2017年12月

2017年12月31日

牯嶺街少年殺人事件

 「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」、ようやくこれを開館したばかりの出町座で観ることができました。エドワード・ヤンの渾身の力作です。

 ほぼ4時間になろうという長尺をたった一度見ただけで何か言えるような作品ではないけれども、とにかくスクリーンを見ている間は4時間という時間を感じさせない濃密な時間でした。

 大陸から蒋介石の国民党とともに台湾へやってきた、いわゆる外省人一家の十数年後、十代半ばの中学生の少年を中心とする家族が遭遇する日々の出来事とその日々をときに激しく揺り動かし、家族を追い詰め、ついには予想もしない結末へと押し流していく、いわば家族の歴史を描いた作品です。

 8年も日本と戦ってこんな日本の家に住んでいる・・・と母親が嘆くように、家族が住んでいるのは古い日本家屋で、木造の柱や天井、障子や襖が、私などが幼いころの古き良き時代の日本の住まいの雰囲気を感じさせるせいか、画面がなんだかしっくりと落ち着いた、懐かしいような感触で迫ってきます。

 でも、そこで生きられる少年をはじめとする家族の日々の人生、そこで烈しく噴き出す事件は、決して平穏なものではない。そしてその背後には、台湾ならでは、おそらくは外省人の家族が突きあたらざるを得ない社会の閉塞感や目に見えない強い圧力のようなものが、鮮やかに描かれています。

 これは家族の物語でもあり、まっすぐな意思をもった少年の友情と初恋の物語でもあり、同時にそれらを侵し、吹き飛ばしてしまうような台湾社会固有の亀裂と強いプレッシャーが背後にはっきりと透視された作品です。

 ちょうど小津の「東京物語」が、第二次世界大戦の敗戦によってわたしたちが何を失ったのかを一つの家族を描くことによって淡々と、しかし鮮やかに描いてみせたように、この作品はエドワード・ヤンが大陸から台湾へ移り住んだ中国人の一家族が荒波に翻弄される小船のような姿を描く中で、外省人と言われる台湾の人たちが何を失ったのかを静かに描いて見せた。そしてまたこの作品は、エドワード・ヤンが、台湾社会の「戦後」をまるごと背負い、引き受けようという映像作家として覚悟を示した、渾身の作品です。

 内省的で純粋で生一本な初々しい主人公の少年「小四」を演じた張震(少年の本名でもある)、彼が好意をよせる(よせられる)少女「小明」を演じたリサ・ヤン、ともにぴったりのはまり役でした。リサ・ヤンの顔を見ていると、蒼井優と重なって仕方がなかった(笑)。リサ・ヤンは若くて素朴な印象があるけれど、ある種のしたたかさを備えた印象は似ていますね。

 知友のことでインテリジェンスの取り調べを受けて精神的に追い詰められる、きまじめな公務員の父親役も良かったし、「小四」の親友でチビの、めっちゃ歌の上手い少年を演じた子も素晴らしかった。

 すごく魅力的だったのは、ずっと噂で不良たちに怖れられる存在だった、少年たちの属した組織「小公園」のボスで小明の彼氏だったハニー。後半になって姿を現し、じきに画面から消えるのに、とても存在感がありました。

 「小四」の一途さ、父の世渡り下手な生真面目さ、そしてハニーの侠気(おとこぎ)、みなこの「戦後」台湾社会の中で敗北し、消えていくものなのです。
 たった一人で大勢に立ち向かうんだ、というハニーの思い浮かべる孤独なヒーローの姿は、音を立ててきしみ、家族や個人を圧殺しようとする台湾社会そのものとしか言いようのない大きな得体のしれない力の前で、蟷螂の斧のように無力なものに見えます。

 でもエドワード・ヤンは、そうして敗れて消えていく彼らの姿を、深い哀惜の情を込めて描いています。傷つき、消えていく彼等によって、私たちは台湾社会が失った大切なものに深く気づくのです。

 3時45分から、と言われた映画を見て外に出ると、もう真っ暗で、時計を見ると8時50分! 4時間もあったのか!と今更ながらその力技に驚かされましたが、圧倒されると言っても、決して怒涛のような作品ではなく、丹念に少年の心に寄り添いながら、悠然と歩んでいく器の大きい作品でした。

saysei at 15:17|PermalinkComments(0)

2017年12月23日

「少年アート」

 先日、私の「終活本」の一冊としてマーケットプレイスに出していた、中村信夫著「少年アート」を買って下さった方があって手放しました。

 この本は少し愛着があってずっと手元においていたので、迷っていたのですが、もう物に拘泥する時でもないだろうと手放したのですが、私にとってのさわりの部分は以前にコピーを取っておいたことがあったので手元に残っています。

 なぜこの本に愛着があったかというと、この著者は私より5つくらい若いのですが、私が大学をやめて海外へ実質的にはヒッピーみたいに一人で放浪の旅に出たのと、ほぼ同じころ、彼が21歳のとき、「何ら考えることなく日本を離れ」(あとがき)て、わたしと同じようにイギリスにわたり、ロンドンで暮らす中で、とくに日本にいるとき美術をやっていたわけでも、特別な関心を持っていたわけでもないのに、自然な形で現代美術に近づいていく、その様子がとても率直に語られていて、わたしには自分のことのように感覚的に彼の道行が理解でき、深く共感できるような気がしたのです。

 もちろん、この本を読んだのは帰国して仕事(文化専門のシンクタンクの研究員)につき、長年そんな仕事をした後のことで、たまたま私の仕事が文化施設の構想・計画の立案だったり、様々な文化事業を企画するようなことだったので、その事例集めなどしている中で、鉄の街北九州市で、その鉄を活かしたアートに着目した芸術祭を開催する企画があり、そのディレクターかコーディネーターかの役割を頼まれていたのが中村さんで、彼が学んだ英国の美術大学の教授で鉄を使ったアーチストがいて、中村さんがその方を招いて全体の企画をコーディネートするような仕事をされていたと思います。

 そのときに彼がこういう本を出していることを知り、読んでみて、すごく共感するところがあったのでした。
 彼は「ロンドンで自分を探索していく中で、まず日記をつけ始めました。とにかく毎日毎日を見つけることから始めてみようと思ったのです。」というふうなスタートをしたロンドン生活の中で、たまたままだ学生だったトニー・クラーグというアーチストに出会います。彼が見せてくれた写真の作品というのが、「毎日、自分の家から学校まで走った時間を何年何月…何分何秒と記録したものだったのです。その時に走った靴、走った姿の写真を添えた一年間の記録をエキジビションとして出して」いたというようなものでした。

 「美術を一切知らないし、絵具を塗ったことすらなかった」中村さんでしたが、この作品に「非常に新鮮な驚き」を覚え強烈な刺激を受けます。「作品を作るだけがアーティストではなく、毎日何をしているのかという個人史を作品化するのもアートなんだ」と。日記をつけて挫折していた彼は、「ただ日記を書くだけではなく、プラス何かをつけくわえて、その一日を全部記録する方法もあるんだなと」思い至ります。

 彼はアルバイトの休日には街をこまめに歩き、ギャラリーや美術館も歩き廻り、「漠然とですが、アートに魅かれていたのかも知れません」という私と同じような体験をする中で、そのトニーの作品に出合って、おそらく美術とはこういうものだ、と思っていた認識自体を根底から揺さぶられたのでしょうね。
 
 そこからアーティストの考え方に興味をもつようになり、彼なりに勉強していく中で、日記の代わりに毎日1時間、貼り絵をすることを自分に課し、バウハウスのヨハネス・イトゥンの教育法に倣って「基本型」の丸、三角、四角という単純な図形で直径5ミリほどの三色の紙きれを、ひたすら貼っていくような手仕事を続けて、最初の1年でノート4,5冊をつくり、最終的には40冊まで作り続けたそうです。それらの形のバランスのとり方を色々変えて工夫をすることで、結果的にはコンセプチュアル・アートの基本的なトレーニングをしていたことになるでしょう。

 滞在2年目になって彼は学校へ行ってみたいと思い、アカデミックな場所は結構資格が難しいので、家具の職業訓練所にはいり、デザインを学ぶのですが、そこから彫刻学科への編入を決意して、ロイヤル・カレッジ・オブ・アーツの彫刻の教授のところへ行って、面接で貼り紙の絵日記を見せます。
 2時間ほども見た末に、ここは彫刻のクラスなんだよ、三次元でないと、と言われて、とっさに中村さんは日記を半分に開いてパッと立てて、いま三次元になっています、と言う(笑)。そしたら先生はにっこり笑って彼を彫刻学科のスタジオに連れて行って、ここへきて働いてよろしい、と。そして、学長に談判して3年コースに入れてくれて、学費も無料に・・・と驚くようなトントン拍子で美術の世界に入って行きます。

 このへんの中村さんの体験の記述がそのまま日本とは大きな違いのある英国のこの種の教育機関の柔軟さ、教授たちのものの考え方や後進の育成についての考え方がわかるようになっていて、とても面白かったのです。

 あのころ日本の若者が一人で最小限の旅費だけもってヨーロッパへ行き、留学のように明確な目的もなくロンドンやパリのような大都市で語学学校に通いながら自分探しをするような例が数多くありました。ひとつは日本で大学闘争が潰され、大学へ大人しく戻ることも潔しとせず、かといってすぐに既成の社会に順応してその部分に収まって行く気にもなれず、目標を失ってドロップアウトした若者が日本とかかわりのない場へ抜け出していくような志向があったと思います。

 その点で中村さんが振り返って書いている自画像の初期の状況というのは私自身も共有していたし、その時代背景も空気もよく理解できるような気がしました。そこからちゃんと自分の道を見出していくところは彼がとても立派な、すぐれた資質と能力をもち、それだけの努力をする人だったのに対して、私は怠け者で、結果的にはただの風来坊としてヨーロッパを彷徨しただけに終わるという大きな違いですが、でも彼がチャンスをつかみとっていくプロセスもそのきっかけになるようなことも、そのときの気持ちも手に取るように理解でき、共感できる気がしました。

 たぶん私にもほんとうは運命の女神が微笑んでいた瞬間はあのロンドンにいた時期のどこかにあったのだろうな、とまるで自分にありえた別の人生を眺めるように、中村さんの本が読めたのです。現実の私はたぶん女神の微笑みに気付かず、書くことを通しても、私の場合は、自分が半ば捨ててきたはずの遠い国のほうばかり眺めていたのでしょう。

 私がこの本に愛着を持っていたのは、自分にあり得たかもしれないもうひとつの人生を愛するように愛着を持っていたのかもしれないな、といまは思えます。

 

saysei at 00:16|PermalinkComments(0)

2017年12月19日

掛谷誠著作集(第1巻)を手にして・・

 大学時代の友人で人類学者の掛谷誠の著作集全3巻が刊行される、というのは以前にこの作業にかかわっている共通の友人から聞いていたので、楽しみにしていました。第1巻はこの22日発売ということでした。念のため、アマゾンで見たらもう販売していた。昨日注文したところ、なんときょうの午前中に届きました。500ページに達するずっしりと重い本。

 おそろしく筆無精だった彼がこんなのを3冊も遺すほど書いていたのか、と妙な感慨を覚えました。さすが研究者(笑)。「語る人」としての彼は、誰もが認める卓抜な語り手でしたが、やっぱり学者さんは「書く人」でもあるなぁと。

 もう彼の硬い学術論文やモノグラフの類を読みとおす気力はないのですが、この中にあいつが詰まっていやがるんだな、と思うと傍に置いといて、時々手に取ってページを開いてみたいという気になります。どっちみち学問的な評価など門外漢の自分にはできないし、わかるわけもないのですが、面白いのは文字を読んでいるのに彼の声が聞こえて来る(笑)。いや、ほんとに。あの声で、あの独特の語り口で。

 トカラ調査の報告を除けば彼がはじめて「最小努力の法則」(論文では「最小努力の傾向性」)だの「食物の平均化の法則」(同、傾向性)だのといった、遠慮しがちな主張で実質的な学者デビューを遂げたトングゥエ族の社会の調査を見せてくれたとき、正直のところひどく遠慮がちなんだな、学者の世界ってのも、新米はこうも重武装して書かなきゃいかんのかいな、と思ったので、率直にそういうことを言ったら、いつもの彼らしく、そや、重武装してんのやな、と肯定していたのを思い出します。

 冷静で緻密な目配りの利いた調査と観察と客観的記述、その徹底性の上に、ようやく上記のような法則を導いているけれども、或る意味で、こんなことは行かんでもわかるやないか、あたりまえのことやないか、と素人の私は思って不満だったのです。彼なら最初からもっと大胆に踏み出すだろうと思っていたので。 

 もちろん、そういう法則性の背後に呪術の世界があって、ゆとりを生み出すような生産の増加をみればたちまち嫉妬と敵意で黒魔術によって呪われるような世界で裏打ちされている、だからこそまたこれらの法則性が法則性として安定性を持っているということで、彼はそこから呪術の奥深い世界へその後自ら呪術医になることによって分け入るのですが・・・未だ最初の論文ではちらっとそれが示唆されただけで、むしろこの論文では集落の住民が旅に出て客として他の住民の食糧によって自分の損失分を補うような形で食物消費のバランスを取り、平衡を保つ、というふうに、あくまで生産と商品の地平で辻褄を合わせるというのか合理的に解釈するようなスタンスで書かれています。そのへんは彼の実質的なデビュー作への意気込みを期待していた友人としては物足りなかったのです。言ってみれば国家論抜きで社会を生産力と生産関係だけで読み解くようなものへの不満だったのかもしれません。

 私が客観的にみても彼とごく親しい友人であった時期は学生時代のほんの1年か2年のあいだのことで、それ以降もつきあいはあっても、私の方は大学からドロップアウトして研究者の道は歩まなかったので、彼の研究者としての道行については時折送ってくれる著書や論文の抜き刷りにさっと目を通して、ふーん、こんなことをやっているんだ、と思っていだけでした。

 けれどもその頻繁に会って一日中お喋りしていた時期は、とても濃密な時間を共有して、こんなにフィーリングからものの考え方まで完全に理解し合え、共感できる人間はほかにいないと思えて、その感覚はのちにそんな関係でなくなってからも、記憶としては私の中にとどまりつづけ、その後ほかのいかなる人によっても置き換えられることはありませんでした。
 
 少し前のブログに二人のカリスマとして書いたうちの一人は彼のことですが、あのころ彼は周囲の同世代や後輩にとって一種のカリスマのような存在だったし、後に色々仄聞するところでは、彼が教鞭をとるようになってからも、若いお弟子さんたちにとって、或る種のカリスマ的な存在だったようです。ただ、私にとっての彼は学生時代からカリスマではなく、相互に理解しあえる対等な友人でした。

 彼と私の共通のベースは小林秀雄だったのだろうという気がします。彼はもともと工学部の電気の秀才だったのが、当時の人類学の泰斗たちがみんな参加していた探検部を通じて伊谷さんを紹介されて人類学をやろうとして理学部のほうへ移ってきたのですが、そのときに学士入学のために1年留年していて、その間、小林秀雄に没頭していたと言っていました。私もそのころまでに小林秀雄の著作集は全部読み、吉本隆明を愛読していたので、感性の裏付けをもった論理的な言葉の使い方とか、展開の仕方が互いに手に取るようによくわかり、その点では周囲の友人たちとは段違いに通じあえると感じられる友人だったのです。

 小林秀雄の言葉は、日常的な箸の上げ下ろしから天下国家まで、あるいは学問の話まで、上下左右自在に語れる融通無礙の柔軟さがあって、ひどく理屈っぽい話から、異性の話まで、頭のてっぺん雲の上の話から下半身の話まで、心のひだに分け入るように、あるいは抽象の彼方に飛翔するまで、共に語り合い、分かり合うことができる、私たちにとってそんな言語だったように思います。

 そういうものを若いころの単なる思い込み、錯覚、未熟さゆえの無自覚な誤解、対幻想の結晶作用のごときものとみなすことは簡単でしょう。わたし自身、或る意味ではそういった幻想性を全部剥ぎ取ってきたような気がします。けれども幻想もまた関係の絶対性のもとで、その後の無数の現実のフィルター、無数の人々との関係性のフィルターを潜り抜けてなお、一人の人間に決定的な経験として刻まれている・・・刻むという言葉どおり、ナイフで傷つけるように、魂のどこかに彼の負わせた傷が古傷のように残っているのを感じることが、いまでもあります。それは傷みを感じさせることはなくて、もう懐かしい、こそばゆい古傷に過ぎないのですが。

 今回、先に寺嶋秀明氏の解題を読んで、私がほとんど知らなかった彼の研究者としての歩みが、これを3期に分けて要領よく解説した文章でよく理解できました。トカラ列島の調査や、はじめてのアフリカ・トングウェ族の調査など、彼が掲載誌や抜き刷りを送ってくれた、駆け出しの研究者の頃の第一期、それから政治的・社会的な変化への外圧がアフリカの彼が対象としてきたような自然と人とが抑制的なバランスを保って共存した地域をも襲い、急激にその地域社会が変貌していき、調査する研究者の側が、「適応の生態学」から「変容の生態学」への転換を余儀なくされていく第2期、さらにその延長上でアフリカ地域研究センターに拠って同時代のアフリカの運命に実践的に関わっていかざる得なくなる第3期云々。

 自分なりに勝手な要約をしながら、間歇的に会って来た彼とのその都度の私的な接触に引き寄せてみると、あぁあの頃、彼はそんなところに居て、こんなことに直面していたのか・・・と色々思い出されてきます。

 アフリカから帰ってきたら筑波へいくことが決まっていた・・・あのとき珍しく長い電話で彼の口からまぁ普通の人の言葉で言えば愚痴にあたるような言葉を聞いた記憶・・・そしてアフリカ地域研究センターへ行った頃の彼の暗い表情、あれはもう第3期にはいってからでしょう。私が関空の設計をやった岡部憲明さんにあるホテルでヒアリングのために会っていたら、偶然階上で人類の集まりがあるから、とやってきた掛谷に出遭い、ひと目にはにっこり笑顔をうかべて、ひとことふたこと交わしただけでしたが、彼が階上へ去ったとき、はじめて彼と会った岡部さんは深々とため息をついてひとこと、「暗いですねぇ・・・」。

 自然と人間の関わりを軸に構想されてきた伊谷さんの直弟子としての掛谷の生態人類学は、その対象であったアフリカの地域社会の急激な変容を前にして、乱暴な言い方をするば無効になる、という危機感を彼は持たざるを得なかったのではないでしょうか。

 彼は新婚の奥さん(彼女も同じ専攻の学科で、有能な研究助手の役割が果たせる方)と暮らしたアフリカの地域社会では研究の初期のころいつも幸せで、日本よりアフリカのほうがずっといい、と言い、日本に帰って来たくなさそうでした。自然と人とが抑制的なバランスを保ち、人が自然の一部として自然に適応的に生きる暮らしが、彼(ら)の性に合っていたことは疑いもないところで、その地域社会の崩壊は何よりも彼(ら)を心底落胆させるものだったでしょうし、それに応じて、アフリカ社会の今日的な政治・社会の課題に向き合い、生態人類学的な立場から実践的な地域社会論的な立場への転換を、対象のありようからも、また大学の制度的な変革からも強制されることは、彼にとってどんなに辛いことだったか、門外漢の私にも理解できる気がします。

 彼は学生時代から学問のための学問を明確に否定してきたし、研究者としての生き方の根底に、一人の生活者としての確乎とした生き方に関する思想を求めてやまず、常に「自分は何のために学問をするのか」という自問を手放すことのない人間でした。初期の研究生活は、そんな彼の「生き方」の思想とぴったり一致するところがあったに違いありません。その理想は最初のアフリカ調査でトングウェ族の社会で暮らす中で実現するように彼には感じられたことでしょう。

 彼が研究対象とするアフリカ地域社会の崩壊と、彼の研究基盤の崩壊の危機の中で、本当に彼にトレスを与えていたのは、そういった地域の中で研究生活を送り、自分もまた自然の一部として人と自然の関わりの世界に融けていられるような生き方の根底を否定されることだったのではないでしょうか。

 こういう変容の兆しのみえる第2期を表現するものとして解題が指摘していた、この第1巻の最後に掲載された第16章「アフリカ農耕民研究と生態人類学」という、自分が編集者としてほかの研究者の論文を編纂して一本を編んだときの編集者あとがきか、まえがきかにあたるような文章を読むと、そんな彼の気持ちが幾分か伝わってくるようです。

 急激な変容を強いられたアフリカの地域社会は多様な変貌を遂げていく、それが各論文の執筆者によって報告されていて、うまく変貌を遂げたのもあれば、そうでない者もある、その多様性に目配りしながら、彼はむしろ各地域の伝統的な生産様式の在り方や文化に活路を見出していこうとしているように見えます。それは決して現在起きている急激な変貌から眼をそらすわけでもなければ、伝統に回帰しようということでもなく、むしろアフリカの地域社会だからこそ各地に残っている伝統的な自然と人間の適応し合う生き方がらみのありようを未来へ投げかけていこうとする、いわば生態人類学の見出した空間を時間軸に転換して活路を見出そうとするような発想を志向しているようにみえます。

 私はちょうど彼がそんなことを考えていた頃ではないかと、今思うのですが、同じ京都に住みながらもう何年もあっていなかった彼と、ひょっこり河原町の書店で出くわしたのです。おう、と昔のように彼は声をかけ、喫茶店でもいこか、ということで近くの喫茶店(まだ我々にとってはカフェではなく喫茶店でしたが)へ入って、しばらくおしゃべりしました。そのとき彼が駸々堂だったかで買って来て手にしていた本が吉本隆明の『アフリカ的段階について』(笑)。何年ぶりかでまったく偶然私に出会った時買って来ていた本が、私の愛読する吉本さんの本、というのは本当に因縁めいていると思いました。

 私ももちろんその本は吉本さんが「試行」を廃刊するときに、前もって誌代を払い込んでいた長年の読者に自分の最新刊であったこの著書を送ってきてくれていたので、読んでいました。そのときは掛谷がどんなことに直面して何を考えているかなんて知らなかったので、この本についてもちょっと言葉をかわしただけでした。でもいま考えてみれば、吉本さんがこの著書の中で言っていることは、アフリカを彼の言うアフリカ的段階という、まあヘーゲル流の文明の大雑把な進化的段階論の言葉を借りて新たな意味を込めて使おうという概念でとらえられたアフリカという空間的概念を時間軸に転換して現代の世界が直面している困難な諸問題に活路を開くものとして未来へ投げかけていくような発想だったので、それはたぶん「適応の生態人類学」を「変容の生態人類学」に転換して活路を開こうと考えていたのだろう掛谷が、いわば相同的な試みを並行してやっていたのかもしれないな、という気がするのです。

 もちろんこんなことは、研究者でも何でもない私の妄想にすぎないけれど、ふとそんなことを考えると、自分が学生のころ、掛谷と張り合うことを避けずに共に同じ教室を目指し、院に進み、いつもそばにいる研究の相棒として、こんなことが議論できたらどうだったろう・・・と、そんな夢想をしてみることもあるのです。

 

saysei at 00:13|PermalinkComments(0)

2017年12月18日

「大旅行紀」と「天安門」

 

大旅行記

 亡父が東亜同文書院の学生のとき、同院で恒例の卒業旅行ともいうべき中国国内の調査旅行をしたときの報告「大旅行紀」が愛知大学で創立60執念記念事業の一つとして2006年、オンデマンド出版されていたのを丸善雄松堂出版から入手することができ、今朝届いたので、早速ページを開いてみると、ありました!
 
 父は第36期生ですが、その28班ほどの中の一つとして3人で江西省、九江・南昌方面へ昭和14年の夏に40日ほどの調査旅行に出かけています。6月1日に上海北駅を出て、報告書の最後、石灰窑の黄石港を見学後、筑後丸に乗船して帰途漢口へ向かうのが7月12日。
 
 その間、蘇州、南京、蕪湖、安慶、小池口で役所や軍、特務機関、憲兵隊、商社などを訪れて現地の状況や貿易、商業などに関しての情報を仕入れ、主目的の九江、さらに南昌に至っています。九江は長江(揚子江)の中流から下流域の南岸に位置し、昔から「南に六道を開き途中五嶺を経る」と言われた交通の要所で、中国の四大米市、三大茶市とされる長江沿岸の重要港湾都市で、「九江孔殷」と言われ、長江がこの付近で諸川を集めて水勢を強めるところとのこと。いまは岡山の宇部だったかが姉妹都市提携かなにかしているようで、人口が500万を超える大都市です。

 ここから定期船で湖口へ。戦時中でつい3月ほど前に激戦が行われたような場所ばかり行くので、街も崩壊していて、戦争の爪痕のすさまじさを実感しながらの旅です。宿泊所とてなく、現地の警備隊で仮寝を頼むような旅だったようです。湖口では、後ろの山を越えて1里半も行けば戦いの第一線で敵味方の歩哨が対峙している、といった状況でした。

 ここでは町の西北端にある石鐘山に登って、湖口の荒廃した街の光景に息をのむ様子が記述から伝わってきます。石鐘山は詩人蘇東坡(蘇軾)の一文「石鐘山記」で知られています。
 昔の書物に、石鐘山には不思議な音を出す石があると記されているのを、後世の士大夫たちはみな信じようともしなかった。蘇東披は地方に赴任する息子を見送り、たまたま石鐘山を通りかかって実際に自分でこれを確かめ、はじめて昔の人の言葉が真実だとわかった。実際に自分で確かめもしないで臆断するのはよくない、というような、どうってこともない内容ですが(笑)、漢文では名文なのかもしれませんね。

 「旅行紀」では石鐘山に登る、という記述に、「かの蘇東坡の石鐘山記で有名な所である」とあって、大陸に学んだ彼等にはよく知られていたようです。

 九江では南部のいまではユネスコの世界遺産にも登録されている観光名所廬山にも登っています。清少納言が御簾を上げるに際して「香炉峰の雪は簾を撥ねて看る」と教養を顕して中宮定子を微笑ませる例の香炉峰はこの廬山の一峰だそうで、元ネタは九江に左遷されていた白楽天ですね。

廬山(廬山)

 廬山では麓の蓮花洞に朝11時半について、そこから石段の嶮峻な登山道を登り、2時間半でようやく前方に牯嶺の街を望む高みに到達し、「奇峰、巨岩、千仭の峡谷あり、雲が悠然と湧き上り、右に飛び、左に舞ふ、正に天下の絶景なり」と感嘆するも、天候急変、不意の雷雨でずぶぬれになって下山したようです。

 牯嶺の街、という文字を見て、どこかで見た町の名だなぁ、と思ってネットでこの二字を検索したら、たちどころに「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」のタイトルがわんさと出てきました(笑)。中国人監督で最も注目されるエドワード・ヤンの作品でした。もちろんあの「牯嶺」は台湾で、廬山の麓の街ではありませんが。

いまの牯嶺(いまの牯嶺)

 三人の学生は九江から最終的な目的地南昌へ向かいます。いまの列車で1時間足らずのところです。ここが現代史で記録される地となったのは、1927年8月の武装蜂起(南昌起義)で、革命第一世代の周恩来や朱徳等が指導してここに人民解放軍が誕生したことによるでしょう。

 無事に南昌での調査を終えた3人は、長江を遡って大冶というところへ行きます。ここは古来「大冶の劔」が知られた鉄を産する鉱山の中心で、彼らはその鉄山を見学し、この山を背後にもつ鉄鋼の精錬所の街石灰窑を訪れ、さらに積出港黄石港を見学して、旅の目的を終えています。

 この報告集の報告文の記述は個人的な感想なども交えた紀行文みたいなもので、おそらく彼らが各地で実際にデータをとったり、訪問先でヒアリングしたりした詳細な調査報告は別途、大学や情報機関のようなところに提出されたのでしょう(これは私の憶測に過ぎませんが)。この「大旅行紀」の限りでは、それほど大した準備もしているように見えない、若い少々無鉄砲な若者三人の愉しくも呑気な戦時下の卒業旅行で、たしかにちょっと前まで戦闘が行われて日本軍が奪還した街とか山巓の要害だとかを泊る宿のあても食事のあてもないまま旅をするのですから「冒険旅行」には違いないけれど、そうした切迫感よりも、意気込んで大旅行に出かけたものの、船はないよ、といい加減にあしらわれて実はあることがわかって、駆け付けたがあとの祭りとか、ヒアリングしてはみたものの、たぶん学生相手と小ばかにされてろくな情報をもらえず憤ってみたり、せっかくの廬山に1人体調を崩していけなかったり、行った二人も天候急変への用意もなくぬれねずみで下山したり、大真面目な報告の行間に、世間知らずの若者の珍道中的な可笑しみも覗けるような旅行記でした。

 もちろん関係の絶対性を言うならば、これら同文書院の学生たちの卒業旅行は、昔の江戸幕府の全国に配置した隠密による地方の情報収集と同じで、中国各地の実情を学生たちの脚を使い耳目を使って把握するインテリジェンス活動の一環として位置づけられる性格のものであったかもしれません。もっともこの旅行記に記された程度の観察ではものの役に立ったとは思えませんが(笑)、こういう経験を第一歩としてそのまま中国に残って行政機関や軍で、あるいは民間で活動を続けた人材を生み出していく教育的実習としての意味は大きかったのではないかと思います。

 父は卒業後も民間企業(いまのテイジン関連会社)で働き、武義だったか奥地の蛍石を掘る工場の工場長をして500人前後の中国人従業員を指導する立場にあったらしく、母が内地から単身大陸に渡ったときも、1カ月くらい大陸の各地を新婚旅行してまわったらしいので、或いは学生時代からこういう形で大陸各地を訪れていたことが体験としても知識としても役立ったかもしれません。

 この旅行記は税も入れると1万円を少し出るので、ちょっと買うのに躊躇したのですが、まぁ親父の痕跡(三人で分担執筆していて、それぞれの執筆分にイニシャルを残しているので、本人の書いた部分がわかる)に触れることができる、滅多にない機会なので、エイヤっと注文しました。

 そうしたら、不思議なことに(笑)、それが届いた今日、私がアマゾンのマーケットプレイスで擬古書店をやって売っているものの内から、ちょうど引き換えのように、DVDの「天安門」が売れました。片方は軍国主義日本の国策高等教育機関の学生たちの書いた報告書、他方は現代の中国の歴史的恥部・いまもタブーの天安門事件のドキュメンタリー映画。なにか因縁めいていませんか?(笑)
 このDVDはどうも廃盤らしくて、ほかの業者さんは2万円とか、すごい値段で売っていましたが、さすがに原価の倍以上で売るのはちょっとなぁ、とつい消費者心が出て(笑)1万円で出しておいたら、ちゃんと世の中にはそれを求めていて、買って下さる方があるんですね。

天安門のDVD

 中国では絶対に販売できない一枚で、日本でも廃盤になったらどうなるんだ、と思いますが、もともと英語版で日本語字幕がつくやつなので、英語圏では引き続き販売されているのかもしれません。これは優れたドキュメンタリー映画で、天安門を辛くも抜け出した指導者たちの生々しい声がつぶさに記録されています。私自身もニュースの断片的な映像を除けば、このDVDによって、はじめて天安門広場に座り込んだ学生・民衆の指導者たちの実像に触れたような気がしました。それは決して英雄的な人たちでもないし、的確な判断ができた人たちでもない、生命の危険と民衆の命運を担わされた極度の緊張と恐怖の中で混乱もし、味方の中で四分五裂し、怯え、疲労困憊し、身体を震わせ、泣きじゃくりながら自己主張する、たまたま時代と切り結ぶ結果になった幾人かの平凡な若者の姿でした。
 
 
 



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2017年12月11日

一乗寺界隈

(1)マヨルカ書店

 久しぶりの京都極私的案内、何回目かも忘れるほどで、前に書いたのがいつか忘れてしまいましたが。

 以前に修学院あたりから大原街道を北大路まで下がってくる道々をご紹介してきたので、きょうは京大、京都工芸繊維大学(「工繊」)、京都造形芸術大学などの学生さんが数多く暮らす、左京区一乗寺界隈を、最近西陣から引っ越してきたマヨルカ古書店から、ローカルながら都心の料亭にひけをとらない味の「そば鶴」までご紹介しましょう。
 
 まずは上の写真、マヨルカ古書店。きょうも暗くなっても店の前に自転車が何台かとめてあって、狭い店内には若い人が。2階の窓にもブラインドにお客さんの影が映っていました。西陣よりはきっと学生など若いお客が多いと思います。いいところへ越してこられましたね。

 店においてある古書も、それ以外の雑貨小物も、いまの若い人が興味の持てるような、いまふうのお洒落な古書店さんです。北大路と叡電の交差する踏切からほんのちょっと上(北)へ上がった東側で、小さいお店で看板も小さいから、うっかり通り過ぎちゃうかも。

(2)マヨルカ書店近く

 マヨルカさんから数メートル先のご近所には、ちょっとおしゃれなカフェもできています。

(3)マヨルカ書店近くのカフェ

 道を隔てた向かいを少しいったところには、マンションの1階に、これは布というか縫製のバッグとかつくって販売もしているお店でしょうか。これもなかなかお洒落なおみせで、いつもまえをとおるのだけどはいったことがなくて、正確には分かりません。

(4)マヨルカ書店近くのマンション

 マヨルカさんのすぐ近隣、少しへっこんだ所に、大きな新しいマンションらしいのが建っています。そういえば、このへんは次々に結構高層の新しいマンションが次々に建っています。大学などへのアクセス、都心へのアクセス、自然へのアクセス、それに日常生活にかかわりの深い店(イズミヤ、カナート、HELP、中村屋、ユタカ)の多様さ・豊富さ、情報発信性のある書店(恵文社)や「ラーメン街道」と言われる沢山のラーメン屋の集積等々が、住むのに非常に便利・快適にしているせいで、けっこう人口も増えているのではないでしょうか。

(5)福山マンション

 これは福山マンションだったかな。古くからあって、昔、新婚の友人夫妻が4階に住んでいて、エレベーターがないので、よく酔っ払ってフーフー言いながら階段を上がり、夕食時に上がり込んで遅くまでお喋りしたり・・・ひどいことをしていました(笑)

(6)はるちゃんちのマンション

 曼殊院道に出る角には、孫のお友達が住んでいる大きくて入口を見てもかなり豪奢なマンションが建っています。底を右手(東)方向に曲がって行くと、じきに叡電の一乗寺駅ですが、きょうは左に曲がります。
 
(7)酒屋
 左の角、マンションの向いは、酒屋さんです。結構色んな種類のお酒を置いたお店です。

(8)靴屋

 そのお隣は靴屋さん。

(9)毛糸屋

 その向い(曼殊院道の北側)には、毛糸屋さん。少し以前はここにゲームセンターがあって、小中学生が入り浸ったりして困っているお母さんがたがありましたが、いまはちょっとおしゃれで大きなこのお店が入って、いいムードです。

(10)並びのお店

 酒屋さん、靴屋さんの並びにケーキ屋さん、定食屋さん?などが並び・・・

(11)ユタカ

 その向いは水泳教室などのあるエルスポーツと、日常雑貨・駄菓子・飲料・薬などを置いているユタカ。ここも毎日のようによく使う店です。市販の薬、シャンプーや歯磨き、ティッシュやトレペ、ジュースなどちょっとした飲み物や子供の駄菓子、それにボールペンやのし袋や乾電池など、文具・生活雑貨はたいていここで間に合います。
 
 かつてこの場所には、京一会館という映画館がありました。もう半世紀も前のことですが(笑)。あの学生でこの辺に住んでいた人は知らない人はいないでしょう。通りに向かって派手派手しいエログロナンセンス的な映画のポスターが貼ってあって、ここへ入るのはすごく恥ずかしかったけれど、実はそれはこの映画館の半分の面で、後の半分は、けっこう硬いアート系の映画を一人の監督にしぼって1週間やってくれたり、のちに名作と言われるようなやくざ映画のシリーズものなどをまとめて見せてくれたり、いわば志のある人がやっている映画館でした。お色気の方の映画は営業上の必要性から上映されていたのだと思います。

 でも実際にちょっとあちら系のアンちゃんが前の椅子の背に足をどかっとのせていたり、トイレの臭いがいつもしていたり、まぁ場末の映画館的な雰囲気も濃厚ではありました。

 いま一乗寺界隈に欠けているものがあるとすれば、映画館でしょう。今度出町桝形商店街にできる出町座のようなのが、本当はここにも来てほしかった。これほど若い人たちが多く集まってくる町に、それは相応しい娯楽文化施設だと思います。

(12)けいぶん社

 ユタカの前から曼殊院通りに面して立ち、西南のほうをみれば、もう一つのケーキ屋さんのむこうは、いまは大きくなった「恵文社」のクリスマスツリーのイルネーションが目につきます。毎年この時期にはこれがともるようになりました。

(13)けいぶん社2

 恵文社。以前はまん中の部分だけの小さなローカル書店でしたが、仕入れや棚の品ぞろえをアルバイトの女子大生などに任せて、若者の感性に訴えるような店づくりに成功し、両隣の別の店だった(向かって右隣りはたしかカフェ兼ケーキ屋だった)スペースを買い取って、書店の部分とつながったお洒落な雑貨売り場を整備し、雑誌エルマガの左京区特集では小西真奈美が恵文社の扉から出てくる大きな写真が表紙になるなど、メディアでも頻繁に取り上げられ、みるみる客層がお洒落ないまどきの若者に特化していって、電車に乗って遠くからわざわざ訪れるような本屋になりました。そのおかげで、私のような爺さんがよれよれの普段着姿でつっかけ履いていくのはちょっと憚られるような店になってしまいました。

 次男のCDもここにおいてもらっていて、一時は特設コーナーで彼が選んだ本と一緒に紹介してもらったりして、けっこう売れたようです。また、裏のカフェ兼イベントスペースでは、ミニ演奏会や演劇系パフォーマンスをやらせてもらったりもしたようで、いつも活発に動いている書店です。

(14)時計やさん

 恵文社の前を通り過ぎると、同じ並びにちいさな時計屋さんがあります。タカギ時計店。ここのご主人は、いまではほとんどいなくなってしまった万能の時計修理技術をもった腕の確かな職人さんです。私は大学の入学祝に亡父がくれたブランド物のスイス製腕時計や、その父が亡くなったときに遺された同様の腕時計を引き継いだものの、分解掃除やちょっとした修理だけで2万も3万もかかるので、とてもやってられなくて傷むのも構わずほったらかしにしていたのですが、ここのご主人はメーカーの職人がやるのと変わらない精度でその仕事をして、いまでもそれらの時計は生きています。もう半世紀以上も使っているのですが・・・。百貨店などへもっていっても、結局人が居ないから、こういう職人さんのところへ廻ってくるのだとか。

 こういう職人さんの店はぜったい消えて欲しくないな、と思います。ローカルなすばらしく美味しい和菓子の店(うちの比較的近所では友恵堂さんの柏餅など)も同様です。どこで買うより美味しいのですから・・・

(15)ラーメン屋

 さてさらに行くと、東大路の延長上にあるとおりに出ます。このあたりがラーメン街道で、それを構成するお店の一つである「珍遊」がすぐそばにあります。ほかに並ぶ店はいっぱいありますが、私たちは個々が一番ふつうの美味しいラーメンを食べさせてくれて安心です。

(16)そば鶴

 その東大路の延長にあたる大通りを渡って急に狭区、路地のようになる道の右手にあるのが、われらが「そば鶴」です。蕎麦も美味しいけれど、ここの一品料理がまた素晴らしく美味しいことは、これまでこのブログでもたびたびご紹介してきました。先代のころからよく行って、娘さんがまだ幼いころから店の中を歩き回ってお母さんのお手伝いをしていたころからのおつきあい。いまはご両親が亡くなられて二人のとびきりイケメンのお兄ちゃんと気立てのいい妹さんとでこの店を経営しています。

 いつも料理に工夫があり、新しいチャレンジをするところも、すばらしい。上のお兄ちゃんはお母さんに似ていつも明るい笑顔で人当たりがよくて、の方に出て馴染みの客と言葉をかわしたり、まさにうってつけのキャラ。弟さんのほうはたぶんキャラがお父さん似で、どちらかと言えばシャイで、あまり調理場から出てこない。でも調理の腕はこれも料亭で修行されたらしい父親譲りの凄腕で、ほんとうに美味しいものを作ってくれます。私も会社の株主総会だとかクライアントの接待だとかで、京都では一流と言われるお店でお相伴に預かったり、結婚披露のあとや、両親の法事のあとの親戚の接待なんぞで、ふだんは近づくこともないその種の店で何度か食べてきたけれど、味に関する限り、決してそれらで出される料理の味にひけをとりません。とりわけ創意あふれるかぶら蒸(幾種類かありますが、私は青葉の季節のエンドウのが好き)は絶品で、これは一流料亭の味のさらに上を行く絶品でした。

 ブランドになった有名店の料理をおいしいと思い、無名の店の料理はどんなに美味しくても美味しいと気付かない人もいて、そういう人はグルメを装っているけれど、実際には何もわかっていないのだろうなと思います。自分がどっちだろう、と思う方は「そば鶴」で一度、いくつかのおすすめ一品料理をとって、お兄さんの勧める酒でも飲みながらやってみてください。一流料理店の料理を、店の名など忘れて純粋に比較してみて、この店の値打ちが分かるようなら、その人はきっと舌がほんとうによい人だろうと思います。ローカルな「そば鶴」という店ゆえ、たかをくくって自分の舌の貧しさを露呈されないように(笑)

 そんなことより、あるとき妹の自称看板娘から聴いたのですが、この弟君の将来の夢が、給食が不味いから、子供たちのために本当においしい給食を作ってやりたい、というのだと。これを聴いて益々熱いファンになり、この店だけはぜったいにつぶせない、と思ったのでした。幸いもうたくさんの熱烈なファンがついていて、土日などは満員御礼状態のようです。でも都心の宣伝上手の店ではない、地域のお店だから、平日はけっこうあいている日もあって、いっときに集中したり、またあいたりと、客商売の難しさを感じます。

 さて、一乗寺界隈にはまだまだ色々ありますが、きょうはこのへんにしておき

saysei at 12:12|PermalinkComments(0)
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