが突然その話が立ち消えて夢見た将来を断ち切られ深く傷つきます。彼は仕事先の大将の娘と結婚し、一女ももうけますが、エルヴィラとしてクリストフという中年男を助ける形で同棲生活をつづけ、クリストフが立ち直るとかえってエルヴィラは彼にぶら下がるようなうっとうしい存在になって、クリストフのほうが家によりつかなくなり、エルヴィラは淋しさを男娼を求めて街路に立つような生活をしています。
そんな中でも、エルヴィン/エルヴィラはかつて愛したアントンを探し求め、とうとう訪ね当てますが、そのアントンは、ユダヤ人としてナチ時代の苦難をなんとか潜り抜けて、いまではフランクフルトのどっちかというと裏社会を牛耳る大物みたいな感じになっていて、エルヴィンを思い出しはするものの、エルヴィンの想いが若いころから一貫して、全く一方的なものであったことがはっきりします。
こんなふうに、結局この世に居場所のない感じのエルヴィラは、周囲の人とまじわり、生きていくほどに心の傷を深くするばかりで、最後は友人夫妻のところへ深夜に救いを求めて訪ねて拒まれ、自分で死を選びます。
こういう主人公に共感できるところがあるか、と言えば、まったくそれはありません。でも、それは彼/彼女がゲイだからではありません。彼/彼女が不幸な生い立ちや、そこで担うことになる運命に翻弄され、深く傷ついていることはよく理解できます。そういう傷ついた魂の彷徨とそうした人間の一生を描こうとしていることもよく理解できます。その不幸な生い立ちや成長の過程での不運には同情も覚えるけれど、この作品の描くいまの彼/彼女は、一人の人間として共感を誘うものではありません。既存の道徳、常識、戒律のごときものへの苛立ちや、そこを外れたものの感じ方、考え方に関しては、特別違和感はありません。けれども、彼/彼女は自分のそうした傷の深さ、自分の負った運命にしか関心がない人のようです。
彼/彼女は、またこの作品の作り手は、それを「愛」と呼びたいのだろうと思います。彼/彼女は妻子を愛し、また若いころから一貫してアントンを(一方的な片思いではあったけれど)愛し、また次第に自分を必要としなくなり、自分をうっとうしい存在とするようにはなるけれども、自分が助けてやって、その生活を支えてきた同棲相手のクリストフを愛し、最後に自分自身が拒絶される友人、隣人たちを愛し・・・と周囲の人々をことごとく愛する人です。けれども周囲の人々が結局のところ彼を受け容れずに拒んで、彼の居場所がなくなっていったんだ、と、そんな風にこの作品は言いたげです。
けれども、ごくふつうの凡庸な観客の一人としてこのエルヴィン/エルヴィラを見れば、そういう自分のことしか考えていない、自分しか実は見ていない、つまりそんな自分の「愛」の感情を至上のものとして自己陶酔して耽溺していくだけの人ではないか、と思えます。アントンに対する想いはそのいい例で、彼は一方的にアントンに同性愛的な愛情をもって彼に迫り、アントンのほうは全くその気がないから、軽く冗談のようにして、君が女だったらよかったのにな、と誰もが言うような言葉でかわす反応をした。これはどう考えてもアントンがまともです。
ところが、エルヴィンはこのアントンの言葉を、お前が女になるなら愛する、男であることをやめよ、という言葉として受け止めて性転換手術を受けてしまいます。普通の人間は、この時点でもうエルヴィンというのはまともじゃない。精神を病んだ人間だ、と考えるでしょう。それでアントンが「そう言ったじゃないか」と責任を負わされたのではたまったものではありません。その後のエルヴィン/エルヴィラのアントンを探し求める思いがどんなに切実であったとしても、それは単なる彼/彼女の一方的な妄想の世界のことに過ぎず、そういう主観的な想いは芸術にでも昇華されない限り、この社会で何ら客観的な意味を持つものではないし、私はこんなに熱い思いを持っているのよ、とか私はこんなに傷ついているのよ、とやたら周囲にまき散らしてよいような感情でもありません。そういう主観的な「愛」を持つからと言って、他者への現実的な働きかけの迷惑や、自堕落な生活が許される筋合いのものでもありません。もっと深く傷つきながら、その痛みに耐え、苦痛の表情を周囲にみせびらかすような真似をせず、心の奥深くしまって、まともな人生を送っている人はいくらでもあるのだといます。
こういう彼/彼女に突然再会を強いられたアントンが冷淡な態度をとるのは当然のことで、おかしいのはエルヴィン/エルヴィラのほうです。ことさらにユダヤ人アントンがナチス時代を切り抜けて戦後裏社会らしきものの大物になり上がって、チンピラみたいな人間になっているように、悪役っぽく描くのは不公平というものでしょう。
また、最後に彼を死に追いやる直接のきっかけであるかのように描かれる、夜の11時という時刻に夫婦の私宅を突然訪れて、話を聴いてほしい、傷ついた自分を慰撫してほしい、という態度をとるエルヴィラに対して、明日の朝も早く仕事があるし、もう夜中の11時だから、と遠慮がちに断る夫婦が、まるでエルヴィラを死に追いやった直接の下手人みたいな描かれ方をするのは、まことに不条理なことです。これは断わるのが当たり前でしょう。ましてそのすぐあとで自殺するなんて、友人としてかけつけた夫妻の気持ちはどんなだったかと気の毒になります。いやしくも友人である限り、自分たちがあのとき迎え入れてやっていれば・・・という後悔の念に苛まれるでしょう。でもそんな彼らにどんな罪があるというのでしょう?!みなエルヴィラが自分の勝手な妄想が潰え、自堕落な生活の結果相手にされなくなったりした結果、勝手に傷ついて、その慰めをなりふりかまわず、周囲の迷惑もかえりみずに、だれかれとなく救いをもとめて走り回っていただだけの話で、こんなのに当たってしまったら災難というほかはありません。
この社会で普通にまじめに生きていて、エルヴィン/エルヴィラなどよりずっと深い傷を負っていながら、悲鳴一つ挙げず、愚痴一つこぼさず、他者に迷惑をかけまい、自分の生活も精神も自分でできるかぎりコントロールして生きて行こう、と考えている大多数の人間にとって、このエルヴィン/エルヴィラのような自分のこと、自分の感情、自分がかかえこんだ傷にしか関心がなく、その補償を周囲の誰彼なしに求めるような人間は、他者が懸命に築き、守ろうとしているそれぞれの生活の秩序や安定した心の砦に土足で踏み込んできて汚物をまきちらし、それを求愛の行為だと言い張るような存在でしかないでしょう。
けれども、何が彼をそうさせたか、と問うなら、そこには彼を捨てた両親や、彼を「愛そうと努力しました」という修道女の言葉のような本当の愛と似て非なるものに取り囲まれた環境や、養子にと一旦は期待を抱かせながら突然破綻した夢の挫折や、同性愛が不幸にして受け入れられない片恋であったことなど、様々な要因があるでしょうし、その幾分かはこの社会の歪みに帰せられるべきものもあるでしょう。しかし過去がどうあれ、今の自分のありように責任があるのは第一に自分であって、このエルヴィラ/エルヴィンの姿はそれを負うことを拒んで自堕落な生き方に墜ちてしまっているとしか思えないので、おそらくよほど甘ったれた人間でない限り、そんな彼/彼女に共感をおぼえることはできないでしょう。
ただ、彼/彼女の傷の深さを描くところにはリアリティがあって、その自堕落な姿や彼/彼女が「愛」だと錯覚している妄想を拒まれることで傷つくありようについては、見ごたえのある映像を創り出しています。そういう傷の深さ、生々しさを映像的に象徴するシーンは、彼/彼女が若いころ働いていた精肉工場の、牛の血抜き、首切りの解体作業をする場面で、その惨事ともいえる流血の映像はインパクトがあります。
私もニホンザルの解剖学実習で、3カ月近く毎日午後の夏の暑い日に、ホルマリン漬けのヌルヌルの遺体を引っ張りだして、解剖台の上で皮を剥ぎ、肉を裂いて、神経や血管をより分け、内臓を調べるようなことを、辟易しながらやっていたことがあります。特にいやだったのは、顔の皮膚を剥いでいくときでした。
牛の顔の皮を剥いでいくシーンは、だから、あのときのいやな気分を思い出しました。でも、それはこの作品の主人公エルヴィン/エルヴィラの心が顔の生皮を剥がれるように表皮を剥がれていくことの比喩なんだろうな、と思います。そうやって夥しく流血しながら皮膚の下の生身の肉を痛々しく晒していくように、彼/彼女の生涯を私たちの前にさらけだしていく、そんな作品だからです。
映画のあとで、字幕をつけた渋谷さんというファスビンダーの研究者という方の懇切丁寧な解説レクチャーが出町座の3階で行われました。概論のあと、映像を最初からしまいまで早送りもまじえながら、丁寧に解説していく、ほとんど2時間余に及ぶ、大学の講義一コマ分より長い、ものすごく熱のはいった講義で、映画を観たすぐあとに、その専門家によるこんなレクチャーが受けられる機会などそうそうあるもんじゃないので、私も聴かせてもらいました。若い人がいっぱいで、渋谷さんは、東京でもなかなかこうもいっぱいにならない、と言っておられましたが、若い人にとっても、この映画の上映とつづくレクチャーのセットは、素晴らしい機会だったろうと思います。
監督自身が映画制作の前に書いていたらしいシノプシスで映画には表立って描かれていないようなエピソードや、はっきりそれとわかりにくい背景をも詳しく解説してくれたので、作品に描かれたことの背景や、時間が前後してわかりにくくなっているところも、ほとんど理解することができました。
渋谷さんのレクチャーで、この映画の背景に、実際に監督が同棲していたアルミンという(同性愛者かな)が自殺したという事件があって、それに衝撃を受けた監督が、もともと左翼的な社会派のテーマで映画をつくっていたのが、私的なものを取り込んで作った彼としてはわりと珍しい作品らしいことを教えてもらいました。
もうひとつ渋谷さんの講義で、えっ?と一瞬疑問に思い、かつ、なるほど、と気づいたのは、このエルヴィン/エルヴィラの生涯を描く作品で、「回想の場面はひとつもありません」と言われた点でした。彼によれば、すべては登場人物自身が体験として語る言葉か、主人公が自分の過去を訪ねて行って別の人物にヒアリングする形で聴かされる物語として語られ、回想場面として直接に過去の場面が登場することはない、と。一瞬、いやそんな・・・と思ったのは、時間が前後するエピソードを、私が回想場面として受け止めていたからかもしれません。
だけど例えば精肉店の牛の解体工程の映像は、エルヴィンの回想場面ではないのかな。漫画の吹き出しみたいに、これは彼の頭の中で起きていることですよ、という明示はしないけれど。それともあれば現在の精肉工場なんでしょうか。だとすればそんなものが現在の物語の中に入ってくるのは変です。それは物語世界の外にある現実の映像ということになってしまうほかはないでしょう。
あるいは時間を操作して前後させているだけで、あれは「回想」ではなくて、過去のある光景をじかに撮っているんだ、ということでしょうか。それもやっぱり変ですね。もうそんな大昔の過去なんて無いわけで、物語の世界はたしか主人公に寄り添って、現在を追っているわけで、「時間が前後する」というのは、登場人物たちの語りによって少年時代が語られたり、青年時代が語られたりするだけで、カメラが過去の光景をとらえているわけではなく、カメラはそういう過去を語る現在の登場人物、現在の光景をとらえているはずです。修道院で修道女の話を聞くときも、歩き回リながらエルヴィン/エルヴィラの少年時代を語る修道女の姿や、いまの修道院の子供たちの姿はとらえているけれど、少年時代のエルヴィンの姿をとらえていなかったんじゃないかな。いや撮っていたのかな?それならそれは修道女の回想としてしか意味を持たないはずですね。
その辺がもし徹底されていて、過去はすべて登場人物の語りの言葉の中でしか登場せず、映像として直接あらわれることはない、というのであれば、それはなかなか面白いと思います。それは監督の一つの明確な表現思想をあらわしているはずで、過去の世界というのは、そのような言説の中にしか存在しないものだということになるでしょう。当然それは作り手が、これが彼/彼女の過去だ、と決定づけられるような唯一の事実なんてものではなく、ときに相互に矛盾しあい、ときに誇張されたり、ゆがめられたり、嘘八百であったりするはずのものでしょう。今回はそういうところには焦点がしぼられていないけれど、もしも方法的にそうしたものを一貫して描いていたら、面白い作品ができるだろうな、という気はしました。
ほかにもレクチャーから色々、この監督や作品の背景とか、場面の意味について教えられましたが、映画を見てレクチャーを聴き終わったあとで思ったことは、たしかにレクチャーで詳細な解説を受けて作者や作品「についての」知識は少し増えて、或る意味で理解が深まったり広がったりしたけれど、それは「情報」であって、そうした情報がひとつもなくても、この作品を理解する上ではまったく支障がないだろうな、ということでした。
たとえば、先の述べた、監督自身がゲイで、同棲者の自殺がこの作品をつくる引き金になり、その私生活的な要素や思いがこの作品に織り込まれている、というような「情報」についてみればすぐにわかりますが、別段そんなことは知らなくても、この作品自体を理解することはまったく十全に可能です。そうした「情報」は作品世界の外部のことであって、監督がゲイではなく、そんな自殺者を身近に持たなくても、こういうゲイを主人公として、この種の作品を生み出すことはあり得るし、この作品自体をそういう情報に還元することはできません。作品の世界は作品の世界として完結し、自立したものであって、そうでなければ表現として不完全な作品というにすぎないでしょう。作品の中のゲイ(エルヴィン/エルヴィラ)は、監督がどういう育ち方をし、どういう人間関係を生きていようと、それ自身の生を作品の中で生きるのであって、作品の外部の人間の生を生きるわけではないし、再現するわけでもありません。
だから、私たちは基本的には作品だけを見ればいいので、私のようなどんな初歩的な映画観客であっても、作品で見ることがその作品の100%であって、作品外の情報を豊富に得たからといって、それが110%になる、というようなことはあり得ません。ただ、私たちが、この作品世界を作ったのはどういう人で、それにはどんな世界観なり人間観があったのか、社会的な背景はどうか、というような作品外の情報に関心を持てば、それを満たしてくれる、ということだろうと思います。もちろん誰にも知的好奇心があるので、ふつうは映画をみれば、そういう興味を持ち、そんな情報を知ることもまた映画を観ることとあわせて大きな楽しみであることは申すまでもないことですが・・・。
楢山節考(木下恵介監督) 1958
これは京都文化博物館のフィルムシアターで見てきました。破れ太鼓でがっかりしたけれど、二十四の瞳を思い出して、木下監督というのはどういう人だろう、となお疑問に思っていましたが、今回これもたぶん代表作の一つなのでしょうけれど、「楢山節考」をみて、やっぱりわからなくなりました(笑)。
昔語りの装いで、こういう伝説がありました、ということらしく、最初と最後に現代のその地方らしい風景がちょっと出てきます。あとは浄瑠璃と三味線に定式幕を使って歌舞伎の世界の枠組みの中で語られる昔語りの体裁になっています。
これはなかなか面白そうだな、と思ったのですが、いやそれなら俳優さんたちの演技も演出も全体としてもっと様式化してくれないと・・・というのが私の感想です。
田中絹代は例によって熱演していますが、登場人物みな、新劇的な演技で、そこには枠組の様式的なスタイルは全然みられません。だからとてもちぐはぐで、奇妙な感じがしました。
どうせ浄瑠璃で語らせるなら、増村保造が撮った「曽根崎心中」の宇崎竜童や梶芽衣子のように、人形のような硬い所作で動いてみたり、セリフも様式的なセリフ回しにしたほうが、しっくりその額縁に入る絵としておさまったでしょう。その場合は、登場人物たちのセリフはもっとずっと少なくてよかったと思います。やたらと思わせぶりに「お山へいく」いく、としつこく繰り返す必要もなかったでしょう。むやみに表情を歪めてみたり、暗い顔をしてみせたり、泣いてみせることもなく、ただ黙々、淡々とそのときへ向かう家族の沈黙の表情を撮ればよかったと思うのです。泣いたり叫んだりすることで、かえってその「思い」の丈は低くなってしまいます。
風櫃(フンクイ)の少年(侯孝賢=ホウ・シャオシェン監督)1983
風櫃は台湾の澎湖島にある場所の名のようです。そこでいつもつるんで遊んでは喧嘩ばかりしているちょっぴり不良っぽいところもある思春期の少年たち3人が、田舎でくすぶっている暮らしに飽きて都会にあこがれ、うち一人の姉を頼って大都市である高雄へ出てきます。英語のタイトルが"The Boys from Fengkuei"というのも、風櫃から来た少年たち、という意味で原題もそういうタイトルのようです。
3人ははじめ、頼って行った姉の友人の紹介で、同じ工場で働きますが、2人はじきに辞めて、露店でカセットテープを売る店を始めます。残された主人公のアーチン(阿清)は工場で働きつづけます。3人は同じアパートの隣組の同棲する若い男女と顔見知りになっていましたが、その男のほうが工場でなにかまずいことをして船で遠くへ行ってしまい、取り残された女性と次第に親しくなっていたアーチンは淡い恋心をもったようです。でも、その女性は台北の姉のところへいく、と言って、行ってしまい、アーチンの片恋もそこで終わります。
家族が貧しい中で身をよせあって、でもそれぞれ自分たちの家をもち、村の人々は顔見知りで、安心のできるような地域社会にいて、若者たちは自分たちの欲望や興味を満たしてくれるようなものを何もみつけられず、昨日のように今日があり今日のように明日がある暮らしに嫌気がさし、上の世代に反抗してみたり、つまらない喧嘩にあけくれているような鬱屈した日々を送っていて、大都市にあこがれて田舎を飛び出していくけれど、そこで暮らしを立てるにはそれ相応の仕事もしなければならないし、そんなにパッとした仕事につけるわけでもなく、あこがれてきたような生き方が開けていくわけでもない。そんな中で小さな世界で新しいふれあいも生まれて、そんなところにささやかな喜びを感じ始めている主人公ですが、それもはかなく消えていってしまう。
そんな田舎と都会の光景を対照的に少年たちの生きる日々の背景に置きながら、まだ純情な、都会の生活にもうまくとっかかりが見つけられない少年たちの様子を温かく、少し切ない眼差しでとらえた作品で、とても良かったと思います。
主人公のアーチンの父親が、アーチンの少年時代、野球をしていて、硬球が頭にあたり、前頭骨が壊れておでこがへこんでおり、命は失わなかったものの、ずっと椅子に座って食事を口まで運んで食わせてもらうだけの生きるしかばねのようになっています。おでこの一角がボコッとへこんだ顔はなかなかインパクトがあって、この作品の中で或る意味、映像の重しになっているところがあります。それはアーチン少年の心の重しでもあるのでしょう。こういう肉親を一人かかえている、ということは、彼が何も言わず、何もしないとしても、家族にとってはずっと心の重しでありつづけるわけですね。アーチンが「喧嘩ばかりしている」のも、友達と語り合って高尾へ飛び出していくのも、この重しから脱していく、ということと同義であるわけです。
その父親が死んで、アーチンは故郷へ戻っていきます。
超級大国民 スーパーシチズン(萬 仁=ワン・レン)1994
冒頭シーンは、池の縁のようなところに2台の車が乗りつけられ、後ろ手に縛られた囚人らしいのが引き立てられて池畔に並んで正座させられ、いきなり拳銃で後ろから撃たれて倒れるという衝撃的な場面です。
これは台湾の戒厳令時代の政治犯の軍による射殺のようです。
この物語の主人公は、その時代に隠れて進歩的な書物の読書会を開いていたグループの一人で、囚われて16年間刑務所暮らしをし、出所すると自分で頑なに老人ホームへ入るといって入ってしまってさらに18年間をすごし、あわせて34年間をひとり閉じこもった生き方をした末に、娘と一緒に暮らすようになったものの、今度はかつての読書会仲間やその消息を知る当時の生き残りを訪ね歩き、リーダー格だった男で、ほかのメンバーの罪を一人で背負って処刑された友人の墓を訪ね歩くという、過去に生きるような毎日を過ごします。
彼の妻は、まだ小学生くらいだった娘をかかえ、働きながら、沢山の交通機関を乗り換え乗り換えして孤島の監獄へ面会にいく苦労といとわず、彼の帰りを待とうとしていたけれど、彼は離縁の協議書にハンコを押して、面会に来た彼女にその書類に署名するように言います。夫の帰りを唯一の希望にして生きてきた妻は、放心状態に陥り、娘を残して服毒自殺してしまいます。
そのために彼の娘は居場所を失い、親戚の間をたらいまわしにされ、苦労を重ねて成人したので、自分の理想ばかり追っかけて家族を顧みなかった男を非難します。そして、いまもまた男が過去を追いかけ、自分のことばかりしか考えていないことに憤ります。そんなに理想を追いかけていたいのなら、なぜ結婚したのか、なぜ私を生んだのか、と。
それでも男はひたすら老身に鞭打ってかつての仲間を訪ね、自分たち囚人を運んだ軍人まで訪ねて、自分たちの身代わりになって死んだリーダーの墓を探し求めます。そしてついに、誰にも知られない林の中に散在する粗末な墓の中に、その男の名を見出します。
男は用意してきた沢山の蝋燭を林の中に立てて火を点し、リーダーだった男の墓の前に両手をついて謝罪するのでした。
たしか2時間ほどの映画ですが、3~4時間に感じるほど冗長といえば冗長な、スローペースの作品でした。まあ世の中から34年間も切り離され、引きこもっていて、心身ともに閉じていた、いまや衰弱した老人のゆっくりペースでの行動を追うのですから、或る程度そういう中身に見合ったスローペースなんだ、と言えなくはありませんが、それにしても長すぎ!(笑)
しかし内容的には台湾史の上では問題になる時代背景のもとで、友の犠牲死によって生きながらえた
思想犯の贖罪の旅といったところで、重い内容だと思いますし、それにふさわしい重量感のある作品だとは思います。
それと、音楽がとても印象的でした。出町座の台湾特集の一環で見ました。
第三世代(ファスビンダー監督) 1978-79
「13回の新月のある年に」と同様に出町座で、上映後のレクチャーとセットで見てきました。
これも難解な作品と言われているそうですが、私には素朴な観客として、すなおに見てそんなに難解な作品というふうには感じられませんでした。どうしてかな、と考えてみましたが、一番平凡で単純な答として、そういえばこの監督は私と生まれた年が同じで、死ぬまでは同時代を生きてきたんだな、ということが頭に浮かびました。同じ歳であっても、地球の裏に近い方とこっちに離れて何の関係もなく、その名さえしらなかったような映画監督の作品がわかる、わからないとは関係なさそうですが、たぶん彼が経験しただろうヨーロッパの例えばパリのいわゆる五月革命だとか、そのあとのドイツ赤軍派のテロで大騒ぎのドイツの状況というのは、私たちも日本で大学闘争やそのあとそうしたラディカリズムが敗走・自滅させられていく過程とパラレルで、世界的な同時性をもって起きていたことだし、似通った時代の空気を吸ってきた、ということだけは確かだろうという気がします。
たぶん、当日会場を満たした若い観客の多くは、上映後の渋谷哲也さんのレクチャーで時代背景を説明されて初めて知ったようなことも多かったと思いますが、私などの世代にとっては時代背景的な部分は体験的に自明のことでしたから、こういう作品が作られた背景は何の予備知識がなくても直観的に分かってしまうところがありました。
また、いわゆるテロリストが敗走・自滅していく中で、そのラディカリズム自体を権力に利用されたり、個別に権力に取り込まれたり、癒着していく過程についても、現実がそうであったので、必ずしも作家や監督の独創の問題とは受け止めることができないし、'70年代も末の制作当時としても、さほど目新しいものの見方、考え方というふうにも思いませんでした。むしろファスビンダーという監督は、その種の過去にもあり、その当時も繰り返されようとしていた現実を、どう戯画化して描くかというところに彼なりのオリジナリティを見出そうとしたようにこの作品を見た限りでは思いました。
日本でも70年代はもうラディカリズムは壊滅状態で、シラケの70年代と言われていて、四分五裂した党派の内ゲバのように理念を失ったただの"過激"だけが線香花火のように時折火を噴いて人々を驚かせるだけの状態になっていて、それ以前のラディカリズムは自壊してそう言いたければ資本のうちに取り込まれていった現実があるわけで、この「第三世代」という作品は、ちょうどその現実をなぞってみせたという意味では日本の70年代の気分にフィットする、基本的にはシラケた空気の中で拠るべき現実も理念も見失った者たちの虚脱感、けだるい気分、革命ごっこと現実の区別がつかなくなった幼児に拳銃を持たせらバンバン撃って人を殺してしまった、みたいなちぐはぐさ、そして全部、もはや押そうが引こうがびくともしない秩序の中にすべては回収されてしまうような現実を戯画的になぞってみせた作品と見ることができそうです。
最初からこれはコメディですよ、という断りを入れている作品ですが、もちろんコメディとしては中途半端で、麻薬中毒の女のことや、そのお友達らしいフランツが職業斡旋所へいっての帰り、せっかく職業訓練を受けたのにとがっくりきたりだとか、それとつるんでいるゲルハルトだとかの姿に象徴されるように、妙にベタベタした情緒的な思い入れやら、「意志と表象としての世界」を合言葉とするようなペダンティックで意味ありげで無意味なお遊びや大真面目な銃撃みたいなものが混在したごった煮で、それらが軽やかにぶつかり合って乾いた笑いを奏でてくれる、ほんもののコメディのようにはまいりません。これならおもちゃの鉄砲でもドンパチやらかして、唯武器主義の戯画化にでも絞ってくれたほうが笑えそうですが、妙に大真面目なところがあって、ウェットで重たい。
手入れの刑事に対してゲルハルトが付きまとって、がなり立てるようなシーンは本当に聞き苦しかったですね。あれではコメディには逆立ちしてもならないでしょう。ああいうシーンにどんな意味があるのか、ノイズの重ね合わせによる多重ノイズはこの映画の特徴のひとつでしょうけれど、一人一人の登場人物自体が言ってみれば騒音なので、そちらをちゃんとノイズとして聴かせてくれないと、全部ぶちこわしにしてしまうんじゃないか、と思いながら見て、いや聴いていました。
冒頭の絵面に登場するヴィルヘルム皇帝教会の廃墟は、私も1969年だったかに見たことがありました。映画のは修復前の廃墟だと解説してもらったように思いますが、それにしては私が見た時よりずいぶんきれいで、もう修復されたあとの建物のように見えました。そういうことについての情報は解説によってはじめて知るので、あ、あれはどこかで見たような、と思ったけれど、あの建物だったか、とか興味深くはありますが、この作品を見るうえでそれを知らないからといって「わからない」なんてことはありません。作品の中で前の映画のキャラクターを引用しているといった情報も興味深くはありますが、同様です。
政治的な季節が終焉する中で、まだその時代に執着して、寄るべき理念も生活も失ってテロに走るだけの自閉的な集団がいくつか生まれて、こんなカリカチュアで描かれるように奇妙な足跡を残して自壊し、少しは傷ついたかもしれない既存の秩序の回復していく中に取り込まれていったんだな、というのが感じられれば、いまの若い人たちでも核心のところで受け止められたことにはなるでしょう。もちろん映画の作り手はそういう彼らに幾分シンパシーを感じながら、ウェットになっているのかもしれませんが、それはいまの若い人には共感するのは難しいでしょう。
熊切監督の「鬼畜大宴会」のように徹底的に無理念にドライに観客をどっ引きさせるためにだけ、生首を切ってジュウジュウ音立てて血が噴き出すような映像で遊んでしまえば、たしかにブラックな笑いを笑うしかないコメディになるでしょうけれど、そこまで新しい世代のようにドライになり切れない、シンパシーを持つにせよ反発・嘲笑するにせよ前時代を引きずったウェットな監督の表情が伺えるような作品ではないでしょうか。
もちろん、30代半ばちょっとで亡くなったのに40本以上も映画を撮ったらしい多産な映画監督の作品を一本、二本、たまたま一度見ただけで深く理解できるはずもないので、こういうのはチラッとすれ違っただけの通りすがりの人をスナップショットで撮ってみた写真、それも性能の悪いポケットカメラかガラパゴス携帯に映ったボケ写真に類する個人の覚えにすぎないので、今回の専門家の先生のような熱烈なファンがもしたまたま読まれる方の中にいらしたら気分を悪くされませんように(笑)。
夏、19歳の肖像(チャン・ロンジー監督) 2017
これも出町座でみた比較的新しい中国映画です。B級サスペンス・青春もの恋愛映画、といえばいいのでしょうか。途中までずっと何が起きているんだろう?と引っ張っていくサスペンスはなかなか力のあるもののように感じましたが、種明かしをされて仕掛けがわかってしまうと、なぁ~んだ!と脱力してしまうようなところがB級(笑)。
手品でも種明かしされれば、なぁ~んだ、そんな簡単なことに騙されたのか、と笑ってしまうけれど、この作品の種明かしはちょっと仕掛けとして十分に納得しがたい(笑)。まぁこの種の作品でネタバレしちゃうのはさすがに良くないでしょうから、やめておきますが、それはないやろ!と思わせるようでは、あまり・・・。それに細部でも、主人公が簡単に留守宅の内部まで踏み込んじゃうようなところまでやってしまうとか、彼女の家をうかがってうろうろしていたカフェの男に、わが主人公が直接、おまえ彼女の家をこそこそ覗いていただろう、なんて言っちゃうところなんて、どうにも無防備で、現実だとありえないよなぁ、なんて思うし、彼女がいったん連れ去れて(そこは迫力があってよかったけど)、もう手掛かりがなくなって、彼女とデイトした食事の店のマークを塗料噴霧器で彼女が見るだろう向かいの壁に書き残して、あとはひたすら店の前で待ち続けて、そこへ彼女がやってくる、会いたかった、というのも、ちょっとうまくできすぎでしょ!と。まぁ最後のは、ミルクティーン向きの青春恋愛ものだと思えば、あれでいいのよ、ってことになるのかもしれませんが・・・
でも青春もの恋愛劇としては、女の子がさわやかでとてもいい感じだったし、男の子も純情でひたむきな感じの男の子だったし、とりわけ彼女の誘いで2カ月でしたっけ、追手の目の届かない海辺のホテルに滞留して天国のような日々を過ごすところは、ほんとに楽しそうで良かった。いや、羨ましかった(笑)。そんなうまいことあるかよ!と思いつつ(笑)。
それにしても、なぞのメールの送り主が誰かは戻って来ればわかる、というメールをみて、罠であることは判り切っているのに、ノコノコと一人で町へ帰っていくこの男の子も相当ノーテンキだわ、と思いました。こういう、それはないでしょ!というようなところがいっぱいあるのも、この手の青春恋愛ものにはお目こぼしされるのかも・・・
愛情萬歳(ツァイ・ミンリャン監督) 1992
出町座の台湾シリーズの一環で上映されたのを見てきました。ちょうど2時間の作品ですが、変な映画で、やたら長く感じました。
最初ずっと登場人物のセリフがありません。のちのちも、セリフは極端に少ない映画です。
不動産エージェントのメイというアラサーいやもうアラフォーかな、美人でもスマートでもないただのおばさんになりかけの女性だけれど、まだ若い時の名残りの色気はたっぷり残しているようなところのある女性ですが、貸家なのか分譲なのか、部屋を見に来る客の電話を受けてビルの入り口で待っていて客を案内したり、販促用のビラを街の街路樹や電柱に貼ったりしています。
このメイさんが仕事のために寝起きしている二区画(二軒分)つづいているらしい部屋があって、たまたま映画の冒頭アップで映されるようにその一つの入り口のキーを彼女が挿したまま忘れていたのを、お墓のロッカールームみたいなのを販売している営業マンのシャオカンというちょっと気の弱そうな若い男が盗んで、玄関の呼び鈴を押して誰もいないことを確かめては中へ入り、入浴したりベッドで寝たり好きに使っているわけです。
ところが、もう一人、そこへ違法な衣服の路上販売みたいなことをしているアローンというやはり若い男が、たまたま街でみかけたメイに連れ込まれる形でこのマンションに入ってセックスをして、その後も一人でこっそり入り込んで、やっぱり好きに使っているわけです。
その男たち二人が出会って共犯関係で、メイには知られないように逃げ出したり使ったりしています。ときにシャオカンが先に部屋に侵入しているときに、アローンとメイがやってきて、シャオカンがあわててベッドの下に潜り込んだら、上ではメイとアローンがセックスをはじめてしまって、というような滑稽なシーンがあり、さらにメイが去ってベッドでまだ一人眠っているアローンに、シャオカンが添い寝して気づかれぬようにキスして去るという、どうもこのシャオカン君はホモッ気がある様子。
まあこんなちょっと喜劇的な話を、大真面目にパントマイム劇ではないけれども、ほとんど会話なしに3人のそれぞれの行動が結果的にちぐはぐな行き違いや遭遇やニアミスを繰り返す面白さでひっぱっていくわけですが、それで何が起きる、というわけでもなく、3人の間に確固としたつながりができるわけでもありません。あくまでも3人はそれぞれこの街のどっちかというと一番下層のほうで生きている、もちろん一応まじめに働いて生計を立てているけれども、言って見ればどうでもいいような仕事を毎日やっていて、そのことにも自足できないし、他に何か楽しみがあるわけでも希望があるわけでもない、その日暮らし。親しい人もなく、ただ仕事上来ては去っていく客などと接するだけです。つまり度の一人をとってみても本当に孤独ですね。現代の都市に生きる下層の若者の孤独みたいなものは、ドライでコミカルな描き方を通してではあるけれども、伝わってきます。
彼らが一所懸命汗をかくのはセックスくらいのものだけれど、それもその都度一度限りの、終わってみれば空しい一過性の行為で、全然彼らの日々を満たしてくれる何かではないわけです。
だから、ラストは、一人で広い公園みたいなところの園内の小道みたいなところを歩いていくメイの姿をずっとカメラが追っかけていって、やがて彼女は野外劇場なのか単なる休憩所なのか知らないけれどたくさんベンチ式の椅子が並んでいるところへいって、腰かけて、正面を向いて、そのまま泣きだして、ずっと泣いている。その泣くメイの顔をずっとカメラがとらえ続けます。なんで泣いているのかも、周囲がどうかも何もなし。ただひたすら彼女は声を出して泣き、そうして泣いている彼女の表情をカメラがとらえつづけます。それで終わり(笑)。
変な映画でしょう?(笑)でもこれ、パンフレットによれば、ヴェネチア国際映画祭グランプリと国際映画評論家賞、金馬奨最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀録音賞を受賞しているんだそうです。
たしかにちょっと見たことのないような、面白い設定ではありますね。都市に生きる人間の孤独を描くにも本当にいろんな手法があるんだな、と思いました。でも、やっぱりちょっと長すぎた・・・(笑)
1987、ある闘いの真実(チャン・ジュナン監督)2017
これは韓国の比較的新しい映画。出町座です。
この映画はすごく良かった。いやちょっと怖い映画でした。129分の作品ですが、扱われたテーマは軍事政権下の学生の拷問死とそれを隠そうとする権力と、真実を暴こうとする人たちとの激烈な戦いで、韓国のいわゆる民主化運動が湧き起こるにいたる史実に基づいた作品です。
韓国で取り調べ中の学生が拷問の水攻めの最中に窒息死させられるという事件が起こり、これを直接責任のある治安本部ではひた隠しにして死体解剖もせずに遺体を焼いて真実を闇に葬ろうとします。それに対して法に基づいて解剖をさせようとするソウル地検公安部のチェ検事が最初に対立し、上部からの圧力に抗してチェ検事は火葬を許可せず、事態をかぎつけた新聞記者に、表向きは何も漏らさぬふりをしてわざと情報を残して与え、徐々にこの事件が世に広がる糸口をつくります。
治安本部は民主化運動家の指導者キム・ジョンナムをスパイの親玉として血眼になって探していますが、刑務所の中に囚われた仲間からも、民主化運動に協力する看守ハン・ビョンヨンが伝書鳩となって、通信が届き、民主化運動を指導しています。この看守ハンが父親代わりとなっている姪のヨニは、いつも検問を逃れるために叔父の代わりに渋々伝書鳩の役をつとめていますが、デモをしても何も世の中は変わらないわ、と思っている、ごくふつうの若者です。けれどもあるときデモ隊と機動隊がはげしくぶつかる騒動に巻き込まれ、あやうく怪我をするところを、一人の若者イ・ハニョルに手を引かれ、靴屋のおばさんの店に匿ってもらって助かります。片方の靴を失ってはだしの彼のために、ヨニは金のない彼に代わって靴を買ってやります。その後彼女は大学で彼と再会し、彼が民主化運動を推進するサークルの一員であることを知ります。彼に誘われるけれど、彼女はなお運動には懐疑的です。
ところが、叔父の看守ハンが、キム・ジョンナムに刑務所内からの同志の書信を届けようとして隠れ家の教会に近寄ったために足がついて囚われ、拷問をうけるはめになります。このことが契機となってヨニもイ・ハニョルたちと共に行動するようになります。
ひそかな民主化運動家たちの運動が広がりをもち、学生拷問死の事実がマスメディアに漏れて、治安本部がトカゲのしっぽを切ろうとして差し出した2人の「犯人」だけでなく、拷問死に責任Bのある真の犯人たちが明らかになり、学生・市民が立ち上がるときがきます。その先頭にはイ・ハニョルの姿がありました。しかし機動隊がデモ隊に放った催涙弾の後頭部直撃を受けたイ・ハニョルは血にまみれ、重体となり、字幕によれば、翌年死んでしまいます。
権力の拷問やその事実を押し隠そうとして、抗う者をすべて共産主義者とみなして威嚇し、暴力を振う治安本部の無法な姿がリアルで、ちょっと見ていて怖くなるほどです。
この治安本部のパク所長というのが、もともと北朝鮮の富裕層の生まれで、家族を殺されたために脱北して、韓国では共産主義思想の撲滅に手段を択ばず狂奔する人物、という役柄です。このパク所長を演じるキム・ユンスクがものすごい演技派で、アカを撲滅するためになら暴力的で残虐な手段をいとわない権力側を代表する悪役の最たるものであるにも関わらず、北朝鮮で家族を見ている前で殺された過去を引きずって、人間の味わう最も激しい苦しみ、悲しみを味わってきたと語る人物にふさわしい、奥深い悲しみを秘めた眼を見せてこの役を演じているのがたまらない魅力です。
カッコイイほうでは、彼に抗う硬骨の検事、チェ検事のハ・ジョンウもとっても良かった。この二人と、監獄の看守だけれど民主化運動に共鳴して伝書鳩の役割をつとめているハン・ビョンヨンを演じたユ・ヘジンの3人はほかの映画がテレビドラマかで見た顔でした。きっと著名な演技派俳優なのでしょう。
史実に基づいた作品というのが怖い。なにしろ1987年の話ですから、私のような年寄りにとっては、ほんの昨日の出来事のようなもので、韓国ではこんなことが起きていたんだ、と思うといまさらながら戦慄を覚えます。もちろん日本も戦時中はまさにこの治安本部のような憲兵隊や警察があって、同じようなことをやっていたわけですが・・・
この映画は史実に基づいてフィクションを交えたと断ってあったけれど、やっぱりドキュメンタリーのような見方をしてしまいます。若い世代の交流みたいなところや、個々の場面のやりとりはフィクショナルにつくったでしょうが、大筋、事件の構造や成り行きはこの映画のとおりだったのでしょう。こういう歴史を刻み、広く一般に知らせていくような映画も、それはそれで大きな存在意義があると思います。この作品はその役割に耐えられるような作品だと思うし、ドラマとしても力のこもった充実した作品だと思います。
saysei at 19:12|Permalink│Comments(0)│
2019年01月24日
手当たり次第に XXXⅠ ~ここ二、三日みた映画
どうも最近書くものがますます冗長になるので、この数日はわずかしか見ていないけれど、忘れないうちにいつもの走り書き的な感想を書いておこうと思います。友人には、いやおまえは昔から手紙もメールも何でもやたら長いよ、と笑われそうだけど・・・
ナイルの娘(ホウ・シャオシェン)1982
出町座の台湾シリーズで見てきました。4Kデジタルでの初上映だそうです。
侯孝賢の映画を見るのはずいぶん久しぶりです。この作品は今回初めて見ました。公開当時は不評で、監督自身も不満の残る作品のようだ、というようなウェブ上の記事を見ましたが、ちょっと違和感をおぼえたのはタイトルだけで(笑)、私は楽しんで観ました。
エジプトの少女が台湾に旅行に来て・・・みたいな話かと思って観たら、なんと日本のマンガ家細川智栄子の『王家の紋章』がこの「ナイルの娘」のことらしくて、中国語では「尼羅河女児」らしい。
「王家の紋章」なら書店で並んでいるのを見たことがありました。どうもこの映画の主人公の若い女性が、このマンガが好きで、そのマンガが描く古代エジプトの世界に空想の世界で入り込んで、ファラオに恋するみたいな妄想をしているらしい。最初と最後に古代エジプトの世界を描いたらしい壁画が出て来ます。でもまぁ、あまり中身と深い関係はない感じで、敢えて言えば彼女の生活の現実があるから、それとはかけ離れた空想の世界をいつも引寄せている女の子、ということになるでしょうか。
この作品で描かれるのは、主人公のシャオヤン(林暁楊)の家族の物語で、母は病で亡くなり、父親は別のところに住んで警官として働いていてたまに帰ってくるだけ。長兄は亡くなっています。次兄は家族にはやさしいけれど、泥棒稼業で、唯一彼が頭の上がらなかった長兄が死んだために、そういう影の世界に生きるような人間として成長していて、この映画の主舞台となる時空間では、ちょっとあやしげなバーみたいな店を経営して同じようなハグレモノの若者とつるんでいます。あと家族として祖父が一緒に住んでいます。
シャオヤンはマクドナルドで働きながら夜学に通い、家ではみなの食事の支度など家事を担い、小学生の妹の勉強をみてやっています。
次兄の仲間の一人で、シャオヤンも友達と海へみんなで遊びに行くのに車を借りたりして好感をもっていたらしい男がやくざの女といい仲になって、ヤクザに撃たれ、問題を起こすなと言われていたのに性分だから仕方がない、とやくざに仕返しをして殺してしまい、女と車で逃亡しようとして、結局自分も殺されてしまい、シャオヤンはあとでそれを聴かされます。
次兄の店は手入れを受けたりして、経営も立ちいかなくなり、閉店してしまいます。シャオヤンはこれからどうするの?と聞きますが、どうにかなる、とかどうにかする、とか生返事。預金を全部引き出せ、と言われ、シャオヤンはありったけ預金を引き出して次兄に渡します。次兄はその金で打った博打に大負けして行方不明に。シャオヤンは兄についての不吉な夢を見ます。
この間、警官である父親が撃たれて負傷し、家で介抱され、いがみあっていた次兄とも一種の和解めいたシーンもあります。けれども結局次兄は泥棒稼業に戻り、スパナを持って泥棒に入ったところをその家の住人にバットで反撃され、殴り殺されてしまい、そのことがラジオのニュースで流れる形で私たち観客も知るところとなります。
ドラマとしては、そういうストーリーを追うことになりますが、それ自体は台湾の地方都市の貧しい家庭の幸せもあり諍いもあり、みたいな平凡な庶民の暮らしの中で、家族の中では頼りにもなるいい兄貴であった、ちょっとぐれた次兄が不運もあって悪い方悪い方へ行ってしまって、悲劇的な結末を迎える、というだけで、それ自体特別に珍しい物語でも何でもありません。
私にとっては、この作品の最大の魅力は、そういうストーリーの展開よりも、それとともにそれらが起きる場として描かれる家族の光景で、それがとてもいいのです。
映像的にこれを表現しているのは、シャオヤンたちが暮らす家です。とても印象的なのは、カメラに近い方に、机に向かって勉強するシャオヤンの小学生の妹の姿を真横からとらえた映像で、彼女がシャオヤンを呼ぶとシャオヤンが妹の傍らに寄り添って勉強を教えてやります。或いは、妹が勉強する向こう側で食事の支度をしている光景が見られます。そして、その向こうに出入り口があって、そこから祖父が顔を出したり、出ていったり、また近所の人が顔を出したりします。
それは日本家屋の畳の部屋の奥行きを見せる構図や、真横にあるらしい玄関の前の廊下を通して向こうの台所を遠近法的な視野の内にとらえた小津の映像を連想させます。もちろん小津特有のローアングルの視角ではないけれど、画面の両側や桟の枠組みの向こうにつながる空間の奥行きを見せるような映像はどこか類似性を感じさせます。
そういえば、昔見たホウ・シャオシェンの「悲情城市」の映像にもそんな懐かしいような家屋の屋内空間の奥行を見せるようなのがあったな、と思い当たります。例によって記憶力の乏しい私のことですから思い違いかもしれないし、機会があれば確かめてみたいけれど・・・。
他方、考えてみると、欧米の映画を観て、こういう部屋続きを遠近法的なパースペクティブのもとでとらえて素敵だな、と感じたような映像が思い当たるかと言えば、私には思い当たるものがありません。大抵は或る出来事が起きるのは一つの部屋の中だし、もちろん居間と応接室とを往復するとか、隣の寝室へ行くとか、つながる部屋はあって、固定壁でない間仕切りを開けば二部屋続きの空間になる、というようなのをとらえる映像はいくらもあるけれど、それらはまったく別々の性質を持った部屋であるか、まったく同じ機能的な四角い箱をならべただけの空間であるかどちらかだという気がします。
これは木造の家屋だからなのか、或いはアジア的な家屋の特徴なのか、建築のこともよくわからない私にはわからないし、うまく言うこともできないけれど、部屋と部屋がつながっていて、個々の部屋がそれぞれ別の機能をもつ空間としての個性を主張しているというのではなく、同じようにみえるつながる部屋のそのつながり方自体がひとつの奥行きをもった構造として、そこで営まれる生活の場としての特徴的な光景をみせるといった趣があります。
理屈はさておき、誰でも、その映像を見れば、そこで暮らす人たちの生活と不可分な場としての空間であり、光景であることが理解できるし、ことに私たち日本人にはきっと幾分か懐かしいような感情とともに、理解できます。
それはコンクリートの四角い箱のように、別段だれだって家具を持ち込んで入れ替わるなら入れ替わって住んでも差し支えないような無機的な空間ではありません。言ってみれば、人と同じように生きて呼吸し、そこで暮らす人になじみ、その匂いを染み込ませ、様々な生活の汚れや傷を刻み、そこに暮らす人とともに歳を重ねていく、人の暮らしと切り離せない「場」としての住処なのです。
そういう台湾の家族の日常生活の光景を、人と人が生きる場と一体のものとして、懐かしく、切ない色合いで見せてくれる映像がそれだけで素敵だと思いました。
主人公のシャオヤンを演じたヤン・リンという女優さんは、アイドル歌手なんだそうですが、そんなこと知らずに見て、何の違和感もありません。魅力的な女性だけど、演技のへたくそなアイドルがアイドルというだけで起用して人寄せパンダにしたような、いわゆるアイドル映画とは全然違っているのはさすがにホウ・シャオシェン監督です。
それにしても台湾の人はこんなに煙草をよく吸うのかな(笑)。みんな座れば煙草の火をつけていますね。あと、小学生の妹が世話している白い子ウサギや、あと子犬が出てきたっけ・・・あれらがとても可愛いかった(笑)
藍色夏恋(イー・ツーイェン監督) 2002
これもホウ・シャオシェンの「ナイルの娘」につづいて、出町座の台湾シリーズで見てきました。やはり4Kデジタルで初上映なのだそうです。
「あいいろなつこい」と読むようですね。原題は「藍色大門」、英語のタイトルはBlue Gate Crossingというのだそうです。
爽やかな、ちょっぴり甘酸っぱい、切ないところのある青春もの、といっていいでしょう。
主役の女の子は、ちょっとボーイッシュな、中性的な印象の、爽やかで可愛い女の子、モン・クーロウで、これを演じたグイ・ルンメイ(桂綸鎂)という女優さんがすばらしかった。歩き方や自転車を走らせる姿でそのまま演技になっているような人でした。この女優さんはこの映画のために台北市の西門町でスカウトされた高校生なんだそうで、まったくの素人だっていうから驚きです。オーディションで2年間探しても適役がみつからなくて、やっと見いだされたのがこの女の子だったんだとか。
彼女は母親によれば「ガンコで・・・」という、ちょっと硬めの、男の子からみれば突っ張ったところのある女の子。リン・ユエチェンという親友といつもつるんでいるけれど、そのリンは、ちょっとカッコイイ男の子チャン・シーハオ君にぞっこんです。でも自分でコクる勇気がないリンは、親友の誼でとモンにチャンあてのラブレターを渡してくれと頼みます。
渋々引き受けたモンは、学校に内緒で夜のプールで泳ぐチャンにリンからのラブレターを渡します。ところが一緒に来たはずのリンは隠れて姿をあらわさず、チャンは本当はリンなんて子は居らず、モン自身のラブレターなのだろうと疑う始末。つとめてチャンにそっけなくしているモンですが、チャンのほうはモンに心を惹かれて、積極的にアプローチし、モンのアパートの前でモンの母親が作って売る餃子を毎日買いに寄ります。
結局チャンと頻繁に言葉を交わすことになったモンにリンは再度ラブレターを届けて、とモンに無理強いし、仕方なくモンは届けますが、その手紙はモンの名で書かれていたのです。そしてチャンの男友達が勝手にそのラブレターを学校のみなが見る床に貼り、モンはみんなから特別な目で見られることになり、怒り心頭です。
そんな若者らしい行き違いや友達との気持ちのずれや、色んなことがあって、モンは悩んだりもしますが、見ていて、これは友達の好きな男に友達のために近づいたら、ミイラ取りがミイラになって、自分が相思相愛になってしまって友達を裏切る結果になる、みたいなよくある話かな、と思っていたら、ラスト近くなってくると、この主人公モンが少なくとも今の段階では友人を裏切ってモンに惹かれていってそれっきり、というタイプではなかったことが分かってきます。
だんだんと積極的なチャンの良さに触れて、惹かれていくのはいくけれど、リンが大好きだし、リンが好きなチャンだから、自分が女の子ゆえに好きにはなれない、と考えてもいる。だけど感覚的にも女友達であるリンのほうが好きだと感じていることも事実で、そこが硬い、ボーイッシュな感じの彼女の印象によく合っていて、レズ的な感じで、すごく微妙だけれど、うまい設定だな、と思いました。
でも彼女の想いにリンはちゃんと応えてくれず、つれない態度をされて、モンはいわばリンにふられたような気持ちを味わうことになります。リンとも別れの時が来たのでしょうね。
ま、そんな風に色々あって、これから卒業してみんなそれぞれの道を歩み始めるわけで、モンはチャンに対して、いまは自分自身さえわからない、2年後、3年後、5年後にはわかるようになっているのかどうかも分からないけれど、「でもあなた(チャン)の2年後、3年後、あるいは5年後の姿は思い描けるような気がする」という意味の彼女のモノローグが、自転車を並べて走らせる二人の映像のバックに流れます。彼女の思い描く2年後、3年後、あるいは5年後の彼の姿は、彼女がおそらく女性としてはっきりと愛していると言えるような、成長した素敵なチャンの姿です。
モンがチャンと、どうかなってしまうことなく、いろいろと混乱を経験して、まだ自分で自分が見定められない思春期のただなかにあることを自覚するプロセスを経て、2年、3年、あるいは5年後の彼の姿を想う、という終わり方が、すごく切なく、爽やかで素敵でした。
こうやって色々ぶつかったり、行き違ったり、ちょっといい気分になったり、落ち込んだり、傷つけたり、傷ついたり、混乱して自問を繰り返し、堂々巡りし、自分で自分がわからなくなったり、そうして迷い彷徨をくりかえすのが、この思春期あるいは青春という時期でしょう。そういう彷徨の季節を実に爽やかに、切なく描いた作品でした。
ウィンド・リバー(テイラー・シェリダン監督) 2017
最初に、「事実にもとづく」という言葉が表示されます。
そして、初めは何も見えない真っ暗な映像に女声による詩的なモノローグがあって、深い雪の中で血を吐いて倒れ、死んでいる若い女性の姿が映ります。あとで彼女はこの作品の主人公であるハンターコリーの友人でもある先住民の娘ナタリーだと分かりますが、この時はどこのだれともわかりません。
次に画面が変わって、やはり雪の中で羊の群れを狙う数頭の狼、それを銃で撃つ男。・・・これら冒頭の映像や音声や文字が、映画を見終わると、あぁそういうことだったのか、とすべて甦ってきて意味がわかります。
これはアメリカのワイオミング州のウィンドリバーという先住民居住地区を舞台とする強姦殺人事件を追うFBIの女性捜査員ジェシー・バナーと、彼女の案内役を引き受ける地元で野生生物局のハンターとして狼やピューマのような家畜に害を与える猛獣の狩りなどをしている男コリーが協力して犯人たちを追い詰める話ですが、犯罪映画の形をとりながら、映画の作り手の狙いは、先住民居住地区で暮らす人々がこうした犯罪で殺されたり行方不明になるような苛酷な状況に置かれ、政府の保護からも置き去りにされている、という状況の指弾にあるようです。
話が進むにつれて分かるのですが、このハンターのコリーも、実は過去に最愛の娘を失っており、自宅からはずいぶん遠い場所で無惨な遺体でみつかったのだけれど、どういう経緯で誰に殺されたのか、あるいは殺人でなくても、攫われたことは確かなので、極寒の雪山や雪原を息切らして走って逃げたりしたら、冒頭に出てくる女性のように、肺胞が爆発して血を吐いて死ぬのだそうで、追い詰められれば殺人でなくても殺されたと同じ状況になるわけで、そうした事情だったのかどうか、それも分からない。そういうトラウマを抱えた主人公が、深い雪に閉ざされた先住民族居住地の事情など何もしらない新米の女性捜査官を援けて犯人を追い詰めていく物語。冒頭に読み上げられる女声での詩的な言葉はコリーの亡くなった娘エミリーの書いた言葉だったことが後でわかるようになっています。エミリーと、今回の事件で殺された女性とが冒頭で重ね合わされて登場させていたわけです。
エミリーの面影が登場するもう一つのシーンは、FBIのジェーンが防寒着も用意せずに駆け付けたためにコリーと捜索に行くのに、コリーの義母から防寒着を借りる場面があります。義母が、孫のだから帰ってきたらすぐに返してね、とわざわざ言います。その孫とは亡くなったエミリーです。だから、ジェーンがエミリーの青い防寒着を着てさあ行こうと家から出て来たとき、それを見たコリーが、一瞬その姿に、あ、というように見入るシーンがあります。当然コリーには彼女の姿が一瞬エミリーのように見えたでしょう。
実際、その後の犯人を追い詰めていく困難な過程の中で、コリーはジェーンを娘のように保護し、優しい父親のようにあたたかく接し、守ります。最初はずいぶん年齢差はあるけれど、この両主役のあいだに男女の愛情のようなものが芽生えるのかな、と思っていましたが、そうではなかった。父親と娘という関係を重ねていたんですね。とても周到にしつらえられた設定でした。
ハンターのコリーはピューマや狼を追い詰めるように犯人たちを追い詰めますが、それは冒頭の、羊の群れを狙う狼を狙撃するシーンと重なり、犯人たちとの銃撃戦のときに、冒頭のシーンが連想されてリフレーン効果を発揮するようなところがあります。このへんはなかなか心憎いつくりになっています。
冒頭に述べたようなこの作品のメッセージ性は、ラストに明確に言葉で、先住民居住地区で行方不明になった人で捜索さえされずに見つからないまま放置されている人がどれほど多いか、つまりいかに先住民がないがしろにされ、法や行政のサービスや人々の関心の外部でいまだに置き去りにされているかを指弾しています。
犯人を追い詰め、激しい銃撃戦が展開されるシーン、ナタリーの死に至る経緯が再現される場面など、手に汗握るところがあって、エンターテインメント性においてもサスペンスもスリルも満点の映画ですが、やはり監督のメッセージ性を孕んだシリアスなテーマが骨格にあって、見ごたえのあるハードな作品になっています。
クリシーの静かな日々(クロード・シャブロル監督)1990
ヘンリー・ミラーの自伝的短編を映画化したものだそうで、舞台は第二次戦争前、19030年代半ばのパリで、ミラーの若き日らしいアメリカのボヘミアン気取りの青年作家ジョーイが、パリへ「プルーストの研究のために」出て来て、頽廃的な生き方では少し先輩格にみえる自分と同類の若い写真家カールと出会い、ともに娼婦館に入り浸り、酒に溺れ、またジョーイが15歳の美少女コレットに心を奪われるといった姿を描いた作品で、全裸の少女を傍らに侍らせた、もうほとんど死を間近に控え、ベッドに横たわる年老いたジョーイの姿を冒頭とラストに見せて、この物語全体がこの老人の回顧であることを明示する額縁を与えています。
ヘンリー・ミラーは「南回帰線」や「北回帰線」を二十代のころ読んで、爆発的なエネルギーをもった作家という印象を持ちました。それまでなじんできたような、フォークナーなどのような緻密な文体やかっちりした構成をもった作家とは全然異なるタイプの、一見滅茶苦茶だけれど、ひとつひとつの言葉がはじけ、ひとつひとつの描かれるシーンが目が眩むような閃光を発して、性であれ生活のルールであれ、あらゆる既存の因習や約束事を彼個人の肉体と精神の暴力的な欲望の強さでぶっとばしながら、その行為自体がなにか求めて得られない絶対的なものを限りなく求める叫びのようにも聞こえ、圧倒的なエネルギーの爆発を見せながら、その姿は孤独で、泣き叫ぶ赤子のように無垢で聖的な姿にも見えてくる、不思議な作家でした。
この映画の原作となった彼の自伝的短編というのは読んでいないと思うので、どういうものか知りませんが、南回帰線など読めばおよその見当はつきます。しかし、この映画は、ヘンリー・ミラーの作品が持つあの圧倒的なエネルギーの凝縮は感じられません。あれだけの孤独の深さも、芸術への絶対的な希求の深さも、とてつもない欲望の激しさも、したがって聖性も感じられません。
ただ、ミラーにもたしかにあったボヘミアン的な気質、世の既存の因習やありきたりの考え方にとらわれない放蕩の精神が戦争直前の頽廃のパリの空気に吸い寄せられ、その毒をたっぷりと吸いながら彷徨する光景を描いているだけだと思います。
一部の好事家を引寄せるかもしれない「無修正」と銘打った美しい裸身を見せてくれる少女(写真家のカールが被写体に使っている)というのは、そういう汚辱にまみれた沼の中で彼らが見ようとする一輪の美しい蓮の花の幻想のようなもので、ミラーの絶叫が求める絶対的なもの、聖的なもののミニアチュアみたいなもので、現実の少女の肉体も精神も、わが主人公たちと何ら現実的なかかわりをもつものではないので、そこにいかなるドラマも生じようがなく、ただミラーのような圧倒的なタフネスを備えていないインポテンツなボヘミアンの弱い心が咲かせる幻想の花に過ぎないようです。
作品の中で、コレットの両親がジョーイとカールを訪ねて来て、娘がここにいるのか、いったいどういうつもりなのか、と問いただし、場合によっては警察に届けねばならない、というところがあります。ところが、やりとりしている中で、ジョーイがプルーストの研究をしていることがわかると、コレットの父親は俗物らしく、実は彼らの家がプルーストの実家の向いにあると言い、プルーストの研究者のような方なら人格高潔な方に違いない、と態度を豹変させます。まぁこういうところは見ていて笑えます。
また、ジョーイとカールが身近に爆弾テロの現場に居合わせたり、ナチスの鉤十字を掲げたデモや、警官隊の規制に遭遇したりする中で右往左往する姿も描かれていて、戦争直前のパリの光景が垣間見えるところも興味をひくところではありました。
けれども、原作者のミラー自身が作品でそういう政治ー社会的な背景を描くような作家ではなかったと思いますし、この映画でもそんな背景はただ時代を物語る風景として登場するだけで、ジョーイやカールの生き方や思想とからめて深掘りされるようなところはありません。
今回レンタルビデオ屋でこれを借りて来たのは、(別段「無修正」版だからではなくて・・・笑)、シャブロルという監督が、日本の映画作家も強い影響を受けたらしいフランスのヌーヴェル・ヴァーグの巨匠たちのうちの一人ということらしいので、これから少しそういう昔の作品を拾ってみてみようかと思っていた矢先にたまたま見つけたので借りて来た次第です。
やたら、ヌーヴェル・ヴァーグだのニュー・シネマだの「新」をつけたがるのは日本でも外国でも同じなのでしょうが、私自身は若いころに小説で流行したヌーヴォー・ロマンの翻訳を或る程度読んで、どれもこれもつまらなくて仕方がなかった経験があるので、もともと映画を娯楽としてたまにしかみていなかったうえに、とりわけ「おニュー」だとか、その種の名を冠して紹介されていたらしい映画のほうはまったく観ようともしてこなかったので、あらためて半世紀たったいま見てみたらどんなふうに感じられるものか、といった個人的な興味をもっているようなわけです。
もう「おニュー」どころか、「お古」もいいところなのですが、いまだに神様扱いするような評論家も少なくないし、少しずつ見て行けば、それがその当時どんな意味でどのていど「おニュー」だったのか、そして、いま彼らが付け加えた付加価値になお意味があるかどうか、といったことも興味深くはあります。
いまさら映画史のお勉強をするつもりはないので、ただ日々の娯楽の一つとして、そういう楽しみ方も面白かろうと考えているだけなので、気ままに寄り道しながら楽しんでいきたいと思っています。
そういう意味で今回のシャブロルさんの作品は、底の浅いもののように、私には感じられました。
愛より強く(ファティ・アキン監督) 2004
監督はトルコ系ドイツ人だそうで、この映画もドイツ・トルコ合作です。舞台もハンブルクとイスタンブールです。この監督の映画を観るのは初めてだったと思いますが、非常に見ごたえのある映画でした。主演のシベル・ケキリという女優さんが非常に魅力的でした。
これは心に深い傷を持つ男と、トルコのイスラム宗教の拘束がきつい家庭から自由を求めて脱出を試みる女性との出会いと偽装結婚のはずが次第に本当に愛するようになる(そのこと自体はありふれた話ですが)男女の切ない大人の恋の物語です。
ずっとあとになって分かるのですが、愛妻を亡くし、工場の清掃員などしながら孤独で荒んだ生活をしているトルコのメルシン出身の男ジャイトが、自殺願望を持っていて車をブレーキもかけず壁に激突させて病院に運びこまれ、回復してきたころに、同じ病院にいたトルコのゾングルダック出身の、シベルというチャーミングな女性に、私と結婚して、といきなり頼まれます。
もちろんジャイトは相手にせず拒みますが、彼女は実家がイスラムの厳格な戒律で窒息しそうで、両親や兄にその行動を支配されるような日々から脱出しようとして失敗してリストカットをして病院にいたのですが、同じトルコ系の男性なら家族も結婚を認めるだろうし、偽装結婚して家族の軛から逃れようと謀ったわけです。
はじめは拒否していたジャイトですが、結局この女性を助けるために偽装結婚を承諾し、「叔父」役の知人にも協力してもらって、シベルの家族の疑いの目をクリアして偽装結婚を果たします。けれども偽装結婚はあくまで偽装結婚で、互いの生活には干渉せず、あいかわらずジャイトはごみためのような部屋で酒とたばこ、愛人との関係にと自堕落な生活に明け暮れ、シベルもまた自由な生活を満喫しています。
ところが、実は次第に二人は惹かれ合っていく。シベルはあるとき部屋を綺麗に掃除し、結婚のために貯めていた費用をはたいて必要な家具を入れ、新婚家庭のようにきれいな室内に一変。料理の腕もふるって、印象が変わってきます。ジャイトのほうも無精髭をさっぱり刈って男前に。ジャイトはセックスフレンドの美容院の女に口をきいて、シベルは美容院で即戦力になり、働き始めます。
あるときジャイトとシベルは部屋で楽し気に踊っていて、踊りに行こう、とダンスホールへ行きますが、踊っている最中に、シベルはほかの男に声をかけられ、「彼と寝てくるわ」とジャイトに言い残して出ていきます。取り残されたジャイトの何とも言えない表情。彼は帰って部屋で飲みながら荒れています。それでも自分が投げ捨てたビールの空き缶を拾い集めて片付けるジャイト。
そんな場面が幾つも積み重ねられて、自然に二人が本当は愛し合うようになってしまったことが分かります。それでも二人はセックスだけはしないで、それぞれほかの異性とセックスして偽装結婚という形を守り続けます。
そんな或る日、ダンスホールみたいなところでシベルにからむトルコ人と殴り合い、袋叩きになったジャイトをシベルが介抱しているとき「あなたのことをいまも知らない」とシベルが言い、二人は初めて抱き合います。ところがシベルは、いざというときに及んで「ごめんなさい。やっぱりできない。本当の夫婦になってしまう。」と言い、一つにはなりません。
けれどもそのシベルも、美容院の女が「私も彼と寝てるのよ」と言ったとたん、店を飛び出していきます。彼女ももう彼を心から愛してしまったのです。
前にシベルが寝た、ニコという男が、今回はシベルに手厳しく拒まれた苛立ちから、酒場のカウンターで背を向けて飲んでいるジャイトに絡みます。女房が誰とでも寝ているのに云々。黙って飲んでいたジャイトがいきなり瓶かなにか握って、ニコの頭を力任せに殴り、ニコが死んでしまい、彼は刑務所で服役する身となります。
シベルは家族の名誉を怪我したと怒って迫る兄の手を逃れて、偽装結婚に協力してくれた「叔父」役をした男のところに逃げ込みますが、彼は、ジャイトを想うなら消えてくれ、と言われます。
彼女は刑務所へ面会に行き、ジャイトを待つと言い、ずっと彼女の味方だったイスタンブールの従姉セルマを頼って行き、ホテルの清掃の仕事などして暮らしはじます。でも、孤独と淋しさに耐えられず、ドラッグに溺れていき、彼女を支えてくれたセルマにも抗って悪態をついて、出ていき、それからは阿片と酒浸り。或る時路上でからまれた3人の男たちに逆にしつこく絡み返してとうとう刺されてしまいます。観客には彼女は死んでしまったのか、と思わせるような場面ですが、タクシーの運転手が倒れている彼女をみつけます。
時は経ち、ジャイトが刑務所を出所する日がきました。「叔父」役だった友人が迎えにきてくれて乾杯。ジャイトはイスタンブールへ行く、と言い、友人はかれのためにためたんだ、と金を渡してやります。
ジャイトはイスタンブールでかつてシベルが刑務所の彼に手紙を出したセルマのホテルを訪ね、セルマに会って、彼女に会わせてくれ、と言いますが、セルマは、彼女にいまは愛する夫と娘がいて幸せにしているから会わせることはできない、と言います。しかし、ジャイトは、君に何がわかる!と怒り、シベルはかつて「死んで」いた自分に愛と生きる力をくれたんだ、君に俺の想いがわかるか?君に邪魔できるのか?と言い募ります。
セルマは、彼女の人生を壊してもいいの?と問いかけます。ジャイトは、一瞬たじろぎ、それはできない、と答えます。
ホテルで悪夢にうなされていたジャイトに、シベルから電話がかかります。いまは話せない。いつまで居るの?と訊くシベルに、君と会えるまで待ち続ける、とジャイト。
シベルは夫が2日間留守だ、とセルマのところに子供を預け、理性を失わないでね、というセルマに、もう失っていると言い残してジャイトの泊まっているホテルに赴き、抱き合います。
これからどうするの?というシベルにジャイトは生まれ故郷のメルシンへ行く、俺と行かないか?と誘います。テラスの向こうに広がるイスタンブールの街並みを眺めながら、シベルは返事をせず、「またベッドへ・・」と誘い、再びベッドで抱き合う二人です。
ジャイトは翌日正午に発つから、バス停で待っている。君と娘と3人で行こう、と言ってこの日は別れます。
シベルの自宅の一室。荷づくりをするシベル・・・でもまだ迷い、悩んでいます。その耳に、別室であそぶ夫と子供の交わす愉し気な声が聞こえています。
画面かわって、バス停でひとり待つジャイト。バスに乗り込み、窓の外に来るべき人影をさがします。でも彼女は現れず、バスは動き出していきます。
ここで、冒頭とこの作品の節目節目に登場する演奏家6人とボーカルの女性が登場して歌います。
遠い山のかがり火が揺れている
きらめく光の上を 空高くハヤブサが舞う
命がけで愛し 愛を失った者は
私のように 魂を失うのか・・・
演奏家たちの後ろは川、その向こう岸にはイスタンブールらしい都市の光景が広がり、トルコ風の大きな寺院の屋根が見えています。この演奏隊は何度も現れるのですが、とても面白い。或る意味でこの物語りの「語り手」でもあるかのようです。
一通りのきれいごとの恋ではなく、激しいけれど成就しない恋です。偽装結婚という当初の契約を守るために決して当人どうしがセックスしようとしないで、ほかの異性とは「自由に」セックスを享楽し、そのくせ次第に本気で惹かれていって、それでも最初にとりきめた戒律を無理に守ろうとするために、ますます思いは募り、激しく燃え立ち、苛立ちもし、求めあいながらそんな自分を拒むような、切ない恋の様相を呈していく、この特異な設定がよく生かされています。
女が偽装結婚という突拍子もないことを全く赤の他人だった男に懇願する背景に、トルコの厳格な戒律にしばられるイスラム教の家庭があって、そこから「自由になりたい」ゆえだ、という形で、非常に説得力のあるストーリーになってもいます。また、はじめはそんな女を相手にしない男が、妻を亡くして深く傷ついたまま心を閉ざした男だというのも納得のいく設定です。
お互いに愛し合っていることを確認し合う瞬間と男がからんだやつを殺してしまう時と重なって、壁の中と外と、長期間の別離を強いられます。男が刑務所を出るまで女が自分を強く持って待ち続けることができたら問題はなかったのでしょうが、女は孤独と寂寥に耐えられず麻薬に溺れてしまう。なんとか命は助かったけれど、新しい家庭を持ち、子を生んで、もう過去の男が立ち入ることのできない世界を作り出しています。でも男は女をあきらめることなどできません。女もまた胸の底に秘めてきた思いがすぐに甦ってくる。けれども目の前に自分も居れて幸せな家庭を築いている夫の姿、子供の姿がある。・・・・
破れ太鼓(木下恵介監督) 1949
文博のフィルムシアターで見てきました。
たたき上げの土建屋のワンマン社長にして、妻には関白亭主、子どもたちにとっては家庭内の絶対君主で頑固者の父親である男津田軍平と、その家族との緊張関係の中でのやりとりを、長男の独立と長女の結婚を軸に描くコミカルな家庭劇。
登場人物たちの個性、立ち居振る舞いすべて誇張され、誇張のおかしさを狙っているのはわかるけれど、喜劇的なものの要素をただ定型的な誇張にしか求められないことが、いかにも古臭い、という印象を今見れば与えてしまうようです。
こういう旧弊な父親やそれに従順な家族みたいな人たちは、映画が作られた戦後すぐの時代であっても、もはや時代遅れと思われていたはずですが、そういう意味での時代遅れな人間、古臭い考え方や行動様式を持つ人間というのは、他の監督の作品にも多々登場するでしょうし、私が先日見た溝口の作品の旅芸人一座の座長のおやじさんなども、そんな旧弊な人間でした。でも溝口の作品に古臭い、という印象はありませんでした。小津の作品でも子どもたちを頭ごなしに叱りつける旧弊な父親や、ひどい場合は嫁さんを階段から突き飛ばすような男が居なくはなかったと思いますが、だからその作品が古臭いとは思いません。登場人物がどんなに旧弊な考えをもち、どんな旧弊な行動をとっていても、それが直ちに作品自体の古臭さにはなりません。
描かれた人物の旧弊さと、描いた作品の旧弊とは別問題です。
ではなぜ、どこが古臭いと感じる作品と、そうは感じない作品との違いなのでしょう?
いますぐに適切な答を持っているわけではないけれど、ごく凡庸な答えを探せば、やっぱり人間の描き方の深浅なんだろうなと思わざるを得ません。「破れ太鼓」の軍平も、貧しい中で苦労し、成りあがってきた人物で、その過去の幾つかの場面が彼自身の回想で掲げられもします。しかし、それは「おれはこんな苦労をしてきたんだぞ」という「苦労」の外面、外形的なものが示されるにすぎず、その「苦労」が人間的な経験として彼のいまの人間性に加えて来たはずの重み、人間としての味のようなものとして感じられるかといえば否と言わざるを得ません。
そこにあるのは、単なる概念、定型(パターン)としての「頑固おやじ」でしかないようです。
主演の父親役は阪東妻三郎ですが。この名優も、この役柄はミスキャストではないか、と思いました。この役柄だともっと骨太なところ、太っ腹なところがないとまずいと思いますが、そういう意味での巨きな器の感じられる人ではなく、阪妻はもっと繊細で小心な印象が強い。「無法松の一生」のイメージが強すぎるのかもしれませんが・・・
案外良かったのが、まだ若い宇野重吉、長女が好意をもつようになる画家を演じています。年取ってからの宇野重吉はなんだか臭い芝居をして好きではなかったけれど、この作品での彼は全体がひどいせいか、のほほんとしたとぼけた地の味が役柄によくフィットしていたと思います。
それにしてもその宇野重吉の演じた画家の両親、パリで出会って恋愛結婚し、いまだにパリ時代の想い出にうつつを抜かして生きている二人(妻はいつもパリの風景を描く画業、夫はそのそばでバイオリンを弾く)の、それこそ歯の浮くようなセリフやありようにはちょっと閉口しました。
木下監督と言えば日本映画の巨匠の一人で、生身の彼を描いて少し評判になった映画も先だって公開されて見た覚えがありますが、こんな映画をつくる人だったのかな、とちょっとがっかりしています。*
(* 勘違いしていて、きょうふっと思い出しました。たしか「二十四の瞳」の監督さんでしたね。あれは良かった・・・高峰秀子が・・・笑)
ハード・コア(山下敦弘監督) 2018
出町座で上映した比較的新しい映画です。実は上映開始の30分近く前に着いたので、カフェの周囲の書棚を見ていたら、これの原作だという狩撫麻礼(作)×いましろたかし(画)の同名のマンガが830円+税で売られていたので、購入して、待ち時間の間に全部読んでしまいました。
この原作のほうは、ちょっとコワモテだけどズッコケの軽みがいい感じの、とぼけた味を出し、毎回ラストがぶっ飛んでいるという、なかなか面白いマンガでした。
そこに描かれたあっち向いたりこっちゃ向いたりしているエピソードを、ひとつの物語につないでインテグレイトする難しさはわかるけれど、それが映画では必ずしもうまくいってないな、という気がしました。
原作にない要素を加えたところは、みんなダメだと思ったのです。
主人公権藤右近が水沼の娘と関係する性的な光景、現実に出てくる小判の山とそれにまつわる水沼の金銭欲みたいなもの、殺人、それから会長や水沼が掲げている右翼っぽい政治の理屈等々。こういうのは何かベタベタとべたつきを与えてしまいます。せっかくの軽みが現実的なべとつきで重くなってしまいます。このままだと、せっかく「リンダリンダリンダ」や「天然コケッコー」をつくったのに、「どんてん生活」や「ばかのハコ船」のようなところへ回帰しちゃうのかな、と危惧して観ていました。
たしかに右近と牛山の生きる場はごみ溜めのような世界で、彼らは汚くて不潔で本来ならべたもべたもベタベタな、軽みとは縁遠い、牛山の抑圧され貯め込んだ性的欲望やら、ちょっと頭がおかしいような自閉的な政治思想団体の中で軍人みたいな行動様式で肉体労働をして山の洞窟を掘り返してお宝さがしをしていて閉鎖的な秩序や義理や命令で縛られた窮屈な世界で生きているわけですが、その時代錯誤な、あるいは場違いな生きようが、ちょうど第三の同志済原ロボオのように過剰に重く、過剰に重いがゆえに始終他愛なくずっこけ、ずっこける姿が軽みとなって読む者の乾いた笑いを誘うようなところがあるのだと思います。
これが映画では少しべとついて重くなっているような気がしました。
配役はとてもよくて、マンガの右近、牛山、それに右近の弟左近のイメージはそれぞれ山田孝之、荒川良々、佐藤健がぴったりはまり役に見えました。ロボオもすごくよかった(笑)。とくに量子回路か何かで作動するらしい未来的ロボットのロボオが、ものすごく古典的な超重量級の体躯を持っているのが嬉しくなるほど良かった。まぁこれは原作に忠実なのですが。
そして、だからこそ、彼(ロボオ)が炎を上げて轟然と発進する素晴らしいシーンが生きてきます。何回かその素晴らしいシーンが出てきますが、見ていて惚れ惚れします。
小判もセックスも殺人もなくたって、新しいタイプのアウトサイダーのさりげない日常、どこか常識をずらしたところで、牛山のような世に容れられない者とのそういってよければ「友情」や、エリート商社マンの弟への肉親の情や、「会長」への共感を大事にしながら、ズッコケを繰り返している右近と周囲の一風変わった人たちの姿を淡々と描くだけで、彼らをアウトサイダーとしている秩序の側の骨格が露わに見えてくるような凄みが、乾いた笑いの中から生まれてくる可能性はあるのじゃないか、と妄想しながら見ていました。
刑事ベラミー 殺人単独捜査(クロード・シャブロル) 2009
シャブロルをもう一本見ていました。これはなかなか面白い作品です。いま見ても。
主人公は自伝まで書いているいまでは有名人の「ベラミー警視」。夫人と共にヴァカンスでニームへ来ているところです。ニュースで自動車事故で死人が出たというのをやっていて、冒頭にそれで事故死して黒焦げになって首のもげた人が映っていました。この事故の保険金が請求されていたが、死んだのは別人で、保険金詐欺を働いたらしいエミール・ルレという男は逃亡中とのこと。
このベラミーが妻とくつろいでいるところへ見知らぬ男がためらいながら接触を試み、興味をもったベラミーは男の宿泊するホテルを訪ねると、どうも人を殺した・・・のかもしれない、と重大にして曖昧なことをその男に告白されます。彼はジャンティと名乗るけれども、実は整形したエミール・ルレで、彼はベラミーを信頼して告白すると言い、たしかに保険金詐欺を企てたが、自分が手を下して男を殺したわけではなく、自殺願望を持ったホームレスの自殺を助けただけだ、というような話をします。彼の話には嘘も多くて眉に唾しながらベラミーは聴きます。
ベラミーはルレ夫人や、ルレの愛人だった足エステを職業にしているナディアに会ってそれぞれの話を聞き、ナディアがルレに協力してホームレスを殺そうと車で連れ出したこと、しかしナディアは途中で車を降りたこと、などを明らかにしていきます。
死んだホームレスは薬局の調剤助手だった賢い男で、ベラミーが書棚をつくる板を買いにいった店で働いていた女店員が好意を持っていたドニという男でした。でもドニは彼女と5年間交際しながら、何も言わずに出て行ったきりで、後日路上生活者となっている彼に再会して驚いた、と言い、彼には自殺願望はなかったと証言します。
こうしてひとつひとつ具体的な状況や人間関係があきらかになっていき、だんだんルレの証言どおり途中までは保険金詐欺で身代わりに死んでもらおうとして誘い出したのではあるけれど、途中でドニのほうが死にたいんだ、と言って運転をルレに代わって、自動車事故を引き起こして自殺したのだ、ということらしい、ということでベラミーも納得していくようです。ルレも出頭し、裁判ではブラッサンスの歌を法廷で歌った若い弁護士の試みも成功し、ルレは無罪になります。
では真っ白か、というとそうではなくて、べラミーが判決後に「ルレと愛人が騙したのかも・・・」と言い、妻が、どうしてそう思うの?と訊くと、「判決の時のルレの顔だ」と答えます。真相は藪の中です。
この映画は、犯罪映画、刑事もの、の体裁をとりながら、実際には犯罪の追及よりも、それをめぐる人間関係、死んだホームレスも、容疑者の側の男女も、また休暇中に捜査したベラミー警視とその妻、彼となにかと張り合う緊張関係にある弟も含め、その人間性、互いの関係を描いていくところに主眼があって、すっきりと犯罪の態様や犯人がこれだ、という形でわかるような作品ではありません。
そこがー「ヌーヴェル・バーグ」の監督の一人らしいこの監督の作品の「新しい」ところなのかもしれません。
この映画の一番の楽しみ、面白さは、ベラミーとその夫人との会話のおしゃれさです。夫婦でいつもこんな会話が交わせるなら、どんなに平凡にみえる日常でも、飽きることは無いでしょう。
夫のベラミー役は私のようにフランス映画を知らない人間でもその高名を知っていて、これまでも何だったか何本か彼の出演作を見たおぼえがある名優ジェラール・ドバルデューで、今回も抜群の演技力を見せています。こんなに不格好な中年男が、なんでこんなに魅力的にみえちゃうんだ、と思うような魅力をもっています。
妻のフランソワーズを演じたのはマリー・ビュネルという女優さん。この人もとてもチャーミングでした。
ベラミーは育った家庭がちょっと複雑だったようで、父親違いの弟ジャック・ルパーというのがいて、バカンス中のベラミー夫妻のところにやってくるのですが、なにかと兄貴につっかかるし、兄貴のほうも面倒はみながらも、この弟にはやさしくなれずに、喧嘩ばかりしています。
この兄弟の緊張した関係もこの作品のひとつの軸になっています。最後にジャックは一人で酒を飲んで車をとばして自殺同然の事故死をとげるのですが、そのあとでベラミーが妻に告白する幼いころの衝撃的な話がこの兄弟の関係と、ベラミーのこれまでの生き方を支えてきたもの、そして優しくもありコワイところもあるような大きな器であるような人間性を一挙に解き明かしてくれるようなところがあります。
この主人公ポール・ベラミーが、決して理想的な人間ではなく、理想的な刑事さんでもなく、きわめて人間的な悩みや欲望や嫉妬心や短気さ、トラウマ等々をかかえた、それいて柔軟で他者への卓抜した理解力、寛容、人間性への深い理解力をもった刑事として設定されているところが、この作品に広がりと深みを与えています。
担当刑事を出し抜く形で、休暇中の彼は容疑者のほうから接触してきたのを機に事件を明らかにしていきます。容疑者の話が嘘だらけだ、と見抜きながら、彼の言葉にじっくり耳を傾けます。また身代わりに殺されたとみられるホームレスについても、単なる犠牲者、単なるホームレスとして描くのではなく、DIY店の店員だった女性が好意をもつようなやさしい、いいひとだった人間として描いています。
一見犯罪映画、刑事もの、とみえるような体裁をとりながら、こうした事件にかかわりのある人間ひとりひとりにちゃんと光を当て、丁寧にその関係をときほぐし、各人の人間性や心理、夫婦関係、兄弟関係、恋人・男女の関係等々、周囲の人々との関りの中でうかびあがってくるそれらを優しい光の中に見せていく映画です。
ナイルの娘(ホウ・シャオシェン)1982
出町座の台湾シリーズで見てきました。4Kデジタルでの初上映だそうです。
侯孝賢の映画を見るのはずいぶん久しぶりです。この作品は今回初めて見ました。公開当時は不評で、監督自身も不満の残る作品のようだ、というようなウェブ上の記事を見ましたが、ちょっと違和感をおぼえたのはタイトルだけで(笑)、私は楽しんで観ました。
エジプトの少女が台湾に旅行に来て・・・みたいな話かと思って観たら、なんと日本のマンガ家細川智栄子の『王家の紋章』がこの「ナイルの娘」のことらしくて、中国語では「尼羅河女児」らしい。
「王家の紋章」なら書店で並んでいるのを見たことがありました。どうもこの映画の主人公の若い女性が、このマンガが好きで、そのマンガが描く古代エジプトの世界に空想の世界で入り込んで、ファラオに恋するみたいな妄想をしているらしい。最初と最後に古代エジプトの世界を描いたらしい壁画が出て来ます。でもまぁ、あまり中身と深い関係はない感じで、敢えて言えば彼女の生活の現実があるから、それとはかけ離れた空想の世界をいつも引寄せている女の子、ということになるでしょうか。
この作品で描かれるのは、主人公のシャオヤン(林暁楊)の家族の物語で、母は病で亡くなり、父親は別のところに住んで警官として働いていてたまに帰ってくるだけ。長兄は亡くなっています。次兄は家族にはやさしいけれど、泥棒稼業で、唯一彼が頭の上がらなかった長兄が死んだために、そういう影の世界に生きるような人間として成長していて、この映画の主舞台となる時空間では、ちょっとあやしげなバーみたいな店を経営して同じようなハグレモノの若者とつるんでいます。あと家族として祖父が一緒に住んでいます。
シャオヤンはマクドナルドで働きながら夜学に通い、家ではみなの食事の支度など家事を担い、小学生の妹の勉強をみてやっています。
次兄の仲間の一人で、シャオヤンも友達と海へみんなで遊びに行くのに車を借りたりして好感をもっていたらしい男がやくざの女といい仲になって、ヤクザに撃たれ、問題を起こすなと言われていたのに性分だから仕方がない、とやくざに仕返しをして殺してしまい、女と車で逃亡しようとして、結局自分も殺されてしまい、シャオヤンはあとでそれを聴かされます。
次兄の店は手入れを受けたりして、経営も立ちいかなくなり、閉店してしまいます。シャオヤンはこれからどうするの?と聞きますが、どうにかなる、とかどうにかする、とか生返事。預金を全部引き出せ、と言われ、シャオヤンはありったけ預金を引き出して次兄に渡します。次兄はその金で打った博打に大負けして行方不明に。シャオヤンは兄についての不吉な夢を見ます。
この間、警官である父親が撃たれて負傷し、家で介抱され、いがみあっていた次兄とも一種の和解めいたシーンもあります。けれども結局次兄は泥棒稼業に戻り、スパナを持って泥棒に入ったところをその家の住人にバットで反撃され、殴り殺されてしまい、そのことがラジオのニュースで流れる形で私たち観客も知るところとなります。
ドラマとしては、そういうストーリーを追うことになりますが、それ自体は台湾の地方都市の貧しい家庭の幸せもあり諍いもあり、みたいな平凡な庶民の暮らしの中で、家族の中では頼りにもなるいい兄貴であった、ちょっとぐれた次兄が不運もあって悪い方悪い方へ行ってしまって、悲劇的な結末を迎える、というだけで、それ自体特別に珍しい物語でも何でもありません。
私にとっては、この作品の最大の魅力は、そういうストーリーの展開よりも、それとともにそれらが起きる場として描かれる家族の光景で、それがとてもいいのです。
映像的にこれを表現しているのは、シャオヤンたちが暮らす家です。とても印象的なのは、カメラに近い方に、机に向かって勉強するシャオヤンの小学生の妹の姿を真横からとらえた映像で、彼女がシャオヤンを呼ぶとシャオヤンが妹の傍らに寄り添って勉強を教えてやります。或いは、妹が勉強する向こう側で食事の支度をしている光景が見られます。そして、その向こうに出入り口があって、そこから祖父が顔を出したり、出ていったり、また近所の人が顔を出したりします。
それは日本家屋の畳の部屋の奥行きを見せる構図や、真横にあるらしい玄関の前の廊下を通して向こうの台所を遠近法的な視野の内にとらえた小津の映像を連想させます。もちろん小津特有のローアングルの視角ではないけれど、画面の両側や桟の枠組みの向こうにつながる空間の奥行きを見せるような映像はどこか類似性を感じさせます。
そういえば、昔見たホウ・シャオシェンの「悲情城市」の映像にもそんな懐かしいような家屋の屋内空間の奥行を見せるようなのがあったな、と思い当たります。例によって記憶力の乏しい私のことですから思い違いかもしれないし、機会があれば確かめてみたいけれど・・・。
他方、考えてみると、欧米の映画を観て、こういう部屋続きを遠近法的なパースペクティブのもとでとらえて素敵だな、と感じたような映像が思い当たるかと言えば、私には思い当たるものがありません。大抵は或る出来事が起きるのは一つの部屋の中だし、もちろん居間と応接室とを往復するとか、隣の寝室へ行くとか、つながる部屋はあって、固定壁でない間仕切りを開けば二部屋続きの空間になる、というようなのをとらえる映像はいくらもあるけれど、それらはまったく別々の性質を持った部屋であるか、まったく同じ機能的な四角い箱をならべただけの空間であるかどちらかだという気がします。
これは木造の家屋だからなのか、或いはアジア的な家屋の特徴なのか、建築のこともよくわからない私にはわからないし、うまく言うこともできないけれど、部屋と部屋がつながっていて、個々の部屋がそれぞれ別の機能をもつ空間としての個性を主張しているというのではなく、同じようにみえるつながる部屋のそのつながり方自体がひとつの奥行きをもった構造として、そこで営まれる生活の場としての特徴的な光景をみせるといった趣があります。
理屈はさておき、誰でも、その映像を見れば、そこで暮らす人たちの生活と不可分な場としての空間であり、光景であることが理解できるし、ことに私たち日本人にはきっと幾分か懐かしいような感情とともに、理解できます。
それはコンクリートの四角い箱のように、別段だれだって家具を持ち込んで入れ替わるなら入れ替わって住んでも差し支えないような無機的な空間ではありません。言ってみれば、人と同じように生きて呼吸し、そこで暮らす人になじみ、その匂いを染み込ませ、様々な生活の汚れや傷を刻み、そこに暮らす人とともに歳を重ねていく、人の暮らしと切り離せない「場」としての住処なのです。
そういう台湾の家族の日常生活の光景を、人と人が生きる場と一体のものとして、懐かしく、切ない色合いで見せてくれる映像がそれだけで素敵だと思いました。
主人公のシャオヤンを演じたヤン・リンという女優さんは、アイドル歌手なんだそうですが、そんなこと知らずに見て、何の違和感もありません。魅力的な女性だけど、演技のへたくそなアイドルがアイドルというだけで起用して人寄せパンダにしたような、いわゆるアイドル映画とは全然違っているのはさすがにホウ・シャオシェン監督です。
それにしても台湾の人はこんなに煙草をよく吸うのかな(笑)。みんな座れば煙草の火をつけていますね。あと、小学生の妹が世話している白い子ウサギや、あと子犬が出てきたっけ・・・あれらがとても可愛いかった(笑)
藍色夏恋(イー・ツーイェン監督) 2002
これもホウ・シャオシェンの「ナイルの娘」につづいて、出町座の台湾シリーズで見てきました。やはり4Kデジタルで初上映なのだそうです。
「あいいろなつこい」と読むようですね。原題は「藍色大門」、英語のタイトルはBlue Gate Crossingというのだそうです。
爽やかな、ちょっぴり甘酸っぱい、切ないところのある青春もの、といっていいでしょう。
主役の女の子は、ちょっとボーイッシュな、中性的な印象の、爽やかで可愛い女の子、モン・クーロウで、これを演じたグイ・ルンメイ(桂綸鎂)という女優さんがすばらしかった。歩き方や自転車を走らせる姿でそのまま演技になっているような人でした。この女優さんはこの映画のために台北市の西門町でスカウトされた高校生なんだそうで、まったくの素人だっていうから驚きです。オーディションで2年間探しても適役がみつからなくて、やっと見いだされたのがこの女の子だったんだとか。
彼女は母親によれば「ガンコで・・・」という、ちょっと硬めの、男の子からみれば突っ張ったところのある女の子。リン・ユエチェンという親友といつもつるんでいるけれど、そのリンは、ちょっとカッコイイ男の子チャン・シーハオ君にぞっこんです。でも自分でコクる勇気がないリンは、親友の誼でとモンにチャンあてのラブレターを渡してくれと頼みます。
渋々引き受けたモンは、学校に内緒で夜のプールで泳ぐチャンにリンからのラブレターを渡します。ところが一緒に来たはずのリンは隠れて姿をあらわさず、チャンは本当はリンなんて子は居らず、モン自身のラブレターなのだろうと疑う始末。つとめてチャンにそっけなくしているモンですが、チャンのほうはモンに心を惹かれて、積極的にアプローチし、モンのアパートの前でモンの母親が作って売る餃子を毎日買いに寄ります。
結局チャンと頻繁に言葉を交わすことになったモンにリンは再度ラブレターを届けて、とモンに無理強いし、仕方なくモンは届けますが、その手紙はモンの名で書かれていたのです。そしてチャンの男友達が勝手にそのラブレターを学校のみなが見る床に貼り、モンはみんなから特別な目で見られることになり、怒り心頭です。
そんな若者らしい行き違いや友達との気持ちのずれや、色んなことがあって、モンは悩んだりもしますが、見ていて、これは友達の好きな男に友達のために近づいたら、ミイラ取りがミイラになって、自分が相思相愛になってしまって友達を裏切る結果になる、みたいなよくある話かな、と思っていたら、ラスト近くなってくると、この主人公モンが少なくとも今の段階では友人を裏切ってモンに惹かれていってそれっきり、というタイプではなかったことが分かってきます。
だんだんと積極的なチャンの良さに触れて、惹かれていくのはいくけれど、リンが大好きだし、リンが好きなチャンだから、自分が女の子ゆえに好きにはなれない、と考えてもいる。だけど感覚的にも女友達であるリンのほうが好きだと感じていることも事実で、そこが硬い、ボーイッシュな感じの彼女の印象によく合っていて、レズ的な感じで、すごく微妙だけれど、うまい設定だな、と思いました。
でも彼女の想いにリンはちゃんと応えてくれず、つれない態度をされて、モンはいわばリンにふられたような気持ちを味わうことになります。リンとも別れの時が来たのでしょうね。
ま、そんな風に色々あって、これから卒業してみんなそれぞれの道を歩み始めるわけで、モンはチャンに対して、いまは自分自身さえわからない、2年後、3年後、5年後にはわかるようになっているのかどうかも分からないけれど、「でもあなた(チャン)の2年後、3年後、あるいは5年後の姿は思い描けるような気がする」という意味の彼女のモノローグが、自転車を並べて走らせる二人の映像のバックに流れます。彼女の思い描く2年後、3年後、あるいは5年後の彼の姿は、彼女がおそらく女性としてはっきりと愛していると言えるような、成長した素敵なチャンの姿です。
モンがチャンと、どうかなってしまうことなく、いろいろと混乱を経験して、まだ自分で自分が見定められない思春期のただなかにあることを自覚するプロセスを経て、2年、3年、あるいは5年後の彼の姿を想う、という終わり方が、すごく切なく、爽やかで素敵でした。
こうやって色々ぶつかったり、行き違ったり、ちょっといい気分になったり、落ち込んだり、傷つけたり、傷ついたり、混乱して自問を繰り返し、堂々巡りし、自分で自分がわからなくなったり、そうして迷い彷徨をくりかえすのが、この思春期あるいは青春という時期でしょう。そういう彷徨の季節を実に爽やかに、切なく描いた作品でした。
ウィンド・リバー(テイラー・シェリダン監督) 2017
最初に、「事実にもとづく」という言葉が表示されます。
そして、初めは何も見えない真っ暗な映像に女声による詩的なモノローグがあって、深い雪の中で血を吐いて倒れ、死んでいる若い女性の姿が映ります。あとで彼女はこの作品の主人公であるハンターコリーの友人でもある先住民の娘ナタリーだと分かりますが、この時はどこのだれともわかりません。
次に画面が変わって、やはり雪の中で羊の群れを狙う数頭の狼、それを銃で撃つ男。・・・これら冒頭の映像や音声や文字が、映画を見終わると、あぁそういうことだったのか、とすべて甦ってきて意味がわかります。
これはアメリカのワイオミング州のウィンドリバーという先住民居住地区を舞台とする強姦殺人事件を追うFBIの女性捜査員ジェシー・バナーと、彼女の案内役を引き受ける地元で野生生物局のハンターとして狼やピューマのような家畜に害を与える猛獣の狩りなどをしている男コリーが協力して犯人たちを追い詰める話ですが、犯罪映画の形をとりながら、映画の作り手の狙いは、先住民居住地区で暮らす人々がこうした犯罪で殺されたり行方不明になるような苛酷な状況に置かれ、政府の保護からも置き去りにされている、という状況の指弾にあるようです。
話が進むにつれて分かるのですが、このハンターのコリーも、実は過去に最愛の娘を失っており、自宅からはずいぶん遠い場所で無惨な遺体でみつかったのだけれど、どういう経緯で誰に殺されたのか、あるいは殺人でなくても、攫われたことは確かなので、極寒の雪山や雪原を息切らして走って逃げたりしたら、冒頭に出てくる女性のように、肺胞が爆発して血を吐いて死ぬのだそうで、追い詰められれば殺人でなくても殺されたと同じ状況になるわけで、そうした事情だったのかどうか、それも分からない。そういうトラウマを抱えた主人公が、深い雪に閉ざされた先住民族居住地の事情など何もしらない新米の女性捜査官を援けて犯人を追い詰めていく物語。冒頭に読み上げられる女声での詩的な言葉はコリーの亡くなった娘エミリーの書いた言葉だったことが後でわかるようになっています。エミリーと、今回の事件で殺された女性とが冒頭で重ね合わされて登場させていたわけです。
エミリーの面影が登場するもう一つのシーンは、FBIのジェーンが防寒着も用意せずに駆け付けたためにコリーと捜索に行くのに、コリーの義母から防寒着を借りる場面があります。義母が、孫のだから帰ってきたらすぐに返してね、とわざわざ言います。その孫とは亡くなったエミリーです。だから、ジェーンがエミリーの青い防寒着を着てさあ行こうと家から出て来たとき、それを見たコリーが、一瞬その姿に、あ、というように見入るシーンがあります。当然コリーには彼女の姿が一瞬エミリーのように見えたでしょう。
実際、その後の犯人を追い詰めていく困難な過程の中で、コリーはジェーンを娘のように保護し、優しい父親のようにあたたかく接し、守ります。最初はずいぶん年齢差はあるけれど、この両主役のあいだに男女の愛情のようなものが芽生えるのかな、と思っていましたが、そうではなかった。父親と娘という関係を重ねていたんですね。とても周到にしつらえられた設定でした。
ハンターのコリーはピューマや狼を追い詰めるように犯人たちを追い詰めますが、それは冒頭の、羊の群れを狙う狼を狙撃するシーンと重なり、犯人たちとの銃撃戦のときに、冒頭のシーンが連想されてリフレーン効果を発揮するようなところがあります。このへんはなかなか心憎いつくりになっています。
冒頭に述べたようなこの作品のメッセージ性は、ラストに明確に言葉で、先住民居住地区で行方不明になった人で捜索さえされずに見つからないまま放置されている人がどれほど多いか、つまりいかに先住民がないがしろにされ、法や行政のサービスや人々の関心の外部でいまだに置き去りにされているかを指弾しています。
犯人を追い詰め、激しい銃撃戦が展開されるシーン、ナタリーの死に至る経緯が再現される場面など、手に汗握るところがあって、エンターテインメント性においてもサスペンスもスリルも満点の映画ですが、やはり監督のメッセージ性を孕んだシリアスなテーマが骨格にあって、見ごたえのあるハードな作品になっています。
クリシーの静かな日々(クロード・シャブロル監督)1990
ヘンリー・ミラーの自伝的短編を映画化したものだそうで、舞台は第二次戦争前、19030年代半ばのパリで、ミラーの若き日らしいアメリカのボヘミアン気取りの青年作家ジョーイが、パリへ「プルーストの研究のために」出て来て、頽廃的な生き方では少し先輩格にみえる自分と同類の若い写真家カールと出会い、ともに娼婦館に入り浸り、酒に溺れ、またジョーイが15歳の美少女コレットに心を奪われるといった姿を描いた作品で、全裸の少女を傍らに侍らせた、もうほとんど死を間近に控え、ベッドに横たわる年老いたジョーイの姿を冒頭とラストに見せて、この物語全体がこの老人の回顧であることを明示する額縁を与えています。
ヘンリー・ミラーは「南回帰線」や「北回帰線」を二十代のころ読んで、爆発的なエネルギーをもった作家という印象を持ちました。それまでなじんできたような、フォークナーなどのような緻密な文体やかっちりした構成をもった作家とは全然異なるタイプの、一見滅茶苦茶だけれど、ひとつひとつの言葉がはじけ、ひとつひとつの描かれるシーンが目が眩むような閃光を発して、性であれ生活のルールであれ、あらゆる既存の因習や約束事を彼個人の肉体と精神の暴力的な欲望の強さでぶっとばしながら、その行為自体がなにか求めて得られない絶対的なものを限りなく求める叫びのようにも聞こえ、圧倒的なエネルギーの爆発を見せながら、その姿は孤独で、泣き叫ぶ赤子のように無垢で聖的な姿にも見えてくる、不思議な作家でした。
この映画の原作となった彼の自伝的短編というのは読んでいないと思うので、どういうものか知りませんが、南回帰線など読めばおよその見当はつきます。しかし、この映画は、ヘンリー・ミラーの作品が持つあの圧倒的なエネルギーの凝縮は感じられません。あれだけの孤独の深さも、芸術への絶対的な希求の深さも、とてつもない欲望の激しさも、したがって聖性も感じられません。
ただ、ミラーにもたしかにあったボヘミアン的な気質、世の既存の因習やありきたりの考え方にとらわれない放蕩の精神が戦争直前の頽廃のパリの空気に吸い寄せられ、その毒をたっぷりと吸いながら彷徨する光景を描いているだけだと思います。
一部の好事家を引寄せるかもしれない「無修正」と銘打った美しい裸身を見せてくれる少女(写真家のカールが被写体に使っている)というのは、そういう汚辱にまみれた沼の中で彼らが見ようとする一輪の美しい蓮の花の幻想のようなもので、ミラーの絶叫が求める絶対的なもの、聖的なもののミニアチュアみたいなもので、現実の少女の肉体も精神も、わが主人公たちと何ら現実的なかかわりをもつものではないので、そこにいかなるドラマも生じようがなく、ただミラーのような圧倒的なタフネスを備えていないインポテンツなボヘミアンの弱い心が咲かせる幻想の花に過ぎないようです。
作品の中で、コレットの両親がジョーイとカールを訪ねて来て、娘がここにいるのか、いったいどういうつもりなのか、と問いただし、場合によっては警察に届けねばならない、というところがあります。ところが、やりとりしている中で、ジョーイがプルーストの研究をしていることがわかると、コレットの父親は俗物らしく、実は彼らの家がプルーストの実家の向いにあると言い、プルーストの研究者のような方なら人格高潔な方に違いない、と態度を豹変させます。まぁこういうところは見ていて笑えます。
また、ジョーイとカールが身近に爆弾テロの現場に居合わせたり、ナチスの鉤十字を掲げたデモや、警官隊の規制に遭遇したりする中で右往左往する姿も描かれていて、戦争直前のパリの光景が垣間見えるところも興味をひくところではありました。
けれども、原作者のミラー自身が作品でそういう政治ー社会的な背景を描くような作家ではなかったと思いますし、この映画でもそんな背景はただ時代を物語る風景として登場するだけで、ジョーイやカールの生き方や思想とからめて深掘りされるようなところはありません。
今回レンタルビデオ屋でこれを借りて来たのは、(別段「無修正」版だからではなくて・・・笑)、シャブロルという監督が、日本の映画作家も強い影響を受けたらしいフランスのヌーヴェル・ヴァーグの巨匠たちのうちの一人ということらしいので、これから少しそういう昔の作品を拾ってみてみようかと思っていた矢先にたまたま見つけたので借りて来た次第です。
やたら、ヌーヴェル・ヴァーグだのニュー・シネマだの「新」をつけたがるのは日本でも外国でも同じなのでしょうが、私自身は若いころに小説で流行したヌーヴォー・ロマンの翻訳を或る程度読んで、どれもこれもつまらなくて仕方がなかった経験があるので、もともと映画を娯楽としてたまにしかみていなかったうえに、とりわけ「おニュー」だとか、その種の名を冠して紹介されていたらしい映画のほうはまったく観ようともしてこなかったので、あらためて半世紀たったいま見てみたらどんなふうに感じられるものか、といった個人的な興味をもっているようなわけです。
もう「おニュー」どころか、「お古」もいいところなのですが、いまだに神様扱いするような評論家も少なくないし、少しずつ見て行けば、それがその当時どんな意味でどのていど「おニュー」だったのか、そして、いま彼らが付け加えた付加価値になお意味があるかどうか、といったことも興味深くはあります。
いまさら映画史のお勉強をするつもりはないので、ただ日々の娯楽の一つとして、そういう楽しみ方も面白かろうと考えているだけなので、気ままに寄り道しながら楽しんでいきたいと思っています。
そういう意味で今回のシャブロルさんの作品は、底の浅いもののように、私には感じられました。
愛より強く(ファティ・アキン監督) 2004
監督はトルコ系ドイツ人だそうで、この映画もドイツ・トルコ合作です。舞台もハンブルクとイスタンブールです。この監督の映画を観るのは初めてだったと思いますが、非常に見ごたえのある映画でした。主演のシベル・ケキリという女優さんが非常に魅力的でした。
これは心に深い傷を持つ男と、トルコのイスラム宗教の拘束がきつい家庭から自由を求めて脱出を試みる女性との出会いと偽装結婚のはずが次第に本当に愛するようになる(そのこと自体はありふれた話ですが)男女の切ない大人の恋の物語です。
ずっとあとになって分かるのですが、愛妻を亡くし、工場の清掃員などしながら孤独で荒んだ生活をしているトルコのメルシン出身の男ジャイトが、自殺願望を持っていて車をブレーキもかけず壁に激突させて病院に運びこまれ、回復してきたころに、同じ病院にいたトルコのゾングルダック出身の、シベルというチャーミングな女性に、私と結婚して、といきなり頼まれます。
もちろんジャイトは相手にせず拒みますが、彼女は実家がイスラムの厳格な戒律で窒息しそうで、両親や兄にその行動を支配されるような日々から脱出しようとして失敗してリストカットをして病院にいたのですが、同じトルコ系の男性なら家族も結婚を認めるだろうし、偽装結婚して家族の軛から逃れようと謀ったわけです。
はじめは拒否していたジャイトですが、結局この女性を助けるために偽装結婚を承諾し、「叔父」役の知人にも協力してもらって、シベルの家族の疑いの目をクリアして偽装結婚を果たします。けれども偽装結婚はあくまで偽装結婚で、互いの生活には干渉せず、あいかわらずジャイトはごみためのような部屋で酒とたばこ、愛人との関係にと自堕落な生活に明け暮れ、シベルもまた自由な生活を満喫しています。
ところが、実は次第に二人は惹かれ合っていく。シベルはあるとき部屋を綺麗に掃除し、結婚のために貯めていた費用をはたいて必要な家具を入れ、新婚家庭のようにきれいな室内に一変。料理の腕もふるって、印象が変わってきます。ジャイトのほうも無精髭をさっぱり刈って男前に。ジャイトはセックスフレンドの美容院の女に口をきいて、シベルは美容院で即戦力になり、働き始めます。
あるときジャイトとシベルは部屋で楽し気に踊っていて、踊りに行こう、とダンスホールへ行きますが、踊っている最中に、シベルはほかの男に声をかけられ、「彼と寝てくるわ」とジャイトに言い残して出ていきます。取り残されたジャイトの何とも言えない表情。彼は帰って部屋で飲みながら荒れています。それでも自分が投げ捨てたビールの空き缶を拾い集めて片付けるジャイト。
そんな場面が幾つも積み重ねられて、自然に二人が本当は愛し合うようになってしまったことが分かります。それでも二人はセックスだけはしないで、それぞれほかの異性とセックスして偽装結婚という形を守り続けます。
そんな或る日、ダンスホールみたいなところでシベルにからむトルコ人と殴り合い、袋叩きになったジャイトをシベルが介抱しているとき「あなたのことをいまも知らない」とシベルが言い、二人は初めて抱き合います。ところがシベルは、いざというときに及んで「ごめんなさい。やっぱりできない。本当の夫婦になってしまう。」と言い、一つにはなりません。
けれどもそのシベルも、美容院の女が「私も彼と寝てるのよ」と言ったとたん、店を飛び出していきます。彼女ももう彼を心から愛してしまったのです。
前にシベルが寝た、ニコという男が、今回はシベルに手厳しく拒まれた苛立ちから、酒場のカウンターで背を向けて飲んでいるジャイトに絡みます。女房が誰とでも寝ているのに云々。黙って飲んでいたジャイトがいきなり瓶かなにか握って、ニコの頭を力任せに殴り、ニコが死んでしまい、彼は刑務所で服役する身となります。
シベルは家族の名誉を怪我したと怒って迫る兄の手を逃れて、偽装結婚に協力してくれた「叔父」役をした男のところに逃げ込みますが、彼は、ジャイトを想うなら消えてくれ、と言われます。
彼女は刑務所へ面会に行き、ジャイトを待つと言い、ずっと彼女の味方だったイスタンブールの従姉セルマを頼って行き、ホテルの清掃の仕事などして暮らしはじます。でも、孤独と淋しさに耐えられず、ドラッグに溺れていき、彼女を支えてくれたセルマにも抗って悪態をついて、出ていき、それからは阿片と酒浸り。或る時路上でからまれた3人の男たちに逆にしつこく絡み返してとうとう刺されてしまいます。観客には彼女は死んでしまったのか、と思わせるような場面ですが、タクシーの運転手が倒れている彼女をみつけます。
時は経ち、ジャイトが刑務所を出所する日がきました。「叔父」役だった友人が迎えにきてくれて乾杯。ジャイトはイスタンブールへ行く、と言い、友人はかれのためにためたんだ、と金を渡してやります。
ジャイトはイスタンブールでかつてシベルが刑務所の彼に手紙を出したセルマのホテルを訪ね、セルマに会って、彼女に会わせてくれ、と言いますが、セルマは、彼女にいまは愛する夫と娘がいて幸せにしているから会わせることはできない、と言います。しかし、ジャイトは、君に何がわかる!と怒り、シベルはかつて「死んで」いた自分に愛と生きる力をくれたんだ、君に俺の想いがわかるか?君に邪魔できるのか?と言い募ります。
セルマは、彼女の人生を壊してもいいの?と問いかけます。ジャイトは、一瞬たじろぎ、それはできない、と答えます。
ホテルで悪夢にうなされていたジャイトに、シベルから電話がかかります。いまは話せない。いつまで居るの?と訊くシベルに、君と会えるまで待ち続ける、とジャイト。
シベルは夫が2日間留守だ、とセルマのところに子供を預け、理性を失わないでね、というセルマに、もう失っていると言い残してジャイトの泊まっているホテルに赴き、抱き合います。
これからどうするの?というシベルにジャイトは生まれ故郷のメルシンへ行く、俺と行かないか?と誘います。テラスの向こうに広がるイスタンブールの街並みを眺めながら、シベルは返事をせず、「またベッドへ・・」と誘い、再びベッドで抱き合う二人です。
ジャイトは翌日正午に発つから、バス停で待っている。君と娘と3人で行こう、と言ってこの日は別れます。
シベルの自宅の一室。荷づくりをするシベル・・・でもまだ迷い、悩んでいます。その耳に、別室であそぶ夫と子供の交わす愉し気な声が聞こえています。
画面かわって、バス停でひとり待つジャイト。バスに乗り込み、窓の外に来るべき人影をさがします。でも彼女は現れず、バスは動き出していきます。
ここで、冒頭とこの作品の節目節目に登場する演奏家6人とボーカルの女性が登場して歌います。
遠い山のかがり火が揺れている
きらめく光の上を 空高くハヤブサが舞う
命がけで愛し 愛を失った者は
私のように 魂を失うのか・・・
演奏家たちの後ろは川、その向こう岸にはイスタンブールらしい都市の光景が広がり、トルコ風の大きな寺院の屋根が見えています。この演奏隊は何度も現れるのですが、とても面白い。或る意味でこの物語りの「語り手」でもあるかのようです。
一通りのきれいごとの恋ではなく、激しいけれど成就しない恋です。偽装結婚という当初の契約を守るために決して当人どうしがセックスしようとしないで、ほかの異性とは「自由に」セックスを享楽し、そのくせ次第に本気で惹かれていって、それでも最初にとりきめた戒律を無理に守ろうとするために、ますます思いは募り、激しく燃え立ち、苛立ちもし、求めあいながらそんな自分を拒むような、切ない恋の様相を呈していく、この特異な設定がよく生かされています。
女が偽装結婚という突拍子もないことを全く赤の他人だった男に懇願する背景に、トルコの厳格な戒律にしばられるイスラム教の家庭があって、そこから「自由になりたい」ゆえだ、という形で、非常に説得力のあるストーリーになってもいます。また、はじめはそんな女を相手にしない男が、妻を亡くして深く傷ついたまま心を閉ざした男だというのも納得のいく設定です。
お互いに愛し合っていることを確認し合う瞬間と男がからんだやつを殺してしまう時と重なって、壁の中と外と、長期間の別離を強いられます。男が刑務所を出るまで女が自分を強く持って待ち続けることができたら問題はなかったのでしょうが、女は孤独と寂寥に耐えられず麻薬に溺れてしまう。なんとか命は助かったけれど、新しい家庭を持ち、子を生んで、もう過去の男が立ち入ることのできない世界を作り出しています。でも男は女をあきらめることなどできません。女もまた胸の底に秘めてきた思いがすぐに甦ってくる。けれども目の前に自分も居れて幸せな家庭を築いている夫の姿、子供の姿がある。・・・・
破れ太鼓(木下恵介監督) 1949
文博のフィルムシアターで見てきました。
たたき上げの土建屋のワンマン社長にして、妻には関白亭主、子どもたちにとっては家庭内の絶対君主で頑固者の父親である男津田軍平と、その家族との緊張関係の中でのやりとりを、長男の独立と長女の結婚を軸に描くコミカルな家庭劇。
登場人物たちの個性、立ち居振る舞いすべて誇張され、誇張のおかしさを狙っているのはわかるけれど、喜劇的なものの要素をただ定型的な誇張にしか求められないことが、いかにも古臭い、という印象を今見れば与えてしまうようです。
こういう旧弊な父親やそれに従順な家族みたいな人たちは、映画が作られた戦後すぐの時代であっても、もはや時代遅れと思われていたはずですが、そういう意味での時代遅れな人間、古臭い考え方や行動様式を持つ人間というのは、他の監督の作品にも多々登場するでしょうし、私が先日見た溝口の作品の旅芸人一座の座長のおやじさんなども、そんな旧弊な人間でした。でも溝口の作品に古臭い、という印象はありませんでした。小津の作品でも子どもたちを頭ごなしに叱りつける旧弊な父親や、ひどい場合は嫁さんを階段から突き飛ばすような男が居なくはなかったと思いますが、だからその作品が古臭いとは思いません。登場人物がどんなに旧弊な考えをもち、どんな旧弊な行動をとっていても、それが直ちに作品自体の古臭さにはなりません。
描かれた人物の旧弊さと、描いた作品の旧弊とは別問題です。
ではなぜ、どこが古臭いと感じる作品と、そうは感じない作品との違いなのでしょう?
いますぐに適切な答を持っているわけではないけれど、ごく凡庸な答えを探せば、やっぱり人間の描き方の深浅なんだろうなと思わざるを得ません。「破れ太鼓」の軍平も、貧しい中で苦労し、成りあがってきた人物で、その過去の幾つかの場面が彼自身の回想で掲げられもします。しかし、それは「おれはこんな苦労をしてきたんだぞ」という「苦労」の外面、外形的なものが示されるにすぎず、その「苦労」が人間的な経験として彼のいまの人間性に加えて来たはずの重み、人間としての味のようなものとして感じられるかといえば否と言わざるを得ません。
そこにあるのは、単なる概念、定型(パターン)としての「頑固おやじ」でしかないようです。
主演の父親役は阪東妻三郎ですが。この名優も、この役柄はミスキャストではないか、と思いました。この役柄だともっと骨太なところ、太っ腹なところがないとまずいと思いますが、そういう意味での巨きな器の感じられる人ではなく、阪妻はもっと繊細で小心な印象が強い。「無法松の一生」のイメージが強すぎるのかもしれませんが・・・
案外良かったのが、まだ若い宇野重吉、長女が好意をもつようになる画家を演じています。年取ってからの宇野重吉はなんだか臭い芝居をして好きではなかったけれど、この作品での彼は全体がひどいせいか、のほほんとしたとぼけた地の味が役柄によくフィットしていたと思います。
それにしてもその宇野重吉の演じた画家の両親、パリで出会って恋愛結婚し、いまだにパリ時代の想い出にうつつを抜かして生きている二人(妻はいつもパリの風景を描く画業、夫はそのそばでバイオリンを弾く)の、それこそ歯の浮くようなセリフやありようにはちょっと閉口しました。
木下監督と言えば日本映画の巨匠の一人で、生身の彼を描いて少し評判になった映画も先だって公開されて見た覚えがありますが、こんな映画をつくる人だったのかな、とちょっとがっかりしています。*
(* 勘違いしていて、きょうふっと思い出しました。たしか「二十四の瞳」の監督さんでしたね。あれは良かった・・・高峰秀子が・・・笑)
ハード・コア(山下敦弘監督) 2018
出町座で上映した比較的新しい映画です。実は上映開始の30分近く前に着いたので、カフェの周囲の書棚を見ていたら、これの原作だという狩撫麻礼(作)×いましろたかし(画)の同名のマンガが830円+税で売られていたので、購入して、待ち時間の間に全部読んでしまいました。
この原作のほうは、ちょっとコワモテだけどズッコケの軽みがいい感じの、とぼけた味を出し、毎回ラストがぶっ飛んでいるという、なかなか面白いマンガでした。
そこに描かれたあっち向いたりこっちゃ向いたりしているエピソードを、ひとつの物語につないでインテグレイトする難しさはわかるけれど、それが映画では必ずしもうまくいってないな、という気がしました。
原作にない要素を加えたところは、みんなダメだと思ったのです。
主人公権藤右近が水沼の娘と関係する性的な光景、現実に出てくる小判の山とそれにまつわる水沼の金銭欲みたいなもの、殺人、それから会長や水沼が掲げている右翼っぽい政治の理屈等々。こういうのは何かベタベタとべたつきを与えてしまいます。せっかくの軽みが現実的なべとつきで重くなってしまいます。このままだと、せっかく「リンダリンダリンダ」や「天然コケッコー」をつくったのに、「どんてん生活」や「ばかのハコ船」のようなところへ回帰しちゃうのかな、と危惧して観ていました。
たしかに右近と牛山の生きる場はごみ溜めのような世界で、彼らは汚くて不潔で本来ならべたもべたもベタベタな、軽みとは縁遠い、牛山の抑圧され貯め込んだ性的欲望やら、ちょっと頭がおかしいような自閉的な政治思想団体の中で軍人みたいな行動様式で肉体労働をして山の洞窟を掘り返してお宝さがしをしていて閉鎖的な秩序や義理や命令で縛られた窮屈な世界で生きているわけですが、その時代錯誤な、あるいは場違いな生きようが、ちょうど第三の同志済原ロボオのように過剰に重く、過剰に重いがゆえに始終他愛なくずっこけ、ずっこける姿が軽みとなって読む者の乾いた笑いを誘うようなところがあるのだと思います。
これが映画では少しべとついて重くなっているような気がしました。
配役はとてもよくて、マンガの右近、牛山、それに右近の弟左近のイメージはそれぞれ山田孝之、荒川良々、佐藤健がぴったりはまり役に見えました。ロボオもすごくよかった(笑)。とくに量子回路か何かで作動するらしい未来的ロボットのロボオが、ものすごく古典的な超重量級の体躯を持っているのが嬉しくなるほど良かった。まぁこれは原作に忠実なのですが。
そして、だからこそ、彼(ロボオ)が炎を上げて轟然と発進する素晴らしいシーンが生きてきます。何回かその素晴らしいシーンが出てきますが、見ていて惚れ惚れします。
小判もセックスも殺人もなくたって、新しいタイプのアウトサイダーのさりげない日常、どこか常識をずらしたところで、牛山のような世に容れられない者とのそういってよければ「友情」や、エリート商社マンの弟への肉親の情や、「会長」への共感を大事にしながら、ズッコケを繰り返している右近と周囲の一風変わった人たちの姿を淡々と描くだけで、彼らをアウトサイダーとしている秩序の側の骨格が露わに見えてくるような凄みが、乾いた笑いの中から生まれてくる可能性はあるのじゃないか、と妄想しながら見ていました。
刑事ベラミー 殺人単独捜査(クロード・シャブロル) 2009
シャブロルをもう一本見ていました。これはなかなか面白い作品です。いま見ても。
主人公は自伝まで書いているいまでは有名人の「ベラミー警視」。夫人と共にヴァカンスでニームへ来ているところです。ニュースで自動車事故で死人が出たというのをやっていて、冒頭にそれで事故死して黒焦げになって首のもげた人が映っていました。この事故の保険金が請求されていたが、死んだのは別人で、保険金詐欺を働いたらしいエミール・ルレという男は逃亡中とのこと。
このベラミーが妻とくつろいでいるところへ見知らぬ男がためらいながら接触を試み、興味をもったベラミーは男の宿泊するホテルを訪ねると、どうも人を殺した・・・のかもしれない、と重大にして曖昧なことをその男に告白されます。彼はジャンティと名乗るけれども、実は整形したエミール・ルレで、彼はベラミーを信頼して告白すると言い、たしかに保険金詐欺を企てたが、自分が手を下して男を殺したわけではなく、自殺願望を持ったホームレスの自殺を助けただけだ、というような話をします。彼の話には嘘も多くて眉に唾しながらベラミーは聴きます。
ベラミーはルレ夫人や、ルレの愛人だった足エステを職業にしているナディアに会ってそれぞれの話を聞き、ナディアがルレに協力してホームレスを殺そうと車で連れ出したこと、しかしナディアは途中で車を降りたこと、などを明らかにしていきます。
死んだホームレスは薬局の調剤助手だった賢い男で、ベラミーが書棚をつくる板を買いにいった店で働いていた女店員が好意を持っていたドニという男でした。でもドニは彼女と5年間交際しながら、何も言わずに出て行ったきりで、後日路上生活者となっている彼に再会して驚いた、と言い、彼には自殺願望はなかったと証言します。
こうしてひとつひとつ具体的な状況や人間関係があきらかになっていき、だんだんルレの証言どおり途中までは保険金詐欺で身代わりに死んでもらおうとして誘い出したのではあるけれど、途中でドニのほうが死にたいんだ、と言って運転をルレに代わって、自動車事故を引き起こして自殺したのだ、ということらしい、ということでベラミーも納得していくようです。ルレも出頭し、裁判ではブラッサンスの歌を法廷で歌った若い弁護士の試みも成功し、ルレは無罪になります。
では真っ白か、というとそうではなくて、べラミーが判決後に「ルレと愛人が騙したのかも・・・」と言い、妻が、どうしてそう思うの?と訊くと、「判決の時のルレの顔だ」と答えます。真相は藪の中です。
この映画は、犯罪映画、刑事もの、の体裁をとりながら、実際には犯罪の追及よりも、それをめぐる人間関係、死んだホームレスも、容疑者の側の男女も、また休暇中に捜査したベラミー警視とその妻、彼となにかと張り合う緊張関係にある弟も含め、その人間性、互いの関係を描いていくところに主眼があって、すっきりと犯罪の態様や犯人がこれだ、という形でわかるような作品ではありません。
そこがー「ヌーヴェル・バーグ」の監督の一人らしいこの監督の作品の「新しい」ところなのかもしれません。
この映画の一番の楽しみ、面白さは、ベラミーとその夫人との会話のおしゃれさです。夫婦でいつもこんな会話が交わせるなら、どんなに平凡にみえる日常でも、飽きることは無いでしょう。
夫のベラミー役は私のようにフランス映画を知らない人間でもその高名を知っていて、これまでも何だったか何本か彼の出演作を見たおぼえがある名優ジェラール・ドバルデューで、今回も抜群の演技力を見せています。こんなに不格好な中年男が、なんでこんなに魅力的にみえちゃうんだ、と思うような魅力をもっています。
妻のフランソワーズを演じたのはマリー・ビュネルという女優さん。この人もとてもチャーミングでした。
ベラミーは育った家庭がちょっと複雑だったようで、父親違いの弟ジャック・ルパーというのがいて、バカンス中のベラミー夫妻のところにやってくるのですが、なにかと兄貴につっかかるし、兄貴のほうも面倒はみながらも、この弟にはやさしくなれずに、喧嘩ばかりしています。
この兄弟の緊張した関係もこの作品のひとつの軸になっています。最後にジャックは一人で酒を飲んで車をとばして自殺同然の事故死をとげるのですが、そのあとでベラミーが妻に告白する幼いころの衝撃的な話がこの兄弟の関係と、ベラミーのこれまでの生き方を支えてきたもの、そして優しくもありコワイところもあるような大きな器であるような人間性を一挙に解き明かしてくれるようなところがあります。
この主人公ポール・ベラミーが、決して理想的な人間ではなく、理想的な刑事さんでもなく、きわめて人間的な悩みや欲望や嫉妬心や短気さ、トラウマ等々をかかえた、それいて柔軟で他者への卓抜した理解力、寛容、人間性への深い理解力をもった刑事として設定されているところが、この作品に広がりと深みを与えています。
担当刑事を出し抜く形で、休暇中の彼は容疑者のほうから接触してきたのを機に事件を明らかにしていきます。容疑者の話が嘘だらけだ、と見抜きながら、彼の言葉にじっくり耳を傾けます。また身代わりに殺されたとみられるホームレスについても、単なる犠牲者、単なるホームレスとして描くのではなく、DIY店の店員だった女性が好意をもつようなやさしい、いいひとだった人間として描いています。
一見犯罪映画、刑事もの、とみえるような体裁をとりながら、こうした事件にかかわりのある人間ひとりひとりにちゃんと光を当て、丁寧にその関係をときほぐし、各人の人間性や心理、夫婦関係、兄弟関係、恋人・男女の関係等々、周囲の人々との関りの中でうかびあがってくるそれらを優しい光の中に見せていく映画です。
saysei at 23:12|Permalink│Comments(0)│
2019年01月22日
文博・出町座のはしご
丸太町橋の中央から北山方向の眺め。寒いけどいい天気なので、丸太町橋までは家から歩いたのです。午前中リハビリで相当痛い目に遭って疲れてしまったけれど、疲れを直すには娯楽としての映画に限る(ぼやっと椅子に座って見てればいいから・・笑)、とそのまま映画のハシゴをしました。
少し西へ寄って北東の比叡が見える景色。北山と比叡の斜面に雪が残っているのがわかります。
これ、文化博物館のロビーに立っていた文博ゴジラ君。
このポスターにあるKyoto Art for Tomorrow 2019 の宣伝用の、作品の複製だったようです。今日は時間がなくてその会場は覗けませんでしたが・・・私は、フィルムシアターでの「破れ太鼓」(木下恵介監督)を見に行ったのでした。
映画の前の昼食はイノダで、ミックスサンドイッチ・セット。1,400円と昼にしては、少し値は張るけれど、まちなかのことだし、美味しくてボリュームもたっぷり。パートナーもあのサンドイッチの塩味のハムが好きなようです。野菜サンドもタマゴサンドもすごく美味しい。イノダはいつきても安心。
文博から歩いて三条寺町の角、三嶋亭で頼まれた牛すじを買い、すこし寺町を下がってから富小路まで戻り、ウィークエンダーズでコーヒー豆を買い、高島屋へ。つい富小路を下がったので、四条へ出るところでついまたジュンク堂へ寄って読めるかどうかわからない文庫本を数冊買ってしまった・・・
高島屋の地階でフォーションの食パン6枚切り、ミニ葡萄パン、クロワッサン、メガネパンを少々。
あとはバスに乗って出町で降りて、出町座へ。これは出町座の表のポスター群。
きょうのお目当ては山下敦弘監督の「ハード・コア」。感想はのちほどまとめてのことにしますが、今回は見る人の楽しみより作る人の楽しみを優先されたのでは?(笑)撮影に高木風太さんの名を見るのはなんとなく嬉しい。
きょうは昼を食べた後で、夕食は自宅でとることになっていたので、食べなかったけれど、台湾映画の特集をやっているこの時期、館内のカフェで日替わりメニューとして台湾料理を出しているのも、いいなぁ、と思いました。きょうは自家製ミックスジュースを飲んだだけでしたが、機会があれば台湾料理も食べてみたい。
帰りの出町柳への橋から見ると、月が真ん丸。
きょうもいい一日でした。
saysei at 22:01|Permalink│Comments(0)│
2019年01月20日
手当たり次第に XXX ~ここ二、三日みた映画
今回は出町座でみた映画もレンタルビデオもごっちゃまぜ。先ほどまで見ていたやつの感想も思いつくままに。
生きてるだけで、愛。(関根光才監督)2018
私としてはめずらしく、とれたてホヤホヤの映画の感想です。出町座でやってくれたので、昨日、夕方から寒い中を見てきました。
出町座のホールは小さいせいもあるけれど、ほぼ満員で、それもほとんどが若い女性か若いカップルで、おじいさんとしては前後左右を若い女性に挟まれた狭い席で、なんだか自分のような年齢の者が立ち入るべきではない場所へ来てしまったような戸惑いがありました。
パートナーに訊いてみると、いま若い女性にタレントで誰が好き?と訊くとたいていが菅田将暉と答えるんだそうです。私は読み方も知らずに直虎のときも、「すがた」あるいは「すげた」だろうか「かんだ」だろうかなんて思っていたら、「すだ」と読むらしいですね。とにかくこの客層はどうやら「菅田将暉効果」らしいです。
でも見た結果は、この作品自体の力で見る者の胸に訴えてくる、いい作品でした。
やっぱり第一に挙げなくてはならないのは、主人公の過眠症で鬱の、若い女性寧子を演じた趣里の熱演でしょう。
実は私がこの映画を観たいと思ったのは、もちろん菅田将暉のせいではなくて(笑)趣里が主役を張る映画だったからです。趣里を知ったのは、ずっと見ていたテレビドラマ「ブラックペアン」の強い癖のある看護婦を演じているときで、この女優さんは、きっとこれから大活躍するに違いない、と思っていたので、主役をやるというので喜んで見に行きたいと思ったのです。その期待どおりの演技で、この映画の魅力、強さの肝心なところは、彼女が支えていると思いました。
主人公の寧子は、設定は20代の半ばにさしかかったところでしたか、本来なら社会へ出て関係性を広げ、仕事にも慣れ、大人の女性としての魅力に輝いていてよい年齢ですが、彼女は対他的な関係をうまく処理することができず、辛うじて姉や、同棲する津奈木とはコミュニケーションを交わしているけれど、いわゆる躁鬱症で、仕事に就いても朝決まった時間に起きられず、遅刻はするし、職場の同僚などともうまくやっていけなくて、現在は無職のまま。過眠症で一日中部屋にこもって眠っているような状態です。
そういう自分に苛立ち、何とか自分を変えようと試みては挫折し、傷つくことの繰り返し。そういう彼女と同棲しはじめた津奈木は優しく淡々と受け止め、あるいは受け流し、自分は出版社で自分の意に沿わないゴシップ記事を書かされてやっぱり疲れているのだけれど、苛立ちを津奈木にぶつけてくる寧子にはやさしい。けれども、それは寧子にとっては、単に彼が本気で彼女に向き合っていないからだと感じられ、一層苛立ちをあらわにする、そんなことを繰り返しています。
こういう閉じられた二人の関係の世界に、津奈木のモトカノ安堂が彼とヨリを戻そうとして割り込み、津奈木には内緒で寧子に彼のところから出て行けと言います。無職だし出て行けば生きていけない、というと、じゃさっさと職に就け、と言って、安堂は知り合いの村田夫妻が経営するカフェバーを紹介し、強引に寧子を雇わせてしまいます。村田夫妻も先輩ウエイトレスの莉奈も寧子にとっては「いいひと」で「家族と思ってくれればいいのよ」と温かく受け容れてくれます。
けれども寧子はここでもどうしても自然な接し方ができません。彼らに温かく受け入れられて、一緒に食事をして歓談している最中に、ちょっとした話題から、ウォッシュレットの水がもしも身体を切り裂いたらこわいじゃないですか、という妄想めいたことを冗談のように笑顔でチラッと口にした瞬間に、村田夫妻や莉奈の表情が一瞬変わったことに寧子は否が応でも気づきます。
「やっぱり見抜かれてしまう」・・トイレにひとりこもって彼女は呪文のようにつぶやきます。トイレからいつまでも出てこない彼女を村田夫妻も莉菜も心配して声をかけにきます。でも寧子は答えられず、心配を募らせた村田は激しくドアを叩きます。それは寧子には自分に襲い掛かる耐えがたい暴力のようにさえ感じられたのではないでしょうか。
寧子は突如キレて便器を破壊して飛び出し、身に着けた衣服を剥ぎ取りながら街をただただ疾駆していきます。
他方、津奈木は人を自殺に追い込むようなゴシップ記事を書きながら、ずっと嫌気がさして心身ともに疲労困憊の極にあり、苛立つ寧子にも向き合うことができずにいたのですが、編集長の意に背いて別の記事にさしかえ、叱責を受けたとき、とうとうキレてしまって、ノートパソコンを投げつけ、パソコンはガラス窓を割ってビルの下の地面に落ちって粉々に壊れ、彼は会社をクビになって帰ります。
彼が帰宅すると、アパートの屋上の片隅に全裸で震える寧子がいます。そのとき、それぞれに持っていた或いは何とか持とうとしていた外部とのつながりをまた全部失い、深く傷ついた孤独な二つの魂がはじめてひとつになったような瞬間が訪れ、二人は抱き合います。
この作品は、躁鬱症の若い女性を描き、なかなか余人には理解しにくいその苦しみを趣里の熱演でリアルに描き出していますが、決して病としての躁鬱症や患者の悩みを描こうという映画でもなければ、そういう人に対する周囲の理解あるいは理解しがたさを一つの社会問題として描こうという作品でもありません。
寧子は自分でも躁鬱だといい、過眠症だといい、そうした生理に苦しんでいるけれども、この映画はそうした彼女を躁鬱病の患者と決めつけてその苦しみを描いているわけではありません。事実としては他者とうまくコミュニケーションができないとか、朝が起きられないとか、医者なら「症状」という現象がみられるけれど、それは多かれ少なかれ、毎朝いやな仕事に出かけなくてはならない私たち多くの宮仕えの人間、つきあいたくもないご近所さんといやがうえにも愛想笑いでやりすごしながら共存していかなくてはならない普通の人間でも味わっていることで、彼女が特別な人間というわけではありません。
多かれ少なかれ私たちも一人でそっとしておいてほしいのに、外部と接触し、関係していかざるを得ず、ときに引きこもり、時に落ち込み、もうなにもかも放り出してしまいたい、と思う瞬間を持っているのではないでしょうか。そして、にもかかわらず、なんとか持ちこたえ、そういう状態から抜け出したいと努力して自分の気持ちをひきたたせ、もっと強い自分になりたい、ともがいているのではないでしょうか。そういう意味では寧子は私たち自身を生きていると言わなくてはなりません。
彼女はそういう自分をなんとか変えようと努力しては挫折を繰り返しています。生きる気をなくしているのではなく、なんとか生きて行こうともがき苦しみながら、自分を奮い立たせ、それまでの自分を脱しようとしては挫折し、傷つき、つらい思いをする繰り返しで、疲れ、自分に苛立ち、また津奈木にその苛立ちをぶつけ、正面から受け止めてもらえずによけい苛立っているわけです。その悪循環にもがき苦しむ姿を趣里が実にみごとに演じています。
「生きてるだけで、ほんと疲れる・・・」という寧子の言葉には、真実味がこもっていて、そのつらさが観る者、聴く者の胸にも伝わってきます。
彼女が躁鬱病の患者で、その苦しみを描いたものであるなら、わたし(たち)は見ていて、それは私たちには理解することも共感することも難しい、そのような心の病の患者さんの世界だと感じることでしょう。それは私たちにどうすることもできない医療上の問題であり、心療内科の専門医に診てもらって直してもらうしかないんじゃないか、とかえってわたし(たち)自身にとっては疎遠な世界のように距離をおいてみてしまうでしょう。また、医療キャンペーンの映画ででもないかぎり、そうした映画をつくる意味もないでしょう。
けれどもこの作品を見ていると、自然にわたしたちは寧子に寄り添って生きています。なかなか自分がほんとうに言いたい言葉がみつけられず、本当は好きな相手なのに反対に苛立った言葉をぶつけてしまったり、そんなふうに自分の気持ちがコントロールできず、他者とのコミュニケーションがうまくとれない自分に落ち込んでしまったり、誰もが心当たりのあるそういう内面をかかえた寧子が自分に自然に重なってくるのです。
そして、そういう気持ちでこの作品を見ているうちに、寧子の周囲の人々、寧子自身がこの人たちのようになりたい、彼らと同じようにふるまい、彼らの中に自分も彼らと同じものとして、決して「見破られる」ことなく融けていたい、と願っている「ふつうの人たち」の姿が、いままでとは違って見えてきます。
もともと津奈木のモトカノの安堂などは、寧子に対する言動などみると常軌を逸したもので、趣里もあなたのほうが変じゃないかという場面があったけれど、たしかに「ふつう」じゃありません。単に極端にジコチューな女なんだ、と見ようと思えば見えるかもしれないけれど、もともと頭がおかしいんだ、と見えなくもありません。田中夫妻や莉奈もKYといえばKYで、ふつうは鬱病かも、というような人に対してそういうことは言わないでしょう、みたいなことを言うような鈍感さがあって、「ふつう」とは言えないところが見え隠れはしますが、いちおうはどこにでもいる「ふつう」のいいひと、とされているような人たちでしょう。
だから、彼らがトイレから出てこない寧子を心配して声をかけ、返事をしないから、どうかしてしまったんじゃないか、と心配を募らせて、どんどん声掛けがエスカレートして叫び声になり、怒鳴り声になって、ドアをドンドン激しく叩く行為になっていくのは自然といえば自然なことです。
けれども、私たち観客は、このころになると寧子に寄り添った目で成り行きを見ているせいか、こういう「ふつう」の彼らがやっている或る意味では当然の行為が、ものすごく暴力的な行為に感じられます。ドアを破らんばかりの、あの連続して叩く音を耳にすると、たぶん寧子が感じているのと同じように、私たちの胸にも猛烈に暴力的な響きとして伝わってきます。ここでは寧子がついにキレて、便器をぶっ壊して飛び出していくのが、まったく自然に呑み込めてしまうほどです。
この或る意味でクライマックスのようなシーンで、私たちは寧子が何を恐れて来たのかを目の当たりにすることになります。
私たちがふだん「ふつう」のひと、と考えている人たちも、みな或る意味では、あるいは時と場合によっては、むき出しの暴力性を持っておびえる心を追い詰め、攻撃するような存在に一気に変容してしまえるんだということが目に見える形で示されるからです。
それは、ほんとうは普段のなんでもない穏やかな表情でやりすごし、受け入れてくれているような日常の中にも潜んでいる他者性の本質であるかもしれないのです。
それを全力で拒んで逃走した寧子が、ヒリヒリするように傷ついた心の素肌をさらすような全裸の姿で屋上の闇に蹲っているところへ帰ってきた津奈木もまた、仕事場で味わった、自分が持っていた一片の人間らしい気持ち、自分の文筆が傷つける人へのうしろめたさ、記事を書く記者としての最小限の矜持をも押し殺そうとする力に対して、全身全霊で抗い、拒み、すべてを失って傷ついていたがゆえに、はじめて二人が真正面から向き合い、絆が生まれる・・・
そういうお話だろうと思います。ラストに聴こえる寧子のモノローグは、正確に再現はできないけれど、人と人が理解しあうことは難しいけれど、彼と私も一瞬だけわかりあえたと思えるときはあった。そしてその一瞬によって私は生きている、と、そんな趣旨の言葉だったかと思います。愛という言葉がひどく空虚に聞こえる現代にあって、とてもリアルで、切ない認識だけれど、一縷の希望につながる言葉のように聞こえました。
この作品はこれまで書いてきたような寧子の状況を自然に表現するために(原作に既にあったものかどうかは原作をまだ読んでいない私には分かりませんが)いろいろ面白い小道具を使って仕掛けをしています。
たとえば、彼女が引きこもっている部屋はよく電気のブレーカーが落ちます。2,3回真っ暗になりましたね。うちの台所も始終電気のブレーカーを落とすので、あれを見て笑ってしまいましたが、電気を同時に沢山使うと自動的に落ちるようになっているんですね。
あと、彼女が煙草を吸おうとすると、箱の中には一本も残っていない。これも2回くらいあったんじゃないかな。一度はチョコだったかな、これも一粒残っていたはずだから、つまみ食いしようと思ったのに、思い違いしていて、実は一つも残っていなかった、と。私もよくやりますが、がっかりしますよね(笑)。それからライターのオイルがなくなっていて、カチカチやっても火がつかない。
いまほしい、そのほしい時に、肝心のものがない、という状況が、彼女の「固有夢」(幾度も見る、その人固有の同じ夢、この場合は悪夢ですよね)のように、繰り返し起こります。
いずれも大したものではないけれど、ほしいとき手元に無ければちょっとイライラする。そういうことが日常的に頻繁におきている。これは偶然ではなくて、彼女自身が招き寄せている彼女固有の現象だと言ってもいいでしょう。
それらがいま無いのは、彼女が既に使っちゃっているからですね。電気は定められたアンペア数より余計に使っちゃっているからだし、煙草は全部吸ってしまい、チョコは全部食べてしまい、ライターのオイルは使い切ったからでしょう。
彼女が浪費家で、人より彼女がたくさん使う人なのかどうかは分からないけれど、いつも無い、いつも足りない、というのは、彼女にはいくら補充してあげても、いくらあっても足りないんじゃないか、という気がしてきます。それが彼女の「固有夢」のようだという理由です。
こういう小道具をいくつか配していることで、彼女が常時、渇えた状態にあることを自然なかたちであらわしているようです。
私が幼いころ、疫痢かなにかで病院に隔離されて何も食べさせないでいる患者は、飢餓状態の極限で、最後は病室の壁を削って壁土でも食べる、なんて嘘か真かわからない噂話を聞かされたことがあって、なんだか不気味で怖かったので今でもおぼえています。人間は飢餓の極限では何をするか分からない。たぶん突如そういう常識では考えられない突飛な行動をとるのかもしれません。寧子もまた、胃袋の飢えではないけれど、精神の飢餓状態で、ときどき唐突に普通では考えられない行動を暴発させます。
彼女が幾たびか口にする「見抜かれちゃうのよね」という言葉は、なかなか面白かった。本当の自分、「ふつう」じゃない自分、あなたがたとは「ちがう」人間だということを…見抜かれてしまう、と。
漱石の文章の中に、幼いころ、池の中の得体のしれないものに引きずり込まれていく恐怖を感じたという、心的な体験を書いたところがあったのを記憶していますが、たぶん漱石という人は一生その得体のしれない、自分を水底へ引きずり込んでしまいそうな何かと格闘してきた人で、夫人からさえ狂気の人のようにみなされた作家でした。
この映画で寧子が店の主人夫妻や同僚の莉奈と歓談しながら食事していて、ふと話題がそっちへいって、トイレのウォッシュレットの水がどこへ当るなんて笑い話になって、彼女が勢いのいい水は切れるから、勢いが強い水が体の真ん中に当たったら身体が裂けて・・・という妄想めいた連想へ一瞬飛躍した瞬間に、それまで笑っておしゃべりしていた「いいひとたち」の表情が戸惑いの表情になる場面があります。それを感じた直後、トイレのほうへ歩み出した寧子は、一瞬「見抜かれた」と覚り、周囲の人たちの表情が凍り付いたと感じたはずです。
"ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によって ぼくは廃人であるさうだ"(吉本隆明「廃人の歌」『転位のための十篇』)
漱石の水の中の魔物も、寧子の身体を真っ二つに切り裂く水も、それぞれの「真実」なのだろうと思います。それを垣間見せるとき、たとえ「たかがウォッシュレット」であっても、全世界が凍り付き、彼女は異様で不気味な存在と「見抜かれ」、全世界から疎外されてしまいます。その一瞬を彼女に寄り添っていたわたしたち観客もまた鋭い痛みとともに感じることができます。
最後にいくつか・・・。
安堂という女性が寧子と津奈木の閉じた世界から寧子を外部へ無理やり引っ張り出す契機になる役割を担っていることはわかるのですが、出ていく元手を稼がせるために就職先を紹介して送り込み、監視する、という設定はどう考えても不自然で、これは原作自体の問題なのか脚本に始まることなのか原作を読んでいない私には分かりませんが、もう少し彼女の言動にリアリティを持たせる工夫があってもよかったのではないかという気がしました。
津奈木の職場の同僚で、以前に自分が書いたゴシップ記事で自殺した人がいて、トラウマを抱えている女性を演じているのが三宅唱監督の映画でお馴染みになった石橋静河です。私が大好きな女優さんなので、少しひいき目があるかもしれませんが、言って見ればちょい役に近い脇役なのに、さらっと自然態で演じているようで存在感があって、とても良かった。津奈木と同様の問題を抱えていて、彼女のほうがその面では先行しており、津奈木は彼女の行程をなぞっていたわけです。そういう津奈木の状況を一層クリアに浮かび上がらせるのが同じ職場で同じような仕事をしていて、前にその記事で自殺者を出した経験を持っている彼女の存在であり、役割なわけです。自分の方が目立ってもいけないし、かすんでいてもだめな、ちょっと微妙な難しい位置だと思うけれど、きれいにこなしていましたね。拍手!
人気の菅田将暉については下手なことを言うと若い女性の反発をくらうことは確実だから、何も言わないのが得策でしょう(笑)。
台北ストーリー(エドワード・ヤン監督)1985
出町座の「台湾巨匠傑作選KYOTO」と銘打ったシリーズの一環での上映できょう見てきました。
「悲情城市」の監督ホウ・シャオシェン(侯孝賢)が主演で出演しているので驚きましたが、それがまた名演なので二度びっくり。エドワード・ヤン監督の作品は「恐怖分子」や、とりわけ「ク―リンチェ少年殺人事件」で素晴らしい作品を撮った人なんだな、というのを記憶していましたが、この作品も、とてもいい作品でした。中国語のタイトルは「青梅竹馬」というのですね。幼馴染を表現する言葉らしいけれど、主人公の男女がもともと幼馴染なんですね。
ホウ・シャオシェン演じる布地問屋の家業を継いでいるアリョンと、彼の幼馴染で、結婚するともしないとも曖昧な関係らしい、不動産開発業の会社のキャリアウーマンであるアジン(阿貞~女優は歌手ツァイ・チン=蔡琴)が主役で、冒頭は二人がマンションの空き家をみにきて、ここに居をかまえようとしているところから始まります。
アジンのほうが積極的で、アリョンはバットの素振りの身振りをしてみたり、気が乗らない様子。アジンは会社でもなかなかやりてのようです。ところが、勤めていた会社が大企業に買収され、自分が助手として深い関係にあった上司が辞めるなら、とアジンも職を辞めてしまいます。
彼女はどうもその上司と男女としてもちょっと関係があったように思えますし、一方、アリョンのほうも東京で日本人の男と結婚した台湾人女性とかつては恋人どうしで、アメリカの帰りに東京へ寄って会っていたらしく、台湾へ帰省した彼女から呼び出されて会いに行ったりもして、それを知ったアジンが怒る場面もあります。
まあそれやこれやありながら、二人はいわゆる大人の関係です。アリョンとアジンの二人は、地域に生まれ育ち、幼いころからアリョンは野球のヒーローとして、また長じても周囲の人々からはそれぞれ頼りにされ、愛されるしっかりものであるようですが、色々と過去を引きずりながら、基本的な信頼感があり、どこか関係そのものには安定感があって、少々自分一人の世界で誰と接触していても、それで二人の関係そのものまでゆらぐことはなさそうな二人です。いまは結婚するかしないかといった境目のあたりで、心理的に「自然」と化してしまったような大人の恋と言うのか、大人の男女としての関係をつづけている二人です。
アジンは、アリョンの義兄のつてを頼って米国に移住し、それを機に結婚しようとアリョンに提案しますが、アリョンはもうひとつ積極的ではなく、言いながらなかなか踏み切ろうとはしません。
それでもアリョンは家も売ってしまって移住の準備金をこしらえますが、事業に失敗し身を持ち崩したアジンの父親(アジン自身はこの父親に激しく反発していて、援ける必要はない、と主張)や、3人の子を置いて嫁さんが逃げ、あとに残された知り合いのアキンに貯めた金を出してやったりして、米国移住はうやむやになっていきます。
なぜアジンの父親のようなだらしない、懲りない爺をくりかえし援けるのかと言えば、それはアリョンが地域社会に生まれ育ってどっぷりそこに浸って今に至った人間であり、アジンとも幼馴染で、彼女が嫌うその父親のことも、親しい親父さんとしてもともと身内のように自分を可愛がってくれて来た人であり、また自分もよく馴染んできた人だからでしょう。
彼は、自分が少年野球のヒーローとして嘱望されながら成長し、根付いてきた地域、この台北の街と地域の人々との関りを、彼に比べればモダンな精神の持ち主であるアジンのように簡単に捨てていくことができません。
むしろアジンのほうが仕事の上でも、アリョンのように地域社会に密着した地元企業ではなくて、モダンな企業を選んでパリパリのキャリアウーマンとして才覚を発揮していたわけです。ただ、企業の事情で、職場での仕事の継続を断たれたため、この際結婚して移住しようと積極的ですが、曖昧なアリョンの態度や彼の東京のモトカノのことなどもあって鬱々として、若者と夜中まで遊んだりして気晴らしをしています。
そんな気晴らし仲間の若い男が、ちょうどアジンと気持ちの行き違いがあってマンションから出て来たアリョンと接触し、アリョンがもうアジンに近づくな、と言い捨ててタクシーで去るのをオートバイで追い、途中でタクシーをとめて降り、その若者をボコボコにします。去っていくアリョンを若者が追って、手にしたナイフで腹を刺して逃亡します。タクシーも逃げてしまい、アリョンは腹から出血したまま街の方へ歩き、とうとうしゃがみこんで、なんてこった、というように苦笑するのでした。
そして翌朝、アリョンは担架に乗せられて救急車へ。それを指示している医者らしいのが全然急ごうともせずに警官と喋っているのは、きっとアリョンが死体として発見されからなのでしょう。
他方、アジンは前から彼女に声をかけていた女性事業家から声がかかり、新しく起こす会社の幹部として雇われるべく、その会社のオフィスを物色するためにビルの空きフロアに自分の上司・相棒となる事業家とともに訪れていました。
繰り返しになりますが、こうして色々なことが二人の周囲で起きるけれど、二人の間に関しては、基本的には男女の愛情というのか深い信頼関係で結ばれていて、過去は色々あるけれど、これから結婚して新しい生活を始めてもいいかな、というあたりにきている、そろそろ壮年期、仕事に人生に自信と経験を持ってバリバリ取り組んでいこうという年齢で大人の関係を取り結んでそれぞれ仕事をもってやっている、ただ米国に移住するかどうか計画をもちながら男性のほうが地域社会とのしがらみに足をとられていて、決断がつかず、女性の方が積極的だったけれど、結局実現しそうもないところへ落ち着いてしまう。・・・まぁそういう、どうということもない、大きな事件や何かが起きるような物語ではありません。
むしろこういう二人とそれを取り巻く周囲の人々の生き方、関わり方の中に、台北という街の地域社会、そこに生きる人々の古い絆がまだ生きているような部分と、企業や男女関係などに新しい現代的なものが入って共存しているような背景というものが、ごく自然な形で伝わってくる、そういう地味な作風になっています。
だからむしろ主人公は台北という街、地域社会、その人間関係のありよう、といったところで、日本語タイトルの「台北ストーリー」というのがその中身を示していると言えるでしょう。
映像にすばらしいシーンがあります。アジンが若者たちとオートバイを連ねて夜の台北を疾駆する場面は、どうやら総統府の前あたりらしいのですが、建物という建物にイリュミネーションが飾られてすばらしい夜景の中を突っ走る、最高に美しい場面です。
また、ビルの上のほうの階が何度も舞台になるので、そこから向かいのビルの大きな富士通やなんかの日本の大企業の文字が入った看板が真直に見えて、何度も映るのですが、或るシーンではその看板の大きな文字の前にアジンとアリョンが向こう向きで少し離れて立っていて、広告灯の明かりでこちらから見ると二つの影になって立っているシーンがありました。ああいう非常にモダンで美しい場面がけっこうありました。
アウトゼア(伊藤丈紘監督)2016
正直のところ、私にはこの作品は一度みただけでは分かりそうにもありませんでした。なぜこういう映画をつくったのだろう?なぜわざわざこういう分かりにくい構成にしたのだろう?この作品でなにが言いたかったのだろう?どれも素人なりにほかの映画を観る時と同じように素直に見て考えてみましたが、やっぱり分かりませんでした。
それで今回はちょっとウェブ上でこの作品について触れているような記事がないか検索してみました。多くは映画の外形的な説明でほとんど上のような問いに応えてくれるものはありませんでしたが、中に、この作品がエドワード・ヤンなど台湾ニューシネマの影響を受けているというのか、その作品に触発されてつくられているとか、個々の場面の映像がほかのだれかの作品の或る場面を喚起し、それがまた別の映像に重なったりつながったりしていく、そういう最初から同じ対象をとらえながら、ずれた視点でとらえられた異なる映像が別々の系列の映像を喚起しながら、また相互に重なり合い、溶け合い、つながることで、展開と収束の形を創り出しているんだ、というような(まったく私の読み方で私の言葉に無理やりホンヤクすれば、ですが・・・笑)というようなことを述べている記事があって、あぁ、そういう「新しい」映像処理の技法というか、映画の作り方みたいな、方法意識が前面に出た作品だから、私のようなシネフィル(映画マニア)でも何でもない、たまに楽しんで映画を観るだけの人間には分かりにくい作品になっているんだろうな、と思いました。
映画学校や大学の映像学科系の学生の卒論制作や大学院生など映画作りを志す人の作品には、同じような感触を覚える作品は結構沢山ありますし、いまメジャーデビューしていい作品を生み出しているような監督でも、20代のころはそんな作品ばかり作っていた人も少なくないので、きっとプロの評論家ならこういう段階で才能を見出し、そういう人の中から、やがて一般の人にも感動できるようないい映画を作る人が出てくるのだろうと思います。
ただ、この作品がどうこうというのではなく、映画の評論では、今回たまたまウェブ上で垣間見た文章がそれに近いものであったように、ときどき、この場面はだれそれの何という作品の一場面を明らかに意識している、という、広い意味での過去の著名な作品の「引用」を指摘することが、なにかその作品の価値を高めるかのようなニュアンスで書かれているのをみかけると、不思議な感じがします。
映画を沢山見て来た人は、自分の知っている映画の(それもあまり一般の人が知らないような映画の・・・笑)一部が新しい映画に「引用」されていたりすると、嬉しくてたまらないのだろうな、という意味では分からなくはありません。
映画の作り手がひそかに作り込んでおいた暗号を自分だけが見つけ、解読したような歓びがあるのでしょう。そして、その引用された作品なり映画作家なりが好きな人なら、同じ趣味の持ち主として分かり合える、と思うと余計に評価したくもなるのでしょう。そういう「引用」を散りばめることが映画への敬意の表明だと思っているような評論家もあるようです。そうすると、そういう「引用」が多いものほど、ちゃんと伝統を踏まえた良き作品だ、というような倒錯的な評価に行き着いてしまうのも無理はないかもしれません。
たしかに本歌取りというのは日本の文芸でも昔から得意技とされていますが、そういうのも多くは、わたしはちゃんと過去の作品を見てるぞ、知ってるぞ、と知識を誇りたいだけの、つまらない作品で、本歌取りによって自分の当の作品自体に新たな付加価値を創り出しているような作品ばかりではありません。もちろんそういう価値を生み出している作品は、本歌を知らなくても、それ自体の作品として自立した価値を持つものだろうと思います。源氏物語なども、あの時代に周囲のサロンの人々なら誰もが読んで心得ているであろうような過去の和歌や物語への直接間接の言及が夥しい数見出せるけれど、それを知らずに素直に読んでその価値が成立しないような物語でないのはもちろんのことで、知っていれば学者的な、あるいはいわゆる教養人的な知識の奥行を楽しむことはできるでしょうから、いっそう楽しめるということはあっても、言葉の端々にさりげなく言及された過去の表現についての知識がなくてもひとつの自立した物語としてその価値を十全に味わうことはできるし、そもそもそうでなければその作品がすぐれた作品であるはずもないでしょう。本歌取りは単なる技法(テクニック)であって、それが当の作品の良しあしを決めるわけがないことは自明のことでしょう。
若い監督が自分が深甚な影響を受けた映画作家にオマージュを捧げるという意味で、ちょっと引用してみせる、というのはよくあることで、それに気づいた観客はただ微笑してやり過ごせばよい体の、内輪の「めくばせ」のようなものでしかないと思います。
その「めくばせ」を俺は見過ごさなかったぞ、と威張って見せるなどは、まだお山の大将を演じる子供のようで可愛げがありますが、その「めくばせ」に気づかないようなやつはこの作品を見る資格がない、と凄んで見せるような御仁もいますから(笑)、ただ目の前のその作品自体を楽しみたいだけの私のようなその他大勢の観客には迷惑な話です。
「めくばせ」は内輪の行為で、そういう符牒が通じる仲間内のだれそれに向けて発するもので、「めくばせ」自体が、作品の作り手の意識が仲間内に向けられていて、これに過大な意味を与えるとすれば、外部に開かれない、無意識のうちに閉じた表現意識を証すものでしかないだろうと思います。
知識人や芸術家あるいは評論家などには、「わかりやすさ」は非常に評判の悪い指標です。もちろんひとつには事態の複雑さを無造作に単純化してしまう乱暴な議論が世の中に少なくないせいもあるのですが、裏返せば、分かりやすくなってしまえば自分たちの商売にさしつかえるからではないか(笑)。
日常語を洗練して考え抜かれた海外の哲学などを読んだわが国の知識人たちは、庶民の読めるような磨かれた日常語に翻訳する以前に、紹介と称して自分の著作をものにしてきたような人が少なくないけれども、次第に誰でも読めるような原典の翻訳が出そろってくると、もうそういう人たちの書いたものは何の意味もなくなってしまう。原典の新しい翻訳を読めば、そのほうがずっと分かりやすく、間違いも少ないから(笑)。
映画も、ニューシネマだのニューウェーブだのという名のついた海外の流行が日本に輸入されて影響を受けてきた映画人がそれぞれに影響を受けたことを公言する作品をつくってきたのだろうと思います。でも、そのもとの「ニューシネマ」だか「ニューウェーブ」だかの作品のほうがずっと分かりやすかったりしませんか?
少なくとも私は今回観たエドワード・ヤンの「台北ストーリー」も以前にみた「ク―リンチェ少年殺人事件」もさっぱり分からない、などということは全然なかったし、とても面白く観ることができました。そのうちフランスの「ニューウェーブ」で日本の或る種の映画作家や評論家が神様扱いしているような人の作品も、何の先入観も偏見もなく素直に少し数多く見てみようと思っています。きっと彼らの影響をうけたぞ、と公言しているわが国の映画より、そういう「元」の人たちの作品のほうが、ずっとわかりやすいのではないか(笑)。
彼らがほんものの芸術家であれば、きっと一般の人間に見てもらい、どんな先入観や屁理屈や情報もなしに、一つの自立した作品として、その作品だけを見てもらえば、心に訴えるはずだ、という開かれた意識で制作しているに違いない、と思うからです。
さて、ずいぶん話は小見出しにした作品から遙か遠くに行ってしまいましたが、この作品は実際にはたしか2時間と5分の映画だったはずですが、こちらが分からないせいもあって、ひどく長く、そう3時間は優に超えているんじゃないか、と見ながら感じていたので、その間、居眠りはせずに、両眼は目の前のスクリーンを確かに見ているのだけれど、意識の方はどんどん離れて行って、上に書いてきたようなことが次々心に浮かんでいました。だから、それが私の「この映画を見ての感想」になってしまうわけです(笑)。
でもとてもまじめな作品だと思いますし、若い監督さんであれば、今後ますます良い作品、わたしたちごく普通の観客にも開かれ、心を動かされるような作品を作っていただきたいと願っているので、そういうド素人の観点から、恐れながら(笑)こんなことを考えたんだけどどうでしょう、というところをこの作品に即して書き留めておこうと思います。
まったく映画づくりなど知らないド素人の乱暴さで言わせてもらえば、台北へ(多分)ロケで行って、主人公(この作品の中で劇中劇のように映画が制作されていて、彼はその主役をつとめている台湾人らしい若者)が自分の母親だったかにインタビューしている台湾の部分と、劇中劇的な、作品の中での映画づくりの話と、それからその作品中での映画の配役で主人公と相手役をつとめている、その若者と相手の女の子との恋愛話(正確には恋愛とは言えないかもしれないけれど、まぁおおざっぱに言って)と、この三つの要素が、この映画の中では、とても分かりにくく混在していて、重ね合わされていたり、いわば相互浸透的に片方が他方に入り込んでいたり、融合していたり、カラーとモノクロを使い分けたりしながら交互に、あるいは前後して挿入されたり、というふうになっています。
これを明確に別々の三つなり二つなりの系列に分離して、それぞれにふさわしい枠組み、構成、展開を与えれば、映画制作の部分はちょっと心許ないけれど~だいいちこの作中映画制作を担う「監督」ではどんな映画もとれそうにない気がしますから(笑)~、台湾のお母さんの昔話と主人公の恋愛話はきっとそれなりにいい作品になるのではないか、ともてあました時間の中で私は妄想していました。
もちろんそんなことはこの映画の作り手の考えもしないことでしょうし、異なる系列の世界、異なる場面を重ねあわせ、バラバラにしてはくっつけ、融け合わせる中で、なにかを語りたかったのでしょう。でもそれは私には無用の混乱や拡散のようにしかみえず、冒頭のような印象に終わりました。
ただ、ひとつだけ印象に残ったのは、この主人公をつとめた台湾ボーイがなかなか良くて、とくにローラースケートで街路を突っ走ったり、階段にジャンプする練習を繰り返すようなシーンがあって、映画の中で映画を撮ろうとしてオーディション面接なのか何なのかこの若者に監督が、なぜローラースケートをするの?というようなことを訊く場面があるのですが、そのときこの若者は、たぶん監督が期待というか想像したような、こういう理由あるいはきっかけでやっているとか、始めたんだ、とかいう答え方をしないで、ただ毎日すべっているからすべっているだけ、みたいな、(言葉は覚えていないけれど)私の受け止め方では、ちょうど、なぜ君は生きているの?と訊かれたときのように、いや、そう言われても、いま生きているから生きているだけで・・・とでも答えるような答え方をしていたのが印象に残ったのです。
多分彼にとってのローラースケートはそういうもので、君はなぜ歩くの?と言われても困るように、また君はなぜ生きているの?と言われても困るように、君はなぜローラースケートをやるの?と訊かれても本当は彼も答えようがないのでしょう。生きている、というのと同じことだからです。
それが、ローラースケートで疾走している彼の姿をとらえる映像から感じられました。もしこの映画にベースというのか、音楽で言えば基調低音みたいな、基調となるリズムのようなものがあるとすれば、それはこのローラースケートで走る彼の映像なんじゃないか、という気がしました。言語で言えばそれが自己表出(笑)。彼女だの台湾だの映画だのといったものは、そこへのっかってくる、そこへ絡んでくる指示表出で、あれこれ作品の世界を広げ多彩にしているけれど、問題はあのローラースケートで滑走する若者の映像という基軸にどうそれらが絡んでくるかなんだろうな、と思って観ていました。それがウェブで垣間見た誰かのコメントのようにいわば中身抜きの映像(画像)的な照応だけでこの基軸のところにフィードバックするような回路が作れるのかといえば、それは無理だろうと思います。
台湾の話はうまく引き出していけば、ホウ・シャオシェンが描く台湾家族のような物語りを構成することができるような絵柄を持っていたように思えましたし、主人公の若者と相手役の女の子はそれぞれ台湾人と日本人で、背負っている文化も異なるし、現代的な個性を持った男女のようだから、その恋愛もいまふうのちょっと独特の関係になるんじゃないか、とかいろいろ空想しました。この作品では、台湾の人々や暮らしの一片をとらえても、私たちの親の世代が台湾でやったことや、台湾の人々の日本との関りの問題、あるいは大陸との関係のような物の投影は感じられなかったし、台湾というひとつの系列をとってみても、正面から台湾に向き合っているようには見えませんでした。
映画の中の映画制作の話はこのまま引き延ばしてもものになりそうにないし、こういう劇中劇的な映画の中の映画制作という枠組みを持たせた作品は過去に私ほど映画を見ていない人間でもいくつかかすかな記憶があるくらい数多そうで、それ自体はありふれた二重底なので、どこにも新たな意味を持ち得るような要素が感じられません。なぜこういう枠組みが不可欠だったのか、なぜ先に挙げたような三つの系列をいっしょくたにしてしまう余儀ない理由があったのか、そこも分かりませんでした。
ただローラースケートの彼の映像が基調のリズムをつくっているように感じたので、映画が終わるときはそのリズムが断ち切られるときだろうと思ったので、最後は彼がローラースケートで突っ走っていて、突然車に衝突され、イージーライダーの青年のように吹っ飛んで炎上して終わり、という終幕を想像していたのですが(笑)・・・いや、彼が死ななくてよかったです。
怪怪怪怪物!(ギデンズ・コー監督)2017
もともとホラー映画は見ようとも思わないのに、たまたま出町座の「台湾NOW」の一環で上映していたので、朝のうちに3枚チケットを買ってしまったので、過って見てしまいました(笑)。
一種の学園ものホラーで、いじめグループの少年たちが姉妹の化け物のうちまだ少女っぽい幼さの残る妹の方を捕獲していじめ放題、最後に姉のほうが復讐に来て・・・という話で、日本の映画ならぜったいマンガが原作やろな、と思うところですが、台湾だからどうでしょうか。脚本も監督のようだからオリジナルなのかもしれません。
でもすべてが大げさに誇張されて、それゆえ滑稽味もあり、こけおどしの残虐さも流血も食人も暴力も、私が嫌がる要素が全部盛り込んであります(笑)。
映画としてどう、とかこの作品については言う気力もありません。なんかしらん勢いだけは感じられる映画ですが、別に化け物が登場しなくても、前半の教室でのいじめのひどさや教師の態度とか、誇張して笑わせる要素も与えているのでしょうけれど、それでも見ているだけで気分が悪くなりそうでした。メディアが映画であっても小説であってもマンガであって、そういうのは変わりませんね。悪人が滅ぼされようと怪物が消えようと、こういうのをみると後味はひどく悪いです。何が面白くてこういう映画を大勢の人やお金をかけて作るんでしょうね。
侠女(キン・フー監督)1971
きょう(上の作品までは昨夜書いてアップロードしなかったので翌日になってしまいました)見て来た、やはり出町座の「台湾NOW」で上映された作品です。これはエンターテインメントとして、けっこうおもしろく、楽しめました。
竹林の中での敵との戦いが、最近はもう当たり前のように使われているワイヤーアクションというのでしょうか、当時は新しい手法で観客が驚くような画期的なチャンバラのアクションシーンだったのでしょう。いまみてもそうしたシーン、その他の剣戟のシーンは、スピーディーで超人的で(笑)、悪くありません。
前半のなにかいわくありげな、誰が悪い奴かよくわからないまま、主人公の代書・似顔絵書きなどやっている男の周辺をうろつくあたりも、少し長いかもしれないけれど、あれはあれで、いったいどういう物語なんだろう?どういう展開になるんだろう?とつないでいくエンタメの常道で、悪くはなかったと思います。
善玉のお姫様の武勇ぶりもなかなかのものですが、彼女に立ち向かう敵、彼女の父親であった愛国者の大臣を殺した連中の部下で本来は警察や軍の長官クラスのような連中が、なかなかいいのです。やっぱり敵が強くなければ面白くないですから。
最初に主人公の前に現れる傘を頭につけた隠密みたいな男も目つきの鋭いなかなかいい敵役でしたが、最後のほうで追手を率いて現れる兵士たちの長官が凄腕で、善玉のお姫さまや彼女をずっと守ってきた剣士でも叶わない。悪玉が勝っちゃって、どうなるんだと思ったら、こっちの味方をしてその敵よりさらに強いのが現れます。それが坊主!(笑)なんとか大師という達磨さんみたいな貫禄のある坊さんで、部下数人を引き連れていて、お姫様が父親が殺されたあと逃亡して潜伏していた寺院の坊さんで、お姫様に護身術を教えたのも彼。これがやたら強くて、最強の敵をもやっつけてしまいます。坊さんだから殺さずに何か諭して解き放つわけです。
あぁ、これで終わりだな、と思っていたら、一行の行く手に、その敵だった大将と二人の部下が大地にひれ伏して彼らを迎え、なんとか大師に向かって言うには、「自分は役目がら、大勢の人間を殺してきた。その罪に悪夢を見てうなされることも度々だ。もうこの仕事をうっちゃって、出家したいので、ぜひとも弟子に加えてほしい」、と。大師は、「いやおまえにはまだこの世の縁が残されているから、都へ帰りなさい」、と諭し、手を差し伸べて、「さぁ立ちなさい」、と引き立ててやります。そうすると、ですね。なんと驚いたことに、この敵将悪玉は心服したはずの大師の腹にいきなり隠し持った刃をブスリ、と突き立てるのですね。おぅ!そこまでやるか!って感じです。
まぁ、あとは見てのお楽しみ、ということにしますが、この映画のそこまでみて、つくづく感じたのは、いやぁ、台湾の人も、大陸の中国の人も、韓国の人も、しつこいよなぁ(笑)ってことでした。日本人ならあそこまではやらせないでしょう。いやできないですね。たとえ悪人がまだ回心しないで、しつこく絡むとしても、映画の作り手は、いっぺんそうやって悪玉があざむこうと斬りかかったら、善玉がそれをあらかじめ察知して、あっさり最後の一太刀を浴びせてやっつけちゃうでしょう。登場人物が少々しつこくても、映画の作り手自身がそこまでしつこくなれない(笑)。
ところがあちらさんは、登場人物も映画の作り手も、、そこまでやるか、というところまで、徹底的にしつこく「怨」の精神でやりますね。日本人はつくづくそういう点では淡泊、よく言えば悪玉でもいさぎよく、あきらめが早い。あちらの人は悪玉もそう簡単にはあきらめない。いさぎよさ、なんて感覚はないんじゃないかな。プライド、誇り、自尊心というのはあるけれども、いさぎよさ、というのとはちょっと違う。韓流の歴史ドラマなど見ていると、「どうかわたしを殺してください~王様ぁ~」と自分に責任があるようなへまをしたときは、実に簡単に「殺してくれ」と口にしますが、それは単なる形式的な決まり文句の口上にすぎず、全然本気じゃないわけです。私が王様なら、無能な家来が失敗して、「どか殺してください~王様ぁ~」なんてスリスリしてきたら、そうか、ってバッサリ斬っちゃいますけどね(笑)
いや、徴用工問題とか歴史認識がどうの、なんてことにひっかけようというわけじゃありませんが、そういう国民性みたいなことを連想したくなるようなところは、韓国だけじゃなく、中国・台湾についてもこういう単にエンターテインメントにすぎないとはいえ、そのつくりかた、人物造形の仕方を見ていると、思いたくなるところがあります。
現実の歴史認識みたいなことは、私は国家どうしの約束は政権が変わっても守るべきだ、という意見ですが、一方で日本の政権担当者やその周辺の歴史家が、しばしばとんでもない歴史認識を思わず口にして、海外からやり玉にあげられる状況は、彼らが本心ではまったくいまどき・・・と思えるような歴史認識を持っていることをうかがわせるもので、こういうのを払拭することが対等な良い関係をつくっていくうえで不可欠だ、という意味では歴史認識の問題はまだ未解決だと思わざるを得ません。
歴史認識の問題は、政治とは切り離して(あえて利用するために切り離さない国はあるでしょうが、それはそれでほっといて)、日中韓の歴史学者が事実を明らかにする共同の場を設けて継続的に議論して、そのプロセスも結果も全部公表して、意見の違いがあれば、それも併記して、判断の素材をすべての国民に明らかにすればいい、と私なら考えます。
それぞれの国の時の政治権力は隠蔽したり、都合の良い部分だけつまみ食いするでしょうが、情報の保存と公開さえ国際ルールで第三者をまじえて守れるなら、いずれはどの国の国民であっても、事実を知るようになるでしょう。
いや、とんだところへ行ってしまいましたが、この映画に戻ると、ラストがどうも宗教じみてわけわかんないよ、というウェブ上の意見がけっこうあったようですけれど、そう目くじらをたてるほどのことはないと思います。なんといってもエンターテインメント。簡単にハッピーエンドにせずに、繰り返しこれでもか、これでもか、まだやるか、と敵さんが頑張ってくれて、強い奴が出て来たと思うとそれよりさらに強いのが出て来て、もうこっちは弾がないぜと思ったら、最後は坊主が出て来て、なるほどなぁ(笑)・・・そしてあそこへいっちゃう、というのも納得できないわけではありませんでした。
バーバフリ 伝説誕生 + 王の帰還 (S.S.ラージャマウリ監督)2015, 2017
第一部、第二部と二本の映画になっていますが、続き物なので、一体のものとして感想を書きます。
インドの娯楽映画。ファンタジー史劇とでもいうのでしょうかね。民衆に慕われ、大国マヒシュマティ王国の王にと嘱望された武勇人格に優れたバーバフリは、彼と兄弟同様に育てられた、やはり武勇に優れた国母の息子とその父である伯父の謀略によって、武功を立て、一度は国母によって王にすると予告されながら、旅の中で出会い結ばれたクンタラ王国のデーヴァセーナ姫と共に国家反逆罪で王族故追放となり、それなりに民衆と共に生きて幸せにくらしていました。
彼に代わって野望を成就して王となって従弟は、それでも安心できないと、国母を欺き、バーバフリが国母のいのちを狙っているとだまして、バーバフリにとっては父親代わりのように慕ってきた身分はドレイだが剣の名手カッタバを刺客に差し向け、ついにバーバフリを殺させます。
王はバーバフリの赤子をも殺させようとしますが、ようやく彼の謀略に気づいた国母は傷つきながら赤子を守って河を流され、巨大な瀑布の下の土地に暮らす人々の手に赤子を残して自らは死にます。
デーヴァセーナは王にとらえられ、苦しみをなめさせ続けるという王によって王宮の庭に鎖でつながれています。デーヴァセーナはいつか息子が生きて戻ってきて王を倒す日がくる、と信じて待ちます。
そうしてこの命を救われたバーバフリの息子のバーバフリ二世がたくましく成人し、滝の上の世界へ戻って、苦闘の末に母デーヴァセーナを救い出し、最後は悪王たちをやっつけて、父の復讐を果たす、という物語です。
物語は壮大でファンタスチックな伝説の世界の物語ですが、インド的な個性は持っているけれども、まぁどの世界にもありそうな王権をめぐる争い、二世代にわたる野望と復讐の物語です。
映画としてのすばらしさは、その映像の素晴らしさにあると言っていいでしょう。とりわけ戦闘シーンは、かつての「ロード・オブ・ザ・リング」のシリーズに匹敵する、壮麗でド迫力のある映像で、これはやっぱり大画面で見るべき映画だな、と思いました。
戦闘シーンは、主だった人物は敵味方を問わず、超人的な活躍ぶりで、およそ奇想天外な作戦も、主人公の現実を超越した超人的な働きで成功に導かれます。角に松明をともした牛の大群を放ったり、水門を開いて大洪水を起こしたり、ヤシの木か何かをロープでひっぱってたわめて投石機のように放つ方法で4-5人単位の鉄楯で囲んで球体の弾丸と化した兵士たちを城内へ飛ばして攻め込むとか、そこらはもう楽しい空想的な戦闘方法が次々編み出されて目の前で展開され、堪能できます。
また、バーフバリがクンタラ王国の王女を連れて故国へ帰るときに大きな帆船を使うのですが、それが白鳥を象った実に美しいデザインの船で、私もあんな船なら乗ってみたいな、と思いました。舳先は白鳥の長い首をもった頭で、帆が白鳥の膨らませた羽のようで、実に美しく、ファンタジーにふさわしい乗り物でした。そして、それが恋を語り合い、歌う二人を載せて、水面を滑っていくかと思えば空を飛び、雲の上を滑っていく。その幻想的な美しさにはほれぼれ。
冒頭の壮麗な瀑布も2年がかりで制作したCGらしいけれど、それだけのことは会って、素晴らしかった。そういう現代の映像技術の粋を楽しむことのできる映画です。
インドは映画の年間制作数が世界一多い国だというのは聴いていましたが、以前は歌って踊ってというインド特有のゆうゆうたるスローテンポの映画で、とても私たちせっかちな日本人が楽しめるような映画ではない、インド独特のものだと思っていたけれど、「スラムドッグ$ミリオネア」(2008)や「きっと、うまくいく」(2009)等を見て、これは面白くなってきたなぁと思っていましたが、あれは現代もの、インドが舞台で登場人物もインドの俳優たちではあるけれど、西欧化した映画には違いなかったと思います。しかし、今回このバーフバリを見て、映像技術は世界的な最新の技術を導入しているけれど、中身は伝統的なインドの伝説を生かしたもので、だからこそ一層面白かったところがあります。
これを見ながら、なぜ日本ではこういう映画がつくれないのかな、とちょっと残念な気がしました。映画にも歌舞伎時代の中身が時代劇として残って一時は隆盛をきわめていたわけですが、映像技術的には最先端のものを導入しながら、日本でしか作れない、伝統の流れをうまく生かしたような映画というのがあるのかどうか、少し心許ない気がします。
演劇プロデューサーのような人たちと一緒にインドネシアに行って作家や詩人、演劇関係の人などが集まっている芸術センターで話し合ったとき、彼らは日本の状況が経済的に豊かな基盤をもつがゆえに制作環境が整っていると考えていて、羨ましいという感じで話していたけれど、こちら側から見れば日本は劇場の建設費のようなハードウェアにはやたらお金をかけていたけれど、ほんとうに創作活動をしているアーチストにとって活動しやすい環境は逆に貧弱で、話し合いの場になった芸術センターのように、異分野の芸術家たちが自由に集まって議論しあい、創造活動をするような場所が日本中探しても一つもないことをむしろわれわれのほうが恥ずかしい想いで聴かなくてはならなかったのを記憶しています。
彼らと話していて特に印象的だったのは、伝統と現代的な課題をどう調和させるか、という問題意識が非常に強く、かたときも自分が脈々と受け継がれてきた伝統の流れの中の存在だ、ということへの強い自覚をもっているらしい、という点でした。
それとの対比でいえば、私インタビュー、取材などで接した日本のアーチスト等と話していて感じていたのは、逆に、きれいさっぱり伝統など忘れ去っているかのような態度だったと言わなくてはならないでしょう。
インドネシアでも演劇をいくつかみてきましたが、日本でも知られたバリ島の観光用の伝統的な野外演劇などでも、公的にその水準を点検審査するシステムがあって、その上演の質を保っているというのを聴いて、伝統的な文化を守りながら新しいものを創り出していこうとしている姿勢を強く感じました。明治維新できれいさっぱり過去を切り捨ててひたすら近代化の道を歩んできた日本と、社会にも文化にも、それよりもずっと前近代を、伝統的な要素を色濃く残した日本以外のアジア諸国との違いがそんなところにあらわれているんだろうな、と思ったことでした。
そういう意味でもこのバーバフリなどは、どうしようもなく「インド的」な映画であると同時に現代的な映画でもあり、両者がうまく混然一体化することで生まれた作品だろうと思います。
座頭市血笑旅(三隈研次監督) 1933
赤ん坊連れの女が急な腹痛で苦しんでいる場に出くわした座頭市が、自分の籠を女に譲って乗せてやったところ、座頭市を殺そうと狙うヤクザが、間違って籠の女を殺してしまい、座頭市は責任を感じて残された赤子を女が帰ろうとしていた嫁ぎ先へつれていって女の亭主に渡そうと決心し、終始やくざと彼らが助っ人に巻き込む貸元たちのごろつきに狙われ、襲われながら、赤ん坊づれの旅を続けて、とうとう死んだ女の亭主のところへたどりつくものの、そいつがとんだ根性悪のやくざもので、もともと市を狙っていたヤクザと組んで市を亡き者にしようと襲い掛かります。
今回の新味は、座頭市が慣れない子連れ旅をして、赤ん坊に小便をふきかけられたり、大便の始末をさせられたりでおおわらわ、しかも容赦なく襲い掛かる敵から自分と赤ん坊を守らなくてはならない、というシチュエーション、つまりそうしたハンディキャップを市に負わせた設定。
もう一つはその子連れ旅の中で、スリの女と遭遇し、互いに喧嘩しながらも、市が赤ん坊を扱いきれないのを見ていられなくなって女は市を援けるうちに赤ん坊に情がうつり、結局最後まで市を助けていくことになる、その女のからみ。
そして三つめは、市をしつこく狙うヤクザが悪知恵を働かせ、市のチャンバラの強さを支える聴覚を混乱させるために、手下たちに先に火のついた長い棒で攻撃させる、火責めとの戦いで、市がけっこう当惑し、危ない目に遭うというところでしょうか。ただ、敵の中に「座頭市物語」の天地茂の演じた浪人者のような凄腕はいない、ただのやくざ者ですから、そのへんは少し物足りないところがあります。
三隅研次が監督なので、シリーズ最初の「座頭市物語」のような様式美も期待したのですが、このシリーズの売りである市の盲目の殺陣は別として、そういうのはあまり見られなかったように思います。その代わり赤ん坊の扱いに当惑し、扱いかねている市の人間味を垣間見させ、ユーモラスな場面もつくりだしているところが味噌かもしれません。
生きてるだけで、愛。(関根光才監督)2018
私としてはめずらしく、とれたてホヤホヤの映画の感想です。出町座でやってくれたので、昨日、夕方から寒い中を見てきました。
出町座のホールは小さいせいもあるけれど、ほぼ満員で、それもほとんどが若い女性か若いカップルで、おじいさんとしては前後左右を若い女性に挟まれた狭い席で、なんだか自分のような年齢の者が立ち入るべきではない場所へ来てしまったような戸惑いがありました。
パートナーに訊いてみると、いま若い女性にタレントで誰が好き?と訊くとたいていが菅田将暉と答えるんだそうです。私は読み方も知らずに直虎のときも、「すがた」あるいは「すげた」だろうか「かんだ」だろうかなんて思っていたら、「すだ」と読むらしいですね。とにかくこの客層はどうやら「菅田将暉効果」らしいです。
でも見た結果は、この作品自体の力で見る者の胸に訴えてくる、いい作品でした。
やっぱり第一に挙げなくてはならないのは、主人公の過眠症で鬱の、若い女性寧子を演じた趣里の熱演でしょう。
実は私がこの映画を観たいと思ったのは、もちろん菅田将暉のせいではなくて(笑)趣里が主役を張る映画だったからです。趣里を知ったのは、ずっと見ていたテレビドラマ「ブラックペアン」の強い癖のある看護婦を演じているときで、この女優さんは、きっとこれから大活躍するに違いない、と思っていたので、主役をやるというので喜んで見に行きたいと思ったのです。その期待どおりの演技で、この映画の魅力、強さの肝心なところは、彼女が支えていると思いました。
主人公の寧子は、設定は20代の半ばにさしかかったところでしたか、本来なら社会へ出て関係性を広げ、仕事にも慣れ、大人の女性としての魅力に輝いていてよい年齢ですが、彼女は対他的な関係をうまく処理することができず、辛うじて姉や、同棲する津奈木とはコミュニケーションを交わしているけれど、いわゆる躁鬱症で、仕事に就いても朝決まった時間に起きられず、遅刻はするし、職場の同僚などともうまくやっていけなくて、現在は無職のまま。過眠症で一日中部屋にこもって眠っているような状態です。
そういう自分に苛立ち、何とか自分を変えようと試みては挫折し、傷つくことの繰り返し。そういう彼女と同棲しはじめた津奈木は優しく淡々と受け止め、あるいは受け流し、自分は出版社で自分の意に沿わないゴシップ記事を書かされてやっぱり疲れているのだけれど、苛立ちを津奈木にぶつけてくる寧子にはやさしい。けれども、それは寧子にとっては、単に彼が本気で彼女に向き合っていないからだと感じられ、一層苛立ちをあらわにする、そんなことを繰り返しています。
こういう閉じられた二人の関係の世界に、津奈木のモトカノ安堂が彼とヨリを戻そうとして割り込み、津奈木には内緒で寧子に彼のところから出て行けと言います。無職だし出て行けば生きていけない、というと、じゃさっさと職に就け、と言って、安堂は知り合いの村田夫妻が経営するカフェバーを紹介し、強引に寧子を雇わせてしまいます。村田夫妻も先輩ウエイトレスの莉奈も寧子にとっては「いいひと」で「家族と思ってくれればいいのよ」と温かく受け容れてくれます。
けれども寧子はここでもどうしても自然な接し方ができません。彼らに温かく受け入れられて、一緒に食事をして歓談している最中に、ちょっとした話題から、ウォッシュレットの水がもしも身体を切り裂いたらこわいじゃないですか、という妄想めいたことを冗談のように笑顔でチラッと口にした瞬間に、村田夫妻や莉奈の表情が一瞬変わったことに寧子は否が応でも気づきます。
「やっぱり見抜かれてしまう」・・トイレにひとりこもって彼女は呪文のようにつぶやきます。トイレからいつまでも出てこない彼女を村田夫妻も莉菜も心配して声をかけにきます。でも寧子は答えられず、心配を募らせた村田は激しくドアを叩きます。それは寧子には自分に襲い掛かる耐えがたい暴力のようにさえ感じられたのではないでしょうか。
寧子は突如キレて便器を破壊して飛び出し、身に着けた衣服を剥ぎ取りながら街をただただ疾駆していきます。
他方、津奈木は人を自殺に追い込むようなゴシップ記事を書きながら、ずっと嫌気がさして心身ともに疲労困憊の極にあり、苛立つ寧子にも向き合うことができずにいたのですが、編集長の意に背いて別の記事にさしかえ、叱責を受けたとき、とうとうキレてしまって、ノートパソコンを投げつけ、パソコンはガラス窓を割ってビルの下の地面に落ちって粉々に壊れ、彼は会社をクビになって帰ります。
彼が帰宅すると、アパートの屋上の片隅に全裸で震える寧子がいます。そのとき、それぞれに持っていた或いは何とか持とうとしていた外部とのつながりをまた全部失い、深く傷ついた孤独な二つの魂がはじめてひとつになったような瞬間が訪れ、二人は抱き合います。
この作品は、躁鬱症の若い女性を描き、なかなか余人には理解しにくいその苦しみを趣里の熱演でリアルに描き出していますが、決して病としての躁鬱症や患者の悩みを描こうという映画でもなければ、そういう人に対する周囲の理解あるいは理解しがたさを一つの社会問題として描こうという作品でもありません。
寧子は自分でも躁鬱だといい、過眠症だといい、そうした生理に苦しんでいるけれども、この映画はそうした彼女を躁鬱病の患者と決めつけてその苦しみを描いているわけではありません。事実としては他者とうまくコミュニケーションができないとか、朝が起きられないとか、医者なら「症状」という現象がみられるけれど、それは多かれ少なかれ、毎朝いやな仕事に出かけなくてはならない私たち多くの宮仕えの人間、つきあいたくもないご近所さんといやがうえにも愛想笑いでやりすごしながら共存していかなくてはならない普通の人間でも味わっていることで、彼女が特別な人間というわけではありません。
多かれ少なかれ私たちも一人でそっとしておいてほしいのに、外部と接触し、関係していかざるを得ず、ときに引きこもり、時に落ち込み、もうなにもかも放り出してしまいたい、と思う瞬間を持っているのではないでしょうか。そして、にもかかわらず、なんとか持ちこたえ、そういう状態から抜け出したいと努力して自分の気持ちをひきたたせ、もっと強い自分になりたい、ともがいているのではないでしょうか。そういう意味では寧子は私たち自身を生きていると言わなくてはなりません。
彼女はそういう自分をなんとか変えようと努力しては挫折を繰り返しています。生きる気をなくしているのではなく、なんとか生きて行こうともがき苦しみながら、自分を奮い立たせ、それまでの自分を脱しようとしては挫折し、傷つき、つらい思いをする繰り返しで、疲れ、自分に苛立ち、また津奈木にその苛立ちをぶつけ、正面から受け止めてもらえずによけい苛立っているわけです。その悪循環にもがき苦しむ姿を趣里が実にみごとに演じています。
「生きてるだけで、ほんと疲れる・・・」という寧子の言葉には、真実味がこもっていて、そのつらさが観る者、聴く者の胸にも伝わってきます。
彼女が躁鬱病の患者で、その苦しみを描いたものであるなら、わたし(たち)は見ていて、それは私たちには理解することも共感することも難しい、そのような心の病の患者さんの世界だと感じることでしょう。それは私たちにどうすることもできない医療上の問題であり、心療内科の専門医に診てもらって直してもらうしかないんじゃないか、とかえってわたし(たち)自身にとっては疎遠な世界のように距離をおいてみてしまうでしょう。また、医療キャンペーンの映画ででもないかぎり、そうした映画をつくる意味もないでしょう。
けれどもこの作品を見ていると、自然にわたしたちは寧子に寄り添って生きています。なかなか自分がほんとうに言いたい言葉がみつけられず、本当は好きな相手なのに反対に苛立った言葉をぶつけてしまったり、そんなふうに自分の気持ちがコントロールできず、他者とのコミュニケーションがうまくとれない自分に落ち込んでしまったり、誰もが心当たりのあるそういう内面をかかえた寧子が自分に自然に重なってくるのです。
そして、そういう気持ちでこの作品を見ているうちに、寧子の周囲の人々、寧子自身がこの人たちのようになりたい、彼らと同じようにふるまい、彼らの中に自分も彼らと同じものとして、決して「見破られる」ことなく融けていたい、と願っている「ふつうの人たち」の姿が、いままでとは違って見えてきます。
もともと津奈木のモトカノの安堂などは、寧子に対する言動などみると常軌を逸したもので、趣里もあなたのほうが変じゃないかという場面があったけれど、たしかに「ふつう」じゃありません。単に極端にジコチューな女なんだ、と見ようと思えば見えるかもしれないけれど、もともと頭がおかしいんだ、と見えなくもありません。田中夫妻や莉奈もKYといえばKYで、ふつうは鬱病かも、というような人に対してそういうことは言わないでしょう、みたいなことを言うような鈍感さがあって、「ふつう」とは言えないところが見え隠れはしますが、いちおうはどこにでもいる「ふつう」のいいひと、とされているような人たちでしょう。
だから、彼らがトイレから出てこない寧子を心配して声をかけ、返事をしないから、どうかしてしまったんじゃないか、と心配を募らせて、どんどん声掛けがエスカレートして叫び声になり、怒鳴り声になって、ドアをドンドン激しく叩く行為になっていくのは自然といえば自然なことです。
けれども、私たち観客は、このころになると寧子に寄り添った目で成り行きを見ているせいか、こういう「ふつう」の彼らがやっている或る意味では当然の行為が、ものすごく暴力的な行為に感じられます。ドアを破らんばかりの、あの連続して叩く音を耳にすると、たぶん寧子が感じているのと同じように、私たちの胸にも猛烈に暴力的な響きとして伝わってきます。ここでは寧子がついにキレて、便器をぶっ壊して飛び出していくのが、まったく自然に呑み込めてしまうほどです。
この或る意味でクライマックスのようなシーンで、私たちは寧子が何を恐れて来たのかを目の当たりにすることになります。
私たちがふだん「ふつう」のひと、と考えている人たちも、みな或る意味では、あるいは時と場合によっては、むき出しの暴力性を持っておびえる心を追い詰め、攻撃するような存在に一気に変容してしまえるんだということが目に見える形で示されるからです。
それは、ほんとうは普段のなんでもない穏やかな表情でやりすごし、受け入れてくれているような日常の中にも潜んでいる他者性の本質であるかもしれないのです。
それを全力で拒んで逃走した寧子が、ヒリヒリするように傷ついた心の素肌をさらすような全裸の姿で屋上の闇に蹲っているところへ帰ってきた津奈木もまた、仕事場で味わった、自分が持っていた一片の人間らしい気持ち、自分の文筆が傷つける人へのうしろめたさ、記事を書く記者としての最小限の矜持をも押し殺そうとする力に対して、全身全霊で抗い、拒み、すべてを失って傷ついていたがゆえに、はじめて二人が真正面から向き合い、絆が生まれる・・・
そういうお話だろうと思います。ラストに聴こえる寧子のモノローグは、正確に再現はできないけれど、人と人が理解しあうことは難しいけれど、彼と私も一瞬だけわかりあえたと思えるときはあった。そしてその一瞬によって私は生きている、と、そんな趣旨の言葉だったかと思います。愛という言葉がひどく空虚に聞こえる現代にあって、とてもリアルで、切ない認識だけれど、一縷の希望につながる言葉のように聞こえました。
この作品はこれまで書いてきたような寧子の状況を自然に表現するために(原作に既にあったものかどうかは原作をまだ読んでいない私には分かりませんが)いろいろ面白い小道具を使って仕掛けをしています。
たとえば、彼女が引きこもっている部屋はよく電気のブレーカーが落ちます。2,3回真っ暗になりましたね。うちの台所も始終電気のブレーカーを落とすので、あれを見て笑ってしまいましたが、電気を同時に沢山使うと自動的に落ちるようになっているんですね。
あと、彼女が煙草を吸おうとすると、箱の中には一本も残っていない。これも2回くらいあったんじゃないかな。一度はチョコだったかな、これも一粒残っていたはずだから、つまみ食いしようと思ったのに、思い違いしていて、実は一つも残っていなかった、と。私もよくやりますが、がっかりしますよね(笑)。それからライターのオイルがなくなっていて、カチカチやっても火がつかない。
いまほしい、そのほしい時に、肝心のものがない、という状況が、彼女の「固有夢」(幾度も見る、その人固有の同じ夢、この場合は悪夢ですよね)のように、繰り返し起こります。
いずれも大したものではないけれど、ほしいとき手元に無ければちょっとイライラする。そういうことが日常的に頻繁におきている。これは偶然ではなくて、彼女自身が招き寄せている彼女固有の現象だと言ってもいいでしょう。
それらがいま無いのは、彼女が既に使っちゃっているからですね。電気は定められたアンペア数より余計に使っちゃっているからだし、煙草は全部吸ってしまい、チョコは全部食べてしまい、ライターのオイルは使い切ったからでしょう。
彼女が浪費家で、人より彼女がたくさん使う人なのかどうかは分からないけれど、いつも無い、いつも足りない、というのは、彼女にはいくら補充してあげても、いくらあっても足りないんじゃないか、という気がしてきます。それが彼女の「固有夢」のようだという理由です。
こういう小道具をいくつか配していることで、彼女が常時、渇えた状態にあることを自然なかたちであらわしているようです。
私が幼いころ、疫痢かなにかで病院に隔離されて何も食べさせないでいる患者は、飢餓状態の極限で、最後は病室の壁を削って壁土でも食べる、なんて嘘か真かわからない噂話を聞かされたことがあって、なんだか不気味で怖かったので今でもおぼえています。人間は飢餓の極限では何をするか分からない。たぶん突如そういう常識では考えられない突飛な行動をとるのかもしれません。寧子もまた、胃袋の飢えではないけれど、精神の飢餓状態で、ときどき唐突に普通では考えられない行動を暴発させます。
彼女が幾たびか口にする「見抜かれちゃうのよね」という言葉は、なかなか面白かった。本当の自分、「ふつう」じゃない自分、あなたがたとは「ちがう」人間だということを…見抜かれてしまう、と。
漱石の文章の中に、幼いころ、池の中の得体のしれないものに引きずり込まれていく恐怖を感じたという、心的な体験を書いたところがあったのを記憶していますが、たぶん漱石という人は一生その得体のしれない、自分を水底へ引きずり込んでしまいそうな何かと格闘してきた人で、夫人からさえ狂気の人のようにみなされた作家でした。
この映画で寧子が店の主人夫妻や同僚の莉奈と歓談しながら食事していて、ふと話題がそっちへいって、トイレのウォッシュレットの水がどこへ当るなんて笑い話になって、彼女が勢いのいい水は切れるから、勢いが強い水が体の真ん中に当たったら身体が裂けて・・・という妄想めいた連想へ一瞬飛躍した瞬間に、それまで笑っておしゃべりしていた「いいひとたち」の表情が戸惑いの表情になる場面があります。それを感じた直後、トイレのほうへ歩み出した寧子は、一瞬「見抜かれた」と覚り、周囲の人たちの表情が凍り付いたと感じたはずです。
"ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によって ぼくは廃人であるさうだ"(吉本隆明「廃人の歌」『転位のための十篇』)
漱石の水の中の魔物も、寧子の身体を真っ二つに切り裂く水も、それぞれの「真実」なのだろうと思います。それを垣間見せるとき、たとえ「たかがウォッシュレット」であっても、全世界が凍り付き、彼女は異様で不気味な存在と「見抜かれ」、全世界から疎外されてしまいます。その一瞬を彼女に寄り添っていたわたしたち観客もまた鋭い痛みとともに感じることができます。
最後にいくつか・・・。
安堂という女性が寧子と津奈木の閉じた世界から寧子を外部へ無理やり引っ張り出す契機になる役割を担っていることはわかるのですが、出ていく元手を稼がせるために就職先を紹介して送り込み、監視する、という設定はどう考えても不自然で、これは原作自体の問題なのか脚本に始まることなのか原作を読んでいない私には分かりませんが、もう少し彼女の言動にリアリティを持たせる工夫があってもよかったのではないかという気がしました。
津奈木の職場の同僚で、以前に自分が書いたゴシップ記事で自殺した人がいて、トラウマを抱えている女性を演じているのが三宅唱監督の映画でお馴染みになった石橋静河です。私が大好きな女優さんなので、少しひいき目があるかもしれませんが、言って見ればちょい役に近い脇役なのに、さらっと自然態で演じているようで存在感があって、とても良かった。津奈木と同様の問題を抱えていて、彼女のほうがその面では先行しており、津奈木は彼女の行程をなぞっていたわけです。そういう津奈木の状況を一層クリアに浮かび上がらせるのが同じ職場で同じような仕事をしていて、前にその記事で自殺者を出した経験を持っている彼女の存在であり、役割なわけです。自分の方が目立ってもいけないし、かすんでいてもだめな、ちょっと微妙な難しい位置だと思うけれど、きれいにこなしていましたね。拍手!
人気の菅田将暉については下手なことを言うと若い女性の反発をくらうことは確実だから、何も言わないのが得策でしょう(笑)。
台北ストーリー(エドワード・ヤン監督)1985
出町座の「台湾巨匠傑作選KYOTO」と銘打ったシリーズの一環での上映できょう見てきました。
「悲情城市」の監督ホウ・シャオシェン(侯孝賢)が主演で出演しているので驚きましたが、それがまた名演なので二度びっくり。エドワード・ヤン監督の作品は「恐怖分子」や、とりわけ「ク―リンチェ少年殺人事件」で素晴らしい作品を撮った人なんだな、というのを記憶していましたが、この作品も、とてもいい作品でした。中国語のタイトルは「青梅竹馬」というのですね。幼馴染を表現する言葉らしいけれど、主人公の男女がもともと幼馴染なんですね。
ホウ・シャオシェン演じる布地問屋の家業を継いでいるアリョンと、彼の幼馴染で、結婚するともしないとも曖昧な関係らしい、不動産開発業の会社のキャリアウーマンであるアジン(阿貞~女優は歌手ツァイ・チン=蔡琴)が主役で、冒頭は二人がマンションの空き家をみにきて、ここに居をかまえようとしているところから始まります。
アジンのほうが積極的で、アリョンはバットの素振りの身振りをしてみたり、気が乗らない様子。アジンは会社でもなかなかやりてのようです。ところが、勤めていた会社が大企業に買収され、自分が助手として深い関係にあった上司が辞めるなら、とアジンも職を辞めてしまいます。
彼女はどうもその上司と男女としてもちょっと関係があったように思えますし、一方、アリョンのほうも東京で日本人の男と結婚した台湾人女性とかつては恋人どうしで、アメリカの帰りに東京へ寄って会っていたらしく、台湾へ帰省した彼女から呼び出されて会いに行ったりもして、それを知ったアジンが怒る場面もあります。
まあそれやこれやありながら、二人はいわゆる大人の関係です。アリョンとアジンの二人は、地域に生まれ育ち、幼いころからアリョンは野球のヒーローとして、また長じても周囲の人々からはそれぞれ頼りにされ、愛されるしっかりものであるようですが、色々と過去を引きずりながら、基本的な信頼感があり、どこか関係そのものには安定感があって、少々自分一人の世界で誰と接触していても、それで二人の関係そのものまでゆらぐことはなさそうな二人です。いまは結婚するかしないかといった境目のあたりで、心理的に「自然」と化してしまったような大人の恋と言うのか、大人の男女としての関係をつづけている二人です。
アジンは、アリョンの義兄のつてを頼って米国に移住し、それを機に結婚しようとアリョンに提案しますが、アリョンはもうひとつ積極的ではなく、言いながらなかなか踏み切ろうとはしません。
それでもアリョンは家も売ってしまって移住の準備金をこしらえますが、事業に失敗し身を持ち崩したアジンの父親(アジン自身はこの父親に激しく反発していて、援ける必要はない、と主張)や、3人の子を置いて嫁さんが逃げ、あとに残された知り合いのアキンに貯めた金を出してやったりして、米国移住はうやむやになっていきます。
なぜアジンの父親のようなだらしない、懲りない爺をくりかえし援けるのかと言えば、それはアリョンが地域社会に生まれ育ってどっぷりそこに浸って今に至った人間であり、アジンとも幼馴染で、彼女が嫌うその父親のことも、親しい親父さんとしてもともと身内のように自分を可愛がってくれて来た人であり、また自分もよく馴染んできた人だからでしょう。
彼は、自分が少年野球のヒーローとして嘱望されながら成長し、根付いてきた地域、この台北の街と地域の人々との関りを、彼に比べればモダンな精神の持ち主であるアジンのように簡単に捨てていくことができません。
むしろアジンのほうが仕事の上でも、アリョンのように地域社会に密着した地元企業ではなくて、モダンな企業を選んでパリパリのキャリアウーマンとして才覚を発揮していたわけです。ただ、企業の事情で、職場での仕事の継続を断たれたため、この際結婚して移住しようと積極的ですが、曖昧なアリョンの態度や彼の東京のモトカノのことなどもあって鬱々として、若者と夜中まで遊んだりして気晴らしをしています。
そんな気晴らし仲間の若い男が、ちょうどアジンと気持ちの行き違いがあってマンションから出て来たアリョンと接触し、アリョンがもうアジンに近づくな、と言い捨ててタクシーで去るのをオートバイで追い、途中でタクシーをとめて降り、その若者をボコボコにします。去っていくアリョンを若者が追って、手にしたナイフで腹を刺して逃亡します。タクシーも逃げてしまい、アリョンは腹から出血したまま街の方へ歩き、とうとうしゃがみこんで、なんてこった、というように苦笑するのでした。
そして翌朝、アリョンは担架に乗せられて救急車へ。それを指示している医者らしいのが全然急ごうともせずに警官と喋っているのは、きっとアリョンが死体として発見されからなのでしょう。
他方、アジンは前から彼女に声をかけていた女性事業家から声がかかり、新しく起こす会社の幹部として雇われるべく、その会社のオフィスを物色するためにビルの空きフロアに自分の上司・相棒となる事業家とともに訪れていました。
繰り返しになりますが、こうして色々なことが二人の周囲で起きるけれど、二人の間に関しては、基本的には男女の愛情というのか深い信頼関係で結ばれていて、過去は色々あるけれど、これから結婚して新しい生活を始めてもいいかな、というあたりにきている、そろそろ壮年期、仕事に人生に自信と経験を持ってバリバリ取り組んでいこうという年齢で大人の関係を取り結んでそれぞれ仕事をもってやっている、ただ米国に移住するかどうか計画をもちながら男性のほうが地域社会とのしがらみに足をとられていて、決断がつかず、女性の方が積極的だったけれど、結局実現しそうもないところへ落ち着いてしまう。・・・まぁそういう、どうということもない、大きな事件や何かが起きるような物語ではありません。
むしろこういう二人とそれを取り巻く周囲の人々の生き方、関わり方の中に、台北という街の地域社会、そこに生きる人々の古い絆がまだ生きているような部分と、企業や男女関係などに新しい現代的なものが入って共存しているような背景というものが、ごく自然な形で伝わってくる、そういう地味な作風になっています。
だからむしろ主人公は台北という街、地域社会、その人間関係のありよう、といったところで、日本語タイトルの「台北ストーリー」というのがその中身を示していると言えるでしょう。
映像にすばらしいシーンがあります。アジンが若者たちとオートバイを連ねて夜の台北を疾駆する場面は、どうやら総統府の前あたりらしいのですが、建物という建物にイリュミネーションが飾られてすばらしい夜景の中を突っ走る、最高に美しい場面です。
また、ビルの上のほうの階が何度も舞台になるので、そこから向かいのビルの大きな富士通やなんかの日本の大企業の文字が入った看板が真直に見えて、何度も映るのですが、或るシーンではその看板の大きな文字の前にアジンとアリョンが向こう向きで少し離れて立っていて、広告灯の明かりでこちらから見ると二つの影になって立っているシーンがありました。ああいう非常にモダンで美しい場面がけっこうありました。
アウトゼア(伊藤丈紘監督)2016
正直のところ、私にはこの作品は一度みただけでは分かりそうにもありませんでした。なぜこういう映画をつくったのだろう?なぜわざわざこういう分かりにくい構成にしたのだろう?この作品でなにが言いたかったのだろう?どれも素人なりにほかの映画を観る時と同じように素直に見て考えてみましたが、やっぱり分かりませんでした。
それで今回はちょっとウェブ上でこの作品について触れているような記事がないか検索してみました。多くは映画の外形的な説明でほとんど上のような問いに応えてくれるものはありませんでしたが、中に、この作品がエドワード・ヤンなど台湾ニューシネマの影響を受けているというのか、その作品に触発されてつくられているとか、個々の場面の映像がほかのだれかの作品の或る場面を喚起し、それがまた別の映像に重なったりつながったりしていく、そういう最初から同じ対象をとらえながら、ずれた視点でとらえられた異なる映像が別々の系列の映像を喚起しながら、また相互に重なり合い、溶け合い、つながることで、展開と収束の形を創り出しているんだ、というような(まったく私の読み方で私の言葉に無理やりホンヤクすれば、ですが・・・笑)というようなことを述べている記事があって、あぁ、そういう「新しい」映像処理の技法というか、映画の作り方みたいな、方法意識が前面に出た作品だから、私のようなシネフィル(映画マニア)でも何でもない、たまに楽しんで映画を観るだけの人間には分かりにくい作品になっているんだろうな、と思いました。
映画学校や大学の映像学科系の学生の卒論制作や大学院生など映画作りを志す人の作品には、同じような感触を覚える作品は結構沢山ありますし、いまメジャーデビューしていい作品を生み出しているような監督でも、20代のころはそんな作品ばかり作っていた人も少なくないので、きっとプロの評論家ならこういう段階で才能を見出し、そういう人の中から、やがて一般の人にも感動できるようないい映画を作る人が出てくるのだろうと思います。
ただ、この作品がどうこうというのではなく、映画の評論では、今回たまたまウェブ上で垣間見た文章がそれに近いものであったように、ときどき、この場面はだれそれの何という作品の一場面を明らかに意識している、という、広い意味での過去の著名な作品の「引用」を指摘することが、なにかその作品の価値を高めるかのようなニュアンスで書かれているのをみかけると、不思議な感じがします。
映画を沢山見て来た人は、自分の知っている映画の(それもあまり一般の人が知らないような映画の・・・笑)一部が新しい映画に「引用」されていたりすると、嬉しくてたまらないのだろうな、という意味では分からなくはありません。
映画の作り手がひそかに作り込んでおいた暗号を自分だけが見つけ、解読したような歓びがあるのでしょう。そして、その引用された作品なり映画作家なりが好きな人なら、同じ趣味の持ち主として分かり合える、と思うと余計に評価したくもなるのでしょう。そういう「引用」を散りばめることが映画への敬意の表明だと思っているような評論家もあるようです。そうすると、そういう「引用」が多いものほど、ちゃんと伝統を踏まえた良き作品だ、というような倒錯的な評価に行き着いてしまうのも無理はないかもしれません。
たしかに本歌取りというのは日本の文芸でも昔から得意技とされていますが、そういうのも多くは、わたしはちゃんと過去の作品を見てるぞ、知ってるぞ、と知識を誇りたいだけの、つまらない作品で、本歌取りによって自分の当の作品自体に新たな付加価値を創り出しているような作品ばかりではありません。もちろんそういう価値を生み出している作品は、本歌を知らなくても、それ自体の作品として自立した価値を持つものだろうと思います。源氏物語なども、あの時代に周囲のサロンの人々なら誰もが読んで心得ているであろうような過去の和歌や物語への直接間接の言及が夥しい数見出せるけれど、それを知らずに素直に読んでその価値が成立しないような物語でないのはもちろんのことで、知っていれば学者的な、あるいはいわゆる教養人的な知識の奥行を楽しむことはできるでしょうから、いっそう楽しめるということはあっても、言葉の端々にさりげなく言及された過去の表現についての知識がなくてもひとつの自立した物語としてその価値を十全に味わうことはできるし、そもそもそうでなければその作品がすぐれた作品であるはずもないでしょう。本歌取りは単なる技法(テクニック)であって、それが当の作品の良しあしを決めるわけがないことは自明のことでしょう。
若い監督が自分が深甚な影響を受けた映画作家にオマージュを捧げるという意味で、ちょっと引用してみせる、というのはよくあることで、それに気づいた観客はただ微笑してやり過ごせばよい体の、内輪の「めくばせ」のようなものでしかないと思います。
その「めくばせ」を俺は見過ごさなかったぞ、と威張って見せるなどは、まだお山の大将を演じる子供のようで可愛げがありますが、その「めくばせ」に気づかないようなやつはこの作品を見る資格がない、と凄んで見せるような御仁もいますから(笑)、ただ目の前のその作品自体を楽しみたいだけの私のようなその他大勢の観客には迷惑な話です。
「めくばせ」は内輪の行為で、そういう符牒が通じる仲間内のだれそれに向けて発するもので、「めくばせ」自体が、作品の作り手の意識が仲間内に向けられていて、これに過大な意味を与えるとすれば、外部に開かれない、無意識のうちに閉じた表現意識を証すものでしかないだろうと思います。
知識人や芸術家あるいは評論家などには、「わかりやすさ」は非常に評判の悪い指標です。もちろんひとつには事態の複雑さを無造作に単純化してしまう乱暴な議論が世の中に少なくないせいもあるのですが、裏返せば、分かりやすくなってしまえば自分たちの商売にさしつかえるからではないか(笑)。
日常語を洗練して考え抜かれた海外の哲学などを読んだわが国の知識人たちは、庶民の読めるような磨かれた日常語に翻訳する以前に、紹介と称して自分の著作をものにしてきたような人が少なくないけれども、次第に誰でも読めるような原典の翻訳が出そろってくると、もうそういう人たちの書いたものは何の意味もなくなってしまう。原典の新しい翻訳を読めば、そのほうがずっと分かりやすく、間違いも少ないから(笑)。
映画も、ニューシネマだのニューウェーブだのという名のついた海外の流行が日本に輸入されて影響を受けてきた映画人がそれぞれに影響を受けたことを公言する作品をつくってきたのだろうと思います。でも、そのもとの「ニューシネマ」だか「ニューウェーブ」だかの作品のほうがずっと分かりやすかったりしませんか?
少なくとも私は今回観たエドワード・ヤンの「台北ストーリー」も以前にみた「ク―リンチェ少年殺人事件」もさっぱり分からない、などということは全然なかったし、とても面白く観ることができました。そのうちフランスの「ニューウェーブ」で日本の或る種の映画作家や評論家が神様扱いしているような人の作品も、何の先入観も偏見もなく素直に少し数多く見てみようと思っています。きっと彼らの影響をうけたぞ、と公言しているわが国の映画より、そういう「元」の人たちの作品のほうが、ずっとわかりやすいのではないか(笑)。
彼らがほんものの芸術家であれば、きっと一般の人間に見てもらい、どんな先入観や屁理屈や情報もなしに、一つの自立した作品として、その作品だけを見てもらえば、心に訴えるはずだ、という開かれた意識で制作しているに違いない、と思うからです。
さて、ずいぶん話は小見出しにした作品から遙か遠くに行ってしまいましたが、この作品は実際にはたしか2時間と5分の映画だったはずですが、こちらが分からないせいもあって、ひどく長く、そう3時間は優に超えているんじゃないか、と見ながら感じていたので、その間、居眠りはせずに、両眼は目の前のスクリーンを確かに見ているのだけれど、意識の方はどんどん離れて行って、上に書いてきたようなことが次々心に浮かんでいました。だから、それが私の「この映画を見ての感想」になってしまうわけです(笑)。
でもとてもまじめな作品だと思いますし、若い監督さんであれば、今後ますます良い作品、わたしたちごく普通の観客にも開かれ、心を動かされるような作品を作っていただきたいと願っているので、そういうド素人の観点から、恐れながら(笑)こんなことを考えたんだけどどうでしょう、というところをこの作品に即して書き留めておこうと思います。
まったく映画づくりなど知らないド素人の乱暴さで言わせてもらえば、台北へ(多分)ロケで行って、主人公(この作品の中で劇中劇のように映画が制作されていて、彼はその主役をつとめている台湾人らしい若者)が自分の母親だったかにインタビューしている台湾の部分と、劇中劇的な、作品の中での映画づくりの話と、それからその作品中での映画の配役で主人公と相手役をつとめている、その若者と相手の女の子との恋愛話(正確には恋愛とは言えないかもしれないけれど、まぁおおざっぱに言って)と、この三つの要素が、この映画の中では、とても分かりにくく混在していて、重ね合わされていたり、いわば相互浸透的に片方が他方に入り込んでいたり、融合していたり、カラーとモノクロを使い分けたりしながら交互に、あるいは前後して挿入されたり、というふうになっています。
これを明確に別々の三つなり二つなりの系列に分離して、それぞれにふさわしい枠組み、構成、展開を与えれば、映画制作の部分はちょっと心許ないけれど~だいいちこの作中映画制作を担う「監督」ではどんな映画もとれそうにない気がしますから(笑)~、台湾のお母さんの昔話と主人公の恋愛話はきっとそれなりにいい作品になるのではないか、ともてあました時間の中で私は妄想していました。
もちろんそんなことはこの映画の作り手の考えもしないことでしょうし、異なる系列の世界、異なる場面を重ねあわせ、バラバラにしてはくっつけ、融け合わせる中で、なにかを語りたかったのでしょう。でもそれは私には無用の混乱や拡散のようにしかみえず、冒頭のような印象に終わりました。
ただ、ひとつだけ印象に残ったのは、この主人公をつとめた台湾ボーイがなかなか良くて、とくにローラースケートで街路を突っ走ったり、階段にジャンプする練習を繰り返すようなシーンがあって、映画の中で映画を撮ろうとしてオーディション面接なのか何なのかこの若者に監督が、なぜローラースケートをするの?というようなことを訊く場面があるのですが、そのときこの若者は、たぶん監督が期待というか想像したような、こういう理由あるいはきっかけでやっているとか、始めたんだ、とかいう答え方をしないで、ただ毎日すべっているからすべっているだけ、みたいな、(言葉は覚えていないけれど)私の受け止め方では、ちょうど、なぜ君は生きているの?と訊かれたときのように、いや、そう言われても、いま生きているから生きているだけで・・・とでも答えるような答え方をしていたのが印象に残ったのです。
多分彼にとってのローラースケートはそういうもので、君はなぜ歩くの?と言われても困るように、また君はなぜ生きているの?と言われても困るように、君はなぜローラースケートをやるの?と訊かれても本当は彼も答えようがないのでしょう。生きている、というのと同じことだからです。
それが、ローラースケートで疾走している彼の姿をとらえる映像から感じられました。もしこの映画にベースというのか、音楽で言えば基調低音みたいな、基調となるリズムのようなものがあるとすれば、それはこのローラースケートで走る彼の映像なんじゃないか、という気がしました。言語で言えばそれが自己表出(笑)。彼女だの台湾だの映画だのといったものは、そこへのっかってくる、そこへ絡んでくる指示表出で、あれこれ作品の世界を広げ多彩にしているけれど、問題はあのローラースケートで滑走する若者の映像という基軸にどうそれらが絡んでくるかなんだろうな、と思って観ていました。それがウェブで垣間見た誰かのコメントのようにいわば中身抜きの映像(画像)的な照応だけでこの基軸のところにフィードバックするような回路が作れるのかといえば、それは無理だろうと思います。
台湾の話はうまく引き出していけば、ホウ・シャオシェンが描く台湾家族のような物語りを構成することができるような絵柄を持っていたように思えましたし、主人公の若者と相手役の女の子はそれぞれ台湾人と日本人で、背負っている文化も異なるし、現代的な個性を持った男女のようだから、その恋愛もいまふうのちょっと独特の関係になるんじゃないか、とかいろいろ空想しました。この作品では、台湾の人々や暮らしの一片をとらえても、私たちの親の世代が台湾でやったことや、台湾の人々の日本との関りの問題、あるいは大陸との関係のような物の投影は感じられなかったし、台湾というひとつの系列をとってみても、正面から台湾に向き合っているようには見えませんでした。
映画の中の映画制作の話はこのまま引き延ばしてもものになりそうにないし、こういう劇中劇的な映画の中の映画制作という枠組みを持たせた作品は過去に私ほど映画を見ていない人間でもいくつかかすかな記憶があるくらい数多そうで、それ自体はありふれた二重底なので、どこにも新たな意味を持ち得るような要素が感じられません。なぜこういう枠組みが不可欠だったのか、なぜ先に挙げたような三つの系列をいっしょくたにしてしまう余儀ない理由があったのか、そこも分かりませんでした。
ただローラースケートの彼の映像が基調のリズムをつくっているように感じたので、映画が終わるときはそのリズムが断ち切られるときだろうと思ったので、最後は彼がローラースケートで突っ走っていて、突然車に衝突され、イージーライダーの青年のように吹っ飛んで炎上して終わり、という終幕を想像していたのですが(笑)・・・いや、彼が死ななくてよかったです。
怪怪怪怪物!(ギデンズ・コー監督)2017
もともとホラー映画は見ようとも思わないのに、たまたま出町座の「台湾NOW」の一環で上映していたので、朝のうちに3枚チケットを買ってしまったので、過って見てしまいました(笑)。
一種の学園ものホラーで、いじめグループの少年たちが姉妹の化け物のうちまだ少女っぽい幼さの残る妹の方を捕獲していじめ放題、最後に姉のほうが復讐に来て・・・という話で、日本の映画ならぜったいマンガが原作やろな、と思うところですが、台湾だからどうでしょうか。脚本も監督のようだからオリジナルなのかもしれません。
でもすべてが大げさに誇張されて、それゆえ滑稽味もあり、こけおどしの残虐さも流血も食人も暴力も、私が嫌がる要素が全部盛り込んであります(笑)。
映画としてどう、とかこの作品については言う気力もありません。なんかしらん勢いだけは感じられる映画ですが、別に化け物が登場しなくても、前半の教室でのいじめのひどさや教師の態度とか、誇張して笑わせる要素も与えているのでしょうけれど、それでも見ているだけで気分が悪くなりそうでした。メディアが映画であっても小説であってもマンガであって、そういうのは変わりませんね。悪人が滅ぼされようと怪物が消えようと、こういうのをみると後味はひどく悪いです。何が面白くてこういう映画を大勢の人やお金をかけて作るんでしょうね。
侠女(キン・フー監督)1971
きょう(上の作品までは昨夜書いてアップロードしなかったので翌日になってしまいました)見て来た、やはり出町座の「台湾NOW」で上映された作品です。これはエンターテインメントとして、けっこうおもしろく、楽しめました。
竹林の中での敵との戦いが、最近はもう当たり前のように使われているワイヤーアクションというのでしょうか、当時は新しい手法で観客が驚くような画期的なチャンバラのアクションシーンだったのでしょう。いまみてもそうしたシーン、その他の剣戟のシーンは、スピーディーで超人的で(笑)、悪くありません。
前半のなにかいわくありげな、誰が悪い奴かよくわからないまま、主人公の代書・似顔絵書きなどやっている男の周辺をうろつくあたりも、少し長いかもしれないけれど、あれはあれで、いったいどういう物語なんだろう?どういう展開になるんだろう?とつないでいくエンタメの常道で、悪くはなかったと思います。
善玉のお姫様の武勇ぶりもなかなかのものですが、彼女に立ち向かう敵、彼女の父親であった愛国者の大臣を殺した連中の部下で本来は警察や軍の長官クラスのような連中が、なかなかいいのです。やっぱり敵が強くなければ面白くないですから。
最初に主人公の前に現れる傘を頭につけた隠密みたいな男も目つきの鋭いなかなかいい敵役でしたが、最後のほうで追手を率いて現れる兵士たちの長官が凄腕で、善玉のお姫さまや彼女をずっと守ってきた剣士でも叶わない。悪玉が勝っちゃって、どうなるんだと思ったら、こっちの味方をしてその敵よりさらに強いのが現れます。それが坊主!(笑)なんとか大師という達磨さんみたいな貫禄のある坊さんで、部下数人を引き連れていて、お姫様が父親が殺されたあと逃亡して潜伏していた寺院の坊さんで、お姫様に護身術を教えたのも彼。これがやたら強くて、最強の敵をもやっつけてしまいます。坊さんだから殺さずに何か諭して解き放つわけです。
あぁ、これで終わりだな、と思っていたら、一行の行く手に、その敵だった大将と二人の部下が大地にひれ伏して彼らを迎え、なんとか大師に向かって言うには、「自分は役目がら、大勢の人間を殺してきた。その罪に悪夢を見てうなされることも度々だ。もうこの仕事をうっちゃって、出家したいので、ぜひとも弟子に加えてほしい」、と。大師は、「いやおまえにはまだこの世の縁が残されているから、都へ帰りなさい」、と諭し、手を差し伸べて、「さぁ立ちなさい」、と引き立ててやります。そうすると、ですね。なんと驚いたことに、この敵将悪玉は心服したはずの大師の腹にいきなり隠し持った刃をブスリ、と突き立てるのですね。おぅ!そこまでやるか!って感じです。
まぁ、あとは見てのお楽しみ、ということにしますが、この映画のそこまでみて、つくづく感じたのは、いやぁ、台湾の人も、大陸の中国の人も、韓国の人も、しつこいよなぁ(笑)ってことでした。日本人ならあそこまではやらせないでしょう。いやできないですね。たとえ悪人がまだ回心しないで、しつこく絡むとしても、映画の作り手は、いっぺんそうやって悪玉があざむこうと斬りかかったら、善玉がそれをあらかじめ察知して、あっさり最後の一太刀を浴びせてやっつけちゃうでしょう。登場人物が少々しつこくても、映画の作り手自身がそこまでしつこくなれない(笑)。
ところがあちらさんは、登場人物も映画の作り手も、、そこまでやるか、というところまで、徹底的にしつこく「怨」の精神でやりますね。日本人はつくづくそういう点では淡泊、よく言えば悪玉でもいさぎよく、あきらめが早い。あちらの人は悪玉もそう簡単にはあきらめない。いさぎよさ、なんて感覚はないんじゃないかな。プライド、誇り、自尊心というのはあるけれども、いさぎよさ、というのとはちょっと違う。韓流の歴史ドラマなど見ていると、「どうかわたしを殺してください~王様ぁ~」と自分に責任があるようなへまをしたときは、実に簡単に「殺してくれ」と口にしますが、それは単なる形式的な決まり文句の口上にすぎず、全然本気じゃないわけです。私が王様なら、無能な家来が失敗して、「どか殺してください~王様ぁ~」なんてスリスリしてきたら、そうか、ってバッサリ斬っちゃいますけどね(笑)
いや、徴用工問題とか歴史認識がどうの、なんてことにひっかけようというわけじゃありませんが、そういう国民性みたいなことを連想したくなるようなところは、韓国だけじゃなく、中国・台湾についてもこういう単にエンターテインメントにすぎないとはいえ、そのつくりかた、人物造形の仕方を見ていると、思いたくなるところがあります。
現実の歴史認識みたいなことは、私は国家どうしの約束は政権が変わっても守るべきだ、という意見ですが、一方で日本の政権担当者やその周辺の歴史家が、しばしばとんでもない歴史認識を思わず口にして、海外からやり玉にあげられる状況は、彼らが本心ではまったくいまどき・・・と思えるような歴史認識を持っていることをうかがわせるもので、こういうのを払拭することが対等な良い関係をつくっていくうえで不可欠だ、という意味では歴史認識の問題はまだ未解決だと思わざるを得ません。
歴史認識の問題は、政治とは切り離して(あえて利用するために切り離さない国はあるでしょうが、それはそれでほっといて)、日中韓の歴史学者が事実を明らかにする共同の場を設けて継続的に議論して、そのプロセスも結果も全部公表して、意見の違いがあれば、それも併記して、判断の素材をすべての国民に明らかにすればいい、と私なら考えます。
それぞれの国の時の政治権力は隠蔽したり、都合の良い部分だけつまみ食いするでしょうが、情報の保存と公開さえ国際ルールで第三者をまじえて守れるなら、いずれはどの国の国民であっても、事実を知るようになるでしょう。
いや、とんだところへ行ってしまいましたが、この映画に戻ると、ラストがどうも宗教じみてわけわかんないよ、というウェブ上の意見がけっこうあったようですけれど、そう目くじらをたてるほどのことはないと思います。なんといってもエンターテインメント。簡単にハッピーエンドにせずに、繰り返しこれでもか、これでもか、まだやるか、と敵さんが頑張ってくれて、強い奴が出て来たと思うとそれよりさらに強いのが出て来て、もうこっちは弾がないぜと思ったら、最後は坊主が出て来て、なるほどなぁ(笑)・・・そしてあそこへいっちゃう、というのも納得できないわけではありませんでした。
バーバフリ 伝説誕生 + 王の帰還 (S.S.ラージャマウリ監督)2015, 2017
第一部、第二部と二本の映画になっていますが、続き物なので、一体のものとして感想を書きます。
インドの娯楽映画。ファンタジー史劇とでもいうのでしょうかね。民衆に慕われ、大国マヒシュマティ王国の王にと嘱望された武勇人格に優れたバーバフリは、彼と兄弟同様に育てられた、やはり武勇に優れた国母の息子とその父である伯父の謀略によって、武功を立て、一度は国母によって王にすると予告されながら、旅の中で出会い結ばれたクンタラ王国のデーヴァセーナ姫と共に国家反逆罪で王族故追放となり、それなりに民衆と共に生きて幸せにくらしていました。
彼に代わって野望を成就して王となって従弟は、それでも安心できないと、国母を欺き、バーバフリが国母のいのちを狙っているとだまして、バーバフリにとっては父親代わりのように慕ってきた身分はドレイだが剣の名手カッタバを刺客に差し向け、ついにバーバフリを殺させます。
王はバーバフリの赤子をも殺させようとしますが、ようやく彼の謀略に気づいた国母は傷つきながら赤子を守って河を流され、巨大な瀑布の下の土地に暮らす人々の手に赤子を残して自らは死にます。
デーヴァセーナは王にとらえられ、苦しみをなめさせ続けるという王によって王宮の庭に鎖でつながれています。デーヴァセーナはいつか息子が生きて戻ってきて王を倒す日がくる、と信じて待ちます。
そうしてこの命を救われたバーバフリの息子のバーバフリ二世がたくましく成人し、滝の上の世界へ戻って、苦闘の末に母デーヴァセーナを救い出し、最後は悪王たちをやっつけて、父の復讐を果たす、という物語です。
物語は壮大でファンタスチックな伝説の世界の物語ですが、インド的な個性は持っているけれども、まぁどの世界にもありそうな王権をめぐる争い、二世代にわたる野望と復讐の物語です。
映画としてのすばらしさは、その映像の素晴らしさにあると言っていいでしょう。とりわけ戦闘シーンは、かつての「ロード・オブ・ザ・リング」のシリーズに匹敵する、壮麗でド迫力のある映像で、これはやっぱり大画面で見るべき映画だな、と思いました。
戦闘シーンは、主だった人物は敵味方を問わず、超人的な活躍ぶりで、およそ奇想天外な作戦も、主人公の現実を超越した超人的な働きで成功に導かれます。角に松明をともした牛の大群を放ったり、水門を開いて大洪水を起こしたり、ヤシの木か何かをロープでひっぱってたわめて投石機のように放つ方法で4-5人単位の鉄楯で囲んで球体の弾丸と化した兵士たちを城内へ飛ばして攻め込むとか、そこらはもう楽しい空想的な戦闘方法が次々編み出されて目の前で展開され、堪能できます。
また、バーフバリがクンタラ王国の王女を連れて故国へ帰るときに大きな帆船を使うのですが、それが白鳥を象った実に美しいデザインの船で、私もあんな船なら乗ってみたいな、と思いました。舳先は白鳥の長い首をもった頭で、帆が白鳥の膨らませた羽のようで、実に美しく、ファンタジーにふさわしい乗り物でした。そして、それが恋を語り合い、歌う二人を載せて、水面を滑っていくかと思えば空を飛び、雲の上を滑っていく。その幻想的な美しさにはほれぼれ。
冒頭の壮麗な瀑布も2年がかりで制作したCGらしいけれど、それだけのことは会って、素晴らしかった。そういう現代の映像技術の粋を楽しむことのできる映画です。
インドは映画の年間制作数が世界一多い国だというのは聴いていましたが、以前は歌って踊ってというインド特有のゆうゆうたるスローテンポの映画で、とても私たちせっかちな日本人が楽しめるような映画ではない、インド独特のものだと思っていたけれど、「スラムドッグ$ミリオネア」(2008)や「きっと、うまくいく」(2009)等を見て、これは面白くなってきたなぁと思っていましたが、あれは現代もの、インドが舞台で登場人物もインドの俳優たちではあるけれど、西欧化した映画には違いなかったと思います。しかし、今回このバーフバリを見て、映像技術は世界的な最新の技術を導入しているけれど、中身は伝統的なインドの伝説を生かしたもので、だからこそ一層面白かったところがあります。
これを見ながら、なぜ日本ではこういう映画がつくれないのかな、とちょっと残念な気がしました。映画にも歌舞伎時代の中身が時代劇として残って一時は隆盛をきわめていたわけですが、映像技術的には最先端のものを導入しながら、日本でしか作れない、伝統の流れをうまく生かしたような映画というのがあるのかどうか、少し心許ない気がします。
演劇プロデューサーのような人たちと一緒にインドネシアに行って作家や詩人、演劇関係の人などが集まっている芸術センターで話し合ったとき、彼らは日本の状況が経済的に豊かな基盤をもつがゆえに制作環境が整っていると考えていて、羨ましいという感じで話していたけれど、こちら側から見れば日本は劇場の建設費のようなハードウェアにはやたらお金をかけていたけれど、ほんとうに創作活動をしているアーチストにとって活動しやすい環境は逆に貧弱で、話し合いの場になった芸術センターのように、異分野の芸術家たちが自由に集まって議論しあい、創造活動をするような場所が日本中探しても一つもないことをむしろわれわれのほうが恥ずかしい想いで聴かなくてはならなかったのを記憶しています。
彼らと話していて特に印象的だったのは、伝統と現代的な課題をどう調和させるか、という問題意識が非常に強く、かたときも自分が脈々と受け継がれてきた伝統の流れの中の存在だ、ということへの強い自覚をもっているらしい、という点でした。
それとの対比でいえば、私インタビュー、取材などで接した日本のアーチスト等と話していて感じていたのは、逆に、きれいさっぱり伝統など忘れ去っているかのような態度だったと言わなくてはならないでしょう。
インドネシアでも演劇をいくつかみてきましたが、日本でも知られたバリ島の観光用の伝統的な野外演劇などでも、公的にその水準を点検審査するシステムがあって、その上演の質を保っているというのを聴いて、伝統的な文化を守りながら新しいものを創り出していこうとしている姿勢を強く感じました。明治維新できれいさっぱり過去を切り捨ててひたすら近代化の道を歩んできた日本と、社会にも文化にも、それよりもずっと前近代を、伝統的な要素を色濃く残した日本以外のアジア諸国との違いがそんなところにあらわれているんだろうな、と思ったことでした。
そういう意味でもこのバーバフリなどは、どうしようもなく「インド的」な映画であると同時に現代的な映画でもあり、両者がうまく混然一体化することで生まれた作品だろうと思います。
座頭市血笑旅(三隈研次監督) 1933
赤ん坊連れの女が急な腹痛で苦しんでいる場に出くわした座頭市が、自分の籠を女に譲って乗せてやったところ、座頭市を殺そうと狙うヤクザが、間違って籠の女を殺してしまい、座頭市は責任を感じて残された赤子を女が帰ろうとしていた嫁ぎ先へつれていって女の亭主に渡そうと決心し、終始やくざと彼らが助っ人に巻き込む貸元たちのごろつきに狙われ、襲われながら、赤ん坊づれの旅を続けて、とうとう死んだ女の亭主のところへたどりつくものの、そいつがとんだ根性悪のやくざもので、もともと市を狙っていたヤクザと組んで市を亡き者にしようと襲い掛かります。
今回の新味は、座頭市が慣れない子連れ旅をして、赤ん坊に小便をふきかけられたり、大便の始末をさせられたりでおおわらわ、しかも容赦なく襲い掛かる敵から自分と赤ん坊を守らなくてはならない、というシチュエーション、つまりそうしたハンディキャップを市に負わせた設定。
もう一つはその子連れ旅の中で、スリの女と遭遇し、互いに喧嘩しながらも、市が赤ん坊を扱いきれないのを見ていられなくなって女は市を援けるうちに赤ん坊に情がうつり、結局最後まで市を助けていくことになる、その女のからみ。
そして三つめは、市をしつこく狙うヤクザが悪知恵を働かせ、市のチャンバラの強さを支える聴覚を混乱させるために、手下たちに先に火のついた長い棒で攻撃させる、火責めとの戦いで、市がけっこう当惑し、危ない目に遭うというところでしょうか。ただ、敵の中に「座頭市物語」の天地茂の演じた浪人者のような凄腕はいない、ただのやくざ者ですから、そのへんは少し物足りないところがあります。
三隅研次が監督なので、シリーズ最初の「座頭市物語」のような様式美も期待したのですが、このシリーズの売りである市の盲目の殺陣は別として、そういうのはあまり見られなかったように思います。その代わり赤ん坊の扱いに当惑し、扱いかねている市の人間味を垣間見させ、ユーモラスな場面もつくりだしているところが味噌かもしれません。
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2019年01月14日
手当たり次第に XXⅨ ~ここ二、三日みた映画
昨年亡くなったベルトルッチ監督の映画を、このまえ幾本か見て感想を書きましたが、まだ見てなかったのが何本がレンタルビデオ屋にあったので、借りて来て、ここ四、五日はなんだかベルトルッチばかり見ていたような気がします(笑)。
ベルトルッチの分身(ベルナルド・ベルトルッチ監督)1968
ドストエフスキーの「分身」あるいは「二重人格」と訳されている小説を原作とした作品ですが、原作がロシアの下級官吏を主人公として、彼に分身を生み出すまで、つまり自己分裂をきたすまで追い詰める彼の下級官吏としての境遇、社会的地位・身分をきっちり示して、その心理的過程を描き出した原作に対して、ベルトルッチは、このドッペルゲンガーを心理的現象とせずに、分身が客観的な実体(肉体)をもって、もとの人物に代わって他者と関わっていくようなありかたをするところはドストエフスキーの分身のありようをそのまま採用していますが、主人公は学生に演劇を教えているらしい、まだ若造の大学教師です。
ここで半畳入れておけば、大学教師なんて設定はまずこの作品から社会的背景をなくしてしまうようなものなんじゃないかという気がします。それが証拠にそういう人種は、なにをやっている人間か(どんな職業か)見た目で判断しにくい、曖昧な顔をしていますよね、だいたい。
ベルトルッチのこのお坊ちゃんも最初はとても大学の先生だなんて見えない、どこかいいうちの好き放題に放任されてわがままいっぱいに育ったできそこないの、ちょっとおつむがいかれた若者にしか見えませんでした。教室へ入って学生を教えだしたのでびっくりしました。でも日本の大学の現状に鑑みて、あぁこういう教員はゴマンといるいる、と納得はしましたが(笑)。
ドスト氏の気のきかない下級官吏が身のほども知らず昇進をゆめみて挫折し、また身のほどをわきまえない恋をしてもふられる、というのは、ご本人の資質や能力とともに、そうした資質をはぐくんできた彼の社会的な境遇、身分等々の背景を考えれば自然に受け止められるけれど、ベルトルッチ氏の坊やは教授の娘で片思いの女性の誕生日パーティーを開いている邸へ押しかけて奇矯なふるまいをして追い出される(ドスト氏のゴリャートキンももちろんそれは同じですが)、当初の振る舞いからして既に尋常ではありませんし、最初から壊れているようにしか見えません。
だから、なぜ分身が登場せざるを得ないのか、ドスト氏の作品ではよくわかるけれど、ベルトルッチ氏の坊やの場合はよく分からない。強いて言えば最初から壊れているから、としか・・・。たしかに頭の硬い左翼っぽいご託宣を教室で宣うて学生に総スカンを食らう、融通のきかない、非社交的な人物というふうには描いてあるけれど、それはもっぱら彼の性格的、資質的なもので、そこにドスト氏のゴリャートキンのような社会的背景が感じられません。ブッキッシュな反社会的言辞があるだけで、社会的地位・身分といった実際の境遇が、造型された人物の内面をくぐって表現されていないので、表面的な意匠にしか見えません。だから、実体として分身が生み出されざるを得ないような負の力がこの人物には見られません。
ただ、そこは原作を踏襲してタイトルどおり分身を登場させてしまうことにしたわけですから、あとは映像的にそれがどうか、ということだけで、そこは20代の若さでつくった作品とはいえ、うまく処理されているのはさすがです。
恋する彼女の邸を追い出されて帰り道、自分の大きな影が行く手の高い建物の壁に映って、いやに大きな影だなと思っていたら、これが坊やとは違う動きをするので、おや、これは喜劇か?(笑)と思いました。いや、実際喜劇タッチでやりたかったのかもしれませんね。
大体、片思いの女性クララの邸での振る舞いからして喜劇的な誇張されたものなので、これは喜劇かもしれない、と半ば思いながら見ていたので、あの影の登場するシーンで、影が自分の動きとは違う動きをすることに気づいて驚く坊や(ジャコブ)を見て、あ、やっぱり喜劇だったんだ、と思ったのです。
でも違ってた!(笑)・・・たぶん・・・
これはやはり、ドスト先生にあやかった、大まじめな分身劇のつもりなのでしょう。ドスト氏のゴリャーキンを、貧しいさえない下級官吏から、本で習い覚えた左翼思想に侵された、壊れかけのお坊ちゃん大学教員に置き換え、19世紀の社会ー心理劇をヌーヴォー・ロマンに置き換えたかったのでしょう。
いや、もう少し深読みすれば、他人の悲劇は突き放して冷笑的に傍観する他者には喜劇にしか見えないものかもしれませんから、ドスト氏のゴリャーキンの行状も、ゴーゴリの「狂人日記」や「外套」の下級官吏の行状も、ときにみじめさを増すだけの御本人の大真面目さが冷笑を伴う憐憫を誘うように、ジャコブのドラマもまた人生そのものと同様の悲喜劇というべきかもしれませんが・・・。
ジャコブの分身は、あっさりと、どこの誰やらも知れないけれど、ピアノを弾いている青年をピストルであっさりと射殺してしまいます。まことに不条理な殺人劇でありまして(笑)、観客としては唖然とするほかはありません。やっぱりこの坊やはおつむのイカレた坊やなんだ、と。まあ分身ということになってはいるのですが・・・。
それにしても、ドスト氏のゴリャートキンがあの自意識過剰な長広舌のうちに示されているように、追い詰められてだんだん狂気の域へ踏み込んでいくのに対して、ジャコブ坊やは最初から壊れているようにしか、私には見えませんでした。
もとのジャコブと分身があれこれ言葉を交わしたり、ジャコブが学生たちにひとくさり持論らしき芸術論みたいなものや情況論みたいなものをぶってみたり、やたら本が積み上げてある部屋でわけのわからないモノローグをたらたら垂れ流してみたり、あのころの映画によくある意味ありげで意味のない不条理映像(笑)のつぎはぎについてくどくど書きとめる必要もないでしょう。
きっとあのころのヨーロッパの若い映画作りを志す連中のあいだでは、ゴダールだのトリュフォーだのに影響されてこういう流儀の映画を撮るのが流行ったのでしょう。いま見ると、そういうところが、とても古臭いものに見えるのは仕方がないでしょう。若者はいつも時代と寝たがり、あとで自分も赤面せざるを得ないような、この種の痕跡を残さざるを得ないものですから。
ラスト・タンゴ・イン・パリ(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 1972
(細部までネタバレあります。ご注意!)
フランス映画にはまるで興味がなかったので、新聞の映画欄をみてたまに映画館へいこうかと思っても、こういうタイトルの映画はまずタイトルを観ただけで敬遠していたと思うので、ベルトルッチについても、この作品についてもまるで知りませんでしたが、公開当時はずいぶん議論を巻き起こした作品だったようです。主役のマーロン・ブランドが若い(19歳とか)女優にbeurreをぬりつけてレイプ同然のセックスをするシーンが女優の了解なしに撮られたとか物議をかもし、イタリアでは上映禁止、各国でも検閲を求める訴えがおこされたとか。当事者の間に細かい点での証言の齟齬があっても、概ねそんなことがあったようで、リアルに屈辱感をおぼえるようなシーンにするためだとかなんだとか監督は言っていたようですが、巨匠と言われる人も無慙なことをするものです。あぁいうシーンが作品にとって不可欠だとも思えないですが。
作品の描くところは、人生の黄昏時を迎えた主人公ポール(マーロン・ブランド演じる)が、自分にとって理解のできない妻の自殺を契機に、生の空しさと悲哀を強く味わい、その鬱屈を、自分にそれだけはまだ残っている性的な欲望へ振り向けるようにして、性的にはまだ未熟で無防備な若い女性ジャンヌとの逢引で癒そうとするように頽廃的な交わりを続け、やがてそうした中年男の爛れた生きようにずるずる付き合っていく自堕落な生き方に見切りをつけようとするジャンヌに、今度はポールのほうが執着してつきまとい、最終的に拒否されるという話です。
出会いはパリの薄汚い安アパートを借りに来たジャンヌが、先客として部屋の隅にうずくまっていた中年男ポールと出会い、名も知らぬまま、ちぐはぐなセリフをやりとりしたあと、部屋にかかってきた間違い電話にそれぞれ離れたところで受話器をとったところから、一瞬の空白、間のような瞬間を置いて、それまでのちぐはぐな持続が断ち切られて雰囲気が変わってしまったようになり、ポールがジャンヌを抱き寄せて、一気にセックスまでいってしまう。ありえないような話だけれど(笑)、これが実に微妙なタイミングで二人の部屋の中のそれまでの行動と間と、そして突然の変化とが自然な形で描かれていて、ここは感心させられました。あれよあれよ、という間の新展開。
でもそのときは、それぞれ泊まるわけでも、次を約束するわけでもなく、一過性のことのように別れてそれぞれ帰っていきます。ポールは自殺した妻の母親が待つ家へ。ジャンヌはトムという映画を撮っている婚約者のもとへ。その婚約者は、この作品の中でずっと彼が彼女を主役にした映画を撮るんだと言って、実際の行動そのままを撮って映画にするんだとかで、まとわりついてはカメラを向けているのです。
こうして二度とそこへ行かなければ、相手の名も居所もしらぬ行きずりの行為で終わったのですが、二人ともそれぞれこの逢引の場所となる薄汚いアパートの2階へ引き寄せられるようにして再び訪れると、相手も来ていて、腐れ縁が始まります。そこへ行けば相手に会える、と思って、それぞれにその安アパートの部屋を二人だけの隠れ家として使うようになります。
ジャンヌが自己紹介をしようとすると、ポールは彼女の口をその手でふさいで、名前は聴きたくない。外の世界のことは全部忘れて、ここではただ男と女として交わるだけだ、と言います。
こういうことも含めて、大きな年齢差のある彼と彼女の間は、いつもポールが一方的に命じるような上から目線の喋り方で、ジャンヌのほうはそれにただズルズルと従っていきます。それは見ていてあんまり気持ちのいい関係ではありません。男の私のような観客にとってもそうなのだから、フェミニストの女性が見たら、例の物議をかもした準レイプ場面だけじゃなく、全体にひどい映画だ、と怒り心頭に発するかもしれません。
ポールの自殺した妻はポールとは別のやはり中年男と不倫をしていたのですね。ポールは妻の死後、その男に会いにいき、酒を酌み交わしながら亡き妻のことを語り合います。ここらはまあ、人生の酸いも甘いも嚙み分けて来た人生の黄昏時の男どうしの大人の語らいといったところです。
互いに、あからさまに憎むわけでも嫉妬するわけでもなく、ただ妻が何を考えていたのか、どんな女性だったのか、ポールには分からなくなっている。そのわからない問いへの答えが、妻の不倫相手のところでみつかるかもしれないと思って訪れたのでしょう。でもそんなもの、みつかるわけもないのは自明のことかもしれません。
ポールとジェンヌの性的な関係はますますアブノーマルな色合いを濃くしていきます。そんな中で、作品外で物議をかもすようなシーンも登場したわけですし、ほかにもちょっと獣姦的なものを連想させるような設定をポールが(自分自身を受動的な役割としてではあるけれども)何も分からないジェンヌにさせてみたりするようなシーンもありました。
ジャンヌはまだ十代の少女なので、こういう爛れた関係にいつまでも受動的に従っていることを、心身自体が拒むようになるのは自然なことで、彼女が倦んでいたところへ、若い婚約者トムに求婚され、ジャンヌはトムとの結婚を機にポールとの関係を断とうとします。
逢引の場に出向かなくなったジャンヌを或る時街で見かけたポールは彼女の後を追い、ダンスホールに誘って泥酔状態でラストタンゴを踊り、ホールの運営者に追い出されます。ジャンヌは、「もう終わりよ、結婚する!」と、とポールに最終的な訣別宣告をして、去ろうとします。が、ポールは執拗に彼女を追い、最後は彼女のアパートでジャンヌがエレベーターで上がるのを、階段を駆け上がって追い、とうとう室内まで追いかけて言うのです。
「アフリカも、アジアも回った。インドネシアにも行った。世界中まわってようやく君を見つけたんだ。君の名を知りたい・・・」
と、ここで初めて彼女の名を問うのです。そして彼女を求め、彼女を抱きしめようと近づいたとき、ジャンヌが手にしたピストルが轟音を発します。
少しよろめきながらポールはテラスへ出ていきます。彼の視界にパリの街の風景が広がります。そして彼の表情のクローズアップ。次のカットはテラスの床に身をかがめるように横たわっている彼の姿です。
室内でまだ拳銃を手に茫然と佇んでいるジャンヌが呟きます。
「誰なの?・・・私を追い回しレイプしようとしたわ。・・・名前も知らない。知らない男よ。・・・何者?・・・異常よ。・・・名前も知らない・・・」
人生を知り尽くしたはずの中年男が、自分との関係が自然と化していた妻の突然の自殺で、それまで自分が分かっていると思ってきた世界が一挙に毀れるような心的体験をし、おりから自分の心身の衰えを痛感せざるを得ない時期でもあって、生きる意志を喪失しかかったような心的な状況で、ただ性の衝動的な欲望だけが残っていて、たまたま空き家探しに来た無防備な若い女性ジャンヌと遭遇して衝動のはけ口にしてしまうといった感じです。
ジャンヌのほうはそういう中年男のいわば内面の空虚に吸い寄せられるように、離れられず、よせばいいのに彼と会ったその空き部屋を再び訪れ、彼との逢引がはじまり、ジャンヌのほうも未熟な若い性的欲望をポールに解発されていくような形で、ずるずるとその爛れるような頽廃的な関係をつづけていく、文字通りの腐れ縁ってやつですね。
この性的なある種の魅力というか魔力というか、そんなものだけは残した、内面的にはおそろしく空虚で孤独な人生の黄昏を生きる中年男を、マーロン・ブランドが地でいくようないい熱演で演じきっていて、その醜悪さ、いやらしさと同時に、ある種の哀れさをも催すようなところ、この作品のテーマはちゃんと見事に表現されているな、と思いました。ただ、後味はあまりよくない映画です。
ラストエンペラー(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 1987
ずっと以前に一度見た切りだったので、ベルトルッチのほかの作品を何本か初めて見たのに合わせてやはりもう一度見ておこうと思って再度見ました。
公開当時から話題になった紫禁城内外の光景、突然皇帝に定められ、生母から引き離されて紫禁城へ連れてこられて、おうちへ帰りたい、と嘆きながらも太和殿というのでしょうか、あの大広間で死に瀕した最高権力者西太后やずらりと並ぶ宦官たちの前で、柱の陰に隠れたりその間を兎かなんぞのようにトコトコ小走りして次第に西太后の前に出ていく、お目見えの場面、盛大な皇帝就任の儀式の場面、或いはテラスに出てこちらを向いている溥儀の向こうに居並ぶ兵士たちの光景等々、実際に故宮でロケをしたり、模型も使ったらしいけれど、そういうシーンが美しいことは判るものの、これはやっぱりメジャーな映画館の大画面で見た時とDVDで小さなテレビのディスプレイで見るのとでは全然迫力、美しさが違うので、今回はそのへんは諦めて、すっかり忘れているストーリーを追いかけ、俳優の演技をながめ、細部を楽しむほかはありませんでした。
でもやはりこの映画の価値は上のような紫禁城内外の壮麗な光景をとらえたヴィットリオ・ストローラの撮影の手腕が生み出したもの、という気がします。
もちろん史実があるわけですから、物語そのものは、細部はともかく、概ね史実にもとづいていて、溥儀がその立場を離れて自由に冒険できるわけではないから、前半は紫禁城の内部だけの絶対権力者として因習的な秩序の玉座に祀られて事実上場内に幽閉され、そこをクーデターで追い出されてからは、天津の閉鎖的なサークルの内部でつかの間、享楽の時を過ごすものの、身の安全を日本に委ねて満洲国の皇帝となるや完全に関東軍の傀儡として一挙手一投足を管理さる文字通りのお人形となり、さらに日本軍の撤退と共にロシア軍に捕縛され、新しい中国の共産政権のもとで政治犯の収容所に入れられ、のちに特赦で出されるまで、外部の力によって閉じ込められ、翻弄されつづけた人生だったわけで、一人の人間として他者と対等にまじわり、「外部」の世界へ出ていくことのできなかった人生ゆえ、或る意味でそこにふつうの人間的な精神や肉体のドラマが生じようのない、特異な存在の奇跡を描いた作品ということになります。
最後は収容所を出て植物園の職員か何かとして植物の世話をするような一市民となって暮らしていますが、ときは文化大革命の嵐の中で、彼が捕らわれていた収容所のなかなかの人物だった所長が、三角帽をかぶされて紅衛兵たちにこづかれながら牽き立てられていくのを目撃して、思わず駆け寄り、この人はいい人なんです、なにかの間違いです、と叫ぶのだけれど、紅衛兵たちに突き飛ばされ、空しく見送ります。昨日権力を持っていた者が今日は犯罪人として石もて追われることは、彼自身が生涯経験してきたことで、自分以外の人にも同じことがここで繰り返されていくのを見るわけで、運命に翻弄される人間の姿、権力の空しさを再度思い知らされる溥儀の姿が印象づけられます。
あの紫禁城の壮麗な映像も、こうした人間の権勢がつくりだすものの儚さ、運命のよるべなさを一層深く印象づけるために必要だったのでしょう。
ただ、溥儀の送って来た人生はあまりにも我々平凡な人生とかけ離れたものであるために、むしろその波乱万丈の人生(実際には自分の意志と肉体でなしとげる冒険ではなく、外部の力学の支配のもとで極めて限られた時空のうちに閉ざされていたものではあったけれど)や、いっときのものではあっても、類のない壮大華麗な宮殿絵巻そのものの即物性に目を奪われ、そこにこの映画の価値を見てしまうのは凡人としては致し方のないところかもしれません。
それはしかし、ただ私たち凡庸な観客の側に問題があるともいえず、たしかに物語としては、ジョン・ローン演じる若き溥儀と英国人家庭教師ジョンストンとの友情や、婉容皇后、淑妃文繍との愛憎のような人間的なドラマも描かれてはいるけれど、そこにはとくべつ心を動かされるような脚本的展開も演技も深い心理劇も見られず、また傀儡皇帝を操る関東軍の甘粕正彦(坂本龍一が演じる)やスパイ川島芳子との関係の描き方もきわめて表面的だし、皇帝の転変の生涯を描くメインストリームに絡む幾つものエピソードそれぞれに深みや新鮮味が乏しいのも、物足りないところです。
それでも収容所長との関係は、溥儀の生涯を描くメインストリームと密接に関係し、ラストシーンにもつながって、うまくリンクしているので、そこだけは所長役の俳優の好演もあって、いいな、と思いました。
家庭教師役のピーター・オトゥールもアラビアのロレンスで、いい俳優だなと思っていたので期待はあったけれど、この作品ではもひとつだったな、という感じです。実際のジョンストンが書いた「紫禁城の黄昏」はこの作品の中でも溥儀を尋問する共産党員が溥儀の証言との食い違いを糺すために引用しますが、これは岩波文庫で出ていて、私も拾い読みしたことがあり、探したら出てきました。
溥儀がクーデターで紫禁城を追い出された混乱の中で、日本公使館に保護を求めたのは、溥儀が政治的駆け引きの際の有効な人質になることを見越した日本の帝国主義者の策謀だという見解を強く否定して、日本公使はジョンストンから報告を受けるまで溥儀が公使館区域に到着したことさえ知らなかったし、公使が溥儀の保護を承諾したのはジョンストン自身が熱心に懇願したからだ、と証言しているところもあります。
中国側は、溥儀が日本人によって誘惑され、彼の意志に反して連れ出されたのであることを仄めかしているし、この説はヨーロッパ人の中でも流布されているが、それは全て真実ではなく、「皇帝は自身の自由な意志で、天津を後に満洲へ向かった」と記されているのも、映画の中で訊問者が溥儀にこの本を示して問いただす通りです。映画の中で、溥儀はそれはジョンストンの記述の虚偽であり、そのときはもう溥儀と彼は別れ、ジョンストンが英国へ帰ったあとのことだ、と証言しています。
歴史的にどうだったのか、事実はきっともう検証されているのでしょうが、私は知りません。いずれにせよ関東軍が溥儀を利用したことは事実ですから、溥儀が自らの庇護を関東軍に求め、再度皇帝となることを望んだか、関東軍に拉致されて心ならずも利用されたかは、歴史的な成り行きにとってはどちらであっても、もはやどうでもいいことかもしれません。
ただ溥儀という一人の人間の生き方としてはいずれであったかは非常に重要な違いでしょう。共産政権になってから問いただされて、自分から自発的に皇帝になりたくて満洲へ行ったのだ、と証言することは一層罪を重くすることでしょうから、偽証したことは考えられるし、ジョンストンが虚偽を書かなくてはならない理由があるかのかな、とは思いますが・・・
ま、いずれにせよ、この映画も多くのベルトルッチの作品と同様、撮影監督のストラールの映像の素晴らしが味わえるということだけは間違いありません。
リトル・ブッダ(ベルナルド・ベルトルッチ監督)1993
最初、仏教説話の絵物語の本をめくる映像から始まりますが、それがこの作品の性格をよくあらわしています。
その仏教説話のひとつ
或るとき僧が生贄のヤギの首を切って殺そうとするとヤギが笑うので、なぜ殺されるのに笑っているのだ、と問うと、そのヤギが言うには、私はこれまで499回ヤギに生まれ変わって来た。あと1回で次は人間に生まれ変わることができるのだ、と。次にヤギが僧を見て涙を流すので、なぜ泣くのだと訊くと、おまえを憐れんで泣くのだと。そして言うには、私がヤギになる前の前世は僧だったのだよ、と。
こんな説話を僧が子供たちにやさしく語り聞かせているシーンから始まるのです。この映画は一貫してこのような調子で、釈迦の生涯を子供に説き聞かせる一筋の糸が経糸として組まれていて、その部分がとても素晴らしいのです。
この冒頭のシーンで語っているのがノルブ僧というチベット出身の僧侶で、彼がチベット仏教にとっての聖であるらしいドルジェ僧の生まれ変わりの子供を世界中から探し出し、確証を得ようとする、そういう現実の人間が動いてそれに子供やその親がからんでくる糸がもうひとつのこの作品を形作る糸で、映像としてはこの過去の仏教説話の物語の世界(釈迦の誕生から悟りをひらくまでの物語)と、現在の生まれ変わりをさがし、みつけるまでの現実の物語の場面とが交互に表現されていきます。
後者の中心になるのは、ドルジェ僧の生まれ変わりを見つけ、確かめるために候補者の子をチベット仏教の亡命先であるブータンまで連れて行って、最終的に生まれ変わりの子だということを告知する儀式を行うまで、そのための仕事を担うノルブ僧と、彼に見いだされる3人の子供たち、そのうちのとくにアメリカのシアトルの現代的なマンションに両親とともに暮らす少年ジェシーです。
あるときジェシーの家に三人の僧がやってきて、少年がドルジェ僧の「生まれ変わり」の候補者であることを告げます。建築家の父親、学校の教師である母親ともに「生まれ変わり」なんて信じることのできない現代の普通のアメリカ市民だから驚きますが、ジェシーは好奇心をもち、僧が置いて行った釈迦の生涯を描いた絵物語を熱心に読みます。ノルブ僧たちは強引に少年を連れて言うわけでもなく、両親の不安を少しずつ解きほぐすような形で接し、結局父親同伴でブータンへ休暇を過ごしに行くといった形で僧たちとともに出かけていきます。
ほかにもサーカスの男の子ラジューと、釈迦がその下で悟りを開いた大樹のような大きな木のある近くに住む少し年上の女の子ギータも「生まれ変わり」の候補者だとわかります。子供たちは僧の導きで、互いに知り合い、子供らしく仲良く無邪気に遊び、その様子を観察しながらノルブ僧はいずれにも「生まれ変わり」の可能性があることを感じていきます。
一方で、こうした「生まれ変わり」の候補者となった子供たちの物語の間に、そのジェシーがノルブ僧からもらって読んでいる釈迦の生涯の物語が、実際に若い釈迦をキアヌ・リーヴスが演じて、釈迦の時代の映像として挿入されていきます。
ノルブ僧が「生まれ変わり」をみつけて子供たちをつれてくる現代の物語のほうは、それほど映像として面白いとは思わないし、物語としても平凡な気がしたけれど、釈迦の物語のほうは映像も美しく、よく知られた釈迦の生涯の物語ではあるけれど、細部を実写で映像として創り出して展開されてみると、これがとても面白い。
とりわけ王子シッダールタが父のはからいですべてを与えられて城門の中で人生を過ごしていたのが、あるとき城門から外へ出て、人々のあらゆる苦しみの姿を目にしてすべてを捨てて人々を救済するために悟りを開こうと修行の道に入っていく、そこで最初に城門を出たときの映像がすばらしい。
王子を歓迎する、細い路地の両側にそびえる住居にぎっしり顔を出している人々が、なにか花びらのようなものを撒いて画面を覆うほど降り注ぐシーン、王子が見て回る、人々の働く現場や病気の人々など苦しむ人々の姿、その背景となる当時の街の姿、その再現された情景がとても素晴らしい。
さらに、いよいよ王子が菩提樹の下で悟りを開くために座禅を組んで瞑想しているところへ、闇の王マーダの5人の娘たちが現れて、それぞれ私欲、恐怖、無知、欲望等々の誘惑で王子を堕落させようとするのを王子が退け、最後はマーダ自身が怒り狂って5人の娘たちを斃し、みずから大波や雷、火焔等々でシッダールタを襲うCGのダイナミックな映像シーンがあります。マーダは王子に火焔を吹きかけますが、それらはすべて花びらとなって王子に降り注ぐのです。このシーンの綺麗なこと!
最後に、王子と同じ姿かたちであらわれたマーダが、私がお前の住処だ、来い、と腕をとって誘うのを王子は、この大地が私の家だ、と言って拒みます。すると王子の光背が黄金色に輝き、マーダはついに消え去ります。
面白いのは、この釈迦とマーダの戦いを、「生まれ変わり」の候補者である3人の仲良くなった子供たちが、菩提樹の木陰に隠れて覗き見ているのですね。だから、ここでは現実の子供たちのいる世界と、説話の中の釈迦の時代の世界とが統合されて、同じ映像の中で共存して表現されるのです。こういう仕掛けがすごく楽しい。いや、本当に仏教であれキリスト教であれ、こんなふうに楽しい仕掛けのある動画にして見せてくれたら、子供たちも世界が広がるだろうなぁ、と思いながら見ていました。
それまでは、ジェシーたち親子の住む現代のシアトルの世界は青白みを帯びた色彩で表現されていて、それがブータンのチベット仏教の寺院とその世界へ入ると、僧たちの真っ赤な衣や、建物の色も、みな赤あるいはレンガ色みたいな赤系色溢れます。こういうところもなかなか面白い。
物語的に見た時、あるいは映画の技法とか、そういう点で見た時、この作品が評価の高い映画表現とみなされているかどうかは知りませんが、とても楽しい、華のある作品だな、という印象で、非常に好感の持てる映画でした。
撮影はやっぱりヴィットリオ・ストローラでした。ほんとうに美しい素敵なシーンがみられましたものね。なお、音楽は坂本龍一とありました。
シャンドライの恋(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 1998
これはちょっと不思議な映画です。冒頭に民族楽器を奏でながら歌うストリートミュージシャンみたいなアフリカ人らしい男が登場し、どうも身体に障害を持つらしい黒人の子供たちがあるきまわる空間、そして車椅子の黒人の子たちがずらっと並ぶような屋外、いたるところに軍人らしい男の顔がでかでかと載ったポスターが張られていく、おそらくはアフリカのどこかの軍事独裁の国家のもとで戦乱に明け暮れる中で子供がたちが犠牲になっていて、そういう子供たちが集まっている、あるいは集められているような地域なり施設なのかな、と思って観ていると、その町なかを青い服にピンクの頭巾をかぶった黒人のアラサー?くらいの女性が自転車で走っていく。
一方で、今度は学校の教室らしき空間で、これもアラサーくらいの黒人の男性教師が子どもたちに、リーダーとボスの違いは?と問いかけ、何かを教えようとしています。
そこへどやどやと制服の兵士らしい男たちが踏み込んできて、有無を言わさず教師を連行していきます。どうやら思想犯狩りといった感じです。男が連行されて車で運び去られていくのをたまたま戻って来た先の青い服の女が見ていて、恐怖のあまり小水を漏らし、泣き叫ぶ・・・そして冒頭の民族楽器を鳴らし、歌う男の声と楽器の音が響くばかり。
実はあとで、この女性がこの物語の主人公でタイトルになっているシャンドライで、軍に連行されていったのは彼女の夫ウィンストンであったことが分かります。
ここでアフリカらしき場所から一転、飛行機の爆音が響く夜中に悪夢で泣き叫んで目覚めるシャンドライ。後でわかるのは、ここがシャンドライの移り住んだローマの街で、彼女が住み込みで掃除婦をしている貸しアパートの彼女の部屋だということ。
目覚めた彼女はこわごわ扉らしきものを開けて除きますが、とくに怖がるべきものもなさそうです。と、彼女がそこに置かれた一枚の紙を手にし、見ると「?」マークだけが大きく書かれています。
こんどは実は彼女が寝起きする下の階の何階か上階には家主の彼女よりちょっと年上?くらいの白人の男が住んでいるのですが(それもあとでそういう男だとわかってくるのですが)、彼がベッドから起き上がり、窓のブラインドを指でちょっと持ち上げて外を覗くと、外に出たシャンドライが見えます。
彼女は掃除婦だけやっているわけではなくて、どうやら医師になるための勉強をしているらしく、次のシーンは病院らしきところのベッドに横たわる患者のCT像を見る医師と白衣の助手や学生らしき連中の中にシャンドライの姿があります。
そしてまた家にもどると部屋の掃除をするシャンドライ。彼女が掃除している部屋の中では、さきほどの白人の男、家主のキンスキーがピアノを弾いています。彼はピアニスト或いは作曲家、あるいはピアノ教師のようで、自宅で子供にピアノを教えているシーンもつづいて登場します。
まぁそういった自己紹介的なシーンが交互にいくつかあって、いよいよ二人の接触になります。アパートに帰って来たシャンドライに、キンスキーが階上から、君は親切なんだね、と声をかけ、彼女がなぜ?と応えると、ズボンの裾を直しておいてくれたじゃないか、と。シャンドライは、それも仕事ですから、と淡々と答えます。
次のシーン、シャンドライが眠っていると、何かガサゴソいう音がして目を覚まします。音のあたりにある階上と階下をつなぐ荷物用?のミニリフトがあるところの扉を開くと、そこに一輪の花が置かれています。シャンドライは花を手にとり、ゴミ箱にポイと捨ててしまいます。
翌朝でしょう。シャンドライがアイロンをかけていると、キンスキーがおはよう!と声をかけ、音楽と歌のレコードだったかラジオだったかをかけて聴かせます。見ると彼女が捨てたはずの花一輪、コップに水を入れて活けてあります。シャンドライは出勤し、アパートの上階の窓から眺めている男を振り返り仰ぎ見ます。
シャンドライは医学の学校でだったか一緒になるゲイの男がいて、彼とキンスキーのことを話している中で、キンスキーのおばさんがお金持ちで、亡くなったときに家をもらったらしい、というようなことが私たち見ている者に分かります。ゲイの友達は、キンスキーのことを、そのうちベッドに誘われるぞ、とシャンドライを半分おどかすような茶化すようなことを言います。
居住許可をお役所に申請するのに家主の同行が必要とかいったことで、シャンドライはキンスキーとの接触が不可避です。キンスキーは何かと彼女をひきとめて一緒に少しでも長い時間過ごしたがるふうですが、彼女のほうは、試験があるから、とか言って、すげないものです。
自分の部屋の中でくつろいでいるシャンドライ。このときは彼女がかけているアフリカ系の音楽がかかっていたのではないかと思います。いい気分でくつろいでいて、ふと、「戸棚」がなくなっている!と気づきます。それはどうも彼女はあのミニリフトを自分の「戸棚」として使っていたらしいので、リフトのあるところの扉を開いて上階を見上げて、「私の戸棚を返して!」と怒鳴ります。すると、リフトが降りて来て、そこには懐中電灯で照らされた指輪が一つ、置いてあります。
シャンドライは、指輪を握ってピアノの音がする階上へあがっていきます。そこではキンスキーがグランドピアノを弾いています。シャンドライはピアノの上に指輪を置き、「あなたのでしょ?」と。
キンスキーは、おばのだ、と答えてピアノを弾き続けます。
「あなたという人がわからないわ。ピアノの音楽も!」と彼女は叫びます。
「こんなもの、もらえないわ。分かってるでしょ!」と。
ところがキンスキーは不意に、「君を心から愛しているんだ」と告白します。
唖然としたシャンドライは、「わたし、ここを出ていきます!」と部屋を出て行こうとします。
キンスキーは彼女のあとを追い、「ぼくと結婚してほしい。どこへでも行く。アフリカへ行ってもいい。」と言います。
「アフリカの何を知ってるって言うの!」彼女は大変な剣幕で怒鳴りつけます。
「それじゃ夫を刑務所から出して!」と。
さすがにキンスキーは愕然として非をさとり、「結婚してたなんて知らなかった・・・」としょげて、「なぜ刑務所へ?」と尋ねます。シャンドライの目から涙が溢れ出ます。
次のシーンは街を歩き、貸し部屋を探すシャンドライの姿をとらえます。彼女は体調が悪いようで、知り合いらしい女性に声をかけられ、「シャンドライ、大丈夫?」と言われますが、嘔吐します。あれ?彼女身ごもったんかな・・・と一瞬思いましたが、どうもそうではなさそうです。
ここでBGMとしてかかる音楽が、聞き覚えのある楽曲で、すぐにわかります。バッハのハンマークラヴィーア、変ホ短調プレリュード。これが聞こえると自動的に、ノルシュテインの「話の話」の永遠の章、あの海辺の光景が浮かんできて、この映画ではまるで関係のない使い方なので、ちょっと閉口しました。あの場面は20回以上は見ているので、あの音楽と映像が私の脳の中で一体化してしまって、ほかとつながりようがなくなってしまっていて(笑)。
それはともかく、この映画は音楽ファンにとっては、とても楽しい作品で、バッハだけでなく、モーツァルトもショパンもスクリャービンも登場すれば、アフリカ系の音楽がこれと対抗するように交互に現れ、やがてキンスキーのピアノから両者のリズム、旋律を融合したような調べが聞こえてくる、という聴覚的な構成が意図的にしつらえられているからです。
先走りましたが、アフリカ系らしい教会のミサの光景で、ここでは黒人牧師の説教の前にアフリカの民族音楽系の歌と踊りが披露されます。椅子に座って説教を聴く信者たちに交じってキンスキーの姿があります。一方、シャンドライが医学を学ぶ光景が交互に映されます。彼女は医学の面接試験を受けてAランクの合格をもらい、おめでとう!と仲間の学生たちから祝福されます。
家に帰ると、キンスキーが、運送屋が来るだろうから頼む、と彼女に搬送手続きを頼んで入れ違いに出ていきます。
シャンドライがベッドメイキングなどしているとき、キンスキーの屑入れに捨てられたキンスキー宛てにきた手紙の封筒に、彼女が忘れようにも忘れようのない故国の切手、あの町中ベタベタ張られていた独裁政権の軍人らしき男の顔を印刷した切手が貼られているのに気づき、心穏やかではありません。
シャンドライは落ちていたキンスキーのボタンを拾ってつけてやるうち、そのまま居眠りして夢を見ます。その夢の中に、冒頭に登場したあの民族楽器を奏でながら歌うアフリカ系の歌い手が登場して、冒頭と同じように大きな声で歌い、奏でます。そして、シャンドライは町中の壁に貼られたあの軍人のポスターを必死で剥がしています。・・・
少し別のシーンがあって、またキンスキーの部屋の掃除にきたシャンドライの場面。キンスキーに五線紙をとるように頼まれ、ピアノをひく彼に渡します。彼はどうやら作曲中のようです。床の敷物に掃除機をかけるように言われ、音が邪魔になるでしょう、と彼女は遠慮していますが、キンスキーは邪魔にはならないからかけてくれ、と。キンスキーの部屋からは本棚が消えています。
キンスキーは掃除機の騒音の中でピアノを打ち、作曲していくようです。そのリズムがだんだんアフリカ系の音楽に似た調子のいいものになっていき、それまでキンスキーの弾く西洋音楽の楽曲にまったく興味を示さなかったシャンドライも、思わず掃除機をとめて聞き入って、その表情に笑みが浮かびます。
このとき神父からキンスキーに電話がかかります。近くまで来ていたようで、キンスキーはすぐ行くと言って神父に会いにいきます。アフリカ系のたぶんあの教会の神父だったのだろうと思います。どうやらキンスキーはこの神父を通じて、シャンドライの刑務所にいる夫のことで働きかけをしているらしいということが分かります。
病院の医師たちの回診の場面、主治医のそばに白衣のシャンドライもいます。
夫に関する報せがシャンドライのもとに届きます。軍の刑務所から一般の刑務所に移され、近々裁判が始まる、と。いったい誰が書いた手紙なのか…キンスキーが?とシャンドライは半ば気づきます。でもなぜ?・・・
ピアノの音がする。でも誰もいない。シャンドライはピアノの蓋をバタン!と閉めて、やめて!と叫びます。これはちょっと不思議なシーンです。既にシャンドライの心にキンスキーが入りかけていて、彼女はそのことに気づいて頑なに抵抗し、拒否しているのを表現しているのかな?
一転してシャンドライが自分の部屋で、いってみれば夫の良いニュースに一人でお祝いしているようなシーンです。蝋燭を立てて火をともし、アフリカ系の音楽をかけて楽しそうにひとりで踊り、果物を食べています。キンスキーが帰宅して彼女のそんな姿を垣間見ると、彼女はちょうどとうもろこしをかじっているところです。
そこへ激しくドアを叩く音がして、彼女の学校友達のゲイが押しかけて来て、彼女は渋々彼を入れてやります。彼は自分は落第した、と。踊りに行こう、と二人は出かけます。踊る人々の中で、シャンドライは踊りに行こうと言った割には、一人で何か考え事をするような表情で座り込んで酒を飲んでいます。
モッブで床掃除をするシャンドライ。ずっとキンスキーのピアノの音が聞こえてきます。
次のシーンでは、キンスキーが男とやりあっています。どうやらピアノを売るらしく、すこしでも高い値段でと粘る彼に、買い手は安く買いたたこうとしてやりあっているのです。思ったよりずいぶん安く買いたたかれて、落ち込んでいるキンスキー。
彼は金曜日に友人たちを招いてパーティーを開くから準備をしてくれ、とシャンドライに依頼します。彼が作った小曲を披露する、と。
シャンドライは、友人にプレゼントしたいから演奏会に招いてもよいかとキンスキーに訊き、もちろんOKと答えるキンスキー。
小演奏会の日、キンスキーは自分の創った曲を演奏して来客の友人たちに披露します。来ているのは子供連れの夫婦、家族など十人あまりでしょうか。でも、時間とともに一人去り、二人去りしていきます。
そのとき、シャンドライに「日曜の早朝に着く」という、夫ウィンストンからの電報が届きます。シャンドライの学校友達のゲイ君は、この素敵なニュースに、お祝いをしよう、とはしゃぎますが、シャンドライは「待って!」ととても苛立った様子です。
彼女が演奏会の部屋に戻ると、キンスキーはピアノを弾き続けていますが、もう聴衆は誰も残っていません。子供はぐっすりと眠りこけています。そして、他の子供らは庭で遊んでいます。
キンスキーはピアノの手をとめ、果物をお手玉のようにジャグリングしながら、子供たちのところへ出ていきます。子供たちはこれには大喜びで集まってきます。
あいたピアノを、キンスキーの教え子の男の子がショパンのワルツを弾いています。
さて場面はかわって、シャンドライが35000リラの服を買って帰ってくると、アパートの階上、キンスキーンも部屋の窓にクレーン車の先端が近づいて、いまグランドピアノを搬出する真っ最中です。それで家具はみな消えてしまいました。家具の消えた部屋の片隅でキンスキーは寝そべって、カーレースを実況しているテレビをみています。
夫から便りが来た、釈放されて自由の身だ、とシャンドライが告げます。そして、2~3日、下の階に夫ウィンストンを泊めてもいいかと訊きます。ちょっと戸惑いながらも、キンスキーは、いいとも、と答えるのです。「(夫は)勇敢な人なんです・・・」とシャンドライ。キンスキーは、シャンドライの言葉が聞こえていないかのように無関心を装い、サッカーボールに触って「サッカーボールが見つかった!」と言います。でも、「ぼくも会いたい」とつけ足すのでした。
次につづくのは、酒を酌み交わすキンスキーと神父の姿です。「またコンサートに行かせてもらうよ」という神父に、「もう人前ではピアノを弾かないんだ」とキンスキー。「どうして?」と不可解そうな表情の神父。
今度は自分の部屋でキンスキーへの感謝の手紙を書いているシャンドライ。シャンパンの栓をあけて一人で飲みながら書いては消し、書いては消している様子で、なかなか書ききれない様子。
酔っ払ったキンスキーは帰宅してバタンキューと寝入っています。
次のシーンはちょっと官能的なシャンドライの姿を見せてくれます。そんな夢を見ているのか、眠っている彼女は半ば口を開いて、その唇に、舌に、自分の指を入れてくわえ、なめるような仕草をし、また寝衣の胸をはだけて乳房を自分の掌でまさぐり悶えるかのような仕草を見せて目を覚まします。
彼女はそっと階上へ足をしのばせ、キンスキーのベッドに自分が書きなおした手紙を折りたたんで差し入れます。キンスキーが靴を履いたまま寝ているのを見て、彼女はその革靴を脱がせ、彼のシャツのボタンをはずすと、そのまま彼の傍に添い寝します。
まあここらは、なんぼなんでも非現実的でしょ!何年も軍の刑務所にいて命さえ危なかった夫の帰ってくる前夜なんでしょうが!と半畳を入れたくもなりますが・・・(笑)
朝。呼び鈴の音が聞こえます。
まだベッドでならんで横たわっている二人。うつぶせのキンスキーの左腕が上半身はだけたシャンドライの胸にかぶさっているようだけれど、二人はベルの音が鳴るまでぐっすり眠っていて、いま目覚めたばかりのようにも見えて、何かあったのか、何もなかったのか(笑)、すぐには判断しづらい状況です。
二人共目をあけて、何度も成らされる呼び鈴の音を聴いているけれど、起きようとはしません。
シャンドラは大きく目を見開いて天井をみあげたままです。
表では、玄関のベルを押し続け、誰も出てこないので茫然と街路に立つ夫ウィンストンらしい男の姿があります。
やがて、シャンドラが起き上がり、何も言わずにベッドを離れ、部屋を出ていきます。残ったキンスキーが彼女の置いて行った手紙を見ると、I love you.の一言が書いてあった、という・・・
そこで幕です。
一言でいえば、文化も社会的背景もまるで異なり、相互にまったく理解できないような、アフリカの独裁国家で夫を政治犯として軍刑務所にとらえられ、ローマへ出て来て住み込み家政婦で暮らしを立てながら医学の勉強をしている妻である女に対する、その家の家主である西洋音楽のピアニストであるイタリア人の男の純愛物語で、彼は自分の家財道具、唯一の商売道具のグランドピアノまでも全部売り払って、どうやらその金でアフリカ系神父を通じて彼女の夫の救済工作をして成功するに至る、というお話らしいのです。
これは作中にも登場するモーツァルトのファンタジーじゃないけれど、まったく大人のファンタジーといったところで、ちょっと無理がありません?と言いたくなるところはあるけれど、何も知らないでいる女の視点から描かれていて、なぜこうなっていくのかがずっと分からないままできて、最後の最後にそのとんでもない好意に対して、彼女が自分に何ができるか、どう感謝の気持ちを表現すればいいのか思い悩んだあげく(もう彼女の心もキンスキーに傾いてもいたでしょうし)、といったところで、まぁ、あぁいう突飛な行動に出るんだね、とちょっと目をつぶってもいいですが・・・(笑)
なんだか最初の軍事独裁国家のもとで夫がとらえられて、といったシーンから連想される社会的な背景を生かすような作品ではなくて、それはもうキンスキーの純愛をセッティングするための小道具にすぎないので、そのへんがちぐはぐな感じです。いい年をした男のけた外れの純愛を表現したいとしても、もっと別のやり方があるでしょう、といいたくなるような、奇妙な二人の設定は脚本の問題というべきか。
ただ、素敵なシーンがひとつあって、それはキンスキーがアフリカ系の教会に行って学んだのだろうアフリカ系音楽のリズムを自分の西洋音楽に取り込んだような、非常にいいリズムの楽曲をつくり、弾いていて、それまで彼の弾く音楽にまるで興味を示さなかったシャンドライが思わず掃除機をとめて聴き入り、笑みが浮かんでくる、あのシーンです。あとは聴衆にふられてしまった演奏会でキンスキーが庭へ出て遊んでいる子供たちのところへ、果物を手にたくみなジャグリングをしてみせる明るいシーンですね。この二つとたっぷり聴かせてくれる音楽でこの映画はなんとか及第点かな(笑)。
ドリーマーズ(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 2003
1968年、パリの学生の反乱が主導したいわゆる五月革命の前後の空気を色濃く映し出した作品ですが、直接政治的なメッセージ性を担う作品ではなく、ただ'60年代末の空気がよくとらえられた映画だなと感じました。
主人公はマシューというアメリカはサンディエゴの映画オタクの20歳の青年です。だんだん政治情勢が緊迫して、街は騒がしくなってきていたけれど、彼自身は軟派の映画オタクなので映画浸り。彼自身の言葉によれば「スクリーンはぼくらを社会から遮断してくれた」というわけです。
ところが、そのうちに「社会がスクリーンに雪崩れ込んできた」という具合で、政府(文化大臣アンドレ・マルロー)がシネマテークの創設者アンリ・ラングロワを更迭するに及んで、ゴダール、トリュフォー、シャブロル、レネ、ロメールなどシネマテークで育った映画人をはじめフランスの知識人・学生の猛反発で広範な市民を巻き込んだ街頭の反乱が起き、激しいデモと警官隊との衝突が繰り返されます。マシューは「僕らの文化革命だった」と総括しています。
このアメリカの映画オタクの青年マシューが、パリの騒乱のさなか、同年代のテオと双子の姉であるイサベルに出会い、翌日の夕食に誘われて応じます。ところがこの姉弟とその両親との間はディスコミュニケーション状態で、母親にはマシューが夕食に来ることを告げてなかったために、母親は食事は2人分しか作っていない、と言い、また父親と息子とは政治思想的に対立しています。
「社会を外から見ては駄目だ。内側から見ないと」と街頭の反乱に批判的な言辞を吐く父に対して、息子は「外から見ているのはパパだ。ベトナム戦争のときも(反戦の)署名をしなかった」と父の傍観者的な旧知識人的な立場を批判します。父親は詩人らしく、「詩人の署名は詩だ」といちおうもっともらしいことを言って反論しますが、二人の間には気まずい空気が流れます。
両親は早々に寝室へ去ってしまい、姉弟からマシューは泊まっていくように言われ、応じます。夜中にそっと部屋を出て洗面所で小水に及んだマシューは、テオのベッドでテオと双子の姉イザベルが裸で抱き合って寝ているのを見ます。
朝、イザベルがマシューのベッドへ来て、彼の目を舐めて起こし、毎朝テオにこうするから・・などと言います。このへんから、イザベル、テオ、マシューが何かしたり言ったりすると、それと同じ或いは似通った行動をしたりセリフを言ったりする過去の映画の場面がモノクロで挿入されていきます。彼らはみな映画オタクなので、意図的にそういう場面を再現してみせ、これは何という映画のどういう場面かを言わせるゲームをするわけです。
イザベルとテオの両親は1カ月ほど旅行に出かけて不在なので、二人はマシューに彼らの家へ一緒に住むように勧め、彼らとすっかり意気投合したマシューは荷物を運んで一緒に住み始めます。
マシューがキートンを賞賛すればテオはチャップリンを賞賛して相手の賞賛する役者はこきおろす、といった具合に映画の話は尽きません。
そのうち、イザベルとテオは、ゴダールの「はなればなれに」のフランツ、アルチュール、オディールの三人に倣って、ルーブル美術館の館内を全速力で駆け抜けて、あの9分43秒の記録を破ろうと提案します。戸惑うマシューを誘って三人はルーブルへ。全速力で館内を走り抜けて9分28秒の記録を打ち立てる(笑)。まぁ、ゴダールを踏襲というか、オマージュを捧げつつ、こういう他愛ない愉快な遊びに登場人物だけでなく、監督も興じているところが、この作品の面白さの一つの要素になっています。
とはいえこの映画は別段特定の先達映画人へのオマージュというのではなく、強いてそういう言葉を使いたければ、映画そのものへのオマージュが盛りだくさんの、映画狂のための映画で、そういえば昔、有名なクラシック音楽の楽曲の一部を聴かせて曲名を当てさせるテレビの早押しクイズ番組があって、耳自慢のクラシックオタクが競い合い、多くは出だしの一音が響いたとたんにボタンを押して正解するやつがいて私などは本当に驚嘆していましたが、あれと同じように、この映画オタクの方なら、この映画のいたるところに挿入される古いフィルムの映像を見て、テオやイザベルのようにタイトル当てゲームを競い合う楽しみが味わえるでしょう。
ところがこのゲームで失敗したテオにイザベルが科す罰則が、女優の写真を見ながらマスタベーションさせる、というようなえげつないもので、それもだんだんエスカレートする風です。或る晩、三人でいるとき、テオが突然呼吸困難を引き起こしたように倒れ、なんだなんだと見ていると、倒れたはずのテオが真顔に戻って、この映画名を問いかけます。「暗黒街の顔役」を答えられなかったマシューに強いる罰ゲームはテオの見ている前で姉とセックスせよ、というもの。OKとイザベル。トイレへ逃げるマシュー・・・まぁあとは筆者映倫でカットしておきますが、この映画での三人の露出度はかなりラディカルなものです。
一卵性双生児の姉弟の絆は恐ろしく濃密なもので、そこへマシューが招き入れられながら、作中でテオがマシューに言うように「三人一組にはなれない」ことはマシューも感じています。そこでマシューは「二人がずっとくっついていては大人になれない。子供のようだ」とテオに言い、イザベルを一人の女として、2人きりで、とデイトに誘います。対(つい)であることを求めたわけです。
二人は映画を見に行き、後ろの席でキスなんかしています。そして、電気屋のウィンドウのテレビでデモのニュースを見ながらキスをし、街路に積まれた破壊物の山を眺めて帰宅すると、椅子にイザベルのものではない女ものの手袋が置いてあり、テオの部屋から音楽と女の甲高い嬌声が聞こえてきます。
マシューはイザベルの部屋へ行こうと誘いますが、イザベルは申し出を拒み、私の部屋ではセックスは禁止なの、と言います。
テオの部屋から響いてくる音楽を聴きながら、イザベルは泣き出し、テオの部屋の鍵のかかったドアを激しく叩いて、女に出ていけと叫びます。彼女は結局テオから離れられず、テオを激しく求めて、なだめようとするマシューにも、出て行って!と拒むのです。
「毛沢東は映画監督だと思わないか?演者は何百万もの兵士だ」とテオ。面白いですね。
マシューは「全員がエキストラだ。それがぼくには気持ち悪い」と返します。いい答えですね。
そしてマシューはテオに言います。「君は外へ出るべきだ。」
一方イザベルは、「これは”永遠”でしょ」と放心したような表情でつぶやきます。いまの自分たち3人の、とりわけテオとの絆の状態が永遠につづくと、当然のように彼女は考えてきたはずで、それが先日のことで揺らいだことをこの彼女の言葉は示しているのでしょう。
両親が突然帰宅します。二人が家の中へ入ると、そこら中にモノが散乱する状態で、驚きながら子どもたちのところへやってきます。そして、ベッドの上に、全裸で折り重なるような姿でまだ眠りこけている三人の姿を見出すのです。それでも叫びも怒鳴りもせずに、父親は小切手にサインし、母親はその小切手をそっとテーブルの上に置いて、二人は外へ出ていきます。
イザベルがようやく眠りから覚めて、テーブルに置かれた小切手をみつけ、両親が帰って来て自分たちの姿を見られたことを悟り、衝動的に台所から元栓を開いたガス管を寝室へ引っ張ってきて、まだ寝ている二人の所へ自分も戻り、ガス自殺を試みます。
こんな場面でも、モノクロフィルムの或る場面が挿入されるので、ベルトルッチ監督の生真面目さにちょっと笑ってしまいます。そのフィルムは、先日私が見たばかりの、ロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」。不幸な少女ムシェットが母の埋葬用にもらった布地を身に纏い、池畔の傾斜地を転がって入水しようとして一度失敗し、もう一度高みへ行って横たわり、ゴロゴロ転げ落ちて池に入水して果てるあのシーンです。まぁ死のうとする場面の共通性で呼び出された映像なのでしょうね。でも、やっぱり記憶にある映像が出てくると、あ、少女ムシェット!なんて言いたくなるから、これって映画見てて意識の流れをかえって停止させちゃうんじゃないでしょうか。連想で効果を高めるんじゃなくて逆で自分もゲームして遊んじゃう(笑)・・・これってどうなんでしょう?これも監督の意図なんでしょうか。
さていざ三人心中で死のうとしたイザベルでしたが、この瞬間に寝室のガラス窓がデモの投石で割れて、テオもマシューも目覚め、臭いにおいがする!と言うと、イザベルすかさず「催涙ガスよ!」(笑)・・・やっぱりこの監督、観客を笑わせたくて仕方がないようです。
三人そろって街路へ出ていくと、そこは反乱する学生・市民らの過激化したデモ隊と警官隊とが対峙する一触即発の最前線。マシューが止めるのも聴かず、テオとイザベルはマシューを振り切って街路を走り、マシューは二人が走り去った方向に背を向けて、デモ隊を割って去っていきます。テオは火炎瓶を手に前方の警官隊に近い倒れた車の影に進み、警官隊に火炎瓶を投げつけます。これを機に、警官隊が猛然とデモ隊に襲い掛かります。
そしてエンディングの歌が流れます。
”いいえ そうじゃないわ
君は少しも公開していない・・・
・・・・
昔の恋など・・・
・・・・
火をつけたわ
・・・・
過去の恋など
きれいに忘れたわ・・・
上の世代との断絶・・・政治思想も生き方も感性も・・・、そして、体制への異議申し立てが性革命(性の解放)と重ね合わされる、性と革命幻想との結びつき、これはあの時代の空気そのもので、そこは間違いなくとらえられていると感じました。かなりきわどいセックスシーン盛りだくさんの作品ではありますが、中身は非常に生真面目な作品です。
そして既に触れたように、これは映画オタク、映画狂、いわゆるシネフィルさんたちのための映画という側面もふんだんに持っています。
政治的なメッセージはありふれたもので、そこに作り手の独創はが伺えるところはないように思います。文化の抑圧者としての政治権力に対して、映画が文化代表として対置されているのは、これが映画作品で表現者が映画人だからというだけではなくて、たまたまフランスでちょうどこの映画で描かれた期間の少し前、1968年2月に起きたラングロワ事件と、それに猛抗議する芸術家、知識人をはじめとする広範な学生・市民の反権力闘争が現実に起きたことが背景にあることは言うまでもないでしょう。
私などの世代には好むと好まざるとにかかわらずある種の気恥ずかしさや悔恨、いやはや、といった様々な感慨を催させるような、若い日、良きか悪しきかは知らねども半世紀ほど前の古き時代の空気を感じさせてくれる作品で、映画表現史としてどうなのかは知りませんが、時代と寝た作品としては記憶される濃密な中身の、キマジメな作品だと思います。
ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ(ステファノ・ソッリマ監督)2018
以前に見たヴィルヌーヴ監督の「ボーダーライン」は非常に面白くて重厚なドラマとしての味わいを持ったエンタテイメント映画でしたが、その続編のようで、チラシに出ているヒーローらしい男の顔が前に見た人だったので、出町座で見てきました。
今回も撮影技術というのか、メキシコの荒野みたいなところでの戦闘シーンや上空からの撮影など、現代的なエンターテインメントとしての出来は悪くないとは思うのですが、今回は肝心の中身がもうひとつパッとしません。いや、もう一つも二つも三つも、パッとしないのです。
前作と同じように、メキシコの麻薬カルテルに挑むアメリカのヒーローが主人公で、最初はアメリカ大統領も了解済みで軍が後押しする、ただし政府や軍の関与は極秘で、資金を迂回して支援するが、直接には軍や政府機関は一切関与しないから、民間の組織等々を使って勝手にやれ、責任も軍や政府は一切負わないから、成功しても失敗しても責任は全部自分たちでとれ、ということで、少なくとも隠れた後押しがあって、カルテルどうしを戦争させようとして、わがヒーローたちは一方のボスの娘を誘拐するわけです。
ところが、この少女を保護してメキシコ領内を移動中、マフィア軍に襲われ、同時に護衛しているはずのメキシコ警察だかがマフィアの手下だったわけなのか、自分たちの方へ機関銃をぶっ放してくるありさまで、そこはプロフェッショナルたちだから首尾よくやっつけてしまうのですが、おかげで何十人かの正規のメキシコ警察の人間を殺害してしまったわけで、メキシコ国民の猛反発が反米的な動きに広がることを懸念した大統領は早々に作戦中心を命じたばかりか、保護すべきマフィアの娘である16歳の少女を、彼女を保護して一人砂漠を彷徨うわが主人公ともども消してしまうことを特務機関のトップに命令します。
敵に襲われたときに一人で逃げ出した少女を、仲間を先に発たせて一人で探し、みつけて、敵の手から守りながら逃亡をつづけるわがヒーローは、自分をこの作戦に引き込んだ前作でも同様の立場でつきあったいわば上司にして戦友にあたる男から、電話で、少女を消すように指令を受けますが、殺せない、と拒否します。
わがヒーローはかつて妻子をこの少女の父親であるマフィアのボスに無惨に殺害されたため、マフィアのボスを追い詰め殺すためならどんな危険もかえりみない男ですが、そのボスの娘である少女には手を出さずに守り切ろうとするわけで、二人で逃亡するあいだに、少女との間に一定の信頼関係が芽生えてきます。
しかし、国境を越えるための闇のルートをいくバスに乗るときに、たまたまそこにいた闇の国境越え斡旋グループの中にわがヒーローを前に見て顔を記憶していたメキシコ人少年がいて、わがヒーローは捕らえられ、荒野の窪地で、年上の仲間たちに強いられたその少年に、縛られて目隠しをされたまま、ピストルで頭を撃たれて、動かなくなります。
他方、ヒーローと少女を殺害して証拠を全部消し去ってしまおうというアメリカ政府及び軍の上層部の意志で命令を受けてヘリコプターで出動したわがヒーローの直接の上司にして戦友およびその友軍はわがヒーローは手を下さずして殺されたと考え、少女を連れ去っていく国境越えの斡旋グループ、結局はマフィアの同じ穴の貉たちでしょうが、彼らの車列を攻撃し、少女を救い出します。少女を殺せと言う命令に背くのかという部下に対して、証人保護プログラムで守る、と答えて少女を殺す意志がないことを明らかにします。この襲撃の前に、ヒーローを撃ち殺した(はずの)少年は、そのために暗鬱な気持ちになり、仲間と行動を共にしていることも嫌気がさしたのか、車を飛び降りて一人で歩いて帰途につきます。これがこの少年のいのちを救うことになりました。
そのころ、わがヒーローは死んだと思われていたけれども、気を失っていただけらしく、覚醒してなんとか縛られていたのを自力で解き放ち、立ち上がります。どうやら弾は頬骨に当たって食い込んでとまったか脳を破壊せずに顔面を骨だけ貫通していったかで、流血は激しいものの、命だけは長らえたようです。
そして映像はそれから1年後に。さきの、わがヒーローを殺した(はずの)少年が、食堂だったかどこだったか、店のようなところで働いていて、奥へ入ったところで、自分が殺したはずのわがヒーローの元の身体に戻った姿に遭遇します。わがヒーローは少年に、お前は本当にマフィアみたいなものになりたいのか、というような意味のことを言い、黙っている少年に、将来について少し話そうじゃないか、とドアを閉める、そこで終わりです。
えっ?えっ?ここで終わっちゃうの?!それはないでしょう・・・! というのが見ていた観客全員の気持ちでは?(笑)
これじゃ、たしかにマフィアとのちょっとしたドンパチは見せてくれたけれど、まだ物語らしい物語、ドラマらしいドラマがどこにも展開されてないじゃん!って気持ちですね。わがヒーローが憎むマフィアのボスとのからみも、ボスの娘を守ったという間接的な接点だけで、何もそこにドラマが生じてはいません。マフィアに対しても、自分たちをいわば裏切った大統領はじめ政府や軍の上層部に対しても、また上層部に従うようにみえて実際にはわがヒーローの味方にふみとどまった直接の上司で戦友である男との関係も、なにもまだドラマがない。これからじゃないのぉ~って感じで、まったく物足りないです。これで to be continued じゃ、ひどいんじゃないか。あと何か月、いや何年、次の続編まで待たされるのか。わたしゃ、そんなにもう待てない身なんですけど(笑)
黒の試走車(増村保造監督) 1962
これは大映作品の特集の一つで、出町座で見てきました。作品としてはなかなか面白くて、わが日本の基幹産業たる自動車業界の、ライバル自動車メーカーどうしの熾烈な産業スパイ合戦を描いた映画です。
ライバル社に追いつき、追い越すためのスポーツカータイプの車を設計する会社で、試走車を極秘に走らせたのにライバル社らしいものが探知して撮影などしていたことがわかり、どうも情報が洩れている、社内にスパイがいるらしいということで、それをあぶりだす手を考え、対策を講じもしたのに、あの手この手を尽くしてみてわかったことは、既に設計図までライバル社に漏れているらしいこと。しかも今度は相手も全くこちらと同じような設計の車をつくって売り出そうとしているらしいことがわかり、今度は価格競争にしのぎを削ることになります。
スパイを暴き出す手段を講じると同時に、こちらの価格を伏せて相手の価格をスパイして調べることに全力が注がれます。まぁざっとそういうスパイ合戦のあの手この手が次々に破られてはまた新手で、というそのあたりの展開がなかなか面白い。
物語としては、このスパイ部署である企画課の次の課長にと見込まれている田宮二郎演じる若手社員が恋人であるバーの女を相手の社長だったか会長だったかに近づかせ、最終的にはホテルで寝てまでして情報をとることを要求することで、女性からも愛想をつかされ、自分でもほとほとこの稼業がいやになり、最後にスパイを暴き出すのに、課長が表ざたにはしないから、とかまったく心にもない嘘をついてもともと友人であった相手に白状させて録音テープをとって相手を追い詰め、窓から飛び降り自殺に追い込んでしまうのを目の当たりにして、もう耐えられなくなって、もっと人間らしい生き方がしたい、と職を辞してしまう。彼に愛想尽かししていた女性もそんな彼のところに戻ってきて愛情が復活する、そんな話です。
面白いけれども、いま見ると、いかにも古いなぁ、という印象を受けます。それは自動車会社どうしの産業スパイ、それもほとんどヤクザまがいの、相手の弱みにつけこんだ脅迫や暴力、だまし、盗み、裏切り等々、現代にも産業スパイがあるとはいえ、いまではいくらなんでもこんな荒っぽいやり方はしないだろうし、許されないだろうというようなやり口での会社内では公然の秘密的な組織的なスパイ活動とか、いまもあるにはあるとしても、典型的なモーレツ社員たち、それもちょっとそういう生き方は間違ってやしないか、という疑問を生じる余地もなさそうな自分から積極的にそれが当然でそれがいいことだみたいになり切っているモーレツ社員なんてものがあからさまに登場するから・・・・たしかにそれは時代的制約みたいに思えて古臭く感じるのかな、とも思うのですが、果たしてそうなんでしょうか。
それなら、たとえば小津や溝口、成瀬の作品にしたって、登場する人物の生き方、男女の関係、社長や上司と部下の関係、仕事観、人生観、みんな「古臭い」に違いないのですが、そういう人物の登場する作品だからといって、作品自体が「古臭い」とは感じないのです。この違いはどこにあるのでしょうね。
そんなことを考えながら見ていました。たぶん、登場人物が古い考え方、旧式な生き方をしているという点では、彼らはみな同じなんだろうと思います。でも、それぞれの作品で監督が描き出したかったものが違うんじゃないか。或いは同じものを見ていても、見る観点、見方が微妙に、でも決定的に違うんじゃないか。
古臭い考え方や生き方をする人物がいたとして、これをその時代の空気の中で、ごく当たり前のものとして意識しないで肯定的に受け容れて、面白おかしい物語を展開していくのと、その古臭い考え方や生き方自体が、その時代にあっても、むしろその時代の支配的な空気の中である種の反時代的な意味をもつことを敏感に取り出して描こうとしていたり、そうした生き方や考え方への違和感を大切にしてそのこと自体に意味をもたせるような描き方をしていたり・・・うまく言えないけれど、微妙にして決定的な違いがあるような気がします。
増村保造という監督は、「曽根崎心中」といういい作品を作っていて、あの映画に関する限り大好きなのだけれど、ほかに見た二、三の現代ものの作品が、どれも悪くはないのに、なぜかいま見るとひどく古臭く感じてしまうところがあるのです。もし私にもう少し時間が残されていたら、いずれその理由をしっかり言えて自分で納得できるようにすることができたらな、と思います。
おとうと(市川崑監督) 1960
幸田文の原作を、岸恵子(姉げん)、川口浩(弟碧郎)の主演で映画化した作品です。リュウマチで動けず家事万般、弟の世話もすべてげんに任せて愚痴と厭味ばかり言っている意地悪な継母役に田中絹代、家の中では何の力もなく父親としてのつとめをまったく果たせないなさけない父親で作家らしい男に森雅之と名優が固めています。
こういう役や、頑なに自分の生き方や考え方を固執する古いタイプの女性を演じることの多い田中絹代を見ていると、あんまりぴったりすぎて、このひと、ほんとにこういうイケズな人やったんちゃうやろか(笑)、と思ってしまいそうです。
悪くない話だったけれど、やっぱり小津、溝口、成瀬のいい作品には絶対に感じない、古臭い感じがするのはどうしてでしょうか。単に親子関係が現代とは違うというようなことではなさそうです。
主役の岸、川口はよくやっていると思いますが、もう少し若々しい感じがあるといいなぁ、と思いました。この時の二人の年齢はどうだったのかな。岸恵子はちょっとモダンなところがあるから、本当はこの毎日弟の弁当をつくったり傘をもっておっかけたり、男たちにつきまとわれたりするタイプの女性はもう少し古風なやわらかいタイプの女優さんが適役だったのでは?という気もするのですがどうでしょう。
意地悪な母親をやり過ごして、ときに反発もしてみせるようなところは(反発して言い返したりはしないけれど)岸恵子でいいと思うけれど、言い寄ったりつきまとったりする男性に対しては、彼女ならパーン!と跳ね返してしまいそうだし、逆に好きな人が居たらこっちから迫っていきそうな勢いのある人だから(笑)。
ちょい役ではあるけれど、田中絹代の継母の見舞いに来ては岸恵子の悪口を吹き込んでいく底意地の悪い夫人役の岸今日子は、まさにそういう役柄ぴったりで、存在感がありました(笑)。
ディア・ハンター(マイケル・チミノ監督)1978
4Kデジタル修復版というのを出町座で見てきました。封切のとき一度見て衝撃を受けた作品でした。
記憶力の悪い私は、かなり忘れていたので、今回観て、ベトナムでの戦闘シーンがこんなに僅かだったか、と驚きました。それに対して、ベトナムに行くまでの時間がものすごく長かった。退屈なほど、とは言いませんが(笑)。私の記憶は何かで歪んで、いつの間にか「ベトナム戦争の映画」(戦後の後遺症を描くのが主だとはわかっていても)だという意識になってしまっていたのでしょう。
それに、あの捕虜になったときの描写がものすごいですから、あの衝撃が全体を覆ってしまっていたのですね。
もちろんその後遺症としての、クリストファー・ウォーケンの演じる男のあのとばく場でのシーンも、一度見たら決して忘れられない衝撃ですから、捕虜としてロバート・デ・ニーロと向き合って賭けをやらされる(あるいは進んでやる)ときのシーンと、戦後のあのウォーケンが賭場で赤ハチマキ巻いてやるシーンの二つでこの映画は私の中ですっかり定着してしまっていました。
今回改めて見て思ったのは、この映画は、戦闘なんかではなくて、みなが平和に、幸せに暮らしていた、ふつうの、地方のアメリカの地域社会と幸せな家庭の姿をちゃんと描きたかったんだな、ということです。
前半の長い長いあのどんちゃん騒ぎ的なアメリカ人らしい楽しみ方、酒にダンスに女に男同士の友情、出征直前であっても、まぁ結婚式のパーティーだからってことはあるとしても、出征のことにはほとんど触れずにああして歌って踊って大騒ぎ。
ちょっと日本人の私などはついていけないような大騒ぎ。その中に喜びも悲しみも痛みいっぱいあるのだけれど、全部あのどんちゃん騒ぎに溶かし込んでしまう、そこにアメリカ人の幸福のあり方も人間の付き合い方も生き方の強さもあるのでしょう。あれが日本人なら、公的に万歳をして送り出しはしても、もっと湿っぽいか、覚悟をきめてさらりとしていたとしても、それぞれの想いは胸に、沈黙は金で目を見かわしてうなずいて別れを惜しむだけでしょうね。
あの幸福などんちゃん騒ぎをいやというほどたっぷりと描き、みせつけ、脳裡に刻み付けた上での、あのほんのわずかな時間のベトナム戦場での三人の男たちの体験です。その恐るべき体験は、たしかにそれまでの長い長い大音響でのバカ騒ぎ的な世界がなければ、拮抗できないほどのものでした。
そして戦後どうなったか。たったあれだけの、でも人生をときにそれきり断ち切り、断ち切られなくてもすっかり変えてしまうほどの衝撃の体験が三人に刻み付けた傷跡は・・・。
ウォーケンをベトナムまで探しに行って、結局彼を失って帰って来たデ・ニーロを含めて、ウォーケンと結婚しようとしていたメリルストリープもいて、残された家族・友人で、ニック(ウォーケン)に!と酒を酌み交わし、祖国への想いを歌う歌をみなが静かに歌う、あのラストシーンも淋しく切なく、素敵でした。
今回観てあらためてロバート・デ・ニーロのうまさに舌を巻き、またメリルストリープの美しさに感動し、クリストファー・ウォーケンのカッコよさに涙しました。彼がデ・ニーロの多様な木の話に、あぁ、一本の・・と優しい笑顔で答えて、次の瞬間にズドン、とやる、あの子供のように無垢な優しい笑った目はものすごく魅力的でした。
ベルトルッチの分身(ベルナルド・ベルトルッチ監督)1968
ドストエフスキーの「分身」あるいは「二重人格」と訳されている小説を原作とした作品ですが、原作がロシアの下級官吏を主人公として、彼に分身を生み出すまで、つまり自己分裂をきたすまで追い詰める彼の下級官吏としての境遇、社会的地位・身分をきっちり示して、その心理的過程を描き出した原作に対して、ベルトルッチは、このドッペルゲンガーを心理的現象とせずに、分身が客観的な実体(肉体)をもって、もとの人物に代わって他者と関わっていくようなありかたをするところはドストエフスキーの分身のありようをそのまま採用していますが、主人公は学生に演劇を教えているらしい、まだ若造の大学教師です。
ここで半畳入れておけば、大学教師なんて設定はまずこの作品から社会的背景をなくしてしまうようなものなんじゃないかという気がします。それが証拠にそういう人種は、なにをやっている人間か(どんな職業か)見た目で判断しにくい、曖昧な顔をしていますよね、だいたい。
ベルトルッチのこのお坊ちゃんも最初はとても大学の先生だなんて見えない、どこかいいうちの好き放題に放任されてわがままいっぱいに育ったできそこないの、ちょっとおつむがいかれた若者にしか見えませんでした。教室へ入って学生を教えだしたのでびっくりしました。でも日本の大学の現状に鑑みて、あぁこういう教員はゴマンといるいる、と納得はしましたが(笑)。
ドスト氏の気のきかない下級官吏が身のほども知らず昇進をゆめみて挫折し、また身のほどをわきまえない恋をしてもふられる、というのは、ご本人の資質や能力とともに、そうした資質をはぐくんできた彼の社会的な境遇、身分等々の背景を考えれば自然に受け止められるけれど、ベルトルッチ氏の坊やは教授の娘で片思いの女性の誕生日パーティーを開いている邸へ押しかけて奇矯なふるまいをして追い出される(ドスト氏のゴリャートキンももちろんそれは同じですが)、当初の振る舞いからして既に尋常ではありませんし、最初から壊れているようにしか見えません。
だから、なぜ分身が登場せざるを得ないのか、ドスト氏の作品ではよくわかるけれど、ベルトルッチ氏の坊やの場合はよく分からない。強いて言えば最初から壊れているから、としか・・・。たしかに頭の硬い左翼っぽいご託宣を教室で宣うて学生に総スカンを食らう、融通のきかない、非社交的な人物というふうには描いてあるけれど、それはもっぱら彼の性格的、資質的なもので、そこにドスト氏のゴリャートキンのような社会的背景が感じられません。ブッキッシュな反社会的言辞があるだけで、社会的地位・身分といった実際の境遇が、造型された人物の内面をくぐって表現されていないので、表面的な意匠にしか見えません。だから、実体として分身が生み出されざるを得ないような負の力がこの人物には見られません。
ただ、そこは原作を踏襲してタイトルどおり分身を登場させてしまうことにしたわけですから、あとは映像的にそれがどうか、ということだけで、そこは20代の若さでつくった作品とはいえ、うまく処理されているのはさすがです。
恋する彼女の邸を追い出されて帰り道、自分の大きな影が行く手の高い建物の壁に映って、いやに大きな影だなと思っていたら、これが坊やとは違う動きをするので、おや、これは喜劇か?(笑)と思いました。いや、実際喜劇タッチでやりたかったのかもしれませんね。
大体、片思いの女性クララの邸での振る舞いからして喜劇的な誇張されたものなので、これは喜劇かもしれない、と半ば思いながら見ていたので、あの影の登場するシーンで、影が自分の動きとは違う動きをすることに気づいて驚く坊や(ジャコブ)を見て、あ、やっぱり喜劇だったんだ、と思ったのです。
でも違ってた!(笑)・・・たぶん・・・
これはやはり、ドスト先生にあやかった、大まじめな分身劇のつもりなのでしょう。ドスト氏のゴリャーキンを、貧しいさえない下級官吏から、本で習い覚えた左翼思想に侵された、壊れかけのお坊ちゃん大学教員に置き換え、19世紀の社会ー心理劇をヌーヴォー・ロマンに置き換えたかったのでしょう。
いや、もう少し深読みすれば、他人の悲劇は突き放して冷笑的に傍観する他者には喜劇にしか見えないものかもしれませんから、ドスト氏のゴリャーキンの行状も、ゴーゴリの「狂人日記」や「外套」の下級官吏の行状も、ときにみじめさを増すだけの御本人の大真面目さが冷笑を伴う憐憫を誘うように、ジャコブのドラマもまた人生そのものと同様の悲喜劇というべきかもしれませんが・・・。
ジャコブの分身は、あっさりと、どこの誰やらも知れないけれど、ピアノを弾いている青年をピストルであっさりと射殺してしまいます。まことに不条理な殺人劇でありまして(笑)、観客としては唖然とするほかはありません。やっぱりこの坊やはおつむのイカレた坊やなんだ、と。まあ分身ということになってはいるのですが・・・。
それにしても、ドスト氏のゴリャートキンがあの自意識過剰な長広舌のうちに示されているように、追い詰められてだんだん狂気の域へ踏み込んでいくのに対して、ジャコブ坊やは最初から壊れているようにしか、私には見えませんでした。
もとのジャコブと分身があれこれ言葉を交わしたり、ジャコブが学生たちにひとくさり持論らしき芸術論みたいなものや情況論みたいなものをぶってみたり、やたら本が積み上げてある部屋でわけのわからないモノローグをたらたら垂れ流してみたり、あのころの映画によくある意味ありげで意味のない不条理映像(笑)のつぎはぎについてくどくど書きとめる必要もないでしょう。
きっとあのころのヨーロッパの若い映画作りを志す連中のあいだでは、ゴダールだのトリュフォーだのに影響されてこういう流儀の映画を撮るのが流行ったのでしょう。いま見ると、そういうところが、とても古臭いものに見えるのは仕方がないでしょう。若者はいつも時代と寝たがり、あとで自分も赤面せざるを得ないような、この種の痕跡を残さざるを得ないものですから。
ラスト・タンゴ・イン・パリ(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 1972
(細部までネタバレあります。ご注意!)
フランス映画にはまるで興味がなかったので、新聞の映画欄をみてたまに映画館へいこうかと思っても、こういうタイトルの映画はまずタイトルを観ただけで敬遠していたと思うので、ベルトルッチについても、この作品についてもまるで知りませんでしたが、公開当時はずいぶん議論を巻き起こした作品だったようです。主役のマーロン・ブランドが若い(19歳とか)女優にbeurreをぬりつけてレイプ同然のセックスをするシーンが女優の了解なしに撮られたとか物議をかもし、イタリアでは上映禁止、各国でも検閲を求める訴えがおこされたとか。当事者の間に細かい点での証言の齟齬があっても、概ねそんなことがあったようで、リアルに屈辱感をおぼえるようなシーンにするためだとかなんだとか監督は言っていたようですが、巨匠と言われる人も無慙なことをするものです。あぁいうシーンが作品にとって不可欠だとも思えないですが。
作品の描くところは、人生の黄昏時を迎えた主人公ポール(マーロン・ブランド演じる)が、自分にとって理解のできない妻の自殺を契機に、生の空しさと悲哀を強く味わい、その鬱屈を、自分にそれだけはまだ残っている性的な欲望へ振り向けるようにして、性的にはまだ未熟で無防備な若い女性ジャンヌとの逢引で癒そうとするように頽廃的な交わりを続け、やがてそうした中年男の爛れた生きようにずるずる付き合っていく自堕落な生き方に見切りをつけようとするジャンヌに、今度はポールのほうが執着してつきまとい、最終的に拒否されるという話です。
出会いはパリの薄汚い安アパートを借りに来たジャンヌが、先客として部屋の隅にうずくまっていた中年男ポールと出会い、名も知らぬまま、ちぐはぐなセリフをやりとりしたあと、部屋にかかってきた間違い電話にそれぞれ離れたところで受話器をとったところから、一瞬の空白、間のような瞬間を置いて、それまでのちぐはぐな持続が断ち切られて雰囲気が変わってしまったようになり、ポールがジャンヌを抱き寄せて、一気にセックスまでいってしまう。ありえないような話だけれど(笑)、これが実に微妙なタイミングで二人の部屋の中のそれまでの行動と間と、そして突然の変化とが自然な形で描かれていて、ここは感心させられました。あれよあれよ、という間の新展開。
でもそのときは、それぞれ泊まるわけでも、次を約束するわけでもなく、一過性のことのように別れてそれぞれ帰っていきます。ポールは自殺した妻の母親が待つ家へ。ジャンヌはトムという映画を撮っている婚約者のもとへ。その婚約者は、この作品の中でずっと彼が彼女を主役にした映画を撮るんだと言って、実際の行動そのままを撮って映画にするんだとかで、まとわりついてはカメラを向けているのです。
こうして二度とそこへ行かなければ、相手の名も居所もしらぬ行きずりの行為で終わったのですが、二人ともそれぞれこの逢引の場所となる薄汚いアパートの2階へ引き寄せられるようにして再び訪れると、相手も来ていて、腐れ縁が始まります。そこへ行けば相手に会える、と思って、それぞれにその安アパートの部屋を二人だけの隠れ家として使うようになります。
ジャンヌが自己紹介をしようとすると、ポールは彼女の口をその手でふさいで、名前は聴きたくない。外の世界のことは全部忘れて、ここではただ男と女として交わるだけだ、と言います。
こういうことも含めて、大きな年齢差のある彼と彼女の間は、いつもポールが一方的に命じるような上から目線の喋り方で、ジャンヌのほうはそれにただズルズルと従っていきます。それは見ていてあんまり気持ちのいい関係ではありません。男の私のような観客にとってもそうなのだから、フェミニストの女性が見たら、例の物議をかもした準レイプ場面だけじゃなく、全体にひどい映画だ、と怒り心頭に発するかもしれません。
ポールの自殺した妻はポールとは別のやはり中年男と不倫をしていたのですね。ポールは妻の死後、その男に会いにいき、酒を酌み交わしながら亡き妻のことを語り合います。ここらはまあ、人生の酸いも甘いも嚙み分けて来た人生の黄昏時の男どうしの大人の語らいといったところです。
互いに、あからさまに憎むわけでも嫉妬するわけでもなく、ただ妻が何を考えていたのか、どんな女性だったのか、ポールには分からなくなっている。そのわからない問いへの答えが、妻の不倫相手のところでみつかるかもしれないと思って訪れたのでしょう。でもそんなもの、みつかるわけもないのは自明のことかもしれません。
ポールとジェンヌの性的な関係はますますアブノーマルな色合いを濃くしていきます。そんな中で、作品外で物議をかもすようなシーンも登場したわけですし、ほかにもちょっと獣姦的なものを連想させるような設定をポールが(自分自身を受動的な役割としてではあるけれども)何も分からないジェンヌにさせてみたりするようなシーンもありました。
ジャンヌはまだ十代の少女なので、こういう爛れた関係にいつまでも受動的に従っていることを、心身自体が拒むようになるのは自然なことで、彼女が倦んでいたところへ、若い婚約者トムに求婚され、ジャンヌはトムとの結婚を機にポールとの関係を断とうとします。
逢引の場に出向かなくなったジャンヌを或る時街で見かけたポールは彼女の後を追い、ダンスホールに誘って泥酔状態でラストタンゴを踊り、ホールの運営者に追い出されます。ジャンヌは、「もう終わりよ、結婚する!」と、とポールに最終的な訣別宣告をして、去ろうとします。が、ポールは執拗に彼女を追い、最後は彼女のアパートでジャンヌがエレベーターで上がるのを、階段を駆け上がって追い、とうとう室内まで追いかけて言うのです。
「アフリカも、アジアも回った。インドネシアにも行った。世界中まわってようやく君を見つけたんだ。君の名を知りたい・・・」
と、ここで初めて彼女の名を問うのです。そして彼女を求め、彼女を抱きしめようと近づいたとき、ジャンヌが手にしたピストルが轟音を発します。
少しよろめきながらポールはテラスへ出ていきます。彼の視界にパリの街の風景が広がります。そして彼の表情のクローズアップ。次のカットはテラスの床に身をかがめるように横たわっている彼の姿です。
室内でまだ拳銃を手に茫然と佇んでいるジャンヌが呟きます。
「誰なの?・・・私を追い回しレイプしようとしたわ。・・・名前も知らない。知らない男よ。・・・何者?・・・異常よ。・・・名前も知らない・・・」
人生を知り尽くしたはずの中年男が、自分との関係が自然と化していた妻の突然の自殺で、それまで自分が分かっていると思ってきた世界が一挙に毀れるような心的体験をし、おりから自分の心身の衰えを痛感せざるを得ない時期でもあって、生きる意志を喪失しかかったような心的な状況で、ただ性の衝動的な欲望だけが残っていて、たまたま空き家探しに来た無防備な若い女性ジャンヌと遭遇して衝動のはけ口にしてしまうといった感じです。
ジャンヌのほうはそういう中年男のいわば内面の空虚に吸い寄せられるように、離れられず、よせばいいのに彼と会ったその空き部屋を再び訪れ、彼との逢引がはじまり、ジャンヌのほうも未熟な若い性的欲望をポールに解発されていくような形で、ずるずるとその爛れるような頽廃的な関係をつづけていく、文字通りの腐れ縁ってやつですね。
この性的なある種の魅力というか魔力というか、そんなものだけは残した、内面的にはおそろしく空虚で孤独な人生の黄昏を生きる中年男を、マーロン・ブランドが地でいくようないい熱演で演じきっていて、その醜悪さ、いやらしさと同時に、ある種の哀れさをも催すようなところ、この作品のテーマはちゃんと見事に表現されているな、と思いました。ただ、後味はあまりよくない映画です。
ラストエンペラー(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 1987
ずっと以前に一度見た切りだったので、ベルトルッチのほかの作品を何本か初めて見たのに合わせてやはりもう一度見ておこうと思って再度見ました。
公開当時から話題になった紫禁城内外の光景、突然皇帝に定められ、生母から引き離されて紫禁城へ連れてこられて、おうちへ帰りたい、と嘆きながらも太和殿というのでしょうか、あの大広間で死に瀕した最高権力者西太后やずらりと並ぶ宦官たちの前で、柱の陰に隠れたりその間を兎かなんぞのようにトコトコ小走りして次第に西太后の前に出ていく、お目見えの場面、盛大な皇帝就任の儀式の場面、或いはテラスに出てこちらを向いている溥儀の向こうに居並ぶ兵士たちの光景等々、実際に故宮でロケをしたり、模型も使ったらしいけれど、そういうシーンが美しいことは判るものの、これはやっぱりメジャーな映画館の大画面で見た時とDVDで小さなテレビのディスプレイで見るのとでは全然迫力、美しさが違うので、今回はそのへんは諦めて、すっかり忘れているストーリーを追いかけ、俳優の演技をながめ、細部を楽しむほかはありませんでした。
でもやはりこの映画の価値は上のような紫禁城内外の壮麗な光景をとらえたヴィットリオ・ストローラの撮影の手腕が生み出したもの、という気がします。
もちろん史実があるわけですから、物語そのものは、細部はともかく、概ね史実にもとづいていて、溥儀がその立場を離れて自由に冒険できるわけではないから、前半は紫禁城の内部だけの絶対権力者として因習的な秩序の玉座に祀られて事実上場内に幽閉され、そこをクーデターで追い出されてからは、天津の閉鎖的なサークルの内部でつかの間、享楽の時を過ごすものの、身の安全を日本に委ねて満洲国の皇帝となるや完全に関東軍の傀儡として一挙手一投足を管理さる文字通りのお人形となり、さらに日本軍の撤退と共にロシア軍に捕縛され、新しい中国の共産政権のもとで政治犯の収容所に入れられ、のちに特赦で出されるまで、外部の力によって閉じ込められ、翻弄されつづけた人生だったわけで、一人の人間として他者と対等にまじわり、「外部」の世界へ出ていくことのできなかった人生ゆえ、或る意味でそこにふつうの人間的な精神や肉体のドラマが生じようのない、特異な存在の奇跡を描いた作品ということになります。
最後は収容所を出て植物園の職員か何かとして植物の世話をするような一市民となって暮らしていますが、ときは文化大革命の嵐の中で、彼が捕らわれていた収容所のなかなかの人物だった所長が、三角帽をかぶされて紅衛兵たちにこづかれながら牽き立てられていくのを目撃して、思わず駆け寄り、この人はいい人なんです、なにかの間違いです、と叫ぶのだけれど、紅衛兵たちに突き飛ばされ、空しく見送ります。昨日権力を持っていた者が今日は犯罪人として石もて追われることは、彼自身が生涯経験してきたことで、自分以外の人にも同じことがここで繰り返されていくのを見るわけで、運命に翻弄される人間の姿、権力の空しさを再度思い知らされる溥儀の姿が印象づけられます。
あの紫禁城の壮麗な映像も、こうした人間の権勢がつくりだすものの儚さ、運命のよるべなさを一層深く印象づけるために必要だったのでしょう。
ただ、溥儀の送って来た人生はあまりにも我々平凡な人生とかけ離れたものであるために、むしろその波乱万丈の人生(実際には自分の意志と肉体でなしとげる冒険ではなく、外部の力学の支配のもとで極めて限られた時空のうちに閉ざされていたものではあったけれど)や、いっときのものではあっても、類のない壮大華麗な宮殿絵巻そのものの即物性に目を奪われ、そこにこの映画の価値を見てしまうのは凡人としては致し方のないところかもしれません。
それはしかし、ただ私たち凡庸な観客の側に問題があるともいえず、たしかに物語としては、ジョン・ローン演じる若き溥儀と英国人家庭教師ジョンストンとの友情や、婉容皇后、淑妃文繍との愛憎のような人間的なドラマも描かれてはいるけれど、そこにはとくべつ心を動かされるような脚本的展開も演技も深い心理劇も見られず、また傀儡皇帝を操る関東軍の甘粕正彦(坂本龍一が演じる)やスパイ川島芳子との関係の描き方もきわめて表面的だし、皇帝の転変の生涯を描くメインストリームに絡む幾つものエピソードそれぞれに深みや新鮮味が乏しいのも、物足りないところです。
それでも収容所長との関係は、溥儀の生涯を描くメインストリームと密接に関係し、ラストシーンにもつながって、うまくリンクしているので、そこだけは所長役の俳優の好演もあって、いいな、と思いました。
家庭教師役のピーター・オトゥールもアラビアのロレンスで、いい俳優だなと思っていたので期待はあったけれど、この作品ではもひとつだったな、という感じです。実際のジョンストンが書いた「紫禁城の黄昏」はこの作品の中でも溥儀を尋問する共産党員が溥儀の証言との食い違いを糺すために引用しますが、これは岩波文庫で出ていて、私も拾い読みしたことがあり、探したら出てきました。
溥儀がクーデターで紫禁城を追い出された混乱の中で、日本公使館に保護を求めたのは、溥儀が政治的駆け引きの際の有効な人質になることを見越した日本の帝国主義者の策謀だという見解を強く否定して、日本公使はジョンストンから報告を受けるまで溥儀が公使館区域に到着したことさえ知らなかったし、公使が溥儀の保護を承諾したのはジョンストン自身が熱心に懇願したからだ、と証言しているところもあります。
中国側は、溥儀が日本人によって誘惑され、彼の意志に反して連れ出されたのであることを仄めかしているし、この説はヨーロッパ人の中でも流布されているが、それは全て真実ではなく、「皇帝は自身の自由な意志で、天津を後に満洲へ向かった」と記されているのも、映画の中で訊問者が溥儀にこの本を示して問いただす通りです。映画の中で、溥儀はそれはジョンストンの記述の虚偽であり、そのときはもう溥儀と彼は別れ、ジョンストンが英国へ帰ったあとのことだ、と証言しています。
歴史的にどうだったのか、事実はきっともう検証されているのでしょうが、私は知りません。いずれにせよ関東軍が溥儀を利用したことは事実ですから、溥儀が自らの庇護を関東軍に求め、再度皇帝となることを望んだか、関東軍に拉致されて心ならずも利用されたかは、歴史的な成り行きにとってはどちらであっても、もはやどうでもいいことかもしれません。
ただ溥儀という一人の人間の生き方としてはいずれであったかは非常に重要な違いでしょう。共産政権になってから問いただされて、自分から自発的に皇帝になりたくて満洲へ行ったのだ、と証言することは一層罪を重くすることでしょうから、偽証したことは考えられるし、ジョンストンが虚偽を書かなくてはならない理由があるかのかな、とは思いますが・・・
ま、いずれにせよ、この映画も多くのベルトルッチの作品と同様、撮影監督のストラールの映像の素晴らしが味わえるということだけは間違いありません。
リトル・ブッダ(ベルナルド・ベルトルッチ監督)1993
最初、仏教説話の絵物語の本をめくる映像から始まりますが、それがこの作品の性格をよくあらわしています。
その仏教説話のひとつ
或るとき僧が生贄のヤギの首を切って殺そうとするとヤギが笑うので、なぜ殺されるのに笑っているのだ、と問うと、そのヤギが言うには、私はこれまで499回ヤギに生まれ変わって来た。あと1回で次は人間に生まれ変わることができるのだ、と。次にヤギが僧を見て涙を流すので、なぜ泣くのだと訊くと、おまえを憐れんで泣くのだと。そして言うには、私がヤギになる前の前世は僧だったのだよ、と。
こんな説話を僧が子供たちにやさしく語り聞かせているシーンから始まるのです。この映画は一貫してこのような調子で、釈迦の生涯を子供に説き聞かせる一筋の糸が経糸として組まれていて、その部分がとても素晴らしいのです。
この冒頭のシーンで語っているのがノルブ僧というチベット出身の僧侶で、彼がチベット仏教にとっての聖であるらしいドルジェ僧の生まれ変わりの子供を世界中から探し出し、確証を得ようとする、そういう現実の人間が動いてそれに子供やその親がからんでくる糸がもうひとつのこの作品を形作る糸で、映像としてはこの過去の仏教説話の物語の世界(釈迦の誕生から悟りをひらくまでの物語)と、現在の生まれ変わりをさがし、みつけるまでの現実の物語の場面とが交互に表現されていきます。
後者の中心になるのは、ドルジェ僧の生まれ変わりを見つけ、確かめるために候補者の子をチベット仏教の亡命先であるブータンまで連れて行って、最終的に生まれ変わりの子だということを告知する儀式を行うまで、そのための仕事を担うノルブ僧と、彼に見いだされる3人の子供たち、そのうちのとくにアメリカのシアトルの現代的なマンションに両親とともに暮らす少年ジェシーです。
あるときジェシーの家に三人の僧がやってきて、少年がドルジェ僧の「生まれ変わり」の候補者であることを告げます。建築家の父親、学校の教師である母親ともに「生まれ変わり」なんて信じることのできない現代の普通のアメリカ市民だから驚きますが、ジェシーは好奇心をもち、僧が置いて行った釈迦の生涯を描いた絵物語を熱心に読みます。ノルブ僧たちは強引に少年を連れて言うわけでもなく、両親の不安を少しずつ解きほぐすような形で接し、結局父親同伴でブータンへ休暇を過ごしに行くといった形で僧たちとともに出かけていきます。
ほかにもサーカスの男の子ラジューと、釈迦がその下で悟りを開いた大樹のような大きな木のある近くに住む少し年上の女の子ギータも「生まれ変わり」の候補者だとわかります。子供たちは僧の導きで、互いに知り合い、子供らしく仲良く無邪気に遊び、その様子を観察しながらノルブ僧はいずれにも「生まれ変わり」の可能性があることを感じていきます。
一方で、こうした「生まれ変わり」の候補者となった子供たちの物語の間に、そのジェシーがノルブ僧からもらって読んでいる釈迦の生涯の物語が、実際に若い釈迦をキアヌ・リーヴスが演じて、釈迦の時代の映像として挿入されていきます。
ノルブ僧が「生まれ変わり」をみつけて子供たちをつれてくる現代の物語のほうは、それほど映像として面白いとは思わないし、物語としても平凡な気がしたけれど、釈迦の物語のほうは映像も美しく、よく知られた釈迦の生涯の物語ではあるけれど、細部を実写で映像として創り出して展開されてみると、これがとても面白い。
とりわけ王子シッダールタが父のはからいですべてを与えられて城門の中で人生を過ごしていたのが、あるとき城門から外へ出て、人々のあらゆる苦しみの姿を目にしてすべてを捨てて人々を救済するために悟りを開こうと修行の道に入っていく、そこで最初に城門を出たときの映像がすばらしい。
王子を歓迎する、細い路地の両側にそびえる住居にぎっしり顔を出している人々が、なにか花びらのようなものを撒いて画面を覆うほど降り注ぐシーン、王子が見て回る、人々の働く現場や病気の人々など苦しむ人々の姿、その背景となる当時の街の姿、その再現された情景がとても素晴らしい。
さらに、いよいよ王子が菩提樹の下で悟りを開くために座禅を組んで瞑想しているところへ、闇の王マーダの5人の娘たちが現れて、それぞれ私欲、恐怖、無知、欲望等々の誘惑で王子を堕落させようとするのを王子が退け、最後はマーダ自身が怒り狂って5人の娘たちを斃し、みずから大波や雷、火焔等々でシッダールタを襲うCGのダイナミックな映像シーンがあります。マーダは王子に火焔を吹きかけますが、それらはすべて花びらとなって王子に降り注ぐのです。このシーンの綺麗なこと!
最後に、王子と同じ姿かたちであらわれたマーダが、私がお前の住処だ、来い、と腕をとって誘うのを王子は、この大地が私の家だ、と言って拒みます。すると王子の光背が黄金色に輝き、マーダはついに消え去ります。
面白いのは、この釈迦とマーダの戦いを、「生まれ変わり」の候補者である3人の仲良くなった子供たちが、菩提樹の木陰に隠れて覗き見ているのですね。だから、ここでは現実の子供たちのいる世界と、説話の中の釈迦の時代の世界とが統合されて、同じ映像の中で共存して表現されるのです。こういう仕掛けがすごく楽しい。いや、本当に仏教であれキリスト教であれ、こんなふうに楽しい仕掛けのある動画にして見せてくれたら、子供たちも世界が広がるだろうなぁ、と思いながら見ていました。
それまでは、ジェシーたち親子の住む現代のシアトルの世界は青白みを帯びた色彩で表現されていて、それがブータンのチベット仏教の寺院とその世界へ入ると、僧たちの真っ赤な衣や、建物の色も、みな赤あるいはレンガ色みたいな赤系色溢れます。こういうところもなかなか面白い。
物語的に見た時、あるいは映画の技法とか、そういう点で見た時、この作品が評価の高い映画表現とみなされているかどうかは知りませんが、とても楽しい、華のある作品だな、という印象で、非常に好感の持てる映画でした。
撮影はやっぱりヴィットリオ・ストローラでした。ほんとうに美しい素敵なシーンがみられましたものね。なお、音楽は坂本龍一とありました。
シャンドライの恋(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 1998
これはちょっと不思議な映画です。冒頭に民族楽器を奏でながら歌うストリートミュージシャンみたいなアフリカ人らしい男が登場し、どうも身体に障害を持つらしい黒人の子供たちがあるきまわる空間、そして車椅子の黒人の子たちがずらっと並ぶような屋外、いたるところに軍人らしい男の顔がでかでかと載ったポスターが張られていく、おそらくはアフリカのどこかの軍事独裁の国家のもとで戦乱に明け暮れる中で子供がたちが犠牲になっていて、そういう子供たちが集まっている、あるいは集められているような地域なり施設なのかな、と思って観ていると、その町なかを青い服にピンクの頭巾をかぶった黒人のアラサー?くらいの女性が自転車で走っていく。
一方で、今度は学校の教室らしき空間で、これもアラサーくらいの黒人の男性教師が子どもたちに、リーダーとボスの違いは?と問いかけ、何かを教えようとしています。
そこへどやどやと制服の兵士らしい男たちが踏み込んできて、有無を言わさず教師を連行していきます。どうやら思想犯狩りといった感じです。男が連行されて車で運び去られていくのをたまたま戻って来た先の青い服の女が見ていて、恐怖のあまり小水を漏らし、泣き叫ぶ・・・そして冒頭の民族楽器を鳴らし、歌う男の声と楽器の音が響くばかり。
実はあとで、この女性がこの物語の主人公でタイトルになっているシャンドライで、軍に連行されていったのは彼女の夫ウィンストンであったことが分かります。
ここでアフリカらしき場所から一転、飛行機の爆音が響く夜中に悪夢で泣き叫んで目覚めるシャンドライ。後でわかるのは、ここがシャンドライの移り住んだローマの街で、彼女が住み込みで掃除婦をしている貸しアパートの彼女の部屋だということ。
目覚めた彼女はこわごわ扉らしきものを開けて除きますが、とくに怖がるべきものもなさそうです。と、彼女がそこに置かれた一枚の紙を手にし、見ると「?」マークだけが大きく書かれています。
こんどは実は彼女が寝起きする下の階の何階か上階には家主の彼女よりちょっと年上?くらいの白人の男が住んでいるのですが(それもあとでそういう男だとわかってくるのですが)、彼がベッドから起き上がり、窓のブラインドを指でちょっと持ち上げて外を覗くと、外に出たシャンドライが見えます。
彼女は掃除婦だけやっているわけではなくて、どうやら医師になるための勉強をしているらしく、次のシーンは病院らしきところのベッドに横たわる患者のCT像を見る医師と白衣の助手や学生らしき連中の中にシャンドライの姿があります。
そしてまた家にもどると部屋の掃除をするシャンドライ。彼女が掃除している部屋の中では、さきほどの白人の男、家主のキンスキーがピアノを弾いています。彼はピアニスト或いは作曲家、あるいはピアノ教師のようで、自宅で子供にピアノを教えているシーンもつづいて登場します。
まぁそういった自己紹介的なシーンが交互にいくつかあって、いよいよ二人の接触になります。アパートに帰って来たシャンドライに、キンスキーが階上から、君は親切なんだね、と声をかけ、彼女がなぜ?と応えると、ズボンの裾を直しておいてくれたじゃないか、と。シャンドライは、それも仕事ですから、と淡々と答えます。
次のシーン、シャンドライが眠っていると、何かガサゴソいう音がして目を覚まします。音のあたりにある階上と階下をつなぐ荷物用?のミニリフトがあるところの扉を開くと、そこに一輪の花が置かれています。シャンドライは花を手にとり、ゴミ箱にポイと捨ててしまいます。
翌朝でしょう。シャンドライがアイロンをかけていると、キンスキーがおはよう!と声をかけ、音楽と歌のレコードだったかラジオだったかをかけて聴かせます。見ると彼女が捨てたはずの花一輪、コップに水を入れて活けてあります。シャンドライは出勤し、アパートの上階の窓から眺めている男を振り返り仰ぎ見ます。
シャンドライは医学の学校でだったか一緒になるゲイの男がいて、彼とキンスキーのことを話している中で、キンスキーのおばさんがお金持ちで、亡くなったときに家をもらったらしい、というようなことが私たち見ている者に分かります。ゲイの友達は、キンスキーのことを、そのうちベッドに誘われるぞ、とシャンドライを半分おどかすような茶化すようなことを言います。
居住許可をお役所に申請するのに家主の同行が必要とかいったことで、シャンドライはキンスキーとの接触が不可避です。キンスキーは何かと彼女をひきとめて一緒に少しでも長い時間過ごしたがるふうですが、彼女のほうは、試験があるから、とか言って、すげないものです。
自分の部屋の中でくつろいでいるシャンドライ。このときは彼女がかけているアフリカ系の音楽がかかっていたのではないかと思います。いい気分でくつろいでいて、ふと、「戸棚」がなくなっている!と気づきます。それはどうも彼女はあのミニリフトを自分の「戸棚」として使っていたらしいので、リフトのあるところの扉を開いて上階を見上げて、「私の戸棚を返して!」と怒鳴ります。すると、リフトが降りて来て、そこには懐中電灯で照らされた指輪が一つ、置いてあります。
シャンドライは、指輪を握ってピアノの音がする階上へあがっていきます。そこではキンスキーがグランドピアノを弾いています。シャンドライはピアノの上に指輪を置き、「あなたのでしょ?」と。
キンスキーは、おばのだ、と答えてピアノを弾き続けます。
「あなたという人がわからないわ。ピアノの音楽も!」と彼女は叫びます。
「こんなもの、もらえないわ。分かってるでしょ!」と。
ところがキンスキーは不意に、「君を心から愛しているんだ」と告白します。
唖然としたシャンドライは、「わたし、ここを出ていきます!」と部屋を出て行こうとします。
キンスキーは彼女のあとを追い、「ぼくと結婚してほしい。どこへでも行く。アフリカへ行ってもいい。」と言います。
「アフリカの何を知ってるって言うの!」彼女は大変な剣幕で怒鳴りつけます。
「それじゃ夫を刑務所から出して!」と。
さすがにキンスキーは愕然として非をさとり、「結婚してたなんて知らなかった・・・」としょげて、「なぜ刑務所へ?」と尋ねます。シャンドライの目から涙が溢れ出ます。
次のシーンは街を歩き、貸し部屋を探すシャンドライの姿をとらえます。彼女は体調が悪いようで、知り合いらしい女性に声をかけられ、「シャンドライ、大丈夫?」と言われますが、嘔吐します。あれ?彼女身ごもったんかな・・・と一瞬思いましたが、どうもそうではなさそうです。
ここでBGMとしてかかる音楽が、聞き覚えのある楽曲で、すぐにわかります。バッハのハンマークラヴィーア、変ホ短調プレリュード。これが聞こえると自動的に、ノルシュテインの「話の話」の永遠の章、あの海辺の光景が浮かんできて、この映画ではまるで関係のない使い方なので、ちょっと閉口しました。あの場面は20回以上は見ているので、あの音楽と映像が私の脳の中で一体化してしまって、ほかとつながりようがなくなってしまっていて(笑)。
それはともかく、この映画は音楽ファンにとっては、とても楽しい作品で、バッハだけでなく、モーツァルトもショパンもスクリャービンも登場すれば、アフリカ系の音楽がこれと対抗するように交互に現れ、やがてキンスキーのピアノから両者のリズム、旋律を融合したような調べが聞こえてくる、という聴覚的な構成が意図的にしつらえられているからです。
先走りましたが、アフリカ系らしい教会のミサの光景で、ここでは黒人牧師の説教の前にアフリカの民族音楽系の歌と踊りが披露されます。椅子に座って説教を聴く信者たちに交じってキンスキーの姿があります。一方、シャンドライが医学を学ぶ光景が交互に映されます。彼女は医学の面接試験を受けてAランクの合格をもらい、おめでとう!と仲間の学生たちから祝福されます。
家に帰ると、キンスキーが、運送屋が来るだろうから頼む、と彼女に搬送手続きを頼んで入れ違いに出ていきます。
シャンドライがベッドメイキングなどしているとき、キンスキーの屑入れに捨てられたキンスキー宛てにきた手紙の封筒に、彼女が忘れようにも忘れようのない故国の切手、あの町中ベタベタ張られていた独裁政権の軍人らしき男の顔を印刷した切手が貼られているのに気づき、心穏やかではありません。
シャンドライは落ちていたキンスキーのボタンを拾ってつけてやるうち、そのまま居眠りして夢を見ます。その夢の中に、冒頭に登場したあの民族楽器を奏でながら歌うアフリカ系の歌い手が登場して、冒頭と同じように大きな声で歌い、奏でます。そして、シャンドライは町中の壁に貼られたあの軍人のポスターを必死で剥がしています。・・・
少し別のシーンがあって、またキンスキーの部屋の掃除にきたシャンドライの場面。キンスキーに五線紙をとるように頼まれ、ピアノをひく彼に渡します。彼はどうやら作曲中のようです。床の敷物に掃除機をかけるように言われ、音が邪魔になるでしょう、と彼女は遠慮していますが、キンスキーは邪魔にはならないからかけてくれ、と。キンスキーの部屋からは本棚が消えています。
キンスキーは掃除機の騒音の中でピアノを打ち、作曲していくようです。そのリズムがだんだんアフリカ系の音楽に似た調子のいいものになっていき、それまでキンスキーの弾く西洋音楽の楽曲にまったく興味を示さなかったシャンドライも、思わず掃除機をとめて聞き入って、その表情に笑みが浮かびます。
このとき神父からキンスキーに電話がかかります。近くまで来ていたようで、キンスキーはすぐ行くと言って神父に会いにいきます。アフリカ系のたぶんあの教会の神父だったのだろうと思います。どうやらキンスキーはこの神父を通じて、シャンドライの刑務所にいる夫のことで働きかけをしているらしいということが分かります。
病院の医師たちの回診の場面、主治医のそばに白衣のシャンドライもいます。
夫に関する報せがシャンドライのもとに届きます。軍の刑務所から一般の刑務所に移され、近々裁判が始まる、と。いったい誰が書いた手紙なのか…キンスキーが?とシャンドライは半ば気づきます。でもなぜ?・・・
ピアノの音がする。でも誰もいない。シャンドライはピアノの蓋をバタン!と閉めて、やめて!と叫びます。これはちょっと不思議なシーンです。既にシャンドライの心にキンスキーが入りかけていて、彼女はそのことに気づいて頑なに抵抗し、拒否しているのを表現しているのかな?
一転してシャンドライが自分の部屋で、いってみれば夫の良いニュースに一人でお祝いしているようなシーンです。蝋燭を立てて火をともし、アフリカ系の音楽をかけて楽しそうにひとりで踊り、果物を食べています。キンスキーが帰宅して彼女のそんな姿を垣間見ると、彼女はちょうどとうもろこしをかじっているところです。
そこへ激しくドアを叩く音がして、彼女の学校友達のゲイが押しかけて来て、彼女は渋々彼を入れてやります。彼は自分は落第した、と。踊りに行こう、と二人は出かけます。踊る人々の中で、シャンドライは踊りに行こうと言った割には、一人で何か考え事をするような表情で座り込んで酒を飲んでいます。
モッブで床掃除をするシャンドライ。ずっとキンスキーのピアノの音が聞こえてきます。
次のシーンでは、キンスキーが男とやりあっています。どうやらピアノを売るらしく、すこしでも高い値段でと粘る彼に、買い手は安く買いたたこうとしてやりあっているのです。思ったよりずいぶん安く買いたたかれて、落ち込んでいるキンスキー。
彼は金曜日に友人たちを招いてパーティーを開くから準備をしてくれ、とシャンドライに依頼します。彼が作った小曲を披露する、と。
シャンドライは、友人にプレゼントしたいから演奏会に招いてもよいかとキンスキーに訊き、もちろんOKと答えるキンスキー。
小演奏会の日、キンスキーは自分の創った曲を演奏して来客の友人たちに披露します。来ているのは子供連れの夫婦、家族など十人あまりでしょうか。でも、時間とともに一人去り、二人去りしていきます。
そのとき、シャンドライに「日曜の早朝に着く」という、夫ウィンストンからの電報が届きます。シャンドライの学校友達のゲイ君は、この素敵なニュースに、お祝いをしよう、とはしゃぎますが、シャンドライは「待って!」ととても苛立った様子です。
彼女が演奏会の部屋に戻ると、キンスキーはピアノを弾き続けていますが、もう聴衆は誰も残っていません。子供はぐっすりと眠りこけています。そして、他の子供らは庭で遊んでいます。
キンスキーはピアノの手をとめ、果物をお手玉のようにジャグリングしながら、子供たちのところへ出ていきます。子供たちはこれには大喜びで集まってきます。
あいたピアノを、キンスキーの教え子の男の子がショパンのワルツを弾いています。
さて場面はかわって、シャンドライが35000リラの服を買って帰ってくると、アパートの階上、キンスキーンも部屋の窓にクレーン車の先端が近づいて、いまグランドピアノを搬出する真っ最中です。それで家具はみな消えてしまいました。家具の消えた部屋の片隅でキンスキーは寝そべって、カーレースを実況しているテレビをみています。
夫から便りが来た、釈放されて自由の身だ、とシャンドライが告げます。そして、2~3日、下の階に夫ウィンストンを泊めてもいいかと訊きます。ちょっと戸惑いながらも、キンスキーは、いいとも、と答えるのです。「(夫は)勇敢な人なんです・・・」とシャンドライ。キンスキーは、シャンドライの言葉が聞こえていないかのように無関心を装い、サッカーボールに触って「サッカーボールが見つかった!」と言います。でも、「ぼくも会いたい」とつけ足すのでした。
次につづくのは、酒を酌み交わすキンスキーと神父の姿です。「またコンサートに行かせてもらうよ」という神父に、「もう人前ではピアノを弾かないんだ」とキンスキー。「どうして?」と不可解そうな表情の神父。
今度は自分の部屋でキンスキーへの感謝の手紙を書いているシャンドライ。シャンパンの栓をあけて一人で飲みながら書いては消し、書いては消している様子で、なかなか書ききれない様子。
酔っ払ったキンスキーは帰宅してバタンキューと寝入っています。
次のシーンはちょっと官能的なシャンドライの姿を見せてくれます。そんな夢を見ているのか、眠っている彼女は半ば口を開いて、その唇に、舌に、自分の指を入れてくわえ、なめるような仕草をし、また寝衣の胸をはだけて乳房を自分の掌でまさぐり悶えるかのような仕草を見せて目を覚まします。
彼女はそっと階上へ足をしのばせ、キンスキーのベッドに自分が書きなおした手紙を折りたたんで差し入れます。キンスキーが靴を履いたまま寝ているのを見て、彼女はその革靴を脱がせ、彼のシャツのボタンをはずすと、そのまま彼の傍に添い寝します。
まあここらは、なんぼなんでも非現実的でしょ!何年も軍の刑務所にいて命さえ危なかった夫の帰ってくる前夜なんでしょうが!と半畳を入れたくもなりますが・・・(笑)
朝。呼び鈴の音が聞こえます。
まだベッドでならんで横たわっている二人。うつぶせのキンスキーの左腕が上半身はだけたシャンドライの胸にかぶさっているようだけれど、二人はベルの音が鳴るまでぐっすり眠っていて、いま目覚めたばかりのようにも見えて、何かあったのか、何もなかったのか(笑)、すぐには判断しづらい状況です。
二人共目をあけて、何度も成らされる呼び鈴の音を聴いているけれど、起きようとはしません。
シャンドラは大きく目を見開いて天井をみあげたままです。
表では、玄関のベルを押し続け、誰も出てこないので茫然と街路に立つ夫ウィンストンらしい男の姿があります。
やがて、シャンドラが起き上がり、何も言わずにベッドを離れ、部屋を出ていきます。残ったキンスキーが彼女の置いて行った手紙を見ると、I love you.の一言が書いてあった、という・・・
そこで幕です。
一言でいえば、文化も社会的背景もまるで異なり、相互にまったく理解できないような、アフリカの独裁国家で夫を政治犯として軍刑務所にとらえられ、ローマへ出て来て住み込み家政婦で暮らしを立てながら医学の勉強をしている妻である女に対する、その家の家主である西洋音楽のピアニストであるイタリア人の男の純愛物語で、彼は自分の家財道具、唯一の商売道具のグランドピアノまでも全部売り払って、どうやらその金でアフリカ系神父を通じて彼女の夫の救済工作をして成功するに至る、というお話らしいのです。
これは作中にも登場するモーツァルトのファンタジーじゃないけれど、まったく大人のファンタジーといったところで、ちょっと無理がありません?と言いたくなるところはあるけれど、何も知らないでいる女の視点から描かれていて、なぜこうなっていくのかがずっと分からないままできて、最後の最後にそのとんでもない好意に対して、彼女が自分に何ができるか、どう感謝の気持ちを表現すればいいのか思い悩んだあげく(もう彼女の心もキンスキーに傾いてもいたでしょうし)、といったところで、まぁ、あぁいう突飛な行動に出るんだね、とちょっと目をつぶってもいいですが・・・(笑)
なんだか最初の軍事独裁国家のもとで夫がとらえられて、といったシーンから連想される社会的な背景を生かすような作品ではなくて、それはもうキンスキーの純愛をセッティングするための小道具にすぎないので、そのへんがちぐはぐな感じです。いい年をした男のけた外れの純愛を表現したいとしても、もっと別のやり方があるでしょう、といいたくなるような、奇妙な二人の設定は脚本の問題というべきか。
ただ、素敵なシーンがひとつあって、それはキンスキーがアフリカ系の教会に行って学んだのだろうアフリカ系音楽のリズムを自分の西洋音楽に取り込んだような、非常にいいリズムの楽曲をつくり、弾いていて、それまで彼の弾く音楽にまるで興味を示さなかったシャンドライが思わず掃除機をとめて聴き入り、笑みが浮かんでくる、あのシーンです。あとは聴衆にふられてしまった演奏会でキンスキーが庭へ出て遊んでいる子供たちのところへ、果物を手にたくみなジャグリングをしてみせる明るいシーンですね。この二つとたっぷり聴かせてくれる音楽でこの映画はなんとか及第点かな(笑)。
ドリーマーズ(ベルナルド・ベルトルッチ監督) 2003
1968年、パリの学生の反乱が主導したいわゆる五月革命の前後の空気を色濃く映し出した作品ですが、直接政治的なメッセージ性を担う作品ではなく、ただ'60年代末の空気がよくとらえられた映画だなと感じました。
主人公はマシューというアメリカはサンディエゴの映画オタクの20歳の青年です。だんだん政治情勢が緊迫して、街は騒がしくなってきていたけれど、彼自身は軟派の映画オタクなので映画浸り。彼自身の言葉によれば「スクリーンはぼくらを社会から遮断してくれた」というわけです。
ところが、そのうちに「社会がスクリーンに雪崩れ込んできた」という具合で、政府(文化大臣アンドレ・マルロー)がシネマテークの創設者アンリ・ラングロワを更迭するに及んで、ゴダール、トリュフォー、シャブロル、レネ、ロメールなどシネマテークで育った映画人をはじめフランスの知識人・学生の猛反発で広範な市民を巻き込んだ街頭の反乱が起き、激しいデモと警官隊との衝突が繰り返されます。マシューは「僕らの文化革命だった」と総括しています。
このアメリカの映画オタクの青年マシューが、パリの騒乱のさなか、同年代のテオと双子の姉であるイサベルに出会い、翌日の夕食に誘われて応じます。ところがこの姉弟とその両親との間はディスコミュニケーション状態で、母親にはマシューが夕食に来ることを告げてなかったために、母親は食事は2人分しか作っていない、と言い、また父親と息子とは政治思想的に対立しています。
「社会を外から見ては駄目だ。内側から見ないと」と街頭の反乱に批判的な言辞を吐く父に対して、息子は「外から見ているのはパパだ。ベトナム戦争のときも(反戦の)署名をしなかった」と父の傍観者的な旧知識人的な立場を批判します。父親は詩人らしく、「詩人の署名は詩だ」といちおうもっともらしいことを言って反論しますが、二人の間には気まずい空気が流れます。
両親は早々に寝室へ去ってしまい、姉弟からマシューは泊まっていくように言われ、応じます。夜中にそっと部屋を出て洗面所で小水に及んだマシューは、テオのベッドでテオと双子の姉イザベルが裸で抱き合って寝ているのを見ます。
朝、イザベルがマシューのベッドへ来て、彼の目を舐めて起こし、毎朝テオにこうするから・・などと言います。このへんから、イザベル、テオ、マシューが何かしたり言ったりすると、それと同じ或いは似通った行動をしたりセリフを言ったりする過去の映画の場面がモノクロで挿入されていきます。彼らはみな映画オタクなので、意図的にそういう場面を再現してみせ、これは何という映画のどういう場面かを言わせるゲームをするわけです。
イザベルとテオの両親は1カ月ほど旅行に出かけて不在なので、二人はマシューに彼らの家へ一緒に住むように勧め、彼らとすっかり意気投合したマシューは荷物を運んで一緒に住み始めます。
マシューがキートンを賞賛すればテオはチャップリンを賞賛して相手の賞賛する役者はこきおろす、といった具合に映画の話は尽きません。
そのうち、イザベルとテオは、ゴダールの「はなればなれに」のフランツ、アルチュール、オディールの三人に倣って、ルーブル美術館の館内を全速力で駆け抜けて、あの9分43秒の記録を破ろうと提案します。戸惑うマシューを誘って三人はルーブルへ。全速力で館内を走り抜けて9分28秒の記録を打ち立てる(笑)。まぁ、ゴダールを踏襲というか、オマージュを捧げつつ、こういう他愛ない愉快な遊びに登場人物だけでなく、監督も興じているところが、この作品の面白さの一つの要素になっています。
とはいえこの映画は別段特定の先達映画人へのオマージュというのではなく、強いてそういう言葉を使いたければ、映画そのものへのオマージュが盛りだくさんの、映画狂のための映画で、そういえば昔、有名なクラシック音楽の楽曲の一部を聴かせて曲名を当てさせるテレビの早押しクイズ番組があって、耳自慢のクラシックオタクが競い合い、多くは出だしの一音が響いたとたんにボタンを押して正解するやつがいて私などは本当に驚嘆していましたが、あれと同じように、この映画オタクの方なら、この映画のいたるところに挿入される古いフィルムの映像を見て、テオやイザベルのようにタイトル当てゲームを競い合う楽しみが味わえるでしょう。
ところがこのゲームで失敗したテオにイザベルが科す罰則が、女優の写真を見ながらマスタベーションさせる、というようなえげつないもので、それもだんだんエスカレートする風です。或る晩、三人でいるとき、テオが突然呼吸困難を引き起こしたように倒れ、なんだなんだと見ていると、倒れたはずのテオが真顔に戻って、この映画名を問いかけます。「暗黒街の顔役」を答えられなかったマシューに強いる罰ゲームはテオの見ている前で姉とセックスせよ、というもの。OKとイザベル。トイレへ逃げるマシュー・・・まぁあとは筆者映倫でカットしておきますが、この映画での三人の露出度はかなりラディカルなものです。
一卵性双生児の姉弟の絆は恐ろしく濃密なもので、そこへマシューが招き入れられながら、作中でテオがマシューに言うように「三人一組にはなれない」ことはマシューも感じています。そこでマシューは「二人がずっとくっついていては大人になれない。子供のようだ」とテオに言い、イザベルを一人の女として、2人きりで、とデイトに誘います。対(つい)であることを求めたわけです。
二人は映画を見に行き、後ろの席でキスなんかしています。そして、電気屋のウィンドウのテレビでデモのニュースを見ながらキスをし、街路に積まれた破壊物の山を眺めて帰宅すると、椅子にイザベルのものではない女ものの手袋が置いてあり、テオの部屋から音楽と女の甲高い嬌声が聞こえてきます。
マシューはイザベルの部屋へ行こうと誘いますが、イザベルは申し出を拒み、私の部屋ではセックスは禁止なの、と言います。
テオの部屋から響いてくる音楽を聴きながら、イザベルは泣き出し、テオの部屋の鍵のかかったドアを激しく叩いて、女に出ていけと叫びます。彼女は結局テオから離れられず、テオを激しく求めて、なだめようとするマシューにも、出て行って!と拒むのです。
「毛沢東は映画監督だと思わないか?演者は何百万もの兵士だ」とテオ。面白いですね。
マシューは「全員がエキストラだ。それがぼくには気持ち悪い」と返します。いい答えですね。
そしてマシューはテオに言います。「君は外へ出るべきだ。」
一方イザベルは、「これは”永遠”でしょ」と放心したような表情でつぶやきます。いまの自分たち3人の、とりわけテオとの絆の状態が永遠につづくと、当然のように彼女は考えてきたはずで、それが先日のことで揺らいだことをこの彼女の言葉は示しているのでしょう。
両親が突然帰宅します。二人が家の中へ入ると、そこら中にモノが散乱する状態で、驚きながら子どもたちのところへやってきます。そして、ベッドの上に、全裸で折り重なるような姿でまだ眠りこけている三人の姿を見出すのです。それでも叫びも怒鳴りもせずに、父親は小切手にサインし、母親はその小切手をそっとテーブルの上に置いて、二人は外へ出ていきます。
イザベルがようやく眠りから覚めて、テーブルに置かれた小切手をみつけ、両親が帰って来て自分たちの姿を見られたことを悟り、衝動的に台所から元栓を開いたガス管を寝室へ引っ張ってきて、まだ寝ている二人の所へ自分も戻り、ガス自殺を試みます。
こんな場面でも、モノクロフィルムの或る場面が挿入されるので、ベルトルッチ監督の生真面目さにちょっと笑ってしまいます。そのフィルムは、先日私が見たばかりの、ロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」。不幸な少女ムシェットが母の埋葬用にもらった布地を身に纏い、池畔の傾斜地を転がって入水しようとして一度失敗し、もう一度高みへ行って横たわり、ゴロゴロ転げ落ちて池に入水して果てるあのシーンです。まぁ死のうとする場面の共通性で呼び出された映像なのでしょうね。でも、やっぱり記憶にある映像が出てくると、あ、少女ムシェット!なんて言いたくなるから、これって映画見てて意識の流れをかえって停止させちゃうんじゃないでしょうか。連想で効果を高めるんじゃなくて逆で自分もゲームして遊んじゃう(笑)・・・これってどうなんでしょう?これも監督の意図なんでしょうか。
さていざ三人心中で死のうとしたイザベルでしたが、この瞬間に寝室のガラス窓がデモの投石で割れて、テオもマシューも目覚め、臭いにおいがする!と言うと、イザベルすかさず「催涙ガスよ!」(笑)・・・やっぱりこの監督、観客を笑わせたくて仕方がないようです。
三人そろって街路へ出ていくと、そこは反乱する学生・市民らの過激化したデモ隊と警官隊とが対峙する一触即発の最前線。マシューが止めるのも聴かず、テオとイザベルはマシューを振り切って街路を走り、マシューは二人が走り去った方向に背を向けて、デモ隊を割って去っていきます。テオは火炎瓶を手に前方の警官隊に近い倒れた車の影に進み、警官隊に火炎瓶を投げつけます。これを機に、警官隊が猛然とデモ隊に襲い掛かります。
そしてエンディングの歌が流れます。
”いいえ そうじゃないわ
君は少しも公開していない・・・
・・・・
昔の恋など・・・
・・・・
火をつけたわ
・・・・
過去の恋など
きれいに忘れたわ・・・
上の世代との断絶・・・政治思想も生き方も感性も・・・、そして、体制への異議申し立てが性革命(性の解放)と重ね合わされる、性と革命幻想との結びつき、これはあの時代の空気そのもので、そこは間違いなくとらえられていると感じました。かなりきわどいセックスシーン盛りだくさんの作品ではありますが、中身は非常に生真面目な作品です。
そして既に触れたように、これは映画オタク、映画狂、いわゆるシネフィルさんたちのための映画という側面もふんだんに持っています。
政治的なメッセージはありふれたもので、そこに作り手の独創はが伺えるところはないように思います。文化の抑圧者としての政治権力に対して、映画が文化代表として対置されているのは、これが映画作品で表現者が映画人だからというだけではなくて、たまたまフランスでちょうどこの映画で描かれた期間の少し前、1968年2月に起きたラングロワ事件と、それに猛抗議する芸術家、知識人をはじめとする広範な学生・市民の反権力闘争が現実に起きたことが背景にあることは言うまでもないでしょう。
私などの世代には好むと好まざるとにかかわらずある種の気恥ずかしさや悔恨、いやはや、といった様々な感慨を催させるような、若い日、良きか悪しきかは知らねども半世紀ほど前の古き時代の空気を感じさせてくれる作品で、映画表現史としてどうなのかは知りませんが、時代と寝た作品としては記憶される濃密な中身の、キマジメな作品だと思います。
ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ(ステファノ・ソッリマ監督)2018
以前に見たヴィルヌーヴ監督の「ボーダーライン」は非常に面白くて重厚なドラマとしての味わいを持ったエンタテイメント映画でしたが、その続編のようで、チラシに出ているヒーローらしい男の顔が前に見た人だったので、出町座で見てきました。
今回も撮影技術というのか、メキシコの荒野みたいなところでの戦闘シーンや上空からの撮影など、現代的なエンターテインメントとしての出来は悪くないとは思うのですが、今回は肝心の中身がもうひとつパッとしません。いや、もう一つも二つも三つも、パッとしないのです。
前作と同じように、メキシコの麻薬カルテルに挑むアメリカのヒーローが主人公で、最初はアメリカ大統領も了解済みで軍が後押しする、ただし政府や軍の関与は極秘で、資金を迂回して支援するが、直接には軍や政府機関は一切関与しないから、民間の組織等々を使って勝手にやれ、責任も軍や政府は一切負わないから、成功しても失敗しても責任は全部自分たちでとれ、ということで、少なくとも隠れた後押しがあって、カルテルどうしを戦争させようとして、わがヒーローたちは一方のボスの娘を誘拐するわけです。
ところが、この少女を保護してメキシコ領内を移動中、マフィア軍に襲われ、同時に護衛しているはずのメキシコ警察だかがマフィアの手下だったわけなのか、自分たちの方へ機関銃をぶっ放してくるありさまで、そこはプロフェッショナルたちだから首尾よくやっつけてしまうのですが、おかげで何十人かの正規のメキシコ警察の人間を殺害してしまったわけで、メキシコ国民の猛反発が反米的な動きに広がることを懸念した大統領は早々に作戦中心を命じたばかりか、保護すべきマフィアの娘である16歳の少女を、彼女を保護して一人砂漠を彷徨うわが主人公ともども消してしまうことを特務機関のトップに命令します。
敵に襲われたときに一人で逃げ出した少女を、仲間を先に発たせて一人で探し、みつけて、敵の手から守りながら逃亡をつづけるわがヒーローは、自分をこの作戦に引き込んだ前作でも同様の立場でつきあったいわば上司にして戦友にあたる男から、電話で、少女を消すように指令を受けますが、殺せない、と拒否します。
わがヒーローはかつて妻子をこの少女の父親であるマフィアのボスに無惨に殺害されたため、マフィアのボスを追い詰め殺すためならどんな危険もかえりみない男ですが、そのボスの娘である少女には手を出さずに守り切ろうとするわけで、二人で逃亡するあいだに、少女との間に一定の信頼関係が芽生えてきます。
しかし、国境を越えるための闇のルートをいくバスに乗るときに、たまたまそこにいた闇の国境越え斡旋グループの中にわがヒーローを前に見て顔を記憶していたメキシコ人少年がいて、わがヒーローは捕らえられ、荒野の窪地で、年上の仲間たちに強いられたその少年に、縛られて目隠しをされたまま、ピストルで頭を撃たれて、動かなくなります。
他方、ヒーローと少女を殺害して証拠を全部消し去ってしまおうというアメリカ政府及び軍の上層部の意志で命令を受けてヘリコプターで出動したわがヒーローの直接の上司にして戦友およびその友軍はわがヒーローは手を下さずして殺されたと考え、少女を連れ去っていく国境越えの斡旋グループ、結局はマフィアの同じ穴の貉たちでしょうが、彼らの車列を攻撃し、少女を救い出します。少女を殺せと言う命令に背くのかという部下に対して、証人保護プログラムで守る、と答えて少女を殺す意志がないことを明らかにします。この襲撃の前に、ヒーローを撃ち殺した(はずの)少年は、そのために暗鬱な気持ちになり、仲間と行動を共にしていることも嫌気がさしたのか、車を飛び降りて一人で歩いて帰途につきます。これがこの少年のいのちを救うことになりました。
そのころ、わがヒーローは死んだと思われていたけれども、気を失っていただけらしく、覚醒してなんとか縛られていたのを自力で解き放ち、立ち上がります。どうやら弾は頬骨に当たって食い込んでとまったか脳を破壊せずに顔面を骨だけ貫通していったかで、流血は激しいものの、命だけは長らえたようです。
そして映像はそれから1年後に。さきの、わがヒーローを殺した(はずの)少年が、食堂だったかどこだったか、店のようなところで働いていて、奥へ入ったところで、自分が殺したはずのわがヒーローの元の身体に戻った姿に遭遇します。わがヒーローは少年に、お前は本当にマフィアみたいなものになりたいのか、というような意味のことを言い、黙っている少年に、将来について少し話そうじゃないか、とドアを閉める、そこで終わりです。
えっ?えっ?ここで終わっちゃうの?!それはないでしょう・・・! というのが見ていた観客全員の気持ちでは?(笑)
これじゃ、たしかにマフィアとのちょっとしたドンパチは見せてくれたけれど、まだ物語らしい物語、ドラマらしいドラマがどこにも展開されてないじゃん!って気持ちですね。わがヒーローが憎むマフィアのボスとのからみも、ボスの娘を守ったという間接的な接点だけで、何もそこにドラマが生じてはいません。マフィアに対しても、自分たちをいわば裏切った大統領はじめ政府や軍の上層部に対しても、また上層部に従うようにみえて実際にはわがヒーローの味方にふみとどまった直接の上司で戦友である男との関係も、なにもまだドラマがない。これからじゃないのぉ~って感じで、まったく物足りないです。これで to be continued じゃ、ひどいんじゃないか。あと何か月、いや何年、次の続編まで待たされるのか。わたしゃ、そんなにもう待てない身なんですけど(笑)
黒の試走車(増村保造監督) 1962
これは大映作品の特集の一つで、出町座で見てきました。作品としてはなかなか面白くて、わが日本の基幹産業たる自動車業界の、ライバル自動車メーカーどうしの熾烈な産業スパイ合戦を描いた映画です。
ライバル社に追いつき、追い越すためのスポーツカータイプの車を設計する会社で、試走車を極秘に走らせたのにライバル社らしいものが探知して撮影などしていたことがわかり、どうも情報が洩れている、社内にスパイがいるらしいということで、それをあぶりだす手を考え、対策を講じもしたのに、あの手この手を尽くしてみてわかったことは、既に設計図までライバル社に漏れているらしいこと。しかも今度は相手も全くこちらと同じような設計の車をつくって売り出そうとしているらしいことがわかり、今度は価格競争にしのぎを削ることになります。
スパイを暴き出す手段を講じると同時に、こちらの価格を伏せて相手の価格をスパイして調べることに全力が注がれます。まぁざっとそういうスパイ合戦のあの手この手が次々に破られてはまた新手で、というそのあたりの展開がなかなか面白い。
物語としては、このスパイ部署である企画課の次の課長にと見込まれている田宮二郎演じる若手社員が恋人であるバーの女を相手の社長だったか会長だったかに近づかせ、最終的にはホテルで寝てまでして情報をとることを要求することで、女性からも愛想をつかされ、自分でもほとほとこの稼業がいやになり、最後にスパイを暴き出すのに、課長が表ざたにはしないから、とかまったく心にもない嘘をついてもともと友人であった相手に白状させて録音テープをとって相手を追い詰め、窓から飛び降り自殺に追い込んでしまうのを目の当たりにして、もう耐えられなくなって、もっと人間らしい生き方がしたい、と職を辞してしまう。彼に愛想尽かししていた女性もそんな彼のところに戻ってきて愛情が復活する、そんな話です。
面白いけれども、いま見ると、いかにも古いなぁ、という印象を受けます。それは自動車会社どうしの産業スパイ、それもほとんどヤクザまがいの、相手の弱みにつけこんだ脅迫や暴力、だまし、盗み、裏切り等々、現代にも産業スパイがあるとはいえ、いまではいくらなんでもこんな荒っぽいやり方はしないだろうし、許されないだろうというようなやり口での会社内では公然の秘密的な組織的なスパイ活動とか、いまもあるにはあるとしても、典型的なモーレツ社員たち、それもちょっとそういう生き方は間違ってやしないか、という疑問を生じる余地もなさそうな自分から積極的にそれが当然でそれがいいことだみたいになり切っているモーレツ社員なんてものがあからさまに登場するから・・・・たしかにそれは時代的制約みたいに思えて古臭く感じるのかな、とも思うのですが、果たしてそうなんでしょうか。
それなら、たとえば小津や溝口、成瀬の作品にしたって、登場する人物の生き方、男女の関係、社長や上司と部下の関係、仕事観、人生観、みんな「古臭い」に違いないのですが、そういう人物の登場する作品だからといって、作品自体が「古臭い」とは感じないのです。この違いはどこにあるのでしょうね。
そんなことを考えながら見ていました。たぶん、登場人物が古い考え方、旧式な生き方をしているという点では、彼らはみな同じなんだろうと思います。でも、それぞれの作品で監督が描き出したかったものが違うんじゃないか。或いは同じものを見ていても、見る観点、見方が微妙に、でも決定的に違うんじゃないか。
古臭い考え方や生き方をする人物がいたとして、これをその時代の空気の中で、ごく当たり前のものとして意識しないで肯定的に受け容れて、面白おかしい物語を展開していくのと、その古臭い考え方や生き方自体が、その時代にあっても、むしろその時代の支配的な空気の中である種の反時代的な意味をもつことを敏感に取り出して描こうとしていたり、そうした生き方や考え方への違和感を大切にしてそのこと自体に意味をもたせるような描き方をしていたり・・・うまく言えないけれど、微妙にして決定的な違いがあるような気がします。
増村保造という監督は、「曽根崎心中」といういい作品を作っていて、あの映画に関する限り大好きなのだけれど、ほかに見た二、三の現代ものの作品が、どれも悪くはないのに、なぜかいま見るとひどく古臭く感じてしまうところがあるのです。もし私にもう少し時間が残されていたら、いずれその理由をしっかり言えて自分で納得できるようにすることができたらな、と思います。
おとうと(市川崑監督) 1960
幸田文の原作を、岸恵子(姉げん)、川口浩(弟碧郎)の主演で映画化した作品です。リュウマチで動けず家事万般、弟の世話もすべてげんに任せて愚痴と厭味ばかり言っている意地悪な継母役に田中絹代、家の中では何の力もなく父親としてのつとめをまったく果たせないなさけない父親で作家らしい男に森雅之と名優が固めています。
こういう役や、頑なに自分の生き方や考え方を固執する古いタイプの女性を演じることの多い田中絹代を見ていると、あんまりぴったりすぎて、このひと、ほんとにこういうイケズな人やったんちゃうやろか(笑)、と思ってしまいそうです。
悪くない話だったけれど、やっぱり小津、溝口、成瀬のいい作品には絶対に感じない、古臭い感じがするのはどうしてでしょうか。単に親子関係が現代とは違うというようなことではなさそうです。
主役の岸、川口はよくやっていると思いますが、もう少し若々しい感じがあるといいなぁ、と思いました。この時の二人の年齢はどうだったのかな。岸恵子はちょっとモダンなところがあるから、本当はこの毎日弟の弁当をつくったり傘をもっておっかけたり、男たちにつきまとわれたりするタイプの女性はもう少し古風なやわらかいタイプの女優さんが適役だったのでは?という気もするのですがどうでしょう。
意地悪な母親をやり過ごして、ときに反発もしてみせるようなところは(反発して言い返したりはしないけれど)岸恵子でいいと思うけれど、言い寄ったりつきまとったりする男性に対しては、彼女ならパーン!と跳ね返してしまいそうだし、逆に好きな人が居たらこっちから迫っていきそうな勢いのある人だから(笑)。
ちょい役ではあるけれど、田中絹代の継母の見舞いに来ては岸恵子の悪口を吹き込んでいく底意地の悪い夫人役の岸今日子は、まさにそういう役柄ぴったりで、存在感がありました(笑)。
ディア・ハンター(マイケル・チミノ監督)1978
4Kデジタル修復版というのを出町座で見てきました。封切のとき一度見て衝撃を受けた作品でした。
記憶力の悪い私は、かなり忘れていたので、今回観て、ベトナムでの戦闘シーンがこんなに僅かだったか、と驚きました。それに対して、ベトナムに行くまでの時間がものすごく長かった。退屈なほど、とは言いませんが(笑)。私の記憶は何かで歪んで、いつの間にか「ベトナム戦争の映画」(戦後の後遺症を描くのが主だとはわかっていても)だという意識になってしまっていたのでしょう。
それに、あの捕虜になったときの描写がものすごいですから、あの衝撃が全体を覆ってしまっていたのですね。
もちろんその後遺症としての、クリストファー・ウォーケンの演じる男のあのとばく場でのシーンも、一度見たら決して忘れられない衝撃ですから、捕虜としてロバート・デ・ニーロと向き合って賭けをやらされる(あるいは進んでやる)ときのシーンと、戦後のあのウォーケンが賭場で赤ハチマキ巻いてやるシーンの二つでこの映画は私の中ですっかり定着してしまっていました。
今回改めて見て思ったのは、この映画は、戦闘なんかではなくて、みなが平和に、幸せに暮らしていた、ふつうの、地方のアメリカの地域社会と幸せな家庭の姿をちゃんと描きたかったんだな、ということです。
前半の長い長いあのどんちゃん騒ぎ的なアメリカ人らしい楽しみ方、酒にダンスに女に男同士の友情、出征直前であっても、まぁ結婚式のパーティーだからってことはあるとしても、出征のことにはほとんど触れずにああして歌って踊って大騒ぎ。
ちょっと日本人の私などはついていけないような大騒ぎ。その中に喜びも悲しみも痛みいっぱいあるのだけれど、全部あのどんちゃん騒ぎに溶かし込んでしまう、そこにアメリカ人の幸福のあり方も人間の付き合い方も生き方の強さもあるのでしょう。あれが日本人なら、公的に万歳をして送り出しはしても、もっと湿っぽいか、覚悟をきめてさらりとしていたとしても、それぞれの想いは胸に、沈黙は金で目を見かわしてうなずいて別れを惜しむだけでしょうね。
あの幸福などんちゃん騒ぎをいやというほどたっぷりと描き、みせつけ、脳裡に刻み付けた上での、あのほんのわずかな時間のベトナム戦場での三人の男たちの体験です。その恐るべき体験は、たしかにそれまでの長い長い大音響でのバカ騒ぎ的な世界がなければ、拮抗できないほどのものでした。
そして戦後どうなったか。たったあれだけの、でも人生をときにそれきり断ち切り、断ち切られなくてもすっかり変えてしまうほどの衝撃の体験が三人に刻み付けた傷跡は・・・。
ウォーケンをベトナムまで探しに行って、結局彼を失って帰って来たデ・ニーロを含めて、ウォーケンと結婚しようとしていたメリルストリープもいて、残された家族・友人で、ニック(ウォーケン)に!と酒を酌み交わし、祖国への想いを歌う歌をみなが静かに歌う、あのラストシーンも淋しく切なく、素敵でした。
今回観てあらためてロバート・デ・ニーロのうまさに舌を巻き、またメリルストリープの美しさに感動し、クリストファー・ウォーケンのカッコよさに涙しました。彼がデ・ニーロの多様な木の話に、あぁ、一本の・・と優しい笑顔で答えて、次の瞬間にズドン、とやる、あの子供のように無垢な優しい笑った目はものすごく魅力的でした。
saysei at 00:52|Permalink│Comments(0)│