2017年09月
2017年09月27日
ビートたけし『アナログ』を読む
テレビのニュース番組を見ていたら、たまたま女子アナがビートたけしをインタビューしていて、今度は小説を書いた、という話だったので、早速買ってきて読みました。
お笑い芸人としても、映画監督としても高いクオリティを見せていた~と過去形なのは、いまの彼については(映画はだいぶ前から)そう思っていないからですが~彼のことだから、ひょっとしたら小説でも既存の表現を易々とぶっ壊して面白い作品を書くんじゃないか、というひそかな期待があってのことです。
でも今回はあてがはずれ、十代のころちょっと文学青年だったけれどごく普通の進学と就職の果てに、昔の夢を忘れかねて、初めて書いてみた「純愛小説」もどきの凡庸な作品というのが率直な感想です。
切れ味の鋭いお笑い芸人のビートたけしが、味も香りも新鮮な果実から瑞々しい果汁が滴るような素晴らしい映画の作り手として登場したときのサプライズを再度味わおうというのは少し虫が良すぎたようです。
しかし、読んでいて面白いところがないわけではありません。ちょうどテレビのニュース番組に登場してたけしが一応何かのニュースにひっかけて、場違いなジョークをとばしたり、ニュース番組にはミスマッチな過激を装ったお喋りをして、或る種の過剰さを演出してみせるのを、そっくりそのまま再現するような、主人公悟の友人高木と山下の掛け合いのシーンが何度も設けられていて、そういうところはこの作者らしさが出ていて、楽しんで読めます。
素材が芸人としての彼に備わっていたにせよ、はじめて書いた小説でその種のシーンをこれだけ書けるのは、やっぱり器用な才人というほかはないのかもしれません。
私は昔、ロンドンの社会福祉でやっているような老人ばかり住んでいる安ホステルに或る程度長期滞在していたとき、たまたま日本からやってきた東大の建築学科の学生だったか院生だったかでKという男と食事かなにかのときに少しおしゃべりし、私が少し小説を書いているような話をしたところ、そのときは何も言わずにいたけれど、翌日私に「昨晩書いてみたから読んでみてくれ」と原稿用紙で言えば十数枚だったと思うけれど、そのホステルでの老人を描いた短編小説と称する「作品」を見せてくれたのに驚いたことを思い出しました。私が驚いたのは、もちろん彼の書いた「作品」の中身がすばらしい作品だったからではなく、たった一晩で一度も書いたことのない小説なるものがいとも簡単に書いてしまえる、というその考え方に対して、またその驚くべき能天気さにも拘らず、彼の書いたものはいちおう「小説」らしい体裁を整えていたことに対してでした。そのときは東大というのは、ほんとに器用なこの種の才人が行くところなんだろうな、とあらためて思ったのですが、東大とは限らず、世の中にはこういう才人がたくさんころがっているのでしょう。
けれど、たけしの今回の作品のそんな掛け合いのシーンについても、作品の表現としてすぐれているとは全く思いませんでした。
当然、一回限りの話芸としてのお笑いと、その場面を描写したかのような小説の中の登場人物の掛け合いとは似ても似つかない表現で、作品の中では自分たちもそれぞれ大きな問題をかかえながら悟の恋の成就のためにあれこれと助力し、見守ってやろうとする高木や山下の悟への友情があからさまに描かれるような無粋な表現にならぬよう、血や汗や涙の色合いや匂いを消して、笑いの向こうに感じてね、というありふれた手法にすぎず、いかにも底が浅いので、高木も山下も人間として生きてこないところがあります。
ふとした偶然で知り合った「彼女」といい感じになり、スマホなんかでコミュニケーションをとらない二人のルールによって、かえって思いがつのり、忙しい仕事をしながら益々熱く思い続けるサラリーマンの主人公悟が、二人の交わした約束のように彼女が待ち合わせ場所へ来ない週が続いたことで諦めかけたところ、実は・・・(ネタバレになるので、ここらでやめますが)というストーリーも、いかにも御都合主義で、結末も同様。これでは作者が勝手に想像する程度の悪い読者に合わせて、自由自在に登場人物の運命を都合よくでっち上げるメロドラマとどこが違うんだろう、と思えてしまいます。登場人物たちが、それぞれ生きていれば、自分だけの運命を引き寄せて、もはや作者の御都合主義には左右されないはずなのに・・・
テレビでのインタビューで語っていたように、この本のタイトルは「アナログ」で、それは作中の登場人物が語るように、デジタルなメディアで安易にリアルタイムでつながる(ように錯覚する)人間関係に疑問をもって、世にいうコミュニケーションを信じなくなっている二人の間で、手探りでアナログなつながりを模索していくプロセスを描く、というのがこのタイトルの意味でもあり、作品を書いたモチーフでもあるのでしょう。
でも、それにしては否定される(必ずしも否定されるわけではないけれど)デジタルのほうの描き方も弱く、否定されるものが弱いから、アナログのほうも弱く、拮抗する力のせめぎあいが人間のドラマとして展開される面白さにも欠けています。現実の女子大生などのほうが、よほどこんな主人公たちよりもよくデジタルもアナログもシャープに使い分け、その力も嘘くささもよく知っています。
単にスマホや電話連絡をしないで、会おうと思う時にはここへきて会いましょう、来なければ何か用ができたか、それが続けばどこかへ行ってしまったかと思うことにしましょう、というふうな他愛なくわざとらしい人為の「アナログ」設定でかきたてられる想像力だの、それで煽られる相手への想いだのといったもので、デジタル時代に対する「反時代的」な作品ができあがるわけではないでしょう。
もうひとつ、ちょっと面白かったのは、最近たけしが作ってきた悪人映画と違って、この「小説」には悪人は一人も登場しません。みな善人ばかりです。そういう意味ではたけしにとって、それが「反時代的」な作品だったのかもしれません。その分、アメリカ人には評判がいいらしいアウトレージ・シリーズの映画のような後味の悪さはありません。
でも、正直のところ、なぜ芸人や映像作家として少なくとも初期にあれだけのシャープな才能をみせたたけしが、こんな「小説」を書こうとしたのか、合点のいかぬ気持ちが拭えません。ひょっとしたら、まるごと大きな読み違えをしているかもしれませんね。
お笑い芸人としても、映画監督としても高いクオリティを見せていた~と過去形なのは、いまの彼については(映画はだいぶ前から)そう思っていないからですが~彼のことだから、ひょっとしたら小説でも既存の表現を易々とぶっ壊して面白い作品を書くんじゃないか、というひそかな期待があってのことです。
でも今回はあてがはずれ、十代のころちょっと文学青年だったけれどごく普通の進学と就職の果てに、昔の夢を忘れかねて、初めて書いてみた「純愛小説」もどきの凡庸な作品というのが率直な感想です。
切れ味の鋭いお笑い芸人のビートたけしが、味も香りも新鮮な果実から瑞々しい果汁が滴るような素晴らしい映画の作り手として登場したときのサプライズを再度味わおうというのは少し虫が良すぎたようです。
しかし、読んでいて面白いところがないわけではありません。ちょうどテレビのニュース番組に登場してたけしが一応何かのニュースにひっかけて、場違いなジョークをとばしたり、ニュース番組にはミスマッチな過激を装ったお喋りをして、或る種の過剰さを演出してみせるのを、そっくりそのまま再現するような、主人公悟の友人高木と山下の掛け合いのシーンが何度も設けられていて、そういうところはこの作者らしさが出ていて、楽しんで読めます。
素材が芸人としての彼に備わっていたにせよ、はじめて書いた小説でその種のシーンをこれだけ書けるのは、やっぱり器用な才人というほかはないのかもしれません。
私は昔、ロンドンの社会福祉でやっているような老人ばかり住んでいる安ホステルに或る程度長期滞在していたとき、たまたま日本からやってきた東大の建築学科の学生だったか院生だったかでKという男と食事かなにかのときに少しおしゃべりし、私が少し小説を書いているような話をしたところ、そのときは何も言わずにいたけれど、翌日私に「昨晩書いてみたから読んでみてくれ」と原稿用紙で言えば十数枚だったと思うけれど、そのホステルでの老人を描いた短編小説と称する「作品」を見せてくれたのに驚いたことを思い出しました。私が驚いたのは、もちろん彼の書いた「作品」の中身がすばらしい作品だったからではなく、たった一晩で一度も書いたことのない小説なるものがいとも簡単に書いてしまえる、というその考え方に対して、またその驚くべき能天気さにも拘らず、彼の書いたものはいちおう「小説」らしい体裁を整えていたことに対してでした。そのときは東大というのは、ほんとに器用なこの種の才人が行くところなんだろうな、とあらためて思ったのですが、東大とは限らず、世の中にはこういう才人がたくさんころがっているのでしょう。
けれど、たけしの今回の作品のそんな掛け合いのシーンについても、作品の表現としてすぐれているとは全く思いませんでした。
当然、一回限りの話芸としてのお笑いと、その場面を描写したかのような小説の中の登場人物の掛け合いとは似ても似つかない表現で、作品の中では自分たちもそれぞれ大きな問題をかかえながら悟の恋の成就のためにあれこれと助力し、見守ってやろうとする高木や山下の悟への友情があからさまに描かれるような無粋な表現にならぬよう、血や汗や涙の色合いや匂いを消して、笑いの向こうに感じてね、というありふれた手法にすぎず、いかにも底が浅いので、高木も山下も人間として生きてこないところがあります。
ふとした偶然で知り合った「彼女」といい感じになり、スマホなんかでコミュニケーションをとらない二人のルールによって、かえって思いがつのり、忙しい仕事をしながら益々熱く思い続けるサラリーマンの主人公悟が、二人の交わした約束のように彼女が待ち合わせ場所へ来ない週が続いたことで諦めかけたところ、実は・・・(ネタバレになるので、ここらでやめますが)というストーリーも、いかにも御都合主義で、結末も同様。これでは作者が勝手に想像する程度の悪い読者に合わせて、自由自在に登場人物の運命を都合よくでっち上げるメロドラマとどこが違うんだろう、と思えてしまいます。登場人物たちが、それぞれ生きていれば、自分だけの運命を引き寄せて、もはや作者の御都合主義には左右されないはずなのに・・・
テレビでのインタビューで語っていたように、この本のタイトルは「アナログ」で、それは作中の登場人物が語るように、デジタルなメディアで安易にリアルタイムでつながる(ように錯覚する)人間関係に疑問をもって、世にいうコミュニケーションを信じなくなっている二人の間で、手探りでアナログなつながりを模索していくプロセスを描く、というのがこのタイトルの意味でもあり、作品を書いたモチーフでもあるのでしょう。
でも、それにしては否定される(必ずしも否定されるわけではないけれど)デジタルのほうの描き方も弱く、否定されるものが弱いから、アナログのほうも弱く、拮抗する力のせめぎあいが人間のドラマとして展開される面白さにも欠けています。現実の女子大生などのほうが、よほどこんな主人公たちよりもよくデジタルもアナログもシャープに使い分け、その力も嘘くささもよく知っています。
単にスマホや電話連絡をしないで、会おうと思う時にはここへきて会いましょう、来なければ何か用ができたか、それが続けばどこかへ行ってしまったかと思うことにしましょう、というふうな他愛なくわざとらしい人為の「アナログ」設定でかきたてられる想像力だの、それで煽られる相手への想いだのといったもので、デジタル時代に対する「反時代的」な作品ができあがるわけではないでしょう。
もうひとつ、ちょっと面白かったのは、最近たけしが作ってきた悪人映画と違って、この「小説」には悪人は一人も登場しません。みな善人ばかりです。そういう意味ではたけしにとって、それが「反時代的」な作品だったのかもしれません。その分、アメリカ人には評判がいいらしいアウトレージ・シリーズの映画のような後味の悪さはありません。
でも、正直のところ、なぜ芸人や映像作家として少なくとも初期にあれだけのシャープな才能をみせたたけしが、こんな「小説」を書こうとしたのか、合点のいかぬ気持ちが拭えません。ひょっとしたら、まるごと大きな読み違えをしているかもしれませんね。
saysei at 14:15|Permalink│Comments(0)│
2017年09月23日
東野圭吾『マスカレード・ナイト』を読む
書店にいくと20日に出版されたらしい東野圭吾さんの『マスカレード・ナイト』が平積みされていたので、早速買ってきて読みました。この作家と村上春樹は無条件に「出たら買う」ことにしていて、実際読んで「はずれ」はないので、安心して楽しめます。
東野さんのマスカレード・ホテルのシリーズは、最初の『マスカレード・ホテル』がすごく良かったので、ホテルに就職内定した学生さんには、必読!なんて勧めたりしましたが(笑)、三作目を読んでも、私は最初の作品が好きです。
たぶんホテルを内部から見る視点が新鮮だったから、ということもあるでしょう。ホテルを舞台にしたのではマンガでよく取材したいいのがあって、連載中にだいぶ読んでいましたが、それでも東野さんの『マスカレード・ホテル』は新鮮でした。
今回もフロント・クラークからコンシェルジュへ持ち場は変わっているけれど、非常に冴えたプロフェッショナルのホテル・スタッフ山岸尚美と刑事らしからぬ垢抜けした新田がフロントを演じるのでホテルを内部スタッフの眼で見る面白さは初めてこのシリーズを読む人にはあると思いますが、前のを読んでいるとその点の興味は弱くなります。
その分、氏原のようなホテルマンが出て来ると、なんだか嫌だな、少し過剰な感じだな、と否定的になります。わかったよ、もうオタクのような高級ホテルが金を湯水のように使って好き放題するような金持ち連中を大歓迎の上客として、その我儘を絶対にノ―と言わずに聞き届けてやれるプロのスキルとへつらいの美学を至上の価値としているってことはね、とでも言いたくなるようなところがある。
へぇ、ホテルの内幕はこうなのか、ホテルのプロフェッショナルなスタッフはこんなふうに考え、こんなふうに振る舞っているのか、と興味をもって読めた最初の作品とは違って、なんだか鼻につき始めたのは私だけでしょうか。私が大金持ちだったとしても(ありえない仮定だけど・・笑)、こんなホテルには泊まりたくないな、と思いました。
いやそれは別に作者の罪ではない(笑)。肝心のお話のほうは、今回もよく考えられ、仕掛けられています。もちろん東野さんの作品だから日本語が読みやすく、昨日買ってきて1時間ちょっとで、楽しみながら一気に読みました。
しかし少し欲張りすぎてやしませんかね(笑)。ロリータファッションにまつわる話の糸とか・・・。ちょっと複雑にしすぎでは?そのために物語のうねりが最後に大きなヤマを作って盛り上がるべき肝心のクライマックスが、ポストモダン的に(笑)幾つもの断片に割れてしまったような印象が残りました。もちろん一つ一つ合理的な決着はつけてあるけれど、なんだかあとづけのように見えてしまうところが・・・
推理小説だから、これ以上具体的にネタばれになる話はやめておきましょう。
東野さんの作品は人間を見る目が温かくて、いわゆるジャンル小説としての推理小説のタネやシカケだけで読ませる作品と違って、血の通う人間のドラマがちゃんと描かれるところに大きな特長があると思いますが、今回はその点も私としては幾分物足りない点がありました。
それは、まず事件が起こり、犯人を見つけようとあらゆる手立てを尽くして捜査し、推理する警察の側から描いていく、通常の警察もの推理小説の構造の内部では、なかなか難しいことなのかな、という気もします。このシリーズの最初の作品では、そのかわり新田と尚美のやりとりが面白かったけれど、今回はその点も期待したほどの丁々発止の面白さは味わえませんでした。
私の衝撃的な最初の東野圭吾体験だった『白夜』のように犯罪を犯す側の人間の内面やそれを形成し、動かしていく宿命の糸を、こうでしかありえなかったかのように説得力を持って描いていく視点はこのシリーズでは構造的に持ちようがないのかもしれませんし、ないものねだりなのでしょうね。
東野さんのマスカレード・ホテルのシリーズは、最初の『マスカレード・ホテル』がすごく良かったので、ホテルに就職内定した学生さんには、必読!なんて勧めたりしましたが(笑)、三作目を読んでも、私は最初の作品が好きです。
たぶんホテルを内部から見る視点が新鮮だったから、ということもあるでしょう。ホテルを舞台にしたのではマンガでよく取材したいいのがあって、連載中にだいぶ読んでいましたが、それでも東野さんの『マスカレード・ホテル』は新鮮でした。
今回もフロント・クラークからコンシェルジュへ持ち場は変わっているけれど、非常に冴えたプロフェッショナルのホテル・スタッフ山岸尚美と刑事らしからぬ垢抜けした新田がフロントを演じるのでホテルを内部スタッフの眼で見る面白さは初めてこのシリーズを読む人にはあると思いますが、前のを読んでいるとその点の興味は弱くなります。
その分、氏原のようなホテルマンが出て来ると、なんだか嫌だな、少し過剰な感じだな、と否定的になります。わかったよ、もうオタクのような高級ホテルが金を湯水のように使って好き放題するような金持ち連中を大歓迎の上客として、その我儘を絶対にノ―と言わずに聞き届けてやれるプロのスキルとへつらいの美学を至上の価値としているってことはね、とでも言いたくなるようなところがある。
へぇ、ホテルの内幕はこうなのか、ホテルのプロフェッショナルなスタッフはこんなふうに考え、こんなふうに振る舞っているのか、と興味をもって読めた最初の作品とは違って、なんだか鼻につき始めたのは私だけでしょうか。私が大金持ちだったとしても(ありえない仮定だけど・・笑)、こんなホテルには泊まりたくないな、と思いました。
いやそれは別に作者の罪ではない(笑)。肝心のお話のほうは、今回もよく考えられ、仕掛けられています。もちろん東野さんの作品だから日本語が読みやすく、昨日買ってきて1時間ちょっとで、楽しみながら一気に読みました。
しかし少し欲張りすぎてやしませんかね(笑)。ロリータファッションにまつわる話の糸とか・・・。ちょっと複雑にしすぎでは?そのために物語のうねりが最後に大きなヤマを作って盛り上がるべき肝心のクライマックスが、ポストモダン的に(笑)幾つもの断片に割れてしまったような印象が残りました。もちろん一つ一つ合理的な決着はつけてあるけれど、なんだかあとづけのように見えてしまうところが・・・
推理小説だから、これ以上具体的にネタばれになる話はやめておきましょう。
東野さんの作品は人間を見る目が温かくて、いわゆるジャンル小説としての推理小説のタネやシカケだけで読ませる作品と違って、血の通う人間のドラマがちゃんと描かれるところに大きな特長があると思いますが、今回はその点も私としては幾分物足りない点がありました。
それは、まず事件が起こり、犯人を見つけようとあらゆる手立てを尽くして捜査し、推理する警察の側から描いていく、通常の警察もの推理小説の構造の内部では、なかなか難しいことなのかな、という気もします。このシリーズの最初の作品では、そのかわり新田と尚美のやりとりが面白かったけれど、今回はその点も期待したほどの丁々発止の面白さは味わえませんでした。
私の衝撃的な最初の東野圭吾体験だった『白夜』のように犯罪を犯す側の人間の内面やそれを形成し、動かしていく宿命の糸を、こうでしかありえなかったかのように説得力を持って描いていく視点はこのシリーズでは構造的に持ちようがないのかもしれませんし、ないものねだりなのでしょうね。
saysei at 18:09|Permalink│Comments(0)│
2017年09月20日
ジョンファンの告白~恋のスケッチ♡応答せよ1988~第37回
きょうは「恋のスケッチ♡応答せよ1988」第37回。
老々介護で義母の家に行って放映時間に1回、夜帰宅してから2回、先日You Tubeで先取りした分も入れると計4回繰り返し見たことになります。それでも飽きない(笑)。
先週は、4人が高校を出てから、1年、また一年と経過し、その間をはしょっていく展開なので、もうドラマも終りに近づいたのかとハラハラしましたが、きょうの再会のドラマはこのシリーズのハイライトでした。脚本が素晴らしい。そして適材適役の役者の演技が素晴らしい。
高校時代にずっと熱い想いを抱きながら、無器用にその思いを一人で抱えたまま士官学校へ行ったジョンファンが、士官学校で卒業時に、早く良い人を見つけろよ、と励ますかのようにくれる「フィアンセ・リング」を小道具に、長く秘めた愛を告白するシーン。二人の演技が素晴らしかった。
ジョンファンはこのシーンでは演じている役者がジョンファンそのものになりきっていて、役柄としてのドクソンではなく、同じドラマを演じる仕事を共にしてきて生身の男性として深く惹かれところとなった女優ヘリに、ひとりで温めてきたほんとうの想いを告白するように、真に迫った告白でした。(いま現実にジョンファンを演じた男優さんはヘリとおつきあいしているそうだから、そのころから本当に惹かれていたのでしょう。)
ヘリは一言も発することなく、ジョンファンをじっと見つめて、ときに瞬きし、ときにかすかな笑みを浮かべるだけですが、ジョンファンの重くずっしりと胸の奥深く届いてこたえるような告白を、まっすぐに受け止めていました。「そんな!、やめてよ」、という姿勢でもなく、また女性としてポジティブに受け止める姿勢でもなく、共に過ごしてきた長い、良き日々を懐かしむように、過ぎた恋が炎のように熱く眩しいもののようにではなく、自分に注がれる温かく懐かしい人の声のように、心の奥深くでずっしりと重い彼の告白をただ受け止めていました。
この告白をジョンファンはフィクションとして無化してしまい、その場に立ち会っていたソヌもドンリョンも、「なんだ冗談かよ、すっかり騙されたぜ」と彼の「真に迫った」告白を虚構として笑いの中に解消してしまいます。
でも、もちろんドクソンにはわかっていて、真実の告白がずっしり胸にこたえていて、一言も発することができず、いつものドクソンらしさが影をひそめています。
そして、カフェの店の戸が開くたびに聞こえるチリリンという音に、振り返るドクソンの表情のアップ。もちろん遅れてくるはずのテクでは・・・と無意識に振り返っている。そして、そんな彼女の心を敏感に感じるジョンファンの表情のアップ。ジョンファンの気持ちに同化して切なくなるシーン。このあたりの演出は心憎い。
ドクソンが一緒にライブに行くはずだった男にドタキャンされて、行きがかり上、一人で出かけ、雨に打たれて女友達に着替えを持ってくるように電話で頼んで劇場の前で寒さに震えている。ドンリョンと二人で映画館に入っていたジョンファンは、ロビーでドクソンが一緒に行くはずだった男が恋人と一緒にいるのを見かけてドクソンの状況に気付、映画館を飛び出して車を飛ばしてドクソンの居る劇場へ。二度も赤信号にとめられて焦れば焦るほど早く行きつけない。一方、テクは9段の囲碁師範として対局に出かけていたけれど、会場でトイレに入っているとき、ドクソンにライブにいくはずだった男を紹介した女性職員と世話役の男との会話を聞いてドクソンの状況を知ります。ただ、この会話が彼に聞こえていた、ということは映像では一切出てきません。廊下でテクを待つ男女二人が会話していて、その奥でトイレから出てきたテクが例のポーカーフェイスでなにごともなかったようにこちらへ歩いてくる、そういうシーンがあるだけです。
でもドクソンが震えながら立っている劇場の前に最初に駆け付けるのは、プロになって初めて対局を棄権して息せき切って駆け付けたテクなのです。二人を捉えたカメラが手前へ引くと、二人に背を向けてこちらへ歩いてくる、タッチの差で遅れたジョンファンの姿がとらえられます。
ジョンファンは雨に打たれる車にもどって、車内にとじこもり、赤信号がひとつでも青だったら・・・と思い、人生はタイミングだ、俺はいつもタイミングに邪魔されてきた、なんて間が悪い男なんだ、とつぶやく。でも、そのあと、テクがプロになって初めて対局を棄権してきたことをラジオのニュースで聴いて、赤信号のせいなんかじゃない、タイミングのせいじゃない、あいつの勇気のほうが俺の優柔不断な気持ちに勝ったからなんだ、と納得します。自分の気持ちに正直に、ただまっすぐに、ひたむきに突き進む、その勇気が運命を引き寄せたんだ、運命もまた人が選択して引き寄せるものなんだ、と気づくのです。
こういうシーンを見ると、この脚本家にほとほと感心します。
朝寝して眠っている息子や娘たちにそれぞれの親がからむ、それぞれの家庭の様子も、実にほほえましく、それぞれの家庭の特徴をきちっと描いていて感心します。とくにジョンファンと両親のシーンはこの芸達者な3人の表情がすばらしくて、ほっこりします。カメラも実にいい。
ドクソンの家庭でも、起きるなり姉と大声で喧嘩をはじめ、別の部屋で夫婦と息子の3人で朝食をとっているなかで父親が、久しぶりに賑やかさの戻ってきた空気を内心喜びながら、いい歳ををして喧嘩なんかして、と言うと、弟君が、ドクソン姉さんはわざと長姉を怒らせているんだよ、と言います。こういうセリフを聴くと、おう、やるなぁ、と思いますね。
きょうは活躍しなかったけれど、彼らの母親たちが最高で、それぞれほかのドラマでは癖のある重要な役がこなせる名優たちが、いつも主人公たちによりそっている重要な脇役として、それぞれ本名を役の上での名に使って、韓国の庶民的な家庭の普通のおばさんを実に個性的に演じています。なんでもない普通の庶民の暮らしのなかに、どんなにすごいドラマがあるか、どんなにすばらしい輝きがあるか、このドラマは本当にみごとに描いてみせてくれます。
先週なんか、例によってこの母親たちが寄っておしゃべりしている中で、ジョンファンの母親が、「息子が夜中に帰ってきて何か食べるものを作ってくれ、と言ったら喜んでなにか美味しいものを作ってやりたいと思うけれど、夫が夜中に帰ってきて何か作ってくれと言ったら、心の底から憎しみが沸き上がってきて、飛び蹴りしたくなる。」とジェスチュアたっぷり放言するところなんか、本当にリアルで(笑)パートナーと見ながら笑いこけました。
私はこのドラマ、パートナーに勧められて途中からしか見ていないので、いつか一番最初の回から全部通して、コマーシャルなしで見てみたい。なにせ夕方のこの韓流ドラマ、コマーシャルがやたら沢山はいりまくって興ざめなことこの上なく、しかもそのスポンサーというのが、例外なくいかがわしい(私はそう確信)保健食品やら保健薬やらの会社で、半分認知症気味の高齢者を騙して買わせるような宣伝をしているところばかりで、うんざりさせられます。
なんにもすることがなくなったら、こういうすぐれたテレビドラマのシリーズを全巻見なおしてみる、というのは確かにいいかもしれませんね。いまはレンタルビデオでそんなコーナーが大きくなっているけれど、これまではほとんど目をくれたこともなかったのですが、私もちゃんと後期高齢者の仲間入りをした、ってことでしょう。
いまもう一度見てもいいな、と思うドラマは、韓流では「冬のソナタ」(若いころのチェ・ジウが本当に綺麗でした)、「チャングムの誓い」(宮廷料理とその料理人の具体的な話が面白かった)、「ソドンヨ」(新しい技術を生み出す集団の話が出て来たり物語自体が面白かったし、悪役が良かった。お姫様役が素敵な女優さんだった)、そしてこの「恋のスケッチ♡応答せよ1988」、日本のドラマでは「獅子の時代」(大原麗子が素敵でした。落ちぶれた菅原文太演じる主人公が人力車夫になって大原麗子を乗せるシーン・・)かな。
こんなドラマも、自分が生きてきた時代の様々な出来事や思いを喚起してくれて、懐かしく思い出します。
老々介護で義母の家に行って放映時間に1回、夜帰宅してから2回、先日You Tubeで先取りした分も入れると計4回繰り返し見たことになります。それでも飽きない(笑)。
先週は、4人が高校を出てから、1年、また一年と経過し、その間をはしょっていく展開なので、もうドラマも終りに近づいたのかとハラハラしましたが、きょうの再会のドラマはこのシリーズのハイライトでした。脚本が素晴らしい。そして適材適役の役者の演技が素晴らしい。
高校時代にずっと熱い想いを抱きながら、無器用にその思いを一人で抱えたまま士官学校へ行ったジョンファンが、士官学校で卒業時に、早く良い人を見つけろよ、と励ますかのようにくれる「フィアンセ・リング」を小道具に、長く秘めた愛を告白するシーン。二人の演技が素晴らしかった。
ジョンファンはこのシーンでは演じている役者がジョンファンそのものになりきっていて、役柄としてのドクソンではなく、同じドラマを演じる仕事を共にしてきて生身の男性として深く惹かれところとなった女優ヘリに、ひとりで温めてきたほんとうの想いを告白するように、真に迫った告白でした。(いま現実にジョンファンを演じた男優さんはヘリとおつきあいしているそうだから、そのころから本当に惹かれていたのでしょう。)
ヘリは一言も発することなく、ジョンファンをじっと見つめて、ときに瞬きし、ときにかすかな笑みを浮かべるだけですが、ジョンファンの重くずっしりと胸の奥深く届いてこたえるような告白を、まっすぐに受け止めていました。「そんな!、やめてよ」、という姿勢でもなく、また女性としてポジティブに受け止める姿勢でもなく、共に過ごしてきた長い、良き日々を懐かしむように、過ぎた恋が炎のように熱く眩しいもののようにではなく、自分に注がれる温かく懐かしい人の声のように、心の奥深くでずっしりと重い彼の告白をただ受け止めていました。
この告白をジョンファンはフィクションとして無化してしまい、その場に立ち会っていたソヌもドンリョンも、「なんだ冗談かよ、すっかり騙されたぜ」と彼の「真に迫った」告白を虚構として笑いの中に解消してしまいます。
でも、もちろんドクソンにはわかっていて、真実の告白がずっしり胸にこたえていて、一言も発することができず、いつものドクソンらしさが影をひそめています。
そして、カフェの店の戸が開くたびに聞こえるチリリンという音に、振り返るドクソンの表情のアップ。もちろん遅れてくるはずのテクでは・・・と無意識に振り返っている。そして、そんな彼女の心を敏感に感じるジョンファンの表情のアップ。ジョンファンの気持ちに同化して切なくなるシーン。このあたりの演出は心憎い。
ドクソンが一緒にライブに行くはずだった男にドタキャンされて、行きがかり上、一人で出かけ、雨に打たれて女友達に着替えを持ってくるように電話で頼んで劇場の前で寒さに震えている。ドンリョンと二人で映画館に入っていたジョンファンは、ロビーでドクソンが一緒に行くはずだった男が恋人と一緒にいるのを見かけてドクソンの状況に気付、映画館を飛び出して車を飛ばしてドクソンの居る劇場へ。二度も赤信号にとめられて焦れば焦るほど早く行きつけない。一方、テクは9段の囲碁師範として対局に出かけていたけれど、会場でトイレに入っているとき、ドクソンにライブにいくはずだった男を紹介した女性職員と世話役の男との会話を聞いてドクソンの状況を知ります。ただ、この会話が彼に聞こえていた、ということは映像では一切出てきません。廊下でテクを待つ男女二人が会話していて、その奥でトイレから出てきたテクが例のポーカーフェイスでなにごともなかったようにこちらへ歩いてくる、そういうシーンがあるだけです。
でもドクソンが震えながら立っている劇場の前に最初に駆け付けるのは、プロになって初めて対局を棄権して息せき切って駆け付けたテクなのです。二人を捉えたカメラが手前へ引くと、二人に背を向けてこちらへ歩いてくる、タッチの差で遅れたジョンファンの姿がとらえられます。
ジョンファンは雨に打たれる車にもどって、車内にとじこもり、赤信号がひとつでも青だったら・・・と思い、人生はタイミングだ、俺はいつもタイミングに邪魔されてきた、なんて間が悪い男なんだ、とつぶやく。でも、そのあと、テクがプロになって初めて対局を棄権してきたことをラジオのニュースで聴いて、赤信号のせいなんかじゃない、タイミングのせいじゃない、あいつの勇気のほうが俺の優柔不断な気持ちに勝ったからなんだ、と納得します。自分の気持ちに正直に、ただまっすぐに、ひたむきに突き進む、その勇気が運命を引き寄せたんだ、運命もまた人が選択して引き寄せるものなんだ、と気づくのです。
こういうシーンを見ると、この脚本家にほとほと感心します。
朝寝して眠っている息子や娘たちにそれぞれの親がからむ、それぞれの家庭の様子も、実にほほえましく、それぞれの家庭の特徴をきちっと描いていて感心します。とくにジョンファンと両親のシーンはこの芸達者な3人の表情がすばらしくて、ほっこりします。カメラも実にいい。
ドクソンの家庭でも、起きるなり姉と大声で喧嘩をはじめ、別の部屋で夫婦と息子の3人で朝食をとっているなかで父親が、久しぶりに賑やかさの戻ってきた空気を内心喜びながら、いい歳ををして喧嘩なんかして、と言うと、弟君が、ドクソン姉さんはわざと長姉を怒らせているんだよ、と言います。こういうセリフを聴くと、おう、やるなぁ、と思いますね。
きょうは活躍しなかったけれど、彼らの母親たちが最高で、それぞれほかのドラマでは癖のある重要な役がこなせる名優たちが、いつも主人公たちによりそっている重要な脇役として、それぞれ本名を役の上での名に使って、韓国の庶民的な家庭の普通のおばさんを実に個性的に演じています。なんでもない普通の庶民の暮らしのなかに、どんなにすごいドラマがあるか、どんなにすばらしい輝きがあるか、このドラマは本当にみごとに描いてみせてくれます。
先週なんか、例によってこの母親たちが寄っておしゃべりしている中で、ジョンファンの母親が、「息子が夜中に帰ってきて何か食べるものを作ってくれ、と言ったら喜んでなにか美味しいものを作ってやりたいと思うけれど、夫が夜中に帰ってきて何か作ってくれと言ったら、心の底から憎しみが沸き上がってきて、飛び蹴りしたくなる。」とジェスチュアたっぷり放言するところなんか、本当にリアルで(笑)パートナーと見ながら笑いこけました。
私はこのドラマ、パートナーに勧められて途中からしか見ていないので、いつか一番最初の回から全部通して、コマーシャルなしで見てみたい。なにせ夕方のこの韓流ドラマ、コマーシャルがやたら沢山はいりまくって興ざめなことこの上なく、しかもそのスポンサーというのが、例外なくいかがわしい(私はそう確信)保健食品やら保健薬やらの会社で、半分認知症気味の高齢者を騙して買わせるような宣伝をしているところばかりで、うんざりさせられます。
なんにもすることがなくなったら、こういうすぐれたテレビドラマのシリーズを全巻見なおしてみる、というのは確かにいいかもしれませんね。いまはレンタルビデオでそんなコーナーが大きくなっているけれど、これまではほとんど目をくれたこともなかったのですが、私もちゃんと後期高齢者の仲間入りをした、ってことでしょう。
いまもう一度見てもいいな、と思うドラマは、韓流では「冬のソナタ」(若いころのチェ・ジウが本当に綺麗でした)、「チャングムの誓い」(宮廷料理とその料理人の具体的な話が面白かった)、「ソドンヨ」(新しい技術を生み出す集団の話が出て来たり物語自体が面白かったし、悪役が良かった。お姫様役が素敵な女優さんだった)、そしてこの「恋のスケッチ♡応答せよ1988」、日本のドラマでは「獅子の時代」(大原麗子が素敵でした。落ちぶれた菅原文太演じる主人公が人力車夫になって大原麗子を乗せるシーン・・)かな。
こんなドラマも、自分が生きてきた時代の様々な出来事や思いを喚起してくれて、懐かしく思い出します。
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2017年09月14日
恋のスケッチ♡応答せよ1988
平日は毎日楽しみにしている「恋のスケッチ♡応答せよ1988」、きょうはとりわけ笑わされたり泣かされたり、最高でした。このドラマ、脚本が実に上手いのでいつも感心します。
テクの父親とソヌの母親が一緒になりそうな成り行きの中で、テクとソヌが二人で陽のあたる部屋に所在投げに座っていて、互いに親たちのことについて感じていたことを、自然に打ち明けるシーンはすばらしかった。囲碁の天才で生活的な部分ではまったく幼いテクが、父親の告白を受け容れて、「おばさんでよかった、安心だよ」というのを聴いて、親同士が惹かれていくのいやだな、と感じていたテクが、「俺のほうが子供だな」と言う場面。そして、それでも自分のほうが年上だから兄貴と呼べよ、と言うと、弱く優しいばかりに見えるけれど、絶対に負けず嫌いのテクが、自分のほうが大人だ、と譲らず、彼には似合わないドクソンに教わった悪い言葉を返して、ソヌに「悪い言葉なんか使いやがって」とからかわれる場面。なんか涙が出てくるようなシーンでした。
それから立ち入り禁止のグラウンドで、足をバイクに轢かれて傷めたドクソンがベンチで見守る前で
いつもつるんでいる4人がサッカーを楽しむ場面。ひどい痔でニンニクを肛門へ入れるような「民間療法」をしていたドンリョンが大出血を起こし、ズボンの後ろが汚れたのに気付いたベンチのドクソンが「生理なのぉ?!」と真顔の大声で叫ぶところは見ていてパートナーと二人ドッと笑いこけてしまいました。そのあとドンリョンをソヌとジョンファンが連れて行って、残されたドクソンとテクが見回りの監視員に見とがめられ、テクが足を傷めたドクソンを背負うというのを彼女がためらうのを、ヤワにみえたテクがさっと姫様抱きをして広いグラウンドをまっすぐ速足で逃げていくシーンも愉快でした。
そうそう、グラウンドへ来た時、ドンリョンがドクソンをおぶって来る前に、ソヌが場面からいなくなるあいだ、ジョンファンとテクがベンチで二人だけになるシーンも良かった。
二人は互いに相手もドクソンに惹かれていることを知ってしまって、きわめて親密な友人どうしだったので、ぎこちない沈黙のうちに緊張感が漂い、互いにいつもなら気軽に交わせる言葉が交わせません。
テクの部屋に忘れたジョンファンの財布、それをテクはちょっと覗いてみたばかりに、その中にあったジョンファンとドクソンのツーショットの写真を見てしまいます。でも、このサッカー場のベンチで、ジョンファンが「財布の中を見たか?」と訊くと、テクはまったく動じず、平然としたいつもの表情で、見ていないよ、と答えます。囲碁で連戦連勝の彼らしいポーカーフェイス。
実はジョンファンも以前にテクの開いている引き出しに、テクとドクソンのツーショットの写真を見つけて内心ショックを受けていて、そこは互いに同じことをして相手の気持ちを知ったわけで、この反復のシナリオもうまい。
ジョンファンはドクソンとは家の構造自体が上と下で昔から行き来しているから、昔から兄妹のようにふるまっていて、互いに異性だという意識はなかった。でもジョンファンはドクソンを女の子として意識するようになり、好きだという想いが募れば募るほどそっけない態度をそってしまいます。
ドクソンのほうはいい感じになりかけていたのだけれど、彼女が誕生日祝いに贈ったピンクのシャツを兄ジョンボンにやってしまったような誤解を生じる事件をきっかけに、気持ちはすれ違い、ドクソンはジョンファンの気持ちを理解し損ねます。
またきょうの回では、囲碁の世界戦を終えたテクが一日早く帰国してドクソンとコンサートに行く約束をしていたのに、テクはジョンファンのドクソンへの思いを知ったために、用ができたと偽って、その約束をキャンセルしてしまいます。
それでドクソンは、自分がテクに軽く見られているんじゃないか、とふと思い、女友達にそう言われます。
だからドクソンは二人のすばらしい青年に熱い想いで愛されているのに、自分は誰にも愛されていない、と思っています。この設定が実にうまいし、かれら3人を含む4人の友情、兄・弟・姉、さらに親の世代へ広がる、この路地裏の人の絆とそこに起きる悲喜こもごも・・・韓国ではソウルオリンピックの年、日本なら東京オリンピックのころの社会そのままの雰囲気が懐かしい感じで甦ってきます。
あんな仲の良い友人グループの中で、紅一点のドクソンのような子を二人が好きになれば、きっと男同士の友情を大切にして、自分が引こうとするだろうな、と思います。その気持ちがすごくよくわかるし、非常にうまく描かれています。
ジョンファンを演じているリュ・ジョンヨルという若い男優が実にいい表情で、よく韓流にあるようなイケメンではないけれども、ドクソンに深い愛情を感じながらそれを表現しようとせず、無器用にぶっきらぼうな態度をとる高校生の男の子らしさを自然体で演じていて非常に好感が持てます。
現実の世界では、彼がヘリとこのドラマをきっかけにおつきあいするようになったそうですから、めでたし、めでたし(笑)。
彼等の母親役、父親役がまたすばらしい。登場人物がみな所を得て、実に適役なのです。おばさんたちがすばらしいし、ジョンファンの兄がまた実にうまい。
あと、きょうの回では、ミランが出場したのど自慢予選の笑い話も、同じく出場していたドクソンの「老け顔」の弟ノウル君のすばらしいバラードを聞かせてくれてサプライズだったし、教室で罰として歌わされるシーンの回想が出て来るのもうまいなぁ、と何度も脚本に感心しました。
もちろん「アホのドクソン」を演じるヘリの体当たり演技のあの「変がお」やどんちゃん騒ぎ、ドンリョンといつもペアで踊り出すあのダンス、そしてふっとなにかの予感に撃たれているようなときの、ジョンファンやテクが苦しくなるのが分かるような愛らしい表情は、このドラマの一番核心で輝き続ける宝石。その横にチンジュの小さな小さな宝石もあって・・・
ごめんなさい。このドラマが見られないかた、見ていないかたには、申し訳ないきょうの駄文でした。
明日は私のドクソンに会いに行きます(笑)。
テクの父親とソヌの母親が一緒になりそうな成り行きの中で、テクとソヌが二人で陽のあたる部屋に所在投げに座っていて、互いに親たちのことについて感じていたことを、自然に打ち明けるシーンはすばらしかった。囲碁の天才で生活的な部分ではまったく幼いテクが、父親の告白を受け容れて、「おばさんでよかった、安心だよ」というのを聴いて、親同士が惹かれていくのいやだな、と感じていたテクが、「俺のほうが子供だな」と言う場面。そして、それでも自分のほうが年上だから兄貴と呼べよ、と言うと、弱く優しいばかりに見えるけれど、絶対に負けず嫌いのテクが、自分のほうが大人だ、と譲らず、彼には似合わないドクソンに教わった悪い言葉を返して、ソヌに「悪い言葉なんか使いやがって」とからかわれる場面。なんか涙が出てくるようなシーンでした。
それから立ち入り禁止のグラウンドで、足をバイクに轢かれて傷めたドクソンがベンチで見守る前で
いつもつるんでいる4人がサッカーを楽しむ場面。ひどい痔でニンニクを肛門へ入れるような「民間療法」をしていたドンリョンが大出血を起こし、ズボンの後ろが汚れたのに気付いたベンチのドクソンが「生理なのぉ?!」と真顔の大声で叫ぶところは見ていてパートナーと二人ドッと笑いこけてしまいました。そのあとドンリョンをソヌとジョンファンが連れて行って、残されたドクソンとテクが見回りの監視員に見とがめられ、テクが足を傷めたドクソンを背負うというのを彼女がためらうのを、ヤワにみえたテクがさっと姫様抱きをして広いグラウンドをまっすぐ速足で逃げていくシーンも愉快でした。
そうそう、グラウンドへ来た時、ドンリョンがドクソンをおぶって来る前に、ソヌが場面からいなくなるあいだ、ジョンファンとテクがベンチで二人だけになるシーンも良かった。
二人は互いに相手もドクソンに惹かれていることを知ってしまって、きわめて親密な友人どうしだったので、ぎこちない沈黙のうちに緊張感が漂い、互いにいつもなら気軽に交わせる言葉が交わせません。
テクの部屋に忘れたジョンファンの財布、それをテクはちょっと覗いてみたばかりに、その中にあったジョンファンとドクソンのツーショットの写真を見てしまいます。でも、このサッカー場のベンチで、ジョンファンが「財布の中を見たか?」と訊くと、テクはまったく動じず、平然としたいつもの表情で、見ていないよ、と答えます。囲碁で連戦連勝の彼らしいポーカーフェイス。
実はジョンファンも以前にテクの開いている引き出しに、テクとドクソンのツーショットの写真を見つけて内心ショックを受けていて、そこは互いに同じことをして相手の気持ちを知ったわけで、この反復のシナリオもうまい。
ジョンファンはドクソンとは家の構造自体が上と下で昔から行き来しているから、昔から兄妹のようにふるまっていて、互いに異性だという意識はなかった。でもジョンファンはドクソンを女の子として意識するようになり、好きだという想いが募れば募るほどそっけない態度をそってしまいます。
ドクソンのほうはいい感じになりかけていたのだけれど、彼女が誕生日祝いに贈ったピンクのシャツを兄ジョンボンにやってしまったような誤解を生じる事件をきっかけに、気持ちはすれ違い、ドクソンはジョンファンの気持ちを理解し損ねます。
またきょうの回では、囲碁の世界戦を終えたテクが一日早く帰国してドクソンとコンサートに行く約束をしていたのに、テクはジョンファンのドクソンへの思いを知ったために、用ができたと偽って、その約束をキャンセルしてしまいます。
それでドクソンは、自分がテクに軽く見られているんじゃないか、とふと思い、女友達にそう言われます。
だからドクソンは二人のすばらしい青年に熱い想いで愛されているのに、自分は誰にも愛されていない、と思っています。この設定が実にうまいし、かれら3人を含む4人の友情、兄・弟・姉、さらに親の世代へ広がる、この路地裏の人の絆とそこに起きる悲喜こもごも・・・韓国ではソウルオリンピックの年、日本なら東京オリンピックのころの社会そのままの雰囲気が懐かしい感じで甦ってきます。
あんな仲の良い友人グループの中で、紅一点のドクソンのような子を二人が好きになれば、きっと男同士の友情を大切にして、自分が引こうとするだろうな、と思います。その気持ちがすごくよくわかるし、非常にうまく描かれています。
ジョンファンを演じているリュ・ジョンヨルという若い男優が実にいい表情で、よく韓流にあるようなイケメンではないけれども、ドクソンに深い愛情を感じながらそれを表現しようとせず、無器用にぶっきらぼうな態度をとる高校生の男の子らしさを自然体で演じていて非常に好感が持てます。
現実の世界では、彼がヘリとこのドラマをきっかけにおつきあいするようになったそうですから、めでたし、めでたし(笑)。
彼等の母親役、父親役がまたすばらしい。登場人物がみな所を得て、実に適役なのです。おばさんたちがすばらしいし、ジョンファンの兄がまた実にうまい。
あと、きょうの回では、ミランが出場したのど自慢予選の笑い話も、同じく出場していたドクソンの「老け顔」の弟ノウル君のすばらしいバラードを聞かせてくれてサプライズだったし、教室で罰として歌わされるシーンの回想が出て来るのもうまいなぁ、と何度も脚本に感心しました。
もちろん「アホのドクソン」を演じるヘリの体当たり演技のあの「変がお」やどんちゃん騒ぎ、ドンリョンといつもペアで踊り出すあのダンス、そしてふっとなにかの予感に撃たれているようなときの、ジョンファンやテクが苦しくなるのが分かるような愛らしい表情は、このドラマの一番核心で輝き続ける宝石。その横にチンジュの小さな小さな宝石もあって・・・
ごめんなさい。このドラマが見られないかた、見ていないかたには、申し訳ないきょうの駄文でした。
明日は私のドクソンに会いに行きます(笑)。
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