2016年11月
2016年11月25日
ゆかもみぢ~岩倉実相院 2016-11-25
岩倉実相院の「床紅葉」、お粗末なスケッチで恐縮ですが、写真を撮らせてくれないので悪しからず、文句は岩倉実相院へ!(笑) 私は「ゆかみどり」のときも来たし、以前にも「ゆかもみぢ」の時に来ているので、撮影禁止は知っていたから最初からスケッチブックを持っていきました。でも寒い寺のあけっぱなしの部屋に座って描いていたら体が冷えてしまいました。
絵葉書を売らんがためでしょうが、景色なんて撮影しても浮世絵みたいに傷むものじゃないと思いますが、室内撮影禁止に結構うるさくて、客が多いときは1分間に4回くらいアナウンス しています。床紅葉の部屋は入れないように柵がしてありますし、庭の方を向けてフラッシュを使って撮影してさえ誰にも迷惑はかからないでしょう。
まして遠くから来られたお客様がそっとカメラにおさめて旅の記念にされるくらいのことを、たかが自前の(?)絵ハガキ売らんがために、そこまで狭量な姿勢を露わにしなくてはいけないでしょうか。
一人500円という安くもない入場料をとり、入口から既に屋外でものを売り、入場すれば入口をふさぐほどのスペースを物売りにあてているほど商売熱心なお寺で、しっかり儲けていらっしゃりそうですから、なにも素人の記念撮影の邪魔までしなくてもいいでしょうに。
それでもめげずに携帯で撮る豪傑もいて(笑)、それには個別に「そこの帽子のかた!」とか、「いまフラッシュをたいてまで撮ったかた!」とか、見張りの女性がキーキー声を挙げています。監視カメラで監視しておられるようです。
どうかと思いますね。遠方から来られたお客様の、せっかくの旅の気分をぶち壊すようなお寺の態度。外国人の方も来られるでしょうに、きっと「アノ ウルサイ アナウンスハ ナンデスカ?」と訊かれて、ガイド役は困惑することでしょう。日本の恥ですね。
ここの紅葉も、もう見頃は過ぎたようで、もともと今年はあまり色は良くないようです。この週末でおしまいでしょう。 でも幸い、きょうはギリギリ、まずまずの紅葉を眺めることができました。これは室外をめぐる回廊へ出て庭の隅っこを撮った写真なので、寺のルールでも撮影はOKなのです。あほらしいルールで、どうでもよいと思いますが。
庭の紅葉のいいところだけ撮っているので、正面の庭の眺めの中に紅葉の良い写真の撮れる光景はみあたりません。だから端っこばかりで、お寺ご自慢の(?)庭を正面から撮った写真はありません(笑)
これも回廊の端っこから、軒越しに見える庭の隅っこを撮ったものです。
塀の向こうは入ってきた入口の門です。
入口の塀越しにみえた紅葉が一番色鮮やかでした。あとは紅葉としては色が黒ずんでくすんでいました。気候のせいか、今年はどこも鮮やかな紅葉というわけにはいかないようです。
下は寺の室内の襖絵のひとつ。ごく一部ですが、向こうへ手をつないで歩いていく二人の後姿。右のほうが幼い子のようです。前来たときもいいな、と思った絵です。でもデッサンは全く苦手なので、やわらかな一筆の勢いで描いているような原図の印象とは程遠いなぁ・・・
2016年11月21日
詩仙堂 紅葉 2016-11-21
詩仙堂は川端から曼殊院道をまっすぐ東へ進んで白川通も越え、まだ道なりに上り道を行くと右手にあります。いま紅葉が見頃。きょうは6000歩足らずしか歩いていなかったので、ちょいと自転車で10分足らずのところにある詩仙堂へ行ってきました。坂道は自転車降りて押さないと上がれません。けっこうな勾配です。
この詩仙堂、チラシによれば、正しくは、でこぼこした土地に建つ住居の意の凹凸窠(おうとつか)というのだそうで、詩仙堂はその一室だそうです。 この住まいを造営した石川丈山が狩野探幽に描かせた中国の詩人36人の肖像画を四方の壁に掛けた詩仙の間があるところから詩仙堂と呼ばれるようになったようです。
こじんまりして、昔、観光客の少ない平日の昼間きたときは、静かに詩仙の間に座って庭を眺めたり、庭を散歩したり、ほっと憩えるような空間で、たまに一人で訪ねていた時期がありました。松ヶ崎の下宿からも自転車ですぐ来れたのです。
今日も平日で、午后遅めでしたが、外国人も含めて結構観光客が多く来ていました。最近、京都の名所はどこもこうなのでしょう。確かに紅葉は綺麗だし、近くに曼殊院もあり、宮本武蔵と吉岡一門の決闘で知られる一条寺下がり松や八大神社と歩いて回れる範囲にいくつか寄れる場所もあるので、ここらも観光名所になっているのでしょう。静謐な環境がだんだん失われるのは少し寂しくはあるけれど、観光のピーク時を外せば、落ち着ける場所です。
庭を歩いてて、ちょっとした光景に心和むこともあります。
嘯月楼というのだそうです。
出口近くの残月軒
裏手の土蔵。
詩仙堂の前の駐輪場の片隅に石川丈山翁舊跡の碑が立っています。
2016年11月19日
半木神社
なからぎ神社と訓むんですね。植物園の紅葉をみて徘徊していたら、園内の紅葉の池のすぐ近くに鳥居があって、上賀茂神社の末社だというこの半木神社がありました。古い小さなお社でした。
古びた板の解説文は雨風でかすれて読みづらくなっています。試みに復元してみましょう。一字、二字、文字の判読しにくいところは間違っているかもしれません。「注視」の「注」、最後の「三十日」はほとんど読み取れませんでした。
御祭神 天太玉命(あまのふとだまのみこと) 一柱一座
御事歴 当神社の御鎮座地を中心とするこの地方は、往古賀茂族が開墾した土地であるが、奈良時代頃から錦部の里と呼んでゐた。これ等の地方が錦部の里と称したのは、古くこの地に於いて、養蚕製品の業が営まれ絹織物の生産が盛んであった為めである。降って平安時代に入って、後一条天皇の御代に至り、寛仁二年(西暦1018年)十一月二十五日朝廷より正式に、賀茂別雷神社の社領地として、錦部郷の名を以って寄進せられた。然るに、これ等の産業に携はってゐた賀茂族と秦族との人人がその職業の守護神として四国の阿波国から、天太玉命を勧請鎮祭した。それが現在の半木神社である。
世変り時移って、今は旧態を存しないが、現在の植物園がこの地に営まれたことは、誠に奇しき因縁といふべきで、現在にあっては、京都絹織物業発祥の地として、更には農事林業等を総括する植物園の所有地として、注視せらるべき土地である。さればこの地に鎮座せらるる半木神社は京都織物業界並びに植物園の守護神として、且つ鎮守の神として、崇められるべきである。
例祭日 四月・十一月三十日
もう一枚、白い用紙?に書かれた新しい解説板は、はっきり読めます。
流木神社(ながれきじんじゃ)とも云い、この周辺は京都絹織物発祥の地といわれ、織物業の守護神・府立植物園開園後は植物園の守り神として崇敬され、毎年四・十一月に行われる春秋の祭典には多数の関係者が訪れます。
多くの木や花が実を結ぶ処に因み、試験の合格や恋愛成就の願いが叶うとの信仰が厚く、その努力が実を結ぶ御守『実守(みのりまもり)』を上賀茂神社で授与致しております。
以上。ここが錦部の里と呼ばれ、養蚕、絹織物の生産が盛んであったことで、京都の絹織物発祥の地とされている、というのは長く京都に住みながら知らずにいて、新鮮でした。何度も植物園は来て、この神社の前も通っているはずなのに、文字通り素通りしていたのですね。
2016年11月18日
佐藤優『君たちが知っておくべきこと』
サブタイトルが「未来のエリートとの対話」で灘高校の生徒が佐藤氏を訪ねて、問いかけに応じる形で佐藤氏が縦横に持論を語るという本。
エリートの卵たちはさすがに準備万端、佐藤氏の著作もあらたかた読んで、疑問点をただして丁々発止といったところ。佐藤氏の著作だけでなく、普通は大学へ行ってから私たちの時代には教養部の2年間のあいだに触れるような人文系、社会科学系の、古典というのでなく少しインテリなら読んでいそうな本を、この高校生たちは高校までで読んでしまうんだな、という感じでした。
以前から灘が自由な校風だというのは耳にしていましたが、この対話を読んでも、なんとなくそれが分かるような気がしました。 私は地方の進学校だったから、灘に見学に行って帰ってきた教員の一人が手に持った鉛筆を高く掲げて、「灘の生徒はのう、この鉛筆を一日一本使う、言うんじゃのう」と言うようなところがありました(笑)。もちろん生徒の方はそんなことを信じてハハァと感心していたわけではなくて、「灘の生徒はよっぽど削り方が下手なんじゃろう」、と笑って聴いてはいましたが、そういうところしか見てこない教師にがっかりしていたことは確かです。
京都にも名の知れた進学校はあったけれど、大学へはいってから接した限りでは、地方の高校とちょぼちょぼやなぁ、という印象で、少しひねくれたのが多かった点だけ違っていたような(笑)。蜷川知事のときはすべての公立高校の格差を解消する方向で制度化された学区制だったのが、蜷川がいなくなってどんどん崩れる方向へきたけれども、結局少数のいわゆる進学高へエリートの卵みたいなのを集めるか、バラけさせるかという違いだけで、蜷川さんのときの高校でも各校に何人かはそんなのがいただろうし、いい先生も少数ながらいたでしょう。エリートの卵ばかり集めた「切磋琢磨」が本当に恵まれているかどうかは、今の受験体制の中での受験勉強に有利という範囲を超えれば疑問です。
佐藤氏はエリートの卵たちに、きみらはエリートになるべく教育されている特別な人間なんだ、ということを刷り込むようにして、その切磋琢磨の環境がいかに恵まれているかを繰り返し強調しています。こういうところは私なら正反対の話をするだろうな、という気がしました。そういう「恵まれた」環境で、しかも自分が努力してエリートになったんだ、と思うような人間は本当に危ないんだよ、と。勉強することは佐藤氏と同じように強く勧めるけれど、そんなことは何てことはない。何か知っているとか、知的に上昇していくこと自体には別に何の価値があるわけでもないぜ、と。
佐藤氏の話は彼が書いたほかの本と同じように面白い。歯に衣着せぬ官僚の実名での批判や政治家たちの裏話もゴシップ記事的に面白い。思想や歴史や政治の現実への判断も、その歯切れのいい即断の応答が快い。もちろん高校生ではない私たち一般の読者が読めば、そんなところほど、ほんまかいな、と眉に唾つけて読みたくなるところですから、エリートの卵たちは彼らが本当に優秀であるなら、この対話を終えて佐藤氏の話を疑うことから一歩を踏み出したことでしょう。
エリートの卵たちはさすがに準備万端、佐藤氏の著作もあらたかた読んで、疑問点をただして丁々発止といったところ。佐藤氏の著作だけでなく、普通は大学へ行ってから私たちの時代には教養部の2年間のあいだに触れるような人文系、社会科学系の、古典というのでなく少しインテリなら読んでいそうな本を、この高校生たちは高校までで読んでしまうんだな、という感じでした。
以前から灘が自由な校風だというのは耳にしていましたが、この対話を読んでも、なんとなくそれが分かるような気がしました。 私は地方の進学校だったから、灘に見学に行って帰ってきた教員の一人が手に持った鉛筆を高く掲げて、「灘の生徒はのう、この鉛筆を一日一本使う、言うんじゃのう」と言うようなところがありました(笑)。もちろん生徒の方はそんなことを信じてハハァと感心していたわけではなくて、「灘の生徒はよっぽど削り方が下手なんじゃろう」、と笑って聴いてはいましたが、そういうところしか見てこない教師にがっかりしていたことは確かです。
京都にも名の知れた進学校はあったけれど、大学へはいってから接した限りでは、地方の高校とちょぼちょぼやなぁ、という印象で、少しひねくれたのが多かった点だけ違っていたような(笑)。蜷川知事のときはすべての公立高校の格差を解消する方向で制度化された学区制だったのが、蜷川がいなくなってどんどん崩れる方向へきたけれども、結局少数のいわゆる進学高へエリートの卵みたいなのを集めるか、バラけさせるかという違いだけで、蜷川さんのときの高校でも各校に何人かはそんなのがいただろうし、いい先生も少数ながらいたでしょう。エリートの卵ばかり集めた「切磋琢磨」が本当に恵まれているかどうかは、今の受験体制の中での受験勉強に有利という範囲を超えれば疑問です。
佐藤氏はエリートの卵たちに、きみらはエリートになるべく教育されている特別な人間なんだ、ということを刷り込むようにして、その切磋琢磨の環境がいかに恵まれているかを繰り返し強調しています。こういうところは私なら正反対の話をするだろうな、という気がしました。そういう「恵まれた」環境で、しかも自分が努力してエリートになったんだ、と思うような人間は本当に危ないんだよ、と。勉強することは佐藤氏と同じように強く勧めるけれど、そんなことは何てことはない。何か知っているとか、知的に上昇していくこと自体には別に何の価値があるわけでもないぜ、と。
佐藤氏の話は彼が書いたほかの本と同じように面白い。歯に衣着せぬ官僚の実名での批判や政治家たちの裏話もゴシップ記事的に面白い。思想や歴史や政治の現実への判断も、その歯切れのいい即断の応答が快い。もちろん高校生ではない私たち一般の読者が読めば、そんなところほど、ほんまかいな、と眉に唾つけて読みたくなるところですから、エリートの卵たちは彼らが本当に優秀であるなら、この対話を終えて佐藤氏の話を疑うことから一歩を踏み出したことでしょう。