2018年11月
2018年11月30日
金子薫著『双子は驢馬に跨って』を読む
ちょっと風変わりな面白い小説を読みました。
金子薫というこれまで読んだことが(たぶん)ない作家の『双子は驢馬に跨って』。若い作家のようですから、日本の現代小説もずいぶん「遠くまできたんだなぁ」という感じで読みおえました。言い換えれば、なんだかとんでもないところまで来ちゃったなぁ、みたいな(笑)。
なにしろのっけからこうですからね。
目が醒めてから再び眠りに就くまでのあいだ、今日も「君子危うきに近寄らず」は辛抱強く待ち続けていた。相も変わらず少年と少女、それから驢馬の到着を待っている。いつかやって来るという確信も時には揺らぎ、所詮は自分の思い込みに過ぎないのではないかと悩むこともあった。しかし、みつるもことみも少しずつではあるが間違いなく近づいてきており、この部屋に光が射し込むのもそう遠くないはずだった。
この「君子危うきに近寄らず」が主人公なんですね。ある夜森で気を失っているところを発見されて、ペンションで働く男たちにこの部屋に運びこまれたが、自分が何者なのか、どこから来たのか、名前さえわからない記憶喪失をおこしているらしい。自分の名を「君子危うきに近寄らず」としたのは、ある日突然、おそらくは父だろうと思われる男の声が脳裡に蘇ったからだとか。「いいか、君子危うきに近寄らず、だよ。これだけは覚えておきなさい」
それからなぜかずっと窓には外から板が打ちつけられているような部屋に閉じ込められて、「食事が運び込まれるとき以外には日の光を垣間見るのもままならない」毎日で、時計も没収されているから時の経過も定かではない。
この部屋に或る時突然現れた少年と彼は同居生活を送ることになります。彼は自分が持っていた唯一の私物である一枚の写真、体操服を着た子供たちの写真に少年が自分をみつけたのをきっかけに、この少年が息子だと認めることとなり、少年に「君子」という名前を与えたのです。
二人はなぜか、驢馬に乗った双子、みつるとことみが自分たちを助けにやってくる、と信じていて、その二人がやってくるための地図を天井に二人協力して描くことに没頭します。
一方この父子の話と交互に、彼らを助けにいく運命を担うことになる双子が、いろいろ不思議なことがおきるなかでE夫妻かられ生まれ、「みつる」と「ことみ」と名付けられ、すこやかに成長していきます。なぜか双子が旅に出ることは当然視されていて、やがて双子は「君子危うきに近寄らず」と「君子」を助けにいく旅の道連れとなる驢馬ナカタニと宿命の出会いを果たします。長い時間の共生と訓練の結果、ナカタニと双子は信頼しあえる関係を結び、砂漠を越えて最初はどこにいると知れない閉じ込められた二人を救出するために旅をします。どうやら「君子危うきに近寄らず」と「君子」が描く地図は実際に双子たちが彼らに近づくための現実の地図になっているようで、「君子危うきに近寄らず」たちは細部まで描き込んでいきます。
けれども、その地図は管理人の使用人たちであるペンションの男たちによって黒ペンキで塗りつぶされてしまい、「君子危うきに近寄らず」たちは挫折と落胆を余儀なくされます。
他方、双子たちもすんなりとこの二人の救出に向かうのではなく、なぜかほうぼうで長々と寄り道をし、快適なU夫妻のところで庭仕事をしたりして1カ月もの長逗留をしさえします。
「君子危うきに近寄らず」と「君子」は碁の勝負に時を過ごしたり、そのうちには消された壁画の表面をスプーンや何かで削って地図を復原するようなことを初めて、その作業に没頭していったりします。
そんなふうに一方は旅をつづけ、一方は相変わらず部屋にとじこめられたまま自分たちの作業に没頭し、やがて本当に双子たちは「君子危うきに近寄らず」たちが勾留されているペンションにたどりつきます。しかし、見張っている男たちの妨害で容易に中へ入ることができません。男たちは、自分たちはオーナーの指示に従っているだけだ、と言うので、双子はそれならオーナーに会わせてほしい、と言いますが拒まれ、あれこれやりあっているうちに、オーナーの住んでいるところだけは教えてやろうということになり、また双子はそのオーナーを探して旅に出ていくのです。
まぁ、こんなふうに書いても何が何やらさっぱりでしょう(笑)。でも一行一行の言葉になにも難しいところはありません。すべて平易な話体(話すように書く文体)で書かれていて、双子の話も「君子危うきに近寄らず」と「君子」の話も、個々のできごとやなりゆきはすべて明晰です。
ただ、それはそこに書かれた言葉をすなおにただ追いかけていく限りにおいて、です。そうではなくて、いったんそこに書かれた言葉から目を離して、「なんでやねん?」と疑問を発したりすると、もうとめどなく不可解で何が何やらさっぱり、という作品になってしまいます。
たとえば、主人公らしい「君子危うきに近寄らず」と「君子」はそもそもなぜそこにいるのか。とじこめられている、というけれど、常に見張りでもついているのか。ついているとすれば、いったいそいつらは何者なのか。何のために彼らを閉じ込めているのか。「君子」はなぜそこへやってきたのか、或いはやってくることができたのか。彼らはなぜ逃げ出そうとしないのか。彼らはなぜ双子が驢馬に跨って自分たちを助けに来ると(時には動揺を見せながらも)なぜ信じているのか。だいいちその双子のことをどうして知ったのか。双子のほうも、なぜどこの誰とも知らない二人をなぜ助けにいかなくてはならないと思っているのか。助けにいくならいくで、さっさと行けばいいのに、なぜさんざん寄り道して、一カ月もよそでのんびり庭仕事の手伝いなどしているのはどういう了見なのか。どこの誰かもわからないのに、なぜ双子は救出すべき二人の居場所にたどり着けるのか。なぜ親子が描く地図が、会ったこともない離れたところにいる双子に自明のもののようにたどれるのか。双子が、それほど苦労してペンションにたどりつきながら、入ることを断られ、オーナーに会わせてももらえず、ただその住まいを教えてもらうだけで、またそこから旅に出たりするのか。・・・・
いや、数え上げればまだまだ無数の「なぜ」が湧き出てくるでしょう。この小説がそういう疑問に答えようという気がないことは明らかで、ということはつまり、この作品を読むのに、そういう疑問を発することが無効で、無意味なのでしょう。ニーチェだったか、疑問というのは自分がなにかを問うていると思っているけれども、ほんとうは自分が使っている言葉の文法がそういう問い方を強いているので、いわば文法が問わせているにすぎないんだ、というふうなことを書いていたようにおぼろげながら記憶しています。
それで言えば、この小説はふだん私たちが色んな「なぜ」の問いを問うているもとにある文法を使っていない(笑)。私たちが上のような疑問を発せずに済むような、これまで読んできた多くの小説が基礎にしている文法が一般の「小説の文法」だとすれば、この小説はそういう「小説の文法」を使っていない、あるいはそれを無視し、逸脱して、その都度語られる言葉、「話すように書かれた」その文章が生み出していく文法に従ってのみ書かれている、とでもいうほかはないでしょう。
けれども、それは決して解読不能の暗号のような文章でも何でもありません。ごく普通の「話すように書かれた」物語であり、どこか既視感のある文体なのです。
私はこの作品を読んでいて、どこかでこの感じは味わったことがあるぞ、と思いながら、それが何だったかはなかなか思い出せなかったのですが、やがてなぁんだ、これはゲームじゃないか、と思い当たりました。
私は電子化されたゲームを使うゲーム世代ではないので、詳しくはないのですが、息子たちが幼いころに、マリオブラザーズあたりから始まるゲームに時々つきあい、ドラクエあたりまではそばで傍観する程度の体験はあります。大ヒットしたドラクエをはじめ、だんだん複雑化していったゲームは、たいてい主人公がなにかよく分からないけれども使命を帯びた旅に出て、様々な困難や敵と遭遇しながら、同時にそれらを克服していくための小道具や武器を、偶然のように行き着いたところで手に入れ、それを使って困難をクリアしながら旅をつづけて、だんだん経験を積んで強くなったり賢くなったりしながらお宝のほうへ近づいていく、みたいなストーリーが多かったような気がします。
おそらくああいうゲームを創るゲームメーカーは、過去の様々な典型的な物語の類型を研究し、ウラジミール・プロップが昔話の形態学で抽出したような「構造」を意識的に使って物語を創り出しているのではないかと思います。いまではそうした物語の「形態学」の膨大な知見を学習したAIがかなりの水準の物語を「創作」できるようになっているのではないでしょうか。
私が既視感をおぼえたのは、この作品の語りの文体が、べつだん書かれた文章として私はゲームのオリジナルストーリーなんて読んだことはないのですが、物語性をもつ電子ゲームそのものの文体にとてもよく似ていると感じていたのです。
たしかにゲームの世界のひとつひとつのできごとに、なぜ?と問うことは無意味でしょう。それはそういう設定なのであって、かくかく設定された登場人物が一定の約束事(ゲームのルール)に従って、いくつかのやはり設定されたオルターナティブをゲームをする人間が選択することで先行きの異なる展開をたどっていく、ただその過程を追って楽しむこと自体が目的であって、なぜ彼はわかっていたかのようにそれを受け取るのか、なぜ彼はそこでだれそれと出会うのか、なぜ彼は旅をするのか、等などと問うことに意味はないでしょう。
それはそう設定されているから、そこにあるから、それがルールだから、と答えるとすればゲームの世界の外部へ出ていくほかはなくなってしまうので、ゲームの世界にとどまるとすれば、そのゲームを操作し、主人公に寄り添い、ゲームを生きていくほかはありません。つまりゲームを記述する言葉自体がその都度それ自身の文法を生み出していく。それが楽しめないなら、この作品を楽しむことはできないでしょう。
けれども、もう一つ重要なことは、この作品は、そういうゲームの言語、ゲームの物語性を、ことごとく壊していく、あるいは肩透かしをくわせ、無意味化していくというもう一つの特徴を備えていることです。だいたいゲームのように宝物にたどりついて終わり、全部敵を倒してすっきりカタルシスを感じさせる、というお決まりの結末がありません。どうやら双子はまたオーナー探しの旅に出たようですし、「君子危うきに近寄らず」と「君子」はきっとひきつづきこの部屋にとじこめられたまま、双子の到来を希望と不安の間を行ったり来たりしながら待つことになるのでしょう。およそそんなゲームというのはないでしょう。
目的の場所に向けて、できることなら最短距離をとろうとするゲームのヒーローとちがって、救出という明確な目的を持ちながら双子はいやというほどのんびりと寄り道をし、時間を浪費していきます。おまけにその経験を血肉化して武器にしていくどこから、彼らは「君子危うきに近寄らず」と同様にだんだん記憶を失い、みんな忘れてしまいそうです。
これをゲームの脱構築と言うなら、この小説はまさにそういうものではないかと思います。
そんなふうに考えると、これは例えば現代の日本で小説を書いていくプロセスそのものを作品化した寓話的な作品のようにも読むことができるかもしれません。
壁の内側に閉じ込められて、いつか創造の神様が降りてきてくれるんじゃないか、とかすかな希望を待ち、いやいやそんなものは来やしない、という絶望にもかられつつ、来る日も来る日もほとんど徒労のような虚しい作業を繰り返し、しかも「君子危うきに近寄らず」たちが苦労して描いた地図を真っ黒に塗りつぶされてしまうように、これまで書いてきたもの一切がくしゃくしゃと原稿用紙を丸めてポイされるように無に帰する、ようやく目的地らしきものに着いたと思えばもう次の旅が始まっている・・・それは作家が物語を紡いでいく内部のプロセスそのままの風景のようにも思えてきます。
どうせ正解なんてないので、読む人それぞれに楽しめばいいでしょうし、そういう楽しみ方なら十分可能な作品だろうと思います。
金子薫というこれまで読んだことが(たぶん)ない作家の『双子は驢馬に跨って』。若い作家のようですから、日本の現代小説もずいぶん「遠くまできたんだなぁ」という感じで読みおえました。言い換えれば、なんだかとんでもないところまで来ちゃったなぁ、みたいな(笑)。
なにしろのっけからこうですからね。
目が醒めてから再び眠りに就くまでのあいだ、今日も「君子危うきに近寄らず」は辛抱強く待ち続けていた。相も変わらず少年と少女、それから驢馬の到着を待っている。いつかやって来るという確信も時には揺らぎ、所詮は自分の思い込みに過ぎないのではないかと悩むこともあった。しかし、みつるもことみも少しずつではあるが間違いなく近づいてきており、この部屋に光が射し込むのもそう遠くないはずだった。
この「君子危うきに近寄らず」が主人公なんですね。ある夜森で気を失っているところを発見されて、ペンションで働く男たちにこの部屋に運びこまれたが、自分が何者なのか、どこから来たのか、名前さえわからない記憶喪失をおこしているらしい。自分の名を「君子危うきに近寄らず」としたのは、ある日突然、おそらくは父だろうと思われる男の声が脳裡に蘇ったからだとか。「いいか、君子危うきに近寄らず、だよ。これだけは覚えておきなさい」
それからなぜかずっと窓には外から板が打ちつけられているような部屋に閉じ込められて、「食事が運び込まれるとき以外には日の光を垣間見るのもままならない」毎日で、時計も没収されているから時の経過も定かではない。
この部屋に或る時突然現れた少年と彼は同居生活を送ることになります。彼は自分が持っていた唯一の私物である一枚の写真、体操服を着た子供たちの写真に少年が自分をみつけたのをきっかけに、この少年が息子だと認めることとなり、少年に「君子」という名前を与えたのです。
二人はなぜか、驢馬に乗った双子、みつるとことみが自分たちを助けにやってくる、と信じていて、その二人がやってくるための地図を天井に二人協力して描くことに没頭します。
一方この父子の話と交互に、彼らを助けにいく運命を担うことになる双子が、いろいろ不思議なことがおきるなかでE夫妻かられ生まれ、「みつる」と「ことみ」と名付けられ、すこやかに成長していきます。なぜか双子が旅に出ることは当然視されていて、やがて双子は「君子危うきに近寄らず」と「君子」を助けにいく旅の道連れとなる驢馬ナカタニと宿命の出会いを果たします。長い時間の共生と訓練の結果、ナカタニと双子は信頼しあえる関係を結び、砂漠を越えて最初はどこにいると知れない閉じ込められた二人を救出するために旅をします。どうやら「君子危うきに近寄らず」と「君子」が描く地図は実際に双子たちが彼らに近づくための現実の地図になっているようで、「君子危うきに近寄らず」たちは細部まで描き込んでいきます。
けれども、その地図は管理人の使用人たちであるペンションの男たちによって黒ペンキで塗りつぶされてしまい、「君子危うきに近寄らず」たちは挫折と落胆を余儀なくされます。
他方、双子たちもすんなりとこの二人の救出に向かうのではなく、なぜかほうぼうで長々と寄り道をし、快適なU夫妻のところで庭仕事をしたりして1カ月もの長逗留をしさえします。
「君子危うきに近寄らず」と「君子」は碁の勝負に時を過ごしたり、そのうちには消された壁画の表面をスプーンや何かで削って地図を復原するようなことを初めて、その作業に没頭していったりします。
そんなふうに一方は旅をつづけ、一方は相変わらず部屋にとじこめられたまま自分たちの作業に没頭し、やがて本当に双子たちは「君子危うきに近寄らず」たちが勾留されているペンションにたどりつきます。しかし、見張っている男たちの妨害で容易に中へ入ることができません。男たちは、自分たちはオーナーの指示に従っているだけだ、と言うので、双子はそれならオーナーに会わせてほしい、と言いますが拒まれ、あれこれやりあっているうちに、オーナーの住んでいるところだけは教えてやろうということになり、また双子はそのオーナーを探して旅に出ていくのです。
まぁ、こんなふうに書いても何が何やらさっぱりでしょう(笑)。でも一行一行の言葉になにも難しいところはありません。すべて平易な話体(話すように書く文体)で書かれていて、双子の話も「君子危うきに近寄らず」と「君子」の話も、個々のできごとやなりゆきはすべて明晰です。
ただ、それはそこに書かれた言葉をすなおにただ追いかけていく限りにおいて、です。そうではなくて、いったんそこに書かれた言葉から目を離して、「なんでやねん?」と疑問を発したりすると、もうとめどなく不可解で何が何やらさっぱり、という作品になってしまいます。
たとえば、主人公らしい「君子危うきに近寄らず」と「君子」はそもそもなぜそこにいるのか。とじこめられている、というけれど、常に見張りでもついているのか。ついているとすれば、いったいそいつらは何者なのか。何のために彼らを閉じ込めているのか。「君子」はなぜそこへやってきたのか、或いはやってくることができたのか。彼らはなぜ逃げ出そうとしないのか。彼らはなぜ双子が驢馬に跨って自分たちを助けに来ると(時には動揺を見せながらも)なぜ信じているのか。だいいちその双子のことをどうして知ったのか。双子のほうも、なぜどこの誰とも知らない二人をなぜ助けにいかなくてはならないと思っているのか。助けにいくならいくで、さっさと行けばいいのに、なぜさんざん寄り道して、一カ月もよそでのんびり庭仕事の手伝いなどしているのはどういう了見なのか。どこの誰かもわからないのに、なぜ双子は救出すべき二人の居場所にたどり着けるのか。なぜ親子が描く地図が、会ったこともない離れたところにいる双子に自明のもののようにたどれるのか。双子が、それほど苦労してペンションにたどりつきながら、入ることを断られ、オーナーに会わせてももらえず、ただその住まいを教えてもらうだけで、またそこから旅に出たりするのか。・・・・
いや、数え上げればまだまだ無数の「なぜ」が湧き出てくるでしょう。この小説がそういう疑問に答えようという気がないことは明らかで、ということはつまり、この作品を読むのに、そういう疑問を発することが無効で、無意味なのでしょう。ニーチェだったか、疑問というのは自分がなにかを問うていると思っているけれども、ほんとうは自分が使っている言葉の文法がそういう問い方を強いているので、いわば文法が問わせているにすぎないんだ、というふうなことを書いていたようにおぼろげながら記憶しています。
それで言えば、この小説はふだん私たちが色んな「なぜ」の問いを問うているもとにある文法を使っていない(笑)。私たちが上のような疑問を発せずに済むような、これまで読んできた多くの小説が基礎にしている文法が一般の「小説の文法」だとすれば、この小説はそういう「小説の文法」を使っていない、あるいはそれを無視し、逸脱して、その都度語られる言葉、「話すように書かれた」その文章が生み出していく文法に従ってのみ書かれている、とでもいうほかはないでしょう。
けれども、それは決して解読不能の暗号のような文章でも何でもありません。ごく普通の「話すように書かれた」物語であり、どこか既視感のある文体なのです。
私はこの作品を読んでいて、どこかでこの感じは味わったことがあるぞ、と思いながら、それが何だったかはなかなか思い出せなかったのですが、やがてなぁんだ、これはゲームじゃないか、と思い当たりました。
私は電子化されたゲームを使うゲーム世代ではないので、詳しくはないのですが、息子たちが幼いころに、マリオブラザーズあたりから始まるゲームに時々つきあい、ドラクエあたりまではそばで傍観する程度の体験はあります。大ヒットしたドラクエをはじめ、だんだん複雑化していったゲームは、たいてい主人公がなにかよく分からないけれども使命を帯びた旅に出て、様々な困難や敵と遭遇しながら、同時にそれらを克服していくための小道具や武器を、偶然のように行き着いたところで手に入れ、それを使って困難をクリアしながら旅をつづけて、だんだん経験を積んで強くなったり賢くなったりしながらお宝のほうへ近づいていく、みたいなストーリーが多かったような気がします。
おそらくああいうゲームを創るゲームメーカーは、過去の様々な典型的な物語の類型を研究し、ウラジミール・プロップが昔話の形態学で抽出したような「構造」を意識的に使って物語を創り出しているのではないかと思います。いまではそうした物語の「形態学」の膨大な知見を学習したAIがかなりの水準の物語を「創作」できるようになっているのではないでしょうか。
私が既視感をおぼえたのは、この作品の語りの文体が、べつだん書かれた文章として私はゲームのオリジナルストーリーなんて読んだことはないのですが、物語性をもつ電子ゲームそのものの文体にとてもよく似ていると感じていたのです。
たしかにゲームの世界のひとつひとつのできごとに、なぜ?と問うことは無意味でしょう。それはそういう設定なのであって、かくかく設定された登場人物が一定の約束事(ゲームのルール)に従って、いくつかのやはり設定されたオルターナティブをゲームをする人間が選択することで先行きの異なる展開をたどっていく、ただその過程を追って楽しむこと自体が目的であって、なぜ彼はわかっていたかのようにそれを受け取るのか、なぜ彼はそこでだれそれと出会うのか、なぜ彼は旅をするのか、等などと問うことに意味はないでしょう。
それはそう設定されているから、そこにあるから、それがルールだから、と答えるとすればゲームの世界の外部へ出ていくほかはなくなってしまうので、ゲームの世界にとどまるとすれば、そのゲームを操作し、主人公に寄り添い、ゲームを生きていくほかはありません。つまりゲームを記述する言葉自体がその都度それ自身の文法を生み出していく。それが楽しめないなら、この作品を楽しむことはできないでしょう。
けれども、もう一つ重要なことは、この作品は、そういうゲームの言語、ゲームの物語性を、ことごとく壊していく、あるいは肩透かしをくわせ、無意味化していくというもう一つの特徴を備えていることです。だいたいゲームのように宝物にたどりついて終わり、全部敵を倒してすっきりカタルシスを感じさせる、というお決まりの結末がありません。どうやら双子はまたオーナー探しの旅に出たようですし、「君子危うきに近寄らず」と「君子」はきっとひきつづきこの部屋にとじこめられたまま、双子の到来を希望と不安の間を行ったり来たりしながら待つことになるのでしょう。およそそんなゲームというのはないでしょう。
目的の場所に向けて、できることなら最短距離をとろうとするゲームのヒーローとちがって、救出という明確な目的を持ちながら双子はいやというほどのんびりと寄り道をし、時間を浪費していきます。おまけにその経験を血肉化して武器にしていくどこから、彼らは「君子危うきに近寄らず」と同様にだんだん記憶を失い、みんな忘れてしまいそうです。
これをゲームの脱構築と言うなら、この小説はまさにそういうものではないかと思います。
そんなふうに考えると、これは例えば現代の日本で小説を書いていくプロセスそのものを作品化した寓話的な作品のようにも読むことができるかもしれません。
壁の内側に閉じ込められて、いつか創造の神様が降りてきてくれるんじゃないか、とかすかな希望を待ち、いやいやそんなものは来やしない、という絶望にもかられつつ、来る日も来る日もほとんど徒労のような虚しい作業を繰り返し、しかも「君子危うきに近寄らず」たちが苦労して描いた地図を真っ黒に塗りつぶされてしまうように、これまで書いてきたもの一切がくしゃくしゃと原稿用紙を丸めてポイされるように無に帰する、ようやく目的地らしきものに着いたと思えばもう次の旅が始まっている・・・それは作家が物語を紡いでいく内部のプロセスそのままの風景のようにも思えてきます。
どうせ正解なんてないので、読む人それぞれに楽しめばいいでしょうし、そういう楽しみ方なら十分可能な作品だろうと思います。
saysei at 23:37|Permalink│Comments(0)│
蓮華寺の紅葉 2018-11-30
わたしの隠れ家(笑)「蓮華寺」。人の多さにいくぶん閉口した瑠璃光院の帰りに、叡電に乗って三宅八幡で降りて寄ってみると、さすがに来訪者も少なくて、紅葉の庭を眺めながら、いつものようにゆっくりと休憩することができました。
最初にいい思い出があると、ずっとそのイメージが心の中に刻まれていて、ここへ来るのは楽しい。
そういえばアメリカの博物館への来館者調査で面白いのがあって、20年くらい前に博物館へ行ったときの体験を調べた結果、来館者のほとんどは展示の中身はさっぱりおぼえていないけれども、誰と一緒に行ったかはよく覚えている、のだそうです。始めてその調査のことを知ったとき、とても面白いと思いましたが、私もここへ最初に誰と来たかは、死ぬまで決して忘れないでしょう。
この渡り板を渡って行って振り返ると、紅葉が池に映えて、とても綺麗なスポットがあるのですが、スリッパをはいて一歩出ると、残念ながら撮影禁止なんです。方丈のお座敷のほうからは幾らでもパチパチ庭を撮らせているのに、なぜなんでしょうね?もうちょっと通ってお坊さんと親しくなったら訊いてみましょう。
今日は珍しくお坊さんが門をはいってすぐのところで頑張っていて拝観券(400円)を売っていて、そのときも「スリッパをはいて本堂のほうへ行けますが、スリッパをはいたらその先は撮影禁止です」とわざわざ注意していました。「何回も来てるから知っています」と言うと、「ありがとうございます」。「毎度~!」とはおっしゃらなかったけど(笑)
さらに、この通路へ下りるスリッパにはきかえる廊下のあたりに、「これ以降は撮影禁止」とベタベタとみっともない大きな注意書きが何枚も貼ってあるのですが、中国人らしい青年は平気でパチパチ撮っていました・・・やっぱり言葉が分からないのは強い(笑)。
手水のあたり。
古井戸のあたり。
帰りにお坊さんに訊いたら、今年は紅葉が早い樹があったので、早く終わってしまうかなと思っていたら、結構ながくもつようでもあるので、そういうふうに紅葉の期間が長引く年はだいたいあまり綺麗な紅葉がみられず、入口のところの紅葉などひどい年は茶色になってしまうけれど、今年はけっこう赤く綺麗に紅葉したようで、まだいいほうだったのでは・・・とのこと。
池に両側から枝を伸ばした楓のうち、左手のほうのは綺麗でしたが、右手のほうのは枯れたような色でした。もう紅葉が終わって枯れてしまったのですか?と尋ねたところ、周囲の樹が高くなって日当たりが悪くなったり、色んな条件であまり芳しい紅葉がみられないこともあって・・・とのことで、必ずしも一足先に綺麗な紅葉を見せて枯れたわけでもなさそうでした。なかなか綺麗な紅葉をみせてくれるのも難しいところがあるのですね。
先日の朝日新聞の福岡伸一さんの連載「動的平衡」では紅葉のことが書かれていましたが、赤はアントシアン、黄はカロテノイド、褐色はタンニンという化学物質の作用で色が変わるらしいので、今年はアントシアンやカロテノイドが活性化しにくい条件があって、タンニンが幅をきかせたのかな(笑)。
でも福岡先生によれば、わかるのはそれくらいで、実は紅葉の仕組みはほんとうのところよく分かっていないのだそうです。どういう条件がそろえば綺麗な色が出るのかが分かれば、人工的に鮮やかな紅葉が創り出せる日がくるのかもしれませんね。それがいいことかどうかは別ですが・・・ここからはつい連想で、先日の受精卵のゲノム操作で双子が生まれたという、ちょっとコワイニュースのことに行ってしまいそうだけど、ここは抑えて終わっておきますね。
saysei at 21:22|Permalink│Comments(0)│
琉璃光院の紅葉 2018-11-30
きょうの午後は八瀬の瑠璃光院へ紅葉を見に行ってきました。
パートナーも誘ってみたけれど、最近ちょっとめまいがしたり、体調がもひとつのようで、また体調が回復したら、ということで、きょうはいつものように一人で。
瑠璃光院の紅葉と言えばこれ。2階の窓際に置かれた大きな黒いテーブルに、ガラス越しにみえる庭の紅葉が映る、いわゆる床紅葉のバリエーション。どこからが直接見ているほんものの景色で、どこからが卓上に映し出されたその鏡像がおわかりになりますか?(笑)
これ、スマホをその黒い卓上に立ててパチリ、と撮った写真です。みんなそうやって撮っていたので、私もそれに倣いました。いまごろはネット上に同じような写真がいっぱい出ていることでしょう(笑)
それにしてもなかなか見事な紅葉でした。緑の季節にも訪ねたことがあって、そういえば同じように「床みどり」ならぬ卓上の緑を撮ったおぼえがあります。緑も良かったけれど、やっぱり紅葉ははなやかでいいですね。
瑠璃光院は春と夏だけの期間限定公開で、今回の秋の特別拝観は10月1日から12月10日まで。
この紅葉の季節はとくに大勢の来訪者があるので、整理券を渡して、10分おきに一定数だけ入れるようにしていて、整理券がなくなったら終わり、だそうです。
私は午後2時半ころ行きましたが、野外でおよそ30分くらい待って、15時10分にようやく入れてもらいました。中に滞留する分には時間制限はありませんが、ずっと以前にほとんどほかに客もいないような日に来て、静かに座敷に坐って緑を鑑賞できた日々が夢のようでした。
きょうはほら、このとおり狭いスペースにぎっしりの来訪者。スマホで卓上紅葉を撮るのも順番待ち。係の人が、2,3枚撮ったらほかの方におゆずりください、と要請しないといけないような状況でした。
熱心に写経する人たちも。
1階は少しすいていて、縁側で写真を撮るのも楽でした。
紅葉の色はやはり燃え輝くような赤というわけにはいかなかったようで、今年はやっぱりどこも駄目だな、とは思いましたが、それでもまずまず十分に楽しめる美しさ。
苔の鮮やかな緑もいい対照で印象的でした。
これは庭とは反対側の、遠くに山並みが見えるほう。
廊下を通っていく途中に見えるちょっとした景色にも心を惹かれるものがありました。
そういえばangelもここへ行って見たい、でも開いている季節が限られていて、残念だけどいまは見られない、と言ってたことがあったな、と思い出しながら眺めていました。
saysei at 20:52|Permalink│Comments(0)│
永観堂の紅葉 11月29日
きょうの午後は永観堂の紅葉を見てきました。さすがに紅葉の名所とされているところだけあって、圧倒的なボリュームの紅葉を堪能できました。永観堂は正式には禅林寺で、863年、弘法大師の高弟真紹(しんじょう)僧都が清和天皇から寺院建立の許可をもらい、禅林寺の名を賜って真言密教の寺として始まったものだそうです。
この寺が発展したのは永観律師の時代で、境内に施療院を建てるなどして恵まれない人々のために奔走したので、永観を慕う人々がいつしか永観堂と呼ぶようになったのだとか。
そののち、鎌倉時代の住職静遍(じょうへん)僧都が法然上人にの念仏の教えに帰依し、その弟子・証空上人を後継住職として招いて、阿弥陀仏にすべてを任せてとなえる念仏の大切さを説いた由。
こういういきさつで、禅林寺は法然上人を宗祖に、証空上人を派祖にいただく浄土宗西山禅林寺派の総本山となったのだそうです。
放生池をめぐると水の表に紅葉が映じて綺麗。むこうに見える多宝塔のところにも行きました。
ちょっとした流れのあたりにも風情があってなかなかよかった。
しばらくは紅葉をお楽しみください。きょうはご本尊の「みかえり阿弥陀」も参拝してきました。阿弥陀様が見返り美人みたいに横を振り向いていらっしゃるので、参拝は本堂の正面ではなくて、右手に回り込んで阿弥陀様のお顔を拝見して横から拝むのです。なかなか面白い。特別拝観の寺宝もいろいろ拝見してきました。狩野永徳だったかが描いたらしい欄間の抜け雀というのが面白かった。また長谷川等伯とその一門による「竹虎図」がなかなか良かった。
みかえり阿弥陀にはエピソードがあって、永保二年(1082)2月15日早朝、永観が阿弥陀堂へ行くと、人影が動くので、どうやら夜を徹して念仏行に励んでいた僧侶かと思いきや、東の空がしらじらと明け始めると、それが阿弥陀様であるとわかった。その瞬間、阿弥陀様がふりかえりざま、まっすぐに永観の目をみつめて「永観、遅し」とおっしゃた、と。
今年は嵐山、嵯峨、それに近辺の紅葉も、あまり綺麗に色づいておらず、永観堂の紅葉も例年に比べると輝くような深紅、というのが少ないように思いましたが、ここはさすがに全体の量が桁違い、というほど豊富で、紅葉も黄葉も、濃淡、色合いさまざまで、十分に楽しめましたが・・・
ほんとうに綺麗な赤は、遠くからでも目立っていて、陽光が射して半ば透き通るような輝きをみせると、ほんとうに惚れ惚れするような美しさ。
境内は池あり橋あり多宝塔への登り道あり、本堂(阿弥陀堂)へ上がって、回廊をぐるぐる廻ったり、広い境内は変化に富んでいて、それらを廻る間ずっと近くに、あるいは遠くに美しい紅葉が眺められるので、このお寺だけで紅葉が十分に堪能できました。
でも今日はさらに欲張って、というより永観堂を出た人たちの多くがそのまま行列をなして歩く方向についていくと、自然に南禅寺に行きました。きょうは山門にあがることができたので、五右衛門にならって、絶景かな、絶景かなと京都市街を眺め、周囲の紅葉をここでも楽しみました。ただ、紅葉の色はやはりよくありません。
山門の上から本堂のほうへ行く人たちを見る。
逆に西から少し北よりの方角を見る。
山門です。
岡崎の南、疎水べりを通って東大路へ出る途中、平安神宮の鳥居のところで、鷺がいてシャッターを切るか切らないかに飛び立ちました。
少し離れた近代美術館のところで、また手すりにとまっていた鷺くんです。
暗くなって帰宅したら、孫がきていて、一緒に楽しい夕餉で、きょう一日が暮れました。
saysei at 00:00|Permalink│Comments(0)│
2018年11月29日
上賀茂神社に紅葉を訪ねる
(都名所図会 上加茂社)
昨日、いい天気だったので、リハビリが終わった午後、そのまま植物園へ。パートナーが昨日の朝日の朝刊の綺麗な紅葉の写真を見せて、「府立植物園の池に紅葉が映ってとても綺麗らしいよ。行ってきたら?」と言うので、30分ほど歩いて植物園の北門へ。
そしたらなんと「臨時休業」の札がぶら下げてあるじゃありませんか!しかも、昨日から3日間連ちゃんでお休み!朝日新聞も朝日新聞だ、3日連続で臨時休業する植物園の紅葉が綺麗ななんて誘うような写真をでかでかその休業の日に載せるなんて!と思ったけれど、あとでケータイでデジタル版をみると、少なくとも「27日は休園」と断ってありました。それにしても掲載のタイミングが悪すぎない?
それに、植物園も植物園。この紅葉も最後の見ごろという季節に3日連ちゃんで休むなんて!どうもその前の金、土、日と3日連続で、秋のイベントみたいな催しをやっていたみたいだから、公務員さんのことだから職員で慰安旅行でも行ったんじゃないの?なんて勘ぐりたくもなったけれど、どうも電気系統の故障だか不具合だとかちらっと書いてありました。滅多に来ないのに、まだ多少は不自由な体を押して紅葉を見に来ればこれだからがっかり。
そこで、どこか近くで紅葉が見られないかな、と思って思いついたのが上賀茂神社(やっと出ました)。植物園から鴨川沿いにえんえんとこんな道を北へ歩きました。いい散歩道でしたが・・・
これは川の西側のバスも通る道。河川敷がいい散歩道ですが、少し冷えたので、上賀茂バス停から東へ橋を渡って、東岸をさらにもう一つ下の橋まで歩きました。
賀茂川河畔にも一つ二つきれいな紅葉がみられました。
そしたら、もう上賀茂神社はすぐそば。世界遺産の碑のある大鳥居からまっすぐのびる参道を通ってもうひとつの鳥居をくぐります。
世界文化遺産の上賀茂神社、正式には賀茂別雷神社(かものわけいかずちじんじゃ)、祀られているのは別雷神(わけいかずちのかみ)、その正体はカミナリさま。
第二の鳥居をくぐると、いくつかの建物が。
これが正面の建物。前に二つの「立砂」があり、これは神社の北の方角にある神山を象ったものだそうです。もともとは神山のほうで神事が行われていたのが、この場所に下りて神社がたてられたとか。
朱印の受付所などもありました。
これは舞殿(橋殿ともいうらしい)。立札には「往古より勅使御拝の殿舎。文久3年(1863年)造替」とありました。
本殿入口の朱塗りの楼閣。
楼閣をくぐると正面が本殿です。
この本殿に連なって権殿があります。一般参拝客はここでお賽銭をあげて引き返しますが、500円払うと、靴を脱いで左手の建物の小部屋に招じ入れられて、若い神職が部屋の中に懸けてある神社の縁起を描いた絵を示しながら解説とお祓いをしてくれて、そのあとこの写真の本殿の前までは入って参拝できるようになっています。
神社の縁起として語られるのは謡曲「加茂」のもとになったこんな話です。
加茂の里に住む秦氏の女・玉依日売(たまよりひめ)が川で水を汲んでいると(神職の解説では禊をしていると)白羽の矢(同・朱塗りの矢)が流れてきたので、それを持ち帰って軒に挿していた(同・枕元に挿して祀っていた)ところが懐妊して、男の子を生みます。その子が3歳になったとき(同・元服の儀式のときに)、自分の父が天にある雷であると告げて(知って)天にのぼり、別雷神となったといいます。
京都でも最も古い神社の一つとされ、雷神がご祭神なので、厄除け、五穀豊穣の神として農民の信仰を集めて来たそうです。また、平安時代初期から400年にわたり、伊勢神宮の斎宮と同様に斎院が置かれ、歴代皇女が奉仕してきたと解説にありました。葵祭のときはその斎王代列等500名、長さ800mに及ぶ行列がみな葵の葉をつけて下鴨神社からこの上賀茂神社へと進みます。いまから1400年も前、欽明天皇のときに始められた神事のようです。
境内にはそう多くはないけれど、紅葉した楓が風情をそえています。
いまこの神社は第42回式年遷宮の第二期事業として、重要文化財の楼門など境内建造物の檜皮屋根の葺替工事などを順次進めていて、この工事には50トンもの檜皮が必要だとかで、参拝者に檜皮を2000円で購入してほしいと呼びかけています。神職の説明では檜皮葺替えに10億円もの経費がかかるのだとか。その工事の模様を一部垣間見せてくれるのも先の500円の特別展観のうちで、現場へいくと、葉加瀬太郎さんや宮本亜門さんの署名が入った(つまり寄付をされた)檜皮が飾ってありました。申し訳ないけど、私は無収入・年金暮らしの身ゆえ、特別拝観の500円とお賽銭二か所200円ほどでご容赦いただきました (^^;
本殿の脇に縁結びの社という「片岡社」があります。上賀茂神社の境内には24社もの摂末社があるそうですが、その中でも第一摂社に定められている片山御子神社というのだそうで、別雷神の母神である玉依比売命をお祀りしてあるそうです。この神は、恋愛成就、子授け、安産の神様だそうです。
この片岡社には紫式部もたびたび参拝して、歌を詠んでいるそうです。
賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの、片岡の梢おかしく見え侍れば
ほととぎす 声まつほどは 片岡の
もりのしづくに 立ちやぬれまし
(『新古今和歌集』巻第三 夏歌)
(ホトトギス~将来の結婚相手~の声を待っている間は、この片岡の社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう)
上賀茂はすぐきの産地。来る途中も堤の東側の農家でたくさんのカブラを積み上げて、漬けている風景が垣間見られました。境内にもその「すぐきの天秤押し」がしつらえてあって、解説もされていました。
「11月になると上賀茂の農家で上賀茂神社と関係の深いすぐきの漬け込みが始まります。一晩荒漬けされたすぐきは、水でていねいに洗われた後、四斗樽の底から1段ずつたっぷり塩をかけて、この地特有の”天秤押し”で渦巻き状に漬け込まれます。この”天秤押し”は、長さ3~4メートルの丸太ン棒の先に重石をくくりつけテコの原理を応用して相当な圧力をかけています(400kg~500kg)。また、農家の軒先に天秤棒が横一列に並ぶ姿は、上賀茂の冬の風物詩として親しまれています。」(JA京都市上賀茂支部の解説「すぐきの天秤押し」)
すぐきの樽の奉納品だったでしょうか。
境内に流れる川は「ならの小川」。小倉百人一首で詠まれた歌はこの川だったんですね。
風そよぐならの小川の夕ぐれは
みそぎぞ夏のしるしなりける
(藤原家隆)
平安時代に神職がみそぎを修していた情景を詠んだものだそうです。立札の解説によれば、この辺りを「ならの小川」と言ったのだそうです。
境内ではここが一番きれいな紅葉が見られました。
都心から離れているので、人もそう多くはありませんでした。
やっぱり若い女性がいたりすると絵になって、しばらく目の保養をさせてもらいました(笑)。
帰宅してパートナーに話したら、彼女は息子たちをつれて一度、二度、来たことがあり、この「ならの小川」で遊ばせたそうです。夏など、幼い子がはいって遊ぶにはちょうどいい浅い流れですね。
昨日、いい天気だったので、リハビリが終わった午後、そのまま植物園へ。パートナーが昨日の朝日の朝刊の綺麗な紅葉の写真を見せて、「府立植物園の池に紅葉が映ってとても綺麗らしいよ。行ってきたら?」と言うので、30分ほど歩いて植物園の北門へ。
そしたらなんと「臨時休業」の札がぶら下げてあるじゃありませんか!しかも、昨日から3日間連ちゃんでお休み!朝日新聞も朝日新聞だ、3日連続で臨時休業する植物園の紅葉が綺麗ななんて誘うような写真をでかでかその休業の日に載せるなんて!と思ったけれど、あとでケータイでデジタル版をみると、少なくとも「27日は休園」と断ってありました。それにしても掲載のタイミングが悪すぎない?
それに、植物園も植物園。この紅葉も最後の見ごろという季節に3日連ちゃんで休むなんて!どうもその前の金、土、日と3日連続で、秋のイベントみたいな催しをやっていたみたいだから、公務員さんのことだから職員で慰安旅行でも行ったんじゃないの?なんて勘ぐりたくもなったけれど、どうも電気系統の故障だか不具合だとかちらっと書いてありました。滅多に来ないのに、まだ多少は不自由な体を押して紅葉を見に来ればこれだからがっかり。
そこで、どこか近くで紅葉が見られないかな、と思って思いついたのが上賀茂神社(やっと出ました)。植物園から鴨川沿いにえんえんとこんな道を北へ歩きました。いい散歩道でしたが・・・
これは川の西側のバスも通る道。河川敷がいい散歩道ですが、少し冷えたので、上賀茂バス停から東へ橋を渡って、東岸をさらにもう一つ下の橋まで歩きました。
賀茂川河畔にも一つ二つきれいな紅葉がみられました。
そしたら、もう上賀茂神社はすぐそば。世界遺産の碑のある大鳥居からまっすぐのびる参道を通ってもうひとつの鳥居をくぐります。
世界文化遺産の上賀茂神社、正式には賀茂別雷神社(かものわけいかずちじんじゃ)、祀られているのは別雷神(わけいかずちのかみ)、その正体はカミナリさま。
第二の鳥居をくぐると、いくつかの建物が。
これが正面の建物。前に二つの「立砂」があり、これは神社の北の方角にある神山を象ったものだそうです。もともとは神山のほうで神事が行われていたのが、この場所に下りて神社がたてられたとか。
朱印の受付所などもありました。
これは舞殿(橋殿ともいうらしい)。立札には「往古より勅使御拝の殿舎。文久3年(1863年)造替」とありました。
本殿入口の朱塗りの楼閣。
楼閣をくぐると正面が本殿です。
この本殿に連なって権殿があります。一般参拝客はここでお賽銭をあげて引き返しますが、500円払うと、靴を脱いで左手の建物の小部屋に招じ入れられて、若い神職が部屋の中に懸けてある神社の縁起を描いた絵を示しながら解説とお祓いをしてくれて、そのあとこの写真の本殿の前までは入って参拝できるようになっています。
神社の縁起として語られるのは謡曲「加茂」のもとになったこんな話です。
加茂の里に住む秦氏の女・玉依日売(たまよりひめ)が川で水を汲んでいると(神職の解説では禊をしていると)白羽の矢(同・朱塗りの矢)が流れてきたので、それを持ち帰って軒に挿していた(同・枕元に挿して祀っていた)ところが懐妊して、男の子を生みます。その子が3歳になったとき(同・元服の儀式のときに)、自分の父が天にある雷であると告げて(知って)天にのぼり、別雷神となったといいます。
京都でも最も古い神社の一つとされ、雷神がご祭神なので、厄除け、五穀豊穣の神として農民の信仰を集めて来たそうです。また、平安時代初期から400年にわたり、伊勢神宮の斎宮と同様に斎院が置かれ、歴代皇女が奉仕してきたと解説にありました。葵祭のときはその斎王代列等500名、長さ800mに及ぶ行列がみな葵の葉をつけて下鴨神社からこの上賀茂神社へと進みます。いまから1400年も前、欽明天皇のときに始められた神事のようです。
境内にはそう多くはないけれど、紅葉した楓が風情をそえています。
いまこの神社は第42回式年遷宮の第二期事業として、重要文化財の楼門など境内建造物の檜皮屋根の葺替工事などを順次進めていて、この工事には50トンもの檜皮が必要だとかで、参拝者に檜皮を2000円で購入してほしいと呼びかけています。神職の説明では檜皮葺替えに10億円もの経費がかかるのだとか。その工事の模様を一部垣間見せてくれるのも先の500円の特別展観のうちで、現場へいくと、葉加瀬太郎さんや宮本亜門さんの署名が入った(つまり寄付をされた)檜皮が飾ってありました。申し訳ないけど、私は無収入・年金暮らしの身ゆえ、特別拝観の500円とお賽銭二か所200円ほどでご容赦いただきました (^^;
本殿の脇に縁結びの社という「片岡社」があります。上賀茂神社の境内には24社もの摂末社があるそうですが、その中でも第一摂社に定められている片山御子神社というのだそうで、別雷神の母神である玉依比売命をお祀りしてあるそうです。この神は、恋愛成就、子授け、安産の神様だそうです。
この片岡社には紫式部もたびたび参拝して、歌を詠んでいるそうです。
賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの、片岡の梢おかしく見え侍れば
ほととぎす 声まつほどは 片岡の
もりのしづくに 立ちやぬれまし
(『新古今和歌集』巻第三 夏歌)
(ホトトギス~将来の結婚相手~の声を待っている間は、この片岡の社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう)
上賀茂はすぐきの産地。来る途中も堤の東側の農家でたくさんのカブラを積み上げて、漬けている風景が垣間見られました。境内にもその「すぐきの天秤押し」がしつらえてあって、解説もされていました。
「11月になると上賀茂の農家で上賀茂神社と関係の深いすぐきの漬け込みが始まります。一晩荒漬けされたすぐきは、水でていねいに洗われた後、四斗樽の底から1段ずつたっぷり塩をかけて、この地特有の”天秤押し”で渦巻き状に漬け込まれます。この”天秤押し”は、長さ3~4メートルの丸太ン棒の先に重石をくくりつけテコの原理を応用して相当な圧力をかけています(400kg~500kg)。また、農家の軒先に天秤棒が横一列に並ぶ姿は、上賀茂の冬の風物詩として親しまれています。」(JA京都市上賀茂支部の解説「すぐきの天秤押し」)
すぐきの樽の奉納品だったでしょうか。
境内に流れる川は「ならの小川」。小倉百人一首で詠まれた歌はこの川だったんですね。
風そよぐならの小川の夕ぐれは
みそぎぞ夏のしるしなりける
(藤原家隆)
平安時代に神職がみそぎを修していた情景を詠んだものだそうです。立札の解説によれば、この辺りを「ならの小川」と言ったのだそうです。
境内ではここが一番きれいな紅葉が見られました。
都心から離れているので、人もそう多くはありませんでした。
やっぱり若い女性がいたりすると絵になって、しばらく目の保養をさせてもらいました(笑)。
帰宅してパートナーに話したら、彼女は息子たちをつれて一度、二度、来たことがあり、この「ならの小川」で遊ばせたそうです。夏など、幼い子がはいって遊ぶにはちょうどいい浅い流れですね。
saysei at 00:38|Permalink│Comments(0)│