2017年05月
2017年05月31日
東浩紀「観光客の哲学」を読む Ⅲ
柄にもなく小難しそうな本をタイトルに惹かれて読んでみたら、とても面白かったので、つい長々と感想を書いてきました。まだ途中ですが、ときどき私のブログを見てくれているらしいので私が顔を思い浮かべながら書いているチャーミングな(もと)女子大生のあくび顔が目に浮かぶようなので、今回でやめておこうと思います。せめて、この著者の過去の主著の一つや二つ、それに彼がキーコンセプトをつくるのに批判的に読んでこの本に挙げているくらいの本を読んでからにしないと、何も理解できないまま頓珍漢なことを書きつづけることになりそうですからね。
とりわけ第3章(「二層構造」)のあたりは、いくら何でもこの頭脳明晰な著者が、私の言うような、昔ながらの市民社会と国家の「二層構造」との違いを明確にせずに、単にグローバリズムだの反グローバリズムだのといった現象に惑わされて古い酒を新しい革袋に入れているだけとは思えないから、きっと私が新しい酒の味が分からないだけでしょう。
ヘーゲルやマルクスを媒介にして立論してくれていたら、学生時代に読んだのを思い起こして、それは違うぜ、くらいは言えたかもしれませんが(笑)、二回り半くらいは違うんだろうと思う若い(論壇ではもう若くはないんでしょうが)著者はネグリの「帝国」だの「マルチチュード」だの私の読んだこともない本をネタにして自分の考えを展開しているので、せめてそんなのに目を通してからにしましょう。読む元気がまだ残っていれば、ですが(笑)・・・
さて、今回は、東さんが第1章から主張してきた「観光客の哲学」の考えを、人文系特有の曖昧なイメージの提示に終わらせずに、堅固な理論的基礎を与えたいと考えて、ネットワーク論を援用して、その哲学を補強し、かつ過去の「郵便的(誤配)」の理論との整合性も確認しながら展開した第4章「郵便的マルチチュードへ」です。
ネットワーク論の専門家ならその立場から色々言いたいことも出て来るのでしょうが、私は東さん自身が「ぼくは数学の専門的な教育を受けていないので、以下の説明は、10年ほどまえに出版された入門書の要約にすぎない」と記しているのと同様の、入門的知識しかネットワークについて持っていません。だからまあその点だけは同じ条件ということで、私にも読めるかな、と思いつつ読み進めてみます。
この章のネットワーク論の援用の仕方を通読してみて、やっぱり一番気になるのは、ネットワークの数学的理論というのは、数学的な要素を用いた操作とそれによって生じる構造の記述の内部では確かに数学的な厳密さが保証されるのかもしれないけれど、これを現実の要素や構造のモデルとするとき、そのモデルが現実の要素や構造と対応する保証はない、ということです。
ネットワークの場合は「頂点」と「枝」の関係の仕方、それが作る構造しかないわけだから、この抽象化されたモデルによって、せいぜい「現実の構造がよりよく説明できる」(かもしれない)、というだけで、こうしたモデルに投影された要素と構造の変換処理が、現実の要素と構造の変貌のダイナミズムに対応するという保証はどこにもないんじゃないでしょうか。
そもそもそうした数学モデルとの対応自体が粗っぽくて、著者が「頂点」に擬しているのはいったい生身の人間(身体性)なのか、その属性なのか、などと思っていたら、いつの間にか国家や地域になっているようでもあり、現実のモデルとして使うなら、その対応が恣意的だとその都度使い捨ての、それこそイメージ(喩)にすぎなくなってしまう、という印象を覚えました。
まあ少し順番に行きましょうか。その前にちょっと揚げ足取り(笑)。
「ツリーとリゾームは異なったネットワークの異なったかたちを名指す言葉だった。だから重ね合わせることができなかった」(182頁)
ツリーを2つ重ね合わせたらリゾームになるんじゃなかったんでしょうか。ネットワークの言葉で言い換えれば、頂点から頂点へ、つなぎかえが起きれば、もはやツリーはツリーではなくなるでしょう。なぜネットワーク論なら連続的に考えられて、ツリーやリゾームになるとそうでないんでしょうね。
「ドゥルーズたちは、リゾームについてじつにあいまいな観点しかもっていなかった。・・・すべてはイメージの話でしかなった。」(181頁)
ネットワークもモデルに過ぎないんで、多少その実体(構造)に踏み込めるかもしれないけれど、数学的平面に投影されたイメージに過ぎないんじゃないでしょうか。リゾームもツリーとは異なるネットワークの構造を示したわけで、その一種だったということでは?
私が一番ひっかかったのは、「スモールワールド性」を「スケールフリー性」(両方とも変な言葉ですね。「性」って何?)と対立させるようなニュアンスで使った上で、「国民国家」を前者に、「帝国」を後者に対応させるかのような記述です。
そもそも「スモールワールド」と「スケールフリー」は対立する性質のものではなく、対立する概念でもないと思います。単に人のつながりを「頂点」と「枝」だけで示すグラフで表現したとき、人間社会の人と人とのつながり方の実際に近いと考えられるモデルの備える二つの特徴であるにすぎません。
「スモールワールド」のほうは、クラスター係数(人の繋がりで言えば、自分がK人と知り合いだとして、そのK人が互いにどれくらい知り合いかを論理的に考えられる全ての「枝」数で割った値、つまり自分の知り合いどうしが知り合いである確率)が或る程度大きいことと、固有パス長(任意の2人が平均何人の知り合いの鎖を通じてつながっているか)が短いことの2条件で定義され、「スケールフリー」のほうは、ネットワークを形成する人(「頂点」)自体が増えていくことと、その場合に、つながり(「枝」)の多い人(「頂点」)により多くの人(「頂点」)がつながろうとする、ということで、この二つの契機によってネットワークの構造が膨大な「枝」のついたごく少数の「頂点」と、ほとんど「枝」のない膨大な数の「頂点」とからなる頂点のべき乗分布が成立する、ということですね。
いうまでもなく「スモールワールド」というのは、決して閉鎖的な人間関係に閉じた「村」的な狭い範囲の人間関係(格子状で表現される)ではなくて(それは単にクラスターの存在を示すだけです)、ウェブの世界に例をとればわかるように、膨大な数の「頂点」と「枝」から成るサイズの大きいネットワークであっても、一定以上の大きさのクラスター係数と短い固有パス長をもつという条件を満たせば、つまり沢山のクラスターをひょいと離れたクラスターをつなぐ補助線がいくつかあるような条件さえ備えていれば成立します。
「スモール」(小さい)という言葉のイメージで誤解してはいけないので、それはネットワークの内部の各「頂点」が閉じたクラスターのうちに押し込められているのではない。それだけなら決してスモールワールドは実現しませんが、そうしたクラスターをつなぐいわば弱い絆がそう多くはない確率で存在することで、ネットワーク全体の構造として、例えば「6人の隔たり」で地球上のすべての他人とつながる人類社会のような、固有パス長の短い「スモールワールド」が実現するわけでしょう。
これを経済に着目して地域間の関係としてみれば、個々の地域どうしはそれぞれの圏域でクラスターをつくり、他方でそれらの地域は遠い産地なり市場なりと直接つながって、国民経済や世界経済と一体化しています。そのネットワークは「スモールワールド」であると同時に大資本が集中するごく少数の地域と大多数のそうでない地域がべき乗分布を描く「スケールフリー」なネットワークでもあります。
いま私が書いたことと、次のような東さんの著書の中の言葉との間には微妙な違いがあるのではないでしょうか。
「人間の社会にはスモールワールド性とスケールフリー性がある。一方には多数のクラスターがつくる狭い世界があり、他方には次数のべき乗分布がつくりだす不平等な世界がある。ここまでは数学的真理である。」(182~183頁)
私が述べたように、「スモールワールド」と「スケールフリー」は、ネットワークの内部で「一方には××があり、他方には〇〇がある」というようなものではないと思うのです。それはちっとも「数学的真理」などではありません。
第一、「スモールワールド」は、「多数のクラスターがつくる狭い世界」ではない。村のような狭い世界を遠く離れた別の場所へつなぐ適当な数のランダムな補助線があるからこそ、人と人との到達距離が短くなり、村がネットワークの世界へ開かれ、「スモールワールド」という構造的性質を持つのではないでしょうか。
せっかく数学を援用するなら、それぞれ成立要件があるのだから、「何々性」なんていう曖昧な言葉を使わない方がいいでしょう。
著者は、自らが「数学的真理」だということを解釈して、「それは、ぼくたち人間が、同じ社会をまえにして、そこにスモールワールド性を感じるときと、スケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだと、そのように解釈することができないだろうか。」(183頁)と書いています。
そして、「スモールワールド性」のほうは、「ネットワークのかたちに注目したときの解釈であり」、「スケールフリー性」のほうは、「次数分布に注目したときの解釈である」と書いています。果たしてそうでしょうか?
「スモールワールド」は、クラスター係数が大きく、固有パス長が短い性質を持つネットワークを指すので、もし「かたち」という像的表現がしたいのなら、著者が増田直紀・今野紀雄『「複雑ネットワーク」とは何か』78頁をもとに制作として引用している166頁の、ワッツとストロガッツの頂点を環状に配置したネットワーク図bに示されるネットワーク像でありましょう。
決して彼の言うような「一本の枝で結ばれたふたつの対等な頂点」として解釈されるようなものではありません。彼の言うようなものは、単に、無数の頂点と枝がある中の、任意の一本の枝に着目した、というだけのことで、ネットワークの「かたち」や性質をその視点で指示することはまったく不可能です。単に他の実際に存在する枝を無視しているだけのことで、頂点は最初からネットワークを考える上で質を捨象した点にすぎないのですから、「対等」なのは当たり前です。それは単に、数学的な操作の対象となる要素としてこういう質を捨象した「頂点」と「枝」を考えます、というグラフ理論の前提を言っているだけです。
「スケールフリー」も、著者が言うような、個々の頂点の偶発的な枝の多寡をいうのではありません。ネットワーク全体の構造的特徴として、枝の多寡について分布のありかたが不平等(べき乗に従う)ということで、あくまでもネットワークの「かたち」の問題です。なぜ「スモールワールド」が「かたち」で、「スケールフリー」はそうではないような書き方をするのか理解できません。
彼が引用した166頁の図は、もとはワッツとストロガッツがクラスター化の度合いを実証したときの論文で使った図で、現実のネットワークに近いモデルとして提唱した「スモールワールド・ネットワーク」の図bでしょう。
この図には、スモールワールドの要件(クラスター係数、固有パス長)は示されていますが、このモデルにはスケールフリーは入る余地がありません。でもそれは描こうと思えばすぐに描けます。
図bの頂点から出る枝の数をひとつふたつの頂点に集中させるようにつけかえればよいのです。これで、スモールワールドにしてスケールフリーのネットワークは表現できるでしょう。これが「かたち」でなくて何でしょう?
ネットワークとか頂点とか枝とか、せっかく数学的なニュートラルな言葉を使いながら、「哲学」に引き戻すときには、数学モデルを考えたときに排除したはずの質を与えて、頂点どうしが対等であるとか、枝が多いから対等でないとか、へんな擬人化?をしているのはまことに奇妙です。
こうした私にいわせれば奇妙な観点から、アーレントや「20世紀の人文系の思想家たち」を批判し、彼らが、「対等な頂点」と同時に「不平等な頂点」を見ることもできる二面性をもつのに、前者だけが「人間本来のありかた」で、後者では「人間の条件」が剥奪されていると考えた、と批判しています。
しかし、そんな馬鹿なことはないでしょう。「対等」とか「対等でない」という言い方自体が著者の思い入れにすぎないと思います。
ためしにこの「頂点」に善良な市民をイメージせずに、もとフライト・アテンダントのフランス系カナダ人ガエタン・デュガのような人物を代入してみてください。彼は年間約250人と関係を持ち、10年間に2500人と性交渉を持った男性同性愛者のネットワークの中心人物で、1982年4月までにエイズの診断を受けた248人中、少なくとも40人が直接、間接にデュガと性交渉を持っていたそうです。(この話はネットワーク論の入門的な解説書のどれかで拾ってメモしたことがあったのですが、引用元を書いておかなかったために、もとの本をみななくしてしまっているいま、引用もとがわかりません。申し訳ない。)
モデルに現実の質を対応させれば、プラスのネットワークもマイナスのネットワークもあるでしょう。そこに思い入れするのは勝手だけれど、モデルとしてのネットワークの構造の話は価値に対してニュートラルです。
「同じひとつの社会的実体のふたつの権力論的解釈として同時に生成する・・・」(184頁)
権力の問題に転じるには、構造的な媒介が必要だと思います。「国民国家」を「スモールワールドの秩序」に、「帝国」を「スケールフリーの秩序」に振り分け、重ねようとする著者の議論がわかりにくいのは、私が不勉強でネグリの「帝国」さえ読んでいないせいばかりではないのではないでしょうか。
一人一人の市民のつながりを考えれば、家族、血縁集団、部族、・・・国家という共同体的な組織化が、クラスターの形成に重ねやすく、 経済的な交易、交通する人間として共同体を出てその境を介して繋がっていく市民社会のひろがり、グローバル社会にいたる道筋を、スケールフリーな構造の生成に重ねやすいのは理解できます。
しかし、すでに述べたように、それは市民社会と国家との「二層性」あるいは古い言い方をすれば、矛盾というものと、どこがどう違うのでしょう。ほんとうに新しい時代の哲学というなら、その違いを単に技術の発達や経済の発展で拡張されただけではない、構造的な違い、本質的な違いを、別にネットワークのモデルを使おうと使うまいときちんと論理的に説明してもらわないと、依然として、市民社会のほうからどう戦略が立ち上がってくるのかが明らかにはなりません。
ネットワーク論の援用だけでは無理な理由は、市民社会と国家との私たちが古く使っていた言葉でいう「矛盾」は、著者のいう「二層性」という無矛盾な要素として数学的に処理することができないからだろうと思います。
国家にいたる共同幻想が高次化していく過程と、技術や経済の発展で欲望の原理で交易が拡張されていく過程とはかかわり合いながら、別の原理で解いていくしかないプロセスで、グローバル化と言われる現代のような状況でなくても、市民社会と国家との矛盾は数学的なモデルに還元した諸要素の操作的な論理で解いていくことができない古くて新しい問題なのではないか、という気がします。
共同体クラスターの三角形をつなぎかえるプロセスは、「家族から市民社会への変化の過程に相当する。三角形が家族あるいはその拡張としての部族共同体や村落共同体を示すとすれば、つなぎかえで結ばれる三角形の集積は、匿名の市民が集まる市民社会だと考えられるだろう」(188頁)と言います。果たしてそうでしょうか。
家族が村落共同体になり、国家になって行くのはそういう平面的な操作でモデル化できるような過程なのでしょうか。
ここらでもうやめておきましょう。第2部「家族の哲学(序論)」は、個別には刺激的な論考を含んでいますが、「観光客の哲学」の全体の中では、ここでいきなり「家族」が登場することに、唐突な飛躍を感じずにはいられません。
「個人でも国家(ネーション)でもないアイデンティティの核としての利用可能な概念が見当たらないから」(209-210頁)というのは消極的な理由で、積極的に「家族」が持ち出される理由をこの本の中にたどることは難しいように思いました。ここから先はまだぼんやりした霧の中を歩くような読書体験になりました。
ほんとうに柄になくこんな難しい本を手に取って、なんだかよくわからないけれど刺激的だったので、自分なりの反応を書き留めておこうと思っただけで、ふだんの私のブログを見て下さる方には長々と退屈させてしまってすみませんでした。
これで一応完結、というか中断で終了・・・(笑)
2017年05月30日
東浩紀「観光客の哲学」を読む Ⅱ
思わず長くなってしまいそうです。まあそれだけ面白い本だったので、しばらくおつきあいください。
さていよいよ第2章です。
この章は私の読んだ限りでは最も精彩があり、ルソーやカントといった先人の著作への読みについても、とても大きな刺激を受けました。
「人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくはないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる。」(64頁)
もろ手をあげて賛成です。著者によれば(著者の以前の著書『一般意志2.0』はルソー再読を企図したものだそうです)ルソーの「一般意志」は、ひきこもりやコミュニケーション障害の人々の為に構想された、社会性の媒介なしに社会を生み出してしまう逆説的な装置として読むべきだというのです。
そういう仕掛けとして、著者自身は「観光客」を提案しています。「『観光客』は、まさに、社会などつくるつもりがないが、にもかかわらず社会をつくってしまう存在の範例」(64頁)だと言います。
ところが、ルソーについて著者が読み取ったような思想はその後中心にならず、かわりに、人間は人間が好きで、社会=国家をつくり、その中で自らを高めていくものだ、というヘーゲル主義のドグマが支配的になっていった、というのが著者の見立てです。こうして公共性のある人間とない人間、公的人間と私的人間、まじめ人間とふまじめ人間が切り分けられていった、と。こういう二項的な思考のうちでは、ルソーが分裂してみえるし、観光客やテロリストも正確にとらえることができないんだ、と。
以前に、学生時代の友人から「おまえはふまじめじゃないかもしれんけど<非真面目>なやつや」と言われた私としては、このへんはもろ手をあげて賛成(笑)。
カントの「永遠平和のために」の読みはワクワクしました。カントによれば、彼のいう永遠平和の要件は3つ。
1.各国家における市民的体制は共和的でなければならない。
2.国際法は自主的な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
3.世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されねばならない。
1,2はいまでは自明。3がよくわからない、というのは、著者と同様、私もそうでしたから、著者の読みによって目から鱗のような経験をしました。この「普遍的な友好をもたらす諸条件」は友愛とかではなくて、権利の保障に関することなんだ、と。そして、カントは「訪問権」について語っている、と。
“すなわち、国家連合に参加した国の国民は、互いの国を自由に訪問しあうことができなければいけない。それはあくまでも訪問の権利だけを意味し、客人として扱われ歓待される権利は含まない。・・・”
著者はこういうカントの言葉を、いま読むと「観光の権利のように読める」と持論に引き寄せていきます。
「ぼくの考えでは、この第三条項の追加でカントが提示しようとしたのは、国家と法が動因となる永遠平和への道とはべつに、個人と『利己心』『商業精神』が動因となる永遠平和へのもうひとつの道があり、この両者が組み合わされなければ永遠平和の実現は不可能だという認識である。」(81頁)
ここはすばらしい。
カントの第一補説。
“・・・しかし自然は他方ではまた、互いの利己心を通じて諸民族を結合するのであって、実際、世界市民法の概念だけでは、暴力や戦争に対して、諸民族の安全は保障されなかったであろう。・・・”
いいですね。こういう考え方は実に現実的で、目が覚めるように鮮やか。そういえば、カントが「統一政府としての世界共和国の実現性を否定して、主権国家が平和を望まなくても結果的に平和を実現してしまうような『消極的な代替物』をかんがえようとした」(永遠平和の要件の第2項に関する著者の註)のも、実にリアルな認識ですね。
カントも彼を論じるこの著者も、カール・シュミットの「友敵理論」(政治の本質は敵か味方かの二項対立で、それ以外の経済云々の外在的要素を混入すべきではないとする)のような思想、あるいはヘーゲルの「市民社会の自己意識としての国家」、そういう国家の一員だという自覚を抱いたとき、つまり国家意志を私的意志として内面化したとき、人は初めて人になる、つまり市民として成熟するんだというような思想に対抗するために、そうした閉じた思想の外部に存在する、自分の利害得失しか考えないような偶発性で「ふまじめ」な存在をこそ、人間として押し出してくるのですね。このへんはワクワクして読ませてもらいました。
さて、ここから第3章の「二層構造」になると、ちょっと私には???が多くなります。まぁそれは哲学者さんと違って、不勉強で、ここで援用しつつ乗り越えようとしているらしいネグリの「帝国」なんて大冊も本屋で眺めたことはあるけれど読んでいないし、孫引き的に著者の紹介を読みながら考えても、よくわからないので仕方がありません。哲学者でもなんでもない一介の市井の、ほとんど難しい本を読まず頭もほとんど使ってこなかった老人としてはこれが限界でしょう(笑)。
ものすごく図式的な言い方をすれば(東さんの挙げている例を再録すると)、二層構造を表わす対立的な二項は、たとえば、人間では身体と精神、あるいは下半身(欲望の場所)と上半身(思考の場所)、無意識と意識、動物の層と人間の層、市民社会と国家、経済と政治、グローバリズムとナショナリズム、等々です。
21世紀は著者によれば、ネーションそのものがこわれたのではなく、ただネーションの統合性が毀れただけで、これらの異質な二項対立的な原理が、統合されることなく、異なった秩序を作り上げている、という状況です。
著者は諸星大二郎の「生物都市」(1994)に登場する怪物のイメージでそれを分り易く示し、ひとつにつながった「身体」(市民社会)の上に、バラバラに「顔」(国家)だけがくっついている、と説明してくれています。
でも私に一番分り易かったのは、次のような箇所です(笑)。
「国民国家(ネーション)間の関係は、愛を確認しないまま肉体関係だけ先に結んでしまったようなもの・・・」(126頁)
欲望はつながっているのに、思考がつながらない。ほんとうは関係をつつしむべきなのに、すでに快楽を知ってしまって関係が切れない。思考が快楽を統御できない。こうして関係が切れないのなら、愛を育てるしかないのではないか、というのが著者の考えなんですね。これはメチャクチャよくわかる(笑)。
しかし、です。こういう二項対立って、ほんとうに21世紀固有のものでしょうか?社会と国家、経済と政治、無意識と意識、下半身と上半身・・・たしかにグローバリズムなんてのは技術が発達し、交通が発達し、経済が広がり、情報技術が発達し・・・というような「下半身」の発達がなければ成立しないでしょうが、こういう二項対立そのものは国家の成立以来のものではないのでしょうか。古代国家と近代国家ではずいぶん様相は違うでしょうが、いずれにせよ、こういう二項対立でとらえられることは21世紀にいたって生じたことではありません。
マルクス主義が下部構造と呼んできたようなものの発展が上部構造とされてきたような国家のありようを支えると同時に時に動揺させてきたし、国家が別の国家を呑み込んだり、国家がまるごと消滅したり、ということもあった。国家が経済を制御できないなんて常態で、むしろ安定しているほうが例外的なのかもしれません。
たしかにいまグローバル化とそれに対する反発も生じているけれど、だからといって国家がなくなったわけでも、突然下部構造を制御できなくなったわけでもないでしょう。いくら企業が世界的な交通を果たしても、そのありようは国家に規制され、国家の保障なしに動けるわけでもありません。
しかし、いつでも下半身はみだらに上半身の制御を超えてはみ出してしまうし、無意識は意識のコントロールをはみ出すのと同様、市民社会は国家をはみ出していく部分を持っています。欲望に従い、利己心に従い、快適さを求めて、動物は人間の層をはみ出して勝手な行動をとります。そういう意味でつねに市民社会は国家よりも大きく、ラディカルでもあります。
だから、そこに国家的なもの、著者の言うヘーゲル的なものへの抵抗の根拠があることは確かでしょう。だから、動物であり、下半身であり、市民社会であるところの層にある(そしてそのわがまま勝手さ、動物性、偶発性等々を象徴するところの)「観光客」にそれを求めることは、その意味ではよく理解できます。
けれども、それはただ観光客のそのような性質を挙げることによって、いわばそれらの代表選手としてそういう言葉を与えるというだけで、別段従来どおり、国家に対する市民社会の市民、と言ってもいいはずです。それは国民として国家の「うち」にありながら、同時に、それをはみ出す市民社会の市民として生きている人間なわけで、だからこそ、市民として国家の抑圧に対しては異議申し立てをし、抗うこともできます。
そのような従来言われてきた国家と市民社会の「二層性」(著者がそう言いたければ)と、この著者が言う二層性、そこから出て来る観光客の戦略というものとは、どこがどう違うのでしょうか。そこはよくわからないところです。
ただ、確かに従来のマルクス主義などが想定した「階級」概念が現実的な有効性を持たなくなったことは誰にでもわかります。それに代えて、では観光客が戦略的理念の核になり得るのかどうか。
偶発的に「利己心」からよその土地へやってきて無責任に見て回り、帰って行く観光客が、たしかに予期せぬものを見、予期せぬ偶発的な出会いを経験するかもしれませんが、それが果たして私たちを覆う国家という幻想の共同体に、どんな抗いの武器を与えてくれるのでしょうか。
少し先走れば、著者はそこに郵便的誤配の再誤配の企てを戦略とし、「不気味なもの」としての「家族」という概念を持ち出し、またルソーの「憐み」というふうな偶発的な出会いの際に発生する交感のようなイメージを読者に提供してくれているようです。残念ながら私はそこまではついていけません。つまり納得しながらついていくことができません。
郵便的誤配にせよ、観光客の振る舞いにせよ、私には市民社会の個別的な「はみ出し」にすぎないように思います。そのような「はみ出し」があること、市民社会のほうが基体であり、市民社会のほうが国家よりもつねに大きく、国家がその上にかぶさった共同の幻想にすぎないことはヘーゲルの法哲学批判をしたマルクスやそれを拡張して共同幻想論を展開した吉本さんにならって認めますが、その市民の私的な「観光客」としての振る舞いがこの状況に風穴をあける突破口になるとは思いません。それはむしろ、社会の中の多様なありようの一つに留まるでしょう。
それは「二次創作」の章での表現論における著者との考え方の違いと関わっています。原作にいくら多様な二次創作があろうと、それは市場の広がりには対応するかもしれませんが、創作価値の更新になるかどうかはまた別問題です。
時代が変わり、社会が変われば、創作に描かれる世界はどんどん変わって行くでしょう。でもそれがいくら変わり、広がっても、それは創作価値を高めることにはなりません。関係がないとは言えませんが、そのような言語なり絵画なり音楽なりが指示する対象が広がることが言語や絵画や音楽の表現価値を高めることにはなりません。ただその多様性をとらえる目が巨視的になったり、きめこまかになるとすれば、そこに見る眼の変化が表現価値の変化として付け加わって行く可能性は生じます。
観光客がいくら増えても、それをいくら組織化しても、私は小説や絵画に描かれる人物や風景が変わり、その要素が増える以上の意味を見出すことは難しいと思います。むしろ、その描き方が変わるとき、表現の価値が変わって行きます。それは観光客が観光客でなくなるとき、なのではないか、という気がします。
でも著者のいう観光客の哲学が魅力的なのは、現在否定的にとらえられているこの観光客という存在をまるごとその負の性質を正の性質に転化し、武器として編成しようとするチャレンジングな試みが私たちをワクワクさせるからであり、また実際に日々世界から訪れる多数多様な観光客に接する機会が劇的に増加している現状と照応して、実感に訴えるところがあるからだろうと思います。
(to be continued ・・・)
東浩紀「観光客の哲学」を読む Ⅰ
2,3日前から読み始めて、昨日読み終わった「観光客の哲学」。この種の小難しい本としては珍しく、ちょっとワクワクするような面白さがありました。
もちろん、”哲学者村”の住人の慣習として、数多くの参照文献、それも大抵は海外で流行の今ふうの思想的言語にいちいちつきあって吟味し、批判し、それを修正したりひっくり返したりして自分の考えを押し出していく、私たち村人ではない者にとっては、わずらわしい部分も多くて、うんざりさせられるところがあるのは、日本で書かれる”哲学書”としてはやむを得ないのでしょう。
それでもなお300頁ものお堅い論文を、文字通り「ゲンロン」なる言論雑誌の一冊として書きおろし、自身で出版してしまう、というメディアの使い方も含めて、十分刺激的でした。
著者によれば、この論考は、これまでリベラル派言論人によって謳われてきた「共同体の外部を尊重すべきだという思想」が、トランプ大統領やわが国のヘイトスピーチに象徴されるような、「他者とつきあうのは疲れた」という支配的な空気の中で分が悪くなっているのに対して、もう一度、「観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想」したい、という意図で書かれたようです。
なんだか上から目線ふうだった「他者」論、あるいは「外部」論のようなものを、もっと軽い「観光客」に置き換えたところがミソで、これもスキゾキッズ風の脱構築の一種なのかもしれません。
観光とは著者によれば「本来なら行く必要がないはずの場所に、ふらりと気まぐれで行き、見る必要のないものを見、会う必要のないひとに会う行為」であり、「観光客にとっては、訪問先のすべての事物が商品であり展示物であり、中立的で無為な、つまりは偶然のまなざしの対象」です。
「観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して帰っていく」まったく無責任な、偶発的存在に過ぎません。
こういうものは、従来は哲学者などがまじめに考えるべき対象ではなく(社会学者のようないい加減なやつに任せておくべきで・・・(笑))、無視されるかネガティブな捉え方しかされてこなかった、というのですね。
そして、「だからこそ」これが、いまの進歩派がことごとく行き詰ってしまったこの思想的状況を打破していくための武器になるんじゃないか、そう著者は考えているようです。
この観光客の存在、まなざし、行動の偶発性というのが、著者の前著のキーワードらしい「郵便的(誤配)」という概念につながるようですが、すみません、私はこの人の著作は以前買ったままツンドクで、今回読ませてもらうのが初めてなので、そのへんのところはカッコに入れたまま読んでいくしかありません。
この論文の第1部が「観光客の哲学」で、その第1章が「観光」、そのあとに「付論」として「二次創作」についての論考が挟まっています。これは「観光客」のような「ふまじめな存在」について、以前から「二次創作」という言葉で考えていた、と著者の理論的背景について補足した文章です。
「二次創作」というのは、オタク文化ではよく知られた言葉で、「マンガやアニメから、一部のキャラクターや設定だけを取り出し、『原作』から離れて、自分の楽しみのためだけに別の物語を作りあげる創作活動のこと」だそうです。
つまり原作の一部を、原作者が期待した読み方とは別の読み方を、原作者に責任を負わずに勝手に生み出していくこと。これを著者はいま、観光客が観光地へ来て、住民が期待した楽しみ方とは別の勝手な楽しみ方をして帰る構造と同じだと言及しているんですね。
そして、そういう偶発的で、ディスコミュニケーションの情景としてネガティブにしかとらえられてこなかった行動を、それが観光客自身の利害や気持ちにかなった自発的行動であり、しかも彼の言う「郵便的」な偶発的な「誤配」、訪ねるほうも受け入れるほうも予期しなかったfindingsがあり、なにか新しいものがそこから立ち上がってくる可能性に満ちた「散種」(デリダの言葉らしいです。スパームを撒き散らす行為とでもイメージしましょうか・・・(笑))にほかならない、ということで肯定的、積極的に押し出していこうじゃないか、ということですね。
これは実に面白い、愉快な発想で、頭の柔らかい秀才しか思いつかないような発想やなぁ、と思って感心して読みました。
しかし、賛成したわけではありません(笑)。
彼は「二次創作」についてさらに述べています。「現在のオタク文化は二次創作なしには成立しない。いくら二次創作が嫌いで否定したいと思ったとしても、もはや原作の市場そのものがそれなしには経済的に成立しない。同じように、いまや少なからぬ地方自治体の経済が観光に依存している。」(46ページ)
こうして、彼は1995年以降、オタク系コンテンツは、多かれ少なかれ、最初から二次創作の想像力を内面化するようになった、と言います。そして、これはオタク文化に限ったことではなく、ポストモダン社会ではごく一般的な現象であり、「現代社会においては、ある作品が、それ自体の価値だけで評価され流通することはほとんどない。あらゆる作品は、『ほかの消費者がその作品をどう評価するか』、そして『自分がこの作品に評価を与えたとして、ほかの消費者は自分のその評価についてどう考えるか』といった『他者の視線』を内包したかたちで消費されることになる。」と。
著者はここでも、ケインズの「美人投票」の話、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」、社会システム理論の「二重の偶有性」とこれでもか、これでもかと教養を押し出し、そういうのを読んだこともない読者にも、フェイスブックの「いいね!」機能を考えればわかるでしょ、と親切に教えて下さっています。
たしかに思い当たりますよね。こういう現象はある。テレビのクイズ番組で、唯一の正解があるような問い方ではなくて、スタジオに立ち会いに来ている視聴者たちにボタンを押させて、一番多くなるのはどれか、みたいなのを当てる、ケインズの「美人投票」のような番組を思い浮かべたりしますが、人は人の評価するものを評価しようとし、人が並ぶところに列を作る、ってのは私たちが日常的に体験していることですから。
しかし、それは果たして、例えばオタク文化であろうとおかたい純文学であろうとかまわないけれども、その価値のありようをとらえたことになるでしょうか。
たしかに「現代社会においては、ある作品が、それ自体の価値だけで評価され流通することはほとんどない」かもしれないけれど、この言い方の中でさえ、「それ自体の価値」が否定されているわけではありませんね。それが市場で流通するかどうかが、市場のニーズだかウォンツだかに応えたものであればあるほど売れる道理でしょう。しかしそれは「それ自体の価値」と無関係ではないけれども、イコールではない。市場で売れる、売れないは経済学的問題であるか、社会学的問題ではあっても、それほど芸術的価値の問題とは関わりが無いのではないでしょうか。
オタク文化であれ純文学であれ、もし作品として、表現としての価値を問題にするのであれば、それが市場で売れるかどうか、という経済学的問題や社会学的問題と、表現としての価値とを混同すべきではありません。
もちろん、オタク文化にせよ、エンターテインメント小説にせよ、市場の動向をその創作過程に取り込もうとするでしょう。純文学のような従来の狭義の芸術価値をもつと考えられているアートの表現であっても、時代と切り結んで生まれて来る以上、直接的な市場の需給に左右されるのではなくても、作者の社会への関心のありようによって変化することは当然あるわけです。それは否定しません。しかし、そのことと、表現の価値を市場価値なり社会現象としての情報価値のようなものとを混同することはできません。
その点、著者がさらに踏み込んで「作品の内部と外部(消費環境)を切り離し、前者だけを対象として『純粋な』批評や研究を行うという態度、それそのものが成立しない」(49頁)というのは、あきらかな踏み外しです。
たとえば全く新しい技術から生まれる工業製品を考えてみればいいでしょう。次々に技術革新が行われ、新しい製品が生み出され、市場に出ていく。これはもちろん市場がそういう商品を欲しているから企業がそれを供給しようとしているわけで、そういう意味では製造される商品が「外部(消費環境)」と切り離せないことは明らかですが、だからといって、新しい商品を生み出す技術革新そのものを消費市場が指定できるわけではありません。
そんなことが出来るのは、既存の商品、既存の技術の組み合わせだけで、これとこれを組み合わせてつくってくれ、というのならできますが、テレビのなかったところへテレビを創り出し、トランジスタのなかったところへトランジスタを創り出すのが消費市場だというのは、結果と原因の取り違えにすぎません。新しい技術は技術の進化の内部から生まれてきます。その働きがなければ、そもそも技術革新というものが成り立ちません。
たとえば文学にしても、言葉で書かれるから既存の言葉の組み合わせにすぎず、消費市場の要求を繰り込むことでその組み合わせが決まるんだ、と考えるのでなければ、工業製品の技術革新と同じように、そこでは消費市場で売れるか売れないかにはかかわりのない表現者の創造の働きがなければ、新しい作品は生まれないでしょう。オタク文化の多くは既存の要素の組み合わせで作られるのかどうか、それは私は知りませんが・・・。
かつて吉本(隆明)さんが『言語にとって美とはなにか』で、日本の近代小説を素材に文学的言語の価値の更新を自己表出の転移として描き出したときに、例えば新感覚派の作品に対する海外文学の影響をまったく捨象して、そうした表現史がたどれるのか?という疑問がたくさん出されました。しかし吉本さんの考えでは、新感覚派のヨーロッパ風の意匠は彼のいう言語の指示表出の広がりに過ぎないので、文学としての表現価値を更新していくのは、あくまでも自己表出から見た言語だということでした。
このへんの考え方の違いは、東さんの観光客の哲学における、偶発的で私的な観光客の存在様式に思想状況を突き破る手掛かりを見る観点と、その振る舞いを地域整備のありように取り込みながらも、あくまでも地域の歴史性、社会性に根ざした街づくりを進めようとする観点との違いとパラレルに考えらえるような気がします。
観光客のまなざしや振る舞いがもたらすものは、吉本さんのいう言語を指示表出の面から見たときの広がりに対応し、それは地域の街づくりのありように様々な意匠を与え、豊富化はするでしょうが、そこから地域の未来が拓かれるような契機となるかどうかは疑問だという、これはもちろんまだわたしの直観に過ぎませんが、そんな疑問を持ちながら読みました。
言語が別段自己表出と指示表出に分離されるわけでも何でもなく、それは構造として言語を構成する側面にすぎず、いわば私たちが言語に分け入るときの角度の問題にすぎないわけですから、指示表出の広がり自体が、自己表出の高まり、たとえば山に登るときに、より高い位置にまで来ることによって、より広い山裾の風景が広がる眺望が可能になったり、またそのような風景の広がりが、一層高い視点の位置へと登山者を導くような交互作用があることは言うまでもありません。
また、同じものを見ても(指示しても)、カメラでズームアップするように、目を近づけて仔細に見ようとすれば、その指示対象自体が対象領域は狭くても、全く別の光景として視野に入ってくるでしょう。このような両方の契機の相互的なダイナミズムを考慮せずに言語にせよ人間の行動一般にせよ、適切にとらえていくことはできないのではないでしょうか。
こんなことを思っている私などからみると、二次創作を考慮せずには原作が成立しない、とか、観光客のありようを取り込まずに地域計画は成立しない、といった言説は、どんな権威ある流行の哲学者の言葉を借りてもあまり納得はできそうにありません。
それはある程度考慮しないといけませんよね、という程度の当たり前のことを、「他者の欲望を欲望すること」だの「再帰的近代化」だのといったもってまわった言い方を借りて、ポストモダニズムの思想なんて言われても、ちょっと眉に唾して聞かなくてはなりません。
しかし、「観光客の視線による分析が、現代のコミュニティ分析や地域研究では最初から必要だ」ということ、「観光客の視線をあらかじめ内面化し、町並みやコミュニティをつくる」ことが大切だ、ということは、エンターテインメント小説が読者の泣きたいところで泣かせる泣かせ方を考え、創り出せるのがプロ、というような商業主義的な意味合いでは当然のことだし、間違ってもいません。
ただ、そういう「すべてがテーマパーク化している」という状況は、いま現に生じている支配的な趨勢だというだけで、それが唯一の町づくりのありかたでもなければ、コミュニティづくりのありかたでもないことは自明のことです。著者はこのへんは少し、結果としての状況を追認してテーゼ化しようとするところがあって、そういうところには首を傾げざるを得ません。
もちろん、観光客の喜びそうなイベントを用意し、テーマパーク的な街並みを拵えるようなところも多くなっているでしょう。しかし、そうではなく、昔からある町や村の行事をそのままの形でコミュニティの大切な行事として守り、楽しむところも少なくはないでしょう。そこへ観光客が訪れるのはかまわないけれど、なにもそういう日常的な姿を観光客の意向を織り込んで変えなければならない必要はまったくありません。
むしろ、私が観光客なら、観光客の視線など決して織り込まないで、そこに生きる人が幸せに、楽しんで生きるようなコミュニティを訪れてみたいと思うでしょう。
「21世紀のポストモダンあるいは再帰的近代の世界においては、二次創作の可能性を織り込むことなしにはだれも原作が作れず、観光客の視線を織り込むことなしには誰もコミュニティがつくれない」(51頁)なんてことは全く事実に反する言説でありましょう。
第2の補足として、著者は自身による実践にかかる「福島第一原発観光地化計画」について述べています。私は著者がこんな批判を受けたと書いているような、福島と観光地化計画を結びつけること自体が被災地を傷つけるような話だと批難するような視点は持ち合わせていません。
ただ、それは考え得る方法のひとつであって、「『原作』たる福島を見てもらうには一度『二次創作』を通らなければならない」「二次創作がなければ原作への回帰もない」という著者の言葉が正しいと考えるからではありません。
また、仮に著者のこういう言葉にのっかるとしても、その「二次創作」が原発でなければならない理由はないと思います。
それは私の出身地(被爆はしていませんが)である広島という「原作への回帰」のための二次創作が、原爆観光でなければならない、ということはないと思うのと同じことです。広島はむしろ、広島以外のあらゆる人たちの二次創作が「原爆観光」であることに、長い間苦しんできたように思います。
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少し長くなりそうなので、ここらで一休み。To be continued ということで・・・
なお、「カッコ」内の引用はすべて、『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀(著者・編集人・発行人)、㈱ゲンロン発行 2017 によります。私はとても面白く読ませてもらったので、久しぶりにこの種の本について感想を書いておこうという気になったのですが、もとより哲学のトレーニングを積んだ人間でも何でもない市井の老人のある日の読書感想文に過ぎないので、興味を持たれた方は是非、東さんの本を読まれるようおすすめします。
2017年05月29日
円城塔「文字渦」を読む
今回たまたま、滅多に読まない文芸誌『新潮』6月号をパラパラめくっていて、昨日読み終わった東浩紀の「観光客の哲学」について書かれた大澤真幸の紹介文と、少し面白そうな森田真生の数学についての文章があったので買ってきたら、川端康成文学賞発表というので、円城塔の「文字渦」が載っていて、10ページほどの短編だったので、先にこちらを読んでみると、これがなかなか面白い作品でした。
いわゆる描写的な文体ではなく、歴史に素材をとって現代風のテーマを語ってみせる語りの文体を擬しているので、すぐに中島敦の「李陵」などの文体を連想しましたが、もちろん同じ中島敦なら「文字禍」を連想すべきところでした。作者は文字霊が禍をなす「禍」を、一陶工が創り出し、阿房宮の一室から溢れ出す3万もの文字の「渦」に変換して、「ほんの一瞬、そこにあったがゆえに、永遠に存在せざるをえなくなるようなもの」の記憶としての「書かれるもの」のありようを描き出したかったのでしょう。
この作品を単なる歴史に素材を採った、ちょっとお洒落な物語にしたいだけなら、肝心の「文字」の話は全部とっぱらっても、面白い物語を作ることはできるはずです。始皇帝「えい」(漢字が難しすぎてここには打てません!)の、時間を超えた「真人」としての余の像をつくれ、という謎のような命に対して、陶工俑がどう応えていくか、そのやりとりと俑の苦悩と、解決にいたる道筋を一編のドラマとして描くのはちょっと手慣れた作家なら容易だったでしょう。
でもこの作品の”主人公”は「えい」でも陶工俑でもなく、きっと俑が「一体一体の俑を個別に指定するためだけに」、そして「真人の像をつくるために考えられ」、創り出していく3万もの文字なのでしょう。このほとんど”登場人物”らしきものは2人しかおらず、如何に広大な宮殿とはいえ阿房宮の一室という小さな空間の出来事に終始するコンパクトな物語は、しかし、これを読む私たちを途轍もなく広大な思念の世界へ連れ出してくれます。
あえてそれを野暮な言葉にしてみるなら、文字とは何か、書かれるものとはなにか、文学とは何か・・・という、このような小説作品を含めて、書くことにとって自己回帰的な問いと同時に、人とは何か、人が生きるとはどういうことか、人の一生とはなにか、というやはり私たち自身にとって自己回帰する問いが、「えい」の問いかけのうちに、また「俑」の日々の営為のうちに立ち上がってきて、読み終わった直後の作品の余韻のうちに、わたしたちはその「こたえ」を「えい」と「俑」の生き方の対比、壮麗な阿房宮と3万の文字の対比のうちに、論理的な言葉でも像的な喩によってでもなく、評者の一人、村田喜代子が的確に書いているように、「緻密な文字によって記された壮大な思念の世界」がつくりだす意味喩を通して、たしかに聴き取ることができるように思えます。
2017年05月27日
チェ・ドンフン監督「暗殺」は<反日映画>か
韓国では619万人の観客動員を果たした大ヒット作も、日本では「反日映画」のレッテルを貼りたがる人もあるようで、あまりメジャーな配給ルートにのらなかったのか、私もビデオ屋の棚に見つけるまで知りませんでした。この時代の朝鮮を描いて、独立のために戦う人間を主人公にすれば、歴史を過去の事実とは正反対の世界として仮想的に描く特異なSF映画でもない限り、主人公たちが当時の日本政府や軍に敵対するのは当たり前ですから、「反日的」内容になるのは自明ですが、作り手の意図した「反日映画」などではありません。
そんなレッテルを貼るなら、太平洋戦争を背景とする日本映画はすべて「反米映画」で、クリント・イーストウッド監督の作品でさえ日本軍の視点を通して描いていれば「反米映画」になってしまうでしょう。そういうイデオロギー的な偏見と先入観による作品評はまったく不毛です。
この映画はテンポよし、役者よし、カメラよし、脚本よしで、スナイパーと殺し屋のロマンスで味付けしたスパイ活劇の娯楽映画としては十分に合格点以上の作品です。
とりわけ主役のチョン・ジヒョン(双子の姉妹を二役でこなす)、彼女を殺そうと追う腕利きの殺し屋で彼女とのラブロマンスで花を添えるハワイ・ピストルのハ・ジョンウ、それに戦後まで生き延びるこの作品では最高の敵役となるヨム・ソクチンを演じるイ・ジョンジェの3人が素晴らしい。脇役の、ハワイ・ピストルの同伴者「爺」を演じるオ・ダルスなどもいい味を出しています。
ロケなのかセットなのか、1933年の京城の町の風景がとてもいいし、最初のシーンがとても美しくて、見始めておっという感じ。ラストシーンは街中の隠れ家へヨムを引き込んだはずでしたが、裏手なのかどうか、塀の戸をあけて瀕死のヨムがよろめき出る外には荒野が広がっているので、あれ?という感じはあるけれども、まああれはシンボリックな風景なんだと、あまり目くじらを立てずに見ましょう。
登場人物の中には主人公たち暗殺隊に指示を出す側の組織の上層部に、キム・ウォンボンや、キム・グのような実在の人物が登場します。前者は韓国の独立運動家で、大韓民国臨時政府の光復軍副司令官を勤め、のちに意見対立から北朝鮮へ行って政治家になった実在の人物だし、後者は同臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理などを務め、1940年から47年にかけては主席まで務めたものの、李承晩と対立して1949年に暗殺されたという、これも実在の人物。(彼らの情報はウィキペディアによります。)
この作品では両者が手を結んで日本軍人と売国の韓国人実業家を暗殺することになりますが、実際のこの二人の人物は同じ独立運動家ではあっても対立していたそうで、作品の中でも、当時のこの種の反日独立運動家たちがそれぞれ「金の出どころが違う」多くの組織に分かれていて団結できないことが登場人物のちょっとしたセリフを借りて描かれています。
日本人については、たとえば主人公のオギュンが狙う標的の一人で、その婚約者である赤子のときに生き別れた双子の姉妹(親日派実業家の娘)に成りすまして近づこうとする若手将校などは、どこやらで一度に300人の朝鮮人市民を殺したことを自慢したあげくまだ年端もいかない少女を簡単にピストルで殺すような冷酷非情な侵略者として描かれてはいるけれど、悪い血さえ通っていない、マリオネットのように完全にパターン化された悪役で、どこか滑稽な存在としてしか描かれていません。ほんものの反日映画なら、娯楽作品であっても、もう少しはねっとりとしたどす黒い「血の通った」悪役として描くでしょう。
主人公の標的ではあっても、それら日本人はこの映画の作り手が観客の憎悪や嫌悪感を導こうとした標的ではなく、どちらかといえば無視し、冷笑して通り過ぎる相手であって、ほんものの標的は「裏切者」たちにあります。この物語の主軸はそこにあり、主人公の実の父親が売国奴の実業家であり、自分たち暗殺隊を組織し、指示した上司が裏切者の密偵なのです。そして、この物語は日本を打ち破って歓喜に湧く市民を映して終わるわけにはいかないので、最後にその最も憎むべき裏切者を主人公と独立運動家の手で始末しなければ終わらないのです。
当初の標的であった日本政府の要人と売国実業家の暗殺を実行しようとしながら、主人公オギュンは「あの二人を殺しても独立できるわけじゃない。それでも、独立のために戦い続けている者が居ることを知らせなくては・・」という意味のことを言います。これはペシミスティックな言葉ですが、同時に彼女たちが単なるテロリストではなく、あくまでも亡命臨時政府の一員、韓国軍の一兵卒として敵を殺すのだ、という使命感と矜持の表現で、それはそのまま映画の作り手である監督たちの意図でもあるでしょう。
大真面目に歴史の一コマを描いた映画作品などというものではないけれど、それだけの思いは持って作られていて、それが娯楽作品ながら、薄っぺらなスパイ活劇よりはもう少しだけ、奥行きのある作品に仕上がっているのは、そういう側面があるからでしょう。
スナイパーが標的である売国的実業家の双子の娘の片割れで、あとの片割れと宿命的な出会いをはたし、その姉に化けて暗殺現場へ入り込むとか、暗殺者とそれを殺すことを命じられた殺し屋との恋情だとか、圧倒的に多勢に無勢の銃撃戦でも主人公は死なないとか、「リアル」には程遠い点は山ほどありますが、そんなのはみな娯楽作品ではありふれたご都合主義であって、作り手もあまり気にしてはいないでしょうし、私たちも気にせずに楽しめばよいのではないでしょうか。
「反日映画」というようなものではないけれども、ついでですから、少しそういうことを書いておけば、戦前の日本のアジア侵略については、「侵略」を「進出」などと言い換えたい政府だけでなく、私たち「ふつ~の」国民の多くも、できるだけ正視したくない、本音のところでは忘れてしまいたい歴史的事実なのではないでしょうか。
慰安婦問題をめぐる日韓の政府言うところの「決着」について、わざわざこれを不可逆的な最終決着というような文言をもちろん安倍政権の強い意向で入れたことについても、韓国民の大多数が批判的なのは当然でしょうし、日本の一部のリベラルな人たちにも批判はあるのでしょうが、日本国民の多くはどこかでほっと安堵しているのではないかと思います。「安倍嫌い」と称する人たちでも、胸の内を覗いてみれば、案外、そういうところがないかどうか。
だとすれば、これはドイツの戦争処理の仕方について以前に読んだ本で知った、ドイツの戦争犯罪に対する過半のドイツ国民の受け止め方とはずいぶん様相を異にしているようです。
実際、第二次大戦後に生まれたいわゆる戦後世代の私たちは、ずいぶんリベラルな教育を受け、初期の頃には小中学校の教員が生徒に「インターナショナル」を歌って聞かせたり、「原爆許すまじ」の歌を教えたり、というふうなことがあったのは、わたし自身児童として体験して来ているし、全然育った土地の違うパートナーに聴いても、事情は似たり寄ったりでした。
それでも、今振り返れば、日本の朝鮮半島や台湾統治の話を具体的に教えられたことは、ほんの一行、二行、中高の日本史の教科書に登場はしても、それ以上は「リベラル」だったはずの教員からでさえ、一歩も踏み込んで教えられた記憶はなく、周囲にもそういうことを話してくれる大人はいませんでした。
大陸の学校で学び、民間人としては結構長期間中国にいた父や、結婚して大陸に渡って同じく比較的長期にわたって上海にいた母にしても、ごくたまに父の属した柔道部の話だの、武義だか武漢だかの山で蛍石を採掘する工場の工場長だったとか、上海の自宅に若い中国の青年に日本語を教えていたとか、敗戦の色が濃くなったころには銃弾がかすめるような危ない目にあったとか、そんな切れ切れの断片は耳にしたものの、こちらにその生活や地域社会のイメージが形成されるほどの話はついに両親とも亡くなるまで聞くことはありませんでした。
こちらもそう聞きたい話ではなかったけれど、両親のほうから積極的に話そうという姿勢はまったくなかったのです。
この映画は娯楽映画ではあるけれど、その日本統治下の京城などの光景を曲がりなりにも背景としている点だけでも珍しく、娯楽作品としてはとても面白く作ってあって、偶然こういう作品に出逢って思わぬ拾い物をしたようなお得感がありました。