2017年05月

2017年05月21日

宮崎駿監督の引退撤回

 宮崎監督が新しい長編アニメ映画を制作するので引退を撤回するそうです。新しい宮崎作品が見られるのはとても楽しみです。 
 朝日新聞の記事では「制作に向け、動画や背景美術の契約スタッフの募集も始めた」そうです。メイキングビデオで見たあの昔の工場のようにたくさんの人が働いていた工房のスタッフは、監督一人の引退宣言で一度解散してしまったんですね。その人たちはどうしているのでしょう・・宮崎さんは勿論何をしても食えるだろうけれど、散り散りになったスタッフはアニメなんかで食っていけるのかな・・・なんて余計な心配しています(笑)
  
 アニメに限らず、昔の黒澤組だの小津組だのといった馴染んだスタッフ丸抱えのスタジオシステムはとっくの昔に崩壊しているので、宮崎監督のような甲斐性のある親父を軸にして専属スタッフが継続的に質の高い作品を創り出してきたようなのは特殊また特殊な事例なのでしょう。 
 テレビや広告会社なんかのスポンサーがそれも単独では無理だから幾つも寄り集まって金を出し合って実行委員会というのか製作委員会というのか、そんなのを立ち上げて、寄せ集めのスタッフで作るしかない、というのが大方の映画製作の実情なのでしょう。
 それでも映画をつくろうという情熱をもった若い人たちがたくさん次々に出てきて、クラウドファンディングだとか、まぁいろんな工夫をして最小限のお金を集めたり、なければないで、なんとかやってしまう形で作品をつくっていくのは頼もしいですね。
 

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2017年05月19日

ドゥニ・ビルヌーブ監督「メッセージ」を観る

 どの新聞を見ても絶賛に近いカナダの監督の映画作品「メッセージ」を観てきました。めったに見ないSFのジャンルで、確かに設定された状況はまさにサイエンス・フィクションでしかありえないものですが、その世界に入り込み、ふだん自明の世界と思って生きているような私たちに、自分たち人間という存在のありようを不安を伴って一瞬振り返らせるだけの力をもった作品でした。

 私たちは平生、見慣れた風景、親しんだ人々、どこででも起こりうる出来事の中で、話せばわかるような関係に泥み、理解を超えた存在に出逢っても、せいぜいそれは丹念に時間をさかのぼれば理解できるはずであり、理解できるに違いない道筋からの単なる踏み外してとして、無視したり、拒んだり、せいぜい鷹揚な態度をとるだけのことですが、そのような理解の手がかりとなる時間性を最初から持たずただ目の前の現実でしかない他者と向き合うとき、私たちにどんな態度がとり得るのか。どんな方法があり得るのか。

 この映画の一番面白いところは、その具体的な働きかけの過程にあります。軍人などの態度というのはあまりにありきたりで、宇宙人の襲来に過敏に反応して敵対的排除の姿勢をとる昔ながらのマンガ的な地球防衛軍的態度で、あまりに古臭い定番的な軍のイメージで、何一つ新鮮味も面白みもありません。
 
 従って、興味はもっぱら主人公の言語学者ルイーズたちが、いかにして謎の知的生命体をコミュニケーションをとろうとするか、それにその生命体がどう反応して、どんなふうにコミュニケーションが成立していくか、という具体的な展開にあります。
  
 そこで描き出される小道具としての映像的創造はなかなか新鮮だし、最終的に与えられる武器が宇宙からの飛来者たちの存在の仕方とわたしたち人間の存在の仕方とのあいだの根源的な違いを示していて、そのことが私たち自身の一生をふっとそれを離れた視点から、ちょうど自分の身体から離れて自分の身体をながめるように見るような心的経験をさせてくれます。

 ただ、夢からさめたようにこの作品を振り返ってみると、「かれら」は何をしに来たのか、よくわからない(笑)。「かれら」のarrival(原題)そのものが私たち人類に危機を引き起こしているのですから、「かれら」が私たち人類を助けに来たというのは、自己矛盾ですし、すべてがルイーズの、大切なものを失くしたトラウマから生まれた幻覚で、彼女の自己回復の物語なんだ、というふうには、少なくともこの映画作品としては作られていないと思うので、ほんとうのところ一度見ただけではよくわかりませんでした。

 原作は「あなたの人生の物語」という米国の作家テッド・チャンの短編小説なのだそうですから、それを読めばわかるのかもしれません。
 
 これ以上はネタバレになるので書かずにおきましょう。ぜひ映画館でご覧ください。
 


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2017年05月17日

住野よる『君の膵臓をたべたい』を読む

 単行本で出ていたときから書店に平積みになっていて、本屋大賞の候補だとPRしてあった本で、毎日散歩がてら必ず書店のひとつ、ふたつは覗くので、手に取っていなければおかしいくらいの本でした。
 
 でも、タイトルだけである種のあまり好ましくない予感があって(笑)、ずっと手にとらなかったのです。別の本が本屋大賞を受賞したとき、一昨年卒業したゼミ生で大きな書店に就職して梅田の売り場に配属になったOGが大学へ寄ってくれて本の話などしていたときに、「受賞作よりこの『君の膵臓をたべたい』のほうが絶対良い、これが本屋大賞にならないのはおかしい」なんて言ってたこともあったのですが・・・

 それでも私はよくタイトルをみて思い込みで私には縁のない本だと誤解して、面白い本を長く読みそこなっていて、あとで「しまった」、と思うことも多いのです。一番ひどかったのがスタンダールの『パルムの僧院』で、このタイトルのおかげで十年くらいは損をしました(笑)。いや、ひょっとすると高校時代くらいにこの本を読んでいたら、大学なんか行かずに小説を書いていたかもしれない(笑)。

 そんなわけで文庫本になってしばらく経つこの本も、もうそろそろいいだろう、と思って読んでみました。残念ながら、そして、熱烈なファンである、もとゼミ生のOGには悪いけれど、私にはとても拙く、幼いメロドラマとしか思えませんでした。 なぜこういう作品が、恩田さんの作品と並べられるような賞の候補になるのかとても不思議な気がしました。

 設定は韓流ドラマに典型的なヒロインが白血病で、というのと同様の死の病の設定で、これが主人公の二人を関係づけると同時に一種のタブーのような振る舞い方の自己規制的ルールを作っっていて、その枠組みと恋愛または擬似恋愛的感情の流れとのズレ、矛盾が物語を動かしていくという仕掛けで、それ自体はきわめてありふれたメロドラマの定番的手法です。

 もちろん最後はお涙頂戴です。お涙頂戴が悪いわけではなくて、私もよくこういう通俗的な物語を読んでは泣かせどころで泣きますが(笑)、でもそれは作品の良しあしとは何の関係もありません。

 それにしても、女の子の思いに彼が気づかないことを、もう少しはうまく描いて、せめて読者をある地点までは説得的に連れて行ってくれないと、早めに白けてしまうのではないか。そのせいで、これも定番の最後の種明かし、彼女の残した遺書としてのノートのインパクトもほとんどなくて、いくら甘い読者でも男の子と一緒に泣くことができないのでは・・・

 主人公の男の子の一人称の視点で語られているので、その凡庸さも幼さも、その視点のせいでこれも一つの方法として意図的にこういう文体を作り出しているのかな、と最初は慎重に疑問符をカッコに入れて読んだのですが、最後までとうとう何の奥行きも感じられないまま終わってしまいました。

 でもこういう作品がライトノベルやウェブ小説の類を好む若い読者に愛されるのは、わからなくはありません。いつの世もクラシック音楽より歌謡曲やポップスの類を愛する人のほうが圧倒的に多いし、時代の表層で消費されていく嗜好品は、いつもこういう定番の焼き直しだからです。

  ほんとうは作者は、この男の子が人嫌いでというか、対人接触恐怖症的な頑なな閉じこもり状態にある心を、偶然この「白血病」・・ではない膵臓病で死にかけている(だけどやたら元気な)女の子と出会うことによって、そういう対人接触忌避症候群みたいなのから抜け出て回復していく物語を、この恋愛ないし疑似恋愛的メロドラマの裏に貼り付けて一体の作品として描きたかったのでしょう。

 ただ、そのためにはこの男の子のそういう側面が存在感を持って描かれないと、うすっぺらになってしまうのを避けられないでしょう。それには「騎士団長殺し」のコキュの自己回復のように、やはり表面的なストーリーに過ぎないとしても、それなりのリアリティで描き込む力量が要求されるのかもしれません。

 それと、私もまだハイティーンのころに急性膵炎、30になってから慢性膵炎をやって、或る時は膵臓壊死を疑われて開腹されそうになったり、膵臓の入り口あたりにポリープがみつかって、すわ膵癌かと2日間絶食で後ろの門から長い長い管を入れて腸壁を破られるんじゃないかと思われる拷問のような検査を若い未熟な医者にやられて、膵癌より検査で死ぬんじゃないかと恐れるような体験もしてきた身なので、少しは膵癌についても調べたことがありますが、なかなかこの女の子のように末期に元気で(たとえ気丈にそう振る舞おうとしても)痛みからも解放されては居られないのでないでしょうか。或いは今は医学が進歩して、彼女のように鞄の中に注射器やら様々な応急処置の機器薬品類を詰め込んでいれば元気いっぱいに振る舞っていられるのかしら。まあ実際に物語の中で彼女がどう死ぬかはネタバレになるのでひかえますが・・・

 今回はまったく肯定的にとりあげるところがない悪口ばかりになってしまいましたが、書評ではなく単なる個人的感想なので、人それぞれ、ということで、住野さんファンの方にはご容赦を。

  

saysei at 10:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月02日

岸政彦『ビニール傘』を読む

 わかりにくい小説でした。わかりにくさにも色々あるけれど、語り手が次々に変わるので、語っているのが誰なのか、誰の視点でそこに描かれた文章が書かれているのか、少しこうかな、と思って読んでいくと、つながっているようにみえて、実はどうやら別の人間の視点になって語られているんだな、ということに気付き、なんだか語る主体がなし崩しにズレていくような印象を強いられるから、ひととおり読んだだけでは、とても分かりにくい曖昧模糊とした作品に見えます。

 こういう文章は学校の作文の時間には、決して書いてはいけませんよ、と言われる類の文章なので、それを敢えて書いたところが「芥川賞候補作」たる所以なのでしょう、と皮肉の一つも言いたくなるところです。
 視点がなし崩しにズレていくような文体は、普通は書く意識が作者自身気づかぬうちになし崩しになっている証拠で、通俗化への道以外のなにものでもないのですが、この作品の場合は、それを逆手にとって、都会の薄汚れ、据えた臭いがただようような一隅で誰にも顧みられることのない世界、暗い単色の殺風景な、どれもこれも同じような空間、どんなドラマも成り立たずになし崩しに崩れていくような貧しいその日暮らしの光景を、そこにいる任意の誰それの次々に移ろう視点でとらえてみせた、ということでしょうか。

 最初はタクシードライバーの目線で、乗せた女が新地のガールズバーかどこかで働いている女かもしれないと推測したり声をかけたりしています。「爪は派手だけど巻き髪は真っ黒」で、運転手は、「さいきんはああいう黒い髪が流行ってるんだろう。」云々と思ったりします。これは次の段落で登場する「黒い髪」の女につながっていきます。

 運転手の言葉に愛想ない反応をしていた女がとつぜんすすり泣きをはじめて指で涙を拭いている。そこで一段落、一行あけて、「なんとなく、誰かと話をしたいな、と思った。」で始まる次の段落が続くので、読者の意識としては、このタクシードライバーが、泣き出したワケアリ女を見て、そんなふうに思ったのかな、と尾をひくのが自然です。

 でも そんなふうに視点がタクシーの室内バックミラーに映る女の顔に寄り添って行かないで、「たとえば、黒い髪の、水商売の女なんかと。」と続きます。「たとえば」というのはもうその個別のバックミラーの女ではない。なぜこんな言い方(思い方)をするんだろう?と読者は変に思います。これはもうタクシードライバーの視点から離れてしまっているんだな、と。

 案の定、次の段落では、歩行者信号が赤になって、タクシーが出てきたから、しかたなく立ち止まって、「タクシーの運転手って、どういう仕事だろう、とふと思う」男の視点で書かれていることがはっきりします。
 この新たな語り手は、酒気帯び運転で免許をとりあげられて、免許証さえ持っていないのです。タクシーの運転手の視点から、段落間の空白の一行で、その(?)車を外部から見ながら歩いて立ち止まっているこの男の視点に移っている。この男は清掃作業の会社に勤めていて、いろんなビルの清掃作業をしている男で、いまもその作業のためにビルに向かうところです。

 しかし、そう言い切るには、この続け方は曖昧なのです。先ほど書いたように、バックミラーに映る泣き顔の女を見てタクシードライバーが感じる気持ちの延長で書かれているようにみえる。そこは作者は意識的に曖昧化して、切りながら繋いでいる。繋ぎながら切っている。 

 さらに、さきの清掃作業の男は、ビルのモップがけをしていて、キャバクラやガールズバーが入っているビルなものだから、「こいういうところで働く女はどういう理由があって働いているんだろう」などと考えている、そこへ「黒髪の女がエレベーターからおりて」きて、目が合います。「ほんのすこしマスカラが流れて、さっきまで泣いていたように見える」というのだから、これは先ほどのタクシーを降りてきた例の女に間違いありません。 

 ここでは描かれた光景としての時と場所と人物が一致 して、ただ視点だけが動いています。一人の容疑者を次々に刑事を換えて尾行する、その一人一人の刑事の異なる視点から一人の容疑者の行動を描いて見せるのと変わりありません。

 つぎにまた1行あけて続く段落は「俺は女にお釣りを渡してから、レンジで温めた弁当を薄い茶色のレジ袋に入れて手渡した。ありがとうございます。」・・・この「俺」も誰かはわかりませんから、普通はその前の段落の「俺」の視点が続いているのだろう、と読むのが自然です。また、実際、この客の女が前の段落、その前の段落に登場した、ガールズバーで働いているかもしれない例の女だと考えてもとくに差支えはなさそうなのです。

 でもこの段落の語り手の「俺」がタクシードライバーでも清掃会社の社員でもないことは、「俺が働くコンビニは・・・」という、次に続く言葉ではっきりします。彼もまた、その女をめぐって、タクシー運転手や清掃作業員の男と同じように、こういうところで働いている女だろうとか、どういう事情があってこんなところに住んでいるんだろうとか、あれこれ推測しています。

 「小さな部屋の小さなベッドの、何カ月もシーツを替えていない枕もとには、子どものときに買ってもらったミッキーマウスのぬいぐるみが置いてあるだろうか。何ヶ月も掃除をしていない、狭くて汚いカビだらけのユニットバスの洗面所には、安いコスメのパステルカラーの瓶が並んでいるだろう。」

 この推測がコンビニ店員の「俺」の推測であることは、この段落の当初の主語の「俺」が変わった兆候はなく、「だろう」という推定の助動詞で語られるところからも明らかです。
 
 しかし、この「俺」の推測をなぞるように描かれる次のような部屋の光景は、いったい誰の視点なのか。
 
 「部屋の真ん中には小さい汚いテーブルがあった。その上は吸い殻が山になった灰皿と、携帯の充電器と、食べかけのジャンクフードの袋と、なにかわからないドロドロした液体が入っているパステル色のコスメの瓶であふれかえっていた。床の上には、脱ぎ捨てた服や下着、ゴミのはみでたコンビニの袋、ジャニーズの雑誌が乱雑に散らばっている。小さな液晶テレビ、派手なオレンジ色のバランスボール、足がグラグラするコートハンガーには大量の安っぽい服がぐちゃぐちゃに掛けられていた。テーブルの上をもういちどよく見ると、カップ麺の食べ残しがそのままになっている。」

 「だろう」という推測の密度が濃くなって、いわば想像力のズームインで想像の光景が、今目の前に見る現実の光景としてクローズアップされたのでしょうか?そういうテクニカルな移行はあり得るでしょう。

 しかし、これに続く一行を読むと、ここはそうではない、と考えるのが妥当でしょう。

 なぜなら、このあとすぐに「俺はカップ麺から目をそむけ、テトラポットの上に座ると」と言う文章が続いています。想像の世界に入り込んでいるからこそ見える世界の一部である「カップ麺」から現実に「目をそむけ」ることはできません。

 そうすると、上記の8行ほどの客観描写の文体は、そっくりそのまま「俺」が過去に見た光景なんでしょうか。それは何らそれを明示するような証拠が示されないので、曖昧なままです。ここでは前後に1行あけもないので、これまでの視点の移動の場合のように「段落が変わって1行空いたら視点の移動」という作者が暗黙のうちに読者に明示した(はずの)ルールは適用されないはずです。

  しかし、その「俺はカップ麺から目をそむけ、テトラポットの上に座ると、ぼんやりと大阪港の海を眺めた。」で始まる段落は、この文章を読むだけで、その前の「女にお釣りを渡し」たりしていた、コンビニで働く「俺」とは、少なくとも時と場所の一致はないと考えるしかありません。同一人物かどうかはまだ分からないけれど、コンビニで客に釣銭を渡しながら、同時にカップ麺から目をそむけて、テトラポットの上に座って大阪港の海を眺めることは不可能だろうからです。

 こうして、一人の容疑者を追っていた複数の刑事の視点と言う比喩がもう成り立たないように、見られる容疑者のほうも複数になり、その時も場所も人物もいつどこのだれなのか分からなくなっていきます。ただ分かるのは、それは作者や読者が生きる「いま」という時であり、「大阪」という場所であり、「大阪の地べたで暮らしている人々」だ、ということだけです。

 こんなふうに見て行くときりがないのですが、この作品の文章はこうして、語り手の視点を次々に曖昧に移しながら、荒んだ大阪の荒んだ人々の荒んだ暮らしの一コマ一コマを明瞭に切り離すことも関係づけることもなく、ちょうどそれらの人々の暮らしが、或いは意識が、そんなふうに、つながっていて、切れている、同じこの時代、同じこの大阪という都市のどこか、出会ったりすれ違ったり、ときに一緒に暮らしてもみたり、でも本質的に関わりを持ち繋がっていくようなものでもなく、孤独なままで、ついたりはなれたり、死んで行ったりしている、そういう姿が淡々と、でも克明に描かれています。

 岸さんと言う作家は社会学が専門の研究者だそうですが、そう言いたければそういう人の目で見、耳で聞いた一人一人の日々の暮らしを、その光景ごと切り取ってみたら、みな違う人でありみな違う光景のはずなのに、どこかみな同じようにみえる、フラットな、抽象的なもののように見えてしまうような風景だ、と。

 だから結局、誰が語り手でも、誰の視点でも大した問題じゃない。それが次々移って行って、曖昧になっても、繋がっているようで切れていても、切れているようでいて繋がっていても、大した問題じゃない。ここに登場して語られる人物たちも語る人物たちも、そういう「違い」はあるけれどもフラットになってしまった人間なのでしょうから。

 「彼女」とのやりとりが始まると、作品が動き出して、生き生きというかのびのびとしてきます。どこにでもいそうな、どうってことのない、でも距離をつめて相手をしていれば、なんともけなげで可愛くも見える瞬間があるような、貧しくて無教養でアホな、愛すべき女の子。そんなところでそんなふうに生きるそんな女の子に対して覚えるある種の愛おしさと哀しみが、いつか人生に対する哀感と重なっていくようにも思えます。

 後半はそういう女の子が「和歌山の片隅の、海に面した小さな町」から大阪に出てきて、「優しくて、話がうまくて、そしてお金がな」い大阪の男の子たちと接し、「たまたま出会うタクシーの運転手とかコンビニの店員とか、街にはいろんな男がいるのに」美容院で勤めたとき「くだらない男」とちょっとつきあっただけで、故郷の和歌山へ帰っていくまでを彼女の視点から語って、彼女と出会った男たちの前半の語りと対になっています。

 最初に述べたような、読者がさらっと読むときに感じるわかりにくさの部分、構成や段落間のつながりと切れの「曖昧さ」に、明確に語り手や視点を区切り、また関係づける書法をなし崩しにしていく作者の細心の企みに、作品の表現としての価値のすべてがあるような作品と言えばいいでしょうか。

  

saysei at 00:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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