2017年10月
2017年10月31日
旧作「ブレードランナー」再見
今日観に行きたかったのはブレードランナーの続編で、そのために昨夜わざわざ古いビデオを取り出して予習したのですが、体調不良で行けませんでした。
私が持っているのはディレクターズカットのファイナル版ですが、先日の新聞の全面広告で映画好きの鼎談みたいなのが載っていて、この映画には8種ものバージョンがあるそうで、その鼎談のパネリストが会場の人に、この中で8種とも見た人は?と訊いたら8割もの人が手を挙げたと書いてありました。これにはパネリストも「コワイですねぇ」(笑)。
世の中にはそういうマニアがいっぱい居るんでしょうね。そういう世界じゃ、プロでもうかつなことは言えない。こちらは何事にもド素人をもって任じているので、なんであれ好き放題言ったり書いたりで気が楽です。
その気楽さで言えば、「ブレードランナー」って、いまあらためて見ると、へんな映画ですね。たしかにあの「アジア的」に猥雑な未来都市の光景や上からの視点で撮った未来都市の夜景なんか斬新な映像だし、役者もハリソン・フォードもいいけれど、敵役が素晴らしく、ルトガー・バウアーなんか素晴らしくて、その最後の言葉や死んでいく姿は哀切きわまりなく美しいし、ダリル・ハンナのプリスの死にざまも良かった。
一角獣の暗示するところが、噂されるようにデッカードもレプリカントであることを示唆しているとか、最後に二人で逃げていく場面で終わって、これからどうなる、と思わせる含みもあって、魅力的な作品になっているのは分かりますが、ここで起きていることは、別の星で人間に反乱を起こしたレプリカントが地球へ帰ってきて隠れ住んでいるのを見つけて破壊するという話で、ごく単純なだけでなく、前提となる話はファイナル版では文字で冒頭に説明されるだけで、映像のドラマとして表現されるわけでもありません。
そうすると逃げ隠れするレプリカントとそれを追うブレードランナーの戦いで、追い詰められたレプリカントが必死の抵抗をするが・・・という、ただそれだけの物語です。
これがSF映画のひとつのエポックをなすような作品とされるのはやはり映像の新鮮さだったのでしょう。公開のときはさほどでもなかったのが、徐々に評価が高まって、SF映画の金字塔といった高い評価が定着したとのことで、最初受けなかったのは、分かりにくさのせいだと考えられているようですが、物語性のようなところで見ると、すごく単純な話で、「人間とは何かという深い問いがある」(きょうの夕刊にたまたま続編を紹介した記事に、前作を評したそんな言葉がありましたが)というのは深読みに過ぎるように思います。そういうことを言い出せば、ロボットやアンドロイドを扱ったSFはみな人間とは?という「深い問い」があることになってしまうでしょう。
むしろそういう部分を削ぎ落してしまうことで、エンターテインメントとして、シンプルで新鮮な映像を生み出しているのではなかったか、という気がします。
ただ、そう言ったのではこの映画の新鮮さに言及できないという感じはするので付け加えるなら、この作品ではむしろ単純なのはデッカードらブレードランナー、つまり人間の側で、追われるレプリカントの側はルトガー・バウアー演じる白髪のロイ・バティなどのほうがより頭脳も高度で、移植された記憶プラス生きた時間も人間をはるかに超える苛酷な経験をして複雑な感情を備えているように見えます。これはむしろレプリカントの側から、つまり狩られる側から描かれた映画と言ってもいいでしょう。そこがこの作品に単純なカウボーイのインディアン狩りとは違った深い陰影を与えている理由ではないかと思います。
それはデッカードが実は人間かもしれない、という一種の謎かけのような小細工とは異なるもので、この作品の映像自体にちゃんと表現されています。それに比べれば、夢の一角獣や部屋に落ちていた一角獣の折り紙みたいな紙片は、この作品に関する限り、マニア向けの付加サービスのようにしか見えません。
2017年10月29日
小林史憲『テレビに映る中国の97%は嘘である』は面白い
北斎展への行き帰りに読めて、結果的に、内容的にも、とても面白く読めました。タイトルの、テレビに映る中国の像の何パーセントが虚像だ、というようなことは言われなくても分かっているので、どうということもないのですが、著者がテレビ東京のプロデューサーとして実際に足で歩いて中国の都市や村の騒動の起きる現場やちょっと面白いことを聴き込んだ現場へ駆け付けて見聞きすることが、とても面白い。
先日四川省の村で年収30億円とかなんとかっていうのをやっていたけれど、この本の中にも、「中国一の金持ち村」と中国の雑誌に載ったという江蘇省華西村上海から高速道路で2時間ほどかかるような農村のルポがあります。
寂れた村が続く農村に、突如超高層ビルが現れ、地上72階建て、高さ328メートルという、あべのハルカスより高いらしい新農村ビルというのが建っていて、なんと一部の村民が各世帯1億2千万円の出資で日本円にして360億円を出して建設したのだそうです。
中身は自称「超五つ星」のホテル、レストラン、会議場、展望台、数百婚住宅が入っているそうです。中へ足を踏み入れるとそこはふんだんに金箔を使った金ピカの世界で、全身が1トンの純金で作られた36億円相当の金色の牛が置物に置かれていたそうです。そして同じフロアの最上級プレジデントスイートルームは1泊約120万円とのこと。マンハッタンでも京都河原町四条でもなく(笑)、辺鄙な中国の農村のど真ん中らしいです。その300何メートルの展望台へ上がっても、見える景色は全然綺麗じゃないアパートに工場群が立ち並ぶだけの光景だそうですが。
なぜこんなことが起きたのか、経緯は書いてありますが、そんなので、こんなすごい状況になるのかね、とちょっと信じられないような気がするほどでした。
文化大革命の混乱期に農業だけでは食べていけないというので、工場を建ててネジなどの金属加工製品を作って、これが壊れやすい中国の農機具のせいで周辺の農民の間で評判がたって爆発的に売れ、この共産党の方針に逆らい、ひそかに営んできた工業の成功で村は驚くような富を築いてきたらしく、取材時の2010年の総売り上げは約6000億円、利益が420億円だとか。
さらに面白いのは、村民の就職は村が管理して村営企業に振り分け、給料は現金支給が2割で、残り8割は株式として分配し、たまれば家や車と交換する仕組みで、大学までの教育費や医療費も村が負担、年一度の海外旅行の費用も村が負担するらしい。著者によれば、この村は「資本主義的なやり方で経済発展を遂げつつ、社会主義的なやり方で富を公平に分配している」のだそうです。
もとより私などは貧乏してもこういう村に縛り付けられるのはゴメンですが、これはたしかに特異的に中国の指導者らがめざす改革開放経済による市場原理を導入しつつみんなが平等に豊かになろうという社会主義の理想を村の小さな世界で実現したことになるのかもしれません。
もっとも、もともとの村民と、新参者たち、さらには出稼ぎ人たちの三者の間には極端な差別とその結果として格差があるようですから、古代ギリシャなどの奴隷制度の上に立脚する市民社会というのと同じ問題を孕んではいるようですが。
あと賄賂によく使われるというマオタイ酒で市場に出回っている商品の9割は偽物だ、という第3章の話も実に興味深いものでした。
偽物というけれども、それはマオタイ酒が「貴州茅台酒」という会社の商標で、これが世界的なブランドになってしまったために、同じ原料の高粱と小麦と水を使って同じように熟成させて生み出されている、同じ茅台鎮という土地でつくられてきた中小の銘柄の酒は、マオタイ酒と銘打つわけにいかず、それぞれの無名の銘柄で売られているだけの話のようです。
そして、この無名の銘柄の茅台鎮で生まれる中小酒造業者の安い酒に目をつけた業者が大量に買いに来ては、マオタイ酒のラベルを貼って、たしかにブランドとしては「にせもの」であるのに高価なマオタイ酒として市場で高く売りつけているということらしい。
だからニセモノと言っても色々で、実際にはホンモノとかわらない美味いマオタイ酒も少なくないのかもしれません。
なにしろオークションで500ミリリットル入りのボトルが60万円とか80万円台とかの価格で取引されるような事態になっていて、著者の遭遇したオークションでのその日の最高額は1960年代ものが240万円ほどだったとか。
まぁワインも高級な年代物はそのくらいの値段がするのでしょうから、酒のことは何も知らない私が驚いて見せることもないかもしれませんが・・
著者の「実験」では、上海の大手の酒のチェーン店で2万3600円で買ったのが、現物を現金に換えてくれる「回収」店に持ち込むと、チェックして偽物だと判定したのだそうです。暗くしてライトでラベルに光を当てると、本物は明るく光り、偽物は光らない、ボトルを振ってできる細かい泡の消え方も違う、とか。
贈り物や接待用によく使われる酒であるために、賄賂「文化」の広がりと一体で、こういう珍現象が起きているらしいです。
私も中国へ行ったとき、身内が或る市の日中友好協会の役をしていて、向こうの都市と姉妹都市提携を実現するのに尽力していたので、公的な歓迎の会食の席で同席することがあって、酒に興味がないからよくは覚えていませんが、茅台酒やら老酒のとても美味しいのが出たことはたぶん間違いありません。
茅台酒は透明で確かアルコール度がかなり高いから、私は注がれてもなめることしかできなかったはずで、そういう文字の張られたラベルは何となく記憶しているけれど「飲んだ」記憶は残念ながらありません。もう少なくともホンモノの茅台酒は飲めないかもしれませんね。
老酒のほうはトロ~リとした濃い色合いの、いかにも長い間甕に入れて土の中にでも埋めて熟成させたんじゃないか(そんな醸成の仕方はないかも・・・酒の作り方も知らないのででたらめですが)と思うようなのが出てきて、これはアルコールに弱いくせに、美味しかったので、飲んだことをはっきり覚えています。娘が生まれた時に、甕に入れた老酒を地に埋めて熟成させ、嫁にやるときに取り出して祝い酒として振る舞うのだと聞いたような記憶があるのですが聞き違いかも。そういえば娘が生まれたら農家は桐の木を植えて、娘が大きくなって嫁に出すころになると、それでタンスをつくるんだというような話も聞いていて、車窓から見える農家にほとんど例外なく桐の木が植えてあったのを眺めていたことも。
毒入り餃子の事件のことは、まだ結構よく覚えていますが、犯人が捕まったことまでは日本のニュースで知りましたが、あとは関心を失っていたので、この本の著者がフォローしたような犯人の家庭や生まれ育ちの背景までは全然知らずにいました。今回この本を読んで、犯人がなにか哀れでなりませんでした。家族はもっと気の毒でした。いまこの犯人はどうなっているのか、気になるところです。
写真をみると、きまじめおすな、でも少し線の細い感じの青年です。彼が腹いせで犯行に及んだ原因となった会社の給与格差は、この本の記述による犯人の青年呂月庭の言葉では「2006年のボーナスが、正社員は7000~8000元(約8万4000~9万6000円)だったのに対し、私は100元(約1200円)だった。」そうです。何かトラブルを起こして会社に待遇改善を訴えたかっただけで、消費者一般にも増して日本の消費者を害する意図はなかったということですし、この件に関する限りは彼の言葉が信じられるような気がします。
こういう壮絶な格差社会が、いま日本をはるかに抜き去って世界第二位のGDPを誇る経済大国で、これからさらに世界一の軍事強国はもちろんあらゆる分野で世界の首位をめざして富国強兵の道を突っ走るという日本の十倍以上の人口規模をもつ厄介な隣国が内部的なきしみとして生じているわけで、このまままっとうに世界をリードするような国家になれるはずがないと思われます。
経済的な成長は人や情報の交通なしに不可能だし、そんなところで習近平のやっているような強圧的な情報統制や人権抑圧が矛盾を爆発させずに維持できるはずがないでしょう。もう私はその行方を見さだめることはできないでしょうが、しばらくは中国との関係でいやな時代が続くと思うと、日中友好を若いころの夢とした父も草葉の陰で情けない思いをしていることだろうなと思わずにはいられません。
2017年10月28日
北斎~90歳のチャレンジ
平日だというのに、会場前のロビーは人の波。チケットを買うのに40分、さらに入場するのに30分かかって、昼めし抜きでようやく午後1時に入場。もし作品をすぐそばで見る最前列について展示場をまわっていたら、2~3時間はかかったでしょうが、わたしはイラチなので、それほど関心を引かない作品についてはちょっと後ろから覗き込む程度にして、いちおう全展示品をチェックはしましたが、1時間半で見終わりました。
それにしてもこれだけの北斎が一堂に会するのを見る機会は、少なくとも私が生きている間には二度とないだろうことは確実なので、気に入った作品は惜しみなく時間を費やしてじっくり眺めて目に焼き付けてきました。
順路をたどって展示室を移って行く過程で、どこにもいいな、と思う昨品はありましたが、全体として言えば、最後の「第6章 神の領域」の部屋が圧倒的でした。一点だけでもここまで来てよかった、と思う作品が、私にとっては少なくとも3点ありました。
それは、「流水に鴨図」「李白観瀑図」「雪中虎図」です。これらを北斎が描いた年齢は、「流水に鴨図」が88歳、あとの2点がいずれも90歳、嘉永2年(1849年)です。
図録は買わないし解説も聞かなかったし、北斎について予備知識もごく乏しいので、これらの絵の成り立ちも、それまでの北斎の画狂人としての人生についてもほとんど何も知りません。でもこれらの作品はそれ自体で何も知らない人間を強く引き寄せる力を持っていました。
どれも天井画のように特別な大作というわけではなく、ごく普通の軸におさまるサイズの絵ですが、まさに神技と言っていいような作品なんだろうと思います。しかし、この作品展で200余点の北斎を見た上では、神の業と言ってしまいたくない気持ちがあります。
描いた年齢にかかわらず、私がいいな、と思った作品には、どれも北斎ならではの、おそらくは当時の画壇が生み出していたような絵の世界から言えば破格の、定石的な描き方を破壊して新しいものの見方、描き方を生み出そうとする強い意志が感じられました。
北斎の場合、それは対象の選択にも、構図の取り方にも、筆遣いにも非常に鋭利に、鮮明に表現されているようです。対象の選択に関して面白いな、と思ったのは、「第4章 想像の世界」の部屋にまとめられた作品群のなかにあった「唐土名所之絵」でした。
これはいまの中国全土の俯瞰図なんですね。地図は入ってきていて、それを見て描いたのでしょうけれど、ちょうど飛行機で飛んで山や川など3次元の地形がわかるような立体地図のような絵で、各都市の都市名が記されています。こういうのを見ると、彼が世界を一気に鷲掴みにしてやろうという表現意志みたいなものを感じさせられます。どんな絵かきにも必須の対象選択の領域が、花鳥風月、美人画、役者絵なんてところにとらわれない自在さで無限に広いんだろうな、と思わせられます。
地図を描くように命ぜられた者でなければ、誰がこんな絵を描くだろう、と思うような、広大な大陸の諸都市を一望の内に捉えて、細密に、徹底的に描き込んだ偏執狂的な作品ですよね。赤壁の賦のあの赤壁もちゃんとここに(上の絵の左のほうの崖)描かれています。想像の世界と言っても、ちゃんと当時の地図をみて都市や自然の地形をふまえて描いているのでしょう。
型破りな構図、そこに見られる大胆奇抜な視点、視角の取り方、というのは名高い富嶽三十六景の版画で周知のとおりです。あの手前に大きく大きく描かれた樽の輪っぱを通して見える富士を描く「尾州不二見原」や手前で大きくそそり立つ波の裏に富士を見る「神奈川沖浪裏」などに典型的ですが、「隠田の水車」なども大きな水車の前で小さく描かれた働く男女の近景のはるか向こうに富士を望む、西洋的遠近法とは違った対象の配置とサイズで誇張された遠近を強く印象づけるような作品がいくつもその特徴を見せてくれていました。
「初夏の浜辺」でしたか、浜辺に置かれた大きな錨の上に思い思いの恰好で乗って海の方をみている子供たちを描いた絵。あれもすごい構図でした。どっちかというと秩序立った「モダン」というより、それを一足跳びに超えてポストモダンに行っちゃったような大胆な構図。
何でもない富士の絵のように見えても、ふもとに近いあたりの尾根の稜線か登山道かのように走る幾本かの線だけで印象が一変したような作品もありました。
波をはじめ筆遣いの大胆さときめこまかさは、教科書にも登場する代表的な波の絵などでよく知られるところですが、キモノの柄のきめ細かさなど、細かいほうは殆ど偏執狂的に細部を追求しないとあぁはならんよな、と思わせるような繊細さです。
色については私は対象の選択や構図やタッチほどに強い印象を持っていなかったのですが、先日のテレビ番組で、赤富士と言われている版画(今回の出品作「凱風快晴」)について北斎が本来描きたかったのはこういう色合いなんだ、という同じ版木のまだ新しいうちに刷られたプリントの複製が参考資料ということで今回の展覧会でも横に掲示されていて、それを見ると北斎が微細な光の変化の美しさをいかに描くかに腐心したことがよくわかり、あらためて私を引き寄せた「流水に鴨図」や「李白観瀑図」「雪中虎図」にもその光のそれこそ神技に属する表現がさりげなく発揮されていることに気づきます。
「流水に鴨図」のあの水草や鴨の首の水に隠れて透けて見える、あのすばらしく繊細な表現。余計なものを一切描かず、左から右下へ斜めに画面をよぎる平行な線だけで流水を表現した象徴的手法や上部にたっぷりとった間の美学とともにこの作品を絶品というに相応しいものにしています。
また「李白観瀑図」の構成もすばらしいけれど、あの幾重もの帯のように微妙に震える長い垂直線を引いて流れ落ちる滝の水のやわらかなグレー、青、白のグラデーション、その滝を見上げる李白の立つ白い地面にさす淡い影、「雪中虎図」の喜々と駆ける虎のしなやかな身体の色合い、背景の雪ふる林の薄闇の色合い・・・
今回初めて見て一番好きになったのは、この「雪中虎図」でした。近くで見るとこの虎の表情はほんとうに雪の林の中を駆けていくのが楽しくて嬉しくてたまらない、という表情です。そのしなやかな身体の動き、脚の動きも、子供が楽しいことがあって、はしゃいでスキップしていくような、喜びを体で表現する描写になっています。
テレビでギメー美術館の龍(雲竜図)と同時にこれを見せていたので、私はほかのことをしながらろくに解説を聞かずに見ていたから、なにか竜虎が対峙する、一対の竜虎図か何かのように勘違いしていたので、まるで別の作品であることを展覧会場で知りました。そういえばギメーのほうの雲竜図は何度かコピーで見たこともあったし、ギメーも訪れたことがあるから、半世紀ほど前に現地で見ている可能性もあります。でも、ニューヨークの個人蔵だという雪中虎図のほうは、これが最初で最後の出会いになるでしょう。本当に素敵な絵です。
北斎という人は、絵を描くときに、つねにこれまでのありきたりの描き方ではなくて、何か新しい工夫をしよう、面白いことをしようじゃないか、というチャレンジの気持ちを持ち続けた人だということがこの展覧会で200点余の作品を通して見てあらためて感じました。
すさまじいのは、90歳という高齢になっても、というのではなく、高齢になっていくほどに益々凄みを増して大胆なチャレンジをしていて、80代の終わりから90歳になってからが一番すごい作品を生み出している、という点です。その上彼は、天があと5年生きさせてくれたら、本当に完璧な画工になっているんだがなぁ、なんていう言葉を残しているそうです。
この展覧会はそういう意味で、北斎について何の予備知識がなくても、ただ200点余の絵を見ていくだけで、彼が歳を重ねるごとに、まだまだ、まだまだ、とチャレンジ精神を益々募らせて、あの雪中虎図の虎のように喜々として未知の世界へ跳びこんでいく姿を目の当たりにして、80歳であれ90歳の老人であれ、誰もが元気をもらうことができると思います。
今回の企画展の広報媒体などにも使われている、小布施の祭屋台の天井画として描かれた4枚の濤図については、その縁絵の中に、キューピッドらしい姿が描かれているのを見つけて面白いな、と思いました。
ちょっと俯いていて表情がよくわからないけれど、裸の男の子で、明らかに背中に翼をつけています。西洋の宗教画ではこんなキューピッド、いくらでも登場しますが、出島から入ってくるものの中にそんな絵があって見ているのかな・・・なんて想像をたくましくしました。
「驟雨」の樹木の葉の描き方などを見ても、なんとなくイギリスの古典的な風景画を連想するようなところがあって、不思議だな、なんて思って見ていました。
今回は来週あるらしい展示替えの前の展示で、残念ながら北斎の娘応為の「吉原格子先之図」が見られませんでしたが、絵ハガキで見ても、江戸のレンブラント、と言われるのが分かるような、光と影のコントラストを最大限に強調した素晴らしい絵ですね。レンブラントも工房で集団製作してたくさんのレンブラントスクールの絵を生み出しているし、その後もあの真似しやすい手法は俗化されて広く使われたようですから、その種のコピーが出島から入ってきて、北斎や応為の目に触れるところまで来てなかったとは言えないんじゃないかな・・・
応為ことお栄さんもまた素晴らしい絵かきさんだったんですね。「第5章 北斎の周辺」の部屋に集められた今回見ることのできた作品の中では、三国志の関羽が、平然と碁を打ちながら毒矢の刺さった臂を割いて手当させる場面を描いた「関羽割臂図」という大作が強い印象を与えています。どくどくと流れ出る血をうけて真赤に染まった皿など、血の生々しい赤が画面を支配するような絵ですが、碁をうつ相手の穏やかな背や細かに描かれた碁盤・碁石、出欠も痛みもものともせずに碁をうつ逞しく華麗な豪傑の姿をみせる正面の関羽とバランスのとれた力強い作品になっています。
あと私は「月下砧打ち美人図」も好きでした。
展示替えがあれば、お栄さんの「吉原格子先之図」だけでも見に行きたい気もするけれど、また1時間以上並ばなくてはならないかと思うとちょっとめげてしまいます。天王寺まで家から往復3時間、向こうで並んで1時間ちょい、見て回って1時間半、なんやかんやで丸一日仕事になりました。肺活量がすでに80代なみになっているので、さすがに多少の階段でも息切れがして、疲れました。でもこの世の名残りに(笑)いい絵を見せてもらいました。
2017年10月25日
「アウトレイジ ビヨンド」のこと
たけしはなぜやくざ映画なんか撮るんだろう?~「あの夏、いちばん静かな海。」なんて素敵な映画をとっていたたけしはどこに行ってしまったんだろう?
この映画にはなぜ私たちの身の回りにいくらでもいて男よりずっと存在感をもっている女性が出てこないんだろう?出所後のたけしをかくまってくれる韓国人の邸宅で饗応係としてつけられる女と殺されるやくざの隠れ家の女だけじゃなかったかな。やくざも奥さんも子供もいるんじゃないんだろうか。
この映画にはなぜ生活に匂いが少しもしないんだろう?なぜ普通の生活がまったく描かれないんだろう?カメラを回すだけで否応なく映ってしまいそうな生活の光景をなぜみんな消してしまわなければいけないんだろう?
この映画、エンターテインメントとしては、よくできていますよね。色んな意味でプロのワザ。日本の男優がやって一番似合うのはやくざだ、とか、日本の男優が似合うのはやくざだけだ、というようなことを聴いたことがあるけれど、まさにこういう作品を見ているとそう思いますね。日本の男優たちはどんなチンピラでもやくざ映画のやーさんの真似だけはうまい、というか地でいける(笑)
ただの暴力団どうしの欲得ずくの争いや裏切りのドラマを描いただけ、というのは少し酷かもしれず、そんな世界に倦みながら、なりゆきで巻き込まれていく中で、無器用に現代やくざらしくなく「筋を通す」ってのがたけし自ら演じる主人公ですが、高倉健とちがって、別に様式的に美化されたやくざではなくて、誰とつきあってもうまくいきそうもない、不愛想で無器用なおっさんが、根性だけはすわっていて、欲得ずくだけでやくざしているくせに実際には気の小さな、組織に依拠してしか生きられない現代のやくざの世界で運にも恵まれて、そんな自分を曲げずに淡々と生きている姿を描いています。
でもそれはこの世界で普通に生きる人たちの中で、そういう無器用な「筋のとおった」生き方をする人を映すような姿になっているようには思えないけれど・・・
2017年10月19日
パゾリーニ「カンタベリー物語」
「デカメロン」や「アラビアンナイト」のことを書いたとき書き忘れましたが、音楽のエンニオ・モリコーネに触れないのはどうかしていました。私は55年くらい前に(笑)西部劇ファンだったので、ずっと、彼は西部劇の音楽を作る人だと思っていました。
この作品でもダヴォリさんが素敵で、根っからの女たらしの盗人を演じているけれど、女性と見れば声をかけて誘わないと失礼だくらいに思っている現代にも通じるイタリア人男性気質の典型みたいな男で、どんなにひどい目にあっても決して懲りず、変わらず、'笑って過ごせば天国だ'(小学生のころ学校で見せてくれた映画で古川ロッパが歌っていた歌でいまだに歌詞が思い浮かぶ・・・)を地で行くような憎めない男。最後は笑いながら死刑になるけど(笑)。やっぱりこのエピソードが一番良かった。ダヴォリさんが登場して、あのだらしなぁ~い助兵衛な大きな顔をデレ~ッと見せてくれるだけで、なんだかとっても楽しい艶笑譚が見聞きできそうで嬉しくなってしまいます。
数ある挿話の中では、二人の学生としたたかな粉ひき小屋の亭主とのかけひきのエピソードが、典型的な艶笑譚で、うまくまとまっていて面白かった。
でもこの映画の映像としての見どころは何と言っても、中世イタリアの都市庶民の生活の細部がポリフォニックに描かれているところでしょう。とりわけ、市場の賑わいや祭の光景を描くパゾリーニの動画絵筆は実に豊かで、見る物を飽きさせることがありません。売る者、買う者、荷を運ぶ者、走り回る子供たち、大声で叫ぶおかみさん、女を追いかけまわす男たち、盗人、たかり、乞食、春をひさぐ女、宗教者に兵士、学生、豚やら鵞鳥やらまで走り回り、・・・ありとあらゆる種類の人間たちが、それぞれに勝手な動き方をして、明るく派手で、しかもおそろしく汚い都市の雑踏で蠢いて関わり合っています。
ブリューゲルの描く庶民群像がどんなに庶民の暮らしの細部をリアルに描いて、もし動画にでもすれば同じように一人一人が自由な姿態で生き生きと動き出し、その放埓で猥雑な世界を出現するだろうと思えはしても、その絵柄は全体として、どこか宗教的に昇華されていく世界を感じさせるのに対して、パゾリーニの描く世界は真逆のベクトルを持って背徳的に色欲、食欲、物欲とありとあらゆる欲望を解き放ち、飽くことなく快楽を求める徹底的に現世的な極彩色の、そういって良ければ実にエネルギッシュで豊かな世界です。
もっとも、その「豊かさ」の中には、食べる事そのものが実に醜い営みであることを思い知らせてくれるような、人々が動物の肉をむさぼる貪食の姿も、隙あらば親や聖職者や夫や妻の眼を盗んで励む性の営みが背徳的というよりはむしろ滑稽な姿にみえる反復される映像も、ふんだんに登場する放尿・放屁・脱糞や火あぶりで黒焦げ等のリアルな、あまりにリアルで反吐が出そうな映像も、すべて含まれているので、女子大に勤めているときはこういう作品を賞揚することはためらわれた(笑)・・・かもしれません。
それにしても、眼をそむけたくなるようなおぞましい地獄の世界(ただしそれは同時に極めて滑稽でもあるのですが)を見せられたすぐあとにカンタベリーの(あるいはカンタベリーに擬された)町並みを映すハッとするような美しい映像があったりして、見終わったときは、実に豊かな映像体験をしたような気になります。作品としては、生の三部作ではやはり「デカメロン」から「カンタベリー物語」へ、さらに「アラビアンナイト」へと、より洗練され、より豊かになっていくような気がしますが、この作品でパゾリーニの世界の豊かさは十分堪能できると思います。
いま大阪でやっている北斎展でも、きっと北斎の豊かさの或る部分は、まったく隠蔽されているのではないかと想像しています。もちろん先日のNHKテレビの紹介では、口頭の解説でも、その種の作品に触れられることは一切ありませんでした。いまでも性はそういう意味でタブーなのでしょう。
しかし浮世絵と言えば、その種の作品抜きで語れないところがあるはずで、いつどんな形でこんなタブーから私たちが解き放たれていくのかについては、すこし関心を持っています。昔、スイスの画家バルテュスの作品が或る程度まとまって日本に来たときも、いわゆる「あぶない」絵は辛うじて1点くらいではなかったでしょうかね。お上品な美術愛好家たちの倫理コードにひっかかりそうな作品は、まともに展示もされなければ解説もされない(笑)
別にそういう傾向のものについて愛好家でも何でもないので(笑)、個人的にはかまやしませんけれど、芸術は清く正しく美しくというものではないだろうと思っているので、そういう「偏向」や「隠蔽」がいつまで続くんだろう、と首をかしげる機会は少なくありません。だからときには古めかしいけれども、そういう意味ではちっとも古めかしくはないパゾリーニのような作品を見ると、或る種の解放感を覚えると同時に、本来あるべき映像作品の豊かさを思い出させてくれるように感じます。