2017年10月
2017年10月13日
パゾリーニ「アラビアンナイト」
帰国後は、日本でもずっとブームだったらしいことも知ったパゾリーニでしたが、その理屈っぽい冗長な作風に辟易して敬遠してきました。先日レンタルビデオ屋の棚にデカメロン、カンタベリー物語、アラビアンナイトと生の三部作オリジナル全長版がそろって並べてあるのに気づいて、あらためていま観たらどうだろう、と借りてきました。
まずは東洋文庫で12巻出ていたころに全部買ってきて、最初から読み始めたらシェラザードの話を聴く王と同じように、とめることができず、何日かがかりで全巻一気に読んでしまった大好きなアラビアンナイトの思い出もあって、パゾリーニ版「アラビアンナイト」。
これはなんとも愉快なあっけらかんとした大らかな、とてつもない器の大きな、いってみれば神のように人間の歓びも悲しみも滑稽さも卑小さも全部受け容れて、それぞれに具体的な存在感を持ったアラビア人の肉体に形象化し、男女の絡みあう重層的な物語に織りあげた、実に豊かな世界で、あまりほかの映画では味わったことのない新鮮な解放感を堪能しました。
もともと千夜一夜物語の原作がそうであるように、次に何が起きるのかという興味でひきつける継時的な展開は物語の原型そのもので、きわめてシンプルですが、多様な男女の性的な交歓を軸に語られる幾つもの物語が入れ子構造になっている分、重層的な奥行きがあって、そこに人生のほとんどありとあらゆる喜怒哀楽の要素が盛られている印象です。
千夜一夜物語から抽出された断片は私たちがよくよく知っているようなエピソードはほとんどなくて、辛うじてひとつ、あぁ、そういえばこれに似たエピソードを読んだ気がするな、というおぼろげな記憶が呼び起こされるような気がする程度で、どれも新鮮に見ることができました。
基軸になるエピソードは冒頭とラストでつながる、賢い女奴隷ズムルートと、彼女が奴隷市場でみずから主人にと選んだ若者ヌレディンとの恋のはじめと運命に弄ばれるように離れ離れとなり、苦難の末に最終的には再び巡り合ってめでたしめでたし、となるお話。
これは幸運な出会いで一緒になった二人の幸せな生活が、ズムルールの創った刺繍布をヌレディンが街へ売りに行ったのをきっかけにして断たれてしまうところから始まります。彼女が青い眼の人に売るとよくないことが起きるから決して売ってはいけないと禁じるにもかかわらず、ヌレディンは市場で法外に高い値をつけた青い眼の男に刺繍布を売り、その結果この青い眼の男に自宅まで押しかけられ、女を奪われてしまい、ここから彼女を探し求めるヌレディンの試練の彷徨が始まります。
他方、ズムルートのほうも運命に翻弄され、最後は盗賊に攫われるものの、持ち前の知恵でうまく逃げだし、ターバンを巻いて男装し、砂漠を越えて街に帰りつくと、そこに待っていた王宮の人々が、王が亡くなって後、砂漠から初めてやってくる者を王とすることになっている、とのことで、王位に就くこととなり、そこでヌレディンの来訪を待つことになります。
最後にはさんざん運命に翻弄されて彷徨を繰り返していたヌレディンが、もうどうにでもなれ、と死ぬことも厭わない気持で、何も知らずに王宮にたどり着いて、待っていたズムルートに無事再会し、物語は幕を閉じます。
しかし、その間に、二重、三重に入れ子構造になった面白い物語が、登場人物の、まあ聞いてくれるか、という導入で横道に逸れる形で展開され、それがアラビアンナイトらしい奇想天外な話で、それぞれ面白い。
その中でたぶん一番長い、よくまとまったエピソードは、アジズという若者とその婚約者である従妹のアジゼの物語。アジズはアジゼと婚礼直前というのに、町へ出掛けて建物の窓から見えた女にひと目惚れ。彼女にかけられた謎が分からず、食事もとらず眠りもせずに苦しみ悩むのを、賢いアジゼが見かねて、それは2日後に来いという意味だと解いてみせ、男が喜んで2日後に行くが女は姿を見せず、帰宅したアジズは怒ってアジゼをひっぱたく。
でもアジゼは、きょうは試されたので、次に必ず彼女は来るからとまたまた女のかけた謎を解き・・・というふうに同じパターンで次々に異なる謎かけをする女の謎を、ことごとくアジゼが解いて、とうとう男の望みが叶い、誘惑する女との甘美な交わりにアジズは有頂天。
アジズを愛しながら、彼を別の女のもとに送りだし、その交わりを手助けすることになったアジゼは、女とのやりとりをつぶさに知らせるアジズの言葉に傷つき、自分の思いを詠う詩をアジズに伝え、女にそれを伝えるように言います。アジズは何も理解しないまま、その都度女にアジゼの詩を伝え、女からは返歌となる詞章を預かってはアジゼに持ち帰り、またアジゼの詩を伝えることを繰り返します。
アジズが女との思いを遂げたのちに、アジゼが最後に伝えた詩を聴いた女は、アジズの婚約者が自ら命を絶ったことを悟り、アジズが自分とのいきさつをすべてアジゼに語っていたことを知り、こうなるのであればアジズとのことは無かったと、アジズの罪を問い、命を奪ろうとしますが、アジズの呟くアジゼのことばによって思いとどまり、彼の男根を切り取ることで放免します。ここでは少々目をそむける場面もあります。
このエピソードは私にはるか昔に読んだアラビアンナイトの中のどこかで触れた記憶をかすかに呼び起こすところがありました。このアジゼの婚約者への純粋な愛とそれと一体の、この世のものとは思われない自己犠牲の深み、その運命の哀れさに心を動かされたことがあったのだろうと思います。
ここでは男はまったくどうしようもない愚かで能天気で愛を知らない、ただ欲望だけで見知らぬ女に心を奪われ、その誘惑の手練手管にまんまとひっかかって、自分の欲望を満たすために自分が裏切った婚約者の知恵に助けられて別の女のもとへ走る、最悪の男です。
しかし、ここでは、そのどうしようもない男の愚かさも、その滑稽さも、あからさまな欲望も、婚約者への裏切りも、にもかかわらず男が示す婚約者へのとてつもない甘えも、すべてがあるがままに、あまりにもあっけらかんと描かれ、これが人間というもののありのままの姿じゃないか、というようにいわば肯定も否定もされずに描かれています。
肯定されている、と言ってもいいのかもしれませんが、積極的に肯定を主張する作品でもなく、ただそこに物質のように人間の肉体も欲望も滑稽さも悲しみも、存在感をもって存在している、というふうです。
チンパンジーに姿を変えられる王子のエピソードも、なかなかすさまじく、印象に残ります。砂漠で隊商を組んでインドへ行く途中で盗賊に襲われて部下たちは皆殺しに会い、一人死んだふりをして生き残った王子は、偶然地中の部屋に悪魔によって幽閉された女を見出し、愛を交わすのですが、悪魔を呼び出す文字盤に触れてしまったために圧倒的な力を持つ悪魔が登場し、二人に交互に蛮刀を渡して、これで相手を殺せば命を助けると言いますが、二人とも拒みます。
そこで悪魔はその蛮刀で女の体を、手、脚、首と順番にざっくり斬り落としていきます。ここはちょっと目をそむけたくなる悲惨な場面。
悪魔は王子を殺さずに抱いて宙を飛び、山上へ連れて行って、そこで「もとの姿になれ」、とチンパンジーの姿に変えてしまって、放置していきます。
チンプの姿になった王子は街へ下りて、文字を書くサルとして人々に驚かれ、その国の王の知るところとなって大臣に引き立てると宮中へ連れて来られ、王女に引き合わされます。
するとこの王女は彼が人間であることをひと目で見抜き、薬剤を振りかけて元の王子の姿に戻すのですが、それは命がけの業で、彼女自身は炎となって燃え尽き、死んでしまいます。あっという間の展開ですが、このへんはエッ?と凍りつくような場面です。
まだまだあるけれど、こんなエピソードを彷徨するヌレディンが聞く話として、またその中に登場する人物が聴く話として、入れ子構図で展開して、ハッピーエンドのラストにたどりつきます。
その入れ子の話と話は語り手が体験しました、という以外は何の関係もないので、それぞれ独立した奇譚として楽しめるのは、次々に時間順に新しい物語が登場しては先へ先へ興味をつないでいく、原作の千夜一夜と同じです。
小説も映画もフラッシュバックの手法を生み出したから、時間を後戻りしたり、先走りすることもできるけれど、本来は時間に沿って継起する起承転結のリニア―な性質のメディアでしょうから、こういう物語の時代の文学を映像化する場合は、とても自然にその構造を移転できるのかもしれません。
文字に書かれた物語や言葉で語られる物語では想像でしか描けない風景や街、生活空間や日常の物たち、そして何よりも人間の身体・・・それが表現できることが、果たして私たちが物語を深く味わう上でプラスなのかマイナスなのかは本当のところよくわかりません。素晴らしい物語を読んで、自分が想像していた人物を思いもよらない俳優が演じてがっかりさせられることは少なくありませんから。
でもこのパゾリーニの作品では、すくなくとも映画は映画としての素晴らしい豊かさをみせて堪能させてくれたように思います。ふだん映画館でヘアがどうのこうのとぼかされた映像など見てきた私たちがこの作品を見ると(ごく部分的なぼかしはありますが)、そのあっけらかんとした、あまりにも健康的な性の露出に、ほとんどだれも欲望の解発装置を駆動させる機会はないだろうと思います。
考えてみればずいぶん露わなシーンは少なくないのですが、通常の概念でのエロティシズムはそこにはほとんど感じられず、重なり合う男女の肉体も、その肉体の重量感というのか、健康な肉体が持つだろう重みや張り、日焼けした皮膚の色や艶、歓喜に満ちた行為ではあるけれども、或る意味ではそうでしかありようがない無器用で、滑稽で、哀切でもあるような形、その存在感だけが伝わってくるようなところがあります。
ここには隠すことによる淫靡さは微塵もなく、そこから立ち上がってくる幻想としてのエロティシズムが最初から立ち上がる余地がないかのように、性が開かれた形で映像として露出されている印象があります。
ごく若いたぶん十代の女優さんたちというのは彼女らのことだろうな、と思われるメイド?役の3人がヌレディンを誘い込んで弄んだり、プールみたいなところで健康な裸体を惜しげもなくさらして遊びながら、これは何?と自分の水中でもあらわな隠しどころを指してヌレディンに問いかけ、彼が答えると、「違うわ」、「それも違う」とからかい、「では何だ?」と問えば、「香り草よ」と答え、あるいは「もてなしの宿よ」と答え、水をかけあってキャッキャとはしゃぎまわる、あっけらかんとした光溢れる明るい場面などは、地上に一瞬降りてきた天女たちの戯れを目の当たりにするような素敵なシーンです。
この映画のスティールなどにもよく使われている、アジズが自分を誘惑した女と二人、壁にもたれ、裸で向き合って座っているのを水平90度の角度からとらえて、アジズが黄金の弓をひきしぼり、男根の形をあたまにつけた矢を射る場面も、言葉で説明するとひどくいやらしく聞こえるかもしれないけれど艶やかなのに頽廃の腐臭が漂って来ない、絵として実に美しく昇華されて私たちの「常識」を撃つシーンでした。
舞台はもちろんアラブの庶民の世界や王宮。庶民の世界も貧しく汚れた衣服や暗いがらんとした住居、粗末な日用品に満ちた世界だけれど、王宮に負けないくらい多彩で圧倒的な存在感のある背景で、ここに生きる人々もまたおそろしく多様な老若男女の姿をしていて、その表情が、とくに笑顔がたまらなくいい。
ものすごく深刻なドラマの進行中に、ちょいとヌレディンやアジズが横町の後家さんや示し合わせたメイドやらに引っ張り込まれて、あっけらかんと戯れかけられると、それまでの深刻さもどこへやら、とたんにあのあっけらかんとした独特の笑い顔になって、カメラは双方の、「これからすっごく楽しいことをするのよねぇ~っ」とでもいうような、あの暗黙の合意の笑顔を交互に捉えて、一同がみんな幸せで健康的な笑顔を浮かべて事に及ぶ。
この世界では歓びも哀しみも残酷さも、カラっと明るく存在感をもって露出しているのでした。
こんな世界で数々の登場人物たちと共に、幾重にも物語の小宇宙が重なり入れ子を形づくる大きな物語の世界を我々も彷徨し、ときにハラハラし、ときに泣き、また笑い、ときに残酷さに凍り付き、あまりの明るさに目がくらみ、桃源郷に歩み入ったように恍惚とするうち、次々に変化していく実に多彩で豊かな夢を見た気持ちになって終わる、そんな作品でした。
2017年10月10日
再会(10期生)
昨日は、ちょうど10年前に卒業したOG5人が京都へ来てくれて、手配してくれた私がいつもお世話になっている京町家で2年ぶりに再会して楽しいひとときを過ごしました。
彼女たちは、クラス単位ではめずらしいことですが、在職中からフレンドリーにつきあってくれて、卒業後もずっと親しかったメンバーで、卒業してまだみんな一人だったころは、ふだんからなにかと連絡をくれたり会食に誘ってくれたりしていた人たちです。
5人のうちすでに2人がママで、いま一人はこの年末にはママになります。みんな忙しく、また出にくい中を京都まで来てくれて本当に嬉しい。
このメンバーは私が大学に奉職してはじめて担任をおおせつかったクラス。面白いことに10年以上ながい親しいおつきあいが続いているのは、ゼミもクラスも(学年は違いますが)最初に受け持ったゼミ、クラスです。
もちろんそれ以外にもごく親しくいまもつきあってくれているOGは少なくないものの、クラス単位(その中核メンバー)、ゼミ単位(ほぼ全員)というのは、いずれも最初に担当したクラスとゼミなのは偶然ではないのかもしれません。
彼女たち、最初に担任したクラスとは、授業の初日に近くの川辺の河川敷公園に桜を見に行き、ひとり三つずつ俳句を詠んでもらう、というのから始めました。みんないきなりお花見遠足というので、驚いたり戸惑ったりしていましたね(笑)。でも、とても楽しんでいて、それがお互い同士を親密にさせたかなと思います。
秋の文化祭ではクラス総がかりで模擬店を開き大成功。あとにも先にも文化祭の模擬店へ、有志ではなくクラスの全員が参加、というのは学科では例がない、と先輩の同僚がおっしゃっていました。
この模擬店の売上で彼女たちは打ち上げに行きました。彼女たちはまだ新入生なので未成年だったけれど、きっと大学生になったので乾杯くらいはするでしょうから、教員の私が参加すると、後日学科や大学に迷惑がかかるかも、と思ったので、声はかけてもらったけれど私自身は参加しませんでした。でもそのころからこのクラスは非常にまとまりのよいクラスになっていきます。
文化祭への参加はその後クラス有志になったけれど、就活で多忙な4回生のときを除いて3年連続で模擬店を開きました。この日記の「saysei」というのは、たしか2年目くらいに彼女たちが模擬店の名前として、看板に大書し、自分たちで買って来たそろいのつなぎの背にもその文字を書いてアメリカンバーガーだったか何だったかを売りまくったときのことに由来しています。
昨日来てくれたメンバーはそのクラスの中核を担った学生さんたちで、彼女たちを中心にクラス40数名のうち、30数名はいつも気軽に研究室に出入りして、彼女たちどうし勝手にお茶しながら楽し気にお喋りしたり、ときに私も加わって相談にのったり、近年の学生さんと違うのは、中にけっこう人生論をたたかわせるような学生さんなども含めて、いろんなタイプの人たちが心を開いてつきあってくれたことでした。
中核的な10人ほどのグループが飲み会に行くときはたいてい私にも声をかけてくれて、近くの居酒屋で飲んだり食べたりしながら昨日のように楽しい時間を過ごしました。一番多い年は毎月1回は行っていたのではないかと思います。
おかげでカラオケやら居酒屋でも私の歳ではぜったい行かないようなところも沢山見学(!)できました。一番驚いたのは、はいるとミニスカポリスに手錠をかけられて「牢獄」へ引っ張って行かれる、という奇妙な趣向の居酒屋で、決していかがわしい場所ではないのですが、彼女たちがこんなところへ来ているんだ・・・とちょっと考えさせられ、ここまで受動的につきあっていていいのか(笑)と少し思い迷ったりもしました。
2年生後半のゼミ選びのときは、私のほうから、当時わが研究室の主のように入り浸っていた学生さんに、きみらは別に私のゼミに来なくても、いつでも来れるんだから、私のゼミには入らなくていい。それより別のゼミでほかの先生から色んなことを学ぶほうがいいよ、とアドバイスしました。
彼女は生真面目な学生さんで、クラスの誰もが一目おくような存在感のある人だったのですが、どうやらクラスの全員の前で、私がこのクラスの人は私のゼミには来ないようにと言っていた、とアナウンスしてくれたようです。
そういう私の意志が伝わったのか、毎年恒例の合宿先での学年全体での希望表明とその後の場合によっては夜を徹しての「話し合い」で決まるゼミ決めの日、蓋をあけてみると私のクラスから私のゼミへ来た人は見事に一人もいませんでした。最初その結果だけ聞いたときは、逆にあぁは言ったものの、一人くらい来てもいいのに・・と少し淋しく思ったほどでした。
私も含めて数人の教員が合宿の引率で合宿先に行っていたのですが、ゼミ決めの話し合いには教員は退場して、一切は学生さんたちの自主的な運営に任せてしまいます。だから決まった経緯はあとで学生さんたちから聴くことになります。
そうしてあとで聞いたところでは、私のゼミにクラスから一人も希望がなかったのではなく、一人どうしても行きたいという学生さんがいたようなのですが、たまたまこの年はたしか36人だったか、私のゼミへの希望者が最多になり(そんなことは在職中はじめてで最後の例外的なことでしたが)、最終的に抽籤か何かで、彼女は外れてしまったとのことでした。
各ゼミへの参加希望者数はあとの話し合いの要不要のために即座に全員に公表されますが、そのとき私のゼミへの希望者が最多になったことを知った私の担任クラスの学生さんたちは、自分たちは希望しなかったのに喜んでくれて、中には机の上に乗って小躍りしたり叫んだりするようなのもいて、大騒ぎだった、とすぐあとでほかの学生さんから聞かされました。
もちろん、その後もクラスの学生さんたちは、それまでと何もかわらずに私の研究室を「占拠」して、始終出入りしていました。それは新しくよそのクラスからゼミ生になった学生さんたちに少し悪いかも・・・と思えるほどでしたが、私にとっては一方で、ゼミは他へ行っても、変わらずフレンドリーでいてくれる彼女たちが可愛くてならなかったのも事実です。
クラスの子が一人も来なかったと言うと、「先生が来るなっていったじゃない」と言われ、「いやそうは言ったけれど、一人くらい絶対先生じゃなきゃいやだ、と来る子がいてもいいじゃないか」と笑いながら言うと、「なんや、それなら来たのに!」と。
私が、クラスの子は来なくていいんだ、と伝えたこの学生さんは、東北大震災のあと、被災した東北の或る街へ行って、高齢者や子供の世話をつづけ、NPOを立ち上げていまも活動しています。
彼女たちとの思い出話をはじめたらきりがありませんが、昨日来てくれたメンバーで一つだけ書くと、私がケータイというものの魅力を実感的に理解したと思えたのは、中のひとりと交わしたメールによってです。
それまでは、いちおうケータイを使っていたし、メールも学生さんたちとかわすようになってはいましたが、彼女たちが「ケータイいのち!」などと言って、ケータイを失くしたり、学校へ置き忘れたりしようものなら、青くなって何もかも棄てて血眼で探し回っているのや、いつも目の前に会ってべたべたしているのに、ケータイにしじゅう触っていて、メールを交わし合っているのが、今の若い人のそれがコミュニケーションのあり方なんだなという客観的な理解はしても、実感的にはよく理解できなかったのです。
ところが、いやおうなく彼女たちと頻繁にメールを交わし合う中で、きっとその経験を日々繰り返すうちに、彼女たちが友人どうしで交わすメールのような地平に私も自然に近づいていたのかもしれません。
メンバーの一人とちょうど大学へ向かう途上、駅からの歩道を歩いている最中だったと思いますが、彼女からメールが来たので簡単な返事をしたら、すぐまた彼女から返信がきて、それにまた返信する、というのを4~5回繰り返したのです。
非常に調子の良い言葉のやりとりが、ピタリと波長が合って波形の山と山が重なって倍のエネルギーに高まるような高揚感に襲われ、送信・返信のたびに、自分のなかで抑え切れないような歓びが突き上げてきて、最後に明らかにこれで決まり、ということが自然に分かるような閉めの言葉を送信したときに、その感情が絶頂に達して文字通り身体が震えるような感覚を味わったのです。三流文士ならorgasmに達したというでしょう(笑)
こんな経験は後にも先にも一度切りですが、いまだに、あれは何だったんだろう?と不思議に思うことがあります。交わした言葉の内容は、いまではまったく忘れ去っていますし、3代くらい前のガラケーですから、もう再現もできません。きっと再現しても、平凡な内容だったんだろうと思うのです。
でもそのときその場の言葉のやりとりとして、そのときの気分、伝えたい思い、そのタイミング、それを伝えるのにふだん冗長なメールを書く私らしくもない、ぴったりの言葉の選択が奇跡のように実現できて、それに対する丁々発止の相手のレスポンス、すべてがツボにはまり、ほんとうにつかの間のものすごいスピードでのやりとりだったけれど、その間に不意にあの歓喜の情が地下のマグマから熱泉が噴き出すように内側からこみ上げてきたのでした。
あぁ、これか!とその時初めて、私は彼女たちが親しい友人たちとケータイ・ネットワークでつながることの意味を内在的に理解した、と思えました。
そんなことも教えてくれた彼女たちとの数年間でした。
あれから10年、彼女たちも既婚者、そして赤ちゃんのできた人が半数を超え、主婦として母親としての自信と落ち着きを備えるようになり、また仕事の経験も十分に積んで、知識、スキル、経験を身に着け、自信をもって激烈な職場での仕事に日々挑戦している、そんな姿を自然に感じ取ることができました。
生後未だ1年未満の赤ちゃんのおもりをゆだねられて、近所で待機してくれていたらしい、メンバーの一人のご主人が、赤ちゃんのご機嫌がななめなため困惑の体で連絡してこられて、それから赤ちゃんも私たちの仲間に加わり、もうみんなで撫でたり触ったり、ぷよぷよ柔らかな頬、腕、脚、紅葉のような掌、ママがそばにいてご機嫌の笑顔、ものおじせずに這い這いして近寄ってくる真剣なまなざし、すっかりアイドルで私たちをなごませてくれました。
お食事のほうは、最初にこんなお洒落な竹ひごで編んだ器が登場しました。蓋には庭で摘まれた花が一輪挿してあります。
ふたを開けると、秋らしいオシャレな吹き寄せ。まん中に和え物、ご飯は銀杏を焚き込んだご飯です。一流料亭のようにおしゃれで、しかもそういう御商売の店とはちがって、京都のおばんざいらしい家庭的な素材での、私好みのありがたいメニュー。
お鍋は肉とキノコが山盛りの秋らしい味覚。酢橘を絞って香りと味を楽しみました。そのあと揚げ物も出て、おなかいっぱい。
空間そのものが数百年の伝統的な町家のフォルムを伝えてくれるこのお座敷で、縁側に出て庭を眺めながらゆっくりした時間を過ごしているときが、いちばん心なごみ、ほっこりします。こういう場所で彼女たちと再会できたことは本当に嬉しい。また来年、と言ってくれる彼女たちの言葉を聴きながら、ほんとうに来年もできれば今の状態に近いままで再会できればいいな、と。それまでまた一日一日大事に生きようと思いました。
2017年10月05日
カズオ・イシグロの作品
ニュースで通りがかりの市民の声をひろっているのを聴いても、名前くらいは聴いていても、あまり読んだことがありそうな人はいませんでしたね。でも現代文学の好きな人、あるいは映画が好きな人ならみんな知っていたでしょうし、主著の幾冊かは読んでいたでしょう。
私もその類で、7冊(だったと思う)の長編のうち5冊は読んでいました。最初の「遠い山なみの光」(女たちの遠い夏)、「浮世の画家」そのあたりまでは、そんなに強い印象を持たなかったように記憶しています。でも次の「日の名残り」で圧倒されました。それまでの2作(ある意味で”日本”の香りの漂うような)とはまるで異なり、イギリスそのものに深く根を下ろした精神からしか出てこないような作品でした。
これは映画にもなって、映画のほうも素晴らしい出来栄えでした。こういう典型的なイギリスらしい作品を日系の彼のような作家が書くというのも面白いな、と思いました。
つぎの2冊がたまたま個人的ないきがかりでツンドクになっていて、第6作「わたしを離さないで」を読んで、また彼がまったく新たな境地を切り開いたんだな、と痛感しました。こういういわばSF的仮構線を引いて作品をつくるような作家だとは思っていなかったのです。
私などが普通世界に対峙することを思い描くような、宿命に抗うというよりは、個々人の力ではどうやってみても動かしようのない宿命の閉じた世界の内で人はどう生きようとするか、というふうな設定には考えさせられるところがあり、そこは逆に「日の名残り」と通底するこの作家の人生観を照射してくれるようなところがあって興味深く読みました。この作品も映画化されましたが、こちらは見ていません。
いちばん新しい作品「忘れたられた巨人」もまた、これまでとはまったく違った中世的な世界~神話的な幻想が現実化したような世界と言ってもいいのかもしれませんが~を舞台とする騎士物語風の装いを持つ、この作家の初期の長編からは考えにくいような、生き生きした奔放な物語の面白さが楽しめるような作品だったと思います。
これほど一見したところ、一作ごとにまったく異なる世界へ歩み出すような作家というのも珍しいかもしれません。それだけ、次はどんな新境地を開くのだろう、という期待感を覚える作家でもあります。ノーベル文学賞と言っても、まったく読んだこともない、知らない作家がけっこう多いので、カズオ・イシグロのようにある程度なじみのある作家が受賞すると、どんな人がどんな評価をしてきたのかな、とニュースなど聴いたり読んだりするのも楽しみです。