2018年08月

2018年08月31日

柴崎友香『寝ても覚めても』を読む

 明日9月1日、この小説を原作とする濱口竜介監督の映画「寝ても覚めても」が封切で、見に行こうと思っているので、きょうは文庫本で出ていた原作のほうを読んでみました。「予習」ですね(笑)

 どこかでこの小説のことを恋愛小説と書いてあるのを見ましたが、読んでみて、そんな感じはしませんでした。これは恋愛小説というより、言って見れば「ひとめ惚れ」小説。恋愛小説に不可欠の恋愛のプロセスも(「出会い」以外は)描かれていないし、二人の関係がそれぞれが関わる友人をはじめとする人たちの中でどう変容していくか、というプロセスも描かれていません。2人の男性と暮らしても、その生活の中で男女の気持ちがどう深化していくか、あるいは離れていくか、どう成熟していくか、そういうことも描かれてはいません。またヒロインの朝子は、もっぱら語り手として見、聴き、感じ、想い、語る役割で、その姿、形も、内面も対象的に描かれるわけではありません。ヒロインだけでなくお相手役の二人の男性のほうも、一人の人間あるいは男性としての存在感が非常に希薄な印象です。

 朝子の前から何も告げずに消えて帰ってこない麦(ばく)は、そういう人にありがちなように、生活感や現実感に乏しい、よくある無責任な若い男で、私も昔、身近にいた若い女性がこういう男性と同棲して色々ありながら別れられず、腐れ縁のようにずるずる関わっていたけれど、男のほうが或る日不意にいなくなって、それでも彼女のほうは何年も待ち続けて・・・という実例を間近に見て来たので、そういう現実的な存在感の希薄な男に惹かれる女性がいることも、なかなか気持ちを吹っ切ることができないのも理解できなくはないし、これがいまふうの若い男性のひとつの典型的な姿なのかとも思いました。

 私の知った例ではどうやら男性と母親との関係に隠れた遠因がありそうで、本来はなかなか難しい時間の要素が入った対幻想の問題なのかもしれませんが、だとすればこれは恋愛というより恋愛の不能、というようなことになりそうです。ただ、この作品ではそういうテーマで掘り下げていくような意図は全くなさそうで、男はもっぱら語り手の女性から見られる薄っぺらな存在にすぎません。

 ないない尽くしで、ではいったい、何が描かれているのかと言えば、「ひと目惚れ」です。展望台から降りようとしてエレベーターから出てきた男との出会いの場面。

 若い男だった。ゆっくりと影が動くように、その人は降りてきた。彼の全部を、わたしの目は一度に見た。

 この一行は、それまでのしつこいくらいの展望台から見える街の光景や展望台にいる子どもたちについての子細な描写と好対照をなしています。

 もう一度、真下を見た。視界の中心に、光の残像が黒い閃光のような小さい塊になって残っていたが、しばらくするとそれも消えて、広い交差点がくっきりと見えた。二十七階分の距離を隔てた場所で、信号待ちをしている人たちがいて、いちばん先頭にいる女の人が、こっちを見上げているように見えた。一時間くらい前、同じ場所にわたしが立っていて、同じようにこのビルを見上げていた。だけど、下から上を見たときには、巨大な壁のような高層ビルの白い壁と黒く反射するガラス窓しか見えなくて、最上階のここに人がいるのはわからなかった。一時間前、そこには、交差点を見上げているわたしを見下ろしている人がいたかもしれない。

 
これほど事細かな描写に対応した、物を子細に見、かつ自分が見ている人の視点に自分を置いてどう見えるかを想像し、かつて同じ位置にいた自分が、今の自分の位置にいたかもしれない見知らぬ誰かにどう見えていたかを想像する、という見ることをめぐる知的な操作をさりげなくやってのける、凡庸でない語り手の朝子が、先の一行では「彼の全部を、わたしの目は一度に見た」だ(笑)。そんなことできるわけないじゃん、見てなんかいないよ、君は!と言ってやりたくなりますよね。ここで朝子はひとめ惚れして麦の存在を一挙に受け止めているのであって、実際のところ、それまで機能してきた彼女の感覚器官としての目は、ここでは何も見ていないでしょう。

 でも私たち読者がそのことに本当にきづくのは、もっとあとのことです。そこにこの著者の企みがあるのです。はっきり言って、何の魅力もない、うすっぺらで無責任な男だと思うけれど(笑)、この麦が朝子の前から消え、朝子がそれまでの大阪住まいから東京へ引っ越して後に、ちょうどこの作品の文庫で半分くらいのところでしょうか、またまた突如、彼女は麦と「瓜二つ」の、亮平に出合います。彼はどうやら姿かたちは麦と瓜二つだけれど、性格は麦のようにとらえどころのない、無責任な性格ではなさそうで、朝子は彼のことが好きな女友達を差し置く形で彼を手に入れるというか、まぁひとつになるわけです。

 ここまで何気なくストーリーだけ追っかけてきた読者は、現実にはありえないような、自分が失った恋人と「瓜二つ」のそっくりさんに出合って、前の彼が忘れられないから惹かれるのか、きっかけはそうであっても新たな男の魅力に惹かれていくのか、本人が自分でも分からずに戸惑い悩みながらも、だんだん強く新しい男に惹かれていく、という凡庸きわまりない、空想的な恋愛小説だと思うでしょう。

 ところがもう7、8分がた読み進んだころに、朝子が麦をよく知る女友達の春代と亮平を交えたレストランの席で亮平がトイレに立ったとき、こんな会話が交わされます。

 ・・・亮平の背中を見送ってから、春代が言った。
 「それなりに男前やーん。あさちゃん、面食い直ってへんな」
 春代は屈託のない笑顔だった。目尻でつけまつげが跳ねていた。 
 「えー、・・・・いや、そうかな」
 「しかもさー、麦くんとなんとなーくおんなじ系統やん。人それぞれ好みの顔ってあるよねー」
 「春代・・・」 
 テーブルの上を見渡した。わたしと春代の梅酒、亮平のビールの緑の瓶、豚の角煮、ピータン粥、麻婆春雨、くらげ。箸を揃えてテーブルに置いた。
 「なんとなく?」
 「うん。雰囲気的に被ってるっていうかー。そんなことない?これ、おいしいね」
 春代はわたしの前にあったピータン粥を蓮華ですくって食べ始めた。
 「似てない?」
 「似てるって言うてるやん」
 「そうじゃなくて、もっと、ほんまに似てるっていうか、そっくりと言っても過言ではないというか」


 この辺にくると、読むほうも、朝子と共に、ゾクッとして怖くなってきます。中田さんの「女優霊」ってホラー映画を観たときみたいに、心がゾワゾワとざわめくというか(笑)

 ここのところの描写が実にうまいし、作者はきっと、ここを書きたくてこの小説を書いたんやろなぁ、なんて思いました。私のような鈍感な、ストーリーだけ追っかけて斜め読みするだけの読者でも、ここに至ってようやく、それまでの亮平の描写というのが、すべて語り手朝子の恐ろしくバイアスのかかった主観的なものでしかなかったことを思い知らされます。そして、作者にしてやられたな、と思います。この手があったか・・・(笑)

 ここで失った恋人のそっくりさんに出合って、戸惑いと喜びと・・・という凡庸な作品が、根底からひっくりかえされる感じになります。

 そのあと、今度は、朝子の前から消えた麦が人気の映画俳優になって、再び朝子の前に現れ、朝子が女友達を押し退けてまでして獲得した形の亮平を棄てて、それまでつきあいのあった友人たちから総スカンをくらうも物ともせずに麦のもとへまっしぐら、自分を訪ねてきた麦と逃避行、さらに驚いたことに、こんどはその逃避行の山陽新幹線の中で、眠ってしまった麦の隣で、春代が最後に送ってきた写真をみていて、不意に回心する場面が・・・

 わたしは、見た。懐かしい麦の顔と、それを隣でじっと見つめている自分の顔と。十年前のわたしと今のわたしが、同時に麦を見ていた。うしろの黄色い銀杏は、葉を散らせている途中だった。黄色い葉が、空中で静止していた。
 新幹線の中じゃなくて、他に誰もいなければ、わたしは声を上げていたと思う。
 違う。似ていない。この人、亮平じゃない。
 隣の座席で眠っている麦を見た。
 亮平じゃないやん!この人。


 「麦じゃないやん!この人。」ではなくて、「亮平じゃないやん!この人。」なんですね(笑)。
 こうして彼女はそっと途中下車して、亮平のもとへ帰っていきます。普通の常識ある女性としてはあり得ないですね(笑)。女友達を押し退けて獲得した彼氏との生活を一方的に蹴飛ばして元カレのもとへ走って、友人たちの非難もなんのその、エゴを貫いてカレとうまくやりそうなところまでいって、また引き返すなんて。そんなこと許されんの?!と好きな人を盗られたと思っている千花でなくても思いますよね。でも朝子はビクともしない。誰にどう思われ何を言われようとゆるがない決意でもって亮平のもとへ帰ってくるわけです。「会いたかった」という朝子に、当の亮平だって当然予想されたように「おれはもう、会いたくない」と言います。でも朝子は動じません。「なんでもええから、亮平が、いっしょにいてくれたらそれでいい」と、あくまでもついていくのですね。

 新幹線の中で、朝子は初めて、本来彼女が備えていたよく物が見える眼をとりもどして、初めて麦と亮平がまったく別人だという、その違いを「見る」わけで、そのときの彼女の視座は亮平のほうに据えられていて、その位置から麦を「亮平じゃないやん!この人。」と言っているわけです。

 ひとめ惚れして、それが朝子を盲目にしてきた、その幻想が覚めて、ようやくふつうの恋愛ができる自分に戻る話、と言ってしまえば身も蓋もないけれど、かいつまんで言っちゃえば、そういう話です。その平凡な話を、語り手の語りにうんとバイアスをかけることで、読者を或る意味でだましだまし物語の7-8分がたまで引っ張っていって、そのあとは二転、三転のドンデン返しの大サービス。これがプロの作家の腕の冴え、ということなのかもしれません。

 もちろん、そうやって戻ってきた朝子を亮平が最終的に受け容れるかどうかは、この作品自体にとってはどうでもいいような気がします。7-8分がた読者を欺いてひっぱってくる作者の手腕と、そのあとの二転、三転の大サービスこそが、この作品の醍醐味なんだろうと思います。この手で「ひとめ惚れ」ってものをリアルに描いたともいえるわけです。

 語り手を欺く手法は、アガサ・クリスティの「アクロイド殺し」でお馴染みですが、あれも推理小説ファンの間では賛否両論あるそうです。私はクリスティの作品の中でも一番好きな作品と言っていいくらいで、欺かれて嬉しい、ってやつです。今回もなかなか面白かった。

 でも、これを濱口さんはどうやって映画化したんだろう?(笑)

 だって、原作の朝子は語り手として、麦と亮平が生き写しと言っていい瓜二つのそっくりさんです、と言えるし、それを読者に信じさせることができるけれども、カメラは嘘つけない。映画は麦と亮平を一人二役で演じたそうですから、それは劇中の朝子にとってだけでなく、私たち観客にとっても、「生き写し」であり、「瓜二つのそっくりさん」のはずです。そうかといって、いまのメイクの技術で別人のようにつくっちゃったら、それはそれで朝子の目で見て二人が「生き写し」だったということが見えなくなってしまいますから、そもそもこの物語が成り立たない。いったいどうやったんでしょう?!

 そこが映画を観る上での最大の関心事ですね。だって、アクロイド的なこの仕掛けこそが、この原作をかろうじてまっとうな小説作品として成立させているので、かいつまんで言っちゃったようなストーリーを普通に書いてしまえば、おそろしく凡庸な、しかも非現実的な似非恋愛小説でしかなくなってしまうでしょうから、この原作固有の価値を構成する部分を棄てずに映像化するなんてことができるんだろうか、と思ってしまいます。

 映像化のために、変更しているところがあるに違いないので、そこが映画監督としての手腕なのでしょうから、じっくり見せてもらいに行こうと思います。

 でも、そういう映画監督としての技術的な処理のことより、濱口監督がこの原作のどこに惹かれたんだろう?というのも興味深いところです。もちろん原作の上に書いたような「仕掛け」が面白くて、とうてい映像化が不可能に見える面白さだからこそ、そいつに挑戦してやろうとか(笑)・・・そういう遊び心もあるかもしれませんが、きっともっと本質的に柴崎作品に惹かれるところがあるんじゃないかと思います。

 柴崎さんの作品を読んだのは今回が初めてなので、どういう作風なのかも知らないのですが、この作品に関する限り、心に残るのは先に引用した、冒頭の展望台から街路を見下ろしている朝子の眼差しに見るように、平易な言葉ではあるけれども、非常に繊細というか単なる心理的な繊細ではなくて、とてもクールにものを見る上での精細さをもっていて、かつ知的な想像力がその描写の中で生き生きと働いているような文体といった印象があります。

 それと、これも先ほど引いた、麦と亮平が似ていることについての、朝子と友人春代の会話の場面のように、これという決定的なシーンでの会話を通した表現のドラマチックなこと。怒鳴りも叫びも泣きもしない、ただ何でもない会話を交わす中で、決定的な食い違いがこんなにもさりげなく露呈されて、全体のストーリーに決定的な転回点をもたらしているようなところに、ほとほと感心してしまいます。

 あともう一つは、この春代もそうですが、朝子をとりまく友人たちが、一人一人、とても生き生きして存在感があります。この感想の冒頭で麦は「存在感、現実感の希薄な」男だと書きましたが、彼の場合はそういう男としての存在感、現実感がある、と言ってもいいと思います。私が知った女性のカレシにそんなやつがいたいた、なんて書いたのも、そういうことで、あぁいう男は今の日本ではだれでも身近に、あぁ、そんなやついるいる、というアルアル男なのです。

 もっと生活感というか、昔の泥臭い生活臭ただようおかみさんみたいな存在感ではないけれど、いまの若者たちらしい、個性豊かな自分自身をもって生きているような連中の存在感がとても素晴らしい。これは大阪が舞台の前半では、彼女たちの語る大阪弁がとてもよく生きている気がしますし、後半でも先ほどの決定的な場面など、春代の大阪弁が効いているように思います。このへんは、「ハッピーアワー」で一番元気のいい世代の女性たちの強烈な個性を見事に描き分けた濱口監督が、この原作を読んで面白いと思ったひとつの要素かもしれない、と思いました。

 もちろんこの作品は朝子の主観を通して物語られているので、そういう周囲の友人たちの姿も彼女の目を通して語られるだけで、それ自体として個々に追究されているわけではないけれど、いつも朝子をとりまく多彩な声として背景を豊かにしていて、ときに決定的な場面で朝子の気持ちや判断にかかわりをもってきたり、最後に朝子が自らの行動によって総スカンをくらうような形で存在感を示します。このあたりの周囲の人物というのは、映像では具体的な役者が演じて、それをカメラがとらえるので、朝子の主観を通した像に比べて、より生々しい形で登場するはずで、そのへんがどう処理されるかも見どころの一つかもしれません。

 明日が楽しみですが・・・なんか明日の午前中は激しい雨だとかで・・・見に行けるのかな(笑)


 

saysei at 23:19|PermalinkComments(0)

2018年08月30日

蓮華寺

蓮華寺正面

 しばらくぶりに蓮華寺へ行きました。
 きょうは遅かったのでもう門を閉めるところでしたが、やはり人影もなく静かで、緑が美しくて、好きな場所です。ここへ来るといつの間にか天使が降りて来て、そばに寄り添っていてくれるような気がして、とても楽しく、癒されたようなこころもちになって帰ってくることができます。

蓮華寺の地蔵

 お寺さんなので、ほんとは天使じゃなくて、お地蔵様なのかもしれませんが(笑)。くぐり戸を入ると左手にこんなにたくさんのお地蔵様がいらして迎えてくださいます。きょうは入れなかったけれど、ご本尊にお参りさせていただくと、とても素敵な、池を中心とした庭を座敷で誰にもじゃまされずにゆっくり眺めることができます。庭には時折、大きな鷺が舞い降りてきます。前に一人で来た時は、私の姿をみてむこうが驚いて飛び立ちましたが、あまり大きいので、こちらが驚いたほどでした。お坊さんによれば、池の鯉を狙ってときどききているんだとか。

蓮華寺の前の川 山側
 蓮華寺を出ると目の前は八瀬、大原のほうから流れてくる川とそちらに通じる自動車道で、左手、東側は山が美しく見え、右手、西側は市街地へ通じる方角で、これから沈む夕日に川面が輝いていました。

蓮華寺の前の川 西側

 私はこの写真をとったところ、つまり細い橋を渡って対岸の少し小高いところにある高級住宅街を抜けて、叡電の駅へ。
叡電
 途中の踏切で。向こうに見える白壁のおうちのような家々が連なります。

稲穂実る田に赤とんぼ
 これは来る途中、叡電の宝ヶ池のあたりかな。もう稲穂がいまにも垂れようかというくらいよく実ってきておりました。その田んぼの上を、赤とんぼがたくさん飛び交っていました。写真には小さすぎて見えないけれど・・・1匹だけ中央に映っています(むこうの建物の右端のこちらに突き出した角の線のちょっとしたあたりの黒いシミが左の方を向いたトンボ・・・笑)。






saysei at 21:38|PermalinkComments(0)

2018年08月26日

OG &「孫」たちとの一日

20180826

OG&「孫」たちとの一日

 昨日は台風一過、再び焼きつけるような陽射しが強い一日でしたが、その暑さの中、OG2人が3人の子供たちをつれて車でわが家へ遊びに来てくれました。

 2年ぶりでしたか、子供たちの成長は目を見張るようで、わが家はもう孫も中学生になって半分大人の仲間入りなので、ちょうど可愛い盛りの「孫」たちが来てくれたように華やいだ一日でした。子供たちもわが家を覚えていてくれたようで、最初から緊張することもものおじすることもなく、のびのびと持ち前のエネルギーを存分に発揮して、次から次へと遊びを考えて3人で追いつ追われつするようにそこらじゅうを駈け廻り、みんな額に汗でびしょ濡れの前髪がべったりはりついているのが可笑しかった。

 2年前にはまだママの傍をはなれようとしなかった子も、すっかり逞しくなって急な階段を駆け上がり、2階からボールを投げたり、テーブルでの卓球に興じたり、ママの膝から大きく羽ばたいていく少年の姿を見せてくれました。

 まずは長男が連れて帰っているインコのアーちゃんに関心をもって、みんな2階でアーちゃんのお相手。間近で見るのは初めてのようで、興味深くもあり、半分おっかなびっくりでもあり、どう扱っていいのか戸惑っている様子。いつもは指を金網につけると近寄ってきてつついて甘えるアーちゃんも、いつになく大勢に囲まれ見られてちょっと興奮気味で、近寄ってきてはくれませんでした。

 ロフト形式の長男の部屋の天井のすぐ下にしつらえた寝所へ急な階段を上がっていったり、居間の床下に半地下の真っ暗な空間があると知ると興味津々、閉じ込められたら大変とこわごわながら次々に下りてきたがったり、テーブルで卓球したり、バスケットのまねごとしたり、子供たちは休むことを知らずに動き回っていました。

 パートナーが用意した昼食と洛北高校前のいつものケーキ屋さんのショートケーキに私の淹れた紅茶でお茶。ケーキ屋さんは昨日まで休みで、今朝行くと、11時オープンとの貼紙で、再度11時に過ぎにいくと今度はまだ作り始めたばかりで種類が乏しく、予約だけしておやつの時間に再々度とりにいったり、その日は、パートナー得意のいなりずしをつくる寿司揚げが、どうしても嵯峨の森嘉さんのでないと美味しくないということで、朝のうちに買いに行ったら、やはり前日まで休業中で、その日も午後1時以降でないとできない、ということで引き返し、お揚げ30枚ほど買いに午後再度嵯峨まで車をとばしていたので、どうもお盆前後というのは普段通りにはいかないようで、ひとつのことをするにも二度、三度試みないとだめなようだね、とパートナーと苦笑い。でも幸いみな結果はうまくいって、意図通りの昼食もおやつも叶ってホッとしました。

 OGたちも卒業して十年余、アラサーの子育てまっただなかで、つい先回りして、あれに注意しなさい、これしたらあかんよ、と言ってしまう、なんて子育ての難しさを言っていたけれど、子供たちは見るからに健康で、のびのびとして素直で、たくましく自立心をはぐくんでいて、ほんとうにいい子育てをしているな、と感心します。
 いま子育てのまっただなかにいると大変さばかりを強く感じがちだけれど、幼稚園の年中組さんとか、小学校へあがったばかり、といった子供たちは、ほんとうに邪気のない可愛い年ごろで、しかも親が思う存分スキンシップのできる貴重な時期。あとになって振り返ってみれば、親子関係を親の立場からみて、一番幸せな時期だったな、とおもえるような時期だと思います。

 小学校高学年ともなれば、とくに男の子だと、そうそうママにスキンシップさせてくれない()。うるさがられたりしてね。だけどいまのこの子たちを見ていると、ほんとうにママに全幅の信頼を寄せて何か訴えたりいちいち報告したり、その何とも愛らしい仕草や生き生きした眼差しをみていると、あぁ親として一番幸せな時期を過ごしているなぁ、と思わずにいられません。

 こういう子供の姿を見ていると、父親だった私でも、幼稚園へ迎えに行くと、向こうのほうからみつけて、お父さんっ!と、もう周囲もたしかめずにダーッと全速力で走ってきて、ドンッ!とぶつかるように胸に飛び込んでくるときの、わが子の弾けるような全身のエネルギーをこの胸に受け止めるなんとも言えない幸福感が甦ってくるようでした。

 もうそろそろ、と引き上げる段になって、いやだ!帰りたくない!と声があがったりして、最後に車に乗って一人一人握手してくれた3人の「孫」たちは、歓迎したわたしたちにとっても、本当に幸せな気持ちを残して行ってくれました。
 

 



saysei at 16:33|PermalinkComments(0)

2018年08月24日

将門記➉

将門一代の評価

 ただし、常陸の介維幾と交替使は(国は奪われ身は捕らえられるという不運に遭ったが)僅かに残されたよいめぐりあわせのおかげによって、常陸国衙に帰ることができた。それは例えば鷹に襲われようとした雉がわずかに生き延びて野原に残され、料理のためにまな板にのせられた魚が海にもどされたかのようなものであった。維幾は昨日は不幸な老人のもつ痛恨をいだき、いまは自分に次ぐ掾である貞盛の恩恵を蒙ったのだった。
 およそ将門が新皇の名声を失い、身を滅ぼしたことは、武蔵の権の守興世王や常陸の介藤原玄茂らのはかりごとから出たことであった。徳を失った新皇の悲しみ、身を滅ぼした嘆きはいかばかりであったろうか。それはいまにも開花しようとするめでたい穀類が早く萎んでしまうようなものであった。「春秋左氏伝」に言う。悪徳をほしいままにして公に背くことは、あたかもその威力を頼んで鉾を踏みつける虎のように自らを過信して無謀な行いに走ることだとものの本に書かれている。小人が才を持ってもその才を自由に活用することはできない。悪人は悪徳をほしいままにして、人間としての本来の徳を護り抜くことはできない。将来を見通す深い考えがなければ、近いときに憂いが生じるというのは、或いはこうしたことをいうのであろうか。将門は郡の役所においてすぐれた功績を積んで忠義のまごころを後世に永く伝えた。しかしながら来世の果を生ずべき一行としての、一生の間に行うべき第一の所業は猛々しい悪行をもっぱらにし、毎年、毎月、合戦ばかりしていた。それゆえ学問にはげむ人たちを問題にもせず、ただ武芸の類をもてあそんだにすぎない。楯を持って親族に対決を挑み、悪行をすすみおこない、そのために咎めを蒙った。その間に積み重なった悪行はついにその一身にふりかかり、悪行を謗る声は全国津々浦々になりひびいて、炎帝(神農氏)が軒轅(黄帝)と戦って版泉の野で敗れたごとく将門はついに北山の野で滅ぼされることとなり、永く謀反の汚名を残すこととなった。


将門残党の追補
 
 去る正月十一日、将門とその兄弟および同盟者らを追補すべしとの太政官符が、東海・東山道諸国に下された。その官符には、もし賊の首領を殺した者には求めに応じて四位・五位の位階を与え、また副将軍を斬った者にはその勲功に従って官位を与える、とあった。
 これによって、詔使である左大将参議兼修理の大夫右衛門督・藤原忠文、副将軍である刑部の大輔・藤原忠舒(ただのぶ)らが坂東八国に遣わされ、将門の大兄(前掲に舎弟とあり)将頼および玄茂は相模の国で殺害された。次に興世王は上総の国まで来たところを討たれた。坂上遂高、藤原玄明らはみな常陸の国で斬られた。
 次いで、東海道の討手の将軍藤原忠舒、下総の権少掾・平公連(良兼の子)が押領使として、4月8日に坂東の国内に入り、謀反人たちの仲間を尋ね討った。謀反人たちの中に将門の弟ら七、八人が剃髪して出家姿となって深山に入り、あるいは妻子を棄てて山野を彷徨い逃げ、なお残る者も恐れをなして姿をくらました。正月十一日の将門ら追補の官符を恐れて将門の残党は四方へ散ったのであるが、二月十六日に詔使がもたらした、自首によって罪を減免する恩赦の官符を頼みとして、ようやく朝廷に出向くようになった。


乱の賞罰

 この間、武蔵の介・源経基、常陸の大掾・平貞盛、下野の押領使・藤原秀郷らは勇猛な戦いぶりで勲功をあげたので、叙位の褒賞にあずかった。去る三月九日の奏上により、中務省は秀郷らの軍謀がよく忠節を尽くしたという意味の宣旨を下した。賊将門の首が征討軍の陣営に到着し、秀郷らの武功が認められたという。
 介の経基は、はじめ(将門が興世王と謀って経基を殺そうとしていると訴え)虚言を奏上したのではあるが、最後にはそのことが事実となったことによって、従五位の下に叙せられた。また、掾の貞盛は長年合戦を続けてきたけれども、いまだに勝敗をつけることができなかった。しかし秀郷が与力して謀反人の首を斬り討つことができた。これは秀郷の老練な計略が厳しく行き届いていたからなので、これを従四位の下に叙した。また貞盛は永年の危険や困難を経験して、いま悪逆な者らを討ち果たしたことは貞盛の奮励によるものである。よって正五位の上に叙した。
 こうした恩賞の沙汰によって、この事件について言うと、将門は間違って自分に過ぎた野望を懐いて流れゆく水が再び戻ることがないように死んでいったが、人に官位を与えるという恩恵をほどこしたことになるではないか。その心を恨みがましく非難はすまい。なぜなら、虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺すという。先にわが身を滅ぼして、死して後に他者の名を揚げる結果となったことを、憐れむべきだろう。
 いま調べてみると、昔かの国では六人の王の逆心によって七カ国に災難が降りかかったという。今は将門一人の謀反で坂東八カ国に騒動を起こした。たとえ望むべからざることを望んだはかりごとであったとはいえ、古今に稀な企てであった。ましてこの国には神代の時代から、このような例はない。
 それゆえ妻子は道に迷い、悔いるもすでに及ばぬ恥辱にまみれ、兄弟は居場所を失って身を隠すところもなく、雲の如く大勢いた従兵たちは、霞のたなびく彼方に散って、影のようにつき随っていた者たちは空しく道半ばで滅びてしまった。親子は生き別れして互いに山に川に探し求め、別れを惜しみながら夫婦が離れ離れになって国の内外に尋ね歩いた。四子との別れを哀しみ鳴いたという桓山の鳥のごとく親子生き別れ、三人の兄弟が別れるに際して最後に残った三本の荊樹を分けようとしたところ直ちに枯れて兄弟の別れを惜しんだという三荊のごとく兄弟生き別れを悲しんだ。犯罪を犯した者も犯さない者も香草と臭草とが同じ畔に交わっているように区別なく、心の濁った者もそうでない者も、涇水の濁水と渭水の清水が混んずるように、将門ゆかりの者たちはひとしなみに悲惨な目に遭った。
 まさにいま、雷鳴が百里四方に轟くように、将門の悪名はすでに千里を走って天下に広まっていた。将門は常に夏王大康のような勝手気ままな行いを好み、ついに周の宣王のような名君の道を見失ってしまった。よって、よからぬことを心の中でもっぱら思いめぐらし、天皇の位を争い奪おうとした。身の程をわきまえないこの罪によって、生きているときの名声を失墜し、気ままな行いの報いとして、死後に恥辱を受けるに至った。


将門冥界の消息

 巷説にいう。将門は前世からの因縁によって、東海道下総の国豊田郡に住んだ。しかし、もっぱら人殺しをすることばかりに、ちょうど馬の轡のように宿命的につながれ、一片の善なる心も持ちあわせていない。しかし生死に限りがあって、ついに没したが、どこを彷徨い、どこにとどまっているのであろうか。
 草深い地方の人が言うには、将門はいま三界*国(* 欲・色・無色の三界で、一切の衆生が生死輪廻する世界)の六道*郡(* 人が因果に応じて赴く地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの場所)の五趣*郷(* 六道のうち修羅を除く五つの場所)八難*村(* 正法をきくことのできない八つの障碍)に住んでいる。ただし中有*(* ちゅうう=死後49日間さまよう場所)からの使いを通じて、消息を知らせてよこした。余はこの世にあるとき、一善をもなすことなく、その悪行の報いによって悪趣*界(* 地獄、餓鬼、畜生の三道)を彷徨っている。私を閻魔に訴えている者は、いま一万五千人におよぶ。痛々しいことよ。将門は悪行をなしていたときは大勢の同心の者たちを引き連れて罪を犯し、その報いを受けるいまは様々な罪業を背負って一人苦しんでいる。その身を地獄の剣の林に置き、鉄で囲われた焼け残りの灰で肝を焼かれる。その苦しみ、痛みの激しさは言うまでもない。ただ一月のうちに一時だけその苦しみの休まるときがある。それは獄吏の言うには、お前がこの世にあるとき、誓願した金光明経一巻の助けによるのである、と。冥界の暦によれば、この世の十二年をもって冥界の一年とし、この世の十二カ月をもって冥界の一カ月とし、この世の三十日をもって冥界の一日とする。冥界の暦法をもってこの世の暦にかえていくと、わが日本の暦で九十二年(冥界の暦では七年八カ月)経てば、将門が金光明経(の書写)に立てた誓願により、本願を遂げて、いまの苦しみから脱することができるだろう、と。
 それゆえ、この世の兄弟、妻子、その他の人々のために慈悲を施しおこない、悪行を消し去るために善行を積め。口に美味であるといっても、生類を食べてはならない。心では惜しいと思っても、進んで仏僧には施しを与えよ、と。
 将門の亡魂からの便りはかくのごとくであった。
 
 天慶三年六月十五日記す。

 
 或る本にいう。わが日本の暦に、九十三年のうち、その一時の休みがあるはずだ。いまぜひとも私の兄弟たちに頼んで、この(金光明経書写という)本願を成し遂げ、この苦しみを脱しよう、と。 
 筆者の聞くところでは、生前の勇猛ぶりは死後には何の面目にもならない。驕りたかぶった行いの報いを受け、一生の仇敵を持ち、これらと角や牙をつきあわせるように激しく戦った。しかし強者は勝ち、弱者は敗北した。天下に同様の謀反が起き、これ(純友の乱のことか)と競うことは太陽と月のようである。しかし公の威力は増し、私の賊の力は滅んだ。およそ世間の理のすじみちから言えば、死することを厭うて戦いは避けねばならない。現世に生きて恥辱があれば、死後も名誉なことではない。ただ、今の世は末法の世である。なお悪行が盛んである。人々は心に闘争心を懐いているが、現実には戦にはいたっていない。もし戦が起きる疑いがあれば、後々の識者がとりあえず記録しておくべきである。よって田舎の名もなき者がここに謹んで書き記す次第である。

(底本奥書)
 承徳三年正月二十九日 大智房において酉の刻(午後6時)に書き終える
 同年二月十日未の刻(午後2時)読み終える


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 林 陸朗校註『将門記』(現代思潮社 新撰日本古典文庫2 1975年)に依拠し、その書き下し文、校註をもとに、時折、竹内 理三 校註「将門記」(岩波書店 日本思想大系『古代政治社會思想』1982年第2刷 所収)を参照しながら、ここ1週間ほど毎日いきなりこのblogに現代語訳していくのを楽しんできて、ようやく完了です。最初、前者の書き下し分で一読したとき、すごく面白いと思って、ノートにざーっと走り書きしていたので、それをそのまま写せばいいや、と思って、あらためて最初から読み直していくと、やっぱり校註をしっかり全部読まないとさっぱり分からないところが何カ所も出てきました。それで歩みがずいぶん遅くなりましたが、最初の走り書きで内容は頭に入っていたので、あとは前者の小見出しをつけてくれている区切りごとに二つ、三つずつ毎日楽しみながら訳してみました。

 この時代にも将門についても漢文についてもまったくド素人なので、あれだけ詳しい校註を読んでもなお間違いがいっぱいあるだろうと思いますし、内容がわかればいいや、くらいで適当にやってしまった箇所もあります。校註によれば、だいたいこの原文にも色々間違いや欠落があるんじゃないか、というところもあったりするようですから、まぁそこらは目をつぶって読んでいただければ、ざっと将門の乱という高校の教科書で武士の台頭のハシリみたいなことでちょこっと出て来て記憶にある事件の概略が、同時代の人の主観もまじえて楽しんでいただけるのではないかと思います。
 色々と分からないところの多いこの将門という人について、私自身、訳していて、とても興味が持てました。NHKの大河ドラマにもなっていたので、まだ見ていない5巻以降をぼちぼち借りて全部見たいと思っています。また専門の日本史の人たちが史実としての将門をどう見ているかも、機会があればちょっと覗いてみたいと思っています。

 この将門記の著者もわかっていないようですが、その立場もなかなか微妙で、興味津々です。終始将門に寄り添った視点で書いていて、もちろん謀反だ、天子の位を簒奪しようとした賊だ、と言うのだけれど、それまでの坂東八カ国を支配し、ならず者でよるべのない者が身を寄せるのをやくざの親分みたいに全部受け入れてしまう、そして敵対する伯父たち親類縁者との戦にあけくれて抜群の勇猛さ、戦術家としての冴えも見せる将門に、いたく同情的に見えます。他方、彼の敵である良兼や貞盛らが当初あまり将門との戦に積極的でなかったりする心のうちを描写していたりして、そのへんもとても面白く読めました。

 この著者が当時の知識人の癖でしょうが(いまも我が国の知識人もちっとも変っていないようですが・・笑)ひどくペダンチックで、今の人がやたら欧米の文筆家の言葉や概念を使いたがるのと同様に、中国古代の歴史あるいは神話上の人物の事績を引くので、校註なしではさっぱり意味がわからないところだらけになるところでした。おまけにその漢籍の引用の意味が間違っていたり、そもそも出典が違っていたりするらしいので、この著者も漢籍の知識をひけらかしはするけれど、それほどまっとうな学のある人でもなかったようで(笑)、そのへんもふつうの人間らしくて、むしろ親しみを感じながら読めました。

 

saysei at 19:16|PermalinkComments(0)

2018年08月23日

将門記⑨

貞盛、将門方の家々を焼き払う
 
 その後、貞盛、秀郷らは相談しあい、将門とても良い千年も命長らえているわけではない。自分も相手もみな同じ一生だけの身だ。しかし将門一人が人の世にわがもの顔にふるまって、自然様々なことのさしさわりになる。朝に夕べに悪行の限りをつくし、国内では村々に権勢を振い、利益をむさぼっている。それはまるで坂東を食いつぶす虫、地方に毒をもたらす毒蛇であって、最悪である。昔、漢の高祖は霊力のある大蛇(秦)を斬りすてて天下を鎮定し、漢の中心朱雲は大鯢(巨魚=不義の臣張禹)を斬りすてて天下を治めたという。いまこそ凶賊将門を殺して、その乱を鎮めるにとどまらず、将門は私的な争いから国家に対する反逆に至り、おそらく天皇の徳を損なうようになるのではないか。尚書に言う、天下が安泰であったとしても、乱を忘れず、乱れれば戦わなくてはならない。武装した兵士は強いといっても、訓練をしなければならない。たとえこの度は勝ったけれども、どうして今後の戦をわすれ得ようか。それだけではない。周の武王が病に伏せば弟の周公且がこれに代わるように万端怠りなく準備しなくてはならない。
 貞盛らは国に一命を捧げて、敵将門を討とうと決意した。そこで群衆を集め、甘言を弄し、武器を調えてその備えを倍の規模とし、二月十三日、強力な賊軍の本拠地下総の国境に到着した。
 新皇将門はいやしい敵どもを国内におびき入れようとして、兵士と使者を率いて幸嶋の廣江に身を隠した。貞盛はあれこれと計画を立てて事を運び、新皇の美しい邸宅からはじめて将門に加勢する者らの家々をことごとく焼き払った。その火煙は天に高く立ち上り、人家は絶えて地には住む者もなかった。わずかに残った僧侶らは居宅を棄てて山に入り、たまたま留まっていた兵士や女たちは道に迷い、遁れどころもなくなった。みな常陸の国が貞盛らに損なわれたことを恨みに思うよりも、将門がよく国を治めることができないことを嘆いた。


将門、北山に戦死する

 貞盛は将門を追い尋ねていたが、その日は探し当てることができなかった。その朝、将門は甲冑で身を固めて隠れどころを思案し、胸には反逆心を懐いて乱行を続けた。しかし普段戦いのときに将門のもとに馳せ参じる兵士八千余人はいまだ集まっては来ず、将門が率いる兵士は僅かに四百余人であった。そこで将門はしばらく幸嶋郡の北山に陣を張って待ち構えた。
 貞盛、秀郷らは鉾を十五里も投げたという漢の子反のごとく鋭く守りを固め、三千里もの長い旅程に剣をふるって戦った梨老のごとく功を立てようと作戦を練った。天慶三年二月十四日未申の刻(午後2時から4時ころ)、将門らと貞盛・秀郷らは合戦に及んだ。
 このとき新皇将門は風上に立って順風を得たが、貞盛・秀郷らは不幸にも風下に立った。その日、激しい風が枝を鳴らし、大地の響きは土塊を吹き飛ばした。南からの烈風のために北に備えて南側に立てた将門方の楯は前方北方に吹き倒れ、貞盛方の南に向けていた北側の楯は逆に兵士の顔を覆うように倒れた。そこでいずれも楯を離れて戦いあったが、貞盛方の中央の軍は動揺して攻め方を変えた。そこへ将門の従兵たちが馬に乗って討って出て、討ち取った敵兵は八十余人、貞盛方はみな追い平らげられてしまった。
 そこで将門方の軍が、敗走する貞盛方のあとを追って攻めてきたとき、貞盛、秀郷、為憲らに付き随っていた兵士ら二千九百人はみな逃げ去り、残っていたのは精兵たち三百余人だけであった。彼らは方角を失ってあれこれ廻りためらっていたとき、風向きが変わって追い風を得た。このとき将門は本陣に戻るところであったが、風下に立った。そこで貞盛、秀郷らは命を棄てて力の限り戦った。
 将門も甲冑を身につけ、駿馬にさらに鞭を入れて自ら奮戦した。しかしここでまさに天罰が下り、風に乗って飛ぶように駆けていた馬が突如その駿足を忘れたように遅くなり、馬上の人将門もまた梨老のような勇猛な武術を失ってしまった。将門ははからずも神の矢にあたり、北山の野辺に戦って、ひとりついにこの地に滅んだ。
 天下にいまだ将軍自らが戦ってひとり死んでしまうなど聴いたことがない。誰がそうしたことを予想しただろうか。わずかな過ちをただし直さないで、それが大きな害毒に及ぶことになろうとは誰が予想しえたであろうか。私的な勢力を拡大しようとして、まさに天皇の地位を奪い取ろうとした。そのため貞盛は、賊臣張禹を斬った漢の成帝の忠臣朱雲にことよせて、のさばる長鯢(四海を荒らす巨魚=朱雲が討った賊臣張禹)たる将門の首を刎ねた。こうして貞盛らは、同年四月二十五日、下野の国から解文(上申の公文書)をそえて、将門の首を進上した。


・・・to be continued.

saysei at 23:15|PermalinkComments(0)
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