2017年06月
2017年06月30日
又吉直樹「劇場」を読む~"ニ十一世紀旗手"
昨夜、テレビを見ていたら、比較的最近のことでしょうが、又吉が上海の大学に招かれて初めて中国へ行ったときのことを映していました。いま90年代生まれの中国の青年たち、”90後"(ジョウリンホウ)の間で又吉はブームなのだそうです。
それを聴いたとき、最初はとても意外な感じがしました。いま彼らの間で引っ張りだこの中国語に訳された「火花」は、原作の日本語版を私も読みましたが、或る意味でとても難しい作品です。芸人さんの作品だからといってエンターテインメント系の小説ではなくて、結構ハードな、少々古めかしい言葉で言えば「純文学」で、しかも成熟社会というのか爛熟≒頽廃した世界に咲く仇花のような話芸の芸人たちの過剰な自意識のドラマといった、いまの中国の若者が置かれた状況などとはかけ離れた世界を描く作品が、とても好んで読まれるとは思えなかったからです。
しかし、今回の新作「劇場」を読み、又吉が上海の大学の日本語学科の青年たちと対話するのを垣間見て、なぜ彼の作品が読まれるのかが少しは理解できるような気がしました。
たしかに、前作の芸人たちと同様、食うや食わずで、ただすぐれた演劇を生み出すことにしか生きる意味を見いだせない主人公のような人間が、食って寝て生活費をかせいでいくほかはない現実の諸条件に時に打ちひしがれ、みじめさの中で、自分より凡庸な周囲の人間たちに否定され、ときに憐れまれながら、自分の才能を信じ、矜持を失わず、どんなにほかはいいかげんでも、演劇に関してだけは生真面目で、ひたむきに生きている、その或る意味での「純粋さ」には、目標に向かって一途に努力している若者の心を撃つものがあるでしょう。
また、ほかにはおよそ何一つとりえのない自分を支える唯一の拠り所である天賦の才能についても、自分は或いは神の掌から漏れた人間かもしれない、と「恍惚と不安」の両極に烈しく揺れ動き、精神の極端なアップダウンを繰り返す、そのありようは、限りない可能性を持ち、ときに自己を過信し有頂天になったり、またときに、いまはまだ何者でもない自分の能力について自信を喪失し、自分の生きざまについて、将来について、大きな不安に陥らざるをえない若者の多くが、自分に引き寄せて共感できる精神のありようではないでしょうか。
或る中国人女子学生は、「火花」という前作に込められたメッセージを自分なりに読み解いて、人間が困難に遭遇しながらも、それに耐えて、乗り越えていくことによって、道が拓かれるのだ、ということでいいのでしょうか、という意味のことを訥々とした日本語で作家に問いかけていました。
それをいま日本で又吉の作品を読んで、幼稚な読み方だと言うのはたやすいけれど、案外そんなナイーブな読み方の中に、又吉の作品の核心が直観されているのではないか、と思うところもあります。
前作「火花」でもそうでしたが、「劇場」ではより明確に主人公永田一人に過剰な自意識の劇が集約され、それが一つには同じ劇団の、あるいは彼と同様に演劇を志している周囲の人間たちとの関係の中で対比的に天賦の才に恵まれた孤高の芸術家のような姿を浮かび上がらせてきます。また、いまひとつには、沙希という異性との出会いによって相対化され、倫理的な色彩を帯びる主要な流れが物語を構成しています。
もちろん前者、たとえば永田自身が主宰する劇団員たちから、永田さんはもう古い、といった形の反乱に遭い、一貫して彼らの目には、永田はもう駄目だ、演劇人としても人間としてもダメだよね、という否定的な評価を受け続けることで、或る意味で主人公のありようは相対化されています。
しかし、それはほんの見掛け倒しで、実際には彼等、たとえば後々まで登場する青山のような劇団仲間が永田をどんなに否定しても、永田は痛くも痒くもないのです。自分の存在を根底からおびやかされることはない。なぜなら、最初から最後まで、青山たちは永田よりも才能の劣る者たちであり、なにも分かっていない、凡庸な感性と創造力しかもたない、神の掌には最初から掬い取られてもいない者たちに過ぎないからです。作者がそういうふうに描いている。
演劇論をかわすときには、生真面目に相手の言葉に自分の言葉を返し、きちんと応じるけれども、それは永田が本当に彼等(青山ら)を対等の存在とみなしているからではなく、むしろ余裕をもって自己の優越性を相手に示し、そして読者に披露することができるからです。
永田にとって、青山らは、漱石の「明暗」におけるお延のような真の「他者」ではありえません。それは永田にとってはまったく与しやすい相手なのです。
それは、彼らも同じ演劇人であり、いわば文化にイカレた、凡庸な文化的大衆に過ぎないからで、彼等より少しはマシな永田は、つねに自分よりも劣る同類としての彼らに対して優位に立つことができるのです。
彼らが永田を裏切ったとしても、それは彼らが永田の<使徒>であることの裏返しにすぎず、永田を離れても、かつて永田の<使徒>であったイスカリオテのユダに過ぎないのです。しかし、言うまでもなく彼らは「駈け込み訴へ」のユダのように、永田の自己幻想の世界を相対化するだけの拮抗力を持ち得ません。それはもちろん登場人物の責任ではなく、私は作者又吉の責任だろうと思うのです。
のちに食うに困っている永田に青山がエッセイか何かを書く、食い扶持を紹介するようになる場面があります。そうなっても、永田は一向に屈辱を感じずに済むのは、永田が演劇への志の問題つまり自己表現という観念の世界と、自分の身体が生きる実社会、現実に食って行かなくては生きられない世界とを完全に切り離し、最初から後者を切り捨てて、自己幻想の世界に生きることにしか意味を認めていないからです。
自分がどんなにみじめに貧乏をして、女のひものような暮らしをし、自分が軽蔑する人間に食い扶持を紹介してもらっても、何とも思わない、それはそんなことに何の価値も認めていないからです。自分の人生にとって、どうでもいいことだと考えているからです。
その点で、唯一、永田の存在を脅かすのは、脚本をちょいと覗いた瞬間に自分よりも才能があることを直観せざるを得ない小峰という演出家だけです。彼に触れるときだけは、傲慢不遜な永田も神の前に引き出された小物のように怯えます。青山らは自分の才能と永田の才能の違いさえ分からないから、まだ幸せです。しかし永田には自分と小峰の才能の違いが直観的にわかってしまう。才能の有無を見分ける能力は与えられながらも、一番手の才能は別人に与えられ、自分は神様から二番手、三番手の才しか配分されなかったということが分かってしまうクリエイターほど惨めなものはないでしょう。
しかし、小峰はほとんどこの作品では、永田に実際の心身を備えた他者としても、永田に拮抗する自己幻想としても登場していません。それはただ永田の「恍惚と不安」との間の落差を極限まで拡大増幅させるための仕掛けにすぎず、永田自身が、自分は神の掌からこぼれ落ちてしまった存在にすぎないのではないか、と過剰な自意識が追い詰める地獄であえぐ姿の鏡像の反転像に過ぎません。
ではもうひとつの現実、沙希との関係はどうでしょうか。彼女はひたすら永田の天賦の才を信じ、これを尊敬し、日常的な彼の振る舞いも、すべて永田の才能の前では許されるべきものであり、自分は彼のシモベとして仕えて、傍らにひっそりといられればいい、と考えているかのような存在です。
彼女もまた、永田にとってまことに都合のよい、彼のお弟子さんです。彼女も「かつては」演劇を志した人間だったのです。作者は、永田と共に、沙希が新訳(ルカ伝)の姉妹、イエスの足もとで彼の言葉にじっと耳を傾けるだけであったマリヤと、饗応に心を砕いてイエスの為に忙しく立ち働いていたマルタの両方の性質を兼ね備えた女であることを望んでいたのかもしれません。
それは言ってみればヴィヨンの妻のような存在かもしれません。でもそうであったとしても、彼女が「死の棘」の作家の妻に転じない保証はないはずですが・・・。
またもし沙希がそれとは逆に、永田と同じように演劇を志す強い意志をもった女性であったら、彼等の運命は光太郎と智恵子のような悲劇に終わるほかは得なかったでしょう。しかし、沙希はミホにも智恵子にもなってはいきません。
作者は永田の自意識のドラマはかなり徹底的に追い詰め、これでもか、これでもか、とぐいぐい永田の内圧を高めていくけれど、沙希との関係に関しては追い詰め方が甘く、中途半端です。そこからミホや智恵子のような存在が立ち上がってきたら、もっとずっと怖い作品になったでしょう。この作品が少し自意識過剰な文学青年と彼に憧れた初々しい女性の青春ドラマとして読めることは、「90後」世代の中国の若者にとっては幸せなことだったかもしれませんが・・。
こうして沙希は使徒としての自分をそっとそのままにして、生活者としての自分、肉体をもった生身の自分のほうを瘦せ細らせ、崩壊し、自滅していきます。ラストは自意識のドラマを緩和した形で現実的なストーリーによって彼女を救抜していますが、そこは甘くなっているところです。永田が沙希に彼女が健康を取り戻したらこうしようね、ああしようね、と夢を語っているラストは、「ばああああ」でチャラケてごまかさないと読めない気恥ずかしさがあります。
少なくとも太宰はヴィヨンの妻を勤め先の客に汚させます。彼のもう一つの作品に「アントニムの当てっこ」という言葉遊びのシーンがあります。そこに登場する無垢の<信頼の天才>であるヨシ子にも、ヴィヨンの妻と同じ運命が待っています。これらの作品には、言葉遊びのシーンで暗示される彼女たちの運命が、そして夫や葉蔵が引き受けなければならなかった<罪と罰>がきっちり描かれているような気がします。だからこそ、そこをくぐっていくとき、「人非人でもいいぢゃないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」(「ヴィヨンの妻」)というラストの言葉が出て来るのでしょう。
マイナスのカードを全部集めたらプラスになるような浄化、或る意味での聖化が生じ、同時にどうしようもない「蟾蜍(ひきがえる)」(「人間失格」の中の言葉)のように醜悪な存在である作家のほうも彼女とともに浄化されます。でもそれは不潔なナルシスの自己聖化とは紙一重で、でも画然と区別されるものだと思います。
太宰の作品もまた自意識のドラマと見ることができ、本来それはほうっておけば、極端まで行けば読者を拒むような、閉じた言語の球体を作るほうへ行くはずなのに、彼は「話すように」書くことで作品を開いていって、次々に奇蹟のような作品を生み出すのですが、それは作品としては矛盾であって、どこかで崩壊せざるを得なかったのでしょう。
「人間失格」のような作品はそういう矛盾を体現して崩壊寸前で辛うじて持ちこたえているような作品ですが、それは必ずしもクスリや錯乱のせいではないでしょう。
普通は自意識のドラマを「話すように」書いていけば、読みやすい通俗化の道をたどるはずですが、彼の作品はそうはならなかった。
たしかに三島由紀夫などが嫌ったような、ナルシシズムでずくずくの作品で、多くの太宰ファンが青春期を過ぎて現実の社会で生活するようになれば、そういう面に惹かれたり、気づかずに惚れた自分が気恥ずかしくなって離れていくでしょう。けれども、あの時代にこういう開かれた語りの文体ですぐれた作品を生み出しつづけた作家はほかにだれ一人いなかったように思います。
彼の描く主人公は作家としての自画像に似せた男かもしれないけれど、酒飲みでだらしない無頼のどこにでもいるつまらない男にすぎません。又吉の描く演出家のような周囲がそれなりに一目を置く文化人でもなく、作者がこいつはちょっとほかのやつとは違う発想ができるんだぞ、と「才能」の片鱗を鎧のようにちらつかせることもしません。ただ無頼でもってヴィヨンの妻のような存在に拮抗しています。私にはこの違いは結構大きいと思っています。
太宰には本当の意味での捨て身なところがあります。
”蟾蜍(ひきがへる)”と彼の主人公は自分のことを思います。ただ荒んで野卑な酒飲みになり、金に窮して妻の衣類を質屋に持ち出すようなことを繰り返しているだけの男。決して周囲の自分より劣位とみられる登場人物や読者から、賢い才能のある演出家だの作家だのと見られるような存在ではありません。
彼の作品の中で、たった一ヶ所、自分の心の中には真っ白に見える紙があって、実はそこにはほとんど目に見えないくらいの小さな文字で真実が書いてある、でもそれはほとんど読めない・・・という、自分が傷つけている妻や子の存在に拮抗する内部を語るわりあいあからさまな主人公の述懐の箇所があります。
私はせいぜいそんなふうにしか表現できないはずだ、いやしてはいけないだろう、という気がします。
それに比べれば又吉の主人公は、すさまじい自己肯定の徒で、それを否定する「他者」(実は「他者もどき」である劇団の仲間とか)を彼にぶつけてみたり、神様小峰の影におびえさせてみたり、又吉自身の恍惚と不安の間、天と地の間を上昇しては落下する地獄のあがきを描き、嫉妬や苛立ちや狂気を表現してはいるけれど、そしてそういう太宰に輪をかけたような過剰な自意識のドラマがこの作品のテンションをたかめていることも分かるけれど、彼が演劇における神に選ばれし選民であるという自己規定自体を絶対に疑わず、捨てないことは先験的であって、その分、「他者」であるべき者もまた、決して真の「他者」として立ち現れることがなく、単にナルシスの末裔に傷つけられ、否定され、或いはときに不憫がられるだけの存在として崩壊していくしかないのです。
つい先日出たばかりの『吉本隆明質疑応答集①宗教』という本の最初に、親鸞についての講演のあとの質疑応答の中で、親鸞に興味をもったきっかけを問われて吉本さんがちょっと面白い言い方で答えているところがあります。
”親鸞は、人間は正しいことをいうためになぜ自分を偽らなきゃいけないか、ということを非常によく考えて、自分を偽ることと正しいことをいうことの間に橋を架けたような気がするんです。”
これだけではこの言葉の射程がよく見えないと思いますが、私はある構造を介してこれを例えば又吉の作品の永田と沙希の間に、あるいは永田の演劇に関わる思想と彼の沙希に関わる生き方との間に橋を架ける、というところに転化することができると思っています。永田のように自己幻想の世界に生きるということが、そんな世界に足を踏み入れなければ故郷で幸せに暮らせただろう沙希のような存在にどう関わることができるのか。この作家はまだうまくその橋を架けることができないように思います。
演劇の選良という幻想だけは手放さずに、ただそれだけが原因で生じる自意識のドラマは、近代小説が繰り返し描いてきた定番ですが、たぶん漱石以後の小説は、その構図を突き抜けていく先にしか生まれてこないような気がします。
永田はまだ、なけなしのプラスのカードを捨てきれず、そいつをちらつかせてゲームから降りたプレイヤーの前で威張って見せるだけの、つまらない秀才にすぎません。
「橋が架かる」ときには、彼は演劇人である自分を一度壊してしまうだろう、と私は確信しています。永田は自分の唯一のよりどころである才能ある演出家というナルシスの卵を一度完膚なきまで叩き潰さないと、根性を捨てきれない人間です。決して本当の意味で「他者」に出逢うこともなく、まして「他者」に橋を架けることなど思いもよらないでしょう。
いまの永田であれば、私は正直のところ、こういう男は、さっさとどこかで野垂れ死にしてくれたほうが、周囲の善良な人を傷つけず、世の爲・人の爲ではないか、と感じざるをえませんでした。中国の「90後」のファンたちからは袋叩きにされそうですが(笑)
でも、この作品がきらいなわけではないのです。
一番好きな箇所は、メインストーリーとはほとんど関係のない、永田が一人で夕方、脚本書きに疲れて商店街のあたりで見るともなく、一升瓶をかかえた中年男やライダースを着た緑の髪の女、それから自転車を押す母親と連れ添うように歩く赤い頬の少年を見送るシーンです。
あのシーンは、自分を「蟾蜍」と自嘲する男が妻の衣類を質屋へ入れて作った金で銀座で飲み、2晩つづけて外泊して足音をしのばせて帰宅し、アパートの前で妻子の罪のない「幸せそうな」会話を聴いてドアを細くあけて中をのぞくと、白兎の子が部屋の中を跳ねていて、親子でそれを追っている。その姿を見て、幸福を、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る、とそっとドアを閉め、また銀座へ戻って行くシーンに匹敵します。
ところが、せっかくのこのシーンも、アプリオリな演出家、劇作家である彼の世界に取り込まれてしまうだけのようで、他者につながる橋にはならないのです。
沙希を笑わせるための話芸の巧みさはお手のものです。日本の若い人はそういうところに惹かれるかもしれません。沙希とのやりとりはとても面白い。会話のタイミングの取り方が抜群にうまい。「おばあちゃん責め」のところなんか読みながら笑ってしまいます。
青山とのやりとりや、自分の劇団員とのやりとりなども、相手の劇団員もまんざら馬鹿ではなくて、それなりに論じることのできる水準であって、なおかつ永田が馬鹿にするだけの凡庸さもよくわかり、永田のほうのシャープな切り込みが冴えて見えるように、ちゃんと描かれていて、そこはさすがですね。でもそんなのは作家として当然の水準の力量で、褒めるべき箇所でもないでしょう。
沙希がボロボロになっていって、二人の距離ができて、永田が彼女を探して、マンションへ、さらに職場まで生き、店長と一緒だったときいて、店長の家のあたりまでうろうろして沙希に出逢い、彼女を自転車の荷台に乗せて走る場面。永田が自転車をこぎながら、ひたすらしゃべり続ける場面。中身はどうでもいいけれど、あの場面は好きです。ごくリアルな場面なのに、なにか「ユリシーズ」の最後の章の意識の流れを句読点抜きで書いた実験的な箇所のような錯覚を覚えました。
この作家が繰り返し永田と沙希の寄り添うシーンを描きながら、決してセックスを描こうとしない点も沙希にヴィヨンの妻を連想させるような作品世界の清潔さというのか、潔さを感じました。そうでなければ、二人の世界はベタベタした生臭いものになったでしょう。そこからこの作品が目指したものとは全く異なるリアリティが生まれて来る可能性がなかったかというと、それは分りません。しかし、作家はある意味で自意識の地獄の果てにメルヘンの世界をつくりたかったのでしょう。
最後に沙希が元気になったら、こんなこともしようね、あんなこともしようね、と語る永田は、無頼の果てに出逢う無垢の少女に、春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、と言った葉蔵を連想させます。でも彼女が汚されるのは太宰の作品ではそのあとなのです。
ひろっていけばキリがないのでこのへんにしましょう。昨日もテレビを見ていたら、何人もの若い女性タレントが任意の札を引いてお題を与えられ、写生画を描いてプロの画家に評価させるような番組があって、見ていたら、みんな上手いことに驚きました。タレントというのは本当にマルチタレント、何にでもやれば才能を発揮するようです。天はニ物も三物も与えるものなのかもしれませんね。
[この感想は最近出た単行本によらず、初出の雑誌「新潮」2017年4月号掲載の作品に拠っています。単行本収録に際して加筆・修正されたところがあれば、違っているところがあるかもしれません。]
2017年06月28日
チャン・フン監督「高地戦」
パートナーは戦争映画への拒絶反応があって、決して見ないので、戦争映画が好きなわけじゃないけれど、私はたまにDVDを借りても一人で見ます。だから戦争映画を見ることも少ない中でのことですが、この「高地戦」は私がみた戦争映画の中では5本の指に入ろうかという佳作だと思いました。
まず戦闘シーンが素晴らしい迫力。いまは撮影技術が高度になっているから可能なのでしょうが、或いは工学的な撮影技術のせいではなくて、キューブリックが戦争映画をつくって拓いた技術、というような意味での表現のスキルみたいなものの高度化なんだ、と言った方が正確かもしれません。
私は日露戦争の二百三高地の死闘を描いたような映画もみたことがありますが、いくらバリバリ機銃を撃ってバタバタ兵士が死んでも、どこか作り物めいたつまらない映像にしか思えませんでしたが、この「高地戦」のエロック高地(Koreaを逆さ読みしたらこうなるそうです、なるほど)なる文字通りの高地の要地を奪い合う死闘は、ロケ地の「らしさ」からして迫力満点で、そこで手榴弾や機銃掃射でやられて腕や足が吹っ飛ぶわ、もげ落ちるわ、胸を腹を容赦なく「2秒」(敵狙撃手の綽名。弾に身体を貫かれてから2秒して発射音が聞こえるから、と)の銃弾が貫通して血が噴き出すわ・・・
でもこの映画のいいのは、もちろん戦闘シーンがすさまじいからではありません。戦争の苛酷さが、前線へやってくる韓国諜報隊の中尉という外部の目で見られた韓国軍ワニ中隊の敵との死闘で描かれるだけではなく、そのワニ中隊が忘れようとして忘れられない過去の地獄と狂気を引きずっていることでいやましに深められ、さらに敵軍である北朝鮮軍の中隊長をはじめとする兵士たちの人間性と死闘の変わり目に偶発的に生じた両軍兵士の、ヘロドトスが「歴史」で描いたような「沈黙交易」のごときささやかな「交流」によって、対照的に一層鋭利に観る者を切り裂く苛酷さとして感じられるのです。
見る目としての諜報部の中尉よりも、彼の旧友でいまは人が変わったように戦争マシンと化したキム・スヒョク中尉が素晴らしい。これを演じるコ・スは、いま私が毎週見ている日曜夜のBSプレミアムでやっている韓流ドラマ「オクニョ」(獄中花)で主役の相棒と言っていい腕がたち、陰のあるイケメンヒーロー、ユン・テウォンを演じている人気俳優ですが、オクニョで演じているより、この高地戦でのスヒョク役がすばらしい。本当に魅力のある演技です。この人はオクニョでも、剣だけでなく、素手素足の見事な戦い方をしてみせるので、何か武術をやっているな、とは思っていましたが、どうやらテコンドーでは2段の腕前らしい。ついでに言うと、11歳年下の素人の美大生と結婚したそうです。悪い奴だ(笑)。でも「高地戦」のスンヒョクを観てしまったら、年齢に関係なく男女さえ問わずこの俳優に惚れるのは無理もないかも。
「冬のソナタ」でサンヒョクの友人チンスクの恋人役をやった、少し剽軽な役だったリュ・リンスも軍曹役でいい味を出しています。
でも、スンヒョクのコ・ス以外では、断然モルヒネをいつも打ち続けている若き大尉イリョン役のイ・ジェフンが素晴らしい。なぜこの若者が大尉なのか、彼の人を容易によせつけない姿勢や孤独の影ともども、ネタバレになるからこれ以上は書けませんが、このワニ中隊の物語の核心に関わるエピソードが隠されていてやがて明らかになります。そういうのが当初は外部の目として訪れる諜報隊中尉(カン・ウンピョ中尉)の目に次第に見えはじめ、真実が明かされて行くに従い、戦争の苛酷さが剥き出しになっていきます。そのあたりの運びは脚本が実にいい。
我々が戦っているのは敵ではなくて、戦争そのものだ、というセリフが出てきます。まさにそういう認識と、そのために抗い、死んでいく兵士たちの物語がこの映画です。
たしかに敵とのこのような「交流」は、偶発的な一瞬のこととしてはあり得ても、おそらく現実的でもなく、また描き方として甘さになっているかもしれません。しかし、この映画を見ていて痛いほど感じるのは、あの戦争が同胞との戦争であった、ということです。内戦ということの意味を、両軍の兵士たちの振る舞い、表情、その言葉のうちに私たちは気づかされます。その切なさも同時に。
日本が東西、あるいは南北に分けられ、その境界線で死闘を繰り返す状況を想像してみてください。親子兄弟が別れ別れになり、殺し合わなくてはならない状況を。
休戦協定が成立したぞ!すべてが終わったぞ!・・・そう思ったあとのどんでん返し、これがこの映画の描く戦争の苛酷さ、悲劇というものを何重にも深めています。あのとき、霧が晴れなければ・・・そのまま時間がたてば、と両軍の兵士ともども私たち観客も願わずにはいられなかったのではないでしょうか。そして、霧が晴れ、飛来する米軍爆撃機は、韓国軍の味方であるはずですが、北朝鮮軍にとってはもちろんのこと、韓国軍兵士にとっても、また観客である私たちにとっても、できれば来てほしくなかった、消えてほしい「戦争」という敵そのものに見えたのではないでしょうか。
そういうことがいやというほど的確に深く描かれた「戦争映画」でした。
たしかに、両軍兵士の「交流」の甘さ、とりわけ狙撃手の造形や、それとスヒョク中尉との、あるいはウンピョ中尉との一種の「交情」は、いかにもエンターテインメント性を盛った映画的小細工で、甘いでしょうし、戦場に拾われた二人の孤児、一人は片手の先がもげている、あの子たちを登場させるのもあざとい。もちろん、そういう要素を削ぎ落せば、男ばかり、兵士ばかりの映画になるけれど、どうせリアルを掘り下げるなら、削ぎ落したほうがテンションはもっと高く、凝縮された映像になったとは思います。
でもまあそういう揚げ足取りをしても、この映画への高い評価は変わりません。
ワニ中隊の名の由来がすごい。ワニは100個の卵を産む。しかし産みだされた瞬間に50個はほかの動物に食べられてしまう。それから残りの49個は成長するまでの過程で全部ほかの動物に食べられてしまう。残るのは1個だけだ。しかしその1匹は生きる沼の世界を支配する。われわれはワニだ。100匹のワニとなるべき卵のうち99が食いつくされても、最後に残る1匹が世界を支配する、と。こうして自らを鼓舞して、彼らは最後の戦場へ、最後の死闘へと出かけていくのです。
2017年06月27日
"Ghost of Yesterday" at the Ritsei Cinema
昨夕、立誠シネマで一回限り上映された、”Ghost of Yesterday" をパートナーと二人で観て来ました。先週土曜日から今週にかけて立誠シネマで毎夕上映されている最新作「さよならも出来ない」の監督の11年前、24歳の頃の作品で、彼にとっては大学の卒業制作で撮った作品に続く長篇第2作でした。
平日の早めの夕刻とあって、さすがに観客は少なかったけれど、最初から最後まで、そして監督挨拶まで含めて熱心に観て下さる方ばかりでした。
制作されて間もない頃、ビデオで観たり、京都シネマで上映してくれた時に観てはいましたが、10年の歳月を経て今見ればどうだろう?と多少の不安とこちらの見方が変わることで新たな発見もあるかというささやかな期待の両方を持って観ていました。
帰途、パートナーが「今見てもこの映画はしっかり作ってあるから,安心して見られるし、いい映画だと思うわ。身内びいきかしら?」と。いや、私も実はそう思って見ていました。確かに2時間という長尺は監督自身が笑いながら挨拶で言っていたように、観客に親切とは言えないかもしれませんが、実に泰然とした趣があり、構成がしっかりしていて、24歳でよくこんな作品が作れたな、と今振り返ると奇跡のような気がして来ます。
脚本も私が以前に文化事業論の中で映画制作を取り上げた時に一つの例として参考にさせてもらおうと資料を探していた時、たまたま彼が放り出して部屋に転がっていたこの映画の脚本のきちっと綴じた原稿の束の表には、確か第7稿と書いてあったから、相当徹底的に考え抜かれ、何度も書き直されたものだったでしょう。構成がしっかりしているのは脚本がきちんとしたものだからに相違ありません。
今はメジャーの映画の多くが人気漫画かベストセラー小説を原作にして、ビジネス的に売れる映画を作ることが優先され、まともなオリジナルの脚本はむしろ稀だと言っていいでしょう。そんな中で、結果的に満足できる水準の脚本が書けるかどうか、またそれを映画化した時の興行的な成否はリスクが大きく、賭けみたいなものかもしれませんが、若い映画人がそういう困難にチャレンジすることを心から応援したい。
この映画は高木風太という彼の友人で、今ではメジャーな映画の撮影に参画している名カメラマンがカメラを回してくれていて、映像は一級品だと思います。
宝ヶ池の風景、クリスマス衣装で酔っ払って歌い踊る疑似家族を窓のフレームを通して外から撮った映像、決定的な場面での屋内の造作と登場人物のクローズアップされた表情が重なり合う時の捉え方の巧みさ(冒頭の車内からフロントグラスを通した風景、徹(とおる)が偽の「父」と母の決定的な行為を目撃する場面、洗面台で徹が身を屈めると妹の表情がそこに映っている場面、疑似家族の「父」を激しく拒絶した徹の気持ちが転回する重要な沈黙の時間の彼の表情を様々な視角からとらえた映像など)等々は、もう十分に風太君の力量を示しているでしょう。
監督は昨夕の挨拶で、11年前に上映した時、観客の女性たちが近くにいる自分に気づかずに作品について話していて、父の墓へ徹(とおる)が偽の父を連れて行く場面で、黒谷でロケした長い上りの石段を上がってくるのをロングショットでずっと写しているシーンを、「長かったねえ」と言っていたのを覚えているが、自分も今改めて久しぶりに旧作を見ていて、確かに長いなぁ、と思った、と笑い、最新作「さよならも出来ない」では、少しは観客のことを考えられるようになったと思うので、この11年間で少しは成長したところもあったのではないかと思う・・・というようなことを話していましたが、私はあの京都市内を遠く借景のように捉えたロングショットはとても素敵な美しい場面だと思ったし、この作品の中でも幾つかみられる、パッと明るく視界の開けるような実にいいシーンの一つだと思って観ました。偽の父さんが墓石の前で手を合わせるのに対して、何ですか?そういうの止めてください、と徹が言う、あぁいうセリフもよく考えられています。
監督自身が担当した音楽、音響(共同担当)はいうまでもなく、人物が見えずに、あるいは音の発生源は見えずに、音だけ聞こえてきたり、タイミングがずれてその姿が現れたりする、そんな映像と音の重ね合わせが、実に細部まで神経が行き届いていて、いわゆる「凝った」作りになっています。
2時間の長尺にもかかわらず、そのような細部の作り込みが徹底していて、そこはさすがに芸大の映画学科で基礎的なトレーニングをきちんと積んだスタッフの総合的な力量を感じさせるところがあり、同じ土俵に並べられて、それなりに賞をとったりしていた他の作品のひどい粗っぽさ(それはそれでど素人としてのインパクトを感じさせるところが値打ちでしょうし、勢いだけあれば、かえってプロらしくないところが審査員に評価され易い面はあるのですが)とは同日に論じられないように思いました。
この監督の最初の長編が京都の国際学生映画コンクールで入賞した時も審査員の一人が、監督がフィルムへのこだわりを持って撮ったことを批判して、監督に対してというより、彼を生み出した芸大の映画学科の教育を揶揄するように、デジタルでいくらでも撮れる時代なのに、いまどき後生大事にフィルムでの映画づくりにこだわっている姿勢や映像教育をアナクロニズムと断じ、たまたまその映画にロケ場所としての自宅の空間と車を貸したためにクレジットに監督と同じ姓があるのを目に留め、親が協力しているなら、なぜそういうことをアドバイスしてやらないのか、みたいなことを言ったのを、当の身内として、見当違いなことをいう人だな、と苦々しく思って聞いたので、今でも覚えています。もちろん20歳も過ぎて自立して映画を撮っている息子に制作に関して余計な口出しをするなど思いもよらないし、ましてそういう馬鹿げた「アドバイス」をするほど愚かな者は彼の周囲にはいなかったのです。
フィルムで撮ればやはりデジタルとは映像の質感が違う、かどうかというようなことは、技術的なことがわからない私にはわかりませんが、作品を作った監督やカメラを担当した風太君のような繊細な感性を持ったクリエイターならそんな違いに敏感だということがあっても、少しも驚かないし、違和感はありません。それに、大阪芸大の映画学科が、安易にビデオカメラを向けさえすれば撮れる「映画」づくりなど採用せずに、徹底して古風なフィルムでの丁寧な映画作りを教えてくれたことも、良かったと思っています。それはのちに色々見ることになった、映画学校などのデジタルで作った映画の粗雑さを数多くみて、それはフィルムかデジタルかの技術的な差異ではなく、映画作りに対する姿勢の問題だと気づいたからです。
”Ghost of Yesterday"はどんなに未熟な点を数多く持っているとしても、その時の作り手たちが世界についても映画についても絶対にタカをくくるようなことなく、全力を挙げて丁寧に作った作品であることは、11年後の今観てもはっきりとわかるし、これから何度観ても、その印象が変わることはないでしょう。
監督自身、大学の卒業制作だった長編第1作からこの第2作に至って、大きく飛躍したと思います。私は残念ながら第3作を見ていないのでそれについては何もいえませんが、第4作に当たる長期間を置いての最新作「さよならも出来ない」は、ほとんど素人のワークショップ受講生との共作ではあるけれど、彼が脚本、監督を責任を持って作った作品とみなしてよいでしょうし、監督自身が挨拶で語ったように、確かに観客にとってより鑑賞しやすく、人間に焦点を当てた作品になっていて、作り手の意志がよりコンパクトに集約された緊密な作品に仕上がっています。でもその泰然とした作風、細部まで神経の行き届いたプロフェッショナルな映像、音響、美術等々、楽しめるところには旧作と共通点があるようにおもいます。
最後にGhost of Yesterday で出演してくれた人たち、スタッフとして参画してくれた人たちのことです。彼等は、それぞれ映画制作の現場で今も活躍している人が多く、立誠シネマでの上映をきっかけにネットで調べて、それらの方々の名前を映画関係のサイトで見出してはパートナーと喜びを共にしています。
主役の兄・徹役を務めた監督の友人西村君はアニメ制作会社でプロとして東京で勤務しているようですし、もう一人の主役寿美菜子ちゃんは、超人気アニメ「けいおん」や「プリキュア」の声優として有名になり、武道館で公演するような4人の歌手タレントグループ「スフィア」の一番若いメンバーになって活躍しています。カメラの高木風太君は河瀬直美さんの映画のカメラなど、持ち前の第一級の撮影の腕を発揮して活躍中と聞いています。
また、ホームレスと言うのが似合いすぎる(笑)偽「お父さん」役をつとめてくれたプロの演劇人である玉置さん、心を病んだお母さん役を怖いほど見事に演じてくださった原さん、皆素晴らしい演技でした。スタッフも記録や美術をやってくれていた塩川さん、あるいは園部さんのことはすごく印象に残っています。塩川さんも映画の美術で活躍しているそうです。
ラストシーンはマンションの屋上みたいなところで、靴も履けないためにスリッパなんか履いて、極寒の中、奇跡のように撮影時に降りだした雪がみぞれとなり、びしょびしょに濡れて凍りつく超薄着で震えながら撮影して、ガチンガチンに固まった体で帰ってきた彼らを迎えた撮影最終日のことは忘れられません。ずっと監督の良き先輩であり相棒として寄り添い仕事をしてくれたプロデューサー伊月肇さんが、この日、「きょうは、神様が降りてきたね」と、呟いたのを今も忘れられません。
2017年06月26日
キム・ヒョンジョン監督「二重スパイ」
リチャード・バートンとクリント・イーストウッドの「荒鷲の要塞」をロンドンで初めてみたときは面白くて、だけど肝心のところの英語が聞き取れなくて、ストーリーは読めたけれど、リチャード・バートンの「口八丁」で切り抜ける場面の具体的なセリフをきちんとたどりたくて8回くらい一人で見に行ったのが、一本のスパイ映画を見た回数で一番多いでしょう。その後も3,4回見たので、その記録は更新されて破られていません。あれは映画としても抜群に面白かった。
韓流の「二重スパイ」は前にも見たような気がしますが、私は記憶力が抜群に弱いので、最後まで見ても2度目も最初と同じように感動して見終えることができるという特技がありますから(笑)、ときどきあとで昔の日記の中に感想を発見して、おやおや、見ていたんだな、と思うことがあります。今回もそのクチかも知れませんが、まったく初見として観ました。
で、とても面白かった。ハン・ソッキュという役者さんはホ・ジノの「八月のクリスマス」で強く印象に残っていました。韓国では有名な人気俳優だったようですが、ちょっとネットの情報をみたら、いまはあまり少し忘れられた存在みたいな書き方がしてありました。「八月のクリスマス」をみたときは、こんなイケメンでもカッコよくもないおじさんが韓国で人気No.1みたいな情報に接したので、韓国の映画ファンはすごいな、と思ったのを覚えています。純粋に演技力で評価しているとしか思えなかったので。
「八月のクリスマス」では若い女子大生にも同等の光が当たっていて、その初々しい姿と、淡い恋情ともそうでないとも見えるような情を交わす年上の死を間近に自覚したおじさんの両方に焦点がありましたが、「二重スパイ」は綺麗な相棒の女優さんも登場するけれど、圧倒的にハン・ソッキュにのみ焦点がしぼられていて、北朝鮮で訓練を受けたスパイが韓国に亡命したふりをしてどうまんまと二重スパイになりおおせるか、そこにどんな想定外のことが起きてどういう結末になるか、という興味でひっぱっていくエンターテインメントになっています。
最初のほうのハン・ソッキュが拷問を受けるシーンは目をそむけたくなるようなシーン。基本的に痛いのは駄目なほうなんで、私など拷問を受けたらみな吐いちゃいそうですから、私にはどうかみなさん極秘情報を教えないように(笑)。
まあ特に何を書かなきゃいけないという映画でもないんで、ただ面白いエンターテインメントでした、と。役者さんとしては敵役の防諜部の局長ですかね、あの人がなかなか存在感があってよかった。とっても普通の家庭をもっているおだやかなおじさんという感じで、信頼するようになったハン・ソッキュ達を自宅に招いてごちそうしたりする。あれがすごいリアリティがあって良かった。
ラストの持っていきかたは色々異論もあるでしょうね。ボーン・アイデンティティのようなわけにいかない。なんかハリウッド映画はあれでいいけど、韓流はそうはいかない感じですね。たぶん日本映画でもそうでしょう。社会全体の空気が全体主義的なにおいのある社会では、ああいう結末はたぶん許されない。許されないというのは変だけれど、観客にも監督にも直観的に違和感を覚えるようなところがあるのでしょうね。
2017年06月25日
「さよならも出来ない」~立誠シネマで
この夏で幕を閉じる、京都の映画発祥の地とされるもと立誠小学校跡で、上映会やワークショップなど様々な映画イベントをつづけてきた立誠シネマで、きょうから30日まで(26日を除き)、「さよならも出来ない」が連日上映されるというので、その初日に見てきました。
部屋の両端にいすを並べ、最前列に座椅子を並べなどして、精一杯キャパを増やしても、60人くらいが精いっぱいの仮設の小屋みたいな小さな劇場に満席のお客さん。仮設の小屋へ小演劇を見に行ったときのことを思い出しました。そうマイナーな映画を見る機会はないので、映画でこういう経験は珍しい。
とうとう入れなかった方もあるそうで、この知る人ぞ知る小さな劇場スペースでの、監督も出演者もほとんど無名の人たちの作った映画を上映するマイナーなイベントとしては異例の満員御礼に、あとで挨拶に立った監督や出演者、スタッフからも口々に驚きと感謝の言葉が聞かれました。
私自身は大阪アジア国際映画祭で一度見た作品でしたが、二度目に見て、一層いい作品だと思いました。前回はどうしても物語を追い、全体としての映像の印象に意識が向いて、細かな点に気付かないでいたことも、今回は少しゆとりをもって細部まで見ることができました。
特に、一人一人の出演者の演技をよく見ることができたような気がします。タマキを演じた主演女優の土手さんはスクリーンの中では実に存在感のある「大きな」女性に見えました。表情も豊かで、とても難しい役柄の女性の気分を自分の気持ちがぴったり重ねられるところで演じているように感じました。
ところがホールを出てロビーで挨拶している彼女はほんとうに可愛らしい小柄な女性で、スクリーンで見るのと全然印象が違いました。笑顔のちょっとシャープな生き生き輝く目がとても素敵な女性で、たちまちファンになりそうでした。
お相手役の主人公カオルくんのほうは、役者さんは映像の中よりさらに純真そうな青年で、こんなにたくさんのお客さんに来てもらって、という挨拶のとき涙を流しているように見えたのが印象的でした。
初回の時の感想にも書いたのですが、冒頭からこの二人の世界に入って行くときには、その「不自然な」二人の関係の設定に、若い人の自主製作映画にありがちな、少々理屈っぽい青臭い映画かなという気がしないでもなかったのですが、きょうは見るうちに、それは二人の主役の若い男女の現在の宙ぶらりんの状況、二人の気持ちの状態のいまというのを正直に描こうとするときに、どうしても世間のありきたりの割り切り方では描けない、無理にあっちかこっちかと決めつけることだけはすまい、という作り手のこの映画にかけるモラルのようなものが作り出す必然的な仮構線として、このような設定、あのような二人の間に引かれ二人を隔てるテープの線があるのだな、と納得することができました。
それさえ受け入れれば、あとはその仮構性に沿って、過不足なく二人の自然な日常と気持ちの微妙な変化とが丁寧に描かれて行くことに引き込まれて行くだけです。おばさんの役の出演者の演技が達者だなぁ、と思いましたが、どの出演者もそれぞれに自分が演じる役柄の人物の気持ちが自分の気持ちに重なり、逆にある成り行きの中で生身の自分がそう感じ、そう振る舞うだろうように、劇中の人物が次第にそういう生身の人物に近づいていくかのように、自然に重なって行くまで待つことを厭わずに過ごされた時間が感じられる自然体の演技が見られるような気がしました。
前のときだったか、監督がワークショップで長い期間一緒にいて、一人一人がいろんな話をしあい、またみなで時間をかけて聞いていく中で、この作品をつくってきた、と言っていました。彼は黒澤明監督のような独裁者型の監督ではなくて、きっと大林宣彦監督のようにみんなでワイワイ語り合う中で作品を作って行くタイプの監督なのでしょう。
それは長所でも短所でもあり、Ghost of Yesterday のときでも、完成後の打ち上げの席で、カメラを担当した監督の友人である名カメラマンが、そりゃ俺はやり易かったよ、でもね、ともう少し監督が自分の色を明確に押し出して、こうしろ、ああしろ、とぶつけて来ても良かったんじゃないか、というニュアンスのことを言っているのが耳に入ってきたことがありました。そのときにも、あぁ、そうなんだろうな、そこにこの彼の監督としての強みも弱みもあるのかもしれないな・・・と思いました。
今回の作品では、そのみんなでじっくり自分を語り、相手の話を聴き、議論しあい、それぞれの出演者やスタッフの中で登場人物が生成し、熟していくのを待つという作られ方が、好ましい結果に結びついたのではないかという気がします。出演者の多くが演じるのも初めてというワークショップの受講生であったこと、制作のプロセス自体がワークショップのプロセスであったことが幸いしたと思います。
二人のこの不思議な関係を身近に彼らと関わる人々が、つまり職場の人、かつての友人、叔父や叔母、姉などがそれぞれの視点から裁断し、否定的な立場からの忠告めいた言葉や振る舞いで二人の世界に闖入してきます。でも二人はそんな他者の物差しで自分たちを律することなく、また気負うこともなく、そんな他者の裁断の「正しさ」を認め、それとの距離感を十分に認識しながらも、自分たちの内心の「ルール」を破ることなく、その律するところに従って微妙な位置取りを保っていきます。
周囲の人の言葉が鋭く良識的で説得力のあるものであればあるほど、この二人の関係の特異性が際立ち、彼らがなぜ別れてしまわないのか、という問いが私たちの胸底にも深く静かに降りてきます。
妊娠している友人の言葉なんか、さりげなく言う、それって男にとってすごく都合のいい状況ですけど、っていう、あの言葉なんか本当に普通で聴けばそのとおりだよなぁ、と思わざるを得ないほど強力なものですよね。やれるし、食えるし、なんとかだし、って、ちょっと皮肉っぽく「・・ですけど」、なんて、ほんとに小憎らしいほど適切なタイミングでの適切な言葉ですね。おばさんも、お姉さんも、タマキに告白する同僚も・・・それぞれに説得力がある。二人のそう言われてみればみるほどまことに奇妙な関係。
この二人のありようにとって、棒読みのような、でもやさしく丁寧なデスマス調の言葉遣いでの落ち着いたやりとりは、ふさわしいものに思えてきました。また、他律的な支えに拠らず自分の気持ちに正直に一人で立とうする者が必然的に抱え込まざるを得ない、どこにも頼るもののない不安や孤独感や心許なさの影を帯びながら、他方では自分たちの内面のルールを守る者に固有の確乎とした強さ、胸を張り、首筋を伸ばした、凛とした姿が一貫していて、この二人を周囲のプレッシャーの中で暗く惨めで卑小な存在にさせずに、傷つきやすい心を持ちながら自分たちの行くべき道を手を携えていけるような存在であることを感じさせてくれます。
話はコロッと変わりますが(笑)この映画に登場する犬はどこかの「俳優犬」としてトレーニングされたワンちゃんなんでしょうか。職場のビルの谷間でのもう一匹のワンちゃんから、タマキとカオリくんとの犬を飼えばの会話、そしてひとりでいるカオリのところへやってくる素敵なワンちゃん、いい伏線、いい「演技」、いい登場の仕方でしたね。あんなワンちゃんなら飼いたいな。
それから本屋さんだったっけ、壁に中島敦の「文字禍」の文章らしいのが大きな壁紙として貼ってあったのに今回初めて気づきました。先日円城塔の「文字渦」の感想で触れたばかりだったので、こんなのがこの映画に登場するのを見つけて、まったくの偶然とはいえなんだか妙な因縁を感じました。
やたら登場する小説などの本も、わざわざタイトルを見せ、中の一節を登場人物が口にしますから、いちいちは解釈できないけれども、監督は結構こういう細部に思い入れを持っているような気がします。
たとえばカオリくんが職場のカワイ子ちゃんに、誕生祝いに貰う本。その子は、その子のことが好きな男の子に、「重い本をあげちゃったから」みたいなことを言います。男の子は言葉通りに意味を取り違えて、広辞苑でもあげたの?みたいなことを言います。どんな「重い」中身だったのか、気になるところです。
同じ客の中にいいた私たちの知り合いは美術に詳しい人でしたが、彼女は、この作品で美術が凝っていた、と言っていたそうです。音は今回は監督自身がつくってはいなくてほかの方に任せたようですが、前にYouTubeの予告編でほんの一部の音だけ聞いた時、いい音だな、音に凝ったな、と感じました。
まだまだ細部に色々ありました。叔母の不意の電話を受けて動揺したタマキが、友人の夫が塗りたての板の白いペンキに手を置くシーン、その手の長映し。彼女が砂場で見ている砂山のとんがった先が崩れて手が出て来るシーン・・・
ラストはまた別のシーンでありえたかもしれません。ストレートに向き合う二人でなく、境界線が消えることで暗示することはできるから。またそれをもっと遠い時間の向こうへ延長してしまうより苛烈なラストもイメージできるかもしれません。現実にはそうしたことはよくあることですから。
でもきっと物語の中の二人も、それを演じる二人も、それを望まなかったのでしょう。ここまでの時間の中で、二人はそれぞれに境界線を自分で越えていくことのできる自分を見出したのでしょう。
映画を撮るには本当に大勢の支え、協力してくれる人たちが必要なんだな、ということを、今日のような場で痛感します。出演者もスタッフもこの上映会のためのプロモーションに協力して一所懸命PRして下さったようです。
この力が次の、また次の、より大きな、より優れた作品となって、力を貸してくれた人たちが、本当にあのとき一緒にやれてよかったなぁ、と思って下さるような映画づくりを続けてほしいと心から願わずにいられません。
(「さよならも出来ない」のツイッターサイト→https://twitter.com/sayonaramo?lang=ja )