2018年06月
2018年06月25日
貴船のホタル・群舞 2018.6.25
写真は苦手なのでこんなのしか撮れませんでしたが、きょうは日中京都は34℃という猛暑で夕方も蒸し暑かったから、きっとホタル日和だな、と思って、もう一度貴船の蛍岩のところまで行ってみました。
案の定、先日よりかなり多くのホタル、たぶんそこらに最小限200や300はいたはずですが、飛んでいるエリアが広いうえ、間歇的にしか光らないので、昔西条の山の中の小さな渓流の輝くような光の塊から湧き出てくる、と言うような感じではなくて、無数の樹々の間に光り、ときおり何匹かずつ呼応しあうように渓流の上を悠々と飛ぶ、そんな光の舞があちらにもこちらにも見られる、というようなことで、しばらく蛍岩の横の平らな岩の上に寝っ転がって眺めていました。
きょうはさすがに幾組かのほとんどは若いカップルが見に来ていて、ちゃんと三脚を用意して写真をとっている人も何組かありました。あぁやって長時間露出しないと、「群舞」らしい写真はとれないんですね。
きょうはしかし、蛍岩の前の道を走っていく車も多くて、サーチライトが近づくと樹々が強い光に照らされて、10匹くらいが共鳴して光の点滅を見せてくれて、いいなぁ、と思っていても、その蛍の光がほとんど見えなくなってしまいます。闇の中で光っていると一匹のホタルでも、とてもよく輝いて美しく見えるけれど、やっぱりそれほど弱い光なんですね。
渓流の石ころだらけの河原に降りていけば、きっとよく見えてもっと綺麗でしょうけど、さすがに足元が暗くて滑りやすいし、道路のガードレール以外は柵も手すりもなく、草の生えた斜面から急に切り立っていたりして危ないので、とくに夜は無理。じゃまな樹々の間から、少し視界の開けた渓流の上を飛んでくれるのを眺めているのがせいぜいです。もっと上のほう、京都バスの貴船口から貴船の旅館が建っているあたりまでいけば、河原に降りて見られる広いところもありますが、今日は昼前から午後の猛烈な陽射しの中を1万歩近く歩いたので、自重して蛍岩のところでのんびりすることにしました。
蛍岩のところには8時少し過ぎについて、小一時間、9時過ぎまでの、一番ホタルの出やすい時間帯にいてから引き上げました。自宅から約30分で行けるので、外を出歩けるからだのままなら、また来年も気軽に見に来れるでしょう。
廬山寺の桔梗
天神さんから河原町今出川までバスで行って、そこから寺町通りへ入って下がり、節分祭でよく知られた廬山寺へ。紫式部邸の跡と言われる場所で、いまちょうど源氏庭と呼ばれる庭の桔梗が見ごろです。
もちろん紫式部が住んで源氏物語を執筆したと言われる邸宅も、近くの道長が入れあげて贅を尽くして浄土を再現したという法成寺も、京の町を嘗め尽くした幾度もの大火で跡形もないけれど、こうして品のいい紫の花が咲いている瀟洒な庭を眺めていると、ほんとにこんなところで紫式部が物語を書いていたかのような錯覚を覚えます。できたらご本尊さまや色んな展示物をどこか別の場所に安置して、三つ四つある庭に面したこの小部屋を書斎に使わせていただけたら最高だと思いますが(笑)
私の母は娘時代から源氏物語が大好きで、更級日記の作者のように熱烈な源氏ファンだったから、わざわざ伊勢の田舎から京まで出て来て、当時桂にあったらしい女専で寮暮らしをして国文などやっていたようです。当時の女学生が使える注釈なんて、北村季吟くらいしかなかったのか古い母の蔵書になにかしきりに鉛筆で書き入れた注釈書なんかが出てきたことがありました。
お母さんが生きているうちに、廬山寺へ連れて来てあげたら喜んだでしょうね、とパートナーが言うので、そうだろうな、とは思いましたが、こちらも今のようにたっぷりと時間だけはある身とは大違いでしたから、のんびり寺まわりなどするゆとりもなく、自分自身もこのへんの事はまるで知らなかったので、せめて自分たちは少しは知ってまだ自分の脚でまわれるうちに、心残りなくめぐっておくのがいいんじゃないかと思っています。
ここのご本尊の阿弥陀三尊坐像も、適度なサイズで、とても落ち着いた感じの、いい仏様で、私は好きです。阿弥陀様を中に、観音菩薩、勢至菩薩が脇におわします。お寺でくれる三つ折りミニパンフによれば平安ー鎌倉時代と書いてあり、国指定の重要文化財だそうですが、いつだれが制作したかははっきりしていないのかもしれません。
裏のお墓への道で、片方は土塀、向井は竹垣で新緑に覆われた、少しの間だけど素敵な路地です。ここには慶光天皇陵のほか皇族の墳墓が多数あるようで、明治維新までは御黒戸四箇院といい、宮中の仏事を司る寺院4ヶ寺(廬山寺以外は二尊院、般舟院、遺迎院)の一つだったそうで、格の高い寺院だったようです。
天神さん~茅の輪くぐり
きょうは25日で月一度の天神さん。猛暑の中、朝のうちに二人で行ってきました。パートナーが孫に知恵がついて息災であるよう、ミニ茅の輪を買ってきたい、というので。
境内は午前中からすごい人。露店が出て、地域の人も観光客も修学旅行生も中国人も(笑)。
山門に茅(かや)で編んだ大きな「茅の輪(ちのわ)」がしつらえられ、これをくぐる人、下に置いてある茅を持って帰ろうとしゃがむ人・・・
こんなミニ茅の輪も・・・。息子たちが大学受験のときパートナーはこれを買ってきて家に飾っておいたんだとか(知らなかったぁ・・・)。「だから無事に合格したんだよ!」だって(笑)。で、それにあやかって、今日仕入れたのは、孫の定期試験用なんだそうで・・・
本殿の前にも、もうひとつ茅の輪がしつらえられていて、みんなこれをくぐって本殿に向かっておりました。日本人はけっこう信心深いのかな・・・相手の神仏は誰でもいいようだけど(笑)。
この茅の輪くぐり、この時期に行われるというのは、きっと暑気払い、夏に起きやすい疫病などの病や悪い虫、もろもろの厄災のもとになる猛暑を追っ払い、元気に夏を乗り切る祈りの行事なのでしょうね、調べたことはないけど・・・北野天神のあと、寺町今出川を少し下がったところにある御霊社にも茅の輪がしつらえてありました。多くの神社でいま茅の輪をこしらえているのでしょう。
この暑さだけど和服姿も。今の京都では、和服をみたら中国人と思え、というくらいですが、この人たちはどうだったのか・・・
本殿から東、上七軒のほうへ抜けると、脇参道にもいつもの骨董市露店が並びます。最近はあまり良い店が並ばず、食べ物やとか雑貨、古着の類ばかりで、まっとうな骨董市の雰囲気は消えてしまいました。それでもまだ今出川通の入り口に近いあたりよりも、奥の本殿から上七軒へ抜けるあたりのほうに昔ながらの店がいくらか出ています。
骨董に少しは目のきくパートナーが見たところ、ひとつだけ、質のいい骨董を出している店があったそうですが、やっぱりいい値段がしているとのこと。わが家はこれ以上物は要らんそうで、何も買わずにひやかしだけで帰りました。
上七軒の通りは雰囲気があって静かで、ここをまっすぐ今出川通りまで、軒に提灯をぶら下げた家々の前を歩くのは心地よい散歩。上七軒の芸妓さんたちの踊る歌舞練場へ入る路地の前を通り、美味しい中華料理を食べさせる糸仙の看板をちらと見ていきます。老松の前で、パートナーはきょう食べるはずの水無月を買おうとしていましたが、めちゃくちゃ高い!と憤然としてパス(笑)。あとで高島屋まで行って買いました。別に老松でなくても水無月はもっと安くて結構おいしいのがいくらでもあります。この時期京都の人はみんな食べるので、近所にそういう昔ながらの小さくてもおいしい和菓子屋があるのです。
オットー・ネーベル展
京都文化博物館で今日(24日)まで開催していた「オットー・ネーベル展」へ行ってきました。身辺整理をしていて、机の前に立てていた書類の間から、ずっと以前にターナー展のチケットと共にいただいたその招待券が出て来て、まだ行ってなかったことを思い出し、ラッキーなことに今日が最終日と分かったので、即出かけてきました。パートナーは用があって行かなかったのでチケットが一枚余り、無駄にしてはもったいないと思って、たまたま見かけた若いアベックの男性に差し上げたら、二人から感謝されました。デイトにこんな美術展へ来るなんて、趣味のいい二人じゃないですか(笑)。
クレーはあまり好きではないけれど、カンディンスキーは好きだし、シャガールもすごいなぁと思っているので、彼らと親交があり、しかも以前にバウ・ハウスにはとても関心を持っていたのと、そのバウ・ハウスにも奥さんがそこの教授の助手をつとめたこどもあって縁の深い、このオットー・ネーベルという画家の名は聞いたことがあっても、その作品はきっとどこかで見ているのでしょうけれど、記憶にもないし、画集などで見ていたとしても、意識して見たこともなく、こんなに一度に大量に見るのはもちろん初めて。
カンディンスキーやシャガールが彼を認め、評価したということですが、正直のところ彼の作品の多く、とりわけ主力の抽象画には、たしかに「色彩の画家」という展覧会のキャッチフレーズにあるような多彩なチャレンジを感じましたが、きわめてモダンな意匠なのに、モダンなスタイル自体が或る古めかしい印象を与えるようなところがありました。
たとえばダリには感じないのにキリコの絵には感じるような古めかしさ。「機械」や「時間」の横光には感じないのに、「頭ならびに腹」のような横光には感じるような古めかしさ。
初期作品には「コッヘル、樅の木谷」のような愛らしい作品もありましたし、この部屋では何といってもシャガールの4点が見ものでした。
大聖堂の時代にはモダンな構成はともかく、レンガ色の色彩に惹かれ、それが「イタリアの色彩」の「シエナⅢ」のような作品ではほれぼれするような色合いで、このあたりがこの画家のピークなのかな、と何の予備知識もないので、展示されている作品を順次見ていって感じました。
というのも、そこから5年、10年を経た「抽象 非対称」のあたりの抽象画は私には構成にも色彩にもパワーがなくなっているように感じられて、同じ部屋のあとの展示にカンディンスキーが出てくると、その各段に違う構成と色彩のパワーに、才能というのは残酷なものだと思わずにはいられなかったのです。
ここまでオットー・ネーベルの作品を集めて見せるのは学芸員が大変な努力をされた末のことだと思いますが、この7番目の部屋でネーベルの作品群のあとでカンディンスキーを見たとき、それまで見て来た圧倒的に多いネーベルの作品がすっとかすんでしまうような感覚に襲われて、なんだかネーベルさんにも展覧会を企画された学芸員さんにも申し訳ないような気がしました。これはカンディンスキーが好きな私の偏見でしょうか・・・
いま二つ折りの展示品リストをみて確認しながら書いているのですが、10番目、つまり終わりから2番目の「演劇と仮面」の部屋にあった、「四人の俳優」や「人馬宮」、「扇を持つダンサー」など演劇関係の、俳優を描いた作品は、もちろんリアルな写生画ではなくて、抽象画を経たデフォルメがされた絵ですが、とても生き生きしていました。彼は建築学を修めながら俳優になりたくて結構長く舞台に立っていて、その地域では長い間俳優として認知されていたとか。やっぱり入れ込んだだけのことはあったのでしょうね。
それと私がとても興味深く思ったのは、イタリア時代に制作した色彩地図帳「イタリアのカラーアトラス」です。イタリアの都市をめぐって、その「都市の色」を分析的に取り出し、色見本のようなものに描いたもので、これは発想とその抽出の方法がとても面白いし、美術としてもその成果物は彼の後期の抽象画などより私にはよほど惹かれるものがありました。(これだけは各都市の色を何度でも眺めたくて、カラーアトラスの絵葉書セットだけ買ってきました。→下の写真)
同じようなアイディアものの「ルーン文字」というアルファベットを幾つかの色彩のユニットの組み合わせで示す創作文字については、そういう発想でのチャレンジは面白く思いましたが、結果に惹かれるものはひとつもありませんでした。それはやはり表音文字を色彩に置き換えるのは、「都市の色」を抽出して色彩のユニットで表現するのとは違うので、相当考えないとそら無理ですよ、オットーさん、という感じでした。「母音の色を発明した」ランボーほどの天才なら、音韻の色をまざまざと見ることができるのかもしれませんが。
この美術展についてもう一つ付け加えておきたいことは、会場の最期の部屋だったかで、写真撮影OKですよ、という掲示がいくつもの作品についていて、ファンに開かれた姿勢を示していたことです。当然、絵を所蔵して貸し出す美術館などと交渉して許可を得たのでしょうが、展示する側がぜひそうしたいという姿勢をもっていなければ実現するはずもなく、いまだに日本ではこういうことに美術館が無意味に保守的というか頑迷な姿勢をとり続けている中で、学芸員がこういうことにも努力してくれる姿勢は高く評価されていいと思いました。冒頭に掲げた写真は、もちろん撮影OKのうちの1点で、あまり惹かれなかった抽象画の中でも、私の好みの色彩に近い作品だったのでパチリ。
いずれにせよ、一人のヨーロッパの過去の著名な画家の作品をこれだけ一堂に集めるためには気が遠くなるほどの長い時間と厄介な交渉や周到な準備が必要で、作品への評価や好みは人それぞれでも、あまり日本で一般に知られることの少ない、でもよく知られた画家たちと親交のある重要な画家に着目してこうした本格的な美術展を開催されたことには心から敬意を表したいと思います。いや、招待券をいただいた義理からではなくて(笑)ほんとうに from the bottom of my heart !
2018年06月23日
手当たり次第にⅦ~この二、三日みた映画
倫敦から来た男 (タル・ベーラ監督、2009年)
昔みたことのあるドイツ表現主義の映画のような、モノクロの光と影の強いコントラストを巧みに使ったシャープな映像を連想させる作品でした。しかし、冒頭の波止場のシーンで、監視塔らしい高みの格子窓の暗い内側を随時移動しながら、斜め下方に見える船の甲板の様子と桟橋と、船の出口から向かいにとまっている列車に乗り込んでいく人々の表情も定かではない遠目に見える姿に注がれるひとつの視線にとらえられる、繰り返しの多い、きわめて単調な、そして見ずらい光景をえんえんと見せられると、いいかげん途中で見るのをやめようかと思っていました。
その超スローテンポは最後まで変わりません。それはもういまの日本映画などでは考えられないようなスローテンポで、いったいこういう時間感覚というのは何なんだろう、作品の世界にとって何か内在的な意味がほんとうにあるんだろうか、と、そこで発生するドラマよりも、そちらのほうが気になってしまいます。
昔、ある学生映画のコンペティションで受賞作品もいくつか決定したあと、プロの審査員が講評の中で或る作品について、それなりの水準に達した堂々たる作品だということは認めながら、簡単に言えば、ドラマの立ち上がりが遅くて、冒頭からしばらく悠然としたペースで何が起きるかわからないまま進行していく展開に苛立ったらしく、「観客が最後まで作品につきあってくれるとは限らないのだから」というような言葉で、観客へのサービス精神みたいなことを、少々上から目線で「アドバイス」していたのを、はたで聴いている観客聴衆の一人としては違和感を覚えつつ耳にしたことを思い出します。
あの映画評論家は「倫敦から来た男」のような、あのときの作品の10倍くらいスローペースの作品に何というだろう?と。でもあぁいう評論家は、タル・ベーラという名前を聞いたら恐れ入って、いやあれは作品として必然性があって・・・などと絶賛するのかもしれませんね(笑)。
少なくとも私にはそういう「必然性」は感じられませんでした。少なくともいまのワンショットにかける時間を半分にしても良い(笑)と思いました。ストーリーを追っかけるだけのためというのではなく、この映画が伝えたいことも、それで十分に伝えられるでしょう。映画評論でメシを食っている人はこういうことはよう言わないでしょう。いやそれはこの監督の偉大さが分からないからだ、作品にとっての必然性を理解しないからだ、とかなんとか無理にでも屁理屈をつけようとするでしょう。そうでないと映画評論では食えないから(笑)
私にはそういう「必然性」(=必要)がないので(笑)、遠慮なく、タル・ベーラさん、これはひどく冗長で、新人映画コンペに出したらあぁいう評論家に確実に落とされるよ、と「アドバイス」します(笑)。
ただ、この作品がそれでつまらないか、というと、必ずしもそうではありません。表現のスタイルが映画史に名高い誰それに似ているとか、どういう流れを継承しているとか、どれほどスタイリッシュであるかとか、そんな自称シネフィルのおたく的評論家好みの分析などはそういう商売の人に任せておけばいいけれど、偶然に或る犯罪の現場を目撃することになった男が、そこで転がり込む「ラッキー」?な偶然の機会を自分に引き寄せようとしたときに、自分も家族などの周囲との関係も一変してしまい、一挙に破滅に向かう(かに見える)、そんなドラマが、この種の素材を扱う犯罪劇と同様のサスペンスを感じさせるだけでなく、主人公の男の心理の劇であると同時に、彼をとりまく家族などとの関係の変容のドラマとして、立体的な描かれ方をして、しかもなかなか皮肉な結末が用意されているので、ただストーリーを追ってサスペンスを楽しむ娯楽作品としてよりも人生の皮肉を感じさせる奥行きを味わうことができる作品になっています。
そういう奥行きを作り出している一つの要素が、モノクロのコントラストの強い光と影の映像と、急がないこの映画の超スローテンポにあることは分からなくはないけれども、後者に関しては行き過ぎ(笑)。無理にそれを理屈づければ職業評論家のペダンチズムか、監督ファンの贔屓の引き倒しに陥ること請け合いです(笑)。
もうひとつは、登場人物の貌のクローズアップが多様されていて、しかもあの超スローペースで、これってビデオ機器の故障じゃないか、と思えるほど、静止画のように一人の人物の顔を、ほとんどまばたきもしない動かないまま撮り続けているようなシーンが多いのが特徴で、これはその時間的な長さは別として、この作品の、心理劇的な要素や関係の変容を描く意図に即して、必然性が感じられますし、それだけの効果を観る者に与えているように思います。
最近テレビでもスマホでも高精細度の映像で映した映像とか、いろいろ騒がれていますが、別にそんなのでなく普通のフィルムでアップの映像を撮っただけだと思うけれど、モノクロのそのクローズアップされた登場人物の表情は、まるで高精細度カメラで撮ったみたいに異様にその人物の表情を肉体としての顔面の諸特徴の細部までを見せて、まるで私たちが初めて月の裏側の全体像をひとつひとつの火口や谷間の翳、その凹凸にいたるまでの精細な表情として見せられたときのように、或る意味で新鮮な映像として見せられるのです。
それは、その登場人物の心理をただ表現するような表情ではない。たとえば、刑事が対話の相手を追い詰めているときに、相手を疑ってかかる心理とか、かまをかけて相手がどう反応するかを凝視する表情とか、してやったり、という心理を表す表情とか、そういう明確に心理と一義的なかかわりをもつようなものとして、表情がとらえられてはいません。
むしろ表情は、たしかに生きた人間のもので、心のありようを表現するものではあるけれども、あたかもそこにある物体のように、それ自体としての存在感をもってとらえられています。それは、この映画のカメラが、例えば室内の壁や食堂の皿や玉突きの玉みたいなものを、おどろくほど長い時間、じっととらえていて、その光と影の無限のグラデーションをはらみ、その素材の質の細部の違いまでとらえるような、複雑多様で豊かなオブジェのようなものとしてえんえんと映しだしているのと、まったく対等な撮り方に思えます。
それはモノをとらえるときは、なんでこんなモノをこうもえんえんと撮っているか、まるでその意味が分からないけれど、登場人物の、たとえば刑事の表情や、主人公の奥さんの表情、あるいは殺されたブラウンの夫人を同じように延々とアップでとらえているときには、たしかにその必然性が感じられるのです。そうすると、モノの捉え方もまた、そこから逆照射されるように、それなりの意味を帯びてくるようにも思えてしまいます。実際、もしモノだけはカメラがサッと通り過ぎていったとすれば、この映画は全体がちぐはぐな映画になったことでしょうから。
だからトータルにみれば、このときどきうんざりするような超スローモーなテンポも、多様されるクローズアップによる月の裏面の細かな凹凸まで全部とらえるような過剰な即物的視覚情報の提示というのも、わたしのような普通の観客にとっては大いなる欠点であると同時に、この作品世界を成り立たせ、特徴づける性質なのだろうと思わざるを得ません。
とりわけその特徴が最大限にあらわれるラストのブラウン夫人の表情のクローズアップは、本当にビデオシステムの故障かと思うほどの長まわしですが、これが作品全体のしめくくりとして非常に尾をひく余韻を与えてくれます。ここまでくると、例の映像評論家氏と同様最初のシーンに苛立っていた気みぢかな観客は私の中でなりをひそめて、いつのまにか結構この作品を楽しんで、最後のブラウン夫人の表情を胸に焼きつけ、余韻にひたっている自分に気づかされます。
殯の森 (河瀬直美監督。2007年)
この映画は一回見ただけでは分かりにくい。私たちごく普通の鑑賞者は、やっぱり最初に見るとき、その作品の中に物語を探し、その糸をたどっていこうとします。この映画でも、もちろんストーリーらしいものはあるので、それをたどっていくことはできます。
野辺送りの喪の列がいくような、都会から遠く離れた地方の農山村(奈良らしい)に認知症の人を含む身よりのない老人の世話をするホームらしい施設があって、そこに新任の介護職員として尾野真千子演じる「真千子」というアラサーくらいの女性がやってきます。彼女は息子を亡くしているらしく、そのことで夫から責められるシーンがあるので、一人になり、心にそのトラウマを抱えてこの施設へ来たらしいことが分かります。このことはその後の彼女の行動の伏線になっているとあとでわかります。野辺送りの光景が最初に置かれていることも、あとで主人公(次に述べる「しげき」と真千子)が森の奥へ入っていくことの伏線になっていることが最後のほうで分かります。
この施設に「しげき」という認知症の中年の男性がいて、最初の方で寺の坊さんの講話みたいなのが行われるシーンで、しげきが「私は生きていますか?」というような質問をする場面があります。そのときに彼の奥さんが亡くなっていて、今年で33回忌を迎えることがわかり、坊さんが奥さんはもう帰ってこないから忘れなさい、というようなことを言います。たぶんこれがあとの彼の行動の引き金になっているのだろうと、これもあとでわかります。
決定的な出来事が二人に生じるまでに、いくつかそこへ集約されていく予兆的なエピソードが描かれています。たとえば、しげきがピアノを弾くシーンがあって、その横に一人の女性が座って彼と連弾します。彼はとても楽し気です。誰だろう?と一瞬思いますが、突然あらわれて、一所懸命まだ弾いているしげきの傍をそっと去っていく去り方などから、その前の坊主の講話のところや、施設のおやつの時間にしげきの誕生日を祝うシーンで、しげきが亡き妻の思い出にとらわれていることが明らかになっているので、あぁ、亡くなった奥さんなんだな、彼の心の中の幻影なんだな、と分かります。
そのあと、真千子が部屋のごみを回収にしげきの部屋に来て、置いてあったリュックサックに触ったか何かで、突然しげきが怒りを爆発させたように真千子を激しく突き飛ばすシーンがあります。そのときはなぜそんなことをしたのかはわかりませんが、おそらく他人には触れさせたくない、彼にとって大切な妻の思い出が詰まっているのだろう、という推察のもとに観ていきます。最後に、やはりこのリュックの中には妻との思い出を記した日記らしい、その年の数字が表紙に貼られた何冊ものノート(とオルゴール)が出て来て、妻との思い出の品であったことがわかります。
しげきにつきとばされた真千子は、手に怪我をし、介護人としての自信をなくしかけて、私にやっていけるのかと思う、と先輩の介護人(和歌子)に言いますが、和歌子は「こうしないといけない、ということは何もないのだから」と励まし、その言葉が真千子を自由にするところがあります。
そのあと、木に登っていたしげきが逃げ出して、あとを追う真千子と茶畑で追っかけっこして明るくじゃれ合うようなシーンがあり、和歌子の言葉に励まされた真千子が次第に彼女に心を開くかにみえるしげきとごく自然に触れ合うような感じが表現されています。
これだけの前触れがあった上で、いよいよドラマが佳境に入っていきます。真千子がしげきを車に乗せていく途中で脱輪事故を起こします。しげきの妻の墓参りに山へいくという設定が最初会話かなにか聞き落したせいか分からなかったのですが、茶畑での追いかけっこみたいに、しげきが目的なく森の奥へ入っていくのではなく(それなら真千子はもっと真剣にひきとめなくてはならないはずですが、しげきの目的を知っているように真千子もしげきのあとをついていきます)、どうやらしげきには山の中で行き着きたいゴールがあるらしいことは、山の中へ二人ではいって奥へ奥へ進む途中で、真千子が、道は合っているのか、という意味のことをしげきに訊くシーンがあるのでも気が付きます。それが冒頭の野辺送りのシーンや、しげきのひたすら亡妻への思いにとりつかれた姿と合わせて、これは山の中に葬られた亡妻の墓参りなんだ、とはっきり気づくのは、私の場合、二人がそこまで行きついてからでした。
車がエンコして、真千子が助けを求めて視界に入ったビニールハウスのほうへ行っている間にしげきの姿は車から消え、助けが見つけられずに空しく戻ってきた彼女はあわててしげきの姿を追い求めます。しげきは畑の中のかかしの影にいて、スイカを抱えて逃げていき、真千子が後を追ってつかまえ、割れたスイカを二人で食べるシーンは明るく、二人のいまでは親和的な関係をよくあらわしています。しげきがスイカのかけらを、追いかけ疲れて倒れ込んだ真千子の口に押し込んだり、お返しに真千子がしげきの口に押し込んだりするシーンはちょっと艶めいてもいます。
そのあとまたしげきはどんどん山の中へ入っていき、道に迷い、同じどころを堂々巡りしているようでさえあり、夕暮れが迫ってきます。真千子のスマホもうまくつながらず、二人は雨と闇の山中を彷徨い、鉄砲水が発生する状況で、しげきが危なっかしい流れを渡って対岸へ行こうとするのを、真千子は必死になって泣き叫んで止めようとします。このときの真千子のあまりの激しく悲痛な絶叫と涙は、目の前で起きていることと釣り合いがとれないほど大げさなものに感じられるので、その瞬間に、私たち観客はそこに彼女が胸の内に抱え込んでいるものにあらためて気づかされます。
それはもちろん彼女自身が息子を亡くしていて、それも夫におまえのせいだ(あるいはお前が傍についていながら)と責められるような亡くし方をしているために、もう二度と自分のせいで、あるいは自分がそばについていながら親しい人を死なせるようなことはしたくない、その精神生理的なトラウマがここでの彼女の絶叫と涙になっているのは容易に気づきますが、ここで鉄砲水の映像が一瞬登場して、「水」が予感される死と密接に結びついていることは、おそらく息子の死も、海水浴かプールか、とにかく彼女がそばについているときの水難事故だったのだろうと推測ができます。
ただそれが明示されるような言葉なりシーンなりがどこかにあったかどうかは、私には気づけなかったので、映像が指し示している方向を見ての感想(推測)にすぎません。
彼女が絶叫し、涙を流して、くずおれてしまう様子を見て、しげきは戻ってきます。ずぶぬれの二人は焚火をして暖をとりますが、しげきはものも言わず固まってしまったままガタガタ震えて寒がり、真千子は濡れたシャツを脱がせてしげきの体を懸命にマッサージしますが、しげきの震えは止まず、真千子は自分も上半身裸身となってしげきの背を抱き、自分の体温でしげきにぬくもりを与えます。二人が膚触れあうことで(精神的に)ひとつになったことを示すような映像です。
夜が明けてきたとき、目覚めたしげきは森の中で背を向けて佇む亡妻真子の姿をみとめて近づき、手をとりあって、二人で楽しそうに踊り始めます。様子に気づいてそちらのほうを見る真千子の目には、たぶん一人で踊るしげきの姿しか見えていないでしょう。
二人は再び山中を進み、大きなご神木らしい樹齢数百年とか千年とかであろう木に出会い、さらに山中を歩いて、ささやかな目印(墓標)らしい木が地面に突き立った場所に到り、しげきは大切にしていたリュックサックから前述の自分の何冊もの日記と小さなオルゴールを取り出します。日記は妻との思い出をつづったものでしょうが、彼にとっては思い出というよりも、ずっと妻が生きていて、彼と対話したり踊ったりピアノを弾いたりしていたわけで、その妻と「生きて」きた日々を記録したものであるのでしょう。
しげきは木の枝をスコップ代わりにして地面を必死で掘り返し、穴を掘ろうとします。真千子もそれを手伝い、穴を掘ります。オルゴールを真千子に手渡し、日記を穴に埋め、さらにしげきはその穴に自らをうずめるように蹲ります。その表情はなすべきことを成し遂げた人のように至福の表情に見えます。真千子はそのしげきに「ありがとう」と感謝の言葉を述べて彼の体をさすり、空のほうを眺めるようにして、再びオルゴールをまわし鳴らします。
ストーリーを追えばざっとこんなことで、これだけ知ったところで、そのストーリーに特別波乱万丈があるわけでもなく、男女の熱烈な恋愛があるわけでもなく、ただ息子を自分のせいで(あるいは自分がそばにいながら)失った過去にとらわれた女性が新任の介護人として施設へ来て、そこの認知症の男性と少しずつ心を通わせるが、あるとき事故がきっかけで男が自分の亡妻の眠る山に入るのを追っかけ、二人で夜の雨の山中をさまよいながら、なんとかその亡妻の墓地を訪れ、男性の胸の内でいつまでも生きていた亡妻の喪の儀式をようやく完了する、というだけの単純な話であって、格別面白くもなんともありません。
この種の作品をみると、いつも小説での芥川賞作品(いわゆる「純文学」)と直木賞作品(いわゆる「大衆文学」)との差異のことを連想します。いまではそんな区別などない、あるいはもともと認めない、と言う人も多いし、中には「読んで面白くないのが純文学」と定義する人もあるくらいですから、そういうことを議論しても文学の本質を論じる話にはなりそうもありませんが、映画にももちろん、それに似た区別ができるんだろうな、と思います。
小説でいえば直木賞はすでにある程度筆力に定評があり、かなり広範な読者層を持った実力派の作家が選ばれるようで、素材にもストーリー展開にも人物設定などにも、プロフェッショナルな工夫をこらした種も仕掛けもあり、読者サービス満点のサービス精神に富んだ作品が多いので、安心して読めて、好みはあっても、面白い作品が多い。
けれど、芥川賞のほうは原則、新人賞という性格のものでもあり、最近は過去何回候補作になった、なんてのが選ばれることも多いけれど、そうではなくて突然登場した新人でまったくそれまで小説を書いたことがないような人が、受賞に相応しい作品を書くことも少なくはありません。で、作品を読んでみると、たしかに面白くない(笑)。Interesting(興味深い)という人はあるかもしれないけれど、少なくともamusing(面白い、娯しい)とは言いにくいのが多い。技巧という意味でなら未熟な作品のほうがむしろずっと多いのです。
これは直木賞作品と読み比べてみればすぐわかりますが、直木賞作品のほうは、読んで娯しく、amusing 。波乱万丈の物語、奇想天外な物語、夢のようなロマンチックな世界等々、匠の技で作られた別世界に嘘と知りつつ酔い浸って、読み終われば快いカタルシスを感じて日常生活に何も変わらずスッと戻っていけるような、遊びの世界、ゲームの世界。もちろん深い人情をしんみりと感じさせてくれる作品も少なくないけれども、それも含めて作者の掌で存分に愉しませてもらう類の職人さんの芸のうち。芥川賞作品のように、書いた本人も自分の書いた作品の意味というか価値というか、それがよく分かっていない、うまく説明できそうもない、そういうわけのわからない作品とは違います。
ただ、いわゆる純文学のすぐれた作品には、作者が意識していようがいまいが、「芸」に還元されきらない、その書き手の資質、あるいは大げさに言えば宿命というのか業というのか、そういうなにかその書き手にとって、ほかにどうしようもない、こうでしかありえない、という必然性(必要性)が埋め込まれていて、それがどこかごくわずかな接点であっても、この社会、この時代の根っこにある普遍的なもの、なにかの兆であったり、失われたものであったり、決して動かせないものであったり、みなに見えていながら見ていないものであったり、そのような普遍性につながる要素があるなら、そういうものと響き合うものがあるなら、どんなにそれが作文の技術・技巧として拙く、それまでに形成されてきた言葉の共同性から逸脱する表現であったとしても、いや、だからこそそれを読んだあとは、自分の目のほうが変化していて、多かれ少なかれ自分の見る世界が以前とはどこか違ったものになってしまう、といったものでしょう。
その種の表現は、書き手が生まれて来た社会や時代からいわば無意識のうちに背中を押されて吐き出したうめきであったり、叫びであったりするので、どんなに不愉快なうめき声、叫び声であっても、たとえ少数であれ、わがことのようにその痛みに共振し、作品に普遍的な価値を見出す人が現れる、というふうなものではあるのでしょう。それは作家が努力して文章の技を磨いて、評価されるような優れた作品を書きあげました、というような話とは、ずいぶんかけ離れたことのように思え、むしろ作家が作品を生み出す行為というのは、作家自身にもどうすることもできない、作家の病、言ってみれば業病のようなものに見えてきます。
「殯の森」という作品など見ていると、映像作家についても、そのような病のイメージが連想されてなりません。いつもこういう話になると、いまでは世界的な美術作家として知られるようになった草間弥生のことを思い浮かべるのですが、私も美術館で彼女の展覧会は見たし、直島で海辺にしつらえられた彼女の巨大なカボチャなどには本当に感動しましたが、その彼女自身、あの特徴的なブツブツ(笑)は、頭で考えだした創作のアイディアでもどこかで見た借りものでもなくて、実際のあらゆるものに、あぁいうブツブツの斑点が実際に「見えた」のだと彼女自身が語っているのを聞いたことがあります。それは視覚障害の一種なのか精神障害の一種なのか何か機能的なものの障害なのか私にはわかりませんが、彼女にとってはそれは自身の精神の創作物などではなくて、いまそこにある現実だったわけです。
これを普通の、といっては語弊があるかもしれないけれども、自分が普通だとか正常だとか思っている私たち、より多くの人間からみれば、機能障害にせよ心の病にせよ、或る種病的な状態、異常な状態だということになるでしょう。けれども、本人にとっては、それは自分の生の根源にへばりついたオブセッションにほかならず、自分が頭で意志して取り除けるようなものではない、自分の生と一体の病のごときものであって、これを取り除けないなら、これと共存し、なんとかその状態を克服していくほかに生き延びる術がない、という自分の命と骨がらみの宿命のごときものであったに違いありません。
それを消そうとすれば自分も命の火を消してしまうしかない、自分の生きることと一つになった病とどう向き合い、戦い、共存し、克服していくか、というそのもがきの過程が、彼女の生そのものであり、またその悪戦苦闘の痕跡が、あの造形、絵画などの表現であって、全身全霊をかけたその投企によってのみ、かろうじて自分の背負ったオブセッションを軽減し、そこから自分を解き放つ光を垣間見ることができるのだろうと思います。
同じことは私が阪神間の大学で教えていてたびたび取り上げて来た、「具体」のメンバーだった田中敦子についても言えます。彼女のほとんどすべての作品にみられる、緻密に計測しながら描かれる色彩をもった円とその円をつなぐ無数の入り組んだ線との複合図形は、彼女が一貫して背負ってきた強いオブセッションを何よりも明瞭に示しています。美術評論家・キュレーターの岡部あおみが編集・監修した田中敦子のドキュメンタリー映像(DVD)の中で、田中も一時、「頭がおかしくなった」(心の病を病んだ)と自ら述べていました。
実際にいまの医者や精神医学者が病と診断を下すような病にとらえられるか否かは別としても、本質的なクリエーターというのは、画家であれ小説家であれ映像作家であれ何であれ、こうした自らの固有の「病」をいわば業のように自分の生とほねがらみのものとして背負った人たちのことではないか、と思わずにはいられません。
ネットを見ていたら、或る人は「殯の森」を取り上げて、彼女の作品は「普通の人が何気なく見るにはまったく適していない・・・世界でもっとも適さない監督の一人」と断言し、「彼女の映画を見るということは、平たく言えば河瀬直美という女のマスターベーションを見に行くということ」と書いているのを見て、苦笑してしまいました。ひどいこと言うなぁとは思ったけれど、或る意味で、言わんとするところは分からなくはなかったからです。
上に書いたような意味で、必然的にその作品の成り立ちは非常に個人的なものに根差すことになります。彼女の生と骨がらみの業としての病が、私の言い方で言えば、ほとんど作り手の「作ろう」という意図なんてものとは無関係であるかのように、その病が彼女の身体を蝕み苛むことによる痛み、苦しみにぎりぎりのところで堪えようとする身体が無意識のうちに吐き出す呻きや叫びのようなものが作品なので、ほかの人間や世の中で起きていることや、なにか「社会問題」だの「人権問題」だのなんとか問題だのといったこととは関係のない、生と死の境を彷徨う手負いの獣の呻きや叫びのように純然と個に属するものにほかならないからです。
だから、それを個人的なかかわりをもたない私たちのような外部の人間が、「自慰行為」だ、とみても、或る意味で何も不思議はありません。いや、事実そういうものです、と言ってしまってもいいでしょう。
その行為は当面、ただその作り手自身にとってのみ意味のある、生きるか死ぬかの必死の行為なので、もしそれをおせっかいにも他者が「理解」しようとすれば、彼女がなぜそんなものを生み出したのか、その根源までさかのぼってたどりなおすしかないわけです。それは第一に彼女がこれまで作り出してきた作品を全部たどりなおしてみることでしょうし、彼女がそういう作品を生み出してきた背景となった現実的な環境や知的な環境などの一切を子細にたどってみるほかはないでしょう。
もちろん、そんなことをしようというおせっかいな意志をもつのは、あるいはそんなことができる機会をもつのは、ごく少数の職業的な研究者や評論家だけでしょう。私たちごく普通のたまたま彼女の作品がどこやらの有名な映画賞を受賞したと聞いて、いっぺん見てみようなんて気を起こしただけの観客が、彼女の一般の映画館などで上映される映画市場へのデビュー作以前の習作の類を全部たどってみたり、彼女の生まれ育った環境を現場へ行って、あるいは各種資料を探索して洗い出す、なんてことをするような意志をもつことはまずないでしょうし、仮に少々作品や作家に興味を持ったとしても、技術的にも困難でしょう。
だからわたしたちはごく素直に、出会った作品に共感できるなら、それを楽しみ、そうでなければ忘れてしまえばよいので、私も時々やることがあるけれど、あまり個別の悪口は言わないほうがいい(笑)。それは多くの場合は、その人の好みの表現にすぎないと思いますから。
では、なぜこういう極度に「個人的な」作品、あるいは映画づくり、というものが、その良し悪しは別として社会現象として大きなニュースのように取り扱われる国際的な映画賞に選ばれたり、少なからぬ映画ファンが支持したりするのでしょうか。
こういう言い方をするときは「個人的な作品であるにもかかわらず」と言うのが普通かもしれないのですが、本当はたぶん「個人的な作品だからこそ」なのでしょう。つまり個人の生き死にに関わることとして、どんなに小さな接点であろうと、いまここ、というこの現在の時代と社会に根を下ろしていたり、なまなましい火花を散らすような接触の仕方をしていなければ、その作品はきっと同じ時代、同じ社会に生きるわたしたちに通じるものを持たないし、それを超えて普遍性を持つ契機を持たないのだろうという気がします。
この映画も撮影場所となった村の人たちの協力を得て、ある種の幸福な共同作業の機会があったようですが、それはただ表面的なことで、そういう意味での「みんなでつくった映画」がすぐれた作品になる保証はもちろんないわけで、すべて、何らかの共同性がこうした芸術作品の創造の普遍性を保証することはあり得ないと思います。
難しいことを言わなくても、また彼女の作品を習作までたどって見たり、創り出された背景を子細に調べたりしなくても、ただこの映画を見るだけで、その普遍性に触れることはできる、と私は思います。またそうでなければ、優れた作品だとは言えないと思います。映画にせよ小説にせよ絵画にせよ、作り手にどんな意図や高邁な理論があったとしても、その作品自体をふつうの読者、観覧者が読んだり見たりして、直観的に心を動かされるものでなければ、それは少なくとも芸術表現としてすぐれた作品ではありえない、というのが私の先入観的な(笑)考えです。
それは受け手の知識や経験とはあまり関りのないことで、どんな幼い(私のような)読者、観覧者であっても、すぐれた作品に素直に接して、直観的にその価値をうけとめ、こころを動かされるのが芸術作品だろうと思っています。なぜなら、芸術作品のインターフェイスは小難しい知識でも理屈でもなく、人間ならだれでも持っている感覚器官であり、それを刺激する色や形や音や、要するに感性に訴える要素だからです。
もちろん感性はもともとの資質や経験によって直観的な理解力に幅があるに違いありませんが、それは知識や理屈や直接のあれこれの経験などというものとは無関係でしょう。だから、どんなに拙い者でもすぐれた作品の奏でる主調音くらいは聞き取ることができると考えています。
そしてそういう感性を通して人の心を動かす要素の欠落した「作品」は、背後にどんな高邁な思想を持っていようと、どんな高級な芸術理論を持っていようと、またどんな作品づくりの実績やどんな豊富な人生経験を持っていようと、そんなものには何の価値もないのだろうと思います。
さて「殯の森」です(笑)。私たちは彼と彼女が二人して山の中へ入っていくあたりから、ひたすら二人を追い、真千子の視点に同化してその姿を見ていくことになるでしょう。
なぜ真千子がそこまでしてしげきの好きなようにさせ、ひたすら素直に彼のあとを追わねばならないのか、彼女の思いに同化しているうちに、私たちにも次第に彼女の気持ちがわかってくると思います。大切な子供を失って、いま自分はしげきの介護人として彼の気持ちを理解しようとし、「こうしないといけない、なんてことはないんだから」という和歌子の言葉に励まされて彼女は彼のそばについているのです。
うまく関係をつくれず、傷ついていた彼女が、ようやく心を開いてくれるようになったしげきを守りながら、彼が命よりも大切な亡妻の喪の儀式のために山道を分け入っていくのについていきます。日が暮れ、あたりが暗くなり、道に迷い、雨に打たれて状況が厳しくなるにつれて、もう自分はぜったいに目の前のこのようやく心を開いてくれて自分が寄り添えたと思えるようになったしげきを失いたくない。しげきが鉄砲水の発生する流れのところを超えていこうとしたとき、その彼女の思いは悲痛な叫びと慟哭になって噴き出します。自分が再び大切なものを自分のせいで、自分がそばについていながら失うかもしれない・・・息子を失ったときの光景が彼女の中に再現されたことは想像に難くはありません。
その思いを感じ取ったように、しげきが戻ってきて彼女の傍らに立つとき、無力感にうちのめされてくずおれていた彼女は救われ、彼とひとつになったことを感じたでしょう。焚火の傍で震えるしげきを自身の素肌の温もりで守ろうと彼の背を抱く真千子の姿はごく自然なもので、男女ではあるけれども、そこにこうした状況での男・女の性を感じさせることなく、寄り添う魂の一体感がそれまでの経緯からごく自然な形であたたかく実現されていて、とてもいいシーンになっています。
それでも、真千子としげきにとっての喪のありようは同じではありません。しげきにとっては、この映画の世界の最初から、妻真子は一貫してまだ生きていて、一緒にピアノを弾いたり、手をとって踊ったりする、現にそこに生きて姿かたちをもって存在しているものなのです。真千子にはそれは見えないし、亡くした息子はもう帰ってこない、「喪失」としてしか彼女の中にはなくて、その喪失を、どう、或る意味で始末するか、が彼女にとっての喪の儀式になります。
しげきにとっての喪は、そうではなくて、彼にとってはまだ生きている、そして坊主に言われたように33回忌を迎えてもう彼のもとにはいられず、あの世へ行ってしまう真子への別れの儀式こそが彼にとっての喪の儀式で、そのために山中の彼女の墓を訪ね、これまで一緒に生きて来た33年間の生活と思いをつづった日記を埋め、自分もまた彼女のもとへ旅立っていこうとするかのように墓の傍に掘った穴にみずから身を埋めるような所作をするのでしょう。
これに対して真千子は、目に見えず顔も形もない「喪失」を自分の生と骨がらみの、ほうっておけば徐々に自分の生を蝕んでいくしかない業病のようにかかえていて、これを本当は始末しなければ人は生きられないのですね。
だから彼女は「喪失」によって断たれた、自分が守るべき人、自分がいつも傍らにいて共に生き、心を開き、一体のもののように確かなつながりをもっているような存在を心のどこかで渇望しながら、この介護施設へやってきたわけです。そこでしげきに出会い、彼とかかわり、彼が心を開いて、自分が寄り添うべき人、自分がいつも見守っているべき人であることを、無意識に直観的にさぐりあてて、その日々の小さな彼とのやりとりによる浮き沈みのうちに、自分の生を蝕む業病との生きるか死ぬかの戦いに相当する意味を見出していくわけでしょう。
だから雨と闇の中をさまよい、鉄砲水でしげきを失うかもしれない、という恐怖に一瞬とらわれたときの彼女のその時の状況からすればほとんどバランスを欠くほどの絶叫と慟哭は、彼女自身の生きるか死ぬかの戦いの瀬戸際であり、ここでしげきが恐れたとおりに死んだりしたら、もう彼女は自身の業病から立ち直るすべはなく、実質的に死ぬしかないわけで、最大の危機の場面でもあったわけです。
ここで彼女は、自分の内部を洗いざらい絶叫と慟哭でさらけ出すことによって、つまりしげきとのこの関り方に彼女のすべてを賭けることで、いわば九死に一生を得、自分が寄り添い守り温もりを与えるべき存在を得ることで彼女自身が業病を克服し、かろうじて生を得るのでしょう。
そしてしげきが妻の墓所にたどりつき、喪の儀式を完了するとき、彼女もまた、彼につきそうことによって「喪失」を始末する彼女自身の喪の儀式を完了するのだと思います。
こうして真千子に感情移入しながら素直に見ていけば、自然にこの映画の作り手は真千子そのものであり、彼女の絶叫と慟哭は、そしてその優しさや温もりは、また到達点で彼から受け取るオルゴールを回して空を見上げる彼女の喜びの表情は、まさに河瀨直美その人のものだろうと納得のいく思いで見ています。
監督にどんな過去があり、どんな経験があるかは何も知りませんが、彼女自身が意識していようといまいと、この作品には彼女自身のきわめて個人的な業のような病との生き死にの戦いのようなものが、真千子の行動に、その叫びと慟哭にあらいざらい投影されていると思わずにはいられません。
この作品が難解だと言われるのは分からなくはないけれど、そんな真千子に同化して叫び、泣き、しげきを温かく包み、オルゴールを鳴らして、ありがとう、と言うことができれば、この映画を十分に理解したことになるのではないでしょうか。
私たちは河瀬とはまったく異なる環境に育ち、全く異なる経験をし、全く異なる生き方をしているとしても、人生のどこかで身近で、自分がそばに居ながら、自分がもう少しこうできたのに、と思いながら、心ならずも大切な人を失い、あるいは失おうとしたり、あるいはまたそれを恐れながら生きざるを得ないような経験を持っているのではないでしょうか。
それはたぶん、決して直接には他人に何のかかわりもない、言ってみれば私たちひとりひとりのきわめて個人的な事柄に属し、それでいて自分の生と骨がらみの、死に至る病と言っても、業(ごう)と言ってもいいような病に類するものではないでしょうか。そして、だからこそ、私たちはみなそれぞれの「殯の森」を彷徨せざるを得ない者であり、そこにこの作品の普遍性を感じるのではないでしょうか。
サイの季節 (バフマン・ゴバディ監督。2012年 イラク・トルコ映画)
イラン革命の直前、愛し合う若い詩人夫婦の妻に横恋慕して拒まれ、その父親に痛い目に合わされた運転手が、逆恨みして、革命を利用して詩人夫婦を陥れ、政治犯として密告します。夫婦は革命政権の官憲に捕らえられ、裁判の結果、夫は30年の刑期を言い渡され、妻は刑期10年で両者とも投獄されます。
妻は監獄で横恋慕する運転手に凌辱され、その男の双子を生んで、刑期を終えて釈放されますが、彼女は夫が獄死したと思い込まされ、その墓の前で悲嘆にくれます。そこへ自分たちを陥れた運転手が現れて、なお彼女を愛していると言います。
一方、夫の詩人は30年の刑期を終えて釈放され、なお自分が愛を失わない妻がトルコにいると聞いて、探しにいきます。探しているときに出会った二人の若者と親しくなるうち、そのうちの一人の女の子と交わりを持ちます。けれどもその2人は実はあの運転手が詩人の妻に産ませた子供だったのです。
彼女は、自分の母親が、かつての夫である詩人の詩を人の背に刺青で彫る彫師であることを伝え、彼は妻のもとを訪れます。妻は夫が死んだものと思い込み、かつて自分たちを陥れた男と、その男の子供2人とともに、彫師として暮らしを立てていました。その様子を覗き見ただけで、詩人は妻に会わずに去り、例の娘の手引きで、寝台に背を向けて横たわり、自分の背に、何も気づかないかつての妻に自分の詩を彫らせますが、自分を明かすことはありませんでした。
そして詩人は自分と妻を陥れた運転手を自分の車に乗せ、彼とともに車ごと海だったか沼だったか要は水に飛び込んですべてを終わらせる・・・
ざっとそんなストーリーで、ずいぶん暗い話です。詩人夫婦を陥れる悪役の男が、イランでイスラム革命を起こした側の人間で、詩人を政治的にイスラム国に反逆する詩を書いたことを罪状として獄に入れたり、監獄にも立ち入れる自分の権力を利用して夫になりすまして妻を凌辱しようとしたり、また妻が釈放されてからは夫が獄死したと公的な権力によって告知し、墓までつくるといったふうに、政治権力の行使がみられるので、政治的なメッセージを持った作品とみられるかもしれませんが、もともとは良家のお抱え運転手がご主人の令嬢に横恋慕して、身の程を知れ、と令嬢の父親らしき人物の使用人に激しい仕置きを受けて解雇されたことに対する逆恨みが動機で、そこに思想的な意味合いは何もない、という描かれ方です。
たしかに革命前の階級制度による、金持ちの良家の人たちと、貧しい身分の低いその使用人という矛盾がその背景にあって、運転手が身分違いの恋を拒まれ、かつ痛い目に合わされるのですから、革命ですべてがひっくり返ったとき、かつての弱者、被差別者が権力者となって仕返しをする、という構図にはなっています。
しかし、この作品は革命前の階級制度に批判的な目を注ぐわけでもなく、それを良かれ悪しかれひっくりかえしたイラン革命の思想や行動に意味を認めているわけでもなく、また逆にそうした思想的背景やその実践を問題にして否定しているわけでもありません。
だから、これを政治的なメッセージを持つ作品、政治的な相剋を描いた作品とみることには私としては疑問があります。それとも、政治的な抑圧というのが、つねにこんなふうに個人の悪意のようなものを通じて機能するものだ、ということなのでしょうか。
これはむしろ極めて個人的な、人間の愛と憎しみの相剋とその行方を描いた作品だとみたほうが素直な気がするのですが・・・。そして、個人の愛や憎悪が人の運命を狂わせ、苦しめ、不幸にしていく過程をそのはじめからおわりまで描き、全体を通してそのような愛憎の中に生き、死んでいくことを、人間の業として見るような眼差しが、この作品にはあるのではないでしょうか。単に、善良な詩人夫婦が革命政権側から政治的にこのように抑圧されたのだ、というメッセージを伝えるための作品だとすれば、私にはつまらなく思えます。
「サイの季節」というのはとても奇妙な、不可解なタイトルです。実際に動物のあのサイが出てくるのですが、その登場の意味もよくわかりません。イラン革命に噴出したような、或る猪突猛進し、暴発するような人間の暴力性や破滅に向かうようなエネルギーの暗喩かもしれませんし、先に述べたような業を負った人間の暗い情念を表徴するものかもしれませんし、そうではないかもしれません。
そういえば、亀が雨や雹のように空から降ってくるシーンもあります。村上春樹の「海辺のカフカ」だったか、あの小説にも空からへんなものが降ってきましたが(笑)、創作家というのは突拍子もないことを考えるものですね。この亀も私にはよくわかりません。あまりストーリーを追う分には影響ないし、何かを表徴したかったのでしょうけれど、妙に意味ありげなだけで、はたして何かの効果を高めているのかどうか、私には疑問でした。
身分違いの片思いをとがめられ、仕置きを受けた一人の人間の屈辱に由来する暗い情念が、相手とその夫への逆恨み、復讐心、嫉妬心となって、折からの、価値観や社会的身分が転倒される革命を好機とし、その権力を使って、一対の男女を陥れ、引き裂き、凌辱することに成功し、そのために善良な詩人夫婦の人生が徹底的に踏みにじられる。それでも悪人の子を産んで母親となった女性はかつて愛した夫の詩を糧に生きていかねばならず、すべてを知った夫である詩人は自分たちの運命を狂わせた悪人を道連れに、自分の人生に、したがって自分が探し求めて来た妻への執着にも終止符を打つ、そんな暗い話です。この話はどうやら実在のクルド系イラン人詩人サデッグ・キャマンガールの実話らしいし、亡命イラン人であるゴバディ監督自身にも同様の体験があるらしい。やはり政治的な主張がこの作品のキモなのでしょうか・・・。
フェア・ゲーム (ダグ・リーマン監督。2010年)
実際に起きた事件、プレイム事件を描いた映画で、CIAの優秀な女性諜報員がイランの大量破壊兵器疑惑についての調査で、独自のチャンネルを通じてイランの原子力関係の科学技術者と連絡をとり、ホワイトハウスの連中が核ミサイルのためのアルミ製のパイプがひそかにイランに運び込まれたとする見解が誤りであるという情報を入手すると同時に、協力者であるイランの技術者たちを亡命させる約束をし、手はずを整えるが、ホワイトハウスは彼女のもたらした情報を無視し、イランの科学者たちを見捨てて、そのリストをイスラエルの特務機関モサドに渡したために、科学者たちはイランの核の高度技術者の存在を恐れるモサドの手で次々に殺されていく。協力者だった科学者の妹の抗議を受けて自分の責任を感じ、上層部のやり方に憤る主人公ヴァレリー・プレイムは上司に激しく抗議するが、相手にされないどころか、上層部が彼女がCIAの諜報員であることをリークし、彼女は窮地に立たされる。上司に裏切られてもCIA職員としての職業倫理の枠内にとどまり、国家権力に抗っても無駄だと冷めているヴァレリーに対して、夫のジョー・ウィルソンは一層憤激してメディアを味方に国家権力に対して戦いを挑む。ヴァレリーは子供たちをかくまうため、実家へ帰り、元軍人の父親と語るうち、夫が正しいと考えをあらため、すべてを奪われてもこの結婚だけは守り抜くことを決意する。こうして2人は戦い抜くことを誓い合って、手をとりあうのです。
実話だけに迫力満点。主役のヴァレリーを演じるナオミ・ワッツがすばらしいし、夫役のショーン・ペンもみごとな演技で、迫真に満ちた個人と国家権力とのせめぎあいを描き出していますが、実話だと知らなかった私は、最後に現実のヴァレリー・プレイムが議会で証言する場面が出てきたところで、うわっ、これほんとの話なんだ、とちょっと衝撃を受けました。
だから、ホワイトハウスの幹部がヴァレリーをCIA諜報員であることをリークするという、国家がその部下を裏切る滅茶苦茶な現実も、また自分たちの協力者であったイランの科学技術者たちを裏切ってモサドにリストを渡し、彼らを死へ追いやるという国家的犯罪もすべて事実なわけで、戦慄せざるを得なかったのです。
しかも、ラストのナレーションによれば、そのリストをモサドに渡したか、ヴァレリーの身分をリークしたりしたか、どちらのだったかは忘れたけれど、そういう卑劣な行為の張本人は、あの「親日家」の大物として日本でもたびたび話題になっているアーミテージで、本人もそれを認めている、というのだから驚きです。
小泉政権のときに、田中真紀子が外務大臣に任じられ、アーミテージと面会するはずだったのにすっぽかしたか何かで、こんなアメリカ政府の中枢に近い大物の親日家をコケにするなんて、外交のガの字も分からない阿呆と田中が外務省の連中から陰口非難を浴びた、あのアーミテージです。ブッシュのバカ息子(二代目)がイランとの戦争ゲームを始めたいために、不都合な真実を闇に葬ろうとして、味方のスパイの身分を暴露し、協力者であるイランの科学者を死においやることを平然とやってのけた、その張本人のひとりが彼なのですね。そのことはこの映画を観るまでは知らなかったので、驚きました。現実は小説より奇なりというけれど、ほんとに政治権力の作り出す闇は広く深い。
「朱花(はねづ)の月」(河瀬直美監督。2011年)
大和三山に囲まれた飛鳥の村で「はねづ色」の染めを仕事としているらしい三十代後半くらい?の女性が夫か同棲相手かと二人暮らししているけれども、同じ村に住む木彫り職人らしい若い男と逢引する仲になり、妊娠したことが分かって、夫(あるいは同棲者の男)に好きな人がいる、と打ち明け、夫は唖然として言葉もない。また彼女は若い愛人にも妊娠を打ち明けるが、そのときに若い男が「ここで3人で暮らせばいい」と受け入れようとすると、彼女は、「もう堕ろしたからいい」と言い、唖然とする男に「(あなたは)待っているだけじゃないの」みたいな捨て台詞を残して雨の中を自宅へ戻るが、夫に、赤ん坊はまだ(おなかの中に)いると打ち明ける。
昔、畝傍山をめぐって香具山と耳成山と争った、という万葉集に歌われたような~そして冒頭からこの万葉の歌が繰り返し何度もナレーションでつぶやかれるのですが~三角関係だけ取り出せば、ただそれだけのことで、男女がくっついたりはなれたりのゴタゴタは都会だけじゃなく、こんな田舎にもあるよ、というだけの話になってしまいますが、そこへ、かれら登場人物とつながりがなくもない戦中派である祖父母の世代の話、好きな人と一緒になれなかった祖母の逸話が、現実の祖母や相手の男が現代の人間のそばに一緒に登場させられたりするのと、背景になっているこの飛鳥の自然にまつわる、先に述べた万葉集の歌に詠まれた伝説の大和三山の三角関係を重ね合わせて、いまのこの三人の間の関係が古代から繰り返される人間の普遍的なありようであり、苦悩であり、面倒くささであり、といった奥行きをもったものとして描きたい、といった作品です。
しかし、こうした二世代前のエピソードも、古代の大和三山の伝説も、みな作品世界の外部から作者が外挿した意味づけであって、作品世界の内部で生きる登場人物たちの間から自然に立ち上がってきたものではないので、まったく作品世界のありようにとって必然性がなく、作り手の外在的な意識がつくりあげた厚化粧にすぎないために、わたしたち観客は鼻白むしかないものになっています。
ボヴァリー夫人だってアンナ・カレーニナだって、ヒロインの行為だけを取り出せば、浮気女の不倫の話にすぎないけれども、彼女たちがそういう生き方を選びとっていかざるを得ない背景が社会的な広がりと心理的な深みをえぐる鋭利さ、緻密さをもって豊かに描かれて説得力があり、したがって彼女たちが滅びの道へ転げ落ちていく必然性も完璧な必然性をもって描かれています。
でも(とあんな巨匠と比較しちゃいけないでしょうが・・・笑)この作品の女性には自分をそんなところへ追い込んでいく必然性も何も感じられず、ただ不倫ありき、浮気ありきで、妊娠してしまって右往左往して混乱した告白の仕方で、夫(あるいは同棲相手)をも愛人をもただ巻き込んで苦しめるだけ、どこにも古代のおおらかさもなければ、戦中派の祖母らの潔さもない、まぁそこが現代的だと言えば現代的ではありますが、それならとてもこれらを重ねてみせることなどできないでしょう。
古代の大和三山の三角関係を重ねることなどまるでできないのに、無理に外から手をつっこんで重ねようとするので、冒頭からの万葉集の朗読なんかが、まことに大仰でペダンティックなパフォーマンスにすぎないものになってしまうし、祖母の世代の結ばれない恋愛も一体何の関係があるの?という感じで、そんな過去の亡霊が現実の姿をして現れたりすると、おいおい無用の混乱を引き起こすだけの無関係な亡霊はひっこんでいてくれよ、と言いたくもなります。
ここらは生真面目な観客は、河瀬さんの映画は難解だけれど、なんて一所懸命その混乱を見ている自分のせいだと思って解きほぐそうとしていたりするのですが、それはあまりに気の毒で、混乱している、あるいはあえて混乱させて単純な話を単純でなく見せようとしているのは作り手のほうではないか、と思います。
古代の三山の伝説も祖母のエピソードも、作品世界の登場人物たちが必然的に招き寄せる過去の物語ではなく、作り手が世界の外から手をつっこんでこの世界に生きる登場人物たちの言葉や行動の意味はこうだ、と付加したものであるために、観客も、じゃなぜ作り手はそんなことをしなければならなかったのか?という問いの答を、作品の内部にではなく、外部に求めざるを得ないのは自然なことで、河瀬さんは自分が愛する故郷を強く印象づけたかったから無理に大和三山の伝説など重ねようとしたのかな、とか、外国人向けにエキゾチズム効果をねらったのかな、とか、とりたてて面白みのない展開に時間軸のひろがりがあるような錯覚を与えたかったのかな、とか、つい作品外の戦略的な思考なり「政治的」な姿勢なりを問う方向へ行ってしまうのも、あながち責めることはできないでしょう。
もし本気で古代の大和三山の伝説を、作品世界に持ち込んでヒロインたちの三角関係に二重写しに焼き付けたいのであれば、ヒロインたちの生きている世界がおのずから招き寄せるものでなければどうにもなりません。そのためには、もっとヒロインたち一人一人の暮らしや生き方を深く、緻密にとらえ、その意味を剔抉しなければ、大和三山とも祖母ともつながりようがないでしょう。
たとえば、ヒロインが手仕事にしている、タイトルの「朱花(はねづ)」色の染めのことをもっと掘り下げて、こういう土地柄の中で真剣にそんな仕事を内在的に探究しながら持続している女性の日常のうちに、自分の天職としてそれをきわめていく上での苦しみもその克服の過程も必ず内包しているはずですから、そのような女性の生きる姿勢やその天職のありよう自体を深く掘り下げれば、古代まで遡る時間軸が喚び起こされる可能性がそこに見いだされるに違いないので、もっとこの女性の生きざまを緻密に深く掘り下げていかなくては話にならないのではないか。
また祖母の世代のかなわぬ恋のエピソードを潜在的な三角関係としてヒロインの現実的顕在的な三角関係に重ねたいのなら、もっと祖母とヒロイン自体のつながりを深く掘り下げて、ヒロインが祖母のあたかも生まれ変わりというのか、化身のように見えるまでに描き込んだうえで、祖母の果たせなかった恋の成就(破綻するとしても)へ踏み出すかのように見える程度までは描き切って観客を納得させてくれないと、このままでは、いまじゃ田舎にもこんな不倫が浸透していろいろ周囲の人間を巻き込んでドロドロしてまっせ、というだけの話に終わってしまいそうです。
たしかに自然を撮った映像は美しいけれど、それも例えば妊娠を打ち明けられ、もう堕ろしたからいい、あんたは待っているだけやん、と言われて傷つき吠える若い愛人の男の映像を出したすぐあとに、強い雨風に揺れる豊かな緑の森の風景や、怒涛のようにほとばしる渓流の映像を出すところなどに観られるように、すべてこの種の重ね合わせが外挿法によるので、この場合はきわめて素朴な、荒れ狂う男の心理を荒れ狂う自然の像的喩で表現しただけなので、素朴過ぎて苦笑は誘っても、そう違和感はないけれど、万葉集の朗読が聞こえて来たり、兵隊帽のあんちゃんが繰り返し登場したりすると、おいおい、と白けてしまうところがあります。
同じ素朴に撮るなら、こういう美しい自然の中で、昔ながらの染めの技法を守り、これを天職として研鑽しながら、また古代からの時間軸を自分の生き方のうちに持続しながら、さらに祖母のしてきたことを自分のうちに継承しながら、静かに生きている女性が、同じように木を彫って生きることに命をかけているような若い男と心を通わせ、彼とまったく五分に渡り合える優しく寛容でまじめな夫なり同棲者なりとの三角関係を、肉体的な関係の有無はどうでもよいからきちんと描いて、その関係から自然に生まれてくる限りでの古代や祖母の恋を引き寄せる、というほうがよほどまっとうな作品の世界を実現できるのではないでしょうか。
そういう登場人物たちは、決して作品世界の外部から作者が付け足す「意味」など必要としないで、自分たちの行為や生き方の意味をみずから生み出していくはずです。
「リップヴァンウィンクルの花嫁」(岩井俊二監督。2016年)
これはなかなか見ごたえのある作品でした。ただ、前半はコミックの原作でもあるドタバタ喜劇風の作品なのかな、と思っていたほど、スカスカな軽い印象でした。
ひとつにはヒロインの黒木華演じる七海が臨時教員として生徒の前で見せる気弱さ≒引っ込み思案の消極的性格≒行動に一歩踏み出すには慎重であるはずの性格と矛盾してネットで夫をみつけてさっさと挙式する軽薄さや、怪しいのがみえみえの「なんでも屋」の言うなりになったり、夫が浮気してると突然言いに来る男を簡単に家に入れたり、夫の浮気のことを信頼しているはずの「なんでも屋」に事前相談することもなく、夫の浮気を告げに来た男のマンションに自分から訪ねていったり、あんまり阿保すぎるのが一つの大きな要因です。こんなのあり得ないよ、とイライラを通り過ぎて、嘘くさくてちょっと白けてしまうところがあるのですね。
ほかにも、準主役の「なんでも屋」、綾野剛演じる安室の登場が怪しすぎたり、彼の雇用する結婚式のニセ親族や七海の新郎の母親などの誇張されて滑稽なありよう、さらには七海の結婚相手をネットでみつけてパッと挙式しちゃったり、浮気していると告げ口にきた男を一人の時に簡単に家に入れたり、相手のマンションにまで出かけたり、こういう設定そのものがありえないので、これはマンガやな、と思って観ていました。
でもまあそれらは、今の世の中がフェイクだらけで、なにもホントのことがないというより、ホントとウソの境も見えなくなって、なにがホントでなにがウソかもわからない、そんな状態をシンボリックに滑稽味たっぷり誇張して、あり得ない設定をあえてつくってみせたんだろうな、と寛容な気持ちで(笑)見つづけることにしたわけです。多くの観客はそうだったんじゃないでしょうか。ラブレターやリリイ・シュシュの岩井が、こんなアホなマンガで終えるわけないだろう、と思って(笑)。
そのとおり、後半、Cocco演じる「女優」真白(ましろ)が登場してから、俄然よくなります。彼女の演技はすばらしかった。AV女優にしては肉付きがどうの、歳がどうのと書いているひとがいたけれど、そんなことはない。あれでいいんです。ぴったりです。
つまりもう彼女のあれやこれやはすべて、自分がもうとうの昔に旬の時期を過ぎていつクビにされても仕方がない商品価値のない女になっていることも、また死に至る病をかかえて先の長くない身であることも熟知した女性の最期の必死の生き死にの境の行動なわけで、その必死さが、倒れても目覚めて何が何でも現場へ行くと言い張って、「無事」3Pの難行をこなして息も絶え絶え戻ってくるところに、実に見事に演じられていました。
そして、その前後の七海と真白の、猛毒をもった生物たちが遊泳する水槽を眺め、コップを耳にあてて海の音を聴くシーンや、花嫁衣裳を着てキスし合うようなシーンの美しいこと!その前のまだ真白が何ものともわからないときに、偽家族の面々で飲みあう場面の楽しそうなこと!こういう細部がこの映画をとても素晴らしいものにしています。
たしかにちょっと頭が弱いんじゃないか、と思われるような七海が、わけもわからず「なんでも屋」の安室にひっぱりまわされ、夫とその家族に追い出されて途方にくれて泣いて「なんでも屋」にたよるほかになすすべもなかったのが、真白に出会って、やがて彼女の真実を知ってその死に直面する過程を通じて、ひとりで生きていこう、と決意するところまでたどりつく、或る意味で一人のどうしようもない弱い女性が自立にいたるプロセスを描いた話とみることもできますが、ドラマの激しく炸裂するような焦点というのは真白がらみのシーンで、そこに生きていくというのはどういうことか、人と関わっていくということはどういうことか、私たちの胸につきささってくる問いを投げかけてくるのは、真白の必死の生きざまというか死にざまというのか、その姿をとらえたシーンにあることは間違いないでしょう。
コンビニへいくと店員が私なんかのために商品を丁寧に包んで袋に入れてくれるんだよね、私なんかのためにさ、その手を使って包んでくれて・・・と訥々と語る真白の言葉には私たちの胸に強く訴えかけてくるものがあります。
最大の泣き所はおそらく、誰にとっても、真白が亡くなったあと、引き取りを断られた遺骨をもって七海と安室が二人で真白の母親の住まいを訪れるシーンでしょう。
母親は日本酒をコップになみなみと注いで飲んだと思うと、突然着衣をすべてかなぐり捨てて、人前で裸になるなんて、とAV女優になった娘を非難しながら嗚咽し、驚く七海の前で今度は安室までが着衣を脱ぎ捨てて酒をがぶ飲みし・・・あのシーンと七海も含めて3人の演技はすばらしく、この作品のハイライトになっていて、それまでいろいろ感情の起伏はあっても平静に見ていた私たち観客も自分の中で感情が炸裂して一気の溢れ出すのを感じます。
綾野剛演じる安室は実に怪しい(笑)。
夫が浮気しているという設定であの告げ口男に七海と接触させてあんな行動をとらせたのは彼だし、動機を考えれば彼自身が自分のこととはもちろん言わずに夫の母親がやらせたのだろうと言いますが、それは自分が依頼されて仕事としてやったことなのは明らかでしょう。だいたいそれを疑わない七海もちょっと変ですが(笑)。
現実ならあぁいう役回りの男は、七海をうまくだましたら、きっとやくざにでも売り渡すでしょう。借金で縛って、クスリでも打って、あとはお決まりの地獄で稼がせる、そんな成り行きでしょう。しかしこの作品での「なんでも屋」安室は、そうできるくらい七海を信用させ、いいように掌にのせて操っているのに、自分個人の欲望を満たす対象にもせず、また商品として高値でその筋に落とすようなこともせずにいます。
そこは現実離れしているけれど、いちおうこの作品の世界では、それは真白にうんと高い報酬とひきかえに、彼女の究極の要望に応えることを仕事として引き受けていたからだ、というつじつま合わせは用意されています。
ただ、最後の最後に依頼主である真白自身が自分の要求を裏切るわけですが、そこにこの作品のヒューマンな性格があらわれていると思います。そこは変にひねこびた解釈は市内で、素直に受け取ればいいんだと思って観て、いい結末だな、と思いました。黒木華のためにつくった映画だと言われている(脚本を彼女にあてがきしたらしいから)けれど、そしてもちろん彼女は熱演していたけれど、わたしは綾野剛も素晴らしかったと思うし、またそれ以上にCoccoが下手するとヒロインを食ってしまうくらい、素晴らしい熱演というか、ほとんど自分の生き死ににかわかるかのような怪演(笑)だったと思います。
*つい長々書いちゃいましたが、「手当たり次第にⅦ」はこれでおしまいです。