2018年01月
2018年01月27日
「トングウェ族の生計維持機構」(掛谷誠著作集第1巻所収)再読
掛谷誠著作集第1巻第Ⅱ部の最初(第5章)に置かれた「トングウェ族の生計維持機構 ー 生活環境・生業・食生活」は、私の記憶違いでなければ、掛谷の最初のアフリカ調査の成果を発表した論文の第1弾です。
当時すでにあらぬ道に彷徨って学問に関心を失っていた私も、抜き刷りをもらって、友人の本来の関心の的だったフィールドでの初の調査から生まれた論文ということで熱心に読んだ記憶があります。
巻末の初出一覧によれば、最初は『季刊人類学』に載ったようです。1974年8月というから、44年近く前のことですか・・・
トングウェ族というのは当時アフリカは西部タンザニア、タンガニイカ湖の東岸域に広がるウッドランド、乾燥疎開林にあたるおよそ2万平方キロのテリトリーに暮らしていた原始焼畑農耕民です。
彼もここに一定期間住み込んで彼らの生活を通じて「自然と人との関係を解明する」ことを目的に調査に入りました。1971年4月から翌年10月までの18カ月間のうち、調査で現地に入れたのは約1年だったようです。
現地を統治するアフリカの国家にとっては、近代化による国土の発展をめざすなかで、いわゆる「未開」の地に学術調査とはいえ踏み込まれることに、或る種の政治的な抵抗があったのでしょうか。正規の学術調査であっても、現地へ調査にはいるための、官公庁の許諾を得るのに、煩雑な手続きと時間、大きな忍耐を要したようです。
当時筆無精の彼が珍しく送ってくれた手紙の文言からは、不本意にダルエス・サーラムに足止めされている苛立ちが伝わってくるようだったのを覚えています。
彼がトングウェ族を対象に選んだのは、もっともプリミティブな、つまり人間が生きるとはどういうことかを考えさせる上で、より原型的な生き方と考えられる、自然と乖離せず、直接に自然と関わり、自然を自己と化すことで同時に自らを自然の一部と化して生きるような人々の生き方を通して、人はなぜ生きるかを追究する、彼の研究生活を一貫する姿勢によるものでしょう。
その向かうところは必然的に、「自然と人との関係」をむしろ乖離させる国を挙げての近代化の志向に抗うベクトルを持つでしょうから、当地を支配する国家からは嫌われたのかもしれません
その現地で掛谷は野生チンパンジーの観察基地のあったカシハをベースキャンプに、トングウェの4つの集落に順次住み込んで調査します。それらの集落は、2~10世帯、人口7~37人のいずれも小規模な血縁をベースにした集落で、焼畑農耕、狩猟、湖と川の漁労、蜂蜜最終といった、直接自然に依存した生活を営んでいました。
11~4月の雨季と5~10月の乾季の区分が明確で、9月乾季の終わりに近づくころには焼畑の火入れが行われ、雨季の始めには女たちがトウモロコシ、インゲンマメ、カボチャの種を入り混ぜて播き、男たちが作った出作り小屋を拠点に女たちは年2回の除草を担い、雨季も終わろうという4月初旬前後には収穫期を迎える、というのが焼畑農耕のスケジュール。トウモロコシは毎日の主食のひとつとしても、儀礼の際の食物としても重要だったようです。
トウモロコシと並ぶ主食(ウガリ)はキャッサバで、乾燥と貧栄養に強く、同じ土地で5~10年耕作でき、単位面積当たりの生産力がトウモロコシの約3.1倍というキャッサバのほうが、食用としては中心になっていたとのこと。
数日水でさらし、あく抜きをしてから焼いたり煮たりして乾燥させ、木臼で搗き、篩にかけて粉にすればできあがり。一種類の食材を多様に使っていて、キャッサバの場合は8種の利用法があり、そのうち4種は主食用だそうです。
トウモロコシにいたっては、その穀粒だけで15種以上の使い道があり、うち9種が主食用だとか。でもその主食ウガリをつくるのは結構大変なようで、種類によって9~15工程を経なくてはならないようです。基本は乾燥した粒を挽いて果皮を除き、胚乳をよりわけて煎り、石臼で擂って熱湯でこねる、ということのようです。このほか、補助食にサツマイモ、バナナ、ヤムイモなどが用いられていたそうです。
副食は、肉については、ツエツェバエが多い土地のために家畜の飼育ができないため、先込め銃や罠による狩猟で捕らえるブッシュピッグやイボイノシシなどの肉、湖岸では食に圧倒的な比重を占める集落もある湖や川の魚、そしてインゲンマメ、キマメ、キャッサバの葉やカボチャ・サツマイモ・インゲンの葉などの豊かな蔬菜類。野生植物も91種を食用とし、積極的に探して食べるものだけでもおよそ32種を数えたそうです。
トングェ族はまた優れた蜂蜜採集者でもあり、一人20~100個もの巣箱を所有し、たとえば50個の箱から約56ガロンの蜜を集めて町の市場で現金化するのだそうです。
こうしたトングウェ族の暮しを彼らの生きる自然環境と人々がその自然をどのように活かし、どう人間化して生きているかを明らかにしていきます。
大雑把にとらえられた地域の植生といったものではなく集落の環境を形づくり、人々の暮らしとわずかでも接点のあるものについては網羅的にリストアップし、正確にその種を同定し、学名と現地名を調べ、それがどのように人々の暮らしの中で認識され、手が加えられ、使われているか、ひとつひとつ観察と住民たちの聞き込みによって調べ上げていく。言語も異なる未知の世界でのこうした基礎的な調査がどれほどの時間と労力を要するかは、おそらく素人の想像以上のものがあるでしょう。
そのような地道な基礎調査が学術的な研究の不可欠の前提だということは分かりきったことではあるけれど、若い頃には、その「分かりきったこと」は「分かりきったこと」として、そんなことを研究者の証であるかのように、したり顔に口にするような者は軽侮の対象でしかなかったので、当時の私(たち)は、少なくとも掛谷には「その先」をいつも少し性急に求めるようなところがあったことが、いまならよくわかるのです。
というのも、いま彼のこの40年以上前の論文を読む私には、彼が丁寧に記述している一つ一つの食物の性質やその調理の方法や手に入れ方がとても興味深く、楽しんで読めます。
でも、最初にこの論文を読んだ時には、そういう基礎的な記述の部分は、昔ながらの異文化に触れてその事物を客観的に正確・精細に記述する、いわゆる記述人類学そのままの、味気の無い、どこにでもある単調な風景のつづくコンクリートで固めた自動車道のように感じられたのです。
そこに彼ならではの細心さ、周到さは感じられたものの、こういうものだったら、異文化に触れるようなフィールドへ赴く研究者なら彼でなくても書けるだろうし、書くだろう。それがどんなに辛気臭い地道な作業、多くの時間と労力を必要とするものだとしても、そのこと自体に意味を求めるような「研究者」であるためにこんなことをやっているんじゃなかったよな、というのが当時の率直な感じ方でした。
「えらく武装したものだね。鎧兜に身を固めた感じ・・・」と私は感想を言い、彼はちょっと考えるような表情をして、にんまりし、「そや、武装やな・・・」と応えたのは、トカラ調査の時ではなくて、たぶんこのトングウェの最初の論文を読まされたときだったでしょう。
いま読んでみると、この論文の中で、結構彼は「その先」へ踏み出していることが分かります。
彼はベースになる作物の生産量を推定し、他方で住民一人の1日の消費カロリーを仮定して、彼等が生産する年間の作物量が、その仮定消費量ぎりぎりでしかないことを見出します。当然、なぜもっとゆとりがもてるように生産量を増やさないのか。それほど彼らの生きる自然が過酷なのか、それともほかに理由があるのか・・・という疑問が生じます。彼はトングウェ族の生産の自然環境を点検します。
トングウェ族の居住テリトリーのうち、彼らがその主たる食材を手に入れるための農耕を行うのは、わずか5%を占める森林と森林後退後の二次性草原の部分だけで、80%をも占めるウッドランドやサバンナに進出して開墾地を広げようとしてこなかったのです。
原始焼畑農耕にこだわるこの事実をとりあげ、彼は「トングウェにとってウッドランドやサバンナは狩猟地、蜂蜜最終地であって、開墾の対象とは考えていない。」と書いています。
彼らは「食物の供給の安定性を求め、身近で最も入手容易なものにつよく依存」する性向を示しており(例えば湖畔の集落での湖魚食の比重の高さなど)、「身近な環境において、できるだけ少ない努力で、安定した食物を確保しようとする傾向性、最小限努力の傾向性」がこの部族の生き方の基本原理だと示唆しています。
そして、この「最小限努力」の原理が破綻するのを回避するシステムとして、彼はトングウェ族の社会が「散在する集落のネットワーク」であり、集落間の頻繁な往来(kujāta)とそれに伴う飲食のもてなしによって、食物がつねに各集落の間を流動して平均化し(平均化の原理)、集落における食物生産と消費のバランスを保っていること、この平衡関係が崩れる場合には相互扶助システムが働く、といったトングウェ部族社会の生計維持機構の構造を解き明かしています。
今読むと、トングウェ族の生きる自然環境をつぶさに調べ、その食物利用を調べ、食物の生産と商品の量的な関係から、この社会を維持する社会的なシステム(生産関係)を解き明かしていく、トカラ調査のときも貫かれた生態人類学的な発想と方法が貫かれて、とても綺麗な論理的整合性をもった分析、展開によって、トングウェ族の生計維持機構を支える「最小限努力」と「平均化」の原理という仮説を導いていて、鮮やかな印象を受けます。
なぜ当時読んだとき、そういう感銘を受けずに不満だったのかな、とあらためて考えてみると、たぶん私は、こんなの当たり前じゃないか、という研究者が聴いたら呆れるような印象を持ったんだろうな、と思います。
自然の一部として自然と関わり、自らを自然と化することで自然を人間化していく、人間の社会はいわゆる「未開」社会であろうとなかろうと、抑制的な強制力が働かない限り、その相互作用を拡張深化していくので、いわゆる文明社会の影響を受けにくい「未開」の地で、或る社会集団が自然からの乖離を免れ、小規模のまま一定の安定した均衡状態で持続しているとすれば、外部的な環境の強制力が働いているか、その社会のうちに内閉的に均衡を保つ力が働いていることは自明で、これを「最小限努力」(minimal effort)と名付けてみたって、しようがないじゃないか、と。
当時の感じ方を敢えて言葉にしてみればそんなことだったかと思います。
生産量と消費量のバランスがとれているという定量的な論証についても、この論文にあらわれた限りでは、論理の目が粗い印象を受け、肝心の部分で論拠が弱く感じられていたかもしれません。
ウッドランドやサバンナをただ狩猟や蜂蜜採集の場としかみなしていないために伝統的な原始焼畑農業の域を一歩も踏み出そうとはしなかったのだというのも「最小限努力」に対する「なぜ」に対する答にはならないと思えたでしょう。
その「なぜ」への彼の解答は、この論文のあとで出て来る呪術の世界に関する彼の論考で明らかにされるのですが、この生計維持機構に焦点をしぼった論文では示唆されてはいるけれど、まだ全体像は明らかにされていません。
「食物の平均化の傾向性に逆行する行為は、人々のねたみやうらみの対象となり、ときには呪術の世界がかかわってくる。」
「これら超自然的なものに対する人々の畏怖が、・・・・(中略)・・・・かれらの生業活動の諸形態に、その裏面から、種々の規制を与えている。」
すでにそのへんまで見通しを持っていた彼としては、生計維持機構における「最小限努力」と「平均化」の原理を支えるトングウェ族の共同幻想の世界が見えていて、表裏不可分の世界として明晰に描けていたのでしょう。
その前半分だけを与えられた当時の私は、こういうすぐあとにくる論文を示唆する言葉についても、一種のフロイト的な心理主義的な解釈のように感じられて、否定的な印象をもっていたような覚えがあります。
論文全体の比重からも、トングウェ族を取り巻く自然環境の諸要素を網羅的に点検し、その自然をどう暮らしの中へ取り込んでいるかを食生活を中心につぶさに見ていく研究者としての前提的な作業に属する部分(・・と当時の私には思えたけれど、今読めばそれが食物の生産と消費の均衡を論じる不可欠の前提であることはよくわかります)の比重がやたら大きくて、学界向けに鎧兜で身を固めた、掛谷らしくない不格好な姿に当時の私には思えたのでしょう。
いま再読してみると、それは当時の彼も共有していた自己嫌悪にも似た、ちょっとした才覚と無自覚な特権的環境の土台の上で、知的好奇心とやらで対象に向かうにすぎないように見えた、当時の少なからぬ研究者のありように対する、掛谷ともその点ではかつて共有していた反発のようなものが、彼の場合はみずから研究者としての道を歩むことで静かに内在化され、私の場合は内在的な根拠を失って、無責任な一読者としての印象になっていたんだろうな、という気がします。
「そや、武装やな・・・」と応じながら、しょうがないやつだな、と思いながら、彼はとっくに「その先」の<なぜ>と格闘していたのでしょう。
最初に彼のこの論文の目的は、「・・・自然と人との関係を解明すること」だったと書きました。彼も論文にはそう書いています。しかし、本当はそのあとに私が書いたように、彼は「トングウェの自然と共に生きる人々の生き方を通して、人はなぜ生きるかをより深く考えていきたい」という思いを持ってアフリカへ行ったに違いないと私はいまでも思っています。
決してそれはただ「知的好奇心」で「自然と人との関係を解明すること」に興味をもったから研究しました、というのではなかったでしょう。それはこの俊才がただのありふれた俊才と決定的に違ったところであり、私が彼を友人としてきたほとんど唯一の理由もそのへんにあったと思っています。
*
本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題に答えることである。(カミュ「ジジフォスの神話」)
当時すでにあらぬ道に彷徨って学問に関心を失っていた私も、抜き刷りをもらって、友人の本来の関心の的だったフィールドでの初の調査から生まれた論文ということで熱心に読んだ記憶があります。
巻末の初出一覧によれば、最初は『季刊人類学』に載ったようです。1974年8月というから、44年近く前のことですか・・・
トングウェ族というのは当時アフリカは西部タンザニア、タンガニイカ湖の東岸域に広がるウッドランド、乾燥疎開林にあたるおよそ2万平方キロのテリトリーに暮らしていた原始焼畑農耕民です。
彼もここに一定期間住み込んで彼らの生活を通じて「自然と人との関係を解明する」ことを目的に調査に入りました。1971年4月から翌年10月までの18カ月間のうち、調査で現地に入れたのは約1年だったようです。
現地を統治するアフリカの国家にとっては、近代化による国土の発展をめざすなかで、いわゆる「未開」の地に学術調査とはいえ踏み込まれることに、或る種の政治的な抵抗があったのでしょうか。正規の学術調査であっても、現地へ調査にはいるための、官公庁の許諾を得るのに、煩雑な手続きと時間、大きな忍耐を要したようです。
当時筆無精の彼が珍しく送ってくれた手紙の文言からは、不本意にダルエス・サーラムに足止めされている苛立ちが伝わってくるようだったのを覚えています。
彼がトングウェ族を対象に選んだのは、もっともプリミティブな、つまり人間が生きるとはどういうことかを考えさせる上で、より原型的な生き方と考えられる、自然と乖離せず、直接に自然と関わり、自然を自己と化すことで同時に自らを自然の一部と化して生きるような人々の生き方を通して、人はなぜ生きるかを追究する、彼の研究生活を一貫する姿勢によるものでしょう。
その向かうところは必然的に、「自然と人との関係」をむしろ乖離させる国を挙げての近代化の志向に抗うベクトルを持つでしょうから、当地を支配する国家からは嫌われたのかもしれません
その現地で掛谷は野生チンパンジーの観察基地のあったカシハをベースキャンプに、トングウェの4つの集落に順次住み込んで調査します。それらの集落は、2~10世帯、人口7~37人のいずれも小規模な血縁をベースにした集落で、焼畑農耕、狩猟、湖と川の漁労、蜂蜜最終といった、直接自然に依存した生活を営んでいました。
11~4月の雨季と5~10月の乾季の区分が明確で、9月乾季の終わりに近づくころには焼畑の火入れが行われ、雨季の始めには女たちがトウモロコシ、インゲンマメ、カボチャの種を入り混ぜて播き、男たちが作った出作り小屋を拠点に女たちは年2回の除草を担い、雨季も終わろうという4月初旬前後には収穫期を迎える、というのが焼畑農耕のスケジュール。トウモロコシは毎日の主食のひとつとしても、儀礼の際の食物としても重要だったようです。
トウモロコシと並ぶ主食(ウガリ)はキャッサバで、乾燥と貧栄養に強く、同じ土地で5~10年耕作でき、単位面積当たりの生産力がトウモロコシの約3.1倍というキャッサバのほうが、食用としては中心になっていたとのこと。
数日水でさらし、あく抜きをしてから焼いたり煮たりして乾燥させ、木臼で搗き、篩にかけて粉にすればできあがり。一種類の食材を多様に使っていて、キャッサバの場合は8種の利用法があり、そのうち4種は主食用だそうです。
トウモロコシにいたっては、その穀粒だけで15種以上の使い道があり、うち9種が主食用だとか。でもその主食ウガリをつくるのは結構大変なようで、種類によって9~15工程を経なくてはならないようです。基本は乾燥した粒を挽いて果皮を除き、胚乳をよりわけて煎り、石臼で擂って熱湯でこねる、ということのようです。このほか、補助食にサツマイモ、バナナ、ヤムイモなどが用いられていたそうです。
副食は、肉については、ツエツェバエが多い土地のために家畜の飼育ができないため、先込め銃や罠による狩猟で捕らえるブッシュピッグやイボイノシシなどの肉、湖岸では食に圧倒的な比重を占める集落もある湖や川の魚、そしてインゲンマメ、キマメ、キャッサバの葉やカボチャ・サツマイモ・インゲンの葉などの豊かな蔬菜類。野生植物も91種を食用とし、積極的に探して食べるものだけでもおよそ32種を数えたそうです。
トングェ族はまた優れた蜂蜜採集者でもあり、一人20~100個もの巣箱を所有し、たとえば50個の箱から約56ガロンの蜜を集めて町の市場で現金化するのだそうです。
こうしたトングウェ族の暮しを彼らの生きる自然環境と人々がその自然をどのように活かし、どう人間化して生きているかを明らかにしていきます。
大雑把にとらえられた地域の植生といったものではなく集落の環境を形づくり、人々の暮らしとわずかでも接点のあるものについては網羅的にリストアップし、正確にその種を同定し、学名と現地名を調べ、それがどのように人々の暮らしの中で認識され、手が加えられ、使われているか、ひとつひとつ観察と住民たちの聞き込みによって調べ上げていく。言語も異なる未知の世界でのこうした基礎的な調査がどれほどの時間と労力を要するかは、おそらく素人の想像以上のものがあるでしょう。
そのような地道な基礎調査が学術的な研究の不可欠の前提だということは分かりきったことではあるけれど、若い頃には、その「分かりきったこと」は「分かりきったこと」として、そんなことを研究者の証であるかのように、したり顔に口にするような者は軽侮の対象でしかなかったので、当時の私(たち)は、少なくとも掛谷には「その先」をいつも少し性急に求めるようなところがあったことが、いまならよくわかるのです。
というのも、いま彼のこの40年以上前の論文を読む私には、彼が丁寧に記述している一つ一つの食物の性質やその調理の方法や手に入れ方がとても興味深く、楽しんで読めます。
でも、最初にこの論文を読んだ時には、そういう基礎的な記述の部分は、昔ながらの異文化に触れてその事物を客観的に正確・精細に記述する、いわゆる記述人類学そのままの、味気の無い、どこにでもある単調な風景のつづくコンクリートで固めた自動車道のように感じられたのです。
そこに彼ならではの細心さ、周到さは感じられたものの、こういうものだったら、異文化に触れるようなフィールドへ赴く研究者なら彼でなくても書けるだろうし、書くだろう。それがどんなに辛気臭い地道な作業、多くの時間と労力を必要とするものだとしても、そのこと自体に意味を求めるような「研究者」であるためにこんなことをやっているんじゃなかったよな、というのが当時の率直な感じ方でした。
「えらく武装したものだね。鎧兜に身を固めた感じ・・・」と私は感想を言い、彼はちょっと考えるような表情をして、にんまりし、「そや、武装やな・・・」と応えたのは、トカラ調査の時ではなくて、たぶんこのトングウェの最初の論文を読まされたときだったでしょう。
いま読んでみると、この論文の中で、結構彼は「その先」へ踏み出していることが分かります。
彼はベースになる作物の生産量を推定し、他方で住民一人の1日の消費カロリーを仮定して、彼等が生産する年間の作物量が、その仮定消費量ぎりぎりでしかないことを見出します。当然、なぜもっとゆとりがもてるように生産量を増やさないのか。それほど彼らの生きる自然が過酷なのか、それともほかに理由があるのか・・・という疑問が生じます。彼はトングウェ族の生産の自然環境を点検します。
トングウェ族の居住テリトリーのうち、彼らがその主たる食材を手に入れるための農耕を行うのは、わずか5%を占める森林と森林後退後の二次性草原の部分だけで、80%をも占めるウッドランドやサバンナに進出して開墾地を広げようとしてこなかったのです。
原始焼畑農耕にこだわるこの事実をとりあげ、彼は「トングウェにとってウッドランドやサバンナは狩猟地、蜂蜜最終地であって、開墾の対象とは考えていない。」と書いています。
彼らは「食物の供給の安定性を求め、身近で最も入手容易なものにつよく依存」する性向を示しており(例えば湖畔の集落での湖魚食の比重の高さなど)、「身近な環境において、できるだけ少ない努力で、安定した食物を確保しようとする傾向性、最小限努力の傾向性」がこの部族の生き方の基本原理だと示唆しています。
そして、この「最小限努力」の原理が破綻するのを回避するシステムとして、彼はトングウェ族の社会が「散在する集落のネットワーク」であり、集落間の頻繁な往来(kujāta)とそれに伴う飲食のもてなしによって、食物がつねに各集落の間を流動して平均化し(平均化の原理)、集落における食物生産と消費のバランスを保っていること、この平衡関係が崩れる場合には相互扶助システムが働く、といったトングウェ部族社会の生計維持機構の構造を解き明かしています。
今読むと、トングウェ族の生きる自然環境をつぶさに調べ、その食物利用を調べ、食物の生産と商品の量的な関係から、この社会を維持する社会的なシステム(生産関係)を解き明かしていく、トカラ調査のときも貫かれた生態人類学的な発想と方法が貫かれて、とても綺麗な論理的整合性をもった分析、展開によって、トングウェ族の生計維持機構を支える「最小限努力」と「平均化」の原理という仮説を導いていて、鮮やかな印象を受けます。
なぜ当時読んだとき、そういう感銘を受けずに不満だったのかな、とあらためて考えてみると、たぶん私は、こんなの当たり前じゃないか、という研究者が聴いたら呆れるような印象を持ったんだろうな、と思います。
自然の一部として自然と関わり、自らを自然と化することで自然を人間化していく、人間の社会はいわゆる「未開」社会であろうとなかろうと、抑制的な強制力が働かない限り、その相互作用を拡張深化していくので、いわゆる文明社会の影響を受けにくい「未開」の地で、或る社会集団が自然からの乖離を免れ、小規模のまま一定の安定した均衡状態で持続しているとすれば、外部的な環境の強制力が働いているか、その社会のうちに内閉的に均衡を保つ力が働いていることは自明で、これを「最小限努力」(minimal effort)と名付けてみたって、しようがないじゃないか、と。
当時の感じ方を敢えて言葉にしてみればそんなことだったかと思います。
生産量と消費量のバランスがとれているという定量的な論証についても、この論文にあらわれた限りでは、論理の目が粗い印象を受け、肝心の部分で論拠が弱く感じられていたかもしれません。
ウッドランドやサバンナをただ狩猟や蜂蜜採集の場としかみなしていないために伝統的な原始焼畑農業の域を一歩も踏み出そうとはしなかったのだというのも「最小限努力」に対する「なぜ」に対する答にはならないと思えたでしょう。
その「なぜ」への彼の解答は、この論文のあとで出て来る呪術の世界に関する彼の論考で明らかにされるのですが、この生計維持機構に焦点をしぼった論文では示唆されてはいるけれど、まだ全体像は明らかにされていません。
「食物の平均化の傾向性に逆行する行為は、人々のねたみやうらみの対象となり、ときには呪術の世界がかかわってくる。」
「これら超自然的なものに対する人々の畏怖が、・・・・(中略)・・・・かれらの生業活動の諸形態に、その裏面から、種々の規制を与えている。」
すでにそのへんまで見通しを持っていた彼としては、生計維持機構における「最小限努力」と「平均化」の原理を支えるトングウェ族の共同幻想の世界が見えていて、表裏不可分の世界として明晰に描けていたのでしょう。
その前半分だけを与えられた当時の私は、こういうすぐあとにくる論文を示唆する言葉についても、一種のフロイト的な心理主義的な解釈のように感じられて、否定的な印象をもっていたような覚えがあります。
論文全体の比重からも、トングウェ族を取り巻く自然環境の諸要素を網羅的に点検し、その自然をどう暮らしの中へ取り込んでいるかを食生活を中心につぶさに見ていく研究者としての前提的な作業に属する部分(・・と当時の私には思えたけれど、今読めばそれが食物の生産と消費の均衡を論じる不可欠の前提であることはよくわかります)の比重がやたら大きくて、学界向けに鎧兜で身を固めた、掛谷らしくない不格好な姿に当時の私には思えたのでしょう。
いま再読してみると、それは当時の彼も共有していた自己嫌悪にも似た、ちょっとした才覚と無自覚な特権的環境の土台の上で、知的好奇心とやらで対象に向かうにすぎないように見えた、当時の少なからぬ研究者のありように対する、掛谷ともその点ではかつて共有していた反発のようなものが、彼の場合はみずから研究者としての道を歩むことで静かに内在化され、私の場合は内在的な根拠を失って、無責任な一読者としての印象になっていたんだろうな、という気がします。
「そや、武装やな・・・」と応じながら、しょうがないやつだな、と思いながら、彼はとっくに「その先」の<なぜ>と格闘していたのでしょう。
最初に彼のこの論文の目的は、「・・・自然と人との関係を解明すること」だったと書きました。彼も論文にはそう書いています。しかし、本当はそのあとに私が書いたように、彼は「トングウェの自然と共に生きる人々の生き方を通して、人はなぜ生きるかをより深く考えていきたい」という思いを持ってアフリカへ行ったに違いないと私はいまでも思っています。
決してそれはただ「知的好奇心」で「自然と人との関係を解明すること」に興味をもったから研究しました、というのではなかったでしょう。それはこの俊才がただのありふれた俊才と決定的に違ったところであり、私が彼を友人としてきたほとんど唯一の理由もそのへんにあったと思っています。
*
本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題に答えることである。(カミュ「ジジフォスの神話」)
saysei at 21:09|Permalink│Comments(0)│
2018年01月23日
「雪国の山村における戦後30年ー福井県瀬戸部落」(掛谷誠著作集第1巻所収)を読む
京都は今朝、小雨がぱらついていた程度ですが、東京は都心でも23センチの積雪なんてラジオで言ってましたから、きっと北陸など雪国では雪下ろしで大変でしょう。
昨夜たまたま再度学生時代の友人掛谷の遺した論文を集めた『掛谷誠著作集』第1巻の、今度は第2章に収められた「雪国の山村における戦後30年ー福井県瀬戸部落」というモノグラフを読んでいたので、その瀬戸の部落も雪に埋もれているのだろうなぁ、と思いを馳せたのでした。
この論文は掛谷が福井大学へいって、鯖江に住んでいたころでしょうか、1975年11月から翌年5月までの期間、主として週末ごとに現地に住み込んで、参与観察、聞き込み調査、全戸アンケートなどの調査を行って、「過疎化の最前線」にあって、急激な崩壊(廃村、挙家離村)を免れ、当時同部落が属した今庄町の中では相対的にではあっても世帯数と人口の減少傾向において「比較的安定した様相」をみせ、調査当時、戦後30年を経て「いまなお生き生きとした部落(ムラ)生活が維持されている山村」であるのはなぜか、という自問に答えようとした研究活動の成果で、掛谷が30歳の大台にのって間もないころの論文です。
巻末を見ると私がかつて勤めたシンクタンクがNIRAの助成を受けて引き受けた調査研究だったようです。1976年刊ということは昭和51年・・・ちょうど私がそのシンクタンクに入った年ですね。すれ違いというのか、私は掛谷が主査だったのであろうこの調査については全く関与もしていないし、誰が何をやっていたのかも知らずじまいでした。その前は失業して風来坊をしていたのだから、一緒に瀬戸へ行けばよかったな(笑)
彼は私が広島県の山の中、帝釈峡というところでおサルさんを追っかけていたとき(卒業論文で帝釈峡のサルの群れの構造を調べるってのをテーマにしたので)、もうひとりの友人と一緒にフィールドまで訪ねて来てくれたのです。なのになぜ俺は瀬戸へ行かなかったんだろう?・・・いやあの頃は俺はそれどころじゃなかったな・・・とか色々思い出しながら、こうして彼といつまでも喋っているのが楽しいのです。あいスミマセン。そろそろド素人として読んだ感想などしたためておきます。
瀬戸は福井県下有数の過疎地で、その奥の部落はすでに廃村となり、過疎化の最前線に位置することになった、冬の3カ月は雪に閉ざされる山村です。著者はまずその地理・交通の条件を押さえ、世帯数(39戸)や人口(137人)とその年齢別構成と経年変化を型通りおさえ、典型的な雪国の過疎山村としての姿を描き出しながら、同時に彼はこの部落が急激な崩壊に向かわず、同様の条件をもつ近隣地域の中で、比較的安定した様相をみせているのかに注目して、部落の生活を支える条件を洗い出していきます。
ほかの部落の廃村化のひきがねになった「三八豪雪」のあと道路整備などが進んだことがひとつありますが、それでも主要な生業であった製炭業が燃料革命の結果衰退して第二次兼業化(≒通勤兼業化)が進む中で、住民に部落外に多様な職を求める遠心力が強くはたらいて、戦前からの養蚕や焼畑栽培、昭和30年ころ主要産業として水田耕作や製炭業が営まれた時代には、血縁的な社会組織の上に、必要な共同作業や、山や田畑の土地の所有・貸借にもとづく地主と地名子の階層的な社会構造がつくっていた部落のまとまりは崩壊の危機に直面したはずです。
しかし、ここにもともと「芋が平」にあった山友建設という土木建設業を営む企業が住民との縁で瀬戸へ移ることで、瀬戸の製炭業から他の生業への転換は、現実には製炭業から山友建設への就業への転換という結果になり、昭和51年には同社の総勤務者の78.8%が瀬戸の人となり、瀬戸の稼働人口の37.2%が同社に勤務しており、世帯員の誰かが同社に勤務する世帯は総世帯数の46.2%にまで達したそうです。製炭業衰退後の生業の多様化に必然的に伴うはずだった遠心力を、山友建設が吸収し、その作用をやわらげたのだと言えるでしょう。
掛谷のまとめるところによれば、部落の自立性と共同性の根拠となってきたのは、農林漁業(瀬戸では主として製炭業と水田稲作)のような自然に依存した生業、それらの生業の同質性、そしてそれら生業にみられるように部落が生産の場でありそれが同時に生活の場であるという二重性だったわけで、製炭業の衰退によってこの前提が崩壊し、本来なら急激な賃労働主体の第二種兼業化と勤務先の多様化が部落の自立性、共同性を脅かすはずでした。実際、確かにその傾向は確認できます。けれども山友建設が、その存続条件を継承することで、瀬戸は自立性、共同性の急激な崩壊の危機を回避あるいは遅延させることができたのです。
しかし、私が関心を持つのは、掛谷が瀬戸が過疎化の果てに廃村に至るのを免れた理由を問うて、すでに廃村を余儀なくされた部落との違いに着目し、こうした瀬戸の特殊な条件を指摘しているだけではなく、ひょっとしたら他の過疎地域にも通じるかもしれない、もう少し普遍的な条件に触れている点です。
それは、ひとつは部落の住民たちの生活そのものの中に、その根拠を見ようとする視点、いまひとつは、トカラ列島の悪石島と平島における島民たちの共同性を保持する上での制度的なものの役割について触れた点と共通する、いわば共同幻想の垂直的な求心力に触れた部分です。
後者について先に述べるなら、彼は瀬戸における「歩き番」(各家が交代で毎日一軒一軒まわって火の用心を確認したりする)や様々な恒例の寄合、家の建築における相互扶助システム、役職者の人選方法、字諸経費割における”見立て”(部落の運営に必要な総経費の一定割合を、各世帯の働きに出ている人の数や扶養家族数などを元にした経済力、部落内の家格などを考慮し、五等級に分けて部落の役職者である四役が相談して振り分ける)などを「部落の共同性が自然的根拠を希薄化し、制度による規制力を増す形で保持される傾向性」をあらわす事例として挙げています。「出不足金の制度」など、村の寄合いにもだんだん来ない者が増えてきたために、出ない者は金銭的な負担をして帳尻を合わせようじゃないかという制度ですから、掛谷の指摘する制度的な規制力のよい例でしょう。
いまひとつ部落の人々の共同幻想の依り代は、住民たちの多くが二つの檀家集団に属する真宗信仰による月々の「お講さま」(親鸞の命日の寄合)や「お座さま」(信仰座談会みたいなもの)、あるいは全住民がその氏子である白山神社の宮番やハイライトである青壮年会主催の盆踊りといったもののようです。
たしかにこういうものは住民の垂直方向の求心力を支えるかもしれません。それはより大きな幻想の共同性に呑み込まれて行くかもしれないけれど、それは資本の収奪のように根こぎしてしまうような形じゃなくて、呑み込みながら、下位の共同性をそのまま残してやっても何ら差し支えないぜ、というような呑み込み方でしょうから、自然から離れない家族の共同性はもちろんのこと、地域の共同性でも様々なレベルの共同性を住民の集合体としての求心力の維持装置として残していくことは可能なんじゃないか、と思います。自治体などはよくそういう新たなコミュニティづくりみたいな音頭をとろうとしますよね。
ただ、それはあくまでも幻想の共同体なので、何も自分はその一員でなくていいよ、と思えば、もう「藩」じゃなかろう、わしらは「ニッポン」人じゃろう、という「脱藩」の士が続々出て来ても仕方がないので、過疎地のようなところでは、そういう人たちは強い遠心力に従って共同体の「外部」へ四散していくでしょう。
それよりも私が今回一番興味をもったのは、掛谷が住民たちの生活そのものの中にある要素に、そうした制度的な求心力とは別の、遠心力に抗する根拠を見ようとしている点です。
そうした指標として彼は、味噌と漬物の自家生産に着目しています。大豆を自ら栽培し、自家製の味噌をつくる世帯が53.8%、少なくとも一部分は自家で作る世帯も含めれば76.9%にのぼったそうです。漬物では大根が実に多様な利用のされ方をしています。調査の年に、野菜の冬期用保存のための「ダイコンベヤ」を作った世帯は89.7%だったそうです。
そばについても、61.5%の世帯で自分の畑で栽培した蕎麦で手打ちそばを打っていました。
餅つきは新正月(世帯の92.3%)だけでなく、旧正月(76.9%)にも3月の節句(48.7%)にも行われていました。「トチモチは手間を食べる」と言われるほど、つくるための手間がかかるそうですが、そのトチモチを84.6%もの世帯で搗くのです。搗いた餅は、瀬戸を離れた子供や親類に、故郷の味として送られるのだそうです。
掛谷はまた、山村瀬戸の自然に根ざす山菜をどれだけ食生活に取り入れているか、という点にも着目しています。「その利用法、加工法には、伝統的な山村生活の知恵がにじみ出ている」からです。それらは「いずれも”コツ”の習得を前提としており、また多くの手間を要するもの」なのです。彼の調査によれば瀬戸の50%以上の世帯が利用している山菜は16種にのぼるそうです。
たしかに伝統的なこうした食材の利用が減っていることは事実だ、と。でも蕎麦やトチモチのように食用にするには大変手間のかかる食材が好んで利用されている点に彼は着目しています。住民たちはその手間のかかる食材を食に供するために集まり、協働でつくりだします。
ここに、制度による垂直的求心力とは異なる、生活の中で生まれる「求心力」、ひとりひとりの具体的な住民と住民との間に生まれる絆がもつ全体としての「求心力」が示唆されています。「求心力」と言う言葉は不適当かもしれません。外から締め付ける力でもなく、外へ引っ張る力でもなく、一つ一つの粒子が相互に結びつくことでネットワーク自身に生成する結合力みたいなものですね。
もちろん、こうした自給的な食生活をもとにしたアウタルキーなんて古代妄想≒誇大妄想?だよ。そんなものは市場経済の波に洗われて消える運命にあるので、そこに思い入れをするのは感傷に過ぎないぜ、思われる向きもあるでしょう。
でも私はそうは思っていません。少なくもこの論文の著者は、山村の自然に自分とその生活を溶け込ませ、同時に自然を自分とその生活のうちに繰り込む瀬戸の住民のありように、失われた夢の名残を追うのとは違う、近代化を突き抜けた向こうに見るべき「今後」への手がかりを見出そうとしているのだと思います。
山菜を摘み、トチモチを搗く瀬戸の住民たちのような人々の生きかたに心を寄せる著者は、その生き方が、いまは抗いようのない都市化、近代化の強い遠心力に膝を屈せざるを得ないかにみえても、過ぎ去る時代にではなく、むしろ「今後」の世界で、パンドラの箱で最後にやっと登場するような、抗う者の希望となるに違いないと考えていたのではなかったでしょうか。
彼はまた、積雪に触れながら「雪国であること」について、マイナス価値だけではなく、プラス価値とみなすことはできないか、と言い、雪に閉ざされる3カ月は、(失業保険の裏打ちを前提に)春から秋にかけての過重労働から住民が解放される骨休みの期間でもあり、この期間には日ごろ疎遠な部落内のつきあいが頻繁になり、各種の行事も積極的に行われ、ムラ生活を統合する機能として現れる一面もあるのでは、と述べています。
これには思わず、おいおい掛谷!と笑ってしまいました。
もう何十年も前のことですが、家族と一緒に北陸の温泉に、ちょうどたぶんきょうの北陸のように雪にすっぽり包まれた宿に泊まり、夕食のとき世話をしてくれた宿の女性に、本当に綺麗な素晴らしい雪景色が見られて・・・と喜んで話していたら、「いえ、そりゃぁお客さんがたにはそうでしょうけれど、私らにとってはもう大変な災難ですよ。雪下ろしの人手も足らないし、いまも帰ったらうちがつぶれとりゃせんかと心配です・・・」と本当に真剣な顔で言われたので、いや、これは・・・と浮かれた調子の軽い話をしかけて申し訳なかったな、と思ったことがありました。
あのときもし私が、でもみんなで雪下ろしをやったりして、村の人のきずなも深くなって、いっそう村のみんなが仲良くなれますよね、なんて言ったらどんな顔をされたろう、と「雪国であること」についての部分を読んで連想したものだから、つい笑ってしまったのです。
ところで、掛谷が昭和51年頃に調査した時点で39戸、137人だった瀬戸の戸数、人口は、ネットで調べてみると、平成22年の国勢調査時点で24戸、52人となってさらに過疎化が進んでいるようでした。2人世帯が13世代で、おそらくこの2人世帯は掛谷の調査のときにも註しているように老夫婦でしょう。65歳以上が人口の57.7%でした。いまはもっと高い比率でしょう。24世帯のうち非就業者世帯が14世帯58.3%を占め、就業者は19人36.5%に過ぎません。
瀬戸の昭和30年以降の道行の特殊性を支えた山友建設は、瀬戸から同じ南越前町の湯尾というJR北陸線の湯尾駅の近くに移ってまだ営業を続けているようです。ネットのホームページでは従業員10名とされているから調査当時より規模は小さいようですが、この種の産業では機械化、IT化で高度化、省力化が図られてコンパクトになった可能性があるから、必ずしも経営規模が小さくなった、とは言えないかもしれません。
掛谷の論文の「注」のところに、山友建設の男性の平均日当が5500円、女性が3200円とありました。いまウェブでの求人広告での同企業の提示する給与は建設・土木作業員で9,000~12,500円、別途土木施工管理技術士の有資格者も求められていました。社長はやはり?(笑)伊藤さんという姓の方でしたが、瀬戸との関連まではわかりません。
掛谷の論文には、平家の落人が4人この瀬戸に住みついて、「伊藤」家はその唯一今日まで残った家系という話で、瀬戸には伊藤姓が多いのだそうです。
そういえば、瀬戸には伊藤氏庭園という昭和7年に指定された国指定の名勝である江戸時代中期の築山林泉式庭園があり、掛谷のこの論文でも触れられています。きっと掛谷も調査のときに訪れて、このあたりに座って庭を眺めていたんだろうな、と思って見たのでした。
昨夜たまたま再度学生時代の友人掛谷の遺した論文を集めた『掛谷誠著作集』第1巻の、今度は第2章に収められた「雪国の山村における戦後30年ー福井県瀬戸部落」というモノグラフを読んでいたので、その瀬戸の部落も雪に埋もれているのだろうなぁ、と思いを馳せたのでした。
この論文は掛谷が福井大学へいって、鯖江に住んでいたころでしょうか、1975年11月から翌年5月までの期間、主として週末ごとに現地に住み込んで、参与観察、聞き込み調査、全戸アンケートなどの調査を行って、「過疎化の最前線」にあって、急激な崩壊(廃村、挙家離村)を免れ、当時同部落が属した今庄町の中では相対的にではあっても世帯数と人口の減少傾向において「比較的安定した様相」をみせ、調査当時、戦後30年を経て「いまなお生き生きとした部落(ムラ)生活が維持されている山村」であるのはなぜか、という自問に答えようとした研究活動の成果で、掛谷が30歳の大台にのって間もないころの論文です。
巻末を見ると私がかつて勤めたシンクタンクがNIRAの助成を受けて引き受けた調査研究だったようです。1976年刊ということは昭和51年・・・ちょうど私がそのシンクタンクに入った年ですね。すれ違いというのか、私は掛谷が主査だったのであろうこの調査については全く関与もしていないし、誰が何をやっていたのかも知らずじまいでした。その前は失業して風来坊をしていたのだから、一緒に瀬戸へ行けばよかったな(笑)
彼は私が広島県の山の中、帝釈峡というところでおサルさんを追っかけていたとき(卒業論文で帝釈峡のサルの群れの構造を調べるってのをテーマにしたので)、もうひとりの友人と一緒にフィールドまで訪ねて来てくれたのです。なのになぜ俺は瀬戸へ行かなかったんだろう?・・・いやあの頃は俺はそれどころじゃなかったな・・・とか色々思い出しながら、こうして彼といつまでも喋っているのが楽しいのです。あいスミマセン。そろそろド素人として読んだ感想などしたためておきます。
瀬戸は福井県下有数の過疎地で、その奥の部落はすでに廃村となり、過疎化の最前線に位置することになった、冬の3カ月は雪に閉ざされる山村です。著者はまずその地理・交通の条件を押さえ、世帯数(39戸)や人口(137人)とその年齢別構成と経年変化を型通りおさえ、典型的な雪国の過疎山村としての姿を描き出しながら、同時に彼はこの部落が急激な崩壊に向かわず、同様の条件をもつ近隣地域の中で、比較的安定した様相をみせているのかに注目して、部落の生活を支える条件を洗い出していきます。
ほかの部落の廃村化のひきがねになった「三八豪雪」のあと道路整備などが進んだことがひとつありますが、それでも主要な生業であった製炭業が燃料革命の結果衰退して第二次兼業化(≒通勤兼業化)が進む中で、住民に部落外に多様な職を求める遠心力が強くはたらいて、戦前からの養蚕や焼畑栽培、昭和30年ころ主要産業として水田耕作や製炭業が営まれた時代には、血縁的な社会組織の上に、必要な共同作業や、山や田畑の土地の所有・貸借にもとづく地主と地名子の階層的な社会構造がつくっていた部落のまとまりは崩壊の危機に直面したはずです。
しかし、ここにもともと「芋が平」にあった山友建設という土木建設業を営む企業が住民との縁で瀬戸へ移ることで、瀬戸の製炭業から他の生業への転換は、現実には製炭業から山友建設への就業への転換という結果になり、昭和51年には同社の総勤務者の78.8%が瀬戸の人となり、瀬戸の稼働人口の37.2%が同社に勤務しており、世帯員の誰かが同社に勤務する世帯は総世帯数の46.2%にまで達したそうです。製炭業衰退後の生業の多様化に必然的に伴うはずだった遠心力を、山友建設が吸収し、その作用をやわらげたのだと言えるでしょう。
掛谷のまとめるところによれば、部落の自立性と共同性の根拠となってきたのは、農林漁業(瀬戸では主として製炭業と水田稲作)のような自然に依存した生業、それらの生業の同質性、そしてそれら生業にみられるように部落が生産の場でありそれが同時に生活の場であるという二重性だったわけで、製炭業の衰退によってこの前提が崩壊し、本来なら急激な賃労働主体の第二種兼業化と勤務先の多様化が部落の自立性、共同性を脅かすはずでした。実際、確かにその傾向は確認できます。けれども山友建設が、その存続条件を継承することで、瀬戸は自立性、共同性の急激な崩壊の危機を回避あるいは遅延させることができたのです。
しかし、私が関心を持つのは、掛谷が瀬戸が過疎化の果てに廃村に至るのを免れた理由を問うて、すでに廃村を余儀なくされた部落との違いに着目し、こうした瀬戸の特殊な条件を指摘しているだけではなく、ひょっとしたら他の過疎地域にも通じるかもしれない、もう少し普遍的な条件に触れている点です。
それは、ひとつは部落の住民たちの生活そのものの中に、その根拠を見ようとする視点、いまひとつは、トカラ列島の悪石島と平島における島民たちの共同性を保持する上での制度的なものの役割について触れた点と共通する、いわば共同幻想の垂直的な求心力に触れた部分です。
後者について先に述べるなら、彼は瀬戸における「歩き番」(各家が交代で毎日一軒一軒まわって火の用心を確認したりする)や様々な恒例の寄合、家の建築における相互扶助システム、役職者の人選方法、字諸経費割における”見立て”(部落の運営に必要な総経費の一定割合を、各世帯の働きに出ている人の数や扶養家族数などを元にした経済力、部落内の家格などを考慮し、五等級に分けて部落の役職者である四役が相談して振り分ける)などを「部落の共同性が自然的根拠を希薄化し、制度による規制力を増す形で保持される傾向性」をあらわす事例として挙げています。「出不足金の制度」など、村の寄合いにもだんだん来ない者が増えてきたために、出ない者は金銭的な負担をして帳尻を合わせようじゃないかという制度ですから、掛谷の指摘する制度的な規制力のよい例でしょう。
いまひとつ部落の人々の共同幻想の依り代は、住民たちの多くが二つの檀家集団に属する真宗信仰による月々の「お講さま」(親鸞の命日の寄合)や「お座さま」(信仰座談会みたいなもの)、あるいは全住民がその氏子である白山神社の宮番やハイライトである青壮年会主催の盆踊りといったもののようです。
たしかにこういうものは住民の垂直方向の求心力を支えるかもしれません。それはより大きな幻想の共同性に呑み込まれて行くかもしれないけれど、それは資本の収奪のように根こぎしてしまうような形じゃなくて、呑み込みながら、下位の共同性をそのまま残してやっても何ら差し支えないぜ、というような呑み込み方でしょうから、自然から離れない家族の共同性はもちろんのこと、地域の共同性でも様々なレベルの共同性を住民の集合体としての求心力の維持装置として残していくことは可能なんじゃないか、と思います。自治体などはよくそういう新たなコミュニティづくりみたいな音頭をとろうとしますよね。
ただ、それはあくまでも幻想の共同体なので、何も自分はその一員でなくていいよ、と思えば、もう「藩」じゃなかろう、わしらは「ニッポン」人じゃろう、という「脱藩」の士が続々出て来ても仕方がないので、過疎地のようなところでは、そういう人たちは強い遠心力に従って共同体の「外部」へ四散していくでしょう。
それよりも私が今回一番興味をもったのは、掛谷が住民たちの生活そのものの中にある要素に、そうした制度的な求心力とは別の、遠心力に抗する根拠を見ようとしている点です。
そうした指標として彼は、味噌と漬物の自家生産に着目しています。大豆を自ら栽培し、自家製の味噌をつくる世帯が53.8%、少なくとも一部分は自家で作る世帯も含めれば76.9%にのぼったそうです。漬物では大根が実に多様な利用のされ方をしています。調査の年に、野菜の冬期用保存のための「ダイコンベヤ」を作った世帯は89.7%だったそうです。
そばについても、61.5%の世帯で自分の畑で栽培した蕎麦で手打ちそばを打っていました。
餅つきは新正月(世帯の92.3%)だけでなく、旧正月(76.9%)にも3月の節句(48.7%)にも行われていました。「トチモチは手間を食べる」と言われるほど、つくるための手間がかかるそうですが、そのトチモチを84.6%もの世帯で搗くのです。搗いた餅は、瀬戸を離れた子供や親類に、故郷の味として送られるのだそうです。
掛谷はまた、山村瀬戸の自然に根ざす山菜をどれだけ食生活に取り入れているか、という点にも着目しています。「その利用法、加工法には、伝統的な山村生活の知恵がにじみ出ている」からです。それらは「いずれも”コツ”の習得を前提としており、また多くの手間を要するもの」なのです。彼の調査によれば瀬戸の50%以上の世帯が利用している山菜は16種にのぼるそうです。
たしかに伝統的なこうした食材の利用が減っていることは事実だ、と。でも蕎麦やトチモチのように食用にするには大変手間のかかる食材が好んで利用されている点に彼は着目しています。住民たちはその手間のかかる食材を食に供するために集まり、協働でつくりだします。
ここに、制度による垂直的求心力とは異なる、生活の中で生まれる「求心力」、ひとりひとりの具体的な住民と住民との間に生まれる絆がもつ全体としての「求心力」が示唆されています。「求心力」と言う言葉は不適当かもしれません。外から締め付ける力でもなく、外へ引っ張る力でもなく、一つ一つの粒子が相互に結びつくことでネットワーク自身に生成する結合力みたいなものですね。
もちろん、こうした自給的な食生活をもとにしたアウタルキーなんて古代妄想≒誇大妄想?だよ。そんなものは市場経済の波に洗われて消える運命にあるので、そこに思い入れをするのは感傷に過ぎないぜ、思われる向きもあるでしょう。
でも私はそうは思っていません。少なくもこの論文の著者は、山村の自然に自分とその生活を溶け込ませ、同時に自然を自分とその生活のうちに繰り込む瀬戸の住民のありように、失われた夢の名残を追うのとは違う、近代化を突き抜けた向こうに見るべき「今後」への手がかりを見出そうとしているのだと思います。
山菜を摘み、トチモチを搗く瀬戸の住民たちのような人々の生きかたに心を寄せる著者は、その生き方が、いまは抗いようのない都市化、近代化の強い遠心力に膝を屈せざるを得ないかにみえても、過ぎ去る時代にではなく、むしろ「今後」の世界で、パンドラの箱で最後にやっと登場するような、抗う者の希望となるに違いないと考えていたのではなかったでしょうか。
彼はまた、積雪に触れながら「雪国であること」について、マイナス価値だけではなく、プラス価値とみなすことはできないか、と言い、雪に閉ざされる3カ月は、(失業保険の裏打ちを前提に)春から秋にかけての過重労働から住民が解放される骨休みの期間でもあり、この期間には日ごろ疎遠な部落内のつきあいが頻繁になり、各種の行事も積極的に行われ、ムラ生活を統合する機能として現れる一面もあるのでは、と述べています。
これには思わず、おいおい掛谷!と笑ってしまいました。
もう何十年も前のことですが、家族と一緒に北陸の温泉に、ちょうどたぶんきょうの北陸のように雪にすっぽり包まれた宿に泊まり、夕食のとき世話をしてくれた宿の女性に、本当に綺麗な素晴らしい雪景色が見られて・・・と喜んで話していたら、「いえ、そりゃぁお客さんがたにはそうでしょうけれど、私らにとってはもう大変な災難ですよ。雪下ろしの人手も足らないし、いまも帰ったらうちがつぶれとりゃせんかと心配です・・・」と本当に真剣な顔で言われたので、いや、これは・・・と浮かれた調子の軽い話をしかけて申し訳なかったな、と思ったことがありました。
あのときもし私が、でもみんなで雪下ろしをやったりして、村の人のきずなも深くなって、いっそう村のみんなが仲良くなれますよね、なんて言ったらどんな顔をされたろう、と「雪国であること」についての部分を読んで連想したものだから、つい笑ってしまったのです。
ところで、掛谷が昭和51年頃に調査した時点で39戸、137人だった瀬戸の戸数、人口は、ネットで調べてみると、平成22年の国勢調査時点で24戸、52人となってさらに過疎化が進んでいるようでした。2人世帯が13世代で、おそらくこの2人世帯は掛谷の調査のときにも註しているように老夫婦でしょう。65歳以上が人口の57.7%でした。いまはもっと高い比率でしょう。24世帯のうち非就業者世帯が14世帯58.3%を占め、就業者は19人36.5%に過ぎません。
瀬戸の昭和30年以降の道行の特殊性を支えた山友建設は、瀬戸から同じ南越前町の湯尾というJR北陸線の湯尾駅の近くに移ってまだ営業を続けているようです。ネットのホームページでは従業員10名とされているから調査当時より規模は小さいようですが、この種の産業では機械化、IT化で高度化、省力化が図られてコンパクトになった可能性があるから、必ずしも経営規模が小さくなった、とは言えないかもしれません。
掛谷の論文の「注」のところに、山友建設の男性の平均日当が5500円、女性が3200円とありました。いまウェブでの求人広告での同企業の提示する給与は建設・土木作業員で9,000~12,500円、別途土木施工管理技術士の有資格者も求められていました。社長はやはり?(笑)伊藤さんという姓の方でしたが、瀬戸との関連まではわかりません。
掛谷の論文には、平家の落人が4人この瀬戸に住みついて、「伊藤」家はその唯一今日まで残った家系という話で、瀬戸には伊藤姓が多いのだそうです。
そういえば、瀬戸には伊藤氏庭園という昭和7年に指定された国指定の名勝である江戸時代中期の築山林泉式庭園があり、掛谷のこの論文でも触れられています。きっと掛谷も調査のときに訪れて、このあたりに座って庭を眺めていたんだろうな、と思って見たのでした。
saysei at 23:28|Permalink│Comments(0)│
2018年01月22日
『君たちはどう生きるか』再読
いま書店にいくと、どこでも吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が平積みになっていて、同じ場所に眼鏡をかけた、ちょっと大人しく内省的なお坊ちゃん風の中学生らしい肖像のイラストが表紙に描かれた大判の本が立ててあって、麗々しく「君たちはどう生きるか」という宣伝文句が掲げられているのを目にするでしょう。
少し前から気にはなっていたのですが、別に店頭でページを開くわけでもないので大型本がマンガだとも知らぬまま、雑誌の特集か何かかと思い、なんであの本が雑誌でいまごろ取り上げられたリしているんだろう?・・・なんて、食事のとき、その話題を出したら、私より世情にうとくないパートナーが、あれはマンガ本が出てベストセラーになって、古い本もまた再刊されて同じようにベストセラーになってんのよ、と教えてくれました。
実はこの本はたぶん中学に入ってすぐくらいだと思いますが(記憶違いでもっと前かもしれないし、もっとあとかもしれないけれど)、誰かにもらったか、あるいは学校の先生の勧めで買ったかして読んだことがあります。先生の勧めだとすれば、ほぼ確実に清水先生という、中学に入ってすぐに現代国語を教わった退職間近の老先生でした。
眼鏡をかけた小柄な、いつも笑顔の可愛らしい、愛されるおじいちゃん、という感じの先生でしたが、一番最初の授業では忘れもしない、いきなり何も見ないで黒板に綺麗な字で、漢詩を原文のまま書きだしたのです。それが朱熹の「偶成」でした。
少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んず可からず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉すでに秋声
・・・「池塘春草」って何だっけ、ともう中身のほうは忘れていますが、短いせいか、記憶力の悪い私も、いまだに読み下しは、すっと出てきます。この歳になって(そしてけっこう長い間教員などやった身で)思うのですが、こういうの・・・つまり人の胸に生涯残るような言葉を刻みつけることができるようなのが、本当の教育ってものなんだろうな、とつくづく思います。私はなにひとつそういう意味では教育なんかできなかった。恥じ入るばかり。
清水先生は多少教育者嫌いというか敬遠したいところのある私のような人間にとっても、いつ思い出しても温かい気持ちで、もちろん尊敬と親しみの念をもって思い浮かべられる先生です。彼は毎回の授業で、当時はコピー機だのいまのような印刷機なんて学校にはないから、すべていわゆるガリ版刷り(謄写版)で、おびただしいプリントを刷ってきて全員に配布してくれました。
それはもう、自分が配布するプリントだけで中学生が1年間読むべき最低の読書量を満たしてやる、とでも言わんばかりの圧倒的な量でした。
そんな先生だから、いつもあれを読め、これは面白いよ、といろんな本を紹介し、勧めてくれました。だから、「君たちはどう生きるか」も先生が勧めてくださって読んだという確率はかなり高いと思っています。
それはさておき、今回、パートナーの言葉を聴いて、それじゃもう一回読んでみよう、と岩波文庫を買ってきて、昨夜一気に読んでしまいました。マンガのほうはまぁいずれ(笑)
本の中身は、実はかなり覚えていました。60年くらい前に読んだとき、心を動かされたので、コペル君が親友たちをいわば裏切って苦しむ経緯も、そこから立ち直って行く事情も、強く印象に残っていたのです。
そこには思春期の誰もが、多かれ少なかれ遭遇し、傷つき、挫けそうになりながら、なんとか周囲の助力も得ながら乗り越えていく、思春期の魂が成長していく内在的なドラマが、一定の抽象度を保ちながらも、非常にやさしい、身近な材料で、そして少年の視点で巧みに描かれていて、小説でもなくエッセイでもなく教科書でもなくハウツー本でもない、中学生向きの人生読本とでもいうほかない内容なのに、説教臭い嫌味もなく、難しい抽象的な言葉もなく、実にすなおに、自分に引き付けて読み、おそらく誰にとっても思い当たるところがあるある、と感じられ、そのような体験の意味を自然に考えさせられ、目からうろこが落ちるような気持ちにさせられる、そんな書物です。
コペル君と叔父さんの関係はよく覚えていたし北見君や浦川君のこと、少し影は薄いけれど親友の水谷君のことも、名前は忘れていたけれどよくよく記憶していて、浦川君の家に行った日のこと、油揚げ事件のこと、雪の日のこと、読むと懐かしく思い出されました。ニュートンのリンゴの話も水谷君のちょっとお姉さんぶったお姉さんのナポレオンの話も、あったことを覚えていました。
人倫的な部分はよく覚えていましたが、今回あらためて読んでみて感心したのは、それ以外の、私がほとんど忘れていた部分、というより、当時読んでも気づかなかったのであろうような部分でした。
それは例えば、ほぼ冒頭の、コペル君が叔父さんと銀座のデパートの屋上にいて、霧雨の降る中、下の銀座通りを見下ろしていて、その底を通って行く自動車の無数の人々の姿を眺めていて、その光景を暗い冬の海のように感じ、「この海の下に人間が生きているんだ」と考え、その夥しい数の人間たちを「水の分子」のようだと考える、「へんな体験」からの展開の部分です。
人間を分子のようだと思った、そのコペル君に、叔父さんは「そのことは、ようく覚えておきたまえ。たいへん、だいじなことなんだよ。」と言います。
その夜、叔父さんは後にコペル君にも見せることになるノートに、この日コペル君に起きた転回の意味を書きつけます。それは、コペル君(こと潤一君)がそれまでの自分中心にしか世界を見ることができない、子供にはあたりまえの「ものの見方」から、「広い世の中の一分子として」自分を見るという「ものの見方」への転回を経験したことは、中世の人々がみな信じた自分たちの住む地球中心の考え方である天動説からコペルニクスの地動説への革命と同じように、「ものの見方」の決定的な転回なのだ、と。
そして、広い世の中の事を知るためには、あるいはまた、宇宙の大きな真理を知るためには、自分中心の天動説的な考え方を捨てなければならないのだよ、と。
このように日常的な少年のささやかな経験の意味を掘り下げ、そのことの意味を、少年のこれからの成長につながっていく、より広い世界へ出ていく上で大切な武器となるような、普遍的なものの考え方へと関わらせながら解き明かしていく、その手際の鮮やかさにあらためて感心したのです。(ちなみに、潤一の「コペル君」という印象的な綽名も、叔父さんがこのエピソードに因んでそう呼んだことから、友人の間にも意味が知られぬままに拡がって定着したものです。)
ニュートンのリンゴの話も、そういう話題があったことはよく覚えていましたが、問題はニュートンが万有引力の法則を発見したということではなく、叔父さんの問いかけが「ニュートンはリンゴの実の落ちるのを見て、なぜ万有引力の思想にまで展開できたのか」ということだった、という話であったらしいことは、まったく覚えていなかったのです。
叔父さんによれば、ニュートンの「発見」は地球上の物体に働く重力と、天体の間に働く引力とを結びつけて、それが同じ性質のものだと実証したところにあるので、この二つの力が彼の頭の中でどうして結びつくことができたのか、それが問題だ、というのです。これはいまこの問いだけ抜き出されて私に問われても、詰まって答えられないです。私も理学部出身なのですが・・・(笑)
叔父さんは学生のころ「理学部の友人」に聴いたというニュートンの頭の中で展開された考えについての推測を、コペル君に話して聞かせます。
それは、まずはリンゴが落ちたとき或る考えがひらめいただろうが、「肝心なのはそれから」で、リンゴは3,4メートルの高さから落ちたのだろうが、ニュートンはそれが10メートルだったらどうだろう?と考えた、と。
では20メートルなら?100メートルなら?・・・そうして何万メートルの高さを越してとうとう月の高さまでいったと考えたら、それでもリンゴは落ちて来るだろうか・・・
月は落ちて来ない。それは地球が月を引っ張っている力と、月が回ってどこかへ飛んで行ってしまおうとする力とがちょうど釣り合っているからだ。
天体同士の間に引力が働いている、という考えはニュートン以前にもあったけれど、だれもそれを地球上の物体に働く重力と同じ性質のものだと考えなかった、それを苦労して実証したところにニュートンの発見があったんだ、と。
叔父さんはニュートンの偉大さを、ただリンゴが落ちたのを見て、ハッとひらめいた、という思い付きだけにあるのではなく、それが二つの力の同じ性質によるものだということに考えをすすめ、それを大変な計算の苦労をして実証していく、そのプロセスを成し遂げたことにあると強調します。
こういう展開には舌を巻きました。これほど中学生にもわかりやすい身近な世界から、科学というものがどういうものであるのか、その価値はどこにあるのか、偉大な科学者が成し遂げてきたことの意味を分かりやすい言葉で語った例は稀だと思います。
こうしたことのほかに、今回気づいたのは、コペル君や彼の友人の多くがかなり経済的にも豊かなハイソサエティに属する家庭の子弟らしい、ということでした。
冒頭でコペル君のお父さんが2年前に亡くなっていることが明かされ、大銀行の重役だった父親が亡くなったのち、一家はそれまでの旧市内の邸宅から郊外の「小ぢんまりした家」に引っ越した、と書かれています。
ところがそれに続いて、「召使の数もへらして、お母さんとコペル君の外には、ばあやと女中が一人、すべてで四人の暮しになりました。」とあるのです。
いまの若い人なら、おいおい、家族以外にばあやと女中まで置いて「小ぢんまりした家」だって?と驚くでしょう。
でも戦前の大銀行の重役だった家の話なら、不思議はありません。ちなみに、戦前は大学の先生もこの「小ぢんまりした」家くらいの環境で、「ばあやと女中が一人」くらいは置ける程度の給料はもらっていたのです。いまそんな暮らしができるセンセーは副業でベストセラーなんか書いているタレント先生くらいでしょう(笑)
豆腐屋の息子浦川君がイジメに遭う背景を作者はこんなふうに書いています。
「こんなに、みんなが浦川君を馬鹿にするのは、浦川君の恰好がおかしいためとか、学業があまり出来ないためとかいうほかに、もう一つその理由がありました。それは、浦川君の身なりとか、持物とか、ーー いや、浦川君の笑い方や口のきき方まで、すべてが貧乏臭く、田舎染みているということです。浦川君のうちは豆腐屋さんでした。ところが同級の生徒は、たいてい、有名な実業家や役人や、大学教授、医者、弁護士などの子供たちでした。その中にまじると、浦川君の育ちは、どうしても争えませんでした。浦川君のように、洗濯屋に出さずにうちで洗濯したカラーをしていたり、古手拭を半分に切ってハンケチにしている者は、ほかには一人もありませんでした。」
いまで言えば、名の知れた塾にさんざんお金を払って受験勉強をさせてもらわないと合格しないような学費の高い私立の有名進学校みたいなところですよね。「有名な実業家や役人、大学教授、医者、弁護士」などの子弟が通う学校なのですね。
もちろん昔は高等教育への進学率自体が、いまとは比べ物にならないほど低いので、中学校(5年制)に行かせてもらえるような家庭は、多かれ少なかれ経済的に一定以上の水準に限られた、ということがありますが。
それはともかく、こうした背景があるので、主人公のコペル君も幼いときから家庭教育がしっかりした知的環境に育ち、本なども結構読んでいるので、そう勉強しなくても成績は良く、お行儀もよい、いいうちの坊ちゃま、だけどただ経済的に豊かなだけで成金の無教養な家庭で甘やかされたわがまま坊主でもなければ頭の弱いバカ息子でもなく、どちらかと言えば知的で、内向的なキャラの少年として設定されています。
水谷君は父親が存命時代のコペル君の家庭のように経済的に豊かな大邸宅に住む何不自由ない暮らし向きの家庭のようですし、北見君は然るべき地位の軍人の家庭としての特色があり、浦川君はお豆腐屋さんの息子で、ごく庶民的な家庭です。こんなふうに親友たちの家庭環境が当時の多様な家庭のありように描かれ、性格もそれを反映したものとしてうまく描かれています。
私は実はこの本を再読するまで、この本が戦後に出版された本だと思っていました。
ですから、今回読んでいて、いまではポリティカル・コレクトネスの観点できっと禁句になっているに違いないような、「女中」というふうな言葉が出て来て、自分が裏切った親友たちに宛てた謝罪の手紙を、コペル君が「女中を呼んで、それをすぐに出しにやりました」というような記述を読んで、あらためて、この本が戦前というか戦中、盧溝橋事件の起きた1937年に出版されたものであることを驚きと共に重く受け止めました。
私の記憶の中にそういう言葉につまづいた違和感に類するものがないのは、ひょっとしたら、戦中のそうした記述が修正あるいは削除された戦後版で読んだのかもしれません。
巻末の丸山真男の回想の追記を見ると、第一の変更が、1956年の新潮社による『日本少国民文庫』再編集のときらしいので、或いは私が読んだのはこの再編集版だったかもしれません。『日本少国民文庫』版より40枚も短縮されていたそうですから、1937年版からみればずいぶん変更が加えられたものだったのでしょう。
そのあと1967年にポプラ社から『ジュニア版吉野源三郎全集』の第一巻に収められるに際して作者がかなり書き換えたようですが、出版時期からみて私が読んだものはそれではなさそうです。体裁も私が読んだのは全集本の一冊でも文庫本でもなく、たしか箱に入っていたのではないかと思うのですが、ハードカバーの単行本だったように記憶しています。
今回再読したのは1937年版をもとにした岩波文庫版で、第一刷が1982年刊、私の手にあるのは昨年暮れに出た第80刷です。
いま読めば若い人にとっては、こまかいところで今では使われない「女中」のような言葉につまづくところはあるでしょう。でも上の浦川君についての記述に見るように、世の中でポリティカルコレクトネスが喧しく言われるようになる前の、剥き出しの率直な言葉は、今読むとかえって、今の人がなるべく近寄らずに目を背けて通り過ぎたい微妙な問題を、正面から直視し、あからさまに描きだし、かつ鋭く抉り出すことで、それを克服していく道を指し示すような力強さ、潔さを感じる記述のように思われます。
この浦川君について、叔父さんがコペル君にノートの中で語り掛ける言葉は、いま読んでもハッとさせられるところがあります。
それはコペル君が自分のうちよりずっと貧しい浦川君の家庭を訪ねたあとで、叔父さんは、コペル君が決して浦川君を貧しさゆえに侮ったりしない、コペル君の父親が願った「立派な人」に恥じない態度であったことに安堵しますが、それに加えて、ただ立派な人になるという学校の修身で諭すようなこととは一味違った観点から問いかける部分です。
彼は言います。なるほど、貧しい境遇に育って、ただ身体を働かせて生きて来たという人たちには、大人になっても、コペル君ほどの知識も持っていない人は多い。しかし見方を変えると、あの人々こそ、この世の中全体をがっしりとその肩にかついでいる人だ、と。
世の中の人が生きてゆくために必要なものは、どれ一つとして人間の労働の産物でないものはない。学芸や芸術だって、そのために必要なものはみなあの人々が額に汗して作り出したものだ。あの人々のあの労働なしには、文明も無ければ、世の中の進歩もありはしない。
ところで、君自身はどうだろう。君自身は何を作り出しているだろう。・・・毎日三度の食事、お菓子、鉛筆、インキ、ペン、紙類・・・着物や靴や机、住む家にいたるまで、なし崩しに消費しているわけで、君の生活というものは消費専門家の生活といっていいね。・・・
・・・こうして叔父さんは、「生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ」「学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心の人なんだ」と言い、「だから、君は、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、決して見落とさないようにしてゆきたまえ。」
浦川君についても、「まだ年がいかないけれど、この世の中で、ものを生み出す人の側に、もう立派にはいっているじゃあないか。浦川君の洋服に油揚げのにおいがしみこんでいることは、浦川君の誇りにはなっても、決して恥になることじゃあない。」と。
ここにも、身近な差別される友人の問題から、世の中の仕組み、その中で何が人間にとって大切かという生きる意味に至るまで、生産と消費という分かりやすいキーワードで実に鮮やかにつないでいます。ここでは古くからの「立派な人間」の徳目と古典マルクス主義の洗礼を受けた進歩的な社会観の幸福な融合が奏でる牧歌が聞こえるようです。
それが少し古典的なものに感じられはしても、決して説教臭くも教条主義的にも聞こえないのは、このような思想が著者の血肉になったものであることと、あくまでも中学生の視点で身近な世界から言葉を紡ぐように語られている語り口のせいでしょう。
来年は中学生になる孫に、この本はプレゼントしてあげたいと思います。巻末の回想で、すでに大学の助手として研究者の歩みを踏み出した歳の丸山真男が、年頃の近い作中の「叔父さん」にではなく、彼に導かれるコペル君の立場に自分を同化して「心を揺り動かされた」とまで書いているように、大人が読んでも心動かされるところの多い本なので、まだお読みになっていない方にはお勧めです。
少し前から気にはなっていたのですが、別に店頭でページを開くわけでもないので大型本がマンガだとも知らぬまま、雑誌の特集か何かかと思い、なんであの本が雑誌でいまごろ取り上げられたリしているんだろう?・・・なんて、食事のとき、その話題を出したら、私より世情にうとくないパートナーが、あれはマンガ本が出てベストセラーになって、古い本もまた再刊されて同じようにベストセラーになってんのよ、と教えてくれました。
実はこの本はたぶん中学に入ってすぐくらいだと思いますが(記憶違いでもっと前かもしれないし、もっとあとかもしれないけれど)、誰かにもらったか、あるいは学校の先生の勧めで買ったかして読んだことがあります。先生の勧めだとすれば、ほぼ確実に清水先生という、中学に入ってすぐに現代国語を教わった退職間近の老先生でした。
眼鏡をかけた小柄な、いつも笑顔の可愛らしい、愛されるおじいちゃん、という感じの先生でしたが、一番最初の授業では忘れもしない、いきなり何も見ないで黒板に綺麗な字で、漢詩を原文のまま書きだしたのです。それが朱熹の「偶成」でした。
少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んず可からず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉すでに秋声
・・・「池塘春草」って何だっけ、ともう中身のほうは忘れていますが、短いせいか、記憶力の悪い私も、いまだに読み下しは、すっと出てきます。この歳になって(そしてけっこう長い間教員などやった身で)思うのですが、こういうの・・・つまり人の胸に生涯残るような言葉を刻みつけることができるようなのが、本当の教育ってものなんだろうな、とつくづく思います。私はなにひとつそういう意味では教育なんかできなかった。恥じ入るばかり。
清水先生は多少教育者嫌いというか敬遠したいところのある私のような人間にとっても、いつ思い出しても温かい気持ちで、もちろん尊敬と親しみの念をもって思い浮かべられる先生です。彼は毎回の授業で、当時はコピー機だのいまのような印刷機なんて学校にはないから、すべていわゆるガリ版刷り(謄写版)で、おびただしいプリントを刷ってきて全員に配布してくれました。
それはもう、自分が配布するプリントだけで中学生が1年間読むべき最低の読書量を満たしてやる、とでも言わんばかりの圧倒的な量でした。
そんな先生だから、いつもあれを読め、これは面白いよ、といろんな本を紹介し、勧めてくれました。だから、「君たちはどう生きるか」も先生が勧めてくださって読んだという確率はかなり高いと思っています。
それはさておき、今回、パートナーの言葉を聴いて、それじゃもう一回読んでみよう、と岩波文庫を買ってきて、昨夜一気に読んでしまいました。マンガのほうはまぁいずれ(笑)
本の中身は、実はかなり覚えていました。60年くらい前に読んだとき、心を動かされたので、コペル君が親友たちをいわば裏切って苦しむ経緯も、そこから立ち直って行く事情も、強く印象に残っていたのです。
そこには思春期の誰もが、多かれ少なかれ遭遇し、傷つき、挫けそうになりながら、なんとか周囲の助力も得ながら乗り越えていく、思春期の魂が成長していく内在的なドラマが、一定の抽象度を保ちながらも、非常にやさしい、身近な材料で、そして少年の視点で巧みに描かれていて、小説でもなくエッセイでもなく教科書でもなくハウツー本でもない、中学生向きの人生読本とでもいうほかない内容なのに、説教臭い嫌味もなく、難しい抽象的な言葉もなく、実にすなおに、自分に引き付けて読み、おそらく誰にとっても思い当たるところがあるある、と感じられ、そのような体験の意味を自然に考えさせられ、目からうろこが落ちるような気持ちにさせられる、そんな書物です。
コペル君と叔父さんの関係はよく覚えていたし北見君や浦川君のこと、少し影は薄いけれど親友の水谷君のことも、名前は忘れていたけれどよくよく記憶していて、浦川君の家に行った日のこと、油揚げ事件のこと、雪の日のこと、読むと懐かしく思い出されました。ニュートンのリンゴの話も水谷君のちょっとお姉さんぶったお姉さんのナポレオンの話も、あったことを覚えていました。
人倫的な部分はよく覚えていましたが、今回あらためて読んでみて感心したのは、それ以外の、私がほとんど忘れていた部分、というより、当時読んでも気づかなかったのであろうような部分でした。
それは例えば、ほぼ冒頭の、コペル君が叔父さんと銀座のデパートの屋上にいて、霧雨の降る中、下の銀座通りを見下ろしていて、その底を通って行く自動車の無数の人々の姿を眺めていて、その光景を暗い冬の海のように感じ、「この海の下に人間が生きているんだ」と考え、その夥しい数の人間たちを「水の分子」のようだと考える、「へんな体験」からの展開の部分です。
人間を分子のようだと思った、そのコペル君に、叔父さんは「そのことは、ようく覚えておきたまえ。たいへん、だいじなことなんだよ。」と言います。
その夜、叔父さんは後にコペル君にも見せることになるノートに、この日コペル君に起きた転回の意味を書きつけます。それは、コペル君(こと潤一君)がそれまでの自分中心にしか世界を見ることができない、子供にはあたりまえの「ものの見方」から、「広い世の中の一分子として」自分を見るという「ものの見方」への転回を経験したことは、中世の人々がみな信じた自分たちの住む地球中心の考え方である天動説からコペルニクスの地動説への革命と同じように、「ものの見方」の決定的な転回なのだ、と。
そして、広い世の中の事を知るためには、あるいはまた、宇宙の大きな真理を知るためには、自分中心の天動説的な考え方を捨てなければならないのだよ、と。
このように日常的な少年のささやかな経験の意味を掘り下げ、そのことの意味を、少年のこれからの成長につながっていく、より広い世界へ出ていく上で大切な武器となるような、普遍的なものの考え方へと関わらせながら解き明かしていく、その手際の鮮やかさにあらためて感心したのです。(ちなみに、潤一の「コペル君」という印象的な綽名も、叔父さんがこのエピソードに因んでそう呼んだことから、友人の間にも意味が知られぬままに拡がって定着したものです。)
ニュートンのリンゴの話も、そういう話題があったことはよく覚えていましたが、問題はニュートンが万有引力の法則を発見したということではなく、叔父さんの問いかけが「ニュートンはリンゴの実の落ちるのを見て、なぜ万有引力の思想にまで展開できたのか」ということだった、という話であったらしいことは、まったく覚えていなかったのです。
叔父さんによれば、ニュートンの「発見」は地球上の物体に働く重力と、天体の間に働く引力とを結びつけて、それが同じ性質のものだと実証したところにあるので、この二つの力が彼の頭の中でどうして結びつくことができたのか、それが問題だ、というのです。これはいまこの問いだけ抜き出されて私に問われても、詰まって答えられないです。私も理学部出身なのですが・・・(笑)
叔父さんは学生のころ「理学部の友人」に聴いたというニュートンの頭の中で展開された考えについての推測を、コペル君に話して聞かせます。
それは、まずはリンゴが落ちたとき或る考えがひらめいただろうが、「肝心なのはそれから」で、リンゴは3,4メートルの高さから落ちたのだろうが、ニュートンはそれが10メートルだったらどうだろう?と考えた、と。
では20メートルなら?100メートルなら?・・・そうして何万メートルの高さを越してとうとう月の高さまでいったと考えたら、それでもリンゴは落ちて来るだろうか・・・
月は落ちて来ない。それは地球が月を引っ張っている力と、月が回ってどこかへ飛んで行ってしまおうとする力とがちょうど釣り合っているからだ。
天体同士の間に引力が働いている、という考えはニュートン以前にもあったけれど、だれもそれを地球上の物体に働く重力と同じ性質のものだと考えなかった、それを苦労して実証したところにニュートンの発見があったんだ、と。
叔父さんはニュートンの偉大さを、ただリンゴが落ちたのを見て、ハッとひらめいた、という思い付きだけにあるのではなく、それが二つの力の同じ性質によるものだということに考えをすすめ、それを大変な計算の苦労をして実証していく、そのプロセスを成し遂げたことにあると強調します。
こういう展開には舌を巻きました。これほど中学生にもわかりやすい身近な世界から、科学というものがどういうものであるのか、その価値はどこにあるのか、偉大な科学者が成し遂げてきたことの意味を分かりやすい言葉で語った例は稀だと思います。
こうしたことのほかに、今回気づいたのは、コペル君や彼の友人の多くがかなり経済的にも豊かなハイソサエティに属する家庭の子弟らしい、ということでした。
冒頭でコペル君のお父さんが2年前に亡くなっていることが明かされ、大銀行の重役だった父親が亡くなったのち、一家はそれまでの旧市内の邸宅から郊外の「小ぢんまりした家」に引っ越した、と書かれています。
ところがそれに続いて、「召使の数もへらして、お母さんとコペル君の外には、ばあやと女中が一人、すべてで四人の暮しになりました。」とあるのです。
いまの若い人なら、おいおい、家族以外にばあやと女中まで置いて「小ぢんまりした家」だって?と驚くでしょう。
でも戦前の大銀行の重役だった家の話なら、不思議はありません。ちなみに、戦前は大学の先生もこの「小ぢんまりした」家くらいの環境で、「ばあやと女中が一人」くらいは置ける程度の給料はもらっていたのです。いまそんな暮らしができるセンセーは副業でベストセラーなんか書いているタレント先生くらいでしょう(笑)
豆腐屋の息子浦川君がイジメに遭う背景を作者はこんなふうに書いています。
「こんなに、みんなが浦川君を馬鹿にするのは、浦川君の恰好がおかしいためとか、学業があまり出来ないためとかいうほかに、もう一つその理由がありました。それは、浦川君の身なりとか、持物とか、ーー いや、浦川君の笑い方や口のきき方まで、すべてが貧乏臭く、田舎染みているということです。浦川君のうちは豆腐屋さんでした。ところが同級の生徒は、たいてい、有名な実業家や役人や、大学教授、医者、弁護士などの子供たちでした。その中にまじると、浦川君の育ちは、どうしても争えませんでした。浦川君のように、洗濯屋に出さずにうちで洗濯したカラーをしていたり、古手拭を半分に切ってハンケチにしている者は、ほかには一人もありませんでした。」
いまで言えば、名の知れた塾にさんざんお金を払って受験勉強をさせてもらわないと合格しないような学費の高い私立の有名進学校みたいなところですよね。「有名な実業家や役人、大学教授、医者、弁護士」などの子弟が通う学校なのですね。
もちろん昔は高等教育への進学率自体が、いまとは比べ物にならないほど低いので、中学校(5年制)に行かせてもらえるような家庭は、多かれ少なかれ経済的に一定以上の水準に限られた、ということがありますが。
それはともかく、こうした背景があるので、主人公のコペル君も幼いときから家庭教育がしっかりした知的環境に育ち、本なども結構読んでいるので、そう勉強しなくても成績は良く、お行儀もよい、いいうちの坊ちゃま、だけどただ経済的に豊かなだけで成金の無教養な家庭で甘やかされたわがまま坊主でもなければ頭の弱いバカ息子でもなく、どちらかと言えば知的で、内向的なキャラの少年として設定されています。
水谷君は父親が存命時代のコペル君の家庭のように経済的に豊かな大邸宅に住む何不自由ない暮らし向きの家庭のようですし、北見君は然るべき地位の軍人の家庭としての特色があり、浦川君はお豆腐屋さんの息子で、ごく庶民的な家庭です。こんなふうに親友たちの家庭環境が当時の多様な家庭のありように描かれ、性格もそれを反映したものとしてうまく描かれています。
私は実はこの本を再読するまで、この本が戦後に出版された本だと思っていました。
ですから、今回読んでいて、いまではポリティカル・コレクトネスの観点できっと禁句になっているに違いないような、「女中」というふうな言葉が出て来て、自分が裏切った親友たちに宛てた謝罪の手紙を、コペル君が「女中を呼んで、それをすぐに出しにやりました」というような記述を読んで、あらためて、この本が戦前というか戦中、盧溝橋事件の起きた1937年に出版されたものであることを驚きと共に重く受け止めました。
私の記憶の中にそういう言葉につまづいた違和感に類するものがないのは、ひょっとしたら、戦中のそうした記述が修正あるいは削除された戦後版で読んだのかもしれません。
巻末の丸山真男の回想の追記を見ると、第一の変更が、1956年の新潮社による『日本少国民文庫』再編集のときらしいので、或いは私が読んだのはこの再編集版だったかもしれません。『日本少国民文庫』版より40枚も短縮されていたそうですから、1937年版からみればずいぶん変更が加えられたものだったのでしょう。
そのあと1967年にポプラ社から『ジュニア版吉野源三郎全集』の第一巻に収められるに際して作者がかなり書き換えたようですが、出版時期からみて私が読んだものはそれではなさそうです。体裁も私が読んだのは全集本の一冊でも文庫本でもなく、たしか箱に入っていたのではないかと思うのですが、ハードカバーの単行本だったように記憶しています。
今回再読したのは1937年版をもとにした岩波文庫版で、第一刷が1982年刊、私の手にあるのは昨年暮れに出た第80刷です。
いま読めば若い人にとっては、こまかいところで今では使われない「女中」のような言葉につまづくところはあるでしょう。でも上の浦川君についての記述に見るように、世の中でポリティカルコレクトネスが喧しく言われるようになる前の、剥き出しの率直な言葉は、今読むとかえって、今の人がなるべく近寄らずに目を背けて通り過ぎたい微妙な問題を、正面から直視し、あからさまに描きだし、かつ鋭く抉り出すことで、それを克服していく道を指し示すような力強さ、潔さを感じる記述のように思われます。
この浦川君について、叔父さんがコペル君にノートの中で語り掛ける言葉は、いま読んでもハッとさせられるところがあります。
それはコペル君が自分のうちよりずっと貧しい浦川君の家庭を訪ねたあとで、叔父さんは、コペル君が決して浦川君を貧しさゆえに侮ったりしない、コペル君の父親が願った「立派な人」に恥じない態度であったことに安堵しますが、それに加えて、ただ立派な人になるという学校の修身で諭すようなこととは一味違った観点から問いかける部分です。
彼は言います。なるほど、貧しい境遇に育って、ただ身体を働かせて生きて来たという人たちには、大人になっても、コペル君ほどの知識も持っていない人は多い。しかし見方を変えると、あの人々こそ、この世の中全体をがっしりとその肩にかついでいる人だ、と。
世の中の人が生きてゆくために必要なものは、どれ一つとして人間の労働の産物でないものはない。学芸や芸術だって、そのために必要なものはみなあの人々が額に汗して作り出したものだ。あの人々のあの労働なしには、文明も無ければ、世の中の進歩もありはしない。
ところで、君自身はどうだろう。君自身は何を作り出しているだろう。・・・毎日三度の食事、お菓子、鉛筆、インキ、ペン、紙類・・・着物や靴や机、住む家にいたるまで、なし崩しに消費しているわけで、君の生活というものは消費専門家の生活といっていいね。・・・
・・・こうして叔父さんは、「生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ」「学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心の人なんだ」と言い、「だから、君は、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、決して見落とさないようにしてゆきたまえ。」
浦川君についても、「まだ年がいかないけれど、この世の中で、ものを生み出す人の側に、もう立派にはいっているじゃあないか。浦川君の洋服に油揚げのにおいがしみこんでいることは、浦川君の誇りにはなっても、決して恥になることじゃあない。」と。
ここにも、身近な差別される友人の問題から、世の中の仕組み、その中で何が人間にとって大切かという生きる意味に至るまで、生産と消費という分かりやすいキーワードで実に鮮やかにつないでいます。ここでは古くからの「立派な人間」の徳目と古典マルクス主義の洗礼を受けた進歩的な社会観の幸福な融合が奏でる牧歌が聞こえるようです。
それが少し古典的なものに感じられはしても、決して説教臭くも教条主義的にも聞こえないのは、このような思想が著者の血肉になったものであることと、あくまでも中学生の視点で身近な世界から言葉を紡ぐように語られている語り口のせいでしょう。
来年は中学生になる孫に、この本はプレゼントしてあげたいと思います。巻末の回想で、すでに大学の助手として研究者の歩みを踏み出した歳の丸山真男が、年頃の近い作中の「叔父さん」にではなく、彼に導かれるコペル君の立場に自分を同化して「心を揺り動かされた」とまで書いているように、大人が読んでも心動かされるところの多い本なので、まだお読みになっていない方にはお勧めです。
saysei at 15:21|Permalink│Comments(0)│
2018年01月21日
掛谷誠「小離島住民の生活の比較研究ートカラ列島、平島・悪石島」再読
学生時代の友人が修士課程にあがったころ書いた、たぶん卒論以降、研究者の卵として最初に書いた論文ではなかったかと思います。1972年の6月『民族学研究』に掲載されたらしく、先日出版された彼の著作集第1巻の冒頭に収録されています。
あのころは彼が書くものは抜き刷りか何かでみな送ってくれたので、すでに他学部へ移ってモラトリアム状態でまったく別の道へ・・・というより道を踏み外していったころの私も、それなりに読んだ記憶があって、懐かしい思い出を繙くようにページを繰っていくと、本当に彼の独特の声が聞こえてくるような気がしました。
彼はそのころ(以後もずっと)、恩師の方法を継承して、生態人類学を自分の方法と考えていたのですが、この論文は国内のほとんど最南端に位置する離島、トカラ列島のうちの2島をフィールドに選んで、その現状を記述、分析するに際して、とても素直に、そういって良ければ教科書的に生態人類学的な視点をとり、それによって導かれる展開の仕方で論述しています。
彼が選んだ島は、調査時点でそれぞれ26戸と戸数が等しく、人口も平島が110人、悪石島が150人という2つの南の果ての離島で、月に4回の船の便しかなく、それも天候など種々の事情で月に1度になることもあるような集落でした。
この島の現状を記述する上で、彼はまず自然条件をおさえます。離島という地理的条件、植生、水利等々。もちろん本土や他の島々との交通が極度に不便だという離島の性格が、この島の生業や社会関係のありようを維持していることは言うまでもないので、まずそれはきちんとおさえる。そして、自然条件の中で重要なことは水利で、その点で比較的豊富な湧き水に恵まれた平島と、湧き水のない悪石島との決定的な差異になって、水田稲作の比重の大きい平島と畑作のみの悪石島との生業の違いを生み出している点を著者は強調しています。
水田稲作は米食が日常的になった戦後社会の中で平島に自給自足の面でも現金収入の面でもアドバンテッジとなるけれども、一方で住民は多くの時間を要求する稲作の特徴から、或る意味で水田にしばりつけられた暮らしを余儀なくされます。これに対して水田稲作のできない悪石島では、米を買い、暮らしを立てるために現金収入を求めて、生業を多様化せざるを得ない。その分、生業活動の種類は多様になります。
このことを掛谷は、「学童に毎日の父親の仕事の内容を、所定のカレンダーに指示した記号で記入してもらった資料をもとに」、生業活動を分析して、実証しています。
実際、悪石島の父親たちは、6~7月のトビウオ漁の高い比重を別にしても、平島の父親たちよりも多様な生業活動に従事していたようです。そして、本土復帰後(それまでは戦後、米国統治下にあった)はとくに大島紬の織りで6割台の家庭が現金収入を得る(平島は3割台)といったように、近代化により速やかに対応していくことになります。
こうして自然条件への適応から生産様式(生業のありかた)が導かれ、それはまた、生産関係(社会組織)の特徴を明らかにする、というふうに、手堅く一貫性のある論理展開で、平島、悪石島の特色を対照的にとらえることで、明瞭に浮かび上がらせていきます。
社会組織としては、もともとこの2島ともに、その離島として地理的条件に規定され、ほとんどが血縁で結ばれた親戚どうしの密接な関係をもっているのですが、それに加えて平島では生産様式としての生業活動の主体が水田耕作で、その同質性によって、家同士の関係が密であり、日常的に一緒に飲んだり食ったりお喋りしたりといった機会が多く、即自的な共同性が成り立っています。
これに対して悪石島のほうは、生業活動が多様であるごとく、娯楽等の時間の過ごし方も家族単位での行動が多く、ほうっておけばバラバラになってしまう遠心力が働いているはずです。それはもとより自然条件によって規定されたものではあるけれど、この離島にまで届く近代化の波が、いっそうその傾向に拍車をかけ、既存の生産様式を維持しにくくさせて、新たな生業へと個々人、個々の家庭を多様な生業活動へと追いやる、と。
しかし、他方で、この悪石島では、総代を頂点とするユーブニンと呼ばれる部落の正式の成員からなる青年、壮年の組織が堅固に維持されていて、祭り日には必ず集まってきて酒を飲み、食を共にし、共同性を確認しあっているという。しかしこの悪石島のように「祭り日を定めて島の男女が一重一瓶を持ち寄って宴をはるという光景」は、日常的な接触が頻繁に行われている平島では逆にみられない。
日常的な相互の接触が希薄化するということは、もちろん共同性が形式化することであるけれども、これを共同的な神事、祭事を保持することによって、島民としてのまとまりを維持しているのだと掛谷は論じています。言い換えれば、血縁による日常的、即自的、身体的な共同性の希薄化する分、いわばその共同性を幻想の共同性として疎外することによって、個々人や家族を観念として積分して、そこに働く水平的な遠心力をうまくやり過ごしながら、次元の異なる垂直軸の方向に求心力をかけていくということでしょう。
掛谷はこれが悪石島の、近代化への一種の適応の仕方だという理解をしているようです。伝統的な制度は近代化の波をかぶって変容せざるを得ません。平島のような同質的な生産様式と即自的な血縁集団の在り方が一体となった伝統的な生産様式=生産関係(社会組織)は、柔軟に変化することが難しい。
しかし、悪石島のような社会組織では個々人や個々の家族は生業の多様化で近代化の波に適応しつつ、伝統的な社会組織を即自的にはその変容、解体を受け容れながら、幻想の共同性として垂直軸の方向に形式化しつつもより一層強固な統合的機能を維持して、島社会全体としてのまとまりを保つ、そのような「社会変化への可塑性の高い適応」を示している、というのです。
掛谷のこのような、自然への適応→生産様式(生業活動のありかた)→生産関係(社会組織のありかた)という、人間と自然との関わりをベースに、社会の構造を、その生産様式から社会組織のあり方まで、一貫した論理で解き明かしていく展開は、いま再読しても、若き俊英にふさわしい、鮮やかで、手堅い論述だなぁと感心させられます。
その基礎を人と自然の関わりのありように置いて現在の社会を見ていく、彼の言う「生態人類学」的視点は、この論文のように時間軸を現代の断面で切りとる共時的な観点であっても、空間と時間の座標変換を行うなら、社会学などが理論的射程の範囲外に置き、古典的な経済学がちょうど古事記の神々の時代のように語ってきた「社会以前」の彼方の時間まで射程に収める視点だということができるでしょう。そこにはアダム・スミスが、誰のものでもない土地を耕し食物を作る人間の労働をいわば原像のように示して地代を説き、価値論を展開するときのような牧歌が聴こえてきます。
ただ、その後の彼の慟哭とも思えるような後期の彼の論文や生身の彼の晩年の表情の暗さを知る者の目でいまこれを読むと、彼がまだ生態人類学者であることと自分の生き方との幸せな同致が信じられた幸せな時代にだけ許された牧歌のように見えます。
人類学の起こりというのは、大航海時代以来、ヨーロッパの探検家たちが「未開の地」を訪れた折に、そこに生きる原住民たちの暮らしに接し、これを自分たちの視点から眺めたときの素朴な驚嘆にあったに違いありません。
もとより、そうした西欧的な社会に暮らす人々が、自分たちの生きる社会が「進歩した社会」であり、その中心から離れた辺境の世界が多かれ少なかれ遅れた「未開」の社会だとみなす、一種の社会進化論的な発想には、のちに思想的にもレヴィ・ストロースのような人類学者が根源的な批判と修正を加えたことは、既に当時(掛谷や私たちが学生時代)もよく知られていました。
しかし現実には掛谷が対象にしたような社会は、国内の離島や山村であれ、アフリカの部族社会であれ、近代化の波の中で伝統的な社会のありようを侵食され、そこに生きる人々の生き方に根本的な変容を迫られるような社会でした。
(自然→生産力[生業活動]→生産関係[社会関係]、という論理展開は、著者のいう「近代化」で強いられる社会変容の、離島ゆえの遅延によって辛うじて成立するものだったのではないでしょうか。そして、その後彼が直面するのは、その論理の輪の一環である「自然→」が根こそぎぶっ飛んでしまうような事態ではなかったのか、とも思ってみるのです。)
もしいくらかでもそうした社会に生きる人たちに共感をおぼえ、自分の生き方と重ね合わせることに歓びを感じる知性であれば、そのような社会を「調査する」ということは、とうてい勝ち目のない戦に出ていく若者の背を来る日も来る日も見送るに等しい、最初から挽歌を歌うほかはない道程だったのではないか、という気がします。
掛谷のこのおそらくは最初の論文に牧歌的な香りが漂うように思えるのは、その悲劇が相克や闘争として描かれずに、「適応」という、ある種スタティックな絵として描かれているためではないかと思います。
もちろんそれは主観に属することというよりは、対象である平島や悪石島の半ば閉ざされた離島的環境ゆえにもたらされた客観的な猶予によるもので、著者自身が冒頭でこのモノグラフが「現状を中心にした分析」で、「島の生活のトータルな理解といく点からいえば・・・通時的な分析も重要だろう」として、「今後の課題」と記した、その考察へ踏み込んでいれば、スタティックな絵が少し動き出したかもしれない、などと思ってみます。
彼の論文を読みながら連想したのはこんなことです。
日本の産業界は中小・零細企業の比率が非常に高いのは周知のとおりですが、いまからざっと半世紀ほど前でしょうか、いわゆる第一次安保闘争のころに、日共系の経済学者の日本資本主義観というのは、少数の大企業とこの大多数の中小零細企業を、前者が後者を抑圧的に支配し、搾取する構造として対立的に見ていたところ、当時日共の影響下を脱した全学連系の若い活動理論家たちは、それら中小零細企業を大企業の支配する全体構造を支える不可欠の要素として補完的構造とみなす視点から分析していました。
後者は前者からは基本的な矛盾のもたらした構造を共時的な断面で切り取ってスタティックな「構造」とみなす「嵌め込み理論」だと批判されていましたが、資本主義社会の内的構造を分析する視点として、それは大雑把な矛盾論よりもずっと魅力的でした。なぜなら、戦後十数年を経て、その搾取、抑圧されているはずの圧倒的多数の中小・零細企業の労働者は、賃金上昇と労働時間の短縮の中で、いわゆる「革新」政党が煽るような政治的団結も革命へ向けての行動も起こすことなく、むしろ戦後復興期の闘争的な姿勢を後退させて安定を志向し、「一億総中流化」へ向かい、「革新」政党もまた、「反体制」の看板を下ろさないまま体制補完的な存在になっていく兆しを既に明瞭に実感していたので、そのような現実から立ち上がってきたその種のマイナーな思想に、遅れてきた世代としても共感するところがあったのです。
ダーウィンのいわゆる自然淘汰(いまは自然選択という言い方をするのでしょうか)も、私などが小学生のころは生存競争、生存闘争、という言い方が強調されていましたが、高校へいくころからでしょうか、あんまりそういう言い方は適切でない、というようなことが先生の口からもきかされるようになりましたね。かわって適者生存とか、なにが適者でなにが不適者なのかしらん、とよくわからないような言葉がよく使われたり・・・
いまの生物世界のありようをスタティックに眺めれば、これは自然環境に適応してきた種が生き残ってこうなっているんですよ、というのは分かりやすいですね。でももちろんそれは長い時間的な経過を経てこういう姿になってきたわけで、その過程が競争的であったか適応的であったかはまた別の議論です。たぶんどちらと決めつけられるようなものではないでしょうし、いまは遺伝学的ないわば分子レベルでの適応で説明されるのが普通なのかもしれません。ただ、私自身はたとえば生態学的な「棲み分け」のような環境適応の問題は空間軸を時間軸に変換するとき、どう理解されるのだろうなどということに、より関心を惹かれます。
連想で色々なことを思いましたが、のちに掛谷を苦しめることになるある種の二律背反的に見える社会の関係性とその動的な契機をどう理解するか、という問題は、国家や地域社会の政治的な力学や思惑、あるいは研究者が対象とどうかかわるかという問題を別としても、すでにこの初期論文の対象への向き合い方の中に胚胎していたのではないか、というのが再読して感じたことでした。
彼の初期の論文がアフリカの部族を対象としたものも含めて、駆け出しの研究者としての学界向きの「武装」を固めたスタイルをとっているために、つねに「研究」ということに「研究する自分とはなにか」、という自問を重ねないでは、どれほど学界で評価されるような「優れた」研究であっても、自分にとっては無意味だ、という彼を成り立たせている根幹の思想も、従って対象とするフィールドに生きる人々のいきざまに自らのいきざまを重ねずにはいられない彼の性癖も、あからさまに伺うことはできません。でも、その分だけ、客観的に見える叙述にまだ牧歌を聴けるかのように思えるのは、旧い友人としてはささやかな慰めです。
あのころは彼が書くものは抜き刷りか何かでみな送ってくれたので、すでに他学部へ移ってモラトリアム状態でまったく別の道へ・・・というより道を踏み外していったころの私も、それなりに読んだ記憶があって、懐かしい思い出を繙くようにページを繰っていくと、本当に彼の独特の声が聞こえてくるような気がしました。
彼はそのころ(以後もずっと)、恩師の方法を継承して、生態人類学を自分の方法と考えていたのですが、この論文は国内のほとんど最南端に位置する離島、トカラ列島のうちの2島をフィールドに選んで、その現状を記述、分析するに際して、とても素直に、そういって良ければ教科書的に生態人類学的な視点をとり、それによって導かれる展開の仕方で論述しています。
彼が選んだ島は、調査時点でそれぞれ26戸と戸数が等しく、人口も平島が110人、悪石島が150人という2つの南の果ての離島で、月に4回の船の便しかなく、それも天候など種々の事情で月に1度になることもあるような集落でした。
この島の現状を記述する上で、彼はまず自然条件をおさえます。離島という地理的条件、植生、水利等々。もちろん本土や他の島々との交通が極度に不便だという離島の性格が、この島の生業や社会関係のありようを維持していることは言うまでもないので、まずそれはきちんとおさえる。そして、自然条件の中で重要なことは水利で、その点で比較的豊富な湧き水に恵まれた平島と、湧き水のない悪石島との決定的な差異になって、水田稲作の比重の大きい平島と畑作のみの悪石島との生業の違いを生み出している点を著者は強調しています。
水田稲作は米食が日常的になった戦後社会の中で平島に自給自足の面でも現金収入の面でもアドバンテッジとなるけれども、一方で住民は多くの時間を要求する稲作の特徴から、或る意味で水田にしばりつけられた暮らしを余儀なくされます。これに対して水田稲作のできない悪石島では、米を買い、暮らしを立てるために現金収入を求めて、生業を多様化せざるを得ない。その分、生業活動の種類は多様になります。
このことを掛谷は、「学童に毎日の父親の仕事の内容を、所定のカレンダーに指示した記号で記入してもらった資料をもとに」、生業活動を分析して、実証しています。
実際、悪石島の父親たちは、6~7月のトビウオ漁の高い比重を別にしても、平島の父親たちよりも多様な生業活動に従事していたようです。そして、本土復帰後(それまでは戦後、米国統治下にあった)はとくに大島紬の織りで6割台の家庭が現金収入を得る(平島は3割台)といったように、近代化により速やかに対応していくことになります。
こうして自然条件への適応から生産様式(生業のありかた)が導かれ、それはまた、生産関係(社会組織)の特徴を明らかにする、というふうに、手堅く一貫性のある論理展開で、平島、悪石島の特色を対照的にとらえることで、明瞭に浮かび上がらせていきます。
社会組織としては、もともとこの2島ともに、その離島として地理的条件に規定され、ほとんどが血縁で結ばれた親戚どうしの密接な関係をもっているのですが、それに加えて平島では生産様式としての生業活動の主体が水田耕作で、その同質性によって、家同士の関係が密であり、日常的に一緒に飲んだり食ったりお喋りしたりといった機会が多く、即自的な共同性が成り立っています。
これに対して悪石島のほうは、生業活動が多様であるごとく、娯楽等の時間の過ごし方も家族単位での行動が多く、ほうっておけばバラバラになってしまう遠心力が働いているはずです。それはもとより自然条件によって規定されたものではあるけれど、この離島にまで届く近代化の波が、いっそうその傾向に拍車をかけ、既存の生産様式を維持しにくくさせて、新たな生業へと個々人、個々の家庭を多様な生業活動へと追いやる、と。
しかし、他方で、この悪石島では、総代を頂点とするユーブニンと呼ばれる部落の正式の成員からなる青年、壮年の組織が堅固に維持されていて、祭り日には必ず集まってきて酒を飲み、食を共にし、共同性を確認しあっているという。しかしこの悪石島のように「祭り日を定めて島の男女が一重一瓶を持ち寄って宴をはるという光景」は、日常的な接触が頻繁に行われている平島では逆にみられない。
日常的な相互の接触が希薄化するということは、もちろん共同性が形式化することであるけれども、これを共同的な神事、祭事を保持することによって、島民としてのまとまりを維持しているのだと掛谷は論じています。言い換えれば、血縁による日常的、即自的、身体的な共同性の希薄化する分、いわばその共同性を幻想の共同性として疎外することによって、個々人や家族を観念として積分して、そこに働く水平的な遠心力をうまくやり過ごしながら、次元の異なる垂直軸の方向に求心力をかけていくということでしょう。
掛谷はこれが悪石島の、近代化への一種の適応の仕方だという理解をしているようです。伝統的な制度は近代化の波をかぶって変容せざるを得ません。平島のような同質的な生産様式と即自的な血縁集団の在り方が一体となった伝統的な生産様式=生産関係(社会組織)は、柔軟に変化することが難しい。
しかし、悪石島のような社会組織では個々人や個々の家族は生業の多様化で近代化の波に適応しつつ、伝統的な社会組織を即自的にはその変容、解体を受け容れながら、幻想の共同性として垂直軸の方向に形式化しつつもより一層強固な統合的機能を維持して、島社会全体としてのまとまりを保つ、そのような「社会変化への可塑性の高い適応」を示している、というのです。
掛谷のこのような、自然への適応→生産様式(生業活動のありかた)→生産関係(社会組織のありかた)という、人間と自然との関わりをベースに、社会の構造を、その生産様式から社会組織のあり方まで、一貫した論理で解き明かしていく展開は、いま再読しても、若き俊英にふさわしい、鮮やかで、手堅い論述だなぁと感心させられます。
その基礎を人と自然の関わりのありように置いて現在の社会を見ていく、彼の言う「生態人類学」的視点は、この論文のように時間軸を現代の断面で切りとる共時的な観点であっても、空間と時間の座標変換を行うなら、社会学などが理論的射程の範囲外に置き、古典的な経済学がちょうど古事記の神々の時代のように語ってきた「社会以前」の彼方の時間まで射程に収める視点だということができるでしょう。そこにはアダム・スミスが、誰のものでもない土地を耕し食物を作る人間の労働をいわば原像のように示して地代を説き、価値論を展開するときのような牧歌が聴こえてきます。
ただ、その後の彼の慟哭とも思えるような後期の彼の論文や生身の彼の晩年の表情の暗さを知る者の目でいまこれを読むと、彼がまだ生態人類学者であることと自分の生き方との幸せな同致が信じられた幸せな時代にだけ許された牧歌のように見えます。
人類学の起こりというのは、大航海時代以来、ヨーロッパの探検家たちが「未開の地」を訪れた折に、そこに生きる原住民たちの暮らしに接し、これを自分たちの視点から眺めたときの素朴な驚嘆にあったに違いありません。
もとより、そうした西欧的な社会に暮らす人々が、自分たちの生きる社会が「進歩した社会」であり、その中心から離れた辺境の世界が多かれ少なかれ遅れた「未開」の社会だとみなす、一種の社会進化論的な発想には、のちに思想的にもレヴィ・ストロースのような人類学者が根源的な批判と修正を加えたことは、既に当時(掛谷や私たちが学生時代)もよく知られていました。
しかし現実には掛谷が対象にしたような社会は、国内の離島や山村であれ、アフリカの部族社会であれ、近代化の波の中で伝統的な社会のありようを侵食され、そこに生きる人々の生き方に根本的な変容を迫られるような社会でした。
(自然→生産力[生業活動]→生産関係[社会関係]、という論理展開は、著者のいう「近代化」で強いられる社会変容の、離島ゆえの遅延によって辛うじて成立するものだったのではないでしょうか。そして、その後彼が直面するのは、その論理の輪の一環である「自然→」が根こそぎぶっ飛んでしまうような事態ではなかったのか、とも思ってみるのです。)
もしいくらかでもそうした社会に生きる人たちに共感をおぼえ、自分の生き方と重ね合わせることに歓びを感じる知性であれば、そのような社会を「調査する」ということは、とうてい勝ち目のない戦に出ていく若者の背を来る日も来る日も見送るに等しい、最初から挽歌を歌うほかはない道程だったのではないか、という気がします。
掛谷のこのおそらくは最初の論文に牧歌的な香りが漂うように思えるのは、その悲劇が相克や闘争として描かれずに、「適応」という、ある種スタティックな絵として描かれているためではないかと思います。
もちろんそれは主観に属することというよりは、対象である平島や悪石島の半ば閉ざされた離島的環境ゆえにもたらされた客観的な猶予によるもので、著者自身が冒頭でこのモノグラフが「現状を中心にした分析」で、「島の生活のトータルな理解といく点からいえば・・・通時的な分析も重要だろう」として、「今後の課題」と記した、その考察へ踏み込んでいれば、スタティックな絵が少し動き出したかもしれない、などと思ってみます。
彼の論文を読みながら連想したのはこんなことです。
日本の産業界は中小・零細企業の比率が非常に高いのは周知のとおりですが、いまからざっと半世紀ほど前でしょうか、いわゆる第一次安保闘争のころに、日共系の経済学者の日本資本主義観というのは、少数の大企業とこの大多数の中小零細企業を、前者が後者を抑圧的に支配し、搾取する構造として対立的に見ていたところ、当時日共の影響下を脱した全学連系の若い活動理論家たちは、それら中小零細企業を大企業の支配する全体構造を支える不可欠の要素として補完的構造とみなす視点から分析していました。
後者は前者からは基本的な矛盾のもたらした構造を共時的な断面で切り取ってスタティックな「構造」とみなす「嵌め込み理論」だと批判されていましたが、資本主義社会の内的構造を分析する視点として、それは大雑把な矛盾論よりもずっと魅力的でした。なぜなら、戦後十数年を経て、その搾取、抑圧されているはずの圧倒的多数の中小・零細企業の労働者は、賃金上昇と労働時間の短縮の中で、いわゆる「革新」政党が煽るような政治的団結も革命へ向けての行動も起こすことなく、むしろ戦後復興期の闘争的な姿勢を後退させて安定を志向し、「一億総中流化」へ向かい、「革新」政党もまた、「反体制」の看板を下ろさないまま体制補完的な存在になっていく兆しを既に明瞭に実感していたので、そのような現実から立ち上がってきたその種のマイナーな思想に、遅れてきた世代としても共感するところがあったのです。
ダーウィンのいわゆる自然淘汰(いまは自然選択という言い方をするのでしょうか)も、私などが小学生のころは生存競争、生存闘争、という言い方が強調されていましたが、高校へいくころからでしょうか、あんまりそういう言い方は適切でない、というようなことが先生の口からもきかされるようになりましたね。かわって適者生存とか、なにが適者でなにが不適者なのかしらん、とよくわからないような言葉がよく使われたり・・・
いまの生物世界のありようをスタティックに眺めれば、これは自然環境に適応してきた種が生き残ってこうなっているんですよ、というのは分かりやすいですね。でももちろんそれは長い時間的な経過を経てこういう姿になってきたわけで、その過程が競争的であったか適応的であったかはまた別の議論です。たぶんどちらと決めつけられるようなものではないでしょうし、いまは遺伝学的ないわば分子レベルでの適応で説明されるのが普通なのかもしれません。ただ、私自身はたとえば生態学的な「棲み分け」のような環境適応の問題は空間軸を時間軸に変換するとき、どう理解されるのだろうなどということに、より関心を惹かれます。
連想で色々なことを思いましたが、のちに掛谷を苦しめることになるある種の二律背反的に見える社会の関係性とその動的な契機をどう理解するか、という問題は、国家や地域社会の政治的な力学や思惑、あるいは研究者が対象とどうかかわるかという問題を別としても、すでにこの初期論文の対象への向き合い方の中に胚胎していたのではないか、というのが再読して感じたことでした。
彼の初期の論文がアフリカの部族を対象としたものも含めて、駆け出しの研究者としての学界向きの「武装」を固めたスタイルをとっているために、つねに「研究」ということに「研究する自分とはなにか」、という自問を重ねないでは、どれほど学界で評価されるような「優れた」研究であっても、自分にとっては無意味だ、という彼を成り立たせている根幹の思想も、従って対象とするフィールドに生きる人々のいきざまに自らのいきざまを重ねずにはいられない彼の性癖も、あからさまに伺うことはできません。でも、その分だけ、客観的に見える叙述にまだ牧歌を聴けるかのように思えるのは、旧い友人としてはささやかな慰めです。
saysei at 14:41|Permalink│Comments(0)│
2018年01月14日
「中川のわたり」
源氏物語の帚木の巻に「中川のわたり」(中川のあたり)という地名の入った言葉が出てきます。
帚木の巻は源氏の悪友たちが雨の夜の退屈しのぎに女性論を交わす、例の「雨夜の品定め」の巻で、亡き母の面影をやどすという藤壺への禁じられた想いばかりを胸に秘めた17歳の源氏は物憂い気分でいますが、雨も止んで左大臣家へ退出します。しかし、正妻葵の上の打ち解けない様子が物足りず、暗くなる頃にいつもは宮中で忌む方角であったと気づいて、人の勧めで方違えにでかけます。
その時の勧めの言葉が;
「紀伊守で、親しくお仕えしている人の、中川あたりの家が、近頃川の水を堰入れて、涼しい蔭になっているところがございますよ」
というものでした。それで源氏はこの紀伊守の別邸を尋ねるのですが、ここで紀伊守の老父の若い後家である空蝉に出会うことになります。
それはともかく、この「中川」というのは、今は存在しないのですが、『都名所図会』巻1にこう紹介されています。
中川は上御霊の前の流れをいう。鴨川を東川といい、桂川を西川という。その中にあったからこの名とした。一名を京極川とも呼ばれる。いまの京極通りの寺院の筋に川はある。『藻塩草』に、中川は京極川なり、とある。これは御堂殿と法成寺の間を流れるという。また『源氏巻』には、こっそりと中川の宿にゆき、空蝉と碁を囲むという場面がある。
そして中川を詠み込んだ歌が2首添えられています。
この頃は流るる水を堰入れて木陰すずしき中川の宿 光俊
御禊するわが中川の大ぬさは終によせるやあふせ成らん 寂眞法師
安永九年、1780年刊の『都名所図会』のこの記述は空蝉の巻についても不正確だし(源氏は空蝉と碁を打ったりしない。空蝉こと紀伊守の父親の若妻がその弟の小君と碁を打つのを盗み見るだけ)、あんまり信用なりませんが(笑)中川の位置については当時まだ残っていたのでしょうから、その辺りを流れていたのでしょう。図会の描く名所図では廬山寺の前を中川が流れている様が描かれています。
この記述に出てくる「御堂殿」は道長の邸宅、「土御門殿」です。紫式部日記の冒頭に娘の出産で大騒ぎして大勢の人々があたふたと行き交う盛んな有様が、式部のいささか冷めた眼で描かれたあの贅を尽くした邸宅です。道長の邸宅も彼が精魂込めて造営し、そこで死ぬことにもなる法成寺も、先日訪れた立て札にあった図面の通り、この中川の辺りにあったのですね。紫式部は、源氏の訪れる紀伊の守の邸を道長の邸に重ねて描いたのかもしれません。
『源氏物語』の花散里の巻にもこの「中川」が登場します。源氏も25歳、桐壺帝崩御の後、すでに公私の世界でままならぬことが多く、心労が蓄積していくばかり。そんなとき、かりそめに契りを結んだ女性をもドライに忘れてしまうことのできない源氏は五月雨の雲の合間に訪ねて見ようと出かけます。
何ほどの装いもせずあえて身をやつして先払いの供もなくお忍びで中川のあたりを通り過ぎると、小さな家だが木立など品の良い邸から、よく響く箏を和琴の調べでかき鳴らし合奏する様子であるのが耳に止まり、門に近い建物ゆえ少し牛車の御簾から身を乗り出して覗き込むと、大きな桂の木を吹きわたる風に葵祭の頃のことが思い出され、そこはかとなく趣のある雰囲気であることから、ただ一度契りを交わした女の邸であると気づいた。
小学館の日本古典文学全集の註は、「中川」について次のように解説しています。
平安京の東の京極(今の寺町通りの辺)に沿って南流し、賀茂川に合流する川。その二条より北をいい、当時この辺には、別荘めいた邸宅が多かった。
saysei at 22:17|Permalink│Comments(0)│