2017年07月
2017年07月14日
"Into the Wild"
実際に起きた事件を追究したノンフィクション作品を、俳優のショーン・ペンがどうしても映画化したくて長い年月かけて映画化権を獲得したという作品。映画の邦題も原題のままカタカナで表記したようです。
裕福な家庭に生まれ、大学も優秀な成績で卒業した青年が、学資預金の何万ドルかをすべて寄付して、家族に行方を言わず、一人アラスカへ向かう旅に出て、北へ北へとヒッチハイクで目指す途中で、様々な人々に出逢う、そしてアラスカの山の中に打ち捨てられた廃バスで暮らすものの、そんな野生の生活の知恵もスキルもない都会育ちの青年には生きられるはずもなく、町へ帰ろうとしても融けた氷で増水した川に妨げられ、荒ぶる自然の中に閉じ込められ、彼自身の言葉では「野生の罠に落ちた」状態で、毒とも知らず野草を食べ、衰弱し、「幸福が現実なるのはそれを誰かと分かち合った時だ」と本に書き込んで、涙を流しながら死んでいきます。
こんな青年のとった行動を聴けば、当然、なぜ?という問いがいくつも生まれてきます。物質的には不自由のないエリートの、大学を出たばかりの、これから世の中へ出ていくべき青年が、なぜ全てを捨ててアラスカなどへ行こうとするのか。それは映画でバスの中に閉じ込められて暮らす彼の映像から、繰り返しフラッシュバックで過去の映像が現れ、妹の口から兄の様子が語られるところから、いちおうの理由は誰にも分かるようになっています。
両親は物質的には彼やその妹に十分なものを与えてきたけれども、家族はその成り立ちから破綻していた。父親は別のところに正妻とその子から成る家族を持っていて、この作品の主人公クリストファー・マッキャンドレレスの母親は男の身勝手な欲求のままに擬似家族を営んできた愛人に過ぎず、クリストファーたちはそんな愛人の子であることを物心ついてから知ることになります。両親はモノは与えても、親としての愛を注いでくれたことはない、というのが彼の強い思いでした。
こうした彼にとって、親、結局のところ父親が与えるものはすべて拒否すべきものにほかならず、進学への期待と経済的支援を拒否し、また学資預金を全額寄付してしまい、所持した紙幣さえ燃やしてしまい、家族への一切の連絡を断って旅立つのは、親の影響圏を離脱して自立へ向かう当然の行動という面を持っています。
どんな人間も青年期になれば、多かれ少なかれそうした心的体験を経ていくものですから、それ自体は理解できなくはありません。クリストファーの場合、両親のありようが子供にとって不幸な事情を孕んでいたことから、彼の親への反発が通常のありふれた青年たちよりもはるかに徹底した決定的拒絶となって表れていると考えればいいのでしょう。
それに、もともと彼は読書好きの内向的な青年で、社交性はあるけれども、街の喧騒の中で逞しく生き抜くよりも、自然に、野性に憧れを持つロマンチックなキャラの持ち主であることも、アラスカへの旅を思い立つ一つの要素になっているでしょう。
北へ、ひたすら北へ、という彼の志向性については、私にもいくらか心当たりがあって、共感できるところがあります。ちょうど彼と同じ年ごろに1人でヨーロッパを放浪していたころ、一旦はロンドンの安宿に居を構えて学校に通う日常に泥んでいたものの、いたたまれないような気持に急かされて、またヨーロッパ中を放浪するような旅に出かけ、ヒッチハイクで北を目指していたときのことを昨日のように思い起こします。
クリストファーのような家庭事情を抱えていたわけでもなく、特別な不幸を背負っていたわけでも何でもないけれど、日本にいて、ちょうど「ことごとに負けゆくわれの後方より熱きてのひらのごとき夕映え」(柏原千恵子)といった歌が身に染みるような、全てが終わったという絶望感と孤独を抱いて、異国へ何のあてもなくやってきて放浪する身は、なぜか本能のように「北へ、北へ」と自分を急かすものがあって、それは南でも東でも西でもなく、北でなければならず、ロバニエミからさらに北へ、ヒッチハイクで便乗したドイツ人の車で野生のトナカイに出逢う白樺林のラップランドを抜けて、北のどんつき、ノースケープまで行かずにはいられなかった、あのときの気持ちはいまもうまくは説明できそうにないけれど、クリストファーに共感を覚えるところでした。
このビデオが棚に並んでいる中で目につき、何不自由なく大学を出たばかりの青年が家族にも告げずに謎の失踪を遂げて、一人アラスカへ旅に出て、やがて遺体で発見されたという現実の事件をもとにした映画という、帯のキャッチフレーズを見て、これはレンタルビデオ店の棚で忘れられた古い作品だけれど自分は見ないわけにはいかない作品だろうな、と直観して借りてきたのでした。
けれどもクリストファーは北の荒野でひとり生きるには、余りに無謀すぎますよね。彼はこの映画を見る限り、死を覚悟して、あるいは死ぬために北をめざしたわけではないでしょう。危険を顧みることはしなかったけれど、北の荒野で生きようとしたはずです。
でも食用と毒性のある植物を見分ける知識も持たず、狩の獲物の肉の処理についてのスキルも知識も持たず、地形を読み、気象を読み、ごく近い将来何が起きるかを予測する程度の知恵も想像力も持たない。ただ一丁のライフルとナイフを頼りに、また偶然出会う人々の善意を当てにして旅するだけのシティ・ボーイ。
たしかに彼は街に戻ってももう居場所がない自分を悟るのではあるけれど、かといって初めから自然に生き、野生を逞しく自足的に生きる人々のような強さも知恵もスキルも持っていない。ただ彼にとって不幸な現実からの逃避あるいはその積極的な拒絶が、書物から得たロマンチックな自然や野生への憧憬と硬く結びついて、彼の異様な行動を支えているだけです。彼の読む本は、ジャック・ロンドンにしろトルストイ(「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」ではないのです)にしろ、ロマンチシズムを掻き立てる作品に偏っているような気がしますがどうでしょう。冒頭のエピグラムもバイロンでしたから・・・
私のようにひどく観念的で、或る意味ではクリストファーよりずっと世間知らずのロマンチストだった若者でも、いま懐にいくら金が残っていて、あと3カ月北国で過ごすにはいくら必要か、もしここでヒッチハイクができなければ、どうなるか、食料はいまリュックにあるもので、この数日万一の場合にもつかどうか、そういった「計算」はしたものです。
彼は善意のシティ・ボーイですから、途中で出会う人々には愛されます。彼は自然の中で生きる人々やこの世界の周縁部に居るとみなされているような人たちを、大都市の市場社会の最前線で生きている人々のように見下したり、変人扱いせずに対等の人間として付き合うから、自ずと受け入れられます。しかも、決して彼らと同じ種類の人間ではなく、やっぱり都会にしか生きられないシティ・ボーイなので、その異質さ、シティボーイらしい洗練されたやさしさ、繊細さは、自然に生きる人たちや世界の周縁部に生きる人々から愛されます。逆に彼のほうが刺激を与えたりもします。
だから、この作品の救いは、つまりこの映画の一番美しい見どころは、言うまでもなくそんな彼の旅の途中で偶然に出会う、そこで生きる人たちとの交流の場面です。クリストファーが出会うことによって、一瞬、クリストファーとは異質であるがゆえに、彼と触れ合い、ある妙なる音を発し、輝くような色を帯びて浮かびあがります。彼らの自然の中での生き様が美しい光景として映し出されます。
ただ、彼らと交わるクリストファーは、ほとんど最初から最後まで変わるところがないように見えます。せっかく素晴らしい多様な人々と出会い、持ち前の人の良い人懐っこいキャラで受け入れられ、愛される彼なのに、彼自身は自分の殻を硬く守って、自らを変えようとするところが見えてきません。いろんな人に出会って、青年がその柔らかな心を動かされ、新たなものを見出し、自分を振り返り、自ら変わっていく、という物語ではないのです。
最後の最後に上述のような幸せについての言葉を書き付けて死んでいくので、彼は死に臨んでそんなことに気づいたのかもしれませんが、それは彼が生きる条件を失った後で、すでに遅すぎたのです。
裕福な家庭に生まれ、大学も優秀な成績で卒業した青年が、学資預金の何万ドルかをすべて寄付して、家族に行方を言わず、一人アラスカへ向かう旅に出て、北へ北へとヒッチハイクで目指す途中で、様々な人々に出逢う、そしてアラスカの山の中に打ち捨てられた廃バスで暮らすものの、そんな野生の生活の知恵もスキルもない都会育ちの青年には生きられるはずもなく、町へ帰ろうとしても融けた氷で増水した川に妨げられ、荒ぶる自然の中に閉じ込められ、彼自身の言葉では「野生の罠に落ちた」状態で、毒とも知らず野草を食べ、衰弱し、「幸福が現実なるのはそれを誰かと分かち合った時だ」と本に書き込んで、涙を流しながら死んでいきます。
こんな青年のとった行動を聴けば、当然、なぜ?という問いがいくつも生まれてきます。物質的には不自由のないエリートの、大学を出たばかりの、これから世の中へ出ていくべき青年が、なぜ全てを捨ててアラスカなどへ行こうとするのか。それは映画でバスの中に閉じ込められて暮らす彼の映像から、繰り返しフラッシュバックで過去の映像が現れ、妹の口から兄の様子が語られるところから、いちおうの理由は誰にも分かるようになっています。
両親は物質的には彼やその妹に十分なものを与えてきたけれども、家族はその成り立ちから破綻していた。父親は別のところに正妻とその子から成る家族を持っていて、この作品の主人公クリストファー・マッキャンドレレスの母親は男の身勝手な欲求のままに擬似家族を営んできた愛人に過ぎず、クリストファーたちはそんな愛人の子であることを物心ついてから知ることになります。両親はモノは与えても、親としての愛を注いでくれたことはない、というのが彼の強い思いでした。
こうした彼にとって、親、結局のところ父親が与えるものはすべて拒否すべきものにほかならず、進学への期待と経済的支援を拒否し、また学資預金を全額寄付してしまい、所持した紙幣さえ燃やしてしまい、家族への一切の連絡を断って旅立つのは、親の影響圏を離脱して自立へ向かう当然の行動という面を持っています。
どんな人間も青年期になれば、多かれ少なかれそうした心的体験を経ていくものですから、それ自体は理解できなくはありません。クリストファーの場合、両親のありようが子供にとって不幸な事情を孕んでいたことから、彼の親への反発が通常のありふれた青年たちよりもはるかに徹底した決定的拒絶となって表れていると考えればいいのでしょう。
それに、もともと彼は読書好きの内向的な青年で、社交性はあるけれども、街の喧騒の中で逞しく生き抜くよりも、自然に、野性に憧れを持つロマンチックなキャラの持ち主であることも、アラスカへの旅を思い立つ一つの要素になっているでしょう。
北へ、ひたすら北へ、という彼の志向性については、私にもいくらか心当たりがあって、共感できるところがあります。ちょうど彼と同じ年ごろに1人でヨーロッパを放浪していたころ、一旦はロンドンの安宿に居を構えて学校に通う日常に泥んでいたものの、いたたまれないような気持に急かされて、またヨーロッパ中を放浪するような旅に出かけ、ヒッチハイクで北を目指していたときのことを昨日のように思い起こします。
クリストファーのような家庭事情を抱えていたわけでもなく、特別な不幸を背負っていたわけでも何でもないけれど、日本にいて、ちょうど「ことごとに負けゆくわれの後方より熱きてのひらのごとき夕映え」(柏原千恵子)といった歌が身に染みるような、全てが終わったという絶望感と孤独を抱いて、異国へ何のあてもなくやってきて放浪する身は、なぜか本能のように「北へ、北へ」と自分を急かすものがあって、それは南でも東でも西でもなく、北でなければならず、ロバニエミからさらに北へ、ヒッチハイクで便乗したドイツ人の車で野生のトナカイに出逢う白樺林のラップランドを抜けて、北のどんつき、ノースケープまで行かずにはいられなかった、あのときの気持ちはいまもうまくは説明できそうにないけれど、クリストファーに共感を覚えるところでした。
このビデオが棚に並んでいる中で目につき、何不自由なく大学を出たばかりの青年が家族にも告げずに謎の失踪を遂げて、一人アラスカへ旅に出て、やがて遺体で発見されたという現実の事件をもとにした映画という、帯のキャッチフレーズを見て、これはレンタルビデオ店の棚で忘れられた古い作品だけれど自分は見ないわけにはいかない作品だろうな、と直観して借りてきたのでした。
けれどもクリストファーは北の荒野でひとり生きるには、余りに無謀すぎますよね。彼はこの映画を見る限り、死を覚悟して、あるいは死ぬために北をめざしたわけではないでしょう。危険を顧みることはしなかったけれど、北の荒野で生きようとしたはずです。
でも食用と毒性のある植物を見分ける知識も持たず、狩の獲物の肉の処理についてのスキルも知識も持たず、地形を読み、気象を読み、ごく近い将来何が起きるかを予測する程度の知恵も想像力も持たない。ただ一丁のライフルとナイフを頼りに、また偶然出会う人々の善意を当てにして旅するだけのシティ・ボーイ。
たしかに彼は街に戻ってももう居場所がない自分を悟るのではあるけれど、かといって初めから自然に生き、野生を逞しく自足的に生きる人々のような強さも知恵もスキルも持っていない。ただ彼にとって不幸な現実からの逃避あるいはその積極的な拒絶が、書物から得たロマンチックな自然や野生への憧憬と硬く結びついて、彼の異様な行動を支えているだけです。彼の読む本は、ジャック・ロンドンにしろトルストイ(「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」ではないのです)にしろ、ロマンチシズムを掻き立てる作品に偏っているような気がしますがどうでしょう。冒頭のエピグラムもバイロンでしたから・・・
私のようにひどく観念的で、或る意味ではクリストファーよりずっと世間知らずのロマンチストだった若者でも、いま懐にいくら金が残っていて、あと3カ月北国で過ごすにはいくら必要か、もしここでヒッチハイクができなければ、どうなるか、食料はいまリュックにあるもので、この数日万一の場合にもつかどうか、そういった「計算」はしたものです。
彼は善意のシティ・ボーイですから、途中で出会う人々には愛されます。彼は自然の中で生きる人々やこの世界の周縁部に居るとみなされているような人たちを、大都市の市場社会の最前線で生きている人々のように見下したり、変人扱いせずに対等の人間として付き合うから、自ずと受け入れられます。しかも、決して彼らと同じ種類の人間ではなく、やっぱり都会にしか生きられないシティ・ボーイなので、その異質さ、シティボーイらしい洗練されたやさしさ、繊細さは、自然に生きる人たちや世界の周縁部に生きる人々から愛されます。逆に彼のほうが刺激を与えたりもします。
だから、この作品の救いは、つまりこの映画の一番美しい見どころは、言うまでもなくそんな彼の旅の途中で偶然に出会う、そこで生きる人たちとの交流の場面です。クリストファーが出会うことによって、一瞬、クリストファーとは異質であるがゆえに、彼と触れ合い、ある妙なる音を発し、輝くような色を帯びて浮かびあがります。彼らの自然の中での生き様が美しい光景として映し出されます。
ただ、彼らと交わるクリストファーは、ほとんど最初から最後まで変わるところがないように見えます。せっかく素晴らしい多様な人々と出会い、持ち前の人の良い人懐っこいキャラで受け入れられ、愛される彼なのに、彼自身は自分の殻を硬く守って、自らを変えようとするところが見えてきません。いろんな人に出会って、青年がその柔らかな心を動かされ、新たなものを見出し、自分を振り返り、自ら変わっていく、という物語ではないのです。
最後の最後に上述のような幸せについての言葉を書き付けて死んでいくので、彼は死に臨んでそんなことに気づいたのかもしれませんが、それは彼が生きる条件を失った後で、すでに遅すぎたのです。
saysei at 15:53|Permalink│Comments(0)│
2017年07月13日
キム・ギドク監督「弓」
2006年の作品です。この作品は今回初めて観ました(たぶん・・・笑)。
製作年度をシャッフルしたみたいに恣意的に観ているので、監督がどんな作品からどういう道筋を経て最近の作品に至ったか、というようなことは全然考えることもできず、見てすぐに忘れないうちにメモがわりにいきなりブログに思い付きで書いているので、映画の観方としては見当はずれなものが多いかもしれません。
さてこの「弓」の主役はハン・ヨルムという女優さんで、老人にボロボロの釣り船に10年間囲われている少女の役。彼女は私が感動した「サマリア」で窓から飛び降りて死ぬ女子高生役だった女優さんのようです。あの作品での演技も素晴らしかったけれど、この作品で彼女はその魅力を最大限に発揮してくれます。
彼女は言ってみれば神に仕える巫女のような存在ですが、それにしては(あるいは、だからこそ、というべきか)ものすごく色っぽい(笑)。釣り客に送る流し目や、重要な役どころになる青年に送る視線は、ときに無邪気な少女そのままでありながら、ときに少女とは思えないまことに艶な表情で、これで男が気を惹かれてはならぬ、と老人に矢を飛ばされてはたまらない(笑)。
タブーだからこそ、魅力がいや増しに増す、というところもあるでしょう。女性でありながら触れることを禁じられた、そのような存在というのは、神の花嫁にほかならないでしょう。でもそのことはずっと伏せられているので、老人が世間の男たちとはまるで違った行動原理を持っているらしいことは分るので、単なる変態的異常者でないだろうとは思っても、青年らの見る通り、自分の身勝手な欲望なり空想なりによって娘の人生を支配し、これを奪い続けている許しがたい存在にしか見えません。
老人自身と老人と少女との関係が浄化されるのは最後の最後で、他者としての青年の介入によって、少女の幸せが自分を離れて青年と共に船を出ていく選択にあることを自身の弓占いで知った老人が、二人が小舟で去るのを容認しながら、自死を図り、それに気づいた少女が引き返して老人のもとにとどまり、老人が望んでいたとおりの結婚式を挙げて小舟で出て行き、初夜の作法通りに振る舞う中で、老人は弓とも楽器ともなるその胡で美しく優しい曲を奏で、白衣の少女がうっとりと目を閉じて寝衣に横たわって眠るのを見て、老人は天に向けて矢を放ち、矢は蒼穹に消えていきます。老人は船の舳先に立ち、入水します。
小舟は青年の留まる船のところに還り、小舟に横たわる少女を見て小舟に移る。少女は眠ったまま、神と交わるごとき肢体の動きを見せ、呻き声を挙げ、青年が驚いて少女を揺り動かしたとき、天から戻ってきた矢が少女の下腹に広がる白衣の裾に突き刺さり、初夜の儀式の後のごとく白衣は血で染まります。
この韓国式の結婚衣装とフォーマルな結婚式の模様は、とても興味深いし、美しいシーンでもあり、そこからこの矢が舟底に突き刺さるまでのシーンは明らかに神と巫女、神の花嫁としての少女との交わりを象徴的に示す映像で、老人は身を投げることで浄化され、神になる、と考えてもあながち見当違いとは言えないでしょう。
そこから振り返れば、一貫して伏線が張ってあり、弓は武器として少女に近づいて聖なるものを世俗の手で汚そうとする者を厳しく退け、少女を守る神の鉄槌でもあり、同時にそれは楽器としてこの世のものとも思われない純粋で深く優しい浄土の音楽のような楽曲を奏でる愛の小道具でもあります。世俗の目から見れば老人の少女への想いは、邪まな老人の身勝手な欲望にすぎませんが、そうした世俗の目では理解不能な、神の世界に属する至高の愛だと、この作品は言いたげです。
そういう解釈は容易だし、作り手の方も、そういう方向で観てほしいというヒントを次々繰り出しています。でも、私はこの映画は監督が意識しているかどうかは分からないけれど、真に背徳的な作品だと思います。それはこの老人と少女の世界を寓話として読むなら、作り手がそう読ませたがっている神の花嫁の寓話ではなく、そいつを地上へ引きずりおろしたときに見える、インセストの寓話として二重に読むべきではないかと思うからです。
もちろんストーリーの設定としては、この船を訪れる客の釣り人たちが何度か訊くように、この老人は少女の「ほんとうのおじいさん」ではありません。
けれども、いまはDNAがどうの、法的にどうの、というような科学や法律の話をしているのではないので、幼いときに拾って10年船の中で起居を共にし、少女の裸身を流し、少女の食事を作ってきた老人が心的に「肉親」でなくてほかにどんな肉親があるでしょう?
そこをいったん呑み込めば、この物語は単に世俗の愛に神のごとき絶対の愛を対峙させて描くような近代的な或る意味で月並みな作品ではなくて、太古の昔、おそらくは人類が始まって以来、文化というものが自然から乖離して以来のタブーの垣根を最初からさりげなく外してしまい、完璧なインセストの実現する世界を、至福の世界として描いている作品なんだ、とは言えないでしょうか。
それは薄汚い話ではなくて、東洋的な浄土の世界でだけ実現しそうな、絶対の愛として浄化され、聖化された形で、それを描きたかったのだろうと思います。そのために小道具としての弓が、武器、楽器、占いの道具などとして巧みに使われています。
ただ、私は前半の老人の描き方は、それなら難があると感じました。もっとラストで聖化されるにふさわしい描き方があるのではないか。少し卑小すぎて笑ってしまうところがあります。釣り人の男たちを嫉妬する老人とか、カレンダーの少女との結婚予定日にハートマークを描き、ペケ印をつけていく老人とか(笑)。
でもまあ、私の空想的な見方にひとつの可能性があるとすれば、愛を描くのにインセストをタブーとしない世界を至福の神の愛のごとき完璧な世界として描くことで、人類のタブーをさりげなくひっくり返すようにして現代の私たちの世界で愛と称するものの姿を根底から相対化してみせた壮大な作品のようにも見えてきませんか?(笑)
老人も少女も、私の記憶違いでなければ、ひとことも発しないのではないでしょうか。占いのところで耳に口を近づけてささやいてはいるけれど、実際の声はたぶんラストシーンでの神との行為の際の少女のよがり声というべき呻きくらいで、ほかは釣り人達の声ばかりです。
これは、先日観た「うつせみ」の男女もそうでしたが、いわば絶対的な愛で結ばれている二人の間には言葉は無用、というのがキム・ギドク監督の根本にあるのでしょう。逆の言い方をすれば、言葉はいつも汚れていたり、空虚であったり、間違っていたり、それ自体が他者を傷つける暴力にほかならなかったりするものだ、と。
神との交合を終えた少女は、きっとただの少女として青年と結ばれ、世俗の少女となって幸せに暮らすのでしょう。神の世界であれ何であれ、インセストの世界は閉じた世界で、少女はそこから出ていかなくてはなりません。青年は彼女が外へ出るのを援けるためにやってきた外部の人間であり、親族的な世界を超えていくために不可欠な他者であったのでしょう。
少女のふだんの着衣やボロ船の壁面に描かれた菩薩像、結婚式の衣装などカラフルで美しく、少女のすらりとした脚をはじめ美しい肢体を、この作品のカメラは見事にとらえていて、そこもこの映画の見どころです。
製作年度をシャッフルしたみたいに恣意的に観ているので、監督がどんな作品からどういう道筋を経て最近の作品に至ったか、というようなことは全然考えることもできず、見てすぐに忘れないうちにメモがわりにいきなりブログに思い付きで書いているので、映画の観方としては見当はずれなものが多いかもしれません。
さてこの「弓」の主役はハン・ヨルムという女優さんで、老人にボロボロの釣り船に10年間囲われている少女の役。彼女は私が感動した「サマリア」で窓から飛び降りて死ぬ女子高生役だった女優さんのようです。あの作品での演技も素晴らしかったけれど、この作品で彼女はその魅力を最大限に発揮してくれます。
彼女は言ってみれば神に仕える巫女のような存在ですが、それにしては(あるいは、だからこそ、というべきか)ものすごく色っぽい(笑)。釣り客に送る流し目や、重要な役どころになる青年に送る視線は、ときに無邪気な少女そのままでありながら、ときに少女とは思えないまことに艶な表情で、これで男が気を惹かれてはならぬ、と老人に矢を飛ばされてはたまらない(笑)。
タブーだからこそ、魅力がいや増しに増す、というところもあるでしょう。女性でありながら触れることを禁じられた、そのような存在というのは、神の花嫁にほかならないでしょう。でもそのことはずっと伏せられているので、老人が世間の男たちとはまるで違った行動原理を持っているらしいことは分るので、単なる変態的異常者でないだろうとは思っても、青年らの見る通り、自分の身勝手な欲望なり空想なりによって娘の人生を支配し、これを奪い続けている許しがたい存在にしか見えません。
老人自身と老人と少女との関係が浄化されるのは最後の最後で、他者としての青年の介入によって、少女の幸せが自分を離れて青年と共に船を出ていく選択にあることを自身の弓占いで知った老人が、二人が小舟で去るのを容認しながら、自死を図り、それに気づいた少女が引き返して老人のもとにとどまり、老人が望んでいたとおりの結婚式を挙げて小舟で出て行き、初夜の作法通りに振る舞う中で、老人は弓とも楽器ともなるその胡で美しく優しい曲を奏で、白衣の少女がうっとりと目を閉じて寝衣に横たわって眠るのを見て、老人は天に向けて矢を放ち、矢は蒼穹に消えていきます。老人は船の舳先に立ち、入水します。
小舟は青年の留まる船のところに還り、小舟に横たわる少女を見て小舟に移る。少女は眠ったまま、神と交わるごとき肢体の動きを見せ、呻き声を挙げ、青年が驚いて少女を揺り動かしたとき、天から戻ってきた矢が少女の下腹に広がる白衣の裾に突き刺さり、初夜の儀式の後のごとく白衣は血で染まります。
この韓国式の結婚衣装とフォーマルな結婚式の模様は、とても興味深いし、美しいシーンでもあり、そこからこの矢が舟底に突き刺さるまでのシーンは明らかに神と巫女、神の花嫁としての少女との交わりを象徴的に示す映像で、老人は身を投げることで浄化され、神になる、と考えてもあながち見当違いとは言えないでしょう。
そこから振り返れば、一貫して伏線が張ってあり、弓は武器として少女に近づいて聖なるものを世俗の手で汚そうとする者を厳しく退け、少女を守る神の鉄槌でもあり、同時にそれは楽器としてこの世のものとも思われない純粋で深く優しい浄土の音楽のような楽曲を奏でる愛の小道具でもあります。世俗の目から見れば老人の少女への想いは、邪まな老人の身勝手な欲望にすぎませんが、そうした世俗の目では理解不能な、神の世界に属する至高の愛だと、この作品は言いたげです。
そういう解釈は容易だし、作り手の方も、そういう方向で観てほしいというヒントを次々繰り出しています。でも、私はこの映画は監督が意識しているかどうかは分からないけれど、真に背徳的な作品だと思います。それはこの老人と少女の世界を寓話として読むなら、作り手がそう読ませたがっている神の花嫁の寓話ではなく、そいつを地上へ引きずりおろしたときに見える、インセストの寓話として二重に読むべきではないかと思うからです。
もちろんストーリーの設定としては、この船を訪れる客の釣り人たちが何度か訊くように、この老人は少女の「ほんとうのおじいさん」ではありません。
けれども、いまはDNAがどうの、法的にどうの、というような科学や法律の話をしているのではないので、幼いときに拾って10年船の中で起居を共にし、少女の裸身を流し、少女の食事を作ってきた老人が心的に「肉親」でなくてほかにどんな肉親があるでしょう?
そこをいったん呑み込めば、この物語は単に世俗の愛に神のごとき絶対の愛を対峙させて描くような近代的な或る意味で月並みな作品ではなくて、太古の昔、おそらくは人類が始まって以来、文化というものが自然から乖離して以来のタブーの垣根を最初からさりげなく外してしまい、完璧なインセストの実現する世界を、至福の世界として描いている作品なんだ、とは言えないでしょうか。
それは薄汚い話ではなくて、東洋的な浄土の世界でだけ実現しそうな、絶対の愛として浄化され、聖化された形で、それを描きたかったのだろうと思います。そのために小道具としての弓が、武器、楽器、占いの道具などとして巧みに使われています。
ただ、私は前半の老人の描き方は、それなら難があると感じました。もっとラストで聖化されるにふさわしい描き方があるのではないか。少し卑小すぎて笑ってしまうところがあります。釣り人の男たちを嫉妬する老人とか、カレンダーの少女との結婚予定日にハートマークを描き、ペケ印をつけていく老人とか(笑)。
でもまあ、私の空想的な見方にひとつの可能性があるとすれば、愛を描くのにインセストをタブーとしない世界を至福の神の愛のごとき完璧な世界として描くことで、人類のタブーをさりげなくひっくり返すようにして現代の私たちの世界で愛と称するものの姿を根底から相対化してみせた壮大な作品のようにも見えてきませんか?(笑)
老人も少女も、私の記憶違いでなければ、ひとことも発しないのではないでしょうか。占いのところで耳に口を近づけてささやいてはいるけれど、実際の声はたぶんラストシーンでの神との行為の際の少女のよがり声というべき呻きくらいで、ほかは釣り人達の声ばかりです。
これは、先日観た「うつせみ」の男女もそうでしたが、いわば絶対的な愛で結ばれている二人の間には言葉は無用、というのがキム・ギドク監督の根本にあるのでしょう。逆の言い方をすれば、言葉はいつも汚れていたり、空虚であったり、間違っていたり、それ自体が他者を傷つける暴力にほかならなかったりするものだ、と。
神との交合を終えた少女は、きっとただの少女として青年と結ばれ、世俗の少女となって幸せに暮らすのでしょう。神の世界であれ何であれ、インセストの世界は閉じた世界で、少女はそこから出ていかなくてはなりません。青年は彼女が外へ出るのを援けるためにやってきた外部の人間であり、親族的な世界を超えていくために不可欠な他者であったのでしょう。
少女のふだんの着衣やボロ船の壁面に描かれた菩薩像、結婚式の衣装などカラフルで美しく、少女のすらりとした脚をはじめ美しい肢体を、この作品のカメラは見事にとらえていて、そこもこの映画の見どころです。
saysei at 00:26|Permalink│Comments(0)│
2017年07月12日
キム・ギドク監督「鰐」
この映画も前に見たなぁ、と気づきましたが、もう一度最後まで観ました。1996年の、ギドク監督の処女作にあたる作品だったようです。
「悪い男」を見た目で見ると、これは「悪い男」の前身であり、その原型になるような作品であることは明らかですね。
第一、主役のチョ・ジェヒョンが両作品に共通で、物語の中での人物の生態学的地位ならぬ行動学的地位みたいな位置もまったく同じで、まっとうな社会から完全に疎外された社会の最底辺で水死体から金目のものを剥ぎ取る鰐というより死肉を啄むハイエナみたいに生きるゴミのような存在、無知無教養で暴力的、極度に切れやすく、いつも内面に噴火火山をかかえていて、いつ爆発して周囲の人々を傷つける溶岩を噴き出すかわからないような粗暴な男。
それが、そんな汚辱の世界にもまったく汚されることのない、まるで天使のようにまっさらな部分を心のどこかに潜ませていて、それがたまたま自分が助けた(かつ暴力的に犯した)入水した女との触れ合いであぶくのように表面に浮かんできて、つかの間真実の愛が交わされるかのような瞬間の後、その瞬間を永遠と化するために、自らの手で絶望と希望の淵に沈める、というような物語。
はじめて自ら男(ヨンペ=ワニ)に身を委ね、永遠の瞬間を共有したのち再び入水した女(ヒョンジョン)を追って飛込み、皆底に横たわる女を抱いて助け上げるのではなく、優雅なバロック調?の長椅子に座らせ、自分と彼女の手首を手錠でつないで腰かけて並び、一度は逃れようとしながら、そのまま女と共に死んでいく男。このラストシーンは汚れた漢江の水が青い光と影のゆらめく美しい映像をつくりだしています。
ヨンベのような男は本当に反社会的な人間として嫌われ疎外される人間でしょうが、一方でイケメンで社会の秩序の中で成功をおさめ、権力を手にしている、女が愛してその男のために入水することになったジュノのような偽善的存在に対しては、ものすごい敵愾心を持って戦います。周囲はみなジュノのような男を崇め、同調し、その意向に従う社会だから、ヨンベのような男は陰で生きるしかないし、表に出てくればゴミのような扱いを受け、排除されます。その他人を傷つける粗暴は弁解のしようもないけれど、或る意味でなにものにも侵されない純粋な魂でもあります。
私は大変な悪そのものを体現して多くの人々を死にいたらしめた新興「宗教」集団の、最も戦闘的だったという若者を連想しました。
「悪い男」を見た目で見ると、これは「悪い男」の前身であり、その原型になるような作品であることは明らかですね。
第一、主役のチョ・ジェヒョンが両作品に共通で、物語の中での人物の生態学的地位ならぬ行動学的地位みたいな位置もまったく同じで、まっとうな社会から完全に疎外された社会の最底辺で水死体から金目のものを剥ぎ取る鰐というより死肉を啄むハイエナみたいに生きるゴミのような存在、無知無教養で暴力的、極度に切れやすく、いつも内面に噴火火山をかかえていて、いつ爆発して周囲の人々を傷つける溶岩を噴き出すかわからないような粗暴な男。
それが、そんな汚辱の世界にもまったく汚されることのない、まるで天使のようにまっさらな部分を心のどこかに潜ませていて、それがたまたま自分が助けた(かつ暴力的に犯した)入水した女との触れ合いであぶくのように表面に浮かんできて、つかの間真実の愛が交わされるかのような瞬間の後、その瞬間を永遠と化するために、自らの手で絶望と希望の淵に沈める、というような物語。
はじめて自ら男(ヨンペ=ワニ)に身を委ね、永遠の瞬間を共有したのち再び入水した女(ヒョンジョン)を追って飛込み、皆底に横たわる女を抱いて助け上げるのではなく、優雅なバロック調?の長椅子に座らせ、自分と彼女の手首を手錠でつないで腰かけて並び、一度は逃れようとしながら、そのまま女と共に死んでいく男。このラストシーンは汚れた漢江の水が青い光と影のゆらめく美しい映像をつくりだしています。
ヨンベのような男は本当に反社会的な人間として嫌われ疎外される人間でしょうが、一方でイケメンで社会の秩序の中で成功をおさめ、権力を手にしている、女が愛してその男のために入水することになったジュノのような偽善的存在に対しては、ものすごい敵愾心を持って戦います。周囲はみなジュノのような男を崇め、同調し、その意向に従う社会だから、ヨンベのような男は陰で生きるしかないし、表に出てくればゴミのような扱いを受け、排除されます。その他人を傷つける粗暴は弁解のしようもないけれど、或る意味でなにものにも侵されない純粋な魂でもあります。
私は大変な悪そのものを体現して多くの人々を死にいたらしめた新興「宗教」集団の、最も戦闘的だったという若者を連想しました。
saysei at 15:32|Permalink│Comments(0)│
2017年07月11日
キム・ギドク監督「うつせみ」
しつこいようですが、またキム・ギドク監督。昔の京一会館のやり方を真似て、今週はずっとキム・ギドク特集(笑)。
でもこの映画「うつせみ」は以前に見た覚えがありました。それをほとんどしまいまで観ないと思い出さないのが後期高齢者たる所以。最近はほんとうに前に見たとき何を観ていたんだか、何一つ覚えていなくて、最初から最後までもう一度楽しめる、すばらしい老人力を備えるに至りました。
ところで、原題は「空き家」という意味の韓国語だそうです。私は邦訳もそれでよかったと思います。なぜこんな意味ありげな凝った邦題をつけたのか疑問です。日本語としては綺麗な言葉ですが、日本人がこれを聴いて連想するのは、即物的には蝉が飛び立って樹の幹にしがみついたまま残された、背の割れた抜け殻でしょうし、もう少し文化的な連想をする人なら、源氏物語の「空蝉」でしょう。そして源氏の「空蝉」は、もちろんその即物的な連想をうまく的確な喩として用いているわけで、この映画の邦題のように、単に意味ありげで意味のない使い方とは似ても似つきません。
キム・ギドク監督はまさに「空き家」が描きたかったのでしょうし、それは文字通り赤の他人がそこで生活を営んでいる(家具はちゃんとあり、日々の生活がそこにある)住宅をたまたま少なくともしばらくの間留守にしている、という意味での「空き家」を独自の方法で探してはピッキングして入り込み、盗んだり荒したりするわけでもなく奇妙なことに整理整頓、お片づけをして暮らすという奇妙な侵入を試みては見つかって追い出されるというようなことをしている、その「空き家」であり、これを喩として読みたければ、様々な人々の何の変哲もない(よく見れば変なのだけど)日常生活そのものに彼等自身が気づかず、見えてもいない空隙として観ることもできるでしょう。
なんの変哲もなく繰り返され、日々の時間・空間を自分たちの営為が埋めることで過ぎていくように見える日常生活そのものが、ガランドウの「空き家」なのでしょう。だから、テソクも彼と行動を共にすることになるソンファも、ごく当たり前のように、ちょうどそこに本来住んでいるはずの家族には自分たちが目に見えない透明人間で、そこに共存し、重なって存在していても、見とがめられるはずもないかのように、平然と侵入します。
ふつうの盗人なら、家財道具も日用品もすべてつい今しがたまで使っていたようにそこにあれば、家族がいつ帰ってくるかと戦々恐々、帰ってくるのに出くわせばパニック、というところでしょうが、テソクもソンファも、そこに生活用具はすべてそのままあるのに、平然とその家の住人であるかのように「自然に」振る舞い、本来の居住者が戻ってくると、え?と予想もしないかのような表情をして、それれらの居住者に「あなたがた誰ですか?」と叫ばれ、警察に連絡され、追い出されます。
このちぐはぐさは、本来の居住者にはみえていない空隙が、テソクやソンファにはえ?それが見えないの?というほど、自然に見えているわけで、それらの家は、みな二人にとって本当に「空き家」なのです。
なぜテソクやソンファにだけそんな日常生活の空隙が見えるのか、といえば、それはソンファが夫に痛めつけられる関係のありようを通じてちゃんと表現されています。「空き家」であることが見えない側の人々は、それが「空き家」だ、と無言のうちに指さす者を決して許さない。徹底的に、暴力的に排除します。ソンファもテソクもこの空隙だらけの社会で、暴力にさらされ、徹底的に疎外される、生き場の無い存在です。だからこそ二人は自然に結びついていきます。
この作品の世界は暴力に満ちています。ソンファをひっぱたく夫。取り調べと称して手錠をかけられたテソクに暴力を振う刑事。刑務所の独房で気配を消す練習を繰り返すテソクを棍棒でどやしつける看守等々・・・・いたるところにテソクとソンファを傷めつける暴力があります。
でもこの作品での暴力はそういう殴る蹴るの物理的な暴力にとどまりません。ここで人々の吐く言葉はほとんどすべてが暴力なのです。キム・ギドク監督が、言葉もまた暴力であると考えていることは疑うべくもないと思います。
だからこそ、テソクもソンファも、最初から最後までほとんど言葉を発しません。ソンファとの出会いのきっかけになる、ソンファに暴力を振う夫にゴルフボールで物理的な暴力は返しても、言葉で罵ることはしません。(物理的暴力のほうは、まったく同じ仕返しをあとでその夫から受けてイーヴンになります。)
ソンファのほうも同じで、彼らは二人ともほぼ全くと言っていいほどセリフを持たないのです。
かといって彼らは口がきけないわけではありません。実際、ソンファはラストに近いシーンで、夫に向かってであるかのように、実は背後のテソクに向かって、「愛してるわ」という唯一のセリフを吐くのです。
でも二人にセリフがないことは、この作品の中で少しも不自然ではありません。彼らは、この社会で「普通の」日常生活を送っている他の住民たちと違って、言葉の暴力を振わないのです。彼らはいわば受け身に徹していて、他者に徹底的に排除され、痛めつけられるけれど、自分たちが他者を攻撃することはない、受難者として設定されています。夫へのゴルフボール攻撃の時を除けば、ほぼ終始一貫無抵抗で受け身(passive)な2人の、これは受難(the Passion)劇だと言っていいでしょう。
最初に登場するソンファの家の毀れた体重計が最後に再び登場します。ほとんど透明人間のように気配を消すことができるようになったテソクが、ソンファが夫の元へ戻った住まいで、夫の背後に立ってソンファのつくる食事をうまそうに食べ、彼女を抱く夫の肩越しにソンファと接吻し合い、深夜ベッドを抜け出したソンファが彼の気配を感じて彼の存在をその手に捉える瞬間、重なり立つ二人は体重計の上。そしてそのメモリはゼロを指して動きません。
本当に彼らは透明人間になってしまったんですね(笑)。夫にはもう姿も見えず気配も感じられなくなったテソクとそれが現実に見え、捉え、抱き合い、口づけすることもできるソンファは、ともに「空き家」の見えない人たちとは存在の次元が違うことが、ここではっきり明示的になっています。
さきの受難を拡張して、いわゆる合理的、現実的な解釈でこじつけたいなら、テソクはすでに監獄の独房で痛めつけられ、受難の果てにあの世に旅立っています。監獄を出るテソクだとか、保釈されて帰ってきたテソクだとか、そんな場面もなく、カメラはソンファと夫の場面に切り換えられています。そこには切れ目がある。これは3日後の岩屋の墓(独房)からの「復活」ですね。ソンファはさしずめマグダラのマリアといったところでしょうか。
でもこの映画「うつせみ」は以前に見た覚えがありました。それをほとんどしまいまで観ないと思い出さないのが後期高齢者たる所以。最近はほんとうに前に見たとき何を観ていたんだか、何一つ覚えていなくて、最初から最後までもう一度楽しめる、すばらしい老人力を備えるに至りました。
ところで、原題は「空き家」という意味の韓国語だそうです。私は邦訳もそれでよかったと思います。なぜこんな意味ありげな凝った邦題をつけたのか疑問です。日本語としては綺麗な言葉ですが、日本人がこれを聴いて連想するのは、即物的には蝉が飛び立って樹の幹にしがみついたまま残された、背の割れた抜け殻でしょうし、もう少し文化的な連想をする人なら、源氏物語の「空蝉」でしょう。そして源氏の「空蝉」は、もちろんその即物的な連想をうまく的確な喩として用いているわけで、この映画の邦題のように、単に意味ありげで意味のない使い方とは似ても似つきません。
キム・ギドク監督はまさに「空き家」が描きたかったのでしょうし、それは文字通り赤の他人がそこで生活を営んでいる(家具はちゃんとあり、日々の生活がそこにある)住宅をたまたま少なくともしばらくの間留守にしている、という意味での「空き家」を独自の方法で探してはピッキングして入り込み、盗んだり荒したりするわけでもなく奇妙なことに整理整頓、お片づけをして暮らすという奇妙な侵入を試みては見つかって追い出されるというようなことをしている、その「空き家」であり、これを喩として読みたければ、様々な人々の何の変哲もない(よく見れば変なのだけど)日常生活そのものに彼等自身が気づかず、見えてもいない空隙として観ることもできるでしょう。
なんの変哲もなく繰り返され、日々の時間・空間を自分たちの営為が埋めることで過ぎていくように見える日常生活そのものが、ガランドウの「空き家」なのでしょう。だから、テソクも彼と行動を共にすることになるソンファも、ごく当たり前のように、ちょうどそこに本来住んでいるはずの家族には自分たちが目に見えない透明人間で、そこに共存し、重なって存在していても、見とがめられるはずもないかのように、平然と侵入します。
ふつうの盗人なら、家財道具も日用品もすべてつい今しがたまで使っていたようにそこにあれば、家族がいつ帰ってくるかと戦々恐々、帰ってくるのに出くわせばパニック、というところでしょうが、テソクもソンファも、そこに生活用具はすべてそのままあるのに、平然とその家の住人であるかのように「自然に」振る舞い、本来の居住者が戻ってくると、え?と予想もしないかのような表情をして、それれらの居住者に「あなたがた誰ですか?」と叫ばれ、警察に連絡され、追い出されます。
このちぐはぐさは、本来の居住者にはみえていない空隙が、テソクやソンファにはえ?それが見えないの?というほど、自然に見えているわけで、それらの家は、みな二人にとって本当に「空き家」なのです。
なぜテソクやソンファにだけそんな日常生活の空隙が見えるのか、といえば、それはソンファが夫に痛めつけられる関係のありようを通じてちゃんと表現されています。「空き家」であることが見えない側の人々は、それが「空き家」だ、と無言のうちに指さす者を決して許さない。徹底的に、暴力的に排除します。ソンファもテソクもこの空隙だらけの社会で、暴力にさらされ、徹底的に疎外される、生き場の無い存在です。だからこそ二人は自然に結びついていきます。
この作品の世界は暴力に満ちています。ソンファをひっぱたく夫。取り調べと称して手錠をかけられたテソクに暴力を振う刑事。刑務所の独房で気配を消す練習を繰り返すテソクを棍棒でどやしつける看守等々・・・・いたるところにテソクとソンファを傷めつける暴力があります。
でもこの作品での暴力はそういう殴る蹴るの物理的な暴力にとどまりません。ここで人々の吐く言葉はほとんどすべてが暴力なのです。キム・ギドク監督が、言葉もまた暴力であると考えていることは疑うべくもないと思います。
だからこそ、テソクもソンファも、最初から最後までほとんど言葉を発しません。ソンファとの出会いのきっかけになる、ソンファに暴力を振う夫にゴルフボールで物理的な暴力は返しても、言葉で罵ることはしません。(物理的暴力のほうは、まったく同じ仕返しをあとでその夫から受けてイーヴンになります。)
ソンファのほうも同じで、彼らは二人ともほぼ全くと言っていいほどセリフを持たないのです。
かといって彼らは口がきけないわけではありません。実際、ソンファはラストに近いシーンで、夫に向かってであるかのように、実は背後のテソクに向かって、「愛してるわ」という唯一のセリフを吐くのです。
でも二人にセリフがないことは、この作品の中で少しも不自然ではありません。彼らは、この社会で「普通の」日常生活を送っている他の住民たちと違って、言葉の暴力を振わないのです。彼らはいわば受け身に徹していて、他者に徹底的に排除され、痛めつけられるけれど、自分たちが他者を攻撃することはない、受難者として設定されています。夫へのゴルフボール攻撃の時を除けば、ほぼ終始一貫無抵抗で受け身(passive)な2人の、これは受難(the Passion)劇だと言っていいでしょう。
最初に登場するソンファの家の毀れた体重計が最後に再び登場します。ほとんど透明人間のように気配を消すことができるようになったテソクが、ソンファが夫の元へ戻った住まいで、夫の背後に立ってソンファのつくる食事をうまそうに食べ、彼女を抱く夫の肩越しにソンファと接吻し合い、深夜ベッドを抜け出したソンファが彼の気配を感じて彼の存在をその手に捉える瞬間、重なり立つ二人は体重計の上。そしてそのメモリはゼロを指して動きません。
本当に彼らは透明人間になってしまったんですね(笑)。夫にはもう姿も見えず気配も感じられなくなったテソクとそれが現実に見え、捉え、抱き合い、口づけすることもできるソンファは、ともに「空き家」の見えない人たちとは存在の次元が違うことが、ここではっきり明示的になっています。
さきの受難を拡張して、いわゆる合理的、現実的な解釈でこじつけたいなら、テソクはすでに監獄の独房で痛めつけられ、受難の果てにあの世に旅立っています。監獄を出るテソクだとか、保釈されて帰ってきたテソクだとか、そんな場面もなく、カメラはソンファと夫の場面に切り換えられています。そこには切れ目がある。これは3日後の岩屋の墓(独房)からの「復活」ですね。ソンファはさしずめマグダラのマリアといったところでしょうか。
saysei at 00:18|Permalink│Comments(0)│
2017年07月09日
キム・ギドク監督「受取人不明」
2001年の作品で、米軍基地のある韓国の村を舞台にした作品。
キム・ギドク監督の作品に多い寓話的な物語といったものではなく、リアリズム的手法によるシリアスな作品です。村には米軍基地があり、村人たちの暮らしにもその人間関係にも、一人一人の胸のうちにも、朝鮮戦争の大きな傷跡がまだ癒えずに生々しく残っています。
際だった主人公というような一人の人物を軸に展開される物語ではなく、言ってみれば朝鮮戦争の爪痕がいかに村人たちの暮らしや関係や心のありようを歪ませ、取り返しのつかない歪みと荒廃をもたらしているか、それを相互に関わり合う主な登場人物たち一人一人にそのつど寄り添って丁寧に描いていきます。
その一人、ハーフの青年チャングクは、アメリカに帰国してしまった黒人米兵と韓国人女性との混血児で、母子で廃バスの車両で暮らし、犬を食肉にして売る男ケヌンのところで、犬を吊るし、殴り殺す仕事をして、「度胸のなさ」を嗤われながら働いています。その犬商人はいつも犬を入れる檻を荷台に載せて村人から犬を買ってまわっていて、チャングクの母が好きで、息子のチャングクがいつまでも行方不明の父に執着する姿に苛立って母親に暴力を振うのを怒り、チャングクを殴ります。しかし母親は自分がどんな暴力を受けても息子を愛していて、息子を殴るケヌンに食ってかかります。
タイトルの「受取人不明」は、表面的には、このチャングクの母親が、チャングクの父である米軍兵士にいつも手紙を書いて送っては、受取人不明で戻ってきてしまうことに対応しています。
もう一人の主な登場人物に、兄が撃った手作り玩具の銃で右目を負傷して失明したウノクという少女、メインのストーリー展開の中では英語を学ぶ高校生。朝鮮戦争で戦死した父親の年金と母の内職で暮らす彼女は自分に気のある米兵の求めに応じるのと引き換えに彼の手引きで基地内の病院で目の手術を受け、その後もその麻薬と厭戦気分で荒れる兵士ジェームズを家に引き込み関係をつづけています。
彼女のことが好きな、気の弱い青年チフムはチャングクのたった一人の友人で、戦争で足を負傷した父が米兵相手の肖像画店を経営しているのを手伝っています。この父親は朝鮮戦争で「アカを3人も殺した」といい、村人仲間と弓での射的ゲームに興じています。チフムは高校にも通わず、うろうろしてチフムの部屋をチフムの兄と一緒に覗き見したり、二人組のアメリカかぶれの少年にからまれて殴られ、チャングクに助けられたり、チフムの前でも結局自分を押し出せずに彼女が米兵と行くのをとどめることもできません。
こういう戦争の爪痕が残した貧しさと歪んだ人間関係、爆発寸前の鬱屈した心の解放される道筋がどこにも見えないまま物語は展開し、やがてそういう歪みの力が集中する点であるチャングクのところで日常性の覆いを破るように亀裂が生じて、蓄積された歪みのエネルギーが一気に噴き出します。
犬殺しのケヌンを犬のように吊って檻から解き放った犬たちに首吊り縄を引かせて殺し、バスの住まいにとじこもって「夫」に手紙を書き続ける母親にいつになくやさしく湯を使わせて背を流してやるチャングクは、そのすぐあとに許しを乞いながらナイフを手に、母親の乳房に刻まれた父の名の入れ墨を切り裂きます。そして犬の檻をのせたケヌンのオートバイを飛ばす途中で吹っ飛んで死んでしまいます。彼を見つけた母親は、狂ったように泣き叫び、田んぼに突っ込んだ彼の遺体をリヤカーに載せて運び、バスの中に火を放って共に死んでいきます。
ウノクを愛した米兵のほうも厭戦気分を抑えることができず、ついに基地から拳銃を手に逃亡、ウノクに共に米国に行こうと迫り、村人たちに囲まれると銃を放って威嚇します。その米兵に矢を放って倒したのはウノクを失い、いまは親友をも失ったジフム。・・・
まぁそんな暗い、重い話です。いたるところに戦争の傷跡がみえる。人間の誇りも希望もみな戦争で吹っ飛んでしまって、誰一人晴れ晴れとした表情で前に踏み出して生きることができず、卑屈な背を屈めた姿で生きて、卑小な欲望と満たされない苛立ちを抱えて生きている。村の佇まいにも、貧しい暮らしぶりにも。人間関係にも。人の心にも、戦争の爪痕が宿命のように食い込んでしまっている。堂々と当たり前の顔をしてそこにいるのは、厭戦兵士以外の駐留米軍兵士たちだけかもしれません。
この映画を見ていて、もちろんキム・ギドクの監督作品で韓流だとわかって観ていたのに、途中で自分が沖縄を舞台にした映画のように錯覚していることに気づいて、愕然とした瞬間がありました。こんなことを言えば沖縄の人にぼろくそに叱られそうですが、もちろん、もとより沖縄にこんな村はないし、みな韓国語を喋っていて誤解の余地などありません。
犬商人と食肉としての犬なんて典型的な一昔前の韓国の民俗のうちにしかないでしょう。でも、なんというのか、戦後の回復の中で置き去りにされて、米軍基地との重い共存を強いられ、様々な意味でその「アメリカ」への従属性の負の側面を一身に背負わされてきた沖縄のイメージと、ここに描かれた韓国の朝鮮戦争後の村の世界とが、私の感覚の中で奇妙にシンクロしてしまって、本当に観ていてごく自然な錯覚を覚えたのは、理屈で結びつけたのでなかっただけに、我ながらショックでした。
考えてみれば、おそらくそれは幻想の構造的同一性なのだろうと思います。見かけの要素があれこれ似ているというよりも、系統発生的に共通の構造を持つ相同という生物学的な概念に近いような同一性がそこにはあるような気がしたのです。そして、それは沖縄≒日本という相同を意味してもいるような気がします。私たちはただそのことを自分の意識の中で隠蔽しようとしてきたので、ふだんは素知らぬふりで独立国家日本、成熟社会日本を謳歌しているのですが・・・
この作品は、小説で言えば、井上光晴によって描かれた戦争の爪痕を見つめなおす作品を連想させるようなところがありました。そういう意味では、いま観れば、手法としても或る種古典的な作品に見えるところがあります。それをいまでもとんがった作品に見せるのは、キム・ギドクらしい突出した血と暴力のシーンで、クライマックスにあたるチャングクが母親に湯を使わせ、乳房を切り、湯が血に染まって行くようなシーンでしょう。それはキム・ギドクでしか作れない、切実で悲哀に満ちた血と暴力の鮮烈な映像です。
キム・ギドク監督の作品に多い寓話的な物語といったものではなく、リアリズム的手法によるシリアスな作品です。村には米軍基地があり、村人たちの暮らしにもその人間関係にも、一人一人の胸のうちにも、朝鮮戦争の大きな傷跡がまだ癒えずに生々しく残っています。
際だった主人公というような一人の人物を軸に展開される物語ではなく、言ってみれば朝鮮戦争の爪痕がいかに村人たちの暮らしや関係や心のありようを歪ませ、取り返しのつかない歪みと荒廃をもたらしているか、それを相互に関わり合う主な登場人物たち一人一人にそのつど寄り添って丁寧に描いていきます。
その一人、ハーフの青年チャングクは、アメリカに帰国してしまった黒人米兵と韓国人女性との混血児で、母子で廃バスの車両で暮らし、犬を食肉にして売る男ケヌンのところで、犬を吊るし、殴り殺す仕事をして、「度胸のなさ」を嗤われながら働いています。その犬商人はいつも犬を入れる檻を荷台に載せて村人から犬を買ってまわっていて、チャングクの母が好きで、息子のチャングクがいつまでも行方不明の父に執着する姿に苛立って母親に暴力を振うのを怒り、チャングクを殴ります。しかし母親は自分がどんな暴力を受けても息子を愛していて、息子を殴るケヌンに食ってかかります。
タイトルの「受取人不明」は、表面的には、このチャングクの母親が、チャングクの父である米軍兵士にいつも手紙を書いて送っては、受取人不明で戻ってきてしまうことに対応しています。
もう一人の主な登場人物に、兄が撃った手作り玩具の銃で右目を負傷して失明したウノクという少女、メインのストーリー展開の中では英語を学ぶ高校生。朝鮮戦争で戦死した父親の年金と母の内職で暮らす彼女は自分に気のある米兵の求めに応じるのと引き換えに彼の手引きで基地内の病院で目の手術を受け、その後もその麻薬と厭戦気分で荒れる兵士ジェームズを家に引き込み関係をつづけています。
彼女のことが好きな、気の弱い青年チフムはチャングクのたった一人の友人で、戦争で足を負傷した父が米兵相手の肖像画店を経営しているのを手伝っています。この父親は朝鮮戦争で「アカを3人も殺した」といい、村人仲間と弓での射的ゲームに興じています。チフムは高校にも通わず、うろうろしてチフムの部屋をチフムの兄と一緒に覗き見したり、二人組のアメリカかぶれの少年にからまれて殴られ、チャングクに助けられたり、チフムの前でも結局自分を押し出せずに彼女が米兵と行くのをとどめることもできません。
こういう戦争の爪痕が残した貧しさと歪んだ人間関係、爆発寸前の鬱屈した心の解放される道筋がどこにも見えないまま物語は展開し、やがてそういう歪みの力が集中する点であるチャングクのところで日常性の覆いを破るように亀裂が生じて、蓄積された歪みのエネルギーが一気に噴き出します。
犬殺しのケヌンを犬のように吊って檻から解き放った犬たちに首吊り縄を引かせて殺し、バスの住まいにとじこもって「夫」に手紙を書き続ける母親にいつになくやさしく湯を使わせて背を流してやるチャングクは、そのすぐあとに許しを乞いながらナイフを手に、母親の乳房に刻まれた父の名の入れ墨を切り裂きます。そして犬の檻をのせたケヌンのオートバイを飛ばす途中で吹っ飛んで死んでしまいます。彼を見つけた母親は、狂ったように泣き叫び、田んぼに突っ込んだ彼の遺体をリヤカーに載せて運び、バスの中に火を放って共に死んでいきます。
ウノクを愛した米兵のほうも厭戦気分を抑えることができず、ついに基地から拳銃を手に逃亡、ウノクに共に米国に行こうと迫り、村人たちに囲まれると銃を放って威嚇します。その米兵に矢を放って倒したのはウノクを失い、いまは親友をも失ったジフム。・・・
まぁそんな暗い、重い話です。いたるところに戦争の傷跡がみえる。人間の誇りも希望もみな戦争で吹っ飛んでしまって、誰一人晴れ晴れとした表情で前に踏み出して生きることができず、卑屈な背を屈めた姿で生きて、卑小な欲望と満たされない苛立ちを抱えて生きている。村の佇まいにも、貧しい暮らしぶりにも。人間関係にも。人の心にも、戦争の爪痕が宿命のように食い込んでしまっている。堂々と当たり前の顔をしてそこにいるのは、厭戦兵士以外の駐留米軍兵士たちだけかもしれません。
この映画を見ていて、もちろんキム・ギドクの監督作品で韓流だとわかって観ていたのに、途中で自分が沖縄を舞台にした映画のように錯覚していることに気づいて、愕然とした瞬間がありました。こんなことを言えば沖縄の人にぼろくそに叱られそうですが、もちろん、もとより沖縄にこんな村はないし、みな韓国語を喋っていて誤解の余地などありません。
犬商人と食肉としての犬なんて典型的な一昔前の韓国の民俗のうちにしかないでしょう。でも、なんというのか、戦後の回復の中で置き去りにされて、米軍基地との重い共存を強いられ、様々な意味でその「アメリカ」への従属性の負の側面を一身に背負わされてきた沖縄のイメージと、ここに描かれた韓国の朝鮮戦争後の村の世界とが、私の感覚の中で奇妙にシンクロしてしまって、本当に観ていてごく自然な錯覚を覚えたのは、理屈で結びつけたのでなかっただけに、我ながらショックでした。
考えてみれば、おそらくそれは幻想の構造的同一性なのだろうと思います。見かけの要素があれこれ似ているというよりも、系統発生的に共通の構造を持つ相同という生物学的な概念に近いような同一性がそこにはあるような気がしたのです。そして、それは沖縄≒日本という相同を意味してもいるような気がします。私たちはただそのことを自分の意識の中で隠蔽しようとしてきたので、ふだんは素知らぬふりで独立国家日本、成熟社会日本を謳歌しているのですが・・・
この作品は、小説で言えば、井上光晴によって描かれた戦争の爪痕を見つめなおす作品を連想させるようなところがありました。そういう意味では、いま観れば、手法としても或る種古典的な作品に見えるところがあります。それをいまでもとんがった作品に見せるのは、キム・ギドクらしい突出した血と暴力のシーンで、クライマックスにあたるチャングクが母親に湯を使わせ、乳房を切り、湯が血に染まって行くようなシーンでしょう。それはキム・ギドクでしか作れない、切実で悲哀に満ちた血と暴力の鮮烈な映像です。
saysei at 18:53|Permalink│Comments(0)│