2018年09月
2018年09月30日
手当たり次第に ⅩⅦ ~ここ2,3日みた映画
暇つぶしに手元に置いたビデオを見てはその場で書きなぐってきたとりとめない感想ですが、今回は病院通いに忙しくて(笑)古い映画を何本かだけ。
「眠狂四郎 勝負」(三隅研次監督) 1964
「眠狂四郎 女妖剣」(池広一夫監督) 1964
「眠狂四郎 円月斬り」(安田公義監督) 1964
「眠狂四郎 魔性剣」(安田公義監督) 1965
雷蔵の眠狂四郎はたしか12本くらいあったと思いますが、手元にあったのはこの4本だけだったので、続けて一度にこの4本を見ました。
映画はどんな楽しみ方でも見ることができるでしょうし、人によって全然違うでしょうから、どんなに古い映画、いまは流行らない映画でも、観る人によっては楽しみを見出すことができるだろうと思います。この4本をみていまでも古びない魅力があるとすれば、それは市川雷蔵という役者の剣を下段に構えた立ち姿の美しさかもしれないな、と思いました。
それはもうお話の多少の巧拙だの、映画づくりの演出やセットやセリフやの多少の違いだの、役者一人一人の演技がどうこう、ということとはかかわりなく、それらがみな古臭く、陳腐で、いま見るにたえないところがあったとしても、市川雷蔵の狂四郎が着流し姿で剣を下段に構えて敵に対峙したときの立ち姿の美しさは、どんな映画のどんな他の時代劇俳優でも見せることのできないものだという気がします。
あのすっと伸ばした腰の状態や剣の構えで人が斬れるのか、現実の剣術のことはわかりませんが、映画の約束事としての斬りあいに支障はないので、あとの斬りあう場面もなかなか美しいと思います。でも一番美しいのは静かに剣を構えていまからその剣の切っ先が円を描くという、まさにその瞬間です。
この4本についてはそれだけ言えば十分な気がしますが(笑)、4本のうちどれが一番好きかと言えば、最初にみた「勝負」です。狂四郎と絡んで一風変わった友情が芽生えるような、肝胆相照らすところのある勘定奉行役の老人がとてもいいし、藤村志保、久保菜穂子、それに狂四郎に淡い憧憬を懐く蕎麦屋の娘役の女優もそれぞれよくて、設定やストーリーにもあんまり変な癖がないのがいいと思って観ました。
これが「女妖剣」になると、悪役の菊姫が多分事故か何かで顔の美貌が損なわれているがゆえに美女をイジメ殺す悪女になっているとか、もともと謎だった狂四郎の出自が転びバテレンと生贄の日本の娘だったとか、狂四郎の相手になる敵方は阿片で儲ける役人と商人たちで、商人が役人のお目こぼしを得るために隠れキリシタンの情報を役人に提供する、そのためにわざわざ手下である女に耶蘇教を広める女教祖の役割をさせて信者を集めていたという、単に荒唐無稽というより、なんだかエグイ設定、あまり愉快でないストーリーになっていて、後味がよくないのです。たぶんポリティカルコレクトネスの観点から(?)いまでは作れないような設定の映画ではないかな、と思います。
狂四郎がいきなり大奥や牢獄にすっと立ち入っていたりして、なんでそんなことできんねん?というような単純な疑問が生じるような安易さもあって、せっかくキリシタンの兄が捕らわれて援けたい一心で一身をささげながら、果たせずに自害してしまう小鈴(藤村志保)などは、とてもいいのに、作品としては好印象の持てないものになってしまっています。
ほかの作品が先かもしれませんが、「勝負」では見られなかった、円月殺法のスローモーションというのか、円を描く刀身の残影が見える撮影方法がとられていて、それはこの円月殺法の美しさを見せる方法として良かったと思います。「勝負」以外の3作ではいずれも採用されています。
「円月斬り」では、狂四郎と敵に依頼されて狂四郎に挑むが互いに剣の使い手として一目置き合う関係で尋常な果し合いに及ぶ勘兵衛という武士と斬りあう林での光景がとても美しい。時代劇にはこういう場面があるから嬉しい。
この作品では狂四郎がちょっと頭の弱い人足や夜鷹ら、最下層の庶民の味方として、彼らを人間とは思わず、試し斬りなどするわがまま一杯の「将軍の落とし胤」一派と戦う話になっていて、自分の出世欲もあってそのバカ若殿の妾になろうという商家の娘を狂四郎は辱めはするけれども、なんだか左翼崩れの脚本家が書いたような設定とストーリーで、それはそれで面白くありませんでした。庶民の味方風の狂四郎という同様の傾向はあるものの、「勝負」のほうがそのへんはあっさりしていて良かった。
「魔性剣」は冒頭の、宿を出た狂四郎が雨が降っているのに気づいて、2階をあおいで、親父、傘を貸してくれ、と傘をうけとって雨の中を行くシーンから、おぉ、いいな、と思い、橋にさしかかったところで、もし、と女に呼び止められ、その物言いから武家の女と見抜き、誘われるままに女の宿に行って、自分を買ってくれという病身の女の求めを拒否して1両を投げ与え、いまの病身のお前には1両の価値もない、と抱かずに去ったあと、女が自害して果て、なぜ彼女がそういうことをしていたのかを知った狂四郎は、自分が彼女を死に追いやってしまった、なぜあのとき生きる望みを捨てるなと言ってやれなかったか、と思う、そのあたりまではこの作品が一番好きだと思って観ていました。
しかしまぁ、そのあとはありきたりのお家の跡継ぎが死んで、それまで邪魔ものとして殺そうとさえしていて、その女が職人の家に預けて育ててきた落とし胤が急遽藩主の跡継ぎとして必要になった城が身勝手に子供を奪いに来て、預かっていた職人なども殺してしまうというような、よくある話で、その理不尽に行きがかり上関わって城の武士たちと争いになる狂四郎、という話で、どうということもありません。
ただ、女優に嵯峨美智子が出ていて、「円月斬り」のときだったか、伴蔵というワルが狂四郎を殺そうと付け狙う役で登場するのですが、結局果たせずにまた島送りか何かになって死んでしまったということがあって、嵯峨美智子はその妹の役で、狂四郎のせいで兄を殺されたと思っていて、しつこく狂四郎をつけねらい、邪魔をし、狂四郎に敵対する武士たちを使って彼を殺そうとします。あの女優さんはそれ自体としてとても魅力のある女優さんだったし、この作品でも執念深い敵として彼の前に立ちふさがる強敵で、なかなか良かった。本当は相当色気のある人なので、もっとすごい役ができる人だと思うけれど、この作品ではそこまでは見せません。
概して眠狂四郎シリーズは狂四郎に関しては、彼が背負う「業」の深さ、出生の秘密に由来するような母なるもの、女性なるものへのアンビバレンツな潜在意識では、殺人に見合うような女性への極端な冷淡さや酷薄さをもつ男だと思いますが、男女の色情に関わるようなところは品よくさらっと描かれています。女性の裸身は登場するけれど、狂四郎とのからみは、すべて直接には描かれないか、少なくとも狂四郎のほうの着衣には乱れがなくて、間違っても彼の背中や脛が見えたりはしません。雷蔵の狂四郎は出生に由来する深い業を背負い、虚無的な無頼の姿勢が身についてはいるけれど、芯は清冽な流れのように純粋で融通無碍で、凛として背筋がまっすぐに通っていて、その剣を下段に構えた立ち姿そのままに美しいイメージを崩していないので、膚を見せて色欲を発散させ女体を抱いて汗をかくような無様な真似はしないのですね(笑)。そこは監督が変わっても踏襲されていて、市川雷蔵は悪い事はしても(笑)汚れず美しいイメージのままです。
「ユリイカ」(青山真治監督・脚本)2000年
映画作りを志す若い人たちがその背中を見て追っかける日本の映画監督というと、黒沢清監督とこの青山真治監督らしい、というのが、もともと映画づくりとは何の関係もなく、若いころからの映画好きでもなく、メジャーな映画館に配給されてやたら評判になったような映画を人に遅れてたまに見にいく程度の、どちらかと言えば「あんまり映画をみない、ふつうのサラリーマン」といった感じの私などでも、ときどき面白いと思った映画のことが載っている雑誌や映画よりは幾分親しい文芸のほうの雑誌など目にしている中で、自然に感じてきたことでした。
でも面白いことに二人の作品は両方とも映画館に足を運んでみたことはたぶん一度もなく、レンタルビデオ屋や始終いくのに、結果的に考えるとなんとなく敬遠していたみたいで、これもたぶん見ていないと思います。「たぶん」というのは、私は何度もこのブログで書いてきたように、若いときから恐ろしく記憶力が悪くて、一度借りて来てみた映画でも見た端から忘れて、しばらくすると借りたこと自体を忘れてまた借りて来ては「あなたこれ前に借りて来たじゃない!」とパートナーに言われては、そうだったっけ、ともう一度見てもかなり後半まで見ないと思い出さなかったり(笑)というのがよくあるので、自分でも絶対に見てない!という自信がないのです。先日などは、観た上にこのブログに感想まで書いた映画を、まだ見てないと思って借りて来て、呆れられたほどです。自慢じゃないけど(笑)
そんなわけで、自信はないけれど、この若い人の間では超有名な作品も、私は見ていなかったはずで、今回217分という長編を見て、あぁこれはやっぱりもっと早く見ておきたかったな、と思った次第です。すばらしい作品でした。
きっともう、ものすごい賛辞と、綿密な研究なり批評なり、感想なりが書かれて、山のように積まれているでしょうから、いまさらただ一度いまごろになって初めて見た私が付け加えることがあろうはずもありません。ただ、忘れっぽいから(笑)観たぞ、というのを自分の手控えとしてメモだけしておくことにします。
まずなんだか田舎の空き地みたいなところにバスがとまっていて、いきなり男が飛び出して走り出すのをパンパーン!と銃声が響いて男が倒れ、血の付いた手がうつされる、衝撃的な場面から始まります。バスの車内では拳銃を手にした背広のサラリーマン風の若い男がもう一方の手にケータイもって乗客の方を向いて「警察って何番だっけ?」とふつうに番号を訊くみたいにきいています。返事がないけれども「あ、思い出した」とか「あ、わかった」とか一人で言って彼は電話をかけて、なんか仕事の電話をかけるみたいに、ふつうにしゃべっています。もうこの冒頭から観る者は現場にひきこまれちゃいますね。この犯人を演じているの、たしかやっぱり映画監督で、よく、ひとの色んな映画に出てる人ですけど、ほんとにいまどきいそうな犯人ぴったりの人(笑)。あんまり自然態なんで笑ってしまうほどです。
いちいち書いていると何十ページにもなりそうだから端折りますが、このバスに乗っていて、殺されずに生き残った、役所広司演じる運転手の沢井真(まこと)が主人公で、ほぼ同格の主人公があと二人の生き残り、中学生の兄直樹と妹梢で、これは宮崎将と宮崎あおいが演じています。この二人はオーディションで監督も兄妹とは知らずに採用して、あとで兄妹だと分かったんだそうで、このときあおいは14歳だそうです。先走って言っちゃうと、この宮崎あおいが素晴らしい。のちのちの演技派女優というのはこんな年齢で、まだ演技なんてほとんど経験もなくトレーニングを受けてもいないと思いますが、その存在自体でおのずと輝いてしまうものなのか、不思議な気がするほどです。
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「罪と罰」や「異邦人」がまず殺しから始まるように、この映画の物語もまず事件が起きてしまったことから始まるわけです。でも「罪と罰」や「異邦人」と違うのは、殺した犯人はさっさとその現場で警官に撃たれて殺されてしまうので、カメラが向けられるのは、被害者の生き残りである、真やこの兄妹なのです。そうすると必然的に、冒頭の事件がこの3人にどんな影を落とし、どんな深手を負わせたか、ということと、そこから彼らがどう回復していくのか、あるいはほんとに回復していけるのか、そういういわば再生の物語になってきます。
こういう枠組みというのは、おそらく小説でも映画でも、それほど珍しいものではないと思います。私もすぐには出てこないけれど、そういうストーリーには何度か触れたことがあるような気がします。けれども、これも先走って言ってしまえば、この映画ほど丁寧に、微細に、延々と時間をかけて、その深手を負った一人一人の状態を描きだし、その回復までの過程をたどってみせた映画というのはなかったと思います。それはもう空前絶後じゃないか(笑)。しかもそれで退屈しないというのは・・・
途中から、この映画がそういう深手を負った人間の回復にいたるまでの物語だな、というのはもう疑う余地もなくなり、しかもきっとこの少女梢が言葉を発するときに物語がようやく終わるのだろうな、と確信するようになりますが、そこまでの道のりの長いこと。ようやくそのラストにたどりついたときは、一人の人間の心が深手を負ったとき、そこから回復にいたるまでには、こんなにも長い旅が必要なのか、こんなにも辛い時間が必要なのか、と深いため息が出るような感じでした。
この映画の中に色んなことが入ってきていますが、その一つは、日本的というのか、閉じた村的な精神風土というのか、そういうローカル的な意味合いはないのかもしれず、人間の共同体的な精神風土というのはつねにそういうものなのかもしれませんが、犯罪の加害者ではなく被害者であるにも関わらず、世間の目は同情的に見えて(たしかにそういう面もなくはないけれど)、実は好奇の目で見ていて、顕在的でないだけによけいに陰湿な悪意にも似て、実際上はむしろ心に深手を負った者のその傷口に塩を塗るような、目に見えないが突き刺さってくる矢のようなところがあるということです。
直接の因果関係とかいうのではないかもしれませんが、そういう背景の中で、事件後、兄弟は残された自宅に閉じこもって学校にも行かず、口もきけなくなって、あとで真が唐突にここに置いてくれないか、と訪ねていったときに分かるのですが、家の中は散らかり放題、食器も食べた後そのままで、ごみの山、ほとんど何かをする、生きる、という意欲そのものを喪失した二人の無気力状態が描かれています。
そういうのをあらわす見事なシーンとして、最初に真が訪れて、自分はもうほかに行き場所がないので、ここへ置いてくれないか、と言うとき、玄関へ出て来てその言葉を並んで聞く二人の表情。これは後日、彼らの従兄だという秋彦が初めて訪れた時も、全く同じ表情なのですが、ただそこに茫然として突っ立っていて、こちらの言葉が分かっているのか、了承しているのか拒否しているのかも不明、なんの反応もしない、意識の飛んでしまった人のように、そこにただ存在している、という、その姿、表情が映画が終わっても心に焼きついているほど強い印象的な映像です。これが解きほぐされていくのは、命のない人形が生命を獲得するくらい難しそうだな、というのを、その二人の姿が自然にみせています。
こういう魂が飛んでしまったみたいな兄妹のところへ、自分もかつての自分のままでいられず、妻を置き去りにして「家出してきた」真(まこと)が、「ここへ置いてくれないか」、と唐突に兄妹のところへ転がり込み、さらに「きみたちの従兄だ」という秋彦が入り込んでくることで、物語に推進力が生じて少しずつ動いていきます。
まだ真が兄夫婦の家に居候しているときのことですが、真が幼馴染?のシゲルの彼女らしい女性が職場を訪れたときに、シゲルが不在で、夜道を送ってくれと言われて送り、彼女のアパートの前で別れるとき、彼女が彼にキスをします。
なんでもない動作で彼も戸惑い反応はしないけれど、後で起きることの伏線になっているし、その場面を見られたわけではないけれど、二人一緒に帰るところを村人が見たらしくて、兄が真にそのことを告げて、「そうでなくてもいろいろ物騒なことが起きていて、おまえがやったんじゃないかとか犯人じゃないかと噂されたりしているんだから、夜中に女と二人で歩くなんてことせずに、もっと慎重にふるまえ」というような説教をします。
夜中じゃなくてまだ8時ころだったんだし、と兄嫁はかばいますが、娘までが迷惑を蒙りはしないか、と恐れていることは伝わってきます。
そんなこともあって、真は突然同じバスジャックの被害者というだけで知り合いでも何でもない兄妹のところへ、一緒に置いてくれ、と頼みにいって3人の不思議な共同生活が始まります。そのあと3人が食卓で真のつくる料理を食べているシーンでは、それまで散らかり放題のごみの山だった家の中が綺麗になっていることが分かります。
ずっと後のことですが、真が置き去りにしてきた妻が真に会いにくる場面があり(この妻を演じた女優さんも素敵でした)、そのときに真は、「他人のためだけに生きることってできるんだろうか」という言葉をつぶやきます。それは、それからの真の生き方そのものであり、彼にとって生きる目的はただひとつ、兄妹を彼らが負った深手から回復させることになります。
そうして職場の土木作業の現場でクレーンで土を掘り起こす車の運転を指導された真は、バスの運転手だったこともあって、なにか動かしたい、という欲求が甦ってきて、そこから或る日彼がバスを購入してきて、兄妹に一緒に旅に出ようと誘うことにつながります。
共同生活をしていた兄妹の従兄の秋彦は「何を唐突に」と拒み、兄もそっぽを向きかけるけれど、そのときまでに辛うじて真と心を通わせていた妹梢はバスに乗り込み、それをみて兄直樹もバスに乗り込んで、結局秋彦も乗り込んで同行することになります。
真と妹とのそこまでの微妙な心の通わせ方も、繊細に、みごとにとらえられています。
シゲルの恋人らしかった女性が、真が2度目に彼女に乞われて自転車で送っていったあとで何者かに殺される事件が起き、真が重要参考人としてこの映画の冒頭の銃撃戦で犯人を射殺した刑事に取り調べられ、真が犯人だと信じているとその刑事に言われます。
留置場で隣との壁をノックして反応が返ってくる、そういうコミュニケーションの仕方があとで直樹や梢と彼とのコミュニケーションにも登場します。
真は容疑者にはされるものの、しかしおそらくは証拠不十分で釈放され、また兄妹の家に戻ってきます。秋彦は彼を最低だと非難しますが、拒否はせずに、もとのように共同生活に戻ります。
このあたりから、兄の秋彦に或る微妙な変化が起きているのが観客にもわかります。秋彦が庭でゴルフの練習をしてスティックを風音を鳴らして振っている、その音にベッドの直樹は神経質に耳を塞いで、たまらない表情をしています。
また、カーテンをあけて外を見ている梢の耳に、直樹らしい声がかぶさって聞こえます。「見えるか、梢・・・波じゃ」と繰り返しているようです。(波のところはよく聞こえなかったので、間違っているかもしれないけど・・・)
そして、次は直樹が(たぶん)ナイフで、丈高く伸びた草叢の草を切るソーンで、草の茎の先端から白い駅が溢れ出る印象的な場面があります。このとき梢は風に揺れるカーテンの間に立って外を見ています。
これらのシーンが確実に直樹の或る変化を示していて、それを梢が知っている、あるいは「感じている」ことが観客のわたしたちにも伝わってきます。
置き去りにしてきた妻と会ったあと、真は泥酔して帰って倒れ、秋彦が彼を引きずって寝かせます。真は完全に打ちのめされて縮こまって横たわり、実は声もなく泣いているのですが、この真の傍らに梢が座って、彼の髪をなでてやっています。すばらしい場面です。真の「人のためだけに生きることはできるだろうか」というありようを梢は次第に感じ取って、彼にわずかであっても心を開き始めていることが自然にわかります。
真がバスを買ってきて、試しに走らせる場面はこの作品では珍しく明るい場面で、ブーッとクラクションを鳴らして発車。それまで耳にした記憶のないバックグラウンドミュージックが、たぶん初めて、大きな音量で聞こえます。
バスの旅に出て最初は映画の冒頭のバスジャック事件の現場にいき、真は「ここからが出発たい」と言います。真と兄妹にとって、ここが再生への再出発のスタート地点というわけです。
じゃ従兄の秋彦は何かと言えば、もちろん狂言回しなわけですが、もしこの人が居なくて主要人物が3人だけだとすれば、この映画は3人の半ば夢遊病者みたいな人物たちが、何か観る者にはよくわからない、そして自分たち自身も何をしているかわからないような行動をとっているだけ、みたいな世界になっていたと思います。
秋彦は、真や直樹、梢が、心にあまりにも深い傷を負ってそこから回復へ向けての長い痛々しくもある道のりを、自分たち自身も何をしているのか分からないような霧の中を手探りで懸命に歩いていくような歩みの中で、唯一覚めた外部の眼なのだと思います。
それは周囲の人々のように攻撃的でも陰湿でもなくどちらかと言えば善意の好意的なまなざしではあるけれども、別の言い方をすれば、好意と言うより「おせっかい」で押しつけがましい、凡庸で全然「わかっていない」視線、姿勢でしかないような外部であり、兄妹や真にとっては、強引に入り込んできて、3人の深手の深さに本当には気づかない鈍感さゆえに、救われるところもあるけれども、逆にどうしようもない異和でしかない存在です。それはこの映画を観ている私たち観客に最も近い存在だと言ってもいいでしょう。
直樹の変化はいよいよ露わになってきます。バスの車内で寝ている彼らにあたっている光の部分に樹の葉がつくる黒い影が、光を部分的に遮って揺れ動き、なにか不安なというか不吉な印象を与える場面で、真は留置場でやったようにコツコツとバスの内壁をノックします。これに直樹が応えてコツコツと返す場面が印象的です。
食餌に立ち寄って高菜飯や蛸汁定食をとるレストランで、直樹が突然立ち上がって駆けて行き、嘔吐する場面があります。バスに酔ったということですが、直樹と心の状態についてある種の伏線になっています。
それからほどなく、直樹がバスから消えて、真と秋彦が探す場面があります。結局探したあげくバスに戻ると、直樹は戻っていて寝ていた、ということでその場は終わるけれど、直樹がまたいなくなって探しに出る場面で、秋彦は、このところ頻繁に起きている殺人事件に関して、直樹か真が犯人だと自分は思っている、もう真のことも信用できない、と言います。映画をここまで見ていて色んな伏線でそういう予感がしている私たち観客の想いを秋彦が明瞭な言葉にしているわけです。
秋彦を残して一人で直樹を探しに出かけた真は、直樹が通りがかりの女性を襲う寸前に遭遇します。「どうして殺したらいけんとや」と、このときはじめて直樹は言葉を発します。
彼が突き出すナイフを素手で握ってうけとめ、真は「殺すなら一番たいせつな者を殺せばいい」と言い、「いまから一緒に梢を殺しに行こう」と言って、近くにあった自転車の荷台に強引に直樹をのせて広場をぐるぐると回りはじめ、「ぐるぐるとここで回っとくか、バスに帰って梢を殺すか、3周まわるまでに決めろ」と言います。
直樹は、「ここでぐるぐる回っとく」と小さな苦し気な声で答え、真は直樹を乗せたまま、ぐるぐると回り続けます。ここも素晴らしいシーンです。
次のシーンはこの2人が歩くシーン。「直樹、一つだけ約束してくれ。生きろとは言わん。ばってん、死なんでくれ。また会おう。迎えに来るけん。」・・・うなづく直樹。そして警察署へ入っていきます。
真がバスへ戻ってくると、秋彦がバスの外でしゃがんでいて、梢が泣いていて、バスへ入れない、と言います。真は、「梢は言葉では言わなくても知っている」と言って、留置場でやったように、バスの車体を外からコツコツとノックします。
そうするとコツコツと梢の応答があり、真はバスの中へ入っていきます。この場面のコツコツは留置場の隣人、直樹、ときて梢で3度目です。こういう小さなエピソードがつながって、人と人とのささやかなつながりが徐々に取り戻されていく予感が観客にも自然に感じられます。兄直樹と一心同体のようにつながっている梢はとうに兄のことがわかっていたんだ、ということ、それを真もかなり以前からわかっていた、そしてようやくこのあたりで秋彦も気づき、私たち観客の目にもそれが事実としてつきつけられるわけです。
心の傷が深いほど、同じ傷を負った者を理解し、感じるのも早いわけで、私たち観客は一番鈍感な、ふつうの人、秋彦とともに最後に真相を知ることになり、そこから遡って、あのとき何が起きていたのか、そしてなぜ梢や真があんなふうな表情をしたり振る舞いをしていたのかを知ることになります。
このような心の深手が一人一人の心に広げた波紋がどう広がり、またどうそれを鎮めていくか、そのプロセスにおけるそれぞれの感じ方、振る舞いかた、他者とのかかわり方をどう微妙に変えていくかに関しては、実に精確にとらえられ、その傷ついた心の自然に即して繊細な手つきで描かれています。
阿蘇の噴煙(蒸気)が立ち込める火口を眺める真、梢、秋彦はその阿蘇の広大な風景の中をバスで走ります。秋彦がここで、まったく鈍感な何もわかっていない外部の人間としての姿をポロっとさらけ出して、「あいつはもう一生刑務所か・・なんだろうか。可哀相だけど一線を越えたやつは(仕方ないだろうな)・・・しかしそのほうが直樹も幸せかもね」みたいなことを言います。
これを聴いた真はただちにバスを止め、「おりろ!」と言って秋彦をバスから降ろして彼の荷物を車外にほうりなげ、秋彦を殴りつけて、「いつか直樹が帰ってきたら必ず元の直樹に戻す。そのときお前のようなやつがいたら(その妨げになるだけだ)・・自分は死んでも直樹を守る」、という意味のことを言って、置き去りにして去っていきます。
死んでも、というのは、ずっと以前から真は咳をしていて、それがどんどんひどくなって、胸を病んでいることは明らかで、おそらくそれは結核か癌か、死に至る病のように秋彦にも観客にも理解されているからです。
梢の耳に、直樹のものらしい声が聞こえてきます。「梢‥見えるか」・・・「海じゃ、梢。海を見に行け」・・・「お前の目から俺の目に海を映してくれ」。
バスは海辺へ行きます。咳がひどく、しゃがみこむ真。その眼には波打ち際に立って動いている梢の姿がややおぼろげに見えています。水の中へ入っていく梢の声でナレーション「お兄ちゃん、見える?梢、海が見えるよ・・・」
再びバス。ふとんの中で眠っている梢。外にいる真の咳。電話をかける真。「森山美容室です」という女の声に、なにも言わずに切ってしまう真。バスを出す。窓の外の景色は真っ暗なこれは海でしょうか。そこに浮かぶ無数の光は、灯籠流しの灯籠の火のように見えます。
ふとんに伏せた姿勢で二枚貝の殻を並べる梢。真は咳だけが聞こえてきます。
ラストシーンは、高台に大きな碑が二つ立っている場所で、バスを降りた二人。真は咳込み、手にしたハンカチが喀血で黒く染まります。夜ではあったけれど、いま思えばあれは赤くなかったな(笑)。あの場面は・・・いやほかの場面もこの映画、モノクロあるいはモノクロ的な映像で撮られているのがはっきりしているところがありました。ネットの資料を見ると、どうやらモノクロでとって、それを逆にカラーにするみたいな技術があるらしくて、そういう方法で作られた映画らしい。
技術のことは知らないし、映画を観終わって、カラーだったかモノクロだったかもしばらくたつと分からなくなるようなありさまだから(笑)なにも言えないけれど、きっとこの映画はそういうモノクロ的効果を持つ映像が要所要所で私たち観客に喚起するエモーションに独特の効果を与えているのでしょう。
崖の上に立った梢が突然、「お父さん!」と叫んで石を一つ投げ、つづいて「お母さん!」でまた一つ。「犯人の人!」「お兄ちゃん!」「秋彦君!」「沢井さん!」「梢!」と叫んでは石を抛ります。梢が初めて発語する場面です。
「梢、帰ろう」と真。振り向く梢の表情のクローズアップ。そして手前に草原、向こうには崖があってその間の道を、碑のある高台のほうから歩いてバスのほうへ戻っていく真、そして梢。二人を高い位置からとらえる映像が空高くの視点から阿蘇の一帯の風景を映して、EUREKA のタイトルが出て幕です。
いや、つい長々、こまごまとなぞってしまいましたが、つい昨日見たのを思い出しながら書いていても、そのときの感動が甦ってくるようで、楽しかった。実際にはでたらめに思い出す場面を書いていっているので、映画に登場する場面を逐次的にたどったわけではありませんから、前後逆になっていたり、大きくとんでいたりします。無意識に私の印象に強く残った場面だけを拾っていることと思います。
ラストで梢が初めて口をきく場面、身近な関わってきた人の名をひとつひとつ叫んでは小石を投げるシーンは、或る意味でこんなふうに終わるだろうと思い、物語の終着点まできたな、と予想どおりだと思いながらも感動してしまいます。
とうとうここまでたどりついたか、本当にしんどい、きつい、長い旅だったな、という実感とともに、です。たしか「心の旅路」という古いメロドラマだけれど、すごくいい映画がありましたが、この「ユリイカ」はまさに深手を負った三人の「心の旅路」ですね。古い「心の旅路」のような予定調和のハッピーエンドはないけれど、ここまできつい旅路をたどらずには、わずかな回復の希望にさえ至ることはできないんだな、というそれこそ厳しい現実のリアリティを存分に味合わせてくれた上で感動的なラストに至る、すばらしい作品でした。
「乱れる」(成瀬巳喜男監督)1964
ずいぶん昔、「浮雲」を見て、あまり好きになれそうもない気がして、高名なこの監督の映画はほとんど敬遠してきたようなところがあったのですが、この映画を観て驚いてしまいました。本当に素晴らしい作品で、こんなの撮る人だったら、いままで見なくて観客としてずいぶん損したなぁ、という感じです。
描かれている主人公である戦争未亡人礼子(高峰秀子)のキャラクターや考え方というのは時代的なものでいま見れば古臭いと思われるようなものだけれど、その時代背景のもとでこういうキャラクター、こういう考え方をもった女性がいたことを現実としてみれば、そういう女性を描き切った感のある映画だと思いました。
これは不倫映画でないことはもちろんだけれど、恋愛映画でもないようで、ある時代、ある状況の中で自分の生き方を貫いてきた女性が、義弟の告白によって生涯初めてゆらぐ、そのゆらぎに罰を受けるかのように義弟も死んでしまうわけですから、不倫も恋愛も成就しないわけで、作品の世界をひっぱっていくのは、義弟が告白してからの、同じ家に住む未亡人である兄嫁の彼女とその義弟がくっつくのかくっつかないのか(笑)その緊張感です。
したがって、告白してからの義弟はあっけらかんと一方的に自分の想いを投げかけていればいいだけの平板な存在にすぎなくなってしまうので、ドラマはもっぱら義弟のそういう自分への想いを知ってしまった礼子の内面の劇、居心地の悪さ、平静を装った立ち居振る舞いの内側での実際のぎこちなさみたいなものにあるわけで、これは終始、この女性の生き方、考え方、立ち居振る舞い、その心理のドラマなんだと思います。
異性としての義弟との関係は、従って恋情として描かれるよりも、彼女がその存在によって引寄せてしまいそうになるのを、意識的にとろうとする距離や素知らぬ風を装うその立ち居振る舞いの中にある意志的な斥力のようなものによって表現されています。
唯一「恋情」を感じさせるシーンが、彼女が家を出て郷里の兄のところへ身をよせようと旅に出ると彼女を追っかけて乗ってきた義弟とその列車の長旅を共にすることになるわけですが、ずっと義弟と距離をとり、拒んでいながら、自分への想いをストレートに示し、優しく振舞ういじらしい義弟が疲れて車中で眠っている表情を眺めていて、つい涙ぐむ、あのシーンです。このときの彼女の表情はほんとうに素晴らしくて、一緒に泣けてしまう(笑)。
列車でのシーンは全部すばらしくて、そのあとの展開にはちょっとびっくりしてしまいました。
彼女が突如次の駅でおりましょう、と言って二人で温泉のある小さな駅で降りて、温泉宿に泊まる。これはもうどうしたって、できてしまうだろう、と思い、夫を若くして亡くしながら、その夫の家のために身を粉にして働いて店を再建し、幼い次男や老母のいる家庭を女の腕一つで守ってきた女性が、逞しい青年に成長した義弟の純粋な愛情にほだされ、こころ「乱れて」、ついに古い倫理観から解き放たれて男女の愛に身を任せるに至る物語だと、誰だって思わないでしょうか(笑)。
ところが自分から途中下車して温泉宿に二人して泊まりながら、なおもいざとなると彼女は義弟を拒むのですね。そして彼は宿を飛び出して帰らず、翌朝、崖から落ちたという死体になって運ばれていく、それを彼女は宿の2階から目撃して、階下へ駆け下り、追って行く。
その途中、橋の手前でとまって、橋の向こうへ運ばれていく彼の遺体を見送る彼女の表情のアップで映画は終わります。こ、これは何だ!・・・と思いましたね。なんか物語としてこれは理不尽じゃないの?破綻してるんじゃないの?と。
でも考えてみれば、それまでにも、義弟に対してそういう距離をとろうとろうと自分をしばってきた彼女は繰り返し描かれているから、そういう倫理観を持っている古いタイプの女性、或る意味で頑ななところのある女性・・・そうでなければ十数年も未亡人として亡き夫の家を一人で支えてくるようなことはできなかったでしょうから・・・・ということを考えれば、あそこでいくら自分がいったんはエイヤッと跳んでみたものの、身も心もそう簡単に開けないところがあっても不思議ではないし、そういう揺れ動く女ごころを描くことに主眼があっても、本当に身も心も「乱れ」てしまうのはこの映画の作り手の本意じゃなかったんだな、と思って納得しようとはしたのですね。
それにしても男を殺してしまわなくてもいいだろうに、とは思いましたが・・・
だけど、この映画を観た後で、そういえばこの映画の分析を細かくやっていた本があったな、と思い出して、塩田明彦さんというご自身が映画監督でもある(そういえば「黄泉がえり」を見たなと思い出しますが)人の『映画術』という著書を取り出してみたら、やっぱりありました!
実はこの本は、私が近松の「曽根崎心中」が好きで、鴈治郎の歌舞伎と、栗崎碧監督で宮川一夫が撮影した人形浄瑠璃の映画と、増村保造の映画と、天満屋の場と道行とを対比させながら学生さんに喋っていたことがあって、曽根崎心中についての色んな資料を読んでいた時に、増村保造の映画での梶芽衣子の視線のありように触れた章があったので買ってその部分だけ読んで、なるほどなぁ、と感心した覚えがあって、あとのところはパラパラとめくっただけだったので、なんとなく成瀬のこの作品に触れたところもあったことは記憶の片隅に残っていたのです。
それで今回あらためてこの本の「乱れる」について書かれた部分を読んで(今回は全巻読みましたが・・・笑)、もうそこに書いてある分析に完全に参ったなこりゃ、という感じで、それ以上言うべきことがなくなってしまいました。
塩田さんによれば、映画を撮るうえで一番大事なのは「動線」であって、それがうまくいけば映画は半ば以上成功なんだというようなことなんですが、この「乱れる」という作品は、加山雄三演じる義弟が高峰秀子演じる未亡人の義姉礼子に告白する、つまり「超えてはならない一線を越えようとする」わけですが、この映画はその部分だけじゃなくて、そもそも全体がその「一線」に向けての話なんだ、というわけです。
溝口の「西鶴一代女」にもそれはあって、かの映画では冒頭でその「一線」が越えられてしまうけれど、成瀬のこの作品では、それよりはるかに用意周到に、「ここまでやるのか」と言うぐらい緻密に「境界線」「結界」のイメージが映画全体に張り巡らされている、と塩田さんは書いていて、それを場面に即して証拠立てています。たとえば冒頭でバーみたいなところで喧嘩した義弟のことで警察から店にかかってきた電話で、礼子が警察へ身柄を引き取りに行く場面では、「橋」がその「結界」の役割を担っている。それはまた、その前の店員から電話口に呼ばれた礼子が、台所から「渡り板」を渡ってからこちらへやってくる、その「渡り板」が一種の「橋」として同じ意味をもって反復されているっていうんですね。
それから義弟が礼子への想いを告白する決定的な場面では明暗二つの部屋が巧みに使われていて、その部屋の境界がさきにいう「境界線」になっている、と。塩田さんは非常に精細に高峰秀子と加山雄三の位置関係と動線を分析してきわめて説得的な議論をしているので、自分ではそこまで全然見ることができていなかった私でも、いちいちあぁそうだったな、そうだったなぁと納得せざるを得ない、みごとな分析になっていて、この「境界線」が彼らの動線ではっきり浮かび上がってくるところに、この決定的な場面の緊張感が生まれてくることを立証しています。
まだまだあるけれど、もうひとつだけ挙げれば、高峰秀子演じる礼子はふだんはラフな店員兼主婦としての前掛け姿なんかをしているわけですが、よそいきのときは和服姿です。
自然にそういうカジュアルとよそいきみたいに理解して観ていたら、塩田さんはそこを、彼女が「境界線」を意識したとき、つまり自分が義弟の兄の未亡人で、義弟を距離をとる、という自意識をもち、他者の目を意識して私は未亡人です、人妻だった女です、というときは和服であり、そうでないときはカジュアルな衣服も含めて洋装だというふうに言っているわけです。
そちらの理解のほうがいいのは、列車にのっていくとき、はじめはコートを着た彼女は洋装の風なんですが、義弟と向き合って必死に自分の感情を抑制しているときはコートを脱いで和服姿になるわけですね。そして、女優さんは着物を着た時と洋服を着たとき、それぞれそういう実感を自然にもつはずだ、と。このへんにも唸りましたね(笑)。
そんなふうに見ていくと、すばらしい列車でのシーンも、たしかに最初は礼子の近くの席があいてなくて遠い端っこのほうの咳に義弟は座るのですが、時がたつにつれてだんだん彼は近くの席に寄ってきて、ついには4人掛けの席の窓辺に向き合って二人だけで座るのです。これはもう露骨にこの映画は二人の距離の遠近から境界線を越える、越えない、ってことが主題の映画なんですよ、ということを示しているようなものですね。そういう目でしか見れなくなってしまった(笑)。
そして、列車の車内は最初は満員状態で、二人をとらえるカメラがほかにもいろんな乗客を同時にとらえていますが、だんだんと乗客の数も少なくなって、同じ画面の中にとらえられる人物の数が減ってきます。そして最後はとうとう二人だけで、ほかの乗客はカメラのフレームから見えなくなってしまいます。二人に、というのか二人の距離に、あるいは二人の間の境界線に、焦点が絞られてきます。
さらに恐るべきことには、或るウェブサイトでこの映画のことを分析した似たようなサイトがあって、どうやら映画関係者らしくて、映画の撮影技術のことなど教えている方らしいのですが、その方が書いているところでは、この映画は最初のほうは、近くにスーパーが立って、立ち行かなくなりそうな商店街が舞台なので、そこの色んな人々やらなにやら、恐ろしく多様な人々が画面の中にあふれかえっているわけです。それが映画の進行とともに、だんだん画面の中にあらわれる人物が減ってくる。焦点が礼子が切り盛りしてきた店に関わる姑や小姑やその夫のような狭い範囲に充てられるようになってきて、列車以後はそれも切り捨てられて二人だけになる。
そして恐ろしいことに、最後の最後はとうとう礼子一人になってしまう。その最後の最後の姿がラストシーンの、義弟の遺体を追う礼子のアップだ、と。
こういう映画を撮る監督って、ほんとうにおそろしいような人ですね。繊細細心であるばかりか、ものすごい粘りづよいというのかしつこい(笑)、細部まで徹底的に計算しつくして全体の構造の中に何重にも入れ子構造で同じ構造を作り込んでいくような偏屈な職人さんを思い浮かべてしまいます。
それにしても、そういうのを読み取ってしまう人というのもすごいなぁと感心します。そういう目でもう一度またそのうち見てみたい。きっとこういう作品は映画作りをする若い人にとっては何十遍も読み返す値打ちのあるテキストみたいな作品なのでしょう。
「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー監督)1959
あとは時間切れで簡単に(笑)。以前にも見たことがあるけれど、先日「操行ゼロ」をみてまた思い出したので、古い録画を取り出して観ましたが、やっぱりいい映画でした。
でも、こういう映画を撮る人というのは、よっぽど学校嫌いだったんだろうなぁ、家でもあんまり幸せじゃなかったんだろうなぁ、なんて思ってしまいました(笑)。
今のフランスはさすがにそんなことはないと思いますが、学校の教師という教師が軒並み厳格すぎ、すべてが強圧的に子供を自分の思い通りに「矯正」することしか考えていないような、どうしようもない教師ですよね。日本も昔はこうだったんかな、と思いますけれど。
前に見た時は印象に残っていなかったけれど、冒頭は車窓から撮ったパリの町の風景なのかな、ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の冒頭の街を舐めていくような映像を逆に思い出しましたが、映画の中のこういう映像というのは、ストーリーのある映画のストーリーそのものと強いかかわりがあってもなくても、映像としての良さがありますね。
主人公の少年が友達に誘われて学校さぼってゲームセンターみたいなところへ行って、円筒形の大きな器みたいなところへ入ってその内壁にへばりついて、円筒形が次第に速度をあげて回転する、あれはなんていう大型遊具なのか知らないけど、あれはそういえば印象的だったことを思い出し手、今回も楽しんで観ました。
学校で詩の朗読とか詩のレッスンをやっているのはフランスらしいな、とも思いました。少年が家でバルザックの写真を神棚みたいなのに貼ったりするのも。
人形劇を見ている主人公らよりは幼い子供たちの生きた表情、それから少年鑑別所へ送られた主人公を正面からとらえて少年の供述をそのまま撮ったような映像もとても面白い。
話としては酷い話で、まったくひでえ親たちです。これじゃ主人公の子供がほんとに可哀想だと思います。父親は実際上この子に関心がないし、母親は浮気しているのを子に目撃されるわで、親が勝手すぎて・・・そんな親のもとで、どっちからも当たり前のようにゴミを捨てておけよと言われて、はい、と素直に捨てに行く少年が天使に見えます。私だったらふくれてゴミ袋をぶちまけるところだ(笑)。
いたずらもする、うそもつく、わるさもする、ぬすみもする、だけど素直なごく普通の少年がそんな教師や親に厄介払いされて少年鑑別所に送られて、孤独の中で当然鑑別所の仲間たちにろくな影響は受けないわけだけれども、そこからも逃亡して、あてもなく海辺を彷徨う少年の哀れさ。教師や親に代表される大人の世界、社会に対する深い不信と指弾の志がみなぎる秀作。少年の目がとてもいい。
「小間使い」(エルンスト・ルビッチ監督)1938
配管工の姪で、世間知らずの若い女性クルニーが、田舎の上流階級の家の小間使いとして仕え、チェコから英国に亡命したベリンスキが客人としてこの屋敷にやってきたのをもてなす中でいろいろ失敗したりして巻き起こす騒動とベリンスキと最後には一緒に街を出ていくまでの顛末をコミカルに描く佳品といったところ。
クルニーを演じるジェニファー・ジョーンズが、ローマの休日のオードリー・ヘップバーンのように世間しらずで初々しいけれども、もちろん王女とは正反対の英国では下層階級の女性で、同じオードリーならマイフェアレディの市場の花売り娘だったときのイライザみたいなもの。でもウブで可愛い。
相手役のベリンスキはうんと年上のおじさんでインテリでもあって、華やいだ恋の物語にはならないけれど、抑えた演技で、ほかの人物(薬剤師)との結婚を夢見ているクルニーを親しく近くで、でも一定の距離をおきながら温かく見守る落ち着いた年上の男性を演じるのはシャルル・ボワイエで、これはさすがと感じさせます。
私たちがいまみると鼻もちならないイギリスの上流階級の階級的な差別意識やら高慢さ、気取り、頑固な各種の偏見や慣習みたいなものが、少し誇張されて描かれているけれども、あぁこれがかつてのイギリスなんだな、いかにもイギリス的なキャラだな、と思ってみていると、逆に面白いところがあります。
「青春群像」(フェデリコ・フェリーニ監督)1953
主役を演じる若者たちの行動をみるとたしかに青春ならではの或る意味で「大人げない」馬鹿げた、いわゆる愚行の類のわるさやちょっとした冒険、あるいは大騒ぎ、男女関係の不祥事の類ですが、日本の青春期の若者、というイメージからすると、イタリアの若者はおっさんに見えてしまうので、なんとなく「青春群像」、という邦題がぴったり来ません。原題は「のらくら者たち」なんだそうですから、そのほうがぴったりという気がします。
見るからに女たらしで不誠実そうなファウスト、その友人で、仲間内では唯一きまじめそうな妹想いのモラルド、実はその妹が不誠実な色男ファウストと恋愛関係で、映画の冒頭で結婚するので、案の定浮気なファウストの引き起こす騒動に巻き込まれます。
それに作家志望だけれど、とてもまじめに書いているともみえないレオポルド、歌が自慢のリカルド、そして悪い男に惚れて家を出ていくことになる姉に小遣いをねだって職にもつかずにぐうたらしているアルベルト…とそろいもそろって「のらくら者」たち。北イタリアの小さな田舎町でくすぶる若者たちです。
彼らが親友同士で、バカ騒ぎをしたり、騒動を引き起こします。冒頭は祭りの余興「ミス・シレーナ」を選ぶ会場のカフェで、モラルドの妹サンドラが選ばれて、モラルドの悪友たちも祝意で大騒ぎ。でもその中でサンドラが失神して倒れ、医者を呼んでみればなんとおめでた。
これを知ってすぐ逃げようとする彼氏(笑)がモラルドの友人ファウストで、曲がったことが嫌いな実父に「責任をとれ!」と手厳しく叱られて、しぶしぶ年貢をおさめ、サンドラと結婚します。でも一緒に映画に行けば彼女の反対側の隣に座った女にちょっかいを出し、せっかくサンドラの父親の紹介で勤めた高価な装飾時計なんかを売っている店の主人の妻に手を出してクビになるなど、そのだらしない行状がやむ気配はありません。
でも、ファウストの言う嘘八百を信じた兄もラルドの説得などで、この騒動もおさまりかけたかと思われたけれども、結局は真実がばれて、サンドラは赤ん坊を抱いたまま家を出て行方不明に。友達総出で探してみつかりません。
さすがにファウストも不安になり、後悔して懸命にサンドラを探して、最後は彼女が赤ん坊をつれてファウストの父親のところに行っていたことが分かります。ファウストの父親はまともな社会人で、息子を厳しく叱って鞭打ち、さすがにサンドラがとめて丸く元のさやにおさまります。
このエピソードを軸にしながらも、一人一人、それぞれにまだ社会人になるのをモラトリアムしているようなのらくら者の若者たちにこうした愚行のエピソードがついています。
その中では、新婚旅行にいったファウストが帰ってきて電蓄をかけて、マンボを路上で踊るシーンや、カーニバルの日にみなが仮装して歌ったり踊ったり、大騒ぎする場面が素敵です。こういうところは陽気なイタリア人らしいなぁと思うし、若者たちのまさに青春を謳歌している姿として楽しくなります。
もうひとつ好きな場面は、比較的まじめで、妹のことでも友人ファウストを信じられなくなったり、悩める若者であるモラルドが一人で孤独をかこっていたときに知り合う、駅で働く少年クイドとのちょっとしたふれあいです。
別になんてこともなくベンチに坐って会話するだけのことですが、最後にもラルドが街を出ていくときに、駅で働いているこの少年が再度登場して、列車で去っていく彼を見送って、線路の上をバランスとりながら向こうへ去っていくところで映画が終わります。この終わり方も好きです。
列車の音、汽笛の音がきこえる中、この町で一緒に馬鹿をしてきた友人たちがそれぞれベッドでまだ眠っている姿が映像として出てきます。とてもいいシーンです。
この映画の中の人間関係は、一種の人情劇みたいで、男女の交情も含めて、庶民的な、あまり先鋭になったり理屈っぽくならない、なれ合いみたいな位相で描かれていて、そのへんもとてもイタリアらしいな、という気がしました。
イタリア人的と言えば、楽天性、いいかげんさ、浮気性(女好き)、バカ騒ぎ好き、みな典型的なイタリア人気質のような気がします。これは私の偏見でしょうか(笑)。いちおう若いときは親しいイタリア人の友人もいたのですが・・・
「眠狂四郎 勝負」(三隅研次監督) 1964
「眠狂四郎 女妖剣」(池広一夫監督) 1964
「眠狂四郎 円月斬り」(安田公義監督) 1964
「眠狂四郎 魔性剣」(安田公義監督) 1965
雷蔵の眠狂四郎はたしか12本くらいあったと思いますが、手元にあったのはこの4本だけだったので、続けて一度にこの4本を見ました。
映画はどんな楽しみ方でも見ることができるでしょうし、人によって全然違うでしょうから、どんなに古い映画、いまは流行らない映画でも、観る人によっては楽しみを見出すことができるだろうと思います。この4本をみていまでも古びない魅力があるとすれば、それは市川雷蔵という役者の剣を下段に構えた立ち姿の美しさかもしれないな、と思いました。
それはもうお話の多少の巧拙だの、映画づくりの演出やセットやセリフやの多少の違いだの、役者一人一人の演技がどうこう、ということとはかかわりなく、それらがみな古臭く、陳腐で、いま見るにたえないところがあったとしても、市川雷蔵の狂四郎が着流し姿で剣を下段に構えて敵に対峙したときの立ち姿の美しさは、どんな映画のどんな他の時代劇俳優でも見せることのできないものだという気がします。
あのすっと伸ばした腰の状態や剣の構えで人が斬れるのか、現実の剣術のことはわかりませんが、映画の約束事としての斬りあいに支障はないので、あとの斬りあう場面もなかなか美しいと思います。でも一番美しいのは静かに剣を構えていまからその剣の切っ先が円を描くという、まさにその瞬間です。
この4本についてはそれだけ言えば十分な気がしますが(笑)、4本のうちどれが一番好きかと言えば、最初にみた「勝負」です。狂四郎と絡んで一風変わった友情が芽生えるような、肝胆相照らすところのある勘定奉行役の老人がとてもいいし、藤村志保、久保菜穂子、それに狂四郎に淡い憧憬を懐く蕎麦屋の娘役の女優もそれぞれよくて、設定やストーリーにもあんまり変な癖がないのがいいと思って観ました。
これが「女妖剣」になると、悪役の菊姫が多分事故か何かで顔の美貌が損なわれているがゆえに美女をイジメ殺す悪女になっているとか、もともと謎だった狂四郎の出自が転びバテレンと生贄の日本の娘だったとか、狂四郎の相手になる敵方は阿片で儲ける役人と商人たちで、商人が役人のお目こぼしを得るために隠れキリシタンの情報を役人に提供する、そのためにわざわざ手下である女に耶蘇教を広める女教祖の役割をさせて信者を集めていたという、単に荒唐無稽というより、なんだかエグイ設定、あまり愉快でないストーリーになっていて、後味がよくないのです。たぶんポリティカルコレクトネスの観点から(?)いまでは作れないような設定の映画ではないかな、と思います。
狂四郎がいきなり大奥や牢獄にすっと立ち入っていたりして、なんでそんなことできんねん?というような単純な疑問が生じるような安易さもあって、せっかくキリシタンの兄が捕らわれて援けたい一心で一身をささげながら、果たせずに自害してしまう小鈴(藤村志保)などは、とてもいいのに、作品としては好印象の持てないものになってしまっています。
ほかの作品が先かもしれませんが、「勝負」では見られなかった、円月殺法のスローモーションというのか、円を描く刀身の残影が見える撮影方法がとられていて、それはこの円月殺法の美しさを見せる方法として良かったと思います。「勝負」以外の3作ではいずれも採用されています。
「円月斬り」では、狂四郎と敵に依頼されて狂四郎に挑むが互いに剣の使い手として一目置き合う関係で尋常な果し合いに及ぶ勘兵衛という武士と斬りあう林での光景がとても美しい。時代劇にはこういう場面があるから嬉しい。
この作品では狂四郎がちょっと頭の弱い人足や夜鷹ら、最下層の庶民の味方として、彼らを人間とは思わず、試し斬りなどするわがまま一杯の「将軍の落とし胤」一派と戦う話になっていて、自分の出世欲もあってそのバカ若殿の妾になろうという商家の娘を狂四郎は辱めはするけれども、なんだか左翼崩れの脚本家が書いたような設定とストーリーで、それはそれで面白くありませんでした。庶民の味方風の狂四郎という同様の傾向はあるものの、「勝負」のほうがそのへんはあっさりしていて良かった。
「魔性剣」は冒頭の、宿を出た狂四郎が雨が降っているのに気づいて、2階をあおいで、親父、傘を貸してくれ、と傘をうけとって雨の中を行くシーンから、おぉ、いいな、と思い、橋にさしかかったところで、もし、と女に呼び止められ、その物言いから武家の女と見抜き、誘われるままに女の宿に行って、自分を買ってくれという病身の女の求めを拒否して1両を投げ与え、いまの病身のお前には1両の価値もない、と抱かずに去ったあと、女が自害して果て、なぜ彼女がそういうことをしていたのかを知った狂四郎は、自分が彼女を死に追いやってしまった、なぜあのとき生きる望みを捨てるなと言ってやれなかったか、と思う、そのあたりまではこの作品が一番好きだと思って観ていました。
しかしまぁ、そのあとはありきたりのお家の跡継ぎが死んで、それまで邪魔ものとして殺そうとさえしていて、その女が職人の家に預けて育ててきた落とし胤が急遽藩主の跡継ぎとして必要になった城が身勝手に子供を奪いに来て、預かっていた職人なども殺してしまうというような、よくある話で、その理不尽に行きがかり上関わって城の武士たちと争いになる狂四郎、という話で、どうということもありません。
ただ、女優に嵯峨美智子が出ていて、「円月斬り」のときだったか、伴蔵というワルが狂四郎を殺そうと付け狙う役で登場するのですが、結局果たせずにまた島送りか何かになって死んでしまったということがあって、嵯峨美智子はその妹の役で、狂四郎のせいで兄を殺されたと思っていて、しつこく狂四郎をつけねらい、邪魔をし、狂四郎に敵対する武士たちを使って彼を殺そうとします。あの女優さんはそれ自体としてとても魅力のある女優さんだったし、この作品でも執念深い敵として彼の前に立ちふさがる強敵で、なかなか良かった。本当は相当色気のある人なので、もっとすごい役ができる人だと思うけれど、この作品ではそこまでは見せません。
概して眠狂四郎シリーズは狂四郎に関しては、彼が背負う「業」の深さ、出生の秘密に由来するような母なるもの、女性なるものへのアンビバレンツな潜在意識では、殺人に見合うような女性への極端な冷淡さや酷薄さをもつ男だと思いますが、男女の色情に関わるようなところは品よくさらっと描かれています。女性の裸身は登場するけれど、狂四郎とのからみは、すべて直接には描かれないか、少なくとも狂四郎のほうの着衣には乱れがなくて、間違っても彼の背中や脛が見えたりはしません。雷蔵の狂四郎は出生に由来する深い業を背負い、虚無的な無頼の姿勢が身についてはいるけれど、芯は清冽な流れのように純粋で融通無碍で、凛として背筋がまっすぐに通っていて、その剣を下段に構えた立ち姿そのままに美しいイメージを崩していないので、膚を見せて色欲を発散させ女体を抱いて汗をかくような無様な真似はしないのですね(笑)。そこは監督が変わっても踏襲されていて、市川雷蔵は悪い事はしても(笑)汚れず美しいイメージのままです。
「ユリイカ」(青山真治監督・脚本)2000年
映画作りを志す若い人たちがその背中を見て追っかける日本の映画監督というと、黒沢清監督とこの青山真治監督らしい、というのが、もともと映画づくりとは何の関係もなく、若いころからの映画好きでもなく、メジャーな映画館に配給されてやたら評判になったような映画を人に遅れてたまに見にいく程度の、どちらかと言えば「あんまり映画をみない、ふつうのサラリーマン」といった感じの私などでも、ときどき面白いと思った映画のことが載っている雑誌や映画よりは幾分親しい文芸のほうの雑誌など目にしている中で、自然に感じてきたことでした。
でも面白いことに二人の作品は両方とも映画館に足を運んでみたことはたぶん一度もなく、レンタルビデオ屋や始終いくのに、結果的に考えるとなんとなく敬遠していたみたいで、これもたぶん見ていないと思います。「たぶん」というのは、私は何度もこのブログで書いてきたように、若いときから恐ろしく記憶力が悪くて、一度借りて来てみた映画でも見た端から忘れて、しばらくすると借りたこと自体を忘れてまた借りて来ては「あなたこれ前に借りて来たじゃない!」とパートナーに言われては、そうだったっけ、ともう一度見てもかなり後半まで見ないと思い出さなかったり(笑)というのがよくあるので、自分でも絶対に見てない!という自信がないのです。先日などは、観た上にこのブログに感想まで書いた映画を、まだ見てないと思って借りて来て、呆れられたほどです。自慢じゃないけど(笑)
そんなわけで、自信はないけれど、この若い人の間では超有名な作品も、私は見ていなかったはずで、今回217分という長編を見て、あぁこれはやっぱりもっと早く見ておきたかったな、と思った次第です。すばらしい作品でした。
きっともう、ものすごい賛辞と、綿密な研究なり批評なり、感想なりが書かれて、山のように積まれているでしょうから、いまさらただ一度いまごろになって初めて見た私が付け加えることがあろうはずもありません。ただ、忘れっぽいから(笑)観たぞ、というのを自分の手控えとしてメモだけしておくことにします。
まずなんだか田舎の空き地みたいなところにバスがとまっていて、いきなり男が飛び出して走り出すのをパンパーン!と銃声が響いて男が倒れ、血の付いた手がうつされる、衝撃的な場面から始まります。バスの車内では拳銃を手にした背広のサラリーマン風の若い男がもう一方の手にケータイもって乗客の方を向いて「警察って何番だっけ?」とふつうに番号を訊くみたいにきいています。返事がないけれども「あ、思い出した」とか「あ、わかった」とか一人で言って彼は電話をかけて、なんか仕事の電話をかけるみたいに、ふつうにしゃべっています。もうこの冒頭から観る者は現場にひきこまれちゃいますね。この犯人を演じているの、たしかやっぱり映画監督で、よく、ひとの色んな映画に出てる人ですけど、ほんとにいまどきいそうな犯人ぴったりの人(笑)。あんまり自然態なんで笑ってしまうほどです。
いちいち書いていると何十ページにもなりそうだから端折りますが、このバスに乗っていて、殺されずに生き残った、役所広司演じる運転手の沢井真(まこと)が主人公で、ほぼ同格の主人公があと二人の生き残り、中学生の兄直樹と妹梢で、これは宮崎将と宮崎あおいが演じています。この二人はオーディションで監督も兄妹とは知らずに採用して、あとで兄妹だと分かったんだそうで、このときあおいは14歳だそうです。先走って言っちゃうと、この宮崎あおいが素晴らしい。のちのちの演技派女優というのはこんな年齢で、まだ演技なんてほとんど経験もなくトレーニングを受けてもいないと思いますが、その存在自体でおのずと輝いてしまうものなのか、不思議な気がするほどです。
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「罪と罰」や「異邦人」がまず殺しから始まるように、この映画の物語もまず事件が起きてしまったことから始まるわけです。でも「罪と罰」や「異邦人」と違うのは、殺した犯人はさっさとその現場で警官に撃たれて殺されてしまうので、カメラが向けられるのは、被害者の生き残りである、真やこの兄妹なのです。そうすると必然的に、冒頭の事件がこの3人にどんな影を落とし、どんな深手を負わせたか、ということと、そこから彼らがどう回復していくのか、あるいはほんとに回復していけるのか、そういういわば再生の物語になってきます。
こういう枠組みというのは、おそらく小説でも映画でも、それほど珍しいものではないと思います。私もすぐには出てこないけれど、そういうストーリーには何度か触れたことがあるような気がします。けれども、これも先走って言ってしまえば、この映画ほど丁寧に、微細に、延々と時間をかけて、その深手を負った一人一人の状態を描きだし、その回復までの過程をたどってみせた映画というのはなかったと思います。それはもう空前絶後じゃないか(笑)。しかもそれで退屈しないというのは・・・
途中から、この映画がそういう深手を負った人間の回復にいたるまでの物語だな、というのはもう疑う余地もなくなり、しかもきっとこの少女梢が言葉を発するときに物語がようやく終わるのだろうな、と確信するようになりますが、そこまでの道のりの長いこと。ようやくそのラストにたどりついたときは、一人の人間の心が深手を負ったとき、そこから回復にいたるまでには、こんなにも長い旅が必要なのか、こんなにも辛い時間が必要なのか、と深いため息が出るような感じでした。
この映画の中に色んなことが入ってきていますが、その一つは、日本的というのか、閉じた村的な精神風土というのか、そういうローカル的な意味合いはないのかもしれず、人間の共同体的な精神風土というのはつねにそういうものなのかもしれませんが、犯罪の加害者ではなく被害者であるにも関わらず、世間の目は同情的に見えて(たしかにそういう面もなくはないけれど)、実は好奇の目で見ていて、顕在的でないだけによけいに陰湿な悪意にも似て、実際上はむしろ心に深手を負った者のその傷口に塩を塗るような、目に見えないが突き刺さってくる矢のようなところがあるということです。
直接の因果関係とかいうのではないかもしれませんが、そういう背景の中で、事件後、兄弟は残された自宅に閉じこもって学校にも行かず、口もきけなくなって、あとで真が唐突にここに置いてくれないか、と訪ねていったときに分かるのですが、家の中は散らかり放題、食器も食べた後そのままで、ごみの山、ほとんど何かをする、生きる、という意欲そのものを喪失した二人の無気力状態が描かれています。
そういうのをあらわす見事なシーンとして、最初に真が訪れて、自分はもうほかに行き場所がないので、ここへ置いてくれないか、と言うとき、玄関へ出て来てその言葉を並んで聞く二人の表情。これは後日、彼らの従兄だという秋彦が初めて訪れた時も、全く同じ表情なのですが、ただそこに茫然として突っ立っていて、こちらの言葉が分かっているのか、了承しているのか拒否しているのかも不明、なんの反応もしない、意識の飛んでしまった人のように、そこにただ存在している、という、その姿、表情が映画が終わっても心に焼きついているほど強い印象的な映像です。これが解きほぐされていくのは、命のない人形が生命を獲得するくらい難しそうだな、というのを、その二人の姿が自然にみせています。
こういう魂が飛んでしまったみたいな兄妹のところへ、自分もかつての自分のままでいられず、妻を置き去りにして「家出してきた」真(まこと)が、「ここへ置いてくれないか」、と唐突に兄妹のところへ転がり込み、さらに「きみたちの従兄だ」という秋彦が入り込んでくることで、物語に推進力が生じて少しずつ動いていきます。
まだ真が兄夫婦の家に居候しているときのことですが、真が幼馴染?のシゲルの彼女らしい女性が職場を訪れたときに、シゲルが不在で、夜道を送ってくれと言われて送り、彼女のアパートの前で別れるとき、彼女が彼にキスをします。
なんでもない動作で彼も戸惑い反応はしないけれど、後で起きることの伏線になっているし、その場面を見られたわけではないけれど、二人一緒に帰るところを村人が見たらしくて、兄が真にそのことを告げて、「そうでなくてもいろいろ物騒なことが起きていて、おまえがやったんじゃないかとか犯人じゃないかと噂されたりしているんだから、夜中に女と二人で歩くなんてことせずに、もっと慎重にふるまえ」というような説教をします。
夜中じゃなくてまだ8時ころだったんだし、と兄嫁はかばいますが、娘までが迷惑を蒙りはしないか、と恐れていることは伝わってきます。
そんなこともあって、真は突然同じバスジャックの被害者というだけで知り合いでも何でもない兄妹のところへ、一緒に置いてくれ、と頼みにいって3人の不思議な共同生活が始まります。そのあと3人が食卓で真のつくる料理を食べているシーンでは、それまで散らかり放題のごみの山だった家の中が綺麗になっていることが分かります。
ずっと後のことですが、真が置き去りにしてきた妻が真に会いにくる場面があり(この妻を演じた女優さんも素敵でした)、そのときに真は、「他人のためだけに生きることってできるんだろうか」という言葉をつぶやきます。それは、それからの真の生き方そのものであり、彼にとって生きる目的はただひとつ、兄妹を彼らが負った深手から回復させることになります。
そうして職場の土木作業の現場でクレーンで土を掘り起こす車の運転を指導された真は、バスの運転手だったこともあって、なにか動かしたい、という欲求が甦ってきて、そこから或る日彼がバスを購入してきて、兄妹に一緒に旅に出ようと誘うことにつながります。
共同生活をしていた兄妹の従兄の秋彦は「何を唐突に」と拒み、兄もそっぽを向きかけるけれど、そのときまでに辛うじて真と心を通わせていた妹梢はバスに乗り込み、それをみて兄直樹もバスに乗り込んで、結局秋彦も乗り込んで同行することになります。
真と妹とのそこまでの微妙な心の通わせ方も、繊細に、みごとにとらえられています。
シゲルの恋人らしかった女性が、真が2度目に彼女に乞われて自転車で送っていったあとで何者かに殺される事件が起き、真が重要参考人としてこの映画の冒頭の銃撃戦で犯人を射殺した刑事に取り調べられ、真が犯人だと信じているとその刑事に言われます。
留置場で隣との壁をノックして反応が返ってくる、そういうコミュニケーションの仕方があとで直樹や梢と彼とのコミュニケーションにも登場します。
真は容疑者にはされるものの、しかしおそらくは証拠不十分で釈放され、また兄妹の家に戻ってきます。秋彦は彼を最低だと非難しますが、拒否はせずに、もとのように共同生活に戻ります。
このあたりから、兄の秋彦に或る微妙な変化が起きているのが観客にもわかります。秋彦が庭でゴルフの練習をしてスティックを風音を鳴らして振っている、その音にベッドの直樹は神経質に耳を塞いで、たまらない表情をしています。
また、カーテンをあけて外を見ている梢の耳に、直樹らしい声がかぶさって聞こえます。「見えるか、梢・・・波じゃ」と繰り返しているようです。(波のところはよく聞こえなかったので、間違っているかもしれないけど・・・)
そして、次は直樹が(たぶん)ナイフで、丈高く伸びた草叢の草を切るソーンで、草の茎の先端から白い駅が溢れ出る印象的な場面があります。このとき梢は風に揺れるカーテンの間に立って外を見ています。
これらのシーンが確実に直樹の或る変化を示していて、それを梢が知っている、あるいは「感じている」ことが観客のわたしたちにも伝わってきます。
置き去りにしてきた妻と会ったあと、真は泥酔して帰って倒れ、秋彦が彼を引きずって寝かせます。真は完全に打ちのめされて縮こまって横たわり、実は声もなく泣いているのですが、この真の傍らに梢が座って、彼の髪をなでてやっています。すばらしい場面です。真の「人のためだけに生きることはできるだろうか」というありようを梢は次第に感じ取って、彼にわずかであっても心を開き始めていることが自然にわかります。
真がバスを買ってきて、試しに走らせる場面はこの作品では珍しく明るい場面で、ブーッとクラクションを鳴らして発車。それまで耳にした記憶のないバックグラウンドミュージックが、たぶん初めて、大きな音量で聞こえます。
バスの旅に出て最初は映画の冒頭のバスジャック事件の現場にいき、真は「ここからが出発たい」と言います。真と兄妹にとって、ここが再生への再出発のスタート地点というわけです。
じゃ従兄の秋彦は何かと言えば、もちろん狂言回しなわけですが、もしこの人が居なくて主要人物が3人だけだとすれば、この映画は3人の半ば夢遊病者みたいな人物たちが、何か観る者にはよくわからない、そして自分たち自身も何をしているかわからないような行動をとっているだけ、みたいな世界になっていたと思います。
秋彦は、真や直樹、梢が、心にあまりにも深い傷を負ってそこから回復へ向けての長い痛々しくもある道のりを、自分たち自身も何をしているのか分からないような霧の中を手探りで懸命に歩いていくような歩みの中で、唯一覚めた外部の眼なのだと思います。
それは周囲の人々のように攻撃的でも陰湿でもなくどちらかと言えば善意の好意的なまなざしではあるけれども、別の言い方をすれば、好意と言うより「おせっかい」で押しつけがましい、凡庸で全然「わかっていない」視線、姿勢でしかないような外部であり、兄妹や真にとっては、強引に入り込んできて、3人の深手の深さに本当には気づかない鈍感さゆえに、救われるところもあるけれども、逆にどうしようもない異和でしかない存在です。それはこの映画を観ている私たち観客に最も近い存在だと言ってもいいでしょう。
直樹の変化はいよいよ露わになってきます。バスの車内で寝ている彼らにあたっている光の部分に樹の葉がつくる黒い影が、光を部分的に遮って揺れ動き、なにか不安なというか不吉な印象を与える場面で、真は留置場でやったようにコツコツとバスの内壁をノックします。これに直樹が応えてコツコツと返す場面が印象的です。
食餌に立ち寄って高菜飯や蛸汁定食をとるレストランで、直樹が突然立ち上がって駆けて行き、嘔吐する場面があります。バスに酔ったということですが、直樹と心の状態についてある種の伏線になっています。
それからほどなく、直樹がバスから消えて、真と秋彦が探す場面があります。結局探したあげくバスに戻ると、直樹は戻っていて寝ていた、ということでその場は終わるけれど、直樹がまたいなくなって探しに出る場面で、秋彦は、このところ頻繁に起きている殺人事件に関して、直樹か真が犯人だと自分は思っている、もう真のことも信用できない、と言います。映画をここまで見ていて色んな伏線でそういう予感がしている私たち観客の想いを秋彦が明瞭な言葉にしているわけです。
秋彦を残して一人で直樹を探しに出かけた真は、直樹が通りがかりの女性を襲う寸前に遭遇します。「どうして殺したらいけんとや」と、このときはじめて直樹は言葉を発します。
彼が突き出すナイフを素手で握ってうけとめ、真は「殺すなら一番たいせつな者を殺せばいい」と言い、「いまから一緒に梢を殺しに行こう」と言って、近くにあった自転車の荷台に強引に直樹をのせて広場をぐるぐると回りはじめ、「ぐるぐるとここで回っとくか、バスに帰って梢を殺すか、3周まわるまでに決めろ」と言います。
直樹は、「ここでぐるぐる回っとく」と小さな苦し気な声で答え、真は直樹を乗せたまま、ぐるぐると回り続けます。ここも素晴らしいシーンです。
次のシーンはこの2人が歩くシーン。「直樹、一つだけ約束してくれ。生きろとは言わん。ばってん、死なんでくれ。また会おう。迎えに来るけん。」・・・うなづく直樹。そして警察署へ入っていきます。
真がバスへ戻ってくると、秋彦がバスの外でしゃがんでいて、梢が泣いていて、バスへ入れない、と言います。真は、「梢は言葉では言わなくても知っている」と言って、留置場でやったように、バスの車体を外からコツコツとノックします。
そうするとコツコツと梢の応答があり、真はバスの中へ入っていきます。この場面のコツコツは留置場の隣人、直樹、ときて梢で3度目です。こういう小さなエピソードがつながって、人と人とのささやかなつながりが徐々に取り戻されていく予感が観客にも自然に感じられます。兄直樹と一心同体のようにつながっている梢はとうに兄のことがわかっていたんだ、ということ、それを真もかなり以前からわかっていた、そしてようやくこのあたりで秋彦も気づき、私たち観客の目にもそれが事実としてつきつけられるわけです。
心の傷が深いほど、同じ傷を負った者を理解し、感じるのも早いわけで、私たち観客は一番鈍感な、ふつうの人、秋彦とともに最後に真相を知ることになり、そこから遡って、あのとき何が起きていたのか、そしてなぜ梢や真があんなふうな表情をしたり振る舞いをしていたのかを知ることになります。
このような心の深手が一人一人の心に広げた波紋がどう広がり、またどうそれを鎮めていくか、そのプロセスにおけるそれぞれの感じ方、振る舞いかた、他者とのかかわり方をどう微妙に変えていくかに関しては、実に精確にとらえられ、その傷ついた心の自然に即して繊細な手つきで描かれています。
阿蘇の噴煙(蒸気)が立ち込める火口を眺める真、梢、秋彦はその阿蘇の広大な風景の中をバスで走ります。秋彦がここで、まったく鈍感な何もわかっていない外部の人間としての姿をポロっとさらけ出して、「あいつはもう一生刑務所か・・なんだろうか。可哀相だけど一線を越えたやつは(仕方ないだろうな)・・・しかしそのほうが直樹も幸せかもね」みたいなことを言います。
これを聴いた真はただちにバスを止め、「おりろ!」と言って秋彦をバスから降ろして彼の荷物を車外にほうりなげ、秋彦を殴りつけて、「いつか直樹が帰ってきたら必ず元の直樹に戻す。そのときお前のようなやつがいたら(その妨げになるだけだ)・・自分は死んでも直樹を守る」、という意味のことを言って、置き去りにして去っていきます。
死んでも、というのは、ずっと以前から真は咳をしていて、それがどんどんひどくなって、胸を病んでいることは明らかで、おそらくそれは結核か癌か、死に至る病のように秋彦にも観客にも理解されているからです。
梢の耳に、直樹のものらしい声が聞こえてきます。「梢‥見えるか」・・・「海じゃ、梢。海を見に行け」・・・「お前の目から俺の目に海を映してくれ」。
バスは海辺へ行きます。咳がひどく、しゃがみこむ真。その眼には波打ち際に立って動いている梢の姿がややおぼろげに見えています。水の中へ入っていく梢の声でナレーション「お兄ちゃん、見える?梢、海が見えるよ・・・」
再びバス。ふとんの中で眠っている梢。外にいる真の咳。電話をかける真。「森山美容室です」という女の声に、なにも言わずに切ってしまう真。バスを出す。窓の外の景色は真っ暗なこれは海でしょうか。そこに浮かぶ無数の光は、灯籠流しの灯籠の火のように見えます。
ふとんに伏せた姿勢で二枚貝の殻を並べる梢。真は咳だけが聞こえてきます。
ラストシーンは、高台に大きな碑が二つ立っている場所で、バスを降りた二人。真は咳込み、手にしたハンカチが喀血で黒く染まります。夜ではあったけれど、いま思えばあれは赤くなかったな(笑)。あの場面は・・・いやほかの場面もこの映画、モノクロあるいはモノクロ的な映像で撮られているのがはっきりしているところがありました。ネットの資料を見ると、どうやらモノクロでとって、それを逆にカラーにするみたいな技術があるらしくて、そういう方法で作られた映画らしい。
技術のことは知らないし、映画を観終わって、カラーだったかモノクロだったかもしばらくたつと分からなくなるようなありさまだから(笑)なにも言えないけれど、きっとこの映画はそういうモノクロ的効果を持つ映像が要所要所で私たち観客に喚起するエモーションに独特の効果を与えているのでしょう。
崖の上に立った梢が突然、「お父さん!」と叫んで石を一つ投げ、つづいて「お母さん!」でまた一つ。「犯人の人!」「お兄ちゃん!」「秋彦君!」「沢井さん!」「梢!」と叫んでは石を抛ります。梢が初めて発語する場面です。
「梢、帰ろう」と真。振り向く梢の表情のクローズアップ。そして手前に草原、向こうには崖があってその間の道を、碑のある高台のほうから歩いてバスのほうへ戻っていく真、そして梢。二人を高い位置からとらえる映像が空高くの視点から阿蘇の一帯の風景を映して、EUREKA のタイトルが出て幕です。
いや、つい長々、こまごまとなぞってしまいましたが、つい昨日見たのを思い出しながら書いていても、そのときの感動が甦ってくるようで、楽しかった。実際にはでたらめに思い出す場面を書いていっているので、映画に登場する場面を逐次的にたどったわけではありませんから、前後逆になっていたり、大きくとんでいたりします。無意識に私の印象に強く残った場面だけを拾っていることと思います。
ラストで梢が初めて口をきく場面、身近な関わってきた人の名をひとつひとつ叫んでは小石を投げるシーンは、或る意味でこんなふうに終わるだろうと思い、物語の終着点まできたな、と予想どおりだと思いながらも感動してしまいます。
とうとうここまでたどりついたか、本当にしんどい、きつい、長い旅だったな、という実感とともに、です。たしか「心の旅路」という古いメロドラマだけれど、すごくいい映画がありましたが、この「ユリイカ」はまさに深手を負った三人の「心の旅路」ですね。古い「心の旅路」のような予定調和のハッピーエンドはないけれど、ここまできつい旅路をたどらずには、わずかな回復の希望にさえ至ることはできないんだな、というそれこそ厳しい現実のリアリティを存分に味合わせてくれた上で感動的なラストに至る、すばらしい作品でした。
「乱れる」(成瀬巳喜男監督)1964
ずいぶん昔、「浮雲」を見て、あまり好きになれそうもない気がして、高名なこの監督の映画はほとんど敬遠してきたようなところがあったのですが、この映画を観て驚いてしまいました。本当に素晴らしい作品で、こんなの撮る人だったら、いままで見なくて観客としてずいぶん損したなぁ、という感じです。
描かれている主人公である戦争未亡人礼子(高峰秀子)のキャラクターや考え方というのは時代的なものでいま見れば古臭いと思われるようなものだけれど、その時代背景のもとでこういうキャラクター、こういう考え方をもった女性がいたことを現実としてみれば、そういう女性を描き切った感のある映画だと思いました。
これは不倫映画でないことはもちろんだけれど、恋愛映画でもないようで、ある時代、ある状況の中で自分の生き方を貫いてきた女性が、義弟の告白によって生涯初めてゆらぐ、そのゆらぎに罰を受けるかのように義弟も死んでしまうわけですから、不倫も恋愛も成就しないわけで、作品の世界をひっぱっていくのは、義弟が告白してからの、同じ家に住む未亡人である兄嫁の彼女とその義弟がくっつくのかくっつかないのか(笑)その緊張感です。
したがって、告白してからの義弟はあっけらかんと一方的に自分の想いを投げかけていればいいだけの平板な存在にすぎなくなってしまうので、ドラマはもっぱら義弟のそういう自分への想いを知ってしまった礼子の内面の劇、居心地の悪さ、平静を装った立ち居振る舞いの内側での実際のぎこちなさみたいなものにあるわけで、これは終始、この女性の生き方、考え方、立ち居振る舞い、その心理のドラマなんだと思います。
異性としての義弟との関係は、従って恋情として描かれるよりも、彼女がその存在によって引寄せてしまいそうになるのを、意識的にとろうとする距離や素知らぬ風を装うその立ち居振る舞いの中にある意志的な斥力のようなものによって表現されています。
唯一「恋情」を感じさせるシーンが、彼女が家を出て郷里の兄のところへ身をよせようと旅に出ると彼女を追っかけて乗ってきた義弟とその列車の長旅を共にすることになるわけですが、ずっと義弟と距離をとり、拒んでいながら、自分への想いをストレートに示し、優しく振舞ういじらしい義弟が疲れて車中で眠っている表情を眺めていて、つい涙ぐむ、あのシーンです。このときの彼女の表情はほんとうに素晴らしくて、一緒に泣けてしまう(笑)。
列車でのシーンは全部すばらしくて、そのあとの展開にはちょっとびっくりしてしまいました。
彼女が突如次の駅でおりましょう、と言って二人で温泉のある小さな駅で降りて、温泉宿に泊まる。これはもうどうしたって、できてしまうだろう、と思い、夫を若くして亡くしながら、その夫の家のために身を粉にして働いて店を再建し、幼い次男や老母のいる家庭を女の腕一つで守ってきた女性が、逞しい青年に成長した義弟の純粋な愛情にほだされ、こころ「乱れて」、ついに古い倫理観から解き放たれて男女の愛に身を任せるに至る物語だと、誰だって思わないでしょうか(笑)。
ところが自分から途中下車して温泉宿に二人して泊まりながら、なおもいざとなると彼女は義弟を拒むのですね。そして彼は宿を飛び出して帰らず、翌朝、崖から落ちたという死体になって運ばれていく、それを彼女は宿の2階から目撃して、階下へ駆け下り、追って行く。
その途中、橋の手前でとまって、橋の向こうへ運ばれていく彼の遺体を見送る彼女の表情のアップで映画は終わります。こ、これは何だ!・・・と思いましたね。なんか物語としてこれは理不尽じゃないの?破綻してるんじゃないの?と。
でも考えてみれば、それまでにも、義弟に対してそういう距離をとろうとろうと自分をしばってきた彼女は繰り返し描かれているから、そういう倫理観を持っている古いタイプの女性、或る意味で頑ななところのある女性・・・そうでなければ十数年も未亡人として亡き夫の家を一人で支えてくるようなことはできなかったでしょうから・・・・ということを考えれば、あそこでいくら自分がいったんはエイヤッと跳んでみたものの、身も心もそう簡単に開けないところがあっても不思議ではないし、そういう揺れ動く女ごころを描くことに主眼があっても、本当に身も心も「乱れ」てしまうのはこの映画の作り手の本意じゃなかったんだな、と思って納得しようとはしたのですね。
それにしても男を殺してしまわなくてもいいだろうに、とは思いましたが・・・
だけど、この映画を観た後で、そういえばこの映画の分析を細かくやっていた本があったな、と思い出して、塩田明彦さんというご自身が映画監督でもある(そういえば「黄泉がえり」を見たなと思い出しますが)人の『映画術』という著書を取り出してみたら、やっぱりありました!
実はこの本は、私が近松の「曽根崎心中」が好きで、鴈治郎の歌舞伎と、栗崎碧監督で宮川一夫が撮影した人形浄瑠璃の映画と、増村保造の映画と、天満屋の場と道行とを対比させながら学生さんに喋っていたことがあって、曽根崎心中についての色んな資料を読んでいた時に、増村保造の映画での梶芽衣子の視線のありように触れた章があったので買ってその部分だけ読んで、なるほどなぁ、と感心した覚えがあって、あとのところはパラパラとめくっただけだったので、なんとなく成瀬のこの作品に触れたところもあったことは記憶の片隅に残っていたのです。
それで今回あらためてこの本の「乱れる」について書かれた部分を読んで(今回は全巻読みましたが・・・笑)、もうそこに書いてある分析に完全に参ったなこりゃ、という感じで、それ以上言うべきことがなくなってしまいました。
塩田さんによれば、映画を撮るうえで一番大事なのは「動線」であって、それがうまくいけば映画は半ば以上成功なんだというようなことなんですが、この「乱れる」という作品は、加山雄三演じる義弟が高峰秀子演じる未亡人の義姉礼子に告白する、つまり「超えてはならない一線を越えようとする」わけですが、この映画はその部分だけじゃなくて、そもそも全体がその「一線」に向けての話なんだ、というわけです。
溝口の「西鶴一代女」にもそれはあって、かの映画では冒頭でその「一線」が越えられてしまうけれど、成瀬のこの作品では、それよりはるかに用意周到に、「ここまでやるのか」と言うぐらい緻密に「境界線」「結界」のイメージが映画全体に張り巡らされている、と塩田さんは書いていて、それを場面に即して証拠立てています。たとえば冒頭でバーみたいなところで喧嘩した義弟のことで警察から店にかかってきた電話で、礼子が警察へ身柄を引き取りに行く場面では、「橋」がその「結界」の役割を担っている。それはまた、その前の店員から電話口に呼ばれた礼子が、台所から「渡り板」を渡ってからこちらへやってくる、その「渡り板」が一種の「橋」として同じ意味をもって反復されているっていうんですね。
それから義弟が礼子への想いを告白する決定的な場面では明暗二つの部屋が巧みに使われていて、その部屋の境界がさきにいう「境界線」になっている、と。塩田さんは非常に精細に高峰秀子と加山雄三の位置関係と動線を分析してきわめて説得的な議論をしているので、自分ではそこまで全然見ることができていなかった私でも、いちいちあぁそうだったな、そうだったなぁと納得せざるを得ない、みごとな分析になっていて、この「境界線」が彼らの動線ではっきり浮かび上がってくるところに、この決定的な場面の緊張感が生まれてくることを立証しています。
まだまだあるけれど、もうひとつだけ挙げれば、高峰秀子演じる礼子はふだんはラフな店員兼主婦としての前掛け姿なんかをしているわけですが、よそいきのときは和服姿です。
自然にそういうカジュアルとよそいきみたいに理解して観ていたら、塩田さんはそこを、彼女が「境界線」を意識したとき、つまり自分が義弟の兄の未亡人で、義弟を距離をとる、という自意識をもち、他者の目を意識して私は未亡人です、人妻だった女です、というときは和服であり、そうでないときはカジュアルな衣服も含めて洋装だというふうに言っているわけです。
そちらの理解のほうがいいのは、列車にのっていくとき、はじめはコートを着た彼女は洋装の風なんですが、義弟と向き合って必死に自分の感情を抑制しているときはコートを脱いで和服姿になるわけですね。そして、女優さんは着物を着た時と洋服を着たとき、それぞれそういう実感を自然にもつはずだ、と。このへんにも唸りましたね(笑)。
そんなふうに見ていくと、すばらしい列車でのシーンも、たしかに最初は礼子の近くの席があいてなくて遠い端っこのほうの咳に義弟は座るのですが、時がたつにつれてだんだん彼は近くの席に寄ってきて、ついには4人掛けの席の窓辺に向き合って二人だけで座るのです。これはもう露骨にこの映画は二人の距離の遠近から境界線を越える、越えない、ってことが主題の映画なんですよ、ということを示しているようなものですね。そういう目でしか見れなくなってしまった(笑)。
そして、列車の車内は最初は満員状態で、二人をとらえるカメラがほかにもいろんな乗客を同時にとらえていますが、だんだんと乗客の数も少なくなって、同じ画面の中にとらえられる人物の数が減ってきます。そして最後はとうとう二人だけで、ほかの乗客はカメラのフレームから見えなくなってしまいます。二人に、というのか二人の距離に、あるいは二人の間の境界線に、焦点が絞られてきます。
さらに恐るべきことには、或るウェブサイトでこの映画のことを分析した似たようなサイトがあって、どうやら映画関係者らしくて、映画の撮影技術のことなど教えている方らしいのですが、その方が書いているところでは、この映画は最初のほうは、近くにスーパーが立って、立ち行かなくなりそうな商店街が舞台なので、そこの色んな人々やらなにやら、恐ろしく多様な人々が画面の中にあふれかえっているわけです。それが映画の進行とともに、だんだん画面の中にあらわれる人物が減ってくる。焦点が礼子が切り盛りしてきた店に関わる姑や小姑やその夫のような狭い範囲に充てられるようになってきて、列車以後はそれも切り捨てられて二人だけになる。
そして恐ろしいことに、最後の最後はとうとう礼子一人になってしまう。その最後の最後の姿がラストシーンの、義弟の遺体を追う礼子のアップだ、と。
こういう映画を撮る監督って、ほんとうにおそろしいような人ですね。繊細細心であるばかりか、ものすごい粘りづよいというのかしつこい(笑)、細部まで徹底的に計算しつくして全体の構造の中に何重にも入れ子構造で同じ構造を作り込んでいくような偏屈な職人さんを思い浮かべてしまいます。
それにしても、そういうのを読み取ってしまう人というのもすごいなぁと感心します。そういう目でもう一度またそのうち見てみたい。きっとこういう作品は映画作りをする若い人にとっては何十遍も読み返す値打ちのあるテキストみたいな作品なのでしょう。
「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー監督)1959
あとは時間切れで簡単に(笑)。以前にも見たことがあるけれど、先日「操行ゼロ」をみてまた思い出したので、古い録画を取り出して観ましたが、やっぱりいい映画でした。
でも、こういう映画を撮る人というのは、よっぽど学校嫌いだったんだろうなぁ、家でもあんまり幸せじゃなかったんだろうなぁ、なんて思ってしまいました(笑)。
今のフランスはさすがにそんなことはないと思いますが、学校の教師という教師が軒並み厳格すぎ、すべてが強圧的に子供を自分の思い通りに「矯正」することしか考えていないような、どうしようもない教師ですよね。日本も昔はこうだったんかな、と思いますけれど。
前に見た時は印象に残っていなかったけれど、冒頭は車窓から撮ったパリの町の風景なのかな、ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の冒頭の街を舐めていくような映像を逆に思い出しましたが、映画の中のこういう映像というのは、ストーリーのある映画のストーリーそのものと強いかかわりがあってもなくても、映像としての良さがありますね。
主人公の少年が友達に誘われて学校さぼってゲームセンターみたいなところへ行って、円筒形の大きな器みたいなところへ入ってその内壁にへばりついて、円筒形が次第に速度をあげて回転する、あれはなんていう大型遊具なのか知らないけど、あれはそういえば印象的だったことを思い出し手、今回も楽しんで観ました。
学校で詩の朗読とか詩のレッスンをやっているのはフランスらしいな、とも思いました。少年が家でバルザックの写真を神棚みたいなのに貼ったりするのも。
人形劇を見ている主人公らよりは幼い子供たちの生きた表情、それから少年鑑別所へ送られた主人公を正面からとらえて少年の供述をそのまま撮ったような映像もとても面白い。
話としては酷い話で、まったくひでえ親たちです。これじゃ主人公の子供がほんとに可哀想だと思います。父親は実際上この子に関心がないし、母親は浮気しているのを子に目撃されるわで、親が勝手すぎて・・・そんな親のもとで、どっちからも当たり前のようにゴミを捨てておけよと言われて、はい、と素直に捨てに行く少年が天使に見えます。私だったらふくれてゴミ袋をぶちまけるところだ(笑)。
いたずらもする、うそもつく、わるさもする、ぬすみもする、だけど素直なごく普通の少年がそんな教師や親に厄介払いされて少年鑑別所に送られて、孤独の中で当然鑑別所の仲間たちにろくな影響は受けないわけだけれども、そこからも逃亡して、あてもなく海辺を彷徨う少年の哀れさ。教師や親に代表される大人の世界、社会に対する深い不信と指弾の志がみなぎる秀作。少年の目がとてもいい。
「小間使い」(エルンスト・ルビッチ監督)1938
配管工の姪で、世間知らずの若い女性クルニーが、田舎の上流階級の家の小間使いとして仕え、チェコから英国に亡命したベリンスキが客人としてこの屋敷にやってきたのをもてなす中でいろいろ失敗したりして巻き起こす騒動とベリンスキと最後には一緒に街を出ていくまでの顛末をコミカルに描く佳品といったところ。
クルニーを演じるジェニファー・ジョーンズが、ローマの休日のオードリー・ヘップバーンのように世間しらずで初々しいけれども、もちろん王女とは正反対の英国では下層階級の女性で、同じオードリーならマイフェアレディの市場の花売り娘だったときのイライザみたいなもの。でもウブで可愛い。
相手役のベリンスキはうんと年上のおじさんでインテリでもあって、華やいだ恋の物語にはならないけれど、抑えた演技で、ほかの人物(薬剤師)との結婚を夢見ているクルニーを親しく近くで、でも一定の距離をおきながら温かく見守る落ち着いた年上の男性を演じるのはシャルル・ボワイエで、これはさすがと感じさせます。
私たちがいまみると鼻もちならないイギリスの上流階級の階級的な差別意識やら高慢さ、気取り、頑固な各種の偏見や慣習みたいなものが、少し誇張されて描かれているけれども、あぁこれがかつてのイギリスなんだな、いかにもイギリス的なキャラだな、と思ってみていると、逆に面白いところがあります。
「青春群像」(フェデリコ・フェリーニ監督)1953
主役を演じる若者たちの行動をみるとたしかに青春ならではの或る意味で「大人げない」馬鹿げた、いわゆる愚行の類のわるさやちょっとした冒険、あるいは大騒ぎ、男女関係の不祥事の類ですが、日本の青春期の若者、というイメージからすると、イタリアの若者はおっさんに見えてしまうので、なんとなく「青春群像」、という邦題がぴったり来ません。原題は「のらくら者たち」なんだそうですから、そのほうがぴったりという気がします。
見るからに女たらしで不誠実そうなファウスト、その友人で、仲間内では唯一きまじめそうな妹想いのモラルド、実はその妹が不誠実な色男ファウストと恋愛関係で、映画の冒頭で結婚するので、案の定浮気なファウストの引き起こす騒動に巻き込まれます。
それに作家志望だけれど、とてもまじめに書いているともみえないレオポルド、歌が自慢のリカルド、そして悪い男に惚れて家を出ていくことになる姉に小遣いをねだって職にもつかずにぐうたらしているアルベルト…とそろいもそろって「のらくら者」たち。北イタリアの小さな田舎町でくすぶる若者たちです。
彼らが親友同士で、バカ騒ぎをしたり、騒動を引き起こします。冒頭は祭りの余興「ミス・シレーナ」を選ぶ会場のカフェで、モラルドの妹サンドラが選ばれて、モラルドの悪友たちも祝意で大騒ぎ。でもその中でサンドラが失神して倒れ、医者を呼んでみればなんとおめでた。
これを知ってすぐ逃げようとする彼氏(笑)がモラルドの友人ファウストで、曲がったことが嫌いな実父に「責任をとれ!」と手厳しく叱られて、しぶしぶ年貢をおさめ、サンドラと結婚します。でも一緒に映画に行けば彼女の反対側の隣に座った女にちょっかいを出し、せっかくサンドラの父親の紹介で勤めた高価な装飾時計なんかを売っている店の主人の妻に手を出してクビになるなど、そのだらしない行状がやむ気配はありません。
でも、ファウストの言う嘘八百を信じた兄もラルドの説得などで、この騒動もおさまりかけたかと思われたけれども、結局は真実がばれて、サンドラは赤ん坊を抱いたまま家を出て行方不明に。友達総出で探してみつかりません。
さすがにファウストも不安になり、後悔して懸命にサンドラを探して、最後は彼女が赤ん坊をつれてファウストの父親のところに行っていたことが分かります。ファウストの父親はまともな社会人で、息子を厳しく叱って鞭打ち、さすがにサンドラがとめて丸く元のさやにおさまります。
このエピソードを軸にしながらも、一人一人、それぞれにまだ社会人になるのをモラトリアムしているようなのらくら者の若者たちにこうした愚行のエピソードがついています。
その中では、新婚旅行にいったファウストが帰ってきて電蓄をかけて、マンボを路上で踊るシーンや、カーニバルの日にみなが仮装して歌ったり踊ったり、大騒ぎする場面が素敵です。こういうところは陽気なイタリア人らしいなぁと思うし、若者たちのまさに青春を謳歌している姿として楽しくなります。
もうひとつ好きな場面は、比較的まじめで、妹のことでも友人ファウストを信じられなくなったり、悩める若者であるモラルドが一人で孤独をかこっていたときに知り合う、駅で働く少年クイドとのちょっとしたふれあいです。
別になんてこともなくベンチに坐って会話するだけのことですが、最後にもラルドが街を出ていくときに、駅で働いているこの少年が再度登場して、列車で去っていく彼を見送って、線路の上をバランスとりながら向こうへ去っていくところで映画が終わります。この終わり方も好きです。
列車の音、汽笛の音がきこえる中、この町で一緒に馬鹿をしてきた友人たちがそれぞれベッドでまだ眠っている姿が映像として出てきます。とてもいいシーンです。
この映画の中の人間関係は、一種の人情劇みたいで、男女の交情も含めて、庶民的な、あまり先鋭になったり理屈っぽくならない、なれ合いみたいな位相で描かれていて、そのへんもとてもイタリアらしいな、という気がしました。
イタリア人的と言えば、楽天性、いいかげんさ、浮気性(女好き)、バカ騒ぎ好き、みな典型的なイタリア人気質のような気がします。これは私の偏見でしょうか(笑)。いちおう若いときは親しいイタリア人の友人もいたのですが・・・
saysei at 00:33|Permalink│Comments(0)│
2018年09月28日
圓光寺再訪
今日は朝から終日いい天気で、気温も秋らしいさわやかさ。家の中でじっとしているのはもったいないので、前にも訪れた圓光寺へ散歩がてら歩いて行ってきました。
誰もほかに客のいないがらんとした圓光寺の本堂、お座敷と庭でごろんとして、しばらく緑を眺めてぼんやりしていました。まだもちろん紅葉には早いけれど、楓が多いようだから、もう少し寒くなってくれば素晴らしい紅葉の庭が見られるでしょう。
これは裏庭。
飛び石づたいの向こうに井戸がある、この風景も大好き。
庭は降りて回遊することができ、いろんな角度から違った光景を楽しむことができます。
向こうにみえる棟はたしか道場みたいなところです。
これは庭と玄関入口のところにある水琴窟。かすかなとても高い、金属的な水音とでもいうような、いい音がしています。
ほかに宝物殿もあって、いくつか寺宝が展示してあります。古い時代の印刷用の活字が珍しい。
このお寺はもともと家康にゆかりの寺のようで、相国寺の中につくられたようですが、のちに焼けて、いろいろあって、一乗寺のこの地に移されたもののようで、いまは南禅寺を本山とするようです。
詩仙堂からはほんの2,3分のところにあり、詩仙堂から少し坂を下りて北のほうへ歩くとすぐみつかります。夕方は5時まであいています。詩仙堂は客も多いと思うから、休日はきっとついでに来る観光客も少なくないでしょう。
saysei at 19:37|Permalink│Comments(0)│
2018年09月26日
手当たり次第に ⅩⅥ ~ここ2、3日みた映画
映画館でみた「Passion」と「君の鳥はうたえる」についてはもう書いたので、手元に積んでおいたビデオの中から手あたり次第にひろってみた、ここ2,3日の映画雑感です。
「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博監督) 1934
戦前のモノクロ映画ですが、時代劇では珍しいミュージカルで、「日本初のオペレッタ」と言われているそうです。
これを見ると、時代劇でもちゃんと面白いミュージカルができるんだなぁ、と思います。
宮本武蔵に机竜之助、むっつり右門、忠太郎に国定忠治、それに十三人の侍といった硬派の役柄だけ見ていると、あの片岡千恵蔵が歌うなんてと思いますが、赤西蠣太のようにもともと軽み、滑稽味のある役柄のできる演技派の俳優さんで、この作品でも温かくて軽みのある強くてやさしい照れ屋の武士を演じてすごくいい味を出してくれています。
もう一人、私たちがよく知った役者さん、のちに七人の侍のリーダー役をつとめる志村喬が千恵蔵演じる浪人といい仲の隣の娘お春のの父親役で出ています。まだ実際にはかなり若いときだと思いますが、とてもうまい。彼の役名が志村狂斎(笑)。いや、彼だけではなくて、千恵蔵を愛して張り合う三人の娘がみな、役名お春が市川春代、おとみが服部富子、藤尾が清水藤子と、芸名から取った名で笑っちゃいます。
ビデオの映像が古くてちょっと見にくいところはありましたが、内容的には物珍しさもあったし、なにせ底抜け明るいので、気楽に見て楽しめて気が晴れるような感じでした。
「赤い河」(ハワード・ホークス監督) 1948
中学から高校の始めにかけて大の西部劇ファンで、ワイアット・アープに例の銃身の長いバントライン・スペシャルを贈った作家ネッド・バントラインのアープの伝記の原書を取り寄せて、まだろくに英文も読めないのに辞書をひきひき読んだり、モデルガンで早撃ちの練習もした(笑)くらいなので、 この西部劇の名作は何度も見ていますが、先日、リオ・ブラボーを本当に何十年ぶりかで見たら、これもまた見たくなってビデオ棚の隅っこで下積みになっていたのを取り出してきて観ました。
いま見ても本当に面白くできた西部劇だと思います。インディアンのような先住民族、少数民族への差別意識を排して白人のやってきたことを歴史的に再検証して、これはいかん、というふうになってから、そのこと自体は間違ってはいなかったと思いますが、娯楽映画としての西部劇は正直のところあまり面白くなくなりました。もちろんそれ以後もそういう観点を取り込んだうえで深みを増したすぐれた西部劇はつくられたけれど、それはもはや「西部劇」というジャンル映画ではなくて、ただ時代をアメリカのフロンティア開拓時代にとっただけで、単にすぐれた映画というべきものになっていったんだろうと思います。そして、純粋娯楽的な要素だけでそれを継承したのは勧善懲悪でバンバン殺しちゃうマカロニウェスタンだったのかもしれません。
「赤い河」ではインディアンのコマンチ族はジョン・ウェイン演じる主人公ダンソンの恋人が残った幌馬車隊を襲撃し、牧場づくりを企図してウォルター・ブレナンと2人で幌馬車隊と別れていくダンソンらをも襲う完全な悪者というか恐るべき敵として登場します。でもインディアンとの戦いがテーマではなくて、ダンソンが雌雄一対の牛からはじめて、豊かな牧草地で牛を育て、14年後には並ぶもののないほどの大牧場にするのですが、そこでは牛が売れないので鉄道駅があり、高値で売れるミズーリまで、1万頭近い牛を100日ほどかけて運んでいく大事業の困難を描いた西部劇です。
ウェイン演じるダンソンの相方になるのが、ダンソンの恋人もいて全滅した幌馬車隊にいて、たまたま九死に一生を得た少年マシュー(マット)で、青年になった彼をモンゴメリー・クリフトが演じています。マシューは牛の扱いから拳銃まですべてをダンソンに教えられ、逞しい好青年になっていますが、頑固一徹なダイソンとある部分で張り合うところがあります。
彼らに出発前に加わる隣の牧場主に雇われていた拳銃の名手チャーリー(ジョン・アイアランド)も加わります。彼もすごく魅力的な役者です。
彼らを幾つもの困難が待ち構えていて、そのたびにダンソンの強力というか強引なリーダーシップとをそれを支えるマシューらカウボーイたちの協力での乗り越えていくのですが、あまりに大きな困難と不安、そしてダンソンの強引さが内部のカウボーイたちの不満を招き、亀裂がはいって、反乱を起こす者も出ますが、マシューやチャーリーがこのときはダンソンを支えて困難を克服します。しかし、あるとき規律違反で逃亡したカウボーイをチャーリーに追わせて連れ戻された2人をダンソンが縛り首にすると言ったところで、マシューがダンソンの命令に逆らい、他の者たちもみなマシューについて、ダンソンは置き去りにされて、行く先をミズーリから列車が来ているらしいという情報のあったアビリーンへと変えて行くことになります。置き去りにされるダンソンは、マシューに、かならずいつかお前を殺す、と言います。
ダンソンの影におびえながら、それからはマシューをリーダーとして進みます。その途中でヨーロッパからの移民とかの幌馬車隊の一行がインディアンに襲撃されているのに出会い、援けてインディアンを追っ払い、休憩します。そして、そこにいたテス・ミレーという女性がマシューといい仲になり、テスはマシューからダンソンのことを聴きます。
マシューらが去った後にダンソンが近くの街で集めた手勢をひきつれ、マシューらを追ってその幌馬車隊のところへやってきます。あらかじめマシューから話をきいていたテスは、ダンソンに直接話しかけて、テントでいろいろと話をし、ダンソンのマシューへの愛情についても彼の人柄についても理解したテスは、ダンソンと一緒にアビリーンへ連れて行ってくれ、と頼んでいくことになります。
こうして無事にアビリーンにたどり着いたマシューらは高い値で牛を売ることにも成功しましたが、翌朝、ダンソンと対決することになります。
最後は、もともと深い父子的な愛情で結ばれていたダンソンとマシューなので、あわや銃撃戦か、いや殴り合いになってどこまでやるのか、というあたりで、テスの介在で、頑固なダンソンがマシューを頼もしい対等な牧場主として認めるところで終わります。
この映画では、大西部の広がりを背景に、1万頭近い牛を運ぶダイナミックなスペクタクル・シーンで見せる場面と、インディアンの襲撃や、仲間内あるいはマシューとダンソンといった人間くさい対立、確執による、銃撃戦を含むあわやという緊張感に満ちた場面と、2種類のエンターテインメントの要素がうまく交互に全編に配置されていて、飽きさせません。
スペクタクル・シーンで言えば、例えばこの1万頭近い(最初は9千頭くらいだったとか言っている)牛の大群が暴走を起こす場面。伏線として大きな図体をしているくせに甘いものに目がなくて、指をなめて幌馬車の荷台に積んである砂糖をなめる悪い癖のあるカウボーイが、何度もなめにきてはウォルター・ブレナンのグルート爺さんに叱られる場面がありますが、これがコヨーテが鳴いて牛たちが不安がって落ち着かない夜にまた馬車の荷台に忍び寄って砂糖をなめようとして、そこにあった金属製の食器類をガラガッチャーンと大きな音を立てて落としてしまい、それがきっかけになって牛が大暴走を起こします。「スタンピード!」と叫ぶダンソンの声。一度これがおこれば10キロでも走り続けるのだそうです。
このときは谷間に追い込みますが、それでも気のいいカウボーイが一人犠牲になり、牛も300-400頭犠牲になります。
もう一つ、同様に牛の大群を使ったスペクタクル・シーンは、1万頭近い牛の川渡りです。こういうシーンはすごく見ごたえがあります。
さらに、アビリーンに鉄道が来ているかどうか確証がなかったのでみな心配しながら向かっていたわけですが、鉄道に遭遇するシーンで、機関車が煙を吐いて近づき、その前の線路を牛の大群が渡っていくシーンです。汽笛を鳴らしてくれ、という要請に応えて、機関車夫が盛んに汽笛を鳴らして一行を歓迎します。アビリーンの街からは牛を待ちに待っていた人々がみな丘を上がって歓迎してやってくる、その街へ牛の大群が降りていく、これも感動的なシーンです。
人間くさい関係がもたらす緊張の場面は、最初のインディアンの襲撃を撃退する場面、それから牧場を作る場所についてからは、最初にまずダンソンが自分の土地と定めたところへ、別の所有者の手下が来て撃ちあう場面、それから14年後、成人したマシューと隣の牧場主に雇われたチャーリーが出会い、互いの拳銃の腕を試し合う場面、それからダンソンの強引さと行進の大変さに反乱を起こす3人との銃撃戦、さらに逃亡した別の3人のうちチャーリーが生きてとらえてきた2人をダンソンが縛り首にするというのでマシューが反対してあわや銃を抜き合うか、という場面・・・見せどころ満載のエンターテインメントです。
こういう見どころに対して、細部のほんのちょっとした場面に、すごく味わい深いところがあります。たとえば、反乱者3人とダンソン、マシュー、チャーリーの銃撃戦で足を負傷したダンソンの傷の手当てをグルートがするのですが、ウィスキーを傷口にぶっかけて消毒する。するとダンソンが痛さに苦痛の表情をすると、ウォルター・ブレナン演じるグルートは、もうそれが嬉しくてたまらんわい、という顔をしてみせる(笑)。それに気づいてダンソンがこのやろう、という顔をしてグルートをにらむ、このあたりの呼吸も素敵。
例の砂糖舐め男も憎めないカウボーイで、幾度か繰り返されるグルートとのやりとりが面白いだけでなく、それがスタンピードを引き起こす伏線になっているのもすごい。
女性は重要な役割を果たすテスが登場するのは、もう旅も終わりかけのシーンで、女性の影は乏しい男性的な映画であることは確かですが、最初にダンソンの恋人が、連れて行ってと懇願するのにダンソンが女性には無理だと断って幌馬車隊に残してきたために、すぐあとでコマンチに殺されてしまう、という悲劇を置くことで、その後のダンソンの頑なな、困難に耐える14年間と、そのあと皆を率いていくときの頑なで強引なリーダーシップのあり方が感覚的につながって理解されるようになっているのはさすがです。
また、最初の女性の面影と、後で出会うテスとがダンソンにとっては重なってくるような仕掛けになっていて、それがダンソンの軟化につながるわけです。男性的な映画ではあるけれど、女性はポイントで重要な作品の構造上の役割を果たしているといえる、周到なシナリオです。
チャーリーが最後に、ひたすらマシューを目指して突き進んでいくダンソンを呼び止めて、ダンソンがいきなり銃を抜いて、チャーリーも銃を抜いて、ダンソンも負傷しますが、チャーリーも倒れるという、ちょっとあっけない退場の仕方になるので、かっこいい早撃ちチャーリーには、あまりにもマシューに寄り添うのでなく、いくぶん善人すぎるマシューに対するリアリストの立場で、もう少し緊張感のある場面をつくって、あとひとつふたついい場面を与えたかったな、と言う気はしますが、彼はずっとマシューのよき友で、彼とともにダンソンを支え、最後にマシューについてアビリーンに入ります。
ちなみに、このチャーリーを演じたアイアランドは、テス・ミレーを演じたジョアン・ドルーの現実の世界での2番目の夫だった人だそうで、なかなか魅力的な俳優さんだと思います。
「アタラント号」(ジャン・ヴィゴ監督)1934
サイレントからトーキーへと移り変わる時代に才能を見せながら29歳の若さで夭折して、その作品が後に著名な映画監督になった人たちにも影響を与えたと言われるフランスのこの映画監督の名は聴いていたけれど、観たのは今回が初めて。
フランスの地方の町とル・アーヴルを往復する小さな船がタイトルのアタラント号で、その船長であるキマジメそうな田舎の青年ジャンといま結婚式を挙げたばかりの田舎娘ジュリエットが主人公です。映画は、式を済ませて教会から出てきたばかりの2人が、田舎町の街路を先頭になって歩き、その後ろを式に参加した町の人たちがぞろぞろついていく光景から始まり、この2人はどういう若者なんだろう、どこへ行くんだろう、と思っていると、行き着く先はこれから二人が暮らす河辺に繋留する船。この船にはベテランの老水夫ジュールとまだ少年のルイもいます。
最初に花嫁が花束を水に落とすシーンや、ジュールの住まう船室内部のとりちらかした、或る意味で楽しい光景など、いろいろ細部に楽しめるシーンがありますが、ハイライトはパリという大都会など見たこともなかったジュリエットが、ジャンの導きでこの大都会の魅力に触れて変化することで、二人の関係にも揺らぎが生じる展開にあります。
ジャンと二人でパリのカフェみたいなところへ入って、そこで歌ったり踊ったり愉しむ人々の光景にジュリエットは魅せられます。
また彼女に関心を示して近づく、いかにもパリでしかお目にかかれそうもない、トリックスターみたいな、悪気はないのだけれど、或る意味で既存の硬い秩序をはみ出し、境界線を出たり入ったりしていたずらをしかけ、陽気な混乱に巻き込み、人々を笑わせ、ある人々を怒らせ、繭をしかめさせもする道化役のような若い男の雰囲気に惹かれます。
つまり異性として彼に惹かれるというより、それまでの人生で彼女が見たこともないような、彼のもつ都会の雰囲気に触れて魅せられるといった趣で、彼の誘いのままにフロアで踊り、ジャンは当然不機嫌になって、彼とジュリエットの間に割って入って彼女をひきはがします。
トリックスターの男は、別れ際にジュリエットに、今夜も楽しい催しがあるからおいでよ、と誘います。大人しく船に帰ってベッドにつくジュリエットですが、夜になるとそっと船を抜け出し、トリックスターの男の導きで夜のパリを楽しみ、つい夜明けまで過ごしてしまいます。
翌朝、ジュリエットのベッドがからっぽであることに気づいたジュールは腹を立てて、必ず帰ってくるから彼女を待とうというジュールの諫めに耳を貸さず、少し意固地になったジャンは、ジュリエットを街に置き去りにして出航してしまいます。街から船着き場へ戻ってきたジュリエットは、船が出航してしまってそこにないのを知って茫然とします。仕方なく街へ戻り、列車でコルベイユ(これが彼らの故郷の田舎町だったのでしょう)へ戻ろうと切符売り場に立っていた彼女をひったくりが襲い、バッグをさらわれてしまいます。途方にくれ、仕事をみつけなくては、と街をさまようジュリエット。
他方、彼女を置き去りにしたものの、心の晴れないジャンは船中で一人寝の悶々とした夜を過ごします。鬱々とした気分を拭い去ろうとするかのようにジャンは川へ飛込み、水中深く泳ぐ中でジュリエットの面影が生々しく眼前に浮かんできます。彼はそれを追い求め、自分がジュリエットに裏切られたような思いで腹を立てて彼女を置き去りにしたものの、なお彼女を深く愛していることを身に染みて感じたのでしょう。
結局ジャンは再びジュリエットを見出し、船に帰ってきた彼女と抱き合い、故郷への船の旅に戻ります。
ジャンとジュリエットはもちろん互いに愛し合っていたし、その気持ちが変わるわけではありません。でも生まれて初めて接するパリの雰囲気に魅せられ、その象徴ともいえるトリックスター的な男性に導かれて夜のパリにふらふらと夢遊病者のように出ていくジュリエットの気持ちが、とてもよくわかります。彼がジャンに追い返されてから、ジュリエットが一人になったときに、もらったスカーフに触りながら、ほんとうに嬉しそうな表情をする、そんな細部にも彼女のそういう気持ちがとてもうまく表現されています。
他方、そんなジュリエットの悪気のないパリという都会の魅力に惹かれる気持ちも、それゆえトリックスター的な男性の強引なアプローチにもつい嬉しそうに誘われていくジュリエットの気持ちもわからなくはないけれど、無性に腹立たしいジャンの気持ちも、男性のはしくれとして、ものすごくよく分かります。ジャンもジュリエットほどではないにせよ、やっぱり田舎育ちの生真面目な堅物青年で、大都会の若者の生活や楽しみなど知る由もなく、例のトリックスターのような女性の心をくすぐり、挑発し、誘惑し、楽しませるようなスマートな社交性など全然持ち合わせていません。そういう自分が持ち合わせていない、むしろ自分の資質とは正反対のそんなトリックスター君の資質には反感と嫉妬を覚えるでしょうし、ましてやそれに自分の愛する新妻が強く惹かれているのを感じれば、腹立たしくてならないでしょう。だから彼のトリックスター君への厳しい拒絶も、無理やりジュリエットを引っ張って戻るようなところも、またそれでも夜中に街へもどっていったジュリエットに腹を立てて置き去りにして出航してしまうことも、そしてそれでも彼女への想いは断ち切れるわけもなく、悶々として水に飛び込んで彼女の幻影を見ることも、いちいちすべてが深く納得できます。
この映画はそんな一対の愛し合う男女に訪れるささやかな気持ちの行き違いを生じる経緯、そうした成り行きに伴うそれぞれの気持ちの動き、そして一時的に疎隔するときのそれぞれの気持ちの揺れを微細に描き、誰も故意の悪者はいないし悪意のあるものもいないので、それぞれの気持ちがすごく共感をもって見ることができるし、ジュリエットのパリとの出会い、トリックスターの男との出会いも、それはそれでものすごくよくわかる女心で、素敵な出会いだし、あのフロアでダンスをしたり、トリックスターが本領を発揮する出会いの場面はとても楽しい、そんな温かい優しさにあふれた作品です。
私には映画づくりの技術的な側面はまるで分らないけれど、おそらくジャンが河に飛び込んでジュリエットの幻影を見るシーン(水中撮影?)とか、2人が離れ離れになっているときに、ジャンだけでなく、ジュリエットも、それぞれにベッドで悶々とするような一人寝の姿が交互に素早く映し出されるようなシーンには、サイレントからトーキーへの変わり目くらいの時代の映画としては非常に新しい映像が創り出されているのだろうな、と思いながら見ていました。いま見ればそういう部分は技術的にはるかに高度に洗練された手法が可能になっているから、どうということもなく見てしまい、むしろ二人の気持ちをそれぞれに心の襞のひとつひとつまで描くような微細な描写や、周囲の人々との出会いをとらえる温かく優しく陽気な眼差しのほうに惹かれるのですが。
「操行ゼロ」(ジャン・ヴィゴ監督) 1933
こちらの方をあとから見たのですが、「アタラント号」が良かったので、同じ監督のを中古品のDVDが安く出ていたので取り寄せて見ました。
これは「アタラント号」とはずいぶんタッチの違う作品でした。フランスの中学校でしょうか、厳格な寮生活の規律や学校の規則規律に対して抵抗し、やがて反乱にいたる、昔よく言われたアンファン・テリブル、恐るべき子供たちを描いた作品で、映画づくりのいわば「文体」のほうも、「アタラント号」のように静謐で優しいタッチのものから、冒頭の音楽からはじまって、いささか騒々しく、粗っぽいタッチになっています。
生徒たちが屋根の上に上がって、下で学校の記念式典か何かをやっている偉いさんたちを見下ろす位置から、何かものを投げたりして攻撃しているシーンなど見ると、すぐ連想したのは、封切のときにロンドンで見た「if」の同じように主人公の学生たちが屋根に上がって、下で説得に出てきた神父を撃ち抜くシーンでした。もちろん「if」のほうはイギリスのパブリックスクールの話で、もう少し子供たちの年齢が上で、ハイティーンくらいだったような気がしますし、「操行ゼロ」よりずっとシリアスな視線で作られていて、時が時だけにもちろん日本の大学闘争やパリの五月革命と言われたような学生の反乱とじかに結び付くような印象がありましたが・・・
たぶんジャン・ヴィゴの描くこの子供たちの反乱の光景は、日本の学級崩壊の光景に一番よく似ているかもしれません。もちろん学級崩壊ではみ出ていく子供たちはこの映画の子供たちのように自分たちのエネルギーで敵である大人たちへの反乱を起こすことはできないでしょうが、みかけは学級崩壊でいままさに崩れていく教室の光景に酷似しているような気がします。
このヴィゴの作品は「大人は分かってくれない」や「if」のような作品にも影響を与えたのかもしれませんが、そういう評論家的な映画史への関心はないので、どれもこの映画はこの映画として見るだけで、かりに自分が感心したあるシーンが、誰かに、それは誰某がとっくにやった方法の模倣だよ、とかそれは誰某監督へのオマージュだよ、なんてとくとくと指摘したとしても、私にはどうでもいい無用の蘊蓄にすぎず、そのシーンが今見ている作品にとって意味のある生きたシーンだったら、どこの誰に源流があろうと本当はどうでもいいことです。
逆に、その源流となった作品が、その時代にどんなに新鮮に思われ、後の誰某に影響を与えたとしても、今その作品をみて面白いとか心動かされるとか、そのシーンが生きていると感じられなければ、そんなものは現在の観客であるわたし(たち)にとって意味のないものだと思います。歴史的な発明とそれを生み出す努力に敬意を払うことは大切だとは思いますが、現在生み出される作品のうちにそういう過去ばかり探したがるのは蘊蓄の好きなインテリの悪い癖で、目の前の作品に過去の作品への言及がありオマージュがあること自体がその作品の価値をあげることはいささかもないのに、そういうものを指摘しては喜んで持ち上げているような映画評論家というのは、結局そういう蘊蓄ある自分を見てくれ、見てくれ、と言っているだけのように思えて鼻もちがならないものです。
閑話休題(笑)。この「操行ゼロ」は「if」のようなシリアスでクールなタッチではなく、もっとずっと粗っぽく、と言って悪ければ楽しそうに、子供たちのいたずら、乱痴気騒ぎを楽しみ、一緒になって煽り、盛り立てる、温かくてユーモラスなタッチで子供たちの反乱が描かれています。
それを映像として一番よくあらわしているように感じたのは、寮の共同寝室での数度にわたる子供たちの乱痴気騒ぎで、とくにあとのほうの枕投げをしあって、枕が裂けて飛び出したらしい羽毛が部屋中に舞い上がって浮遊する中を、子供たちが髑髏の旗を押し立てて行進してくる場面です。ここは乱痴気騒ぎが極まって結果的にほとんど美しいと言っていい光景を創り出し、感動的でさえあります。
いまネットで調べてみると、あの学校はコレージュ、公立中等教育機関なのだそうです。冒頭は、夏休みが終わって帰省先から寮へ戻ってくる生徒が列車内で悪ふざけをしているシーンから始まっています。「アタラント」号のトリックスター君もやっていたような手品をやったりして友達と次々色んな小道具を繰り出して芸を競うようなことをやってみせたり、禁煙車両なのに煙草をふかして煙で充満させたり。同じ車両で眠っていて煙で死んだんじゃないかと子供たちがささやいていた男が新任の教員で、あとでわかるのは彼だけが生徒たちのいたずらに寛容でどちらかといえば味方らしい。それ以外の大人たち、寮長(舎監)、校長、教師(太ったちょっと男色趣味らしい男など)はみな規律の鬼で生徒たちの敵。生徒らは古臭い校舎、二列にずらっと並べられた一望監視の監獄空間のような共同寝室に閉じ込められ、与えられる食事は「豆ばかり」とか。窮屈な規則・規律を強いられていて、少しでも違反すると「操行ゼロ!」を言い渡されます。
タイトルのこの「操行ゼロ」は、学校の規律・規範を破った時に科せられる、日曜日の外出禁止という罰で、生徒たちに科せられる罰としては重いものだそうです。
とても温かくて、ユーモラスな作品だと思いますが、これがフランス政府から上映禁止の憂き目に遭ったというのですから、どこの国でも共同規範に抗う行為を賛美するかのようにみえる表現には過敏なんだなぁと思います。
さきほどから粗っぽいタッチとか、乱痴気騒ぎと書きましたが、この映画はいわゆるリアリズムの映画ではありません。子供たちの乱痴気騒ぎにもラストの反乱の描き方にも、映像の様式性というのが感じられます。先に挙げた羽毛が寝室中に広がってとびかうシーンも、あそこまではいかんだろうとか、子供たちの行進がスローモーションでとらえられていたり、共同寝室で子供らがいったん寝たふりをしてまた起き出し、寮長をベッドに縛り付けてベッドごと立ててしまうようなところも、リアリズムで行けば、こんなやり方をすれば寮長がすぐ起きて来てとがめるだろう、とか、拘束した寮長をこんなふうにベッドごと立ててしまうなんてありえないじゃん、とかいっぱい半畳を入れたくなるようなシーンがあります。それはこの映画の抽象度が要求する様式的なありようなのだと思います。
ラストも屋根の上でみな後ろ向きの姿で並んだ子供たち4人が手を振るシーンで終わっています。
教師たちのキャラクター設定やその動きなどにも或る意味の様式化が顕著です。とくに生徒に寛容な新任男性教師のほとんどパントマイム的な演技など。
もうひとつオッと意表を突かれたのは、何だったか描かれたイラストみたいなのが一瞬アニメで動くシーンもありました。スマホやパッドの画面をとらえているわけじゃないので(笑)リアリズムならありえない、ちょっとしたいたずらです。多分映画の技術に詳しい映画好きが見れば、他にもいろいろと当時としては新しい実験的な試みがあるのかもしれません。
そういうのは映画史の中では次代にひきつがれていったのかもしれませんが、いま見ればたぶんこれがそうだ、といろいろ指摘されてもふーん、と思うだけで、そのことに作品として見た時に心を動かされる要素かと言えば、ほとんどはむしろかえってそういう部分が古臭いものにみえるような気がします。
心に残るのはむしろ子供たちの乱痴気騒ぎ、あの暴発するエネルギーの生み出す羽毛の散乱する空間であったり、てんでに沸き立ちながら旗を押し立てて行進する子供たちの姿、そこに感じられるある種の強度ではないでしょうか。
「ぼくの小さな恋人たち」(ジャン・ユスターシュ監督) 1974
29歳でなくなった夭折の監督ジャン・ヴィゴほどではないけれど、43歳のいまではずいぶん若いとみなされる年齢で自殺してしまい、ゴダールなどがその才能を賞賛していたというジャン・ユスターシュ監督の作品のひとつです。
主人公は13歳のダニエルで、フランスのべサックという小さな村で優しい祖母と平穏な毎日を過ごしています。仲の良い友達と遊び、自転車で出かけたり、サーカスに行ったり、女の子にハラハラドキドキ、アプローチしてみたり、ごく普通の思春期初期の少年の幸せそうな日々です。ただ両親はなくなったのかな、とか思っていると、或る日突然母親がダニエルの父親ではない別のスペイン人(だったと思う)の男ホゼ・ラモスと一緒に来ていて、その男と一緒に何か買いにやらされるとき一言二言彼と話して、彼が3人兄弟で弟の一人が自転車屋をして自転車を売ったり修理したりする仕事をしていること、自分は農夫で畑を耕している、ということを知ります。
そして、しばらくしてダニエルは村から遠く離れたナルボンヌという街の母親と先の男が住む狭いアパートに引き取られていきます。着いた当日、夜になって仕事から帰宅したホぜと握手したとたんに、ダニエルは自分がこの家では歓迎されていないことを悟ります。
映画を見に行って知り合った同年配の男と、また学校で一緒になればいい友達になれそうだな、などと言われ、高校へ行くのを楽しみにしていたダニエルに、母親は高校は金がかかる、学費はタダでもその他の色んな経費がかかって楽じゃないんだから、勉強なんかしてもしょうがないし、ホゼの弟が経営する自転車(オートバイ)屋を手伝うように言い渡します。
自転車屋では能力を発揮して仕事は雇われた日からきちんとつとまるダニエルでしたが、一人前の仕事をしても母親は給料をもらってはいけないといい、そういう約束になっているのか、給料は支払われず、ときおりもらうチップが彼のものになるだけです。映画を観に行ったり、ゲーム場みたいなところで遊んだり、カフェで街路を行く女の子を眺めたり、仕事のないときはそんな日々を過ごす中で、あらたに男友達もでき、その間で刺激しあって女性に対する関心も次第に強く、思春期らしい現実味を帯びてきます。
あるとき、そんな友人たちに誘われて、彼も自転車をつらねてナンパ目的で郊外の村に出かけます。そしてちょうど同じ年頃の女の子2人、実は姉妹がくるのをみかけ、このナンパツアーを企図した友人とダニエルはほかの友人たちが飲み物を飲んでいる間にそっと抜け出して姉妹のあとを追い、友人が姉を、彼は妹をナンパします。
ダニエルは緊張して何を話して良いかわからず、女の子から「何か話してよ」、と言われても「話すことがない」、と言うありさまで、観ていてはがゆくなるほど(笑)。でもなんとか友人とその子の姉が草叢に横たわってうまくやっているのを見て、同じように女の子に手をひかれて草叢に横たわり、彼女の着衣に手をかけるけれど、彼女は「つきあうのが先で、ちゃんと結婚してから」、と妙に教科書的なことを言って、それ以上は触れさせてくれず、数日後の祭りの夜かなにかに両親と行くからまたそこへ来て、と言われて、ダニエルはその日は祖母のもとへ行くことになっているんだがな、と思いながら、わかった、と返事して別れます。
こうして、性への好奇心が芽生えながら、まだそういう自分自身に戸惑いながら、友人たちとのやりとりの中で刺激も受け、挑発もされながら、おずおずと女性にアプローチしてぎこちない対応をしているまさに思春期初期の少年の姿を、実にこまやかに素直にとらえていて、瑞々しい思春期ドラマになっています。
少年の父は亡くなったのか離婚なのか、いったいこの母親はどんなひどいやつなんだ、なんで優しい裕福層でもある祖母の家においといてやらないで、こんな狭い自分が男と住むアパートに息子をひきとって、しかも学校へも行かせずに男の弟の店でタダ働きなどさせるんだ?と疑問だらけですが、少年に寄り添い、少年の目を通して眺める人々とその光景の前で、そうした疑問、そうした過去、そうした世界は後景に退いて、この作品の中では大きな意味を持たなくなって、ただ少年の日々を枠組として拘束し、少年のはばたく夢を折るような所与の条件として置かれるだけで、少年の無垢の心が向かい、求め、また斥けられもする、平穏な日々のうちに進行するものではあるけれど、少年にとっては、なにもかもが初めて出会う世界との触れあいであるような瑞々しい思春期のドラマにとっては本質的なことではないのです。
この少年の心の動き、彼の心が向かい、触れあい、経験するすべてが初めての出会いであるような出来事の継起を見つめ、その中での少年の心の動きを見つめるこの映画の作り手のまなざしはとてもやさしく、温かいもので、少年が置かれた理不尽で苛酷な状況に対しても、同情や苛立ちの思い入れたっぷりの視線ではなく、淡々としたクールな視線でこの思春期のドラマの後景を描いているだけといった印象です。
「ざくろの色」(セルゲイ・パラジャーノフ監督)1969
先日「火の馬」を見て、わかりやすくもあり、とても良かったので、同じ監督の「映像詩」と賞賛される「ざくろの色」もぜひ見ておきたいと思って、今回DVDを取り寄せて見たのですが、正直のところまだ「見た」とは言えないな、と自分で感じています。
たしかに色彩はとても美しく、これがグルジア(ジョージア)的な色彩であり文様であり装飾なのか、とそれ自体の美しさは感じ、また左右対称にいくらかこだわりのありそうな様式的でスタティックな映像美、さらにほとんどセリフがなく、ストーリー性も一見したのではまったく理解不能な、象徴的な映像のモンタージュ、そして登場人物たちに向けられるカメラがちょっと普通の劇映画を撮るような位置や動かし方とは基本的に異なるようで、真正面からカメラを向いていたり、真横の横顔だったりがやたら多いとか、もうふつうのこれまで見て来たような映画の観方ではまるで歯が立たない感じですから、全編見終わってもまだ見た、という感じが持てないのです。
自分なりに普通の観客として何か充実感があればそれでいいのですが、ある強い魅力のようなものがあるのに、その正体がまったく分からずに入口で門だけ見て引き返してしまったような感じと言えばいいでしょうか。
それで、これは何か手掛かりになるような情報が要るのかな、と思ってネットで検索していたら、ある人が「『ざくろの色』(サヤト・ノヴァ)のストーリー」という文章を書いているのを見つけ、そこに次のように第1章から第八章まで解き明かしてあるので、びっくりしてしまいました。この作品にもこんなストーリーがあったんだ!と(笑)。でもそれをこれだけきちんと解き明かして見せる人ってすごいなぁ、と思ってこれを書いた方にも感心しました。
それによれば、
第一章 詩人の幼年時代
第二章 詩人の青年時代
第三章 王の館
第四章 修道院
第五章 詩人の夢
第六章 詩人の老年時代
第七章 死の天使との出会い
第八章 詩人の死
・・・だそうで、それぞれについて簡潔な説明もありました。
たぶん私などは10回この映画を観ても、これは分からなかったでしょう。この作品が詩人サヤト・ノヴァの(「伝記」ではなくて)内面の歴史というのか、なにかそういうものを描いたものだというのは映画の冒頭に断り書きが出てくるので、そういうものなんだな、というのは分かっていましたが、それにしても何度見てもこういう分節のされ方と、それぞれの内容がこういうことの表象なんだ、ということは私には知り得なかったでしょう。
想像するに、映像の一コマ一コマに登場する文様や何かに、この民族固有のイコンみたいなものが実は描かれていて、そういうのを見れば知る人ぞ知るで常識としてパッと何を描いているかわかるんだとか、登場人物の衣装や装飾品、その動作、あるいは登場する様々な事物、道具類、空間等々にもこの民族の暮らしにあって当たり前のものが溢れていて、見る人が見れば、あれはこういうときに身につける衣装や装飾品だ、あぁいう動作はこういうときにするものだ、あの道具はこういうときこうやって用いるものだ、あの空間のしつらえはこういう場所に固有のものだ、というように、一目でわかるものだ、というようなものかもしれないな、と。
それ自体はだから極めてローカルなものかもしれないけれども、それさえわかれば、そこから立ち上がってくる物語にはとてつもない奥行きがあったり、そのローカルなものを語る語り方(映像の取り方)自体が非常に新鮮なものであったり、というところに作品としての価値が構成されているんだ、ということなんだろうか、と思ってみます。
もちろんその語り口の中に、あの独特の色彩やスタティックではあるけれど特異なカメラ位置から捉えられた人物のアップなんかも含まれるので、そういうものをまだよくよく見ないと見えないのかもしれないな、とは思いますが、単に色彩がどう、視角がどう、というテクニカルなことではなくて、それが作り手の表現意志の核とどうつながっているかが、少しでも垣間見えないと、観た、と言う気になれないのは仕方がありません。
従って、この映画は私にとっては当分のあいだまだ未見ということで、ここに書き留めておく次第です。ネット上の先の解読者の解説を手掛かりにあと何度か丁寧に見る機会がもてればと思っています。つまらない作品なら、こんなわけのわからないもの、自分には関係ないだけだ、とうっちゃっておくのですが、わけわからないけど、強烈な磁力は感じるので(笑)。
で、ネット上で、いいのかどうかわからないけれど、同じ監督の「スラム砦の伝説」(1984)という映画が全編公開されていたので、これも見ました。
残念ながら原語でしゃべるだけで字幕はなく、度々本編に挿入される原画の字幕もグルジア語なのかロシア語なのか知らないけれど翻訳なしの、もとの映像だけなので、もちろんストーリーはネット上で誰彼があらすじを説明している程度のことしかわかりません。
どうやら堅固な砦に、どうしても破られてしまう弱い部分が一カ所あって、何度つくりかえてもやっぱりだめだった。それを美しい若者が人柱になって、その場所に生きたまま埋められる(みずから埋まる)ことで、克服される、という人柱伝説を映画化したものなんだそうで、それを知った上で見れば大まかに、おぼろげにその太い筋は分かります。
なによりもこの映画では硬い石の砦とその背景になっている乾燥した荒地の風景がとても美しくとらえられているし、この砦の石窟みたいな穴ぐらに住まう人々の暮らしの光景や儀式的な風景も、絵画的な美しさを持っています。儀式的な場での正装なのか、朱の色が映える美しい女性の衣装とか、食卓に載っていたりそこらをうろちょろしている孔雀とか・・・
むしろを敷いただけのような粗末なしつらえだけれど、そこで民族衣装的な(そこではふつうの日常着かもしれないけど)衣装を着て踊るシーンとか、二人の男が、真ん中の男にザクロの実を放り投げさせたのを交互に刀でまっぷたつにして、中の乾燥したザクロの種がパラパラとこぼれるシーンとか、全体が分からなくても、個々にはとても楽しい面白い場面があります。素敵な馬が登場するほか、荷の運搬に使われるロバや二こぶラクダやラマ?も羊もふつうに登場します。
この作品でも登場人物がまっすぐにカメラに正対してセリフを言うような場面がけっこうあります。また真横を向いた顔をアップで撮ったりします。面白かったのはその横顔の女が頭巾をかぶって、まっすぐにカメラの方を向いて正対する同じ動作を3度繰り返す場面があります。あれは何だったんでしょうね。
それからたくさんの鷗が登場する場面がありますが、その水際でのシーンだったと思いますが、ちょっとミニアチュア的な船が宙に浮いている場面もありました。ワイヤーで吊ってあって、あれはワイヤーが見えていたけれど、わざと見せていたのか、あれはほんとは無いことになっているのか(笑)。吊っている上部を見せないから、見ちゃいけなかったのかも(笑)
いろいろ疑問を思い浮かべながらも、おかしなもので、イラチのはずの私が、映像の美しさに惹かれて最後まで見てしまいました。いつかまたこの人の作品は見てみたいな、と思いましたが、たぶん手ぶらで何度見てもよくわからんなぁという状態は変わらなさそうな気がしました。
「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博監督) 1934
戦前のモノクロ映画ですが、時代劇では珍しいミュージカルで、「日本初のオペレッタ」と言われているそうです。
これを見ると、時代劇でもちゃんと面白いミュージカルができるんだなぁ、と思います。
宮本武蔵に机竜之助、むっつり右門、忠太郎に国定忠治、それに十三人の侍といった硬派の役柄だけ見ていると、あの片岡千恵蔵が歌うなんてと思いますが、赤西蠣太のようにもともと軽み、滑稽味のある役柄のできる演技派の俳優さんで、この作品でも温かくて軽みのある強くてやさしい照れ屋の武士を演じてすごくいい味を出してくれています。
もう一人、私たちがよく知った役者さん、のちに七人の侍のリーダー役をつとめる志村喬が千恵蔵演じる浪人といい仲の隣の娘お春のの父親役で出ています。まだ実際にはかなり若いときだと思いますが、とてもうまい。彼の役名が志村狂斎(笑)。いや、彼だけではなくて、千恵蔵を愛して張り合う三人の娘がみな、役名お春が市川春代、おとみが服部富子、藤尾が清水藤子と、芸名から取った名で笑っちゃいます。
ビデオの映像が古くてちょっと見にくいところはありましたが、内容的には物珍しさもあったし、なにせ底抜け明るいので、気楽に見て楽しめて気が晴れるような感じでした。
「赤い河」(ハワード・ホークス監督) 1948
中学から高校の始めにかけて大の西部劇ファンで、ワイアット・アープに例の銃身の長いバントライン・スペシャルを贈った作家ネッド・バントラインのアープの伝記の原書を取り寄せて、まだろくに英文も読めないのに辞書をひきひき読んだり、モデルガンで早撃ちの練習もした(笑)くらいなので、 この西部劇の名作は何度も見ていますが、先日、リオ・ブラボーを本当に何十年ぶりかで見たら、これもまた見たくなってビデオ棚の隅っこで下積みになっていたのを取り出してきて観ました。
いま見ても本当に面白くできた西部劇だと思います。インディアンのような先住民族、少数民族への差別意識を排して白人のやってきたことを歴史的に再検証して、これはいかん、というふうになってから、そのこと自体は間違ってはいなかったと思いますが、娯楽映画としての西部劇は正直のところあまり面白くなくなりました。もちろんそれ以後もそういう観点を取り込んだうえで深みを増したすぐれた西部劇はつくられたけれど、それはもはや「西部劇」というジャンル映画ではなくて、ただ時代をアメリカのフロンティア開拓時代にとっただけで、単にすぐれた映画というべきものになっていったんだろうと思います。そして、純粋娯楽的な要素だけでそれを継承したのは勧善懲悪でバンバン殺しちゃうマカロニウェスタンだったのかもしれません。
「赤い河」ではインディアンのコマンチ族はジョン・ウェイン演じる主人公ダンソンの恋人が残った幌馬車隊を襲撃し、牧場づくりを企図してウォルター・ブレナンと2人で幌馬車隊と別れていくダンソンらをも襲う完全な悪者というか恐るべき敵として登場します。でもインディアンとの戦いがテーマではなくて、ダンソンが雌雄一対の牛からはじめて、豊かな牧草地で牛を育て、14年後には並ぶもののないほどの大牧場にするのですが、そこでは牛が売れないので鉄道駅があり、高値で売れるミズーリまで、1万頭近い牛を100日ほどかけて運んでいく大事業の困難を描いた西部劇です。
ウェイン演じるダンソンの相方になるのが、ダンソンの恋人もいて全滅した幌馬車隊にいて、たまたま九死に一生を得た少年マシュー(マット)で、青年になった彼をモンゴメリー・クリフトが演じています。マシューは牛の扱いから拳銃まですべてをダンソンに教えられ、逞しい好青年になっていますが、頑固一徹なダイソンとある部分で張り合うところがあります。
彼らに出発前に加わる隣の牧場主に雇われていた拳銃の名手チャーリー(ジョン・アイアランド)も加わります。彼もすごく魅力的な役者です。
彼らを幾つもの困難が待ち構えていて、そのたびにダンソンの強力というか強引なリーダーシップとをそれを支えるマシューらカウボーイたちの協力での乗り越えていくのですが、あまりに大きな困難と不安、そしてダンソンの強引さが内部のカウボーイたちの不満を招き、亀裂がはいって、反乱を起こす者も出ますが、マシューやチャーリーがこのときはダンソンを支えて困難を克服します。しかし、あるとき規律違反で逃亡したカウボーイをチャーリーに追わせて連れ戻された2人をダンソンが縛り首にすると言ったところで、マシューがダンソンの命令に逆らい、他の者たちもみなマシューについて、ダンソンは置き去りにされて、行く先をミズーリから列車が来ているらしいという情報のあったアビリーンへと変えて行くことになります。置き去りにされるダンソンは、マシューに、かならずいつかお前を殺す、と言います。
ダンソンの影におびえながら、それからはマシューをリーダーとして進みます。その途中でヨーロッパからの移民とかの幌馬車隊の一行がインディアンに襲撃されているのに出会い、援けてインディアンを追っ払い、休憩します。そして、そこにいたテス・ミレーという女性がマシューといい仲になり、テスはマシューからダンソンのことを聴きます。
マシューらが去った後にダンソンが近くの街で集めた手勢をひきつれ、マシューらを追ってその幌馬車隊のところへやってきます。あらかじめマシューから話をきいていたテスは、ダンソンに直接話しかけて、テントでいろいろと話をし、ダンソンのマシューへの愛情についても彼の人柄についても理解したテスは、ダンソンと一緒にアビリーンへ連れて行ってくれ、と頼んでいくことになります。
こうして無事にアビリーンにたどり着いたマシューらは高い値で牛を売ることにも成功しましたが、翌朝、ダンソンと対決することになります。
最後は、もともと深い父子的な愛情で結ばれていたダンソンとマシューなので、あわや銃撃戦か、いや殴り合いになってどこまでやるのか、というあたりで、テスの介在で、頑固なダンソンがマシューを頼もしい対等な牧場主として認めるところで終わります。
この映画では、大西部の広がりを背景に、1万頭近い牛を運ぶダイナミックなスペクタクル・シーンで見せる場面と、インディアンの襲撃や、仲間内あるいはマシューとダンソンといった人間くさい対立、確執による、銃撃戦を含むあわやという緊張感に満ちた場面と、2種類のエンターテインメントの要素がうまく交互に全編に配置されていて、飽きさせません。
スペクタクル・シーンで言えば、例えばこの1万頭近い(最初は9千頭くらいだったとか言っている)牛の大群が暴走を起こす場面。伏線として大きな図体をしているくせに甘いものに目がなくて、指をなめて幌馬車の荷台に積んである砂糖をなめる悪い癖のあるカウボーイが、何度もなめにきてはウォルター・ブレナンのグルート爺さんに叱られる場面がありますが、これがコヨーテが鳴いて牛たちが不安がって落ち着かない夜にまた馬車の荷台に忍び寄って砂糖をなめようとして、そこにあった金属製の食器類をガラガッチャーンと大きな音を立てて落としてしまい、それがきっかけになって牛が大暴走を起こします。「スタンピード!」と叫ぶダンソンの声。一度これがおこれば10キロでも走り続けるのだそうです。
このときは谷間に追い込みますが、それでも気のいいカウボーイが一人犠牲になり、牛も300-400頭犠牲になります。
もう一つ、同様に牛の大群を使ったスペクタクル・シーンは、1万頭近い牛の川渡りです。こういうシーンはすごく見ごたえがあります。
さらに、アビリーンに鉄道が来ているかどうか確証がなかったのでみな心配しながら向かっていたわけですが、鉄道に遭遇するシーンで、機関車が煙を吐いて近づき、その前の線路を牛の大群が渡っていくシーンです。汽笛を鳴らしてくれ、という要請に応えて、機関車夫が盛んに汽笛を鳴らして一行を歓迎します。アビリーンの街からは牛を待ちに待っていた人々がみな丘を上がって歓迎してやってくる、その街へ牛の大群が降りていく、これも感動的なシーンです。
人間くさい関係がもたらす緊張の場面は、最初のインディアンの襲撃を撃退する場面、それから牧場を作る場所についてからは、最初にまずダンソンが自分の土地と定めたところへ、別の所有者の手下が来て撃ちあう場面、それから14年後、成人したマシューと隣の牧場主に雇われたチャーリーが出会い、互いの拳銃の腕を試し合う場面、それからダンソンの強引さと行進の大変さに反乱を起こす3人との銃撃戦、さらに逃亡した別の3人のうちチャーリーが生きてとらえてきた2人をダンソンが縛り首にするというのでマシューが反対してあわや銃を抜き合うか、という場面・・・見せどころ満載のエンターテインメントです。
こういう見どころに対して、細部のほんのちょっとした場面に、すごく味わい深いところがあります。たとえば、反乱者3人とダンソン、マシュー、チャーリーの銃撃戦で足を負傷したダンソンの傷の手当てをグルートがするのですが、ウィスキーを傷口にぶっかけて消毒する。するとダンソンが痛さに苦痛の表情をすると、ウォルター・ブレナン演じるグルートは、もうそれが嬉しくてたまらんわい、という顔をしてみせる(笑)。それに気づいてダンソンがこのやろう、という顔をしてグルートをにらむ、このあたりの呼吸も素敵。
例の砂糖舐め男も憎めないカウボーイで、幾度か繰り返されるグルートとのやりとりが面白いだけでなく、それがスタンピードを引き起こす伏線になっているのもすごい。
女性は重要な役割を果たすテスが登場するのは、もう旅も終わりかけのシーンで、女性の影は乏しい男性的な映画であることは確かですが、最初にダンソンの恋人が、連れて行ってと懇願するのにダンソンが女性には無理だと断って幌馬車隊に残してきたために、すぐあとでコマンチに殺されてしまう、という悲劇を置くことで、その後のダンソンの頑なな、困難に耐える14年間と、そのあと皆を率いていくときの頑なで強引なリーダーシップのあり方が感覚的につながって理解されるようになっているのはさすがです。
また、最初の女性の面影と、後で出会うテスとがダンソンにとっては重なってくるような仕掛けになっていて、それがダンソンの軟化につながるわけです。男性的な映画ではあるけれど、女性はポイントで重要な作品の構造上の役割を果たしているといえる、周到なシナリオです。
チャーリーが最後に、ひたすらマシューを目指して突き進んでいくダンソンを呼び止めて、ダンソンがいきなり銃を抜いて、チャーリーも銃を抜いて、ダンソンも負傷しますが、チャーリーも倒れるという、ちょっとあっけない退場の仕方になるので、かっこいい早撃ちチャーリーには、あまりにもマシューに寄り添うのでなく、いくぶん善人すぎるマシューに対するリアリストの立場で、もう少し緊張感のある場面をつくって、あとひとつふたついい場面を与えたかったな、と言う気はしますが、彼はずっとマシューのよき友で、彼とともにダンソンを支え、最後にマシューについてアビリーンに入ります。
ちなみに、このチャーリーを演じたアイアランドは、テス・ミレーを演じたジョアン・ドルーの現実の世界での2番目の夫だった人だそうで、なかなか魅力的な俳優さんだと思います。
「アタラント号」(ジャン・ヴィゴ監督)1934
サイレントからトーキーへと移り変わる時代に才能を見せながら29歳の若さで夭折して、その作品が後に著名な映画監督になった人たちにも影響を与えたと言われるフランスのこの映画監督の名は聴いていたけれど、観たのは今回が初めて。
フランスの地方の町とル・アーヴルを往復する小さな船がタイトルのアタラント号で、その船長であるキマジメそうな田舎の青年ジャンといま結婚式を挙げたばかりの田舎娘ジュリエットが主人公です。映画は、式を済ませて教会から出てきたばかりの2人が、田舎町の街路を先頭になって歩き、その後ろを式に参加した町の人たちがぞろぞろついていく光景から始まり、この2人はどういう若者なんだろう、どこへ行くんだろう、と思っていると、行き着く先はこれから二人が暮らす河辺に繋留する船。この船にはベテランの老水夫ジュールとまだ少年のルイもいます。
最初に花嫁が花束を水に落とすシーンや、ジュールの住まう船室内部のとりちらかした、或る意味で楽しい光景など、いろいろ細部に楽しめるシーンがありますが、ハイライトはパリという大都会など見たこともなかったジュリエットが、ジャンの導きでこの大都会の魅力に触れて変化することで、二人の関係にも揺らぎが生じる展開にあります。
ジャンと二人でパリのカフェみたいなところへ入って、そこで歌ったり踊ったり愉しむ人々の光景にジュリエットは魅せられます。
また彼女に関心を示して近づく、いかにもパリでしかお目にかかれそうもない、トリックスターみたいな、悪気はないのだけれど、或る意味で既存の硬い秩序をはみ出し、境界線を出たり入ったりしていたずらをしかけ、陽気な混乱に巻き込み、人々を笑わせ、ある人々を怒らせ、繭をしかめさせもする道化役のような若い男の雰囲気に惹かれます。
つまり異性として彼に惹かれるというより、それまでの人生で彼女が見たこともないような、彼のもつ都会の雰囲気に触れて魅せられるといった趣で、彼の誘いのままにフロアで踊り、ジャンは当然不機嫌になって、彼とジュリエットの間に割って入って彼女をひきはがします。
トリックスターの男は、別れ際にジュリエットに、今夜も楽しい催しがあるからおいでよ、と誘います。大人しく船に帰ってベッドにつくジュリエットですが、夜になるとそっと船を抜け出し、トリックスターの男の導きで夜のパリを楽しみ、つい夜明けまで過ごしてしまいます。
翌朝、ジュリエットのベッドがからっぽであることに気づいたジュールは腹を立てて、必ず帰ってくるから彼女を待とうというジュールの諫めに耳を貸さず、少し意固地になったジャンは、ジュリエットを街に置き去りにして出航してしまいます。街から船着き場へ戻ってきたジュリエットは、船が出航してしまってそこにないのを知って茫然とします。仕方なく街へ戻り、列車でコルベイユ(これが彼らの故郷の田舎町だったのでしょう)へ戻ろうと切符売り場に立っていた彼女をひったくりが襲い、バッグをさらわれてしまいます。途方にくれ、仕事をみつけなくては、と街をさまようジュリエット。
他方、彼女を置き去りにしたものの、心の晴れないジャンは船中で一人寝の悶々とした夜を過ごします。鬱々とした気分を拭い去ろうとするかのようにジャンは川へ飛込み、水中深く泳ぐ中でジュリエットの面影が生々しく眼前に浮かんできます。彼はそれを追い求め、自分がジュリエットに裏切られたような思いで腹を立てて彼女を置き去りにしたものの、なお彼女を深く愛していることを身に染みて感じたのでしょう。
結局ジャンは再びジュリエットを見出し、船に帰ってきた彼女と抱き合い、故郷への船の旅に戻ります。
ジャンとジュリエットはもちろん互いに愛し合っていたし、その気持ちが変わるわけではありません。でも生まれて初めて接するパリの雰囲気に魅せられ、その象徴ともいえるトリックスター的な男性に導かれて夜のパリにふらふらと夢遊病者のように出ていくジュリエットの気持ちが、とてもよくわかります。彼がジャンに追い返されてから、ジュリエットが一人になったときに、もらったスカーフに触りながら、ほんとうに嬉しそうな表情をする、そんな細部にも彼女のそういう気持ちがとてもうまく表現されています。
他方、そんなジュリエットの悪気のないパリという都会の魅力に惹かれる気持ちも、それゆえトリックスター的な男性の強引なアプローチにもつい嬉しそうに誘われていくジュリエットの気持ちもわからなくはないけれど、無性に腹立たしいジャンの気持ちも、男性のはしくれとして、ものすごくよく分かります。ジャンもジュリエットほどではないにせよ、やっぱり田舎育ちの生真面目な堅物青年で、大都会の若者の生活や楽しみなど知る由もなく、例のトリックスターのような女性の心をくすぐり、挑発し、誘惑し、楽しませるようなスマートな社交性など全然持ち合わせていません。そういう自分が持ち合わせていない、むしろ自分の資質とは正反対のそんなトリックスター君の資質には反感と嫉妬を覚えるでしょうし、ましてやそれに自分の愛する新妻が強く惹かれているのを感じれば、腹立たしくてならないでしょう。だから彼のトリックスター君への厳しい拒絶も、無理やりジュリエットを引っ張って戻るようなところも、またそれでも夜中に街へもどっていったジュリエットに腹を立てて置き去りにして出航してしまうことも、そしてそれでも彼女への想いは断ち切れるわけもなく、悶々として水に飛び込んで彼女の幻影を見ることも、いちいちすべてが深く納得できます。
この映画はそんな一対の愛し合う男女に訪れるささやかな気持ちの行き違いを生じる経緯、そうした成り行きに伴うそれぞれの気持ちの動き、そして一時的に疎隔するときのそれぞれの気持ちの揺れを微細に描き、誰も故意の悪者はいないし悪意のあるものもいないので、それぞれの気持ちがすごく共感をもって見ることができるし、ジュリエットのパリとの出会い、トリックスターの男との出会いも、それはそれでものすごくよくわかる女心で、素敵な出会いだし、あのフロアでダンスをしたり、トリックスターが本領を発揮する出会いの場面はとても楽しい、そんな温かい優しさにあふれた作品です。
私には映画づくりの技術的な側面はまるで分らないけれど、おそらくジャンが河に飛び込んでジュリエットの幻影を見るシーン(水中撮影?)とか、2人が離れ離れになっているときに、ジャンだけでなく、ジュリエットも、それぞれにベッドで悶々とするような一人寝の姿が交互に素早く映し出されるようなシーンには、サイレントからトーキーへの変わり目くらいの時代の映画としては非常に新しい映像が創り出されているのだろうな、と思いながら見ていました。いま見ればそういう部分は技術的にはるかに高度に洗練された手法が可能になっているから、どうということもなく見てしまい、むしろ二人の気持ちをそれぞれに心の襞のひとつひとつまで描くような微細な描写や、周囲の人々との出会いをとらえる温かく優しく陽気な眼差しのほうに惹かれるのですが。
「操行ゼロ」(ジャン・ヴィゴ監督) 1933
こちらの方をあとから見たのですが、「アタラント号」が良かったので、同じ監督のを中古品のDVDが安く出ていたので取り寄せて見ました。
これは「アタラント号」とはずいぶんタッチの違う作品でした。フランスの中学校でしょうか、厳格な寮生活の規律や学校の規則規律に対して抵抗し、やがて反乱にいたる、昔よく言われたアンファン・テリブル、恐るべき子供たちを描いた作品で、映画づくりのいわば「文体」のほうも、「アタラント号」のように静謐で優しいタッチのものから、冒頭の音楽からはじまって、いささか騒々しく、粗っぽいタッチになっています。
生徒たちが屋根の上に上がって、下で学校の記念式典か何かをやっている偉いさんたちを見下ろす位置から、何かものを投げたりして攻撃しているシーンなど見ると、すぐ連想したのは、封切のときにロンドンで見た「if」の同じように主人公の学生たちが屋根に上がって、下で説得に出てきた神父を撃ち抜くシーンでした。もちろん「if」のほうはイギリスのパブリックスクールの話で、もう少し子供たちの年齢が上で、ハイティーンくらいだったような気がしますし、「操行ゼロ」よりずっとシリアスな視線で作られていて、時が時だけにもちろん日本の大学闘争やパリの五月革命と言われたような学生の反乱とじかに結び付くような印象がありましたが・・・
たぶんジャン・ヴィゴの描くこの子供たちの反乱の光景は、日本の学級崩壊の光景に一番よく似ているかもしれません。もちろん学級崩壊ではみ出ていく子供たちはこの映画の子供たちのように自分たちのエネルギーで敵である大人たちへの反乱を起こすことはできないでしょうが、みかけは学級崩壊でいままさに崩れていく教室の光景に酷似しているような気がします。
このヴィゴの作品は「大人は分かってくれない」や「if」のような作品にも影響を与えたのかもしれませんが、そういう評論家的な映画史への関心はないので、どれもこの映画はこの映画として見るだけで、かりに自分が感心したあるシーンが、誰かに、それは誰某がとっくにやった方法の模倣だよ、とかそれは誰某監督へのオマージュだよ、なんてとくとくと指摘したとしても、私にはどうでもいい無用の蘊蓄にすぎず、そのシーンが今見ている作品にとって意味のある生きたシーンだったら、どこの誰に源流があろうと本当はどうでもいいことです。
逆に、その源流となった作品が、その時代にどんなに新鮮に思われ、後の誰某に影響を与えたとしても、今その作品をみて面白いとか心動かされるとか、そのシーンが生きていると感じられなければ、そんなものは現在の観客であるわたし(たち)にとって意味のないものだと思います。歴史的な発明とそれを生み出す努力に敬意を払うことは大切だとは思いますが、現在生み出される作品のうちにそういう過去ばかり探したがるのは蘊蓄の好きなインテリの悪い癖で、目の前の作品に過去の作品への言及がありオマージュがあること自体がその作品の価値をあげることはいささかもないのに、そういうものを指摘しては喜んで持ち上げているような映画評論家というのは、結局そういう蘊蓄ある自分を見てくれ、見てくれ、と言っているだけのように思えて鼻もちがならないものです。
閑話休題(笑)。この「操行ゼロ」は「if」のようなシリアスでクールなタッチではなく、もっとずっと粗っぽく、と言って悪ければ楽しそうに、子供たちのいたずら、乱痴気騒ぎを楽しみ、一緒になって煽り、盛り立てる、温かくてユーモラスなタッチで子供たちの反乱が描かれています。
それを映像として一番よくあらわしているように感じたのは、寮の共同寝室での数度にわたる子供たちの乱痴気騒ぎで、とくにあとのほうの枕投げをしあって、枕が裂けて飛び出したらしい羽毛が部屋中に舞い上がって浮遊する中を、子供たちが髑髏の旗を押し立てて行進してくる場面です。ここは乱痴気騒ぎが極まって結果的にほとんど美しいと言っていい光景を創り出し、感動的でさえあります。
いまネットで調べてみると、あの学校はコレージュ、公立中等教育機関なのだそうです。冒頭は、夏休みが終わって帰省先から寮へ戻ってくる生徒が列車内で悪ふざけをしているシーンから始まっています。「アタラント」号のトリックスター君もやっていたような手品をやったりして友達と次々色んな小道具を繰り出して芸を競うようなことをやってみせたり、禁煙車両なのに煙草をふかして煙で充満させたり。同じ車両で眠っていて煙で死んだんじゃないかと子供たちがささやいていた男が新任の教員で、あとでわかるのは彼だけが生徒たちのいたずらに寛容でどちらかといえば味方らしい。それ以外の大人たち、寮長(舎監)、校長、教師(太ったちょっと男色趣味らしい男など)はみな規律の鬼で生徒たちの敵。生徒らは古臭い校舎、二列にずらっと並べられた一望監視の監獄空間のような共同寝室に閉じ込められ、与えられる食事は「豆ばかり」とか。窮屈な規則・規律を強いられていて、少しでも違反すると「操行ゼロ!」を言い渡されます。
タイトルのこの「操行ゼロ」は、学校の規律・規範を破った時に科せられる、日曜日の外出禁止という罰で、生徒たちに科せられる罰としては重いものだそうです。
とても温かくて、ユーモラスな作品だと思いますが、これがフランス政府から上映禁止の憂き目に遭ったというのですから、どこの国でも共同規範に抗う行為を賛美するかのようにみえる表現には過敏なんだなぁと思います。
さきほどから粗っぽいタッチとか、乱痴気騒ぎと書きましたが、この映画はいわゆるリアリズムの映画ではありません。子供たちの乱痴気騒ぎにもラストの反乱の描き方にも、映像の様式性というのが感じられます。先に挙げた羽毛が寝室中に広がってとびかうシーンも、あそこまではいかんだろうとか、子供たちの行進がスローモーションでとらえられていたり、共同寝室で子供らがいったん寝たふりをしてまた起き出し、寮長をベッドに縛り付けてベッドごと立ててしまうようなところも、リアリズムで行けば、こんなやり方をすれば寮長がすぐ起きて来てとがめるだろう、とか、拘束した寮長をこんなふうにベッドごと立ててしまうなんてありえないじゃん、とかいっぱい半畳を入れたくなるようなシーンがあります。それはこの映画の抽象度が要求する様式的なありようなのだと思います。
ラストも屋根の上でみな後ろ向きの姿で並んだ子供たち4人が手を振るシーンで終わっています。
教師たちのキャラクター設定やその動きなどにも或る意味の様式化が顕著です。とくに生徒に寛容な新任男性教師のほとんどパントマイム的な演技など。
もうひとつオッと意表を突かれたのは、何だったか描かれたイラストみたいなのが一瞬アニメで動くシーンもありました。スマホやパッドの画面をとらえているわけじゃないので(笑)リアリズムならありえない、ちょっとしたいたずらです。多分映画の技術に詳しい映画好きが見れば、他にもいろいろと当時としては新しい実験的な試みがあるのかもしれません。
そういうのは映画史の中では次代にひきつがれていったのかもしれませんが、いま見ればたぶんこれがそうだ、といろいろ指摘されてもふーん、と思うだけで、そのことに作品として見た時に心を動かされる要素かと言えば、ほとんどはむしろかえってそういう部分が古臭いものにみえるような気がします。
心に残るのはむしろ子供たちの乱痴気騒ぎ、あの暴発するエネルギーの生み出す羽毛の散乱する空間であったり、てんでに沸き立ちながら旗を押し立てて行進する子供たちの姿、そこに感じられるある種の強度ではないでしょうか。
「ぼくの小さな恋人たち」(ジャン・ユスターシュ監督) 1974
29歳でなくなった夭折の監督ジャン・ヴィゴほどではないけれど、43歳のいまではずいぶん若いとみなされる年齢で自殺してしまい、ゴダールなどがその才能を賞賛していたというジャン・ユスターシュ監督の作品のひとつです。
主人公は13歳のダニエルで、フランスのべサックという小さな村で優しい祖母と平穏な毎日を過ごしています。仲の良い友達と遊び、自転車で出かけたり、サーカスに行ったり、女の子にハラハラドキドキ、アプローチしてみたり、ごく普通の思春期初期の少年の幸せそうな日々です。ただ両親はなくなったのかな、とか思っていると、或る日突然母親がダニエルの父親ではない別のスペイン人(だったと思う)の男ホゼ・ラモスと一緒に来ていて、その男と一緒に何か買いにやらされるとき一言二言彼と話して、彼が3人兄弟で弟の一人が自転車屋をして自転車を売ったり修理したりする仕事をしていること、自分は農夫で畑を耕している、ということを知ります。
そして、しばらくしてダニエルは村から遠く離れたナルボンヌという街の母親と先の男が住む狭いアパートに引き取られていきます。着いた当日、夜になって仕事から帰宅したホぜと握手したとたんに、ダニエルは自分がこの家では歓迎されていないことを悟ります。
映画を見に行って知り合った同年配の男と、また学校で一緒になればいい友達になれそうだな、などと言われ、高校へ行くのを楽しみにしていたダニエルに、母親は高校は金がかかる、学費はタダでもその他の色んな経費がかかって楽じゃないんだから、勉強なんかしてもしょうがないし、ホゼの弟が経営する自転車(オートバイ)屋を手伝うように言い渡します。
自転車屋では能力を発揮して仕事は雇われた日からきちんとつとまるダニエルでしたが、一人前の仕事をしても母親は給料をもらってはいけないといい、そういう約束になっているのか、給料は支払われず、ときおりもらうチップが彼のものになるだけです。映画を観に行ったり、ゲーム場みたいなところで遊んだり、カフェで街路を行く女の子を眺めたり、仕事のないときはそんな日々を過ごす中で、あらたに男友達もでき、その間で刺激しあって女性に対する関心も次第に強く、思春期らしい現実味を帯びてきます。
あるとき、そんな友人たちに誘われて、彼も自転車をつらねてナンパ目的で郊外の村に出かけます。そしてちょうど同じ年頃の女の子2人、実は姉妹がくるのをみかけ、このナンパツアーを企図した友人とダニエルはほかの友人たちが飲み物を飲んでいる間にそっと抜け出して姉妹のあとを追い、友人が姉を、彼は妹をナンパします。
ダニエルは緊張して何を話して良いかわからず、女の子から「何か話してよ」、と言われても「話すことがない」、と言うありさまで、観ていてはがゆくなるほど(笑)。でもなんとか友人とその子の姉が草叢に横たわってうまくやっているのを見て、同じように女の子に手をひかれて草叢に横たわり、彼女の着衣に手をかけるけれど、彼女は「つきあうのが先で、ちゃんと結婚してから」、と妙に教科書的なことを言って、それ以上は触れさせてくれず、数日後の祭りの夜かなにかに両親と行くからまたそこへ来て、と言われて、ダニエルはその日は祖母のもとへ行くことになっているんだがな、と思いながら、わかった、と返事して別れます。
こうして、性への好奇心が芽生えながら、まだそういう自分自身に戸惑いながら、友人たちとのやりとりの中で刺激も受け、挑発もされながら、おずおずと女性にアプローチしてぎこちない対応をしているまさに思春期初期の少年の姿を、実にこまやかに素直にとらえていて、瑞々しい思春期ドラマになっています。
少年の父は亡くなったのか離婚なのか、いったいこの母親はどんなひどいやつなんだ、なんで優しい裕福層でもある祖母の家においといてやらないで、こんな狭い自分が男と住むアパートに息子をひきとって、しかも学校へも行かせずに男の弟の店でタダ働きなどさせるんだ?と疑問だらけですが、少年に寄り添い、少年の目を通して眺める人々とその光景の前で、そうした疑問、そうした過去、そうした世界は後景に退いて、この作品の中では大きな意味を持たなくなって、ただ少年の日々を枠組として拘束し、少年のはばたく夢を折るような所与の条件として置かれるだけで、少年の無垢の心が向かい、求め、また斥けられもする、平穏な日々のうちに進行するものではあるけれど、少年にとっては、なにもかもが初めて出会う世界との触れあいであるような瑞々しい思春期のドラマにとっては本質的なことではないのです。
この少年の心の動き、彼の心が向かい、触れあい、経験するすべてが初めての出会いであるような出来事の継起を見つめ、その中での少年の心の動きを見つめるこの映画の作り手のまなざしはとてもやさしく、温かいもので、少年が置かれた理不尽で苛酷な状況に対しても、同情や苛立ちの思い入れたっぷりの視線ではなく、淡々としたクールな視線でこの思春期のドラマの後景を描いているだけといった印象です。
「ざくろの色」(セルゲイ・パラジャーノフ監督)1969
先日「火の馬」を見て、わかりやすくもあり、とても良かったので、同じ監督の「映像詩」と賞賛される「ざくろの色」もぜひ見ておきたいと思って、今回DVDを取り寄せて見たのですが、正直のところまだ「見た」とは言えないな、と自分で感じています。
たしかに色彩はとても美しく、これがグルジア(ジョージア)的な色彩であり文様であり装飾なのか、とそれ自体の美しさは感じ、また左右対称にいくらかこだわりのありそうな様式的でスタティックな映像美、さらにほとんどセリフがなく、ストーリー性も一見したのではまったく理解不能な、象徴的な映像のモンタージュ、そして登場人物たちに向けられるカメラがちょっと普通の劇映画を撮るような位置や動かし方とは基本的に異なるようで、真正面からカメラを向いていたり、真横の横顔だったりがやたら多いとか、もうふつうのこれまで見て来たような映画の観方ではまるで歯が立たない感じですから、全編見終わってもまだ見た、という感じが持てないのです。
自分なりに普通の観客として何か充実感があればそれでいいのですが、ある強い魅力のようなものがあるのに、その正体がまったく分からずに入口で門だけ見て引き返してしまったような感じと言えばいいでしょうか。
それで、これは何か手掛かりになるような情報が要るのかな、と思ってネットで検索していたら、ある人が「『ざくろの色』(サヤト・ノヴァ)のストーリー」という文章を書いているのを見つけ、そこに次のように第1章から第八章まで解き明かしてあるので、びっくりしてしまいました。この作品にもこんなストーリーがあったんだ!と(笑)。でもそれをこれだけきちんと解き明かして見せる人ってすごいなぁ、と思ってこれを書いた方にも感心しました。
それによれば、
第一章 詩人の幼年時代
第二章 詩人の青年時代
第三章 王の館
第四章 修道院
第五章 詩人の夢
第六章 詩人の老年時代
第七章 死の天使との出会い
第八章 詩人の死
・・・だそうで、それぞれについて簡潔な説明もありました。
たぶん私などは10回この映画を観ても、これは分からなかったでしょう。この作品が詩人サヤト・ノヴァの(「伝記」ではなくて)内面の歴史というのか、なにかそういうものを描いたものだというのは映画の冒頭に断り書きが出てくるので、そういうものなんだな、というのは分かっていましたが、それにしても何度見てもこういう分節のされ方と、それぞれの内容がこういうことの表象なんだ、ということは私には知り得なかったでしょう。
想像するに、映像の一コマ一コマに登場する文様や何かに、この民族固有のイコンみたいなものが実は描かれていて、そういうのを見れば知る人ぞ知るで常識としてパッと何を描いているかわかるんだとか、登場人物の衣装や装飾品、その動作、あるいは登場する様々な事物、道具類、空間等々にもこの民族の暮らしにあって当たり前のものが溢れていて、見る人が見れば、あれはこういうときに身につける衣装や装飾品だ、あぁいう動作はこういうときにするものだ、あの道具はこういうときこうやって用いるものだ、あの空間のしつらえはこういう場所に固有のものだ、というように、一目でわかるものだ、というようなものかもしれないな、と。
それ自体はだから極めてローカルなものかもしれないけれども、それさえわかれば、そこから立ち上がってくる物語にはとてつもない奥行きがあったり、そのローカルなものを語る語り方(映像の取り方)自体が非常に新鮮なものであったり、というところに作品としての価値が構成されているんだ、ということなんだろうか、と思ってみます。
もちろんその語り口の中に、あの独特の色彩やスタティックではあるけれど特異なカメラ位置から捉えられた人物のアップなんかも含まれるので、そういうものをまだよくよく見ないと見えないのかもしれないな、とは思いますが、単に色彩がどう、視角がどう、というテクニカルなことではなくて、それが作り手の表現意志の核とどうつながっているかが、少しでも垣間見えないと、観た、と言う気になれないのは仕方がありません。
従って、この映画は私にとっては当分のあいだまだ未見ということで、ここに書き留めておく次第です。ネット上の先の解読者の解説を手掛かりにあと何度か丁寧に見る機会がもてればと思っています。つまらない作品なら、こんなわけのわからないもの、自分には関係ないだけだ、とうっちゃっておくのですが、わけわからないけど、強烈な磁力は感じるので(笑)。
で、ネット上で、いいのかどうかわからないけれど、同じ監督の「スラム砦の伝説」(1984)という映画が全編公開されていたので、これも見ました。
残念ながら原語でしゃべるだけで字幕はなく、度々本編に挿入される原画の字幕もグルジア語なのかロシア語なのか知らないけれど翻訳なしの、もとの映像だけなので、もちろんストーリーはネット上で誰彼があらすじを説明している程度のことしかわかりません。
どうやら堅固な砦に、どうしても破られてしまう弱い部分が一カ所あって、何度つくりかえてもやっぱりだめだった。それを美しい若者が人柱になって、その場所に生きたまま埋められる(みずから埋まる)ことで、克服される、という人柱伝説を映画化したものなんだそうで、それを知った上で見れば大まかに、おぼろげにその太い筋は分かります。
なによりもこの映画では硬い石の砦とその背景になっている乾燥した荒地の風景がとても美しくとらえられているし、この砦の石窟みたいな穴ぐらに住まう人々の暮らしの光景や儀式的な風景も、絵画的な美しさを持っています。儀式的な場での正装なのか、朱の色が映える美しい女性の衣装とか、食卓に載っていたりそこらをうろちょろしている孔雀とか・・・
むしろを敷いただけのような粗末なしつらえだけれど、そこで民族衣装的な(そこではふつうの日常着かもしれないけど)衣装を着て踊るシーンとか、二人の男が、真ん中の男にザクロの実を放り投げさせたのを交互に刀でまっぷたつにして、中の乾燥したザクロの種がパラパラとこぼれるシーンとか、全体が分からなくても、個々にはとても楽しい面白い場面があります。素敵な馬が登場するほか、荷の運搬に使われるロバや二こぶラクダやラマ?も羊もふつうに登場します。
この作品でも登場人物がまっすぐにカメラに正対してセリフを言うような場面がけっこうあります。また真横を向いた顔をアップで撮ったりします。面白かったのはその横顔の女が頭巾をかぶって、まっすぐにカメラの方を向いて正対する同じ動作を3度繰り返す場面があります。あれは何だったんでしょうね。
それからたくさんの鷗が登場する場面がありますが、その水際でのシーンだったと思いますが、ちょっとミニアチュア的な船が宙に浮いている場面もありました。ワイヤーで吊ってあって、あれはワイヤーが見えていたけれど、わざと見せていたのか、あれはほんとは無いことになっているのか(笑)。吊っている上部を見せないから、見ちゃいけなかったのかも(笑)
いろいろ疑問を思い浮かべながらも、おかしなもので、イラチのはずの私が、映像の美しさに惹かれて最後まで見てしまいました。いつかまたこの人の作品は見てみたいな、と思いましたが、たぶん手ぶらで何度見てもよくわからんなぁという状態は変わらなさそうな気がしました。
saysei at 14:21|Permalink│Comments(0)│
2018年09月25日
「ラルジャン」と原作
ロベール・ブレッソンの「ラルジャン」の原作であるトルストイの一般には全集版の翻訳タイトル「にせ利札」として知られている中編小説をまだ読んだことがなかったので探したら全集版の適当なのが見当たらず、また分厚い本が増えるのもいやだったので、最小限の作品で編んだ、北御門二郎訳の『トルストイ短編集』(人吉中央出版社 2016)をみつけたので、その本で「贋造クーポン」という同じ原作の翻訳を読みました。
予想はしていましたが、映画の「ラルジャン」とは似ても似つかない、トルストイらしい、いい作品でした。映画と小説を比べるのもどうかと思いますが、どっちをとる?と言われたら、わたしの場合は躊躇なくトルストイの小説のほうに軍配を上げます。
ある人がラルジャンに触れて、トルストイの原作の前半だけ映画化して、後半をカットした、といった趣旨のことを書いているのを読んでいたので、原作を読まずに映画だけ見たときは、ただそういうものかとちょっと誤解していたのです。つまり、「贋造クーポン」が最初に使われたことが悪の連鎖を広げていって、映画で言えば主人公のイヴォンヌによる自らを救済してくれた老婦人の一家を皆殺しするというところまで行きついて、彼が自ら警官にその殺人について自首する、いわば「往路」で映画は終わっていて、トルストイの原作ではそこから回心する主人公の行為が善の連鎖を生み出していくいわば「還路」を描いているのを、ブレッソンは意図して後半の還路をカットして映画化した、というふうに。
それはある意味でその通りなのですが、原作を読むと、それほど単純じゃないな、と思わざるを得ませんでした。トルストイの話はもちろんロシアの土俗的な世界を背景としていて、悪の連鎖には階級的には様々な階級の人物が参加することになるけれど、殺人や盗みに直接かかわるのは無知無学な貧しい下層民です。トルストイが描く連鎖は悪の方も善のほうもポリフォニックで、その連鎖は単純ではなく、連鎖を形作っていく一つ一つの輪がおそろく多様で、どれ(だれ)が幹でどれ(だれ)が枝などというのもないように、いわば竹の根のように際限なく広がって相互にまた思わぬところでくっついて網目状をなすというふうで、読んでいて、あるエピソードが終わって次の輪に進むとき、前に登場した人物の長ったらしいロシア名がいきなり出てくると、おぼえてなくて、その話がなんでここに置かれたのかよくわからなかったりして、前の方のページを振り返ると、あぁ、ここで登場していたこいつか!と分かってつながっていく、みたいなところがあります。
建築家アレグザンダーの「都市はツリーではない」で知った、ツリー構造とセミラティス構造の区別で言えば、「ラルジャン」のほうはイヴォンヌを幹とするツリー構造のようにみえ、原作の「贋造クーポン」はセミラティス構造のようにみえます。ドゥルーズやなんかがいう根茎(リゾーム)と言ってもいいのでしょう。もちろん先に書いたような往路、還路の構造があって、ちゃんと連鎖はひとめぐりしてメビウスの輪のようにひとひねりして表裏逆になって元へ戻ってくるようになってはいますが、その中身はとても豊かな印象です。
それに比べると「ラルジャン」のほうは、或る意味とても洗練されていて、余計な枝をできる限りそぎ落として幹というのか、連鎖をつなぐ芯になる軸としてのイヴォンヌとその行動に的をしぼって、シンプルな物語になっています。
おまけに先日感想に書いたように、ブレッソンは通常の物語の出来事の発生順に継起的な映像を見せていくことをしないで、意図的な選択をして、むしろその継起的な出来事のピークを形づくる映像をことごとく棄て去って例えば結果を示すような表徴だけ見せて、肝心の登場人物の決定的な場面での行動や表情は観客の想像力に委ね、原因だの理由だの動機だの経緯だのといったものは、もしそうしたければ結果から逆に観客たちが考えなさい、と言わんばかりの「不親切な」映像なので、トルストイの原作ではそれぞれのエピソードに相当する出来事が継起的なつながりをもって自然に納得されるのに、「ラルジャン」では、まるで不条理劇のように唐突に殺人が行われ、また唐突に殺人者の転回が起きる、というふうです。
いくら正義のとおらない世の理不尽さに鬱屈したものをかかえていたにせよ、また、そのために刑務所でとらわれているあいだに最愛の娘を失い、愛妻に去って行かれてもはや生きる希望をなくして、自殺を試みてたまたま命が助かっただけという状況のイヴォンヌであるとしても、脱獄を手伝うからやらんかという悪いかつての知人で囚人仲間の誘惑にも乗らずに、無事刑期をつとめて出所したにもかかわらず、その足で泊まった宿の夫婦を惨殺し、また自分を寛容に受け容れてくれた老婦人とその家族一家を惨殺するのは、そうした異常な行為に及ぶに至るイヴォンヌの心の動きなり、彼をそういうところまで追いつめる外在的要因なりが示されてはいないので、ふつうは理解しがたいでしょう。だからみずからの殺人を太陽のせいにしたムルソーと重なってみえます。
たしかにいまでは、まったく自分と縁もゆかりもない人たちを殺しておいて「ただ殺したかっただけ」、相手は「誰でもよかった」という殺人者は珍しくないので、そういうもののハシリなんだ、と思えば、別に理由だの動機だの原因なんて無くていいわけでしょうし、世の中は不条理なものだし、人間の行動というのは原因があって結果があり理由があって行動があるなんて合理的なものじゃなく、もともと不合理なものなんだ、ということが言いたいなら、そういう作品があってもいいでしょう。
でもわざわざトルストイを原作に選んで、そんな映画をつくるだろうか?(笑)と考えると、私はこの映画監督のことは何も知りませんが、ちょっと違うんじゃないか、という気がします。仮に不条理劇に類するものであったとしても、そこには逆にトルストイの原作を強く意識したカウンターウエイトみたいなものを置いたようなものなんじゃないか、という気がするのです。そうでなければ、わざわざ原作の物語の枠組みを借りる必要はないでしょう。
トルストイの物語の枠組みを使いながら、後半の還路をカットしてしまったのはもちろん意図的で、トルストイ流の宗教的回心を契機とする善の連鎖を、「金」(贋造クーポン)を契機とする悪の連鎖からなる往路のようには信じられないのは、おそらく私たちも監督も同じで、後半をカットしてしまうのはわかるような気はしますが、では自分が二件の惨殺事件をひきおこしたことを淡々と平然とした顔で警官に申し出るイヴォンヌの心のうちはどういうものなのか。
そこだけはトルストイの描くような、自分を受け入れてくれて殺される前でさえも自分はいいけれどもあなたは人を殺す前に自分を殺してしまって・・・それでいいの?と言った老婦人の幻影に悩まされて回心を遂げるステパンと同じ種類のものだと言っていいのでしょうか?イヴォンヌの殺人の場での姿もこの事件が彼に及ぼした作用も最後のシーン以外には何も描かれていないので、それは分からない、というより、この映画はそれはわからなくていいんだ、というスタンスで作られているわけでしょう。そこがやっぱりよくわからない。じゃ彼の行為というのは何なんだ?と。
そうするとそれは意味なんかない、何なんだ?という問いかたそのものが間違っているので、彼はただ金がほしかったから、あるいは殺したかったから、でもいい、彼のほうの事情でやったわけで、私たちは老婦人に寄り添って、あるいはそれに近い眼で見るから、そんな理不尽な!と思うけれど、彼の立場に立ったら、そんなことは関係ない。俺は殺したいから殺したんだし、金がほしいからとっただけだ、ということになるでしょう。
濱口監督のPassionの女教師の暴力の話ではないけれど、外部からやってくる暴力というのはそういうものなのかもしれません。暴力を受けるほうは、ただ赦すことしかできないのだ、と。
トルストイの世界には神があったし、登場人物にもそれが何らかの契機によって神があることが信じられた。では神が死んだと言われてからの私たちの世界で、トルストイの登場人物たちが経験するような転回、回心というのは可能なのか。可能だとすればいかなる契機で可能なのでしょうか。
その意味では「ラルジャン」のラストのイヴォンヌの、殺人を告白して連行されるときの、悪びれる様子もなくむしろ平穏な表情がどのようにして可能なのか、あれはどういう契機でもたらされたものなのか。どうみても彼が老婦人を斧で惨殺する場面にそれが示されていたようにはみえないのですが、どうでしょうか。
警官に連行されていくイヴォンヌの姿を目で追わずに、レストランの客たちがみんなイヴォンヌらが去ったあとの隣の部屋を覗き込んでいるのはいったいなぜなのか。そこにはなにもない(血の跡も抵抗の後もない)はずなので、空っぽのありきたりのレストランの一室を見ているはずです。そこにはトルストイの登場人物たちが見るような神の世界はない。小さな善が広がっていく連鎖の往路なんか見えないはず。じゃ何が見えるのか。現代はそういうものがすべて消え失せた空っぽの部屋のように空虚だと言いたいのか。希望を空虚な部屋で示そうというのか。あるいはそこに私たちが埋めるべき善の連鎖の糸口を見よというのか。そうでなければイヴォンヌのあの居直りでもないのに平然とした表情は何なのか・・・
予想はしていましたが、映画の「ラルジャン」とは似ても似つかない、トルストイらしい、いい作品でした。映画と小説を比べるのもどうかと思いますが、どっちをとる?と言われたら、わたしの場合は躊躇なくトルストイの小説のほうに軍配を上げます。
ある人がラルジャンに触れて、トルストイの原作の前半だけ映画化して、後半をカットした、といった趣旨のことを書いているのを読んでいたので、原作を読まずに映画だけ見たときは、ただそういうものかとちょっと誤解していたのです。つまり、「贋造クーポン」が最初に使われたことが悪の連鎖を広げていって、映画で言えば主人公のイヴォンヌによる自らを救済してくれた老婦人の一家を皆殺しするというところまで行きついて、彼が自ら警官にその殺人について自首する、いわば「往路」で映画は終わっていて、トルストイの原作ではそこから回心する主人公の行為が善の連鎖を生み出していくいわば「還路」を描いているのを、ブレッソンは意図して後半の還路をカットして映画化した、というふうに。
それはある意味でその通りなのですが、原作を読むと、それほど単純じゃないな、と思わざるを得ませんでした。トルストイの話はもちろんロシアの土俗的な世界を背景としていて、悪の連鎖には階級的には様々な階級の人物が参加することになるけれど、殺人や盗みに直接かかわるのは無知無学な貧しい下層民です。トルストイが描く連鎖は悪の方も善のほうもポリフォニックで、その連鎖は単純ではなく、連鎖を形作っていく一つ一つの輪がおそろく多様で、どれ(だれ)が幹でどれ(だれ)が枝などというのもないように、いわば竹の根のように際限なく広がって相互にまた思わぬところでくっついて網目状をなすというふうで、読んでいて、あるエピソードが終わって次の輪に進むとき、前に登場した人物の長ったらしいロシア名がいきなり出てくると、おぼえてなくて、その話がなんでここに置かれたのかよくわからなかったりして、前の方のページを振り返ると、あぁ、ここで登場していたこいつか!と分かってつながっていく、みたいなところがあります。
建築家アレグザンダーの「都市はツリーではない」で知った、ツリー構造とセミラティス構造の区別で言えば、「ラルジャン」のほうはイヴォンヌを幹とするツリー構造のようにみえ、原作の「贋造クーポン」はセミラティス構造のようにみえます。ドゥルーズやなんかがいう根茎(リゾーム)と言ってもいいのでしょう。もちろん先に書いたような往路、還路の構造があって、ちゃんと連鎖はひとめぐりしてメビウスの輪のようにひとひねりして表裏逆になって元へ戻ってくるようになってはいますが、その中身はとても豊かな印象です。
それに比べると「ラルジャン」のほうは、或る意味とても洗練されていて、余計な枝をできる限りそぎ落として幹というのか、連鎖をつなぐ芯になる軸としてのイヴォンヌとその行動に的をしぼって、シンプルな物語になっています。
おまけに先日感想に書いたように、ブレッソンは通常の物語の出来事の発生順に継起的な映像を見せていくことをしないで、意図的な選択をして、むしろその継起的な出来事のピークを形づくる映像をことごとく棄て去って例えば結果を示すような表徴だけ見せて、肝心の登場人物の決定的な場面での行動や表情は観客の想像力に委ね、原因だの理由だの動機だの経緯だのといったものは、もしそうしたければ結果から逆に観客たちが考えなさい、と言わんばかりの「不親切な」映像なので、トルストイの原作ではそれぞれのエピソードに相当する出来事が継起的なつながりをもって自然に納得されるのに、「ラルジャン」では、まるで不条理劇のように唐突に殺人が行われ、また唐突に殺人者の転回が起きる、というふうです。
いくら正義のとおらない世の理不尽さに鬱屈したものをかかえていたにせよ、また、そのために刑務所でとらわれているあいだに最愛の娘を失い、愛妻に去って行かれてもはや生きる希望をなくして、自殺を試みてたまたま命が助かっただけという状況のイヴォンヌであるとしても、脱獄を手伝うからやらんかという悪いかつての知人で囚人仲間の誘惑にも乗らずに、無事刑期をつとめて出所したにもかかわらず、その足で泊まった宿の夫婦を惨殺し、また自分を寛容に受け容れてくれた老婦人とその家族一家を惨殺するのは、そうした異常な行為に及ぶに至るイヴォンヌの心の動きなり、彼をそういうところまで追いつめる外在的要因なりが示されてはいないので、ふつうは理解しがたいでしょう。だからみずからの殺人を太陽のせいにしたムルソーと重なってみえます。
たしかにいまでは、まったく自分と縁もゆかりもない人たちを殺しておいて「ただ殺したかっただけ」、相手は「誰でもよかった」という殺人者は珍しくないので、そういうもののハシリなんだ、と思えば、別に理由だの動機だの原因なんて無くていいわけでしょうし、世の中は不条理なものだし、人間の行動というのは原因があって結果があり理由があって行動があるなんて合理的なものじゃなく、もともと不合理なものなんだ、ということが言いたいなら、そういう作品があってもいいでしょう。
でもわざわざトルストイを原作に選んで、そんな映画をつくるだろうか?(笑)と考えると、私はこの映画監督のことは何も知りませんが、ちょっと違うんじゃないか、という気がします。仮に不条理劇に類するものであったとしても、そこには逆にトルストイの原作を強く意識したカウンターウエイトみたいなものを置いたようなものなんじゃないか、という気がするのです。そうでなければ、わざわざ原作の物語の枠組みを借りる必要はないでしょう。
トルストイの物語の枠組みを使いながら、後半の還路をカットしてしまったのはもちろん意図的で、トルストイ流の宗教的回心を契機とする善の連鎖を、「金」(贋造クーポン)を契機とする悪の連鎖からなる往路のようには信じられないのは、おそらく私たちも監督も同じで、後半をカットしてしまうのはわかるような気はしますが、では自分が二件の惨殺事件をひきおこしたことを淡々と平然とした顔で警官に申し出るイヴォンヌの心のうちはどういうものなのか。
そこだけはトルストイの描くような、自分を受け入れてくれて殺される前でさえも自分はいいけれどもあなたは人を殺す前に自分を殺してしまって・・・それでいいの?と言った老婦人の幻影に悩まされて回心を遂げるステパンと同じ種類のものだと言っていいのでしょうか?イヴォンヌの殺人の場での姿もこの事件が彼に及ぼした作用も最後のシーン以外には何も描かれていないので、それは分からない、というより、この映画はそれはわからなくていいんだ、というスタンスで作られているわけでしょう。そこがやっぱりよくわからない。じゃ彼の行為というのは何なんだ?と。
そうするとそれは意味なんかない、何なんだ?という問いかたそのものが間違っているので、彼はただ金がほしかったから、あるいは殺したかったから、でもいい、彼のほうの事情でやったわけで、私たちは老婦人に寄り添って、あるいはそれに近い眼で見るから、そんな理不尽な!と思うけれど、彼の立場に立ったら、そんなことは関係ない。俺は殺したいから殺したんだし、金がほしいからとっただけだ、ということになるでしょう。
濱口監督のPassionの女教師の暴力の話ではないけれど、外部からやってくる暴力というのはそういうものなのかもしれません。暴力を受けるほうは、ただ赦すことしかできないのだ、と。
トルストイの世界には神があったし、登場人物にもそれが何らかの契機によって神があることが信じられた。では神が死んだと言われてからの私たちの世界で、トルストイの登場人物たちが経験するような転回、回心というのは可能なのか。可能だとすればいかなる契機で可能なのでしょうか。
その意味では「ラルジャン」のラストのイヴォンヌの、殺人を告白して連行されるときの、悪びれる様子もなくむしろ平穏な表情がどのようにして可能なのか、あれはどういう契機でもたらされたものなのか。どうみても彼が老婦人を斧で惨殺する場面にそれが示されていたようにはみえないのですが、どうでしょうか。
警官に連行されていくイヴォンヌの姿を目で追わずに、レストランの客たちがみんなイヴォンヌらが去ったあとの隣の部屋を覗き込んでいるのはいったいなぜなのか。そこにはなにもない(血の跡も抵抗の後もない)はずなので、空っぽのありきたりのレストランの一室を見ているはずです。そこにはトルストイの登場人物たちが見るような神の世界はない。小さな善が広がっていく連鎖の往路なんか見えないはず。じゃ何が見えるのか。現代はそういうものがすべて消え失せた空っぽの部屋のように空虚だと言いたいのか。希望を空虚な部屋で示そうというのか。あるいはそこに私たちが埋めるべき善の連鎖の糸口を見よというのか。そうでなければイヴォンヌのあの居直りでもないのに平然とした表情は何なのか・・・
saysei at 14:39|Permalink│Comments(0)│
2018年09月24日
三宅唱監督「きみの鳥はうたえる」を見る
2日つづけて、けっこうおもしろい映画が見られるという幸運を堪能しました。入院したら遊べないからいまのうちにというので連日(笑)。昨日は出町座の濱口監督の「Passion」で、今日は京都シネマの三宅唱監督の「きみの鳥はうたえる」です。どちらも私のようなごく一般的な、ただ評判がよさそうだという映画だけ、たまぁに映画館へいって見ようかという程度の人間が、何の予備知識もなく見て楽しめて、なかなかいい映画だったなぁ、と余韻にひたれる映画なので、まだ未見のかたにはおすすめです。
見て来たばかりなので、最初に一番印象に残っているシーンから。それはラストの佐知子(石橋静河)のアップの表情です。私がこの種の、若い女優さんの表情で幕となる映画で印象に残っている映画と言えば岩井俊二監督の「Love Letter」で、自分が愛されていると思っていたら実は彼が中学生時代の片思いの少女の像を自分に重ねていただけ、という形で取り残される彼女のほうはどうなるんだ!とその残酷さに異議なしとはしないものの、いまだに岩井俊二の作品の中では一番好きなあのアジアでも広く愛された映画のラスト。言うまでもなく若いころの本当に綺麗だった中山美穂が図書館係の後輩たちから同姓同名の亡くなった同級生樹が裏に彼女の似顔絵を描いていた図書カードを見せられて、はじめて彼の片思いに気づいて、後輩たちの前で嬉しいような困ったような表情を浮かべる、あのシーン、あの中山美穂の表情が本当に素敵だと思ってみたときのことを思い出します。
もちろんコンテクストはまるで異なり、状況も気持ちもまったく無関係ですが、この作品でのラストで、「僕」(柄本佑)の「好きだ!」という告白を受けて、嬉々として受け入れる喜びの表情でもなく、いまさらと反発したり拒絶したりする表情でもなく、曖昧な、という言い方は少し語弊があるけれども、曖昧さを明確に示すような表情といういささか矛盾した言い方でしか言いようのない、石橋静河の表情が本当にすばらしくて、この映画を観た人の心にずっと残ることは確実な気がします。
ラストだけではなくて、全編を通して石橋静河はとても良かった。書店でバイトしていて「僕」からのメールを嬉しそうに見てやりとりしているとき、カラオケ?で歌ったり、踊ったりしている彼女、玉突きなどして三人で遊んで笑い転げている彼女、そして同じバイト先の店長と彼女が以前から関係があって、「僕」と付き合いだした彼女がはっきりさせたいからと店長に別れ話をもっていったあと、店長が「僕」に、彼女を大事にしてやってくれよ、と言って帰るところがありますが、翌日佐知子が「僕」に「店長私のことなにか言ってた?」と訊くと、「佐知子を大事にしてやってくれって言われたよ」と答え、佐知子が、「あなたはどう言ったの?」と訊くと、「何も・・・」というふうな答え方をします。ほんとうは「僕」に言ってほしかった言葉を彼女は自分の中に持っている、でも何も言わない、そのときの佐知子の表情・・・彼女は表情の演技がすばらしい。クローズアップされるときの彼女はほんとうに綺麗だし、その表情がまさに佐知子以外のなにものでもなくて、この映画をいたるところで素敵なものにしています。
いまの最後に書いたシーンは、シナリオでは「僕」が店長の言葉を繰り返したりせずに、ただ「別になにも言ってなかったよ」としか答えず、この辺のやりとりの言葉は出来上がった作品とシナリオで違っているようですが、映画のようがより佐知子がはっきり傷つくだろうな、というのが分かりやすくなっています。
シナリオを読んだとき、原作と最も大きな違いはラストの処理で、原作では静雄が母親を殺し、それを知った佐知子が静雄のところへ行く間に「僕」が静雄と電話で話し、静雄がすぐに逮捕されたことを知る、というところで終わっていて、「僕」と佐知子と静雄の3人の関係は、静雄と佐知子が愛情を交わしたままで、殺人事件で破綻して行方が見えなくなる、というラストになっていますが、シナリオではそういう静雄の事件は起きず、「僕」が静雄と佐知子の関係を静観というかむしろ静雄が佐知子を好きなのを知って佐知子をそっと静雄のほうへ押しやるようなポーズ(告白するというラストにしてしまえば、結果的にはあれはポーズだったんだとしか言いようのない姿勢)をとっていた「僕」が、最後の最後にそのポーズを棄てて、好きだというホンネを佐知子にぶつけるところで終わっているわけです。
映画はこのシナリオどおりの結末になっていますが、私はシナリオを読んだとき、こういう原作の改変に疑問を感じていました。そこまで読んできた「僕」の資質、姿勢、行動パターンから言って、これはないんじゃないか、と思ったからです。映画を観ても、「僕」が最初、店長と一緒のときに「僕」と出会ってすれ違いざま肘に触って合図したので、それがほんものかどうか確かめようと「僕」が120までは数えて待とうと思って待っていて彼女が予想通り戻ってきて彼とデイトするみたいに、ラストでも一旦別れを告げながら「僕」が立ち止まり、振り返って、数を数えて彼女を待とうとして、たまらず自分からバタバタとみっともなく駆けだして彼女の後を追い、立ち止まって顧みる彼女に、今までのことは全部嘘だ、好きだ、と告白する、この彼の行動については、まだ疑問を持っています。
結局彼のこの行動で、それまでの彼の三人の間での微妙な立ち位置や、そこで佐知子にとっても私たち観客にとっても「よく分からない男」であるがゆえに、その点での魅力もあった(それがなければ、単なるどうしようもない無責任でそれこそ不誠実で動物的本能だけもっていて無意味に生きているだけの屑みたいな男にすぎない)のに、その「わからなさ」や微妙な立ち位置というのが全部吹っ飛んでしまいませんか?ということです。
その「わからなさ」や微妙な立ち位置の中に、彼が静雄や佐知子に対してもっているかもしれない優しさ、思いやり、愛情なり友情なりの人間的な感情が隠れているわけでしょうし、それがあからさまでないから、佐知子を不安にしたり、不信を懐かせたり、静雄をいっそう佐知子の方へ押しやってしまったりもするわけで、この三人の関係を動かしていくモメントというのはその「わからなさ」や微妙な立ち位置の中にしかないわけです。
そうじゃなくて、最後にこんなことを告白してしまうのであれば、それまでの三人の関係の中で、実は「僕」は本当は佐知子を愛していたのであり、三人の関係の中でも実は内心でチクチクと嫉妬を覚えていたんだ、ということになってしまうでしょう。フロイド的な種明かしで、友情の絡んだ三角関係で、それがあからさまになるのが遅延しただけで、実はこうでした、というつまらない話で、「僕」という人間は一挙につまらない男になってしまいませんか?そういえば最後のバタバタはまるで子供みたいだし、最初から最後まで実は彼はまだ子供だったんですよ、という種明かしになってしまいませんか?
たしかにこれは本質的には友情も含めた対幻想の三角関係が話の骨格だし、チリチリした嫉妬心の類も原作もシナリオも映画もそこかしこで垣間見せてはいますし、途中までの3人の関係という骨格だけみれば、なにも変わるところはありません。でもこの作品を面白くしているというか、ありふれた三角関係話から一歩新しい物語へ踏み出しているのは、「僕」の資質、対人関係の基本的な姿勢、大げさに言えば世界との向き合い方の特異性にあって、本来は「僕」というキャラクターの「わからなさ」、曖昧さのうちにそれが描かれているはずのものです。それは原作の読者なり映画の観客から見ての彼の「わからなさ」、曖昧さであると同時に、作品の世界の中での佐知子からみた「僕」の「わからなさ」でもあるわけで、それが佐知子の心の動きに反映もし、3人の関係を動かしていく原動力であって、物語もそれによって展開されるわけです。
その「僕」の「わからなさ」の種明かしが、「好きだ!」ではどうにも納得しがたい(笑)。
じゃ、あの名ナレーション、シナリオの函館駅・構内の朝、「静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつを通してもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。すると、僕は率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」は一体どうなるんだい?と訊きたい。
そんなものは「僕」が見栄でオトナの振りして突っ張ったポーズに過ぎなかった、ってことになりゃしませんか?そういう「僕」の倫理的な生き方の核がなければ、この「僕」という男はほんとうになんのとりえもない屑で、「大人」の店長に遠く及ばず、あのいやらしいやつとして描かれた同僚の森口にも遠く及ばない不誠実なフーテンに過ぎなくなってしまうのでは?
原作ではそうはなっていなかったはずです。明らかに佐藤泰志は、そんな屑男として「僕」を描いてなどいないと思うのです。佐知子を愛してはいるのですが、それを決してストレートに表現できない存在として明確にその微妙な立ち位置を、微妙だけれど曖昧ではなく、正確に見定めて狂いなく描き切っていると思います。だからこそ、映画のラストの繊細さも何もないガキのような好きだ!なんて言葉で観客にカタルシスを感じさせてハッピーエンドなんてありえない。いくら肉体を重ねてもそういうふれあい方ができないからこそ、「佐知子を通して静雄を」あるいは「静雄を通して佐知子を」感じることができるだろう、という「僕」のモノローグが生きてくるわけで、これがこの作品の要であり心臓だと思うのですが、三宅監督はそうは思われなかったようで、それを単なるポーズ、言葉のカッコつけみたいなアソビにしてしまったようです。
もっとも、原作の「僕」や「静雄」、「佐知子」と、映画あるいはシナリオの彼らとは、もともとずいぶん設定が異なるのかもしれません。前者がおとなだとすれば、後者はこどもあるいは精神的、感情的にはまだ子供に等しい人物たちとして設定しているのかもしれません。そのほうが、現代の或る意味で幼児化した若者の世界に近いという感覚があるのかもしれません。
原作の「僕」と「佐知子」はこんな会話を交わします。約束をすっぽかされた佐知子が、「僕」に映画に誘った別の約束を思い出させて、連れてってくれと言い、なにに連れてってくれるのかと問う場面です。
「フェリーニの新作はどうだい?パゾリーニでもいいよ」
「パゾリーニなんて退屈よ。それに変態だわ」
「でも、あいつの小説はおもしろいよ」
ほかにもいくつか登場したと思いますが、こういう会話は映画の主人公たちにはさせられないでしょう。精神年齢にかなりの開きがあるからです。そして、上記の「僕」のナレーションが表現しているような3人の関係というのは、こういう言葉が交わせる程度の精神年齢の登場人物でなければ維持しえないものであるかもしれません。
もちろんこんなものは全部取っ払ってしまって、子供なら子供たちの世界での三角関係を描くことはできますし、引用したナレーションのようなポーズはよけいなことで、すなおに幼い子供のような若者たち3人の恋愛と友情ごっこ、多少の我慢比べのドラマが成立すれば、それならそれでよかったのだと思います。
柄本佑も染谷将太もそれぞれ個性の強い独特の存在感のある俳優なので、大人の身体をした子供にしてしまうのはもったいないな、とは思いますが・・・
ただ、この映画、困ったことに、そういう疑問な点があるにも関わらず、3人の登場人物はそれぞれ個性豊かに演じられて生き生きとしていて、とりわけ3人が遊ぶシーンが長々と撮られているのですが、あぁいうシーンの楽しさで見せてくれるところがあります。そういうときの3人、とりわけ先に書いたように、石橋静河の表情は素敵です。また、困ったことに、あぁいう疑問なラストの改変にも関わらずその最後の最後の石橋静河の表情のアップはこの映画の中でも一番いい、印象にのこる画面なのです。
たぶん私のような老人世代で私はもう秩序からもドロップアウトしたフリーな高齢者にすぎないけれども、まだ秩序の中で秩序を支えて頑張っているようなおじさんたちから見れば、つまり「僕」がバイトをしている書店の店長のような人たちから見れば、この3人の登場人物のような若者というのは、ほんとうにどうにかならんか、と言いたいようなだらしない、社会的に無責任な、そして男女関係にもだらしない(笑)、目的を見失ってただその日その日を、つかの間のことかもしれない世の中の一応の安定の中だからこそそのおこぼれで生きて漂っているような屑のような人間にしか見えないだろうな、という気がします。原作でもそうだと思いますが、この店長のような普通一般には社会的に責任感もあり、きちんと仕事をし、社会的規範の内部で堂々と生きている大人と、この作品の主人公たち3人のような若者とを対比的に描いているわけですが、ではそういう大人のほうからみてどうしようもない、店長が決して「僕」をクビにはしないで寛容な姿勢で対応するように、あわれむべき存在とみているだろう若者たちのほうには、どんないいところがあるのか・・・もちろんそれが無ければ、つまり書き手のほうに彼らに共感できる部分がなければ、こんな原作が書かれるはずもないし、こんな映画がつくられるはずもないわけです。
そうすると、私の考えでは小説では、彼らが旧世代の人間関係がすでに大きな欺瞞の内に築かれているにすぎず、人と人がじかに例えば膚触れあうことで、ほんとうに相手を感じ、魂まで触れ合うことができるかといえば、もうそんなことは信じられない。そういうしんどい状況のうちに生きて、それでも他者と共存していかなければならない、その不愉快さやもどかしさや、焦慮や苛立ちその他もろもろのそこから生まれてくるものに対して正直であるかどうか、それらをごまかさずにみずからの痛みとして受け止めているかどうか、それが問題の核心だということになるでしょう。そこに表面でどういう生活をしていようが、はた目には見えない苦通があり、傷を負っている魂というのがあるかもしれない。そういう苦痛に対する感受性をもちあわせているかどうか、ということが或いは作者の人間を判断するひとつの軸になるかもしれません。
原作の登場人物たちは、そういう自分たちの置かれた状況を鋭敏に感じていて、人と人が触れ合うことの不可能性とそれにもかかわらずそれを求めてやまない魂をもっていて、ただそれだけが彼らの関心事で、すべてがそこに集中していくがゆえにまた互いにぶつかったり、ぶつかることを過度に恐れて回避しようとしたり、そのことがまた却って他者を傷つけることになったり、ということを、狭い魂の実験場のような潜在的な三角関係の中で繰り返しながら、破綻を避けて安定的にそういう関係を維持していくために「僕」が生き方の倫理の核のようにイメージするのが、例のナレーションの言う ”「静雄を通して佐知子を」「佐知子を通して静雄を」新しく感じる” ような関係なのでしょう。少なくとも原作はそういうふうに3人を描いていたと私は思います。「僕」がどんなに屑のような若者であっても、こういう生き方の倫理に関しては、非常に自分に対して厳格で容赦なく、まさに誠実なのであって、そこにしか原作の作者がこういう若者を描く理由がないように思いますし、その一点以外に、書店の社長のような存在を対照的に描いてみせる理由もないように思います。そうでなければ、書店の社長のような人が思っているであろうように、「僕」のような人間もいずれは(もう少しオトナになれば)社長のようなどこにでもいる社会人になっていくだけのことでしょう。
それもこれも含めて、映像として象徴的なものであったはずの、三人傘のシーンが比較的あっさりと処理されてしまったことには不満が残りました。
見て来たばかりなので、最初に一番印象に残っているシーンから。それはラストの佐知子(石橋静河)のアップの表情です。私がこの種の、若い女優さんの表情で幕となる映画で印象に残っている映画と言えば岩井俊二監督の「Love Letter」で、自分が愛されていると思っていたら実は彼が中学生時代の片思いの少女の像を自分に重ねていただけ、という形で取り残される彼女のほうはどうなるんだ!とその残酷さに異議なしとはしないものの、いまだに岩井俊二の作品の中では一番好きなあのアジアでも広く愛された映画のラスト。言うまでもなく若いころの本当に綺麗だった中山美穂が図書館係の後輩たちから同姓同名の亡くなった同級生樹が裏に彼女の似顔絵を描いていた図書カードを見せられて、はじめて彼の片思いに気づいて、後輩たちの前で嬉しいような困ったような表情を浮かべる、あのシーン、あの中山美穂の表情が本当に素敵だと思ってみたときのことを思い出します。
もちろんコンテクストはまるで異なり、状況も気持ちもまったく無関係ですが、この作品でのラストで、「僕」(柄本佑)の「好きだ!」という告白を受けて、嬉々として受け入れる喜びの表情でもなく、いまさらと反発したり拒絶したりする表情でもなく、曖昧な、という言い方は少し語弊があるけれども、曖昧さを明確に示すような表情といういささか矛盾した言い方でしか言いようのない、石橋静河の表情が本当にすばらしくて、この映画を観た人の心にずっと残ることは確実な気がします。
ラストだけではなくて、全編を通して石橋静河はとても良かった。書店でバイトしていて「僕」からのメールを嬉しそうに見てやりとりしているとき、カラオケ?で歌ったり、踊ったりしている彼女、玉突きなどして三人で遊んで笑い転げている彼女、そして同じバイト先の店長と彼女が以前から関係があって、「僕」と付き合いだした彼女がはっきりさせたいからと店長に別れ話をもっていったあと、店長が「僕」に、彼女を大事にしてやってくれよ、と言って帰るところがありますが、翌日佐知子が「僕」に「店長私のことなにか言ってた?」と訊くと、「佐知子を大事にしてやってくれって言われたよ」と答え、佐知子が、「あなたはどう言ったの?」と訊くと、「何も・・・」というふうな答え方をします。ほんとうは「僕」に言ってほしかった言葉を彼女は自分の中に持っている、でも何も言わない、そのときの佐知子の表情・・・彼女は表情の演技がすばらしい。クローズアップされるときの彼女はほんとうに綺麗だし、その表情がまさに佐知子以外のなにものでもなくて、この映画をいたるところで素敵なものにしています。
いまの最後に書いたシーンは、シナリオでは「僕」が店長の言葉を繰り返したりせずに、ただ「別になにも言ってなかったよ」としか答えず、この辺のやりとりの言葉は出来上がった作品とシナリオで違っているようですが、映画のようがより佐知子がはっきり傷つくだろうな、というのが分かりやすくなっています。
シナリオを読んだとき、原作と最も大きな違いはラストの処理で、原作では静雄が母親を殺し、それを知った佐知子が静雄のところへ行く間に「僕」が静雄と電話で話し、静雄がすぐに逮捕されたことを知る、というところで終わっていて、「僕」と佐知子と静雄の3人の関係は、静雄と佐知子が愛情を交わしたままで、殺人事件で破綻して行方が見えなくなる、というラストになっていますが、シナリオではそういう静雄の事件は起きず、「僕」が静雄と佐知子の関係を静観というかむしろ静雄が佐知子を好きなのを知って佐知子をそっと静雄のほうへ押しやるようなポーズ(告白するというラストにしてしまえば、結果的にはあれはポーズだったんだとしか言いようのない姿勢)をとっていた「僕」が、最後の最後にそのポーズを棄てて、好きだというホンネを佐知子にぶつけるところで終わっているわけです。
映画はこのシナリオどおりの結末になっていますが、私はシナリオを読んだとき、こういう原作の改変に疑問を感じていました。そこまで読んできた「僕」の資質、姿勢、行動パターンから言って、これはないんじゃないか、と思ったからです。映画を観ても、「僕」が最初、店長と一緒のときに「僕」と出会ってすれ違いざま肘に触って合図したので、それがほんものかどうか確かめようと「僕」が120までは数えて待とうと思って待っていて彼女が予想通り戻ってきて彼とデイトするみたいに、ラストでも一旦別れを告げながら「僕」が立ち止まり、振り返って、数を数えて彼女を待とうとして、たまらず自分からバタバタとみっともなく駆けだして彼女の後を追い、立ち止まって顧みる彼女に、今までのことは全部嘘だ、好きだ、と告白する、この彼の行動については、まだ疑問を持っています。
結局彼のこの行動で、それまでの彼の三人の間での微妙な立ち位置や、そこで佐知子にとっても私たち観客にとっても「よく分からない男」であるがゆえに、その点での魅力もあった(それがなければ、単なるどうしようもない無責任でそれこそ不誠実で動物的本能だけもっていて無意味に生きているだけの屑みたいな男にすぎない)のに、その「わからなさ」や微妙な立ち位置というのが全部吹っ飛んでしまいませんか?ということです。
その「わからなさ」や微妙な立ち位置の中に、彼が静雄や佐知子に対してもっているかもしれない優しさ、思いやり、愛情なり友情なりの人間的な感情が隠れているわけでしょうし、それがあからさまでないから、佐知子を不安にしたり、不信を懐かせたり、静雄をいっそう佐知子の方へ押しやってしまったりもするわけで、この三人の関係を動かしていくモメントというのはその「わからなさ」や微妙な立ち位置の中にしかないわけです。
そうじゃなくて、最後にこんなことを告白してしまうのであれば、それまでの三人の関係の中で、実は「僕」は本当は佐知子を愛していたのであり、三人の関係の中でも実は内心でチクチクと嫉妬を覚えていたんだ、ということになってしまうでしょう。フロイド的な種明かしで、友情の絡んだ三角関係で、それがあからさまになるのが遅延しただけで、実はこうでした、というつまらない話で、「僕」という人間は一挙につまらない男になってしまいませんか?そういえば最後のバタバタはまるで子供みたいだし、最初から最後まで実は彼はまだ子供だったんですよ、という種明かしになってしまいませんか?
たしかにこれは本質的には友情も含めた対幻想の三角関係が話の骨格だし、チリチリした嫉妬心の類も原作もシナリオも映画もそこかしこで垣間見せてはいますし、途中までの3人の関係という骨格だけみれば、なにも変わるところはありません。でもこの作品を面白くしているというか、ありふれた三角関係話から一歩新しい物語へ踏み出しているのは、「僕」の資質、対人関係の基本的な姿勢、大げさに言えば世界との向き合い方の特異性にあって、本来は「僕」というキャラクターの「わからなさ」、曖昧さのうちにそれが描かれているはずのものです。それは原作の読者なり映画の観客から見ての彼の「わからなさ」、曖昧さであると同時に、作品の世界の中での佐知子からみた「僕」の「わからなさ」でもあるわけで、それが佐知子の心の動きに反映もし、3人の関係を動かしていく原動力であって、物語もそれによって展開されるわけです。
その「僕」の「わからなさ」の種明かしが、「好きだ!」ではどうにも納得しがたい(笑)。
じゃ、あの名ナレーション、シナリオの函館駅・構内の朝、「静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつを通してもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。すると、僕は率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」は一体どうなるんだい?と訊きたい。
そんなものは「僕」が見栄でオトナの振りして突っ張ったポーズに過ぎなかった、ってことになりゃしませんか?そういう「僕」の倫理的な生き方の核がなければ、この「僕」という男はほんとうになんのとりえもない屑で、「大人」の店長に遠く及ばず、あのいやらしいやつとして描かれた同僚の森口にも遠く及ばない不誠実なフーテンに過ぎなくなってしまうのでは?
原作ではそうはなっていなかったはずです。明らかに佐藤泰志は、そんな屑男として「僕」を描いてなどいないと思うのです。佐知子を愛してはいるのですが、それを決してストレートに表現できない存在として明確にその微妙な立ち位置を、微妙だけれど曖昧ではなく、正確に見定めて狂いなく描き切っていると思います。だからこそ、映画のラストの繊細さも何もないガキのような好きだ!なんて言葉で観客にカタルシスを感じさせてハッピーエンドなんてありえない。いくら肉体を重ねてもそういうふれあい方ができないからこそ、「佐知子を通して静雄を」あるいは「静雄を通して佐知子を」感じることができるだろう、という「僕」のモノローグが生きてくるわけで、これがこの作品の要であり心臓だと思うのですが、三宅監督はそうは思われなかったようで、それを単なるポーズ、言葉のカッコつけみたいなアソビにしてしまったようです。
もっとも、原作の「僕」や「静雄」、「佐知子」と、映画あるいはシナリオの彼らとは、もともとずいぶん設定が異なるのかもしれません。前者がおとなだとすれば、後者はこどもあるいは精神的、感情的にはまだ子供に等しい人物たちとして設定しているのかもしれません。そのほうが、現代の或る意味で幼児化した若者の世界に近いという感覚があるのかもしれません。
原作の「僕」と「佐知子」はこんな会話を交わします。約束をすっぽかされた佐知子が、「僕」に映画に誘った別の約束を思い出させて、連れてってくれと言い、なにに連れてってくれるのかと問う場面です。
「フェリーニの新作はどうだい?パゾリーニでもいいよ」
「パゾリーニなんて退屈よ。それに変態だわ」
「でも、あいつの小説はおもしろいよ」
ほかにもいくつか登場したと思いますが、こういう会話は映画の主人公たちにはさせられないでしょう。精神年齢にかなりの開きがあるからです。そして、上記の「僕」のナレーションが表現しているような3人の関係というのは、こういう言葉が交わせる程度の精神年齢の登場人物でなければ維持しえないものであるかもしれません。
もちろんこんなものは全部取っ払ってしまって、子供なら子供たちの世界での三角関係を描くことはできますし、引用したナレーションのようなポーズはよけいなことで、すなおに幼い子供のような若者たち3人の恋愛と友情ごっこ、多少の我慢比べのドラマが成立すれば、それならそれでよかったのだと思います。
柄本佑も染谷将太もそれぞれ個性の強い独特の存在感のある俳優なので、大人の身体をした子供にしてしまうのはもったいないな、とは思いますが・・・
ただ、この映画、困ったことに、そういう疑問な点があるにも関わらず、3人の登場人物はそれぞれ個性豊かに演じられて生き生きとしていて、とりわけ3人が遊ぶシーンが長々と撮られているのですが、あぁいうシーンの楽しさで見せてくれるところがあります。そういうときの3人、とりわけ先に書いたように、石橋静河の表情は素敵です。また、困ったことに、あぁいう疑問なラストの改変にも関わらずその最後の最後の石橋静河の表情のアップはこの映画の中でも一番いい、印象にのこる画面なのです。
たぶん私のような老人世代で私はもう秩序からもドロップアウトしたフリーな高齢者にすぎないけれども、まだ秩序の中で秩序を支えて頑張っているようなおじさんたちから見れば、つまり「僕」がバイトをしている書店の店長のような人たちから見れば、この3人の登場人物のような若者というのは、ほんとうにどうにかならんか、と言いたいようなだらしない、社会的に無責任な、そして男女関係にもだらしない(笑)、目的を見失ってただその日その日を、つかの間のことかもしれない世の中の一応の安定の中だからこそそのおこぼれで生きて漂っているような屑のような人間にしか見えないだろうな、という気がします。原作でもそうだと思いますが、この店長のような普通一般には社会的に責任感もあり、きちんと仕事をし、社会的規範の内部で堂々と生きている大人と、この作品の主人公たち3人のような若者とを対比的に描いているわけですが、ではそういう大人のほうからみてどうしようもない、店長が決して「僕」をクビにはしないで寛容な姿勢で対応するように、あわれむべき存在とみているだろう若者たちのほうには、どんないいところがあるのか・・・もちろんそれが無ければ、つまり書き手のほうに彼らに共感できる部分がなければ、こんな原作が書かれるはずもないし、こんな映画がつくられるはずもないわけです。
そうすると、私の考えでは小説では、彼らが旧世代の人間関係がすでに大きな欺瞞の内に築かれているにすぎず、人と人がじかに例えば膚触れあうことで、ほんとうに相手を感じ、魂まで触れ合うことができるかといえば、もうそんなことは信じられない。そういうしんどい状況のうちに生きて、それでも他者と共存していかなければならない、その不愉快さやもどかしさや、焦慮や苛立ちその他もろもろのそこから生まれてくるものに対して正直であるかどうか、それらをごまかさずにみずからの痛みとして受け止めているかどうか、それが問題の核心だということになるでしょう。そこに表面でどういう生活をしていようが、はた目には見えない苦通があり、傷を負っている魂というのがあるかもしれない。そういう苦痛に対する感受性をもちあわせているかどうか、ということが或いは作者の人間を判断するひとつの軸になるかもしれません。
原作の登場人物たちは、そういう自分たちの置かれた状況を鋭敏に感じていて、人と人が触れ合うことの不可能性とそれにもかかわらずそれを求めてやまない魂をもっていて、ただそれだけが彼らの関心事で、すべてがそこに集中していくがゆえにまた互いにぶつかったり、ぶつかることを過度に恐れて回避しようとしたり、そのことがまた却って他者を傷つけることになったり、ということを、狭い魂の実験場のような潜在的な三角関係の中で繰り返しながら、破綻を避けて安定的にそういう関係を維持していくために「僕」が生き方の倫理の核のようにイメージするのが、例のナレーションの言う ”「静雄を通して佐知子を」「佐知子を通して静雄を」新しく感じる” ような関係なのでしょう。少なくとも原作はそういうふうに3人を描いていたと私は思います。「僕」がどんなに屑のような若者であっても、こういう生き方の倫理に関しては、非常に自分に対して厳格で容赦なく、まさに誠実なのであって、そこにしか原作の作者がこういう若者を描く理由がないように思いますし、その一点以外に、書店の社長のような存在を対照的に描いてみせる理由もないように思います。そうでなければ、書店の社長のような人が思っているであろうように、「僕」のような人間もいずれは(もう少しオトナになれば)社長のようなどこにでもいる社会人になっていくだけのことでしょう。
それもこれも含めて、映像として象徴的なものであったはずの、三人傘のシーンが比較的あっさりと処理されてしまったことには不満が残りました。
saysei at 22:57|Permalink│Comments(0)│