2018年09月

2018年09月24日

濱口竜介監督「Passion」の声・言葉の力

 昨日、「Passion」の登場人物たちの交わす言葉・声がもつ磁力のようなものについて触れましたが、その後もあれらのシーンが何度も頭の中に甦ってきて、ちょっととりつかれていました。

 その中のひとつに、あの教室でのシーンがあります。主役の一人である女性教員が、いじめで自殺したらしい生徒のことをきっかけに、暴力について生徒に問いかけ、自らの考えを滔々と述べるシーンがあります。
 
 彼女は、暴力には内側から発する暴力と外部からの暴力2種類があり、外部からの暴力はどんな人であれ「私」には止めることができない。「私」にとめることができるのは、「私」の内部から発する暴力であって、それは止めることができるし、止めるべきである。しかし外部からの暴力は、受けたくないし、いやだけれども、「私」がそれを受ける蓋然性があることは不可避であって、もし受ければ、それは許すことしかできないのだ、というものです。
 彼女の考え方はいわば徹底した非暴力主義で、たとえ自衛のためであれ正当防衛であれ、たぶんたとえば無力なわが子を守るためであっても、外部からの暴力に対して暴力で対抗することでは、絶対に暴力がなくなることはなく、問題の解決にはならない。外部からの暴力に対しては許すほかはないのだ、というのですね。

 当然生徒たちは反発します。そんなのいやだ。外部からの暴力は止めることができるはずだし、自分は殴られれば殴り返してとめる、云々。そして或る生徒は、内部からの暴力も止めることはできない。なぜかという教師に対して、なぜかは分からない、ただやってしまうのだし、それを止めることはできない、と。自分だけではなく、誰某もそうだ、誰某も同じだ、と言い、いじめで自殺した子に何らかの暴力を振ったことがあると思う者は立て、とその生徒が言うと、クラスのほぼ全員が立ち上がるのです。われらが女教師は言葉を失って慄然と立ち尽くし、思わず教室を走り出て廊下を駈けていく後姿を見せるのです。

 おそらくこれらの生徒のようにホンネを論理的に明確に言葉にして刃のように教師の喉元につきつけるほどの生徒は日本中探しても現実にはみつからないでしょう。たぶんほとんどの生徒が「暴力はいけないことですから」という教えられた建前でやり過ごそうとするでしょうし、この女性教師のように、外部の暴力に対しては許すしかない、というところまで踏み込んで挑発されれば、いや自衛のためならいいでしょう、正当防衛は許されるでしょう、といういわゆる社会常識のレベルで反発はするでしょうが、おそらくそこに踏みとどまるでしょう。

 けれどもこの作品中の生徒たちは教師の挑発にのって、いってみればホンネで語り始めます。だからこそ削られた「悪霊」における少女凌辱についてのスタヴローギンの告白や、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官とイエスの対話のように迫力のあるやりとりが出現するのだろうと思います。これは日本の中学生程度の少年少女をモデルにした普通のリアリズムの作品ではもちろんそんなのリアルじゃないということで避けられるでしょうが、この作品ではそんな現実を写したものよりも、もっとリアリティを感じるのはなぜでしょうか。

 私はこのブログでつい先日、60年近く前に学校の教室で体験したできごとを書き、あのときに他の生徒が発した言葉や、それを受けて先生が発した言葉、あるいはむしろ発しなかった言葉に違和感をおぼえて、ずっとそのことを心の片隅に沈めていたのを、もう一度ほじくり返して、もし私があのときの担任教師であったら、生徒にこう言ってやりたかった、という長いセリフを書きました。
 もちろんたとえ私が本当にそのときその場に担任教師としていたとしても、そんなふうに完全に自分が言いたいことを自分自身で隅々まで自覚していて、しかもそれを論理的に整合性のとれた誤解の余地のない平易な言葉で語るなんてことは、できっこなかったに違いないのです。
 でも、私たちはイエス・キリストではないので、多かれ少なかれ、そんなふうにしか、つまり言葉というのは常に私たちの想いに対して、また私たちが或る状況のもとで感じる切迫した必要性に対して、いつも遅れてやってくるのではないでしょうか。

 別段後ろ向きで後悔ばかりしているような人間でなくても、本当はこう言いたかったんだよね、ということが、他者と言葉を交わす大切な場面であればあるほど、不可避なのではないでしょうか。

 Passionというこの作品の世界で交わされる言葉は、女教師の言葉もまだ世間的には幼いであろう子供たちの言葉も、またまだまだ私などから見ればネンネに等しい若い世代である主人公たちの言葉も、それらの年齢、それらの立場、それらの未熟な者たちの言葉でありながら、逆にそういう彼らであればこそ、本来はこう言いたいのだよね、という現実には遅れてくることが不可避な言葉を、まさにいまそこに現前している肉体が語る、というふうに語っているように私には思えます。

 その意味では、言葉とそれを発する人物の肉体との関係は、とても奇妙で、通常のリアリズムからみれば、こんなガキがこんな偉そうなこと言えるかよ!、或いはこの程度の軽薄男がこんな上等なことが言えるかよ!と嘘っぽく感じてしまうところです。ところがそう感じないで引き込まれるのは、逆に、言葉が通常のように「遅れてやってくる」宿命から解き放たれて、「遅れ」なしに俳優ひとりひとりの肉体にやってきて、いままさにこの人物が、言いたいこと、言わねばならないこと、を完膚なきまでに言い尽くしているからではないか、という気がします。そうやって「遅れずに」やってきた言葉が、その人物を作っている。彼あるいは彼女の語る言葉が、そのつど彼あるいは彼女を私たちの前に創り出しながら、それ自体が他者の言葉に反応して変化していっている。その刻々の変化が私たちの耳と目を決して離してくれないのではないか、という気がするのです
 
 先日半世紀ぶりに再見したパソリ―二の「奇跡の丘」の言葉が、それ自体で生きて立っているように感じられたというふうに感想を書いたと思いますが、あの「奇跡の丘」では、言葉が現実の物質のように現前していて、むしろ映像はそれを説明している。いや、説明していると言って語弊があるなら、言葉が先に現実として存在していて、映像はその言葉を「実現」している、と言えばいいでしょうか。

 新約聖書の中のよく知られたエピソードに、イエスが弟子たちに今宵おまえたちはみな私について躓くだろうと言うとき、ペテロはたとえみなが躓いても私は決して躓くことはありませんと言い、これにイエスは、今宵鶏が鳴く前にお前は3度私を知らないと言うだろう、と言います。ペテロはなおも、私はあなたと共に死ぬことになっても決してあなたを否むことはありません、と誓います。そしてイエスが捕らえられ、人々の中に、ペテロがイエスと共に居たと言う者があらわれると、ペテロはそのつど、いや私は彼など知らない、と否定すること3度に及び、そのときペテロは明け方の時を告げる鶏の鳴き声を聞いて激しく泣いた、というものです。

 このエピソードもパゾリーニは忠実に描いていますが、ここで生きた現実として作用力をもってそこに現前しているのはイエスの言葉であって、ここでのペテロの行動の描写、いやペテロの行動そのものがその言葉の「実現」に過ぎません。それはすでに「語られた」言葉の再現にすぎないのです。生きた現実として私たちの前に現前するのはイエスの言葉にほかなりません。

 パリサイ人、律法学者らがイエスを試し、陥れようと仕掛ける言葉の罠にイエスは見事な肩透かしや反撃を加えます。その激烈なやりとりは新約聖書同様、「奇跡の丘」においても一つの山場ですが、イエス自身がその言葉のやりとりの中で変わっていくことはありません。イエスは最初から最後までイエスであり、父なる神への確固たる信仰を説く一環した思想の言葉であって、敵対者が罠として仕掛ける言葉はそれを際立たせるための背景に過ぎません。

 濱口さんのPassionの3人の主役たちの議論の場で交わされる言葉は、同じように生きた現実として私たちの前に現前するけれど、「奇跡の丘」のイエスの言葉とはまるで違っています。彼らが語る言葉は彼らの行動の「説明」ではないし、彼らの行動、それを表現する映像もまた、彼らの言葉の「説明」でも「実現」でもありません。言葉は映像の説明でも補助でもなく、また映像は言葉の説明でも実現でもありません。そこでは両方共が動いていくようです。言葉が行動(なり表情なりをとらえる映像)を変え、行動(なり表情なりをとらえる映像)が言葉を変えていく。Passionの行動と言葉の関係はそう表現するのが一番適切な気がします。

 そして、その言葉は独白ではない。一人の思想の託宣でも教義の表明でもありません。あの3人の議論の場で、文字通り3人の間で交わされる言葉であり、ある人物のある言葉がそれを受け止める他方の人物の言葉を変えていく、そうして次々に相手にぶつけられて化学変化の連鎖を起こしていく言葉、そういう現実的な作用力をもった生きた言葉なのだと思います。そうでなければ、なぜあんな頭でっかちな理屈っぽい、「面倒くさい」やつらの議論が私たちを引き付けてやまないのか理解できません。

 

saysei at 20:34|PermalinkComments(0)

濱口竜介監督「Passion」をみる

 彼岸の法事の帰りにチケットを買っておいて、夕方再度出かけ、片腕を三角巾で吊った上、幅広い胴巻きでしめつけ、薄いカーディガンを羽織ってごまかしたカッコ悪い姿で、出町座で「Passion」を観てきました。もちろん「ハッピー・アワー」が素晴らしかったし、「寝ても覚めても」もよかったから、前に撮った同じ監督の作品が見たいと思っていたら、出町座でやってくれたからです。

 大学院の修了制作か何かでつくられた、普通だと習作段階の作品でしょうから、自分なりにこの程度かなと予想していた水準はあったのですが、全然そういう芸大の学生や院生が作りそうな多くの自主製作映画の水準とは違っていました。作品としての完成度がどうとかっていうよりも、「ハッピー・アワー」や「寝ても覚めても」を見ずにいきなりこれを見ていたとしても、これはもう新しい映画を生み出すクリエイターだな、ということが誰にでも分かるような作品だったのです。

 ここには「ハッピー・アワー」に引き継がれる濱口さんの映画の特色がもうとてもはっきりと出ていて、それがこの作品でも強い魅力になっています。

 「ハッピー・アワー」では新進女流作家のトークのあとの「打ち上げ会」での登場人物たちの交わす議論をはじめ、全編にわたって4人の女性の強烈なエネルギーをもった言葉による相互の、また夫をはじめとする他者とのやりとりがあり、「寝ても覚めても」でも私が感想で突出したシーンとして書いた、登場人物たちの激しい言葉の交わされる素晴らしいシーンがあります。

 この「Passion」でも、最初は主役の一人(この作品には主役級の登場人物が5人いますが)で学校の教員である女性が、いじめで自殺した子をめぐって生徒たちと暴力を主題として言葉が交わされるシーン、そしてもう一つは、やはり主役級の3人がそのうちの女性の(実際にはその叔母の)マンションの一室でかわす、「互いのホンネを引き出すことで自分を知る」ためのゲームの形をとった、これも相当激烈な言葉のやりとりです。

 5人の主役級の男女の間の関係が実に複雑に入り乱れて変化もするので、それをここで説明的に記述しようとは思いませんが、それはまぁ別段物珍しい設定でも何でもなくて、世間によくある男女の間のもつれで、それが親しい友人の仲間内で交錯するものだから、よけいややこしいだけで、そういう事態そのものも世間にはよくある話であって、その点だけを見るなら、それを凝縮して見せただけと言ってもいい中身です。
 
 ただ、世間の男女とちょっと違う点があるとすれば、この登場人物たちは監督と同じ東大の学友なのか(笑)みな理屈っぽくて、登場人物の発言自体にあるように、「面倒くさい」やつらなのです。だから自分たちの行動や感情をやたらあれこれ詮索し、分析してみせ、そんなものあるかどうかも分からない「ホンネ」だの、「ホントウノコト」だのというのを探りっこしたりします。

 そういう面倒くさいやつらの議論がハイライトになるような映画って、ふつうは頭でっかちなやつが作る、理屈っぽくて、ちっとも面白くない映画になるはずなのですが(笑)、この作品は長い時間がたつのも忘れるほど、ぐいぐい引き込まれて見ていくことになります。なぜだろう?というところから、たぶんこの作品がどういう映画なのかを語ることが始まるのでしょう。

 2本の同じ監督の映画を観ただけで、何の予備知識もなく、つい数時間前にたった一度見て帰ってきただけの状態でそんなことできるわけはないのですが、印象だけ走り書きしておこうというわけですが、結局私がひきつけられていた具体的なものは何なのかといえば、そこで交わされる3人の男女のやりとりであり、3人の間を飛び交う言葉であり、声だったというほかはなさそうです。

 小説でも例えばドストエフスキーの「悪霊」など読んでいると、この作家は登場人物がいわばじかに思想を語る言葉を小説の文章として書いて、ちゃんと小説として読ませて心を動かすことのできる作家なんだな、と思い、そういう作家というのは日本にはいないんじゃないか、とずっと思っていました。だいたい、そういう言葉を小説の中に取り込めば、小説としては破綻するというのが当然なのです。
 もちろん、埴谷雄高の「死霊」はどうなんだ、と言われれば、そうなのかもしれないけれど、それはいわば最初から観念小説として、ちょっと別次元の小説ですよ、という納得があって読み進めはしても、人間の生きた血や肉の感触をじかに味わうような小説のだいご味というのが感じられるかといえば、それは無理な気がします。けれども平野啓一郎の「葬送」を読んだときに、登場人物たちの思想的な言葉をそのまま小説の言葉として書いて、ちゃんと読ませる作家が出て来たんじゃないかな、という気がしたのを覚えています。

 今回、「Passion」を見て、あのときの感じを思い出しました。そして、そういう特色は私がみた3本の濱口さんの作品に共通しています。

 複数の人物が交わす言葉がそれ自体として生きられる現実として立ち上がってくる。なぜそんなことが可能なんだろう?と思います。ふつうは、なに屁理屈言ってやがる、あたまでっかちな登場人物だな、でそっぽを向きたくなるはずなのですが・・・。

 文芸であれば、詩というのがいわば一粒一粒お米が光って立っている飯のように、ひとつひとつの言葉がじかに私たちが泥んだ世界を切り裂くのに対して、小説は言葉の指示的な側面を活用してひとつの仮構線を設けてその上に言葉を展開することで、人との人との関係やモノやコトの複雑な構造からなる世界を描くに適した手法として発展し、劇はさらに仮構線を上げて、そうした関係や構造を描写する言葉なしに、人と人との言葉のやりとりだけで世界を描くことも可能にしたのだとすれば、「Passion」の登場人物たちが厳しい言葉を交わし合うあぁいう場面は、それだけを切り離しても、言葉だけで劇として成立しそうな場面です。

 一度あのシーンを目をつぶってかわされる声だけを聴いてみたい、という気がします。

 そんなことを考えていると、当然、昔好きでよく読んだシェイクスピアのいくつかの劇を連想します。もちろんあれは舞台で演じられる劇だけれど、何よりもまず言葉の劇として書かれていて、シェイクスピアの劇は、私は若いころ1年くらいはロンドンにいたのに、舞台はほとんど指折り数えられるほどわずかしか見ていないけれど、書かれた戯曲としては少なくとも代表的な劇のかなりは読んで、どれもすばらしく面白く純粋に娯楽的見地から読んで面白いと思えました。きっとあれは、戯曲を声優が朗読しても楽しめるのではないかと思います。

 シェイクスピアの劇も何百年たっても汲みつくせない価値を持つでしょうが、そんなこと何も分からなくても、当時の観客は彼の舞台を楽しんだでしょう。私たちも、濱口監督の作品を分析的に論じて汲みつくすには多くの知的な観客と時間が必要でしょうが、そんなこと関係なく作品そのものは楽しむことができます。

 もちろん「Passion」は映画なので、いま書いてきたような部分だけではなくて、素敵な映像がいくつもあります。上記の議論をする3人からはみ出た二人~男性がずっと片思いしてきた、そして女性のほうはそれをわかっていて、彼の友人でもあり、じつはほかの女を愛してもいた男性と結婚の約束をしている、という二人なのですが~が歩きながら語り合いながら歩くシーンなどはその最たるものです。

 この作品も「ハッピー・アワー」と同様に、二度、三度みてみたいし、そうしないとうまく言葉でその魅力を語れそうもありませんが、今日はとりあえずの印象だけということで・・・
 

saysei at 01:53|PermalinkComments(0)

2018年09月22日

手当たり次第に ⅩⅤ ~ここ2,3日みた映画

 片手しか使えず、もうすぐ入院とあってしばらくは書けそうもないので、いまのうちに(笑)。

「奇跡の丘」(パオロ・パゾリーニ監督)1964

   この映画には懐かしい思い出があります。”大学は(中途で)出たけれど・・・”drop outしてロンドンで遊んでいた20代の半ばころ、たまたま知り合ったイタリア人の自称作家(実際に書いていて一部を朗読してくれたこともありましたが)Lucianoという同世代の男が、作家ではチェザーレ・パヴェーゼの熱烈なファンで、映画では、このパゾリーニのこれも熱烈なファン。

 小説の方はイタリア語はもちろん英語でも、一冊読もうと思ったら半年はかかりそうな私(笑)に読ませられないとみて、ひたすら私をロンドン中の場末の映画館へ連れて行って、パゾリーニの映画を見せたがったので、どこかでパゾリーニを上映していることがわかると、彼がやってきて、今晩行こう、と引っ張っていかれたものでした。

 メジャーな娯楽映画を映画館でたまぁに見ることしか知らなかった私には、いきなり片っ端から見せられるパゾリーニはまったく退屈で、少しも面白くなく、拙い英語で熱烈にパゾリーニを語って私を啓蒙しようとする彼に対して申し訳なかったけれど、まるで馬の耳に念仏でした。
 でも異国の地で数少ない友人でもあり、たしかに文学や映画にはとても造詣が深くて、ロンドン大学のあるカレッジでやっていた夕方からの映画学校にも引っ張っていってくれて、英語で受ける映画の授業で、彼が英語で論じられるほどの語学力とも思えないのに果敢に教師の見せる映画に、それがいかに下らない映画かを主張したり、ちょっとエキセントリックなところがあるけれども、その言うところには共感するところがあったので、いつもただ素直についていったのでした。
 
 残念ながら文学についても映画についても、言葉の関係もあって彼からちゃんとした影響を受けることができなかったけれど、「奇跡の丘」を見た時のことはまだ覚えています。これも2-3シリング(当時の実感的換算では100円か150円くらい)で小さな汚れた場末の映画館で観ました。なぜこの映画についてはよく覚えているかと言えば、新約聖書については日本で何度も繰り返し読んでいて、エピソードの隅々まで記憶していたから、その記述に忠実なこの作品は一通りの意味では全部内容がわかったということと、それだからこそ、この映像作家が、なぜこんな映画を作ったのだろう?と疑問に思ったからでした。これじゃ聖書に書いてあるとおりなぞって映像にしただけじゃないか、どこに映像作家としての主張があり、アクセントがあり、選択があるのだろう?というのが私にはわからなかったのです。

 それで、イエスがエルサレムに帰るときに飢えていて、道端にいちじくの木があるのを見つけてそれに近づくのですが、実は一つもなくて葉ばかり。それでイエスは怒って(笑)、いちじくの木に向かって、これからのちいつまでも、おまえは実を結ぶことはないだろう、と言うと、たちまちいちじくの木が枯れてしまったので、周囲の人たちがみな驚いたという場面があるのですが、ここで笑ってしまって、隣の席の彼に、シッ!とたしなめられたのです。

 私は日本にいるときから聖書を信仰者として読んでいなかったので、信仰は山をも動かす、というイエスの託宣の前座のように置かれたこのエピソードを、これじゃイソップの「酸っぱいぶどう」とどこが違うねん?(笑)という受け止め方で読んでいて、こういう場面を実際の俳優で大真面目に演じられると笑うしかなかったのです。まぁ、当時の若い私は、聖書の奇跡の記述にはどこででも躓くほかはなかったのですね。

 そんなことがあって、この作品をよく覚えていたのですが、それから半世紀近くたって、ようやく再見したわけです。今回何も考えずに、老人になってから、生涯で2度目にビデオで見たこの映画は、なかなかのものに思いました。あれから、カラーでイエスの生涯を描いたほかの映画も見ましたが、それらよりもいい、と思ったのです。

 見たばかりで分析的に言うのは少々難しいけれど、まずモノクロの単純さが聖書の世界をえがくのにすごく生きている感じがしました。そして背景の荒野、砂漠、そして貧しい人々の住まうごつごつした岩の小高い丘などの家々などが、まさにイエスが生い立ち、人々に教えを広めた世界はこういう世界だったんだろうな、と思わせるような風景でした。

 俳優が結構みないいのです。最初に登場するイエスの両親、最初がマリアのアップで始まるのですが、夫となるべきはずの許嫁の子でない子をみごもってしまって、憂愁に満ちた表情のマリアが、とてもいい。そして、そのマリアを見つける実直そうな大工ヨセフの表情もまたいい。
 さらに、苦しむヨセフの前に現れて、あれは神の子なんだから気にせずにマリアと結婚しなさい、と受胎告知を演じる天使がすごく素敵な女性で、その後もイエスが磔刑になってから、3日後によみがえりガリラヤへ行けば会えると人々に告げる時も現れますが、もっと登場してほしかったほどです(笑)。

 イエスもジェフリー・ハンターみたいに目が大きく澄んでキラキラとオーラをかんじさせるような、いかにもキリスト顔という役者ではなくて、おでこの広いちょっとかわった顔で、私は今回みて、「千と千尋の神隠し」のカナオシの顔を連想しました(笑)。早口にまくしたてるこの作品のイエスは宗教者というより煽動家にみえます。

 俳優さんもいい存在感を出していたと思いますが、この作品で何よりも強烈なのは、そのイエスのまくしたてる「言葉」です。もちろん一言一句新約聖書の言葉で、そこから一歩もはみ出るものではありませんが、それがこの作品で聴く者、観る者に肉薄してくるような強度で立ち上がってきています。

 ひとつにはあの速射砲のように猛烈なスピードで繰り出される科白まわしのせいでしょう。イエスの声も聴く者を激しく煽動するもので、教え諭す言葉ではありません。よく調べてはいませんが、あれは福音書の中でもマタイを使っているでしょう。あの激しさは素朴なマルコでも優等生のヨハネでも網羅的なルカでもなく、激情の人マタイのものだという気がしました。

 旧約の世界と新約の世界との違いが、民族なり民俗から離脱しない牧歌的な共同体的な倫理の世界と、それらを振り捨ててぐいぐいと個人の内面にぎりぎりの選択を迫ってくる個人的な倫理の世界との違いで、キリスト教がユダヤ教から生い立って世界宗教になった飛躍の根拠がそこにあったとすれば、パゾリーニの描くイエスの言葉は、まさにそのような新約の世界の本質だけを抽出した、物質のような「力」として、観客の心に働きかけてくるようです。

 きっとこの映画の主役は言葉で、マタイの福音書から生命をもって立ちあがってきたものだったのでしょう。


「マルクスの二挺拳銃」(エドワード・バゼル監督) 1940

   
このモノクロ・トーキーの有名な喜劇役者マルクス兄弟の3人が登場するアメリカ西部が舞台の喜劇で、たしかにギャグは古典的で、いま見て素直に腹の底から笑えるものではありません。でもこの映画はいま見ても、もろに感動する、すばらしいシーンが三つあります。

 その第一は酒場でチコがピアノを弾く場面です。マルクス兄弟に何の予備知識も持たずに、ふつうにいまの若い人がこの映画を観ても、この場面の演奏とその楽しい雰囲気満艦飾のこのシーンには心を動かされるに違いないと思います。チコは片手で「連弾」できるピアノの名手なんですね。

 第二は見た人には言うまでもなく、インディアン部落で、酋長の笛に合わせてハーボが奏でるハープです。これはもうただお上手、というのを超越した天才の技です!すばらしい!ハーボは天才的なハ―プ奏者なんですね。ここで本当に心ゆくまでその技を堪能させてくれます。いまの若い観客だって、これに痺れない人はないでしょう。

 第三はそれらに比べれば、すでに新しい映画で類似のシーンが作られているから、今見て新しいとは思わないでしょうが、ラストの列車の暴走場面です。そこで繰り広げられる喜劇もこういう猛スピードで暴走する舞台で演じられるからここはとても面白いし、楽しめますが、それよりもあの列車が線路を外れて暴走し、家を突き抜け、貨車の車両の壁面もぶっ飛んで、なおも猛スピードで疾走する、あの姿に感動します!背景もすばらしい。


ラルジャン(ロベール・ブレッソン監督) 1983

 トルストイの中編小説が原作(原案?)の作品のようですが、私はその小説は読んでいません。裕福そうな家庭の少年が友人に借金していて、返すために親のすねをあてにしたのが断られて、言い訳にその友人のところへいくと、友人はニセ札を渡して、それを使って釣りをもらうよう唆し、二人で写真店へ行って小さな額を買って、少し怪しまれながらも首尾よく店の奥さんから釣りをせしめます。 
 騙されたその店の奥さんとご亭主は、今度はその札を燃料屋への支払いに使い、結局燃料屋の従業員イヴォンヌが貧乏くじをひかされ、知らずに食堂でそのニセ札を使って告発されます。彼は写真店を告発しますが、写真店の店員ルシアンの偽証によって裁判では敗北して、刑務所には入らずに済んだけれど、保釈されるだけで、失職します。
 それでニセ札に端を発した連鎖は断たれず、イヴォンヌは知り合いの強盗の手助けで逃走用の車を用意していて未然に逮捕され、3年の実刑を受けて今度はほんとに刑務所に入れられます。
 妻も娘もいて平穏だった彼の生活はそのことで一変し、服役中に娘が病死し、妻の気持ちも離れてしまいます。妻の離反のことをからかった同僚に集団での食事の最中に怒りをぶつけ、その男をか止めにはいろうとした職員かを通りかかった食堂の台車にあった金属製の杓子みたいなので殴ろうとして思いとどまり、彼の手から落ちた金属製の大きな杓子がコンクリートの床を音立てて滑って柱にぶつかります(このシーンは印象的)。
 イヴォンヌは夜ごとコップを独房の床にこすり付けて不快な音を立て、神経を病んで眠れないことを訴え、睡眠薬を手に入れては呑んだ振りをして貯めこんで、それで自殺を図りますが、一命をとりとめます。
 他方、写真屋の夫婦に言いくるめられて偽証したルシアンも店の金をくすねているのを知られて解雇されますが、ちゃっかり店の合鍵を盗んできていて、あとで泥棒に入るのですが、結局彼も刑務所に入ることになり、イヴォンヌとそこで再会し、偽証の件を謝罪して、脱獄を勧め、その手助けをすると提案します。でもイヴォンヌはその誘いには乗らずに、服役して刑期を終え、出所します。 
 そして現代ホテルという安宿に泊まり、そこで宿の主人夫妻を殺してわずかな金をとって逃走します。この殺しそのものは描かれず、血のついた手を洗うシーンでそれが暗示されるだけです
 次に彼はたまたま出会った老婦人が金融機関で金を引き出すのをみていて、彼女のあとをつけ、キリスト教的博愛主義らしいこの老婦人に寛容に受け容れてもらって、老婦人の家に泊まり、そのことを激しく難じて老婦人をひっぱたく老父や彼女と同じ家に暮らしながら無関係無関心に生きる妹夫婦のことも知ったイヴォンヌは、ひたすら家事にいそしんでこの家を支えている老婦人に、あんただけが犠牲になっているじゃないか、と言いながらその働く姿を傍で眺め、ときに洗濯物をほしたりするのを手伝って言葉を交わしたりしています。
 ところが、ある夜、突如惨劇は起きます。彼が納屋でたまたま見つけた手斧で、老父や妹夫妻を斬殺。その足で老婦人の寝室にも行き、起き上がってベッドで向き合った老婦人に手斧をふるって殺すのです血が壁に散るけれども、殺される夫人の姿などは一切映像化されません。

 ラストはイヴォンヌが食事をするレストラン(居酒屋?)で、警官たちが入っていくと、イヴォンヌはみずから立ち上がって近寄り、ごく冷静に、自分が宿の主人たちと老婦人たちを殺した、と告げ、警官たちが彼を連行していきます。それをワヤワヤと立ち上がった店の大勢の客たちが見送るわけですが不思議なことに、連行されるイヴォンヌを目でおっかけるのではなく、警官たちとイヴォンヌの一行が立ち去ったあとの部屋のほうをみんなが覗き込むように見ています。別にそこで殺しがあったわけでも、抵抗して争ったわけでもないのに、です。

 この映画、そういえばかなり以前にも一度見たことがあって、なんだか狐につままれたような気分で細部はよくおぼえていませんでした。今度あらためてみて、やっぱりずいぶんとんがった映画だな、と思いました。つまり、ふつう私のようなごく平凡な映画を娯楽として楽しむ観客が見て、物語を追って行って、すっと受け容れられるような作品ではなさそうだということです。少し皮肉なことを言えば、シネアストを気取る人種が、映画の分からんやつにはこの映画はわからんだろう、わからん奴は近づくな、と言いそうな(笑)映画です。とんがった、という意味は。

 幸か不幸かそんな人種でなくても、いまはビデオでいくばくかの対価を払えば、この程度有名な作品は誰でも見ることができるので、そういう連中が何と言おうと、わたしたちはわたしたちなりの観方で楽しむなりくさすなりして話のネタにすることができますから、好きにやってみましょう。

 私たちはふつう、いくばくかでも物語性のある小説なり映画なりを読んだり観たりすれば、つまり、なにか現実の出来事に似たことが継起的に起こるようなドラマを読むなり見るなりすれば、これが語られる順に、その時間を追って継起する出来事を追って行くでしょう。そして、次に何が起きるのかという好奇心で先へ先へ導かれていきます。それはどんな物語でも基本で、ごく自然なことです。

 ところが、どうもそういう物語の提示の仕方が繰り返されることで、どんどん新鮮味が失せ、あらたな物語をつくるにもパターン化され、陳腐化していって、同じパターンを繰り返しているだけで、どんどん現実から乖離していくと感じられるようになったのでしょう。
 内容的に色んなヴァリエ―ションを作って見ても、もうその物語の枠組み自体が嘘くさく感じられる。なんとかその枠組みを壊したい、はみ出したい、そういう潜在的な欲求が書き手、つくり手のほうに強くなって、物語の定型としての物事の継起する順序をひっくり返してみたり、一部を省いてみたり、途中でぶった切ってみたり、もう物事の継起自体を失くしてしまおうとしたり、枠組そのものを無化しようとするそれこそ四苦八苦の工夫を作り手たちが試みてきたのが、現代の小説だの映画なのかもしれません。

 この「ラルジャン」も物語そのものはたぶんトルストイの小説がごく自然な継起的なものであったように、タイトル通りの「おかね」、この場合はニセ札ですが、それがきっかけになって、人と人の間にわたっていくことで引き起こされる「悪」の連鎖というのか、意図的な悪が宿命のように訪れる不運になってイヴォンヌの人生を狂わせ、当初の姿からはるかに遠く隔たった地点まで彼を連れて行ってしまうまでに、まるで悪魔の意志が深くひそかに浸透していくように広がり、波及していく、そういうありさまを描いているといえるでしょう。

 トルストイの場合は、イヴォンヌの老婦人との出会いあたりでの転回によって、今度は逆過程、つまり悪ではなくて善がそうした連鎖を創り出していく帰り道も描かれているようですが、ブレッソンの映画では往路だけで還路は描かれていません。
 黒沢清監督はこの映画のラストに「希望」を見たそうで、そのことが二、三のネット上の映画ファンの記事で話題になっていましたが、それが私の違和感を覚えたあのラストのシーンです。レストランの客たちの視線が向かっているのがイヴォンヌや警官の一行ではなくて、彼らが立ち去ったあとの空虚な部屋のほうで、その空虚な部屋に辛うじて、すでに過ぎ去った「希望」を見る、というか、現代における希望というのは、そういうものとしてしか実現されない(描けない)んだ、というブレッソンの意志をみるといった解釈をしている人がありました。

 なかなかうがった解釈だけれど、そこまでこの作品が明示的か、誰もが肯ずることができるような物的証拠があるか(笑)と言えば、とてもそうは言えそうにありません。わかるやつにはわかる、ってことでしょうかね、ここんところも。

 不自然と言えばこのラストほど不自然な光景はありませんよね。誰だってその場にいたら、連れて行かれるイヴォンヌを目で追うでしょう。なんで殺しがあったわけでもなければイヴォンヌが抵抗して暴れたわけでもない、空っぽの部屋のほうを揃いも揃って観てる?(笑)

 ホテルの惨劇も、古典的なふつうの映画なら、イヴォンヌがなぜここでいきなり殺人を犯そうとしたのか、その行動と心理を納得させる根拠を何らかの形で明示した上で、彼がどんな武器を使って、どんなふうに、どんなタイミングで宿屋の夫婦を殺したのか、彼らがどんなふうに断末魔を迎えたのか、そのときイヴォンヌはどんな表情をし、どんな精神状態だったのか、そのあとどんな行動をとったかを見せるでしょうし、観客は見たいと思ったでしょうね。でもブレッソンが見せるのは、洗面台で手についた血を洗い流す、その洗う手と流れて吸い込まれていく血の色をした水だけです。

 老婦人の家での惨劇についても同じです。たしかに老婦人以外の死体は見せられて殺したことは示されるけれど、みな惨劇のあとです。
 普通の物語では、殺人は現実と同じで登場人物にとって重い行為ですから、自然にそれは物語の流れの中でひとつの山場になり、ぐっと密度が濃くなる部分で、それまでの色んなことがそのシーンに集約されて現れ、その後のできごとにまた波及していく、結節点のようなものになるのが自然です。
 でもブレッソンの物語の語り方は、その結節点だけを慎重に全部外していくんですね。言って見れば山場だけ見せないで外していく。ただ、結果としての血液だけ見せたりするから、観客はいやおうなくそれぞれの仕方で殺人の場面を想像することはするでしょう。そういうやりかたで、全部結節点をはずして、それを観客の想像で埋めさせるやり方ですね。

 それはベタに殺人のような山場を描いてみせて、想像力をその絵柄のうちに固定させるやり方が陳腐に思えるようになった時代には、そういう定型はずしの一つの工夫であるのかもしれません。だから起伏の「起」の部分を全部はずしていくと、平らになってしまうけれども、それは観客の想像力が欠けているからで、映像の作り手はその想像力を挑発する映像を提示しているのだから、生き生きした想像力でもってその結節点になるハイライトシーンを思い描いてくれなくちゃ、というのがブレッソンって人の意図なのかな、と思ってみたりもしました。

 ついでに実は書店に『シネマトグラフ覚書~映画監督のノート』というブレッソンの著書があったので買ってきて、このアフォリズムのような著書を最初から最後まで読んでみました。映画と違って(笑)ここに書かれていることは全部よくわかるし、どこにも変なことは書かれていなくて、ごくまっとうな人じゃないか、と思いました。
 シネマという言葉を従来の映画、彼の嫌う演劇的映画にあてて否定的に使い、彼が思うような映画というのはシネマトグラフというふうに区別して使い、またモデル、と言う言葉にも独特の使い方をするなど彼独自の言葉遣いはあるけれども、その説明を読めばみな納得のできるものだったように思います。

 彼は繰り返し繰り返し演劇の比喩で語られるような映画、ないし映画のつくりかたというのを嫌悪し、否定しています。

 シネマトグラフとは、運動状態にある映像と音響を用いたエクリチュールである。

 フランス人はこういうオシャレな言い方をするから、日本のインテリの中にもすぐにイカレテしまって、横文字を振り回すような人が出てくるんでしょうね(笑)。でもきっと映画の本質をこれ以上端的にズバッと言い切るのは難しいでしょう。

 二種類の映画ー演劇の諸手段(俳優、演出、等々)を用い、再現するためにキャメラを使う映画と、シネマトグラフの諸手段を用い、創造するためにキャメラを使う映画。(翻訳では下線部が傍点)

 演劇的な映画を映画と認めない彼の立場を鮮明に表現した言葉。あとはもうひたすらこれの解説みたいなものです。

 音に関しても素晴らしいセリフをつぶやいています。

 伴奏の、支えの、補強の音楽はいらない。音楽はまったく必要ない
 
 雑音が音楽と化さねばならぬ。

 トーキー映画は沈黙を発明した。


 彼が思い描くような運動状態にある映像、不意打ちとしての映像を理解するヒントは次のような言葉にあるのかもしれません。

 原因は結果の後に来るべきであり、それに伴行したりそれに先んじたりするべきではない。

 先ほど述べたような「不自然な」血だけ見せたり、・・・というこの映画は、こんな彼の考え方の忠実な実践なのでしょう。

 この本を読んでいると、自分の方法についてブレッソンはすごくストレートで職人的に正直な人だな、という気がしました。それは例えば「断片化について」、というような一節で、です。

 もし表象に陥りたくなければ、断片化は不可欠だ。
 存在や事物をその分離可能な諸部分において見ること。それら諸部分を一つ一つ切り離すこと。それらの間に新たな依存関係を樹立するために、まずそれらを相互に独立したものとすること。

 私が先に書いたような「ふつうの」物語のように継起的にものごとを映像化していくような映画に対する嫌悪はこんな感じ。映像ではパンやトラヴェリングという撮影技法に置き換えられるわけですね。

 Xの映画。文学病に感染している。次々に継起する事象による描写(パンやトラヴェリング)

 「訓練」という一節を読んだら、なんだか「ハッピーアワー」や「寝ても覚めても」で濱口監督が俳優にセリフの読みをさせるときに本番まではずっと棒読みさせるらしい、というのを雑誌かなにかで読んだのを思い出しました。

 音節を均等化し、故意の個人的効果はすべて除去することをめざす読書訓練を、君のモデルたちに課せ。

 ついでに、もうひとつ私がこの本で一番気に入った一節。

 自分が何を捕まえようとしているかについては無知であれ、ちょうど釣竿の先に何がかかってくるか自分でも見当もつかない釣り人と同様に。(どこでもない場所から出現する魚。)
 

 でも、これらの言葉どおり彼自身の作品が作られているかどうかはまた別問題のはずだし、彼の言葉を使って彼の作品を解釈したからといって、正解とは限らないでしょう。

 先に書いたような物語の山場を外してしまって、結果だけ表現して、原因はそのあとで観客の想像力で埋める、みたいなやり方(実に乱暴なまとめ方ですが・・・笑)は、決して「運動状態にある映像」ではありません。モデルも別のところで述べている「俳優の自信に対立するものとして、自分が何者なのかわからないモデルの魅力の方を取れ」と言っているような理想のモデルではない。
 監督は何が起きたかを継起的な出来事として全部把握しているし、その上でその中から彼は彼の美学にのっとって、或るシーンを選択し、再構成しているのであって、俳優もまた、セリフを棒読みして訓練してようがいまいが、何をなすべきかをすべて頭に入れて、「自信」に満ちて演技しているはずです。

 そこはウォン・カーウァイの「恋する惑星」(重慶森林)のように、脚本もなく現場でいわば行き当たりばったり(笑)つくり上げた稀に見るような幸運な作品とは違うのではないか。そういうところは、いくら作り手本人が書いたものであっても、その映画がその理屈どおり作られるものだと考える必要はないし、全然別の見方ができるだろうし、すべきものだろうと思います。

 「ラルジャン」という作品自体を或る意味で面白いとんがった作品にしているのは、必ずしも「運動状態にある映像」だから、などではなくて、そのシーンの選択構成の強度に魅力があるのだと私なら考えます。映画の評論家なら繰り返し見て実証してみたいところだけれど、私はそんな能力も気もない(笑)ので、また彼の映画に出会った時に思い出せればそんなこと言ってたことを思い出すことにして、他の映画へ移っていくことにしましょう。
 

「捜索者」(ジョン・フォード監督) 1956

  インディアン(この場合コマンチ)を敵として描けた時代の西部劇で、主人公たるジョン・ウェインは頑固・偏屈で、インディアンに対しても人種的偏見を持っているような人物造型で、いまでは作れない映画でしょう。

 この偏屈な西部男と、彼が昔ひろった赤子が逞しく成長した、チェロキーインディアンの血を本人の弁では8分の1だけ引く熱血青年、ジェフリー・ハンターが、コマンチに攫われた(ジェフリー・ハンターの)妹を救い出すために粘り強くコマンチの男を追いつづけ、捜索して、ついにやっつけて少女、いまでは大きくなって半ばコマンチになりかけていた女性を救い出す、という話。

 ナタリー・ウッドが可愛らしく、ウォード・ボンドがいい味を見せている映画で、背景となる西部の光景が昔の西部劇ファンとしてはとても懐かしい映画でした。


「祇園囃子」(溝口健二監督) 1953

   昔おなじ溝口の「祇園の姉妹」は映画館で観ていましたが、「祇園囃子」のほうは見ていませんでした。「祇園の姉妹」ももう忘れてしまいましたが、色街での自分たちの境遇の理不尽に抗うような、割と強い女性を描いた印象があって、戦前の映画としては珍しいな、と逆に、靴下と女性が強くなった、などと戯言が言われた戦後の作品のような印象を持っていたのですが、それは錯覚で、もろ戦前の映画でした。
 他方こちらの「祇園囃子」はその理不尽な境遇にいわば屈せざるを得ない女性をいわば美的な情緒と切なさの感情でオブラートにくるんでしまうような描き方をした作品なので、こっちのほうがむしろ戦前の映画のような気がしてしまいました。でも、こちらはまぎれもなく戦後の、監督自身がその重要な支え手であった日本映画のひとつのピークをなすような黄金期の映画なのですね。

  文学にも映画にも、昔の作品をとりあげて、いわばポリティカル・コレクトネスの立場みたいなものから、その登場人物や人間関係の描き方のうちに女性差別や様々な差別的な観点やセリフや設定が見られるのを取り上げては批判するという一つのムーブメントがあるようなので、そういう流れからするとこの作品などは問題が多くて、いろいろ批判されそうなところがあるかもしれません。

 ここに登場する木暮三千代演じる祇園の芸妓と彼女を姉さんと慕い、舞妓になりたいと身を寄せる若尾文子演じる少女とが、色街のしきたりと権力関係の中で、姉が妹を想う気持ちから借りた重い借金が足かせとなって、自分の意志に反して、色街を支配する置屋の「お母さん」の仲介する「旦那」の利害を決する権力をもつ役人に身を任せて屈服せざるを得なくなるという話で、本来的には非常に後味の悪い物語です。
 ただそういう境遇の中で世間知らずの妹をかばい、そのために身を犠牲にする姉の愛情やどんな相手であれ人間としての義理を果たすというような或る意味では気っ風のよいところ、そして理不尽さに耐えて色街で支え合いながら生きて行こうとする姉妹のけなげさ、哀れさ、切なさが観客の心を動かすような映画です。

 この作品では木暮美千代が素晴らしい。彼女がこんなに魅力的に見えた映画は私の乏しい経験の範囲では初めてで、その演技力にも心を動かされました。また、世間知らず、恐いもの知らずで、無鉄砲をして、結局自分が頼り切っている姉に迷惑をかけることになるアプレゲールの舞妓若尾文子もいい。
 そして、脇を固める置屋のにくたらしい婆を演じる浪花千栄子がすばらしい。あの権柄ずくの物言いと表情は見終わってからも強烈に印象に残ります。若尾文子の父親で、いまは落ちぶれて、保証人のはんこも断ったくせに後に木暮のところへ金の無心に来るどうしようもない父を演じた山形勲もまた、とてもほかの映画で見る悪役のあの山形勲とは思えない演技で、驚きました。

 祇園の風景がまた素晴らしいカメラでとらえられています。宮川一夫のはずだから、やっぱり違うな、と思いました。最初の若尾文子が右手前から姉さんの所を探し探し行って、むこうから大原女のような物売りが手前へ降りてくる、あの冒頭のシーンからしていいですもんね。


「水戸黄門」(荒井良平監督)1934-35

 来国次の巻、密書の巻、血刃の巻と3巻ありましたが、いっぺんに通して観ました。面白かった!(笑)。

 いまみてもそこそこ面白く観られるのは、たぶんこの作品の脚本を書いたらしい山中貞雄の才能によるものでしょう。もちろん二役で大活躍の大河内伝次郎の存在感、脇をつとめる澤村國太郎(先ごろ亡くなった津川雅彦、長門裕之兄弟のパパ)や市川百々之助の助さん、格さんもなかなかいいのですが。

 テレビで連続でやってた水戸黄門はいくつか見ていますが、やっぱり黄門の風格という点ではこの大河内伝次郎をおいてほかにないだろうという気がします。

 私たちがテレビで見て来た黄門は、最後ワハハと笑って明るく終わる話ばかりだったように思いますが、この作品はなかなか筋立てが複雑で、最後は、もちろん悪だくみをしたやつらは、黄門さまにその陰謀をあばかれるのですが、主犯の柳沢親子はただ悪事をあばかれて恐れ入って陰謀が破綻するだけで、切腹させられるわけでも斬られるわけでもない。もちろんそんなことになったら、史実がひっくり返っちゃいますが(笑)。下っ端は正義の味方に斬られたりするわけですが、いまの政府や官僚のトップと同じで、下っ端は切られるが、某アベさんとか某アソウさんとかは切腹どころか辞任さえしない(笑)、あれと同じで、庶民の我々観客としてはすっきりと気分が晴れるというわけにはいきません。

 おまけに作品の中では唯一可愛らしい娘さんの役だった人のお兄さんは悪者に殺されてしまうし、その仇を討とうとしていた妹も、兄を殺したのが実は彼女が見染められて側女になって囲われていた柳沢の息子だと知って、最後の最後に自決してしまう、という実は暗い話なのです。
 こういうのを書くのはやっぱりあの限りなく暗い絶望的な「人情紙風船」を撮った山中貞雄ならではの黄門さまだと思わずにはいられないけど、ほんとのところは知りません。
 大好きな「河内山宗俊」だって、最後は見せずに終わっちゃうけど、悪漢実は少女のために入れ込んじゃう善なる主人公たちみな、たぶんこの世の仕組みでは犯罪人として殺されちゃう運命でしょうからねぇ・・・




 

saysei at 00:24|PermalinkComments(0)

2018年09月18日

手当たり次第に ⅩⅣ ~ここ2、3日みた映画

 ここ数日はバタバタしていて、暇つぶしにビデオを楽しむ、その暇があんまりなかったのすが、たまったらたまったで、つい長くなってしんどいので、きょうはほんとにこの2,3日観た数本だけ。

「ミッション:インポッシブル / フォールアウト」(クリストファー・マッカリー監督) 2018
  
   これはパートナーも見たいというので、一昨日一緒に映画館へ見に行きました。このシリーズは面白いので全部見ています。私は最初のが一番面白かったので、6作目の今回はそう期待して行ったわけではありません。でも、もうトム・クルーズもこのシリーズ、さすがに「次」は無理なんじゃないか、最後になるかもしれない(私も、だけど・・・笑)と思って観たいと思っていたのです。

 トム・クルーズがウォーカーを追ってビルの屋上を全速力で走るシーンなど見ていると、あの歳でよくやるよなぁ、と涙が出てくるほどでした。どういう涙や?(笑)・・・もちろんビルの谷間を跳んで壁面にあやうくへばりつくようなシーンでは骨折したらしいし、高度7620mからのスカイダイビングだとか、狭い峡谷でのヘリコプターの低空飛行の操縦だとか、みなスタントマンやプロを使わずにトム・クルーズがトレーニングを積んで自分でやってのけたんだそうですから、映像的にもその迫力が伝わってきて、それがこの映画の最大の魅力になっていることは、前宣伝に偽りはないと思いました。

 それと同時に、それと並んで今回の最大の魅力は、ロケーションだろうと思います。パリ、ロンドン、アブダビ(UAE)、ニュージーランド、ノルウェイと世界をまたにかけたロケで、ニュージーランドやノルウェイの風景は大画面で見ると、とても美しい。それがスタティックな風景としてでなく、劇的な展開の背景になっていて、その中でとてもちっぽけだけれど超人的能力をもつヒーローが駆け回り、飛び回っている、そういう光景というのをこれほど美しくワクワクするような画面で見せてくれる映画はめったにないんじゃないか、と思いました。

 製作費1億7800万ドル、ごくおおざっぱに1ドル=100円換算だと178億円ですか。まぁこれだけ派手に動けば、そしてこれだけのスターをこれだけ酷使するには、それくらいは要るのでしょうね。ハリウッドでなきゃできない映画でしょうから、そういう或る意味でその時代のピークみたいなこういう作品を観ようと思えばいやでも応でもハリウッド映画を観るしかないんだな、と思います。

 お話のほうは、例によって単純ですから、どうということもなくて、やっぱりその点では最初からチーム員が次々殺されて・・・というシリーズの最初の話が一番よくできていたような気がします。最初ので思い入れが強いのかもしれませんが・・・


「イエローキッド」(真利子哲也監督)2010

  これはちょっとほかの映画を探していて、たまたま見つけて通販で買った東京芸大の大学院映像研究科第三期修了作品集2009というDVDに収録されていたものです。

 なぜ真利子さんのだけを見たかというと、この監督の名はずいぶん前に、同志社大学で行われた何かの映画コンペで見たことがあったからです。ちょうどその日、まだ前の前の超多忙な勤務先に勤めていて、夕方だったと思うけれど、仕事をやっと片づけて出先から会場へ駆けつけた時は、とっくに何本かの上映が終わっていたのですが、会場へ後ろの扉からそっと入っていくと、客席でそれを見ていたまだたぶん20歳にならない青年か少年くらいにみえた何か一癖ありそうな少年が、手にしていたビデオカメラをこちらへ向けて、しつこく正面から撮り始めたのです。

 失礼なやつだな、とは思いましたが、こんなところまでカメラを持ち込んで何でもない観客の私をそうしてしつこく撮るのは、きっと会場へ遅れて入ってきた私にちょっと腹を立てているんだろうな、と思いました。カメラを向ける時そんな顔をしていましたから(笑)。たぶんこのコンペティションの参加者の一人なんだろう。ひょっとするといま上映中の作品がこの少年の作品かもしれないな。途中で入ってこられて不愉快だったのかもしれないな、クラシックの演奏会場へ途中から入るやつみたいに、いい歳をしたおっさんが映画を観る常識も知らんのか、くらい思っているのかもな、と思いました。

 ただ、そのとき、同時に、君はまだ分かっていないなぁ。ひょっとしたら、いま上映しているのは君の作品かもしれないけれど、だれもが君の作品や君という人間にそんなに関心をもってくれるものじゃないんだよ。君にとっては心血を注いだ作品かもしれないけれど、それは観客にとっては何の関係もないことだし、君のご自慢の作品を芸術作品として、社寺の宝物殿の宝物のように「拝観」してくれるとは限らないんだ。むしろ、そんなものがあろうがなかろうが、どうだっていい、という無関心にさらされるのが当然で、どんな見かたであれ、わざわざ見に来てくれる観客に対しては、それなりの礼儀を心得ていなくちゃね。見に来る者にはそれぞれの日常があり、それぞれの事情があるので、これでも一所懸命仕事を切り上げて駆け付けたんだよ。そういうどこにでもいるおっさんを君の作品に包括できないうちは、君も大した映画はつくっちゃいないんじゃないかな・・・と、言葉にしてみれば、そういう想いも少し怒り顔でしつこくカメラを向ける彼に対しては感じていました。

 でもまぁこちらはおっさんなので、少年のように感情をむき出しにすることもなく、やり過ごしてそのあとの作品を観ました。私は彼の出品作は見逃していたと思います。

 ところが、なぜそんな昔のことをよく覚えているかというと、その見逃した彼の作品がそのコンペティションでは、たしかグランプリというのか、もっともすぐれた作品に与えられる賞を受賞したからです。そのときにはまだ彼がその映画の監督だとは知らなかったのですが、あとで教えられて知ることになりました。それから真利子哲也という珍しい姓でもあったので、記憶に残って、色んな機会に目にするたびに、あぁあの少年か、と思い出していました。

 あのときに見逃してから、彼の映画は一本も見たことがなかったのですが、年齢はほかの若手映画監督などに比べても一段と若いにもかかわらず、海外も含めて様々な映画の新人賞的なものを総なめにするような勢いで、いろいろな機会に名前だけは目にしていたのです。

 ただ、そのときにどんな映画を作っているんだろう?と思って、ネットなどで出てくる簡単な概要説明や観た人の感想のようなものを時々見ていると、きっと私たちがふつうに娯楽として映画館やレンタルビデオで楽しんでいるようなオーソドックスなわかりやすい映画ではなくて、いわゆる学生のつくる自主製作映画然とした、トンガッた映画なんだろうな、という印象をもっていました。

 私は映画評論家でも何でもないから、新聞や週刊誌の映画時評的なものを読んだり人から聴いたりして、今度の映画おもしろいよ、と言われて、じゃ見ておこうか、というふうに楽しんできただけなので、芸大だの映画学校だので学生がつくるような自主製作映画に目配りして才能を見出す、なんていう批評家みたいな見方は一度もしたことはないし、そんな能力もありません。また、そういう99%は未熟な拙い作品をわざわざ見に行く趣味もないのです。

 ただ、街づくり的なことに関連する仕事をしていたことがあるので、その関係で一度兵庫県のある地域で、商店街などとコラボして映画好きの青年が自主製作映画をその地域のカフェだとかいろんなところで同時あるいは時差上映するような映画祭の企画をやったことがあって、それを夫婦で見に行ったことがあります。

 あるカフェで一つか二つか、ビデオディスプレイで上映していた作品を見たあと、たぶん主催した若い人たちのグループの人たちなのでしょうが、何人かその店にたむろしていて、その中の一人の女性が、私たちに感想を求めたのです。いやひどい作品ですね、ちっとも面白くなかった、というのがホンネでしたが、一所懸命そういう企画をしてセッティングなどしてきた彼らに取り巻かれて、そういう人たちをむげに傷つけたくはなかったので、私にはちょっと何が伝えたいのかよく分からなかった、くらいのところで、もちろん嘘はつきたくないからお世辞を言ったりはしなかったけれど、消極的な返答をしたと思います。パートナーも似たり寄ったりの応答だったかと思います。

 すると、その女性はちょっとムッとしたような感じで、「自主製作映画というのをこれまで見たことはありますか?」と言うのです。私たちは実は身内で映画をやっているのがいて、まるで見ないというわけではないのですが、好んでふだんから見に行く人間ではないので、「いや、そんなに見ませんが」というような曖昧な返事をすると、女性は、やっぱりね、という態度もあからさまに「こういう作品はふだん見慣れていないとなかなか理解できないですからね」と(笑)。

 はいはい、そうでしょうね、と早々に退散しましたが、こんなふうに自主製作映画というのは、メジャーな映画なんかとは違うんだ、芸術めざしてがんばって作ってる作品なんで、それはおまえたちみたいに芸術作品を見るトレーニングを積んでない者には良さが分からないんだよ、と言わんばかりの態度には恐れ入りましたが(笑)、でもこういう考え方でやっているような、なにか勘違いしている若者はそう珍しくもないような気がしています。

 私たち一般の映画観客にとって、メジャーな映画であろうと自主製作映画でろうと、そんなことは作品を見る上で何の関係もありません。それぞれの感じ方で、ただ面白いかどうか、楽しめるかどうか、何か新鮮なものを自分に感じさせてくれてくれたか、なにか考えさせてくれたか、心を動かすものがあったかどうか・・・等々といったことだけで、自主製作映画だからハンディキャップをつけて鑑賞します、なんてことはあり得ません。極端に言えば、自分にとって、いい映画とわるい映画、映画と言える映画と映画ともいえないような映画がある、というだけのことです。作り手がそう考えないとすれば、よほど甘ったれた作り手でしょう。

 そんなわけで、こういう勘違い的な自主製作映画を積極的に見たいとは思わず、たまに見る機会があっても、さきの「自主製作映画を見慣れた」女性のように下駄を履かせてみるようなことはなかったのです。

 けれども、どんなすぐれた作家も映画の作り手も、いきなり素晴らしい作品をつくるわけではなくて、よほどの天才でない限りは、後の優れた作品から考えればおどろくような拙い作品をつくるのも或る意味では当然です。

 そういう映画を私のようにただ映画を娯楽として楽しむためだけに拾い観るような観客が観るとすれば、多くの場合は、のちに優れた作品をつくって評判になり、それを見て、その監督の作品をもっと見てみたい、と思って過去へ遡っていくつか見る、というようなケースです。

 そうやって見た中では、たとえば「Shall we ダンス ?」の周防正行監督の、「シコふんじゃった」や「ファンシィダンス」はすごく面白くて、先にこちらを見ていても面白い!と思ったと思うけれど、「変態家族 兄貴の嫁さん」は何だこれは?と同じ監督のを観ようとは思わなかったろうな、と思いました。そういうのを評価してこの人の先に作る作品に期待を寄せるのはプロの評論家やほんとうに映画好きな人なのでしょう。また、「リンダリンダリンダ」の山下敦弘監督の「ばかのハコ船」だとか「どんてん生活」を先に見ていたら、この監督のほかの映画を観たいとは思わなかったでしょう。この監督が「天然コケッコー」のような作品をつくるようになるとは思いませんでした。熊切和嘉監督の「鬼畜大宴会」を見ても、そのあとの「空の穴」をみても、この監督が「海炭市叙景」のような映画を作るようになるとは思っていませんでした。先に自主製作映画っぽい方を見た場合は、自分の感じ方の嬉しい「はずれ」でしたし、逆に開花した作品を先に見た場合は、この監督もこんなひでぇ作品を作ってたんだなぁ(笑)と、その落差に驚いたりしていました。

 才能のある作り手は、どこかで飛躍を遂げて、私のようなごく平凡で無責任な映画の観客の心にも届くような作品を創り出すようで、そのプロセスは必ずしも連続線を描くものじゃなさそうだな、と思います。

 自然に目に触れる真利子哲也監督はすでに国内外の様々な機会に高い評価を得ていて、映画ファンならきっと注目しつづけている監督なのだろうと思いますが、そういう評価に関係のない私などが作品を観もしないで感じていたのは、まだ私のような観客は見なくていいんじゃないか(笑)、それは山下監督の「どんてん生活」や周防監督の「変態家族 兄貴の嫁さん」、熊切監督の「鬼畜大宴会」といった発展途上にあるんじゃないかと見当をつけていたようなところがあります。

 今回、他の監督のを探していて、たまたま出会って見終わった「イエローキッド」は、たしかにいま挙げたような才能ある監督たちのその種の作品のような雰囲気を持っているように感じました。

 とても強い印象というのか、強度を持った作品で、とんがった作品、という印象です。イエローキッドというのは、もともとは古いアメリカのマンガのキャラクターらしいのですが、この作品ではそれを参照しつつも、主要登場人物の一人である漫画家服部が書いているマンガのキャラクターで、その漫画家は当初は自分の学生時代の別に親しくもなかったボクサーとして筋のいいらしい友人三国に取材して、マンガのヒーローのモデルにしようとしていたようですが、その友人のいまの彼女がマンガ家の元の彼女で、呼んでくれた彼女のアパートへ行くと、先にその友人のボクサー三国が来ていて、もともと虫が好かないやつとしか思っていなかったらしい彼は、虫の居所も悪く、なれなれしく友人づらする漫画家をぼろくそに罵って取材に協力する気などまるでなく、女性からは彼ともうすぐ結婚すると聞かされて、そのあとアパートへ戻った女と三国とが睦みあう声など盗み聞きして、水をぶっかけらたりして、漫画家は気が変わって自分のマンガで三国を悪のキャラクターにし、彼が通うジムへ入ったばかりの、マンガ家としての服部を尊敬するらしい田村という若者をイエローキッドのモデルにして書いていきます。

 この物語はもともと、4畳半みたいな狭い裸電球のともる部屋で認知症の祖母と二人で住んでいる田村という、ボクシングジムに通いはじめた若者が語り手として彼が出逢う人やできごとを軸に展開していくのですが、もう一つの軸が漫画家服部の描くイエローキッドのマンガで、田村はそのマンガの熱烈なファンで、最初は田村という若者はボクサーの資質もなさそうだし、ジムでは一番下っ端の走り使いみたいなことをさせられているし、家に帰れば両親はとうになくなって、残された認知症の祖母の面倒をみている、律儀で気の良い若者ではあるけれども、うだつが上がらないといえばこれほどうだつの上がらない、この社会のなかで一番片隅の掃きだめで辛うじて生きているような存在なのですが、これが服部のマンガが書き進められるにしたがって、その主人公のイエローキッドの行動をなぞるようになってきたことに、服部が気付きます。そのへんから私たち観客にも田村という若者のキャラクターが変わってきたような印象を受けます。
  
 それでも、同じジムに通う、ただ「喧嘩するためにだけ」ボクシングをやっていて、トレーナーの言うこともきかない、どうしようもない不良の榎本にも頭が上がらず、金をせびりにきた榎本に、お人よしにも棚の上に隠してあった祖母の年金の入った封筒を出したとたんに、榎本になにかで後頭部をボカッとやられて金を奪われてしまいます。ここから彼はイエローキッドにほぼ成りきって、榎本を探しだして金を取返し、さらに人通りのある商店街みたいな街路で女性のハンドバッグをひったくる行為に及びます。じゃそれを隠したり、貯めておいたりするのかと言えば、そうではなくて、札束をちぎって撒いてしまいます。彼の何に対するとも曰く言い難い怒りは拳を血まみれにしながら立てかけてあった錆びた鉄板を力任せにボクサーらしく殴りまくることで表現されています。

 夜の街を行く人々に逆行して、背景に明るいそれらの人々の姿をとらえ、それらの人々の間をかきわけ、フードで頭を覆った姿で手前へ歩いてくる田村の姿はイエローキッドそのものに成りきっています。

 田村を演じる遠藤要は熱演で、当初はとりえのない貧しい気の小さい、だけど人のよい純情な若者でもある男が、次第にマンガの主人公に同化してイエローキッドになりきっていくところが、すごく迫力があり、その鬱屈した感情の爆発にいたるあたりは、不気味でもあります。

 それと並んで、私が迫力があるなぁ、このひとたち、ホンモノじゃないの?(笑)と思ったのは、そのボクシングジムでは筋がよくてほかの若者から一目おかれている三国と、喧嘩するためにだけボクシングをやっているという榎本でした。マンガ家の服部に苛立つ三国は迫力があり、とりわけ榎本は金をゆすりに田村の住まいに来て、田村が祖母の年金の封筒を渋々手にしたとたんに、思いっきり田村の後頭部をなにか棒みたいなのでぶんなぐって倒して素早くとんずらするところなんか、その面構えといい、あまりの手際よさといい、俳優というより、ふだんからこういうことをやっている人じゃないか(笑)と思えるほどでした。だいたい、あの顔がすごい・・・

 まぁこの映画はそういう人たちの顔と(笑)エネルギーに支えられているようなところがありました。いちばん普通に近いジムのトレーナーや三国の彼女(服部の元カノ)もそれらしい落ち着いた抑えの演技で、そういう存在があるから、いきりたった若者たちのとんがりようが様になるんだろうと思います。

 ただ、漫画家服部のキャラクター設定と演出なり演技なりというのは、私にとっては、あまりいい意味ではなくマンガ的で、それはそのような印象を故意に与えるような設定をしているのでしょうけれど、なぜそうする必要があるんだろう?と疑問でした。彼がもう少しまっとうなクリエイターとしてのマンガ家で、田村や三国と拮抗できる存在だったら、現実と幻想(マンガというフィクションの世界)との入れ子構造というのか合わせ鏡みたいなものが、面白い仕掛けとしてもっと本格的に生きてくるんじゃないか、という気がちょっとしたのです。

 ただ、漫画家自体を戯画化することで、オリジナルのイエローキッドというアメリカマンガの絵柄や通俗的な物語性に見合った世界をみせているということはあるのでしょう。そのぶん、普通の人が少なくて、どうも服部のように卑小卑屈、劣性キャラばかり目立って、人物がマンガ的で、誇張された姿になっているので、全体が戯画的なものになっています。それは意図されたことなのかもしれないけれど、それにしては洒脱なところがなくて、妙にきまじめだったりするから、服部だけがいやに卑小卑屈で、戯画的に誇張されて浮いてしまった印象です。できることならまっとうなこれの陽画が見て見たい、と思いました。

 あと、この映画の製作費は200万円だそうです。自主製作映画のほとんどはそんなもんでしょう。「ミッション:インポッシブル/ フォールアウト」が先のおおざっぱな換算で178億円。8900倍ですか。たしかに俳優やロケーションや道具類には桁違いの金が後者にはかかっていることはわかります。でも映画として面白いかどうかには、どう見積もっても8900倍の差はない(笑)。だから「イエローキッド」をもし普通の映画館でやって、「ミッション:インポッシブル」と同じシニア料金1100円とったって観客にとってそんなに違和感があるとは思えません。蓼食う虫も好き好きといった受け止め方はされるかもわかりませんが。

 予算や製作にかけられる時間にゆとりがあるに越したことはないでしょうが、映画のよしあしは予算や製作に掛けられる時間では決まらないでしょう。200万円で作ったから、1週間でやっつけたからこの程度、と考えるような映画の作り手がいたとすれば、よほど甘ったれた道楽息子で、道楽でやっている映画をなめたぼんぼんに違いありません。たとえ製作費は100万でも200万でも映画史を塗り替えるような作品を生むことはできると、私は思います。


「拳銃無頼帖 抜き射ちの竜」(野口博志監督)1960


 若くして亡くなった赤木圭一郎主演の60年の日活映画。恋人役の浅丘ルリ子が19歳というから隔世の感があります。赤木よりは若かったようですが、年上にみえます。赤木を保護する姐さん的な立場なら浅丘でいいいけど、純情一途に慕う少女ならミスキャスト。

 宍戸錠はずっとニヤニヤ含み笑いをしていて、こいつなにものや、というわからなさと、それゆえの一種の凄みがあります。赤木より強そうですから、かれがもう少しいいところをみせるか、せめてもう少し死に場所を選ばせてやってほしかった。
 
 香月美奈子がストッキングを取ってよ、と赤木に取らせ、彼がビニール袋を破ると3枚セットで、赤木が3枚あるのか、と感心したように言うのが可笑しい。女は受け取って、履きながら、そうよ、一枚破れてもほかのがすぐ履けるからとっても便利よ、などと答えます。どうやら映画のなかでスポンサーの商品を宣伝して見せる約束になっていたようで、商品に時代性が感じられて可笑しかった。

 いわゆる三国人役の西村晃や藤村有弘が良かった。青龍刀みたいなやつを振り回す藤村の調理人張なんか迫力があって怖かった。


「石の花」(アレクサンドル・プトゥシコ監督)1947

   
ロシアのウラル地方に伝わる民話を古老が子供たちに語り聞かせるという枠組みを最初に示して物語が始まります。石の心が読める孔雀石の石工の名工ブローヴィッチが後継者を見いだせず悩んでいたところ、天性の才能を備えた少年ダニーラに出会い、弟子として育てます。
 青年になり、師匠を超える名工となったダニーラは、注文された鉢を見事に仕上げ、顧客に満足されるだろうことはもちろん、師匠にも石工仲間たちからも高く評価されますが、自分では納得できず、愛する女性との結婚式の日に、自作の鉢を壊し、花嫁を置き去りにして、「銅山の女王」の誘惑に導かれて山中深くはいり、女王の隠れ家で伝説の白い光を放つ石の花を見せられ、取りつかれたダニーラはそこにとどまって理想の作品作りに打ち込みます。
 銅山の女王は彼に恋し、作品を完成させて帰ろうとする彼を引き留めますが、ダニーラは断り、彼の妻を信じる一途な愛に女王も折れて彼は妻のもとに帰るのでした。

 話はいわば芸術の女神に魅入られた天賦の才に恵まれた青年が現実を忘れて理想の作品作りに邁進する話ですが、妻への愛は忘れず戻ってくるという愛を貫く物語にもなっています。結婚式の当日花嫁を置き去りにするなんてひどい男で、それでも彼女は待っていてくれると信じている、なんて、虫が良すぎやしませんか(笑)

 まだ少年だったダニーラが森で笛を吹くシーンはとても美しく、すばらしい。森の木々の木漏れ日の淡く白っぽい光、小鳥の歌う声、兎たち、りす、狼、みみずく、木の陰で少年の笛の音に聞きほれる女王。牛番の少年が掌にのった虫の羽が美しいと眺めている場面。

 結婚式の祝宴の場面も素晴らしい。白い冠や垂れ飾りの花嫁衣裳が綺麗、外の窓ガラスをこすって室内を覗く子供たち。素晴らしいコサックダンス。。。


「結婚哲学」(エルンスト・ルビッチ監督)1924

 
モノクロ無声映画で字幕も少ないのによくわかるのは俳優がうまいからでしょうか、演出のせいでしょうか、あるいは無声映画には無声映画の文法があるせいでしょうか。おそらくカメラのカット・転換が絶妙なのでしょう。
 見終わると、軽妙洒脱な、皮肉だけど、温かな笑いの余韻に浸っている感じでした。こういうのは「ソフィスティケイテッド・コメディ」って言われているんだそうです。なるほど、うまいこと言うもんだなと思いました。

 露骨な不倫ものではなく、ブラウン先生は少々娼婦的資質のあるミツィーに惹かれはするけど、妻を愛していて決定的に裏切りはしないし、妻もミューラーに誤解させるような振る舞いはあるけれど夫を愛しているわけで、そこへミツィーの企みが入って色々騒ぎが起き、結構複雑で微妙な展開です。でもちゃんと何が起き誰が何を考えているかがわかります。それが映像の力なのでしょう。



 きょうは事故で左肩の骨を折って、片手しか使えないので、これ以上書くのはしんどい(笑)、中途半端ですが失礼します。

saysei at 18:35|PermalinkComments(0)

2018年09月13日

「きみの鳥はうたえる」を読む

 佐藤泰志の小説「きみの鳥はうたえる」を読み終わったところへ、雑誌シナリオの9月号で、これを原作として映画化された同じタイトルのシナリオが掲載されていたので、続けて読みました。映画は東京ではすでに先日公開されたらしいけれど、まだ観ていません。

 小説は1981年に発表されたもので、全国の大学、高校での学園闘争などで、まだある種の高揚感のあった60年代末から、そのエネルギーが自滅・解体して一層したたかになった秩序のうちに回収されていくシラケの70年代を経て、もうどんな希望もなく深刻ぶった絶望も失われてしまった後の、昨日のように今日があり今日のように明日があるだろうような日常の無為を、ただ対他的に距離感のある冷めた目をもって生きる若者の姿がとらえられて、私などが読むとそういうキャラクター自体にも、そういう若者が周囲とどう関わっていくのかにも興味深いところがあります。

 ストーリーの中心になるのは、語り手の「僕」と、同居している友人静雄と、「僕」と同じ勤め先の書店員佐知子の3人です。シナリオのほうではもう一人みずきという女の子がいます。あともちろん同僚書店員で「僕」といざこざを生じる小説の「専門書の同僚」(映画での森口)や、「店長」(映画での島田)など脇役も映画ではよく知られた俳優が演じているようです。

 「僕」は生きていく上での基本的な姿勢が受動的で、近づいてきた同僚の佐知子と関係するけれど、同居していた静雄が佐知子に好意をもって、仲間たちと海へ行くのに誘うと、自分は行かずに、佐知子の意志にゆだねてしまいます。
 佐知子を抱いて、恋人どうしのように関りながら、静雄が彼女に惹かれ、彼女が静雄にも好感を持って、自然に近づいていくのを見ていて、静雄を自分と佐知子の間から排除しようともせず、積極的に佐知子を引寄せようともしないで、むしろ佐知子を静雄の方へそっと押し出してやるようなスタンスをとります。
 そのくせ必ずしも無関心でも鈍感でもあるわけではなく、同僚の仲間に仕返しをうけて帰ったあと(小説のほうで)二段ベッドにもぐりこんで静かに息をして暗がりの中でじっとしていると、最初の晩に佐知子が静雄の髪に触って、「蜘蛛の糸の夢なんか見ちゃあいけないわ、もっといい夢を見るのよ」と言った時のことなど思い出しながら「心が次第に狂暴になった」り、危篤の母親の所へ帰っていく静雄を佐知子と送りながら、静雄が帰ってきたあとのことをあれこれ考え、その頃には静雄が自分と同居しているアパートをひきはらって、佐知子と暮していることになるわけだ、と考えて、「僕」のなかに「かすかに、痛みににた感情がよぎりそう」だったりするのです。

 これは私たちのような旧世代の人間からみれば、どうみたって立派な?三角関係で、非常に微妙な抑制的な描写ではあるけれど、上に書いたような「僕」の嫉妬に類する感情の描写もあることはあります。でもそれが武者小路実篤の「友情」や漱石の「こころ」の先生のような、決定的な友情の決裂や別れになるような愛憎の相を見せないのは、「僕」の消極性と曖昧な姿勢のためでしょう。
 なにかこう異性への愛情も同性への友情も、いずれも丈が低くなっていて、一方を取れば他方を棄てねばならない、というところへ自分を追い詰めるのはいやで、愛情も友情もそういう高いハードルを越えていくほどの高みへもっていきたくない、という印象です。

 昔の言葉で言えばそこに「僕」の主体性というものが感じられず、なるようになればいいし、そのことで誰も傷つけたくはないし、自分も傷つくのはごめんだ、という、そのことが彼の行動を律する倫理観のようなものになっているという気がします。
 たぶん、そういうものを、いまの若い世代は「やさしさ」だと感じて、共感を覚えるのではないでしょうか。実際、佐知子の口から、静雄や「僕」のことを「やさしいのね」というような言葉が繰り返し出てきたような気がします。
 やさしさ、というとほんわか温かいイメージのようですが、愛や友情も、少しでも熱を帯びれば、それはエゴイズムだとみなすようなシラケたクールさが根底にあるようにも思えます。
 
 旧世代の輪郭のはっきりした愛や友情からすれば、まことに曖昧模糊とした、感情や意志の輪郭が明瞭でない、従って人と人との関係も曖昧で、主体性のない、従って責任を回避した、なりゆきまかせのずるずるした関係にもみえ、とらえどころのない、うつろっていくだけの光景にも見えますが、これをはっきりさせないこと、愛情も友情も高みへ引っ張って行かないこと、他者との距離も一定以上は近づかないこと、つまり人をも自分をも傷つけない距離感を保ち、そうなりそうであれば、うまくやりすごすこと、そういうある種の自分の身の処し方、対他的な距離の取り方については、旧世代のように泥まみれになったり、醜く叫んだり泣いたり、相手の内部まで土足で踏み込んだり踏み込まれたりといったことがないぶん、或る意味で洗練されています。
 そして、そういう距離感を保ち、クールな姿勢を保つ姿勢については、曖昧でも何でもなく、非常に明確です。それが彼らの倫理、生き方そのものの核心となっている姿勢だからでしょう。

 そんなわけでこの物語の登場人物たちには自ら能動的に選んで他者と関って深手を負うとか、何かしようとして失敗したり挫折したりすることもありません。他者との関係と自分を律するみずからの倫理から当然そうなるであろうような胃潰瘍的な(笑)精神の傷つき方はするでしょうが・・・

 この物語は、だから或る意味で単調です。せいぜい同僚の店員とちょっとしたいざこざを起こしたり、花盗人を楽しんだり(このエピソードはとても素敵です)する程度で、基本的には3人の間の曖昧な友情と恋愛関係が劇的な起伏もない中でどう移り行くかを、日常的なやりとりに終始する話の中で味わうだけのことのようにみえます。
 こういう話が小説として成立するとすれば、「僕」のこの種の生き方の倫理みたいなものが、静雄と佐知子へのかかわり方で、ありきたりの恋愛と友情のからむ三角関係の話に対して、どんなふうにズレてくるのか、そのズレの部分に作者自身が共感するようないまの若い世代の生き方の倫理みたいなものがあるわけでしょうし、読者もそこに共感するからだと思います。

 さきほど「やさしさ」のような言葉を使いましたが、この「やさしさ」は距離を詰めないことを鉄則として前提しているもので、距離をつめようとする者に対しては、ときに冷たい友人や恋人であり、ときに同僚に対するように酷薄な暴力を振う存在でもあるわけです。同居していて互いに限りなく「優しい」友情を懐いている静雄のことにしても、実は「僕」はほとんど何も知らないのです。

 距離を詰めない、というのは、人間関係に対する硬い諦念がその倫理の底に敷き詰められているのでしょうから、失敗も挫折もない、と言ったけれど、彼らはあらかじめ失敗と挫折の果ての何もない荒野に生まれた世代で、そんなものはとっくに一切合切終わってしまったことを前提としてきた存在だといったほうがいいのでしょう。シラケの世代のさらに後の世代、というのは、あらかじめ人間関係において硬い諦念を敷き詰めた上に自分の立ち位置を定め、人とかかわるしか、かかわるすべを持たなかった世代なのかもしれません。

 やさしさというけれど、それはなにか孤独で淋しいもののように思えます。

 小説の中で、「僕」の立ち位置を、そして3人の関係についての「僕」の受け止め方を象徴するような、とてもいい場面があります。

 実際、通行人はさかんに、ひとつ傘に入っている僕らを、うさんくさい、好奇心に満ちた眼で見た。幸福だった。少なくとも僕はそうだった。そのうち、佐知子のむこうに、彼女を通して新しく静雄を感じるだろう、という気持がした。

 
のちに「僕」はこのときのことを反芻します。静雄が危篤の母親のところへ帰っていってから後の話だけれど、球場へ佐知子と花火大会に行った帰りに二人は手をつないで歩きます。

 佐知子と僕がそんな優しい気分になれたのは、その夜がはじめてだった。いつだったか雨の夜に三人で傘に入って通りを歩き僕が感じたこと、そのうち僕は佐知子をとおして新しく静雄を感じるだろう、と思ったことは本当だった。静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつをとおしてもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。

 「僕」は、それまではあれだけ親しく、優しい友情をかわす静雄に対しても、男女の交わりをもって親しく交わった恋人佐知子に対しても、直接同居し、直接セックスして膚を接していても、ほんとうの意味で触れあい、相手を感じることができず、一心同体であったり、結ばれているという実感を持ててはいないのでしょう。むしろそのことが自分に対しても相手に対してもあからさまになることを恐れて、頑なに距離をとろうとしているのでしょう。

 けれども、「佐知子をとおして」なら「新しく静雄を感じるだろう」と信じられ、「静雄をとおして」なら「新しく佐知子を感じることができるかもしれない」と思うのです。この小説は、そんなふうにして静雄を、また佐知子を見出していこうとする、つまりあらかじめ失われた人と人との関係性を取り戻していこうとする物語だと見ることもできるでしょう。

 小説では、しかし「僕」がそんな期待をもったものの、ラストで読者にも予想外の事件を静雄が引き起こすことで破綻してしまいます。話として、また静雄の資質として、不思議ではないとは思うものの、物語の流れとしては唐突さの印象を免れませんでした。「僕」の期待とともに、読者であるわたしたちも、この突然の破綻で宙吊りされたまま、物語が終わってしまいます。そこまでのプロセスで、語られるべきことは語られたとは思いますが、戸惑いはぬぐえませんでした。

 今回、小説のあとにすぐシナリオを読んだので、いくら記憶力の悪い私でも、このシナリオのラストが小説と全く異なることはすぐわかったし、シナリオのラストにはびっくりしました。そして、こちらのほうには小説以上の違和感を覚えました。

 「ネタバレ」はこの種の何度も繰り返して観ていいような小説や映画では気にしないことにしていますが、このラストについてはここでは具体的に書きません。
 ただ、私はこの物語の語り手だった「僕」は、決してこのシナリオのラストのようなセリフは吐かないのではないか、と思います。それが彼を律してきた生の倫理だからで、原作にかなり忠実なシナリオを読む限り、その倫理を彼自らが解除する理由が私には見いだせなかったのです。

 このラストシーンに、シナリオの作者(監督の三宅唱と松井宏)は異様に長いト書きを与えています。それは「僕」の最後の行動を役者さんに説明する心理描写のようなものですが、その「僕」の心理にも納得はできませんでした。それまで読んできた物語の中の「僕」がこんなふうに考えるだろうか?・・・と疑問でした。

 そう思ってパラパラと読み返してみると、小説のほうがやはりそれまでのところでも、語り手の「僕」の心理について抑制的だな、という印象を持ちました。
 もちろん、ふつうは小説で語り手が「僕」という一人称で物語るのですから、いくらでもこう思った、ああ思った、と心理描写ができるし、逆に映画は心理そのものを直接映像化することはできないのですから、表情や立ち居振舞いやセリフで表現するしかないわけで、小説のほうが饒舌で映画のほうが抑制のきいたものになりそうなものです。ところが私の読み比べた印象は逆なのです。

 それは、小説の「心理描写」の心理というのが、先に述べて来たような、根底的な諦念を敷き詰めたような対人関係の距離感を頑なに保とうとする姿勢、「僕」の生き方の倫理みたいなものから出てくるので、そのセリフも行動も、冷たかったりそっけなかったり拒否的であったりして、たとえば彼に気のある佐知子にしてみれば、もうちょっと情熱的に愛をささやいてくれてもよさそうだし、静雄と海へ出掛けるといえば嫉妬してくれてもよさそうに思えるところ、約束はすっぽかして平然としているし、店長とのことも追及しないし、静雄とはどうぞ楽しんできておくれ、といった具合だし(笑)・・・というふうに受動的、抑制的です。
 これはミエでそういうふりをして我慢しているというのではない。「僕」の生き方と骨がらみの倫理的な核心なのだと思います。だから、「僕」という登場人物そのものの心の動きや行動そのものが抑制的なのであって、作者はそれを忠実に描いているわけです。それはこの小説にとっては非常に本質的なことで、こういう「僕」という存在のありようなしには、この小説は友情と恋愛のぶつかった三角関係のありふれた話でしかなかったでしょう。

 だから「僕」は決してラストのようなセリフは吐かないし、胸のうちでこんなふうな行動の選択に迷ったり後悔したり右往左往することは考えられない、とそれまでの「僕」を読んできた私は感じました。

 原作とシナリオにはいろいろ違いがありますが、ラストが一番決定的な違いになっています。
 書店の同僚とのトラブルの描き方も違っています。小説では、万引き犯を取り逃がしたときの「僕」の非協力を店長に告げ口した同僚を、店長から呼ばれて叱責された直後に、「僕」は突然暴力をもって制裁に及び、これが遺恨となってその同僚が依頼したらしい2人の暴漢にのちほど「僕」が襲われてボコボコにされる、という筋書きになっています。
 ここでは「僕」は先ほどから述べてきたように、まさに「僕」らしく、限りなく優しくもみえると同時に、こうして突然キレて暴力に及ぶコワイあんちゃんにもみえます。こういう二面性は彼の固有の生き方の核心にある倫理性によるものです。

 ところが、シナリオでは、その告げ口した同僚がトイレで先に「おれが悪かった、申し訳ない」と「僕」に謝罪の言葉をかけてきます。そして、「僕」が彼に暴力を振うのは、調子に乗ったその同僚が店長と佐知子との噂話を聴かせたからで、「人が楽しんでるのを邪魔するな」と殴るのです。
 人は人、自分は自分、その間の距離を詰めることのタブーみたいな倫理観はもちろん「僕」のものなので、このセリフも彼が発するセリフとしておかしくはないけれど、ここでのシナリオの展開や描写は説明的でまわりくどく感じられます。小説のように、彼の方からいきなり殴りつけるほうが、よほど「僕」のありようを端的に、強度を持って示してくれます。

 シナリオを読んでいて、ときどき感じたのは、そんなふうに説明的なところ、ちょっと余計だな、というような部分です。
 たとえば、佐知子がアパートの部屋へ来たとき髪についた虫を「僕」がとって窓の外へ逃がし、殺すと静雄がいやがるんだ、と「僕」が彼女に言うシーンがあり、「僕」が風呂場へいって佐知子と静雄が二人になると、佐知子は静雄に、なぜ虫を殺さないのかと尋ねます。べつに理由はないと言う静雄に、佐知子が「わかった。静雄くんはやさしい人なんだね」と言います。この佐知子のセリフなんかは、まったく余計なものだな、と思いました。

 シナリオのほうで職場の告げ口同僚や、静雄の母親が、原作よりも少し露出してくるのも、必ずしもプラスと感じられませんでした。
 かれらをそれぞれ一人の人間としての奥行きをもったものとして描けば描くほど、原作で「僕」を語り手として抑制的に語られた「僕」の心理や行動が相対化されてしまう、と思うからです。たしかに、たとえば職場の告げ口同僚だって、考えてみればそんなに悪い奴じゃない。普通に考えれば、同じ職場にいて万引犯をみつけたときはこうしよう、と取り決めておいて、そのとおりしているのに、「僕」は一向に協力しようとせず、取り逃がしてしまった。店長にチクるのはどうかと思うけれど、直接「僕」を罵倒したって責められる筋合いはありません。それをチクられたってんで、いきなりぶん殴るというのは、これは「僕」が悪い(笑)。

 しかし、「僕」という人間は他者とのかかわり方に、非常に硬い一種の戒律のような倫理観をもっていきている男なので、こういう世間的には非常識で唐突な対他的なかかわり方も、そこから噴き出たマグマみたいなものですから、そこに鋭角的に焦点をしぼらないと、話が緩くなってしまいます。原作がより抑制的というのは、そこのところが緩みなく、締っているな、という印象です。

 私が先に引いた「僕」の前半と後半での三人の関係を象徴するようなシーンについても、シナリオはこれを「僕」のナレーションで処理しています。三人傘のシーンはあるようだけれど、この言葉、この「僕」の想い自体はナレーションで処理するしかない、と考えられたのでしょう。

 それは仕方がなかったかもしれません。でも理想を言えば、それは小説の方法ではあっても、はたして映画として最上の方法だろうか、と映画を知らない私としては無謀にも、もっと高望みをしてしまいます。
 これがナレーションではなくて、登場人物の会話や行動も含めて、映像そのものによって、つまり影アナではなくて、舞台の上で、自然に演じて感じさせてくれる方法をみつけてもらえたら最高なんだけどな、と。

 それはないものねだりかもしれません。ナレーションもまた映画的手法のひとつなのでしょうし、きっと効果的に使われているのでしょう。
 ラストにしても実際に映画を観れば、違った好印象を受けるのかもしれません。

saysei at 23:26|PermalinkComments(0)
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