2018年12月

2018年12月24日

「吉原炎上」(五社英雄監督)を見る

 京都文化博物館の「映画でみる明治」の一環として昨日上映した五社英雄監督の「吉原炎上」(1987)を見てきました。

 これはなかなかの大作、スタッフやキャストの意気込みが伝わってくる力作でした。
 明治44年(1911)4月9日、実際に起きた浅草の大火で、江戸時代以来の遊郭、吉原が全焼して廃墟となった事件を背景とした、遊郭に売られて借金に縛られ、男たちの欲望処理の道具として身を朽ちさせ、それぞれ不幸を一身に負って死んでいく女たちの姿を描いていています。

 近代化していく日本社会の暗い影の部分ですが、そこに生きた女たちはそれぞれ一人の人間として多様な事情をかかえ、性格も考え方も多様な彼女たちが、自らの運命に絶望し、諦め、虚の世界、嘘の世界と知りながらなお男の言葉に一縷の望みを懐き、裏切られ、破綻して身を滅ぼしていく姿を、強烈なタッチで描きだしています。

 その強い情感を支えているのは、何といっても廓の最高位をきわめた太夫である「御職」ともう一人稼ぎが悪いために品川女郎に格下げされるお菊を演じる主役級の5人の女優たちです。

 主役の名取裕子が演じる若汐(当初は本名の上田久乃、また遊女としてデビューしたときの源氏名が若汐、御職になってからは紫太夫)だけでなく、久乃が売られて来たときに彼女の面倒を見るよう託される、そのときの御職九重(二宮さよ子)、彼女が年齢による衰えを悟って身を引いて出ていったあと御職をつとめる吉里(藤真利子)、吉里が所帯を持つことを約束した男に捨てられ、心中を約した男が逃げるのを剃刀を持って追う中で止めようとした男を切ってしまい結局衆目の中で自害して果てた後、次の御職につく山花(西川峰子)、彼女は結核で血を吐き、衰えながら、御職のプライドにしがみついて新たな御職となった若汐に部屋を譲らず、真っ赤な布団が積み上げられた部屋で血を吐いて死んでいく・・・これに若汐と親しい友人になるものの、品川へとばされ、一度は男と夢を見るものの、男に女と駆け落ちされて裏切られ、場末の女郎に舞い戻り、自分を裏切った若い女が頼って来ればコツコツと貯めた自分の金を与えるような気っ風のいい、女郎としての運命を感受して強く生きるお菊(かたせ梨乃)、この5人のすさまじいまでの熱演がこの作品のもつ力そのものだという気がします。

 有名な女優が肌も露わに遊女を演じたことが話題になったようですが、そんなレベルをはるかに超えて、彼女たちが役に入れ込んだ意気込みが伝わってくるようです。とくに遊郭デビューの久乃がいざ男に抱かれようという直前に本能的な恐怖と嫌悪感で逃げ出してつかまり、簀の子巻にされて布団部屋に転がされているところへ来て久乃を女の体と体でじかに仕込む九重を演じる二宮さよ子は、自らの肉体で久乃の身体の芯まで侵していくような強く妖艶で粘っこい、まさに鬼気迫る演技で、見ていて女性が怖くなるような怪演。

 嘘で固めた遊郭の世界と判ってゐながら男と所帯を持つことを夢見て若汐にも借金までして男に身請けさせようとしながら、その夢が叶うはずの瞬間に裏切られ、心折れて別の男と心中を約束しながら、いざとなれば逃げ惑う男を追って、衆目の中、自ら剃刀で首を掻き切って果てる吉里の藤真利子もまた熱演。

 赤い布団の積み上げられた、もう真っ赤な部屋の真ん中で、その赤い布団に真っ赤な血を吐いては肌も露わに脚をひろげ、ここを噛んで!とか狂ったように男を求めるような叫びを挙げてはまた血を吐いて死んでいく山花の凄絶な姿は、ちょっとやそっとでは忘れられませんが、それを演じたのは、テレビなどでみているときは薄っぺらなタレントくらいに思っていた西川峰子。この作品では一番強烈なシーンを創り出していました。

 品川女郎まで身を落としながら、その運命を一貫して甘受し、虚の世界、嘘の世界を、それと明確に認識して甘い夢を見たりせず、腹を据えてその世界に強く生きて自分を失わない強さを持ち、同時に自分を裏切った女にも情けをかける菊を演じるかたせ梨乃もまた、もと財閥の御曹司古島(根津甚八)と彼がつかの間幸せな時を共に過ごす若い安女郎と抱き合ったまま炎に包まれる最後を絶叫のうちに見送るのですが、彼女の場合はそれまでの若汐との親しい友としてのつきあいかたの中で、いい味を見せていました。

 御職として花魁道中の夢を実現して吉原遊郭での頂点をきわめた若汐(いまは紫太夫)には、財閥の御曹司だった若い古島がパトロンとして後ろ盾となってくれていました。花魁道中も彼が財閥から排除される際に受け取った手切れ金のおかげで実現したのですが、彼は終始若汐を抱こうとはせず、身請けしようと考えていたのですが、若汐が吉原の虚の世界で頂点を極めることを夢と描き、強い執着を示すようになって、彼女が変わった、と失望し、去っていきます。若汐は新しいパトロンをみつけて成功するのですが、花魁道中を成功させてまさにその夢を実現したとき、行方不明になっていた古島の居所を聴き、矢も楯もたまらず駆け付けます。
 
 古島はそのとき、お菊のいる場末の売春宿にくつろいで、まだ久乃のころの若汐と同じように幼い女郎と子供のように他愛なくあやとりなどして戯れています。駆け付けた若汐に出会ったお菊は、「いまこそ自分が本当に好きなのは古島だと覚った」という若汐に対して、吉原はそんな真実の世界じゃない、全部嘘で固めた世界だということは、頂点に立ったあんたが一番よく知っているだろう、と諭し、いまの古島の様子を伝えて、もしいまの古島と彼を慕う若い女の二人の世界をあんたがぶち壊しにきたのなら、私は命を張ってでも、そうはさせないよ、と立ちふさがるのです。若汐は彼女の言葉に一言もなく、すごすごと帰っていきます。このときのお菊はとてもカッコよくて素敵です。

 女優陣の素晴らしい熱演のほか、この映画は、私などがまったく知らない吉原の風俗、しきたりなどを目に見える形で見せてくれて、そういった点でも興味深い映画でした。桜の花を開花の時期だけ植えて、色んな種類の桜が次々絶え間なく咲くようにしてあって、最後の花が終わったら、全部引っこ抜いて排除してしまうらしい。花が咲いている間だけの用で、花を咲かせなくなった桜なんかに用はないのさ、という女郎の身の上を象徴するような吉原の桜がうまく使われていて感心しました。
 
 若汐の夢を実現した花魁道中は、この映画のハイライトになるだろうと思いながら見ていたので、案外さらっと撮っていたなと思い、そこは「花の吉原百人斬り」と違うな、と思いましたが、この作品のクライマックスはもちろん花魁道中ではなくて、タイトルどおり吉原炎上ですから、当然でしょうね。

 その大火災の場面は、さすがにすごかった。実際に吉原が全滅し、さらに他の町内にも燃え広がるような歴史的な大火だったようですから、その史実をここは忠実に再現しようとしたのでしょうが、燃えあがる紅蓮の炎、逃げまどい、2階から飛び降りる半裸の女郎たち、そして崩れ落ちる建物、みななかなか迫力がありました。

 だいぶ褒めてきたので、最後に難点をいくつか(笑)。
 ひとつは、この映画が制作者も役者も力の入った大作、力作であることは間違いないと思うのですが、「名作」と言わないのはなぜか、というと、やっぱり映画作品として見た時に、物語の展開にモタモタしたところ、描かれた時代の古さというのとは別の意味で、表現としての古めかしさがあって、せっかくの主役級5人の怪演とも言える熱演で凄惨な女郎たちの生き方、死にざまを描き出していながら、作品全体を通して訴えかけてくるはずの創り手の情熱の火柱みたいな軸が、もひとつクリアに見えて来ず、こちらの胸を撃たないからなのです。

 九重、小花、吉里、菊の生き方もその演技も素晴らしいと思うのですが、肝心の若汐に問題があるように思いました。彼女は19歳で売られてくるわけですが、演じた名取さんはこのときたぶん30歳くらいで、やはりかなり落差があって、初客から逃げ出し、九重に仕込まれるあたりの彼女に、それにふさわしい初々しさがあるかと言えば、身体がどうこうというより演技あるいは演出として、それらしく見えないのは残念です。

 また、のちに自分の宿命を甘受して、この吉原で御職として花魁道中を実現し、頂点を極めるという野望を語ることで、パトロンの古島に、きみは性根まで女郎になってしまった、と言われ、そうよ、私は・・と居直ってみせるような、「久乃」から「若汐」へ、「若汐」から「紫」への彼女の内面的な変容が、うまく演技あるいは演出に表現されていないように思います。
 
 その変貌は単に言葉の上だけで表現されていて、彼女の身体、振る舞い、彼女のはなつ空気のようなものなど一切を総動員して表現されなければならないところが、うまくいっていないと思います。
 だから、ひとつのハイライトには違いない花魁道中のシーンでも、彼女が久乃や若汐のときとは見違えるような華やかな大輪の花を咲かせているようには見えないのです。ただ豪華絢爛の衣服に身を包んだだけにみえてしまい、その表情、その醸し出す空気に、華やかな御職紫太夫の香りがたちこめてこないのです。

 その致命的な表われは、ラスト近く、花魁道中を成功させた彼女が古島の居所を知ったとたんに、矢も楯もたまらず走り出して古島のいる安女郎宿へかけつけるシーンです。
 ここで旧知の友だった菊に出会った若汐(紫)は、自分が本当に好きだったのは古島だけだと分かった、というようなことを言います。おいおい、いまさらそんなこと言うなよ、というのは、お菊だけでなく、それまでずっと彼女を見て来た観客だってそう思います。
 本当は汚れた嘘ばかりの世界で、彼女は一貫して潜在的に古島を愛していたのであって、そこに嘘の世界の中でも貫かれたマコトの世界があり、ここで初めてそのことに気づきました、という純愛物語なんですかね?これは。
 どんなに女としてそういう感情を持っていたとしても、「君は変わったな」、と失望の言葉を吐く古島に対して、若汐が居直って、「そうよ、私は女郎ですよ、嘘の世界で頂点を極めて花を咲かせて見せるんだ」と言ったときに、お菊が言うように、そういう生き方を覚悟を決めて最終的に選んだはずです。だから、たとえ心の奥底で汚れない純愛が脈々と生きていたとしても、彼女はその深い感情を押し殺して、自分の宿命を受け入れて泰然と御職をつとめる彼女の堂々たる姿を示すくらいでなけりゃ、それまでの彼女の生き方がまったく薄っぺらな、軽いものになってしまうでしょう。

 あぁあ、これじゃ最低のメロドラマになっちまうじゃないか、とあの駆けだした瞬間にがっかりしました。これは女優さんの罪ではなくて、脚本なり演出なりが悪いのだろうと思いますが・・・

 

saysei at 16:40|PermalinkComments(0)

2018年12月23日

「近松物語」(溝口健二監督)再見

 きょうは京都文化博物館で溝口健二監督の「近松物語」4Kデジタル修復版というのを見てきました。ビデオで見ても感動しましたが、大きな画面で、修復された綺麗な映像や音響で見ると、いっそう素晴らしい作品に思えました。

 まだ溝口の作品で見ていないものもいっぱいあると思うけれど、或いはこの作品が一番いいんじゃないか、と思えるほどでした。

 とくにはじめのほうで、茂兵衛が仕事場で仕事を終えて、やれやれ、と立ち上がったときに、姿は見えないけれども衝立か何かの向こうから聴こえてくる、「茂兵衛・・」というおさんの抑えた声、そしてもう一度「茂兵衛・・」と繰り返される声には、ぞくっとする・・・なんとも言いようのない感じがこちらの胸のうちで立ちあがってくるというか、ざわめくというか、そんな気がしました。

 どうしたって何かの予感を覚えるような声です。この声に導かれるようにして、何かが起こる、って感じですね。だからといって、彼女の声がこのとき女性としての彼女の茂兵衛への特別な感情を含んでいるわけではないし、ひそめた声はそういう男女間ゆえのはばかりの気持ちをあらわすのではなく、実家から兄と母親が金の無心に来たことを察して心配して声をかけてくれた茂兵衛に、自分ではどう処理する算段もなく、信頼する彼に実家の恥を打ち明けて相談する、という他人の目をはばかることだからで、あくまでも忠実で信用のできる奉公人に対する主人のお内儀の立場で接しているわけです。それでもこの声が、観客のわたしたちには、その後の二人の運命の予兆を感じさせるかのように響いてくるのは不思議と言えば不思議です。

 これは、あくまでも意味の違うひそめ声なのに、あえてそういうひそめ声を置くことで、観客の耳に予兆を感じさせる、一種の映画技法としての詐術というべきかもしれません。

 今日の上映は、実は「溝口健二生誕120年記念国際シンポジウム~『近松物語』における伝統と革新」というイベントの一環として上映されていて、私は映画のあとでトークか何かあるらしい、というのだけ知っていて、映画の前に基調講演があったり、映画のあと対談やパネルがあるというのは知らずに行ったのですが、入口でこのイベントに出演する専門家のレジュメのような資料があって、その中に溝口の映画の音に触れたものがあったので、今回は映画を観ながら音にも注意を払って見ることができました。

 映画の冒頭でひきまわしされる不義密通者が店の前を通っていくのを茂兵衛たちが見るシーンがあって、そのあとその男女が磔になった映像が出ます。そのときの効果音を前見たときも聞いているはずなのに印象に残っていなかったのですが、今回はその特異な効果音の激しさに、なぜこんな音が印象に残らなかったのか不思議に思ったほどでした。どうも耳が悪くて映画を観ても音、音楽にはとんと反応が悪いようで、映画の音の面が私の映画を観る、ということの中からスポッと抜けてしまっているんだな、と思わずにいられませんでした。あれは資料によると、ミュージック・コンクレートというものらしく、「ギャーンという鎖の音と、南米の楽器で動物の歯を針金でつないだのがあって、それをカーンと打った音を混ぜ合わせた」ものらしい。弓矢の矢がビュッと飛ぶうなりのような音も入っていたと思います。ものすごく特異な効果音でした。

 その音の話は映画の終ったすぐあとに、『映画音響論 溝口健二映画を聴く』という著書のある専門家の長門洋平氏と白井史人氏のトークがあって、大変興味深い内容でした。「近松物語」の音が歌舞伎の下座音楽をベースにしながら、西洋音楽を加えて使っていることや、その際、邦楽は物語世界内部あるいは境界線上に位置するような音で、洋楽はそれに対して物語世界の外部に属する、いわゆるBGM的な使い方だ、というようなお話には、なるほどなぁ、と思い、またこの作品では自然音まですべて効果音で創っている、というお話などは初めて知って、大いに驚きました。
 
 さらにそのあとのパネルの最初に立って話された京大の建築の藤原学氏による、「『近松物語』大経師の家の建築表現」というお話が一層面白かった。この話のもとになった現実の事件の現場である大経師の邸の図面や、映画のセットの図面を比較しながらのお話で、映画のここでおさんが声をかけるのはこの部屋で、とかお玉が寝ている部屋はここの階段を上がったところで、とか、映画のほうのこういう空間は現実にはあり得ないとか、始めて聴くような新鮮な話で、興味津々でした。

 こういう知識はもちろん専門家がある作品の意図や効果を分析したりするうえで非常に重要なものだろうと思いますし、私たち素人が聴いても、大変興味深いものでした。ただ、映画そのものを見て心を動かされたり動かされなかったりする、という一番肝心な点に関しては、この種の知識を持っているか否かはあまり関りはないのではないかと思います。それは専門家にとっては死活的に重要な情報でしょうが、素人の単なる映画の観客にとっては、あってもなくてもいい蘊蓄にすぎません。その蘊蓄を予備知識として持てば、たとえば、不義密通で磔刑になった男女の姿をとらえたときの効果音が耳に入れば、その音がどんなものを使ってつくられたかを聴き分けることもでき、音をパスせずに注意して聞くことはできるでしょう。しかし、たとえそんな蘊蓄がなくても、また音への注意力を欠いて記憶から失せていたとしても、その音は確実に聞こえてはいて、その音にもしも作り手の期待どおりの効果があるとすれば、それは聴いた私に映像と相俟って、ある効果を及ぼしているはずのものですから、創られた音についての知識(情報)が格別必要なわけではありません。だから、それは本質的な映画の評価、したがって批評とも本来は関りのないもので、そこが出来上がった作品の成り立ちをいわば解剖学的に探究する学術的な研究と批評との違いなのだろうと思います。

 溝口の映画に限らず、ほんとうに人の心を撃つ芸術作品というのは、そういうものだろうと私は考えています。でもいわゆる知的好奇心としては、そうして心を撃つような効果は、どんな手法で創り出されているのか、その情報が日々努力されている専門家の手で更新され、新たな蘊蓄としてもたらされることは大変喜ばしいことだと思います。

 

saysei at 00:47|PermalinkComments(0)

2018年12月22日

手当たり次第に XXⅦ ~ここ二、三日みた映画

 少し間があきました。映画館のスクリーンで見たものばかりになりました。

NTLive  :ハムレット

 出町座で昨夜上映されたのを見てきました。イギリスのバービカン劇場で上演したのを、ハムレットを演じたベネディクト・カンバーバッチのちょっとした解説や彼が高校を訪れて高校生が演じるハムレットを見るシーンなどを前座において、客席のざわめきまで聞こえるライブで撮影したもの。ナショナル・シアターが世界の傑作舞台を各国の映画館で上映して舞台のすばらしさを伝えるプロジェクトで制作されたものだけに、よくある固定カメラでただ舞台を記録しただけの映像と違って、生きた芝居をとらえようとするカメラワークで、非常に迫力のある映像を創り出しています。

 チラシによれば、チケットがオンラインで発売されるやいなや10万枚が即日完売してしまう記録的な大ヒットになった公演だそうです。演出はリンゼイ・ターナー、その斬新な「ハムレット」解釈は「賛否の嵐を巻き起こした」のだそうですが、私には賛否両論を巻き起こすほどラディカルな演出には思えず、むしろいい意味で非常にオーソドックスな、だけど悩める白面の貴公子といったハムレットよりはずいぶんエネルギッシュで復讐に燃える力強いハムレット、勢いのある演出だと感じられました。

 ローレンス・オリヴィエの古典的なハムレットのほかは、ストラッドフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピア劇場の舞台で見た、野獣みたいに叫びながら舞台を徘徊するロック調のハムレットやら、ピーター・ブルックの多国籍キャストによるインド風というのか黒人のハムレット、それにいわゆる「ニナガワハムレット」の三、四人くらいは見たので、よほどラディカルなハムレットでないと、もう驚かないので、オリヴィエ・ハムレットを基準点にして、そこからどれくらい離れているか、というおおざっぱな直観で言うと、いま挙げた3人の異なる演出家のハムレットに比べても、スタイルは古典的で、オーソドックスなものに近いんじゃないか、という気がしました。

 ストーリーはもちろん原作を大きくはずれたり、ブルック演出のように「抽出」したりといったものではなく、原作に忠実だったように思いますが、いまの感覚で見ていると、兄殺しの弟王クローディアスはともかくとして、王妃がもしも義弟の夫殺しを知らなかったとすれば、夫の死後、時を経ずして義弟の妻となったことは、いささか倫理的には問題かもしれないけれど、いまの目で見ると、さほど社会的に批判を浴びるようなことではないし、そのことでハムレットにああも責められなくてはならないほどのことか(笑)と思えてきます。

 クローディアスが兄王を殺したこと、またそれに気づいたらしいハムレットを亡きものにしようとすることで、ハムレットの復讐が正当化されるものの、もし兄王殺しがハムレットの妄想に過ぎなければ、これはまったくハムレットの妄想の果ての狂気が巻き起こす悲劇ということになるでしょう。だから彼が母親の寝室で母親を責めるとき、彼はその前に弟王への復讐のために狂気を装っているということになっているけれど、あの母親を責める責めかたというのは狂気と紙一重、境界線上にいるんじゃないか、という気がしました。

 シェイクスピアをすっかり離れて、クローディアスの兄王殺しをハムレットの妄想だとすれば、残るのは母親の弟王との早すぎる再婚だけですから、すべてはマザコンハムレットの妄想によって引き起こされた悲劇、ということになります。ちょっとそういうことを空想させるようなハムレットの演技だったように感じたものですから、そんな途方もないことを想ったのです。もちろんターナーさんの演出はそんなバカげた話にはなっていませんが(笑)。

 ベネディクトにとっては舞台でのハムレットは初めての経験だったと思うのですが、熱演で、この役に賭ける意気込みがそのダイナミックな演技と発声から伝わってくるようでした。音響には迫力があり、ActⅠのラストの宮殿内に開け放たれた外から魔物が襲ってくるように暴風とともに吹き込んで室内に舞い上がる黒い塵のようなもの(まっくろくろすけみたいなの・・笑)も迫力がありました。

 劇中劇の場面の舞台のしつらえがとても好きです。

 観客席のざわめきや、ハムレットが狂ったふりをして、会話の中で、皮肉で可笑しい言葉を返すようなときに観客の笑い声が湧き上がるのも、ほんとうに劇場で見ているような臨場感を覚えました。

 そういえば劇中劇のシーンで、こちらのほうに磁力が・・・とオフィーリアに膝枕を求めてやりとりする言葉、Do you think I meant country matters? というハムレットのセリフは、「なにかいやらしいことでも考えた?」みたいに字幕では訳されていたと思います。この部分はオリヴィエも皮肉な調子ではあってもさらっと言っていたし、ピーター・ブルックの演出でも含み笑いをしながらではあったけれど、セリフ自体はサラッと流していました。でも、ベネディクトは、このCOUNTRY を、はっきりと、CUNT-RY と区切って強調した発音をしていたので、このセリフに込められた意味合いを十全に表現していました。

 実はこの部分は、このハムレットという劇にこういう面白い言葉のやりとりがいっぱいあるってことを言うのに、つい教室でとりあげたまでは良かったけれど、ポカーンとしている女子大生の前で、どう説明すればいいのか、あとでママに訴えられたりしないように(笑)どう分かってもらえばいいのか、立往生して適当にごまかしてしまったところなので、よく覚えていたのです。

 出町座の観客は昨夜は老若男女多様な人たちが結構いっぱい見に来ていました。こんなすばらしい公演を映像にしろ京都で見られるなんて思いもよらなかったけれど、出町座のおかげで心に残る公演が見られました。


残菊物語 (溝口健二監督)1939

 前にビデオで見た感想を書いたのですが、今回京都文化博物館の30周年記念事業「映画にみる明治」の一環として上映された(12月20日)ので、スクリーンでもう一度ちゃんと見たいと思って観てきました。やっぱり素晴らしい作品で、溝口と言えば社会派的な「祇園の姉妹」などが代表作なのかもしれませんし、たしかにいい作品だと思うけれど、今まで見た中でどれが一番好きか、と言われたら、この「残菊物語」。

 もうストーリーは判っているのに、遊郭みたいなところで陰口と表だっては歯の浮くような世辞しか言われず心折れて帰って来た菊之助に、子守をしていたお徳が、はじめて彼の芸の出来がよくない、と本当のことを言って親身に心配し、励ますシーンを見ていると、思わず泣いてしまいました。そのあとも、何度か泣かされてしまった。

 なぜこんなにこの作品に惹かれるのか。何がひきつけるのか、と反芻しながら考えてみると、そのひとつの大きな要素は、お徳さんの声なんじゃないか、と気づきます。女優さんは森赫子さんという私にはなじみのない女優さんです。とくに美人女優というのではないし、彼女の表情は、前にも書いたように、この作品ではほとんど横顔か、うつむき加減の控えめな表情で、例えば小津の登場人物みたいに正面からアップでその表情がとらえられるような場面はまずなかったと思います。けれども、その常に影の中か、影を伴う表情から聴こえてくる、あの高くか細い、だけど芯のしっかりした声が、こちらの胸の底まで深く染み入るように響いてきます。

 話は高名な役者の家門の身分制が厳然と生きているような場で跡取りの大根役者の傷ついた心を癒し、純粋な気持ちで励ましていた子守女が、そのことであらぬ疑いをかけられて排除されながら、生涯男の芸を信じ励まし、家を飛び出した男の暮らしを支え、最後は自分が身を引き別れることを条件に男をもとの家門の跡取りに返すという徹底した自己犠牲の上に立って男の大成のために尽くすという古風でけなげな女性の物語で、いま見ればいかにも古風な時代がかった物語ですが、そういう意味の古風さは描かれた時代や描かれた人物(歌舞伎の家元の跡取り)のものであって、作品の古さではない、という気がします。


折鶴お千(溝口健二監督) 1935

   
 これはVHSを買って持っていて、以前に見たことがあるのですが、なんだかただただ暗い映画だな、という印象しか残っていませんでした。話の内容も暗いけれど、雨の降るフィルムがひどくて、画面自体がやたら暗く、人の顔もよく分からない感じでした。
 京都文化博物館の「映画で見る明治」の一環として、デジタルリマスター版を12月15日に上映したので、それを見てきました。画面はあいかわらずフィルムの傷みがかなりあったのが残ってはいるようだったけれど、ちゃんと映像として見ることができました。

 まず最初に言わなければならないのは、若い時の山田五十鈴がめちゃくちゃ綺麗だということです(笑)。本当に素晴らしく美しい。それだけでこの映画は見る価値があります。

 話は、妾に身を売ってはその場所から抜けて逃亡する、今でいえば結婚詐欺みたいな、詐欺師集団の一員であるお千(山田五十鈴)が、たまたま身近なところで下っ端仕事の手伝いのアルバイトをしていた苦学生を母親がわりの「姉さん」として何かと援けているうちに、関りが深くなり、貧乏な中、身を削るようにして男を大学までやるものの、とうとう警察につかまって塀の中へ。その後苦学生は教育界の人物に拾われて学問にはげむことができ、無事学者として大成するものの、世話になった女を顧みることはなく、それきりになった。

 冒頭、医学博士となったかの苦学生が駅頭に佇んで遅れる汽車を待つあいだ、お千と出会った思い出の場所の大樹を眺めながらお千との過去を回想している、という設定で、実はその同じ駅におちぶれたお千も居て、同じ思い出の大樹を目を据えて凝視していたのです。回想からさめた教授の前で、お千が倒れ、医者はいないかという声。博士が駆け寄ると、倒れていたのはお千で、そのまま息を引き取ってしまいます。

 まだ純心で世の中を知らぬ苦学生と、世の中の酸いも甘いも嚙み分けたあねさんとが出会い、女はこの苦学生に出会うことで、泥沼に咲く蓮の花のように純情な女になっていき、「弟を想い、身を削って弟のために尽くす姉さん」を演じるのですが、この苦学生を支えるために極貧の暮らしの中で学生には内緒で身を売る稼業にもどっているなか、客の物入の盗みを疑われ、警察につかまってしまい、その後は苦学生も音信不通。

 最後にこの医学博士になった苦学生の耳には、「老いた母親もわたしも見捨てて顧みないで・・・」というお千の非難の叫びが(幻聴として)聞こえてきます。

 苦学生と、泥沼に生きて来た女との純愛と悲劇の古風な物語ですが、この苦学生の姿はある意味で日本の近代以降の知識人の姿にほかならず、彼らは身を削り、身をすてて自分を育て、援け、ここまでにしてくれた親兄妹や恋人、周囲の人たちを見捨てて、知的、社会的上昇を遂げ、博士になったり大臣になったり作家になったり、成功者として大成してきたのです。その陰にはお千のように、自分の身を削り、自分が愛し、援けた相手からも見捨てられ、孤独のうちに死んでいった、物言わぬ人たちがおおぜいいたのでしょう。お千はそういうひとたちのうちのひとりです。

 二人で貧しい暮らしを営み、ひたすら机に向かって勉強する苦学生の傍で、邪魔をしないように気を使いながら、幸せそうに縫物などしていて、それでも何かしてやりたくて仕方がなくて、やれ茶を入れたり、やれ寒くはないかと羽織を着せてやったり、なにくれとなく世話をやくお千の姿に、ものすごく切なくなってきます。そういうときの山田五十鈴の演技がまたすばらしい。


あみこ(山中瑤子監督) 2017

 チラシが結構派手で、19歳から20歳で初監督のこの処女作で、ベルリン国際映画祭に史上最年少で招待されたのをはじめ、世界各地10箇所近くの映画祭で上映されて「世界を虜にした」とあり、おまけに高名なミュージシャンの坂本龍一がヌーヴェル・ヴァーグの登場になぞらえて絶賛?のコメントをつけているというものものしさなので、若い人がどんな映画をつくっているのか楽しみにして出町座で見てきました。

 たしかに、主役を演じて大奮闘といった感の女優さん(春原愛良~たぶん素人さん?)にも、監督も脚本も編集も、スタッフやキャスト探しも全部自分でやったらしい監督さんにも、初めての映画づくりなり映画出演なりに燃える「勢い」みたいなものは感じることができたように思います。

 そういうエネルギーが今後、密度の高い優れた作品を生み出していく力に転化していくものなのかもしれません。ただ、そういう可能性を云々するには早そうな作品や監督を持ち上げることは、プロの評論家や功成り名遂げた文化人がゆとりの目で、若い人の可能性を激励を込めていささか過大に評価しているんじゃないか、と思えてしまうことは否めません。

 映画の作り手が若い人であるとか、制作資金あつめに苦労し、素人のキャストやスタッフを集め、身近な人たちが協力してつくった、といった物語を一切括弧に入れて、作品だけを受け止めたときどうなのか、と言えば、どちらかといえばマンガ的な「勢い」は感じられても、いかにも拙く思われ、なにか若い人らしい新たなチャレンジに類するようなものが、作品そのもの、映像そのもののうちに感じられないか、と思って観ていましたが、今回一度見た限りでは私には残念ながら、そうしたものを見出すことができませんでした。

 話はブスな女の子の片思いの平凡な話なので、その気持ちの描き方に新鮮なものがなければちょっと辛いものになります。ここに登場する主人公のような気持ちになったり、それをこんな風に表現する、恋する女の子の話はマンガなどでは無数にみられるのではないでしょうか。そのある種の既存のパターンをなぞっているだけで、それを積極的に新たな可能性に向けて壊していくような映像を見出すことができなかったのは残念です。もちろん、映画ド素人の私の節穴の目で見て、の話なので、プロの映画評論家や坂本さんのような才能ある文化人の目には、すばらしい宝石の原石が見えているのかもしれません。


序の舞(中島貞夫監督) 1984 

 いい映画の素材になりそうな実在の女流画家を描いたモデル小説を原作としているのと、京都を舞台にした物語なので、色んな意味で期待したのですが、きょう文化博物館で見て来て、ちょっとがっかりしました。そして、小津や溝口の作品がつくられた時代は古いのに古びず、なぜ今日見たこういう作品が古びて感じられるのか、不思議だな、と思いながら見ていました。

 文化博物館の解説チラシによれば、監督は「市内の空地に明治期の京の町並みの大がかりなオープンセットを建てさせ」、キャメラ、美術、照明にも「京都で生まれ育ったスタッフを起用、京都人の生活感に徹底的にこだわって演出」と書いてありますが、その「京都人の生活感」が私にはどうにも感じられなかったのです。

 これが「祇園の姉妹」なんかみると、もう山田五十鈴の歩き方一つでも、あの祇園に生きる逞しい女をまざまざと感じさせるものがあるし、ほんのつかのまとらえられる路地の何でもない光景にも「京都人の生活感」が匂い立つところがあるから不思議です。

 プロの映画評論家ではない私には技術的なことも、またなぜそう見えてしまうのかも説明できませんが、そういう言葉を持った人がいたら、このおそらくは大部分の観客が感じるだろう確かな感覚の違いがなぜそうなるのか、聴かせてもらいたいものだと思います。

 素人の私にもわかるこの作品のちぐはぐさの原因のひとつは、キャストがほとんどミスキャストじゃないか、と思われることです。そもそも主役の島津津也を演じた名取裕子さんは、ほかの作品では綺麗ないい女優さんだな、と思って気に入っていたけれど、この作品のように絵を描かずには生きていけない芸術家を演じるような人だろうか、と思うと、それは無理じゃないか、と思います。絵を描き始めれば寝食を忘れて没頭し、なにもかも絵のために犠牲にするのを厭わない、そういう鬼気迫る生粋のアーティストの姿を、この映画のどのシーンにも見出すことができませんでした。

 それに、この女優さんは、この作品で設定されているような師匠との関係に雪崩れていくような色気があるかというと、ちょっと違うのではないか、という気がしました。もちろん彼女はとっても綺麗な女優さんだし、師匠の高木松渓役の佐藤慶が彼女の胸を開いて役得とばかり乳首を吸いにかかったりするのを見ると、この野郎!って思いましたが(笑)

 彼女の母親役をつとめたのが岡田茉莉子で、これも私に言わせれば大ミスキャスト。だって彼女に京都のこういう葉茶を売るつましい店の女手ひとつで姉妹を育てて苦労の皺を刻んだおかみさんをやらせるのは無理だって、素人でもわかります。顔も体形も立ち居振る舞いも言葉も雰囲気も全部違う。彼女は若いころものすごい目力のある美人で(私が最初のころみて印象に残ったのは、佐分利信との「ある落日」だったか・・・)大好きな女優さんでしたが、或る程度年配になってこういう自分に合うはずもない役をやらされるのはつらいものがあったんじゃないでしょうか。

 そうしてみると主要な女性でそんなに変じゃなかったのは姉の志満を演じた水沢アキかな、と思います。ごく普通だったのが良かった。少なくともすごいミスキャスト、とは思わなかったです。

 わけありで生まれてくる赤ん坊を里子に出すのを仲介する、もともと遊郭の芸妓だったらしい喜代次役で「特別出演」の三田佳子などは、ちょい役といっていいわき役ながら、その種の色気もあり酸いも甘いも嚙み分けた末の女性としての存在感が際立っていて、さすがだな、と思いました。

 男性で主要な役を演じた佐藤慶も、ほんとなら高名な日本画家なわけで、封建制の男尊女卑時代とはいえ、単なる小物のスケベ男ではないので、それだけの深みなり重みなり、それ相応の芸術家としての存在感を見せる必要があると思うけれど、やはり軽すぎるのではないか、という気がしました。

 もうひとりの「先生」を演じた風間杜夫は汚れ役の佐藤慶と対照的に得な役だったせいもあるかもしれませんが、無難でした。

 やっぱり役者さんの配置、適材適所というのはものすごくたいせつだな、というのを感じた作品でした。


不滅の女(ロブ=グリエ監督) 1963

   出町座での「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ」の一環として上映されたのを見てきました。アンチ・ロマンの作家として名高いロブ=グリエの映画初監督作だそうで、モノクロです。

 例によってさっぱり分からない映画ですが(笑)、ロケ先がトルコのイスタンブールで、そこへ休暇の旅で来ていた教師らしい主人公の男Nが、女Lに港で出会い、謎めいた彼女に惹かれ、いい仲になるものの、彼女は名も居場所も明かさず、口にした名も本当の名ではなく、行方知れずになります。

 Nは彼女を探し求めて人を訪ね、色んな場所を訪れ、彼女に再会するのですが、彼女の謎が明らかになるわけでもなく、彼女の運転でいっしょに乗った車を走らせているとき、突然道路の真ん中にワン公が現れて事故になり、彼女は死んでしまいます。実はそのワン公というのは、つねに彼女Lの身辺に立ち現れては彼女を見張っているようにみえる不審な男が連れいる2頭の犬の1頭なのです。でもその不審な男が何者か、何をしているのか、Lとどんな関係にあるのか、さっぱりわからないままです。

 オカルトホラーでない限り、当然一度死んだ彼女は甦らないはずですが、この映画では再び生きて姿をあらわします。それは男Nの幻覚による幻想の中でのことなのか、あるいはもともと彼女が死んだこと、死んだ自動車事故そのものが男Nの幻覚にすぎないのか、あるいはどちらもが男Nの幻覚なのか、見ている私には確言できそうにもありません。

 そして最後はこの女Lの「死」とそっくり同じ場面が繰り返されるようにして、運転中の男は、道路の真ん中に突如現れた例のワン公によって事故を起こして死んでしまいます。

 さて何がわかるでしょう?(笑)

 まあ死んだはずの女性Lが生きかえっているから、「不滅の女」なんだな、くらいはわかりますが(笑)

 ただ、この映画では、舞台となったイスタンブールに実在するらしい、要塞か宮殿か知らないけれど、石造りの建造物のがれきみたいな奇妙な形をした建造物が立ち並んでいる場面などがあって、ちょっと面白い光景で、イスタンブールに実在する光景であるのなら、ああいう風景をもっと撮ってほしかったな、どうせならイスタンブールを歩く、みたいな紀行映画にでもしてくれたほうがよかったな、とは思いました。


嘘をつく男(ロブ=グリエ監督) 1968

  冒頭から、林のようなところを逃げてくる男(ボリス)を、大勢の軍服に鉄兜のドイツ兵たちが銃を撃ちながら追ってくる場面から始まります。ただ、逃げる男はきちんとした背広にネクタイみたいな姿で、兵隊の恰好をしていないから、あり得るとすれば、これはフランスのレジスタンスか何かで、ゲシュタポに見つかって追われているんだな、くらいの想像ができます。

 実際、このボリスという男は、村でレジスタンスのリーダーであり英雄とみなされているジャンの仲間で、彼自身が村へ逃げ込んで語るところでは、ジャンを助けて逃げてきたということです。

 しかしこの男はどうにも胡散臭くて、彼がジャンの妻、妹、父親、下女たちに語る物語には幾重もの嘘があり、何度も訂正されては同じエピソードが違ったふうに繰り返され、一体彼が本当にジャンの同志なのか、あるいは逆にジャンを死へ追いやった裏切り者なのか、判然としなくなってきます。

 確かなことは、彼が何だかんだ言って、ジャンの妹なんかをものしてしまう、つまり彼の性的欲望の対象にしてしまう、というような目の前で起こるできごとだけです。そこではボリスは口八丁手八丁の女たらしです。
 
 女を好きに支配してしまうばかりか、彼に疑念をもったジャンの父親を殺してしまったようです。

 最後は死んだはずのヒーロージャンが現れて、ボリスを射殺するのですが、ジャンや妹たちがみな室内からいなくなるのを見計らったように、死んだはずのボリスはむっくりと起き上がり、再び本当のことを語ろう、と語り始め、実は自分がジャンなのだ、と言い始めたりするのでした。

 パラドックスの例を言うのに、或るクレタ人が「クレタ人はみな嘘つきだ」と言った、というのがあって、さてこのとき真実はどこにあるのか。あるいは「わたしは嘘つきだ」と語る人の言葉は嘘か真か、というのがあるけれど、そんな話を聞かされるごとく、この映画の観客は、ボリスの語る話が嘘か真か判らなくなるような話で、いくら彼の語る話の道筋を分かってそのそれぞれを丹念にたどろうとしても、そういう推理劇的な思考自体をはぐらかしてしまいます。

 「真犯人」も「真相」なるものもなく、ただボリスの語る嘘か真か分からない語りが見る者、聴く者をひっぱっていく、そのプロセス自体は存在することが可能なので、それでも映画は可能なんですよ、どう?と得意顔をしているような映画(笑)。
 
 冒頭のゲシュタポに狩り立てられているボリスという構図にしても、逃走するボリスは銃弾が飛んでくる中、ちっとも必死の形相でも一目散に逃げるでもなく、けっこうのんびりしています。背広にネクタイなんかきめこんで、逃げてはいるようだけれど、なんだか本気じゃなくて、ふらふら逃げている感じ。鉄砲玉の飛んでくる音はするし、木の幹や石にあたったりしているから、真直に迫っていることは迫ってきているようだけれど、追う者と追われるものは交互に映されていて、同じ画面にあらわれないので、ほんまにゲシュタポは近くまで迫っているのかいな、とちょっと疑わしかったり、これって合成画面みたいで、ほんとは全然別の場所を交互に嵌め込んでいるだけの映像かもね、なんて思ったりもします。というか、これは現実に追ったり追われたりしているものを映しとった映像ではなくて、「まぁこういう連中が追う側で、追っていることにしましょうか。そして追われている側は、このへんでこういうかっこうで逃げていることにしておきましょう」なんて感じのなれ合いで、さしあたりこうしておこう、みたいな監督のいい加減な指示でつくられた構図のような気がしてきます。

 こうやって追う者と追われる者、ヒーローと裏切り者、生きている者と死んだ者、嘘とまこと、などを切り離し、また曖昧化し、相互転化させ、同一視し、相対化してしまいます。


エデン、その後(ロブ=グリエ監督) 1970 

 ロブ=グリエ監督の初のカラー映画なんだそうです。この映画は今回観たほかの彼の監督作品の中でもたぶん一番とりとめないというか、物語性が希薄で断片化のはげしい作品。ちょっとしたエピソードのまとまりもほとんどなくて、短いショットで全部終わって切り離されたものの集合という感じの作品です。

 解説によればシェーンベルクの十二音技法にもとづいてつくられ書く場面を構成する要素が音列に従って分類されている(「ARG」所収の遠山純生氏の解説)のだそうですが、でもそれは作品を見る私にとって関係ないように思います。

 もしそれを知らなければ作品が味わえないのだとすれば、それは芸術ではないという気がします。或いはゲームのようなものなのかもしれません。ゲームメーカーが勝手に作り出して、その規則を知らなければ遊べないゲーム。ゲームおたくのための映画?

 そのゲームの規則自体が行き当たりばったり、恣意的に作られているので、それに従おうとすればするほど迷路に彷徨うことになるでしょう。
 
 昔、従姉に簡単な「暗号」を使った手紙を書いて出したら、ほどなく彼女から、アイロンがけの間にちょっと考えていたら解読できたわ、案外簡単でしたね、という返事がありました。私は口惜しくて、次に、凝りに凝った暗号を考案して、さあ解読してみろ、とばかりに手紙をしたためて出しました。もちろん返事は来なかった(笑)。だれもそんな身勝手なゲームにつきあう義理はないでしょうね。

 いつかどこかで柄谷行人が何かの例に挙げて書いていたけれど、2*3=6 という数式が与えられたら、この*は積の演算操作をあらわす記号だと推測ができますし、そこには正解があるので、それを解くことは推理劇と同じでしょう。でも a*b=c とあれば、この*がどんな操作をあらわすかは不明です。足し算かもしれないし掛け算かもしれません。ロブ=グリエの映画は、こういう不確定な演算をそのまま提示しているようなものではないか、という気がします。

 つまりルールが分かれば読み解けるというのでもなくて、ルール自体を与えないで曖昧化しておく。*という演算子がどういう機能を果たすものなのか不明のまま、そこに置かれていて、それで足し算を行おうと掛け算を行おうとかまわない、その結果もこの作品の領分ですよ、と。

 この作品にも、ほかの彼の作品でみられた、ロブ=グリエのサド的志向が見られます。女の手をベッドに括り付けたり、拷問具のようにとがった長い釘が逆さに立っているような枠組みの上に女性が寝かされていたり・・・そういえば前回感想を書いた「ヨーロッパ横断特急」でも、女性の手首をロープか何かで縛ってベッドの頭のところに括り付けているようなシーンがありました。なんであんな場面が必要なのか、よくわからなかったけれど、好きなんですな、ロブ=グリエ先生は(笑)。


快楽の漸進的横滑り(ロブ=グリエ監督)1974

  「エデン、その後」なんかとは対照的に、今回観た6作品の中では、部分的に物語らしい断片がつなぎあわされていて、感覚的にはわかりやすい作品という気がしました。

 アリスという若い女性(たぶん売春婦で、同性愛者)が、同居していた同じ種類の女性のらを殺した、それも裁縫鋏で心臓を一突き、という殺人の容疑でつかまりますが、彼女自身は、別の男が侵入して殺したのだと、あまり説得力のない主張を繰り返しています。

 アリスに近づく刑事、予審判事、牧師、女弁護士らは、みな彼女に幻惑され、混乱させられます。そういうときのアリスは魔女的です。実際、彼女は自分に近づくそういう連中を魔法にかけるように支配します。彼女の口から流れる血(のような赤い液体)も彼女の魔女性に通じています。

 そんな意味ありげなほのめかしがいっぱいちりばめられています。体をバラバラにされたマネキン、吸血鬼の卵、割れたガラス瓶の破片、女弁護士の首筋の赤い血のあと、等々。

 軸はアリスの同室者の殺人にまつわる推理劇だけれど、推理の結果真相が明らかになるかと言えばちっともなりはしないのはほかのロブ=グリエの映画と同じです。殺人やサド的な志向をめぐる多様なほのめかしが相互にぶつかって音や光を発するのを楽しむというものなのでしょうか。


囚われの美女(ロブ=グリエ監督)1983

 今回観た中では一番新しいロブ=グリエの映画です。ヴァルテルという若い男が、ナイトクラブのバーで踊るブロンドの女に魅せられ、彼女の名や住まいを聴こうとするけれど、彼女はどちらも教えずに消えます。

 ヴァルテルは「ボス」のサラ・ツァイトガイスト(女)からコラント伯爵に手紙を託けられます。彼は届けようと車を走らせていましたが、途中で血を流して道の真ん中に倒れているナイトクラブで踊った女を見出し、近くの大きな邸宅に連れ込み、警察に連絡しようとしますが、そこにいる男たちに阻止され、とらわれてしまいます。

 しかしこの屋敷を後日尋ねると、門は閉ざされ、隣の住人からは、もう10年前から誰も住んでいないと言われるのです。

 女性は男たちの性的欲望の対象としてみる目にさらされ、まさに囚われの身になりますが、縛られたまま部屋に入ると自然にその縄からも解放され、逆に自由に男を支配できるようです。

 彼が援けた美女は、どうやらボスに手紙を渡すように言われたコラント伯爵と6~7年前に旅をしていた伯爵の婚約者だった女性のようです。彼女が殺されたことから、伯爵が疑われているというのが新聞記事にのった情報でした。それなら彼女は亡霊なのでしょうか。

 寄り道をしたもののヴァルテルはボスの指示に従って手紙を伯爵に届けにいきますが、そのときすでに伯爵は死んでいます。手紙には、血の付いた女性ものの靴の写真とともに「伯爵さま、記憶にない?」というコメントが書かれていました。

 こうしてまたしても(ロブ=グリエの映画ではいつもそうであるように)意味ありげな映像がふんだんに盛り込まれながら、いっこうに話が進展しないで謎の女をめぐって彷徨いはじめます。この物語は古代ギリシャの「コリントの花嫁」という、幽霊になった女性に若者が恋をする物語に着想をもらった作品らしいです。

 ロブ=グリエの作品はまだ私には未消化です。さっぱりわけがわからないままです。ただ、ゲームのように、作品を読み解くカギが映像の外にあるように見えることが、私には気になります。

saysei at 00:26|PermalinkComments(0)

2018年12月13日

リニューアルした琵琶湖博物館

琵琶湖博物館

 いろいろと御縁のあった琵琶湖博物館にもすっかりご無沙汰でしたが、今回友人が案内してくれて、新しくなった部分を見学させてもらうことができました。これは湖の側から見た博物館を、新しくつくられた「樹冠トレイル」に立って写した写真です。

樹冠トレイルへ
 博物館のほうから湖の方へ最大地上10mの高さで突き出し、雑木林の樹冠を縫うように見て回る全長150mほどの「樹冠トレイル」が、リニューアルの目玉だったようです。

琵琶湖展望1
 空模様を心配しましたが、幸い私たちが訪問したときは、湖を隔てて、向かって左手の雄琴温泉あたりから大津市、皆子山(みなごやま)、堅田の背景にこんもり盛り上がる蓬莱山(写真の中央やや右)、武奈ケ岳の先っちょ、それから琵琶湖大橋が白く綺麗にみえ、写真では見えないけれど右手に守山市のあたりの街並みが続いて、長命寺山まで、きれいに見えました。
樹冠トレイル

 これだけ眺望が開けていると、当然これは展望台だと思われてしまいますが、もちろんその機能は十分果たしているのですけれど、樹冠トレイルというのは樹々を上から見下ろして歩き、樹下からでは見えない植物の花や実や枝ぶり、あるいは樹冠にやってくる虫や鳥たちを眺めて学習しましょう、という仕掛けです。熱帯の森林では樹々が密生して樹下には陽光も差し込まないほどですが、樹冠はふんだんに陽光を浴びて動植物が独特の活性に満ちた生態系を形作っている別世界。そういうのを東南アジアなどで研究していて若くして亡くなった井上先生の研究成果を京大の博物館でもごく小規模な樹冠トレイルを館内に設置して表現してくれていましたが、琵琶湖博物館では屋外に時間をかけて雑木林を育て、そこにこのトレイルを設けています。

 ただ、子供さんらの安全のために、トレイルの高さをせいぜい10mまでくらいしか作れなかったらしく、樹木のほうがかなり瀬が高いので、「樹冠トレイル」というより「樹間トレイル」になってしまっているのが少々残念。でも日本のような気候で、まばらな樹々の林の場合、樹冠が樹下とは別世界なんてことはまぁないでしょうから、せいぜい樹々の高いところに咲いたりついたりする花や実を真直に高いところで眺め、そこに集まる虫や鳥も観察するチャンスがある、というふうなことでしょうか。

 でも、たぶんこのトレイルは、もっぱら湖のパーッと開けた見事な眺望を楽しみ、樹冠ならぬ樹間を歩いてオゾンを吸う森林浴みたいな感覚で利用されているのではないかな、と思いました。

 それでも、せっかく湖畔に立つ琵琶湖を研究対象とする博物館なので、来館者にも湖にできるだけ近づいてもらいたい、というかねてからの博物館側の希望はある程度このトレイルの設定でかなえられたかと思います。費用はかなりのものだったようですが・・・^^; 
船の舳先のような樹冠トレイルの先端
   トレイルの手すりや柵で良く見えないでしょうが、博物館の建物のほうからまっすぐに湖のほうへ伸びたトレイルの最先端を進行方向に向かって左手から見たもので、右の方から左の中央へ突き出している白い船の舳先のような形をしています。実際、船の舳先をかたどったものだそうです。
舳先に置かれたネズミ
 その船の舳先にカヤネズミがちょろちょろしている姿を実際に作ってあります。先っちょの糞は、創ったものではなくて、鳥の糞の実物のようです(笑)。
カヤネズミ像
 その横には、こんなカヤネズミの像が立っています。美術系の大学と提携して、そこの学生さんが卒業制作として、ここに置くのにふさわしく、それぞれの学生さんが好きなものをかたどって作ったものらしく、ほかにもトレイルのところどころに、各種の動物や花など植物の部分をかたどった造形物が設置されています。それも面白い試みです。
大人のディスカバリールーム入口
 館内のリニューアルの目玉は、日本で初めてらしい、「大人のディスカバリー・ルーム」。子供の葉前からあったので、そこへ大人が琵琶湖に関するいろいろな調べ物をしたり体験学習的なことができる装置や資料を備えた、大人のためのディスカバリー・ルームを作ったら、すっかりはまって愉しむ来館者がたくさん出て来たそうです。
大人のdiscovery room 1
 最近はプロの研究者ではない普通の会社員なんかで、プロフェッショナル顔負けのコレクターがいて、世界各地へ足を運んで貴重な昆虫のコレクションを何万点も集め、しかもひとつひとつの標本についての情報もしっかりつけた申し分のないコレクションだったりするらしくて、そういうものが寄贈されているらしいです。
 これもそういうものの一つで、蝶のコレクションを機器のライトの下へ置いて、ノブをスライドさせて焦点を合わせるだけで、大きなディスプレイに顕微鏡で見るのと同じくらいの超拡大された像を見ることができます。上の写真は超の翅を映しているところです。これは何にも知らない私なんかも、次々色んな昆虫の色んな部分を見て見たくなる、ワクワクするような装置です。

大人のdiscovery room 縄文土器の文様をつくる
 これは縄文土器の文様を自分で縄文人がやったやり方で、縄とか木の枝きれみたいなのに刻んだ文様を薄く延び広げた粘土に押し付けて、実際に作る過程を体験してみようじゃないか、というコーナー。

大人のdiscovery room2
 これはいろんな動物の毛皮で、さわってもいいので、きつね、たぬき、てん、いのしし、等々の毛がどう違うか肌で確かめることができます。
大人のdiscovery roomスケッチテーブル
 これは前に置いてある動物の頭蓋骨をスケッチするスケッチテーブルというコーナーで、手前に浮いているようみえる箱の上の穴から覗くと、前に置かれた骨の像が映っていて、下の紙にそれをなぞれば、誰でも骨のスケッチが正確にできるようになっています。

魚介類を売る店を再現
 前よりずっと多くなっているな、と感じたのが、「食」の要素で、これは琵琶湖の魚介類を売る店を再現してみせたようなコーナーです。実際にモデルとなったお店があるようです。
魚介類の模型
 琵琶湖の魚介類の代表的なものを、このように店で売っている様子のままに展示しています。

淡水魚の食卓
 琵琶湖の魚介類を使ってつくられた料理も並べてあります。もちろん水槽のほうには、まだ生きて泳いだりしている生きた標本が見られるわけです。昔の水族館はその生きた標本や、さもなくば剥製みたいなものを見せられるだけで、食べものとしてとらえられる動植物と博物館で見せる動植物は全然別世界のもののように切り離されていました。でも、博物館を訪れるふつうの市民にとっては、そんな区別に意味はありません。鮎は鮎だし鮒は鮒ですから、水族館などで一番多い質問は、「この魚は食べられますか?おいしいですか?どんな味がするんですか?」という食に関するものだそうです。その当たり前の来館者の疑問、ここへ来る人たちの問いたい気持ちに応えようとしていることがわかります。

料理の色々
 これも同様に琵琶湖産のモロコとかコアユとか鯉の料理を実物模型でしましたものですね。
鮒ずしができるまで
 鮒ずしのつくりかたも実物見本で示してありました。

湖が見える水槽
 こういう水槽の向こうに葦原があり、その向こうに琵琶湖がみえ、対岸の山並みが見える、というのは前もあったと思いますが、この博物館の展示の仕方にふさわしい、すばらしい展示です。
水槽ニゴロブナ≒鮒ずし
 その水槽を泳ぐ鮒ずしのもと(笑)ニゴロブナ。
ビワコオオナマズ
 岩の下で顔をのぞかせているのが、ひげのビワコオオナマズ。
コアユ

 好物の(私が食べものとして)コアユの群舞。
カイツブリ
 いつか湖畔の会議に泊りがけで行ったとき、カイツブリが鳴くのを聴いた記憶があります。ずいぶん淋しい声だったけど、あれはこちらのそのときの心象風景だったか・・・実物はとてもみっともかわいらしい(笑)子でした。
ミクロの世界入口

 リニューアルで加えられたミクロの世界の展示室、入口のデザインはなんだか宇宙の見知らぬ星へきてそこの異生物を見るような感じでした。
トンネル
 草津で3人で夕食を取りましたが、少し早かったので、近くの天井川のあとを散策。これは天井川の下をくぐるトンネル。これを抜けると、中山道と東海道の分かれ道の道標がありました。
中山道と東海道の分かれ道 常夜灯
 中山道なんとか、って書いてある常夜灯がたっています。
中山道みのみち
 高札場があって、ここにいろんな高札の類が立てられたものらしい。

トンネルの中の壁画
 さきほどのトンネルの中の壁画に、この草津の渡しを描いた広重の絵を原画にしたものがあります。旅人たち3人が堤の上にいて、向こうには草津の宿の家々の屋根だけが見えていて、この川が天井川であることがわかります。
広重 草津追分
 もとになっているのは、この広重の草津追分の絵です。
天井側と堤
 天井川だった川底面にあがる階段。上の橋みたいにかかっている高さが、堤の高さ。人家や宿は下の平面ですから、川底の高さがずいぶん高いものだったことがわかります。いまは水はありません。

天井側の流れていた場所
 これが天井川の流れていた川底面です。いまは公園になっています。
夕食の場
 夕食はここで。刺身の盛り合わせや鮒ずしなどいただきながら、二人の旧友と酒を飲み、好き放題お喋りして楽しい時間を過ごしました。
草津のホテル
 近くにはこんな高層のビル。ホテルだったと思います。いま草津はどんどんこんな超大なホテルが建設されているんだそうです。
建設用クレーンが並ぶ
 このホテルのすぐ目の前にもこんな高くそびえるクレーンが2本も立っていて、ビル建設を進めています。博物館へ行く前に草津駅で時間があったので、近くを散歩してたら、なんとかいう巨大な駐車場を持った特大スーパーマーケットみたいなのがあって、中へ足を踏み入れてみたら、都心のデパートのフロアみたいに狭いものじゃなくて、はるか向こうの売り場など、見渡せるけれども豆粒みたいに小さく見えて何を売っているかもわからないほどの巨大な空間。滋賀県民の友人によれば、最近のこの種の郊外型大規模マーケットは、5千台の車がとまれる駐車場を備えているんだとか。ひぇーっ!ですね。日本一人口の増え方が急激だった地域だから、だそうですが、ものすごい勢いで拡張、肥大化しているようです。
草津駅近くのスーパーの地下

 「草津駅」とあるけどホンモノじゃなくて、これはレトロな、たぶん50年代か60年代の地域を再現したレトロ空間で、駅前の地下にこんな場所がつくられているのです。
草津駅前地下の再現された30年代の映画館

 これは看板と受付だけつくられたレトロ映画館のデザインですね。かかっている看板をみると1960年頃の映画館ということなのかな。飲食店は、おもての意匠だけレトロなのでなく、実際に営業していました。

懐かしい看板

 こんななつかしい広告板が壁にはりつけてありました。





saysei at 00:57|PermalinkComments(0)

2018年12月10日

手当たり次第に XXⅥ ~ここ二、三日みた映画

 このところ連日出町座に通う感じで、感想も書いてきたので、今回もそれ以外に見たごくわずかな映画についての、例によって、無責任な走り書き的感想です。

ヨーロッパ横断特急(アラン・ロブ=グリエ監督) 1966

   出町座で昨日見てきました。
 なつかしいですね。といってもこの映画を50年前(!)に見たわけではありません。ロブ=グリエは私にとっては何よりもヌーヴォーロマン(アンチ・ロマン)の作家で、映画はたまに娯楽として見るほかさして観ようともしなかったので、映画監督ロブ=グリエについては何も知りません。

 「消しゴム」や「嫉妬」などいくつかの代表的な作品を読み、「新しい小説のために」というエッセイ集をかなり熱心に読んだことはおぼえていますが、自分がそこから何を学べたかは定かではありません(笑)。要は判らなかったということでしょう。

 あのころ、ロブ=グリエだけではなく、サルトルやカミュのような作家の次に来た新しい世代の文学、という感じで、ナタリー=サロート、ミシェル・ビュートル、クロード・シモン、マルグリット・デュラスなどの新しい小説が次々に翻訳出版されて、けっこう付き合ったのを覚えてています。たまたまその少しあとで国外へ出たので、邦訳のなかったものは英語のペーパーバックで、というのはフランス語が読めないものだから仕方なく英訳で読んだりしたのを覚えています。

 そういえばフランス語のできない私がはじめてフランス語で全文を読んだ小説というのはロブ=グリエの短編La Plage (浜辺)でした。なぜかといえば、その数年前に出たペンギンブックの「French Short Stories」という対訳本をたまたま本屋でみつけて、これなら英訳付きだし、ロブグリエのその短編はほんの数ページの短いものでしたからこれなら読めそうだ、というので買ってきて、ロンドンの英語学校の同級生だったフランス語のよくできるスペイン人の可愛いお嬢さんに、休み時間に毎日繰り返し呼んでもらって復唱し、うまく読めるとほめられるのがうれしくて、なんとか全部読んで、意味のほうは英訳を参考にして理解できたのです。それがたぶん私が原文で読んだ最初で最後のフランスの小説でしょう(笑)。私が彼女の前では優等生だったので、ご褒美に彼女は、私が日本語で主著をほとんど読んでいたバルザックが面白いと言っていたのを覚えていて、なんとフランス語のペーパーバックで「ゴリオ爺さん」をプレゼントしてくれたのですが、さすがにこれは私の語学力ならぬ語学無力と根気では歯が立ちませんでした。彼女がずっとそばで付き添っていてくれたら、私もフランス語が読めるようになったと思うけど(笑)、彼女とはわずか数カ月のおつきあいでしたから・・・

 そのときのテキストはいまも思い出に持っているのですが、頁がバラバラになって、ロブ=グリエの「浜辺」の冒頭がある最初のほうのページが紛失してしまっています。あの最初のページは繰り返し読んでもらった(し、読んだ)ので、ほとんど丸暗記していて、簡単な単語さえ忘れてしまったいまでも調子だけはおぼえていて、カタカナフランス語(笑)でなら声に出して言えるほどです。むかし有村ナントカって数カ国語ペラペラみたいな出鱈目「言語」を喋るお笑い芸人さんがいましたが、あれと変わらないですね(笑)。それじゃあんまりだから、ちょっと調べて懐かしい原文の冒頭だけ記しておきます。

 Trois enfants marchent le long d'une grève. Ils s'avancent, côte à côte, se tenant par la main. Ils ont sensiblement la mème taille, et sans doute aussi le mème âge; une douzaine d'années. Celui du millieu, cependant, est un peu plus petit que les deux autres. ・・・

 3人の子供が浜辺を歩いている。並んで手に手をとって進んでいく。3人は同じくらいの背丈で、おそらく歳も同じ、12歳くらいだ。しかし真ん中の子はほかの二人よりもすこし小さい。・・・

 何でもない情景の描写です。はじまりだからではなくて、大体しまいまでこういう淡々としたシンプルな描写がつづきます。ははぁ、こういうのがヌーヴォーロマンなのか、とそれでも当時はなにか特別な文体のような感じで読んでいたように思います。

 邦訳でいろいろ読むと、ひとくくりにできない多様さがあるけれど、古典的な小説のような物語性や心理描写がないとか、客観的で透明な描写のようでいて、実はその全体がある人物の主観の歪んだレンズをとおして見られた光景なんだとか、その種の仕掛けについては、様々な評論と併せて読むことで、その実験的な試みらしきものは一応理解できた気にはなりました。

 けれども、すくなくとも私が読んだそれらの作品の中に、ほんとうに惹かれるものはひとつもありませんでした。端的に面白くなくて、読んでいてつまらなかったのです。はじめのうちはそれでも、いや自分にはまだ新しい小説がわからないだけかもしれない、と思って、同じ作家でも別の作品を、また別の作家をと手に取って読んでみましたが、どんなに多様性があっても、つまらない、という意味では共通していました(笑)。なんだか、これが新しい小説だからこれが分からなきゃいまの文学はわからんぞ、とまるで教師に宿題で読むことを強いられるように、面白くもないテキストを読まされているような感じになってきたので、きれいさっぱり全部売り払って(さきほどの仏英対訳本だけ例外)、それから半世紀、結局文学の世界では、すくなくとも今の日本の文学には何の痕跡も残していないのではないでしょうか。

 古い世代の作家には影響を受けた、と言う人もあるでしょうし、実験小説的なことの好きで「方法」ばかりが先立つような頭でっかちな作家がまだいるとすれば、いやいや深甚な影響を受けた、あれは小説を一変したんだ、とおっしゃるかもしれないし、日本の文芸批評家は昔からおフランスびいきなのでとんでもない、と目を剥くかもしれませんが、事実を見れば、いつもと同様、「おフランス」の流行にとびついて、これがなければ夜も日も明けない大騒ぎをして、あとはたださぁーっと潮が引くように引いて、何も残らなかった、というのが本当のところではないでしょうか。まぁ、その流行の間にいちはやく翻訳を量産したりときには翻訳より先に「紹介」したりして、ちゃっかり儲けは出ているかもしれませんが(笑)。

 さて閑話休題。感想を書くはずだった(笑)映画「ヨーロッパ横断特急」をいまみると、とても古めかしく感じられます。小説でも実験小説、なんて言われて新しがられたものほど、時がたつと読めたものじゃなくなるものでしょうけれど、映画も同じなのかもしれません。頭でっかちにあれこれ不自然な操作をしてこの仕掛けが分かるか?みたいな小説というのは、文字で書かれた小説の場合、まったとりえがないけれど、映像の場合はそれ自体が感性的に直接訴えてくるものだから、抽象的な言語とは違って、また意外な出会いがある場合だってあるのでは?と思って観ていましたが、なんだかつまらない楽屋裏を見せられて、しらけてしまうところがあります。

 ヨーロッパ横断鉄道に乗り込んだ、映画監督らしい中年男ともう一人の男、それに中年の女性の3人が、この映画と同じ「ヨーロッパ横断鉄道」という映画を制作しようと企画していて、彼らがストーリーを考えそこに配置しようとする登場人物が実際に列車に乗り込んできて事件が起き、その進行を話し合う中でストーリー自体に変更を加えていくと、この映画の中で起きる現実も変わっていきます。3人がこの映画の中で現在進行形でこの映画自体を制作しており、その映画がただちにこの映画の中の現実として進行もするけれど、またその進行自体が3人の構想にフィードバックされて、彼らがつくりつつある映画自体が変えられていく、という仕掛けです。

 それは入れ子構造として語れることがあるけれど、マトリョーシカや入れ子のだるまさんみたいな、より大なる要素がより小なる要素を完全に含むようなツリー構造ではなくて、言ってみれば同時に逆に小が大を含みもするリゾーム構造になっていて、古い言葉で言えばフィクションと現実とが相互浸透するような状態で進行する映画です。

 彼ら3人がつくっている映画、「現実に」この映画の中で進行するドラマというのは、007のパロディみたいなスパイものかギャングもの、あるいはもちろん列車ですからオリエント急行殺人事件のパロディみたいな推理劇で、そこに語られる物語の断片や登場する人物は浴場のペンキ絵、芝居の書き割りみたいな、或る意味で典型をなぞった、うすっぺらでいかがわしいものばかりですから、観る者は誰もそんな物語をまじめにたどったり、「推理」したりはしません。むしろそういう生真面目な見方をからかい、嗤って、現実とフィクションの間を往還しながら、どんなところへ連れて行かれるか分からないぞ、というプロセスを楽しむことができるなら、それは「面白い」という方もあるでしょう。

 こういう仕掛けをあれこれ詮索したり、また仕掛けたりすることが知的な行為だと考えておられる方々は、こういう映画を知的でおしゃれで面白い、と思われるのでしょうが、私には全然そうは思えないので、なんてつまらない映画だろう、と思いました。私は相手がいて知恵をしぼって戦術を考え、ああでもないこうでもない、と駒を置いて競ったり戦ったりするゲームは好きだけれど、コンピュータ・ゲームおたくがはまっているような、空想的な物語りをベースに、その主人公を自分が生きて冒険して怪物をやっつけてお姫さまや宝物をゲットするみたいな、オタクの人たちがはまる暇つぶしゲームのようなのには全く興味がなくて、面白いとも思わないので、あれと同じじゃないかな、と思いました。

 今はやっているようなそんなコンピュータゲームも、これまで一世を風靡してはあっという間に消えてしまったゲームソフトのように、じきに視界から消えてしまうことでしょう。手を変え品を変えてまた新たなゲームが流行はするでしょうが、基本的にそういうものは「古い」ものだと思います。「宗方姉妹」の姉が言っていたように、「古びないものが新しいもの」なのではないでしょうか。


共喰い(青山真治監督)2013

 これはレンタルビデオ屋のDVDを借りてきて観たのですが、今回観た中では一番いい、心に残る作品でした。
 原作を読んでいなかったので、映画をみたときは、これって中上健次の世界じゃないか、と思いました。「枯木灘」や「地の果て 至上の時」・・・主人公である高校生遠馬(菅田将暉)は秋幸よりも幼く、ずいぶんやわだし、おやじ・円(まどか=光石研)も秋幸のおやじほど迫力はなく、軽くてむしろお人よしにさえ見えるけれども、遠馬がおやじも買っている女を買って帰ったあと、怒りもせず、どんどんやったらええ、とけしかけ、「わしとお前でどんどこどんどこやっちゃったら、親子二人分の子ども、産むかもしれんぞ」なんて言うのですが、あの場面など、秋幸が兄妹相姦みたいなこと(だったと思う、もう何十年も前に一度読んだきりなので忘れてしまったけれど)を告白して、おそらくはそのことで倒すか倒されるか、いわば父親殺しをしなければ自分が生きられない息子の立場から、親父を倒すか自分が倒される(罰せられる)か、いずれかを望むように語ったときに、父親は、衝撃を受けもせず、怒りもせず、構わん構わんと言うように平然と受け容れ、秋幸を許容してしまう印象的な場面がありました。

 たしか四方田犬彦があの作品を論じて、その場面をとりあげ、「脱構築」みたいなことを言って、なんだか中上の小説が当時流行?のデリダ理論のおあつらえむきのサンプルみたいに論じられるのを見て、そんな理論に還元されるようなものなら中上が小説書く意味ないよな、と感じたのを記憶していますが、この映画のあの場面も、中上の小説のあの場面を連想させました。まぁ荒ぶる父と息子の関係では、多かれ少なかれこういうことになるのではあるでしょうけれど・・・

 また、そんな父親に強いアンビバレントな感情をもっている遠馬の姿を見ていると、「千年の愉楽」の路地の青年である主人公を連想します。さらに、彼の母親「仁子さん」(田中裕子)を見ていると、中上の小説中の路地の世界の主のような「オリュウノオバ」だったか、ああいう母系社会の根源に居座っているグレートマザー(太母)みたいな存在を連想します。そして、全般に主人公やその父親のような男性陣よりも、仁子さんにせよ、仁子さんが別居したあと家に入って円や遠馬と暮らす「琴子さん」(篠原友)、さらには遠馬の恋人である千種(木下美咲)でさえも、これら女性陣のほうが実は強く、したたかに、しっかりと生きているという存在感を与えるのですが、そういう女性の姿は、中上が母を描いた「鳳仙花」を連想させます。

 あまりにも中上健次の世界の雰囲気に似ているものだから、思わず原作を再確認しましたが、もちろんこの映画の原作になったのは、中上ではなく、田中慎弥の「共喰い」でした。私はほかの2,3の田中の作品を読んでこのブログに感想を書いたことがあって、「共喰い」も読んだとばかり錯覚していたのですが、実は読んでいなかったようだったので、映画をみたあとで文庫で出ていたのを読みました。

 最後の方の重要な部分で映画は原作とは違うところがありますが、それまでの、つまり同じところは、こまごましたエピソードもそこでの登場人物たちのセリフも、この映画は細部まで原作に忠実で、ほとんどそのままです。遠馬が覗き見る父親と琴子さんとのセックスの場面のあと、立ち上がった円のペニスがまだ突っ立っているのまで生真面目に再現しているのには、おぉーっ!と感心?してしまいました(笑)。

 原作にない部分で私が気付いた最も重要な点は二つ。一つはもちろん、円を見捨てて出て行った琴子さんを遠馬が見つけ出して訪ねていくシーンで、琴子さんは、遠馬に私とやりたかったんでしょ、と遠馬を抱くという場面ですが、遠馬が彼女を抱くことを躊躇するので、どうしたんね?と琴子さんが訊くと、遠馬は、琴子さんのおなかの中にいる赤ん坊のことで、おなかんなかにおる自分の弟か妹をつっつくと思うて・・・と言うのです。これを聴いた琴子さん、いかにも可笑しそうに笑って、「そんなこと心配せんでもええがね。おなかん中の子はあの人の子じゃないけぇ」(笑)。これには遠馬だけではなく、私も一本やられたぁ!という感じでしたね。逞しい女性!円という男はセックスの際に女性に暴力をふるわないと快感が得られないDV男で、仁子さんから、腹の中に赤ん坊がおる間だけは殴らない、と聴いていた琴子さんは、防衛のために赤ん坊を宿していたというのでした。女は強し・・・^^; 

   もう一つ私が気づいた違いは、この話が現在進行形で(遠馬を語り手として)語られるメインの部分は昭和63年後半から64年つまり平成に切り替わった年のできごとなのです。小説では冒頭にその年月が明記されていますが、映画の中でもラジオの放送などでそのことがはっきりとわかります。そして、たしか原作にはなかったけれど、映画では仁子さんのセリフの中に、「あの人、血ぃ吐いたてね」という場面があります。
 
 ちょっと唐突だったからか、遠馬が、え?というようにいぶかると、「新聞に毎日載っとろうが」というように答えて、それと名指すことなく、あぁ・・・とすぐその場で何が言われているのかが分かるような場面になっています。
 「あの人」をめぐる会話は、ラスト近くで、円に義手でとどめをさして殺し、刑務所に入っている仁子さんを遠馬が面会に行った面会室で交わされます。仁子さんは続いて「判決まで生きとってほしいと思うとるんじゃが」というようなことを言います。

 なして?と訊く遠馬に、仁子さんは、「あの人」が亡くなったら恩赦で減刑があるかもしれんというようなことを言い、続けて「あの人が始めた戦争でこうなったんじゃけぇ、それくらいはしてもろうてもええじゃろう・・・」と言います。戦災で右手を焼かれて切断し、手首から先がなくなったことを言っているわけです。「あの人より先には死にとうない、と思うてきたんよ。あの人より先には逝かんぞ、と思うてきた・・・」と繰り返しつぶやくのです。

 私は昔、吉本さんの本を愛読していたころ、彼の誰かとの対談記録の中だったかと思いますが、「あの人より先には死にたくない、ってのはあるでしょ」みたいなことを言っていたのを記憶しています。それを読んだときは、あぁ、そういうものなのかな、と思ったのですが、正直のところ純戦後生まれ(といっても敗戦日から幾日かしか隔たっていないのですが・・・笑)の自分としては、実感的にはよく分からなかった。でも、戦争で身内を失ったり、自分が傷ついたりして戦後を生き延びて来たごくふつうの人たち、ひとたび戦争となれば何の特権もなく一兵卒として駆り出され、あるいは銃後を守れとすべてをお国のために差し出し、犠牲にし、何もかも奪われ、心身ともに深く傷を負いながら命ながらえた、圧倒的多数の私たちの親や祖父母の世代の心情の中にはそういうものがあったのかもしれないな、と思います。

 以上の二つが私にも見つけられた原作になくてこの映画にだけある重要な部分です。二つとも、付け加えられて決して蛇足にならず、むしろいっそう原作の世界を深め、強めた変更だと思います。

 父と息子の血のつながりをベースにした葛藤とその二人に関わる女たちとのできごとを思春期の男子高校生の側から彼を語り手に描いているので、原作もその兆候はあったけれど、さらに一層、性的なものがエピソードの隅々まで溢れています。小説でも映画でも冒頭に彼らの住む地域(その名も「川辺」)を流れる川、円に言わせれば女の「割れ目」のような川が置かれ、ラストにもその川が水を湛え、高速度でとらえられる映像は大きな幅での時の流れを感じさせ、いまにもその「割れ目」からあふれ出そうな、水面の震える川の表情がとらえられています。それは円の言う通り、そこにすべてが宿り、そこからすべてが生まれ流れ出してくる性の根源のようにみえます。これはまさに性を描いた作品です。

 近視眼的にみれば目に見える男女の交合やそれに近い男女のくっついたり、離れたりという意味での狭い「性」だし、それは四六時中やりたいやりたいと「そのことばかり考えちょる」と自分でも口にするほど自分の肉体の欲望を持て余し気味の遠馬の目線でこの作品が男女の直接の肉体的な交わりやそうした性的渇望の色合いに埋め尽くされているようにさえ感じられます。しかし、この作品はそういう目に見える性だけではなく、父と子、母と子の時間軸上の性を正面から描いていて、一対の夫婦の性がどう次世代に引き継がれていくか、いかないか、そこにどういう葛藤があり、どういう親和があり、どんな不協和音を奏でるか、そこのところが丹念に描かれる大きな器になっています。
 
 仁子さんを演じた田中裕子の演技が光る作品でした。


浮草(小津安二郎監督) 1959

    旅まわりの芸人一座が船に乗って、どうも伊勢湾の小さな漁村みたいなところへやってくる。以前にも立ち寄っているところらしく、座長の駒十郎(二代目中村鴈治郎)以下古い団員にはなじみの村のようだけれど、実は駒十郎にはいま女房として一緒に旅をしているすみ子(京マチ子)の知らない古い愛人で一膳飯屋で生計を立てているお芳(杉村春子)がいて、彼をまだ父親だとは知らずに、おじさんと呼んでいる息子までもうけていたのだ。

 この村へ長いブランクの後に帰ってきて興行を打つのだが、客が集まらず、団員の士気も上がらない。しかし駒十郎は公演の傍ら、いそいそとお芳のところへ出掛け、いまは成長して郵便局に勤める爽やかな青年になった息子清(川口浩)と釣りに出かけたり将棋をしたりしてくつろぐのを何よりの楽しみにしていた。清は郵便局員をしているが、勉強を続けて上の学校をめざしたいと考えて努力する青年だった。

 ところがある時お芳のところへ行くのをすみ子がみとがめ、事情を知る古参の団員に問い詰めたすみ子はお芳の店へ押しかけて駒十郎を連れ帰ろうとしてお芳とぶつかり、また清にも遭遇し、自分が長年裏切られてきたことを想い知らされ、怒りが収まらない。

 激しい雨の中の帰り道、駒十郎とすみ子は路地を隔てて向かい合い、互いに激しく非難しあう。 この場面はだいたい静謐な画面に終始する小津の作品の中では珍しく、非常に激しい、劇的な場面で、古風な男尊女卑的な立場の駒十郎が男の身勝手を地でいくように、上から目線で怒鳴りたて、叱責して押さえつけようとするのに対して、すみ子が堂々と対等に駒十郎とわたりあう強い姿が、とても美しく、カッコイイ。

 何十年もの間、裏切られていたことを想い知らされ、腹の虫がおさまらないすみ子は、可愛がっている若くて女ざかりの魅力芬々たる団員加代(若尾文子)に、理由を告げずに、清を誘惑してくれと頼む。はじめはいやがっていた加代だが、ちょっと面白いと思ったか引き受け、清に近づいて誘惑する。

 清はすみ子が予想したとおり、たちまち加代の魅力の虜になり、逢う瀬を重ね、もう上の学校へいって勉強を続ける夢も捨てて、加代と一緒になることしか考えられなくなっていく。
 ところがここで、もともとはすみ子の企みの手伝いで清の気をひいてみればよかったはずの加代が、事情も知らず純情一途に気持ちをぶつけてくる清にほだされ、自分も清に想いを寄せるようになる。それで学業を捨てて一緒になりたいと迫る清に本当のことを告げて学業を続けるよう、自分とはもうつきあわないように言うが、清は事情などもうどうでもよく、聴く耳を持たない。
 
 加代が清に近づいたことを知った駒十郎は怒り狂って加代を責め、それがすみ子の差し金であったと聞くやすみ子を呼びつけ、自分のことは棚に上げて激しく殴打し、出ていけと罵る。また加代にももう清に会うことを禁じる。すみ子は最後には詫びて仲直りしようと言うが、駒十郎は怒りがおさまらず、答えようともしないで飛び出していく。

 ところがこの駒十郎と清が、加代のことで激しく対立する。駒十郎は清に、加代とは会うな、と言うが、清は聴く耳を持たない。お芳は駒十郎が実の父親だと清に告げるが、清はそんな事だろうと思っていたよ、と態度を変えず、駒十郎を拒否して出ていく。

 そのころ一座は客の入りも減って興行が成り立たなくなり、借金をかかえて解散するしかなくなってしまう。一座の団員にわずかなものを渡して解散し、みなバラバラになっていく。駒十郎はお芳のところで清と3人で楽しく余生を送ることを夢見ていたが、清に厳しく拒否されてそれも叶わず、一座も解散となって途方に暮れるが、加代に清を託して、自分はこれまでどおり旅に出る、と言って一人駅に向かう。

 駒十郎が駅へいくと、そこには列車の到着を待つすみ子が一人で待っている。離れていたところにいたすみ子が駒十郎のそばへきて、駒十郎のくわえたばこに火をつけてやり、自分も一本もらって吸う。ふたりはともに車中の人となり、4人掛けの隣同士の席に座って旅の人となる。

 古い映画だし、行って見れば古臭い人情噺だけれど、これが見せるからやっぱり小津はすごい。といっても「東京物語」や「麦秋」なんかの小津とはずいぶん違うようです。それらのいわゆる名作の評価が高い、小津らしい作品とされているものが、静かな緊張感に満ちた映像なのに対して、この作品はずいぶん動的な要素にあふれていて、もし人々が小津らしい作品というのに小津の映画作りの文法みたいなものがあるのだとすれば、それを破ってかなり自由奔放に撮った映画のように感じられるところがあります。もちろん映画史的な知識も小津の作品の前後関係とかもいちいち調べたこともないので、このカラー作品が小津の作品史のどこにどう位置づけられるかとか、それが例外なのかそうでないのかとか、そんなことは一向に知りませんし、関心もありませんが・・・

 とにかく京マチ子と若尾文子がほんとに綺麗でチャーミングでした(笑)。私の感想としては、それを言えばもういいようなものですが、作品としてはやっぱり中村鴈治郎の駒十郎が要で、あの細いもともとツリ目の目をめいっぱいつり上げて「このアホ!」と怒鳴り散らすあの石頭の旧弊な女性差別的DVおやじ(笑)の強烈な存在感がこの映画の中心です。ほかの役者はみなこの中心のまわりをぐるぐる回っていて、時折軸に触れては跳ね返されたりおさえつけられたり反発して場外へ飛んで行ったり、という具合。なかなかうまくこの中心軸に寄り添って一緒に回っていくなんてできないのですが、結局のところ古女房の京マチ子が寄り添ってまた一座の再起を夢見て旅回りに出ていくわけです。

 この中心軸が反発を買おうがめちゃくちゃ身勝手なオヤジであろうが、あれだけの存在感をもつからこそ、激雨の中、路地を挟んで対峙しながら思いっきり怒鳴り合う京マチ子の強い女っぷりがあんなに美しく、カッコ良くも見えるのでしょう。また彼に抑えこまれる果敢無い存在だからこそ加代の思わぬ展開による清への想いが一層可憐に思われ、清を誘惑する彼女も、本気で清を愛するようになる彼女も、ともに素晴らしく魅力的な女性にみせてくれるのでしょう。

 昔の愛人お芳の杉村春子の芯の通った堂々たる姿勢も、純情一途の青年を演じた若い川口浩も、おもな古手の団員たちを演じた役者たちも、みな実に味のある役者でこの作品の世界を支えています。カメラは宮川一夫。よく言われる小津のローアングルとか、対話する二人を交互にとらえる切り替えの特色だとか、そういうのはこの作品では見られないように思います。そのかわり?といっては変ですが、雨の中の激しい口論の場面とか、駒十郎と清がまだ親子と明かさないときに、お芳の家で将棋をしたり、一緒に釣りにいったりして見せる幸せな親子の情景とか、京マチ子と若尾文子が並んで化粧などしながらくつろいで話しているときのような、ぞくぞくするように美しい2人の女性の姿とか、列車に二人並んで腰かけ、またいっちょやるか、と語り合う二人の表情とか、そういうところに名カメラマンぶりが発揮されていたんじゃないかと思います。技術的なことはわからなくても、見ていてぐっと引き込まれたり、しみじみと胸にしみこんでくるものがあったり、感情が激しくゆさぶられる映像というのは誰にでもわかるものですから。


舟を編む(石井裕也監督)2013

 比較的新しい作品で、三浦しをんの原作から評判になった作品ではなかったかと思います。
 辞書編纂の話で、よくこういう地味な世界から、一般の人にも面白いと思えるような、あんな多様なエピソードを拾ってこれたものだな、とまず(原作にか映画にかわからないけど)感心しました。

 辞書づくりを指導してきた中心人物の松本教授(加藤剛)は、たしかにそういう学者らしいキャラだけれど、その片腕だった荒木(小林薫)の跡を継いで辞書編集部へ配属された主人公馬締光也(松田龍平)は常人離れした対人関係不適応症みたいな青年で、原作でもこんなふうに誇張されたキャラなんでしょうけれど、マンガが原作?と思ったほどでした。いや「三浦しをん」って作家を知らない(スミマセン)ので、ひょっとしたらマンガ家かな・・^^; 

   ここまでマンガ的にする必要があるの?と思うけれど、そういえば同じ監督の「川の底からこんにちは」でも、そういうところがありましたね。こういうマンガ的に誇張されたキャラを楽しむのがいまふうなのかもしれません。主人公の名やその彼女の名前もマンガ的だし、馬締くんが書くラブレターも毛筆で達筆らしいし・・・すべてはマンガベースなんですね。いまは小説も映画もマンガが原作か、そうでなくてもマンガベースの作品世界が描けないと売れないのかもしれません。

 馬締(マジメ)くんと対照的なキャラに設定された営業向きの西岡にオダギリジョー、彼らの先輩の辞書編集部員で馬締くんに「大渡海」編纂作業を委ねて去る荒木に小林薫など芸達者な支柱を立て、そのきわめつけは、馬締くんがひとめぼれする下宿のおばさんの姪・林香具矢(宮崎あおい)で、彼女はほんとうに素晴らしかった。その「ふつう」の女の子の卓抜な演技が、確実に馬締くんの誇張された演技を対照的に引き立たせて、その組み合わせを面白いものにしていました。たしかにどちらかが中途半端だとあの面白さはなかったかもしれませんね。

 マンガ的な誇張された世界ではありましたが、辞書編纂という仕事の世界がどういうものか、一冊の辞書をつくるのにどれだけの苦労があるものなのか、そういうのを通して、なにか目的を共有して一緒に一歩一歩進んでいくみたいな感覚、それこそ松本先生言うように、大海に乗り出す一層の舟に乗り合わせた運命共同体みたいな人間のいとなみの感動的な姿やある種のせつなさをちゃんと伝えてくれるような映画でした。


新・平家物語(溝口健二監督) 1955

    貴族の支配する世で、権力あらそいに明け暮れる貴族たちのいいように使われる番犬にすぎなかった武士階級が、次第に実力を蓄え、やがて来る武士の時代の主役として躍り出る、その境目の時代に現れて新しい時代の礎となった平清盛の若き日を描く作品で、清盛を演じたのが市川雷蔵。貴公子顔の雷蔵が荒々しい田舎侍らしく太い眉をつけて演じているのが可笑しかった。

 彼は伊勢平氏の棟梁で上皇に忠実な生真面目な武士・平忠盛の嫡子で、その正室となるのが忠盛に肩入れして藤原一門から排斥される貧乏貴族藤原時信の娘時子(久我美子)。清盛の母は、もともと白河上皇の寵愛を受けた白拍子で、比叡山の悪僧とも交わるような女で、妊娠したことを知った上皇が、いったん公家の家に預からせたうえで、忠盛の妻にさせた者で、自ら身分の高い公家の出のごとく武士階級を蔑んで不平不満を言い立ててはやがて実家へ帰ってしまう泰子(木暮実千代)。その折、孕んでいた子というのが清盛で、成人した清盛は自分が後白河法皇の子であるという噂を聞き、自分の誰の子かと苦悩する。

 乱世の世で上皇と天皇が対立し、比叡山の坊主たちは僧兵として武装し、神輿を担いで朝廷に強訴し、武士階級を公家に飼われる番犬として蔑むありさまで。たびたび公家と武士、坊主たちと武士たちの間でトラブルが発生し、そのたびに社会階級として下位に甘んじている武士たちが屈辱を味わう。

 自分の出生の秘密を聴き、上皇の子であると知った清盛は、抑圧された武士の分に従いなおも上皇に忠実な父に疑問をもち、何かトラブルがあれば一身に責めを負う父を助け、その暗殺の企みを防ぐが、父はそんな中で扇に清盛が白河上皇の子だと示唆する言葉を残して自害する。清盛は公家や坊主たちに屈せず敢然と立ち向かい、神輿をかついで朝廷に強訴に及ぶ僧兵らを迎え撃って追い返す。

 強気の清盛に御所の中にも彼の味方をするものが出始めた。清盛は父の墓参を済ませ、帰途、野外で公家たちがの遊びをするのを見る。泰子が白拍子にもどって楽し気に遊んでいる。母は元の水に戻った、と清盛は思う。そんな公家の宴を遠目に見ながら、清盛は思う。「公家たちは踊っていよ。明日は俺たちのものだ」

 武士がまだ公家に頭があがらず、命がけでいいように使われ、徹底的に差別され見下されており、坊主にさえ好き勝手されて頭を下げているような姿、というのが時代劇でもちょっと珍しく、面白かった。
 ただ時代劇としては、鎧甲冑を身に着けても、戦闘場面はなくて、坊主とのちょっとした小競り合い程度なので、物足りないといえば物足りない。焦点は上皇の息子かもしれないし、母が交わっていた比叡山の名も知れぬどこぞの悪僧かもしれず、そんな母から生まれた息子清盛の苦悩にあり、その因縁をひきずった、清盛ら平氏一族と公家や坊主との争いが、そのまま貴族階級や旧勢力を代表するもうひとつの精力である比叡山の坊主どもと清盛らが率いる武士階級の争いを象徴し、その意味を拡張されて描かれているわけで、そこはうまくできています。

 清盛に賭ける商人伴卜(ばんぼく=進藤英太郎)のようにちょっと面白い人物を配したり、当時の市場の賑わいを再現しているところとか、ほんとの比叡山の山道のようなところを松明をもった大勢の僧兵たちが下山していうところとか、シーンとしてなかなか面白いところもありました。久我美子が貧しい武士の家計をやりくりするために糸を染めたり機を織ったりするところも面白く、糸の染め方を清盛に説明するようなシーンもありました。これも撮影は宮川一夫、脚本には依田義賢氏が加わっています。

 比較的近年テレビの大河ドラマでも清盛をやったと思いますが、あのドラマでも清盛始め武士たちはひどく誇りまみれ、泥まみれの低い身分の被支配者、被差別階級という感じを出していました。いつもの小ぎれいな時代劇の小ぎれいな主役たちとはずいぶん違っていたのを記憶しています。この映画は古いけれども、いくぶんかそういう武士のまだ勃興する前の姿をとらえて、垣間見せてくれます。

 だから、そういうまだ権力をもたない力の弱い、公家たちに支配され見下される、薄汚い武士を、市川雷蔵が演じてふさわしいか、というと疑問なのですが・・・


楊貴妃
(溝口健二監督)1955


   京マチ子演じる楊貴妃が森雅之の玄宗皇帝と純愛で結ばれながら、楊貴妃を朝廷に入れることで権力を得た楊一族の好き放題が人心の離反を招き、もともとは台所ですすに汚れていた貴妃を見出して朝廷へ送り込んだ野心家安禄山が、身の処遇に不満を懐き、北方の将軍たちを糾合して君側の奸を除かんと楊一族に反旗を翻し、長安に迫り、皇帝に仕える楊一族の高官たちや後宮を束ねる三姉妹などを処刑し、楊貴妃に迫った。貴妃は靴を脱ぎ、身を飾るアクセサリーの類をはずし、木の枝に吊るされた綱の代わりに白いショールを渡して、処刑される。

 史実にもとづいて長恨歌をはじめ中国でずっと言い伝えられてきた楊貴妃の話を日本の役者で演じた映画だけれど、さて森雅之の玄宗はともかく、楊貴妃が京マチ子というのは・・・。京マチ子はつい先日みた小津の「浮草」など見ると本当に綺麗な女優さんだし、これまでにも着物姿の時代劇で登場するのを何度も見て来て綺麗な人だと思っているけれど、必ずしも日本風でも中華風でもない美人で・・というよりいわゆる美人というのとは違う個性的な顔立ちではないかなという気がして、長恨歌に歌われたような柳腰の美女・楊貴妃のイメージ(なんてものがはっきりあるわけじゃないけれど)とはかけはなれている、という印象をぬぐえませんでした。

 前の妃への想いの強い皇帝が野心家の楊一族や安禄山の勧める女に見向きもせず、最後に送り込んだ楊貴妃にも当初は見向きせずに退けたのを、楊貴妃がとどまって王が昼間の梅林で自ら作曲して演奏した曲を奏でてみせることで対話のきっかけをつかみ、皇帝の淋しい心をとらえて、そばにおるようにと命じ、翌朝の湯浴みの用意をさせます。翌朝湯浴みする楊貴妃の姿があり、バスタオルに身を包んだ楊貴妃が湯を出て向こうへいく後姿をカメラがとらえていますが、そのバスタオルからはみでた脚や肩から首筋にかけてなど、彼女の素肌は楊貴妃なら透き通るように白いと思うけど(笑)小麦色にやけたような健康食そのもので、ふくらはぎは固くしっかり太くて床をしっかり踏みしめて歩く女の脚だし、背も肩も肉付きがよくて逞しく、とても嫋嫋たり、なんてもんじゃありません。美しいけれど、それは近代的な健康そのものの美しさ。顔立ちも近代的な顔立ちの美女ですよね。だからどうしても楊貴妃という感じがしなかった、残念ながら。

 玄宗皇帝が作曲もして自分で楽器を奏で、楊貴妃もそれに応じて奏でる、二人してそういう楽しい時を過ごす、という場の雰囲気は悪くなかったと思います。ただ、長恨歌に歌われたように、玄宗が彼女に入れ込み過ぎて昼間で起きてこなかったり、政務をおろそかにして、国のまつりごとが乱れたため、楊貴妃に憾みが集中した、というのではなくて、あくまでも悪いのは君側の奸たる貴妃以外の、権力がほしいために貴妃を朝廷に送り込んだ楊一族であって、楊貴妃はその巻き添えを食った、という設定です。ここでは玄宗はあまり女色に溺れた皇帝というふうにはなっていなくて、浮世離れした詩人で亡くなった妃への想いが拭い去れないロマンチスト。楊貴妃との新たな関係も、ロマンチストである文人皇帝として楊貴妃に純粋な愛情を注いできたが、別にそれで楊貴妃に政治に口出しさせたわけでもないし、楊一族の登用も楊貴妃に頼まれて縁故採用したわけでもなく、適材適所で自分が判断したんだ、と。なにも楊貴妃のせいで政務をおろそかにしたことなどないぞ、というのですね。そうすると悪いのは自分の栄達のために楊貴妃を利用した楊一族の高官たちであり、また野心を持って反乱をおこした安禄山だ、ということになります。

 そのへんは、ほんとうは玄宗が楊貴妃に文字通り入れ込んでしまって、ずるずると政務をおろそかにしてしまい、楊貴妃に溺れていく、そのさまをちゃんと描いてくれたほうが人間味があって面白かったのにな、と思ったりもしました。

 ほっとするようないいシーンがひとつあって、それは庶民の出であった貴妃が皇帝を誘って祭りの夜の街へお忍びで出かける場面です。宮中の女たちに出会うと隠れて避け、被りものを店の者にかぶせて与え、玄宗が食べたこともなかった串刺しを手にもって食べてうまいといい、酒をいささか強引に勧める男たちにも貴妃が祭りの無礼講だからお叱りにならないで、と皇帝も飲み、人々の輪の中に入って楊貴妃が舞い、皇帝が奏でる、とてもいいシーンです。祭りのあと、場外の地面に楊貴妃の膝枕で横たわった玄宗が、ほんとうに楽しかったと言い、今夜はただの平民の李氏に返った、と言えば、楊貴妃も、私もただの玉関(楊貴妃のもとの名)です、と応じ茶を二人でうまそうに飲みます。

 ラストは楊貴妃が処刑されてから時を経てさらに置いた玄宗が死ぬ前に、楊貴妃に語り掛けるモノローグ。「おまえが死んであとにに何が残った?安禄山もじきに滅んだ。皇帝の位はすでに皇太子に奪われていた。皇太子も安禄山と変わるところはないのだ」と。

 玄宗は倒れ、亡くなります。楊貴妃の声がきこえます。「陛下、お迎えに参りました。二人だけの世界へ・・・二人だけの永劫の世界へ・・・」最後は玄宗と楊貴妃の笑い声。

 なんてロマンチックな作品なのでしょう!ひどい作品だけど(笑)私はこういうの、嫌いじゃありません。
 

saysei at 23:32|PermalinkComments(0)
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