2017年12月

2017年12月04日

折笠良 ”Script volant"(書かれたものもまた飛び去る)

 折笠良が東京芸大の院のアニメ専攻修了作品として2011年に制作した、"Script volant"というボルヘスの言葉を借りたタイトルのアニメ―ションをYou Tubeで見ることができます。英語で文字通り"Writings fly away"と書き添えられた「書かれたものが飛ぶ」といった意味のラテン語が「書かれたものもまた飛び去る」という日本語に訳されています。

 よく知られたオスカー・ワイルドの名作童話「幸福な王子」(The Happy Prince)の英語の原文が手書きのスクリプトで、あたかもホワイトボードに書いては消されて、次の文章がまた素早く書かれるように、前の文字の影を残すボードの上に次々に書かれていき、それを男性の朗読者が読んでいきます。

 はじめはただ手書きのそう達筆とは言えないアルファベット文字が作って行く文章が、画面の上左から右へ、また左から右へと下の方の空白を埋めていくだけで、文字だけで書かれた本を読み聞かせられているだけのようです。

 でもじきに、その文字が震え、跳ね上がり、蹲り、横っ飛びと、自在に動き始めます。それは仲間の旅立ちに遅れて居場所を探していたつばめが、王子のそばにやってくるあたりからかな。つばめ(swallow)という文字自体が翼を伸ばし、はばたいて、画面を縦横に、高くまた低く飛びまわり、王子のまわりを旋回し、"Swallow, swallow, little swallow" という王子の呼びかけに耳を傾け、その願いを聴いて、王子の髙い視点から見える貧しい不幸な人たちのところへ、王子の身に着けた宝石(そしてついには王子の身体の一部である宝石までも)を届けていく・・・あの愛に満ちた哀しいお話です。

 この映像では、アルファベットが動く象形文字として、物語の意味を伝えながら自在に飛び回ります。これはとても新鮮な体験です。耳から聞こえる朗読の物語と、書かれた文字が言葉として伝えるものと、もうひとつ、書かれた文字が動いて映像として観る者の感性に訴えかける要素と、その三者がみごとに調和して心に訴えかけてきます。

 「幸福な王子」のような作品を、俳優を使った実写映画に仕立てることも、またそういう現実の諸要素の形象を最初から絵としてなぞるアニメーションに仕立てることも、現代の映像制作技術ではいとも簡単でしょう。
 技術の進化とともに芸術のメディアも多様化し、次々に新しい手法を生み出していく、そういう流れの中で考えれば、この物語を最初から絵としてモダンで個性的な動画で表現するのが、現在という時点で物語をアニメ化するときのオーソドックスなやり方でしょう。

 その意味では、書かれた文字を読み上げ、その文字に動きを与える手法を選ぶというのは、先の流れを自明のように前提とすれば、語弊があることを承知で言うなら、一種の退行的な手法だと言えるかもしれません。
 実写映画でもカラーが当たり前になってから、敢えてモノクロにこだわる作り手がいたり、とりわけ写真家ではいまもカラーよりモノクロでの表現を好むクリエイターが多いのと同じでしょう。もちろん、そのこだわりの部分にそのアーチストの個性があり、理念が込められ、積極的な表現価値を生むので、創造的な行為として別段退行的であるわけではありません。

 一昔前の技術も、アートにとっては何ら制約ではなく、その技術的制約は同時にアーチストにとっては100%開かれた可能性であり得るので、コンピュータグラフックを知らなかった北斎やダ・ヴィンチの作品が肉筆画の制約によって現代のアートに劣るなんてことはあるはずがない。
 けれども、その技術的制約が取っ払われた時代に、あえて一昔前の技術を駆使して創作するアーチストがあるとすれば、そこに、一種の文明の自然過程に抗いたい、という姿勢が、顕在的かどうかは別としてあるのではないかと思うのです。

 「幸福な王子」を語る声や文字たちは、現実の燕のような流線形や白黒の艶やかな色で、「絵のように」美しい姿に転じて、同じく美しく描かれた王子のまわりを飛び回る、メタモルフォーゼの演出を見せることもできたでしょう。でも折笠つばめは手書きの粗いアルファベット文字のswallowのままで飛び立つのです。

 私は、まだ作家がウェブ小説を書くことが一般的ではない初期の頃に、推理小説作家の有栖川有栖に、ウェブ上では書かないんですか?と尋ねたときの彼の返事を思い出しました。
 有栖川さんは「ウェブ上で書けるようになったからって、原稿用紙に書いて紙に印刷していたものをウェブで発信したところで、面白くもなんともないでしょう。それをするなら、逆にウェブの形を本でやるほうが面白い。紙のページをシャッフルできるとか、リンクを張ってほかのページへ飛べるとか、いくつもブランチが辿れて、また戻って来れるとかね。」というようなことを言ったのです。
 さすがだね、と聴いたときに思いました。南米の作家などで、ページをシャッフルするような順不同の読み方のできる小説を出版した人はいたけれど、ウェブの発想を具体的に紙の本で実現したような作家はたぶんそのころまだ現われていなかったので、とても新鮮でした。

 でもそれは先の言い方をすれば退行的手法で、ウェブにはウェブのメディアとして新たに獲得した特徴があるに、わざわざ古代以来の書物という形にそれを置き換えようというのは、そこに古いメディアへのこだわりがあり、新しいメディアへの批判があるに違いないので、文明の自然過程に抗いたいという潜在的な姿勢を想定してもいいと思うのです。

 しかし、そうした或る意味で反時代的な試みによって、逆に自明のようにみなされてきた書物が、単に古臭いメディアとして捨てられ、新たなメディアに乗り換えられていくのではなく、新たなメディアによって新たな光の下で問い直され、自明のように受け入れられていく新しいメディアとは違った、メディアとしての別の次元を拓く可能性があるところがとても面白いのです。

 折笠良の動く象形文字としてのアルファベットたちも、決して現実や「絵のような」つばめを模写することなく、文字として羽ばたくことで、あらためて私たちにことば(文字)を書きつけることの意味を問い返させ、文字の感性的側面を極大化して、記号と意味の恣意性を必然の糸でつないでみせる新しい文字絵表現の次元を拓いてみせてくれています。

 私はまた、石川九楊の書の比較的後期の、伊勢物語等々のタイトルで書かれた、文字自体が共同規範としての言語として読まれることを拒んで強く自己主張し、その極大化した感性的側面の総体によってオリジナルの物語に拮抗しようとするかのような書作品を連想しました。

 Mario Peralta の朗読も映像にフィットしていて、とても良かったと思います。

 

saysei at 15:13|PermalinkComments(0)
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