2018年07月
2018年07月22日
みたらし祭

夕方、下鴨神社の「みたらしまつり」(御手洗祭)の足つけ神事に行ってきました。神社の立札説明によれば、御手洗池の井上社に祀られている瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)は、罪、穢を祓い除いてくださる神様で、昔から土用の丑の日にこの神池に足をつけ、灯明をお供えして御神水を戴くと、諸病にかからず、延命長寿の霊験あらたかと伝えられているそうです。

38℃を超える猛暑でも参道はこのとおりの人出。露店も出ていました。ただやはり緑が多いせいでしょうか、みたらし川の流れのあるせいでしょうか、参道に入ると木陰でもあり、そんなに暑さは感じないですみます。

鳥居をくぐったところには京都のなじみの店のテントが並んでいて、一番人気はやっぱりきょうは「みたらし団子」の店。ずらっと客の列ができていたのはここだけでした。
この団子は、みたらし川の源である湧き水の泡の形を象ったものだそうで、こんなふうに間をあけて串にさしてあるんだよ、と私より京都は長くて詳しいパートナーが絵を描いて教えてくれました。

まず本殿でお参りして、順路に従って御手洗池のほうへまわっていきます。その入口のところに、足つけ神事の手順が懇切に書いてありました。

靴を脱いでビニール袋に入れて、順路を進み、少し下り坂を、この朱の太鼓橋の下をくぐっていくともうそこが御手洗池。脚をつけると冷たい!この猛暑なのに、浅い池の水がちっとも熱くなっていないのです。それはこの水が地下を流れる水脈から湧き出す冷たい水だからでしょう。立命館大学の先生だったと思いますが、京都の地下の水脈を調査されたとき、上賀茂神社、下鴨神社、御所、神泉苑といった天皇家の聖地が、いずれも、北山から降りてきて京都の地下を流れる地下水のメインストリーム上に位置していたことがわかり、天皇家が水を支配する神様と深いかかわりのあることがよく理解できました。
古代から不断に湧き出していた水がいまもこうして滾々と湧き出して、私たちがその池の冷ややかな水に足をつけて厄災や穢れを祓い、御神水として戴いて私たちの身体を潤すというのも、考えてみれば不思議なことです。

靴をビニール袋に入れて下げ、裾をたくし上げて、気持ちの良い冷たい水の中を歩いて、入口で300円払ってもらってある蝋燭に火をともしてお燈明をあげます。

昼間なので写真ではよくみえないけれど、このプールみたいな浅い池の縁にお燈明をあげる台がしつらえてあって、みなさんここに突き出たさかさ釘みたいな芯に蝋燭を立てていきます。前に夜暗くなってから来たときは風情がありました。夕涼みがてら浴衣を着た男女も多くて・・・。きょうはまだ日の落ちるには少し早い時刻でしたから神事らしい雰囲気には少々あかるすぎました。

お燈明をあげたら池を出て石段をあがり、前の休憩所の長椅子に座って濡れた足を拭き、靴をはいて池と反対側の御神水授与所のほうへ進みます。御手洗池の深さはこのとおり、とても浅いものです。

御神水授与所に用意された、ここの湧き水をいただきます。京都の地下水は綺麗で、街中のお豆腐やさんが美味しい豆腐をつくれるのもこの地下水のおかげ。わが家の近くの赤の宮神社の井戸水も地域の方がペットボトルのでっかいのをいくつも自転車や車にのせて汲みにこられます。御所の東側の梨の木神社の水も有名ですね。

足形祈祷札というのを販売していました。こんなのがあったのに気づいたのは今回がはじめて。

その足形祈祷のための足型を象った木の札に名前かなにか書いてここへ納めたら、祈祷してくれるということかな。私はそういうのはご辞退するほうなんで(笑)よく見ないで通り過ぎました。

御手洗池のすぐ前(横?)にある神社のお社。これがたぶんこの足つけ神事の中心になる神様瀬織津比売命を祀るという御手洗社なのでしょうね。申し訳ないけど、ちゃんと確かめもせずお参りもせずに素通りしてきちゃいました。せっかく御手洗池に足をつけても効験がないかな(笑)

帰り道に「みずみくじ」と書かれた、おみくじを売るテントの店がありました。たしか300円だったと思いますが、ひきかえに紙を一枚くれて、これが水につけると、特殊な薬剤で書かれた占いの結果が出てくるんですね。若いカップルが二人ならんで「みずみくじ」を水にひたして結果を読んでいる様子なんか、すごくロマンチックで絵になる光景でした。羨しい!(笑)

これは御手洗池から採れた黒い小石で、鴨石といい、昔から子供の疳の虫封じの神石として信仰されていて、この日に限り授与される、と説明にありました。樽の中に入れてある小石を子供たちが選んでいるところかな。手前は昨年もらった小石を返すところらしいです。毎年取り換え取り換えして新たにいただくのが風習だそうです。

こちらは「鴨の神石」と言われる御神体。上の神石のでかいやつですね。

ここは本殿へいく前の参道の脇を流れるみたらし川へ降りられる石段のあるところで、ここで手を洗って穢れを落として参拝するという場所なのでしょうね。子供たちが喜んで浅い流れに入って遊んでいました。石段の一番上のところには帽子をかぶった姉妹らしい二人の幼い子がアイスクリームか何かをしきりに食べていました。
さきほどの御手洗池からの帰り道の解除所というところに、御手洗川を詠み込んだ歌がいくつか挙げてありました。そのうちの一番古い平安時代のは、古今集の次の歌でした。
恋せじとみたらし川にせし禊(みそぎ) 神はうけずぞなりにけらしも
もう恋などしないわ、と御手洗川で禊をして罪も穢れも拭い去って想いを断ち切ったはずなのに、神様はどうやらその願いを聞き届けてくださらなかったらしいわ、といったことでしょうかね。なかなか恋の煩悩は女性も男性も容易には断ち切れぬもののようですね。
saysei at 23:56|Permalink│Comments(0)│
半世紀遅れで読む「セヴンティーン」・「政治少年死す」
先日出たばかりの『大江健三郎全小説』の第3巻に、雑誌発表以来書籍化されてこなかった「政治少年死す」(「セヴンティーン」第二部)が収録されているというので、まだ読んでいなかったこの作品と、一対になったその第一部「セヴンティーン」とをあらためて、合わせて読みました。
はじめてこの小説が世に出たのが1961年(「文学界」1ー2月号)だそうなので、57年という月日が流れています。この作品のモデルである、山口二矢(17歳)による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件が起きたのは1960年10月。戦後政治史の山場になった安保改定(第1次)の年でした。事件から作品の上梓までの期間の短いことに驚きますが、大江は刺殺事件の直後からこの作品の執筆に着手したのでしょう。
たしか近松も実際の心中事件に接して1カ月後に曽根崎心中を書き上げたのだったと思いますが、すぐれた作家が現実の出来事から深い衝撃を受けたときというのはこういうものなのかもしれません。
はじめてこの小説が世に出たときの左右の政治党派からの攻撃やそれらをめぐるマスメディアの喧騒を離れて、いま過去の作品として静かにクーラーのきいた部屋で怠惰に寝そべって読んでみると、この作品の文体が17歳の少年の独白にふさわしく粗っぽい、けれども実に瑞々しい文体をもっていることに感嘆します。
17歳の少年の身体から自然に溢れ出てくる過剰なまでの生命力が、自分が自分であることの根拠を見いだせず、どこにも居場所を見いだせない鬱屈した自我の、或る意味ではこの年頃の少年にはありふれた様々な負の感情、何者かでありたいにもかかわらず何者でもありえない自己像への絶望、不安と傲岸、渇望と拒絶、焦慮に満ちた魂の彷徨と結びついて、自ら唾棄すべきもののようにみなしながら快楽をむさぼるような自瀆行為に象徴的に表現されています。
この状況を突き破って、本当の自分を見出したいにも拘わらず、自分は閉塞状況の中にある。何者かでありたく、何事かを成し遂げたい強い衝迫を秘めながら、現実の自分がしていることは何もかも自瀆行為に等しいみじめなもので、自分は実際には対他的な行動に身を投じて、例えばこのどうしようもない社会を変えていくべきだ、というような熱い気持ちだけは持ちながら、なすべきことを何一つ成し遂げられないインポテンツの状態に置かれている。・・・そういう激しい不安と焦慮がこの少年を突き動かして、こういう閉塞状況を破ることのできる契機を見出したいという激しい渇望を与えています。
このような少年が多かれ少なかれ、社会変革を視野に入れた過激な行動を共にする組織への帰属に活路を見出そうとするのは、決して不自然なことではないし、特異なことでもないと思われます。人が自分自身の生き方の中からつくり上げる自己思想で自ら拠って立つことができなければ、それがどのようなものであれ幻想的な共同性のうちに投身することで、いわば自分を共同性のうちに失うことで逆説的に自分を意味のある存在とするほかはないでしょうから。
それが政治組織であれば、それは右でも左でもよかっただろうし、宗教団体でもよかったでしょう。ただ、当時の状況では政治少年となっていくのが自然なことだったでしょう。彼が「左」に行かずに「右」を選び、さらにその既成の「右」の連中にも決別していくのは、それらのいずれもが中途半端で欺瞞的に思われたからではないでしょうか。彼はひたすら自分の肉体と精神が直接意味づけられるような純粋な関係を共同性に求めているので、彼がそこでついに見出すのが、彼にとっての幻想としての天皇だったのだろうと思います。
出版当時、主人公の少年の性的な自瀆行為と天皇を結び付けた記述として激しい非難をあびたそうですが、このような主人公の設定からは必然的な成り行きで、少年にとっては自らの不能感を克服し、その閉塞状況を突き破って、自己が解き放たれることは、つねにその行動が性的な喩で語られてきた少年にとって、まったき性的快感が得られることにほかならず、それは彼にとっては具体的な組織の汚れなどを排除した純粋な共同性の象徴そのものと一体化することでしか得られないものだろうからです。もちろん現実の天皇とはかかわりのないことです。
彼はその共同性のもとで具体的な組織の一員となっていくよりも、むしろ純化された幻想の共同性と対の関係を結ぶ巫女のような存在へと自らを昇華していくように見えます。
この小説は、なぜまだ確固とした政治思想も確立していないような少年が、「右」の政治思想に惹かれてその組織の一員となり、あたかもその手足としての暗殺者となっていったのか、というような、ありがちな問いかけに応えようとした作品だとは、いま読むと思えないのです。そういうたどり方をしようとすると、この作品は欠陥だらけで、肝心のそのプロセスが曖昧で、飛躍があり、粗雑にみえるでしょう。なぜ突然そうなるんだ、という疑問にとらわれるでしょう。
しかし、17歳という年齢の少年から青年へ、子供から大人への過渡期の、個を確立しようとしてしきれない時期の魂が、どのように幻想の共同性にとらえられるか、という一つのありようをたどってみせたものとしてみれば、どこにも過不足のない鮮やかなイメージを描き出しているように思います。
私は学生時代の終りころからしばらくの間、大きな私塾の講師として高校生とつきあってきた時期があり、ほかにも中学生の家庭教師をするなど、思春期の子供たちとある程度のつきあいがありました。そのなかでつとに感じていたことは、人によって幅はあるけれど、だいたい高校一年生、ちょうど16歳ころが一つの大きな境目だな、ということです。
具体的な指標はなにかといえば、そのころになると、それまではほとんど反応を示さず、理解も難しかった抽象的な言葉、概念にある程度興味を示し、理解できるようになる、ということです。
それは同時に、それまでは自分や家族や親しい友人などの狭い範囲の世界にとどまっていた視野が、もっと広い範囲へ、社会という直接には手で触れ肌で接することのできないものへも広がっていく、ということです。
それはまた同時に、性的な成熟のある段階をワンステップ上がるということでもあるらしく、それまでの関心ー無関心の両義的な反発や幼い好奇心と不安のような性が現実的、具体的な異性の手触りを獲得していく時期でもあったでしょう。あのころ盛んに「恋と革命!」と呟いていた生徒がいたのを懐かしく思い出します。
だから17歳というのは、ほぼこういう年齢であって、はじめて自分の外部に厳然として存在する社会に出会う時期。その前で自分がいかにちいさな存在であるかに気づく時期。でも一方ではまだその社会のほんとうの大きさも重さも怖さも知らない時期。したがって、自分がその中で何をなしうるかについて、また場合によってはその社会全体に対して互角に対峙し、抗い、変えられるかのような誇大妄想をも抱きうる時期。・・・
そして外部世界への個人的なものにすぎない違和を、普遍的な意味のある社会への批判や変革のモメントと無理にでも重ねようとし、その誇大妄想の中で自分を意味づけ、自分の位置をみつけようとする、そういう時期でもあるのだと思います。
考えてみればオウム真理教で最も純粋かつラディカルだった信者の一人井上なども、入信のとき、これに近い年齢だったのではなかったでしょうか。いまもあの教団の分離した後継をもって任ずる教団には若い人が入信しているそうです。政治団体のほうも学生運動などがまったく火が消えたようにほとんど消滅しているような状況の中で、どこかで同じような状況が進行しているのかもしれません。
負の連鎖を切るために何が必要なのか。私たちの社会はまだ誰もが答えられる明確な答えを見出してはいないように思われます。そうである限り、大江のこの作品はなまなましく生き続けていると言わなくてはならないのでしょう。
「セヴンティーン」全編は、そのような17歳がみごとにとらえられているように、あらためて思いました。
はじめてこの小説が世に出たのが1961年(「文学界」1ー2月号)だそうなので、57年という月日が流れています。この作品のモデルである、山口二矢(17歳)による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件が起きたのは1960年10月。戦後政治史の山場になった安保改定(第1次)の年でした。事件から作品の上梓までの期間の短いことに驚きますが、大江は刺殺事件の直後からこの作品の執筆に着手したのでしょう。
たしか近松も実際の心中事件に接して1カ月後に曽根崎心中を書き上げたのだったと思いますが、すぐれた作家が現実の出来事から深い衝撃を受けたときというのはこういうものなのかもしれません。
はじめてこの小説が世に出たときの左右の政治党派からの攻撃やそれらをめぐるマスメディアの喧騒を離れて、いま過去の作品として静かにクーラーのきいた部屋で怠惰に寝そべって読んでみると、この作品の文体が17歳の少年の独白にふさわしく粗っぽい、けれども実に瑞々しい文体をもっていることに感嘆します。
17歳の少年の身体から自然に溢れ出てくる過剰なまでの生命力が、自分が自分であることの根拠を見いだせず、どこにも居場所を見いだせない鬱屈した自我の、或る意味ではこの年頃の少年にはありふれた様々な負の感情、何者かでありたいにもかかわらず何者でもありえない自己像への絶望、不安と傲岸、渇望と拒絶、焦慮に満ちた魂の彷徨と結びついて、自ら唾棄すべきもののようにみなしながら快楽をむさぼるような自瀆行為に象徴的に表現されています。
この状況を突き破って、本当の自分を見出したいにも拘わらず、自分は閉塞状況の中にある。何者かでありたく、何事かを成し遂げたい強い衝迫を秘めながら、現実の自分がしていることは何もかも自瀆行為に等しいみじめなもので、自分は実際には対他的な行動に身を投じて、例えばこのどうしようもない社会を変えていくべきだ、というような熱い気持ちだけは持ちながら、なすべきことを何一つ成し遂げられないインポテンツの状態に置かれている。・・・そういう激しい不安と焦慮がこの少年を突き動かして、こういう閉塞状況を破ることのできる契機を見出したいという激しい渇望を与えています。
このような少年が多かれ少なかれ、社会変革を視野に入れた過激な行動を共にする組織への帰属に活路を見出そうとするのは、決して不自然なことではないし、特異なことでもないと思われます。人が自分自身の生き方の中からつくり上げる自己思想で自ら拠って立つことができなければ、それがどのようなものであれ幻想的な共同性のうちに投身することで、いわば自分を共同性のうちに失うことで逆説的に自分を意味のある存在とするほかはないでしょうから。
それが政治組織であれば、それは右でも左でもよかっただろうし、宗教団体でもよかったでしょう。ただ、当時の状況では政治少年となっていくのが自然なことだったでしょう。彼が「左」に行かずに「右」を選び、さらにその既成の「右」の連中にも決別していくのは、それらのいずれもが中途半端で欺瞞的に思われたからではないでしょうか。彼はひたすら自分の肉体と精神が直接意味づけられるような純粋な関係を共同性に求めているので、彼がそこでついに見出すのが、彼にとっての幻想としての天皇だったのだろうと思います。
出版当時、主人公の少年の性的な自瀆行為と天皇を結び付けた記述として激しい非難をあびたそうですが、このような主人公の設定からは必然的な成り行きで、少年にとっては自らの不能感を克服し、その閉塞状況を突き破って、自己が解き放たれることは、つねにその行動が性的な喩で語られてきた少年にとって、まったき性的快感が得られることにほかならず、それは彼にとっては具体的な組織の汚れなどを排除した純粋な共同性の象徴そのものと一体化することでしか得られないものだろうからです。もちろん現実の天皇とはかかわりのないことです。
彼はその共同性のもとで具体的な組織の一員となっていくよりも、むしろ純化された幻想の共同性と対の関係を結ぶ巫女のような存在へと自らを昇華していくように見えます。
この小説は、なぜまだ確固とした政治思想も確立していないような少年が、「右」の政治思想に惹かれてその組織の一員となり、あたかもその手足としての暗殺者となっていったのか、というような、ありがちな問いかけに応えようとした作品だとは、いま読むと思えないのです。そういうたどり方をしようとすると、この作品は欠陥だらけで、肝心のそのプロセスが曖昧で、飛躍があり、粗雑にみえるでしょう。なぜ突然そうなるんだ、という疑問にとらわれるでしょう。
しかし、17歳という年齢の少年から青年へ、子供から大人への過渡期の、個を確立しようとしてしきれない時期の魂が、どのように幻想の共同性にとらえられるか、という一つのありようをたどってみせたものとしてみれば、どこにも過不足のない鮮やかなイメージを描き出しているように思います。
私は学生時代の終りころからしばらくの間、大きな私塾の講師として高校生とつきあってきた時期があり、ほかにも中学生の家庭教師をするなど、思春期の子供たちとある程度のつきあいがありました。そのなかでつとに感じていたことは、人によって幅はあるけれど、だいたい高校一年生、ちょうど16歳ころが一つの大きな境目だな、ということです。
具体的な指標はなにかといえば、そのころになると、それまではほとんど反応を示さず、理解も難しかった抽象的な言葉、概念にある程度興味を示し、理解できるようになる、ということです。
それは同時に、それまでは自分や家族や親しい友人などの狭い範囲の世界にとどまっていた視野が、もっと広い範囲へ、社会という直接には手で触れ肌で接することのできないものへも広がっていく、ということです。
それはまた同時に、性的な成熟のある段階をワンステップ上がるということでもあるらしく、それまでの関心ー無関心の両義的な反発や幼い好奇心と不安のような性が現実的、具体的な異性の手触りを獲得していく時期でもあったでしょう。あのころ盛んに「恋と革命!」と呟いていた生徒がいたのを懐かしく思い出します。
だから17歳というのは、ほぼこういう年齢であって、はじめて自分の外部に厳然として存在する社会に出会う時期。その前で自分がいかにちいさな存在であるかに気づく時期。でも一方ではまだその社会のほんとうの大きさも重さも怖さも知らない時期。したがって、自分がその中で何をなしうるかについて、また場合によってはその社会全体に対して互角に対峙し、抗い、変えられるかのような誇大妄想をも抱きうる時期。・・・
そして外部世界への個人的なものにすぎない違和を、普遍的な意味のある社会への批判や変革のモメントと無理にでも重ねようとし、その誇大妄想の中で自分を意味づけ、自分の位置をみつけようとする、そういう時期でもあるのだと思います。
考えてみればオウム真理教で最も純粋かつラディカルだった信者の一人井上なども、入信のとき、これに近い年齢だったのではなかったでしょうか。いまもあの教団の分離した後継をもって任ずる教団には若い人が入信しているそうです。政治団体のほうも学生運動などがまったく火が消えたようにほとんど消滅しているような状況の中で、どこかで同じような状況が進行しているのかもしれません。
負の連鎖を切るために何が必要なのか。私たちの社会はまだ誰もが答えられる明確な答えを見出してはいないように思われます。そうである限り、大江のこの作品はなまなましく生き続けていると言わなくてはならないのでしょう。
「セヴンティーン」全編は、そのような17歳がみごとにとらえられているように、あらためて思いました。
saysei at 15:31|Permalink│Comments(0)│
2018年07月20日
島本理生『ファーストラヴ』を読む
今回、この作家が直木賞を受賞したと聞いたとき、ちょっと意外な感じがしたのは、力量のある作家だということは以前に読んだ作品で知っていたのですが、作品の傾向からするといわゆる純文学系の芥川賞だろうと思っていたからです。
そんな区別はどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、漠然とした区分けでは、直木賞はもう幾つかの十分に読者を楽しませる作品を書いて何を書いてもプロの物書きとして、一定の水準で書ける安定した語りの「芸」の力を備え、読者をカタルシスに導くエンターテインメント性を備えた作家を対象としたもの、芥川賞は大向こうの読者を意識する余裕など持ちようもない、これが自分と向き合ってはじめて書いた小説、というような作品も含めて、大方の読者を娯しませる語りの芸も拙く、視野狭窄のごとく視野は狭く、ただ深く一点を抉り、言葉が歪んでいるような作品であっても、その歪み自体がわたしたち読者の見慣れた世界像を一変させるような可能性をもった作家に与えられる新人賞、といういう漠然とした印象(偏見?)を持っているものですから、この作家の初期作品に触れた印象からは芥川賞系の作家かと思っていました。
でも考えてみれば、もうたぶんいろんな文芸の賞を受けたり、その候補になったりして、そんな区別など関係なく存分に力量を示して、作品が映画化されたりもしている作家なので、直木賞も当然と言っていい作家でしょう。ずっと前に「ナラタージュ」を読んだことをすっかり忘れていて、このブログで同じその作品の読後感を、先日重複して書いてからあまり日がたっていないのですが、そのときあらためて読んだその作品に或る種の通俗性を感じていたので、上に書いたような区別についての印象を別にすれば、直木賞というのもうなづけるかな、と受賞を知ってから思ったのでした。
通俗性というのは、ナラタージュは教師ともとその生徒であった高校生で卒業して間もない女生徒との恋愛を描いているのですが、女生徒の目を通して語られるその相方である教師があくまで「いいひと」で、それは惚れた女生徒の側から見れば、いくら大人びた子ではあっても、実際には男性経験も人生経験も未熟な年齢だから、せいいっぱい背伸びしているだけだから、無理はない、というのでいいのだけれど、作者はちゃんとそのことが分かっていなくてはいけないだろう、と。つまり教師の側のずるさや計算や、人間的な弱さや罪について・・・。そこが女生徒≒作者になってしまっていると、本来はイケナイ、病気の妻をかかえた教師と少しおませな女生徒との純愛、みたいなメロドラマになってしまう。そこが通俗的だという感想を持ったのです。
今回の新作『ファーストラヴ』は、タイトルだけ見ると、なんか初恋の甘いラブロマンスか、いやこの作者だからまさかそれは無いだろうとは思いながら、下手をすると「ナラタージュ」にも潜在している通俗性が顕在化したような作品なんじゃないか、と思ってしまうところはあったのですが、実際に読んでみると、この作品で作者は完全にそういう意味での通俗性は突き抜けてしまったな、と思いました。
それはおそらく作品の焦点になっている「父親殺し」の容疑で逮捕された少女が、「ナラタージュ」の背伸びして大人びた女性として描かれる存在とは異なり、幼い時期に深手を負った上に、ずっと家庭の中で父親の専制のもとで抑圧されて逃げ場もなく救い出す者もいない状況のもとで、或る意味ですでに壊れているような存在であることが、そういう通俗的な物語に流れようがない状況をつくり出しているとも考えられます。
家庭の中の専制君主でもある画家で教師でもある男と夫を恐れながらその支配に従属して少女を苛む状況に加担している女の夫婦のもとで事情があって引き取られ、父親の専制的抑圧のもとで育てられた少女が、唯一父親の反対に抗って、メディア業界のアナウンサーの就職試験を受けたまさにその日、父親の教える教場でもあるアトリエに出向いて、女子トイレで包丁で父親を刺殺したという事件が起こり、前夜、激しく父親と争ったこともあり、また本人も父を殺したと供述したこともあって殺人犯として逮捕されています。
この物語の語り手である臨床心理士の真壁由紀は、この事件を題材とするノンフィクションを書くよう依頼され、その容疑者環菜に接触していくことで物語が展開していきます。物語の主脈はもちろんこの環菜がほんとうに父親を殺したのか、殺したとしても、それはなぜなのか、その背景を弁護士と共に探っていくうちに、環菜を取り巻く家族をはじめとする過去に彼女と関わってきた人々、とりわけ彼女に接触してきた男性たちの行為が次第に明らかになっていく、というミステリー仕立ての展開です。
もうひとつの流れとして、この物語は、この語り手である真壁由紀自身の過去の物語が、夫の血のつながらない弟で由紀の学生時代の同窓である弁護士迦葉との現在もほんとうには「互いを許し合っていない」緊張をはらんだ関係を軸に展開していきます。この迦葉が国選弁護人として環菜を弁護することになっていたため、由紀と迦葉は緊張関係を孕んだまま謎を解いていくために協力して環菜に接触していくことになります。
こういう人物間の構図の取り方は見事なもので、極上のエンターテインメント・ミステリーを読んでいくように興味津々でページを繰ることになります。中身は読んでのお楽しみということで書きませんけれど、ここで徐々に明らかにされていく、環菜に癒えることのない深手を次々に負わせていく周囲の大人たちの残酷さ、醜さ、いやらしさは読む者に戦慄を覚えさせるような厳しいもので、もう「ナラタージュ」にあったような甘さはどこにもありません。
これは確かに極上のエンターテインメント・ミステリーとも読めるけれど、他方では現代社会の病根を鋭く剔抉する強力な社会派的メッセージとしての、広義の性的暴力に対する告発小説として読むことができるでしょう。それがどちらかと言えば単純で直截なレイプだとか、家庭内DVだとか、変態的なな性犯罪者とかいった顕在的な性的暴力ではなく、より陰伏的な、それだけ陰湿な、そして精神的にははるかに深手を負わせるようないわば心的なレイプのようなものが次々にあぶり出されてくるわけで、正直のところきつい小説です。タイトルの「ファーストラヴ」もそういう文脈の中で環菜が遭遇する受難のスタートを示す言葉で、決して甘い初恋の話などではないのですね。
主要な人物でそうした深手を負っていない者はいない、といった世界です。環菜はもちろんのこと、彼女に敵対的な検察側証人となる母親も、物語の語りである由紀も、彼女と緊張をはらんだ関係にありつつ協力していく迦葉も、みな深く傷ついた人間です。こういう世界を見せつけられると、いま私たちが住んでいる社会は、こうした一人一人の人間に本人の力ではどうにもならないような仕方で深手を負わせるような罠に満ちた世界だと思わざるを得ず、これからこの社会で育ち、生きていくことになる子供たちを考えるとき暗澹とした気持ちにならざるを得ないところがあります。
同時に、また、それは決して他人事のように語ることができない、つまりいつも被害者やその身内みたいな視点で語ることができず、みずからもまた意識する意識しないにかかわらず、また顕在的であれ陰伏的なものであれ、人を深く傷つけ、取り返しのつかない罪を犯す存在だし、いつも人は気づいたときにはすでにそうした「関係の絶対性」のうちに生きてきたのだと考えざるを得ないように思います。
作品としては、私が読んだいくつかの同じ作者の作品の中では、この作品が最も脂ののった、隙のない充実した作品のように思います。暗いばかりの作品ではなく、こうしたつらい状況を乗り越えて自分を取り戻していく環菜や由紀、迦葉の姿を見て読者も救われるところがあります。
本筋にはかかわりないかもしれませんが、弁護士の迦葉とその兄で由紀の夫の我聞という名前は、たしか仏教用語ですよね。「如是我聞」(われかくのごとくきけり)は太宰の作品のタイトルにもなっているからよく知っているけど、釈迦の迦と蓮葉の葉?で迦葉って何でしたっけ?そんな名前の弟子がいたんじゃなかったかな・・・いやうろ覚えで何も思い出せません。どこかで聞いたというか見たような言葉なんだけど・・・何か作者が込めた意味があるのかもしれませんね。
そんな区別はどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、漠然とした区分けでは、直木賞はもう幾つかの十分に読者を楽しませる作品を書いて何を書いてもプロの物書きとして、一定の水準で書ける安定した語りの「芸」の力を備え、読者をカタルシスに導くエンターテインメント性を備えた作家を対象としたもの、芥川賞は大向こうの読者を意識する余裕など持ちようもない、これが自分と向き合ってはじめて書いた小説、というような作品も含めて、大方の読者を娯しませる語りの芸も拙く、視野狭窄のごとく視野は狭く、ただ深く一点を抉り、言葉が歪んでいるような作品であっても、その歪み自体がわたしたち読者の見慣れた世界像を一変させるような可能性をもった作家に与えられる新人賞、といういう漠然とした印象(偏見?)を持っているものですから、この作家の初期作品に触れた印象からは芥川賞系の作家かと思っていました。
でも考えてみれば、もうたぶんいろんな文芸の賞を受けたり、その候補になったりして、そんな区別など関係なく存分に力量を示して、作品が映画化されたりもしている作家なので、直木賞も当然と言っていい作家でしょう。ずっと前に「ナラタージュ」を読んだことをすっかり忘れていて、このブログで同じその作品の読後感を、先日重複して書いてからあまり日がたっていないのですが、そのときあらためて読んだその作品に或る種の通俗性を感じていたので、上に書いたような区別についての印象を別にすれば、直木賞というのもうなづけるかな、と受賞を知ってから思ったのでした。
通俗性というのは、ナラタージュは教師ともとその生徒であった高校生で卒業して間もない女生徒との恋愛を描いているのですが、女生徒の目を通して語られるその相方である教師があくまで「いいひと」で、それは惚れた女生徒の側から見れば、いくら大人びた子ではあっても、実際には男性経験も人生経験も未熟な年齢だから、せいいっぱい背伸びしているだけだから、無理はない、というのでいいのだけれど、作者はちゃんとそのことが分かっていなくてはいけないだろう、と。つまり教師の側のずるさや計算や、人間的な弱さや罪について・・・。そこが女生徒≒作者になってしまっていると、本来はイケナイ、病気の妻をかかえた教師と少しおませな女生徒との純愛、みたいなメロドラマになってしまう。そこが通俗的だという感想を持ったのです。
今回の新作『ファーストラヴ』は、タイトルだけ見ると、なんか初恋の甘いラブロマンスか、いやこの作者だからまさかそれは無いだろうとは思いながら、下手をすると「ナラタージュ」にも潜在している通俗性が顕在化したような作品なんじゃないか、と思ってしまうところはあったのですが、実際に読んでみると、この作品で作者は完全にそういう意味での通俗性は突き抜けてしまったな、と思いました。
それはおそらく作品の焦点になっている「父親殺し」の容疑で逮捕された少女が、「ナラタージュ」の背伸びして大人びた女性として描かれる存在とは異なり、幼い時期に深手を負った上に、ずっと家庭の中で父親の専制のもとで抑圧されて逃げ場もなく救い出す者もいない状況のもとで、或る意味ですでに壊れているような存在であることが、そういう通俗的な物語に流れようがない状況をつくり出しているとも考えられます。
家庭の中の専制君主でもある画家で教師でもある男と夫を恐れながらその支配に従属して少女を苛む状況に加担している女の夫婦のもとで事情があって引き取られ、父親の専制的抑圧のもとで育てられた少女が、唯一父親の反対に抗って、メディア業界のアナウンサーの就職試験を受けたまさにその日、父親の教える教場でもあるアトリエに出向いて、女子トイレで包丁で父親を刺殺したという事件が起こり、前夜、激しく父親と争ったこともあり、また本人も父を殺したと供述したこともあって殺人犯として逮捕されています。
この物語の語り手である臨床心理士の真壁由紀は、この事件を題材とするノンフィクションを書くよう依頼され、その容疑者環菜に接触していくことで物語が展開していきます。物語の主脈はもちろんこの環菜がほんとうに父親を殺したのか、殺したとしても、それはなぜなのか、その背景を弁護士と共に探っていくうちに、環菜を取り巻く家族をはじめとする過去に彼女と関わってきた人々、とりわけ彼女に接触してきた男性たちの行為が次第に明らかになっていく、というミステリー仕立ての展開です。
もうひとつの流れとして、この物語は、この語り手である真壁由紀自身の過去の物語が、夫の血のつながらない弟で由紀の学生時代の同窓である弁護士迦葉との現在もほんとうには「互いを許し合っていない」緊張をはらんだ関係を軸に展開していきます。この迦葉が国選弁護人として環菜を弁護することになっていたため、由紀と迦葉は緊張関係を孕んだまま謎を解いていくために協力して環菜に接触していくことになります。
こういう人物間の構図の取り方は見事なもので、極上のエンターテインメント・ミステリーを読んでいくように興味津々でページを繰ることになります。中身は読んでのお楽しみということで書きませんけれど、ここで徐々に明らかにされていく、環菜に癒えることのない深手を次々に負わせていく周囲の大人たちの残酷さ、醜さ、いやらしさは読む者に戦慄を覚えさせるような厳しいもので、もう「ナラタージュ」にあったような甘さはどこにもありません。
これは確かに極上のエンターテインメント・ミステリーとも読めるけれど、他方では現代社会の病根を鋭く剔抉する強力な社会派的メッセージとしての、広義の性的暴力に対する告発小説として読むことができるでしょう。それがどちらかと言えば単純で直截なレイプだとか、家庭内DVだとか、変態的なな性犯罪者とかいった顕在的な性的暴力ではなく、より陰伏的な、それだけ陰湿な、そして精神的にははるかに深手を負わせるようないわば心的なレイプのようなものが次々にあぶり出されてくるわけで、正直のところきつい小説です。タイトルの「ファーストラヴ」もそういう文脈の中で環菜が遭遇する受難のスタートを示す言葉で、決して甘い初恋の話などではないのですね。
主要な人物でそうした深手を負っていない者はいない、といった世界です。環菜はもちろんのこと、彼女に敵対的な検察側証人となる母親も、物語の語りである由紀も、彼女と緊張をはらんだ関係にありつつ協力していく迦葉も、みな深く傷ついた人間です。こういう世界を見せつけられると、いま私たちが住んでいる社会は、こうした一人一人の人間に本人の力ではどうにもならないような仕方で深手を負わせるような罠に満ちた世界だと思わざるを得ず、これからこの社会で育ち、生きていくことになる子供たちを考えるとき暗澹とした気持ちにならざるを得ないところがあります。
同時に、また、それは決して他人事のように語ることができない、つまりいつも被害者やその身内みたいな視点で語ることができず、みずからもまた意識する意識しないにかかわらず、また顕在的であれ陰伏的なものであれ、人を深く傷つけ、取り返しのつかない罪を犯す存在だし、いつも人は気づいたときにはすでにそうした「関係の絶対性」のうちに生きてきたのだと考えざるを得ないように思います。
作品としては、私が読んだいくつかの同じ作者の作品の中では、この作品が最も脂ののった、隙のない充実した作品のように思います。暗いばかりの作品ではなく、こうしたつらい状況を乗り越えて自分を取り戻していく環菜や由紀、迦葉の姿を見て読者も救われるところがあります。
本筋にはかかわりないかもしれませんが、弁護士の迦葉とその兄で由紀の夫の我聞という名前は、たしか仏教用語ですよね。「如是我聞」(われかくのごとくきけり)は太宰の作品のタイトルにもなっているからよく知っているけど、釈迦の迦と蓮葉の葉?で迦葉って何でしたっけ?そんな名前の弟子がいたんじゃなかったかな・・・いやうろ覚えで何も思い出せません。どこかで聞いたというか見たような言葉なんだけど・・・何か作者が込めた意味があるのかもしれませんね。
saysei at 19:00|Permalink│Comments(0)│
篠原徹『民俗学断章』を読む
私は民俗学者でもなければ、民俗にとくに関心があるわけでもない一介の気ままな読書子にすぎないのですが、友人がれっきとした民俗学者で、こういう新刊を送ってきてくれたので、時間はたっぷりあることだし読まなきゃな、と思いつつも、以前にもらって読んだ、彼が趣味とする俳句に比重のかかった本とはちがって、本職の民俗学関係の硬めの文章ばかり集めた本なので、なかなか読み出すふんぎりがつかず、きょうまでツンドクしていた次第。
が、しばらく硬い本を読まなかったので、今日はふとその気になって、この気持ちが変わらないうちにと読み始めて一気に読んでしまいました。読みだせば速いほうなので、中身はけっこう素人にも分かりやすく、面白かったし、エアコンの効いた部屋で昼前と午後いっぱい、夕方散歩に出かけるまでの時間をたっぷり楽しめました。
著者は現在は自他ともに認める民俗学者ですが、学生時代は植物学や考古学を専攻する学科で学んで、自分で書いているとおり「民俗学という学問のディシプリンは受けたことがない」人だからでしょう、既存の「民俗学者ムラ」の住民になってからも、外からの目を持ち続けて、こんなのおかしいじゃないの、ということをずっと言い続けてきたようで、今回も従来の民俗学への批判の舌鋒鋭い文章が並んでいます。
特定の学問領域内部の評価や批判というのは所詮内輪のことで、私のような部外者には無関係で、民俗学がどうなろうと知ったこっちゃないわけですが、著者が民俗学というのは「現在にかかわっていく学問」であって、歴史が残したカケラをひろって過去を再現するような学問じゃないんだ、みたいなことを言うのを聞くと、おや、まんざら学者さんの古いものいじりの世界じゃなさそうだな、と興味がもてそうな気がしてきます。
民俗学という言葉を聞いたとき、わたしなどが思い浮かべるのは、農山村を訪ねてそこに残る祭やしきたり、言い伝えなどを土地の古老に聞いたり、生業を調べ、生活道具なんかのことを調べてまわるような学問です。急激に変貌する現代にあっても、どこかその片隅に残っていて時折(祭りのときとか冠婚葬祭のときとかに)顔を出すような、遠い過去に源を持つ伝承の類を足を使って蒐集し、記述することで、その種の今はほぼ失われている、文字に残された記録を持たない人々、いわゆる常民の暮らしや文化を再現してみせるようなことでしかありません。
でもそんな私が思い描いているような、いわゆる「伝統」なんてものは「日本が明治維新以降押し寄せてくる西洋近代に拮抗するため伝承的文化の中から恣意的に引き出され、西欧近代に対峙すべく創りあげられていった思想や行為」にすぎない、と篠原は言うのですね。
彼はそういう「伝統」というものと「伝承」とを峻別してみせ、さらにその「伝承」というのは「寺子屋や近代の教育制度の文字から得られる知識や感性以外のすべての非文字的な文化一般」であって、祭や儀礼のようなものばかりではなく、「身のこなしから態度・躾などの身体技法、技能や社会組織や人間関係、自然認識や民俗分類などいたるところに」展開される、人々の集合的意識の治世や感性が民俗として外化した多種多様な形態をみな包括する概念だとみなしています。
民俗学を現在学だという民俗学者はほかにもいるようですが、彼は自身をそれとも区別して、聞き書きや観察で現在の人々の生活の中から近代の教育システムではないところで伝承されてきた現在の様々な「民俗」をとりだして、かつてあったその社会の中での機能的な連関や構造的な連関を導き出すようなのはあくまでも「歴史学としての民俗学」で、いわば関心のベクトルが過去を向いてるじゃないか、と言っているようです。それに対して彼自身の民俗学というのは、「現在の我々の有り様を知りたい」がための学問であって、「民俗学が教えてくれる過去は現在を知るための参照枠」にすぎないんだ、というのです。
そんなふうに考えなければ、例えば「ご飯を箸で食べる習慣をもつ人がコンピュータを扱って世界の動画サイトを楽しんでいる」ような現在がとらえられない。その両方を一身に体現して生きている不可思議が理解できない、というわけです。
民俗語彙の蒐集のような従来の民俗学に固有の方法が意味するところも、したがって彼によれば、「古典の理解に役立つ」ことでも「遥か昔の常民に聖性を付与する」ことでもなく、「日本人の生活がどんな風に時代とともに発達改良し」(柳田)てきたかを探究するため、生活変遷を見るための測定のための語彙蒐集なのだ、と柳田國男の言葉を引いて、あくまでも「人々の生活史を前提とした現在学としての生活誌」を編むことを主張しています。
それに対して、柳田以降の民俗学者の関心はどこまでも過去であり、柳田にはあった「時代とともに発達改良」という考え方がどこにもないじゃないか、というのが彼の批判です。
このような、なにごとかを論じる自分自身のありようをも含む現在への関心の欠如を鋭く指弾する姿勢に接すると、私などはつい、50年近く前に団交の場で「あんたがやっていることは、ふだんあんたが講じている学問とどう関りがあるの?」「あなたの学問ってのはいったい、あなたのその生き方とどんな関りがあるんだ?」と居並ぶ教授たちに対して学生側が詰問し、つい昨日まで権威主義的にふるまっていた教授たちがオロオロしてまともに答えることもできなかった場面が浮かんできます。
あのころの私自身は、自分のプライベートな問題で四苦八苦していて、著者篠原がどこで何をしていたか詳しくは知らないのですが、同じ時代の空気を吸ってきたことは確かで、そのことを彼のいまの民俗学批判の基調低音みたいなものとして聴き取ることができるように思いました。
この本の別のところで、他者が理解できるか、と自問し、どうすれば他者を理解することができるか、という問題意識を、彼がずっと抱えて来たことを明らかにしているところがありますが、その部分についても同様の感想を持ちました。
彼は吉本隆明の詩を引用しながら、若き吉本と共に、「生まれ、婚姻し、子を生み、育て、老いた無数の人たち」の「生きる方法」をどのようにしたら同じ地平からみることができるのか、と自問し、「他者理解は最終的には不可能であるが、限りなく漸近線的に近づく方法はないものだろうか」と重ねて問い、「その結論はいまだに不明だが・・・」とこの自問を長く維持しつづけてきたことを示唆して、既成の民俗学への彼の批判的観点がどこから生まれてきているかを明らかにしつつ、「人々の生活や社会から切り取られた民俗的なものをいくら捏ね上げても何もわからない、民俗を生活の中で見て行かねばならない」と強調しています。
こういう姿勢は篠原に一貫していて、私はそこに時代の影を見るように思います。それはひょっとすると前世代にも後世代にもうまく通じないかもしれないな、とも思います。「民俗を生活の中で見ていかねばならない?あたりまえじゃないか」で終わって、何も理解しないかもしれない。そんな気がします。
単に「聞き書き」のような民俗学の既存の方法で民俗語彙を蒐集し、その魅力にとりつかれて常民の思考様式に恣意的な解釈と想像を膨らませて、かえって限りなく対象の実像から乖離していくありきたりの民俗学者の轍を篠原が踏まずに済んだのは、「聞き書き」とセットで彼が自分の固有の方法として、植物学の知識をベースとする科学的な「観察」の方法を身に着け、「聞き書きと観察の共振」を武器として対象に迫ってきたことによるのでしょう。
その例として、彼が挙げているエピソードの一つに、鵜飼の調査があって、この部分は具体的でよく分かり、面白い読み物になっています。
広島県の三次市で鵜飼の技術を調査するために鵜匠を訪ね、鵜の技能がどういうプロセスで獲得されるのか、鵜の管理・馴致にあたって鵜匠が鵜の生態や習性にどのような知識で対応しているかを知ろうとして、篠原はまず1週間ほどは許可を得て鵜とその小屋の観察し続け、鵜匠の給餌の方法や管理の技術を観察した上で、数回にわたる聞き書きや観察を重ねて、最後に鵜飼を鑑賞させてもらっています。
こういう彼の調査姿勢について、調査に協力してくれたその鵜匠は「今まで高名な歴史家や民俗学者や俳句の吟行の連中が来て俺から話を聞いていったが、鵜を積極的にみていった奴はいないね。あんたは帰って鵜匠を始める気かい」と冗談交じりに言ったそうです。大抵の民俗学者は、篠原の「観察」の部分をすっぽかして、鵜匠への聞き書きをしたらさっさと帰ってしまっていたようです。
人々の生業に関心をもち、その技術や民俗にも当然民俗学者は関心を持っていたはずだし、その中で自然と共に生きる人々が、どう自然を利用しているかにも関心はあったはずですが、おそらく自然そのもの、自然を利用する技術そのものについての知識も関心も弱く、その関り方に切り込む有効な視点をもつことができなかったのでしょう。
その点で篠原が岡山県の蒜山高原で研究者としてのスタートを切る中で、大学で専攻して学んだ植物学などの科学知識をベースにしながら、生活者が身の回りの草木、自然をどのように使い、生活の中に取り入れ、役立ててきたか、そのために不可欠な自然についての知識をどのような形で身に着けているのか、といった問いに答えるために、徹底して地域の自然を構成する要素を調べ、またその自然についての地域の人々の認識とそれを利用する技術を「観察」することを、「聞き書き」と必ずセットで実行するという固有の方法を見出し、その後いわゆる民俗学の領域に本格的に分け入ってからも、人と自然とのかかわりをテーマに、この自分が見出した方法を捨てることなく、導きの糸として、道を踏み外さずに努力してきたことの強味が、みごとに生かされているという気がします。
第4章で学生時代の共通の友人掛谷誠のトングウェのモノグラフの引用があって、この非集約的農耕を基礎とする部族の行動を貫く原理として「最少生計努力」を取り出して見せたとき、「人間の社会にこうした有り様が存在するのかと驚愕した」と書かれているのを、懐かしさとともに、なるほど私とはずいぶん違う印象で読んでいたんだな、と感じました。
彼は掛谷が意図したとおり、インテンシブな農耕(集約的農耕)に対比してトングウェの生産様式をエクステンシブな農耕(非集約的農耕)として示し、そこから後に、トングウェのようなアフリカ社会にも圧倒的なうねりとして押し寄せる近代化の波の中で、強いられるインテンシブな生産様式による近代化とは別に、伝統的なエクステンシブな生産様式を生かしながら近代化していく困難な方途の模索へと展開していくことになる道筋に沿って、非常に素直にその意味するところをよく理解して驚きとともに受け止めていたんだな、と思いました。
私は掛谷がインテンシブな生産様式≒生活様式に対してエクステンシブな生産様式≒生活様式をどう対峙させ、生かしていくかという問題意識をもって「最小限努力」という原理ということを言ったのだということには思いいたらず、やはり通常の近代的な社会発展のモデルにとらわれた考え方の中でしか、この対比をみていなかったので、或る意味で発展の契機を逸し、小規模なスケールの内閉的な社会のまま固定化する環境にめぐまれたために、閉じた自己完結的な生産様式≒生活様式にとどまった社会が、具体的にどのような生産様式、生活様式をもって存在しているかを調べただけのものという目でしか見ておらず、ここに近代化のメインストリームとは異なる可能性を見るような視点を欠いていたのだと今にして思い返します。
従って、掛谷の「最小限努力」という原理の提示についても、そんなことはこうした停滞した部分社会では、わざわざ指摘しなくても自明のことではないか?実際の調査によるデータで裏付けることが科学者としては必要なのかもしれないけれども、掛谷ほどの男ならもっと別の展開ができたのではないかと思い、不満を覚えたのです。部族の生活環境としての植生や、生活の諸要素は見事に精緻に網羅的に記述されていたので、彼は初めての海外調査のモノグラフを書くにあたって、学会向けに手堅い観察と記述で固める、一種の「武装」をしたな、というのが私の印象でした。
今回篠原の素直な感動の仕方を知って、なるほど、そのほうが後の展開を考えれば、ずっと掛谷の意図に即して彼のやったことをまっとうに受け止めることになっていたんだな、と思いました。
ただ、その後の掛谷の歩みが苦悩に満ちたものであったことに象徴されるように、近代化の行く末がもう袋小路の見えるあたりまできているとき、本当に近代化の別の道について希望が見えているかというのはまた別問題でしょう。
こういう大問題についても篠原は本書の中で面白いことを示唆しています。第4章「民俗自然誌という方法」の中で、「創る自然」ということで、マテバシイの話が出てきます。房総半島の外房で自然林かと見紛うマテバシイの純林があるけれども、それが実はナマリ節製造の燃料確保のために植樹された「創られた森」であったことや、内房に展開するマテバシイ林が、実はノリ養殖で使われる「ヒビ立て」の素材にされるために植林された「創られた自然」であったというエピソードです。
この「創られた自然」というのは、彼が考えた人間と自然のかかわりで、「自然利用の民俗」を4類型で考えたうちの一つです。
あとの三つは「自然を生かす」技術、「自然をたわめる」技術、「自然を変える」技術で、最後がこのマテバシイの林のような「自然を創る」技術でした。この各類型の呼称は掛谷のサジェスチョンで元の硬い表現をこういうやわらかな表現にしたのだそうです。掛谷らしい、いい助言だなと思いました。
それぞれの技術の事例を具体的に述べている部分が非常に面白くて、「自然を生かす」ではミツバチの養蜂の話、「自然をたわめる」では鵜飼の話が抜群に面白い。
でも私たちの社会がどうなっていくのか、そういう大きな展望を考えていく上で示唆を与えるのは、この「自然を創る」話のように思います。私も大昔に、吉本隆明の示唆をベースに、「人工的自然」という矛盾するような概念が生かせないかと考えていた時期がありました。
私のは街づくりのような仕事の中で、そういう考え方が生かせないか、と思ってあれこれ小さな類似の事例をひろって考えていただけですが、地球レベルでそういうことを真剣に考えていかなくてはならない時期が来ているように思います。
最後に、篠原が理想とする(あるいは当然そうあるべきだと考える)民俗学の行きつくゴール、到達しがたいようなゴールとして幻視するのは、どうやら彼自身がその中で生きる経験をもつこともできなかったし、民俗学者となったいまもタブーを侵犯する形でかろうじて垣間見ることはあっても、ついには立ち入ることを拒まれる「土俗」と彼が呼ぶ領域のようで、彼はそのつかもうとしてもつかみきれないと感じる「最後の部分」を詩あるいは小説のようなフィクションの描く世界でしか成就されないもののように描き出しています。
会田綱雄の「伝説」など引用されると、感覚的に納得してしまいそうになりますが、待て待て、それもまた篠原流の民俗的幻想ではないの?と半畳を入れて、眉に唾つけて用心ぶかく留保して読み過ごしておくことにしましょう。
彼が「おわりに」で記しているところによれば、共通の友人掛谷誠が「人類学者は詩を書かない詩人なんや」と言っていたそうで(そういえば彼がそんなことを言っているのを私も聞いたような気がする)、その顰に倣って篠原も「民俗学者は詩を書かない詩人なんや」と居直ることにしたそうですから、「土俗」はその詩の中にしかいないのかもしれません。
私も彼らと親しい友人であった学生時代には「詩を書かない詩人」のつもりでいたこともあったけれど、いまは「詩を書かないただのひと」(笑)にすぎないので、篠原のような友人からは、また「ずるいよ、人の書いたものにケチだけつけて、自分は書かないんだもの」と言われるかもしれません(笑)。
が、しばらく硬い本を読まなかったので、今日はふとその気になって、この気持ちが変わらないうちにと読み始めて一気に読んでしまいました。読みだせば速いほうなので、中身はけっこう素人にも分かりやすく、面白かったし、エアコンの効いた部屋で昼前と午後いっぱい、夕方散歩に出かけるまでの時間をたっぷり楽しめました。
著者は現在は自他ともに認める民俗学者ですが、学生時代は植物学や考古学を専攻する学科で学んで、自分で書いているとおり「民俗学という学問のディシプリンは受けたことがない」人だからでしょう、既存の「民俗学者ムラ」の住民になってからも、外からの目を持ち続けて、こんなのおかしいじゃないの、ということをずっと言い続けてきたようで、今回も従来の民俗学への批判の舌鋒鋭い文章が並んでいます。
特定の学問領域内部の評価や批判というのは所詮内輪のことで、私のような部外者には無関係で、民俗学がどうなろうと知ったこっちゃないわけですが、著者が民俗学というのは「現在にかかわっていく学問」であって、歴史が残したカケラをひろって過去を再現するような学問じゃないんだ、みたいなことを言うのを聞くと、おや、まんざら学者さんの古いものいじりの世界じゃなさそうだな、と興味がもてそうな気がしてきます。
民俗学という言葉を聞いたとき、わたしなどが思い浮かべるのは、農山村を訪ねてそこに残る祭やしきたり、言い伝えなどを土地の古老に聞いたり、生業を調べ、生活道具なんかのことを調べてまわるような学問です。急激に変貌する現代にあっても、どこかその片隅に残っていて時折(祭りのときとか冠婚葬祭のときとかに)顔を出すような、遠い過去に源を持つ伝承の類を足を使って蒐集し、記述することで、その種の今はほぼ失われている、文字に残された記録を持たない人々、いわゆる常民の暮らしや文化を再現してみせるようなことでしかありません。
でもそんな私が思い描いているような、いわゆる「伝統」なんてものは「日本が明治維新以降押し寄せてくる西洋近代に拮抗するため伝承的文化の中から恣意的に引き出され、西欧近代に対峙すべく創りあげられていった思想や行為」にすぎない、と篠原は言うのですね。
彼はそういう「伝統」というものと「伝承」とを峻別してみせ、さらにその「伝承」というのは「寺子屋や近代の教育制度の文字から得られる知識や感性以外のすべての非文字的な文化一般」であって、祭や儀礼のようなものばかりではなく、「身のこなしから態度・躾などの身体技法、技能や社会組織や人間関係、自然認識や民俗分類などいたるところに」展開される、人々の集合的意識の治世や感性が民俗として外化した多種多様な形態をみな包括する概念だとみなしています。
民俗学を現在学だという民俗学者はほかにもいるようですが、彼は自身をそれとも区別して、聞き書きや観察で現在の人々の生活の中から近代の教育システムではないところで伝承されてきた現在の様々な「民俗」をとりだして、かつてあったその社会の中での機能的な連関や構造的な連関を導き出すようなのはあくまでも「歴史学としての民俗学」で、いわば関心のベクトルが過去を向いてるじゃないか、と言っているようです。それに対して彼自身の民俗学というのは、「現在の我々の有り様を知りたい」がための学問であって、「民俗学が教えてくれる過去は現在を知るための参照枠」にすぎないんだ、というのです。
そんなふうに考えなければ、例えば「ご飯を箸で食べる習慣をもつ人がコンピュータを扱って世界の動画サイトを楽しんでいる」ような現在がとらえられない。その両方を一身に体現して生きている不可思議が理解できない、というわけです。
民俗語彙の蒐集のような従来の民俗学に固有の方法が意味するところも、したがって彼によれば、「古典の理解に役立つ」ことでも「遥か昔の常民に聖性を付与する」ことでもなく、「日本人の生活がどんな風に時代とともに発達改良し」(柳田)てきたかを探究するため、生活変遷を見るための測定のための語彙蒐集なのだ、と柳田國男の言葉を引いて、あくまでも「人々の生活史を前提とした現在学としての生活誌」を編むことを主張しています。
それに対して、柳田以降の民俗学者の関心はどこまでも過去であり、柳田にはあった「時代とともに発達改良」という考え方がどこにもないじゃないか、というのが彼の批判です。
このような、なにごとかを論じる自分自身のありようをも含む現在への関心の欠如を鋭く指弾する姿勢に接すると、私などはつい、50年近く前に団交の場で「あんたがやっていることは、ふだんあんたが講じている学問とどう関りがあるの?」「あなたの学問ってのはいったい、あなたのその生き方とどんな関りがあるんだ?」と居並ぶ教授たちに対して学生側が詰問し、つい昨日まで権威主義的にふるまっていた教授たちがオロオロしてまともに答えることもできなかった場面が浮かんできます。
あのころの私自身は、自分のプライベートな問題で四苦八苦していて、著者篠原がどこで何をしていたか詳しくは知らないのですが、同じ時代の空気を吸ってきたことは確かで、そのことを彼のいまの民俗学批判の基調低音みたいなものとして聴き取ることができるように思いました。
この本の別のところで、他者が理解できるか、と自問し、どうすれば他者を理解することができるか、という問題意識を、彼がずっと抱えて来たことを明らかにしているところがありますが、その部分についても同様の感想を持ちました。
彼は吉本隆明の詩を引用しながら、若き吉本と共に、「生まれ、婚姻し、子を生み、育て、老いた無数の人たち」の「生きる方法」をどのようにしたら同じ地平からみることができるのか、と自問し、「他者理解は最終的には不可能であるが、限りなく漸近線的に近づく方法はないものだろうか」と重ねて問い、「その結論はいまだに不明だが・・・」とこの自問を長く維持しつづけてきたことを示唆して、既成の民俗学への彼の批判的観点がどこから生まれてきているかを明らかにしつつ、「人々の生活や社会から切り取られた民俗的なものをいくら捏ね上げても何もわからない、民俗を生活の中で見て行かねばならない」と強調しています。
こういう姿勢は篠原に一貫していて、私はそこに時代の影を見るように思います。それはひょっとすると前世代にも後世代にもうまく通じないかもしれないな、とも思います。「民俗を生活の中で見ていかねばならない?あたりまえじゃないか」で終わって、何も理解しないかもしれない。そんな気がします。
単に「聞き書き」のような民俗学の既存の方法で民俗語彙を蒐集し、その魅力にとりつかれて常民の思考様式に恣意的な解釈と想像を膨らませて、かえって限りなく対象の実像から乖離していくありきたりの民俗学者の轍を篠原が踏まずに済んだのは、「聞き書き」とセットで彼が自分の固有の方法として、植物学の知識をベースとする科学的な「観察」の方法を身に着け、「聞き書きと観察の共振」を武器として対象に迫ってきたことによるのでしょう。
その例として、彼が挙げているエピソードの一つに、鵜飼の調査があって、この部分は具体的でよく分かり、面白い読み物になっています。
広島県の三次市で鵜飼の技術を調査するために鵜匠を訪ね、鵜の技能がどういうプロセスで獲得されるのか、鵜の管理・馴致にあたって鵜匠が鵜の生態や習性にどのような知識で対応しているかを知ろうとして、篠原はまず1週間ほどは許可を得て鵜とその小屋の観察し続け、鵜匠の給餌の方法や管理の技術を観察した上で、数回にわたる聞き書きや観察を重ねて、最後に鵜飼を鑑賞させてもらっています。
こういう彼の調査姿勢について、調査に協力してくれたその鵜匠は「今まで高名な歴史家や民俗学者や俳句の吟行の連中が来て俺から話を聞いていったが、鵜を積極的にみていった奴はいないね。あんたは帰って鵜匠を始める気かい」と冗談交じりに言ったそうです。大抵の民俗学者は、篠原の「観察」の部分をすっぽかして、鵜匠への聞き書きをしたらさっさと帰ってしまっていたようです。
人々の生業に関心をもち、その技術や民俗にも当然民俗学者は関心を持っていたはずだし、その中で自然と共に生きる人々が、どう自然を利用しているかにも関心はあったはずですが、おそらく自然そのもの、自然を利用する技術そのものについての知識も関心も弱く、その関り方に切り込む有効な視点をもつことができなかったのでしょう。
その点で篠原が岡山県の蒜山高原で研究者としてのスタートを切る中で、大学で専攻して学んだ植物学などの科学知識をベースにしながら、生活者が身の回りの草木、自然をどのように使い、生活の中に取り入れ、役立ててきたか、そのために不可欠な自然についての知識をどのような形で身に着けているのか、といった問いに答えるために、徹底して地域の自然を構成する要素を調べ、またその自然についての地域の人々の認識とそれを利用する技術を「観察」することを、「聞き書き」と必ずセットで実行するという固有の方法を見出し、その後いわゆる民俗学の領域に本格的に分け入ってからも、人と自然とのかかわりをテーマに、この自分が見出した方法を捨てることなく、導きの糸として、道を踏み外さずに努力してきたことの強味が、みごとに生かされているという気がします。
第4章で学生時代の共通の友人掛谷誠のトングウェのモノグラフの引用があって、この非集約的農耕を基礎とする部族の行動を貫く原理として「最少生計努力」を取り出して見せたとき、「人間の社会にこうした有り様が存在するのかと驚愕した」と書かれているのを、懐かしさとともに、なるほど私とはずいぶん違う印象で読んでいたんだな、と感じました。
彼は掛谷が意図したとおり、インテンシブな農耕(集約的農耕)に対比してトングウェの生産様式をエクステンシブな農耕(非集約的農耕)として示し、そこから後に、トングウェのようなアフリカ社会にも圧倒的なうねりとして押し寄せる近代化の波の中で、強いられるインテンシブな生産様式による近代化とは別に、伝統的なエクステンシブな生産様式を生かしながら近代化していく困難な方途の模索へと展開していくことになる道筋に沿って、非常に素直にその意味するところをよく理解して驚きとともに受け止めていたんだな、と思いました。
私は掛谷がインテンシブな生産様式≒生活様式に対してエクステンシブな生産様式≒生活様式をどう対峙させ、生かしていくかという問題意識をもって「最小限努力」という原理ということを言ったのだということには思いいたらず、やはり通常の近代的な社会発展のモデルにとらわれた考え方の中でしか、この対比をみていなかったので、或る意味で発展の契機を逸し、小規模なスケールの内閉的な社会のまま固定化する環境にめぐまれたために、閉じた自己完結的な生産様式≒生活様式にとどまった社会が、具体的にどのような生産様式、生活様式をもって存在しているかを調べただけのものという目でしか見ておらず、ここに近代化のメインストリームとは異なる可能性を見るような視点を欠いていたのだと今にして思い返します。
従って、掛谷の「最小限努力」という原理の提示についても、そんなことはこうした停滞した部分社会では、わざわざ指摘しなくても自明のことではないか?実際の調査によるデータで裏付けることが科学者としては必要なのかもしれないけれども、掛谷ほどの男ならもっと別の展開ができたのではないかと思い、不満を覚えたのです。部族の生活環境としての植生や、生活の諸要素は見事に精緻に網羅的に記述されていたので、彼は初めての海外調査のモノグラフを書くにあたって、学会向けに手堅い観察と記述で固める、一種の「武装」をしたな、というのが私の印象でした。
今回篠原の素直な感動の仕方を知って、なるほど、そのほうが後の展開を考えれば、ずっと掛谷の意図に即して彼のやったことをまっとうに受け止めることになっていたんだな、と思いました。
ただ、その後の掛谷の歩みが苦悩に満ちたものであったことに象徴されるように、近代化の行く末がもう袋小路の見えるあたりまできているとき、本当に近代化の別の道について希望が見えているかというのはまた別問題でしょう。
こういう大問題についても篠原は本書の中で面白いことを示唆しています。第4章「民俗自然誌という方法」の中で、「創る自然」ということで、マテバシイの話が出てきます。房総半島の外房で自然林かと見紛うマテバシイの純林があるけれども、それが実はナマリ節製造の燃料確保のために植樹された「創られた森」であったことや、内房に展開するマテバシイ林が、実はノリ養殖で使われる「ヒビ立て」の素材にされるために植林された「創られた自然」であったというエピソードです。
この「創られた自然」というのは、彼が考えた人間と自然のかかわりで、「自然利用の民俗」を4類型で考えたうちの一つです。
あとの三つは「自然を生かす」技術、「自然をたわめる」技術、「自然を変える」技術で、最後がこのマテバシイの林のような「自然を創る」技術でした。この各類型の呼称は掛谷のサジェスチョンで元の硬い表現をこういうやわらかな表現にしたのだそうです。掛谷らしい、いい助言だなと思いました。
それぞれの技術の事例を具体的に述べている部分が非常に面白くて、「自然を生かす」ではミツバチの養蜂の話、「自然をたわめる」では鵜飼の話が抜群に面白い。
でも私たちの社会がどうなっていくのか、そういう大きな展望を考えていく上で示唆を与えるのは、この「自然を創る」話のように思います。私も大昔に、吉本隆明の示唆をベースに、「人工的自然」という矛盾するような概念が生かせないかと考えていた時期がありました。
私のは街づくりのような仕事の中で、そういう考え方が生かせないか、と思ってあれこれ小さな類似の事例をひろって考えていただけですが、地球レベルでそういうことを真剣に考えていかなくてはならない時期が来ているように思います。
最後に、篠原が理想とする(あるいは当然そうあるべきだと考える)民俗学の行きつくゴール、到達しがたいようなゴールとして幻視するのは、どうやら彼自身がその中で生きる経験をもつこともできなかったし、民俗学者となったいまもタブーを侵犯する形でかろうじて垣間見ることはあっても、ついには立ち入ることを拒まれる「土俗」と彼が呼ぶ領域のようで、彼はそのつかもうとしてもつかみきれないと感じる「最後の部分」を詩あるいは小説のようなフィクションの描く世界でしか成就されないもののように描き出しています。
会田綱雄の「伝説」など引用されると、感覚的に納得してしまいそうになりますが、待て待て、それもまた篠原流の民俗的幻想ではないの?と半畳を入れて、眉に唾つけて用心ぶかく留保して読み過ごしておくことにしましょう。
彼が「おわりに」で記しているところによれば、共通の友人掛谷誠が「人類学者は詩を書かない詩人なんや」と言っていたそうで(そういえば彼がそんなことを言っているのを私も聞いたような気がする)、その顰に倣って篠原も「民俗学者は詩を書かない詩人なんや」と居直ることにしたそうですから、「土俗」はその詩の中にしかいないのかもしれません。
私も彼らと親しい友人であった学生時代には「詩を書かない詩人」のつもりでいたこともあったけれど、いまは「詩を書かないただのひと」(笑)にすぎないので、篠原のような友人からは、また「ずるいよ、人の書いたものにケチだけつけて、自分は書かないんだもの」と言われるかもしれません(笑)。
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2018年07月17日
祇園祭 前祭 山鉾巡行 2018

きょうは山鉾巡行の日。36℃ * という暑さの中、たぶん街路では40℃を超えていたでしょうが、地球温暖化でますます暑くなりそうだし、巡行を見ることができるほど元気でいられるのも今年が最後かも(笑)というわけで、河原町御池の北西角のところで、今日巡行した山鉾は全部見てしまいました。ご苦労さん(笑) * 公式には38℃を超えていたようです。見物人14万人強だとか。(18日記)

カンカン照りのもとに予約らしい椅子席も用意されていましたが、そこにじっと座って見るのも大変でしょうね。カメラのズームの部分が少したつと沸騰したやかんくらい熱くなりました!
では私も観客の一人として、京都市の産業観光局観光MICE推進室、祇園祭宵山会議発行のパンフレットを参考に、見物していくことにしましょう。

巡行のトップを切るのはいつも長刀鉾。河原町から北行して御池通を西向きに曲がったところです。
いまでは生稚児が乗る唯一の鉾だそうで、テレビで全国に放映されたりしてご覧の方も多いでしょうが、この稚児さんが一刀のもとにしめ縄を切って巡行が始まります。鉾頭には厄災を切って捨てる破邪の長刀がかざしてあります。三条小鍛冶宗近が娘の疫病快癒を祇園の神様に祈念し、全快したお礼に長刀をうって奉納し、その後大永2年、この町に疫病が流行した折にも社前に祈ると、この長刀を病人に授けよとの神のお告げがあり、早速町内に持ち帰って病人に授けると次々に全快した。よろこんでお返しにいこうとすると長刀が盤石のごとく動かず、これはこの町にお止まりになられるのだろうとそれを用いて鉾を作ったと言われているそうです。(田中緑紅「京祇園会の話」より)。効験は厄除けですね。見送り(背面の織物)は伊藤若冲の「旭日鳳凰図」を織物で再現して2年ほど前に新調したようです。

2番目は今年は蟷螂山。巡行の順番を決めるクジ引きで山一番を引き当て、山の先頭を切ることに。
中国の故事「蟷螂の斧を以て隆車の隧(わだち)を籞(ふせ)がんと欲す」を題材にした山だそうです。山の上で大きなカマキリが鎌を持ち上げ、羽を広げたり閉じたり、動いています。大きくて重い鉾はターンするのも大変ですが、山は人力で比較的簡単に向きを変えられ、中にはサービスで交差点の真ん中で2回ほど回って、前懸も胴懸も全部見せてくれる山もあります。蟷螂山の前懸、胴懸、見送の友禅染は友禅作家羽田登喜男さんの作品だそうです。

3番目は霰天神山。錦小路にあるので錦天神山とも言われます。永正年間の大火の折、季節外れの霰が降って猛火がおさまり、霰とともに一寸二分の小さな天神像(菅原道真公の木像)が降りてきたので、町が助かったのはこの像のおかげに違いないと、さっそく宮を建てて霰天神、火除天神として祀ったのがこの山の起こりだそうです。朱塗り極彩色の回廊をめぐらせ、唐破風付き春日造の社殿が安置されています。前懸は16世紀ベルギー製の毛綴で「イーリアス」の物語が描かれているそうです。由来から、効験は火除け、雷除けだそうです。

4番目は油天神山。古くから町内(油小路通綾小路下ル風早町)の風早家に祀られていた天神を勧請してつくられた山で、油小路通にあるところから油天神山と呼ばれるのだそうです。天神さんといえば梅。紅梅の枝を立て、鈴をつけ、朱塗りの鳥居が載っています。見送り(背面を飾る織物)は梅原龍三郎原画の「朝陽図」綴織だそうです。効験のほうは学業成就と厄除け。

5番目は函谷鉾。漢文でならった、中国戦国時代の孟嘗君が秦を逃れて函谷関にいたり、自分が世話をしていた食客の中に時を知らせる鶏鳴の真似が得意なやつがいて、早朝に無事関所を抜けることに成功した、という、あの故事に因む鉾のようです。
鉾は方向転換( 辻まわし)が大変です。なにしろ重さが10トン以上もあったりするようですし、高さもパンフレットによれば屋根までおよそ8m、鉾頭までは25mもあるそうで、細身ですから不安定なものでしょう。まっすぐ進む分には転がるけれど、あの大きな木の車輪を人力で回転させるのですから・・・。

交差点の中心まで進んでから車輪の下に竹を敷き詰め、水をかけて滑りやすくして、車台の上から扇で音頭をとる音頭とりさんの合図に合わせて曳綱を引いて2度、または3度くらい少しずつまわして直角方向にターンします。

竹の敷きかたがまずいと失敗して回数が多くなることもあるようで、慎重にやっています。けっこう時間がかかります。

6番目は孟宗山。中国の史話「二十四孝」に登場する孟宗が雪の中を病気の母の好物・タケノコを探し回ってついに掘り当て、母を喜ばせた故事に因む山だそうです。見送は白綴地に墨一色で描かれた竹内栖鳳「孟宗竹林図」だそうで、見落とした!山鉾を見るなら、後姿をしっかり見て、見送のアートを見ないとだめですね。効験は当然、親孝行。
山をかついでいるのは若い人のようでした。昔はみんな町内の方でかついだ(「舁(か)く」と言ったそうです。「かごかき」の「かく」ですね)そうですが、いまはアルバイトが多くなっているようです。地域の方の高齢化で難しくなったのでしょうね。

7番目は綾傘鉾。これは鉾でもシンプルですね。これは鉾の古い形の一つなのだそうです。傘のほかに、赤熊をかぶった棒振りが、鉦、太鼓、笛に合わせて踊る棒振り囃子、それに6人の公家風装束をまとった稚児が行列に加わります。効験は安産に縁結び。綾傘にふさわしく優しいですね!
垂(さ)がりと房飾りは人間国宝森口華弘氏寄贈の友禅染だそうです。まさに動く美術ギャラリーですね。
河原町通りを向こうのほうから次々に山や鉾がゆるゆる進んでくるのが見えるのはいいものです。これも京都の道路が碁盤の目でひとつひとつの街路がほぼまっすぐに通っているおかげ。

もう何十年か前にも一度だけ、前祭の巡行を全部見たことがありますが、そのとき勤めていた会社がこの河原町御池の西南角のビルの7階にあったので、仕事場からまっすぐ下を見下ろすと、方向転換していく山や鉾が上から見られ、御池通をまっすぐ去っていくのも、観客に邪魔されずに見送ることができて、なかなかいい見ものでした。あのころにはなかった山や鉾があらたに復活して加わったりしていると思います。

8番目は白楽天山です。白の狩衣姿の白楽天が道天禅師に仏法の大意を問う場面が山上にしつらえられています。前懸はトロイ戦争を描いた16世紀ベルギー製毛綴、見送は18世紀フランス製のゴブラン織と山鹿清華柵「北京万寿山図」の毛織綿だそうです。効験は学問成就と厄除け。
白楽天が禅師に訊いて何を得たのか気になりますが(笑)、田中緑紅の『京祇園会の話』によれば、この道林禅師は秦望山にあり、常に松樹の枝の上に住んでいるので、鳥巣禅師とも呼ばれた人だそうですが、楽天はこの樹下に立ち、仏法の大意を問います。禅師は「諸悪莫作、衆善奉行」と答えました。悪いことはしないで、善いことをたくさんなさい、ってことでしょうね。
楽天は「そんな事は三つの子供も知っています。禅師からそんなお答えを得ようとは思いません」と言いますと、禅師は「そうなんだ、三つの子供でも言うが、八十の老翁でもそのとおりはようせないではないか」と言われ、楽天も大変感嘆して厚く礼を述べて帰ったそうです。

せっかくなので少しアップで。

見送。これがゴブラン織ですか。

9番目は鶏鉾。『史記』にある、古代中国の聖人堯の治世、天下がよくおさまり泰平がつづいて,訴訟用の太鼓が無用になり、鶏が巣をつくったという故事に因む鉾なのだそうです。それは知らなかった。ひとつひとつ大変な由緒因縁故事来歴があるんですね。松村景文ら四条派による水引と、トロイの王子と妻子の別れを描いた16世紀ベルギー製の見送(重要文化財)は必見だそうです。

水引はともかく、見送は後姿を撮らなきゃいけないんで、私の位置からはほかの観客がたくさんいて撮りにくかったせいもあって、ほとんど撮れていませんでした。残念。来年見る元気があったら、見送りだけ注意して見ることにしましょう(笑)。

いつもお世話になっております太子山が10番目でした。四天王寺を建立するとき、自ら良材を求めて山に入り、老人に大杉の霊木を教えられて六角堂を建てたという伝説を題材にした山だそうで、ほかの山がいずれも松を立てているのに対し、この山だけは杉を立てているのだそうです。
前懸は中国秦代の宮殿を題材とした「阿房宮図」の刺繍だそうです。

効験は聖徳太子だから「知恵」。宵々山に秦家にお邪魔した折り、油小路に据えられた山の脇で売られていた知恵のつくお守り?を長男が姪のために買っておりました。ちょっとプレッシャーかなぁ、と笑いながら、渡しといて、と。
(追記:18日朝刊によればこの太子山の胴懸は243年ぶりに新調されたのだそうです。「鳥や花の美しい刺繍があり、ベトナムと日本の職人が協力して制作した」とのこと。朝日新聞京都版)

11番目は伯牙山。中国の周の時代に琴の名手伯牙は、自分の琴を理解してくれた鍾子期の死を聞いて、その琴を断った、という故事にもとづき、「琴破山(ことわりやま)」とも言われる山だそうです。前懸は明代の作、水引、胴懸、見送などは日本製だが図柄は中国風に統一されているとのこと。
鍾子期(しょしき)は伯牙が山のことを思いながら琴を弾ずれば「善い哉、巍々乎として泰山の如し」と言い、伯牙が水のことを想いながら琴を弾ずれば「蕩々乎として江河の如し」と言うような友人で、伯牙にとってこれほど心持を汲み取ってくれる友人はほかになく、彼に会えば琴を弾きたくなるような深い交わりの友だったのです。それゆえ彼が病で死んでしまうと、伯牙は深く悲しみ、好きな琴を手にしても、もう聴いて深く理解してくれる友がいないと思うと弾く気持が起きず、ついに琴線を断ち切ってそれ以来、琴を奏することもなくなったといいます。

12番目は芦刈山。難波浦に住む夫婦が貧しさのために離別して女は京に上って宮仕えをして高位の人の後妻となって出世しますが、心ならずも別れた夫が昔の里で相変わらず寂しい姿で芦刈をしているのを見て、美しい衣を脱ぎ与えて戻ったという、大和物語にある話をもとに少し変えてつくられた謡曲「芦刈」をテーマとする山。謡曲では妻は高家の乳母になって幸せに暮らし、故郷に芦刈る夫を尋ねますが、夫はいったんは恥じて隠れますが、思いなおして夫婦うち連れ都に帰ります。
天文6年康運作の墨書銘がある御神体や御神体衣装は山鉾最古級だそうです。康運は名高い仏師運慶など「慶派」の仏師。
芦刈山は由来に因んで効験は夫婦和合で縁結び。なるほど。

13番目は月鉾。鉾の先に三日月がついています。屋根の上に立つ鉾頭との間の部分は「真木」その上の方に「天王座」ってのがあるらしいのですが、そこには月読尊(つくよみのみこと)が祀ってあるそうです。素戔嗚尊の兄で天照大神の弟の神様です。

屋根裏の草花図は円山応挙筆、天井の源氏五十四帖扇面散図は町内の住人であった岩城九右衛門(緑紅によれば清右衛門)筆、前懸のメダリオン絨毯は17世紀インド製、破風の蟇股(かえるまた)の彫刻は波に兎、伝左甚五郎作とされる由。豪華絢爛ですね。

月鉾の方向転換。

やっと行ったぁ!そぅ~れっ!

14番目は山伏山。御神体の山伏は、八坂の塔が傾いたとき、法力で直したという浄蔵貴所(平安時代の天台宗のお坊さんの名)の大峯入りの姿をあらわしているそうです。水引は、繭を紡ぎ、布を織り上げるまでの工程が描かれている珍しい図柄。前懸、胴懸の中央に飾り房がついているのも特徴だそうです。

15番目、四条傘鉾。昭和60年に117年ぶりに再興されて巡行に復帰した鉾。傘の上に御幣と若松を飾り、応仁の乱以来の傘鉾の原形を伝えるものだそうで、昭和63年に滋賀県甲賀市の瀧樹神社に室町時代から伝わるケンケト踊りを参考に踊りと囃子が再現されて完全復興したとのことです。効験は招福厄除。

16番目の占出山(うらでやま)。神功皇后が外征に際して、肥前国松浦郡玉島川で鮎を釣って戦勝の兆としたという日本書紀の話を題材にした山だそうです。神功皇后が安産の神として祀られ、占出山の巡行のくじ運が早いと、その年はお産が軽いそうです。前懸、胴懸には日本三景が描かれています。

17番目の菊水鉾です。町内にあった菊水井にちなんでなづけられたそうで、鉾頭には金色の透かし彫りの菊花をつけています。

稚児人形は謡曲を題材にし、魏の文帝の勅使が薬水を求めて山に入った時に出会った,菊の露を飲んで700年生き続けた少年枕慈童をあらわしているのだそうです。唐破風づくりの屋根に特徴があります。

「菊慈童」ってちょっと面白い内容の能がありましたね。
周の穆王に仕えた慈童という少年は人の妬みを買って酈懸山に流され、王から与えられた二句の偈(げ:仏教の聖歌の詩句)を菊の葉に書き、これを毎日誦むと猛獣にも襲われず、菊の露を飲んで暮らすうちに700年を経たと言います。この菊の露のはいった流れの水を飲むと不老長寿の薬水となる、というのを魏の文帝が聞いて使者をこの山へ遣り、庵に居た美少年が700歳の慈童と知って長寿の由来を聞き、霊水を持ち帰って文帝も長命したということです。それから五節供の一つである重陽の節供ができ、賀の祝には菊慈童の能が演じられます。
想像力を刺激するような話でしたから有名な絵描きさんが画題にしたり、だれか小説も書いていたんじゃないかな。私も神仙譚が好きで、その種の不思議な話が載った聊斎志異や捜神記のような本はいつも手元においています。そういえば芥川龍之介の杜子春がたぶらかされたのも仙人の術ですよね、たしか。子供のころはなにか特別な修行をして仙術が使えるようになれないか、とひそかに思っていたことがありました。残念ながらいまにいたるまで使えないのですが。菊水鉾の効験や不老長寿(いいですね!)と商売繁盛。

18番目の保昌山。明治初年mで「花盗人山」と呼ばれ、平井保昌(藤原保昌)が和泉式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿をあらわしているそうです。武芸に長じ、和歌もうまかったという保昌ですが、式部に恋して文を託するも式部はなかなか首を縦に振らず、真に私のことを想ってくださるなら、立ち入ることのできない掟がある御所紫宸殿の紅梅の枝を取ってきてください、といわば無理難題を言うわけです。無断侵入者は射殺されても仕方がない。しかし保昌は式部恋しさに紫宸殿へ忍び入ったものの、警護の北面武士に矢を射かけられて髻にあたってザンバラ髪になり、危機一髪でしたが、なんとか一枝手折って持ち帰り、和泉式部のハートを射止めたとか。ロマンチックな話ですね!道長の四天王と呼ばれるほどの武勇の人だったようです。和泉式部の旦那ですね。効験は当然「縁結び」。宵山には縁結びのお守りが授与されるそうです。前懸と胴懸は円山応挙下絵の逸品だそうです。

19番目は郭巨山(かっきょやま)。郭巨は「二十四孝」の一人で、貧困のために老母、妻、三つの子と四人家族を養えず、老母を養うために思いあまってわが子を山へ埋め棄てようとしたところ、その場所で黄金の釜を掘り当て、そこには「天より孝子郭巨に賜う、官はこれを没収する事はならん、他人も自分のものにするな」と文が添えられていました。こうした老母ともども一家四人幸せに暮らし、母親孝行をしたという人だそうですが、あやうくわが子を殺しかけたこの人、はたして孝行息子のモデルとして「二十四孝」に名を連ねるべき人物でありましょうや・・・金の斧ってのが西洋にはあったけど、中国は金の釜ですか。効験は当然「金運開運」だそうです。
この山は、胴懸を吊るす乳隠しという飾り板と日覆い障子の屋根が特徴だそうです。

20番目は木賊山(とくさやま)。世阿弥の謡曲「木賊」から、わが子を人にさらわれた翁が信濃の園原で木賊を刈る様子をあらわし、等身大の翁像は右手に鎌、左手に木賊を持っています。この御神体の翁像の足台には元禄5年の墨書があるそうです。効験はその謡曲の内容から(迷子の)再会。
木賊って、京都では玄関先なんかに植えてあったりしてよく見かける植物ですね。ツクシの親戚らしいけど、地下茎で広がるらしい。茎がケイ酸を含んで硬くざらざらになるので、乾燥させて紙やすりみたいに、いろんなモノを砥ぐことができるから「砥草」と言われたらしいです。

21番目、放下鉾(ほうかほこ)。真木野天王座に放下僧の像を祀っているそうです。放下僧は諸縁を断ち仏を讃える行いとして遊戯を人々に勧める僧だとか。帽をかぶり、太刀を佩き、腰に払子、前に鞨鼓をつけ手に撥を持っています。鉾頭は日・月・星の三つの光が下界を照らす形をしていて、それが洲浜に似ているので「すはま鉾」とも呼ばれるそうです。この鉾の真木は12間5尺あって、一番高いと言われているそうです。古くは烏丸三条下ル町にかったものが応仁の乱で焼かれ、慶長年間に祇園会山鉾復興に際して新町通四条上ルに移されたのだそうです。

この鉾には長い間生稚児がいて、長刀鉾とこの鉾の二つだったのが、経費の都合などで昭和4年に木稚児となり、久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名されたのだそうで、機械仕掛けの操り人形で、生稚児と同じように舞うようになっています。新下水引は華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織とのこと。

音頭取り。

竹を敷いて桶に汲んだ水をかけて方向転換の準備。

22番目は岩戸山。天の岩戸の神話がベースの山。以前は舁ぎ山だったそうですが、鉾と同様に四つの車輪を付けた「曳山」で、囃子を入れます。

岩戸山の内部には、天岩戸を題材に、胸に鏡をかけた天照大神、唐冠をかぶった手力男命(岩戸を引き開けた相撲取りみたいな神様でしたね)を祀っています。屋根の上には、伊弉諾尊が右手に天之瓊鉾(あめのぬぼこ)を持った姿で祀られています。

いよいよ最後、23番目の船鉾です。日本書記の神功皇后のいわゆる三韓征伐の出陣を題材としているのだそうです。皇后の人形は男装で鎧をつけ、そのうしろに立烏帽子、錦大袖、鎧、唐うちわ。長刀を持った鹿島明神が梶取をし、前面には大将として冠、錦大袖、鎧、大口、矢びら弓を持った住吉明神、舳には皇后に向かって海神安曇磯良が竜宮から取り寄せた満珠千珠の二つの玉を台に載せて立っておられ、鬼面赤ぐま半臂姿と四つの人形が立ち、囃子方がその間にいます。皇后には神面をつけ、この面は安産に奇瑞があると言われています。
神功皇后ですから、やっぱり効験のほうは安産。巡行のときに岩田帯をたくさん巻いていて、祭の後に安産のお守りとして妊婦に与えられるそうです。

舳先には想像上の瑞鳥「鷁(げき)」を飾っています。宝暦年間長谷川若狭の彫刻だそうです。また、船尾のみごとな飛竜螺鈿の舵は黒漆塗青貝螺鈿細工で寛政4年の作だそうです。

方向転換。

前祭の巡行はこの23基でおわり。

しんがりをつとめる船鉾が御池通を西へ去っていき、見物客も席を立っていきます。
また24日には後祭で10基の山鉾の巡行があるとのことです。山鉾町の方たちは年一度のこの日のために心して準備してこられます。歴史的に古いのは葵祭(賀茂祭)ですが、これはどちらかと言えば水を支配した天皇家の祭事で、神社が主体。でも祇園祭は山鉾町の方々にとっては、自分たちの(町の)祭ですね。そして、山鉾町以外に住む京都市民にとっても、古くから住んでいる人たちは、祇園祭だけは行く、と言われます。こう暑いと宵山だけちょっと覗こうか、というふうにもなるでしょうけど、とにかく行く。自分たちの祭、という意識があるのでしょうね。
あの山鉾を飾る綴織なども、いったいいつどこから来てあんなところにしつらえられるようになったのか、新しいものはともかく、古いものになると16世紀ヨーロッパから、なんてね。だから絵柄もちっとも日本の伝統的な古い絵画の画題じゃなくて、トロイ戦争とか(笑)。その超モダンな感覚っていうのが京都らしくてとても面白い感じがします。
(今日の記述の中で山鉾それぞれの解説の部分は、ほとんど冒頭に挙げた市のパンフレットと、田中緑紅『京 祇園会の話』(緑紅叢書 昭和33年刊)が出典であることをお断りしておきます。)
saysei at 23:29|Permalink│Comments(0)│