2017年01月

2017年01月30日

山下澄人『しんせかい』を読む

 書店には毎日散歩に行って、買ったり読んだりまではしないまでも、一定期間平積みにされるような本は、表紙の顔くらいは見慣れているので、芥川賞を山下澄人という作家がもらった、と聞いた時、おや、まったく知らない人だな、と思い、すぐにいくつかの書店をさがしたけれど置いてなくて、ようやくある書店で1冊だけ書架に立ててあるのを見つけて早速買って読んでみました。(いまはすごく沢山平積みにされてどこの書店にもあります。)

 この小説を読んで、なぜか中学の時に英語の先生が、amusing とinteresting は違うんだぞ、ってな話をしてくれたのを思い出しました。 その先生によれば、amusingは娯楽の「娯」を書いて「娯しい」、面白可笑しいってことで、interesting のほうは知的な面白さ、知的な興味をひかれるような、ということだ、と。

 恩師の説をそのまま拝借すれば、この『しんせかい』は、まことにamusingとはほどとおく、正直のところ、読んで面白くなく、愉しくもなりませんでした(笑)。まぁ芥川賞という昔で言えば「純文学」のきまじめな新人が書く小説が、そう「面白く」て「愉しく」なるようなものである験しはないのかもしれませんが・・・

 それでintersting でもなかったら、なんの値打ちもないことになるのでしょうが(笑)、私にはそれなりにinterestingでありました。
 というか、これはある意味でamusingのほうかな、とも思い、ちょっと分からなくなってくるのですが、この作品には俗っぽい興味で読ませるところもあるのです。

 それは、本のカバーの裏に印刷された簡単な紹介によると、この作家が「富良野塾二期生」 で、どうやらこの作品の主人公の経験は作家自身の体験が下敷きになっているらしく、その紹介を読まなくても、作品を読めば、これが倉本聰が富良野で開いた塾のことらしいな、とか、ここに登場する「先生」が倉本聰だということは、すでに倉本聰についても富良野塾についても、メディアの伝える情報を通じて多くの読者が一通りのことは知っているから、わかります。

 だから、この作品を読むのは、その先入観なしに読むことが難しくて、富良野塾の塾生という内側の教えられる側の目から見た時に、塾や倉本聰がどう見えていたんだろう?という不純な(笑)というのか、作品の世界に入り浸る以前に、外部の現実である塾や倉本聰への週刊誌的興味によって読めてしまうところがあるわけです。

 実際、読んでいくと、なるほど倉本聰はこんなふうに塾生たちに君臨しているんだろうな(笑)とか、塾生たち、とりわけここの生活になじんだ 一期生たちはこんなふうに共同幻想の憑いた祭司の前で緊張し、自らをなげうって同化しようとすり寄り、そのひとことにも右往左往するのだろうな、とか、閉ざされた世界でごく普通に見られる競争心やら嫉妬心やら男女関係やら、そんなことも良くわかるし、それを来たばかりでいささか斜に構えて見ていられる二期生の視座の据えかたも常套的ではあるけれど、ここに登場する人物像を描くにはもっともな位置取りです。

 倉本聰らしき「先生」は、いかにも倉本聰が言いそうなことを言います。そしてちょっと斜に構えた視座から出て来る語り手の塾生の言葉を、その「先生」が面白い、と評価したりするのも、逆にネチネチともってまわった言い方でいじめてみたりする様子も、閉じた村社会にはよくあるパターンです。

 こいういう一期生、二期生と「先生」のやりとり、心の動き、右往左往のありさまを、内部から少し斜に構えた視線でとらえる面白さは、どちらかというとinteresting というより、amusingに属するものでしょう。ちょっと覗き見的でネクラな「娯しみかた」ではあるけれど。

 ただ、この作品の場合、そこには、何か普遍的なものに通じるような目新しいものは見当たりません。 うん、きっと教祖様のいらっしゃる閉じたムラ的な社会では、こんなふうであろうな、と思えるような塾生どうし、塾生と「先生」とのやりとりがあり、心理の動きがあり、右往左往がある、というだけで。

 私がこの作品にinterestingな面白さを感じたのは、そういう覗き見趣味によってではなく(笑)、次のような或る意味で悪文の見本みたいな文体によってです。二期生たちがこの「谷」と呼ばれている場所で前年の第一回紅白歌合戦を受けて第二回を企画することになったが、第一回のを「あれはおもしろかった」という「先生」の評価が全員の重圧になっている状況を述べているところ。

 " ・・・あんなに何度も「おもしろかった」といわれている、「おもしろかった」といいすぎていつの間にか実際以上のものになっている気もする伝説の前回を超えなければならないのだ。どうやって。だいたい何かしらを「おもしろい」と思うのは、そのときの状況というか状態というか、そういうものが大きく影響するわけで、そのときの[先生]の機嫌もあるし、おそらく前回はそのもの自体もおもしろかったのだろうけど、それらのすべてが奇跡的にマッチして伝説となっているのだ、と誰かがいって、なるほど、と思ったのだが、なるほどといくら納得したところで、だからどうする、はなかった。そもそもが不利なのだ。建物はたち、去年の今よりずっと[谷]の環境は整っている。人も多い。あきらかに有利な状態に今はある。なのならもちろん前回を上回るでしょ、というのはしかし間違いで、むしろ大間違いで、ものごとは便利になり余裕が生まれるほど切羽詰まれなくなり堕落する、と、みんなの中にそういう負の思いがすでに芽生えている時点で、もう勝ち目はなかった、のだけれどそれでもやらなければならなかった。仕事ではないし命令されたわけでもないしやらなくてよいのだけれどそんな選択肢はここにはなく、何の選択肢もここにはなく、何しろ何度もいわれたことだがここへは自発的に来ているのだ、自主的に、命令に、それがいくら理不尽なものであろうと、従いたいと来ているのだ、なのだからここではやるべきとされていることはやるしかないのだ、それも全力で前向きに最善のものを。嫌ならやめて帰るしかない。帰るのも面倒だ。” 

 まだまだこういう、ああでもない、こうでもない状況を傍観しながら自問する内言語みたいなものがタラタラと表出される。誰某は、と主語を記して、そのあとえんえんと、ところで何がどうしてこうなって、とその誰某からふと浮かんだ別系統のおはなしが挿入されて、突如文章が我に返ったように、何々なのであって・・・ともといた位置に戻って主語を受ける述語がやってくるみたいな文体がここかしこに見られます。

 これなどは小中学校の国語の先生なら、ズタズタにカットして、挿入句を外し、主語と述語を近づけた幾つもの短い文にしてテンポよく走る文章に「修正」するでしょう。けれども、そうすることによって、この作者から、いやこの作者のこういう文体から染み出してくるある種の匂いというのか臭みというのか、そういうものも失われてしまうでしょう。

 それがたとえ、一カ月風呂に入らずに放浪していたやつの異臭であっても、それはその人間が歩いてきた土地で身にまとまった塵埃と身体の内から染み出す分泌物が混然となって放つ異臭であって、もはや分離もできず、誰の臭いとも異なる御当人のものでしかありえないわけで、私たちの嗅覚は臭みにはすぐ慣れ馴染んでしまうので、それはそれで時に快感ともなるわけです。

 斜に構えてクールにみえて、ああでもない、こうでもない、優柔不断で、動けない傍観者でしかないがゆえに、とめどない自問と韜晦の内言語がときに文法的結構を緩ませ、あらぬかたに言葉をたゆたわせながら、「ぼく」は他人にとってたしかに存在するようにみえるのに、「ぼく」自身にとってはほとんど不在で、ただつっ立って目の前を右往左往する人物たちを見ている木偶にすぎないようです。

 そんな「ぼく」のありようとこの文体は確かに相性がよくて、かえってそれが、だれもが見ていながら見えてないものをぼくが見るときに、見ることに鮮やかな意味を与えています。
 
 "「そうじゃなくて、先生の何を見て、応募しようと思ったの」 
 何を。何も見ていない。いや見てはいた。[先生]と呼ばれる人はたくさんのテレビドラマや映画の脚本を書いていたから、二人が話題にしていたそのドラマは見てなかったけど、いくつかは見ていた。見てはいたけどそのときのぼくはそれがその[先生]の作品だとは知らない。二人は黙ってしまった。・・・・少し窓をあけた。空気が冷たい。鹿だ。鹿がいた。鹿は真っ黒の目でこしらを見ていた。オスで大きな角が頭に二本ついていた。見えなくなるまでそれを見ていた。見えなくなる直前、鹿はくるりと後ろへ歩いて行った。二人には話していない。" 

   
見方によってはこの小説は一種の青春小説なのですが、少々陰々滅々とした青春小説で、それは語り手にして主人公である「ぼく」のある意味の不能性(impotency)故ではないかと思います。でもなかなか素敵な場面があります。同じ二期生の「けいこ」さんに「ぼく」がまぁ言ってみれば「せまられる」場面です。

 「わかってんだよ」
 話すたびにけいこが強く吐く息が白く充満する。
 「わたしだってシャバに男いるよ」
 けいこがいってこちらに顔を向けた。顔の相が違っている。目が血走り、鼻の穴が大きく開いている。こんなに大きな鼻の穴をしていたのか。
 「お前」
 「腹立つんだよ」
 「何かすげぇ腹が立つんだよ!」
 「何なんだお前!!」
 「お前はちゃんと見てんのか?ちゃんと聞いてんのか人の話、見て聞いてんのか?」
 山が、白くぼんやりと夜なのにとてもよく見えていた。雪があれば、夏より夜は明るい。
 車の中にいるのによく見えた。
 「山ばっかり見てんじゃねぇよ!」 
 馬房でノーザンが柵をかじっていた。ソレイユはじっと何かに耳を立てていた。まことは横になっていた。そうか。馬も横になって寝るのか。人がいたら絶対に見せない姿だ。
 「馬ばっかり見てんじゃねぇよ!」
 「人のこともっとちゃんと見ろよ!! 聞けよ!!!」
 けいこは上着を脱いで、セーターを脱いで、下着をはぎ取った。ない胸が見えた。
 「ないから何だよ!」
 窓はくもって真っ白だ。息がつまる。
 「お前も脱げよ」
 服を脱いでいられるような温度じゃない。
 「わたしが脱いでんだからお前も脱げよ!」
 どこからか猫の鳴くような音がしていた。聞きおぼえのある音だ。これは、喘息だ。喘息の音だ。[谷]へ来てから一度も発作が出ていなかったから忘れていた。
 「うわぁーーーーーーー!!」
 と叫びながらけいこが外へ飛び出した。そのままけいこは道からはずれて雪かきのされていない雪原に腰まではまりながらラッセルして行く。立ち木が次々と裂けてからすが一斉に飛んだ。
 それを、ぼくは、見ていた。追いかけもせず見ていた。服も着たままだ。ぼくはいつもこうして見ているだけだ。観客のように無表情に見ているだけだ。見ているのに何もおぼえていない。
 「お前!いつか!バチが当たるぞ!」
 けいこが叫んだ。

 
 この作品のハイライトです。とても素敵な場面、素敵な描写だと思います。ネガティブな青春小説のハイライトシーン。
ここにはもう、ああでもないこうでもない韜晦の文体はありません。ぼくは傍観者にすぎない、とは書いてあるけれど、作者は「見る」ことで生き生きと動き出しています。多分これが小説の書き手として行動する、ということなのでしょう。「ぼく」はけいこさんにも作者にも取り残されているようにみえます。
でも「見る」ためには私たちは不能者でなくてはならないのかな。きっとそうではないでしょう。これが現代の青春の一つの姿であるとしても。「先生」なんかに背を向けて、さっさと「谷」を出ていく「ぼく」の目に映る光景を次の機会には見たいと思いました。出版されたこの本の「題字」を書いて手向けとしたらしい現実のほうの「先生」もきっとそれをひそかに期待しているでしょう。
  

saysei at 23:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

岩木一麻『がん消滅の罠』を読む

 推理小説をほとんど読まない私がこの小説を手にとったのは、身近に、「手の施しようがない」ということで開腹手術もしなかった末期癌のはずが、ずっと元気なままたしか10年くらい普通に暮らし、いつの間にか「癌がなくなってたんやてぇ」ということで、超高齢でたぶん別の原因で亡くなられた例があって、へぇ、そんなことがあるんだ、と不思議に思っていたからです。

 いや、もちろんその間接の知り合いの主治医さんや、その病院を疑っているわけではありません(笑)。 珍しいケースではあるでしょうが、自然治癒というのか、何らかの原因で癌が「寛解」して消えてしまうことがある、ということは現代のまっとうな医学でも認識されているようです。

 でも、やっぱりこういうタイトルの小説があって、副題に「完全寛解の謎」なんてあると、興味津々。つい手に取って見たくなりました。

 ネタバレになってはいけないし、第一医学的なことはよくわからないから、ここに書かれたようなことがここに書かれたようなやり方で本当に可能か、ということも私には判断できないないから、現実との照応についてはカッコに入れて、推理小説は推理小説、一定のリアリティがあればよろしい、と腹をくくって読めば、とてもよく考えられた面白い小説です。

 学生時代からの友人で同僚の夏目と羽島の関係など、キャラクター設定も展開を面白くしています。

 でも何と言ってもこの作品の要は、推理小説本来の謎解きの謎にあり、そのからくりを作者が考え出したところにあるでしょう。だから、多くの推理小説と同じように、謎が生むサスペンスに引っ張られて読み進み、仕掛けが明らかにされたところで、読者の私たちはカタルシスを味わう。でも、そこに医学的なテクニックを使ったからくりがあると、なるほど、そういうことか、そんことができるのか、という驚きはあっても、それほどこちらの感情に訴えてくるところはないように思います。

 それはいわば知的なからくりで、頭で理解すれば、なるほどそうか、とよくこんな仕掛けを思いついたよね、という感心の仕方はあっても、それが登場人物に同化して彼等の生きるドラマを生き、深く心につきささるような衝撃とともに明かされる真実・・・というような感情のドラマは引き起こされようがありません。

 こういうことを言うと推理小説ファンからは、ないものねだりをしていると言われるのかもしれませんが、羽島と「先生」の娘との関わりのあたりが、本来はその人間臭いドラマにあたり、この作品に描かれた「犯罪」の源をたどればそこに行き当たるのではあるけれど、それはなおそのようないきさつがあったのだよ、という推理小説の種明かしとしての「ストーリー」にとどまっていて、人間のドラマとして読者に訴えかけてくるようには感じられない点が不満と言えば不満ですが、そんなことを推理小説に求めるのは無いものねだりなのでしょうか・・・。 

saysei at 21:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月25日

「この世界の片隅に」上中下

yukigeshou hiei
  今日は大雪になるんじゃないか、ということでしたが、終日雪は降ったりやんだり程度。でも厚着して歩いていても肌がチリチリするほど寒かった。凍てつくような寒さというのでしょうか。

 それでも机にへばりついて手は駄目だ、と掃除をし、午後は頑張って丸善まで歩きました。7000歩超。
BALは改築されてだいぶたつけれど一度も覗いてなかったので、一昨日と今日立て続けに行って、地下の丸善へいくと、けっこう品揃えが多いので、ついコーヒー関係のところへいって、高い本を買ってしまい、人文書なんかのところへいくとそれなりにほかで見なかった本があるのを見つけて買ってしまい、今売れてる本みたいなコーナーへいくと、それなりに「この世界の片隅に」(こうの史代)のマンガ原作なんか上中下出ているのを買ってしまい・・・お小遣い日早々こんなに使っては、今月も大赤字で・・・

 「この世界に片隅に」はアニメが「君の名は」をしのぐメガヒットだとか、パートナーが新聞か雑誌か読んでいうので、びっくり。アニメの方はまだ見てないけど、目のよい孫が見て、良かった、というのだから確かでしょう(笑)。

 パートナーも、「君の名は」は観ないうちから、タイトルも借り物だし、中身も「時をかける少女」のアイディアじゃないの、と辛口である一方、「この世界の片隅に」は原爆で焼かれる直前(事後も少しはあるけれど)の広島の人々の庶民の日常を丹念に描いているんだ、と原爆の被災を直接描かずにそういう描き方をしていること自体で「事前評価」するという偏見にみちた裁定(笑)をしておりましたが、そりゃあちゃんと両方原作読んで、両方アニメみないと何とも・・・というのが凡人わたしの考えで、まずは手がかりの原作を。

 でもパートナー的な言い方をするなら、原爆の直前までを描いて原爆による被災の悲惨な状況を直接描かないのは、井上光晴の「明日」のアイディアですよね。まぁそれは着想が同じ、というだけで、別に模倣でも何でもないけれど、やっぱりそういう着想というのはすごく大切な気がするので、広い意味では私などは発想のリメイクみたいな印象でうけとめます。

 でもこのマンガは悪くなかったし、或る意味でとても個性的でした。 なんというか何もドラマらしいドラマがない、とんがったところもない、ないないずくしの、でもそこに庶民の日常の暮らしがあって、小さな善意や小さな愛や小さな意地悪や小さな悲しみがあり、どこか天然で、傍で見ていて生きていくのも心許ない感じの、だけど素直で一途なところのある、こまめな働き者で、だけどすかたんというか、ぼんやりおっとりで、世間のしきたりというのか慣習みたいなのには抵抗するでも反発するでもなく、淡々と従って疑問を持つでもなく、まったく庶民の日常性の中で生きている小さな存在であるすずが、それゆえ、けなげな、いとおしい存在に見えて来る・・・そんな作者の視線であり、絵柄であり、無数の小さな起伏から成るストーリーですね。

 そして、原爆もいちおうというか落ちはするし、被災の状況も、あくまでも少し距離のある視点でほんのすこし垣間見える程度。この掛け替えのない庶民の日常の一こま一こまは、格別の意味も持たない、ただそれだけのもので、少しの空気の揺らぎにも舞い上がり、また落ち着く塵の粒子のように小さくはかないものでしかないけれども、扉の隙間から差し込む陽光を受けてその粒子が束の間輝くように、美しくいとおしいものに見えます。

 どこか古い時代のマンガでみたような単純化された丸っこい「漫画的な」ちょっととぼけた味のある線で描かれる、人の表情のやりとりで展開されていくような 絵柄も、この作品にふさわしい。

 でも映画としてのアニメ作品でこれをどんなふうに描いて見せたのか、とても興味がありますね。やっぱり風景なんか削ぎ落した絵柄なのかな。ゆったりとした戦前の時間が流れているのかな、それとも庶民一人一人の日常にズームインしていけばそう見えるだろうように結構せかせかとした時間なのかな。・・・そんなことを想像しながら3冊読み終えました。 

saysei at 00:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月07日

"A FILM ABOUT COFFEE"

 Brandon Loper監督の2014年(アメリカ)の映画で、「ア・フィルム・アバウト・コーヒー」をDVDで見ました。

 コーヒーについて無知なので、その生産現場や製造工程、それに何人ものコーヒーチェーンの創業者たちの素顔などに触れて勉強にはなりましたが、 そもそもコーヒーとは、とか、コーヒーというものはこの世界で・・・といった、ある種のコーヒーの根幹にありそうなフィロソフィーに触れることができないかな、という勝手な期待や、そうでなければより具体的な製造工程の秘密みたいな、生産と流通の内部(裏側の世界)まで踏み込んだ取材や、現代世界におけるコーヒーの生産と流通の問題点を現場の視点から明らかにする、みたいな意欲への期待なんてものは、この映画ではまったく満たされませんでした。

 具体的な映像としては、生産現場であるルワンダの農園で現地の人たちがコーヒーの樹から赤く熟した実を手で摘み取り、自転車に大きな袋を積んで運び、この実を水につけ、素足で踏んで精製し、美しい 浅緑のいわゆる「豆」(種子)を取り出し、一様になるように手作業で広げて陽光にさらして乾燥させ、袋詰めして出荷し、輸出されていく、そういうプロセスを美しいルワンダの山河の光景のうちに映し出してくれる、そこが見どころになっています。

 語り手であるスタンプタウン・コーヒーロースターズい生豆バイヤーのDarrin Daniel などが、しきりに、いかにコーヒーづくりが、一般食品の大量生産と均一化の流れとは逆の手仕事に支えられているかをナレーションで強調するのですが、この作品の映像で紹介されている程度のことなら、多くの食品でもその種のブランド化された商品にはよくあることだし、ワインの生産工程などを連想させる作業工程などもあって、ことさらそういうことを強調されても、そう特別な有難みが感じられるというものでもありません。

 あとはKatie Crgiuldがチャンピオンに選ばれたカウンターカルチャー・コーヒー2012年全米バリスタチャンピオンシップの模様を映し出した映像などは私は初めて見るので面白かった。一人一人舌自慢、鼻自慢、腕自慢らしいバリスタが審査員らしい連中を前に、自分のコーヒー哲学を喋りながら自前のコーヒーを淹れて審査員に飲ませ、審査員が手にしたボードの評価表に評価・感想を書き込んでいる様子を撮っているのです。

 リチュアル・コーヒー・ロースターズのオーナー、ブルーボトルコーヒーの創業者、ベアボンド・エスプレッソ オーナーバリスタ(田中勝幸氏)なども登場して、それぞれのスペシャリティコーヒーへの思いを語るのですが、面白いのは、誰だったか一人が、スペシャリティ・コーヒーは、普通のコモディティ・コーヒーとはまるで別物なんだ、ということを強調し、「その味の違いが分かる人はごく少数です」というようなことをナレーションの中で語ります。

 かと思うと、別の一人は、「スペシャリティ・コーヒーとコモディティ・コーヒーは全く別物であって、一口飲んでみれば誰でも味の違いがわかる」なんて言うのですね(笑)

  ほとんどの人に味の違いが分からないようなら、そんなのそもそも意味がなくて、世の中に広めようということも先験的に不可能で、「うまみ」を味わう味覚を遺伝的に持たないアングロサクソンに味の素やこんぶ・かつおだしのうまさを理解させようとするのと同じになってしまいます。こういうのはコーヒー通を任じる人の一部にある鼻もちならない選良意識というのか、気取りであり、根拠のないコケ脅しにすぎないでしょう。

 といって、たぶん今の私にはスペシャリティ・コーヒーの様々な産地の様々な条件で焙煎され、淹れられたコーヒーの味を味わいわける味覚が期待できないのはもとより、コモディティ・コーヒーとスペシャリティ・コーヒーの差異さえわかるかどうか心許ない気がします。
 それは遺伝的欠陥というよりは、たぶんトレーニングというか、慣れの問題でしょう。いわゆるコモディティ・コーヒーをがぶ飲みしていたような若い時の体験しか持たないので、土台、スペシャリティ・コーヒーの微妙な味どうしを味わい分けるなんて芸当がたちまちできるはずはなさそうです。でもある程度意識的に飲み比べてみるうちに、それなりに味わい分けることくらいはできるようになるのではないでしょうか。

 そう思わないと珈琲プロジェクトをやっても楽しみがないから、棺桶に入るまでには、多少ともスペシャリティ・コーヒーのみわけができるようになりたい(笑)

 (コーヒー組のメンバーには来週、ジャームッシュのDVDと共にこれも持っていきますね。) 

saysei at 14:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

ジャームッシュの「コーヒー&シガレット」

 ジャームッシュの"Coffee and Cigarettes" はDVDで持っていたのに、ツンドクと同じようにビデオ棚に立てたまま見そびれていた作品。"Tea and Cigarettes" だったらとっくに観ていたのでしょうが(笑)。珈琲プロジェクトの糸口がみつかって、ようやく拝見。

 二人ないし三人の登場人物がコーヒーを飲み、煙草を吹かしながら奇妙な会話を交わす11の独立した(一部重なるところがあるけれど)エピソードから成るモノクロ短編フィルムアンソロジーといったところ。

 登場人物の名前は演じる俳優と同じで、この作品の最大の魅力は演じる俳優たちの個性でしょう。 第7話「いとこどうし」のCate Blanchett、第3話「カリフォルニアのどこかで」のIggy Pop と Tom Waits、第11話「シャンパン」のBill Rice とTaylor Mead、第9話「いとこどうし?」のAlfred MolinaとSteve Coogan等々、誰ひとりとっても味のある表情の演技を見せてくれています。

 とりわけケイト・ブランシェットの一人二役は素晴らしい。私にはこの挿話がベストワンでした。有名なVIP女優として成功している女性がホテルのカフェの席で待っているところへ「いとこ」の女性が現れ、とりとめない会話をするだけの話だけれど、成功した「いとこ」への嫉妬心、僻み根性丸出しの蓮っ葉な女が、派手な笑顔を作りながらチクチクとあからさまな嫌味を立て続けに言うのに対して、内心の不快と会話を中断してさっさと立ち去りたい気分を抑えながら、なんとかキレずに余裕の笑みでこの「いとこ」にオトナの対応をしようとする女のやりとり、表情や仕草の演技がすばらしい。

 「落ち」もついているけれど、まぁそれはご愛敬。見どころは二人のやりとり、攻撃する側のふてぶてしい笑顔のにこやかな攻撃ぶりと、攻撃されるほうの女優の戸惑いと抑える表情の演技、それを同じ役者が演じていることを楽しむといったところでしょう。

 11話いずれも、原則は2人の人間の、狭い空間での、コーヒーとたばこを介しての対話ですから、本来は典型的な対話型コミュニケーションのシーンなのですが、すべて正反対の「ディスコミュニケーション」を際立たせるシーンになっています。

 いずれの会話も、言葉のやりとりとしては、キャッチボールになっているけれども、どれもちぐはぐです。そのちぐはぐさは、相手の言っていることを「わかる、わかる」、と言いながら全然理解していなかったり、全く勝手な理解をしていたり、片方が頑なに相手の言葉を拒んで固まっているに過ぎなかったり、反発しあってただ意味のない言葉を投げつけているだけであったり、それぞれが自己主張をぶつけているだけだったり、単なる石礫とそれを辛うじて防ぐ防御であったり、両方共がありえない理解の仕方をしてとんちんかんな行動に結びついていたり、それはもう奇妙なディスコミュニケーションのオンパレード。

 コミュニケーションが成り立っているようにみえて、まったくすれ違ったり、あらぬ方へ行ってしまったり、まるで成立しない、そのちぐはぐさから、それぞれのエピソードの核心である「可笑しみ」が生まれていることは明らかです。
 本来はコミュニケーションのツールとみなされている言語がディスコミュニケーションを際立たせるものでしかなくなっている、その「dis」の否定性の多様さに、11のエピソードから成るこの作品の面白さがあります。

 或る意味で、フランスのコントのような可笑しみをめざしているようにも見えるし、それに近いものもなくはないけれど、フランスのコントのようにエスプリの利いた、軽妙でシャープな乾いた可笑しみではなくて、ジャームッシュの「dis」にはアメリカ的な人間関係のリアリティが、別の言い方をすればアメリカ社会ならではの或る種の色合いとか匂いといったものがへばりついています。

 出世した「いとこ」やかつての知人に対する嫉妬心、或いはそういうものに発する利己心から近づいてくるのではないかと警戒する逆の立場の人間の心理的背景などはその典型的なものです。エルビスの偽物の話が登場したり、黒人の同じような立場でこの社会で這い上がろうとしてやってきている友人どうしのちぐはぐな関係も、たばこやコーヒーをめぐる健康論議を含む頑固なやりとりも、そんな色や匂いのひとつです。

 フランスのコントならそういう要素は切り捨て、意味を剥奪され、純化された軽みのある鋭利な皮肉に満ちた「無意味さ」が可笑しみを生むといった具合であったでしょう。それは或る意味でフランス社会のゆとりであり、フランス文化の成熟の産物だと言っていいのかもしれません。

 そういう意味では、敢えて比較的に言えばアメリカはやっぱり田舎者の世界だということになるかもしれません。もちろんそれは好みの問題で、フランスのコントに気取りを感じる人もあるでしょうし、ジャームッシュのこうした作品に泥臭さを感じる人もあって、どちらにも好きな人と嫌いな人があるでしょうし、どちらも捨てがたいと思う人もあるでしょう。私はどちらも楽しむほうですが・・・・

 ジャームッシュのエピソードはどれも多かれ少なかれ、可笑しみの生まれる所以を二人の人間関係のうちに辿ることができます。むしろそこに見るべきものがあるので、「落ち」のほうの切れ味はフランスのコントのように鮮やかというわけにはいきません。

 11のエピソードのうち、私のベストワンは先にも書いたようにケイト・ブランシェットの一人二役による「いとこどうし」、あと好みなのは、5番目の「ルネ」、最後の「シャンパン」、それに役者がいいなと思ったのは「カリフォルニアのどこかで」「いとこどうし?」「双子」などでした。

 YouTubeで大抵は観られるから、学生さんは一度見ておいてくれるといいな、と思います。コーヒー組の人にはゼミの始まりの日に持っていきます。ただし、コーヒーもシガレットも、単に小道具として、また場の設定に不可欠な要素として使われてはいますが、とくにこの映画を見たからといって、コーヒーについて学べるわけではありません。「コーヒーの文化記号論的意味」くらいまで拡張したらどうか分かりませんが、それはそういうのがお得意の別の先生に訊いてください(笑)
 
 

  

saysei at 13:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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