2018年02月
2018年02月28日
<死>の微分
「<死>の構造」を論じて吉本さんがいたく感心して、吉本さん流に紹介していたフーコーの「分布としての<死>」という考え方はとても面白いと思いましたが、それは自分なりに考えてみると、死の概念を微分してみようじゃないか、ということではないかと思い、先日そんなことを書きました。
死を時間的・空間的な一瞬の切断だと考えずに、その「一瞬」とか微細な空間性というのを、さらに微細な部分に分割することで動態化しよう、そうすれば、私たちが死を他人の死としてしか体験できず、自分の死と他人の死とがつねに分裂し、矛盾としてある、というのではなくて、もう少し自分の体験として死という概念を追い詰めていけるんじゃないか、ということだと思います。
少し俗化することになるかもしれませんが、ふつう、生きて死ぬことを単純な曲線みたいなもので描いて説明するとき、生命曲線というのか、誕生を原点にとれば、そこから曲線が立ち上がって、生命活動を表わす指標が縦軸、時間の経過なり生命活動の展開される空間なりが横軸だとすれば、はじめのうちどんどん曲線が正の傾きをもって上昇していって、壮年のあたりでプラトー(高原状の安定)に達して、そこからはもうどんどん降下線を描いていって、どこかでプツンと途切れてしまう・・・という感じでしょうか。
たしかに、生命を外側から、いわば人間と死とが向き合っているのを第三者的な視点から眺めていればそういうことになりますが、その線の内側にいる人間というのか、その線を生きている人間にとっては、その客観的な線なんてものは存在しないので、刻々の生が刻んだ痕跡に過ぎません。
いまここにこうして「ある」自分というのは、言ってみれば瞬時に生まれ瞬時に消える点のようなもので、それも実在の鉛筆の炭素で描かれたサイズのある点ではなくて、数学的に考えられたサイズのない点のようなもので、一瞬そこに「ある」かと思い、とらえたかと思えば既に「ない」ような何かではないでしょうか。「ない」ならばそれはもちろんイコール死だと言ってもいいわけで、そのつど私たちは一瞬前のわたしの死によって生を成り立たせているわけで、生と死は私が生きることにおいて、どちらでもあり、どちらでもない、まるで粒子でもあり波でもある光のように不確定性原理に支配されたものなんだろうと思います。
ただ、そういうありようと言うのは、別に神秘的なことでも何でもなくて、世の中の運動というのはすべからくそのようなもので、過去の偉人たちがそういう軌跡、つまり私たちの生の痕跡にすぎないものから生の動態的なありようを再現する方法を編み出してくれたわけで、それが曲線の接線の傾きの変化を追い詰めて到達する微分という概念ではないかと思いますがどうでしょう。
こういう死生観からどんな生き方の指針が見出せるのかは興味深いところです。
サルトルの「死」は、ここでいうような「死」を捨て去る、いわば思慮の外に置くことで「生」を導いているでしょうし、ハイデッガーの「死」はつねに「死」をいわば3歩先にみながら歩く「覚悟」の伴う「生」を導いているとすれば、フーコーの「死」は吉本さん流に言えば、過程としての死であり、分布としての死なので、のこりの生を全うせしめよ、ということになり、吉本さんは臓器移植に批判的です。
微分としての死は、同時に微分としての生をもたらすでしょうから、一瞬一瞬の生又は死がすべて。どのような人の生=死も等価であり、儚く、同時に無限の価値を備えることになるのではないかと思います。
ぼんやりしているときそんな妄想をしてみました(笑)。
死を時間的・空間的な一瞬の切断だと考えずに、その「一瞬」とか微細な空間性というのを、さらに微細な部分に分割することで動態化しよう、そうすれば、私たちが死を他人の死としてしか体験できず、自分の死と他人の死とがつねに分裂し、矛盾としてある、というのではなくて、もう少し自分の体験として死という概念を追い詰めていけるんじゃないか、ということだと思います。
少し俗化することになるかもしれませんが、ふつう、生きて死ぬことを単純な曲線みたいなもので描いて説明するとき、生命曲線というのか、誕生を原点にとれば、そこから曲線が立ち上がって、生命活動を表わす指標が縦軸、時間の経過なり生命活動の展開される空間なりが横軸だとすれば、はじめのうちどんどん曲線が正の傾きをもって上昇していって、壮年のあたりでプラトー(高原状の安定)に達して、そこからはもうどんどん降下線を描いていって、どこかでプツンと途切れてしまう・・・という感じでしょうか。
たしかに、生命を外側から、いわば人間と死とが向き合っているのを第三者的な視点から眺めていればそういうことになりますが、その線の内側にいる人間というのか、その線を生きている人間にとっては、その客観的な線なんてものは存在しないので、刻々の生が刻んだ痕跡に過ぎません。
いまここにこうして「ある」自分というのは、言ってみれば瞬時に生まれ瞬時に消える点のようなもので、それも実在の鉛筆の炭素で描かれたサイズのある点ではなくて、数学的に考えられたサイズのない点のようなもので、一瞬そこに「ある」かと思い、とらえたかと思えば既に「ない」ような何かではないでしょうか。「ない」ならばそれはもちろんイコール死だと言ってもいいわけで、そのつど私たちは一瞬前のわたしの死によって生を成り立たせているわけで、生と死は私が生きることにおいて、どちらでもあり、どちらでもない、まるで粒子でもあり波でもある光のように不確定性原理に支配されたものなんだろうと思います。
ただ、そういうありようと言うのは、別に神秘的なことでも何でもなくて、世の中の運動というのはすべからくそのようなもので、過去の偉人たちがそういう軌跡、つまり私たちの生の痕跡にすぎないものから生の動態的なありようを再現する方法を編み出してくれたわけで、それが曲線の接線の傾きの変化を追い詰めて到達する微分という概念ではないかと思いますがどうでしょう。
こういう死生観からどんな生き方の指針が見出せるのかは興味深いところです。
サルトルの「死」は、ここでいうような「死」を捨て去る、いわば思慮の外に置くことで「生」を導いているでしょうし、ハイデッガーの「死」はつねに「死」をいわば3歩先にみながら歩く「覚悟」の伴う「生」を導いているとすれば、フーコーの「死」は吉本さん流に言えば、過程としての死であり、分布としての死なので、のこりの生を全うせしめよ、ということになり、吉本さんは臓器移植に批判的です。
微分としての死は、同時に微分としての生をもたらすでしょうから、一瞬一瞬の生又は死がすべて。どのような人の生=死も等価であり、儚く、同時に無限の価値を備えることになるのではないかと思います。
ぼんやりしているときそんな妄想をしてみました(笑)。
saysei at 12:57|Permalink│Comments(0)│
2018年02月27日
陳凱歌監督「空海ーKU-KAI-美しき王妃の謎」を観る
映画を見る前も見始めてからも、悪い予感はありました。不幸にもそれらの幾つかの予感は全部当たってしまいました。この映画、全然予備知識なく、たまたま今日は気休めに映画でも見にいこうかな、と思って出町座のスケジュールを見たら、いい時間のが少し暗そうな映画だったので、気休めに見るのにいくらいい映画でも暗いのはよそう、というので、エンタメ系がよかろう、と思って目いっぱいエンタメ系でありそうな大々的広告を打っていたこの映画にしたのですね。MOVIX京都まで行ったのですが、やっぱりあらかじめちゃんと調べて行くべきでした。
まず少し前にテレビの世界ふしぎ発見!にゲストで染谷将太が出ていて、私はこの俳優さんは顔は見たことがありましたが、全然知らなかったので、へぇ、この人が空海をやるのか。うんと若いときの空海だとしても、私の描いていた逞しく貪欲な自信過剰なくらいふてぶてしく、目力のすごい(はずの)空海とはずいぶんかけ離れた、ひどく柔和な弱そうな現代青年風の空海さんだなぁ、と思っていたのですが、プロの俳優さんだから、役になればがらっと雰囲気を変えて来るのかな、という期待もありました。でも期待ではなくて、予感のほうが当たりました。
次に、映画がはじまると、製作が角川だ、というのが最初にわかって、あ、これは例のブロックバスター方式とかって、いろんなメディアを総合的に使って宣伝費に法外な金を費やしてメジャーな全国の映画館に大量動員をかけて採算をとる、米国式経営の持ち駒の一つとしての映画であって、作品としての質とかは問わないタイプの映画製作なんじゃ・・・まさかしてないやろな、と悪い予感がしました。これも大当たり。
それから監督の陳凱歌については、中国のことに関心をもっていたころ、「さらば、わが愛/覇王別記姫」を見て、その時の印象はそう悪くは無かったと記憶していたのですが、この監督ではほかに何だったかつまらない作品も2本くらい見たことがあって、これはまぁリスクがフィフティ・フィフティと思っていました。
でも原作が夢枕獏だと知って、あ、これは伝奇映画か・・・とまたあまり嬉しくない予感。これも当たりました。
伝奇小説、伝奇映画、伝奇的なものが嫌いというわけではありません。「西遊記」なんか大好きだし、なにしろラジオの新諸国物語で「笛吹童子」とか「紅孔雀」を毎夕夢中になって聞いて育ってきた世代ですし、児雷也とオロチマルとなめくじ姫の三すくみの戦いの絵入り活劇を少年雑誌で読んだり、その主人公が描かれたパッチン(めんこ)で遊んだ記憶もある、忍術より幻術が好きだった世代なので、そういうものにワクワクする感覚は備わっているのです。
それに同じ伝奇的な物語を描いた映画作品でも、古くは真田広之をはじめ若い爽やかな俳優陣が演じた深作欣二の「里見八犬伝」のような素晴らしい伝奇エンターテインメントもあって、高く評価していたし、今回の空間と同じ夢枕獏の原作でも、滝田洋二郎の「陰陽師」のように、わりと面白く見せてくれる作品もあったのですから、中国元で1.3億(日本円なら22億円ですか)もかけて、あれだけ大層なCGやら仕掛けをつくるなら、もうちったぁマシな作品ができようはずじゃねぇのか、と思いました。
伝奇的なものは何でもありだから、下手をすると本当にもうどうしようもないものになってしまう。そして、この映画はまさにそういうものになってしまいました。
最初のクレジットのところに戻ると、もうひとつ。中国人の役者名のあとに、高橋一生をはじめ、なんだか人気の日本人俳優の名前が、どうやら「声」として掲げてある!え?まさかしてこれ、吹き替え?!まさにそうでした。化け猫の吹き替えは許せるけど(仕方ないもんね)、なんで玄宗や楊貴妃や白楽天が日本語で喋らなくちゃいけないんだ?!
そういえば大学で講義のときちょっと洋画を見せたりすると、驚いたことに授業ごとに毎回やっていたアンケートで、「吹き替え版で見せてください!」という要望がものすごく多かったのを思い出しました。教室ではほんとうの暗闇が作れないので、画面の文字が見にくいからだろうな、とはじめのうちは思って同情していましたが、長年やっているうちに、どうやらそうではないらしいことに気づくようになりました。
彼女たちは字幕を、それが出て消えるまでの間に読めないのです!字幕は、幾人かしかいないプロの字幕専門の翻訳家がその経験と大変な語学力と日本語能力を最大限発揮して、たったあれだけの限られた字数に原語の内容を適切に一発でわかる日本語に集約する至難の技だと思いますが、その凝縮され、けっこう漢字も多いあの日本語をぱっとひと目みて読み取る力が、もういまの若い日本人の多くには備わっていないのだ、という衝撃的な事実に気付いたのです。
だからいまやテレビはもちろん、ミニシアターコンプレックスなんかへ行っても、最初から吹き替え版をスクリーンでやっていて、若い人はむしろそっちを選んで観ていたりします。私などはそんなもの見ても、本物の映画を見たような気がしませんが・・・だって主役の声も語りも全然違うんだもん・・いまはそういう時代になってしまったのでしょう。
これはひょっとして・・・と最悪の予感がしましたが、案の定、中国詩人・白楽天はたしか高橋一生でしたっけ、達者な日本語でしゃべっておりました!それで例えば、声が高橋一生ダワ!キャァーッ!って若い女性ファンは大喜びするんでしょうかね。
・・・・原作は知らないけれど、脚本が悪い。テンポもかったるくて演出がひどくて、役者の演技もかみ合わず、空海とか楊貴妃とか白楽天とか阿倍仲麻呂とかの名は単なる記号であって、歴史的なその名の実体とは関わりがなく、名はまったく体を表わさず、絶世の美女楊貴妃は美しからず、玄宗皇帝は皇帝らしからず、空海は空海らしからず、音楽もひどく、どこに希望を求めればよいのか観客としてはシニア1100円の価値をどこに見出せばよいのか、ついに不明のまま映画館を呆然として出てきました。
ポトラッチではないけれど、特撮のセットやらCGやら大々的宣伝に膨大な投資をしてお金をどぶへ捨てたことが世の為人の為ということであるのか・・・う~ん、強いてひとつだけ、まだよい所があったな、と思えた例外は演じ手のなかにありました。
もちろんこの作品の物語の中での主人公と言っていい、あの黒猫ちゃんですね。あの子が妖しい眼をしてカーッと怒りを爆発させるシーンなんかは迫力がありました。もともとこの映画の中国名原題は「妖猫伝」ですから、主役は空海でも白楽天でも楊貴妃でもない。一匹の化け猫なんですね。当然邦題も「妖猫伝」あるいは「化け猫伝」とすべきでした。そして、ちゃんとわれわれ観客を化かしてほしかった。
まず少し前にテレビの世界ふしぎ発見!にゲストで染谷将太が出ていて、私はこの俳優さんは顔は見たことがありましたが、全然知らなかったので、へぇ、この人が空海をやるのか。うんと若いときの空海だとしても、私の描いていた逞しく貪欲な自信過剰なくらいふてぶてしく、目力のすごい(はずの)空海とはずいぶんかけ離れた、ひどく柔和な弱そうな現代青年風の空海さんだなぁ、と思っていたのですが、プロの俳優さんだから、役になればがらっと雰囲気を変えて来るのかな、という期待もありました。でも期待ではなくて、予感のほうが当たりました。
次に、映画がはじまると、製作が角川だ、というのが最初にわかって、あ、これは例のブロックバスター方式とかって、いろんなメディアを総合的に使って宣伝費に法外な金を費やしてメジャーな全国の映画館に大量動員をかけて採算をとる、米国式経営の持ち駒の一つとしての映画であって、作品としての質とかは問わないタイプの映画製作なんじゃ・・・まさかしてないやろな、と悪い予感がしました。これも大当たり。
それから監督の陳凱歌については、中国のことに関心をもっていたころ、「さらば、わが愛/覇王別記姫」を見て、その時の印象はそう悪くは無かったと記憶していたのですが、この監督ではほかに何だったかつまらない作品も2本くらい見たことがあって、これはまぁリスクがフィフティ・フィフティと思っていました。
でも原作が夢枕獏だと知って、あ、これは伝奇映画か・・・とまたあまり嬉しくない予感。これも当たりました。
伝奇小説、伝奇映画、伝奇的なものが嫌いというわけではありません。「西遊記」なんか大好きだし、なにしろラジオの新諸国物語で「笛吹童子」とか「紅孔雀」を毎夕夢中になって聞いて育ってきた世代ですし、児雷也とオロチマルとなめくじ姫の三すくみの戦いの絵入り活劇を少年雑誌で読んだり、その主人公が描かれたパッチン(めんこ)で遊んだ記憶もある、忍術より幻術が好きだった世代なので、そういうものにワクワクする感覚は備わっているのです。
それに同じ伝奇的な物語を描いた映画作品でも、古くは真田広之をはじめ若い爽やかな俳優陣が演じた深作欣二の「里見八犬伝」のような素晴らしい伝奇エンターテインメントもあって、高く評価していたし、今回の空間と同じ夢枕獏の原作でも、滝田洋二郎の「陰陽師」のように、わりと面白く見せてくれる作品もあったのですから、中国元で1.3億(日本円なら22億円ですか)もかけて、あれだけ大層なCGやら仕掛けをつくるなら、もうちったぁマシな作品ができようはずじゃねぇのか、と思いました。
伝奇的なものは何でもありだから、下手をすると本当にもうどうしようもないものになってしまう。そして、この映画はまさにそういうものになってしまいました。
最初のクレジットのところに戻ると、もうひとつ。中国人の役者名のあとに、高橋一生をはじめ、なんだか人気の日本人俳優の名前が、どうやら「声」として掲げてある!え?まさかしてこれ、吹き替え?!まさにそうでした。化け猫の吹き替えは許せるけど(仕方ないもんね)、なんで玄宗や楊貴妃や白楽天が日本語で喋らなくちゃいけないんだ?!
そういえば大学で講義のときちょっと洋画を見せたりすると、驚いたことに授業ごとに毎回やっていたアンケートで、「吹き替え版で見せてください!」という要望がものすごく多かったのを思い出しました。教室ではほんとうの暗闇が作れないので、画面の文字が見にくいからだろうな、とはじめのうちは思って同情していましたが、長年やっているうちに、どうやらそうではないらしいことに気づくようになりました。
彼女たちは字幕を、それが出て消えるまでの間に読めないのです!字幕は、幾人かしかいないプロの字幕専門の翻訳家がその経験と大変な語学力と日本語能力を最大限発揮して、たったあれだけの限られた字数に原語の内容を適切に一発でわかる日本語に集約する至難の技だと思いますが、その凝縮され、けっこう漢字も多いあの日本語をぱっとひと目みて読み取る力が、もういまの若い日本人の多くには備わっていないのだ、という衝撃的な事実に気付いたのです。
だからいまやテレビはもちろん、ミニシアターコンプレックスなんかへ行っても、最初から吹き替え版をスクリーンでやっていて、若い人はむしろそっちを選んで観ていたりします。私などはそんなもの見ても、本物の映画を見たような気がしませんが・・・だって主役の声も語りも全然違うんだもん・・いまはそういう時代になってしまったのでしょう。
これはひょっとして・・・と最悪の予感がしましたが、案の定、中国詩人・白楽天はたしか高橋一生でしたっけ、達者な日本語でしゃべっておりました!それで例えば、声が高橋一生ダワ!キャァーッ!って若い女性ファンは大喜びするんでしょうかね。
・・・・原作は知らないけれど、脚本が悪い。テンポもかったるくて演出がひどくて、役者の演技もかみ合わず、空海とか楊貴妃とか白楽天とか阿倍仲麻呂とかの名は単なる記号であって、歴史的なその名の実体とは関わりがなく、名はまったく体を表わさず、絶世の美女楊貴妃は美しからず、玄宗皇帝は皇帝らしからず、空海は空海らしからず、音楽もひどく、どこに希望を求めればよいのか観客としてはシニア1100円の価値をどこに見出せばよいのか、ついに不明のまま映画館を呆然として出てきました。
ポトラッチではないけれど、特撮のセットやらCGやら大々的宣伝に膨大な投資をしてお金をどぶへ捨てたことが世の為人の為ということであるのか・・・う~ん、強いてひとつだけ、まだよい所があったな、と思えた例外は演じ手のなかにありました。
もちろんこの作品の物語の中での主人公と言っていい、あの黒猫ちゃんですね。あの子が妖しい眼をしてカーッと怒りを爆発させるシーンなんかは迫力がありました。もともとこの映画の中国名原題は「妖猫伝」ですから、主役は空海でも白楽天でも楊貴妃でもない。一匹の化け猫なんですね。当然邦題も「妖猫伝」あるいは「化け猫伝」とすべきでした。そして、ちゃんとわれわれ観客を化かしてほしかった。
saysei at 23:02|Permalink│Comments(0)│
2018年02月23日
蓮華寺
蓮華寺は拙宅から京都バスの大原行に乗って、十分くらいでしょうか、岩倉方面へいくのと道が分かれてすぐの三宅八幡の次の停留所、上ノ橋ってバス停で降りてすぐ、市内から八瀬・大原へいく自動車道のすぐ脇にあります。実はきょうは片道徒歩で、十分歩いていけることが分かりました。長年京都に住みながら長い間行ったこともなかったのです。
でも一度訪れてからは、私の魂の隠れ家みたいな場所になりそうです。
きょうは私のほかに誰一人訪れる人もなく、ひとりで2時間くらい、お座敷でぽけーっと庭を眺めて過ごしました。
スケッチブックを取り出して、庭の光景を一所懸命スケッチしましたが、絵はもともと下手だし、練習したこともないので、30分くらい描いた結果、汚いくねくねの線が画面いっぱいにあるだけの落書きにしかなりませんでした。ちょっとスケッチができくらいはトレーニングしておくのだったなぁ・・
私が座敷に入って行ったとき、池の畔で水面を覗き込んでいた大きなクロサギが羽ばたいて飛んで行きました。近くで見るとすごく大きいですね。池には大きな錦鯉が棲んでいるので、それを狙っているのかな、と思いましたが、帰りに若いお坊さんがおっしゃるには、池には小さい魚も入っているので、それを食べられてしまうので、もし来ていたら追い払わないといけないのです、とのこと。ずいぶん貪食らしいのです。
この柱と縁の佇まいも素敵です。この縁側に腰をおろして、きょうは暖かな陽射しでぽかぽか、とっても気持ちが良かった。
縁側に木漏れ陽が射してまだら模様。ちょっとした光景がどれも好みです。
スリッパをはいて本堂へ渡るのに、板敷きの回廊がしつらえてあります。苔もほどよく岩や木々の間を柔らかにうずめる緑が綺麗で・・・お洒落な若い人がここを渡って行くだけで素敵な絵になる場所でした。
池では、むこうに見える石橋が好き。あの世へいく橋なのかな?(笑)
小さくしかみえないけど、このお寺の灯籠の頭は急傾斜でちょっと特色があるのです。
蔵の入り口がちょっと覗いていたりして・・・毀れそうな古びた重々し気な扉。
蔵の横の苔のひろがるところも、とても綺麗。
縁の端にお手洗いがあって、その前に手水が・・ 注水する竹筒の突き出した鋭い切っ先がいいな。
天然石の手水鉢越しの庭、石橋。
ふと気づくといつの間にか、わたしのすぐそばに誰かが座っていて、ただ一緒に庭を眺めている、そんな錯覚を覚えました。何も言わず、ただじっとそこに座って、私の心に寄り添っていてくれるだけだけれど。もちろん老人性幻覚(笑)。
鐘楼には不釣り合いなほど大きな苔生した屋根がかぶさっていました。
これは門を入ってすぐ左手にあるお地蔵様大集合の館。
お帰りはこちら。大きめの敷石を敷き詰めた門までの一直線が美しい。
贅沢な時間が過ごせました。素敵な想いでのほかには何も要らない。
バベットの晩餐会のラストで、バベットが有り金をすべて一夜の祝いの食卓に費やしたことを知った老女が、天国へ持っていけるのはあなたが与えたものだけよ、と聖書の言葉を言う素敵な場面があります。とても好きな場面、好きな言葉で、帰り道、あのシーンを思い出しながら歩きました。
saysei at 22:43|Permalink│Comments(0)│
2018年02月20日
相原英雄監督「あしたはどっちだ、寺山修司」
出町座の2階で上映していた「あしたはどっちだ、寺山修司」を見てきました。
寺山修司が亡くなる瀬戸際まで実現したいと構想していた企画(街頭劇)とはいかなるものだったか、かつての妻九条今日子(映子)の「秘密は青森にある」という言葉に導かれるように、その問いに答えようとかつての天井桟敷の団員や寺山の学校時代の友人等々の話を聴いてまわり、寺山の生涯の足跡をたどって、寺山が破っては継ぎ合わせた家族写真の中で、唯一破らなかった、満開の桜の樹の下で、赤ん坊の寺山が祖母に抱かれ、幸せな家族そのままに両親のそろった家族写真に行き着くまでのドキュメンタリー。
私は寺山の良い読者ではないけれど、この映画は面白かった。寺山が天井桟敷や2度の街頭劇で演じた「劇」は、いまこういうドキュメンタリーのモノクロ映像で当時彼の影響下にあった若い演劇人たちやそのパフォーマンスに巻き込まれた観客や路上の人々の姿を見、とりわけ当時のトンガッタ若い演劇人であったような今はおじさんたちである人たちの口を通して聞くと、或る時代の状況と切り結んだ先端的な表現であったものが、時代の空気が失せ、曖昧模糊とした霧が晴れた後には、すっかり色あせて、ほとんど児戯に等しいドタバタ劇であったかのように見えてしまうのは、果して映画の制作者の意図したことかどうか・・・。
そんなふうに見えるのは、或いは私(たち)が今の時代の秩序にどっかりと腰を落として過ぎ去った時代をスタティックな絵巻のように繙いているからかもしれません。たとえ一瞬でも社会的な秩序の一端を切り裂いて、<ここではないどこか>の光景を垣間見させるようなアーチストの行為というのは、いつでも凡人からはそんなふうに見えるのかもしれない。ただ、今回この映画を見て、そんな風に見えるのは彼にも責任があるな、というふうに感じました。
それは、彼が街頭演劇に打って出るとき、演者と観客との境界を消そうと考えていたらしいことをこのドキュメンタリーが教えてくれたからです。舞台の上にあげれば、何でも許される。ならば現実を、街そのものを舞台にしてしまうことで、現実を変えてしまおうじゃないか、彼はそんなふうに考えたのだと、当時バイプレヤーであった登場人物たちが語り、映画の作り手もどうやらそう考えているらしいのです。
寺山修司がそう考えていたかどうかは、正確なところ彼をちゃんとたどったことのない私には分からないので、留保は必要ですが、彼の表現が劇場の舞台であれ、街自体を劇場とみなして街路を舞台としたものであれ、現実と虚構を区別する仮構線は劇の生成に不可欠な必要条件で、その消失は劇の消失にほかならないのは自明のことで、もし彼がそれを望んだとすれば、彼の劇は解体劇ではなくて、劇の解体にすぎなかったでしょう。
このドキュメンタリーが謎解きのように追い詰めていって明らかにしていく寺山が最後にもう一度やりたがっていた街頭劇は、現実の街へ劇団員が、何年もその土地に入り込んで根づき、決定的な時にその役割のために本性を顕わして立ち上がる忍者たちのように入り込み、当たり前の職業に就き、地域の人たちと関係を取り結び、例えばバスの運転手になって、あるとき日常的なルートを外して全然別のところへ乗客を乗せたまま行ってしまう、というようなパフォーマンスを、一斉にか逐次的にかやっていくような、町全体をハイジャックして、日常的なルールやそこに働く慣性の法則から逸脱するようなパフォーマンスを実現する、というようなものだったらしい。
それはとても面白い妄想ですが、その延長上に登場人物たちがしばしば使う「革命」なんてものは無いし、こうした「劇」によって寺山を「革命家」と評することには首を傾げざるを得ませんでした。
生身の人間であれ、街路であれ、街全体であれ、それを実際の、あるいは仮構された「舞台」にのせる限りは、それは幻想としての人間であり、幻想としての街路であり、幻想としての街なのであって、これを現実の生身の人間、街路、街と混同することは、原理的な誤謬に過ぎません。そうした劇を体験することを通じて、人々の現実を見る眼差しが変わり、現実への関わり方が変わることはあるでしょう。けれどもそれは人々の多様性のままに、多様な、いわば勝手気ままな形でそうあり得る、というだけのことで、劇が革命なのでも、革命を引き起こせるわけでもないのは自明のことです。ただ人々が日常的な惰性の思考を揺るがされ、<ここではないどこか>の光景を幻視するような瞬間を体験する、ということを比喩的に「革命」と呼ぶなら、寺山に限らず、また劇場の中の舞台であろうと街を舞台にしようと、演劇人ならだれでもなしとげようと常に挑んでいるでしょう。
彼の街頭劇が多くの観客を巻き込み、一種の小さな騒擾の渦を作って、警察の規制を受けたというようなことをもって、反権力とか革命とかいうのは滑稽なことで、警察はただ無許可な街頭集団行動を規制し、道路交通法違反だとか、軽犯罪法違反だとかの、個別の実際の行為の違法性を問うたに過ぎないでしょうし、寺山の街頭劇のほうもこうした法の思想自体に挑むような思想性を備えていたようには見えません。それは、彼の最後の町全体を舞台とする街頭劇が彼の個人幻想の繰り出す仮構線の延長上に広がるものではあっても、それをどれだけ延長しても革命になど行きつくはずもないのと同様だと思います。
寺山のいた時代ならともかく、没後何年も経たいまつくられる作品であるなら、そうした寺山の足跡の意味は、現在の視点でクリアにされるべきだという気がします。それは決して寺山の優れた才能を貶めることにはならないはずです。
このドキュメンタリーの見どころは、彼の身近な人々から母親や祖母についての率直な証言を引き出し、彼の生い立ちを明らかにして、一枚の写真に行きつくあたりにあるように思いました。
もちろん一人の多才な作家の姿はその表現のうちに見出されるべきで、生まれ育ちの情報はただある種の作家への理解を確信させるための情報に過ぎないでしょうし、そこには私たちをひょっとすると新たに間違った物語へ導くものがあるかもしれませんが、私にはよくできた物語のように感じられました。
寺山修司が亡くなる瀬戸際まで実現したいと構想していた企画(街頭劇)とはいかなるものだったか、かつての妻九条今日子(映子)の「秘密は青森にある」という言葉に導かれるように、その問いに答えようとかつての天井桟敷の団員や寺山の学校時代の友人等々の話を聴いてまわり、寺山の生涯の足跡をたどって、寺山が破っては継ぎ合わせた家族写真の中で、唯一破らなかった、満開の桜の樹の下で、赤ん坊の寺山が祖母に抱かれ、幸せな家族そのままに両親のそろった家族写真に行き着くまでのドキュメンタリー。
私は寺山の良い読者ではないけれど、この映画は面白かった。寺山が天井桟敷や2度の街頭劇で演じた「劇」は、いまこういうドキュメンタリーのモノクロ映像で当時彼の影響下にあった若い演劇人たちやそのパフォーマンスに巻き込まれた観客や路上の人々の姿を見、とりわけ当時のトンガッタ若い演劇人であったような今はおじさんたちである人たちの口を通して聞くと、或る時代の状況と切り結んだ先端的な表現であったものが、時代の空気が失せ、曖昧模糊とした霧が晴れた後には、すっかり色あせて、ほとんど児戯に等しいドタバタ劇であったかのように見えてしまうのは、果して映画の制作者の意図したことかどうか・・・。
そんなふうに見えるのは、或いは私(たち)が今の時代の秩序にどっかりと腰を落として過ぎ去った時代をスタティックな絵巻のように繙いているからかもしれません。たとえ一瞬でも社会的な秩序の一端を切り裂いて、<ここではないどこか>の光景を垣間見させるようなアーチストの行為というのは、いつでも凡人からはそんなふうに見えるのかもしれない。ただ、今回この映画を見て、そんな風に見えるのは彼にも責任があるな、というふうに感じました。
それは、彼が街頭演劇に打って出るとき、演者と観客との境界を消そうと考えていたらしいことをこのドキュメンタリーが教えてくれたからです。舞台の上にあげれば、何でも許される。ならば現実を、街そのものを舞台にしてしまうことで、現実を変えてしまおうじゃないか、彼はそんなふうに考えたのだと、当時バイプレヤーであった登場人物たちが語り、映画の作り手もどうやらそう考えているらしいのです。
寺山修司がそう考えていたかどうかは、正確なところ彼をちゃんとたどったことのない私には分からないので、留保は必要ですが、彼の表現が劇場の舞台であれ、街自体を劇場とみなして街路を舞台としたものであれ、現実と虚構を区別する仮構線は劇の生成に不可欠な必要条件で、その消失は劇の消失にほかならないのは自明のことで、もし彼がそれを望んだとすれば、彼の劇は解体劇ではなくて、劇の解体にすぎなかったでしょう。
このドキュメンタリーが謎解きのように追い詰めていって明らかにしていく寺山が最後にもう一度やりたがっていた街頭劇は、現実の街へ劇団員が、何年もその土地に入り込んで根づき、決定的な時にその役割のために本性を顕わして立ち上がる忍者たちのように入り込み、当たり前の職業に就き、地域の人たちと関係を取り結び、例えばバスの運転手になって、あるとき日常的なルートを外して全然別のところへ乗客を乗せたまま行ってしまう、というようなパフォーマンスを、一斉にか逐次的にかやっていくような、町全体をハイジャックして、日常的なルールやそこに働く慣性の法則から逸脱するようなパフォーマンスを実現する、というようなものだったらしい。
それはとても面白い妄想ですが、その延長上に登場人物たちがしばしば使う「革命」なんてものは無いし、こうした「劇」によって寺山を「革命家」と評することには首を傾げざるを得ませんでした。
生身の人間であれ、街路であれ、街全体であれ、それを実際の、あるいは仮構された「舞台」にのせる限りは、それは幻想としての人間であり、幻想としての街路であり、幻想としての街なのであって、これを現実の生身の人間、街路、街と混同することは、原理的な誤謬に過ぎません。そうした劇を体験することを通じて、人々の現実を見る眼差しが変わり、現実への関わり方が変わることはあるでしょう。けれどもそれは人々の多様性のままに、多様な、いわば勝手気ままな形でそうあり得る、というだけのことで、劇が革命なのでも、革命を引き起こせるわけでもないのは自明のことです。ただ人々が日常的な惰性の思考を揺るがされ、<ここではないどこか>の光景を幻視するような瞬間を体験する、ということを比喩的に「革命」と呼ぶなら、寺山に限らず、また劇場の中の舞台であろうと街を舞台にしようと、演劇人ならだれでもなしとげようと常に挑んでいるでしょう。
彼の街頭劇が多くの観客を巻き込み、一種の小さな騒擾の渦を作って、警察の規制を受けたというようなことをもって、反権力とか革命とかいうのは滑稽なことで、警察はただ無許可な街頭集団行動を規制し、道路交通法違反だとか、軽犯罪法違反だとかの、個別の実際の行為の違法性を問うたに過ぎないでしょうし、寺山の街頭劇のほうもこうした法の思想自体に挑むような思想性を備えていたようには見えません。それは、彼の最後の町全体を舞台とする街頭劇が彼の個人幻想の繰り出す仮構線の延長上に広がるものではあっても、それをどれだけ延長しても革命になど行きつくはずもないのと同様だと思います。
寺山のいた時代ならともかく、没後何年も経たいまつくられる作品であるなら、そうした寺山の足跡の意味は、現在の視点でクリアにされるべきだという気がします。それは決して寺山の優れた才能を貶めることにはならないはずです。
このドキュメンタリーの見どころは、彼の身近な人々から母親や祖母についての率直な証言を引き出し、彼の生い立ちを明らかにして、一枚の写真に行きつくあたりにあるように思いました。
もちろん一人の多才な作家の姿はその表現のうちに見出されるべきで、生まれ育ちの情報はただある種の作家への理解を確信させるための情報に過ぎないでしょうし、そこには私たちをひょっとすると新たに間違った物語へ導くものがあるかもしれませんが、私にはよくできた物語のように感じられました。
saysei at 18:49|Permalink│Comments(0)│
タナダユキ監督「ふがいない僕は空を見た」
休憩をかねていつもレンタルビデオで何本か借りて来ておいては、見るときも見ないまま返してしまうこともあるけれど、たまたま昨日みた「ふがいない僕は空を見た」は日本映画では久しぶりにみる「面白い」映画でした。
不倫やマザコン亭主や変態やコスプレやネットを使ったリベンジポルノ?やできちゃった婚だの自然分娩だの幼児的な嬢ちゃん先生だの経済格差問題等々、もうありとあらゆる現代風俗のアイテムを詰め込んだ欲張った映画で、それはそれで現代日本風俗百科(百貨?百花?)として面白いし、いまの日本社会の戯画を笑ってみることのできる作品ですが、そういう面白おかしく、どうしようもない日常の中で、戯画を戯画として成立させる構造の要に位置する、アニメおたくのコスプレ不倫主婦「あんず」こと里美が、田畑智子という女優さんによって、とても生き生きと存在感を持って演じられていて、彼女の存在が戯画を戯画たらしめる批評性を支えていて、ほとんど彼女の魅力がこの作品の魅力だと言っていいほどです。
ただ、ごく普通の写実的なストーリー漫画よりもとんがった批評性のある漫画のほうが或る意味で難しいように、戯画というのはちょっとターゲットがずれたり、批評性のある笑いが受け手の通俗性に媚びる笑いに置き換えられたリすると、とたんに本当につまらない弛緩した空虚なポンチ絵になってしまうところがあって、なかなか難しいものだな、と思います。
中心的なところでそれを言えば、「あんず」が経済的にめぐまれ、外目には何不自由ない家庭の主婦として暮らす中で、夫への愛のない空虚な心をアニメやコスプレに向けていたのが、暗示される結婚以前の放埓の日々を封じ込めていたのを解き放つかのように、その欲望が若い(高校生の)卓巳との不倫に向けられていて、卓巳のほうは時にこんなことでいいのか、と躊躇するけれども、「あんず」にとってはきわめて自然な欲望の解放のように見ている者には見えるところがあります。ここでは彼女のそういうありよう、存在感自体が、アニメやコスプレという戯画的な小道具に彩られながらも、平凡で幸せそうな家庭を、夫婦関係、男女の関係に別の視角をもたらし、私たちが日々生きている日常性を根底から鋭く問い返すような批評性を孕むものになっています。
しかし、夫の母親があらわれて彼女に対峙し、すべてが露見していったとき、「あんず」が古典的な人妻のような姿で義母の前に跪き、不妊症を疑われる夫との子を授かるために三人で米国へ行くことになるという成り行きは、この戯画の批評性を損なってしまうような展開だと思わずには見ていられませんでした。前半の「あんず」なら、もっとカラッと爽やかに義母をやりすごすなり拒むなり跳ぶなりするでしょう。マザコン母子と嫁姑の関係に関しては、この映画の持つ批評性を孕んだ戯画から外れた、悪い意味でマンガチックなポンチ絵にしかなっていません。それは、批評のターゲットがまともにとらえられていないからです。
その存在そのものでこの作品にとってプラスの批評性を支えていたのは、「あんず」と、もうひとり、卓巳の親友、福田良太でしょうか。「あんず」に比べれば設定そのものが古典的で凡庸ではあるけれど、演じる窪田正孝の好演にも救われて、卓巳への批評性、卓巳を通して卓巳と里美への批評性を担保して、日常性への<変態>的視点からの批評性を相対化するいい位置を見せていたと思います。彼と行動を共にする純子役の小篠恵奈も良かった。
同じ意味合いで、原美枝子演じる穏やかな助産師寿美子(卓巳の母親)と訪れる身勝手な妊婦に歯に衣を着せぬ言葉を投げつける助手役の光代(梶原阿貴)がとてもいい対照的なコンビで、「できちゃった」をいとも簡単に見破られて慌てるお嬢さん先生と光代のやりとり場面などは声を挙げて笑ってしまいました。
自然分娩を望んで寿美子の自宅兼助産院を訪れる`自然’志向の妊婦あや(吉田羊演じる)が帰っていったあと光代がこの種の頭でっかちな’自然’主義者を罵る言葉や、お嬢さん先生とのやりとりの場面にみるような、いまの世の中で大手を振ってまかりとおっている、ご本人たちはそれがいいことのように思っていたり、別に悪い事とは思っていない、どこかおかしな足が地につかない借りものの思想のようなものの考え方、生きる上での姿勢、信条、あるいはそう大げさなものでないなら、彼らが「自然」のように思って呼吸している今の社会の空気みたいなものに対する、いくらかは地に足がついた人間の、まっとうな視線は、批評の対象も、その視線もありふれたものではあるけれど、こうして両者を対決させ、対比させる場面を作り出すことで、批評性を持った戯画として、クリアに浮かび上がってくるところがあります。
これがこの作品の良質の生地を作っていることは確かで、さらにそれを突き破るような形で、主軸の戯画を演じているのが「あんず」だと思います。「あんず」が最後までその戯画を演じ切れるような展開ができれば、この作品はちょっと凄みのある映画になったのではないか、という気がします。
不倫やマザコン亭主や変態やコスプレやネットを使ったリベンジポルノ?やできちゃった婚だの自然分娩だの幼児的な嬢ちゃん先生だの経済格差問題等々、もうありとあらゆる現代風俗のアイテムを詰め込んだ欲張った映画で、それはそれで現代日本風俗百科(百貨?百花?)として面白いし、いまの日本社会の戯画を笑ってみることのできる作品ですが、そういう面白おかしく、どうしようもない日常の中で、戯画を戯画として成立させる構造の要に位置する、アニメおたくのコスプレ不倫主婦「あんず」こと里美が、田畑智子という女優さんによって、とても生き生きと存在感を持って演じられていて、彼女の存在が戯画を戯画たらしめる批評性を支えていて、ほとんど彼女の魅力がこの作品の魅力だと言っていいほどです。
ただ、ごく普通の写実的なストーリー漫画よりもとんがった批評性のある漫画のほうが或る意味で難しいように、戯画というのはちょっとターゲットがずれたり、批評性のある笑いが受け手の通俗性に媚びる笑いに置き換えられたリすると、とたんに本当につまらない弛緩した空虚なポンチ絵になってしまうところがあって、なかなか難しいものだな、と思います。
中心的なところでそれを言えば、「あんず」が経済的にめぐまれ、外目には何不自由ない家庭の主婦として暮らす中で、夫への愛のない空虚な心をアニメやコスプレに向けていたのが、暗示される結婚以前の放埓の日々を封じ込めていたのを解き放つかのように、その欲望が若い(高校生の)卓巳との不倫に向けられていて、卓巳のほうは時にこんなことでいいのか、と躊躇するけれども、「あんず」にとってはきわめて自然な欲望の解放のように見ている者には見えるところがあります。ここでは彼女のそういうありよう、存在感自体が、アニメやコスプレという戯画的な小道具に彩られながらも、平凡で幸せそうな家庭を、夫婦関係、男女の関係に別の視角をもたらし、私たちが日々生きている日常性を根底から鋭く問い返すような批評性を孕むものになっています。
しかし、夫の母親があらわれて彼女に対峙し、すべてが露見していったとき、「あんず」が古典的な人妻のような姿で義母の前に跪き、不妊症を疑われる夫との子を授かるために三人で米国へ行くことになるという成り行きは、この戯画の批評性を損なってしまうような展開だと思わずには見ていられませんでした。前半の「あんず」なら、もっとカラッと爽やかに義母をやりすごすなり拒むなり跳ぶなりするでしょう。マザコン母子と嫁姑の関係に関しては、この映画の持つ批評性を孕んだ戯画から外れた、悪い意味でマンガチックなポンチ絵にしかなっていません。それは、批評のターゲットがまともにとらえられていないからです。
その存在そのものでこの作品にとってプラスの批評性を支えていたのは、「あんず」と、もうひとり、卓巳の親友、福田良太でしょうか。「あんず」に比べれば設定そのものが古典的で凡庸ではあるけれど、演じる窪田正孝の好演にも救われて、卓巳への批評性、卓巳を通して卓巳と里美への批評性を担保して、日常性への<変態>的視点からの批評性を相対化するいい位置を見せていたと思います。彼と行動を共にする純子役の小篠恵奈も良かった。
同じ意味合いで、原美枝子演じる穏やかな助産師寿美子(卓巳の母親)と訪れる身勝手な妊婦に歯に衣を着せぬ言葉を投げつける助手役の光代(梶原阿貴)がとてもいい対照的なコンビで、「できちゃった」をいとも簡単に見破られて慌てるお嬢さん先生と光代のやりとり場面などは声を挙げて笑ってしまいました。
自然分娩を望んで寿美子の自宅兼助産院を訪れる`自然’志向の妊婦あや(吉田羊演じる)が帰っていったあと光代がこの種の頭でっかちな’自然’主義者を罵る言葉や、お嬢さん先生とのやりとりの場面にみるような、いまの世の中で大手を振ってまかりとおっている、ご本人たちはそれがいいことのように思っていたり、別に悪い事とは思っていない、どこかおかしな足が地につかない借りものの思想のようなものの考え方、生きる上での姿勢、信条、あるいはそう大げさなものでないなら、彼らが「自然」のように思って呼吸している今の社会の空気みたいなものに対する、いくらかは地に足がついた人間の、まっとうな視線は、批評の対象も、その視線もありふれたものではあるけれど、こうして両者を対決させ、対比させる場面を作り出すことで、批評性を持った戯画として、クリアに浮かび上がってくるところがあります。
これがこの作品の良質の生地を作っていることは確かで、さらにそれを突き破るような形で、主軸の戯画を演じているのが「あんず」だと思います。「あんず」が最後までその戯画を演じ切れるような展開ができれば、この作品はちょっと凄みのある映画になったのではないか、という気がします。
saysei at 12:29|Permalink│Comments(0)│