2018年10月
2018年10月31日
御所八幡宮
京都文化博物館で映画祭京都ヒストリカで上映される「斬人斬馬剣」の予約券を買いにいった帰り、徒歩で帰ろうと高倉通りを北上して御池通りに出ると、その東角に「御所八幡宮社」というお社があるのに気づきました。
いや、ここはもちろん何度も通ったことのある場所で、当然見ているわけですが、何十回通っても、何神社か、なんて見もしないで通り過ぎていただけで、昨日はじめて、おや、こんなところにこんな神社があったんだな、とちょっと境内、といっても本当にそこら住宅の庭より狭い境内に入ってみました。
手水鉢の上に宮司が書かれた略誌が掲げられているほか、京都市による日・米・中国・韓国語の解説の立札も立っています。後者によれば:
「応神天皇、神宮皇后、比売神の三神を祭神とする。もと御池堺町西南角の御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通の強制疎開によってこの地に移された。
この八幡社が『御所』八幡宮と呼ばれるのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏が自らの邸宅内の守護神として勧請したことに由来するという。尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また現在の地名から高倉八幡とも呼ばれ、親しまれてきた。
特に安産と幼児の守り神として有名で、左京区上高野の三宅八幡と並んで『虫八幡』と呼ばれ、世間の信仰を集めている。」(京都市)
と記されています。略誌のほうの末尾には「今では初音学区とその近在の守護神として汎くお池の八幡さんと親しまれ」ていると書かれています。
手前が御池通り側で、本殿が西向きに、鳥居の社殿が北向きに建っています。略誌によれば境内社として「高良社」「稲荷社(初音稲荷)」とあとまとめて「猿田彦社・天満宮社・大宮比賣社・古刀比羅社」の名が記されています。
本殿の背後には高いビルが建っています。
ご本尊を治めた社殿の内を覗くとこんな感じ。
左下隅に貼ってあるのは、「初音稲荷火焚祭」に際しての「火焚串奉納のご案内」で、「11月23日、午後2時より恒例の初音稲荷火焚祭を斎行し、区域の安寧と火焚串奉納の皆様の家内安全・除災招福を祈願致します」と記されています。そばに火焚串が置いてあって、これに氏名、年齢などを記入して門内の賽銭箱に納めればよろしい、と。「初穂料は100円以上、お心持」だそうです。
鳥居のお社の向かって右隣りには皇太子殿下ご成婚記念碑が建っています。横手を覗いてみると、昭和34年9月、宮司が造られたようです。いまの天皇・皇后が結婚されたときのものですね。
ふつうなら、こんな石碑などに何の関心もないのですが、現天皇の皇太子時代のご成婚の記念碑となるとちょっと連想が働いて、しばし昔のことを思い出しておりました。
私が中学のころ、わが家に入って間もないテレビで、ご成婚パレードを見ていたのを思い出したのですね。民間からの初めてのお妃ということでミッチーブームが起きて・・・ちょうどその数年前から記念切手のコレクションが小中学生のブームになっていて、ご成婚記念の記念切手が幾種類も出たのを郵便局に並んで、シート単位で何枚も買ったのを記憶しています。(残念ながらのちに古本屋が連れて来た古切手商にただ同然で買い取られてしまいましたが・・・)
あのご成婚パレードを見るためにテレビを買った人が多くて、まだモノクロだったけれど、記者会見で「ご清潔で、ご誠実で・・・」と緊張の面持ちで初々しく答える美智子さんがほんとに綺麗だなぁという印象と、テニスを楽しむ中で恋心を育てという物語性とともに、のちに美智子さんが子供を自分野手で育てる姿勢を示されたことなどもあって、皇室があたかも小市民的な明るく幸せな核家族にでもなったような親しみを感じさせましたから、今思えばあのご成婚が、国民に開かれた皇室のイメージを象徴的にアピールする上で圧倒的な効果をもったんだろうなぁと思います。
皇太子も戦後、アメリカ人家庭教師がついていちばん理想主義的な時代の民主主義教育・平和教育(反軍国主義教育)を受けられた点では、私たち戦後世代とともにあったわけで、近年の現天皇としての、健康が心配な中で無理を押して、ほとんど痛々しいまでの必死の思いが感じられるような、最後の東南アジア等への平和行脚や津波・原発事故の被災者を繰り返し見舞う姿をテレビで見ていると、時代が逆行していくことへの切実な危機感が感じられるように思い、共感を覚えるのは、私たちのように戦後の民主主義教育、平和教育を受けた世代だけになってしまったのかもしれませんが・・・
saysei at 11:33|Permalink│Comments(0)│
東野圭吾著『沈黙のパレード』を読む
クリスティーのような古典を別として、推理小説をほとんどまったく読む習慣のない私が唯一、新刊が出ると文庫になるのを待ちきれずに読むのが東野圭吾の作品です。このところ突然映画に狂って(どうせ一時のことですが・・・笑)新旧の映画ばかり見ていたので、新刊が出ているのを横目で見ながら読んでなかったのですが、きょう読み始めてあっという間に読んでしまいました。
やっぱり面白かった。
いわゆるジャンル小説として、人間を描くという意識はほどほどで、むしろ犯罪の仕掛けの目新しさや複雑さで読者をひきつける類の「推理小説」とは違って、東野さんの作品はいつも、登場人物一人一人が背負っている人間関係や暮らしがあり、過去があり、そういうものをひきずって犯罪にかかわってしまったり、嘘をついてほかの人をかばって罪をかぶろうとしたり、というドラマを演じる人間というのを見る作者のまなざしがとても温かく、それを非常に巧みな語りで語ってくれるという印象があります。
謎解きこそ推理小説の醍醐味、という読者からは、ときに、なぁんだ、ということもあるような気がしますが、人間を描いたドラマとして失望させることはまずないというのが私のいままでの東野体験から言えることで、今回もそのとおりだったし、よみやすく明晰で、非常に語り口が上手なので、ぐいぐい引き込まれて一気に読まずにはいられませんでした。
今回は推理小説の仕掛けのほうも、二転、三転、なかなか見事な展開で、私の詳しくないジャンル小説としての推理小説としても、とてもよくできた楽しめる作品なのではないかと思います。
あれだけの物的証拠があっても、それは状況証拠だということで有罪にならないのか、とちょっと驚きましたが、犯罪を立証すると言うのは本当に難しいことなんだな、とあらためて痛感させられます。そういうので当初犯人(と少なくとも当初みなされる人物)を逮捕しながら決め手を欠いて追及が行き詰るとき、いったいこれをどう打開するというのだろう?と読んでいて思いましたから、それは作者の思うつぼにはまったということでしょう。読者がそう思っていれば、その難事件を解決していく道筋が明らかになっていくと、それが納得できる解決であれば、心底感心してしまいますから。
読者に最初のほうですべての鍵が与えられて、さあもう犯人は分かるはずだから、ここで作者から読者へ挑戦!と犯人当てを要求するような推理小説もあるそうですが、東野さんの作品はそういうのではないので、決定的な条件とか契機というのが小出しにされて、事態が転回していくところはあります。でも、その与え方が絶妙な語り口の中で非常に自然で巧みなので、なんだ、そんなのキーが与えられてないんだから読者にわかるわけないよ、そりゃ後出しじゃんけんみたいで、ずるいよ、という感じを懐かずに、どうなるんだろう?と興味を維持しながら読んでいくことができます。
推理小説でストーリーや結末を言ってしまったら、それこそ叱られそうだから、ネタバレはやめて、ただ面白かった!とだけ言っておきましょう。パートナーも東野さんの推理小説だけは楽しんで私のあとに読んでいるようです。
やっぱり面白かった。
いわゆるジャンル小説として、人間を描くという意識はほどほどで、むしろ犯罪の仕掛けの目新しさや複雑さで読者をひきつける類の「推理小説」とは違って、東野さんの作品はいつも、登場人物一人一人が背負っている人間関係や暮らしがあり、過去があり、そういうものをひきずって犯罪にかかわってしまったり、嘘をついてほかの人をかばって罪をかぶろうとしたり、というドラマを演じる人間というのを見る作者のまなざしがとても温かく、それを非常に巧みな語りで語ってくれるという印象があります。
謎解きこそ推理小説の醍醐味、という読者からは、ときに、なぁんだ、ということもあるような気がしますが、人間を描いたドラマとして失望させることはまずないというのが私のいままでの東野体験から言えることで、今回もそのとおりだったし、よみやすく明晰で、非常に語り口が上手なので、ぐいぐい引き込まれて一気に読まずにはいられませんでした。
今回は推理小説の仕掛けのほうも、二転、三転、なかなか見事な展開で、私の詳しくないジャンル小説としての推理小説としても、とてもよくできた楽しめる作品なのではないかと思います。
あれだけの物的証拠があっても、それは状況証拠だということで有罪にならないのか、とちょっと驚きましたが、犯罪を立証すると言うのは本当に難しいことなんだな、とあらためて痛感させられます。そういうので当初犯人(と少なくとも当初みなされる人物)を逮捕しながら決め手を欠いて追及が行き詰るとき、いったいこれをどう打開するというのだろう?と読んでいて思いましたから、それは作者の思うつぼにはまったということでしょう。読者がそう思っていれば、その難事件を解決していく道筋が明らかになっていくと、それが納得できる解決であれば、心底感心してしまいますから。
読者に最初のほうですべての鍵が与えられて、さあもう犯人は分かるはずだから、ここで作者から読者へ挑戦!と犯人当てを要求するような推理小説もあるそうですが、東野さんの作品はそういうのではないので、決定的な条件とか契機というのが小出しにされて、事態が転回していくところはあります。でも、その与え方が絶妙な語り口の中で非常に自然で巧みなので、なんだ、そんなのキーが与えられてないんだから読者にわかるわけないよ、そりゃ後出しじゃんけんみたいで、ずるいよ、という感じを懐かずに、どうなるんだろう?と興味を維持しながら読んでいくことができます。
推理小説でストーリーや結末を言ってしまったら、それこそ叱られそうだから、ネタバレはやめて、ただ面白かった!とだけ言っておきましょう。パートナーも東野さんの推理小説だけは楽しんで私のあとに読んでいるようです。
saysei at 00:11|Permalink│Comments(0)│
2018年10月30日
手当たり次第に XXⅡ ~この二、三日みた映画
今回はDVDでみたのも劇場で見たのもごっちゃまぜに、褒めちぎっては投げ、褒めちぎっては投げ・・・
愛しのアイリーン(吉田恵輔監督) 2018
これは出町座でいま見て来たところです(笑)。何の予備知識もなく昼食後の散歩に行って、新作をひとつみよう、というわけで・・・。
日本の農村というか山村というか、安田顕が演じる、地方の田舎で両親と暮らす40過ぎのマザコン男はまだ独身で、パチンコ屋に勤めるむさくるしい男。男性としての欲望は人一倍?あるので、パチンコ屋の女社長?と関係を持っていたり、まだ幼い子を持つ母子家庭の少々淫乱な母親とも関係したり。母親はまっとうな嫁をみつけようと必死で、持ち込まれる話がみなバツイチだったりオミズさんだったりするので苛立っています。
なんやかやあって、家を飛び出していた男は面倒になって婚活嫁探し海外ツアーみたいなのに参加して、300万円とか払ってフィリピン娘を連れ帰ります。ちょうど留守の間に亡くなった父親の葬儀にフィリピン妻を連れ帰り、逆上した母親は猟銃を持ち出してフィリピン嫁に突きつけます。しかし籍も入り、正規の嫁となった彼女をそうそう簡単には追い出すことができず、前に勧められていた少々頭は固いが「うちの息子に相応しい」行儀作法のできる娘を確保しておいて、隙あらばなんとかフィリピン嫁を追い出そうとする母親。
フィリピン嫁は性格は明るく、家族を養う仕送りをしてもらうため、と割り切ってはいるものの、「心までは売り渡していない」となかなか本当に心を開くとことまではいかず、何かと理由をつけては夫婦らしい営みもない様子。男もそれに苛立ちながら無理にはしていないようで、ほかにはけ口をみつけているようです。嫁はなんとか周囲の人にも慣れない日本の暮らしにも溶け込もうと、あかるくフレンドリーに振舞いますが、周囲の目は単に「金目当ての外国人」、「男が金で買ってきた女」としか見てくれません。
たった一人、英語の喋れる寺の若いお坊さんだけが親身になって色々教えてくれますが、その噂を聞いてやってきたマザコン男はお坊さんをぶちのめして嫁を連れて帰ります。
努力してもなかなか周囲にとけこめず、夫にも心底心を開くことができず、ぎくしゃくする中で、片親(母)がフィリピン人だったというやくざのあんちゃんが、キャバレー勤めのフィリピン女性らを売春ビジネスに引っこ抜いていて、このフィリピン妻にもアプローチしてきます。
彼は彼女に対して結構正論を吐きます。おまえは金で買われてきた性奴隷であって、売春となにも変わらんのだ、実際男の母親もお前を追い出そうとしているだろう、男も買春しただけだ、それが日本人のやりくちだ、と煽って、嫁の立場を抜け出して自分にまかせろ、と口説きます。
それに応じないフィリピン嫁を無理に連れ去ろうとして、車で追ったマザコン男と争いになり、いったんはやくざのあんちゃんがマザコン男をぶちのめしますが、手近にあった猟銃でマザコン男がやくざのあんちゃんを射殺してしまいます。男と嫁は二人でやくざの死体を埋め、共犯関係となってはじめて両者心を開き、血だらけの姿のまま帰宅すると、はじめて夫婦として体を重ねます。
殺したやくざの仲間が男を怪しんでつきまとい、家の壁にも車にも、人殺し、と落書き大書し、町中にその種のチラシをばらまいて、マザコン男は次第に追い詰められていきます。一人雪の林で、樹幹にナイフを突き立て、狂気のように文字を刻み付けている姿がたびたびみられますが、やがて雪の中に倒れ伏してしまいます。
フィリピン妻が彼を発見したときは、もう彼は冷たくなって死んでいました。林の中の何本もの樹幹に「アイリーン」とフィリピン妻の名が刻まれていました
息子だけが生きがいだった老母は現場へ連れてこられて息子の亡骸を見て絶叫して倒れると、そのまま床について口もきけなくなりますが、看病しようとするフィリピン妻を拒否して食事も何もうけつけません。
しかし、フィリピン妻が荷物をまとめ、フィリピンへ帰ると告げて出ようとすると、老母は自分の喉にはさみを突き付けて、山へ連れて行けと無理やり自分を雪の山の中へ連れていかせ、この土地の昔の因習としてあった姥捨てで最期を迎えようとします。
雪のなか、義母を背負って歩き、奥深い所へ来ておろしますが、彼女は義母に家に帰ろう、と繰り返し説得し、再び義母を背負って雪の中を戻ろうとしますが、そのときはもう老母に生きる力は残っていませんでした。一人雪中に残ったフィリピン妻は途方にくれた表情で佇む・・・まぁそんなところで幕となります。
だいぶ以前から農村に若い女性がいなくなり、農家のあととりに嫁の来手がなく、フィリピンなどアジア諸国の女性と集団見合いのようなことをして、結婚相手をさがす、ということが現実に地方で行われるようになっているのは周知のとおりです。まったく生活環境の異なる世界にやってきて農家の嫁として生きていく女性は当然周囲に融け込むのも並大抵ではなく、様々な問題を抱えることになる、というのは誰にでも容易に想像できることでしょう。
しかし、この作品では、もうひと皮剥いて、人間の欲望、性欲と金銭欲の水準で人間をとらえ、また人間関係をとらえて、男性の側から言えば性的欲望を安定的に満たすため、また女性の側から言えば、母国の生活水準が低い中で貧しい子沢山の家庭を支えていくために、仕送りのしてもらえる日本人男性と結婚の形をとるという、いわば露骨な「経済関係」としてとらえているわけです。
マザコン男の母親との関係は時間軸の入った性関係と言ってもいいでしょうし、男が周囲の女たちとやたら性的交渉に及ぶのは本来の性的関係を結ぶべき妻との間でその肝心のことが疎外されているから、ちょうどそれに見合った分だけ他の誰彼とみさかいなくセックスに及ぶということになります。
そんなありさまですから、やくざの片親が日本人にポイ棄てされたフィリピン人女性だというアンちゃんがアイリーンを煽って語る、「お前は日本人男性の性奴隷にすぎず、金で買われた売春婦にすぎないし、自分の母親と同じポイ捨てされる運命をたどるんだ」というのが妙に正論で説得力を持ちさえするのです。
こういう描き方をしているために、フィリピン妻の問題も、すっかり性欲、金銭欲のすれちがいやらぶつかりあいやらに還元されてしまい、ドロドロと汚らしくて、なんだかポルノまがいのエログロナンセンス的な印象が強い映画ですが、そういうドロドロを通過しながら、マザコン男はマザーを振り切ってアイリーンに愛情を持つに至り、アイリーンのほうも彼に心を開くようになる、純愛物語(笑)でもあるわけです。
そうしてその純愛物語を作っていく骨組みに、彼女がフィリピン人で、金で買われてきた妻であり、それが日本の農山村のような保守的な地域共同体の中へ放り込まれたとき、何が起きるか、というようなこともまた、映画の作り手の関心事だったのでしょう。
でも、それならば、私が監督なら(笑)、下半身やお金の問題、要は経済的な交換のむき出しの姿で描かずに、表面はごく穏やかなありうべき国際結婚の形をとって日本の地方農山村へやってきたフィリピン妻がどんな立場に置かれ、どういうふうに周囲の人たちと触れ、どう変貌していくか、そこを掘り下げて淡々と描くやりかたを選んだでしょう。
それは好みの問題かもしれないけれども、下半身とお金の市場交換の話にしてしまうと、大事なものが抜け落ちていくような気がします。
そこは原作のマンガに依拠したいかにもマンガ的な誇張と、滑稽味を与えようとしているのだろうとは思いますが、私は原作を全く知らないので何とも言えません。
ただ、マンガチックな軽い滑稽味というのは、この作品は全体に重量感がありすぎて、つまり主役を演じる安田顕一人とってみても、いかにむさくるしい独身マザコン40男とはいえ、むさくるしすぎて(笑)軽い滑稽味が出てこない。その母親も大熱演ではあるけれど、例えば「俺たちに明日はない」の兄嫁みたいな、たくまざる滑稽味のようなものが出てこなくて、少々イタイ印象を受けてしまうので、喜劇にはなりきらない。ポルノグラフィとしても中途半端だし(笑)・・・
ただ作り手がみんな力んで頑張ったという勢いは感じたし、ある種のインパクトがあることはあったな、と思います。男が子持ち店員とセックスして、彼女が漏らしてしまうようなところ、あのへんはウブな私には衝撃のシーン(笑)だったし、そのあと濡れたズボンを店員仲間に笑われて突っ立っている40男・・あのへんは喜劇性がたしかに感じられました。喜劇なら喜劇に、ポルノならポルノにもう少し徹してくれるといい作品になったんじゃないかと思いました。
寝ても覚めても(濱口竜介監督) 2018 再見
京都シネマで封切のとき見て感想も書いたのですが、出町座でもう一度きょう見てきました。2度目に見ると、最初のときちょっと突出しているような印象を受けた、女性二人がシェアしている部屋へ亮平が同僚クッシーを連れていった口論の場面が、ごくすんなり全体の中で位置しているように感じられて、今回はどこをみても完璧なすごい作品だな、とあらためて印象付けられました。
最初の朝子が展覧会を訪れる場面、麦と出会うはずの歩道橋で子供が爆竹を鳴らしているのがちらっと出てくるけれども何でもない空間を通り過ぎて館内へ入っていくシーンから、こちらは先を知っているから、おうおう、と思わせる鮮やかな入り方で、展覧会場を出て同じ場所を逆に麦のあとを歩いて歩道橋へ入るところで左右に分かれるというところで子供らの爆竹の音で振り返る、そこまでの映像の捉え方を見るだけでもう、これはすごい映画だな、と今回はゾクゾクさせられました。
それはもう最後までずっと続いたと言ってもいいでしょう。カットされて場面転換があると、次の映像の転換とつなぎかたが絶妙で、カットが入るたびにゾクゾクするような快感があります。これはたぶん映画ならではの快感でしょう。私は映画マニアではないので、あんまりそういうことを意識したこともなければ技術的なことはさっぱり分からないけれども、素人でもあの転換で、次の場面がこうか、というその鮮やかさは強く印象づけられます。
今回は作中で最後にとりわけ重要な役割を演じるネコにも注目しました(笑)。みごとな「演技」です(笑)。
とりわけ、床に横たわった亮平に重ねるように朝子が身を横たえて二人が重なった向こうでこっち向いて寝そべっているあの猫!車の旅を強いられてやっと籠から出してもらって、のっそり出てくるあの猫!それからいいところでさしはさまれる映像にとらえられた壁の飾りみたいなのに片手でちょっかいだしているあの猫!そしてもちろん最後に、捨てたぞ!と亮平が言って、雨の草っぱらで朝子がネコを必死で探し、「無駄なことをするな、帰れ!」と亮平が怒鳴って、追ってくる朝子を拒んで走り逃げ帰った亮平が、いったんぴしゃりと閉ざしたドアがそっと開いて亮平の手で差し出されるあの猫!
こう見るたびに快感がわいてくるような映画というのは困ったもので、もう残された時間が少ないから見てない映画をあれもこれも片っ端からみてやれ、と思っているのに、2度観るとまた3度目も見たくなりそう。若い人のように10回も20回も見る体力もないし(笑)、困る。
Playback (三宅唱監督) 2012
これは数日前に出町座のスクリーンで、三宅唱特集の最終日に見ました。見てすぐに、「しまった!」と思ったのは、この映画は1度観たんではなにがなんやらさっぱり分からないままだな、と思い、きっと2度、3度観る方がよさそうだと思ったからです。
出町座の三宅唱特集のEプログラムとして数回上映されたはずですが、ゲストに監督を呼んだ日の特別プログラム以外はA~Eのすべてを1回ずつ見たので、それでいいかと思ってEを見るのが最終日になってしまったのが失敗でした。またどこかでいつか市内で上映されるときにはぜひ見てみたい。
なぜそう思ったかというと、この映画はいわゆる物語性を取り出して要約的に言ってしまえば、もうアラフォーにさしかかったうだつのあがらない、でも或る程度名が知れているらしい男性俳優が、中国人の若い監督が指示する映画の音声吹き替えをやっているシーンからはじまって、なんかこのひと疲れているようで、遅刻はするわ、監督がキレてしまうほどやる気がない仕事ぶりで、叱られても蛙の面に小便的な態度。「先に帰るわ」みたいな感じ。この人が故郷へ帰って友人たちと、或る友人の結婚式に出て、いろいろあって帰ってくる、というだけの、どうってこともない話です。
ところがどうもその結婚式前後の彼もその式に一緒に参列して彼にからむ友人たちも、いつの間にか、いまの40男の彼らではなくて、学生服姿の若いときの姿になっていて、回想場面か夢の中かというふうな場面になっています。しかも、学生服姿になったからといって、彼らの顔がメイクとかで若返っているわけでもなければ、別の若い役者が演じているわけでもなく、40男がそのまま学生服を着て演じています。
これは1回見ただけだと、どの場面からどう変わったのか、あれ?と思っている間に進行していて、よく分からなくなります。おまけに面白いことに、観ていると、一度あった出来事が、もう一度そっくり繰り返されます。それもまったく細部まで同じではなくて、ちょっとした順序や喋る人が違っていたり、あきらかに「繰り返し」でありながら、少しバグが入って、ものごとが継起的に生じるのを記録したデジタルデータの一部がズレたようになっています。そこが面白いといえば面白いけれど、何が起きたか観ていてもよくわかりません。
ただ「繰り返し」であることは明らかなので、当然ながら、デジャヴュというのか、一度この場面は見たよな、こういうセリフは誰かがいってたよな、という強い既視感があります。そしてほんとうに目覚めて画面を注視しているのに、まるで非常に明晰な夢の中の世界にいるみたいな印象をおぼえます。
私たちが眠っている間にみる夢でも、その夢の中ではちっとも曖昧でも朦朧としてもいないし、変だとも思わずに、自分はいまの自分なのに、出て来て「おうおう!」と言葉をかわす友人は高校や大学のときの友人のままの若い姿だったり、それとは違う最近の時期につきあっている会社の同僚なんかが今の年齢で一緒に登場したりして少しも変だと思わずにしゃべったりしています。過去と現在、こちらかあちらか、といった時間や空間が、夢の世界では相互に融通がきくみたいで、現実の世界のように見えない壁で仕切られてはいないようです。
なにかそういう不思議な世界をまざまざと見ているような変な映画(笑)でした。ただ、確実なのは、最初だらしない「いま」のままの恰好で結婚式に(彼だけがそういう恰好をして)出ているのが、2度目に同じシーンで登場して式に参列する彼は、ちゃんと背広だかモーニングだかの正装で、心なしか表情も生き生きしています。
そして、そういう変化のままに、別の世界から戻ってきた彼は、冒頭と同じ仕事をする光景の中で、最初のように投げやりなやる気のない表情をしておらず、なんだか正気に戻ってやる気を出したような顔をして仕事をしていました。
たぶんこの冒頭とラストの変化は、先ほどの夢に似たような世界を経験することで生じているわけです。それが昔の友人たちとの触れ合いの中にあったことは分かります。きっと彼はその世界にあった若いときの友人とのやりとり、気持ちの触れあい、疾走感みたいなものを、一種の幻想の世界で再体験して、今現在を生き生きと生きていく感触というのを取り戻したのでしょう。
それを象徴するような映像として、主人公の彼がローラースケートに乗って、子供たちにまじって走るシーンがあり、2度目のときは、子供だけではなく、もっと大勢の人がローラースケートに乗って湧き出してくるような感じのシーンがあって、あの湧き出てくる感じ、疾走感のようなものが、彼がその世界で触れたかけがえのないものであるかのように印象づけられます。
主役の男を演じた村上淳、友人の中で一種の狂言回しの役割をしている渋川清彦、女性の友人河井青葉らが非常に存在感があって、一人一人の表情が映されると、夢の中で登場するだけで、「あ、誰某じゃないか!」とすぐにわかってしまうその顔のように、夢の中なのにリアルに感じられます。いや夢の中だからこそ、と言うべきか、現実にはそばにいても、意識して見ないと見ていない、見えていない人の顔が、夢の中だからこそ一挙に全部あまりにも鮮やかに間近に直観できてしまう、そんな顔のように見えてきます。
この物語には、菅田俊が演じる先輩の演劇人みたいな人がいて、またみんなで集まって、いっちょやらんか、みたいなことで、そういう役者としての生き方みたいな話も主人公の役者である彼に絡む一本の筋になっています。彼が疲れて今の生活や仕事にいくらか嫌気がさして、故郷へ帰るなかで、そういう自分の役者人生のスタートを確かめ、そのときの自分を再現することで、今の彼が変わっていったということなのでしょうか。
おおまかには、そういう映画だと思うのですが、なにせ細部はあれ?あれ?と思っているうちに通常、現実では起こり得ないことが進行してしまったので、これは1度ではわかりそうもありません。
時間・空間が融合というのか変容して、現実の私たちの世界では目に見えなくても確かにあると思っている境界線が消えて自分が自分のままでいつのまにか別の時空に存在しているといった夢の世界のようです。
ただ、よくある映画のように、「これは現実でここからが夢です」とか、「ここまでが彼が生きているいま・ここという現実で、ここからは彼の回想です」みたいな境界線は引かれていません。そこがわかりにくさであることは確かですが、或いは人はいつもこんな風に過去を現在として生き、現在を過去として、デジャヴュにとらわれながら生きているものなのかもしれません。
私には「やくたたず」よりは感覚的にはわかりやすく、同化しやすいところのある映画でした。
個人的には小説でも、方法意識が先だったような作品は好みではありません。学生のころ流行したフランスのアンチロマンなどは、日本でもてはやされて翻訳をたくさん読んだけれど、ほとんど面白い作品に出会ったことはありませんでした。
イギリスにいたころは背伸びして、この種の現代小説の方法的意識の権化ともいうべき先駆者だったジョイスをかじったりして、ダブリンへ行ってブルーム氏の住まいに比定されている住居跡まで訪れたりしたけれど(笑)、ジョイスが自分の著作の理解にはその人の一生を要求する、なんて言ったのは、冗談でしょ、と思ったし、彼の冗談みたいな多言語的な記述に意味があるとも、その解読に一生を捧げるようなことが文学にとって意味があるとは少しも思いません。
でもジョイスが世界中の作家に影響を及ぼしたことは事実だし、彼の影響下で明らかに方法的な意識を強くもった作家で、唯一「方法」がその作品にとって必然的で、これならばもろ手を挙げて、すごい作品、と思える、と私が感嘆したのは、フォークナーの「響きと怒り」だけでした。
「Playback」を見て、あの小説の冒頭のベンジーの目で見られた目の前の光景と、その文章の中に境界を設けずに挿入された彼の脳裏に浮かぶ光景、キャシー!キャシー!キャシー!という彼の切ない叫びを聴いた時の感じを何十年ぶりかで思い出しました。
セカンド・サークル(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1990
「The Second Circle」をそのままカタカナ書きした邦題を見ると、ちょうど私がロンドンにいたころに書店に英訳本が山積みになっていた、ソルジェニーツィンの同じタイトルの本のことが連想されました。あれはもちろんダンテの「神曲」のいわば地獄の2丁目というのか、第2圏「煉獄」を、当時のソ連で反政府的な知識人などが収容されるいくぶん緩やかな収容所になぞらえたものでした。
だから、ソクーロフのこの映画も、「神曲」の「煉獄」に描かれた世界の現代的な翻案かな、と思い、それを象徴するような引用とかなにか「神曲」へのオマージュがあるかな、と思って観ていましたが、私の見落としかどうか、見つけることができませんでした。
ただ、まぁこの映画は死と向き合った作品ですから、まんざら「煉獄」と縁がないわけでもないのかもしれません。
父親と離れて暮らしていた青年が、父の死で、その後処理に猛烈な吹雪の中をやってきます。クレジットが出ている間ずっと激しい吹雪の音が聞こえています。
息子は世間知らずの気の弱そうな青年です。どうやらシベリアの小さな町らしくて、老人の住んでいた家は、深い雪に閉ざされた貧しい一人暮らしの粗末な住まいのようで、床を踏む靴音や扉を開け閉めするバタンバタンという音、壁に物があたる音、ラジオか何かのチューニング音みたいなキュイーという不愉快な音・・・等々、耳障りな音が響くような家です。
画面は暗くて、よく見えない。青年の顔半分だけが裸電球か何かのあかりで照らされて半分は影になってよくみえなかったりして、何かを見せるというより、みなすっぽりと大きな黒い影の世界に包まれている中で、ときおり辛うじて一筋の光で人の表情の一部や体の一部らしいものが伺える、というような映像がつづきます。
男の声で「息絶えてる。間に合わなかった。・・・医者を呼んでいる間に・・」というようなことを言っているようす。
近所の人間なのか政府の役人なのか分からないけれど、状況を仕切る立場にあるらしい男が、死んだ男の息子である青年に、「石鹸と水とスポンジはあるか?」と訊き、水は水道がこわれているからない、と青年が答えると、男は死体を布で包んで青年にも片方を持たせて運びだし、外の雪で洗浄します。息子はスポンジで父親の身体を拭いてやります。これも闇の中のことで、あまり何をどうしているのかよく見えません。
また家の中にもどって、カメラは父親の遺体の足が毛布からはみ出しているのをとらえます。息子の青年の目に涙が見えるようです。
彼は死亡確認書かなにかをとるために、女医のところへ出掛けていきます。いいかげんな医者で、「病名をつけましょう」と言って癌として書類をつくりました。医者もまったくのお役所仕事です。
その行きかえりだったと思いますが、青年がぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られていく、そのバスの車中の人々の表情と動きを、やはり影が支配するわかりにくいモノクロ画面で、この作品の中では珍しい激しい動きと光と影が交錯する、思いっきりデフォルメしたような映像で見せてくれます。
ちょうどアメリカ映画なんかで、突然ディスコで大音響の楽曲がとどろく中、闇の中に強烈な照明の光が点滅したりグルグル回ったりして、激しく踊り狂う若者たちの姿をとらえる画面に転じることがありますが、ちょっとあんな印象で、モノクロでそんな音響もないけれど、似たような印象を与えるシーンがしばらく見られます。沈痛な想いを抱えた青年の肉体をもみくちゃにするぎゅうぎゅう詰めのバス車内の乗客たちを青年の気分からとらえたようなデフォルメされた映像というのでしょうか。
これもたかが医者のところへ死亡診断書を書いてもらいに行くためだけの、僅かなバスの往復ながら、青年を心身ともに疲れはてさせるできごとではあるわけです。
家にもどった青年のところへ葬儀屋です、と威勢のよい女がやってきて、なぜ死体を室内に?と訊いたり、臭いがひどいからと煙草を吹かしたりしながら、葬儀の諸費用について青年に告げて、次々確認していきます。
話の中で、亡くなった父親は1926年生まれというのも出てきます。筋金入りの共産党員で、収容所の所長までつとめた男だったようで、青年はその父に反発して家を飛び出して一人暮らしをしていたようです。
葬儀費用が250ルーブリかかる、というと青年は230しかない、と言います。赤い棺が44ルーブリ、霊柩車の往復が、というと青年は帰りはいらない、と言い、じゃ81ルーブリだと。それに火葬代、骨壺代・・・すると青年が「土葬はできませんか?」「場所は?」「父は焼けない」葬儀屋の女は強く火葬を勧めますが青年は頑として父は焼けない、とこだわります。場所が確保できれば土葬を、と。オルガン付きオーケストラ25ルーブリ・・どちらも不要。赤いカーネーション27ルーブリ・・・安いほうで。あと提供料、編成料で・・・と、ひたすら個別の処理のサービス料、小道具代金についてのやりとり。ここはこの作品の中で最もリアルで、ちょっと滑稽味も覚えるような場面です。
女は葬儀をとにかくこまかく分節されたサービスと小道具を売りつける機会としか考えてなくて、その商品のカタログから次々提示していくだけだし、青年はそういうのはできる限り安くシンプルに抑えようとする、明らかに葬儀屋の女性の勢いに押されっぱなしの青年ですが、少しは抵抗してみせる、そのせめぎあいがちょっとユーモラスなのです。皮肉っぽい眼でとらえられたシーンと言いましょうか。
青年はいま払うといいつつ財布を探すも、盗まれたようだ、と。女医のところへいったバスの中でとられたらしい。冗談でしょ、と葬儀屋の女の態度も一変、ますます上から目線で命令調に。
隣の部屋では死体の確認なのか何か事後処理のためか、役所から派遣された小役人みたいな男たちが刑事事件の現場捜査みたいな感じでなにかマニュアルどおりらしい作業をしています。彼らが居る部屋に横たわる父親の死体も手前の隣室で所在なくそわそわしているだけの青年もいわばその場から疎外されています。死を悲しんだり悼んだり、という人間的な情感が漂う気配はまったくありません。
吹雪の音。眠れない若者は、父の遺体の目を指でこじあけます。死者の目を見開いた顔のクローズアップ。それをじっと見る息子のクローズアップ。
女葬儀屋がなにかキレて物を投げつけるような音。棺桶はまだ?!と癇癪を起したような声。乱暴に棺桶を運び、それがあちこちに当たってたてる物音が大きく、すごく耳障りです。女の苛立たしい声もまた。いたるところに棺桶の角をぶつけて耳障りな音を響かせながら運び出そうとしますが、戸口の前まで来てうまくいきません。女の苛立つ声、どなり声、叫び声、棺桶のぶつかる音。床に置く音。カンカンとわざと響かせているかのよう。
息子である青年もなんかトロクサイ。女が苛立つのも無理ないくらい。遺体に靴下をはかせることだけ自分でやると頑なに女には触らせず、押し退けて自分ではかせたりします。
青年は父のガラクタに等しいような遺品をひとつひとつ点検するように眺めています。たぶんそこには父の母への想いや何か人間的なものを感じさせるようなもの、他人には何の価値もなさそうだけれど、息子にはそれがわかるようなものが含まれていたのでしょう。たぶんずっと反発して父親に対しては冷たかっただろう青年がひとつひとつの遺品を点検する手つき、その姿には、はじめて父親を父親としてとらえなおし、その死を人間の死として悲しみ悼む姿が感じられます。
夜の闇の中で火を焚いて、遺品らしきものをみんな焼いている青年。吹雪。空っぽの部屋。少し離れたところで燃え上がる家。
最後に表示される言葉:我より先に行く親しき者は幸いなり
・・・・う~ん、なかなか見ごたえのある映画でした。例によって画面が暗くてよく分からないのと、ふだんみなれた映画と違って、ソクーロフ流の超スローペースなので、見る方に戸惑いがあります。
でもこの作品が死と向き合う作品であることは一目瞭然で、実は父親の死と向き合っているのは息子の青年だけで、あとの連中はソヴィエト時代のロシアのことですから、死体の確認や処理から葬儀まですべてお役所が何らかの形で関与というか干渉するような官僚主義に彩られていて、検視官だか現場検証だかの男たちは無論のこと、たぶんこのえらそうな女葬儀屋も、日本の葬儀社なんかのような純然たる民間のサービスではなくて、お役所か、少なくとも半分お役所的な組織から派遣されてきた人物で、だから青年に対してイヤに高飛車で、半ば恫喝するような命令的な口調であれこれ決めさせたり、やらせたりします。見ているだけで不愉快な態度ですが、それこそがソ連の官僚主義なのでしょう。
彼らはみな亡くなった青年の父である老人のことなどまるで眼中になく、ただただ死体という「もの」になったものとして、その合理的な処理を考え、その手続きをしているだけなのです。葬儀屋の女も自分では気持ちが悪いからと、遺体に手もふれようとせず、そういうのは全部青年に任せるのです。
ですから、死体を人間が亡くなったものとして、つまり人を人として、死を人間の死として感じ、見ているのは息子たる青年だけで、あとの登場人物はみな、死体というモノしか見ず、その処理しか念頭にないのです。
(葬式の準備を描いているという意味では伊丹十三の「お葬式」のソ連版だけれど、「お葬式」の登場人物は誰もソクーロフの青年のように肉親の死と向き合ってはいません。死体をモノとして処理し、儀式を手順に従って効率よく処理していこうという青年の人間と同じで、ただソ連式の官僚主義的処置か日本式の形骸化した伝統的な儀式かの違いで、それを見る監督の眼差しから自然にその滑稽さが浮かび上がるのも同じですが、伊丹の「お葬式」は、監督の皮肉な眼差しにとらえられる「お葬式」が描かれるだけですが、ソクーロフの作品が描くのは、青年の目に映るそうした「お葬式」への違和感を通して見えてくる「一人の人間の死」なのです。)
VHSビデオカセットのジャケットに、ソクーロフ監督のこんな言葉が記されています。「死を意識することができるとき、ようやく人生と人間であることの意義が露わになる。さもなければ死と生の境界は無いに等しいのだから」と。考えさせられる作品です。
ロシアン・エレジー(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1993
68分の短い作品ですが、非常に印象的な作品です。
冒頭、クレジットが映っている間から、瀕死の人の息のようないかにも苦し気な息の音が聞こえてきます。「水をあげましょうか?」という女の声。そして、苦し気な息の反応。そして水を飲む音。かなりひどい音です。ずっと画面は闇のままで、なにも映しださず、苦しそうな息の音だけが聞こえてきます。「寒いの? 湯たんぽを持ってきましょうか?」といった女の声がたまに聞こえます。
やがて「脈がとまりました」の声。「苦しみを終えたのね。」と女どうしの会話。そして遺体の広げた片手にたぶんその声の主の手が重なり、しばらく重なった手だけが映されています。この重なった手の表情は優しく、美しいシーンです。
赤い空。赤みがかった黄土色の大地。建物の影。森の影。雷鳴。ずっとそんな荒涼たる風景。耳にはずっと人が何かしているような音がノイズのように聞こえてきます。人の声のノイズ。
ここからモノクロの画面へ。夜になったようです。窓辺に坐る人影。先の風景はこの人物の目に映っていた窓の外の夕暮れの風景でしょうか。ランニングシャツ姿のように見えます。(先ほどの死者が生前にそうして窓辺に坐って眺めていた風景のようにも見えます。)
林。雨の音。風の音。橋の風景。ヨット? 鉄道の写真。このあたりからは全部スチール写真です。鉄橋の写真。橋の真ん中に車?そこに坐っている人影(女)に近づいていくカメラ。
鉄橋の下、橋桁の影にとまっている小舟。そこに焦点をあてて近づくカメラ。(「見て」いるのは冒頭で亡くなった男でしょう。彼の脳裏をよぎる過去の光景が、セピア色のスチール写真で次々に登場するようです。ときおりこういう細部の小さな人影にズーミングされるのは、そのときの彼がそんなふうに見ようとしていたからでしょう。)
橋。闇。
水と山の見える風景。
4,5人の子供たちと男のいる写真。
大通り。
波止場?
男と女。婆さん。古着売り?
水辺の建物のある風景。
少年2人の寝そべっている写真。
大通り。
見ずに映る建物。水の上に建つ建物。
尖塔。どうやら教会の尖塔らしい。
教会の遠景。
乳母車?
水辺の建物。
水辺のボート
馬車、桟橋の馬、船上の馬、
人々の満員の船。人々のクローズアップ。
水辺の光景。写っている教会の尖塔はさきほどのと同じ。
船着き場をおりていく人々の列。
小舟の男一人。
教会。子供たち。娘が抱く赤ん坊。
教会のある通り。
教会。手前に一人立つ女
並木のある道。男と女。家の前の女と子供2人。
荷車(馬車)の荷台に腰かける老人
藁の上に寝る女。それを見おろす男。
寝る女。
裸足で土の上に立つ足。
水辺の風景。背中をむけている男。
釜でなにか煮ている野外。女たち。
丸太を組んで作られた家。
老人、女、子供
女
子供2人はだし
人々。ショールをかぶった女4-5人。
大勢の男たち。軍帽の子供も。
子供の表情。引いて、老人。
広い道路。
多くの人々。
勲章をたくさんつけた人。
2人の軍人
ここまでずっと、モノクロのスチール写真。
→女の寝顔(カラー。動画)
周囲で足音。
人はだれでもこう考え始めるところに近づく・・どうしてこれが他の人でなくて自分に起きたのかって、自分のおこない全てを振り返る人もいるわ。自分の人生を振り返り、苦しみをこう受け止める。これは人生の過ちに対するむくいなのかしら、と。
聖書を読んで分かった…人は自分の過ちを償わなくてはならない。自分のだけでなく、周囲の人のも・・・
女性の声でつぶやかれるこの言葉が、この短い作品の中で唯一、直接に何か意味を持つようなセリフとして語られる言葉です。
女の声がつづき、映されるのは男の顔。ベッドで眠っているのか、いやこれがたぶん最初の瀕死で、すぐ死んでしまった男なのでしょう。ランニングシャツ姿、ズボン。
女の声がつづく。足音が聞こえる。
兵士3人がこちらへ歩いてくる映像。塹壕の中で臼砲?をセットする兵士3人。ここは戦場のようです。
羽根がはえた弾丸を発射。すごい爆裂音。
砲弾の走る音。ヒュルルゥ~ッ! 弾丸を詰め替える金属音。発射の轟音。
兵士たち、塹壕の中を左右へ動く。掛け声。女の声。兵士たち。笑い声。足音。
大砲を撃つシーン。ズダダーンッの音。林の中、土煙。ここらはセピア色の動画。
のんびりしてみえる戦場の風景。
鉄兜の兵士ら、塹壕から山へ。
傷ついた兵士を支えながら歩く兵士ら。
水の中へ飛び込んだらしく、水中の光景。砲声が聞こえる。
水面‥黒っぽい。空が映る。樹々も。
雨のあとの凹凸のある平面。向かいに林。山の濃い木々の影。下には雪も残る。手前は凍土か。
手前の凍土のような水たまりのある平面に赤ん坊が置かれている。
赤ん坊のものらしい寝息が聞こえる。ずっとスチール写真のように赤ん坊の顔が映されている。聞こえてくるのはその寝息だけ。カメラが右へパンするとぼやけた木々の影。はじめぼやけていて、やがてピントが合い、樹々の風景。
赤ん坊の寝息がつづく。
丈の高いシダ類のような葉が茂る草叢。むこうは林。
その草叢の中を鶴が長い首だけを立てて歩いている。
林、逆光で暗い。
カラーになり、緑の色が光を浴びて現れる。いったん暗くなり、また光が射して明るくなる。
木々の下の草の緑が明るい緑に。
激しい雨の音。風と雨?
シダ類のような葉に光が射し、葉が揺れる。
死体の頭らしいもの。その傍の台の上に石ころみたいな何かのかたまりみたいなものがいくつか置かれている。
足音など、ノイズが聞こえている。
台のそばのベッドに男(の死体)が横たわっている。その体の一部のアップ。汗?なにか液状のものがくっついて(のっかって)いる。
風景。何の変哲もない風景。手前に荒れた土地。その向こうを横切る道路らしい部分。その向こうに林か。
女の声がずっとノイズとして続いて聴こえている。なにか録音テープのスイッチを切り忘れてつけっぱなしにしたために、拾おうとしていないノイズを拾ってしまっているかのような音。
音楽。→おわり。
こうして映像と音を、メモがとれる範囲で拾ってみたけれど、意味不明でしょう?(笑)
でも最初と最後を見れば構造は明確で、これは兵士だった一人の男の死を描いた作品で、この男の死の瞬間に脳裡を走馬灯のようによぎっていったこの男の人生において見て来た風景がその間に展開されたのだと思います。はっきりしているのは、戦場での兵士たちの動き、大砲を撃ったり、臼砲みたいなのを撃ったり、塹壕の中を右往左往したり、怪我して撤退したり、その途中で水中に入ったり、たぶんここでこの兵士は水死同然、瀕死状態になって野戦病院にでも運ばれて、そこで死んだのかもしれません。ずっと聴こえてくるノイズは大体が病院内の看護婦なんかの人声などのようだと思います。
赤ん坊の意味はわかりませんが、この男にとっては重要な存在だったのでしょう。すごくはっきりと存在感をもって映し出されていましたからね。男の苦し気な瀕死の息と違って、赤ん坊の息はやすらかでした。きっと彼にとってもロシアにとっても希望なのでしょう、これが。「ロシアン・エレジー」というタイトルですから、一兵卒の死を描いてロシアの悲歌としたものではないかと思います。(田山花袋の「一兵卒」を連想しました。)
カリフォルニア・ドールズ (ロバート・アルドリッチ監督) 1981
もう夜なかで寝なくちゃいけないので、ひとことだけ。めっちゃ面白かった!(笑)
プロレスの場面がもうハラハラドキドキで、こんなにプロレスに熱中したことは少年時代、力道山の活躍するのを見たとき以来でした(笑)。
コロンボ刑事のピーター・フォークが、二人の女子プロ選手のマネージャーをしていて、この仕事では敏腕ながら人格的に少々短気でいいかげんで信用できないところのある、腹のたつ、だけど憎めない野郎にピーター・フォークと言う役者はぴったり。うまいですね。ドールズの2人の女子プロを演じた役者(でしょうね?)もすばらしかった。とくにピーターフォークと男女の関係でもあるらしいアイリスのほう。
原題の・・all the marbles ってのは、「あとは全部いただき!」みたいな意味なんでしょうかね。
緑色の髪の少年(ジョセフ・ロージー監督) 1949
マッカーシズムの赤狩りでアメリカから去らなくてはならなかった監督の一人。米ソ冷戦時代を背景に戦争の恐怖からかどうか、戦争孤児で実際には血のつながらないどこかのおじさんにすぎない手品の名手でとても面白い「おじいちゃん」に、自分が孤児だとは知らずに育てられてきた少年の髪の毛が突然緑色になって、クラスメイトたちから、(病気のように)うつるとか言われてひどいいじめを受け、大人たちからも、例えば牛乳屋や水道局では、牛乳や水のせいでそうなったと噂されて迷惑しているとか、とにかく少年は疎まれ、緑の髪をいやいや刈って坊主にされてしまいます。
この緑の髪は少年にとって最後のよりどころであり、誇りであったのですが、最後は信頼していた「おじいちゃん」にも刈るように言われて、仕方なく刈らせるのですが、家出をして警察に保護されます。その保護されたところから映画はスタートしていて、この少年がなにものかも、なぜ丸坊主なのか、なぜ口をきかないかもわからない。心理学の教授だったかロバート・ライアン演じる博士がこの子の心をちょっとだけ開くことができて、少年がいきさつを話し始めて、彼の回想でこの映画の中身が語られるわけです。
少年の失望を決定的にしたのは、彼の両親がロンドンで他人の子供たちを助けるために残っていて死んでしまった、つまり少年にしてみれば我が子たる自分のことよりも他人のことばかりかまけていた、自分の子たるこのぼくを守ろうとしてはくれなかった、ということだったのです。
しかし最後に「おじいちゃん」が父親が最後に書いた手紙、息子が17歳になったら読ませてやってほしい、と送ってきていた手紙をもってきて、それを読むと、母親が先に亡くなり、自分も近々死ぬことを覚悟した父親が、お前のことを愛しているからこそ残るのだということ、自分たちの行為を理解してほしい、価値のある人生だったら死はかなしむべきものではない、戦争のことを忘れるな、忘れたら思い出せ、と書かれていました。
少年は「おじいちゃん」のところへ戻っていきます。ずっと「おじいちゃん」と歌っていた楽しい歌を、また二人で歌いながら。
緑の髪は平和の象徴でしょう。それはときに集団的な差別、忌避、嫌悪、憎悪の対象となるけれども、刈ってしまってもまた生えてくるのは緑の髪、失われない希望なのですね。子供の世界の出来事に託して反戦平和を語った、よくできた古典的なメッセージ映画といってもいいでしょうか。
愛しのアイリーン(吉田恵輔監督) 2018
これは出町座でいま見て来たところです(笑)。何の予備知識もなく昼食後の散歩に行って、新作をひとつみよう、というわけで・・・。
日本の農村というか山村というか、安田顕が演じる、地方の田舎で両親と暮らす40過ぎのマザコン男はまだ独身で、パチンコ屋に勤めるむさくるしい男。男性としての欲望は人一倍?あるので、パチンコ屋の女社長?と関係を持っていたり、まだ幼い子を持つ母子家庭の少々淫乱な母親とも関係したり。母親はまっとうな嫁をみつけようと必死で、持ち込まれる話がみなバツイチだったりオミズさんだったりするので苛立っています。
なんやかやあって、家を飛び出していた男は面倒になって婚活嫁探し海外ツアーみたいなのに参加して、300万円とか払ってフィリピン娘を連れ帰ります。ちょうど留守の間に亡くなった父親の葬儀にフィリピン妻を連れ帰り、逆上した母親は猟銃を持ち出してフィリピン嫁に突きつけます。しかし籍も入り、正規の嫁となった彼女をそうそう簡単には追い出すことができず、前に勧められていた少々頭は固いが「うちの息子に相応しい」行儀作法のできる娘を確保しておいて、隙あらばなんとかフィリピン嫁を追い出そうとする母親。
フィリピン嫁は性格は明るく、家族を養う仕送りをしてもらうため、と割り切ってはいるものの、「心までは売り渡していない」となかなか本当に心を開くとことまではいかず、何かと理由をつけては夫婦らしい営みもない様子。男もそれに苛立ちながら無理にはしていないようで、ほかにはけ口をみつけているようです。嫁はなんとか周囲の人にも慣れない日本の暮らしにも溶け込もうと、あかるくフレンドリーに振舞いますが、周囲の目は単に「金目当ての外国人」、「男が金で買ってきた女」としか見てくれません。
たった一人、英語の喋れる寺の若いお坊さんだけが親身になって色々教えてくれますが、その噂を聞いてやってきたマザコン男はお坊さんをぶちのめして嫁を連れて帰ります。
努力してもなかなか周囲にとけこめず、夫にも心底心を開くことができず、ぎくしゃくする中で、片親(母)がフィリピン人だったというやくざのあんちゃんが、キャバレー勤めのフィリピン女性らを売春ビジネスに引っこ抜いていて、このフィリピン妻にもアプローチしてきます。
彼は彼女に対して結構正論を吐きます。おまえは金で買われてきた性奴隷であって、売春となにも変わらんのだ、実際男の母親もお前を追い出そうとしているだろう、男も買春しただけだ、それが日本人のやりくちだ、と煽って、嫁の立場を抜け出して自分にまかせろ、と口説きます。
それに応じないフィリピン嫁を無理に連れ去ろうとして、車で追ったマザコン男と争いになり、いったんはやくざのあんちゃんがマザコン男をぶちのめしますが、手近にあった猟銃でマザコン男がやくざのあんちゃんを射殺してしまいます。男と嫁は二人でやくざの死体を埋め、共犯関係となってはじめて両者心を開き、血だらけの姿のまま帰宅すると、はじめて夫婦として体を重ねます。
殺したやくざの仲間が男を怪しんでつきまとい、家の壁にも車にも、人殺し、と落書き大書し、町中にその種のチラシをばらまいて、マザコン男は次第に追い詰められていきます。一人雪の林で、樹幹にナイフを突き立て、狂気のように文字を刻み付けている姿がたびたびみられますが、やがて雪の中に倒れ伏してしまいます。
フィリピン妻が彼を発見したときは、もう彼は冷たくなって死んでいました。林の中の何本もの樹幹に「アイリーン」とフィリピン妻の名が刻まれていました
息子だけが生きがいだった老母は現場へ連れてこられて息子の亡骸を見て絶叫して倒れると、そのまま床について口もきけなくなりますが、看病しようとするフィリピン妻を拒否して食事も何もうけつけません。
しかし、フィリピン妻が荷物をまとめ、フィリピンへ帰ると告げて出ようとすると、老母は自分の喉にはさみを突き付けて、山へ連れて行けと無理やり自分を雪の山の中へ連れていかせ、この土地の昔の因習としてあった姥捨てで最期を迎えようとします。
雪のなか、義母を背負って歩き、奥深い所へ来ておろしますが、彼女は義母に家に帰ろう、と繰り返し説得し、再び義母を背負って雪の中を戻ろうとしますが、そのときはもう老母に生きる力は残っていませんでした。一人雪中に残ったフィリピン妻は途方にくれた表情で佇む・・・まぁそんなところで幕となります。
だいぶ以前から農村に若い女性がいなくなり、農家のあととりに嫁の来手がなく、フィリピンなどアジア諸国の女性と集団見合いのようなことをして、結婚相手をさがす、ということが現実に地方で行われるようになっているのは周知のとおりです。まったく生活環境の異なる世界にやってきて農家の嫁として生きていく女性は当然周囲に融け込むのも並大抵ではなく、様々な問題を抱えることになる、というのは誰にでも容易に想像できることでしょう。
しかし、この作品では、もうひと皮剥いて、人間の欲望、性欲と金銭欲の水準で人間をとらえ、また人間関係をとらえて、男性の側から言えば性的欲望を安定的に満たすため、また女性の側から言えば、母国の生活水準が低い中で貧しい子沢山の家庭を支えていくために、仕送りのしてもらえる日本人男性と結婚の形をとるという、いわば露骨な「経済関係」としてとらえているわけです。
マザコン男の母親との関係は時間軸の入った性関係と言ってもいいでしょうし、男が周囲の女たちとやたら性的交渉に及ぶのは本来の性的関係を結ぶべき妻との間でその肝心のことが疎外されているから、ちょうどそれに見合った分だけ他の誰彼とみさかいなくセックスに及ぶということになります。
そんなありさまですから、やくざの片親が日本人にポイ棄てされたフィリピン人女性だというアンちゃんがアイリーンを煽って語る、「お前は日本人男性の性奴隷にすぎず、金で買われた売春婦にすぎないし、自分の母親と同じポイ捨てされる運命をたどるんだ」というのが妙に正論で説得力を持ちさえするのです。
こういう描き方をしているために、フィリピン妻の問題も、すっかり性欲、金銭欲のすれちがいやらぶつかりあいやらに還元されてしまい、ドロドロと汚らしくて、なんだかポルノまがいのエログロナンセンス的な印象が強い映画ですが、そういうドロドロを通過しながら、マザコン男はマザーを振り切ってアイリーンに愛情を持つに至り、アイリーンのほうも彼に心を開くようになる、純愛物語(笑)でもあるわけです。
そうしてその純愛物語を作っていく骨組みに、彼女がフィリピン人で、金で買われてきた妻であり、それが日本の農山村のような保守的な地域共同体の中へ放り込まれたとき、何が起きるか、というようなこともまた、映画の作り手の関心事だったのでしょう。
でも、それならば、私が監督なら(笑)、下半身やお金の問題、要は経済的な交換のむき出しの姿で描かずに、表面はごく穏やかなありうべき国際結婚の形をとって日本の地方農山村へやってきたフィリピン妻がどんな立場に置かれ、どういうふうに周囲の人たちと触れ、どう変貌していくか、そこを掘り下げて淡々と描くやりかたを選んだでしょう。
それは好みの問題かもしれないけれども、下半身とお金の市場交換の話にしてしまうと、大事なものが抜け落ちていくような気がします。
そこは原作のマンガに依拠したいかにもマンガ的な誇張と、滑稽味を与えようとしているのだろうとは思いますが、私は原作を全く知らないので何とも言えません。
ただ、マンガチックな軽い滑稽味というのは、この作品は全体に重量感がありすぎて、つまり主役を演じる安田顕一人とってみても、いかにむさくるしい独身マザコン40男とはいえ、むさくるしすぎて(笑)軽い滑稽味が出てこない。その母親も大熱演ではあるけれど、例えば「俺たちに明日はない」の兄嫁みたいな、たくまざる滑稽味のようなものが出てこなくて、少々イタイ印象を受けてしまうので、喜劇にはなりきらない。ポルノグラフィとしても中途半端だし(笑)・・・
ただ作り手がみんな力んで頑張ったという勢いは感じたし、ある種のインパクトがあることはあったな、と思います。男が子持ち店員とセックスして、彼女が漏らしてしまうようなところ、あのへんはウブな私には衝撃のシーン(笑)だったし、そのあと濡れたズボンを店員仲間に笑われて突っ立っている40男・・あのへんは喜劇性がたしかに感じられました。喜劇なら喜劇に、ポルノならポルノにもう少し徹してくれるといい作品になったんじゃないかと思いました。
寝ても覚めても(濱口竜介監督) 2018 再見
京都シネマで封切のとき見て感想も書いたのですが、出町座でもう一度きょう見てきました。2度目に見ると、最初のときちょっと突出しているような印象を受けた、女性二人がシェアしている部屋へ亮平が同僚クッシーを連れていった口論の場面が、ごくすんなり全体の中で位置しているように感じられて、今回はどこをみても完璧なすごい作品だな、とあらためて印象付けられました。
最初の朝子が展覧会を訪れる場面、麦と出会うはずの歩道橋で子供が爆竹を鳴らしているのがちらっと出てくるけれども何でもない空間を通り過ぎて館内へ入っていくシーンから、こちらは先を知っているから、おうおう、と思わせる鮮やかな入り方で、展覧会場を出て同じ場所を逆に麦のあとを歩いて歩道橋へ入るところで左右に分かれるというところで子供らの爆竹の音で振り返る、そこまでの映像の捉え方を見るだけでもう、これはすごい映画だな、と今回はゾクゾクさせられました。
それはもう最後までずっと続いたと言ってもいいでしょう。カットされて場面転換があると、次の映像の転換とつなぎかたが絶妙で、カットが入るたびにゾクゾクするような快感があります。これはたぶん映画ならではの快感でしょう。私は映画マニアではないので、あんまりそういうことを意識したこともなければ技術的なことはさっぱり分からないけれども、素人でもあの転換で、次の場面がこうか、というその鮮やかさは強く印象づけられます。
今回は作中で最後にとりわけ重要な役割を演じるネコにも注目しました(笑)。みごとな「演技」です(笑)。
とりわけ、床に横たわった亮平に重ねるように朝子が身を横たえて二人が重なった向こうでこっち向いて寝そべっているあの猫!車の旅を強いられてやっと籠から出してもらって、のっそり出てくるあの猫!それからいいところでさしはさまれる映像にとらえられた壁の飾りみたいなのに片手でちょっかいだしているあの猫!そしてもちろん最後に、捨てたぞ!と亮平が言って、雨の草っぱらで朝子がネコを必死で探し、「無駄なことをするな、帰れ!」と亮平が怒鳴って、追ってくる朝子を拒んで走り逃げ帰った亮平が、いったんぴしゃりと閉ざしたドアがそっと開いて亮平の手で差し出されるあの猫!
こう見るたびに快感がわいてくるような映画というのは困ったもので、もう残された時間が少ないから見てない映画をあれもこれも片っ端からみてやれ、と思っているのに、2度観るとまた3度目も見たくなりそう。若い人のように10回も20回も見る体力もないし(笑)、困る。
Playback (三宅唱監督) 2012
これは数日前に出町座のスクリーンで、三宅唱特集の最終日に見ました。見てすぐに、「しまった!」と思ったのは、この映画は1度観たんではなにがなんやらさっぱり分からないままだな、と思い、きっと2度、3度観る方がよさそうだと思ったからです。
出町座の三宅唱特集のEプログラムとして数回上映されたはずですが、ゲストに監督を呼んだ日の特別プログラム以外はA~Eのすべてを1回ずつ見たので、それでいいかと思ってEを見るのが最終日になってしまったのが失敗でした。またどこかでいつか市内で上映されるときにはぜひ見てみたい。
なぜそう思ったかというと、この映画はいわゆる物語性を取り出して要約的に言ってしまえば、もうアラフォーにさしかかったうだつのあがらない、でも或る程度名が知れているらしい男性俳優が、中国人の若い監督が指示する映画の音声吹き替えをやっているシーンからはじまって、なんかこのひと疲れているようで、遅刻はするわ、監督がキレてしまうほどやる気がない仕事ぶりで、叱られても蛙の面に小便的な態度。「先に帰るわ」みたいな感じ。この人が故郷へ帰って友人たちと、或る友人の結婚式に出て、いろいろあって帰ってくる、というだけの、どうってこともない話です。
ところがどうもその結婚式前後の彼もその式に一緒に参列して彼にからむ友人たちも、いつの間にか、いまの40男の彼らではなくて、学生服姿の若いときの姿になっていて、回想場面か夢の中かというふうな場面になっています。しかも、学生服姿になったからといって、彼らの顔がメイクとかで若返っているわけでもなければ、別の若い役者が演じているわけでもなく、40男がそのまま学生服を着て演じています。
これは1回見ただけだと、どの場面からどう変わったのか、あれ?と思っている間に進行していて、よく分からなくなります。おまけに面白いことに、観ていると、一度あった出来事が、もう一度そっくり繰り返されます。それもまったく細部まで同じではなくて、ちょっとした順序や喋る人が違っていたり、あきらかに「繰り返し」でありながら、少しバグが入って、ものごとが継起的に生じるのを記録したデジタルデータの一部がズレたようになっています。そこが面白いといえば面白いけれど、何が起きたか観ていてもよくわかりません。
ただ「繰り返し」であることは明らかなので、当然ながら、デジャヴュというのか、一度この場面は見たよな、こういうセリフは誰かがいってたよな、という強い既視感があります。そしてほんとうに目覚めて画面を注視しているのに、まるで非常に明晰な夢の中の世界にいるみたいな印象をおぼえます。
私たちが眠っている間にみる夢でも、その夢の中ではちっとも曖昧でも朦朧としてもいないし、変だとも思わずに、自分はいまの自分なのに、出て来て「おうおう!」と言葉をかわす友人は高校や大学のときの友人のままの若い姿だったり、それとは違う最近の時期につきあっている会社の同僚なんかが今の年齢で一緒に登場したりして少しも変だと思わずにしゃべったりしています。過去と現在、こちらかあちらか、といった時間や空間が、夢の世界では相互に融通がきくみたいで、現実の世界のように見えない壁で仕切られてはいないようです。
なにかそういう不思議な世界をまざまざと見ているような変な映画(笑)でした。ただ、確実なのは、最初だらしない「いま」のままの恰好で結婚式に(彼だけがそういう恰好をして)出ているのが、2度目に同じシーンで登場して式に参列する彼は、ちゃんと背広だかモーニングだかの正装で、心なしか表情も生き生きしています。
そして、そういう変化のままに、別の世界から戻ってきた彼は、冒頭と同じ仕事をする光景の中で、最初のように投げやりなやる気のない表情をしておらず、なんだか正気に戻ってやる気を出したような顔をして仕事をしていました。
たぶんこの冒頭とラストの変化は、先ほどの夢に似たような世界を経験することで生じているわけです。それが昔の友人たちとの触れ合いの中にあったことは分かります。きっと彼はその世界にあった若いときの友人とのやりとり、気持ちの触れあい、疾走感みたいなものを、一種の幻想の世界で再体験して、今現在を生き生きと生きていく感触というのを取り戻したのでしょう。
それを象徴するような映像として、主人公の彼がローラースケートに乗って、子供たちにまじって走るシーンがあり、2度目のときは、子供だけではなく、もっと大勢の人がローラースケートに乗って湧き出してくるような感じのシーンがあって、あの湧き出てくる感じ、疾走感のようなものが、彼がその世界で触れたかけがえのないものであるかのように印象づけられます。
主役の男を演じた村上淳、友人の中で一種の狂言回しの役割をしている渋川清彦、女性の友人河井青葉らが非常に存在感があって、一人一人の表情が映されると、夢の中で登場するだけで、「あ、誰某じゃないか!」とすぐにわかってしまうその顔のように、夢の中なのにリアルに感じられます。いや夢の中だからこそ、と言うべきか、現実にはそばにいても、意識して見ないと見ていない、見えていない人の顔が、夢の中だからこそ一挙に全部あまりにも鮮やかに間近に直観できてしまう、そんな顔のように見えてきます。
この物語には、菅田俊が演じる先輩の演劇人みたいな人がいて、またみんなで集まって、いっちょやらんか、みたいなことで、そういう役者としての生き方みたいな話も主人公の役者である彼に絡む一本の筋になっています。彼が疲れて今の生活や仕事にいくらか嫌気がさして、故郷へ帰るなかで、そういう自分の役者人生のスタートを確かめ、そのときの自分を再現することで、今の彼が変わっていったということなのでしょうか。
おおまかには、そういう映画だと思うのですが、なにせ細部はあれ?あれ?と思っているうちに通常、現実では起こり得ないことが進行してしまったので、これは1度ではわかりそうもありません。
時間・空間が融合というのか変容して、現実の私たちの世界では目に見えなくても確かにあると思っている境界線が消えて自分が自分のままでいつのまにか別の時空に存在しているといった夢の世界のようです。
ただ、よくある映画のように、「これは現実でここからが夢です」とか、「ここまでが彼が生きているいま・ここという現実で、ここからは彼の回想です」みたいな境界線は引かれていません。そこがわかりにくさであることは確かですが、或いは人はいつもこんな風に過去を現在として生き、現在を過去として、デジャヴュにとらわれながら生きているものなのかもしれません。
私には「やくたたず」よりは感覚的にはわかりやすく、同化しやすいところのある映画でした。
個人的には小説でも、方法意識が先だったような作品は好みではありません。学生のころ流行したフランスのアンチロマンなどは、日本でもてはやされて翻訳をたくさん読んだけれど、ほとんど面白い作品に出会ったことはありませんでした。
イギリスにいたころは背伸びして、この種の現代小説の方法的意識の権化ともいうべき先駆者だったジョイスをかじったりして、ダブリンへ行ってブルーム氏の住まいに比定されている住居跡まで訪れたりしたけれど(笑)、ジョイスが自分の著作の理解にはその人の一生を要求する、なんて言ったのは、冗談でしょ、と思ったし、彼の冗談みたいな多言語的な記述に意味があるとも、その解読に一生を捧げるようなことが文学にとって意味があるとは少しも思いません。
でもジョイスが世界中の作家に影響を及ぼしたことは事実だし、彼の影響下で明らかに方法的な意識を強くもった作家で、唯一「方法」がその作品にとって必然的で、これならばもろ手を挙げて、すごい作品、と思える、と私が感嘆したのは、フォークナーの「響きと怒り」だけでした。
「Playback」を見て、あの小説の冒頭のベンジーの目で見られた目の前の光景と、その文章の中に境界を設けずに挿入された彼の脳裏に浮かぶ光景、キャシー!キャシー!キャシー!という彼の切ない叫びを聴いた時の感じを何十年ぶりかで思い出しました。
セカンド・サークル(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1990
「The Second Circle」をそのままカタカナ書きした邦題を見ると、ちょうど私がロンドンにいたころに書店に英訳本が山積みになっていた、ソルジェニーツィンの同じタイトルの本のことが連想されました。あれはもちろんダンテの「神曲」のいわば地獄の2丁目というのか、第2圏「煉獄」を、当時のソ連で反政府的な知識人などが収容されるいくぶん緩やかな収容所になぞらえたものでした。
だから、ソクーロフのこの映画も、「神曲」の「煉獄」に描かれた世界の現代的な翻案かな、と思い、それを象徴するような引用とかなにか「神曲」へのオマージュがあるかな、と思って観ていましたが、私の見落としかどうか、見つけることができませんでした。
ただ、まぁこの映画は死と向き合った作品ですから、まんざら「煉獄」と縁がないわけでもないのかもしれません。
父親と離れて暮らしていた青年が、父の死で、その後処理に猛烈な吹雪の中をやってきます。クレジットが出ている間ずっと激しい吹雪の音が聞こえています。
息子は世間知らずの気の弱そうな青年です。どうやらシベリアの小さな町らしくて、老人の住んでいた家は、深い雪に閉ざされた貧しい一人暮らしの粗末な住まいのようで、床を踏む靴音や扉を開け閉めするバタンバタンという音、壁に物があたる音、ラジオか何かのチューニング音みたいなキュイーという不愉快な音・・・等々、耳障りな音が響くような家です。
画面は暗くて、よく見えない。青年の顔半分だけが裸電球か何かのあかりで照らされて半分は影になってよくみえなかったりして、何かを見せるというより、みなすっぽりと大きな黒い影の世界に包まれている中で、ときおり辛うじて一筋の光で人の表情の一部や体の一部らしいものが伺える、というような映像がつづきます。
男の声で「息絶えてる。間に合わなかった。・・・医者を呼んでいる間に・・」というようなことを言っているようす。
近所の人間なのか政府の役人なのか分からないけれど、状況を仕切る立場にあるらしい男が、死んだ男の息子である青年に、「石鹸と水とスポンジはあるか?」と訊き、水は水道がこわれているからない、と青年が答えると、男は死体を布で包んで青年にも片方を持たせて運びだし、外の雪で洗浄します。息子はスポンジで父親の身体を拭いてやります。これも闇の中のことで、あまり何をどうしているのかよく見えません。
また家の中にもどって、カメラは父親の遺体の足が毛布からはみ出しているのをとらえます。息子の青年の目に涙が見えるようです。
彼は死亡確認書かなにかをとるために、女医のところへ出掛けていきます。いいかげんな医者で、「病名をつけましょう」と言って癌として書類をつくりました。医者もまったくのお役所仕事です。
その行きかえりだったと思いますが、青年がぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られていく、そのバスの車中の人々の表情と動きを、やはり影が支配するわかりにくいモノクロ画面で、この作品の中では珍しい激しい動きと光と影が交錯する、思いっきりデフォルメしたような映像で見せてくれます。
ちょうどアメリカ映画なんかで、突然ディスコで大音響の楽曲がとどろく中、闇の中に強烈な照明の光が点滅したりグルグル回ったりして、激しく踊り狂う若者たちの姿をとらえる画面に転じることがありますが、ちょっとあんな印象で、モノクロでそんな音響もないけれど、似たような印象を与えるシーンがしばらく見られます。沈痛な想いを抱えた青年の肉体をもみくちゃにするぎゅうぎゅう詰めのバス車内の乗客たちを青年の気分からとらえたようなデフォルメされた映像というのでしょうか。
これもたかが医者のところへ死亡診断書を書いてもらいに行くためだけの、僅かなバスの往復ながら、青年を心身ともに疲れはてさせるできごとではあるわけです。
家にもどった青年のところへ葬儀屋です、と威勢のよい女がやってきて、なぜ死体を室内に?と訊いたり、臭いがひどいからと煙草を吹かしたりしながら、葬儀の諸費用について青年に告げて、次々確認していきます。
話の中で、亡くなった父親は1926年生まれというのも出てきます。筋金入りの共産党員で、収容所の所長までつとめた男だったようで、青年はその父に反発して家を飛び出して一人暮らしをしていたようです。
葬儀費用が250ルーブリかかる、というと青年は230しかない、と言います。赤い棺が44ルーブリ、霊柩車の往復が、というと青年は帰りはいらない、と言い、じゃ81ルーブリだと。それに火葬代、骨壺代・・・すると青年が「土葬はできませんか?」「場所は?」「父は焼けない」葬儀屋の女は強く火葬を勧めますが青年は頑として父は焼けない、とこだわります。場所が確保できれば土葬を、と。オルガン付きオーケストラ25ルーブリ・・どちらも不要。赤いカーネーション27ルーブリ・・・安いほうで。あと提供料、編成料で・・・と、ひたすら個別の処理のサービス料、小道具代金についてのやりとり。ここはこの作品の中で最もリアルで、ちょっと滑稽味も覚えるような場面です。
女は葬儀をとにかくこまかく分節されたサービスと小道具を売りつける機会としか考えてなくて、その商品のカタログから次々提示していくだけだし、青年はそういうのはできる限り安くシンプルに抑えようとする、明らかに葬儀屋の女性の勢いに押されっぱなしの青年ですが、少しは抵抗してみせる、そのせめぎあいがちょっとユーモラスなのです。皮肉っぽい眼でとらえられたシーンと言いましょうか。
青年はいま払うといいつつ財布を探すも、盗まれたようだ、と。女医のところへいったバスの中でとられたらしい。冗談でしょ、と葬儀屋の女の態度も一変、ますます上から目線で命令調に。
隣の部屋では死体の確認なのか何か事後処理のためか、役所から派遣された小役人みたいな男たちが刑事事件の現場捜査みたいな感じでなにかマニュアルどおりらしい作業をしています。彼らが居る部屋に横たわる父親の死体も手前の隣室で所在なくそわそわしているだけの青年もいわばその場から疎外されています。死を悲しんだり悼んだり、という人間的な情感が漂う気配はまったくありません。
吹雪の音。眠れない若者は、父の遺体の目を指でこじあけます。死者の目を見開いた顔のクローズアップ。それをじっと見る息子のクローズアップ。
女葬儀屋がなにかキレて物を投げつけるような音。棺桶はまだ?!と癇癪を起したような声。乱暴に棺桶を運び、それがあちこちに当たってたてる物音が大きく、すごく耳障りです。女の苛立たしい声もまた。いたるところに棺桶の角をぶつけて耳障りな音を響かせながら運び出そうとしますが、戸口の前まで来てうまくいきません。女の苛立つ声、どなり声、叫び声、棺桶のぶつかる音。床に置く音。カンカンとわざと響かせているかのよう。
息子である青年もなんかトロクサイ。女が苛立つのも無理ないくらい。遺体に靴下をはかせることだけ自分でやると頑なに女には触らせず、押し退けて自分ではかせたりします。
青年は父のガラクタに等しいような遺品をひとつひとつ点検するように眺めています。たぶんそこには父の母への想いや何か人間的なものを感じさせるようなもの、他人には何の価値もなさそうだけれど、息子にはそれがわかるようなものが含まれていたのでしょう。たぶんずっと反発して父親に対しては冷たかっただろう青年がひとつひとつの遺品を点検する手つき、その姿には、はじめて父親を父親としてとらえなおし、その死を人間の死として悲しみ悼む姿が感じられます。
夜の闇の中で火を焚いて、遺品らしきものをみんな焼いている青年。吹雪。空っぽの部屋。少し離れたところで燃え上がる家。
最後に表示される言葉:我より先に行く親しき者は幸いなり
・・・・う~ん、なかなか見ごたえのある映画でした。例によって画面が暗くてよく分からないのと、ふだんみなれた映画と違って、ソクーロフ流の超スローペースなので、見る方に戸惑いがあります。
でもこの作品が死と向き合う作品であることは一目瞭然で、実は父親の死と向き合っているのは息子の青年だけで、あとの連中はソヴィエト時代のロシアのことですから、死体の確認や処理から葬儀まですべてお役所が何らかの形で関与というか干渉するような官僚主義に彩られていて、検視官だか現場検証だかの男たちは無論のこと、たぶんこのえらそうな女葬儀屋も、日本の葬儀社なんかのような純然たる民間のサービスではなくて、お役所か、少なくとも半分お役所的な組織から派遣されてきた人物で、だから青年に対してイヤに高飛車で、半ば恫喝するような命令的な口調であれこれ決めさせたり、やらせたりします。見ているだけで不愉快な態度ですが、それこそがソ連の官僚主義なのでしょう。
彼らはみな亡くなった青年の父である老人のことなどまるで眼中になく、ただただ死体という「もの」になったものとして、その合理的な処理を考え、その手続きをしているだけなのです。葬儀屋の女も自分では気持ちが悪いからと、遺体に手もふれようとせず、そういうのは全部青年に任せるのです。
ですから、死体を人間が亡くなったものとして、つまり人を人として、死を人間の死として感じ、見ているのは息子たる青年だけで、あとの登場人物はみな、死体というモノしか見ず、その処理しか念頭にないのです。
(葬式の準備を描いているという意味では伊丹十三の「お葬式」のソ連版だけれど、「お葬式」の登場人物は誰もソクーロフの青年のように肉親の死と向き合ってはいません。死体をモノとして処理し、儀式を手順に従って効率よく処理していこうという青年の人間と同じで、ただソ連式の官僚主義的処置か日本式の形骸化した伝統的な儀式かの違いで、それを見る監督の眼差しから自然にその滑稽さが浮かび上がるのも同じですが、伊丹の「お葬式」は、監督の皮肉な眼差しにとらえられる「お葬式」が描かれるだけですが、ソクーロフの作品が描くのは、青年の目に映るそうした「お葬式」への違和感を通して見えてくる「一人の人間の死」なのです。)
VHSビデオカセットのジャケットに、ソクーロフ監督のこんな言葉が記されています。「死を意識することができるとき、ようやく人生と人間であることの意義が露わになる。さもなければ死と生の境界は無いに等しいのだから」と。考えさせられる作品です。
ロシアン・エレジー(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1993
68分の短い作品ですが、非常に印象的な作品です。
冒頭、クレジットが映っている間から、瀕死の人の息のようないかにも苦し気な息の音が聞こえてきます。「水をあげましょうか?」という女の声。そして、苦し気な息の反応。そして水を飲む音。かなりひどい音です。ずっと画面は闇のままで、なにも映しださず、苦しそうな息の音だけが聞こえてきます。「寒いの? 湯たんぽを持ってきましょうか?」といった女の声がたまに聞こえます。
やがて「脈がとまりました」の声。「苦しみを終えたのね。」と女どうしの会話。そして遺体の広げた片手にたぶんその声の主の手が重なり、しばらく重なった手だけが映されています。この重なった手の表情は優しく、美しいシーンです。
赤い空。赤みがかった黄土色の大地。建物の影。森の影。雷鳴。ずっとそんな荒涼たる風景。耳にはずっと人が何かしているような音がノイズのように聞こえてきます。人の声のノイズ。
ここからモノクロの画面へ。夜になったようです。窓辺に坐る人影。先の風景はこの人物の目に映っていた窓の外の夕暮れの風景でしょうか。ランニングシャツ姿のように見えます。(先ほどの死者が生前にそうして窓辺に坐って眺めていた風景のようにも見えます。)
林。雨の音。風の音。橋の風景。ヨット? 鉄道の写真。このあたりからは全部スチール写真です。鉄橋の写真。橋の真ん中に車?そこに坐っている人影(女)に近づいていくカメラ。
鉄橋の下、橋桁の影にとまっている小舟。そこに焦点をあてて近づくカメラ。(「見て」いるのは冒頭で亡くなった男でしょう。彼の脳裏をよぎる過去の光景が、セピア色のスチール写真で次々に登場するようです。ときおりこういう細部の小さな人影にズーミングされるのは、そのときの彼がそんなふうに見ようとしていたからでしょう。)
橋。闇。
水と山の見える風景。
4,5人の子供たちと男のいる写真。
大通り。
波止場?
男と女。婆さん。古着売り?
水辺の建物のある風景。
少年2人の寝そべっている写真。
大通り。
見ずに映る建物。水の上に建つ建物。
尖塔。どうやら教会の尖塔らしい。
教会の遠景。
乳母車?
水辺の建物。
水辺のボート
馬車、桟橋の馬、船上の馬、
人々の満員の船。人々のクローズアップ。
水辺の光景。写っている教会の尖塔はさきほどのと同じ。
船着き場をおりていく人々の列。
小舟の男一人。
教会。子供たち。娘が抱く赤ん坊。
教会のある通り。
教会。手前に一人立つ女
並木のある道。男と女。家の前の女と子供2人。
荷車(馬車)の荷台に腰かける老人
藁の上に寝る女。それを見おろす男。
寝る女。
裸足で土の上に立つ足。
水辺の風景。背中をむけている男。
釜でなにか煮ている野外。女たち。
丸太を組んで作られた家。
老人、女、子供
女
子供2人はだし
人々。ショールをかぶった女4-5人。
大勢の男たち。軍帽の子供も。
子供の表情。引いて、老人。
広い道路。
多くの人々。
勲章をたくさんつけた人。
2人の軍人
ここまでずっと、モノクロのスチール写真。
→女の寝顔(カラー。動画)
周囲で足音。
人はだれでもこう考え始めるところに近づく・・どうしてこれが他の人でなくて自分に起きたのかって、自分のおこない全てを振り返る人もいるわ。自分の人生を振り返り、苦しみをこう受け止める。これは人生の過ちに対するむくいなのかしら、と。
聖書を読んで分かった…人は自分の過ちを償わなくてはならない。自分のだけでなく、周囲の人のも・・・
女性の声でつぶやかれるこの言葉が、この短い作品の中で唯一、直接に何か意味を持つようなセリフとして語られる言葉です。
女の声がつづき、映されるのは男の顔。ベッドで眠っているのか、いやこれがたぶん最初の瀕死で、すぐ死んでしまった男なのでしょう。ランニングシャツ姿、ズボン。
女の声がつづく。足音が聞こえる。
兵士3人がこちらへ歩いてくる映像。塹壕の中で臼砲?をセットする兵士3人。ここは戦場のようです。
羽根がはえた弾丸を発射。すごい爆裂音。
砲弾の走る音。ヒュルルゥ~ッ! 弾丸を詰め替える金属音。発射の轟音。
兵士たち、塹壕の中を左右へ動く。掛け声。女の声。兵士たち。笑い声。足音。
大砲を撃つシーン。ズダダーンッの音。林の中、土煙。ここらはセピア色の動画。
のんびりしてみえる戦場の風景。
鉄兜の兵士ら、塹壕から山へ。
傷ついた兵士を支えながら歩く兵士ら。
水の中へ飛び込んだらしく、水中の光景。砲声が聞こえる。
水面‥黒っぽい。空が映る。樹々も。
雨のあとの凹凸のある平面。向かいに林。山の濃い木々の影。下には雪も残る。手前は凍土か。
手前の凍土のような水たまりのある平面に赤ん坊が置かれている。
赤ん坊のものらしい寝息が聞こえる。ずっとスチール写真のように赤ん坊の顔が映されている。聞こえてくるのはその寝息だけ。カメラが右へパンするとぼやけた木々の影。はじめぼやけていて、やがてピントが合い、樹々の風景。
赤ん坊の寝息がつづく。
丈の高いシダ類のような葉が茂る草叢。むこうは林。
その草叢の中を鶴が長い首だけを立てて歩いている。
林、逆光で暗い。
カラーになり、緑の色が光を浴びて現れる。いったん暗くなり、また光が射して明るくなる。
木々の下の草の緑が明るい緑に。
激しい雨の音。風と雨?
シダ類のような葉に光が射し、葉が揺れる。
死体の頭らしいもの。その傍の台の上に石ころみたいな何かのかたまりみたいなものがいくつか置かれている。
足音など、ノイズが聞こえている。
台のそばのベッドに男(の死体)が横たわっている。その体の一部のアップ。汗?なにか液状のものがくっついて(のっかって)いる。
風景。何の変哲もない風景。手前に荒れた土地。その向こうを横切る道路らしい部分。その向こうに林か。
女の声がずっとノイズとして続いて聴こえている。なにか録音テープのスイッチを切り忘れてつけっぱなしにしたために、拾おうとしていないノイズを拾ってしまっているかのような音。
音楽。→おわり。
こうして映像と音を、メモがとれる範囲で拾ってみたけれど、意味不明でしょう?(笑)
でも最初と最後を見れば構造は明確で、これは兵士だった一人の男の死を描いた作品で、この男の死の瞬間に脳裡を走馬灯のようによぎっていったこの男の人生において見て来た風景がその間に展開されたのだと思います。はっきりしているのは、戦場での兵士たちの動き、大砲を撃ったり、臼砲みたいなのを撃ったり、塹壕の中を右往左往したり、怪我して撤退したり、その途中で水中に入ったり、たぶんここでこの兵士は水死同然、瀕死状態になって野戦病院にでも運ばれて、そこで死んだのかもしれません。ずっと聴こえてくるノイズは大体が病院内の看護婦なんかの人声などのようだと思います。
赤ん坊の意味はわかりませんが、この男にとっては重要な存在だったのでしょう。すごくはっきりと存在感をもって映し出されていましたからね。男の苦し気な瀕死の息と違って、赤ん坊の息はやすらかでした。きっと彼にとってもロシアにとっても希望なのでしょう、これが。「ロシアン・エレジー」というタイトルですから、一兵卒の死を描いてロシアの悲歌としたものではないかと思います。(田山花袋の「一兵卒」を連想しました。)
カリフォルニア・ドールズ (ロバート・アルドリッチ監督) 1981
もう夜なかで寝なくちゃいけないので、ひとことだけ。めっちゃ面白かった!(笑)
プロレスの場面がもうハラハラドキドキで、こんなにプロレスに熱中したことは少年時代、力道山の活躍するのを見たとき以来でした(笑)。
コロンボ刑事のピーター・フォークが、二人の女子プロ選手のマネージャーをしていて、この仕事では敏腕ながら人格的に少々短気でいいかげんで信用できないところのある、腹のたつ、だけど憎めない野郎にピーター・フォークと言う役者はぴったり。うまいですね。ドールズの2人の女子プロを演じた役者(でしょうね?)もすばらしかった。とくにピーターフォークと男女の関係でもあるらしいアイリスのほう。
原題の・・all the marbles ってのは、「あとは全部いただき!」みたいな意味なんでしょうかね。
緑色の髪の少年(ジョセフ・ロージー監督) 1949
マッカーシズムの赤狩りでアメリカから去らなくてはならなかった監督の一人。米ソ冷戦時代を背景に戦争の恐怖からかどうか、戦争孤児で実際には血のつながらないどこかのおじさんにすぎない手品の名手でとても面白い「おじいちゃん」に、自分が孤児だとは知らずに育てられてきた少年の髪の毛が突然緑色になって、クラスメイトたちから、(病気のように)うつるとか言われてひどいいじめを受け、大人たちからも、例えば牛乳屋や水道局では、牛乳や水のせいでそうなったと噂されて迷惑しているとか、とにかく少年は疎まれ、緑の髪をいやいや刈って坊主にされてしまいます。
この緑の髪は少年にとって最後のよりどころであり、誇りであったのですが、最後は信頼していた「おじいちゃん」にも刈るように言われて、仕方なく刈らせるのですが、家出をして警察に保護されます。その保護されたところから映画はスタートしていて、この少年がなにものかも、なぜ丸坊主なのか、なぜ口をきかないかもわからない。心理学の教授だったかロバート・ライアン演じる博士がこの子の心をちょっとだけ開くことができて、少年がいきさつを話し始めて、彼の回想でこの映画の中身が語られるわけです。
少年の失望を決定的にしたのは、彼の両親がロンドンで他人の子供たちを助けるために残っていて死んでしまった、つまり少年にしてみれば我が子たる自分のことよりも他人のことばかりかまけていた、自分の子たるこのぼくを守ろうとしてはくれなかった、ということだったのです。
しかし最後に「おじいちゃん」が父親が最後に書いた手紙、息子が17歳になったら読ませてやってほしい、と送ってきていた手紙をもってきて、それを読むと、母親が先に亡くなり、自分も近々死ぬことを覚悟した父親が、お前のことを愛しているからこそ残るのだということ、自分たちの行為を理解してほしい、価値のある人生だったら死はかなしむべきものではない、戦争のことを忘れるな、忘れたら思い出せ、と書かれていました。
少年は「おじいちゃん」のところへ戻っていきます。ずっと「おじいちゃん」と歌っていた楽しい歌を、また二人で歌いながら。
緑の髪は平和の象徴でしょう。それはときに集団的な差別、忌避、嫌悪、憎悪の対象となるけれども、刈ってしまってもまた生えてくるのは緑の髪、失われない希望なのですね。子供の世界の出来事に託して反戦平和を語った、よくできた古典的なメッセージ映画といってもいいでしょうか。
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2018年10月28日
内田吐夢監督「恋や恋なすな恋」を見る
昨日、第10回京都ヒストリカ国際映画祭のオープニングを飾るヒストリカ・スペシャルとして上映された、内田吐夢監督の「恋や恋なすな恋」(1962, 109分)の4Kデジタル復元版を見ることができました。
大画面で美しく復元されたこの作品は、まだ日本映画が産業として盛んだった時代を象徴するように華麗きわまりなく、昔ながらの変身譚・異類婚の流れを汲む物語りの単純さにもかかわらず、総合芸術としての映画の華を堪能させてくれました。
物語は、日本霊異記などにも出てくる(「狐を妻として子を生ましめし縁」)古くからある異類婚・変身譚の流れを汲む話が底流にあって、直接には竹田出雲の人形浄瑠璃の名作「芦屋道満大内鑑」或いは歌舞伎の同演目の葛の葉子別れの段や清元の「保名」を下敷きにしています。
平安時代朱雀帝時代が背景で、月を白雲が貫く異様な天文現象を不吉なことと恐れた朝廷が、当時は朝廷の命運をも左右する自然現象を読み解く能力をもつ天文博士加茂保憲に加茂家秘伝の書による解決を求めたのをきっかけに、加茂家の後継をめぐって二人の弟子、保名と芦屋道満が競い合う中、道満に想いを寄せる保憲の妻が結託した陰謀によって無実の罪を着せられた安倍保名(あべのやすな)が、博士ばかりか、博士の養女で許婚の榊の前を殺され、自分は命長らえたものの正気を失い、榊の前の形見である朱の錦の着物を半身に纏い、菜の花が一面に咲く春の野に出て榊の姿を求めて彷徨い、一人舞います。
この場面は実に美しい幻想的な場面で、清元「保名」による大川橋蔵の舞が一面の菜の花の黄を背景にたっぷり披露してくれます。この曲に縁の深い六代目菊五郎の養子大川橋蔵のことでもあり、当時たしか30代前半の非常に美形の橋蔵がツユクサ模様の白地の着物に半身は榊の前の形見の朱の錦の小袖をまとって舞うこのシーンは素晴らしかった。
大川橋蔵という人は本当に化粧の映える人で、わたしは一度或る病院の待合室で彼が座っているのは間近に見たことがあるのですが(もちろん素顔の写真を見ればわかりますが)、率直に言って素顔はなんてことない、どっちかというと日本人としてどこにでもいそうな平均的な、丸い小さくてぺちゃんこの顔(笑)した役者さんでした。
でもこのあまり西洋人的に彫りの深くない、癖のない小顔が、時代劇や歌舞伎の伝統的な化粧をすると、絶世の美男顔になってしまいます。この映画の彼もまさにそういう絶世の美男子だし、新吾十番勝負の橋蔵など、パートナーは半世紀たってもうっとりした表情で思い返しています(笑)。
恋よ恋
われ中空になすな恋
恋風が来ては
袂にかいもつれ
思ふ中をば吹きわくる
花に嵐の狂ひてし
心そぞろに何処とも
道行く人に言問へど
岩堰く水と我が胸と
砕けて落る涙には
片敷く袖の片思ひ
姿もいつか乱れ髪
誰が取上ていふことも
菜種の畑に狂ふ蝶
翼交して羨し、
野辺の陽炎春草を
素袍袴に踏みしだき
狂ひ狂ひて来りける
そこへ榊の双子の妹・葛の葉とその両親庄司夫婦が通りかかり、保名は榊と瓜二つの葛の葉を保名と思い込んで近づきます。戸惑いながらも庄司は保名を邸に連れ帰り、葛の葉もまた自分を姉と思い込んでいる保名をそのままに受け容れてくれて、保名は穏やかな日々を過ごします。
先の天文現象の怪異が告げた不吉な預言を解決するためには白狐の血が必要と知った朝廷では、信太の野でキツネ狩りを行います。ちょうどその場に来合わせた保名、葛の葉たちは、矢で背中を射られて苦しむ老婆に出逢い、いたわって東屋まで送り届けてやります。
実は老婆とその一家は白狐の爺婆と孫娘だったのですね。このとき家の中の爺婆孫娘に向けたカメラが、突然狐の仮面をつけた顔をとらえます。これには私たち観客も意表を突かれ、一瞬驚いてしまいますが、古典的な変身譚には十分幼いころから馴染み、また歌舞伎や文楽といった舞台に多かれ少なかれ触れて来た日本人としては、感覚的に少しも違和感がなく、ものすごく納得してこの演出を受け入れていることに気づきます。
孫娘のコンは爺狐に、婆の命の恩人である保名を追って見守り、危機のときには保名を守るように言われて後を追います。保名は庄司邸へ戻る途中、兵士たちに囲まれて襲われますが、孫狐コンの報せで駆け付けた大勢の狐たちのおかげで、葛の葉たちから離れ離れになるものの、命だけは助かります。
斬られて意識を失って倒れている保名を、コンは自分の術で作った家に運び、葛の葉の姿に変身して献身的に介護します。ここでのコン≒葛の葉を演じる嵯峨美智子の妖艶な美しさはたとえようもなく、たぶんこういう女優さんは空前絶後だろうなと思います。もちろん当初、榊として登場するときから綺麗ではありますが、この狐の化けた葛の葉のときは本当に妖怪じみた美しさです。
彼女は斬られて意識を失っている保名の深い刀傷を、狐の本性そのままに、自分の舌で直接舐めて直そうとします。手負いの獣が自分の傷を繰り返し舐めるように、彼女が葛の葉そのままの美しい顔を保名の肩口の切り傷にうずめて繰り返し繰り返し丁寧に舐めているシーンは、濡れ場でもないのに或る意味で濡れ場以上にエロティックでさえあります。
そして、傷が癒え、正気に戻った保名が、彼に心を奪われた白狐コンの化身である目の前の葛の葉を抱きしめ、接吻するシーンがすごい。唇が離れたときのコン≒葛の葉の表情を見せるのですが、その口がまだ半ば開かれて、いま舌を絡ませたディープキスをしたばかり、という唇を重ねたときそのままに、濡れた舌が覗いている。これがもうものすごくエロティックで、男性観客は瑳峨美智子という女優さんにこのシーンだけでコロッと参ってしまうに違いないという・・・(笑)
彼女は爺狐から、人間に恋してはならぬ、と固く言われていたのに、保名に恋してしまい、傷が癒えて目覚めた保名が葛葉だと思い込むままに、彼と契りを結んで子までなしてしまいます。そうして葛葉の姿かたちをしたコンは機を織り、保名には危険ゆえ決して庄司のもとへ帰ってはならぬと言い含めて、ことが露見するのをひそかに恐れながらも楽しく平穏な日々を過ごしていました。
ところがそこへ庄司夫妻とほんものの葛葉が訪ねてきて、保名と出会います。その会話を機を織りながら障子の向こうで聴いていた孫狐コンは、とうとう恐れていた日が来たことを悟り、自分の素性を打ち明け、子供を置いていくので葛葉の子として育ててほしいと言い、口にくわえた筆で障子に;
恋しくば たずね来てみよ和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉
とさらさらと書くと、保名が障子を開いたとたんたちこめる白煙の中を、白狐の姿にもどって飛び去っていきます。
そのとたんに、これまで保名と狐の葛葉がくらしていた家が一挙に崩れ落ちてなにもない草の野辺と化し、赤子と秘伝書だけが後に残されています。映画の中では明かされないけれど、浄瑠璃ではこの赤子がのちの安倍晴明、今昔物語や宇治拾遺物語ではお馴染みの平安時代に活躍した陰陽師ということになっているので、この話は安倍晴明の両親の話であり安倍晴明の誕生秘話でもあるわけです。
この孫狐コンが保名を運んできた家のところから、画面は歌舞伎の舞台を撮る映像となって、回り舞台の上にしつらえられた家の中で二人が演じることになります。そして、最後に家が消えて野原に変わるところは、まさに歌舞伎の大道具による転換で、まことに見事なものです。回り舞台も、家の中の空間を角度を変えて撮るのに活用されていて、映画的にカメラの移動に頼らない歌舞伎的な方法が採用されています。赤ん坊の人形なども舞台のもので、最後に飛び去る白狐はアニメです。
おそらく平安時代かそれ以前から伝わる昔話の流れを汲む変身譚・異類婚を核とする浄瑠璃、清元をベースに、その手法を舞台のしつらえから浄瑠璃語りや舞い、舞台美術や役者の演技にまで、大胆に映画という舶来の近代的な表現の中に取り込み、きわめて日本的でいて普遍性のあるクロスジャンル的な映像表現を生み出した作品で、私は以前のバージョンをみていませんが、おそらくは今回の4Kデジタル復元という高度な技術によってそのすばらしい色彩とともに臨場感が甦ったのだろうと思います。何もしらずに予約してこの作品を見ることができて本当にラッキーでした。早くこのデジタル復元版がブルーレイにでもなって、若い人たちに広くみられるようになることを願っています。
大画面で美しく復元されたこの作品は、まだ日本映画が産業として盛んだった時代を象徴するように華麗きわまりなく、昔ながらの変身譚・異類婚の流れを汲む物語りの単純さにもかかわらず、総合芸術としての映画の華を堪能させてくれました。
物語は、日本霊異記などにも出てくる(「狐を妻として子を生ましめし縁」)古くからある異類婚・変身譚の流れを汲む話が底流にあって、直接には竹田出雲の人形浄瑠璃の名作「芦屋道満大内鑑」或いは歌舞伎の同演目の葛の葉子別れの段や清元の「保名」を下敷きにしています。
平安時代朱雀帝時代が背景で、月を白雲が貫く異様な天文現象を不吉なことと恐れた朝廷が、当時は朝廷の命運をも左右する自然現象を読み解く能力をもつ天文博士加茂保憲に加茂家秘伝の書による解決を求めたのをきっかけに、加茂家の後継をめぐって二人の弟子、保名と芦屋道満が競い合う中、道満に想いを寄せる保憲の妻が結託した陰謀によって無実の罪を着せられた安倍保名(あべのやすな)が、博士ばかりか、博士の養女で許婚の榊の前を殺され、自分は命長らえたものの正気を失い、榊の前の形見である朱の錦の着物を半身に纏い、菜の花が一面に咲く春の野に出て榊の姿を求めて彷徨い、一人舞います。
この場面は実に美しい幻想的な場面で、清元「保名」による大川橋蔵の舞が一面の菜の花の黄を背景にたっぷり披露してくれます。この曲に縁の深い六代目菊五郎の養子大川橋蔵のことでもあり、当時たしか30代前半の非常に美形の橋蔵がツユクサ模様の白地の着物に半身は榊の前の形見の朱の錦の小袖をまとって舞うこのシーンは素晴らしかった。
大川橋蔵という人は本当に化粧の映える人で、わたしは一度或る病院の待合室で彼が座っているのは間近に見たことがあるのですが(もちろん素顔の写真を見ればわかりますが)、率直に言って素顔はなんてことない、どっちかというと日本人としてどこにでもいそうな平均的な、丸い小さくてぺちゃんこの顔(笑)した役者さんでした。
でもこのあまり西洋人的に彫りの深くない、癖のない小顔が、時代劇や歌舞伎の伝統的な化粧をすると、絶世の美男顔になってしまいます。この映画の彼もまさにそういう絶世の美男子だし、新吾十番勝負の橋蔵など、パートナーは半世紀たってもうっとりした表情で思い返しています(笑)。
恋よ恋
われ中空になすな恋
恋風が来ては
袂にかいもつれ
思ふ中をば吹きわくる
花に嵐の狂ひてし
心そぞろに何処とも
道行く人に言問へど
岩堰く水と我が胸と
砕けて落る涙には
片敷く袖の片思ひ
姿もいつか乱れ髪
誰が取上ていふことも
菜種の畑に狂ふ蝶
翼交して羨し、
野辺の陽炎春草を
素袍袴に踏みしだき
狂ひ狂ひて来りける
そこへ榊の双子の妹・葛の葉とその両親庄司夫婦が通りかかり、保名は榊と瓜二つの葛の葉を保名と思い込んで近づきます。戸惑いながらも庄司は保名を邸に連れ帰り、葛の葉もまた自分を姉と思い込んでいる保名をそのままに受け容れてくれて、保名は穏やかな日々を過ごします。
先の天文現象の怪異が告げた不吉な預言を解決するためには白狐の血が必要と知った朝廷では、信太の野でキツネ狩りを行います。ちょうどその場に来合わせた保名、葛の葉たちは、矢で背中を射られて苦しむ老婆に出逢い、いたわって東屋まで送り届けてやります。
実は老婆とその一家は白狐の爺婆と孫娘だったのですね。このとき家の中の爺婆孫娘に向けたカメラが、突然狐の仮面をつけた顔をとらえます。これには私たち観客も意表を突かれ、一瞬驚いてしまいますが、古典的な変身譚には十分幼いころから馴染み、また歌舞伎や文楽といった舞台に多かれ少なかれ触れて来た日本人としては、感覚的に少しも違和感がなく、ものすごく納得してこの演出を受け入れていることに気づきます。
孫娘のコンは爺狐に、婆の命の恩人である保名を追って見守り、危機のときには保名を守るように言われて後を追います。保名は庄司邸へ戻る途中、兵士たちに囲まれて襲われますが、孫狐コンの報せで駆け付けた大勢の狐たちのおかげで、葛の葉たちから離れ離れになるものの、命だけは助かります。
斬られて意識を失って倒れている保名を、コンは自分の術で作った家に運び、葛の葉の姿に変身して献身的に介護します。ここでのコン≒葛の葉を演じる嵯峨美智子の妖艶な美しさはたとえようもなく、たぶんこういう女優さんは空前絶後だろうなと思います。もちろん当初、榊として登場するときから綺麗ではありますが、この狐の化けた葛の葉のときは本当に妖怪じみた美しさです。
彼女は斬られて意識を失っている保名の深い刀傷を、狐の本性そのままに、自分の舌で直接舐めて直そうとします。手負いの獣が自分の傷を繰り返し舐めるように、彼女が葛の葉そのままの美しい顔を保名の肩口の切り傷にうずめて繰り返し繰り返し丁寧に舐めているシーンは、濡れ場でもないのに或る意味で濡れ場以上にエロティックでさえあります。
そして、傷が癒え、正気に戻った保名が、彼に心を奪われた白狐コンの化身である目の前の葛の葉を抱きしめ、接吻するシーンがすごい。唇が離れたときのコン≒葛の葉の表情を見せるのですが、その口がまだ半ば開かれて、いま舌を絡ませたディープキスをしたばかり、という唇を重ねたときそのままに、濡れた舌が覗いている。これがもうものすごくエロティックで、男性観客は瑳峨美智子という女優さんにこのシーンだけでコロッと参ってしまうに違いないという・・・(笑)
彼女は爺狐から、人間に恋してはならぬ、と固く言われていたのに、保名に恋してしまい、傷が癒えて目覚めた保名が葛葉だと思い込むままに、彼と契りを結んで子までなしてしまいます。そうして葛葉の姿かたちをしたコンは機を織り、保名には危険ゆえ決して庄司のもとへ帰ってはならぬと言い含めて、ことが露見するのをひそかに恐れながらも楽しく平穏な日々を過ごしていました。
ところがそこへ庄司夫妻とほんものの葛葉が訪ねてきて、保名と出会います。その会話を機を織りながら障子の向こうで聴いていた孫狐コンは、とうとう恐れていた日が来たことを悟り、自分の素性を打ち明け、子供を置いていくので葛葉の子として育ててほしいと言い、口にくわえた筆で障子に;
恋しくば たずね来てみよ和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉
とさらさらと書くと、保名が障子を開いたとたんたちこめる白煙の中を、白狐の姿にもどって飛び去っていきます。
そのとたんに、これまで保名と狐の葛葉がくらしていた家が一挙に崩れ落ちてなにもない草の野辺と化し、赤子と秘伝書だけが後に残されています。映画の中では明かされないけれど、浄瑠璃ではこの赤子がのちの安倍晴明、今昔物語や宇治拾遺物語ではお馴染みの平安時代に活躍した陰陽師ということになっているので、この話は安倍晴明の両親の話であり安倍晴明の誕生秘話でもあるわけです。
この孫狐コンが保名を運んできた家のところから、画面は歌舞伎の舞台を撮る映像となって、回り舞台の上にしつらえられた家の中で二人が演じることになります。そして、最後に家が消えて野原に変わるところは、まさに歌舞伎の大道具による転換で、まことに見事なものです。回り舞台も、家の中の空間を角度を変えて撮るのに活用されていて、映画的にカメラの移動に頼らない歌舞伎的な方法が採用されています。赤ん坊の人形なども舞台のもので、最後に飛び去る白狐はアニメです。
おそらく平安時代かそれ以前から伝わる昔話の流れを汲む変身譚・異類婚を核とする浄瑠璃、清元をベースに、その手法を舞台のしつらえから浄瑠璃語りや舞い、舞台美術や役者の演技にまで、大胆に映画という舶来の近代的な表現の中に取り込み、きわめて日本的でいて普遍性のあるクロスジャンル的な映像表現を生み出した作品で、私は以前のバージョンをみていませんが、おそらくは今回の4Kデジタル復元という高度な技術によってそのすばらしい色彩とともに臨場感が甦ったのだろうと思います。何もしらずに予約してこの作品を見ることができて本当にラッキーでした。早くこのデジタル復元版がブルーレイにでもなって、若い人たちに広くみられるようになることを願っています。
saysei at 14:38|Permalink│Comments(0)│
2018年10月25日
手当たり次第に ⅩⅩⅠ ~ここ二、三日みた映画
今回も出町座でみた新しい映画は別途書いたので、わずかですが、ここらで書いておかないとすぐ忘れるので(笑)・・・
丹下左膳餘話 百萬兩の壺 (山中貞雄監督) 1935
あらためて山中貞雄があんなに若くして死ななければ・・などと誰もが彼の映画を観て覚えるような感慨を催しました。「河内山宗俊」も「人情紙風船」も良かったけれど、なんたって見ていて明るい気分になれる痛快な作品はこれでしょう。
百万両の秘密埋蔵金のありかを記した文書が隠されているという「こけ猿の壺」をそうとは知らずに遺産分けでもらった柳生家の次男源三郎、奥方にこんな汚い壺、早く処分して、と言われて屑屋に売り払ってしまえと言って奥方が処分してしまいますが、国元からの情報でこれが百万両のありかが秘められた壺とわかって大騒動、源三郎はじめ柳生分家を挙げての壺探しとなります。その壺は屑屋の隣で父親と住んでいた子供ちょび安が金魚を飼うのにちょうどよいともらい受けますが、そのちょび安の父が的場で遊んでいるときのトラブルの腹いせにチンピラに殺され、みなしごになったところから、その的場で居候している片目片腕の凄腕の浪人丹下左膳と接点が生じてきます。あとはこのこけ猿の壺さがしが細い糸になって、源三郎、左膳とちょび安を中心に、源三郎の奥方や左膳が居候している矢場のおかみなどが絡んで物語りが展開していきますが、よく知られたこの話を山中貞雄はすっかり換骨奪胎の趣で江戸時代のサラリーマンものみたいな愉快な話にしてしまいました。
原作者の林不忘が怒ったそうですけど、虚無的なアウトローの左膳をすっかりカミさんの尻に敷かれっぱなしのサラリーマンみたいな、子煩悩でお人よしの純な侍にしてしまい、こけ猿の壺を盗まれて本来なら仇同士の柳生源三郎も、これに輪をかけた恐妻家、柳生新陰流の達人であるはずが剣術のほうはからっきしで、金目当てに同情やぶりに来た左膳に弟子と奥方の手前、賄賂で負けてもらうという侍で、気に入った女の子のいる矢場へ通うために、こけ猿の壺探しを名目に自由を確保して「江戸は広い。みつけるのに十年かかるか、二十年かかるか・・・まるで仇討だ」と奥方につぶやくのが口癖、という御仁。もうこういう設定だけで森繁の「社長漫遊記」みたいな可笑しさ、面白さがあるけれど、この二人を演じる大河内傅次郎も沢村国太郎もすばらしい。
ほかの左膳ものでは粗暴な感じのアウトローを演じてコワモテの大河内傅次郎が、ここではコワモテはほんのみかけだけで、居候している先のおかみお藤にはめっぽう弱くて、口だけは威勢よく反発しているけれど、かならずその直後には彼女の言いなりになって行動し、また子供のこととなると可愛い孫のためなら喜んで命も投げ出す爺みたいに、なにかあると我を忘れてすっ飛んでいく、という人物像を演じているのが本当に面白い。河内山宗俊でも宗俊はじめ周囲の悪漢であるおじさんたちが、16歳の原節子演じる小娘の力になりたいと右往左往したあげく、最後はみんな命まで張るに至るというような話だったけれど、こういう人物像を描かせたら山中貞雄という人は抜群だったようです。
七兵衛を送っていけとお藤に言われていやだい、と言いながら、すぐあとのショットでは左膳が七兵衛を送っていく。ちょび安を連れてきた左膳に、あんな汚い子を連れて来てどうすんだ、と悪態をついていたお藤が次のショットでは彼女がちょび安に飯を食わせている。またちょび安が可哀想でおいてやることにしたという左膳にわたしゃ子供が大嫌いだ、と拒んでいたお藤が、次のショットではちょび安にしつけをして可愛がっていたり、友達が遊んでいる竹馬を羨ましがるちょび安に、竹馬は危ないからだめ、とちょび安を叱りながら次の場面ではもうちょび安が竹馬に乗って遊んでいる。ちょび安に道場がよいをさせて剣術を習わせようと言う左膳と、寺子屋で習字を習わせようというお藤で喧嘩しているシーンがあると、次に切り替わった場面ではもうちょび安のお習字を左膳が嬉しそうに見て褒めている・・・こういうユーモラスな場面がいくつもあって、その場面の切り替えのタイミング、「間」の巧みさがたまらない感じです。
それに、脇役もすばらしい。左膳が居候している矢場のおかみ、お藤を演じたのは実際に新橋で芸者として三味線を弾き、歌を歌っていた喜代三という女性だそうで、この作品の中で何度かその三味線と喉をたっぷりと聴かせてくれますが、それが素晴らしくて、この作品に豊かな情趣を加えています。唄と三味線の芸だけではなくて、この人の表情も、とてもいい。とても女優としては素人と思えない存在感があります。ちょい役といえば、屑屋の二人なんかもちょっと得難い味があってすばらしい。
最後に壺はみつかるのだけれど、こいつがみつかると浮気ができぬからと源三郎、壺は左膳に預けて矢場通いを続け・・・という平和で楽しい終わり方。ほんとうにいま見てもそのまま楽しめる、そして、おそらくは監督の手腕や出演者から見ても、二度とこんな映画はつくれないだろうな、と思わずにいられない、奇跡のような作品です。
丹下左膳(マキノ雅弘監督) 1953
伊藤大輔が脚本に加わった丹下左膳。丹下左膳は何本も作られ、監督も役者もいろいろですが、やはり古典的な左膳像を確立したのは大河内傅次郎の左膳でしょう。先に書いた山中貞雄のつくりだした左膳は例外的なもので、こちらの左膳のほうが原作に近い本来の?左膳でしょう。
話は饗庭藩だったか、どこやらの刀好きの殿様が沢山の名刀をコレクションしていて、なおそのコレクションに画竜点睛を欠くと考えている名刀乾雲丸というのと坤竜丸というのがあって、家来の中でだれか余のために探してきてくれる者はおらぬか、と言ったとき、みなしり込みする中、わたしが、と名乗り出たのが隻眼の左膳。
そういうれっきとした宮仕えの侍だったわけですが、次の画面ではもうちょっと狂気じみた浪人として登場します。江戸の小野塚道場といったか、剣道場で道場主の後継者と道場主の娘の婿を同時に決めるための試合が行われていて、その優勝者には名刀乾雲丸が贈られるという。道場主の娘やよい(綺麗な女優さんです)は栄三郎という高弟に想いを寄せていて、強いはずの彼が勝つと信じているのですが、負けてしまう。道場主は、わざと負けたな、と見破って再試合を命じますが、栄三郎は拒んで逃げ出します。折も折り、この道場に道場破りに来た左膳が看板をかかえて荒々しく踏み込んできて、門弟たちや道場主をも容赦なく斬り殺し、乾雲丸を奪って出て行きます。突然乱入して真剣で何の罪もない道場の侍たちを斬って捨ててガハハ、と高笑いして家宝を奪っていくのですから、これはもう無茶苦茶な狂気のアウトローです。
この大刀乾雲丸と、小野道場の娘が持っている小刀坤竜丸は対になった名刀で、離れているとお互いに鳴いて呼び合う妖刀でもあります。この妖刀に導かれて左膳は辻斬りを繰り返し、道場主が斬られたとき現場にいなかった栄三郎が、彼に想いを寄せる道場主の娘やよいに頼まれて、乾雲丸を取返して先生の仇を討とうとしますが、彼は町娘のおつや(若き日の美しい山本富士子)と将来を誓う仲で、男としてやよいの想いに応えることはできません。
おつや、やえ、それにちんぴらだけれど妹を助けたりもする狂言まわしのおつやの兄ゆうきち、悪女のお藤と周辺人物がからみ、さらに辻斬り左膳をとらえに動く大岡越前や捕り方たちが絡む中で、左膳と源三郎が二度、三度鉢合わせして剣を交えるけれど、どうも腕は左膳が上らしくて源三郎は負傷したり、邪魔が入って辛うじて助かったり、どうも正義のほうは分が悪い。
この映画の左膳は相当気違いじみた人斬りで、粗暴な男で、昔れっきとした藩のおかかえ武士だったことなど痕跡さえなくなったアウトロー。平気で罪のない道場主や門弟を斬り殺し、その家宝を奪い、また辻斬りをし、捕り方たちを斬って捨て、自分が奪った乾雲丸が呼ぶ坤竜丸を求めて狂奔し、最後は捕り方に囲まれて斬り放題、再び栄三郎と橋の上で対決して栄三郎が斬られて落ちたところで、突然「つづく」です(笑)。
どうもこれはシリーズとしてつくられたうちの一遍で、これだけみてもよくわからないところがあるのは致し方ない、という作り方がなされている作品のようです。
とにかく善人が弱くて、左膳がやたらと野性的というか粗暴な人斬り侍になっているのが印象的でした。あとはまだ女優になって間がない山本富士子が初々しくて印象に残った、といったところでしょうか。あ、そうそう、もうひとつ、この映画では大岡越前配下の捕り方が大勢登場して左膳を囲み、斬られ役をしたり、火事になって火消しに走る大勢のいまでいえば消防隊の面々が登場します。個人としては登場しないけれど、集団として登場して、左膳を囲んだり、左膳と栄三郎の対決の場へ割り込んで結果的に邪魔して両者を引き分けたりする役割を果たしています。そのへんはなかなか面白かった。
新編丹下左膳 隻眼の巻 (中川信夫監督) 1939
丹下左膳と言えば原作は林不忘というのが通り相場ですが、この作品の原作は川口松太郎です。そんな左膳もあったんですね。
ここでの左膳は、まだ丹下佐市と名乗っていて、明石藩にたてつき、その藩主をテロで殺そうとしている武士で、どうも前作に「隻手の巻」というのがあって、そこで千葉周作に片腕を斬られて失ったという設定のようです。しかも、この映画の冒頭からすでに彼は片腕を斬られたばかりの半死半生の状態で、明石藩主の行列に斬り込んで行動を共にするはずだった左膳を呼ぶ仲間(黒川弥太郎が演じる)のところへ駆けつけるが、既に斬り込みは終わって黒川弥太郎は逃げ去り、行列の姿もなく、左膳は駆け付けた橋の上で明石藩の手練れの稲葉という侍に斬られて今度はこの映画の開始早々片目を失ってしまいます。
隻眼隻手となった左膳はもう助からんだろうというので敵に放置されていたところを、商家吉野屋の主に助けられ、その家の娘お春(これがまだ娘時代の高峰秀子)の部屋に寝かされています。娘は自分の部屋をとられておおむくれ。一人娘でわがままいっぱい。これがなかなかいい味を出しています。
傷も癒えた左膳はかつての同志黒川弥太郎にも会いますが、裏切り者よばわりされ、近くの堀端の倉庫の土塀際に一人ぽつねんと佇んで水面を眺めながら物思いにふけったりしています。こういう場面はとてもこの映画のいいところです。
現代っ子ふうにわがままな吉野屋の一人娘は当初彼を嫌っていたけれど、だんだん好意をもつようになっておしろいが濃くなり、左膳に話かけたりするようになります。また彼女が一人遊びをしている光景なんかも、なかなかいいものです。彼女は下男の前で左膳の口真似をしてキャッキャとはしゃいだりします。左膳は彼女が読んでいた「曽我物語」を読むようにたのみ、娘は読んでやります。左膳は座ってじっと娘の読むのに耳を傾けています。その表情はなかなか品があって、粗暴な侍のようではありません。
場面かわって、下の街道をいく明石藩主の行列を見下ろす高台、どうも墓場のようですが、良い身なりの娘が、左膳の父親でしょうか、丹下先生の命日の墓参りということで出て来ていたようで、先生の命日に仇の行列がそこを行くなんて、と運命の理不尽を嘆くようなセリフをつぶやいています。この行列が宿をとるところの主人の娘が先ほどの娘のようで、宿へ入るときに彼女を見かけた好色の明石藩主が彼女に給仕をさせろと呼びつけます。
彼女は、「今宵は忘れようにも忘れられぬ日。あなたさまを仇と狙う者のあることをご存知か」と言います。藩主は、すでに柳堤で一人は打ち果たしたと答え、娘が、その名は?と問うたところで、曲者の乱入を告げる家来たち。曲者をとらえたたとの報告に、斬りすてよ、と命じると、娘は、きょうは大事な人の命日だから殺さないでと頼み、藩主は明朝まで曲者の命を断つのを伸ばすことにします。そのかわり娘に明石へ伴うように命じますが、娘は来年江戸へ参勤交代するときにお供すると先延ばしの約束をしてその場をしのぎます。
闇にまぎれて、娘は捕らわれたのが丹下ではないかと蔵へ探しにいき、別人(黒川弥太郎)だと知りますが、その縄を解いてやりますが、逃げようとすると見まわりの武士たちに囲まれ、斬りあいになります。そこへ丹下左膳が現れて、一緒になって戦います。映画の冒頭では立っているのもやっとのような状態でむざむざ斬られていて、ひどく弱い左膳だなぁと思えたのですが、ここではすっかり傷も言えて隻眼隻手ながらやたら強くて敵を斬りまくります。
そこで敵は飛び道具の鉄砲を持ち出して撃ち掛けます。そのあたりで幕(笑)。この映画もシリーズものの一巻として撮られたようで、前後にストーリーがあって、この巻だけ見てもよく分かりません。
この映画のいいところは、堀川の倉庫群の白壁が並んでいるようなところで、丹下左膳がぶらぶら来て一人物思いにふけって佇んでいるような光景、それに街の風景がなかなかいいことと、あとは吉野屋の一人娘を演じた高峰秀子の登場する場面がみなとてもいい。
丹下左膳(本木克英監督) 2004
DVDで、実は舞台を撮った唐沢寿、松たか子、中村獅童、伊原剛志らの「浪人街」があんまり素晴らしかったので、中村獅童の左膳の姿をカバーに巻いたdvdをみて、あぁいうものじゃないかと早とちりして古書店かどこかでみつけて買っておいて、観ていなかったのですが、今回ほかの丹下左膳を見たついでに手にとってみたら、どうもまるで見当違いで、テレビの時代劇としてつくられた安物だったようで、内容的にはがっかりでした。
獅童は使いようによっては「浪人街」の舞台のように、いい役を演じるし、お藤を演じたともさかりえはのびのびと威勢のいい女を演じていましたが、なにせ脚本が悪い(と思う)。左膳の人物造形も奥行きのない、ただわめくだけの品の悪い印象の男になってしまっていて、少しは大河内傅次郎の爪の垢でも煎じて飲んでからやってくれればいいのに、と嘆くことしきり。
チャンバラくらいは現代の時代劇だからみせてくれるか、と思っていたら、確かに獅童は左手一本で頑張っていたとは思うけれども、殺陣は東映時代劇時代のチャンバラに戻ってしまったみたいで、これまた黒澤の「用心棒」以来の映画的なチャンバラリアリズムをどう踏まえてくれるのよ、と言いたいような代物で、左膳と柳生源三郎がほんとうに凄腕の侍どおしでチャンバラしたら、こんなに何合も刀を交わしてチャンチャンバラバラやらんでしょう、構えて対峙しただけで、その殺気で見る方も固唾を呑むような緊迫感があふれるはずのところで、勝負なんてたった一度刀を交えるその一瞬で決まるでしょう、というところ、大げさに構えて吠えるけれども、じゃれあっているようにしか見えません。なさけない・・・
左膳がなぜ隻眼隻手になり、いまのような境遇になったかというのは、兄が理不尽に切腹させられ、それに異を唱えて成敗されそうになって九死に一生を得た怨念の男という過去はたしかに映像的なフラッシュバックで何度かしつこく描かれているけれど、説明的なだけで、その結果左膳がどういう人間になっているか、そこには何ら兄の死をめぐっての屈折した思いも、その事件から時を隔てた歳月の与えるものも、それによってほかの左膳ならまだしも感じられたうらぶれた姿も描かれず、本来左膳が持っていなくてはならない虚無的な影のようなものが、まるで欠けています。
失望の左膳でした。
罪と罰 白夜のラスコーリニコフ(アキ・カウリスマキ監督)1983
ソクーロフの罪と罰の翻案みたいな映画を観て、じわじわと、あれはなかなか良かったな、という印象になったので、同じ原作を表題に掲げた作品をたまたま手にとった次第です。カウリスマキ監督の作品はかなり以前にも見たことがあって(靴磨きの話だったかな)、あまりピンとこなかったのですが、タイトルに惹かれて再チャレンジ(笑)。
でも、この作品はドストエフスキーの原作から(ソクーロフとは違って)物語の骨格は借りているけれど、中身はまるで違いました。どこが「まるで違う」かと言えば、この作品で主人公の若い(でもちょっとわか禿みたいな)男は、たしかに冒頭でいきなりなぜ殺されるかもわからない男をピストルで射殺して、たまたまそこへやってきた家事手伝いか何かの派遣婦の若い娘に、なにをしてる、警察に連絡しないか、などと催促みたいなことを言う、ちょっとあたまのおかしいように見える、理不尽な殺人ではじまる点では原作のシチュエーションに見かけ上似ているけれど、原作のラスコーリニコフと殺される老婆との間にあった金を借りる学生と高利貸しのばばぁというふうな関係(あるいや無関係)ではなく、この映画では殺す若者と殺される男の間にはもう少しはっきりした関係があるわけです。
ここからはネタバレになるけれど(私は映画の感想を書くのにネタバレは全く気にしません。推理小説じゃあるまいし、映画でもそういう作品はみないので、ネタバレを読んで見る価値がなくなるような映画はほんとに見る価値もないと思っているし、そういう作品はたとえ見ても感想なんか書かないでしょうから)殺された男は3年前に若い男の恋人を車でひき殺してひき逃げしたけれど、証拠不十分か何かで罪を免れたらしい人物なのです。これだと通常の犯罪劇なみに、殺した若者にはそれなりの犯罪者としての動機と論理があるわけで、なぁんだ、という感じです。
ふつう私たちが犯罪の動機として思いつくような動機がないとき、こいつ殺してやりたい、とか、こんなやつ虫けらじゃないか、とこの男のように感じることがあったとしても、そのことと実際に手を下して殺してしまうこととの間には大きな隔たりがあります。犯罪者はそこを何らかの契機で飛び越えてしまうわけです。でもなぜ飛び越えたか、つながりの糸をたどれば、たいていの場合、私たちが納得するような理由にたどり着くでしょう。それが動機です。必ずしも人間の行動は、その動機と行為が一対一で物理学の法則みたいな因果関係でつながれているわけではないから、本当はずっと複雑で訳の分からないものを私たちはふだん、単純化して乱暴につないでしまうことで安心しているだけかもしれませんが・・・
いずれにせよ、そういう安定した因果関係みたいな理解に揺らぎが生じると、不安になります。不可解なもの、自分に理解できないものに、私たちは不安を感じ、恐怖を感じ、どうしてもわからないときは狂気の沙汰ということにしてしまいます。でも人間はどう名付けられようと、ある種の予測不可能な行為をやってしまう、ということはあるし、それがそのまま描かれれば不条理劇ということになるのでしょう。原作のラスコーリニコフの殺人は、そうしたのちに不条理劇と言われるようなものの一種のようにみなすこともできるかと思います。
そのかわりラスコーリニコフは、その飛び越えてはいけない深い淵を飛び越えてしまうことと引き換えに、罪の意識を背負うことになります。そしてその彼のありようが、少女への告白のあの緊迫感に満ちたあの場面を導くことになるので、その一番肝心の点は、ソクーロフはピンポイントで的確に描き出して彼なりのラスコーリニコフを創り出していました。
でもカウリスマキのラスコーリニコフ君は、どうも反省が足りないようです(笑)。いやしくも、ひと一人を殺した重みが彼には最初から最後まで感じられないし、影も落とさないようです。むしろ原作で自首を勧め、神に祈る少女の代役であるエヴァとの男女の交情のほうへ、そういう心理的なものは疎外してしまうような印象があります。
そのくせ、最後につかまって「塀の中」へ入った彼は、面会に来て彼の8年後の出所を待つというエヴァに、「虫けらを殺して虫けらになった。俺が殺したかったのは<道理>だ。お前はお前の人生を生きろ」みたいなことを言います。
彼が殺したかったのがどんな「道理」なのか分かりません。汝殺すなかれというキリスト教的な倫理か、世間の常識的な道徳か、自分にも否応なく内面化されている倫理なのか、分からないけれど、とにかくそういったものに抗いさえすればいい、動機も理由も思想も何もいらない、そういうシラケた平板で無倫理的な個人の内面世界が一定のリアリティを感じさせるとすれば、そこに彼が抗うようなあるいは無視したような、この現実世界の様々な秩序、倫理が、既に揺るいで、ちっとも確固たるものではなくなっているということがあるのかもしれません。
ただ、この主人公の男のシラケ方は、いかにも小さい。同じ「わからない」でも、ソクーロフの世界がドストエフスキーが描いた世界に匹敵する大きさの感覚を留めているのに対して、この作品の世界はいかにも小さく、貧しい。地下室のあなぐらにひとり閉じこもって生きることが考えることであるような生き方をしてきた人間の精神に宿る世界の奥行をまるで持たない、小市民的で精神の形が平板な二次元の乾いた板きれになってしまったような小ささを感じてしまいました。それは比べる相手が悪かったからでしょうか・・・
CURE (黒沢清監督) 1997
ホラー嫌いで、偶然夜中にテレビを見ていて、ホラーと知らずに何十年も前に見てしまったゾンビもののハシリみたいなアメリカ映画(だったと思う)のゾンビの行列が迫ってくるシーンや、これも夜中にパートナーの次男がテレビで見ていて、コワイ!コワイ!と身を寄せ合って怖がっていた中田秀夫の「女優霊」を何がそないにコワイねん!と見てしまって、車の中で手を振っていたはずの女がどこにもいないとか、さりげない心理の隙間に深く突き刺さってくるような恐怖感をいまだに反芻しては怖がっている怖がりの自分としては見たくなかったけれども、半世紀以上遅れの「老後の暇つぶし日本映画ファン初心者」としてあまりにも有名なこの作品を観ないわけにもいかないだろう、と今回初めて見ました。
日ごろから医学界の女性差別の現実に鬱屈した心を抱えていた若い女医さんが、催眠暗示にかかってトイレで男性の顔の皮をメスで剥いでいるシーンはちょっとキモかったけれど、そういう視覚的なグロさでコワイという場面はなかったように思います。それに、私は生物系の実験で3カ月くらい毎日、ホルマリンづけのサルのぬるぬるする死体を昼食のあとの時間帯に水槽から引っ張り上げて台の上で解剖する解剖学実習というのをやったことがあって、一番いやだったのが顔の皮膚を剥いでいく作業だったので、もう血の出る死体ではなかったけれど、一応似たようなことを経験していたので、あぁあれか・・とちょっとそのときのやな感じを思い出しただけで、やりすごすことができました。
それよりもこの映画で怖かったのは、自分では手を下さない犯人をみごとに演じた萩原聖人が、彼を追い詰めようとする刑事の役所広司と会話する場面で、苛立つ役所広司に対して断然萩原聖人のほうが余裕で対応していて、いつの場合も、ほとんど心理的に刑事を手玉にとって自分の世界に引き込んでしまいそうなので、いつ刑事が彼の術中にはまって殺人鬼になってしまうかという、そのハラハラ感がすごかった。それくらい萩原聖人はあぁいう人の心にのりうつって、操る能力をもつような人間としての存在感があって、リアル過ぎて怖かった。
どんなに平穏な暮らしをしているおだやかな人間にも、この世界で他者とあるいは身近な人と接している中でストレスを感じ、次第に澱のように心の底のほの暗いところに溜まっていくものがあって、それは他人はもとより身近な人間にもふだん容易に見えるようなものではないけれども、それが見えてしまう能力をもった人間がいても不思議はないし、この映画で萩原が演じている男はまさにそれで、しかもその溜まってるものを表面に引きずり出して、これがお前さんだよ、お前さんはほんとうはこうしたいんだろう?とささやきかけ、強力に背中を押してやることができる、というわけです。
それは本当にありそうな話で、ものすごく怖い。へんなお化けやゾンビが出て来たり、流血があるよりずっと深い怖さです。たぶんそれは、自分にもたしかに心当たりのある何かだし、自分の周辺のごくふつうの「いいひと」たち一人一人にも該当することであるからでしょう。
実際この作品で殺人を犯す人たちは、みな私たちの周囲にいる、ごくありふれた、ふつうの人であり、その中でもいわゆる「いいひと」で、最初から犯罪者然とした悪意の人というのはみあたりません。それが作品中では催眠誘導みたいなことになっていますが、或る契機を与えられることでくるっと反転してこの上なく凄惨な殺人事件を引き起こします。しかも平然と殺し、やったことを素直に認めます。
何が怖いって、自分がごく普通によく知っていると思っている身近な人が、突然自分のまったく想像だにしなかった、理解不能の人に変貌してしまうことほど怖いことはないんじゃないでしょうか。
私たちはふだん多くの幸せな思い込みのもとで生きていると言ってもいいので、ときに、あ、ちがっていたのかな、と気づくことがあれば、微修正を加えながら平和におつきあいしているわけですが、それが突然まったく理解不能の人間として現れたら、これはコワイ。本当のことを言えば、平生から私たちは多かれ少なかれ、そういう不安を感じているところはあるのかもしれません。
何十年と連れ添った夫婦でも、えっ、この人、こんなことを考えていたのか!とか、そんな人だったのか!とぎくりとすることは、ごくまれでしょうけれど、ありませんか?(笑)いや、私は正直言ってあります。たいていつまらないことだから(ちょっとしたこちらの癖がいやでしょうがなかった、とか、同じように食べているからずっと自分と同じように嫌いではないと思っていたおかずが実は昔からきらいだったんだとか・・・笑)いいのですが、これがもっと何か互いの関係に関わるような本質的なことだったりしたらコワイですよね。
この作品の「ホラー」的な怖さというのはそのへんにあると思います。つまりありふれた私たちの身近な存在が、ふつうは絶対に外からうかがうことのできない、本人さえもそんなものが自分の中に澱のようにたまっているなんて知らないことを、突然引っ張り出されて、袋が裏返って見たいな姿の自分をこれが本当の自分なんだ、と突如気づいて、まるで裏返るまでの自分とは違う存在になってしまう、その怖さ。これは自分であっても他人であっても本当に怖い。
次々の発生する殺人の実行犯はともかく、それを追う刑事の主人公までが、もうこいつが真の犯人なんだと分かっているのに、証拠もなにもないし、常識的な因果関係が立証できるわけがないから野放しで、監視し接触して秘密を解き明かそうとするけれども、そうして彼に触れれば触れるほどこちらのほうが危うい状況に陥っていく、そのスリルですね。
だからもう本当は結末は見えているわけで、その通りになっていってしまうのですが、いつ、どんな形でそこへと境界が越えられていくのかが興味の焦点になっています。
その意味ではそういう結末へ向けてのプロセスが暗示的というよりも顕示的で、最初からこの役所広司の刑事さんは私同様にイラチで、取調室で「彼」を取り調べながら、自分が冷静さを失ってキレてしまったり、奥さんとのことをズバリ指摘されて、そうだよ!なぜ俺だけがあんな嫁さんの世話をしてなきゃいけないんだよ!と胸の内をさらけ出して爆発してしまう。もうあの段階では完全に「彼」の術中にはまってしまっているかのようですが、まだあれは早いでしょう。
私なら(笑)もっと冷静怜悧で頭のいい刑事を対峙させて、その場面だけでもたっぷりと緊迫感をもっと盛り上げていきたいところです。あれじゃ最初から負けてるじゃないか、と思うし、あぁあ、やっぱりな、と最後はなってしまいます。ちょっと見え過ぎかな、という印象です。
ラストはなかなか粋な終わり方をさせています。前にも来て同じ席に座ったレストランで、前は沢山残して食べられなかった料理を、今度は同じ席でぺろりとたいらげて、余裕でコーヒーを飲み、タバコなど吸っている彼の横顔のアップから、カメラは焦点のぼけていた店内の遠景で彼のところへコーヒーを運んで来ていたウエイトレスを追い、彼女が他の客の所から、一度近くへ戻ってきて、上司の女性みたいな人から何かささやかれ、上司が立ち去ると、今度は一人でまた向こうへ歩いていって、今度は向こうにある台から躊躇なく包丁を手にしてスタスタと店内を歩いていくシーンで終わっています。刑事のほっと煙草の煙を吐くアップで終われば何も感じなかった(あれ?めでたく解決して終わったのかなとか)かもしれないけれど、カメラがそのまま店内の向こうのほうで別の客の相手をしているウエイトレスをとらえて、彼女をおっかけはじめると、おや?といぶかしく思いはじめ、なんでこんな人をとらえているんだろう?なにか彼と関係があるんだろうか、と思っていたら、最後に包丁ですから(笑)、あっ!と思った瞬間に終わり(笑)。
なかなかオシャレですね。さすが・・・
もっとも、その前に妻を預けている病院で、元気だったはずの彼の妻がカートみたいなのに乗せられて十字架ではりつけにされたキリストみたいなほとんど立ったような姿で、ひどい死に顔で、首から胸の上にかけて犯人たちが今まで殺してきた被害者の首に刻んだようなバツ印の大きな切り裂き傷があついているのを、ほんの一瞬見せていて、あのシーンでは最初に看護婦のごく普通の病院で働くときの表情をうつしてその死体をとらえているので、これは病院の廊下でカートに載せた、殺された妻の死体を運んでいるシーンであって、それまでに妻が殺されるもうひとつの殺人事件が起きているのが省略され、かつ暗示されているわけです。だから、いくらレストランでの刑事さんが、事件がすべて解決して安心してたらふく食べ、コーヒーをのみ、煙草をふかしてホッとしているといった姿をとらえていても、そんなわきゃないだろ!とは思ったでしょう。レストランでのそういう彼の姿をみせられたとき、あれ?どうなったんだろ?と思いましたからね。あのラストにいたって、ようやく、あぁやっぱり!という感じです。
とにかく萩原聖人と役所広司の距離が詰められていくときの、あの怖さはゾクゾクさせられるようなところがありました。
先に言ったように、刑事さんが早く切れすぎ!と思ったのと、あとバスで病院へ一人でいくシーンと、奥さんを病院へ送り届けるとき、どちらもバスでいくので座席に座っているのを見せるのですが、その後ろのリアウインドウに映っているのが、どちらの場合も空と雲です。そしてバスがゆらゆら揺れてちょっと浮いたり沈んだりするので、これって何か空飛ぶバスみたいだから、刑事さんの観ている夢か幻覚かいな、とも思いましたが、やっぱりそれだと辻褄があいません。あれはへんな映像で、ちゃんと街の風景かなにかが後ろに流れていかないと変ですね。意味のないシーンだと思います。奥さんが首を吊る幻覚を見るシーンがあるので、なにかほかにもそういう刑事の幻覚があるんじゃないか、と深読みをしてしまいそうになるけれど、この刑事さんは犯人に対峙して激烈なやりとりをしているあたりまでは少なくとも正気を失っていないというか、手玉にとられてほかの殺人者たちと同じところへひきずりこまれそうになりながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっている、と考えなければ辻褄が合いません。最後は犯人を殺しちゃうんですからね。ただ、その時にはもう、いわば「彼」が刑事さんの中に入ってしまっている。別の言い方をすると、刑事さんの内部のほの暗い場所に澱のように蹲っていた「本来の自分」が「彼」の手で引きずり出されて、刑事さんは完全に裏返ってしまった。
ところがそれまでの殺人者たちとは違って、この裏返った刑事さんはほかの人のように自分がなぜ人を殺したのかさっぱりわからない、という記憶喪失の状態ではなくて、ちゃんとわかっていてみごとに隠蔽して、もとの表の刑事さんの顔も失っていないから、部下に携帯で話して指示したりしています。彼にオカルト的な催眠誘導能力をひきついだ「彼」が、他人を操って自分はからっぽで何もない、と言うのと違って、刑事さんはちゃんと刑事さんとしての実質も持っていて、しかも同時に自覚的な殺人鬼として自分の犯罪を隠蔽し、また他者の内面に入り込んでそのほの暗い場所をさぐりあて、引きずり出してその人物にお前の真の姿はこれだよ、したいことを実行に移せ、と教唆して殺人に導くような能力も獲得している、絶対の罪を問われず証拠も残さず人を動かして人を殺せる最強の殺人者として出現しているわけですね。
かれのラストシーンでの表情はごくありふれた刑事さん。事件を片付けてほっとしてたらふく食べ、コーヒーを飲み、うまそうに煙草をくゆらす刑事さんの顔です。コワイですね!(笑)
ドルチェー優しく(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1999
これは作家島尾敏雄の妻で、自らも作家となったミホの語りを中心に編まれた作品です。最初は娘時代、島の学校の教員をしていた彼女が運命的な出会いをした、島に赴任してきた海軍神風隊の27歳の隊長さん、のち作家となる島尾敏雄とのなれそめ、彼が出撃したあとで自殺を決意していたこと、愛し合い息子と娘が生まれたこと、楽しい暮らし、そして偶然みた夫の日記で別の女の存在を知り、理性を失い、精神病院へ、娘は言葉を発することができなくなり、身体の成長もとまる・・・そうして一家で妻の故郷である南の島で暮らす、夫は妻とのいきさつを小説「死の棘」に書く、1986年死去・・・という二人の過去が写真と(おそらくはソクーロフ自身による)ナレーションで表現され、それから家の玄関を入る老いたミホが部屋の中でカメラを前に一人語りを始めます。
ドキュメンタリーというわけでもなく、ミホ本人を女優としたフィクショナルな作品というわけでもなく、あきらかに監督の演出によってミホはある意味で「演じ」、「語って」いるわけですが、そこで語られることは、ミホが生まれ育った島のこと、父(ジュウ)のこと、とりわけ母(アンマ)のこと、母の死とそれに伴う自らの深い悲しみであって、彼女の目を通したとらえた過去の事実であり、真実の一人語りであって、語られるコンテンツはソクーロフの創造したものではないわけです。
でも、ミホの語りは人々との自然な会話や、単なる折に触れての独り言などではなく、あきらかにこの映画のための演出された一人語りであり、ミホの表現であり、それをとらえるソクーロフの表現という二重性を帯びた表現になっているわけです。
撮影はミホの自宅らしい室内で行われていて、島尾敏雄が亡くなってからずっと喪服を着ていたというミホが喪服らしい黒い衣服を身に着け、首には真珠のネックレスというシンプルな姿で、暗い和室で語り続けます。ミホが障子窓をあけると海が見え、ずっと波の音が聞こえています。
ミホはゆっくりと話し続けます。ジュウウのこと、アンマのこと。その思いが亡き人の面影にまだべったりとねばりついているような思い入れの深い語り口で、この親子の情が尋常なものではない濃く強いものであることが自然に感じられます。
窓の外は次第に暴風雨となって雷鳴がとどろき、波音が高くなります。ミホは壁にもたれかかるように立ったまま、ゆっくりゆっくりと語っています。
後半、シーンが変わり、白っぽい和服姿のミホが家の中の階段を下りて、マヤ、マヤと呼ぶと、やがて娘のマヤが2階から降りてきます。幼いころから肉体の成長をとめてしまい、言語を話さなくなったまま数十年を経た娘です。階段の一番下の段のあたりにうずくまった彼女と、ミホが手を取り合い、抱き合うようにして、ミホがマヤに話しかけ、マヤもまたうなずいたり、手を母の背に回してやさしくたたいたりする様子をカメラはマヤの表情が分からない程度の高い位置からとらえています。
母子は何度も抱き合った後、ミホはお仕事をしなくちゃいけないから、とマヤに言い聞かせるようにして扉をくぐり、別室へ入っていきます。マヤはしばらく階段の手すりにもたれて座っており、別室い入ったミホは戸に耳をあてるようにしてマヤの気配をうかがっています。マヤは階段を上って2階へ帰っていきます。その気配を確かめると、ミホは仕事部屋に祀った霊の前でしゃがんで祈り、「アーメン」と呟き、願わくば父と精霊の・・・と祈りはじめ、「私は書かなくてはならないことがたくさんあります。私に力を与えてください」と祈り、十字架と掛け軸の和風の聖母子の絵が掛けられた祭壇に祈りを捧げます。
再び壁にもたれて語り始めるミホ。「マヤ・・・どんな罪を犯したのでしょう・・・」といったつぶやきが聞こえてきます。「マヤは10歳になって言葉まで失ってしまったわ。神様、私がどんな罪を犯したのでしょう?どうして神様はマヤに試練をお与えになったのでしょう?可哀想なマヤ。マヤはあの沈黙の世界に慣れたかしら。マヤの深い悲しみをどのくらい私は理解できているのかしら。或る時マヤに私はこう言ったわ。つらいでしょうね、マヤ。そしたらマヤはにっこり笑って、私はお母様のように強い人間だから強い人間です。文字に書いて渡したわ。私はいつもマヤに慰められる。私は・・広い心でマヤを受け止めなければ。マヤの試練・・・一生続く十字架の試練、でもマヤは強い。怒りの顔や悲しみの顔も見せたこともない。それに対して私はどうでしょう・・・私の愛が激しすぎて、夫には重荷だったのではないかしら。・・・」
こうしてひとり語るミホの仕事部屋に、そっと半分身を隠すようにして再びマヤの姿が現れます。
その表情はちょっと異様なものにみえ、暗い部屋の影にそっと現れるときは亡霊かと思うような怖さがあります。語っていたミホはそんな娘の影をとらえて一瞬緊張した顔をみせますが、やがてかあすかに微笑みがその表情に浮かびます。マヤはそのまま部屋には入らずに下がって消えます。
ミホのひとり語りはつづきます。「これから先、わたしはどうしたらよいのでしょう・・・」
腰を下ろし、背を壁にもたせかけ、足を前へ投げ出して畳の上に坐っているミホ。波の音が高く、強い雨の音が聴こえ、雷鳴もとどろきます。窓から見える外の雨風、雷雨、激しい雨風。戸を開く音。暴風雨に激しく揺れる樹々。窓辺に跳ねる水しぶき、その向こうにミホのアップ。
アーメンにつづく「主の祈り」のつぶやき。
63分ほどの、ほとんど一人の老女のひとりがたりに終始するじみな映画ですが、島尾敏雄の作品を読み、彼とミホのなれそめから破局、苦難のそれこそ十字架を背負って生きる地獄の日々などについて知っている者には興味深いミホの語りです。ただ、最初のソクーロフのナレーションによる紹介は別として、ミホのひとり語りは基本的に父と母の追憶であり、両親を失った嘆きであって、夫島尾敏雄のことではありません。とりわけ修羅場をくぐった夫とのやりとりや自分の気持ちといったものは、この一人語りには登場しません。
つまり、最初の10分かそこらのソクーロフのナレーションと写真による二人のなれそめ、ひとめを忍ぶ戦争さなかの恋愛、結婚、夫の浮気とそれを知った妻の嫉妬によって生じる修羅場等々、作家島尾敏雄の成り立ちの背景にあって読者の関心が集中する部分、そして妻のミホにとってもその生涯のありようを変えてしまうようなできごとについては触れられずに、ほとんどが懐かしい父や母の思い出なのです。
そこには明らかなズレがあり、ある種の倒錯があります。つまり現実に起きた島尾敏雄にとっても島尾ミホにとっても、娘のマヤや息子にとってもおそらくは決定的な出来事だったことは、ミホの喪服姿や疲れた顔に刻まれた皺、年輪、そしてマヤが言葉を失い、成長を失った現実のうちに現前しているけれども、それはミホの表現のうちには現れないのです。私たちが聞くのはミホの愛されて育った娘時代の父、母の懐かしい思い出であり、その黄金時代の喪失を悲しむ追憶と惜別の言葉であって、夫島尾敏雄や彼と共に過ごした自身の過去ではないのです。おそらくそれは回避ではなくて、彼女自身にとってなおそこに現前している現在そのものなのかもしれません。
丹下左膳餘話 百萬兩の壺 (山中貞雄監督) 1935
あらためて山中貞雄があんなに若くして死ななければ・・などと誰もが彼の映画を観て覚えるような感慨を催しました。「河内山宗俊」も「人情紙風船」も良かったけれど、なんたって見ていて明るい気分になれる痛快な作品はこれでしょう。
百万両の秘密埋蔵金のありかを記した文書が隠されているという「こけ猿の壺」をそうとは知らずに遺産分けでもらった柳生家の次男源三郎、奥方にこんな汚い壺、早く処分して、と言われて屑屋に売り払ってしまえと言って奥方が処分してしまいますが、国元からの情報でこれが百万両のありかが秘められた壺とわかって大騒動、源三郎はじめ柳生分家を挙げての壺探しとなります。その壺は屑屋の隣で父親と住んでいた子供ちょび安が金魚を飼うのにちょうどよいともらい受けますが、そのちょび安の父が的場で遊んでいるときのトラブルの腹いせにチンピラに殺され、みなしごになったところから、その的場で居候している片目片腕の凄腕の浪人丹下左膳と接点が生じてきます。あとはこのこけ猿の壺さがしが細い糸になって、源三郎、左膳とちょび安を中心に、源三郎の奥方や左膳が居候している矢場のおかみなどが絡んで物語りが展開していきますが、よく知られたこの話を山中貞雄はすっかり換骨奪胎の趣で江戸時代のサラリーマンものみたいな愉快な話にしてしまいました。
原作者の林不忘が怒ったそうですけど、虚無的なアウトローの左膳をすっかりカミさんの尻に敷かれっぱなしのサラリーマンみたいな、子煩悩でお人よしの純な侍にしてしまい、こけ猿の壺を盗まれて本来なら仇同士の柳生源三郎も、これに輪をかけた恐妻家、柳生新陰流の達人であるはずが剣術のほうはからっきしで、金目当てに同情やぶりに来た左膳に弟子と奥方の手前、賄賂で負けてもらうという侍で、気に入った女の子のいる矢場へ通うために、こけ猿の壺探しを名目に自由を確保して「江戸は広い。みつけるのに十年かかるか、二十年かかるか・・・まるで仇討だ」と奥方につぶやくのが口癖、という御仁。もうこういう設定だけで森繁の「社長漫遊記」みたいな可笑しさ、面白さがあるけれど、この二人を演じる大河内傅次郎も沢村国太郎もすばらしい。
ほかの左膳ものでは粗暴な感じのアウトローを演じてコワモテの大河内傅次郎が、ここではコワモテはほんのみかけだけで、居候している先のおかみお藤にはめっぽう弱くて、口だけは威勢よく反発しているけれど、かならずその直後には彼女の言いなりになって行動し、また子供のこととなると可愛い孫のためなら喜んで命も投げ出す爺みたいに、なにかあると我を忘れてすっ飛んでいく、という人物像を演じているのが本当に面白い。河内山宗俊でも宗俊はじめ周囲の悪漢であるおじさんたちが、16歳の原節子演じる小娘の力になりたいと右往左往したあげく、最後はみんな命まで張るに至るというような話だったけれど、こういう人物像を描かせたら山中貞雄という人は抜群だったようです。
七兵衛を送っていけとお藤に言われていやだい、と言いながら、すぐあとのショットでは左膳が七兵衛を送っていく。ちょび安を連れてきた左膳に、あんな汚い子を連れて来てどうすんだ、と悪態をついていたお藤が次のショットでは彼女がちょび安に飯を食わせている。またちょび安が可哀想でおいてやることにしたという左膳にわたしゃ子供が大嫌いだ、と拒んでいたお藤が、次のショットではちょび安にしつけをして可愛がっていたり、友達が遊んでいる竹馬を羨ましがるちょび安に、竹馬は危ないからだめ、とちょび安を叱りながら次の場面ではもうちょび安が竹馬に乗って遊んでいる。ちょび安に道場がよいをさせて剣術を習わせようと言う左膳と、寺子屋で習字を習わせようというお藤で喧嘩しているシーンがあると、次に切り替わった場面ではもうちょび安のお習字を左膳が嬉しそうに見て褒めている・・・こういうユーモラスな場面がいくつもあって、その場面の切り替えのタイミング、「間」の巧みさがたまらない感じです。
それに、脇役もすばらしい。左膳が居候している矢場のおかみ、お藤を演じたのは実際に新橋で芸者として三味線を弾き、歌を歌っていた喜代三という女性だそうで、この作品の中で何度かその三味線と喉をたっぷりと聴かせてくれますが、それが素晴らしくて、この作品に豊かな情趣を加えています。唄と三味線の芸だけではなくて、この人の表情も、とてもいい。とても女優としては素人と思えない存在感があります。ちょい役といえば、屑屋の二人なんかもちょっと得難い味があってすばらしい。
最後に壺はみつかるのだけれど、こいつがみつかると浮気ができぬからと源三郎、壺は左膳に預けて矢場通いを続け・・・という平和で楽しい終わり方。ほんとうにいま見てもそのまま楽しめる、そして、おそらくは監督の手腕や出演者から見ても、二度とこんな映画はつくれないだろうな、と思わずにいられない、奇跡のような作品です。
丹下左膳(マキノ雅弘監督) 1953
伊藤大輔が脚本に加わった丹下左膳。丹下左膳は何本も作られ、監督も役者もいろいろですが、やはり古典的な左膳像を確立したのは大河内傅次郎の左膳でしょう。先に書いた山中貞雄のつくりだした左膳は例外的なもので、こちらの左膳のほうが原作に近い本来の?左膳でしょう。
話は饗庭藩だったか、どこやらの刀好きの殿様が沢山の名刀をコレクションしていて、なおそのコレクションに画竜点睛を欠くと考えている名刀乾雲丸というのと坤竜丸というのがあって、家来の中でだれか余のために探してきてくれる者はおらぬか、と言ったとき、みなしり込みする中、わたしが、と名乗り出たのが隻眼の左膳。
そういうれっきとした宮仕えの侍だったわけですが、次の画面ではもうちょっと狂気じみた浪人として登場します。江戸の小野塚道場といったか、剣道場で道場主の後継者と道場主の娘の婿を同時に決めるための試合が行われていて、その優勝者には名刀乾雲丸が贈られるという。道場主の娘やよい(綺麗な女優さんです)は栄三郎という高弟に想いを寄せていて、強いはずの彼が勝つと信じているのですが、負けてしまう。道場主は、わざと負けたな、と見破って再試合を命じますが、栄三郎は拒んで逃げ出します。折も折り、この道場に道場破りに来た左膳が看板をかかえて荒々しく踏み込んできて、門弟たちや道場主をも容赦なく斬り殺し、乾雲丸を奪って出て行きます。突然乱入して真剣で何の罪もない道場の侍たちを斬って捨ててガハハ、と高笑いして家宝を奪っていくのですから、これはもう無茶苦茶な狂気のアウトローです。
この大刀乾雲丸と、小野道場の娘が持っている小刀坤竜丸は対になった名刀で、離れているとお互いに鳴いて呼び合う妖刀でもあります。この妖刀に導かれて左膳は辻斬りを繰り返し、道場主が斬られたとき現場にいなかった栄三郎が、彼に想いを寄せる道場主の娘やよいに頼まれて、乾雲丸を取返して先生の仇を討とうとしますが、彼は町娘のおつや(若き日の美しい山本富士子)と将来を誓う仲で、男としてやよいの想いに応えることはできません。
おつや、やえ、それにちんぴらだけれど妹を助けたりもする狂言まわしのおつやの兄ゆうきち、悪女のお藤と周辺人物がからみ、さらに辻斬り左膳をとらえに動く大岡越前や捕り方たちが絡む中で、左膳と源三郎が二度、三度鉢合わせして剣を交えるけれど、どうも腕は左膳が上らしくて源三郎は負傷したり、邪魔が入って辛うじて助かったり、どうも正義のほうは分が悪い。
この映画の左膳は相当気違いじみた人斬りで、粗暴な男で、昔れっきとした藩のおかかえ武士だったことなど痕跡さえなくなったアウトロー。平気で罪のない道場主や門弟を斬り殺し、その家宝を奪い、また辻斬りをし、捕り方たちを斬って捨て、自分が奪った乾雲丸が呼ぶ坤竜丸を求めて狂奔し、最後は捕り方に囲まれて斬り放題、再び栄三郎と橋の上で対決して栄三郎が斬られて落ちたところで、突然「つづく」です(笑)。
どうもこれはシリーズとしてつくられたうちの一遍で、これだけみてもよくわからないところがあるのは致し方ない、という作り方がなされている作品のようです。
とにかく善人が弱くて、左膳がやたらと野性的というか粗暴な人斬り侍になっているのが印象的でした。あとはまだ女優になって間がない山本富士子が初々しくて印象に残った、といったところでしょうか。あ、そうそう、もうひとつ、この映画では大岡越前配下の捕り方が大勢登場して左膳を囲み、斬られ役をしたり、火事になって火消しに走る大勢のいまでいえば消防隊の面々が登場します。個人としては登場しないけれど、集団として登場して、左膳を囲んだり、左膳と栄三郎の対決の場へ割り込んで結果的に邪魔して両者を引き分けたりする役割を果たしています。そのへんはなかなか面白かった。
新編丹下左膳 隻眼の巻 (中川信夫監督) 1939
丹下左膳と言えば原作は林不忘というのが通り相場ですが、この作品の原作は川口松太郎です。そんな左膳もあったんですね。
ここでの左膳は、まだ丹下佐市と名乗っていて、明石藩にたてつき、その藩主をテロで殺そうとしている武士で、どうも前作に「隻手の巻」というのがあって、そこで千葉周作に片腕を斬られて失ったという設定のようです。しかも、この映画の冒頭からすでに彼は片腕を斬られたばかりの半死半生の状態で、明石藩主の行列に斬り込んで行動を共にするはずだった左膳を呼ぶ仲間(黒川弥太郎が演じる)のところへ駆けつけるが、既に斬り込みは終わって黒川弥太郎は逃げ去り、行列の姿もなく、左膳は駆け付けた橋の上で明石藩の手練れの稲葉という侍に斬られて今度はこの映画の開始早々片目を失ってしまいます。
隻眼隻手となった左膳はもう助からんだろうというので敵に放置されていたところを、商家吉野屋の主に助けられ、その家の娘お春(これがまだ娘時代の高峰秀子)の部屋に寝かされています。娘は自分の部屋をとられておおむくれ。一人娘でわがままいっぱい。これがなかなかいい味を出しています。
傷も癒えた左膳はかつての同志黒川弥太郎にも会いますが、裏切り者よばわりされ、近くの堀端の倉庫の土塀際に一人ぽつねんと佇んで水面を眺めながら物思いにふけったりしています。こういう場面はとてもこの映画のいいところです。
現代っ子ふうにわがままな吉野屋の一人娘は当初彼を嫌っていたけれど、だんだん好意をもつようになっておしろいが濃くなり、左膳に話かけたりするようになります。また彼女が一人遊びをしている光景なんかも、なかなかいいものです。彼女は下男の前で左膳の口真似をしてキャッキャとはしゃいだりします。左膳は彼女が読んでいた「曽我物語」を読むようにたのみ、娘は読んでやります。左膳は座ってじっと娘の読むのに耳を傾けています。その表情はなかなか品があって、粗暴な侍のようではありません。
場面かわって、下の街道をいく明石藩主の行列を見下ろす高台、どうも墓場のようですが、良い身なりの娘が、左膳の父親でしょうか、丹下先生の命日の墓参りということで出て来ていたようで、先生の命日に仇の行列がそこを行くなんて、と運命の理不尽を嘆くようなセリフをつぶやいています。この行列が宿をとるところの主人の娘が先ほどの娘のようで、宿へ入るときに彼女を見かけた好色の明石藩主が彼女に給仕をさせろと呼びつけます。
彼女は、「今宵は忘れようにも忘れられぬ日。あなたさまを仇と狙う者のあることをご存知か」と言います。藩主は、すでに柳堤で一人は打ち果たしたと答え、娘が、その名は?と問うたところで、曲者の乱入を告げる家来たち。曲者をとらえたたとの報告に、斬りすてよ、と命じると、娘は、きょうは大事な人の命日だから殺さないでと頼み、藩主は明朝まで曲者の命を断つのを伸ばすことにします。そのかわり娘に明石へ伴うように命じますが、娘は来年江戸へ参勤交代するときにお供すると先延ばしの約束をしてその場をしのぎます。
闇にまぎれて、娘は捕らわれたのが丹下ではないかと蔵へ探しにいき、別人(黒川弥太郎)だと知りますが、その縄を解いてやりますが、逃げようとすると見まわりの武士たちに囲まれ、斬りあいになります。そこへ丹下左膳が現れて、一緒になって戦います。映画の冒頭では立っているのもやっとのような状態でむざむざ斬られていて、ひどく弱い左膳だなぁと思えたのですが、ここではすっかり傷も言えて隻眼隻手ながらやたら強くて敵を斬りまくります。
そこで敵は飛び道具の鉄砲を持ち出して撃ち掛けます。そのあたりで幕(笑)。この映画もシリーズものの一巻として撮られたようで、前後にストーリーがあって、この巻だけ見てもよく分かりません。
この映画のいいところは、堀川の倉庫群の白壁が並んでいるようなところで、丹下左膳がぶらぶら来て一人物思いにふけって佇んでいるような光景、それに街の風景がなかなかいいことと、あとは吉野屋の一人娘を演じた高峰秀子の登場する場面がみなとてもいい。
丹下左膳(本木克英監督) 2004
DVDで、実は舞台を撮った唐沢寿、松たか子、中村獅童、伊原剛志らの「浪人街」があんまり素晴らしかったので、中村獅童の左膳の姿をカバーに巻いたdvdをみて、あぁいうものじゃないかと早とちりして古書店かどこかでみつけて買っておいて、観ていなかったのですが、今回ほかの丹下左膳を見たついでに手にとってみたら、どうもまるで見当違いで、テレビの時代劇としてつくられた安物だったようで、内容的にはがっかりでした。
獅童は使いようによっては「浪人街」の舞台のように、いい役を演じるし、お藤を演じたともさかりえはのびのびと威勢のいい女を演じていましたが、なにせ脚本が悪い(と思う)。左膳の人物造形も奥行きのない、ただわめくだけの品の悪い印象の男になってしまっていて、少しは大河内傅次郎の爪の垢でも煎じて飲んでからやってくれればいいのに、と嘆くことしきり。
チャンバラくらいは現代の時代劇だからみせてくれるか、と思っていたら、確かに獅童は左手一本で頑張っていたとは思うけれども、殺陣は東映時代劇時代のチャンバラに戻ってしまったみたいで、これまた黒澤の「用心棒」以来の映画的なチャンバラリアリズムをどう踏まえてくれるのよ、と言いたいような代物で、左膳と柳生源三郎がほんとうに凄腕の侍どおしでチャンバラしたら、こんなに何合も刀を交わしてチャンチャンバラバラやらんでしょう、構えて対峙しただけで、その殺気で見る方も固唾を呑むような緊迫感があふれるはずのところで、勝負なんてたった一度刀を交えるその一瞬で決まるでしょう、というところ、大げさに構えて吠えるけれども、じゃれあっているようにしか見えません。なさけない・・・
左膳がなぜ隻眼隻手になり、いまのような境遇になったかというのは、兄が理不尽に切腹させられ、それに異を唱えて成敗されそうになって九死に一生を得た怨念の男という過去はたしかに映像的なフラッシュバックで何度かしつこく描かれているけれど、説明的なだけで、その結果左膳がどういう人間になっているか、そこには何ら兄の死をめぐっての屈折した思いも、その事件から時を隔てた歳月の与えるものも、それによってほかの左膳ならまだしも感じられたうらぶれた姿も描かれず、本来左膳が持っていなくてはならない虚無的な影のようなものが、まるで欠けています。
失望の左膳でした。
罪と罰 白夜のラスコーリニコフ(アキ・カウリスマキ監督)1983
ソクーロフの罪と罰の翻案みたいな映画を観て、じわじわと、あれはなかなか良かったな、という印象になったので、同じ原作を表題に掲げた作品をたまたま手にとった次第です。カウリスマキ監督の作品はかなり以前にも見たことがあって(靴磨きの話だったかな)、あまりピンとこなかったのですが、タイトルに惹かれて再チャレンジ(笑)。
でも、この作品はドストエフスキーの原作から(ソクーロフとは違って)物語の骨格は借りているけれど、中身はまるで違いました。どこが「まるで違う」かと言えば、この作品で主人公の若い(でもちょっとわか禿みたいな)男は、たしかに冒頭でいきなりなぜ殺されるかもわからない男をピストルで射殺して、たまたまそこへやってきた家事手伝いか何かの派遣婦の若い娘に、なにをしてる、警察に連絡しないか、などと催促みたいなことを言う、ちょっとあたまのおかしいように見える、理不尽な殺人ではじまる点では原作のシチュエーションに見かけ上似ているけれど、原作のラスコーリニコフと殺される老婆との間にあった金を借りる学生と高利貸しのばばぁというふうな関係(あるいや無関係)ではなく、この映画では殺す若者と殺される男の間にはもう少しはっきりした関係があるわけです。
ここからはネタバレになるけれど(私は映画の感想を書くのにネタバレは全く気にしません。推理小説じゃあるまいし、映画でもそういう作品はみないので、ネタバレを読んで見る価値がなくなるような映画はほんとに見る価値もないと思っているし、そういう作品はたとえ見ても感想なんか書かないでしょうから)殺された男は3年前に若い男の恋人を車でひき殺してひき逃げしたけれど、証拠不十分か何かで罪を免れたらしい人物なのです。これだと通常の犯罪劇なみに、殺した若者にはそれなりの犯罪者としての動機と論理があるわけで、なぁんだ、という感じです。
ふつう私たちが犯罪の動機として思いつくような動機がないとき、こいつ殺してやりたい、とか、こんなやつ虫けらじゃないか、とこの男のように感じることがあったとしても、そのことと実際に手を下して殺してしまうこととの間には大きな隔たりがあります。犯罪者はそこを何らかの契機で飛び越えてしまうわけです。でもなぜ飛び越えたか、つながりの糸をたどれば、たいていの場合、私たちが納得するような理由にたどり着くでしょう。それが動機です。必ずしも人間の行動は、その動機と行為が一対一で物理学の法則みたいな因果関係でつながれているわけではないから、本当はずっと複雑で訳の分からないものを私たちはふだん、単純化して乱暴につないでしまうことで安心しているだけかもしれませんが・・・
いずれにせよ、そういう安定した因果関係みたいな理解に揺らぎが生じると、不安になります。不可解なもの、自分に理解できないものに、私たちは不安を感じ、恐怖を感じ、どうしてもわからないときは狂気の沙汰ということにしてしまいます。でも人間はどう名付けられようと、ある種の予測不可能な行為をやってしまう、ということはあるし、それがそのまま描かれれば不条理劇ということになるのでしょう。原作のラスコーリニコフの殺人は、そうしたのちに不条理劇と言われるようなものの一種のようにみなすこともできるかと思います。
そのかわりラスコーリニコフは、その飛び越えてはいけない深い淵を飛び越えてしまうことと引き換えに、罪の意識を背負うことになります。そしてその彼のありようが、少女への告白のあの緊迫感に満ちたあの場面を導くことになるので、その一番肝心の点は、ソクーロフはピンポイントで的確に描き出して彼なりのラスコーリニコフを創り出していました。
でもカウリスマキのラスコーリニコフ君は、どうも反省が足りないようです(笑)。いやしくも、ひと一人を殺した重みが彼には最初から最後まで感じられないし、影も落とさないようです。むしろ原作で自首を勧め、神に祈る少女の代役であるエヴァとの男女の交情のほうへ、そういう心理的なものは疎外してしまうような印象があります。
そのくせ、最後につかまって「塀の中」へ入った彼は、面会に来て彼の8年後の出所を待つというエヴァに、「虫けらを殺して虫けらになった。俺が殺したかったのは<道理>だ。お前はお前の人生を生きろ」みたいなことを言います。
彼が殺したかったのがどんな「道理」なのか分かりません。汝殺すなかれというキリスト教的な倫理か、世間の常識的な道徳か、自分にも否応なく内面化されている倫理なのか、分からないけれど、とにかくそういったものに抗いさえすればいい、動機も理由も思想も何もいらない、そういうシラケた平板で無倫理的な個人の内面世界が一定のリアリティを感じさせるとすれば、そこに彼が抗うようなあるいは無視したような、この現実世界の様々な秩序、倫理が、既に揺るいで、ちっとも確固たるものではなくなっているということがあるのかもしれません。
ただ、この主人公の男のシラケ方は、いかにも小さい。同じ「わからない」でも、ソクーロフの世界がドストエフスキーが描いた世界に匹敵する大きさの感覚を留めているのに対して、この作品の世界はいかにも小さく、貧しい。地下室のあなぐらにひとり閉じこもって生きることが考えることであるような生き方をしてきた人間の精神に宿る世界の奥行をまるで持たない、小市民的で精神の形が平板な二次元の乾いた板きれになってしまったような小ささを感じてしまいました。それは比べる相手が悪かったからでしょうか・・・
CURE (黒沢清監督) 1997
ホラー嫌いで、偶然夜中にテレビを見ていて、ホラーと知らずに何十年も前に見てしまったゾンビもののハシリみたいなアメリカ映画(だったと思う)のゾンビの行列が迫ってくるシーンや、これも夜中にパートナーの次男がテレビで見ていて、コワイ!コワイ!と身を寄せ合って怖がっていた中田秀夫の「女優霊」を何がそないにコワイねん!と見てしまって、車の中で手を振っていたはずの女がどこにもいないとか、さりげない心理の隙間に深く突き刺さってくるような恐怖感をいまだに反芻しては怖がっている怖がりの自分としては見たくなかったけれども、半世紀以上遅れの「老後の暇つぶし日本映画ファン初心者」としてあまりにも有名なこの作品を観ないわけにもいかないだろう、と今回初めて見ました。
日ごろから医学界の女性差別の現実に鬱屈した心を抱えていた若い女医さんが、催眠暗示にかかってトイレで男性の顔の皮をメスで剥いでいるシーンはちょっとキモかったけれど、そういう視覚的なグロさでコワイという場面はなかったように思います。それに、私は生物系の実験で3カ月くらい毎日、ホルマリンづけのサルのぬるぬるする死体を昼食のあとの時間帯に水槽から引っ張り上げて台の上で解剖する解剖学実習というのをやったことがあって、一番いやだったのが顔の皮膚を剥いでいく作業だったので、もう血の出る死体ではなかったけれど、一応似たようなことを経験していたので、あぁあれか・・とちょっとそのときのやな感じを思い出しただけで、やりすごすことができました。
それよりもこの映画で怖かったのは、自分では手を下さない犯人をみごとに演じた萩原聖人が、彼を追い詰めようとする刑事の役所広司と会話する場面で、苛立つ役所広司に対して断然萩原聖人のほうが余裕で対応していて、いつの場合も、ほとんど心理的に刑事を手玉にとって自分の世界に引き込んでしまいそうなので、いつ刑事が彼の術中にはまって殺人鬼になってしまうかという、そのハラハラ感がすごかった。それくらい萩原聖人はあぁいう人の心にのりうつって、操る能力をもつような人間としての存在感があって、リアル過ぎて怖かった。
どんなに平穏な暮らしをしているおだやかな人間にも、この世界で他者とあるいは身近な人と接している中でストレスを感じ、次第に澱のように心の底のほの暗いところに溜まっていくものがあって、それは他人はもとより身近な人間にもふだん容易に見えるようなものではないけれども、それが見えてしまう能力をもった人間がいても不思議はないし、この映画で萩原が演じている男はまさにそれで、しかもその溜まってるものを表面に引きずり出して、これがお前さんだよ、お前さんはほんとうはこうしたいんだろう?とささやきかけ、強力に背中を押してやることができる、というわけです。
それは本当にありそうな話で、ものすごく怖い。へんなお化けやゾンビが出て来たり、流血があるよりずっと深い怖さです。たぶんそれは、自分にもたしかに心当たりのある何かだし、自分の周辺のごくふつうの「いいひと」たち一人一人にも該当することであるからでしょう。
実際この作品で殺人を犯す人たちは、みな私たちの周囲にいる、ごくありふれた、ふつうの人であり、その中でもいわゆる「いいひと」で、最初から犯罪者然とした悪意の人というのはみあたりません。それが作品中では催眠誘導みたいなことになっていますが、或る契機を与えられることでくるっと反転してこの上なく凄惨な殺人事件を引き起こします。しかも平然と殺し、やったことを素直に認めます。
何が怖いって、自分がごく普通によく知っていると思っている身近な人が、突然自分のまったく想像だにしなかった、理解不能の人に変貌してしまうことほど怖いことはないんじゃないでしょうか。
私たちはふだん多くの幸せな思い込みのもとで生きていると言ってもいいので、ときに、あ、ちがっていたのかな、と気づくことがあれば、微修正を加えながら平和におつきあいしているわけですが、それが突然まったく理解不能の人間として現れたら、これはコワイ。本当のことを言えば、平生から私たちは多かれ少なかれ、そういう不安を感じているところはあるのかもしれません。
何十年と連れ添った夫婦でも、えっ、この人、こんなことを考えていたのか!とか、そんな人だったのか!とぎくりとすることは、ごくまれでしょうけれど、ありませんか?(笑)いや、私は正直言ってあります。たいていつまらないことだから(ちょっとしたこちらの癖がいやでしょうがなかった、とか、同じように食べているからずっと自分と同じように嫌いではないと思っていたおかずが実は昔からきらいだったんだとか・・・笑)いいのですが、これがもっと何か互いの関係に関わるような本質的なことだったりしたらコワイですよね。
この作品の「ホラー」的な怖さというのはそのへんにあると思います。つまりありふれた私たちの身近な存在が、ふつうは絶対に外からうかがうことのできない、本人さえもそんなものが自分の中に澱のようにたまっているなんて知らないことを、突然引っ張り出されて、袋が裏返って見たいな姿の自分をこれが本当の自分なんだ、と突如気づいて、まるで裏返るまでの自分とは違う存在になってしまう、その怖さ。これは自分であっても他人であっても本当に怖い。
次々の発生する殺人の実行犯はともかく、それを追う刑事の主人公までが、もうこいつが真の犯人なんだと分かっているのに、証拠もなにもないし、常識的な因果関係が立証できるわけがないから野放しで、監視し接触して秘密を解き明かそうとするけれども、そうして彼に触れれば触れるほどこちらのほうが危うい状況に陥っていく、そのスリルですね。
だからもう本当は結末は見えているわけで、その通りになっていってしまうのですが、いつ、どんな形でそこへと境界が越えられていくのかが興味の焦点になっています。
その意味ではそういう結末へ向けてのプロセスが暗示的というよりも顕示的で、最初からこの役所広司の刑事さんは私同様にイラチで、取調室で「彼」を取り調べながら、自分が冷静さを失ってキレてしまったり、奥さんとのことをズバリ指摘されて、そうだよ!なぜ俺だけがあんな嫁さんの世話をしてなきゃいけないんだよ!と胸の内をさらけ出して爆発してしまう。もうあの段階では完全に「彼」の術中にはまってしまっているかのようですが、まだあれは早いでしょう。
私なら(笑)もっと冷静怜悧で頭のいい刑事を対峙させて、その場面だけでもたっぷりと緊迫感をもっと盛り上げていきたいところです。あれじゃ最初から負けてるじゃないか、と思うし、あぁあ、やっぱりな、と最後はなってしまいます。ちょっと見え過ぎかな、という印象です。
ラストはなかなか粋な終わり方をさせています。前にも来て同じ席に座ったレストランで、前は沢山残して食べられなかった料理を、今度は同じ席でぺろりとたいらげて、余裕でコーヒーを飲み、タバコなど吸っている彼の横顔のアップから、カメラは焦点のぼけていた店内の遠景で彼のところへコーヒーを運んで来ていたウエイトレスを追い、彼女が他の客の所から、一度近くへ戻ってきて、上司の女性みたいな人から何かささやかれ、上司が立ち去ると、今度は一人でまた向こうへ歩いていって、今度は向こうにある台から躊躇なく包丁を手にしてスタスタと店内を歩いていくシーンで終わっています。刑事のほっと煙草の煙を吐くアップで終われば何も感じなかった(あれ?めでたく解決して終わったのかなとか)かもしれないけれど、カメラがそのまま店内の向こうのほうで別の客の相手をしているウエイトレスをとらえて、彼女をおっかけはじめると、おや?といぶかしく思いはじめ、なんでこんな人をとらえているんだろう?なにか彼と関係があるんだろうか、と思っていたら、最後に包丁ですから(笑)、あっ!と思った瞬間に終わり(笑)。
なかなかオシャレですね。さすが・・・
もっとも、その前に妻を預けている病院で、元気だったはずの彼の妻がカートみたいなのに乗せられて十字架ではりつけにされたキリストみたいなほとんど立ったような姿で、ひどい死に顔で、首から胸の上にかけて犯人たちが今まで殺してきた被害者の首に刻んだようなバツ印の大きな切り裂き傷があついているのを、ほんの一瞬見せていて、あのシーンでは最初に看護婦のごく普通の病院で働くときの表情をうつしてその死体をとらえているので、これは病院の廊下でカートに載せた、殺された妻の死体を運んでいるシーンであって、それまでに妻が殺されるもうひとつの殺人事件が起きているのが省略され、かつ暗示されているわけです。だから、いくらレストランでの刑事さんが、事件がすべて解決して安心してたらふく食べ、コーヒーをのみ、煙草をふかしてホッとしているといった姿をとらえていても、そんなわきゃないだろ!とは思ったでしょう。レストランでのそういう彼の姿をみせられたとき、あれ?どうなったんだろ?と思いましたからね。あのラストにいたって、ようやく、あぁやっぱり!という感じです。
とにかく萩原聖人と役所広司の距離が詰められていくときの、あの怖さはゾクゾクさせられるようなところがありました。
先に言ったように、刑事さんが早く切れすぎ!と思ったのと、あとバスで病院へ一人でいくシーンと、奥さんを病院へ送り届けるとき、どちらもバスでいくので座席に座っているのを見せるのですが、その後ろのリアウインドウに映っているのが、どちらの場合も空と雲です。そしてバスがゆらゆら揺れてちょっと浮いたり沈んだりするので、これって何か空飛ぶバスみたいだから、刑事さんの観ている夢か幻覚かいな、とも思いましたが、やっぱりそれだと辻褄があいません。あれはへんな映像で、ちゃんと街の風景かなにかが後ろに流れていかないと変ですね。意味のないシーンだと思います。奥さんが首を吊る幻覚を見るシーンがあるので、なにかほかにもそういう刑事の幻覚があるんじゃないか、と深読みをしてしまいそうになるけれど、この刑事さんは犯人に対峙して激烈なやりとりをしているあたりまでは少なくとも正気を失っていないというか、手玉にとられてほかの殺人者たちと同じところへひきずりこまれそうになりながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっている、と考えなければ辻褄が合いません。最後は犯人を殺しちゃうんですからね。ただ、その時にはもう、いわば「彼」が刑事さんの中に入ってしまっている。別の言い方をすると、刑事さんの内部のほの暗い場所に澱のように蹲っていた「本来の自分」が「彼」の手で引きずり出されて、刑事さんは完全に裏返ってしまった。
ところがそれまでの殺人者たちとは違って、この裏返った刑事さんはほかの人のように自分がなぜ人を殺したのかさっぱりわからない、という記憶喪失の状態ではなくて、ちゃんとわかっていてみごとに隠蔽して、もとの表の刑事さんの顔も失っていないから、部下に携帯で話して指示したりしています。彼にオカルト的な催眠誘導能力をひきついだ「彼」が、他人を操って自分はからっぽで何もない、と言うのと違って、刑事さんはちゃんと刑事さんとしての実質も持っていて、しかも同時に自覚的な殺人鬼として自分の犯罪を隠蔽し、また他者の内面に入り込んでそのほの暗い場所をさぐりあて、引きずり出してその人物にお前の真の姿はこれだよ、したいことを実行に移せ、と教唆して殺人に導くような能力も獲得している、絶対の罪を問われず証拠も残さず人を動かして人を殺せる最強の殺人者として出現しているわけですね。
かれのラストシーンでの表情はごくありふれた刑事さん。事件を片付けてほっとしてたらふく食べ、コーヒーを飲み、うまそうに煙草をくゆらす刑事さんの顔です。コワイですね!(笑)
ドルチェー優しく(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1999
これは作家島尾敏雄の妻で、自らも作家となったミホの語りを中心に編まれた作品です。最初は娘時代、島の学校の教員をしていた彼女が運命的な出会いをした、島に赴任してきた海軍神風隊の27歳の隊長さん、のち作家となる島尾敏雄とのなれそめ、彼が出撃したあとで自殺を決意していたこと、愛し合い息子と娘が生まれたこと、楽しい暮らし、そして偶然みた夫の日記で別の女の存在を知り、理性を失い、精神病院へ、娘は言葉を発することができなくなり、身体の成長もとまる・・・そうして一家で妻の故郷である南の島で暮らす、夫は妻とのいきさつを小説「死の棘」に書く、1986年死去・・・という二人の過去が写真と(おそらくはソクーロフ自身による)ナレーションで表現され、それから家の玄関を入る老いたミホが部屋の中でカメラを前に一人語りを始めます。
ドキュメンタリーというわけでもなく、ミホ本人を女優としたフィクショナルな作品というわけでもなく、あきらかに監督の演出によってミホはある意味で「演じ」、「語って」いるわけですが、そこで語られることは、ミホが生まれ育った島のこと、父(ジュウ)のこと、とりわけ母(アンマ)のこと、母の死とそれに伴う自らの深い悲しみであって、彼女の目を通したとらえた過去の事実であり、真実の一人語りであって、語られるコンテンツはソクーロフの創造したものではないわけです。
でも、ミホの語りは人々との自然な会話や、単なる折に触れての独り言などではなく、あきらかにこの映画のための演出された一人語りであり、ミホの表現であり、それをとらえるソクーロフの表現という二重性を帯びた表現になっているわけです。
撮影はミホの自宅らしい室内で行われていて、島尾敏雄が亡くなってからずっと喪服を着ていたというミホが喪服らしい黒い衣服を身に着け、首には真珠のネックレスというシンプルな姿で、暗い和室で語り続けます。ミホが障子窓をあけると海が見え、ずっと波の音が聞こえています。
ミホはゆっくりと話し続けます。ジュウウのこと、アンマのこと。その思いが亡き人の面影にまだべったりとねばりついているような思い入れの深い語り口で、この親子の情が尋常なものではない濃く強いものであることが自然に感じられます。
窓の外は次第に暴風雨となって雷鳴がとどろき、波音が高くなります。ミホは壁にもたれかかるように立ったまま、ゆっくりゆっくりと語っています。
後半、シーンが変わり、白っぽい和服姿のミホが家の中の階段を下りて、マヤ、マヤと呼ぶと、やがて娘のマヤが2階から降りてきます。幼いころから肉体の成長をとめてしまい、言語を話さなくなったまま数十年を経た娘です。階段の一番下の段のあたりにうずくまった彼女と、ミホが手を取り合い、抱き合うようにして、ミホがマヤに話しかけ、マヤもまたうなずいたり、手を母の背に回してやさしくたたいたりする様子をカメラはマヤの表情が分からない程度の高い位置からとらえています。
母子は何度も抱き合った後、ミホはお仕事をしなくちゃいけないから、とマヤに言い聞かせるようにして扉をくぐり、別室へ入っていきます。マヤはしばらく階段の手すりにもたれて座っており、別室い入ったミホは戸に耳をあてるようにしてマヤの気配をうかがっています。マヤは階段を上って2階へ帰っていきます。その気配を確かめると、ミホは仕事部屋に祀った霊の前でしゃがんで祈り、「アーメン」と呟き、願わくば父と精霊の・・・と祈りはじめ、「私は書かなくてはならないことがたくさんあります。私に力を与えてください」と祈り、十字架と掛け軸の和風の聖母子の絵が掛けられた祭壇に祈りを捧げます。
再び壁にもたれて語り始めるミホ。「マヤ・・・どんな罪を犯したのでしょう・・・」といったつぶやきが聞こえてきます。「マヤは10歳になって言葉まで失ってしまったわ。神様、私がどんな罪を犯したのでしょう?どうして神様はマヤに試練をお与えになったのでしょう?可哀想なマヤ。マヤはあの沈黙の世界に慣れたかしら。マヤの深い悲しみをどのくらい私は理解できているのかしら。或る時マヤに私はこう言ったわ。つらいでしょうね、マヤ。そしたらマヤはにっこり笑って、私はお母様のように強い人間だから強い人間です。文字に書いて渡したわ。私はいつもマヤに慰められる。私は・・広い心でマヤを受け止めなければ。マヤの試練・・・一生続く十字架の試練、でもマヤは強い。怒りの顔や悲しみの顔も見せたこともない。それに対して私はどうでしょう・・・私の愛が激しすぎて、夫には重荷だったのではないかしら。・・・」
こうしてひとり語るミホの仕事部屋に、そっと半分身を隠すようにして再びマヤの姿が現れます。
その表情はちょっと異様なものにみえ、暗い部屋の影にそっと現れるときは亡霊かと思うような怖さがあります。語っていたミホはそんな娘の影をとらえて一瞬緊張した顔をみせますが、やがてかあすかに微笑みがその表情に浮かびます。マヤはそのまま部屋には入らずに下がって消えます。
ミホのひとり語りはつづきます。「これから先、わたしはどうしたらよいのでしょう・・・」
腰を下ろし、背を壁にもたせかけ、足を前へ投げ出して畳の上に坐っているミホ。波の音が高く、強い雨の音が聴こえ、雷鳴もとどろきます。窓から見える外の雨風、雷雨、激しい雨風。戸を開く音。暴風雨に激しく揺れる樹々。窓辺に跳ねる水しぶき、その向こうにミホのアップ。
アーメンにつづく「主の祈り」のつぶやき。
63分ほどの、ほとんど一人の老女のひとりがたりに終始するじみな映画ですが、島尾敏雄の作品を読み、彼とミホのなれそめから破局、苦難のそれこそ十字架を背負って生きる地獄の日々などについて知っている者には興味深いミホの語りです。ただ、最初のソクーロフのナレーションによる紹介は別として、ミホのひとり語りは基本的に父と母の追憶であり、両親を失った嘆きであって、夫島尾敏雄のことではありません。とりわけ修羅場をくぐった夫とのやりとりや自分の気持ちといったものは、この一人語りには登場しません。
つまり、最初の10分かそこらのソクーロフのナレーションと写真による二人のなれそめ、ひとめを忍ぶ戦争さなかの恋愛、結婚、夫の浮気とそれを知った妻の嫉妬によって生じる修羅場等々、作家島尾敏雄の成り立ちの背景にあって読者の関心が集中する部分、そして妻のミホにとってもその生涯のありようを変えてしまうようなできごとについては触れられずに、ほとんどが懐かしい父や母の思い出なのです。
そこには明らかなズレがあり、ある種の倒錯があります。つまり現実に起きた島尾敏雄にとっても島尾ミホにとっても、娘のマヤや息子にとってもおそらくは決定的な出来事だったことは、ミホの喪服姿や疲れた顔に刻まれた皺、年輪、そしてマヤが言葉を失い、成長を失った現実のうちに現前しているけれども、それはミホの表現のうちには現れないのです。私たちが聞くのはミホの愛されて育った娘時代の父、母の懐かしい思い出であり、その黄金時代の喪失を悲しむ追憶と惜別の言葉であって、夫島尾敏雄や彼と共に過ごした自身の過去ではないのです。おそらくそれは回避ではなくて、彼女自身にとってなおそこに現前している現在そのものなのかもしれません。
saysei at 20:50|Permalink│Comments(0)│