2017年07月
2017年07月23日
「俳優は俳優だ」
「映画は映画だ」の次は「俳優は俳優だ」か。キム・ギドクは面白い監督ですね。好きというわけではないけれど、気になる監督というのは分るような気がします。ただし女性はどれも見たくはない映画でしょう。作品の出来栄えだけで言えば、私にとっては「悪い男」と「サマリア」があれば、あとは要らないようなものだけれど、いい作品が生まれるには色々悪戦苦闘の跡が残ることにも理由があるでしょう。
「俳優は俳優だ」も「映画は映画だ」と同じように、フィクショナルな映画の世界とリアルな現実とが次第に重なり合い、境界を曖昧にして溶融するような世界を描いています。「映画は映画だ」は幾分マンガ的に対立の輪郭がはっきりしていたけれど、こちらは主人公オ・ヨンという新人俳優がやや病的ではあるけれども純粋にリアルな良い演技を求めて過剰な行動をとっては周囲に波風を立てていたのが、彼の才能に目をつけた野心家のマネージャーと組むことで人気俳優となる野心に目覚めてひたすらその道をのぼりつめて成功するものの、いつか初心を忘れ、かつて自分が反発した人気俳優と結局は変わらない傲慢でわがままな俳優に変わっていき、興行界にありがちな金と女とやくざの絡みににっちもさっちもいかないような状況にどんどん追い詰められていって、最後はかつての自分のような新人に座を追われて失墜し、それでも俳優がやめられずに新人の相手をする殴られ役の端役をつとめる、というような話。
それにしても、いまさらスクリーンの上では美しく逞しくクリーンにみえる俳優も裏を返せば、現実はこういう汚い連中ですよ、なんて言っても何の新鮮味もないし、また一見華やかに見える映画界も金とやくざと女にまみれた薄汚い世界ですよ、というのも陳腐すぎてテーマとしては話にならないでしょう。だから、いくらなんでもキム・ギドクがそんなことを描きたかったわけではないでしょう。
たぶんそんなふうにフィクションと現実を対立させて、表と裏に振り分けて、真実はこちら、と言いたいわけではない。どちらが真実でどちらが虚構かが分からなくなるような映像こそがこの作品の見どころでしょう。実際、現実だと思っていると、実はそれが撮影中の演技だったり、ということは幾度もこの作品を見ている中で経験することです。
そもそも最初からオ・ヨンは撮影中なのに、台本にないアドリブは連発するわ、これも台本を外れてほんとうに女優の首をしめ、ナイフをつきつけたりして、女優をおびえさせます。気が狂ったわけではなくて、そうするほうがいい演技になると思って、といつも彼は言います。そうういう演技をしているときの彼の表情はまさに病的なリアルさで、観客として観ていて、これは撮影場面ではなくて現実ではないか、と錯覚させられるような切迫感があります。
車の中で女優とセックスをして車から二人が出てきて「カット!」と声がかかるときは、あ、これも撮影だったのか、と意外な感じをもつほどです。
こういう映像はあきらかに監督が意図的に撮っているので、現実とフィクショナルな世界を溶融させたいわけでしょう。そして、おそらくオ・ヨンのように、フィクションに現実を重ね、侵食させることによって、逆にフィクションが現実に重なり、現実を侵食することができるのだ、と言いたげです。
「俳優は俳優だ」も「映画は映画だ」と同じように、フィクショナルな映画の世界とリアルな現実とが次第に重なり合い、境界を曖昧にして溶融するような世界を描いています。「映画は映画だ」は幾分マンガ的に対立の輪郭がはっきりしていたけれど、こちらは主人公オ・ヨンという新人俳優がやや病的ではあるけれども純粋にリアルな良い演技を求めて過剰な行動をとっては周囲に波風を立てていたのが、彼の才能に目をつけた野心家のマネージャーと組むことで人気俳優となる野心に目覚めてひたすらその道をのぼりつめて成功するものの、いつか初心を忘れ、かつて自分が反発した人気俳優と結局は変わらない傲慢でわがままな俳優に変わっていき、興行界にありがちな金と女とやくざの絡みににっちもさっちもいかないような状況にどんどん追い詰められていって、最後はかつての自分のような新人に座を追われて失墜し、それでも俳優がやめられずに新人の相手をする殴られ役の端役をつとめる、というような話。
それにしても、いまさらスクリーンの上では美しく逞しくクリーンにみえる俳優も裏を返せば、現実はこういう汚い連中ですよ、なんて言っても何の新鮮味もないし、また一見華やかに見える映画界も金とやくざと女にまみれた薄汚い世界ですよ、というのも陳腐すぎてテーマとしては話にならないでしょう。だから、いくらなんでもキム・ギドクがそんなことを描きたかったわけではないでしょう。
たぶんそんなふうにフィクションと現実を対立させて、表と裏に振り分けて、真実はこちら、と言いたいわけではない。どちらが真実でどちらが虚構かが分からなくなるような映像こそがこの作品の見どころでしょう。実際、現実だと思っていると、実はそれが撮影中の演技だったり、ということは幾度もこの作品を見ている中で経験することです。
そもそも最初からオ・ヨンは撮影中なのに、台本にないアドリブは連発するわ、これも台本を外れてほんとうに女優の首をしめ、ナイフをつきつけたりして、女優をおびえさせます。気が狂ったわけではなくて、そうするほうがいい演技になると思って、といつも彼は言います。そうういう演技をしているときの彼の表情はまさに病的なリアルさで、観客として観ていて、これは撮影場面ではなくて現実ではないか、と錯覚させられるような切迫感があります。
車の中で女優とセックスをして車から二人が出てきて「カット!」と声がかかるときは、あ、これも撮影だったのか、と意外な感じをもつほどです。
こういう映像はあきらかに監督が意図的に撮っているので、現実とフィクショナルな世界を溶融させたいわけでしょう。そして、おそらくオ・ヨンのように、フィクションに現実を重ね、侵食させることによって、逆にフィクションが現実に重なり、現実を侵食することができるのだ、と言いたげです。
saysei at 01:24|Permalink│Comments(0)│
2017年07月21日
パク・チャヌク監督「オールド・ボーイ」
駄作。
第57回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得したとカバーにあったので、借りてきて観たけれど、火曜サスペンス劇場をどぎつくしただけの、くだらない作品でした。カンヌの当時の審査員長はタランティーノで、本当はこの作品をグランプリにしたかったそうな。
カンヌという映画祭もひどい映画に賞を与えてきたけれど、これはきわめつけ。もともとタランティーノはまったく信用のおけない映画監督だけれど、彼がこれを推奨するのは分る。似た者同士。
小説でも語り口の上手なアガサ・クリスティ―の作品などは読んでいて楽しいけれど、下手や推理小説がつまらないのは、そういう語り口のうまさもなく、必ず作者が前もって用意した答があって、作品はそこに至るもっともらしい筋道に過ぎないからで、読者に手がかりを与えないでいくら「意外な」結末を迎えたところで少しも感動があるわけではない。
まともな小説なら結論を知って逆から読んでも面白いけれど、つまらない推理小説は逆から読めばどだい作品にも何もならない。ほとんど最初から殺人の事情も犯人も明かされる「罪と罰」が何度どこからどう読んでも面白いのに、そこらに無数に出ている推理小説は結末を隠して最初から読んでも一度読んだら読み捨て。
映画だって同じで、この作品などは結末を知ったらあほらしくて、或る意味で見ごたえがあるのはちょうど私が正真正銘の医師にやられたみたいに(笑)無理やり歯をやっとこで抜くいたぶりやら、腕の切り落としやら、自分で自分の舌をハサミでちょん切るような、サディスティックな異常描写だけで、もちろんその「見ごたえ」は映画としての「見ごたえ」などではさらさらなくて、単に何か観客が引くようなショックを与えればよし、というB級ホラー的な目の刺激剤に過ぎない。それはタランティーノ好みのものでしょうが。
実際、逆から観れば、姉妹相姦の弟が姉を’風評’を流して心理的に追い詰めて「殺した」上級生を恨んで、異常性格者としか思えない陰湿で執拗なやり方で追い詰めるというだけの話。その陰湿で執拗なやり方の工夫があると言えばあるけれども、それは B級ホラーが色んな脅しの小道具を考え、B級忍者映画が色んなおもちゃの武器を使うのと同じで、15年間理由も告げずに男を監禁するとか、妻子を殺すとか、釈放したのも罠で、そこからがいっそう心理戦的に傷を深くえぐるような復讐で、漫画的に催眠術なんかで誘導して若い女と相思相愛にさせて、その女をイジメることで男を跪かせる、みたいな、本当にくだらない思い付き。
なぜそんなつまらない芝居がかった大仰な仕掛けや小道具で、人間の深い憎悪やその源泉にあったはずの純粋な愛情が表現できるなどと錯覚するんでしょうね。
よくまぁこんなつまらない作品にカンヌが審査員特別賞なんか与えたものです。審査員たち自身の無能さを証明した作品として歴史に残るのでは。
第57回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得したとカバーにあったので、借りてきて観たけれど、火曜サスペンス劇場をどぎつくしただけの、くだらない作品でした。カンヌの当時の審査員長はタランティーノで、本当はこの作品をグランプリにしたかったそうな。
カンヌという映画祭もひどい映画に賞を与えてきたけれど、これはきわめつけ。もともとタランティーノはまったく信用のおけない映画監督だけれど、彼がこれを推奨するのは分る。似た者同士。
小説でも語り口の上手なアガサ・クリスティ―の作品などは読んでいて楽しいけれど、下手や推理小説がつまらないのは、そういう語り口のうまさもなく、必ず作者が前もって用意した答があって、作品はそこに至るもっともらしい筋道に過ぎないからで、読者に手がかりを与えないでいくら「意外な」結末を迎えたところで少しも感動があるわけではない。
まともな小説なら結論を知って逆から読んでも面白いけれど、つまらない推理小説は逆から読めばどだい作品にも何もならない。ほとんど最初から殺人の事情も犯人も明かされる「罪と罰」が何度どこからどう読んでも面白いのに、そこらに無数に出ている推理小説は結末を隠して最初から読んでも一度読んだら読み捨て。
映画だって同じで、この作品などは結末を知ったらあほらしくて、或る意味で見ごたえがあるのはちょうど私が正真正銘の医師にやられたみたいに(笑)無理やり歯をやっとこで抜くいたぶりやら、腕の切り落としやら、自分で自分の舌をハサミでちょん切るような、サディスティックな異常描写だけで、もちろんその「見ごたえ」は映画としての「見ごたえ」などではさらさらなくて、単に何か観客が引くようなショックを与えればよし、というB級ホラー的な目の刺激剤に過ぎない。それはタランティーノ好みのものでしょうが。
実際、逆から観れば、姉妹相姦の弟が姉を’風評’を流して心理的に追い詰めて「殺した」上級生を恨んで、異常性格者としか思えない陰湿で執拗なやり方で追い詰めるというだけの話。その陰湿で執拗なやり方の工夫があると言えばあるけれども、それは B級ホラーが色んな脅しの小道具を考え、B級忍者映画が色んなおもちゃの武器を使うのと同じで、15年間理由も告げずに男を監禁するとか、妻子を殺すとか、釈放したのも罠で、そこからがいっそう心理戦的に傷を深くえぐるような復讐で、漫画的に催眠術なんかで誘導して若い女と相思相愛にさせて、その女をイジメることで男を跪かせる、みたいな、本当にくだらない思い付き。
なぜそんなつまらない芝居がかった大仰な仕掛けや小道具で、人間の深い憎悪やその源泉にあったはずの純粋な愛情が表現できるなどと錯覚するんでしょうね。
よくまぁこんなつまらない作品にカンヌが審査員特別賞なんか与えたものです。審査員たち自身の無能さを証明した作品として歴史に残るのでは。
saysei at 23:50|Permalink│Comments(0)│
キム・ギドク監督「ワイルドアニマル」
1997年の作品らしいので、キム・ギドクの作品では初期の習作にあたるのでしょう。作品としての出来はそれだけで評価するに値しないようなものだと思うけれど、「悪い男」なんか観たあとで、それを撮った監督の若いころの作品、としてみると、遠近法的倒錯ってやつで、のちのキム・ギドクらしさが既にそこかしこに見出せます。だからキム・ギドクのファンにとってはこれもまた大切な作品ということになるでしょう。
ちょっと面白いのは、韓国人が主人公だけれど、舞台がパリだということ。たまたまパリで出遇った韓国の青年2人がパリの裏社会の一端に巻き込まれる中での友情と裏切りの物語が軸になっているのですが、キム・ギドク監督の韓国を舞台にした血と暴力の果ての浄化みたいな幾つもの作品を見て、パリが舞台、と言われると、え?という感じ。
でもキム・ギドクは絵を学びたくてパリに行っていたことがあるらしいですね。そう思ってみると、そこに登場する主人公の一人チョンヘが通う美術の学校のアトリエ、公園の風景や水路や石畳の街路やのぞき窓の世界、チンピラたちまでが、青春を彩るカレイドスコープの色模様のようにみえてきます。
それにしてもキム・ギドクの作品というのは、私のゼミ生なんかは絶対に見ないような映画ばかりですね(笑)。なにしろ血と暴力、とりわけ女性に対する男の容赦ない暴力のすさまじさは、きっと部分的に見せるだけで気分を悪くするでしょう。そこをくぐらないと浄化に至らない、そこまでつきあってもらうのは、とうてい無理、という感じがします。
この作品でも、主人公の一人である、詐欺師でこすっからくて金に汚くて親友も裏切る最低の男チョンヘの愛人でハンガリー人の女性コリーヌが嫉妬深いフランス人の同居人である男から受ける暴力たるや凄まじいものがあります。この男の振る舞いは最悪のフランス男の胸の底に潜んでいる民族差別意識や女性蔑視やサディスティックな心情など負の民族的精神遺産を集約したようなところを感じます。いや民族的精神遺産なんていうとまっとうなフランス人に叱られるでしょうが、フランスやイギリスで1年、2年暮らしたことのあるアジア人なら事細かに説明しなくても、そうそう、とうなづくところがあるでしょう。おそらく若い画学生だった?キム・ギドクもそういう身に染みる体験をしたに違いないと思わせるところがあって、ちょっと異様なほどのしつこさを感じさせる。冷凍庫でカチカチに凍らせた魚を棍棒代わりにして繰り返される暴力の描写はサディスティックでちょっと引いてしまいます。まあ、彼は結局その小道具で無残にコリーヌの復讐を受けるのですが・・
もう一人の主人公、韓国が舞台の作品なら超人的な武器としての肉体をもつヒーローになれそうな、もと北朝鮮の脱走兵らしいホンサンという若者も、パリではエキゾチックな武闘家のレンガ割りだのナイフ投げ(受け)のようなスキルを大道芸として見世物にするか、やくざの鉄砲玉として使われるくらいしか使われ道がなく、人が好いので、こすっからいことでは頭の回転のいいチョンヘにうまく利用されながらも、パリで生きるために寄り添って暮らしています。このホンサンが心を寄せる女性は映画の冒頭、パリへの列車のコンパートメントで一緒になった女性。彼女はパリののぞき部屋のストリッパーで、たまたまホンサンはその店内で舞台に出ている彼女をみつけて通いつづけ、贈り物を贈るなどしています。ところがその女性ローラの恋人はホンサンとチョンヘが関わるやくざの裏切った一員で、親分の命でチョンヘが殺してしまい、ローラは悲しみにくれる。チョンヘが殺した男から奪った高級時計をホンサンに贈り、ホンサンはそれを腕に巻いていたことから、悲しみにくれるローラは恋人を殺したのはホンサンだと思い・・・
色々と周辺の人物が絡んでいるけれど、軸はホンサンとチョンヘの間に芽生える友情とチョンヘの裏切り、回心、ホンサンの許し、といった展開です。組を裏切った幹部たちが親分側が重用するホンサンがじゃまだとチョンヘを金で釣って裏切らせ、ホンサンに冗談めかして鎖手錠をかけ、水路に蹴落とすところで、ホンサンは、どうせ俺に未来はないから、俺を殺してお前が生きられるなら生きろ、と水没していきます。それまでほんとにどうしようもない男だったチョンヘが、ここでホンサンの心の底からの友情に触れて回心し、鎖を引き上げてホンサンを解き放ちます。
最後は二人とも、恋人を殺されて恨みを抱いたローラに殺されてしまいます。ローラにしてもコリーヌにしても男にいたぶられ、食い物にされてきたあげく、最後に一発逆転、そういう男の暴力的支配を、暴力でもって打ち返すことに成功するのですが、女性の側を軸に描かれた作品ではないから、そのプロセスがたどられることもなく、解放感のない作品になっています。
パリの裏社会を背景にした男女の友情と裏切りと愛(といっていいかどうか・・・)を描く暗い物語だから、フィルム・ノワールの影響がよく言われているらしい作品で、それらしいところは随所に見出せます。
シーンとして印象に残るのは、不思議と虐げられた女性二人の登場する場面で、ひとつはパリの美術学校の画学生とし、公園で真っ白に身体を塗って彫像のように立つコリーヌの姿。それから、ホンサンの見る大きなガラス窓の向こうの水中を思わせるようなゆらめく幻想的な光の中で裸身を曝して踊るローラの姿。物語の本筋とは脇にあたるこうしたシーンに、とても美しい映像が見られて、のちの血と暴力の果ての浄化にいたるキム・ギドク作品の予感を覚えるのは、もちろん後の作品から初期作品を見る目の遠近法的倒錯というべきでしょう。
ちょっと面白いのは、韓国人が主人公だけれど、舞台がパリだということ。たまたまパリで出遇った韓国の青年2人がパリの裏社会の一端に巻き込まれる中での友情と裏切りの物語が軸になっているのですが、キム・ギドク監督の韓国を舞台にした血と暴力の果ての浄化みたいな幾つもの作品を見て、パリが舞台、と言われると、え?という感じ。
でもキム・ギドクは絵を学びたくてパリに行っていたことがあるらしいですね。そう思ってみると、そこに登場する主人公の一人チョンヘが通う美術の学校のアトリエ、公園の風景や水路や石畳の街路やのぞき窓の世界、チンピラたちまでが、青春を彩るカレイドスコープの色模様のようにみえてきます。
それにしてもキム・ギドクの作品というのは、私のゼミ生なんかは絶対に見ないような映画ばかりですね(笑)。なにしろ血と暴力、とりわけ女性に対する男の容赦ない暴力のすさまじさは、きっと部分的に見せるだけで気分を悪くするでしょう。そこをくぐらないと浄化に至らない、そこまでつきあってもらうのは、とうてい無理、という感じがします。
この作品でも、主人公の一人である、詐欺師でこすっからくて金に汚くて親友も裏切る最低の男チョンヘの愛人でハンガリー人の女性コリーヌが嫉妬深いフランス人の同居人である男から受ける暴力たるや凄まじいものがあります。この男の振る舞いは最悪のフランス男の胸の底に潜んでいる民族差別意識や女性蔑視やサディスティックな心情など負の民族的精神遺産を集約したようなところを感じます。いや民族的精神遺産なんていうとまっとうなフランス人に叱られるでしょうが、フランスやイギリスで1年、2年暮らしたことのあるアジア人なら事細かに説明しなくても、そうそう、とうなづくところがあるでしょう。おそらく若い画学生だった?キム・ギドクもそういう身に染みる体験をしたに違いないと思わせるところがあって、ちょっと異様なほどのしつこさを感じさせる。冷凍庫でカチカチに凍らせた魚を棍棒代わりにして繰り返される暴力の描写はサディスティックでちょっと引いてしまいます。まあ、彼は結局その小道具で無残にコリーヌの復讐を受けるのですが・・
もう一人の主人公、韓国が舞台の作品なら超人的な武器としての肉体をもつヒーローになれそうな、もと北朝鮮の脱走兵らしいホンサンという若者も、パリではエキゾチックな武闘家のレンガ割りだのナイフ投げ(受け)のようなスキルを大道芸として見世物にするか、やくざの鉄砲玉として使われるくらいしか使われ道がなく、人が好いので、こすっからいことでは頭の回転のいいチョンヘにうまく利用されながらも、パリで生きるために寄り添って暮らしています。このホンサンが心を寄せる女性は映画の冒頭、パリへの列車のコンパートメントで一緒になった女性。彼女はパリののぞき部屋のストリッパーで、たまたまホンサンはその店内で舞台に出ている彼女をみつけて通いつづけ、贈り物を贈るなどしています。ところがその女性ローラの恋人はホンサンとチョンヘが関わるやくざの裏切った一員で、親分の命でチョンヘが殺してしまい、ローラは悲しみにくれる。チョンヘが殺した男から奪った高級時計をホンサンに贈り、ホンサンはそれを腕に巻いていたことから、悲しみにくれるローラは恋人を殺したのはホンサンだと思い・・・
色々と周辺の人物が絡んでいるけれど、軸はホンサンとチョンヘの間に芽生える友情とチョンヘの裏切り、回心、ホンサンの許し、といった展開です。組を裏切った幹部たちが親分側が重用するホンサンがじゃまだとチョンヘを金で釣って裏切らせ、ホンサンに冗談めかして鎖手錠をかけ、水路に蹴落とすところで、ホンサンは、どうせ俺に未来はないから、俺を殺してお前が生きられるなら生きろ、と水没していきます。それまでほんとにどうしようもない男だったチョンヘが、ここでホンサンの心の底からの友情に触れて回心し、鎖を引き上げてホンサンを解き放ちます。
最後は二人とも、恋人を殺されて恨みを抱いたローラに殺されてしまいます。ローラにしてもコリーヌにしても男にいたぶられ、食い物にされてきたあげく、最後に一発逆転、そういう男の暴力的支配を、暴力でもって打ち返すことに成功するのですが、女性の側を軸に描かれた作品ではないから、そのプロセスがたどられることもなく、解放感のない作品になっています。
パリの裏社会を背景にした男女の友情と裏切りと愛(といっていいかどうか・・・)を描く暗い物語だから、フィルム・ノワールの影響がよく言われているらしい作品で、それらしいところは随所に見出せます。
シーンとして印象に残るのは、不思議と虐げられた女性二人の登場する場面で、ひとつはパリの美術学校の画学生とし、公園で真っ白に身体を塗って彫像のように立つコリーヌの姿。それから、ホンサンの見る大きなガラス窓の向こうの水中を思わせるようなゆらめく幻想的な光の中で裸身を曝して踊るローラの姿。物語の本筋とは脇にあたるこうしたシーンに、とても美しい映像が見られて、のちの血と暴力の果ての浄化にいたるキム・ギドク作品の予感を覚えるのは、もちろん後の作品から初期作品を見る目の遠近法的倒錯というべきでしょう。
saysei at 12:26|Permalink│Comments(0)│
キム・ギドク(総監督)「リアル・フィクション」
2000年の作品。キム・ギドクが書いた脚本をもとに12人の監督がオムニバス的にシーンを撮ったのを、キム・ギドクが総監督としてまとめたらしくて、それも3時間20分で撮影されたという韓国映画史上最短の撮影時間で制作された作品とのこと。(ウィキペディアによる)
小説にせよ映画にせよ、短時間でつくったかどうかは、出来栄えには関係が無いですね。太宰治の「駈け込み訴へ」は奥さんの証言によれば、なんと太宰が語るのを奥さんが筆記した、いわゆる口述筆記で、ほとんどつっかえることもなく、よどみなく口述したそうです。天才というのはそういうものなのでしょう。
映画のほうでも私の好きなウォン・カーウァイの「恋する惑星」(重慶森林)なんか、彼らしく脚本なしに現場でどんどん撮っていった作品らしいけど、あのテンポのいい、シュールな映像は現場の疾走感がそのままフィルムに焼きついている感じです。撮影時間は知らないけど・・・
さてこの「リアル・フィクション」、撮り方だけでなく、出来栄えも、とても面白い、実験的な作品です。主人公は公園で似顔絵を描きながら近くの公衆電話回線を盗聴している変な若者。イケメンですが。
そして、客やら地回りやら、色んな周囲の人間に馬鹿にされたり、怒りをぶつけられ、暴力を振われても無抵抗。しかし、あるとき女の子に手をひかれてビルの中へ入って行くと、そこは舞台のような空間で、一人の役者らしい男がいて、これが最初は自分のことを喋っているのかと思ったら、そうではなくて、似顔絵描きの若者の分身なんですね。その若者の屈辱に満ちた過去のエピソードを語り始め、次第に今度は若者自身が興奮して自分の過去を語り始める。
つまり自分の分身たる男に焚きつけられて、何の抵抗もできずに屈辱ばかり味わってきた自分の内部の中に隠されていた怒り、嫉妬、憎悪、攻撃性、暴力性、復讐心等々といった激しい感情を喚び起こし、即自分をコケにしてきた連中に対する復讐の行動に点火します。
その境目になるのは、俳優らしい男にはがいじめされて、若者を連れてきた女の子の目に自分の恥部を無理やりさらされ、性的な屈辱のどん底を味わうところで、ここで一気にリビドーの奔出が起こり、彼は俳優らしき男を与えられた拳銃で殺し、女の子を殺して過去の自分を消去するための復讐の旅に出て行きます。
こうして、彼は自分を騙し、馬鹿にし、攻撃してきた連中を次々襲います。カメラはそれぞれの場で生きる今の彼等の日常の情事やいさかいや退屈な日々を映し出して見せ、それが一区切りするころに似顔絵描きの青年を登場させ、暴力的な復讐のシーンの数々がつづきます。
彼が似顔絵を描いているときからビデオカメラを彼に向けている女がいて、復讐劇を演じる若者をとらえているのは彼女のカメラのように見えるときもある。またそうではなくて、彼女の肩をなめるように若者の姿を捉えている映像もあって、こちらはこの映画の作り手の目ですね。
このビデオを撮る女をなぜ登場させたのか。彼女は「現実」を捉えようとしているわけですね。若者の復讐の行動を逐一カメラにおさめていく。でも、その彼女を彼は撃ち殺してしまう。あとでこの若者の復讐劇は彼の妄想であり、現実ではない、つまり復讐劇を演じている彼は役者と同じ、つまり虚構の人であり、彼が演じているのはフィクショナルな現実にすぎない。そのフィクショナルな現実が、カメラでまさにそのフィクショナルな現実を撮っていた現実の女性を殺してしまうわけです。
まぁこれはキム・ギドクが俺の作り出す世界はこんなふうに現実を食ってしまうほどのものなんだぜ、と言っているような気がしませんか?(笑)
ラストシーンで、若者が殺したはずの地回りのチンピラ3人が生きて、ぬいぐるみ屋をゆすって暴力を振っているシーンがロングショットでとらえられます。ところが、このぬいぐるみ屋がキレて逆にやくざにナイフを振うにいたって、「ハイ、カット!」とどこかで声がかかり、それもまたお芝居であったことが観客の私たちに知らされます。
この最後のロングショットの視線は、映画の撮影場面とそれを取り巻く町の人々、その中には似顔絵描きの若者も当然いるわけですが、そういう現実を捉える映像ですが、その中に若者の思い描く妄想の世界の登場人物(地回りやぬいぐるみ屋)が出て来るわけで、現実である映画の撮影場面と若者の頭の中のフィクショナルな世界とがシンクロしているわけです。
キム・ギドクがどこかで、寓話的、象徴的なものと、現実的なものとを同時に描きたいというようなことを言っていたようですが、おそらくこの作品のラストはそれを象徴するような場面になっていたのではないかと思います。
何の変哲もない現実から入って、妄想の迷路をくぐりぬけた果てに、メビウスの輪をたどっていくようにして、妄想の世界と現実とがシンクロするような現実にいつのまにか戻っている。それは同じ現実であるにも関わらず、観客の我々の目にはもう最初の平板な何でもないチンケな現実とはまるで違ったもののように見えます。それは私たちが確かに観るべきものを、つまりは若者の過去の人生の一コマ一コマを、その中で生きて若者に関わってきた周囲のこすっからい、ずるい、悪辣な、暴力的な人間たちの姿を見てきたからにほかならないでしょう。
小説にせよ映画にせよ、短時間でつくったかどうかは、出来栄えには関係が無いですね。太宰治の「駈け込み訴へ」は奥さんの証言によれば、なんと太宰が語るのを奥さんが筆記した、いわゆる口述筆記で、ほとんどつっかえることもなく、よどみなく口述したそうです。天才というのはそういうものなのでしょう。
映画のほうでも私の好きなウォン・カーウァイの「恋する惑星」(重慶森林)なんか、彼らしく脚本なしに現場でどんどん撮っていった作品らしいけど、あのテンポのいい、シュールな映像は現場の疾走感がそのままフィルムに焼きついている感じです。撮影時間は知らないけど・・・
さてこの「リアル・フィクション」、撮り方だけでなく、出来栄えも、とても面白い、実験的な作品です。主人公は公園で似顔絵を描きながら近くの公衆電話回線を盗聴している変な若者。イケメンですが。
そして、客やら地回りやら、色んな周囲の人間に馬鹿にされたり、怒りをぶつけられ、暴力を振われても無抵抗。しかし、あるとき女の子に手をひかれてビルの中へ入って行くと、そこは舞台のような空間で、一人の役者らしい男がいて、これが最初は自分のことを喋っているのかと思ったら、そうではなくて、似顔絵描きの若者の分身なんですね。その若者の屈辱に満ちた過去のエピソードを語り始め、次第に今度は若者自身が興奮して自分の過去を語り始める。
つまり自分の分身たる男に焚きつけられて、何の抵抗もできずに屈辱ばかり味わってきた自分の内部の中に隠されていた怒り、嫉妬、憎悪、攻撃性、暴力性、復讐心等々といった激しい感情を喚び起こし、即自分をコケにしてきた連中に対する復讐の行動に点火します。
その境目になるのは、俳優らしい男にはがいじめされて、若者を連れてきた女の子の目に自分の恥部を無理やりさらされ、性的な屈辱のどん底を味わうところで、ここで一気にリビドーの奔出が起こり、彼は俳優らしき男を与えられた拳銃で殺し、女の子を殺して過去の自分を消去するための復讐の旅に出て行きます。
こうして、彼は自分を騙し、馬鹿にし、攻撃してきた連中を次々襲います。カメラはそれぞれの場で生きる今の彼等の日常の情事やいさかいや退屈な日々を映し出して見せ、それが一区切りするころに似顔絵描きの青年を登場させ、暴力的な復讐のシーンの数々がつづきます。
彼が似顔絵を描いているときからビデオカメラを彼に向けている女がいて、復讐劇を演じる若者をとらえているのは彼女のカメラのように見えるときもある。またそうではなくて、彼女の肩をなめるように若者の姿を捉えている映像もあって、こちらはこの映画の作り手の目ですね。
このビデオを撮る女をなぜ登場させたのか。彼女は「現実」を捉えようとしているわけですね。若者の復讐の行動を逐一カメラにおさめていく。でも、その彼女を彼は撃ち殺してしまう。あとでこの若者の復讐劇は彼の妄想であり、現実ではない、つまり復讐劇を演じている彼は役者と同じ、つまり虚構の人であり、彼が演じているのはフィクショナルな現実にすぎない。そのフィクショナルな現実が、カメラでまさにそのフィクショナルな現実を撮っていた現実の女性を殺してしまうわけです。
まぁこれはキム・ギドクが俺の作り出す世界はこんなふうに現実を食ってしまうほどのものなんだぜ、と言っているような気がしませんか?(笑)
ラストシーンで、若者が殺したはずの地回りのチンピラ3人が生きて、ぬいぐるみ屋をゆすって暴力を振っているシーンがロングショットでとらえられます。ところが、このぬいぐるみ屋がキレて逆にやくざにナイフを振うにいたって、「ハイ、カット!」とどこかで声がかかり、それもまたお芝居であったことが観客の私たちに知らされます。
この最後のロングショットの視線は、映画の撮影場面とそれを取り巻く町の人々、その中には似顔絵描きの若者も当然いるわけですが、そういう現実を捉える映像ですが、その中に若者の思い描く妄想の世界の登場人物(地回りやぬいぐるみ屋)が出て来るわけで、現実である映画の撮影場面と若者の頭の中のフィクショナルな世界とがシンクロしているわけです。
キム・ギドクがどこかで、寓話的、象徴的なものと、現実的なものとを同時に描きたいというようなことを言っていたようですが、おそらくこの作品のラストはそれを象徴するような場面になっていたのではないかと思います。
何の変哲もない現実から入って、妄想の迷路をくぐりぬけた果てに、メビウスの輪をたどっていくようにして、妄想の世界と現実とがシンクロするような現実にいつのまにか戻っている。それは同じ現実であるにも関わらず、観客の我々の目にはもう最初の平板な何でもないチンケな現実とはまるで違ったもののように見えます。それは私たちが確かに観るべきものを、つまりは若者の過去の人生の一コマ一コマを、その中で生きて若者に関わってきた周囲のこすっからい、ずるい、悪辣な、暴力的な人間たちの姿を見てきたからにほかならないでしょう。
saysei at 00:11|Permalink│Comments(0)│
2017年07月19日
「チング 永遠の絆」「シルミド」「ブラザーフッド」
この2~3日の間に3本のハードな韓流映画を観ました。深夜になって、パートナーがテレビの前でそのまま寝てしまって、もう「何してるの?」と訊かない時刻(0時前後~)から観る、パートナーが絶対に一緒に見てくれそうもない映画ばかり(笑)。
「チング 友へ」も良かったけれど、続編の「チング 永遠の絆」はもっと良かった。「友へ」のほうは青春物語でもあって、学校時代親友たちがそれぞれの道を歩んで、最後は敵対するやくざの幹部になって殺さざるをえなくなるまで、続編はその後日譚で、殺しを指示した罪を自ら認めて17年間服役したジュンソクが出所してみたら、弟分だったウンギがジュンソクに近い組員を消したり排除したりして組の実権を握り、親分をないがしろにして幅をきかせ、ジュンソクを邪魔扱いする、という日本のやくざ映画によくあるパターン。ついでにいうと、回想的に挿入されるジュンソクの父親が日本のやくざと抗争を制して釜山の闇の世界の支配権を獲得するエピソードなんかは、ゴッドファーザーのパートⅡだったかな、無残な殺し合いだけのアルパチーノの世代から言えば祖父にあたる人物の生涯を描いて見せたのが下敷きになっているでしょう。
貧しい移民の子としてアメリカにやってきたところから、もちろん無法な暴力に訴えながらではあるけれども、家族や仲間の信頼に支えられ、地域の人々に頼られる次郎長的な一面もまだ完全には失っていない古き良き時代の土地の顔役からのし上がって行った祖父の物語。3代目のアルパチーノの世代になれば、もう裏切りと殺戮ばかりの荒涼たる世界になってしまっている。これはジュンソクの世界と父親の生きて築いてきた世界との違いでもある・・・。
さて、ウンギにないがしろにされた組長(会長)がジュンソクに資産を譲ることでウンギに対抗する力を得たジュンソクがウンギへの反撃に打って出る、というのもパターンどおり。
そこへ、ジュンソクが服役中に訪ねてくる高校時代の女友達が自分の息子を守ってくれと依頼し、ジュンソクは反抗的で無鉄砲なこの若造を自分の若いころに重ねるようにして守り、部下として育てようとします。しかし、実はこの若造ソンフンは、ジュンソクに敵対し、ジュンソクが殺したかつての親友の一人ドンスの忘れ形見で、ウンギがこの因縁を利用してジュンソクとドンスを離反させようと企むといった構成が、単純なやくざの内輪もめ抗争の話に、「チング」の両篇に共通する人間的なテーマ、若き日の友情とその後の苛烈な運命を描くことで人生の切なさを感じさせるような核心的なテーマを埋め込んでいて、見ごたえのある映画になっています。
なんといってもジュンソク役のユ・オソンの、渋い、凄みのあるやくざが、宿命の切なさのようなものを背負った表情が魅力的です。ウンギを殺るシーンのこの男の迫力は、日本の形式美をなぞるような映画の中の人情やくざとはまた違った凄みの魅力があります。
もう一つ続編の特徴は、映像が相当スタイリッシュなものになっていることです。韓国で大河ノワールとか言われたらしいけれど、たしかに映像は切れ味のいい鮮烈な光景を切り取って見せていて、内容は演歌的なお決まりパターンのやくざ映画なのに、かったるい、古臭い印象が無いのは、その表現のスタイルが新しいからでしょう。
さて、「シルミド」。現実に金日成暗殺の特殊部隊を組織し、それが政治的な和平方針への転換で実施されず、特殊部隊の隊員たちがバスで大統領府に向かおうとして軍の包囲する中、手榴弾で自害した、という事件があったようで、ほぼそれにのっとってつくられた作品らしく、韓国内でも詳細が伏せられた現実の事件を初めて具体的に映画の形で表現したためでしょう、すごい観客動員になったらしい。ただ、映画作品としては、それほどすぐれた作品にはなっていないと思いました。
この映画では特殊部隊はどうしようもない反社会的な犯罪者で、どっちみち死刑にされる者たちであった、とされていますが、現実は高給の公募に集まってきた一般人だったそうです。私ならそちらのほうが興味があり、そういう普通の人たちひとりひとりの、それまでの人生をスケッチして、どういう気持ちで特殊部隊に応募するかを見せてほしかった。でもこの映画は、ちょうどリー・マービン主演のすぐれた娯楽戦争映画「突撃隊」(だったと思う)と設定と同じように、殺人者たちを隊員として厳しいトレーニングで特殊部隊のプロフェッショナルとしてよみがえらせる過程に時間を割きます。
娯楽映画としてはそうなってしまうんだろうなとは思いますが、人間的なドラマとしては面白くない。
そして、出撃で嵐の中、ボートをこぎ出したところで、急遽作戦中止命令が出て、上官が止めにはいる。こういうところは、リチャード・バートン主演のやはり面白い戦争映画「ワイルド・ギース」と同様、一度命がけの命令をうけて出動したら、それを政治的な都合で中止させられ、政治権力者にとっては生きていてもらっては不都合な部隊だから抹殺される運命になる、というパターン。でもこの作品では敵地へ乗り込んでからではなく、まだ島から出るや否や、というところなので、すべては韓国軍の内部を場として起きる話で、閉塞感があります。
三つめが「ブラザーフッド」。これは朝鮮戦争の中で引き裂かれ、翻弄される家族の物語で、非常に見ごたえのある作品でした。手足が吹っ飛び、全身火だるまになって悶え、ハラワタが飛び散る戦場のまさに地獄絵のような光景がたびたび登場しますが、B級ホラーと変わらないそんなのを売り物にする映画ではない。
貧しくても平和でささやかな夢をもって仲良く生きる家族の2本柱になっている兄弟が戦争が始まった途端、家族から生皮を割くように引きはがされ、家族の期待の星である高校生の弟を守るために、靴磨きで一家を支えてきた兄が一緒に軍隊へ。
そこで勲章をとって、上官との取引で弟を除隊させようとする兄は、自らの命を顧みない働きをし、運よく成功させて英雄になっていくけれども、兄が自分のために進んで死地に赴いていることに気づいている弟は反発し、むしろ兄から気持ちが離れていく。
兄は死地を潜り抜けて功績をあげるたびに、捕虜となった敵を情け容赦なく銃殺するような戦場の鬼になっていく。・・とまぁ戦地での兄弟の確執等々を経て、最後は立ち寄った故郷で民兵の赤狩りに会う兄嫁を守ろうとして、兄嫁は殺され、弟は捕らえられ、兄は部隊へ戻されるが、勲章と引き換えに弟を助ける約束が上官が変わって果たされず、新任の大隊長と揉めるうち、大隊長は弟もその中に居る囚われた捕虜たちを全員焼き殺す命令を出し、兄が駆け付けたとき囚われていた倉庫は全焼。
自分が弟に送った万年筆がころがっていて、そばに黒こげの骸骨。弟を殺されたと思った兄は大隊長を殺害。しかし弟は戦友に助けられて生きていて、入院先の野戦病院で戦友と、朝鮮戦争が韓国軍の勝利に終わりそうだ、という朗報を聴く。
ところが中国の義勇軍10万の参戦で形勢は一変、再び弟たちの軍は激戦の最前線へ。そこで兄がなんと北朝鮮の最強部隊「太極旗部隊」の隊長となっていると聞かされた弟は、一度はあいつとは縁を切った、と言ったものの、未配でまわってきた兄の手紙を読んで、元のままの心をもつ兄を知り、除隊を目前にひかえた身で再び最前線へ、兄の翻意を促しに行く。
激戦の戦場で獅子奮迅の活躍をする敵軍旗部隊の兄を探し当て、なかなか弟を認識できずに襲い掛かる兄の銃剣をかわして、ようやく再会する2人。兄はあとでいくと弟を逃がし、一人とどまった兄は機関銃で義勇軍の追手を掃射して食い止める。
息をつく間もない緊迫の展開で、韓国映画の土性骨を見せられる感じの作品でした。
「チング 友へ」も良かったけれど、続編の「チング 永遠の絆」はもっと良かった。「友へ」のほうは青春物語でもあって、学校時代親友たちがそれぞれの道を歩んで、最後は敵対するやくざの幹部になって殺さざるをえなくなるまで、続編はその後日譚で、殺しを指示した罪を自ら認めて17年間服役したジュンソクが出所してみたら、弟分だったウンギがジュンソクに近い組員を消したり排除したりして組の実権を握り、親分をないがしろにして幅をきかせ、ジュンソクを邪魔扱いする、という日本のやくざ映画によくあるパターン。ついでにいうと、回想的に挿入されるジュンソクの父親が日本のやくざと抗争を制して釜山の闇の世界の支配権を獲得するエピソードなんかは、ゴッドファーザーのパートⅡだったかな、無残な殺し合いだけのアルパチーノの世代から言えば祖父にあたる人物の生涯を描いて見せたのが下敷きになっているでしょう。
貧しい移民の子としてアメリカにやってきたところから、もちろん無法な暴力に訴えながらではあるけれども、家族や仲間の信頼に支えられ、地域の人々に頼られる次郎長的な一面もまだ完全には失っていない古き良き時代の土地の顔役からのし上がって行った祖父の物語。3代目のアルパチーノの世代になれば、もう裏切りと殺戮ばかりの荒涼たる世界になってしまっている。これはジュンソクの世界と父親の生きて築いてきた世界との違いでもある・・・。
さて、ウンギにないがしろにされた組長(会長)がジュンソクに資産を譲ることでウンギに対抗する力を得たジュンソクがウンギへの反撃に打って出る、というのもパターンどおり。
そこへ、ジュンソクが服役中に訪ねてくる高校時代の女友達が自分の息子を守ってくれと依頼し、ジュンソクは反抗的で無鉄砲なこの若造を自分の若いころに重ねるようにして守り、部下として育てようとします。しかし、実はこの若造ソンフンは、ジュンソクに敵対し、ジュンソクが殺したかつての親友の一人ドンスの忘れ形見で、ウンギがこの因縁を利用してジュンソクとドンスを離反させようと企むといった構成が、単純なやくざの内輪もめ抗争の話に、「チング」の両篇に共通する人間的なテーマ、若き日の友情とその後の苛烈な運命を描くことで人生の切なさを感じさせるような核心的なテーマを埋め込んでいて、見ごたえのある映画になっています。
なんといってもジュンソク役のユ・オソンの、渋い、凄みのあるやくざが、宿命の切なさのようなものを背負った表情が魅力的です。ウンギを殺るシーンのこの男の迫力は、日本の形式美をなぞるような映画の中の人情やくざとはまた違った凄みの魅力があります。
もう一つ続編の特徴は、映像が相当スタイリッシュなものになっていることです。韓国で大河ノワールとか言われたらしいけれど、たしかに映像は切れ味のいい鮮烈な光景を切り取って見せていて、内容は演歌的なお決まりパターンのやくざ映画なのに、かったるい、古臭い印象が無いのは、その表現のスタイルが新しいからでしょう。
さて、「シルミド」。現実に金日成暗殺の特殊部隊を組織し、それが政治的な和平方針への転換で実施されず、特殊部隊の隊員たちがバスで大統領府に向かおうとして軍の包囲する中、手榴弾で自害した、という事件があったようで、ほぼそれにのっとってつくられた作品らしく、韓国内でも詳細が伏せられた現実の事件を初めて具体的に映画の形で表現したためでしょう、すごい観客動員になったらしい。ただ、映画作品としては、それほどすぐれた作品にはなっていないと思いました。
この映画では特殊部隊はどうしようもない反社会的な犯罪者で、どっちみち死刑にされる者たちであった、とされていますが、現実は高給の公募に集まってきた一般人だったそうです。私ならそちらのほうが興味があり、そういう普通の人たちひとりひとりの、それまでの人生をスケッチして、どういう気持ちで特殊部隊に応募するかを見せてほしかった。でもこの映画は、ちょうどリー・マービン主演のすぐれた娯楽戦争映画「突撃隊」(だったと思う)と設定と同じように、殺人者たちを隊員として厳しいトレーニングで特殊部隊のプロフェッショナルとしてよみがえらせる過程に時間を割きます。
娯楽映画としてはそうなってしまうんだろうなとは思いますが、人間的なドラマとしては面白くない。
そして、出撃で嵐の中、ボートをこぎ出したところで、急遽作戦中止命令が出て、上官が止めにはいる。こういうところは、リチャード・バートン主演のやはり面白い戦争映画「ワイルド・ギース」と同様、一度命がけの命令をうけて出動したら、それを政治的な都合で中止させられ、政治権力者にとっては生きていてもらっては不都合な部隊だから抹殺される運命になる、というパターン。でもこの作品では敵地へ乗り込んでからではなく、まだ島から出るや否や、というところなので、すべては韓国軍の内部を場として起きる話で、閉塞感があります。
三つめが「ブラザーフッド」。これは朝鮮戦争の中で引き裂かれ、翻弄される家族の物語で、非常に見ごたえのある作品でした。手足が吹っ飛び、全身火だるまになって悶え、ハラワタが飛び散る戦場のまさに地獄絵のような光景がたびたび登場しますが、B級ホラーと変わらないそんなのを売り物にする映画ではない。
貧しくても平和でささやかな夢をもって仲良く生きる家族の2本柱になっている兄弟が戦争が始まった途端、家族から生皮を割くように引きはがされ、家族の期待の星である高校生の弟を守るために、靴磨きで一家を支えてきた兄が一緒に軍隊へ。
そこで勲章をとって、上官との取引で弟を除隊させようとする兄は、自らの命を顧みない働きをし、運よく成功させて英雄になっていくけれども、兄が自分のために進んで死地に赴いていることに気づいている弟は反発し、むしろ兄から気持ちが離れていく。
兄は死地を潜り抜けて功績をあげるたびに、捕虜となった敵を情け容赦なく銃殺するような戦場の鬼になっていく。・・とまぁ戦地での兄弟の確執等々を経て、最後は立ち寄った故郷で民兵の赤狩りに会う兄嫁を守ろうとして、兄嫁は殺され、弟は捕らえられ、兄は部隊へ戻されるが、勲章と引き換えに弟を助ける約束が上官が変わって果たされず、新任の大隊長と揉めるうち、大隊長は弟もその中に居る囚われた捕虜たちを全員焼き殺す命令を出し、兄が駆け付けたとき囚われていた倉庫は全焼。
自分が弟に送った万年筆がころがっていて、そばに黒こげの骸骨。弟を殺されたと思った兄は大隊長を殺害。しかし弟は戦友に助けられて生きていて、入院先の野戦病院で戦友と、朝鮮戦争が韓国軍の勝利に終わりそうだ、という朗報を聴く。
ところが中国の義勇軍10万の参戦で形勢は一変、再び弟たちの軍は激戦の最前線へ。そこで兄がなんと北朝鮮の最強部隊「太極旗部隊」の隊長となっていると聞かされた弟は、一度はあいつとは縁を切った、と言ったものの、未配でまわってきた兄の手紙を読んで、元のままの心をもつ兄を知り、除隊を目前にひかえた身で再び最前線へ、兄の翻意を促しに行く。
激戦の戦場で獅子奮迅の活躍をする敵軍旗部隊の兄を探し当て、なかなか弟を認識できずに襲い掛かる兄の銃剣をかわして、ようやく再会する2人。兄はあとでいくと弟を逃がし、一人とどまった兄は機関銃で義勇軍の追手を掃射して食い止める。
息をつく間もない緊迫の展開で、韓国映画の土性骨を見せられる感じの作品でした。
saysei at 15:42|Permalink│Comments(0)│