2018年05月
2018年05月30日
清凉寺(嵯峨釈迦堂)
清凉寺(嵯峨釈迦堂)で、きょう、明日だけご本尊の釈迦如来(国宝)がご開帳になるというので、老々介護の前にちょっと寄ってきました。これは立派な仁王門。火事でたびたび焼け、いまのは安永6(1776)年に再建されたものだそうです。京都府の指定文化財です。左右に阿吽の金剛力士(室町後期)が守護しています。
本堂(釈迦堂)。間口14間、奥行き13間、天慶8(945)年清凉寺の前身棲霞寺の寺域に重明親王妃が新堂を建立して藤原氏に寄進されたとき、等身大の釈迦像を安置され、これが釈迦堂の名の由来だそうで、度重なる焼失の後、元禄14(1701)年に再建された、単層入母屋造本瓦葺、徳川初期末の桃山建築の名残りをとどめるお堂がこれ。
お堂内の宮殿は五代将軍綱吉の生母桂昌院の寄進で、豪華豪壮な宮殿の裏には清凉寺縁起の一部を拡大した壁画があります。
本堂に祀られているのは、ご本尊釈迦如来(国宝)で、インド~中国~日本と引き継がれた三国伝来の釈迦像。37歳のときの釈迦の生き姿を栴檀の香木で刻んだもので、中国にわたっていたものを見た奈良東大寺の僧奝然(ちょうねん)上人が模刻して持ち帰ったものだそうです。
像が模刻されたとき、5人の中国尼僧によって釈迦如来像の体内に絹で作られた五臓六腑等が施入され、昭和28年に釈迦如来像の体内からこれが発見された由。これは千年の昔から中国では人間の体の構造を知っていたことを示す解剖学史的にも貴重な資料とのこと。
その体内に封じられた布製の五臓六腑も別途展示してありました。X線調査によれば、額には銀でこしらえた一仏がはめ込まれており、目には黒水晶、耳には水晶が入っていて、胸にはこの像の霊魂として入れられたと思われる水無月観音の彫られた鏡が納入されていることも確かめられたそうです。
きょうはこのお釈迦様の間近から尊像を眺めることができ、お坊さんが説明もしてくれました。お釈迦様は37歳の実物を写したというだけあって、若々しく、精悍な顔つきをしておられました。繰り返し清掃され、また昔は銭を直接尊像にぶつけて現世利益を施すという釈迦のご利益にあずかろうという人々の投げ銭で傷ついたりすることもあって、赤い衣や金箔がみなはげ落ちて、いまは木の膚、木目もあらわに、たくましい姿ですが、衣の襞が幾重にも見事に刻まれています。
宮殿の脇に釈迦像を持ち帰られた開祖奝然上人座像がありましたが、穏やかな優しい面長の方のようでありました。また、桂昌院の身の回りの小物なども展示されていて、とても豪華で繊細な細工のほどこされたものでした。
本堂に向かって右手、西側に、秀頼公首塚、というのがあります。昭和55年、大阪城三の丸跡地の発掘現場で出土した秀頼の首を、3年後に、秀頼公再興の由緒をもつこの寺に納めたものだと、ちらしには書いてあります。えーっ、ほんと?、という感じで私も近所だったパートナーも知らずにいました。首には介錯の跡があったと書いてありますが、それにしても骨だけではなかなか確定しにくいと思いますが、なにか確証があったのでしょうかね。
これは駐車場のほうへいくところにある一切経蔵。孫と一緒に来たときは、たしか回転する輪蔵を回したんじゃなかったかな。それを回せば膨大なあの一切経を読み切ったのと同じ功徳があるというやつです。なかなか面白いことを考えますね。お坊さんだって意味のよくわからない漢文のお経を棒読みして一切経を読み切るなんてしんどかったのでしょうね(笑)。
このお寺は桂昌院とか綱吉とかがかかわりをもっているだけあって、構えが豪壮な印象でした。仁王門も立派だし、本堂内の宮殿部分も日光東照宮と同じ様式、鐘楼も大きく立派でした。きっと格の高いお寺なのでしょう。ほかにもいろいろ国宝、名宝をお持ちのようです。今日は遅かったので、以前たしか訪れたことのある霊宝館にも入らず、お釈迦様にだけお参りしてお坊様の親切な(小さな親切、大きな・・笑)ながぁ~いお話をうかがっただけで退散したので、また機会があれば、嵯峨帝時代の国宝阿弥陀三尊はじめ、貴重な文化財が多数あるので、改めて見にいきたいと思いました。
一日小雨が降り続く京都でありました。
saysei at 20:43|Permalink│Comments(0)│
小さな映画の光栄
http://www.filmhaus-saarbruecken.de/media/download-5b07ecca4c020
ドイツのフランスとの国境にある、人口17-18万人の都市ザールブリュッケン(Saarbrücken)のフィルムハウスで開催される「日本映画デー」で、京都の立誠小学校跡で行われた映画ワークショップから生まれた、主役級の俳優さんがみなアマチュアの生徒さんという映画「さよならも出来ない」が上映されるそうです。→http://www.filmhaus-saarbruecken.de/ (フィルムハウスのHP)
以前にこのブログでご紹介して、映画館へ足を運んで見てくださった方もありましたので、あなたの見てくださったマイナーな自主制作のあの映画が、フランクフルトの「日本コネクション」映画祭での上映につづいて、こんなところでも紹介していただけることになりました、というご報告です。
この企画で上映される作品が、日本のサイレント映画の記念碑的作品で阪東妻三郎主演(二川文太郎監督)の「雄呂血」(1925)に黒澤明監督の「蜘蛛巣城」(1957)、それに「この世界の片隅に」(片渕須直監督、2016)というので、思わず、関係者の身内としては、い・・いいんでしょうか?(笑)
プロデュースしてくださった方や字幕を付けてくださった方たち、プロジェクトのスタッフ、関係者の方たちの大変なご尽力、ご厚意で実現したものでしょう。ほんとうにこういうマイナーな無名の若い人たちの手で作られた自主制作の映画まで目配りして、海外の未知の観客にみてもらえるようなチャンスを与えてくれるような人たちは、心底映画が好きなんだろなと思いますし、そういう人たちが志を持って映画づくりをしようとする若い世代を支えてくれてもいるのだと思います。
この6月7日から10日まで、ザールブリュッケンのフィルムハウスで小規模な日本映画祭「日本映画デー」が催されます。独日協会ザールブリュッケン、ザールラント大学日本語センター、日本のシネマテークたかさきとの協力によるものです。(filmhausの日本映画デーのサイトより)
同フィルムハウスのホームページで詳細情報として紹介してくださっているのはHideki Ymaguchiさんと記されています。私は事情を知りませんが、きっとこの企画のプロデュースをしてくださった方ではないかと思います。
「さよならも出来ない」のドイツ語字幕は、特にこの企画のためにザールラント大学の4人の学生が制作してくれたとのことです。よくそんな大変な作業をやってくださったものです。本当に映画が好きな学生さんなのでしょうね。どういう経緯でかわかりませんが、少なくとも誰だって嫌いな作品にそんな大変なことしようなんて思わないでしょうから、きっとこの作品が気に入ってくれたのでしょう。監督以下この映画の制作に関わった人たちはどんなに嬉しいかと思います。感謝、感謝ですね。
フライヤーでの「さよならも出来ない」の解説はおよそ次のように記されています。
タマキ(環)とカオリ(香里)の関係ははっきりしません。実際には別れてからもう三年が経っています。でも二人はまだアパートをシェアして暮らしています。はっきり決められた境界があり、カラーテープで几帳面にマークされています。
或る日、タマキは同僚の一人にロマンチックなディナーに招待され、カオリもまた恋のアバンチュールに踏み出そうとしています。そんな二人はいま、別れるということが本当に何を意味するのか、急いで考えなくてはならないことを思い出すのです。
半世紀前にさび付いたきりの「初歩のドイツ語」力での拙訳ですから信用されないよう・・・(笑)
二人の「関係ははっきりしません」のところは、"Der Beziehungsstatus von Tamaki und Kaori verwiegert sich einer eindeutigen Klassifizierung"で、語そのものの含意まで受け取れば「環と香里の間の互いの立ち位置は、こうだ、と決めつけて既存の類型にあてはめることを拒んでいる」というふうな意味かと思いますが、上では簡単にしちゃいました。でも、それだと、映画の作りかたがあいまいなために見ていてはっきりしない、みたいに聞こえる訳になってしまいそうです。翻訳って難しいですね。よくまあ字幕づくりなんて大変な作業をしてく出さる方があったものだと思います。
監督の作風についても1-2行の紹介があります。ここはドイツ語が私には難しすぎるから、いいかげんな訳をしちゃいますが・・・(笑)
Izumi MATSUNO の微妙な陰影に富むドラマは大胆に演出され、(フランクフルトの)「日本コネクション2017」で示された、その詩的な映像言語を通して納得させられる。
ここも「微妙な陰影に富む」なんて訳したのは、単に”nuanciertes"と書かれている部分で、ニュアンスの込められた、あるいはニュアンスに富んだ?というようなことで、明示的というよりは、それとなく理解させ、匂わせるような、といった意味なのでしょう。「微妙なドラマ」でいいのかもしれませんが、ちょっとそれだけだと言葉足らずで、違った意味合いになってしまいそうです。
次の「大胆に演出され」もまったくの誤訳かもしれません(笑)。"stimmungs"って大気とか、そこから気分、雰囲気みたいな意味にも使って、voll は「~に満ちた」、'full ' でしょうから、単に「雰囲気に満ちた「、かも・・。ただ、"stimmungs "って、なにかポジティブな刺激するような語感をもっているような気がして(笑)、まったくのヤマ勘で「<気>に満ちた演出」みたいな連想をしたので・・・。
次の"inszeniert" も単に「演じられた」、かも・・。「演出」と訳していいのかな。それに、きわめつけは"und "のあとの"überzeugt "で、これは原形は"überzeugen "「確信させる」、「納得させる」、なのでしょうから、「確信できる」、「納得できる」、か。でも日本語としてここへぴったりはまるかというと微妙な気がして・・。もともと"über"は何かの上に、で"zeugen"は証言する、っていう言葉でしょうから、証言の上で、証言を通して、確信とか納得とかするんだ、という意味になったのではないか、と空想をたくましうして・・・ヤレヤレ、蘭学事始の玄白さんたちみたいですね(笑)。字幕つけてくれたっていうザールラント大学の学生さんたちに心底敬意を表します。
「さよならも出来ない」のページ:http://www.filmhaus-saarbruecken.de/archiv/film/movie-5b07e904318e0
http://www.filmhaus-saarbruecken.de/veranstaltungen/japanische_filmtage
Filmhaus Saarbrucken(HPから)
saysei at 00:41|Permalink│Comments(0)│
2018年05月29日
二条城
昔、なにかのイベントのとき行ったようなかすかな記憶はありますが、何もおぼえてないので、おそがけに行ってみました。博物館の事を調べてアンケートをとったりしていたとき、ここは年間入場者が100万人を超すことを知りました。完全に観光スポットになっていますね。きょうも平日ながら、国内外からたくさんの観光客がひっきりなしに入っていきました。これは東大手門。京都で国際的なVIPを集めた会議などやるときは、ここがセキュリティ上、便利なようです。何しろお濠で囲まれていて、開いている入口はここだけですから、警備しやすいでしょう。
二の丸に入る「唐門」。先の東大手門ととおに重要文化財だそうです。
切妻造、檜皮葺の四脚門で、屋根の前後に唐破風がつき、門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅子」など極彩色の彫刻がほどこされています。2013年の修復工事で往時の姿によみがえったとか。確かに豪華絢爛。
二の丸御殿。国宝だそうです。6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿で、部屋数33室、800畳余もあるそうで、順路に従って歩いて回るとその広さが実感できます。虎や豹、松に鷹、牡丹の花など、さまざまな画題の障壁画が描かれています。いま掲げられているのはレプリカで、近年やっとホンモノの原物といれかえ、原物のほうはきちんと保存できる収納庫のほうに収めてあるようです。
二の丸御殿の入り口。
特別名勝に指定されている二の丸庭園。池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園で、1626年(寛永3年)の後水尾天皇行幸のために作事奉行小堀遠州のもとで改修されたそうです。
上の写真から少し右手にカメラをパンした光景。
さらに右に少し回すと、二の丸御殿の一部が見えています。
池は工事しているらしく、一部に品の悪い緑色の工事用ネットだかシートだかがかぶせてありました。こういうところは無神経で無粋。つねに遠方からの来訪者がある場所なのですから、なんとかならないか。
内堀を渡って二の丸から本丸へ入るところにある本丸櫓門。
重要文化財の本丸御殿は内堀に囲まれた広さ2万㎡の本丸にあって、1893年(明治26年)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したものだそうです。貴重な宮家の御殿建築の遺構ということで重文指定を受けたらしいです。
本丸庭園は二の丸庭園に比べるとずいぶんシンプルでした。明治天皇行幸の際に枯山水庭園から大改造したのだそうです。大改造なんかしない前のが見たかった・・・
解説には「東南隅に築山を配し、芝生を敷き詰めて曲線的な園路を設けた優美な造り」だそうですが・・・。
こういうところは比較的好みでしたが。
本丸の南西隅には、かつて伏見城から移された、五重六階の天守閣があったそうで、1750年(寛延3年)落雷で焼失し、いまは「天守閣跡」として石垣だけが残され、上がって遠く比叡山(左)と大文字(右)がつらなる東山を望むことができます。
順路に従い、本丸を出て西橋を渡り、ぐるっと内堀の北西角をまわって清流園のほうへ。これはその途中で西橋のほうを振り返ったところ。
内堀を回り込んで北側の通路を中ほどまで行くと、この「北中仕切門」というのがあり、これをくぐると左手が清流園。
加茂七石と説明板にあったミニ庭園。特徴のあるそれぞれ種類の異なる加茂の石を配置してつくられた庭園です。
お濠の風景というのは、堀に周囲の緑や石垣が映えて、なかなかいいものです。
この清流園というのは、京都の豪商・角倉家の邸から建築部材、庭石、樹木を譲り受けて、1965年(昭和40年)に作庭されたものだそうです。香雲亭、茶室和楽庵がある和風庭園と芝生の洋風庭園からなる和洋折衷庭園。
香雲亭。
出口への道の右手にある白壁が長く続いて、こういうなんでもない風景がいいな、と思いながらパチリ。
出口と休憩所のすぐ手前にある展示収蔵館。小規模なものですが、レプリカに取り換えた二の丸御殿の狩野派描く虎と豹の障壁画のホンモノのほうが展示してありました。虎は線がかすれて来ていたり褪色して絵が劣化しているようにみえるのに、緑の竹の幹や葉はくっきりと、色も鮮やかに残っているのはどういうわけでしょう。色によって絵の具が化学的に安定するものと壊れやすい褪色しやすいものがあるのかな、などと思いながら出てきました。
それと、虎の絵にだいたいいつも豹がセットで描かれていて、これは釈迦涅槃図などでもそうらしくて、虎が3頭の仔を生めばうち1頭は体に斑点がある、なんて記述が中国の文献にあるとかで、虎と豹の区別がよくついていなかったらしい、というのも面白い話だな、と思って、絵と合わせて解説を楽しんで読みました。
二条城のある堀川から二条河原町まで歩いて、あとはバスで帰りましたが、城内で結構歩いたので、帰宅してカバンに入れていた万歩計をみたら、8000歩を超えていました。いい散歩になりました。
saysei at 00:35|Permalink│Comments(0)│
2018年05月27日
手当たり次第に Ⅱ ~近頃見た映画
今回は借りて来ていたビデオのあたり外れが大きく、一度昔見たビデオをまた借りてきたのが半分もあって、我ながら記憶の悪さを思い知らされました。そうでなくてもずっと以前、まだレンタルビデオをパートナーと一緒に見ていたころ、「これ、前にも借りて来て、もう見たじゃない!」と言われて、「え?そうだっけ」と途中まで見ても思い出せず、途中で、あぁ見た見た、と思い出しても結局結末まで思い出せずに最後まで見てしまう、ということが、たぶん普通の人の何倍もあって、「あなたは同じビデオを何度も楽しめていいわね」と皮肉を言われることが多かったのですが、最近とみにそれが増えて「やっぱり歳のせいで忘れっぽくなったな」などとつぶやこうものなら、「いいえ、あなたの場合は若い頃からそうでした!」ときっぱり断定される始末。はい、おかげさまで同じ映画を何度でも新鮮な目で見られて、実に幸せです!
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(ラース・フォン・トリアー監督、2000年。デンマーク映画。)
なんといってもビョークの歌、音楽が最大の魅力でしょう。チョコからの移民であるヒロイン・セルマは女手ひとつで12歳の息子ジーンを育て、昼間は工場で機械相手の作業、夜は内職、合間には何よりも大好きなミュージカルの舞台公演をめざしてレッスンを続けている女性ですが、遺伝的な視覚障害者で完全に失明する寸前。息子もその宿命を背負っていますが、13歳になれば手術が受けられ治癒する可能性があるというので、彼女は必至で手術代を貯めるために働いてきたのです。カトリーヌ・ドヌーヴ演じる彼女の無二の親友キャサリンや彼女を愛するジェフなど彼女の障害を知る周囲の友人は彼女のことを心底心配し、支えようとしますが、彼女はどちらかというと、素直にその気持ちを受け入れるのではなく、また遠慮からでもなく、いくぶん性格的な頑なさと現実から逃避しがちな夢想的な資質から、やや意固地にそれらの厚意を遠ざける姿勢をとっています。
こうしてヒロインの資質、性格、姿勢に共感できない人は、この映画に否定的にならざるを得ないでしょう。彼女の強いられている移民で女手一人で遺伝病をかかえた子供を持ち、自分も失明寸前で、貧しい、そういう幾重ものハンディキャップを抱えた女性に同情し、息子を失明から救いたい、という一途な想いからとる行動や彼女の考え方に、息子への純粋な愛を見て肯定的にとらえる人は、この映画にについても肯定的な評価になるのではないかと思います。
実際、このヒロインの考え方や行動を映画の作り手がどう設定しているかは、なかなか微妙なところがあります。見方によっては、彼女は息子のことが第一で、それは母親としては理解できなくはないけれど、自分の置かれた状況や周囲の配慮についてはかなり無頓着で、自分でやれるから、と周囲の厚意に対して意固地に突っ張って見せるけれども、実際には周囲の支えなしには何もできず、現実に彼らの厚意に甘えているにも関わらず、そのことに自覚的ではないように見えるので、自分と息子の世界にしか考えが及ばない、視野の狭い、いわゆる「ジコチュー」な女性にも見えます。
そうしてみると、彼女のミュージカルへの入れ込みようも、現実逃避の一環にすぎないとも言えるでしょう。危機的な状況に追い詰められると、いつも彼女の妄想が始まり、周囲の世界は、自分がヒロインで人々の輪の中心で踊る、ミュージカルの舞台に早変わりします。その幾つかのシーンがこの映画の美学的な意味での映画としての魅力になっていることは事実です。
ドラマとしては、彼女の住むトレーラーの住居の家主である警官のビルとリンダの夫婦は、ビルが大きな遺産を継いだはずだったのが、リンダが浪費家で、とうに破産していて、借金で銀行に差し押さえをくらって危機的な状況にあります。ビルは或る夜、セルマの所へ来て、その「秘密」を打ち明け、セルマも自分の失明に瀕する「秘密」を打ち明け、二人だけの沈黙を約します。ビルはセルマが息子のために貯金していることを知り、後日、自分が苦境にあって自殺も考えている、助けると思ってその金を貸してくれと頼んで拒まれ、或る夜、セルマがもう何も見えない事を利用してセルマのトレーラーから出ていったと見せかけて居残り、セルマが貯金を隠している箱のありかを確認して後日それを盗みます。
セルマがビルに返してもらうために母屋を訪れると、ビルの妻リンダは夫ビルから偽りを聞かされ、自分もビルがセルマのトレーラーに夜になって訪れたことを目撃していたものだから、セルマが夫を誘惑したと思い込んでいて、彼女に出て行けと罵ります。リンダを振り切って2階のビルの所へ行ったセルマが返却を迫り、金を取り戻そうとすると、ビルは金のはいったバッグを離さず、拳銃を持ち出して争い、銃が暴発します。ビルはセルマに自分を撃て、殺せ、と叫び、あくまでも金は自分のものでセルマが盗んだ、と妻に警察に連絡するよう叫びます。もともともう袋小路にはいって投げやりだったビルは撃ってくれ、殺してくれ、と金を手放さずにセルマに迫り、セルマは目の見えないまま拳銃を撃ちますが決定的な弾を撃てず、ビルが金を離さないので、金属製の貸金庫の引き出しみたいなのを振り上げてビルの頭を打ち据えて殺してしまいます。
この殺人のあとふらふらとビルの家を出て、迎えにきたジェフと出会い、鉄道の線路上を歩いて、列車がくるところで例の妄想に移り、川にかかる鉄橋を徐行する列車の上に乗ってそこにいる人々と一緒に歌い、踊ります。ジェフと彼女は歌でやりとりし、前を向いて生きよう、頑張ろうと励ますジェフに対して、もういいの、この世界で、見るべきものはみんな見てしまったわ、と歌うビョークは本当に魅力的で、この場面はこの映画の中で最高に楽しく、美しく、しかも追い詰められ、あらゆる不幸を背負いこんだ不運な女性のたどりついた思いを、天が下に新しきものは無し、われは見るべきものは見つ、という歌にこめて、哀感を誘うすばらしい場面です。
同様に、夜勤まで引き受けたセルマが工場で機械相手にせっつかれて作業のスピードについていけず、機械を壊してしまうようなミスを犯すなど、徐々に失明がばれそうになって、もう隠しおおせないところまで追い詰められているときに、妄想が周囲をミュージカルの舞台に転じ、工場の中のあらゆる機械音がミュージカルの音楽のリズムとなり音色となって加担し、働く周囲の仲間たちがセルマをその輪の中心としていっせいに歌い、踊る、あの場面も現実から妄想の世界への移行が自然で、工場の環境を最大限生かした、すばらしい場面です。
最後に刑場へ引かれていく彼女を支えるために同情的な女性看守がタップでリズムを創り、恐怖に崩れ落ちそうなセルマが再び妄想の世界を取り戻して歌い踊る場面や、首に縄をかけられて恐怖に泣き叫ぶ彼女に、キャサリンが息子ジーンが手術を受けたことを彼の眼鏡を渡すことで悟り、気持ちを落ち着け、彼女の唇から再び歌がこぼれる。「これが最後の歌じゃないわ。みながそうさせない限り」というような歌、そしてバタン、と羽目板が開いて彼女は絶命する・・・
そのあたりの妄想・ミュージカル世界への転換は、列車や工場のシーンに比べると、悲惨さもあるし、移行も必ずしも自然ではなく、楽しくも素敵でもないので、作品的な効果としても疑問がありますが、いずれにせよ、セルマという女性のミュージカルへの入れ込みかたと、現実に追い詰められたときにその世界に転じる現実逃避の必然的なシーンとして、その歌い、踊る人々の仮象の世界が、この先行きのない暗すぎる映画に、せいいっぱいの対照的な明るさ、この女性の生きる意味、希望、肯定的なもののすべてを表現していて、それは成功していると思います。
現実とこういう妄想世界とのつなぎは非常に難しいと思いますが、少なくとも列車や工場のシーンではそれがうまくいっていました。
ただ、この作品、現実の部分だけを取り出してみたときのドラマとしては、まったく不出来だと思います。最初に書いたように、周囲の人々に対する姿勢の意固地さや配慮のなさ、自分の現実への認識の甘さ等々、彼女の資質や性格にはヒロインとして観客が思い入れしにくい点が多く、身勝手な女性で、あぁいう成り行きも自業自得の面があるのではないか、と思わせてしまうというのは、ドラマとしては失敗ではないでしょうか。
もちろん、ただ結末が悲惨で後味が悪いというだけで作品を否定すべきではないと思います。アンナ・カレーニナだった、ボヴァリー夫人だって、言ってみれば身勝手な不倫による自業自得の結末だ、ということになりますが、それでも彼女たちをそこへ追い込んでいく周囲との関係や当時の社会の規範的なありかた、さらに彼女たち自身の心の動きに、すべて納得のできる必然性があって、少しも不自然ではありません。でも、セルマの考え方、言動には、マダム・ボヴァリーやアンナのような、それなりにその立場に立てば観客が身を入れて寄り添っていける必然性が感じられません。
自分が面倒をみるべき息子を抱えているのに、裁判で適切な自己弁護もせず、妄想にふけり、有能な弁護士が再審請求で勝てる、と言う言葉にも、その費用が息子の手術代であったはずの金から出ていることを知ると拒否して、彼女の命を救おうとする友人キャサリンの努力も無にしてしまいます。
こういう人物造型にはドラマとしておかしな点や矛盾が多いのです。それほどセルマに寄り添ってきて彼女の気持ちを熟知しているキャサリンなら、弁護士に言い含めて、セルマには絶対に金の出所を喋らせるような不用意なことはしなかったでしょう。
また、セルマはいかにも息子ジーンへの愛から、その手術代のために貯めた自分の金を使わせないために有能な私撰弁護人を拒否してみすみす自分を死刑に追いやる決断をするように描かれていますが、常識的に考えて、息子があぁいう状態で取り残されるなら、まず自分が何としても長らえて息子を守らなければ、と考えるのが母親でしょう。
手術は成否も確率の問題だし、またいつそれをしなければ絶対にダメかもそんなに確定的でるはずがない。また、手術もそのためにためた自分の貯金が別のことに使われたらもう絶対に出来ないか、と言えば、様々な機会があり得るかもしれない。いくらなんでも直線的にこれを結び付けて、死刑への重い道行を納得させるのは無理でしょう。
さらに、もしこの作品のようにジーンの手術代を弁護に使わせないために、命が助かったかもしれないのにみすみすその母親が死刑に追いやられたことを、当の息子ジーンが知ったら、いかに母親の自発的意志だとしても、果たして母の愛をありがたいと感謝し、自分は幸せな気持ちになれるでしょうか。そんなことはあり得ないと思います。
しかも、セルマにそれほど愛一筋の生き方をさせたいと映画の作り手が思ったのだすれば、そのわりには、彼女と息子との関係は、この作品の中で、ほとんど描かれていないのです。ほとんどがセルマの思い込みの世界にすぎず、彼女が息子をいかに愛し、その眼病の発病をおそれているか、そのような母親の気持ちは本来なら彼女と息子との日常的な姿の中に描かれ、観客が自然に納得するようでなければドラマとしてはこういう筋書きにしたので、無理やりそういうことにしました、という以上のものではありません。
自分を陥れて罪を着せ、殺人を犯すにいたらせたビルとのやりとりについても、ビル夫妻の経済的苦境をビルが打ち明けたことを秘密にした生前の約束があるから、と裁判で語らないのも、まったく滑稽なほど不自然なことです。妄想の中でのことなら仕方がないけれど、ここは現実のドラマの部分でのことだから、まったくどうかしています。
こういうドラマとしておかしなところ、矛盾は、言い出せば切りがないほどあります。つまり、妄想に転じて、歌い、踊る空想の世界では意外性も楽しさもあるけれど、彼女を追い詰めてそういう妄想へと現実逃避させるその現実は、しっかりと現実として納得のできる合理性をもって描かれなくてはならないのに、ドラマがいい加減で、必然性も自然さも感じられず、無理に息子への愛情一筋と、ミュージカル好きの妄想癖のある女性ということで、最悪の不運な状況さえ設定すればその妄想に転じる部分が描ける、と考えてでっちあげられた世界であるため、見る側が最後まで腑に落ちない、納得のできないつくりになっています。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン。2007年、米国映画)
20世紀初頭の話のようですが、アメリカ西部の石油成金の成功と破滅の物語です。冒頭、山師ダニエル・プレインヴューが固い土地を掘り進めて穴の底に降りては土や石を掘り出す地味な作業をする様子をアップでえんえんと見せるところから、なかなか面白そうだな、と期待させます。
金を見つけたりするので、ゴールドラッシュの話かと思ったら、そうではなくて、やがて彼は石油を掘り当てて成功します。そして色んな情報を得ては、次々に試掘で油田を探り当て、土地を買い占めて成功していきます。
そんな油田探しの中で、自ら自分の土地で石油が出るということを伝えて正当な評価で売ろうともちかけてきた、一見なにもない辺鄙な荒地にあるサンデー牧場の息子ポールの声かけに、ダニエルは半信半疑ながら、息子H・Wを連れて、狩りにみせかけて現地へ出掛け、石油のしみ出した土地を見て、油田のあることを確信し、ポールの双子の兄イーライと交渉して、貧しいサンデー家から採掘権を買い取ります。そして油脈を掘り当てて大成功となったとき、爆発炎上事故が起きて、そばにいた息子は吹っ飛ばされて聴力を失い、さらに精神的におかしくなってダニエルの家に火を放ってしまい、ダニエルの元を離れて寄宿学校にやられることになります。
イーライが何と言う宗派かキリスト教のかなりオカルト的な強い頑ななところのある信仰をもって、地域の教会を主宰する牧師になっていて、石油パイプラインを信者の土地に通したいダニエルとイーライの間でのやりとりで自分が息子を見捨てた罪人だと信者の前で告白するかわりに利権をものにする場面があり、逆にイーライがダニエルの出資を乞わねばならない立場になると、今度はイーライが、自分はインチキな預言者で神は迷信だと信者の前で言わされる、という場面もあります。
また父子関係では成長した息子H・Wが戻ってきてダニエルと和解するものの、H・Wは幼馴染のサンデー家の娘と結婚し、妻とメキシコへ移住して起業したいと言い出し、反対するダニエルはH・Wにお前は孤児で、自分とは血がつながっていないのだと言って勘当。ダニエルはまったく孤独で自分を閉じた老人になります。
ダニエルのもとを訪れたイーライとダニエルは争いになり、ダニエルはボウリングのピンでイーライを撲殺、騒ぎに駆け付けた人々は血まみれですべて終わったとつぶやくダニエルを見ます。
ダニエル・デイ=ルイスの癖のある人物を演じる渋くもあり激しく濃くもある演技が光っていて、この映画でアカデミー賞主演男優賞を受けたというのも納得できます。また、狂信的な若い宗教者イーライを演じるポール・ダノという人も、大変印象に残りました。
石油利権にとりつかれた男の栄光と挫折、父子の齟齬、結局は一人の孤独のうちに自分を閉ざしていく男の道行もよく理解できました。しかし、割と重要な意味を持っているこの映画の中でのオカルト的な宗教が絡むあたりになると、正直のところよくわからないところがあります。つまり教会を主宰するイーライの気持ちにも、それに従う地域住民たちの気持ちにもうまく寄り添っていけないので、それに対抗するダニエルとの間のやりとりにも、なにかこう現実味というのか、展開が腑に落ちる形担って行かない部分があります。
『わたしを離さないで』(マーク・ロマネク監督。2010年、イギリス映画)
言わずと知れたカズオ・イシグロの2005年発表の原作に基づく映画作品で、日本でも話題になりました。でも私はその内容のあらましを聞いた段階で原作もあまり読みたいと思わず、映画も長く見たいと思わなかったのです。「日の名残り」などは原作にも映画にも感動したのですが・・・
ほとぼりがさめて(笑)この作品を見て、やっぱり見る前の勘は当っていたな、というのか、もう一度見たい映画だとは思えませんでした。いわゆるクローン人間を臓器移植のために作り出す未来社会を舞台に描いたSFで、そのクローン人間の一人で、いまは徐々に臓器移植手術を受けて弱り、死んでいく同類たちを介護し、見取る介護人の仕事をしているキャシーの目で語られる物語です。
舞台はキャシーがまだ寄宿学校にいたころに戻って、彼女が親友のルース、ひそかにキャシー自身が好意をもっていたが親友ルースが彼氏としてつきあうようになる男の子トミーの3人の日常が描かれます。そこは緑ゆたかな自然に囲まれたすばらしい環境で、平和な日常が支配しているように見えるのですが、外界から遮断され、一歩指定された学園から外へ出れば、生徒が殺されたり、餓死したりしたという話が伝えられ、生徒たちはそれを信じて暮らしています。生徒たちは絵画や詩の創作にはげみ、それらはいつもは外部にいるマダムのところに送られています。
彼らに真実を伝えようとした教師は辞任させられて去っていきます。彼女は、生徒たちに自分自身の運命について真実を伝えるべきだと主張していたのです。それは、生徒たちが自分の人生を自分で決定することはできず、すでに決められていること、中年になる前に臓器提供が始まり、多くの場合、3度目かせいぜい4度目の手術で短い一生を終えるということ、などであって、そういう自身の運命を知ることによって生に意味を持たせるように、ということでした。
18歳でそれぞれ提供する臓器によって別々の施設に別れていくのですが、3人はコテージと呼ばれる場所で共同生活を始め、ルースとトミーは恋人となり、ルースはキャシーに見せつけるようにその関係をあらわにしてキャシーを孤独のうちに置きます。彼らのところに外部から、クローンどうしの恋がホンモノであることが証明できれば、臓器提供が猶予されるとの噂がもたらされます。また、寄宿学校で盛んに描かれ、マダムに送付されていた絵画などの評価で、その恋人たちのトータルな人間性が審査され、「提供延期」の可否を左右する、といった噂も流れます。
ルースが自分の「オリジナル」かもしれないという女性の噂を聞いて、みなで見に行き、ルースは自分に似てはいない、とつよく否定して戻る原作にもあったエピソードも挿入されています。
その後3人は別々の道を歩まされて別れますが、希望どおり介護人となったキャシーは、再びルースやトミーと再会し、そのときに、すでに2回の臓器提供をして、次はもう「終了」(彼らの世界での死の隠語)するだろうことを自覚したルースは、キャシーへの嫉妬からトミーを奪ったことを告白し、もともとトミーはキャシーの恋人であるべきだったとキャシーに謝罪し、「提供猶予」を頼むべきマダムの住所を知らせます。
ルースが3度目の手術で「終了」した後、トミーとキャシーはトミーが数年前から描いた絵画を持ってマダムを訪ねますが、そこで校長から聴かされたのは、昔も今も「猶予」はないし、絵画はクローン人間たちの魂を探るためではなく、そもそもクローンたちに魂があるかどうかを知るためだった、とい残酷な真実でした。
ここで冒頭のシーンに戻り、キャシーの目に映るのは手術台に横たわって最後の手術を待つトミー。そしてトミーが「終了」して2週間後にはキャシー自身にも、1カ月後に最初の手術を行う旨の通知がきます。わたしたち(クローン)とわたしたちがその命を救った人間との間に、違いがあるのだろうか。生を理解することなく命がつきるのはなぜなのか・・・キャシーの最後の自問でした。
とてもやりきれない、つらい物語です。人生の喩として、人は必ず死ぬ、或る意味で、はじめから定められた「囚われの状況」にある存在だ、ということは分かります。しかし、具体的にあの若者たちが置かれた情況ならば、あれだけの意志と行動力を具えた存在であるなら、なぜ逃げないのか、なぜ反乱を起こさないのか、と私などは見ていて思ってしまいます。
いや、それはあらゆる人間にとっての、決して動かすことのできない宿命の喩なのだから、抗ったり逃げたり、っていうのは約束事としてないんだよ、というのは、作品の外部での理屈としては分かりますが、この作品の具体的な世界の内部においては、やっぱり疑問です。
それはSFの約束事なんだよ、という基本的な舞台の設定の話とは別の問題だと思います。或る未来の時点で生殖細胞の交配によって成長した「オリジナルな人間」の延命治療用に、通常細胞から人工的に作り出されたクローン人間を使うようになりました、というあり得ない異常な世界をSFの約束事として設定するのは許されるけれども、一旦そういう世界が設定された上は、その世界の内部の法則性が無矛盾に展開されなければ、物語世界のリアリティそのものが崩れてしまいます。そこに登場する諸環境も、登場「人物」の振る舞いも、その心の動きも、その世界の内部で許される諸条件に適合したもの、言い換えれば必然性があり、リアリティのあるものでなければならないでしょう。
登場人物たちが、ああもでき、こうもできるはずなのに、それを選んだとすれば、それはなぜか、と問うたとき、その作品の世界の内部にちゃんとした答がなければ、見ている者には納得しがたいところが残るでしょう。外の世界に出ようとした生徒は殺された、という噂がある、というだけで、ほっておけば臓器をとられ、確実に若くして殺されることが分かっている、知性をもつクローンたちが、羊のようにおとなしく自分の臓器を切り取る手術台にのぼる順番を待っている、というのはわたしには信じがたい。
収容所に羊のごとくおとなしく列をなして進み、ガス室で死んでいったと言われるユダヤ人たちは、圧倒的なナチス国家の暴力装置の強制力によってそうであったので、この映画のような環境の中で自発的におとなしく死地へ赴いたわけではないし、実際、あのような鉄壁の収容所からでさえ、反乱を起こして脱走したグループもあったことが戦後に明らかになっているようです。
別段、そういう英雄物語を描いてほしいわけではないし、暴力装置による監視・拘束状況を描けばいいとも思いませんが、いまのこの作品がSF的設定としても弱点を持っていて、その世界のリアリティを壊している面は否めないのではないか、という疑問を持っています。
もし作品の内部世界におけるリアリティを追求するなら、もっとひどい檻の中にとじこめて拘束・監禁しないといけなくなって、それではある程度の自由度をもつ人間の生の喩の世界にはならなくなってしまうから?あるいは、その苛酷な宿命を、美しく描きたかったから?
たしかにきわめてソフトな「囚われ状態」だからこそ、恋もでき、自分の運命に期待し、裏切られもする、という普通の人生の喩としての物語になるのですが、描かれた作品世界の内部のリアリティとしては首を傾げたくなってしまうところがあります。それは原作自体が内蔵する問題かと思います。
わたしなら、「ブレード・ランナー」のルトガー・バウワーでしたっけ、あのアンドロイドのように、自分の運命に抗うように、自分たちを生み出した人間に反乱を起こしますね(笑)。どうしてそう羊のようにおとなしく抹殺者たちが自分の内臓をむさぼるのを唯々諾々と許しているのか・・・
たしかに男の子のトミー役のアンドリュー・ガーフィールドというらしい役者など、いかにも気が弱そうな、優しそうな男の子ぶりで、それはそれでとてもよくこの役柄にフィットしてはいましたが・・・そして、誰よりも主役のヒロインキャシー役のキャリー・マリガンの愛らしいこと。友人の嫉妬、裏切りで恋を奪われて孤独なキャシー、そしてその友人の告白・謝罪と死によって、ようやく結ばれた二人の束の間の、ささやかな幸せと無残な結末の哀れさはたとえようがなく、この二人の表情がこの作品の質を保証しているようなところがありますが・・・
死すべき宿命のうちに囚われた若い男女の純愛物語。そんな宿命は私達すべての人間が共有しているものですが、その普段はそれほど意識もしない宿命の枠組みをほんの少し小さく、窮屈な枠組にしてみせるだけで、これほどやるせない暗い物語になってしまうのですね。
『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド監督。2011年、米国映画。)
これは一度見ていましたが、何度見てもいい映画で、同じ監督のマッチョなおじさんが不良たちに西部のガンマンみたいに決闘を挑むかのような作品よりも、ずっと良かったし、クリント・イーストウッドの監督作品の中でも一番いいくらいじゃないか、と思いながら見ていました。
津波に襲われた臨死体験で見た死後の世界へのこだわりが拭い去れず、人々にそれを伝えようとするけれども周囲の理解が得られず、孤独のうちにその体験を書いて出版して、成功を収める女性キャスター・ジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)、霊能者としての能力を持っているが、それに関わる人間にも自分にも不幸をしかもたらさない、とその能力を嫌悪していて、それを商売のネタにしたい兄と折り合いも悪く、また互いに惹かれ合っていた女性とも、その女性に乞われて過去を明らかにしたために女性が深く傷を負って去っていくなど、孤独に追いやられる男ジョージ(マット・デイモン)、そして自分が頼り切っていた双子の兄をちょっとした不良にからまれた際の事故で失って、唯一の身よりである薬物中毒の母から引き離されて里子に出された少年マーカス。
このいずれも孤独な3人が、引き寄せられるようにロンドンで、マリーの出版記念講演会をきっかけに出会うことになります。少年はウェブサイトで見ていたジョージが霊能者だと知って声をかけ、しつこくつきまとわれて根負けしたジョージが霊能を使い、マーカスの亡くなった双子の兄の言葉を伝えるのを聞いて、精神的に立ち直り、母親に会いにいき、これから亡き兄に頼らず自立して生きていこうとする姿を映し出しています。
また、講演会場でマリーの手に触れて、彼女が津波の臨死体験をもっていることを瞬間的に知り、彼女のホテルでメモを残して、カフェで待っています。マリーは彼の長いメモを読みながら、一瞬で彼のことを理解したように笑みを浮かべ、ジョージの待つパサージュのようなところの入り口にやってきます。それをカフェのテーブルについていたジョージが認めて、彼女と抱き合う像が脳裏に浮かべ、彼は立ち上がり、彼女に合図し、彼女は彼のいるテーブルに近づき、彼の前に座ります。
このあたりのラストに近い出会いの二人の表情はすばらしい。あの言葉にしなくても完璧に通じ合い、絆で結ばれた二人の笑みが本当に素敵で、そうやってようやく出会った孤独な2人が同じテーブルに向き合って坐るところを引いたカメラでとらえて「完」。このラストが素晴らしい。
死後の世界や霊能を認めるとか認めないとか、そんなことはどうでもいいので、そういう素材を使って、それぞれの不幸を背負い、周囲に理解されない孤独を背負った魂が、傷つき、うめきながら、真実を求め、理解者を求め、わかりあえるつながりをもとめて彷徨した末に、ようやく出会うことができ、それぞれ自分を取り戻し、孤独から解放され、傷を癒すだろう今後を示唆して終わる。みごとなストーリーを映像で展開しています。
マット・デイモンは、何度見ても面白いボーンシリーズはもちろんだけれど、どんなシリアスな役をやってもこなせる、すごい役者ですね。マリー役の女性も、マーカス役の子役さんも、料理教室で知り合うメラニーという女性役(ブライス・ダラス・ハワード)もみな良かった。
『ドライヴ』(ニコラス・ウィンディング・レフン監督。2011年、米国映画)
カンヌで監督賞を受賞した作品らしいけれど、見ていませんでした。これは素敵な作品でした。
アメリカ西海岸の町の自動車修理工にして、映画のカーチェイスなんかのスタントマンもアルバイトでやっている運転の超技術を持つ青年が、実は強盗の逃がし屋もやっていて、冒頭のシーンはそこから始まるのでスリル満点。
この青年がどこからやってきて、どんな生い立ちで、なぜこうなっているか、なんてことは最後まで明かされないままで、名前さえよくわからない。「ドライヴ」で通しちゃっているんじゃなかったかな。
物語は同じアパートの同じ階に暮らすアイリーンという子持ちで夫が刑務所ぐらしというたまらなく魅力的な女性と彼がエレベーターで出会うところから実質的に始まります。
二人は自然に惹かれ合い、青年は彼女の息子も可愛がり、なつかれもします。ところが思わず早く彼女の夫が刑務所から帰ってきます。この男が悪い筋の借金をしていて、それを帰さないと妻子を殺される、というので、青年はこの旦那を援けるために再び強盗の逃がし屋を引き受けます。バックで糸を引いていたのは青年と裏社会をつなぐ役割の自動車修理工場のシャノンもよく知っているニーノやバーニーという悪で、実はその質屋にマフィアの大金があることを知った彼らが、青年や夫の男にその金を盗ませてマフィアの目を自分たちからそらして金だけとろうと謀ったわけですね。
それを知らずに夫の男と青年と、悪のつけた女のメンバーと3人で質屋を襲い、女が先に車に戻り、夫は戻ろうとして店員に銃で撃たれて死んでしまいます。大金の入ったカバンだけ車に乗せて女と逃げる青年を追う悪たち。それを青年の運転で振り切って隠れ家へ落ち着くものの、女が携帯で悪に知らせ、手下たちが銃を持って襲ってきて、女は撃たれて死に、青年は辛くも襲撃者を反撃して命長らえます。仲介役だったシャノンにも逃げるように伝えますが、シャノンもバーニーに殺されます。
残された未亡人と子供を襲うニーノ&バーニーの刺客をエレベーターの中で反撃し、やつの頭を踏み砕いて殺す青年を見て、未亡人の女性は恐怖の表情で、引いてしまいます。青年はニーノをやっつけ、最後の決着をつけるため、バーニーに電話で金を渡すから妻子に手を出すな、と言って死も覚悟して約束の店に出かけ、バーニーに車のトランクに入れてあったマフィアの金を渡したとたん、バーニーが青年を刺し、相打ちで青年もバーニーを刺して殺します。深手は負ったけれど命ながらえた青年は、金はバーニーの死体のそばに放置したまま、車を運転して・・・おそらくは彼女に会うために・・・
というので「完」。
青年「ドライヴ」役のライアン・ゴズリングと、彼が惹かれる人妻で後半には未亡人になチャーミングな女性を演じるキャリー・マリガンが、すごく良いです。ライアン・ゴズリングは、ジェイムズ・ディーン的な哀愁を帯びたマスク。女子供には優しく、無口で、シャイそうで、決して出しゃばらず、押しが強くもみえないけれど、どんな危機にも冷静で、暴力をふるうときには冷徹で強烈で、ふだんの穏やかな雰囲気との落差がものすごく大きい。この哀愁漂うかのような青年に一目惚れしない女性はいないかも。
そしてその相手役のキャリー・マリガンがこれまた当初の子供との穏やかな日々に入ってきた青年に見せる好意的な笑顔のチャーミングなこと!こんな女性に出会ったら、一目惚れしない男性はいないでしょう(笑)。自分の青年への愛情を抑えるかのように、控えめな笑顔がたまらない。
『戦狼/ウルフ・オフ・ウォー 』(呉京監督・主演。2017年、中国映画)
なぜこんなの借りちゃったんだろう?(笑) すごく珍しい映画を見てしまいました。レンタルビデオ屋のたしか韓流映画のコーナーにまじっていたから、てっきり韓流と思って、ろくに確かめずに籠に放り込んできたらしいです。
これは中国製のランボー。いや、ランボーとスーパーマンを足して2で割ったような映画(笑)。
そう言っては本家「ランボー」に失礼でしょうね。ランボーとの違いは、歴然としています。
以前に、これもたまたま、イラン映画ってのを借りて来たことがあって、イランのランボーみたいな若者が、イランに侵攻したアメリカ軍の網をかいくぐって、アメリカ兵を襲ってやっつける話です(笑)。ドラマなんて半世紀以上前の日本でテレビが普及しはじめた草創期のモノクロドラマのハリマオとか、あれほどの「深み」(笑)もなく、単純そのもので、実に素朴。イランにはモフセン・マフマルバフとかアッバス・キアロスタミとか、芸術的にも優れた映画を撮る監督は少なくないのですが、あれは誰の映画かも忘れましたが、ひどい映画でした。今回のこの「戦狼」もそれと同じ。
いまや映画にありあまるほどの金が使えるようになったお大尽中国らしく、金にあかせた特撮やCGを駆使したアクションだけは確かに、いまのテクノロジーで見せるものになっていますが、ドラマは幼稚園児並み。
ランボーには帰還兵問題がしっかりと描き込まれていて、戦場で合法的に人を殺しまくって英雄とされた兵士が故国へ帰って、日常性に適応障害を起こし、結局厄介者扱い。鬱屈を爆発させれば反社会分子として排除される。そういう帰還兵の悲哀がちゃんとあの乱暴者のランボーにも描き込まれていて、その鬱憤をエネルギーとしてあの超人的活躍があり、既存の軍隊組織とは無関係なむしろそこから疎外された元兵士の個人プレイになっているわけです。
しかし中国製 [ランボー+スーパーマン] /2 君には、そういう悲哀のカケラもありません。まさにスーパーマン的活躍の末、それでもどうしても圧倒的な敵に絶体絶命、というときには、彼の背後にある中国軍の大艦隊からミサイルが飛んできて敵の戦車が何台あろうと、みな吹っ飛ばしてくれる(笑)。
そして、映画の最後に流れるアナウンス(文字だったかな)は、「中国国民のみなさん、安心してください。世界のどこにいても、あなたがたには強大な母国がついていて、あなたがたを守ります。」(笑)
この映画で一番の傑作はこれでした。
『密偵』(キム・ジウンン監督。2016年、韓国映画)
この比較的新しい韓流映画は、なかなかのものでした。義烈団というのでしたっけ、日本が半島を統治していた1920年代朝鮮で抗日運動としてテロをやっているグループが、日本側の監視をかいくぐって、爆弾を上海から京城に持ち込もうとします。
これを阻止しようとする日本警察の一員となっているのが朝鮮人であるイ・ジョンチュルで、彼はかつての親しい仲間だった男が義烈団の闘士として活動していたのを日本警察と共に追い詰め、彼が殺される場面に立ち会います。その辺で同じ朝鮮人なのに日本警察の手先として同朋を追い詰めていく自分の立場への確信に一定の揺らぎを覚えるところが伏線になっています。
けれども彼は抗日グループの一員でもなく、その思想や行動に共鳴するのでもなく、あくまでも日本警察の忠実な一員として治安の維持のため、テロリスト集団としての義烈団を監視し、その動きを探るために義烈団のリーダーであるキム・ウジンに接近します。
そんな中、義烈団の爆弾輸送の準備が進められ、実行されていきますが、どうも義烈団のグループ内部に密偵がいて、彼らの動向が漏れているらしく、メンバーが消されていきます。それが誰かもわからないまま計画が実行されていくので、そのへんがサスペンスを盛り上げています。
イ・ジョンチュルのアンビバレントな心情に、同朋への思いを読んだ義烈団のリーダーは、彼に協力を求め、ジョンチュルは決してそれを受け入れはしないけれども、結果的に彼らの窮地を何度か援けたり、彼らの行動を黙認するような行動をとります。
やっとのことで京城駅まで爆弾も運び、メンバーがそれぞれ改札を出ようとするとき、同志の紅一点(ハン・ジミン演じる)が何気なく以前に撮っていた写真のせいで顔が割れていて、日本官憲にみつかり、彼女を逃がそうとした同志たちも次々殺されてしまいます。
そして、逃げ伸びた義烈団のリーダーも、ジョンチュルが義烈団と通じていることに感づいていた上司(鶴見辰吾演じ居る)がジョンチュルを使って仕掛けた罠にはまって、二人とも警察隊に取り囲まれて逃げられないことを覚悟したとき、リーダーは自分たちが運んできた爆弾をジョンチュルに託します。
リーダーは拷問の上、刑務所の独房の中。ジョンチュルは裁判でも、あくまでも義烈団の監視・探索のためにしていた行動として自分の行動を正当化して罪を免れ、旧に復します。そして京城での日本の統治者たちが集うパーティーの夜、ジョンチュルは会場に紛れ込み・・・というふうなお話。
脚本もよくできているし、何よりも主役のジョンチュル役のソン・ガンホが素晴らしい。「シュリ」や「JSA」でおなじみの名優だけれど、この映画でもそれなりに心を決めて日本警察に所属し、その職務に忠実であろうとする警官でありながら、朝鮮人同朋への思いや、かつての友を追い詰めて死に追いやった自分の立ち位置への屈折を抱えた人物の胸の中の揺らぎと、次第に同胞や祖国に対する思いに傾いていくアンビバレントな状態を非常に存在感のある演技で見せてくれています。
リーダー役のコン・ユは知的な優男ですが、かえってよくこの役には合っていました。抗日テログループのボスとしての存在感を見せていたのは、チョイ役のようにしか登場しないけれども、イ・ビョンホン。リーダーの恋人役の女性同志を演じたハン・ジミンもほかのドラマでおなじみの女優さん。それら演技陣が充実していて、ストーリー、演出ともども、なかなか見ごたえがありました。
ただ、それはエンターテインメントとして見ごたえがあった、ということで、歴史的な抗日運動の一コマを描いてはいるけれど、別に政治的な反日映画というわけではないし、鶴見演じる上司は眉一つ動かさずに義烈団のメンバーを拷問する冷酷な人物ですが、これは当時の統治者としてテロリストに当然やっただろう役柄で、映画作品として、へんに日本(人)をいやらしく描いたような厭な感じはなく、純然たるエンターテインメントとして楽しめました。
『グリーン・ソーン』(マット・デイモン主演の戦争映画)、『スコルピオ』(アラン・ドロン、バート・ランカスター競演の古いスパイ映画)、『預言者』(刑務所に入れれた若者がいきなり所内の囚人たちや看守たちをも牛耳る囚人仲間のボスの指示で同房の囚人の殺人を強いられ、やむを得ずやってからボスの手下になり、やがて外出も認められるようになって、ますますボスの指示に従う一方で、兄と組んで麻薬を扱い、敵対勢力を制し、ついにはそれらの敵を利用して敵同士を戦わせ、最後はボスをも制して刑務所内を支配するに至る、という話。この主役の若者と陰湿で切れると狂暴でもある監獄の支配者であるボスがなかなか良くて、塀の中の世界を一定のゾクゾクするような恐怖を伴うリアル感で見せてくれます)の三つは、「ヒア アフター」と同様、前に見ていました。でも、また見てしまった。それなりに面白いエンターテインメントなのでした。
でもまぁ、こういう頭が空っぽになるような映画をあんまり見過ぎるのもどうかと思うので、ちょっとレンタルをやめて、一休みしたいときには、うちにある旧作をしばらくは流し見することにしようと思います。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(ラース・フォン・トリアー監督、2000年。デンマーク映画。)
なんといってもビョークの歌、音楽が最大の魅力でしょう。チョコからの移民であるヒロイン・セルマは女手ひとつで12歳の息子ジーンを育て、昼間は工場で機械相手の作業、夜は内職、合間には何よりも大好きなミュージカルの舞台公演をめざしてレッスンを続けている女性ですが、遺伝的な視覚障害者で完全に失明する寸前。息子もその宿命を背負っていますが、13歳になれば手術が受けられ治癒する可能性があるというので、彼女は必至で手術代を貯めるために働いてきたのです。カトリーヌ・ドヌーヴ演じる彼女の無二の親友キャサリンや彼女を愛するジェフなど彼女の障害を知る周囲の友人は彼女のことを心底心配し、支えようとしますが、彼女はどちらかというと、素直にその気持ちを受け入れるのではなく、また遠慮からでもなく、いくぶん性格的な頑なさと現実から逃避しがちな夢想的な資質から、やや意固地にそれらの厚意を遠ざける姿勢をとっています。
こうしてヒロインの資質、性格、姿勢に共感できない人は、この映画に否定的にならざるを得ないでしょう。彼女の強いられている移民で女手一人で遺伝病をかかえた子供を持ち、自分も失明寸前で、貧しい、そういう幾重ものハンディキャップを抱えた女性に同情し、息子を失明から救いたい、という一途な想いからとる行動や彼女の考え方に、息子への純粋な愛を見て肯定的にとらえる人は、この映画にについても肯定的な評価になるのではないかと思います。
実際、このヒロインの考え方や行動を映画の作り手がどう設定しているかは、なかなか微妙なところがあります。見方によっては、彼女は息子のことが第一で、それは母親としては理解できなくはないけれど、自分の置かれた状況や周囲の配慮についてはかなり無頓着で、自分でやれるから、と周囲の厚意に対して意固地に突っ張って見せるけれども、実際には周囲の支えなしには何もできず、現実に彼らの厚意に甘えているにも関わらず、そのことに自覚的ではないように見えるので、自分と息子の世界にしか考えが及ばない、視野の狭い、いわゆる「ジコチュー」な女性にも見えます。
そうしてみると、彼女のミュージカルへの入れ込みようも、現実逃避の一環にすぎないとも言えるでしょう。危機的な状況に追い詰められると、いつも彼女の妄想が始まり、周囲の世界は、自分がヒロインで人々の輪の中心で踊る、ミュージカルの舞台に早変わりします。その幾つかのシーンがこの映画の美学的な意味での映画としての魅力になっていることは事実です。
ドラマとしては、彼女の住むトレーラーの住居の家主である警官のビルとリンダの夫婦は、ビルが大きな遺産を継いだはずだったのが、リンダが浪費家で、とうに破産していて、借金で銀行に差し押さえをくらって危機的な状況にあります。ビルは或る夜、セルマの所へ来て、その「秘密」を打ち明け、セルマも自分の失明に瀕する「秘密」を打ち明け、二人だけの沈黙を約します。ビルはセルマが息子のために貯金していることを知り、後日、自分が苦境にあって自殺も考えている、助けると思ってその金を貸してくれと頼んで拒まれ、或る夜、セルマがもう何も見えない事を利用してセルマのトレーラーから出ていったと見せかけて居残り、セルマが貯金を隠している箱のありかを確認して後日それを盗みます。
セルマがビルに返してもらうために母屋を訪れると、ビルの妻リンダは夫ビルから偽りを聞かされ、自分もビルがセルマのトレーラーに夜になって訪れたことを目撃していたものだから、セルマが夫を誘惑したと思い込んでいて、彼女に出て行けと罵ります。リンダを振り切って2階のビルの所へ行ったセルマが返却を迫り、金を取り戻そうとすると、ビルは金のはいったバッグを離さず、拳銃を持ち出して争い、銃が暴発します。ビルはセルマに自分を撃て、殺せ、と叫び、あくまでも金は自分のものでセルマが盗んだ、と妻に警察に連絡するよう叫びます。もともともう袋小路にはいって投げやりだったビルは撃ってくれ、殺してくれ、と金を手放さずにセルマに迫り、セルマは目の見えないまま拳銃を撃ちますが決定的な弾を撃てず、ビルが金を離さないので、金属製の貸金庫の引き出しみたいなのを振り上げてビルの頭を打ち据えて殺してしまいます。
この殺人のあとふらふらとビルの家を出て、迎えにきたジェフと出会い、鉄道の線路上を歩いて、列車がくるところで例の妄想に移り、川にかかる鉄橋を徐行する列車の上に乗ってそこにいる人々と一緒に歌い、踊ります。ジェフと彼女は歌でやりとりし、前を向いて生きよう、頑張ろうと励ますジェフに対して、もういいの、この世界で、見るべきものはみんな見てしまったわ、と歌うビョークは本当に魅力的で、この場面はこの映画の中で最高に楽しく、美しく、しかも追い詰められ、あらゆる不幸を背負いこんだ不運な女性のたどりついた思いを、天が下に新しきものは無し、われは見るべきものは見つ、という歌にこめて、哀感を誘うすばらしい場面です。
同様に、夜勤まで引き受けたセルマが工場で機械相手にせっつかれて作業のスピードについていけず、機械を壊してしまうようなミスを犯すなど、徐々に失明がばれそうになって、もう隠しおおせないところまで追い詰められているときに、妄想が周囲をミュージカルの舞台に転じ、工場の中のあらゆる機械音がミュージカルの音楽のリズムとなり音色となって加担し、働く周囲の仲間たちがセルマをその輪の中心としていっせいに歌い、踊る、あの場面も現実から妄想の世界への移行が自然で、工場の環境を最大限生かした、すばらしい場面です。
最後に刑場へ引かれていく彼女を支えるために同情的な女性看守がタップでリズムを創り、恐怖に崩れ落ちそうなセルマが再び妄想の世界を取り戻して歌い踊る場面や、首に縄をかけられて恐怖に泣き叫ぶ彼女に、キャサリンが息子ジーンが手術を受けたことを彼の眼鏡を渡すことで悟り、気持ちを落ち着け、彼女の唇から再び歌がこぼれる。「これが最後の歌じゃないわ。みながそうさせない限り」というような歌、そしてバタン、と羽目板が開いて彼女は絶命する・・・
そのあたりの妄想・ミュージカル世界への転換は、列車や工場のシーンに比べると、悲惨さもあるし、移行も必ずしも自然ではなく、楽しくも素敵でもないので、作品的な効果としても疑問がありますが、いずれにせよ、セルマという女性のミュージカルへの入れ込みかたと、現実に追い詰められたときにその世界に転じる現実逃避の必然的なシーンとして、その歌い、踊る人々の仮象の世界が、この先行きのない暗すぎる映画に、せいいっぱいの対照的な明るさ、この女性の生きる意味、希望、肯定的なもののすべてを表現していて、それは成功していると思います。
現実とこういう妄想世界とのつなぎは非常に難しいと思いますが、少なくとも列車や工場のシーンではそれがうまくいっていました。
ただ、この作品、現実の部分だけを取り出してみたときのドラマとしては、まったく不出来だと思います。最初に書いたように、周囲の人々に対する姿勢の意固地さや配慮のなさ、自分の現実への認識の甘さ等々、彼女の資質や性格にはヒロインとして観客が思い入れしにくい点が多く、身勝手な女性で、あぁいう成り行きも自業自得の面があるのではないか、と思わせてしまうというのは、ドラマとしては失敗ではないでしょうか。
もちろん、ただ結末が悲惨で後味が悪いというだけで作品を否定すべきではないと思います。アンナ・カレーニナだった、ボヴァリー夫人だって、言ってみれば身勝手な不倫による自業自得の結末だ、ということになりますが、それでも彼女たちをそこへ追い込んでいく周囲との関係や当時の社会の規範的なありかた、さらに彼女たち自身の心の動きに、すべて納得のできる必然性があって、少しも不自然ではありません。でも、セルマの考え方、言動には、マダム・ボヴァリーやアンナのような、それなりにその立場に立てば観客が身を入れて寄り添っていける必然性が感じられません。
自分が面倒をみるべき息子を抱えているのに、裁判で適切な自己弁護もせず、妄想にふけり、有能な弁護士が再審請求で勝てる、と言う言葉にも、その費用が息子の手術代であったはずの金から出ていることを知ると拒否して、彼女の命を救おうとする友人キャサリンの努力も無にしてしまいます。
こういう人物造型にはドラマとしておかしな点や矛盾が多いのです。それほどセルマに寄り添ってきて彼女の気持ちを熟知しているキャサリンなら、弁護士に言い含めて、セルマには絶対に金の出所を喋らせるような不用意なことはしなかったでしょう。
また、セルマはいかにも息子ジーンへの愛から、その手術代のために貯めた自分の金を使わせないために有能な私撰弁護人を拒否してみすみす自分を死刑に追いやる決断をするように描かれていますが、常識的に考えて、息子があぁいう状態で取り残されるなら、まず自分が何としても長らえて息子を守らなければ、と考えるのが母親でしょう。
手術は成否も確率の問題だし、またいつそれをしなければ絶対にダメかもそんなに確定的でるはずがない。また、手術もそのためにためた自分の貯金が別のことに使われたらもう絶対に出来ないか、と言えば、様々な機会があり得るかもしれない。いくらなんでも直線的にこれを結び付けて、死刑への重い道行を納得させるのは無理でしょう。
さらに、もしこの作品のようにジーンの手術代を弁護に使わせないために、命が助かったかもしれないのにみすみすその母親が死刑に追いやられたことを、当の息子ジーンが知ったら、いかに母親の自発的意志だとしても、果たして母の愛をありがたいと感謝し、自分は幸せな気持ちになれるでしょうか。そんなことはあり得ないと思います。
しかも、セルマにそれほど愛一筋の生き方をさせたいと映画の作り手が思ったのだすれば、そのわりには、彼女と息子との関係は、この作品の中で、ほとんど描かれていないのです。ほとんどがセルマの思い込みの世界にすぎず、彼女が息子をいかに愛し、その眼病の発病をおそれているか、そのような母親の気持ちは本来なら彼女と息子との日常的な姿の中に描かれ、観客が自然に納得するようでなければドラマとしてはこういう筋書きにしたので、無理やりそういうことにしました、という以上のものではありません。
自分を陥れて罪を着せ、殺人を犯すにいたらせたビルとのやりとりについても、ビル夫妻の経済的苦境をビルが打ち明けたことを秘密にした生前の約束があるから、と裁判で語らないのも、まったく滑稽なほど不自然なことです。妄想の中でのことなら仕方がないけれど、ここは現実のドラマの部分でのことだから、まったくどうかしています。
こういうドラマとしておかしなところ、矛盾は、言い出せば切りがないほどあります。つまり、妄想に転じて、歌い、踊る空想の世界では意外性も楽しさもあるけれど、彼女を追い詰めてそういう妄想へと現実逃避させるその現実は、しっかりと現実として納得のできる合理性をもって描かれなくてはならないのに、ドラマがいい加減で、必然性も自然さも感じられず、無理に息子への愛情一筋と、ミュージカル好きの妄想癖のある女性ということで、最悪の不運な状況さえ設定すればその妄想に転じる部分が描ける、と考えてでっちあげられた世界であるため、見る側が最後まで腑に落ちない、納得のできないつくりになっています。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン。2007年、米国映画)
20世紀初頭の話のようですが、アメリカ西部の石油成金の成功と破滅の物語です。冒頭、山師ダニエル・プレインヴューが固い土地を掘り進めて穴の底に降りては土や石を掘り出す地味な作業をする様子をアップでえんえんと見せるところから、なかなか面白そうだな、と期待させます。
金を見つけたりするので、ゴールドラッシュの話かと思ったら、そうではなくて、やがて彼は石油を掘り当てて成功します。そして色んな情報を得ては、次々に試掘で油田を探り当て、土地を買い占めて成功していきます。
そんな油田探しの中で、自ら自分の土地で石油が出るということを伝えて正当な評価で売ろうともちかけてきた、一見なにもない辺鄙な荒地にあるサンデー牧場の息子ポールの声かけに、ダニエルは半信半疑ながら、息子H・Wを連れて、狩りにみせかけて現地へ出掛け、石油のしみ出した土地を見て、油田のあることを確信し、ポールの双子の兄イーライと交渉して、貧しいサンデー家から採掘権を買い取ります。そして油脈を掘り当てて大成功となったとき、爆発炎上事故が起きて、そばにいた息子は吹っ飛ばされて聴力を失い、さらに精神的におかしくなってダニエルの家に火を放ってしまい、ダニエルの元を離れて寄宿学校にやられることになります。
イーライが何と言う宗派かキリスト教のかなりオカルト的な強い頑ななところのある信仰をもって、地域の教会を主宰する牧師になっていて、石油パイプラインを信者の土地に通したいダニエルとイーライの間でのやりとりで自分が息子を見捨てた罪人だと信者の前で告白するかわりに利権をものにする場面があり、逆にイーライがダニエルの出資を乞わねばならない立場になると、今度はイーライが、自分はインチキな預言者で神は迷信だと信者の前で言わされる、という場面もあります。
また父子関係では成長した息子H・Wが戻ってきてダニエルと和解するものの、H・Wは幼馴染のサンデー家の娘と結婚し、妻とメキシコへ移住して起業したいと言い出し、反対するダニエルはH・Wにお前は孤児で、自分とは血がつながっていないのだと言って勘当。ダニエルはまったく孤独で自分を閉じた老人になります。
ダニエルのもとを訪れたイーライとダニエルは争いになり、ダニエルはボウリングのピンでイーライを撲殺、騒ぎに駆け付けた人々は血まみれですべて終わったとつぶやくダニエルを見ます。
ダニエル・デイ=ルイスの癖のある人物を演じる渋くもあり激しく濃くもある演技が光っていて、この映画でアカデミー賞主演男優賞を受けたというのも納得できます。また、狂信的な若い宗教者イーライを演じるポール・ダノという人も、大変印象に残りました。
石油利権にとりつかれた男の栄光と挫折、父子の齟齬、結局は一人の孤独のうちに自分を閉ざしていく男の道行もよく理解できました。しかし、割と重要な意味を持っているこの映画の中でのオカルト的な宗教が絡むあたりになると、正直のところよくわからないところがあります。つまり教会を主宰するイーライの気持ちにも、それに従う地域住民たちの気持ちにもうまく寄り添っていけないので、それに対抗するダニエルとの間のやりとりにも、なにかこう現実味というのか、展開が腑に落ちる形担って行かない部分があります。
『わたしを離さないで』(マーク・ロマネク監督。2010年、イギリス映画)
言わずと知れたカズオ・イシグロの2005年発表の原作に基づく映画作品で、日本でも話題になりました。でも私はその内容のあらましを聞いた段階で原作もあまり読みたいと思わず、映画も長く見たいと思わなかったのです。「日の名残り」などは原作にも映画にも感動したのですが・・・
ほとぼりがさめて(笑)この作品を見て、やっぱり見る前の勘は当っていたな、というのか、もう一度見たい映画だとは思えませんでした。いわゆるクローン人間を臓器移植のために作り出す未来社会を舞台に描いたSFで、そのクローン人間の一人で、いまは徐々に臓器移植手術を受けて弱り、死んでいく同類たちを介護し、見取る介護人の仕事をしているキャシーの目で語られる物語です。
舞台はキャシーがまだ寄宿学校にいたころに戻って、彼女が親友のルース、ひそかにキャシー自身が好意をもっていたが親友ルースが彼氏としてつきあうようになる男の子トミーの3人の日常が描かれます。そこは緑ゆたかな自然に囲まれたすばらしい環境で、平和な日常が支配しているように見えるのですが、外界から遮断され、一歩指定された学園から外へ出れば、生徒が殺されたり、餓死したりしたという話が伝えられ、生徒たちはそれを信じて暮らしています。生徒たちは絵画や詩の創作にはげみ、それらはいつもは外部にいるマダムのところに送られています。
彼らに真実を伝えようとした教師は辞任させられて去っていきます。彼女は、生徒たちに自分自身の運命について真実を伝えるべきだと主張していたのです。それは、生徒たちが自分の人生を自分で決定することはできず、すでに決められていること、中年になる前に臓器提供が始まり、多くの場合、3度目かせいぜい4度目の手術で短い一生を終えるということ、などであって、そういう自身の運命を知ることによって生に意味を持たせるように、ということでした。
18歳でそれぞれ提供する臓器によって別々の施設に別れていくのですが、3人はコテージと呼ばれる場所で共同生活を始め、ルースとトミーは恋人となり、ルースはキャシーに見せつけるようにその関係をあらわにしてキャシーを孤独のうちに置きます。彼らのところに外部から、クローンどうしの恋がホンモノであることが証明できれば、臓器提供が猶予されるとの噂がもたらされます。また、寄宿学校で盛んに描かれ、マダムに送付されていた絵画などの評価で、その恋人たちのトータルな人間性が審査され、「提供延期」の可否を左右する、といった噂も流れます。
ルースが自分の「オリジナル」かもしれないという女性の噂を聞いて、みなで見に行き、ルースは自分に似てはいない、とつよく否定して戻る原作にもあったエピソードも挿入されています。
その後3人は別々の道を歩まされて別れますが、希望どおり介護人となったキャシーは、再びルースやトミーと再会し、そのときに、すでに2回の臓器提供をして、次はもう「終了」(彼らの世界での死の隠語)するだろうことを自覚したルースは、キャシーへの嫉妬からトミーを奪ったことを告白し、もともとトミーはキャシーの恋人であるべきだったとキャシーに謝罪し、「提供猶予」を頼むべきマダムの住所を知らせます。
ルースが3度目の手術で「終了」した後、トミーとキャシーはトミーが数年前から描いた絵画を持ってマダムを訪ねますが、そこで校長から聴かされたのは、昔も今も「猶予」はないし、絵画はクローン人間たちの魂を探るためではなく、そもそもクローンたちに魂があるかどうかを知るためだった、とい残酷な真実でした。
ここで冒頭のシーンに戻り、キャシーの目に映るのは手術台に横たわって最後の手術を待つトミー。そしてトミーが「終了」して2週間後にはキャシー自身にも、1カ月後に最初の手術を行う旨の通知がきます。わたしたち(クローン)とわたしたちがその命を救った人間との間に、違いがあるのだろうか。生を理解することなく命がつきるのはなぜなのか・・・キャシーの最後の自問でした。
とてもやりきれない、つらい物語です。人生の喩として、人は必ず死ぬ、或る意味で、はじめから定められた「囚われの状況」にある存在だ、ということは分かります。しかし、具体的にあの若者たちが置かれた情況ならば、あれだけの意志と行動力を具えた存在であるなら、なぜ逃げないのか、なぜ反乱を起こさないのか、と私などは見ていて思ってしまいます。
いや、それはあらゆる人間にとっての、決して動かすことのできない宿命の喩なのだから、抗ったり逃げたり、っていうのは約束事としてないんだよ、というのは、作品の外部での理屈としては分かりますが、この作品の具体的な世界の内部においては、やっぱり疑問です。
それはSFの約束事なんだよ、という基本的な舞台の設定の話とは別の問題だと思います。或る未来の時点で生殖細胞の交配によって成長した「オリジナルな人間」の延命治療用に、通常細胞から人工的に作り出されたクローン人間を使うようになりました、というあり得ない異常な世界をSFの約束事として設定するのは許されるけれども、一旦そういう世界が設定された上は、その世界の内部の法則性が無矛盾に展開されなければ、物語世界のリアリティそのものが崩れてしまいます。そこに登場する諸環境も、登場「人物」の振る舞いも、その心の動きも、その世界の内部で許される諸条件に適合したもの、言い換えれば必然性があり、リアリティのあるものでなければならないでしょう。
登場人物たちが、ああもでき、こうもできるはずなのに、それを選んだとすれば、それはなぜか、と問うたとき、その作品の世界の内部にちゃんとした答がなければ、見ている者には納得しがたいところが残るでしょう。外の世界に出ようとした生徒は殺された、という噂がある、というだけで、ほっておけば臓器をとられ、確実に若くして殺されることが分かっている、知性をもつクローンたちが、羊のようにおとなしく自分の臓器を切り取る手術台にのぼる順番を待っている、というのはわたしには信じがたい。
収容所に羊のごとくおとなしく列をなして進み、ガス室で死んでいったと言われるユダヤ人たちは、圧倒的なナチス国家の暴力装置の強制力によってそうであったので、この映画のような環境の中で自発的におとなしく死地へ赴いたわけではないし、実際、あのような鉄壁の収容所からでさえ、反乱を起こして脱走したグループもあったことが戦後に明らかになっているようです。
別段、そういう英雄物語を描いてほしいわけではないし、暴力装置による監視・拘束状況を描けばいいとも思いませんが、いまのこの作品がSF的設定としても弱点を持っていて、その世界のリアリティを壊している面は否めないのではないか、という疑問を持っています。
もし作品の内部世界におけるリアリティを追求するなら、もっとひどい檻の中にとじこめて拘束・監禁しないといけなくなって、それではある程度の自由度をもつ人間の生の喩の世界にはならなくなってしまうから?あるいは、その苛酷な宿命を、美しく描きたかったから?
たしかにきわめてソフトな「囚われ状態」だからこそ、恋もでき、自分の運命に期待し、裏切られもする、という普通の人生の喩としての物語になるのですが、描かれた作品世界の内部のリアリティとしては首を傾げたくなってしまうところがあります。それは原作自体が内蔵する問題かと思います。
わたしなら、「ブレード・ランナー」のルトガー・バウワーでしたっけ、あのアンドロイドのように、自分の運命に抗うように、自分たちを生み出した人間に反乱を起こしますね(笑)。どうしてそう羊のようにおとなしく抹殺者たちが自分の内臓をむさぼるのを唯々諾々と許しているのか・・・
たしかに男の子のトミー役のアンドリュー・ガーフィールドというらしい役者など、いかにも気が弱そうな、優しそうな男の子ぶりで、それはそれでとてもよくこの役柄にフィットしてはいましたが・・・そして、誰よりも主役のヒロインキャシー役のキャリー・マリガンの愛らしいこと。友人の嫉妬、裏切りで恋を奪われて孤独なキャシー、そしてその友人の告白・謝罪と死によって、ようやく結ばれた二人の束の間の、ささやかな幸せと無残な結末の哀れさはたとえようがなく、この二人の表情がこの作品の質を保証しているようなところがありますが・・・
死すべき宿命のうちに囚われた若い男女の純愛物語。そんな宿命は私達すべての人間が共有しているものですが、その普段はそれほど意識もしない宿命の枠組みをほんの少し小さく、窮屈な枠組にしてみせるだけで、これほどやるせない暗い物語になってしまうのですね。
『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド監督。2011年、米国映画。)
これは一度見ていましたが、何度見てもいい映画で、同じ監督のマッチョなおじさんが不良たちに西部のガンマンみたいに決闘を挑むかのような作品よりも、ずっと良かったし、クリント・イーストウッドの監督作品の中でも一番いいくらいじゃないか、と思いながら見ていました。
津波に襲われた臨死体験で見た死後の世界へのこだわりが拭い去れず、人々にそれを伝えようとするけれども周囲の理解が得られず、孤独のうちにその体験を書いて出版して、成功を収める女性キャスター・ジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)、霊能者としての能力を持っているが、それに関わる人間にも自分にも不幸をしかもたらさない、とその能力を嫌悪していて、それを商売のネタにしたい兄と折り合いも悪く、また互いに惹かれ合っていた女性とも、その女性に乞われて過去を明らかにしたために女性が深く傷を負って去っていくなど、孤独に追いやられる男ジョージ(マット・デイモン)、そして自分が頼り切っていた双子の兄をちょっとした不良にからまれた際の事故で失って、唯一の身よりである薬物中毒の母から引き離されて里子に出された少年マーカス。
このいずれも孤独な3人が、引き寄せられるようにロンドンで、マリーの出版記念講演会をきっかけに出会うことになります。少年はウェブサイトで見ていたジョージが霊能者だと知って声をかけ、しつこくつきまとわれて根負けしたジョージが霊能を使い、マーカスの亡くなった双子の兄の言葉を伝えるのを聞いて、精神的に立ち直り、母親に会いにいき、これから亡き兄に頼らず自立して生きていこうとする姿を映し出しています。
また、講演会場でマリーの手に触れて、彼女が津波の臨死体験をもっていることを瞬間的に知り、彼女のホテルでメモを残して、カフェで待っています。マリーは彼の長いメモを読みながら、一瞬で彼のことを理解したように笑みを浮かべ、ジョージの待つパサージュのようなところの入り口にやってきます。それをカフェのテーブルについていたジョージが認めて、彼女と抱き合う像が脳裏に浮かべ、彼は立ち上がり、彼女に合図し、彼女は彼のいるテーブルに近づき、彼の前に座ります。
このあたりのラストに近い出会いの二人の表情はすばらしい。あの言葉にしなくても完璧に通じ合い、絆で結ばれた二人の笑みが本当に素敵で、そうやってようやく出会った孤独な2人が同じテーブルに向き合って坐るところを引いたカメラでとらえて「完」。このラストが素晴らしい。
死後の世界や霊能を認めるとか認めないとか、そんなことはどうでもいいので、そういう素材を使って、それぞれの不幸を背負い、周囲に理解されない孤独を背負った魂が、傷つき、うめきながら、真実を求め、理解者を求め、わかりあえるつながりをもとめて彷徨した末に、ようやく出会うことができ、それぞれ自分を取り戻し、孤独から解放され、傷を癒すだろう今後を示唆して終わる。みごとなストーリーを映像で展開しています。
マット・デイモンは、何度見ても面白いボーンシリーズはもちろんだけれど、どんなシリアスな役をやってもこなせる、すごい役者ですね。マリー役の女性も、マーカス役の子役さんも、料理教室で知り合うメラニーという女性役(ブライス・ダラス・ハワード)もみな良かった。
『ドライヴ』(ニコラス・ウィンディング・レフン監督。2011年、米国映画)
カンヌで監督賞を受賞した作品らしいけれど、見ていませんでした。これは素敵な作品でした。
アメリカ西海岸の町の自動車修理工にして、映画のカーチェイスなんかのスタントマンもアルバイトでやっている運転の超技術を持つ青年が、実は強盗の逃がし屋もやっていて、冒頭のシーンはそこから始まるのでスリル満点。
この青年がどこからやってきて、どんな生い立ちで、なぜこうなっているか、なんてことは最後まで明かされないままで、名前さえよくわからない。「ドライヴ」で通しちゃっているんじゃなかったかな。
物語は同じアパートの同じ階に暮らすアイリーンという子持ちで夫が刑務所ぐらしというたまらなく魅力的な女性と彼がエレベーターで出会うところから実質的に始まります。
二人は自然に惹かれ合い、青年は彼女の息子も可愛がり、なつかれもします。ところが思わず早く彼女の夫が刑務所から帰ってきます。この男が悪い筋の借金をしていて、それを帰さないと妻子を殺される、というので、青年はこの旦那を援けるために再び強盗の逃がし屋を引き受けます。バックで糸を引いていたのは青年と裏社会をつなぐ役割の自動車修理工場のシャノンもよく知っているニーノやバーニーという悪で、実はその質屋にマフィアの大金があることを知った彼らが、青年や夫の男にその金を盗ませてマフィアの目を自分たちからそらして金だけとろうと謀ったわけですね。
それを知らずに夫の男と青年と、悪のつけた女のメンバーと3人で質屋を襲い、女が先に車に戻り、夫は戻ろうとして店員に銃で撃たれて死んでしまいます。大金の入ったカバンだけ車に乗せて女と逃げる青年を追う悪たち。それを青年の運転で振り切って隠れ家へ落ち着くものの、女が携帯で悪に知らせ、手下たちが銃を持って襲ってきて、女は撃たれて死に、青年は辛くも襲撃者を反撃して命長らえます。仲介役だったシャノンにも逃げるように伝えますが、シャノンもバーニーに殺されます。
残された未亡人と子供を襲うニーノ&バーニーの刺客をエレベーターの中で反撃し、やつの頭を踏み砕いて殺す青年を見て、未亡人の女性は恐怖の表情で、引いてしまいます。青年はニーノをやっつけ、最後の決着をつけるため、バーニーに電話で金を渡すから妻子に手を出すな、と言って死も覚悟して約束の店に出かけ、バーニーに車のトランクに入れてあったマフィアの金を渡したとたん、バーニーが青年を刺し、相打ちで青年もバーニーを刺して殺します。深手は負ったけれど命ながらえた青年は、金はバーニーの死体のそばに放置したまま、車を運転して・・・おそらくは彼女に会うために・・・
というので「完」。
青年「ドライヴ」役のライアン・ゴズリングと、彼が惹かれる人妻で後半には未亡人になチャーミングな女性を演じるキャリー・マリガンが、すごく良いです。ライアン・ゴズリングは、ジェイムズ・ディーン的な哀愁を帯びたマスク。女子供には優しく、無口で、シャイそうで、決して出しゃばらず、押しが強くもみえないけれど、どんな危機にも冷静で、暴力をふるうときには冷徹で強烈で、ふだんの穏やかな雰囲気との落差がものすごく大きい。この哀愁漂うかのような青年に一目惚れしない女性はいないかも。
そしてその相手役のキャリー・マリガンがこれまた当初の子供との穏やかな日々に入ってきた青年に見せる好意的な笑顔のチャーミングなこと!こんな女性に出会ったら、一目惚れしない男性はいないでしょう(笑)。自分の青年への愛情を抑えるかのように、控えめな笑顔がたまらない。
『戦狼/ウルフ・オフ・ウォー 』(呉京監督・主演。2017年、中国映画)
なぜこんなの借りちゃったんだろう?(笑) すごく珍しい映画を見てしまいました。レンタルビデオ屋のたしか韓流映画のコーナーにまじっていたから、てっきり韓流と思って、ろくに確かめずに籠に放り込んできたらしいです。
これは中国製のランボー。いや、ランボーとスーパーマンを足して2で割ったような映画(笑)。
そう言っては本家「ランボー」に失礼でしょうね。ランボーとの違いは、歴然としています。
以前に、これもたまたま、イラン映画ってのを借りて来たことがあって、イランのランボーみたいな若者が、イランに侵攻したアメリカ軍の網をかいくぐって、アメリカ兵を襲ってやっつける話です(笑)。ドラマなんて半世紀以上前の日本でテレビが普及しはじめた草創期のモノクロドラマのハリマオとか、あれほどの「深み」(笑)もなく、単純そのもので、実に素朴。イランにはモフセン・マフマルバフとかアッバス・キアロスタミとか、芸術的にも優れた映画を撮る監督は少なくないのですが、あれは誰の映画かも忘れましたが、ひどい映画でした。今回のこの「戦狼」もそれと同じ。
いまや映画にありあまるほどの金が使えるようになったお大尽中国らしく、金にあかせた特撮やCGを駆使したアクションだけは確かに、いまのテクノロジーで見せるものになっていますが、ドラマは幼稚園児並み。
ランボーには帰還兵問題がしっかりと描き込まれていて、戦場で合法的に人を殺しまくって英雄とされた兵士が故国へ帰って、日常性に適応障害を起こし、結局厄介者扱い。鬱屈を爆発させれば反社会分子として排除される。そういう帰還兵の悲哀がちゃんとあの乱暴者のランボーにも描き込まれていて、その鬱憤をエネルギーとしてあの超人的活躍があり、既存の軍隊組織とは無関係なむしろそこから疎外された元兵士の個人プレイになっているわけです。
しかし中国製 [ランボー+スーパーマン] /2 君には、そういう悲哀のカケラもありません。まさにスーパーマン的活躍の末、それでもどうしても圧倒的な敵に絶体絶命、というときには、彼の背後にある中国軍の大艦隊からミサイルが飛んできて敵の戦車が何台あろうと、みな吹っ飛ばしてくれる(笑)。
そして、映画の最後に流れるアナウンス(文字だったかな)は、「中国国民のみなさん、安心してください。世界のどこにいても、あなたがたには強大な母国がついていて、あなたがたを守ります。」(笑)
この映画で一番の傑作はこれでした。
『密偵』(キム・ジウンン監督。2016年、韓国映画)
この比較的新しい韓流映画は、なかなかのものでした。義烈団というのでしたっけ、日本が半島を統治していた1920年代朝鮮で抗日運動としてテロをやっているグループが、日本側の監視をかいくぐって、爆弾を上海から京城に持ち込もうとします。
これを阻止しようとする日本警察の一員となっているのが朝鮮人であるイ・ジョンチュルで、彼はかつての親しい仲間だった男が義烈団の闘士として活動していたのを日本警察と共に追い詰め、彼が殺される場面に立ち会います。その辺で同じ朝鮮人なのに日本警察の手先として同朋を追い詰めていく自分の立場への確信に一定の揺らぎを覚えるところが伏線になっています。
けれども彼は抗日グループの一員でもなく、その思想や行動に共鳴するのでもなく、あくまでも日本警察の忠実な一員として治安の維持のため、テロリスト集団としての義烈団を監視し、その動きを探るために義烈団のリーダーであるキム・ウジンに接近します。
そんな中、義烈団の爆弾輸送の準備が進められ、実行されていきますが、どうも義烈団のグループ内部に密偵がいて、彼らの動向が漏れているらしく、メンバーが消されていきます。それが誰かもわからないまま計画が実行されていくので、そのへんがサスペンスを盛り上げています。
イ・ジョンチュルのアンビバレントな心情に、同朋への思いを読んだ義烈団のリーダーは、彼に協力を求め、ジョンチュルは決してそれを受け入れはしないけれども、結果的に彼らの窮地を何度か援けたり、彼らの行動を黙認するような行動をとります。
やっとのことで京城駅まで爆弾も運び、メンバーがそれぞれ改札を出ようとするとき、同志の紅一点(ハン・ジミン演じる)が何気なく以前に撮っていた写真のせいで顔が割れていて、日本官憲にみつかり、彼女を逃がそうとした同志たちも次々殺されてしまいます。
そして、逃げ伸びた義烈団のリーダーも、ジョンチュルが義烈団と通じていることに感づいていた上司(鶴見辰吾演じ居る)がジョンチュルを使って仕掛けた罠にはまって、二人とも警察隊に取り囲まれて逃げられないことを覚悟したとき、リーダーは自分たちが運んできた爆弾をジョンチュルに託します。
リーダーは拷問の上、刑務所の独房の中。ジョンチュルは裁判でも、あくまでも義烈団の監視・探索のためにしていた行動として自分の行動を正当化して罪を免れ、旧に復します。そして京城での日本の統治者たちが集うパーティーの夜、ジョンチュルは会場に紛れ込み・・・というふうなお話。
脚本もよくできているし、何よりも主役のジョンチュル役のソン・ガンホが素晴らしい。「シュリ」や「JSA」でおなじみの名優だけれど、この映画でもそれなりに心を決めて日本警察に所属し、その職務に忠実であろうとする警官でありながら、朝鮮人同朋への思いや、かつての友を追い詰めて死に追いやった自分の立ち位置への屈折を抱えた人物の胸の中の揺らぎと、次第に同胞や祖国に対する思いに傾いていくアンビバレントな状態を非常に存在感のある演技で見せてくれています。
リーダー役のコン・ユは知的な優男ですが、かえってよくこの役には合っていました。抗日テログループのボスとしての存在感を見せていたのは、チョイ役のようにしか登場しないけれども、イ・ビョンホン。リーダーの恋人役の女性同志を演じたハン・ジミンもほかのドラマでおなじみの女優さん。それら演技陣が充実していて、ストーリー、演出ともども、なかなか見ごたえがありました。
ただ、それはエンターテインメントとして見ごたえがあった、ということで、歴史的な抗日運動の一コマを描いてはいるけれど、別に政治的な反日映画というわけではないし、鶴見演じる上司は眉一つ動かさずに義烈団のメンバーを拷問する冷酷な人物ですが、これは当時の統治者としてテロリストに当然やっただろう役柄で、映画作品として、へんに日本(人)をいやらしく描いたような厭な感じはなく、純然たるエンターテインメントとして楽しめました。
『グリーン・ソーン』(マット・デイモン主演の戦争映画)、『スコルピオ』(アラン・ドロン、バート・ランカスター競演の古いスパイ映画)、『預言者』(刑務所に入れれた若者がいきなり所内の囚人たちや看守たちをも牛耳る囚人仲間のボスの指示で同房の囚人の殺人を強いられ、やむを得ずやってからボスの手下になり、やがて外出も認められるようになって、ますますボスの指示に従う一方で、兄と組んで麻薬を扱い、敵対勢力を制し、ついにはそれらの敵を利用して敵同士を戦わせ、最後はボスをも制して刑務所内を支配するに至る、という話。この主役の若者と陰湿で切れると狂暴でもある監獄の支配者であるボスがなかなか良くて、塀の中の世界を一定のゾクゾクするような恐怖を伴うリアル感で見せてくれます)の三つは、「ヒア アフター」と同様、前に見ていました。でも、また見てしまった。それなりに面白いエンターテインメントなのでした。
でもまぁ、こういう頭が空っぽになるような映画をあんまり見過ぎるのもどうかと思うので、ちょっとレンタルをやめて、一休みしたいときには、うちにある旧作をしばらくは流し見することにしようと思います。
saysei at 23:29|Permalink│Comments(0)│
2018年05月26日
鞍馬
貴船へ行ったら次は兄弟分の鞍馬だろうと思って、きょうは叡電で次の駅、鞍馬へ。駅を出ると駐車場の大きな天狗が迎えてくれました。
駅から100m位でしょうか、すぐに鞍馬寺の山門(仁王門)が見えました。
何度も焼けて再建されてはいますが、創建は平安時代最末期の寿永年間(1182-1184年)だそうです。きょうも快晴の暑い日差し。
近づくと立派な門ですね。このへんで標高250mだそうです。
仁王様。湛慶(運慶の嫡男)の作と伝えられ、再建時に丹波から移されたと言われているそうです。
もう片方(門に向かって右側)の仁王様。
仁王門をくぐるって矢印のとおり進むとすぐにこんな石段がありました。階段は苦手。一歩一歩のぼりました。
参道は清少納言が枕草子で「近うて遠きもの」として「くらまの九十九折(つづらおり)といふ道」を挙げているそうですが(読んだはずだけど、もうとっくに忘れています)、地図で見てもくねくねした相当な勾配の上り道。これは貴船のようなわけにいかないな、と負けるが勝ち、お寺さんが経営する珍しいケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)に乗りました。乗車券ではなくて「御寄進票」あくまでも寄進としていただきます、というところが面白いですね。収益事業ではなくて信仰心にもとづく税金のかからない御寄進ですよ、と(笑)
寄進の功徳による効験あらたかで、急な九十九折りの参道分の高低差をひとまたぎ、あっという間に多宝塔のところに着きました。ここから新参道というのが出来ていて、比較的楽に本殿のあるところまで行けます。
とはいえ、こんな石段をあがっていくことになるので、私には肺のめいっぱいのトレーニング。
途中にあった巽の弁財天のお社。こういう小規模なお社が山中、参道の途中にたくさんあります。私の前をいく中年のご夫婦の旦那さんのほうが、ちらっとお社をみながら立ち止まらず、「ようけあるからいちいち見てたら行きつかへん。ショートカットでいかんとな」(笑)
本殿のところへ着くと、見晴らしもよく、ここは翔雲臺とか書いてどこやらから出土した大きな石が置かれて、注連縄がわたしてありました。
本殿金堂。どこも朱が新緑に映えて美しい。手前の罷免のあやしい文様は、いたるところにパワースポットがある鞍馬山の中でも、とりわけ強力なパワースポットだとか。
本殿の前で守護するのは狛犬ではなくて、阿吽(あうん)の虎なのだそうです。
狛犬よりはおっかなそうです。
本殿の脇の光明心殿というお社。
そこをすり抜けてまたのぼりの細い山道を行くと、すぐに脇へ上がって行くところがあって、鐘楼、と書いてありました。といってもそれらしきものが下からは見えないので、どうしようかな、と迷っていると、お寺の関係者らしいおばさんが通りがかって、どうぞ鐘を撞いていってください、と言われるので、それじゃ、と急な細道を上がると、ありました。
優しく撞いてください、と注意書きがあったので、そっと撞くといい音が響きました。
鐘楼の手前に小さなお社。八所明神という立て札がありましたが、これなんでしょうかね。
それよりも傍らにあった、石塔が面白かった。とくに右側のは、灯籠みたいに組んだ中にごろんともひとつ石が入っていて、これどういうのだろう?と不思議でした。なにも説明書きもなかったので。
霊宝殿の手前に二つ、歌碑が並んでいました。
何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな 晶子
遮那王が背くらべ石を山に見て わが心なほ明日を待つかな 寛
やっぱり晶子はいいですね。
霊宝殿という鞍馬寺の宝物館。1階が山内の動植物や鉱物の展示で、これはもひとつでした。いや昆虫採集などするかたには珍しいものがあったのかもしれませんが・・・。2階は仏像以外の様々な寺宝が展観に供されていて、国宝・重文も間近に見ることができます。それと与謝野晶子記念室というのも設けられています。
3階が私には良かったけれど、なかなかいい仏像がたくさん置いてあります。国宝毘沙門天像や吉祥天立像、重文聖観音像など。あまり間近に無造作に国宝、重文が並んでいるので、これはクローズドな非公開の秘仏で、お前立ちというのか閉じられた安置の場の前にレプリカの像をつくって見せるというのがよくあるので、ひょとして精密なレプリカではないかと疑って(笑)係の人に訊くという失礼なことをしてしまったのですが、いやいや、みんなホンモノですよ、と言われて不明を恥じた次第。見慣れた人なら一目見てわかるのでしょうが、私などにはそこまでは分かりません。でもすぐれた造形だというのは感じられるので、この階は見ごたえがありました。もちろん撮影は禁止なので、そばで観光客のおばさまがバチバチ撮ってましたけど(笑)、私はルールは守りましたんで写真はありませんが、見たい方はネットでいくらでも出ていると思います。
屏風坂の地蔵堂。このあたりで時間切れ。もう4時半になったし、引き返しました。
ちょっと前だったかと思いますが、ここで義経が息つぎをしたという、「息つぎの水」という観光スポットの一つ。そういうスポットを全部書いた「鞍馬山案内」(地図)がケーブルの駅のところでしたか、置いてありました。現場にも説明の立て札が立っていて、そこに案内図のナンバーも書いてあるので、地図を見れば、位置とそこがどんな史跡なり神社なりかというのが分かるようになっています。さすがに観光客が押し寄せる観光地らしい配慮です。
降りていく途中にも見晴らしのよい場所がところどころあって、遠くの山を望んだり。
杉林の美しさにみとれて立ち止まったり、上を仰いでみたり。
これは入れないように塀で囲ったりましたが、寝殿。柵の間からお庭を撮りました。
つづらをり まがれるごとに水をおく やまのきよさを 汲みてしるべく 香雲
帰りは九十九折りの参道を逆にたどって降りました。
九十九折の途中にもいろいろなスポットがあります。これは中門。
上を見上げると新緑が陽を透かして美しい。
義経公供養塔というのもありました。
双福苑といったかな。御神木がすぐ脇に立っています。
由岐神社(ゆきじんじゃ)。大己貴命と少彦名命を祀っています。天変地異がつづく都を鎮めるため、天慶3年(940)御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請したのがはじめだそうで、天皇の病気や世上騒擾のとき、社前に靭(ゆき=矢を入れる器具)を奉納して平安を祈ったために靭社と名がついて後に現在の社名になったとも伝えられている、との説明書きの説明です。
拝殿は重要文化財で、慶長12年(1607)、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石段)をとって二室に分けた「割拝殿(わりはいでん)」という珍しい桃山建築で、前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造)いなっているとのこと。
これがその下の舞台づくりになっている社殿です。
由岐神社境内の御神木、大杉。京都市の天然記念物。樹齢約800年、樹高約53mだそうです。
鹿子木(かごのき)という市の天然記念物m。樹皮のはげたあとが白く鹿の子模様になるのでそう呼ばれるらしいです。くすのき科の樹で樹高17mです。
上の社と下の舞台造りの社をつなぐ石段。左は大杉。
これは義経が鞍馬山にいたとき、彼に武術を教えたという鬼一法眼なる人物を祀る社。元祖天狗様ですね。
放生池と魔王之碑。
池には魚も放ってありました。
叡電の鞍馬駅の構内には、火祭りのときの巨大な松明が飾られていました。火のついたこれを男たちがかついで掛け声を掛け乍ら、神社まで石段を駆けあがって行く勇壮な祭のハイライトを飾る行事、私も学生の頃友人の一人と見に来たことがありました。駆けあがる松明もすごい数だし、大きな松明に火がついて燃えているので、そばを通り抜けて駆け上がって行くのはいいけれど、火の粉があたりにふりまかれて、白い半そでシャツを着ていた私は、火の粉がかかって、シャツを焦がしてしまいました。ほかに襟のついた白いシャツをもっていなかったので、長い間、火の粉で穴が一つ方のあたりにあいているシャツを着ていたのを覚えています。
帰りはものすごい数の観光客で、何時間待てば叡電に乗れるか分からないので、友人と夜道をえんえんと歩いて、当時下宿をしていた松ヶ崎迄3時間かかって帰りました。たしか8時ころに出発したから、それでもその日のうちには帰りついたようです。
きょうは電車に乗ったのがまだ5時ころで、明るく、昨日につづいて「もみじのトンネル」の新緑も堪能しました。
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