2018年04月
2018年04月30日
やすらぎのひととき~OG(19期生)2人と
連休といっても、世間には休めない仕事についていて恨めしい方もあるでしょうし、私のように逆に退職した人間にとっては毎日が連休みたいなものですから、ありがたみがない人間もあります。パートナーなどはもともと出不精なうえ、人ごみが大嫌いなので、市外からいつもに増してどっと人の訪れるこの期間は家でじっとしているほかはなさそうな連休です。
でもふだんめいっぱい働いている天使たちにとっては貴重なお休みで、その貴重な時間を割いて会いに来てくれた「永遠の天使」(実は彼女のかつての自称なのですが・・・笑)と「永遠のマドンナ」(対抗上、わたしの命名・・・笑)。自分たちでお店を予約してくれて、賀茂川沿いの、比叡山や東山が良く見えるお店で久しぶりに食事をともにしました。
私の歯を慮って京都らしいと言えば京都らしい豆腐料理のお店で、お洒落な豆腐のコース料理が次々に出てきました。若い人たちだから油がジュウジュウ言うような肉がいいんじゃないかと、かえって心苦しく、家では昨夜も骨付きラムにかぶりついていたのですから(笑)たいていのものは食べから気にしなくていいよ、と言っているのですが、もちろんしかるべき専門店のお料理、とても美味しくいただきました。
川床があって、そこで食事ができるのは5月に入ってからですが、出てみることはできるので、ドアをあけて川床に立つと、真っ青な空、比叡山と東山が望め、川風が爽やか。でも陽射しはもう夏の陽射しでした。
仕事について3年目に入ったのかな。慣れたころに部署の異動があって、希望の部署へ行けてほっと一息、という表情と、せっかく慣れたところだったのに、ちょっと今の自分にできるかな、と多少背伸びの必要な立場に置かれて不安げな表情と、それぞれ変化があったようですが、無事に勤めて経験を積んでいるようで安心しました。
昼食後は少し歩いて三条通に入り、イノダの本店へ。店が広くてすぐそばに三条店もあるので、少しは待たされても回転が速くてほどなく席につけます。新しいカフェもいいけれど、入ってみたらとんでもない味、趣味の悪い空間、といった憂き目に遭うこともあるので、イノダならいつ誰と行っても安心。たまたま創業時の店を再現したという別仕立ての小さな空間に通され、時代物のコーヒー関連の機器やトースター、古時計などが置かれた部屋で、ゆっくりと夕方6時近くまで居座っておしゃべり。
彼女たちには、どこか行きたいところがあれば・・・と誘ってみるのだけれど、ふだんめいっぱい働かされているせいか、ゆっくりとくつろいでいたいようなので、前回も今回もひとつところに入ったら、そこで夕暮れになるまで、あれこれおしゃべりしながら時間を過ごしました。
若い天使とは結果的に一日2万歩一緒に歩いても少しも疲れず、半世紀も歳の違う孫のように可愛いお嬢さんがこんな老人に付き添ってくれて、ほんとうに天使が寄り添っていてくれたような幸せな時間が過ごせたけれど、お姉さん天使(笑)たちとの、こんなまったりした時間も幸せこの上なく、再会を約して、別れるとまたすぐ会いたくなるような気持で見送りました。
たまたまこの間から三つの同窓会の誘いを辞退して、天使たちが声をかけてくれればいそいそと出かけていくのは、われながらゲンキンというのか、同窓生たちには申し訳ないけれど、いちおう半分棺桶に足を入れた人間なので、身體的な不安もあって京都市域からは出ないでおきたい、ということで堪忍してもらっています。それにしても、貴重なお休みの時間をわざわざ時間をかけて電車にのって会いに来てくれる天使たちにはほんとうに感謝の言葉もないほどありがたく思っています。
これは撮ってもらったときに見て、「先生、後光がさしてる!」と天使たちがはしゃいでいた写真。そろそろ半分あちらの世界へ踏み込んで、光背があらわれるようになったのかな(笑)。
2018年04月28日
新緑の「哲学の道」

きょうは久しぶりに朝寝をしてじっくり新聞を読んだりして、ちょっとした書き物をしたら、お昼だよ、というので、さっき食べたばかりのような気がする、と言いながら、軽い昼食をすませたらもう2時。”永遠の天使”からの「おはよう」LINEにおそがけの返事を書き、2,3のメールの返事を書いてから散歩に。澄み渡る青空、比叡山、川の中の右岸近くにゴイサギがいい姿で立っていました。

まずちょっとした用で河原町丸太町の角まで歩いて用を済ませ、そこから東へ東へ歩いて岡崎公園の裏の疎水べりをさらに東へ。疎水べりの桜についたサクランボがもう赤く色づいていました。

白川のほとりのアスファルト道の狭い歩道を歩いて北へ。

そしてさらに東、東山のほうへ行くと永観堂。ここも新緑が白い土塀にかぶさるように輝いていました。

もう閉館時間だったので、入場はしませんでしたが、参道脇から覗ける庭園の一部をパチリ。

永観堂からさらに北へ、東へ歩いて、哲学の道の入り口へ。ここにある、前にもきた若王子に寄りました。その入口のところに、父がその名に因んで私の名をつけたという荒尾東方斎先生の碑文が立っているので、ご挨拶を兼ねて。
一般にはなじみがないでしょうから、財団法人霞山会が平成16年に立てた解説板の言葉を写しておきますね。すでに一部は傷んで読みにくくなっているし、そのうち読めなくなるでしょうから・・・。
東方斎・荒尾精先生の碑
荒尾精は19世紀中葉より始まった西欧列強の中国侵略を阻止し東亜の保全を圖るため、日中の協力団結、特に通商貿易の振興による両国の繁栄を唱導し、これに必要なる人材養成のため、盟友根津一と共に上海に日清貿易研究所を設立経営した明治の先覚者である。
この両者の思想と協力が近衛篤麿を盟主とする東亜同文会の結成と東亜同文書院の創立を具現したのであるが、荒尾は明治29年、38歳の若さで卒然病魔に倒れた。
大志半ばにして斃れた荒尾の死を近衛篤麿は痛く惜しみ、荒尾が対清意見、対清弁妄を著しアジア経綸の卓見を世に問うたその寓居近くに追悼碑の建立を発起し、その業績をたたえる追慕の碑文を自ら撰したのである。
東亜同文会の後身たる霞山会はこの碑を維持管理するに当り、日中提携、東亜保全に盡瘁した荒尾、近衛、根津三先覚の偉業を偲び、茲にこの碑の由来を記す次第である。
平成十六年三月 財団法人 霞山会 (東京都千代田区霞が関)

この前来た時は、すぐそばに建つ荒尾の寓居だったという感じのいいお屋敷の門前を通って、新島襄の墓への山道を進んだのですが、きょうはその手前の「桜苑へ」という矢印に従って、この新緑の石段を登って行きました。

すぐ上の少し開けたところに出て、そこに市民の寄贈によって植樹されたらしい細い桜の樹が2本植えられて、竹で大事そうに囲んでありました。もちろんいまは桜の花は咲いていませんが、ここを桜苑と呼ぶようです。上を見上げると緑の中に青空がぽっかり。滝へ、という矢印のほうの山道もあがってみましたが、龍王神社とか何とかいう小さなお社があるだけで、肝心の「滝」なるものは、どうも大雨のときに崖が崩落でもしたか、ほとんど見えず、あれが滝かな、とちょっと水の落ちているところが木々の間から覗けた程度。それよりも水が出たら埋もれてしまいそうな谷間にもう一つ朱塗りの小さな神社があるのにはちょっと驚きました。まさかお社全体が谷に落ちてしまったわけじゃないでしょうが・・・
あと、桜苑への石段の右手の山の斜面に、立派な2階建てのお屋敷があって、塀で中はほとんどうかがえないのですが、立派な手入れされた庭があって、そこから時折、コーンと鹿威しの小気味よい音が聞こえてきました。滝への道の神社の前で逆方向(東側)からもこの邸宅が見え、ずっと塀がつづいているのですが、ここといい、東方斎寓居だった邸宅も今誰か住んでおられるようですが、あの邸宅といい、かなり広い日本庭園つきの和風の立派なお屋敷がこのへんにはいくつもあるのですね。
東山の山麓にあたるこの一帯は、疎水が引かれてから、その水路が邸宅を廻るように設置されて、各邸宅の造園に引かれて、前近代の枯山水とは違ってほんものの水の流れる池泉回遊式庭園が多くつくられたというのを随分前に資料で読んだことがありますが、いまもそれらの邸宅はかつての上流階級や政治家や財閥の子孫の私邸だったり、企業が買い取って秘蔵しているので、まったく一般には知られもせず、もちろん公開もされていないので、たまに何かの機会に持主につてのあるところの紹介で見学できるような機会でもなければ永遠に見ることはできません。
でも今夜たまたまパートナーが「ぶらタモリ」を見ていたら、なんと哲学の道だというので、どれどれ、と見に降りたら、無鄰菴や南禅寺に近い對龍台というニトリが買い取って所有しているらしい、なかなかスケールの大きいみごとな池泉式回遊庭園とこれを少し高い位置で眺める邸を、特別の許可を得たとかでカメラが映し出していました。やっぱり疎水の水を引いているようで、邸内には水車や滝が設けられ、眺める位置で近く聞こえる音源としての滝を、遠くに眺める滝と歯また別途見えない影に設えるなど、面白い工夫がされた庭でした。
またその庭の石に層状チャート(深海でプランクトンの珪質の殻が数センチの厚さの層をつくり、積層、褶曲して美学的には面白い層状文様をつくりだしている岩石)が使われていて、これは関西では守山石と言われて、湖西の蓬莱山麓の守山といわれる地域で産するのを、琵琶湖疎水の舟運で奥東山のこの別荘地まで運び込んでいたんだ、とぶらタモリで分かりやすく説明してくれていました。
それにしても、こういう一般の私達には知られることなく、ひっそりと上流階級や権力者(いまなら単にお金持ち、というだけのことか)の一部で楽しまれている世界がいたるところに隠れているのが京都なのでしょうね。

さて、若王子からはもう哲学の道の始まり(銀閣寺道から言えば終点)なので、哲学の道へ出て、そこを銀閣寺道まで歩いて帰ることにしました。

桜の季節、その散り際の季節には、桜色に染まっていた疎水もいまは新緑を映して、緑一色。途中、しきりに鶯が鳴いているところがあって、しばらく聞いていました。いまとてもいい声で鳴いていて、繰り返し繰り返し、実にいい声で歌ってくれました。たまにサービスで、ホーケキョケキョケキョ・・・と変化をつけてくれたり(笑)

銀閣寺道に近いあたりには、卯の花が一杯咲いていました。今日のように爽やかだけれど、汗ばむほど気温が高く空は真っ青という日には、もう梅雨を通り越して夏が来たような気がします。
オリバー・ストーン監督「プーチン・インタビュー」Ⅰ・Ⅱ
オリバー・ストーンの問いかけは意地悪な記者のように鋭くつっこむようではないので、もちろん痒いところに手がとどかない、イライラ感はあるけれど、プーチンは答えられることにはもったいぶらずに率直に応答しています。一人の人間としてみれば、とても頭のいい、率直な人物だという印象です。
頭の回転が速く、反応が素早く、記憶力もいい。ユーモアの分かる人物で、どちらかといえば問いかける監督のほうにはユーモアのセンスが乏しいけれど、プーチンはそれに即座にいたずらっぽい笑いを浮かべてユーモアに満ちた言葉を返しています。
彼がつきあってきた4人のアメリカ大統領についてのプーチンの評価や感想をひきだそうと尋ねても、そういうところはまるで友好国や同盟国のトップに対する礼節を守りでもするかのように、笑って、同じだよ、とはぐらかす。そしてずっとアメリカを「パートナー」という言い方で語ったり。そのへんは見事に政治家だね、と感じさせます。
スノーデンを引き取った経緯なども具体的に率直に語っていて、彼が情報を暴露したことは、間違っていると言います。面白いのはそういうとき彼は対立する国家の一方の長として、というより、自分の人生観や世界観、彼固有のものの見方から語っているようにみえるところです。
彼は何より愛国者で、国家というものを信じている。自分はロシアだけれども、スノーデンにとってはそれはアメリカで、彼のしたことは自分の生まれ育った国を裏切る行為だと考えて、ブーチンは否定しているように見えます。この件だけでなく、ほかのところを聴いていても、ときどき、あ、この人はとても頑固なある種のそういう個人的な信条を持っていて、公的な出来事であっても、その信条から判断しているところがあるようだな、と思えるようなところがあって、そこが面白かったのです。
そうそう、スノーデンの暴露したことの中に、CIAが日本の電力会社や銀行等々にマルウェアを仕掛けて、もし日本が同盟に背を向けるようなことがあれば、日本中の電力を切って真っ暗闇にできるのだそうです(笑)。ほんとうにそういうことをやっちゃうのがアメリカという国なんですね。これは別にプーチンが反米でPRして言っていることではなくて、ストーン監督がスノーデンの開示した情報をもとに、そういう過去の映像を挿入している中で知らされた事実です。なにしろメルケル首相の携帯電話まで盗聴していたCIAですから、それくらいのことは朝飯前でしょう。
エリツィンからバトンを渡されたとき、これは本当かどうかは分からないけれど、プーチンは最初は断った、と。なぜかと問われると、公的な理由ではなくて、「大統領になったら生活がまるで変ってしまうから」と答え、すぐ続けて、「子供たちをどこへやればいいのかと思った」、と言ったのです。ストーンが、なぜ?と訊くと、そんなの当然じゃないか、という顔をして、子供たちを危険にさらすことになるじゃないか、というようなことを言っています。
彼が柔道が好きで、ずっと柔道を続けているのも面白い。疲れるだろう、大変だろうと言われて、試合に出る為ならそうかもしれないが、私のは健康維持のためのスポーツだから、と笑って答えていました。アイスホッケーも60歳からやっていまも試合をしたりして楽しんでいるらしい。
インタビューがちょっと緊張感を与えるようにみえたのは、やはりアフガニスタン、チェチェン、ウクライナなどとの紛争あるいは侵略に関してストーンがアメリカではこう言っている、というような形で尋ねていったときで、プーチンは理路整然とではあるけれども、いくらか表情を険しくして、勢いこんでロシアの立場を主張するという感じになりました。
単純化すれば、チェチェンはテロリストとの闘いなんだ、という論理、ウクライナは時の政権がロシア系住民を差別し追い詰めていて、その要請に基づいて進出しているんだという論理、いずれもロシアの公式見解的なものを出ませんが、アフガニスタンに関しては、あれは対テロで協力し合えると思っていた我々をアメリカがタリバンを支援して敵対させ、のちに彼らと手を切ったからあぁなってしまったんで、タリバンを育てたのはアメリカなんだ、と、これはいまでは世界の常識みたいなまっとうな認識でした。
もう一つはサイバー戦争について、いまやアメリカでは大統領選挙にロシアがSNSなどメディアを使って干渉したとされているがどうか、という問いかけに対して、もちろん公式見解どおり、そんなことができるわけがない、と否定しました。
ただ面白いのは、あんなこと、たとえばクリントンの機密情報を漏らしたメールの問題などは、どこの国のハッカーだろうが問題ではなくて、彼らはただ真実を表に出しただけじゃないか、というような言い方をしていたことでした。
私は知りませんでしたが、ストーンによればロシアがサイバー戦争を仕掛けている、という認識のもとに、退任直前のオバマが、アメリカにサイバーテロを仕掛ける者には、同じことをし返す。その時期がいつかは予告しないが、というようなことを言い、事実大統領選挙の直前に、ロシアの4つの銀行に同時的なサイバー攻撃が仕掛けられたという事件があったようです。もちろんやったのがアメリカのCIAのような公的な機関だという証拠はないわけですが、一般にはアメリカが報復したと信じられているようです。
サイバーテロの脅威についてプーチンが気づいたのは2005年とか2006年とかで、それまではロシアのエネルギー関連の基幹産業施設かなにかにアメリカの査察官?が常駐していた、というようなことも言っていましたね。ゴルバチョフのときのソ連の崩壊で、もう冷戦は終わったという認識だった、と。ところがアメリカにはロシアを敵対視して機会があれば潰そうと考える者がある・・・
たしかにロシアの側から見れば、あのペレストロイカとそれにつづく混乱の時期から当分は、アメリカの対抗馬として挑戦するために、もう一度諜報機関を立て直そうというゆとりはもてなかったのではないか、という気がします。プーチンがKGB出身だということで、どうしてもうがった見方をしてしまうけれど、あの当時はKGBのようなそれまでの共産主義政権を支えてきた機関は、ロシアの民衆自身が粉砕してしまえ、というような勢いでした。その後名称を変えて生き延びたとしても、です。
プーチンはアメリカが世界の一極になろうとしているが、バランスが必要なんだ、と言います。しかしアメリカの軍事費は6000億ドル、ロシアは600億ドル、10分の1だと。だから効率よく最小限の的をしぼった防衛力を備えてバランスをとるだけだと。
プーチンの大統領選挙の際も、アメリカの外交官が公然と反プーチン勢力を援助し、亡命ロシア人を組織すると語っていて、そのニュース映像か何かをストーン監督は、インタビューでプーチンが語っていることに関連して分かりやすくするために、インタビューの間に挿入しています。それはプーチンにとっては露骨な内政干渉であり、選挙妨害ということになります。
そういう西側の外交官にとっては、ロシアの大統領選挙はプーチンが政敵をあらかじめ排除して(被選挙権を剥奪したりして、登録を認めなかったり)、思想表現の自由を妨げているから、その虐げられている少数者を支援するのは、国境を越えた人類の普遍的な正義であって・・・ということなのでしょうが、プーチンから見れば、反国家的な亡命者を組織して、こんな露骨な内政干渉をしておいて、ロシアがアメリカの大統領選挙に干渉したなんて、よく言うよ!ってことになるでしょうか。
私たちはいつも西側のニュースや論評でしかロシアに関する情報を見ていないし、それはつまるところアメリカにコントロールされた見え方でしか見えない情報だけを見ていることになるでしょう。從って、このプーチンインタビューのような、向こう側の人間が直接語る言葉を聞くと、別にその言葉を信じるのではないけれど、向こう側から見えるとどう見えるか、という景色がふっと垣間見える瞬間があります。
おそらく金正恩などについても同じことが言えるでしょう。私がどんなに残忍な人殺しの独裁者であったとしても、いやそうであればあるほど、内にはいつ暴動を起こすかもしれない飢えた人民やいつクーデターを起こすかもしれない軍をかかえ、外にはどう逆立ちしても勝てっこない圧倒的な軍事力を備えた敵国の脅しにさらされるような状況で考えることは・・・
もちろん金正恩は気に入らない部下を戦闘用の高射砲か何かで処刑するような人間だし、プーチンは他国に覆面匿名の兵を飛ばして侵略したり、テロ討伐の名のもとに圧倒的な武力で民族主義者を殺戮する指示を平然と出せる人物でもあるのでしょう。
こうしたビデオでその人物像に案外愛すべき一面を見出すのは、そのメディア戦略にのせられるだけだ、ときっとストーン監督もいまのアメリカでは随分敵が多いことでしょう。最後にプーチンが別れ際に「きみは殴られたことがあるかい?」と監督に尋ね、監督が戸惑いながら、あるよ、と答えると、笑って「(この映画を撮ったことで)また殴られるぞ」と言って去っていきました。
2018年04月27日
相国寺

前の前の職場が相国寺東門近くにあった、もとアメリカン文化センターの建物だったので、さすがに相国寺はときどき境内を歩いたり、若冲展をやったときに見に行ったり、長い間にはちょくちょく足を踏み入れています。
きょうは朝日新聞の朝刊の第1面で、いくつかのお寺が連携して行う春季の非公開文化財特別公開が今日から始まるという記事が載っていて、そこに境内の養源院にある秘仏毘沙門天立像のカラー写真が載っていて、これも見られるのはこれが最後だろうというわけで、散歩がてら歩いて相国寺まで行って、覗いてきました。
先に、はやりいま特別公開中の法堂に入ったのですが、狩野光信が描いたという天井の蟠龍図(とぐろを巻いて天に上る龍の姿)が大胆でラフな筆さばきで、何十枚もの天井板を並べたのへ描いているのがとても良かった。指定の位置で手を叩くと響いて龍が鳴くので「鳴き龍」と言われているそうですが、鳴いたのかどうかはよく分かりませんでした。でもこれまでみた天井画や障壁画の龍の中では、スケールが大きくて素朴で骨太な印象が好みでした。
ここの釈迦如来像は運慶作と伝えられているそうです。金色に輝き、華やかな光背を伴い、金ぴかの蓮の花の上にましますが、とても端正ないいお姿のお釈迦様です。
ここは御堂の中は撮影禁止です。

方丈。入口は右手のほうから。

方丈の前庭をみて西側へ回り込んだところ。
ここの襖絵はどれも見ごたえがありました。とくに惹かれたのは、維明周奎(いみょうしゅうけい)という江戸後期のお坊さんの老梅図。この人は墨梅が得意だったようです。伊藤若冲に絵を学んだとか。

前庭の白砂のありきたりの単純さより、苔あり岩あり樹木あり変化に飛んだこちらのほうが楽しい。

でもまあ、この方丈の庭はどうってことのないものでした。

これは浴場。ここも公開していて、法堂や方丈と同じ件で見ることができました。ここも撮影禁止ですが、昔の風呂など見るのは面白いですね。三つくらい大きな窯があって下の竈に薪をくべて湯を沸かすのでしょう。結構大掛かりなものでした。

養源院の入り口。ここは別途料金が必要です。庭につっかけが置いてありますが、そこへ出るためにはお茶席へ行かなくてならず、そのためには入場料とは別にさらに1000円が必要です。お寺さんも最近は稼ぐのに忙しそうです。
朝日新聞に載っていた、金色の被り物を頭にのせ、左手に武器(戟~げき~)を持って餓鬼を踏んづけて立つ身の丈170cmほどの彩色寄木造りの毘沙門天は、なかなかいい姿をしています。鎌倉時代前期に慶派仏師の手で造られたとのこと。
この毘沙門天は、宝暦13年(1763年)に奈良屋与兵衛という今出川飛鳥井町に住んでいた人の夢枕に三夜続いて現れ、ここから東の方角の大寺にわが像があるが長年忘れられていることが遺憾である、お前は信心深いからわが像を修復し、参拝させよとお告げがあったそうで、与兵衛が東の大寺つまり相国寺に相談したところ、毘沙門天王がみつかったので、これを修理して開帳したところ、京の街で大評判になって連日参拝客で賑わったと言います。(京都古文化保存協会発行「拝観の手引」による)

近衛家の別邸桜御所から移築されたという書院(相和亭)にコンパクトな池庭の隅に茶室道芳庵があって、お坊さんが茶をたててくれます。茶器も誰某ゆかりの由緒ある品を模してつくられたものとかで説明があり、いただくおじさま、おばさま方はははぁ、ほほぅ、と有難く三拝九拝していたいておられます(笑)。私は元来、堅苦しいのももったいぶったのも御免被りたいタチなので、ただ庭へ降りてみたいだけで、なけなしの1000円を払って茶室へ(笑)。庭はごくコンパクトなこぢんまり整えられた庭でした。
茶室の脇の流れ(地下水をくみ上げて流しているらしい)から引いた手水鉢があって、そこに水琴窟がしつらえてあるらしくて、キンコンと高い金属的な音が聞こえるか聞こえないか分からないくらいかすかにそういえば聞こえるのですが、流れの音が邪魔してか、ほかのお寺でこの間、何度か耳にしてきた、見えずとも静寂の中に美しく響くあの響きには比ぶべくもありませんでした。

これは境内にある承天閣美術館の入口脇の石組で、この背後には細長い美術館の庭があります。
ここも、本堂などの特別拝観800円とは別途、「美術館ですので」とのことで、また800円とられます。でも、ここは見ごたえがありました。
私が時間をかけて全部仔細に見て回ったのは、今回このギャラリーでした。維明周奎の障壁画で梅を見たあとでしたが、永公の墨梅図もとても良かったし、ちょっと坊さん的な理の勝ち過ぎたような(つまり「わざとらしい」)一休の梅図も人柄が見えるようで面白かった。でもあぁいう「意味」を込め過ぎた絵画というのはどうなんでしょう。ここでも維明周奎の雲梅図はとても良かった。
伊藤若冲の鳳凰図と彼がそれを描くのにそっくりまねっこした林良の鳳凰石竹図を並べて掛けてあったのは展示としてすごく良かったし、面白かった。こういうのは相国寺しかできなかったでしょう。もっとも若冲が好きなわけではなくて、イラストレーターみたいなものだと思っているのですが(笑)。
応挙(柘榴鷹図、牡丹孔雀図、薔薇文鳥図、朝顔図)や等伯(竹林猿猴図屏風)はさすがだと見惚れてしばらく動けなかった。とにかくこの展示はひとつひとつじっくり見て行かざるを得ないような作品ばかりでした。やっぱり長い歴史の中で時の権力と結びついて自ら大きな権力を持ち、財を持ち、人脈を持つ中で残されてきた文化遺産の質というのは大変なものだな、と思いました。

帰りは御霊社へ寄ってから出雲路橋を渡って下鴨神社へ出て、川端へ戻ろうとしたところで、ものすごいスコールに遭いました。雷まで光るは鳴るはで、傘を持ってきてはいたけれど、超ミニサイズのジコチュー傘なので、さしていてもびしょぬれ。
これは降るちょっと前の出雲路橋を渡るときに両側をとった写真。

等持院

きょうは市バス204で白梅町までいき、京福の北野線で一駅だけ乗って等持院へ。ここまで来ると大学を出たてのころに、先輩に誘われてこの近くにあった塾で教えに松ヶ崎から通っていて、とうとう塾と塾生が通う山城高校の門の前に下宿を変わって住んだころのことを思い出さずにはいられません。
それでも等持院へ一度も足を踏み入れたことはなかったのですが・・・

いま等持院は本堂や茶室も解体的な工事中のようで、シートがすっぽりかぶされたり、大工さんが声を掛け合いながらトントンやっていました。それで、観られるのは庭だけ。

でも門をくぐったところで、予期しなかったマキノ省三の像に出くわして、ここに映画の撮影所がつくられていたことを知りました。三つ折りチラシには、方丈がロケに使用されてかなり破損した、というようなことが書いてありました。

書院の縁からつっかけで降りられるようになっていて、庭園内を散策することができました。いまは新緑がほんとうに美しい。池には大きな鯉がいました。

曇っていた昨日と違って、きょうは朝から青空が広がって気持ちのよい一日でした。

回遊式庭園のいいところは、色んな角度から庭が眺められること。以前は衣笠山を借景にしていたそですが、裏に立命館大学の校舎が建って視界が遮られたので、背の高い樹木によって囲ったのだそうです。このそばに有楽椿(侘助)という大きな椿の木がありました。花は寒の頃から春先だそうです。こちらは芙蓉池というらしい。

けっこう広い庭園でした。夢窓国師の作庭と伝えられているそうです。名前(夢窓疎石)は日本史の教科書に出て来ていたんじゃなかったかな。禅宗のお坊さんで、こういう池泉式の庭園を各地に残した人のようですね。いくつかのお寺でその名を見てきたように思います。

池の表にも木々の緑が映って、ほんとうにゆっくり歩いていると、身も心も緑に浸り、緑に染まっていきそうなお庭でした。

花はさつきがちょっとあるくらいで、ひたすら緑、緑、また緑(笑)

ほかに人もいなくて、ひとりで庭を歩き回っていました。

やっぱりちょっとこんなアクセントがあるといいですね。

草書体の心の字をかたどって作られたという心字池というのらしいです。左手は中ノ島で、池に突き出ていて、以前は妙音閣というのがあったそうですが、いまは礎石を残すのみ。

寺を出てからくるっと裏へ廻ってみたら、細い小道を隔ててすぐに立命館大学の校舎が立ち並んで学生さんたちが次々に自転車で出て来て、警備の人が角ごとに一人、二人と立って、左側を一列に走ってください、とか声をかけていました。
ここはまっすぐの道ですが、少し行くと曲がって住宅街の曲折の多い、しかも下り坂を自転車が次々にかなりのスピードで走るので、歩いているとちょっと怖い。大学がこちらに移ってきて、この地域の住民は静寂な環境を失ったところがあるでしょう。大学のほうもきっと気をつかって、学生たちの通学が近所の迷惑になったり事故を起こしたりしないように警備の人を雇っているのでしょう。おどろくほど多くの警備員が大きな道路へいきつくまで、角ごとに立っていました。
帰りは歩いて白梅町まで戻り、バスで帰ってきました。