2017年08月
2017年08月28日
イ・チャンドン監督「シークレット・サンシャイン」
「オアシス」のイ・チャンドンの監督、脚本、製作による2007年の2時間22分に及ぶ長尺の映画。
原題は「密陽(ミリャン)で、邦題はその漢字をそのままカタカナ英語にしただけだけれど、それならなぜ「密陽」のままにしないのか不思議です。現実のロケ先である韓国の実際の都市名らしいけど、作品の中で登場人物によって「密陽の意味を知っていますか?」「意味?考えたこともないね」「秘密の密に陽ざしの陽。秘密の陽ざしなんて素敵でしょう?」「秘密の陽射しか・・・いいね」という会話が交わされ、また別の人物、キリスト教信者で最初に主人公に聖書らしきものを読むように勧める薬局の女が、見えないけれど存在する神の光について講釈を垂れると、主人公イ・シネが店内の陽の光の当たっている所へ行って、「これが光りよ、何にもない!」と言うように、作品の中では神の光としての意味を帯びて登場します。
物語は夫を交通事故で失くした寡婦シネが一人息子を連れてソウルから、夫の出身地でつねづねそこに住みたいと言っていた地方の小都市密陽へ移住してくる途中、車がエンコして、密陽から自動車修理工場の社長キム・ジョンチャンが助けにくるところから始まります。密陽についての上述の会話はこのとき彼とシネの間で交わされる象徴的な会話です。
シネはピアノがうまく、自宅で子供相手のピアノ教室を開きます。近所の洋服屋へ行っては女主人にインテリアをもう少し明るくすれば客がたくさん来るようになると、初対面でちょっと出過ぎた「アドバイス」をしたり、キリスト教信者の薬局のおばさんキム執事に教会へ誘われたり、息子ジュンが通う弁論教室の先生と知り合ったリする中で、人々の目は夫を亡くしたシネに同情的であると同時に、「少し変わっている」シネのキャラを違和感も覚えながら見守っています。
最初にシネと知り合ったジョンチャンは言ってみればシネに一目ぼれしたようで、シネにつきまとい、ちょっと「小さな親切よけいなお世話」的な世話焼きをつづけ、シネは迷惑そうです。
シネはここで土地を買い、家を建てようと思う、と周囲に言いふらします。実はあとで、同情される立場を鬱陶しく思い、見栄を張って資産家のようにみせかけただけの虚偽であったことが分かるのですが・・・。
そんな中でジュンが突然いなくなり、犯人からの身代金の要求電話で、誘拐されたと分かります。シネはひたすらジュンを無事に返してほしい一心で、誰にも言わずに、ありったけの金を用意して犯人の指示どおりの場所へ運びます。その金額は犯人が要求したものよりもはるかに少ないものだったようですが、彼女にはそれだけしか用意できなかったのです。
じきにジュンの遺体が見つかります。ジュンを焼き場の炉に送って泣き崩れても、もう流す涙も枯れたシネに、夫の母親たちは、お前のせいだ、夫も子供も殺して、涙一つ出さないのか、と罵りの言葉を投げつけます。
家を覗き込んでいた少女が、前に友達と遊んでいるところを父親に無理やり引っ張られて車にのせられたときの少女で、ジュンが通っていた弁論教室の先生の娘であったことから足がついたらしく、犯人がこの弁論教室の先生であったことがわかり、つかまります。
ジュンを殺されてからシネは次第に精神に異常をきたします。それまでは拒否して近づかなかった教会にふらりと足を向け、信者たちとともに賛美歌を歌っているとき、彼女は一人生理的に苦しい胸を押さえながら獣のような絶叫を挙げ続けます。ここで一気に子供を失った悲しみが彼女の中で炸裂し、感情が叫びとなって身体から溢れ出します。ここのところはとりわけシネを演じる女優チャン・ドヨンの鬼気迫る演技になっています。
それからシネはキリスト教信者の輪に入り、神に帰依してすっかり晴れ晴れとした、言ってみればあまりにも晴れ晴れとした、宗教者固有の表情に変わります。この変貌もみごとなものです。目には見えないけれど、いつも神がともにいてくれて心が平安だと彼女は周囲に語ります。
彼女につかず離れず世話をやいていたジョンチャンも、教会へ通うようになります。
信仰にのめり込んでいくように見えたシネは、あるとき刑務所にいるジュンを殺した犯人に面会に行くと言い出します。神は汝の敵を赦し、汝の敵を愛せよと言っているから、自分も彼を許したいのだ、と。ジョンチャンをはじめ周囲の人たちは、心の中で許せばいい、わざわざ会いにまで行く必要があるのか、と懸念します。
その懸念は現実のものとなります。ジョンチャンとともに犯人のもと弁論教室の教員は、意外にも健康的で平穏に満ちた様子で、あなたの罪を許したいと思って来たというシネに、犯人は、もうその必要はない、神に懺悔し、神は私を許して下さったので、私の心は平安を得ている、と言います。ついてきていた牧師や他の親しい信者たちはこれで一件落着、めでたしめでたしという空気を醸し出している中、シネは一人男の言葉を聴いて呆然とし、刑務所を出る駐車場で気を失って倒れます。
ここから、シネは益々深く心を病んでいきます。なぜ私が赦す前に神は犯人をお赦しになったのか、シネにはそれがどうしても受け入れられません。もはや神が自分とともにあるという信仰は失われ、変わらず彼女のことを心配して世話をやくジョンチャンを拒み、ひとり閉じこもり、荒れ狂い、薬局の執事の夫を誘惑し(このあたりもチョン・ドヨンの演技は鬼気迫るものがあります)、CD店では万引きし、とうとう手首を切って自傷行為に及びます。彼女が上を向いて呟く言葉は直接神に挑むような呪いの言葉に聞こえます。
信仰を持たない者が多くの不幸に見舞われ、神の不在を語るとき、信仰者は、それは神の与えた試練なのだと語ることがしばしばあります。この作品でも信仰者の立場から見れば、シネの受難はヨブの受難のごとき神の与えたもうた試練なのかもしれません。
しかしこの作品に関する限り、私たちの目には、最初そう見えたシネの受難は、シネがどん底まで追い詰められて心を病んでいくとき、そのシネの引き起す異様なできごとの一つ一つが、むしろシネが神に与える試練のように見えてきます。シネが狂ったように叫び、器物を破壊し、ひとの亭主をその肉で誘惑し、また万引きするとき、その一つ一つは神の受難、シネが神に与えるこの上なく厳しい試練であるかのように見えます。
精神病院で治癒して退院するシネを迎えるジョンチャンは、彼女の求めに応じて美容店に連れていきます。そこへ女店主が自分より腕がいいという見習いの少女が登場します。これがジュンを殺した犯人の娘。彼女は最初に犯人の弁論教室教員の車に乗ったときに出会ってからポイントになるところで二、三回登場します。ひとつは、犯人逮捕のきっかけになる、この少女がシネの家の中を外から覗き込んでいる場面。もう一つは、シネが車窓からこの少女が同じ年頃の少年グループから暴力的ないじめを受けているのを目撃しながら、何もしないで車で去って行くシーンです。
美容室をカットの途中で飛び出していくシネも含めて、シネは犯人を決して許していないことが分かります。ラストでシネがほっとするような表情を見せるとしても、それはもう以前のように神の存在を信じて心安らかに犯人をも許すというような心境からではないことがはっきりしています。
ラストはシネの自宅の庭で、ジョンチャンに連れられてシネはここへ戻ってきます。庭で椅子に座って、彼女はカット途中の髪を切ります。穏やかな日差しをあび、穏やかな時間が流れていく。切った髪は地面に落ち、風でふわりと移動し、カメラもそれを追うように移動して地面を映し、密やかなほとんど気づかないほどの穏やかな光のほかには何もない地面をしばらく写したままエンディングです。
これは現代のヨブ記のようなもので、亭主を事故で失い、一人息子までも誘拐殺人で奪われ、自分の一番大切なもの、自分の生きがいをすべて奪われてしまうシネの物語。ヨブのようにそれでも神を信じるということはシネにはできません。普通に言えば心を病んだ状態になってからの彼女は、むしろ神に挑むようなところがあります。
教会に通って晴れ晴れした表情のシネはまだ自分勝手に神を思い描いているだけだったけれど、犯人に面会して神が勝手に許しを与えたことを知ってからのシネは、むしろ本当にそこに神が居るかのように神に挑み、神を呪詛し、神と激しい口論をしているかのような独り言を呟きます。それはほかの者には理解できない神とシネとの対話のようにみえます。そうなってからのほうが、シネは神を憎みながら神と対峙する世界に入って、神よ、お前は本当に居るのか、居るならなぜこのような現実を許すのかと鋭く挑みかかっているように思えます。
穏やかな光に満ちた庭のラストシーンは、決してハッピーエンドを意味していません。シネは依然として心を病み、不安定な状態で、これはほんの一瞬のやすらぎの時に過ぎません。
しかし、この作品の中でほんとうに象徴的な「密陽」が射しているとすれば、そしてその光の中にこそ目に見えない神が佇んでいるのだとすれば、それはこの作品の最初から最後まで変わらないジョンチャンのシネに対する姿勢でしょう。最初は一目ぼれの下心かと思ってみていたけれど、途中からはなぜこの男はこんなにシネに親切なのか、シネに迷惑がられながら、ここまでシネの世話をしたがるのか、ほとんど分からなくなってきます。最初と最後にあらわれる他都市に住むシネの弟が、最初にジョンチャンに「姉のタイプじゃないことだけは確かだ」と彼に「忠告」します。その男が最初から最後までまったく微動もしない同じ態度でシネに接し続けます。
そこには男女の色恋のような濃い色合いはついていません。レストランを予約して楽しみにしている彼は初々しい思春期の初恋の相手を待つ少年のようだけれど、その純粋で透明感のある気持ちと接し方は終始変わりません。
物語そのものはシネの厳しい受難を軸に展開するので、そちらに目が行ってしまうけれど、実際には最初から最後までこれはジョンチャンとシネの二人の物語ではないでしょうか。それは目の前の映像として展開される作品の中にちゃんと見えているのに、私たちが見ていない一番大切なものなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
二人を演じる、イ・チャンドンとソン・ガンホも、さすがという演技をみせてくれています。
長い長い物語ですが、冗長な印象はまったくありません。シネを演じるチョン・ドヨンは市原悦子のようなお手伝いさん顔だけれど、その演技力はまさに鬼神のごとき迫力で、「オアシス」のコンジュを演じたムン・ソリのことを合わせて考えれば、このイ・チャンドンという監督は女優の持つ資質をその底の底まで鷲掴みにして可能性の極限まで引き出し、作品の世界に100%解放し切るだけの力量を備えていると考えざるをえません。
原題は「密陽(ミリャン)で、邦題はその漢字をそのままカタカナ英語にしただけだけれど、それならなぜ「密陽」のままにしないのか不思議です。現実のロケ先である韓国の実際の都市名らしいけど、作品の中で登場人物によって「密陽の意味を知っていますか?」「意味?考えたこともないね」「秘密の密に陽ざしの陽。秘密の陽ざしなんて素敵でしょう?」「秘密の陽射しか・・・いいね」という会話が交わされ、また別の人物、キリスト教信者で最初に主人公に聖書らしきものを読むように勧める薬局の女が、見えないけれど存在する神の光について講釈を垂れると、主人公イ・シネが店内の陽の光の当たっている所へ行って、「これが光りよ、何にもない!」と言うように、作品の中では神の光としての意味を帯びて登場します。
物語は夫を交通事故で失くした寡婦シネが一人息子を連れてソウルから、夫の出身地でつねづねそこに住みたいと言っていた地方の小都市密陽へ移住してくる途中、車がエンコして、密陽から自動車修理工場の社長キム・ジョンチャンが助けにくるところから始まります。密陽についての上述の会話はこのとき彼とシネの間で交わされる象徴的な会話です。
シネはピアノがうまく、自宅で子供相手のピアノ教室を開きます。近所の洋服屋へ行っては女主人にインテリアをもう少し明るくすれば客がたくさん来るようになると、初対面でちょっと出過ぎた「アドバイス」をしたり、キリスト教信者の薬局のおばさんキム執事に教会へ誘われたり、息子ジュンが通う弁論教室の先生と知り合ったリする中で、人々の目は夫を亡くしたシネに同情的であると同時に、「少し変わっている」シネのキャラを違和感も覚えながら見守っています。
最初にシネと知り合ったジョンチャンは言ってみればシネに一目ぼれしたようで、シネにつきまとい、ちょっと「小さな親切よけいなお世話」的な世話焼きをつづけ、シネは迷惑そうです。
シネはここで土地を買い、家を建てようと思う、と周囲に言いふらします。実はあとで、同情される立場を鬱陶しく思い、見栄を張って資産家のようにみせかけただけの虚偽であったことが分かるのですが・・・。
そんな中でジュンが突然いなくなり、犯人からの身代金の要求電話で、誘拐されたと分かります。シネはひたすらジュンを無事に返してほしい一心で、誰にも言わずに、ありったけの金を用意して犯人の指示どおりの場所へ運びます。その金額は犯人が要求したものよりもはるかに少ないものだったようですが、彼女にはそれだけしか用意できなかったのです。
じきにジュンの遺体が見つかります。ジュンを焼き場の炉に送って泣き崩れても、もう流す涙も枯れたシネに、夫の母親たちは、お前のせいだ、夫も子供も殺して、涙一つ出さないのか、と罵りの言葉を投げつけます。
家を覗き込んでいた少女が、前に友達と遊んでいるところを父親に無理やり引っ張られて車にのせられたときの少女で、ジュンが通っていた弁論教室の先生の娘であったことから足がついたらしく、犯人がこの弁論教室の先生であったことがわかり、つかまります。
ジュンを殺されてからシネは次第に精神に異常をきたします。それまでは拒否して近づかなかった教会にふらりと足を向け、信者たちとともに賛美歌を歌っているとき、彼女は一人生理的に苦しい胸を押さえながら獣のような絶叫を挙げ続けます。ここで一気に子供を失った悲しみが彼女の中で炸裂し、感情が叫びとなって身体から溢れ出します。ここのところはとりわけシネを演じる女優チャン・ドヨンの鬼気迫る演技になっています。
それからシネはキリスト教信者の輪に入り、神に帰依してすっかり晴れ晴れとした、言ってみればあまりにも晴れ晴れとした、宗教者固有の表情に変わります。この変貌もみごとなものです。目には見えないけれど、いつも神がともにいてくれて心が平安だと彼女は周囲に語ります。
彼女につかず離れず世話をやいていたジョンチャンも、教会へ通うようになります。
信仰にのめり込んでいくように見えたシネは、あるとき刑務所にいるジュンを殺した犯人に面会に行くと言い出します。神は汝の敵を赦し、汝の敵を愛せよと言っているから、自分も彼を許したいのだ、と。ジョンチャンをはじめ周囲の人たちは、心の中で許せばいい、わざわざ会いにまで行く必要があるのか、と懸念します。
その懸念は現実のものとなります。ジョンチャンとともに犯人のもと弁論教室の教員は、意外にも健康的で平穏に満ちた様子で、あなたの罪を許したいと思って来たというシネに、犯人は、もうその必要はない、神に懺悔し、神は私を許して下さったので、私の心は平安を得ている、と言います。ついてきていた牧師や他の親しい信者たちはこれで一件落着、めでたしめでたしという空気を醸し出している中、シネは一人男の言葉を聴いて呆然とし、刑務所を出る駐車場で気を失って倒れます。
ここから、シネは益々深く心を病んでいきます。なぜ私が赦す前に神は犯人をお赦しになったのか、シネにはそれがどうしても受け入れられません。もはや神が自分とともにあるという信仰は失われ、変わらず彼女のことを心配して世話をやくジョンチャンを拒み、ひとり閉じこもり、荒れ狂い、薬局の執事の夫を誘惑し(このあたりもチョン・ドヨンの演技は鬼気迫るものがあります)、CD店では万引きし、とうとう手首を切って自傷行為に及びます。彼女が上を向いて呟く言葉は直接神に挑むような呪いの言葉に聞こえます。
信仰を持たない者が多くの不幸に見舞われ、神の不在を語るとき、信仰者は、それは神の与えた試練なのだと語ることがしばしばあります。この作品でも信仰者の立場から見れば、シネの受難はヨブの受難のごとき神の与えたもうた試練なのかもしれません。
しかしこの作品に関する限り、私たちの目には、最初そう見えたシネの受難は、シネがどん底まで追い詰められて心を病んでいくとき、そのシネの引き起す異様なできごとの一つ一つが、むしろシネが神に与える試練のように見えてきます。シネが狂ったように叫び、器物を破壊し、ひとの亭主をその肉で誘惑し、また万引きするとき、その一つ一つは神の受難、シネが神に与えるこの上なく厳しい試練であるかのように見えます。
精神病院で治癒して退院するシネを迎えるジョンチャンは、彼女の求めに応じて美容店に連れていきます。そこへ女店主が自分より腕がいいという見習いの少女が登場します。これがジュンを殺した犯人の娘。彼女は最初に犯人の弁論教室教員の車に乗ったときに出会ってからポイントになるところで二、三回登場します。ひとつは、犯人逮捕のきっかけになる、この少女がシネの家の中を外から覗き込んでいる場面。もう一つは、シネが車窓からこの少女が同じ年頃の少年グループから暴力的ないじめを受けているのを目撃しながら、何もしないで車で去って行くシーンです。
美容室をカットの途中で飛び出していくシネも含めて、シネは犯人を決して許していないことが分かります。ラストでシネがほっとするような表情を見せるとしても、それはもう以前のように神の存在を信じて心安らかに犯人をも許すというような心境からではないことがはっきりしています。
ラストはシネの自宅の庭で、ジョンチャンに連れられてシネはここへ戻ってきます。庭で椅子に座って、彼女はカット途中の髪を切ります。穏やかな日差しをあび、穏やかな時間が流れていく。切った髪は地面に落ち、風でふわりと移動し、カメラもそれを追うように移動して地面を映し、密やかなほとんど気づかないほどの穏やかな光のほかには何もない地面をしばらく写したままエンディングです。
これは現代のヨブ記のようなもので、亭主を事故で失い、一人息子までも誘拐殺人で奪われ、自分の一番大切なもの、自分の生きがいをすべて奪われてしまうシネの物語。ヨブのようにそれでも神を信じるということはシネにはできません。普通に言えば心を病んだ状態になってからの彼女は、むしろ神に挑むようなところがあります。
教会に通って晴れ晴れした表情のシネはまだ自分勝手に神を思い描いているだけだったけれど、犯人に面会して神が勝手に許しを与えたことを知ってからのシネは、むしろ本当にそこに神が居るかのように神に挑み、神を呪詛し、神と激しい口論をしているかのような独り言を呟きます。それはほかの者には理解できない神とシネとの対話のようにみえます。そうなってからのほうが、シネは神を憎みながら神と対峙する世界に入って、神よ、お前は本当に居るのか、居るならなぜこのような現実を許すのかと鋭く挑みかかっているように思えます。
穏やかな光に満ちた庭のラストシーンは、決してハッピーエンドを意味していません。シネは依然として心を病み、不安定な状態で、これはほんの一瞬のやすらぎの時に過ぎません。
しかし、この作品の中でほんとうに象徴的な「密陽」が射しているとすれば、そしてその光の中にこそ目に見えない神が佇んでいるのだとすれば、それはこの作品の最初から最後まで変わらないジョンチャンのシネに対する姿勢でしょう。最初は一目ぼれの下心かと思ってみていたけれど、途中からはなぜこの男はこんなにシネに親切なのか、シネに迷惑がられながら、ここまでシネの世話をしたがるのか、ほとんど分からなくなってきます。最初と最後にあらわれる他都市に住むシネの弟が、最初にジョンチャンに「姉のタイプじゃないことだけは確かだ」と彼に「忠告」します。その男が最初から最後までまったく微動もしない同じ態度でシネに接し続けます。
そこには男女の色恋のような濃い色合いはついていません。レストランを予約して楽しみにしている彼は初々しい思春期の初恋の相手を待つ少年のようだけれど、その純粋で透明感のある気持ちと接し方は終始変わりません。
物語そのものはシネの厳しい受難を軸に展開するので、そちらに目が行ってしまうけれど、実際には最初から最後までこれはジョンチャンとシネの二人の物語ではないでしょうか。それは目の前の映像として展開される作品の中にちゃんと見えているのに、私たちが見ていない一番大切なものなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
二人を演じる、イ・チャンドンとソン・ガンホも、さすがという演技をみせてくれています。
長い長い物語ですが、冗長な印象はまったくありません。シネを演じるチョン・ドヨンは市原悦子のようなお手伝いさん顔だけれど、その演技力はまさに鬼神のごとき迫力で、「オアシス」のコンジュを演じたムン・ソリのことを合わせて考えれば、このイ・チャンドンという監督は女優の持つ資質をその底の底まで鷲掴みにして可能性の極限まで引き出し、作品の世界に100%解放し切るだけの力量を備えていると考えざるをえません。
saysei at 23:31|Permalink│Comments(0)│
キム・テギュン監督「クロッシング」
北朝鮮で貧しいながら家族3人穏やかな日々を過ごしていた元サッカー選手イ・ヨンスだったが、妻が結核でしかも身重であることから、北朝鮮では手に入らない薬剤を買いに単身中国へ脱北を図る。もぐりの労働で金を稼いで薬剤を手に入れたらすぐにも帰郷するつもりだったが、取り締まりに遇って捕縛され、反共工作に加担するインタビューに応えれば帰すと諭されて不本意ながら宙ぶらりんの境遇に置かれたままいたずらに日を過ごす。
その間、郷里では妻ヨンハが死に、孤児となった一人息子ジュニは家を出て父のいる筈の中国を目指すが、国境の渡河直前で見回りに摑まり、脱北者の息子として収容所で同様の子供たちとともに苛酷な強制労働に従事させられる。その中でかつて違法な中国との往来で羽振りが良かった近所の家のお嬢さんだった少女に出逢い、再会を喜び合うが、少女は怪我が化膿して身体にうじがたかるような無残な死にかたをして、鼠に食われるままに放置された遺体が数多く並べられた穴室に引きずっていかれる。
父ヨンスは人づてに紹介されたブローカーに金を払い、まだその死を知らぬ妻と子をひそかに脱北させて呼び寄せる手立てを講じる。ブローカーの手のものがようやく少年を探し当て、一緒に脱北させ、中国の鉄条網を超えてモンゴル側へ出れば、あとはモンゴルでなんとかしてくれる、というところまで来るが、運悪く見回りにみつかり、同行者の一人で息子を亡くして精神を病んだ母親が銃を見て突然身を挺して少年に逃げよと叫ぶハプニングを生じ、ジュニは一人で走って鉄条網を無事にくぐる。
しかし、そこは見渡す限りモンゴルの砂漠で、一度遠くを去って行く車の挙げる砂埃を見るが、それからはもう人の気配はまったくない。夜になり、星空を見上げ、少年は砂漠の岩陰に眠る。やがてその少年を砂嵐が襲う。
ブローカーが少年を見つけ、同行して列車で国境へ伴う過程で、ジュニと携帯電話で直接話すことができた父ヨンスは息子との再会をいまかいまかと心待ちにし、息子に約束したサッカーボールなどを用意している。だが、息子のために用意したビタミン剤を税関で見とがめられてとめおかれ、モンゴルからの連絡を気が気でない思いで待つことになる。
そして・・・次のシーンでヨンスが対面するのは、生きている少年ではなく、顔に白布を掛けられ、横たわるジュニの遺体だった。
本当に悲惨な話で、救いがない。脱北者100人以上へのインタビューに基づいて作られた作品だそうで、これが脱北を願う大多数の人たちを襲う宿命なのだろう。
父と子の束の間の破れたボールや小石を蹴って遊ぶサッカーゲームの場面、雨の好きなジュニが雨に打たれながら嬉しそうな表情をしているいくつかのシーンなど、わずかな救いとなる美しい場面もあるが、少年を襲う運命の苛酷さの前で観客としてのわれわれは言葉を失う。
少年ジュニを演じたシン・ションチョルという子役は見事な演技を見せている。ただ苛酷な運命に打ちひしがれる弱い少年ではなく、父に代わって母を支えなければとけなげな決意でいる少年、どんなに苛酷な運命に見舞われても背筋を伸ばし、父に会いに行く強い意志と行動力をうちに秘めた、ほとんど高貴なと言ってもいい表情。そして、父と電話で交わす言葉、母が死んだことを告げ、父と約束したのに母を守れず死なせてしまった、と泣いて詫びるジュニの姿に涙せぬ観客はないだろう。
父ヨンスを演じたチャ・インピョは高倉健を少し細面にしてうんと若くしたら、こんなのでは、と思うような風貌の、なかなかいい役者。母ヨンハ役のソ・ヨンファも、少女ミソニ役のチュ・ダヨンも良かった。
ただ、やはり語り口が非常に単純な時間順に物語られる形で、冗長に感じられる。脱北者の実情を多くの実際の脱北者の証言をもとに再構成する意図はわかるが、作品としての映画をつくるなら、表現としてその内容を強め、より心に強く訴えかけるような工夫が必要なことは言うまでもない。映画の評価に主題主義をとらない私から見れば、この作品に映画としての高得点は与えられない。作品としては、ただ現実において悲惨と考えられる姿をほら、こんなに悲惨なのだと示しても、人の心を撃つ作品とはならない。
しかし、映画を社会の中の様々な相を私たちに見せてくれる手段と考えるなら、この作品は十分にその力をもった作品だと言えるだろう。
その間、郷里では妻ヨンハが死に、孤児となった一人息子ジュニは家を出て父のいる筈の中国を目指すが、国境の渡河直前で見回りに摑まり、脱北者の息子として収容所で同様の子供たちとともに苛酷な強制労働に従事させられる。その中でかつて違法な中国との往来で羽振りが良かった近所の家のお嬢さんだった少女に出逢い、再会を喜び合うが、少女は怪我が化膿して身体にうじがたかるような無残な死にかたをして、鼠に食われるままに放置された遺体が数多く並べられた穴室に引きずっていかれる。
父ヨンスは人づてに紹介されたブローカーに金を払い、まだその死を知らぬ妻と子をひそかに脱北させて呼び寄せる手立てを講じる。ブローカーの手のものがようやく少年を探し当て、一緒に脱北させ、中国の鉄条網を超えてモンゴル側へ出れば、あとはモンゴルでなんとかしてくれる、というところまで来るが、運悪く見回りにみつかり、同行者の一人で息子を亡くして精神を病んだ母親が銃を見て突然身を挺して少年に逃げよと叫ぶハプニングを生じ、ジュニは一人で走って鉄条網を無事にくぐる。
しかし、そこは見渡す限りモンゴルの砂漠で、一度遠くを去って行く車の挙げる砂埃を見るが、それからはもう人の気配はまったくない。夜になり、星空を見上げ、少年は砂漠の岩陰に眠る。やがてその少年を砂嵐が襲う。
ブローカーが少年を見つけ、同行して列車で国境へ伴う過程で、ジュニと携帯電話で直接話すことができた父ヨンスは息子との再会をいまかいまかと心待ちにし、息子に約束したサッカーボールなどを用意している。だが、息子のために用意したビタミン剤を税関で見とがめられてとめおかれ、モンゴルからの連絡を気が気でない思いで待つことになる。
そして・・・次のシーンでヨンスが対面するのは、生きている少年ではなく、顔に白布を掛けられ、横たわるジュニの遺体だった。
本当に悲惨な話で、救いがない。脱北者100人以上へのインタビューに基づいて作られた作品だそうで、これが脱北を願う大多数の人たちを襲う宿命なのだろう。
父と子の束の間の破れたボールや小石を蹴って遊ぶサッカーゲームの場面、雨の好きなジュニが雨に打たれながら嬉しそうな表情をしているいくつかのシーンなど、わずかな救いとなる美しい場面もあるが、少年を襲う運命の苛酷さの前で観客としてのわれわれは言葉を失う。
少年ジュニを演じたシン・ションチョルという子役は見事な演技を見せている。ただ苛酷な運命に打ちひしがれる弱い少年ではなく、父に代わって母を支えなければとけなげな決意でいる少年、どんなに苛酷な運命に見舞われても背筋を伸ばし、父に会いに行く強い意志と行動力をうちに秘めた、ほとんど高貴なと言ってもいい表情。そして、父と電話で交わす言葉、母が死んだことを告げ、父と約束したのに母を守れず死なせてしまった、と泣いて詫びるジュニの姿に涙せぬ観客はないだろう。
父ヨンスを演じたチャ・インピョは高倉健を少し細面にしてうんと若くしたら、こんなのでは、と思うような風貌の、なかなかいい役者。母ヨンハ役のソ・ヨンファも、少女ミソニ役のチュ・ダヨンも良かった。
ただ、やはり語り口が非常に単純な時間順に物語られる形で、冗長に感じられる。脱北者の実情を多くの実際の脱北者の証言をもとに再構成する意図はわかるが、作品としての映画をつくるなら、表現としてその内容を強め、より心に強く訴えかけるような工夫が必要なことは言うまでもない。映画の評価に主題主義をとらない私から見れば、この作品に映画としての高得点は与えられない。作品としては、ただ現実において悲惨と考えられる姿をほら、こんなに悲惨なのだと示しても、人の心を撃つ作品とはならない。
しかし、映画を社会の中の様々な相を私たちに見せてくれる手段と考えるなら、この作品は十分にその力をもった作品だと言えるだろう。
saysei at 11:56|Permalink│Comments(0)│
チャン・リュル「キムチを売る女」
原題は「朝鮮泡菜」、2005年の中国・韓国合作映画です。
主人公は吉林省に住む若い朝鮮族の女で、どうやら夫が人殺しか何かして刑務所に入っているらしく、日本で言えば小学校3-4年生くらいの息子チャンホを女手一つで、もぐりのキムチ売りで生計を立てている女性。
私たちにはその社会的背景が分かりにくいけれど、中国の中でも北部の貧しい土地で、朝鮮族の女と言うのも珍しく、差別される存在であるようで、正常な営業許可も得られず、何人もの売春婦たちが住む住居に母子2人で暮らしています。ただ、この作品の主人公チュ・スンヒ(リュ・ヒョンヒ演じる)は貧しさにくすんでいるはいるけれど美しい。また男の子は可愛らしく、アパートの売春婦たちに可愛がられています。
彼女は毎日、自転車に大きな棚みたいな荷台にキムチの甕を積んで、営業許可を得ないまま路傍で売っていて、警官の取り締まりがあると逃げ出して場所を変えてまた同じことを繰り返すようなことをしています。
あるときキムチを買いにきた妻帯者の小太りの冴えない中年男キムが個人的な話をしかけ、はじめはキムチを買わせるように仕向けて拒むふうだったスンヒも彼の好意を受け容れ、愛人関係になります。息子のチャンホはそれに気づき、いやがって石を投げます。彼はどんどん荒野のほうへ歩き去っていきます。
この関係をよろしくないと諭し、自分が差配する(工場の?)食堂の納入業者にしてやろう、と言い寄るやや年輩の中年男も下心があって、見返りに当然のようにスンヒを抱こうとし、スンヒは拒否して飛び出します。
そんなとき、背が高く割りとカッコいい若い警官ワンがスンヒの美貌に惹かれて、営業許可がとれるよう手配してやろうと言い、スンヒがワンの紹介で役所へ行くと、係の女性事務員が親切に応対して無事営業許可がとれます。この係の女性はスンヒが朝鮮族だと知り、その伝統的な踊りを教えてほしいと言って、二人が躍る不思議な場面もあります。ここが唯一この作品の中で救いのような場面です。
しかしこの警官ワンも下心あっての「親切」で、当然のようにスンヒを抱きます。
さて、スンヒと冴えない中年男キムとの関係はズルズル続いていましたが、この関係は男キムの妻が知るところとなり、妻の身内の男たちに自宅である現場へ踏み込まれ、駆け付けた警察官たちにキムは愛人と認めず、スンヒを金で買った売春婦だと証言し、スンヒは売春の現行犯で警察の留置所に連行されます。
警察署内で昼間っから酒を飲んでいる警官たち。ワンは留置場に囚われたスンヒの所へ行き、手錠の片方の輪を自分の手首にかけて隣室へスンヒを連れて行き、当然のごとく彼女を犯します。その姿勢はそれ以外の男にもみられない、スンヒをただ自分の欲望を満たす道具としか扱わない酷薄なものです。
保釈されたスンヒにはまたもとのキムチ売りの毎日が待っています。ワンは婚約者を連れて何食わぬ顔でキムチを買いに来ます。婚約者は何もしらずスンヒのキムチを気に入っているようです。
家に戻ってくるスンヒ。自分の住まいの前に救急車が来て大勢の人々が集まっている場面。悪い予感に不安げな表情で人々をかきわけて走り寄るスンヒ。何の説明もないけれど、次のカットはスンヒが赤い風呂敷包みのようなものを抱えて歩く悲痛な表情を正面からとらえた映像です。彼女が抱えているのは息子の遺骨でしょう。これは葬列なのでしょう。自転車を漕いでいく女。ピンクの扇を持って踊る女。凧のように鯉のぼりの鯉を揚げている光景。
ワンが結婚することになり、ワンの彼女がスンヒの美味しいキムチを披露宴用に大量に作って届けるよう注文します。
スンヒがキムチを漬ける準備をしています。土間には鼠の死骸。以前は息子チャンホに捨ててもらっていたのですが、いまはもうチャンホは居ないので、自分で始末しています。たらい一杯のキムチにスンヒが最後の「調味料」をふりかけ注いでいます。
ワンの結婚式が華やかに執り行われています。スンヒが会場へたらい一杯のキムチを抱えてやってきます。台所へ、と命じられるままに運び、キムチを置いて去ります。
チェ・スンヒの白いシャツの後ろ姿。カメラはその後ろ姿をずっと追っていきます。途中で、けたたましい音を立てて、何台もの救急車が彼女の行く反対の方向へ走り去ります。いましがたスンヒがキムチを置いてきたワンの結婚式場の方角へ。どうやらスンヒはあのキムチにネズミ捕りの猫いらずを大量に入れたようです。
カメラはそのままスンヒの背を追って荒野のような土地をずんずん進みます。彼女の足取りはふらふらしたものではなく、どこか確乎として力づよいとさえ感じられるものです。ズンズン歩く、ムシムシ歩く、とでも表現するのがふさわしい。駅らしい鉄道が幾本もあるところを踏み渡っていくので、鉄道自殺でもするのかと一瞬は思いますが、そんな足取りではない。
スンヒは線路を渡りきって屋根と扉のある駅舎らしいものを通り抜け、扉が開け放たれると、観客の、したがってスンヒの目の前に、突然パッと緑の畑の光景が広がります。そこでカット。これははじめて自分(たち)を追い詰めてきたすべての社会的しがらみから自分を解き放った彼女の前に開けた「希望」なのでしょうか。
中国の辺境に生きる、朝鮮族として、また重犯罪者の妻として二重に差別されて、一人息子とキムチの無許可販売だけを支えにほそぼそと命をつないでいるところへ、その美貌ゆえに様々な男たちが彼女に近づき、踏みしだいて、彼女を益々追い詰めていく中で、生きる最後の理由だった息子をも失い、それまで耐えてきたものが炸裂する、そのプロセスを淡々と、ワンシーン・ワンカットの長まわしのシンプルなカメラでとらえていきます。
そこには誰も理屈を言うものはいない。どんな主張を聴かせようという人もいない。ただ社会の最下層で一番弱い立場に置かれた一人の女に焦点をあてて、抑制のきいたカメラで、その日常をたんたんと追っていく。
なんでもないとるに足りない一人の女、ただいくらか美しい容貌をもつだけで、無許可とはいえ日々の糧を得るために最小限のものを売り、一日の労苦以外のことを思うゆとりもない、罪のない日常にも、情け容赦なく、生き死ににかかわるような嵐が吹き、大波が寄せ、厄災が降りかかる。
女の日常はなすすべもなく侵され、壊れていく。追い詰められ、彼女の人間としての力は最後に炸裂することでしか示されない。ほとんど救いのない絶望的な一人の庶民の生き死にの一幕を、実に丹念に、しかし妙な意味づけなく淡々とあるがままにとらえていくカメラ。そこに作り手の強い方法的意志を感じる作品です。
主人公は吉林省に住む若い朝鮮族の女で、どうやら夫が人殺しか何かして刑務所に入っているらしく、日本で言えば小学校3-4年生くらいの息子チャンホを女手一つで、もぐりのキムチ売りで生計を立てている女性。
私たちにはその社会的背景が分かりにくいけれど、中国の中でも北部の貧しい土地で、朝鮮族の女と言うのも珍しく、差別される存在であるようで、正常な営業許可も得られず、何人もの売春婦たちが住む住居に母子2人で暮らしています。ただ、この作品の主人公チュ・スンヒ(リュ・ヒョンヒ演じる)は貧しさにくすんでいるはいるけれど美しい。また男の子は可愛らしく、アパートの売春婦たちに可愛がられています。
彼女は毎日、自転車に大きな棚みたいな荷台にキムチの甕を積んで、営業許可を得ないまま路傍で売っていて、警官の取り締まりがあると逃げ出して場所を変えてまた同じことを繰り返すようなことをしています。
あるときキムチを買いにきた妻帯者の小太りの冴えない中年男キムが個人的な話をしかけ、はじめはキムチを買わせるように仕向けて拒むふうだったスンヒも彼の好意を受け容れ、愛人関係になります。息子のチャンホはそれに気づき、いやがって石を投げます。彼はどんどん荒野のほうへ歩き去っていきます。
この関係をよろしくないと諭し、自分が差配する(工場の?)食堂の納入業者にしてやろう、と言い寄るやや年輩の中年男も下心があって、見返りに当然のようにスンヒを抱こうとし、スンヒは拒否して飛び出します。
そんなとき、背が高く割りとカッコいい若い警官ワンがスンヒの美貌に惹かれて、営業許可がとれるよう手配してやろうと言い、スンヒがワンの紹介で役所へ行くと、係の女性事務員が親切に応対して無事営業許可がとれます。この係の女性はスンヒが朝鮮族だと知り、その伝統的な踊りを教えてほしいと言って、二人が躍る不思議な場面もあります。ここが唯一この作品の中で救いのような場面です。
しかしこの警官ワンも下心あっての「親切」で、当然のようにスンヒを抱きます。
さて、スンヒと冴えない中年男キムとの関係はズルズル続いていましたが、この関係は男キムの妻が知るところとなり、妻の身内の男たちに自宅である現場へ踏み込まれ、駆け付けた警察官たちにキムは愛人と認めず、スンヒを金で買った売春婦だと証言し、スンヒは売春の現行犯で警察の留置所に連行されます。
警察署内で昼間っから酒を飲んでいる警官たち。ワンは留置場に囚われたスンヒの所へ行き、手錠の片方の輪を自分の手首にかけて隣室へスンヒを連れて行き、当然のごとく彼女を犯します。その姿勢はそれ以外の男にもみられない、スンヒをただ自分の欲望を満たす道具としか扱わない酷薄なものです。
保釈されたスンヒにはまたもとのキムチ売りの毎日が待っています。ワンは婚約者を連れて何食わぬ顔でキムチを買いに来ます。婚約者は何もしらずスンヒのキムチを気に入っているようです。
家に戻ってくるスンヒ。自分の住まいの前に救急車が来て大勢の人々が集まっている場面。悪い予感に不安げな表情で人々をかきわけて走り寄るスンヒ。何の説明もないけれど、次のカットはスンヒが赤い風呂敷包みのようなものを抱えて歩く悲痛な表情を正面からとらえた映像です。彼女が抱えているのは息子の遺骨でしょう。これは葬列なのでしょう。自転車を漕いでいく女。ピンクの扇を持って踊る女。凧のように鯉のぼりの鯉を揚げている光景。
ワンが結婚することになり、ワンの彼女がスンヒの美味しいキムチを披露宴用に大量に作って届けるよう注文します。
スンヒがキムチを漬ける準備をしています。土間には鼠の死骸。以前は息子チャンホに捨ててもらっていたのですが、いまはもうチャンホは居ないので、自分で始末しています。たらい一杯のキムチにスンヒが最後の「調味料」をふりかけ注いでいます。
ワンの結婚式が華やかに執り行われています。スンヒが会場へたらい一杯のキムチを抱えてやってきます。台所へ、と命じられるままに運び、キムチを置いて去ります。
チェ・スンヒの白いシャツの後ろ姿。カメラはその後ろ姿をずっと追っていきます。途中で、けたたましい音を立てて、何台もの救急車が彼女の行く反対の方向へ走り去ります。いましがたスンヒがキムチを置いてきたワンの結婚式場の方角へ。どうやらスンヒはあのキムチにネズミ捕りの猫いらずを大量に入れたようです。
カメラはそのままスンヒの背を追って荒野のような土地をずんずん進みます。彼女の足取りはふらふらしたものではなく、どこか確乎として力づよいとさえ感じられるものです。ズンズン歩く、ムシムシ歩く、とでも表現するのがふさわしい。駅らしい鉄道が幾本もあるところを踏み渡っていくので、鉄道自殺でもするのかと一瞬は思いますが、そんな足取りではない。
スンヒは線路を渡りきって屋根と扉のある駅舎らしいものを通り抜け、扉が開け放たれると、観客の、したがってスンヒの目の前に、突然パッと緑の畑の光景が広がります。そこでカット。これははじめて自分(たち)を追い詰めてきたすべての社会的しがらみから自分を解き放った彼女の前に開けた「希望」なのでしょうか。
中国の辺境に生きる、朝鮮族として、また重犯罪者の妻として二重に差別されて、一人息子とキムチの無許可販売だけを支えにほそぼそと命をつないでいるところへ、その美貌ゆえに様々な男たちが彼女に近づき、踏みしだいて、彼女を益々追い詰めていく中で、生きる最後の理由だった息子をも失い、それまで耐えてきたものが炸裂する、そのプロセスを淡々と、ワンシーン・ワンカットの長まわしのシンプルなカメラでとらえていきます。
そこには誰も理屈を言うものはいない。どんな主張を聴かせようという人もいない。ただ社会の最下層で一番弱い立場に置かれた一人の女に焦点をあてて、抑制のきいたカメラで、その日常をたんたんと追っていく。
なんでもないとるに足りない一人の女、ただいくらか美しい容貌をもつだけで、無許可とはいえ日々の糧を得るために最小限のものを売り、一日の労苦以外のことを思うゆとりもない、罪のない日常にも、情け容赦なく、生き死ににかかわるような嵐が吹き、大波が寄せ、厄災が降りかかる。
女の日常はなすすべもなく侵され、壊れていく。追い詰められ、彼女の人間としての力は最後に炸裂することでしか示されない。ほとんど救いのない絶望的な一人の庶民の生き死にの一幕を、実に丹念に、しかし妙な意味づけなく淡々とあるがままにとらえていくカメラ。そこに作り手の強い方法的意志を感じる作品です。
saysei at 11:06|Permalink│Comments(0)│
2017年08月27日
ロウ・イエ「スプリング・フィーバー」
「二人の人魚」を1週間くらい前に観て、ビデオ屋でロウ・イエを探して、ようやくみつけた1本がこれでした。天安門を描いて製作禁止をくらった監督が、ひそかに撮った作品らしい。
しょっぱなからちょっと度肝を抜かれるような映画でした(笑)。邦題が「スプリング・フィーバー」だから、春がきて、熱病に浮かされるようにフィーバーしちゃうような映画かと誤解して見始めたら、手振れのひどい手持ちカメラみたいなので撮った映像で、暴風雨の中、2人の若い男が車を走らせて、途中で車を停めて連れションしてふざけたりして、なんだ?と思っていたら、また車に乗って行って林の中に車を停め、小屋みたいなところに入って行った。・・・
何が起きるのか、と思う間もなく二人は衣服をかなぐり捨て、生まれたままの姿になって熱烈に抱き合い濃厚な接吻をして・・・おいおい!(笑)
これはもう今の中国では、こっそり撮影するしかない作品でしょう。冒頭の場面だけでなく、この二人を隠し撮りしている探偵の男、その探偵を雇っているゲイの男性のうちの一人である夫の妻、探偵の彼女・・・といった登場人物の間で、もう説明するのもややこしい男―男、男―女の入り乱れた関係が展開されていきます。
何と言いましょうか、共産党の主導する中国といたしましては誠に不埒千万な資本主義的頽廃に満ちた映画であります。冒頭のジャン・チョンとワン・ピンの熱烈な関係がワン・ピンの妻にばれて、二人の関係に亀裂が入り、チョンはワン・ピンから去って行く。チョンはゲイの世界では名の知れた人気者だったのですね。南京のゲイバーで女装のゲイとして歌い、踊り、喝采を浴びる。でもワン・ピンとのことで気が晴れず、なんとワン・ピンの妻の依頼で二人を尾行していた探偵のルオ・ハイタオと新たな関係を持つことになります。そのハイタオもまた不思議な男で、縫製工場に勤める若い女工リー・ジンを彼女に持ちながら、チョンと交わる両刀使い(笑)。
まぁそういう男女を問わないくっついては離れるドロドロした関係が極めてクラスター係数の高い狭い人間関係の中で展開されるわけで、それがゲイバーの雰囲気なんかと一体になって、頽廃的な空気を実感させてくれます。これはもう愛や恋やセックスを描いた作品というより、それもこれも入り乱れて混濁した資本主義的社会主義の大都市の頽廃の海で溺れ、あえいでいる、言ってみれば官能的苦痛に満ちた世界とでも言いましょうか・・・どんなに濃厚な接吻をし、裸身を絡ませていても、なんだか楽しそうでも心地よさそうでもなく、声にならない悲鳴というのか、苦痛の呻きなり哀しみの嗚咽のようなものしか聞こえてこない世界なんですね。
スプリング・フィーバーはもちろん冒頭に書いたような、歌ったり踊ったりの「春の熱狂」なんかではなく、誰かが書いていたような「春の嵐」でもなく、このフィーバーは病気でしょう。「spring fever」には「春の物憂さ」くらいの意味もあるから、熱病とまでいかずとも、そういう鬱々とした、ものうい空気を表現する言葉でしょう。ただし、原題は「春風沈酔的晩上」だそうで、中国語は読めないけれど、漢字の印象で見ると、こっちのほうが「スプリング・フィーバー」よりずっといいですね。
この作品には「春風沈酔の夜」という原作があるようで、ユイ・ダーフ(郁達)という中国では有名な作家の作品だそうです。「こんなやるせなく春風に酔うような夜は 私はいつも明け方まで方々歩きまわるのだった」なんて一節があるそうですから、ますます「春の物憂さ」くらいのほうが適訳かもしれません。
いずれにせよ、私はこの手の作品は苦手です(笑)。
しょっぱなからちょっと度肝を抜かれるような映画でした(笑)。邦題が「スプリング・フィーバー」だから、春がきて、熱病に浮かされるようにフィーバーしちゃうような映画かと誤解して見始めたら、手振れのひどい手持ちカメラみたいなので撮った映像で、暴風雨の中、2人の若い男が車を走らせて、途中で車を停めて連れションしてふざけたりして、なんだ?と思っていたら、また車に乗って行って林の中に車を停め、小屋みたいなところに入って行った。・・・
何が起きるのか、と思う間もなく二人は衣服をかなぐり捨て、生まれたままの姿になって熱烈に抱き合い濃厚な接吻をして・・・おいおい!(笑)
これはもう今の中国では、こっそり撮影するしかない作品でしょう。冒頭の場面だけでなく、この二人を隠し撮りしている探偵の男、その探偵を雇っているゲイの男性のうちの一人である夫の妻、探偵の彼女・・・といった登場人物の間で、もう説明するのもややこしい男―男、男―女の入り乱れた関係が展開されていきます。
何と言いましょうか、共産党の主導する中国といたしましては誠に不埒千万な資本主義的頽廃に満ちた映画であります。冒頭のジャン・チョンとワン・ピンの熱烈な関係がワン・ピンの妻にばれて、二人の関係に亀裂が入り、チョンはワン・ピンから去って行く。チョンはゲイの世界では名の知れた人気者だったのですね。南京のゲイバーで女装のゲイとして歌い、踊り、喝采を浴びる。でもワン・ピンとのことで気が晴れず、なんとワン・ピンの妻の依頼で二人を尾行していた探偵のルオ・ハイタオと新たな関係を持つことになります。そのハイタオもまた不思議な男で、縫製工場に勤める若い女工リー・ジンを彼女に持ちながら、チョンと交わる両刀使い(笑)。
まぁそういう男女を問わないくっついては離れるドロドロした関係が極めてクラスター係数の高い狭い人間関係の中で展開されるわけで、それがゲイバーの雰囲気なんかと一体になって、頽廃的な空気を実感させてくれます。これはもう愛や恋やセックスを描いた作品というより、それもこれも入り乱れて混濁した資本主義的社会主義の大都市の頽廃の海で溺れ、あえいでいる、言ってみれば官能的苦痛に満ちた世界とでも言いましょうか・・・どんなに濃厚な接吻をし、裸身を絡ませていても、なんだか楽しそうでも心地よさそうでもなく、声にならない悲鳴というのか、苦痛の呻きなり哀しみの嗚咽のようなものしか聞こえてこない世界なんですね。
スプリング・フィーバーはもちろん冒頭に書いたような、歌ったり踊ったりの「春の熱狂」なんかではなく、誰かが書いていたような「春の嵐」でもなく、このフィーバーは病気でしょう。「spring fever」には「春の物憂さ」くらいの意味もあるから、熱病とまでいかずとも、そういう鬱々とした、ものうい空気を表現する言葉でしょう。ただし、原題は「春風沈酔的晩上」だそうで、中国語は読めないけれど、漢字の印象で見ると、こっちのほうが「スプリング・フィーバー」よりずっといいですね。
この作品には「春風沈酔の夜」という原作があるようで、ユイ・ダーフ(郁達)という中国では有名な作家の作品だそうです。「こんなやるせなく春風に酔うような夜は 私はいつも明け方まで方々歩きまわるのだった」なんて一節があるそうですから、ますます「春の物憂さ」くらいのほうが適訳かもしれません。
いずれにせよ、私はこの手の作品は苦手です(笑)。
saysei at 00:25|Permalink│Comments(0)│
2017年08月26日
ロウ・イエ「ふたりの人魚」
この作品を見て、ロウ・イエという1965年生まれらしい中国の上海に生まれた映画監督を知らなかったのは不覚だった、という気がしました。本やビデオを仕舞支度で整理していたら、買った覚えのないVHSビデオが出てきて、カバーを見ると金髪に染めたアジア人らしい若い女性が脚に人魚の尻尾みたいなのをくっつけて泳いでいるような写真で、そういう風体をさせて男性客を集めるようなちょっといかがわしい店の風俗嬢だろうと一目で分かるようなものだったため、コレクションの中にAVでもまざっていたのかしら、買った覚えはないけどなぁ・・・息子が置いて行ったのか(笑)などと思いながら、団地のフリマに出すのも気が引けるし、一度見てから廃棄しようか、と初めて見ることになった次第。
見ると見ないで大違い。この作品は実に真面目な、独特の方法で悲痛な愛を描く佳品でありました。ネットでロウ・イエを検索してみると、天安門事件を描いた2006年の「天安門、恋人たち」が中国で上映禁止になり、当局に今後5年間の国内での映画製作禁止を命じられた監督だそうです。(ウィキペディアより)
ドキュメンタリーの「天安門」という映画は見たことがありますが、フィクショナルな映画作品で中国人が天安門を扱った映画を作っているとは驚き・・・ぜひまた機会があれば見てみたいですが、とりあえず手元の「ふたりの人魚」を見ることに。
この作品はまず語り口に特徴があります。姿かたちでは登場しないビデオ撮影を仕事にしている「ぼく」が語っていくことで物語が進行していきます。作品の冒頭で彼が撮っているのは、バーのような店で人魚の尾ひれをつけ水中人魚ショーを演じる金髪のメイメイという女性で、この語り手とメイメイは一緒に住んでいて、「私がいなくなったら、マーダーのように私を探してくれる?・・・死ぬまで探してくれる?」みたいなセリフ(このセリフは最後にも繰り返されます)をメイメイが言います。
これはラストにつながる序章で、物語はここから始まります。マーダーというのはこの物語の主人公の若い男。バイクで宅配便みたいなのを届ける仕事をしています。彼はあるとき可愛らしいムータンというメイメイにそっくりの女の子(ジョウ・シュンの二役)をバイクに乗せて、親が浮気でこの子が邪魔な間、おばさんの家に連れて行く仕事をしたのをきっかけに、何回かバイクに乗せてやるうち、仲良くなります。でも彼女の方が彼に気持ちを寄せても、マーダーのほうは孤独を囲って、どちらかと言えば冷淡にあしらっています。
そればかりか、彼が別れたモトカノと悪い男と3人で組んで、このムータンを誘拐して父親から身代金を奪う計画に加担して、ムータンを幽閉します。誘拐劇自体は仲間割れもあって破綻し、マーダーはムータンを解き放ちますが、ムータンは自分が誘拐されたことよりも自分の身代金がいくらなのかに関心があってマーダーに詰問し、45万元と知ると、「私の価値はそんなに低いの!」と叫んで走り出し、追うマーダーのみる前で、この河の人魚になると言い残して蘇州河に飛び込んでしまいます。
刑期を終えて上海に戻ってきたマーダーは、毎日ムータンを探し求めます。その中で彼は水中人魚ショーに出演しているメイメイに出逢い、彼女が何と言ってもメイメイをムータンだと硬く信じ込んで、つきまといます。メイメイは最初は迷惑がって拒むけれど、何度もマーダーからムータンの話を聞かされて心動かされ、彼氏である語り手の「ぼく」に対して冒頭のように、「私がいなくなったら、本当にマーダーのように私を探しにきてくれる?死ぬまで探してくれる?」と言うのです。「ぼく」は「あぁ(探すよ)」と答えるのですが、メイメイは「うそ!」と決めつけ、出て行ってしまいます。
一方マーダーは、メイメイを雇っていたバーの経営者の手の者に痛い目にあわされる受難を経て、やっぱりメイメイはメイメイであって、ムータンではないことを悟らざるをえなくなります。それでもマーダーはなおムータンを探し求めて街を彷徨い、ついに、或るコンビニで働くムータンに出逢います。でもそれでめでたし、めでたし、で終わらない。やがて蘇州河から引き揚げられる二人の遺体。二人の死を知って、メイメイはマーダーの話が作り話ではなく、本当に自分とそっくりのムータンという女性がいたのだということ、マーダーの愛の深さを理解するのです。
そうして物語は冒頭のメイメイの「ぼく」への問いに還って行く。「もし私がいなくなったら、マーダーのように私を探してくれる?死ぬまで探してくれる?」
現代のようなすれっからしの時代に純愛を描くということは、とても難しいでしょう。一ひねりもふたひねりもないと、嘘くさくて歯が浮くような話にしかならないでしょう。この作品はある意味で現実離れした奇妙奇天烈な設定とよく考えられた特異な語り口で、その難事に挑戦し、なんとか成功していると思います。少なくとも私は好きな作品で、ロウ・イエの作品はもっと見たい、と思いました。
ついでに言っておくと、このメイメイとムータンの二役をやった人魚のお嬢さん、ジョウ・シュン(周迅)という主演女優は、いわゆる美人というのではないけれど、めちゃくちゃ魅力的な女優さんです。
あともう一つだけ。邦題は「ふたりの人魚」で、メルヘンチックなタイトル、あるいはAV的タイトル?(笑)ですが、私は原題の「蘇州河」のほうがずっといいと思います。
見ると見ないで大違い。この作品は実に真面目な、独特の方法で悲痛な愛を描く佳品でありました。ネットでロウ・イエを検索してみると、天安門事件を描いた2006年の「天安門、恋人たち」が中国で上映禁止になり、当局に今後5年間の国内での映画製作禁止を命じられた監督だそうです。(ウィキペディアより)
ドキュメンタリーの「天安門」という映画は見たことがありますが、フィクショナルな映画作品で中国人が天安門を扱った映画を作っているとは驚き・・・ぜひまた機会があれば見てみたいですが、とりあえず手元の「ふたりの人魚」を見ることに。
この作品はまず語り口に特徴があります。姿かたちでは登場しないビデオ撮影を仕事にしている「ぼく」が語っていくことで物語が進行していきます。作品の冒頭で彼が撮っているのは、バーのような店で人魚の尾ひれをつけ水中人魚ショーを演じる金髪のメイメイという女性で、この語り手とメイメイは一緒に住んでいて、「私がいなくなったら、マーダーのように私を探してくれる?・・・死ぬまで探してくれる?」みたいなセリフ(このセリフは最後にも繰り返されます)をメイメイが言います。
これはラストにつながる序章で、物語はここから始まります。マーダーというのはこの物語の主人公の若い男。バイクで宅配便みたいなのを届ける仕事をしています。彼はあるとき可愛らしいムータンというメイメイにそっくりの女の子(ジョウ・シュンの二役)をバイクに乗せて、親が浮気でこの子が邪魔な間、おばさんの家に連れて行く仕事をしたのをきっかけに、何回かバイクに乗せてやるうち、仲良くなります。でも彼女の方が彼に気持ちを寄せても、マーダーのほうは孤独を囲って、どちらかと言えば冷淡にあしらっています。
そればかりか、彼が別れたモトカノと悪い男と3人で組んで、このムータンを誘拐して父親から身代金を奪う計画に加担して、ムータンを幽閉します。誘拐劇自体は仲間割れもあって破綻し、マーダーはムータンを解き放ちますが、ムータンは自分が誘拐されたことよりも自分の身代金がいくらなのかに関心があってマーダーに詰問し、45万元と知ると、「私の価値はそんなに低いの!」と叫んで走り出し、追うマーダーのみる前で、この河の人魚になると言い残して蘇州河に飛び込んでしまいます。
刑期を終えて上海に戻ってきたマーダーは、毎日ムータンを探し求めます。その中で彼は水中人魚ショーに出演しているメイメイに出逢い、彼女が何と言ってもメイメイをムータンだと硬く信じ込んで、つきまといます。メイメイは最初は迷惑がって拒むけれど、何度もマーダーからムータンの話を聞かされて心動かされ、彼氏である語り手の「ぼく」に対して冒頭のように、「私がいなくなったら、本当にマーダーのように私を探しにきてくれる?死ぬまで探してくれる?」と言うのです。「ぼく」は「あぁ(探すよ)」と答えるのですが、メイメイは「うそ!」と決めつけ、出て行ってしまいます。
一方マーダーは、メイメイを雇っていたバーの経営者の手の者に痛い目にあわされる受難を経て、やっぱりメイメイはメイメイであって、ムータンではないことを悟らざるをえなくなります。それでもマーダーはなおムータンを探し求めて街を彷徨い、ついに、或るコンビニで働くムータンに出逢います。でもそれでめでたし、めでたし、で終わらない。やがて蘇州河から引き揚げられる二人の遺体。二人の死を知って、メイメイはマーダーの話が作り話ではなく、本当に自分とそっくりのムータンという女性がいたのだということ、マーダーの愛の深さを理解するのです。
そうして物語は冒頭のメイメイの「ぼく」への問いに還って行く。「もし私がいなくなったら、マーダーのように私を探してくれる?死ぬまで探してくれる?」
現代のようなすれっからしの時代に純愛を描くということは、とても難しいでしょう。一ひねりもふたひねりもないと、嘘くさくて歯が浮くような話にしかならないでしょう。この作品はある意味で現実離れした奇妙奇天烈な設定とよく考えられた特異な語り口で、その難事に挑戦し、なんとか成功していると思います。少なくとも私は好きな作品で、ロウ・イエの作品はもっと見たい、と思いました。
ついでに言っておくと、このメイメイとムータンの二役をやった人魚のお嬢さん、ジョウ・シュン(周迅)という主演女優は、いわゆる美人というのではないけれど、めちゃくちゃ魅力的な女優さんです。
あともう一つだけ。邦題は「ふたりの人魚」で、メルヘンチックなタイトル、あるいはAV的タイトル?(笑)ですが、私は原題の「蘇州河」のほうがずっといいと思います。
saysei at 23:29|Permalink│Comments(0)│