2016年10月
2016年10月31日
森見登美彦著『夜行』
でも今回の『夜行』はとても魅力的な作品で、今日の午前中、ちょっとしたことで行った皮膚科と歯医者をはしごする間、待合室で読み始めたらとまらず、ぐいぐい惹かれて読んでしまいました。
『太陽の塔』や『ペンギン・ハイウェイ』、『走れメロス』(『鴨川ホルモー』や『鹿男あをによし』や『プリセンセス・トヨトミ』じゃなく・・・笑)なども読んだはずですが、ほとんど何もおぼえてなくて、ただこの作家の作品では『宵山万華鏡』という作品だけをとても気に入っていて、祇園祭の宵山の街を赤い金魚模様の浴衣を着た幼ない女の子が人垣のあわいをちょろちょろと走り抜けていく幻想的なイメージが未だに脳裏に残っていますが、こんなに引き付けられて読んだこの作家の作品はあれ以来です。
十年前、京都の英会話スクールの仲間たちで鞍馬の火祭見物に出掛けた折に、仲間の一人が姿を消した、その体験を共有する仲間が、失踪した彼女に呼び寄せられるように、再び鞍馬の火祭に行こうと集まり、貴船の宿で鍋をつつきながら不思議な回想を語り始めます。
その回想はすべて、学生時代に彼等が集った一種のサロンの中心だった岸田道生という銅版画家の作品で、「夜行」と呼ばれる48点の連作に描かれた地方の風景とそこに描き込まれた顔のない手を振る女性に引き寄せられるように、最初の語り手の私(大橋)をはじめとする登場人物たちが、尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡へと夜行列車の旅をして出逢う不思議な光景、不思議な出来事を語り継いでいく、というものです。
一つ一つのエピソードが、ちょうど中田さんの「女優霊」のような良質のホラーを見るように、読者である私たちは、恐いのに目の前にある次の扉のちょっとだけ開いている隙間を覗き見ずにはいられなくなって、次々にページを読み進む羽目に陥ります。おどろおどろしいものは何も登場しないのに、いまそこに自分に見えているものが隣人には見えず、何もいないけれど・・・と云われたときのような怖さ。誰もいない筈のところに、たしかに見える人影。自分が確かにいましがたまで会話をかわした人が存在するはずがないと分った時の怖さ・・・そんなぞくぞくするようなエピソードが満載。
でも怖いだけではなく、一つ一つの光景が限りなく美しい。夜行列車の窓から闇の中に一瞬見えて遠ざかっていく、炎に包まれる家、手を振る女の姿・・・夜の底を走り抜けていく列車の車窓から見える踏切の信号機のかたわらに佇む手を振る女性・・・ 夕陽に染まる貯水池の土手下の雑木林に囲まれた空き地にぽつんと建つ家に住む、絵を描く手を休めて寝転がっていると、「まるで美しい魚のよう」だった少女・・・
踏切に立つ女のところで、私は昔かかわったことのある南河内万歳一座の内藤さんが書いたオリジナル脚本『大胸騒ぎ』に出て来る、夜の踏切に立って意味不明の長いセリフを唱える孤独な青年の姿を思い出しました。
川端康成の「雪国」に使われて私も好きだった言葉「夜の底」という言葉がこの作品で何度出て来るでしょう。ほんとうに夜の底をひた走る夜汽車の感覚を伝えてくれる作品です。さて、いまの若い世代は、夜行列車に乗ったことがあるでしょうか・・・あの何とも言えない感覚が実感できるでしょか。
全編にわたって、夜行列車に載って、寝台車に組み立てられる前の座席に座り、冷たい窓ガラスに額を当て、車窓から夜の風景を眺めるとき誰もが感じるだろうあの不思議な感覚がベースになって、それがとてもよく生かされているのです。
地方をめぐるそれぞれの旅のエピソードを貫くもう一つの軸は、画家の連作銅版画で、これは複雑な網の目のようにそれぞれの不思議な出逢いの世界を構成し、互いに重なり合いながら謎を深め、広げていきます。そして、「夜行」連作に対して、「曙光」48点の連作の存在が読者の目に迫り出してくるとき、突然読者はその網の目を潜り抜けて、裏側の反転した世界へ導かれることになります。
一回読んだだけで、ひとつひとつのエピソードで「目撃される」こと、語られることを、それぞれの語り手自身の幻想、妄想にすぎないかもしれないバイアスを勘定に入れながら物語の隠れた糸を手繰り、そこに広がる魅力的な網の目をほぐして、合理の糸で織り直してみようというのは難しいけれど、複雑で豊かな物語の世界を織りなしながら、比較的分かりやすい佳奈ちゃんのエピソード一つみても、作者はそのあたりも周到に、現実の世界と幻想の世界との通路をさりげなく用意して物語を編んでいることが分かります。だから読者はいわば安心して不思議の世界に迷い、語り手の現実とも妄想ともつかぬかにみえる語りに心を奪われ、ドキドキしながら読んでいくことができます。
2016年10月30日
塩田明彦監督「月光の囁き」
1999年の作品らしいから、ずいぶん時間がたっていますが、以前に買ってみていなかったのか、映画を撮っている息子が買っていたのが残っていたのかは記憶が定かでないのですが、自分としては観た記憶はありませんでした。
「青春映画の傑作!!!」とカバーにあったので、自分としてはあまり見ないタイプの映画だし、そういう映画(には違いないけれど)と思っていたら、『映画術』の中で引用があって、「普通のおんなの子がSMの女王になっていく話」と監督自身の言葉があったので、おやおや、と思って、半分ハラハラしながら(笑)観ました。
始めの方は、実に凛々しい二人の主人公たちの姿に、こういうの好きだなぁ、いいなぁ、と爽やかな気持ちで見ていました。ターン!と面を打ち込む剣道場での稽古風景。素顔の彼等も素敵で、自転車に二人乗りして楽しそうに颯爽と草の堤を横一直線に走り抜けていく光景なんか、本当に「青春映画」を地で行くような絵でした。ほんとうに五月晴れのような爽やかな映像。ただしこれは「表」の映像。
ところがあるところから話は急展開。雨と泥濘と・・・トイレの水音から「彼」が飛び込む滝まで、後半は二人も水と泥にまみれ、汗にまみれて汚れていく「裏」の映像が日活ロマンポルノ風に横溢。けれども、そこで求められるのは性の快楽ではないため、互いにとことん傷つけあう中で、二人の愛のありえる形を無器用に手探りしていく二人。
ちょっと「神様が間違えた」ために、本来なら青春映画の爽やかな純愛を成就する二人が、そのズレが生む行き違いに苦しみ、傷つき、接触することで一層互いに傷つけあう姿は痛々しい。日高拓也を演じる水橋研二も非常な熱演で、最初の凛々しい青年から一転、なんというかじとっと脂汗がいつも滲んでいるようなM的青年を演じて、苦しみながらも一途に紗月を求めつづける姿を見せていますが、やっぱりここからは北原紗月を演じるつぐみという女優さんがすごい。
あの若さでこの演技のなんというか強度、本当に感嘆してみていました。監督の「普通のおんなの子がSMの女王になっていく話」というのはちょっと違うと思うけど(笑)・・・
純愛というのをこんな風に描けるんだ、というのは新鮮でした。いや、こんなふうに描くからこそ、ふたりの愛が絶望的な行き違いと傷つけあいを通してスパークするわけで、キム・ギドクの作品の中で私が一番好きな「悪い男」と通じるところがあります。
DVDの特典映像で監督が語っている中に、温泉旅館へ行く前に、紗月が姉と話をするシーンを劇場公開のときにはカットしたのだが、DVDにすると復活したんだ、と言っているところがありました。監督は復活した理由を、やはり最初に作ったときの形を変えるべきじゃないんじゃないかと思って、というふうに言っていたと思います。
その場面は、眠れない紗月が廊下にうずくまっている夜中に、たまたま姉が来て、台所で缶ビールか何かを飲みながら、今度わたし結婚するんだ、と両親にも告げてないことを紗月に唐突に告げ、紗月にも、紗月が拓也にみせつけ苦しめるために付き合っている剣道部の先輩もいい人だけど、拓也とよりを戻すように言い、やっぱりあんた拓也君が好きなんでしょ、というようなことを言い、紗月が何も知らない癖に、と猛反発する場面です。
私自身は、あの場面はやはりカットして正解だったのではないかと思います。あれはそう言われてみれば、ラストで二人が並んで堤のところに座って、紗月が、また拓也の友人も交えて一緒に旅行(だったかな)にでも行こうか、と言う、この映画の中で初めて紗月が拓也の「神様が間違えた」仕方での純愛を受け容れる、決定的に重要なシーンの、説明的な伏線のようになってしまっているわけです。
でもその「伏線」は二人のすれ違い、傷つけあうこの作品の肝心の部分のありようを、「あんなことをしていても本当は彼女は彼のことを愛していたのでした」という極めて簡単な「答」で解いてしまうように観客をミスリードする危惧があるように思います。もちろん紗月は姉の言葉を何も知らないくせにと拒み、そんなに簡単なことじゃないんだ、ということを明示してはいますが、それはただ拓也がMであることを知っているか知っていないかの違いだけで、姉の言葉どおり最初から最後まで紗月は「やっぱり拓也が好きだったんだね」ということになると、それはこの映画の核心的な表現を損ねることになるでしょう。
うるさいことを言えば、この映画はそういう映画であってはいけないんじゃないでしょうか。紗月は本当に身も心も切り裂かれ、ボロボロになるほど傷ついていて、何も知らない姉の目からいくら第三者的にみて、紗月が本当は拓也を好きなんだろうと見えても、彼女の内なる声で言えば、拓也の「神様が間違えた」愛のありようを受け容れることはとてもできそうにない。先輩は本当にいい人だし、彼に愛を受け容れることに何も不都合はない。そのほうがずっと幸せな人生が送れるだろう。本当にどっちを選ぶか分からない。
そういうところに何でもないようだけど「青春映画」の真実があるわけで、それは大人から見れば、どっちへ転んでも人生五十歩百歩さ、と達観してしまえるかもしれないような選択であっても、「生きてみなければわからない」不安と迷いの中で、一歩一歩深い霧の中を手探りしながら自分の脚で歩いていくしかない青春の人生に対する純粋な真剣さ、危うさから生じる迷いなわけですから、姉の言うように簡単なものではないのです。
滝の崖上でのやりとりの中で、「先輩」が紗月のあの場での驚くべき言動にも動じず、「もういい、俺はお前がどうであっても、お前を受け止めてやる」と言ったら、紗月は先輩を選んだかもしれない、と仮想しても良いような想いの中でこそ、彼女は本当にどん底でうずくまっていたはずで、そういう切羽詰まった気持ちの中でこそ、紗月は温泉へ行き、二人を呼び寄せ、拓也にあんたが死んで消えてくれたら自分は幸せになれるというのであるはず。そこまで彼女の苦しみを追い詰めないとあの場面が本当に生きてこないのではないかという気がします。
たいしたことではないかもしれないけれど、あのシーンがはいることで、説明的にになって、かえって紗月の内面の劇の熾烈さを弱めているのではないか、という気がしたのです。まぁ、監督が劇場版でカットしたんだ、というのを聞いてそう思っただけで、聞かなければ、ああいうものだと思って見過ごして何とも思わなかったでしょうが(笑)
ラストの和解というか、紗月が彼のズレた愛を受け容れる、さりげない紗月のひとことで終わるシーンは素敵です。
塩田明彦著『映画術』
ずっと以前に「黄泉がえり」を見て記憶にあった映画監督の『映画術』という本を先日本屋でみつけて読んだところ、とても面白かった。
いわば映画の演出を「読む」本で、「動線」、「顔」、「視線と表情」など、視点を定めて誰それの作品の具体的なショットを例示的に分析しているので、著者の「読み方」がわかりやすく伝わってきます。
そしてその「読み方」はとても新鮮で、目から鱗が落ちるようであったり、ハッとさせられたり、そうそう、と共感したり、読んでいて楽しかった。私が見ていない映画もたくさんありますが、それが見たくなるのも効用のひとつでしょう。
「緋牡丹博徒」のお竜や「男はつらいよ」の寅さんの演技が音楽だ、あれは声の劇なんだ、というあたり、ははぁ、なるほどねぇ、と感心して読みました。お竜の良く知られた仁義を切る口上や寅さんのテキ屋の口上のリズムのある語りが「歌」だというのは誰にでも言えそうですが、二人が「歌う俳優、歌う女優」なんだという視点はとても新鮮でした。
また、二度にわたって登場する増村保造「曽根崎心中」については、最初の梶芽衣子の視線の分析も、この作品が「歌う」作品だという指摘も鮮やかでした。
この作品は私も好きで、毎度取り上げることが多いせいもあって30回くらいは見ています。視線の問題は私も少し違った観点から取り上げもしたけれど、「歌う作品」というのは、塩田さんも引用しているあのシーン(まだ事件が起きる前の天満屋で、お初が悪い予感を覚えていっときの別れを不安がるシーン)など大好きな場面でセリフも覚えているほどなのに、塩田さんの指摘にはハッとさせられ、さんざん見ている(聴いている)ようでいて、見えてない(聴けてない)んだな、と考えさせられました。
それにつづく繰り返しセリフが魔術的な次元を開いて呪文に転化する、という話もすごく面白かった。初期歌謡の言葉を重ねる語法などにもそれがあったように思います。
映画はあらゆる表現ジャンルの中で音楽にだけは嫉妬する、と。なるほどなぁ、と考えさせられました。私は耳が悪いせいか、「音」との関係で映画を感じ取る能力が低いのかもしれないな、とふと思ったことでした。
作品そのものが音楽であるに感じられる映画というのは、セリフや映像による展開のリズムがその指示機能を強め、また演者の声色・音色や映像による対象の選択や転換や喩の強度が表出機能を強めているからだろう、と、私なら吉本さんの「言語にとって美とはなにか」のキーワードをヒントに考えていくだろうな、と。でも、映画に適用すると、三次元のできごとを二次元に投影して見ているようなところがありますが・・・。
映画に限らずいま若い人と芸術作品に向きあっていこうとするとき、一番ネックになるのは、「芸術は自分の好きなように見ればいい」という先入観です。綴り方教室でも、「好きなように書けばいいんだよ」と教えられてきた弊が、今にいたるまで尾をひいています。
これは作文に限らず、美術教育も音楽教育も、すべて表現にかかわる問題には共通で、作品そのものの軽視、「内面」主義への跪拝として浸透しています。当然、表現を「読む」姿勢も、客観的にそこに存在する具体的な作品に向き合うよりも、それをめぐる恣意的な「解釈」を個性的で価値あるものとする主観の横暴が幅をきかせています。
もちろん、どんな作品をどう読み、どう見ようと読む人、見る人の勝手です。というよりも、私たちが社会の多様な場に埋め込まれた存在である限り、恣意的という意味で多様な読み方、見方をするのは至極当然な現象に過ぎません。
だからといって、その恣意的な「解釈」を振り回したからと言って、作品の価値に近づいたり、作品を理解することにはならない、ということも、私には自明に思われます。
作品を理解するためには、自分の胸襟を開いて目の前に客観的に存在する具体的な作品に謙虚に向き合い、作品を受け入れ、その作品の語り掛けるものに耳を澄ますほかに方法はありません。
そして、作品の声を聞き取り、これを他者と共有したければ、作品の客観的な要素や構造を通して作品の価値を語っていくほかはありません。
そのために塩田さんがここで映画を「読んでいる」ように、具体的な作品の客観的な要素や構造を読み、言葉に置き換えていくことがどんな表現ジャンルであっても不可欠です。そういうことをずっと続けてきたので、この本で塩田さんがやっていることは、まさに自分が若い人たちと一緒にしたかったことだな、と感じながら読んだのでした。
塩田さんは「演出する側は言うまでもなく、演じる側にも知性が必要なんですね。僕が映画俳優になろうとしている方に、映画の演出についてある程度語ろうとしている理由もそこにあるんです。そういうことがわかってないと、本当の意味での映画俳優にはなれない気がするんです。」と書いています。
私は、観客にも「知識」ではない、そのような「知性」が必要だと思います。「そういうことがわかってないと、本当の意味での映画観客にはなれない気がするんです」。
また彼はクリント・イーストウッドの「許されざる者」の或るショットにおける演技を分析したあと、「観客がその演技の意味に気付かなくても、無意識に伝わるんですね」と結んでいます。そう、そこが難しいところですね。映画に限らず芸術作品が芸術作品であるかぎり、感性を通じて訴えるものだから、映画についての予備知識も描かれる世界や監督について予備知識も何もなくても、作品が表現しているかもしれない思想や映画的手法についても何も知らない初歩的な観客にも、作品の基調音だけは伝わるものだ、と考えても大過ないでしょう。
つまり素直に耳を澄ませば、作品の基調音は誰にでも聞こえる。それがその作品の価値をとらえている、と言えば言えましょう。しかしひとたびその感性の経験を他者と交わそうとすれば、つまり論理的な言葉によって語ろうとすれば、作品の具体的な要素や構造を認識し、言葉に置き換えていくことが不可欠になるでしょう。そこでは「どう受け取ろうと自由だ」という恣意性は成立しません。
あくまでも目指すべき作品の価値は、受け手の主観とは別に客観的に存在するので、こちらからアクセスするほかはありません。それは「手ぶら」ではできないでしょう。山頂を目指すのに、いろいろな登山道があるかもしれないし、途中で異なる様々な景色を見るかもしれない。でもゴールは同じこの山の頂であって、そこに至るには高く険しい山なら、登山用具も、正確な地図も、足腰を鍛えるトレーニングも必要でしょう。勝手に途中で、あるいは道に迷って別の山へいって、ここがこの山の山頂だ、と言っても、誰もそれは認めることができないでしょう。
塩田さんの著書はそんな山のぼりの楽しさ、途中で次々に開ける眺望のすばらしさを見せながら、私たちの足腰を鍛えてくれる、貴重な「映画術」の テキストだと思いました。映画に関心をもつすべての若いひとたちにおすすめの一冊。→㈱イースト・プレス 2014年刊
2016年10月21日
「聲の形」~”傾向映画”としての
(映画館でくれたおみやげ)
この映画で私達に見える「聲の形」は一色でしかない、そんな印象を持ちました。
近年営業上の理由からでしょうか流行している人気漫画を原作とするアニメで、ヒットは最初から約束されていた映画なのでしょう。もくろみ通り大ヒットのようです。
その点は同じヒットしている作品でもオリジナル脚本に基づく「君の名は」とはまったく異なる成り立ちの作品です。
ひとことで言えば、この映画は小学生のいじめ体験で加害者も被害者も深手を負ったまま時が経ち、高校生になって再会を果たし、やりとりする中で自己回復していく話です。
主人公の小学生石田将也のクラスに聴覚障害者の少女が入ってきて、ありふれた少年少女たちの間に、ひとつの異和が投げ込まれた形で波紋を生じます。
強い関心と同時にそれとは裏腹な無関心を装う<無視>の眼差しが少女に集中し、いわゆる激しい「いじめ」を受ける。そのことへの関わりかたで登場人物の少年少女たちは分節化され、もともとの資質がクリアに浮かび上がりもします。
将也はもともと繊細で地アタマのいい、それゆえ自分には素直になれないで行動では思いと反対のことをしてしまうような、やんちゃで、クラスの日常に退屈している、目立ちたがり屋のよくある男の子ですが、その少女西宮硝子が来て、格好の退屈しのぎの相手がみつかったといった感じで、いいように少女をいたぶります。
それはまさに「いじめ」に他ならないけれども、彼は自分が「いじめている」という内省的な意識を持たないし、いじめが悪いという今の世の倫理綱領にもいわば毒されていないため、そのいじめは陰湿なものではなく、直接で、暴力的で、それだけ一層苛烈です。
彼は直観的に胡散臭いものを見抜き、鋭い嗅覚で偽善的な腐臭を瞬間的に嗅ぎ取ってしまうので、西宮硝子が生来のハンディキャップから自衛のためにする愛想笑い、いじめる相手にも笑顔で手をさしのべるような”偽善的” 態度を「気持ち悪いんだよっ!」と激しく拒否します。
この点は植野直花なども同様で、彼女は言葉によってですが、なかなかグサッとくるような言葉を、たぶん私たち自身も心の闇の中で日常的に飼いつづけながら世の倫理綱領の鎖で縛りつけている猛獣のように解き放ち、硝子の胸を切り裂く趣があります。
ただ、この鋭いナイフで刺すような経験は、刺された少女のみならず、刺した将也たちにも深手を負わせていることが、いったん小学生時代のエピソードをカットして、不連続に高校生になった彼らの日常につなぐ合間に、断片的に語られます。
聴覚障害の少女西宮硝子は結局転校し、次に高校生になってからの彼らの姿へと飛躍します。この連続性の途切れる期間に、過去に負った深手が原因で、将也は周囲の友人たちから浮いた孤独な存在になり、また自分の内面では激しい自己嫌悪に耐えられず、自らの命を絶とうとするエピソードが描かれています。この事件が家族にも微妙な陰影を与えています。
そして彼は彼女に再会しますが、自分を許すことがそう簡単にはできず、素直に謝罪の言葉を口にすることもできない。しかし将也は手話を学びはじめ、彼女の妹も仲立ちにしながら、結果的には彼女に近づいていく。ほかの元クラスメイト達も同様に彼と彼女を中心に一度失われたかにみえた絆が再生されていきます。
聴覚障害の彼女、硝子のほうも彼に好意をもちながら、それがうまく伝わらないもどかしさの中で、将也と互いに不器用なやりとりを繰り返して、気持ちが近づいてはまた断ち切られるような不安定な関わり方を続ける中で、自分の無力感にすとんと落ちるような瞬間には投身自殺への誘惑が断ち切れない。
そういう決定的な瞬間に硝子が投身するのを間一髪、将也が助け、逆に彼が高みから落ちて危うく死にかけるという事件が起き、もともと彼に好意を持っていた植野直花がずっと彼について看病したり、これまでコミュニケーション不能だった友人たちとも心が通い合うようになっていく・・・
ごく荒っぽく要約すればこういうことになるでしょうか。
いわゆるメッセージ性の明確な作品で、私の最も苦手な作品のひとつです。昔の言葉で言えば一種の”傾向映画”的な作品に見えます。苦手というのはかなり控えめの言い方で、ほんとうは、映画としてどうなんだろう、と感じているのが率直なところです。
ただこういう「主題の積極性」みたいなものを前面に押し出す作品というのは、批判しにくい風潮がありますね。いまの世の中。
以前にもデミー・ムーアの主演したウーマンリブの主張を絵に描いたような映画を何かで偶然みて閉口しましたが、ポリティカル・コレクトネスに類するメッセージを伝えることが映画の使命だ、という考え方は、いまも一部で根強いのかもしれません。社会性もあり、現実の社会問題に関心を持つ人たちの気持ちを引き寄せやすい点もあるのでしょう。
もちろん映画にせよ小説にせよ、どんな主題を取り上げようと自由なのですが、そのことが作品の質を保証するわけではないし、男女の他愛ない恋愛や不倫を描く作品よりそれだけで優位なわけでもなんでもない、ということは作品における思想というのを現実の中で私達が抱く思想(ものの考え方)と混同しがちな人には、なかなか納得してもらいにくいことなのかもしれません。
この映画に感動した、という人も多いのですが、私には息苦しい作品に感じられ、あまり後味もよくありませんでした。
なぜそういう感じを受けたのかな、と考えてみると、この作品が登場人物を、「いじめ」とそれをめぐる心理のやりとりという線でだけ拾って、ぎりぎり追い込んでいるからなのだろうな、と思いました。
もちろん「いじめ」をきっかけとする、当事者たちの心の傷の現れ方や、そこから自己回復にいたる過程を描くことは少しも問題ではないのですが、その追い詰め方が、いじめ→自己嫌悪→反省→勇気をもって告白→それはホンモノなのか?(まだまだ反省が足りない、本当の謝罪にはならない、いやそもそもそれで取り返しがつく話なのか)→また反省→自己嫌悪→・・・といった無限の繰り返しのようで、正直のところ植野直花のほうに寄り添いたくなるほどうんざりするところがあります。
そういう作品の性格は、登場人物たちがやたら「ゴメン」、「ゴメン」、と謝ってばかりいるところによく表れています。一体何回、「ゴメン」が出て来るでしょうか。私たち鑑賞者も植野直花と一緒に、いったい何度ゴメン、ゴメンって言ってるんだよ、いい加減にしろよ、と言いたくなります(笑)。
それは西宮硝子が攻撃的な他人に対する自己防衛の方法として身に着けてしまった悲しい武器という側面を超えています。将也もまた自己嫌悪に苛まれて、「ゴメン」を繰り返します。
人間が心の奥深くに負った深手は、そう簡単に回復できるもんじゃないよ、というのはよくわかるけれど、ふつう私たちは「ゴメン」を口にしないことによって自分の醜悪さに堪えるところがあるのではないでしょうか。そのことで堪えているものがあるのではないでしょうか。
登場人物にここまで「ゴメン」と口にさせる物語の作り手の像は、みかけほど善良ではなく、むしろどこか無限の謝罪を強いる底意地の悪さが感じられ、陰湿ないじめ手と重なってくるように思えてなりません。
私たちはこの種の底意地の悪い責め方に、身近なところで幾度も遭遇してきたような気がします。大きな話では、いわゆる戦争期における日本軍の行状について謝罪しても謝罪してもまた謝罪を要求される「歴史問題」に対する中国の攻め方などは政治的意図があるにせよ、典型的なものかもしれません。
私の身近なところでは、子供が小学校に通っていたころ、まだ4年生くらいではなかったかと思いますが、同じスポーツのサークルにいた1年下の子と喧嘩をして、たまたまその子が在日外国人で日本人にありふれた姓ではなかったために、その音読みにあたる言葉をからかったことがあり、気が強いことで評判だった相手が後刻息子の教室まで仕返しに来て教師が中にはいり、知る所となって、それは息子のした「差別」的言動だということで叱られるという事件がありました。
それがいわゆる「民族差別」だと決めつけて叱る叱り方に問題がなかったかどうかは、この際措くとすれば、いずれにせよ人の名前を面白おかしくからかうことは間違っている、そこは厳しく叱ればよい、と私もずっと後日になって知った時にも思いましたし、その点はいまも変わりません。
しかし、そのときはもちろん、問題はそれから一年近くの間尾を引いていたのを、私たちは何も知らずに過ごしてきたことが、ずっとあとになってから偶然わかりました。
4年生(だったと思う)の終了時に、成績表をもらってきた中に、担任から息子への手書きのメモ風の紙片が挟んであり、「私はあなたが〇〇君を差別したのを残念に思う」というようなことが書いてあったのです。
それを見て、驚き、これはいったいどういうことなんだと息子に問いただして、はじめて過去に上に述べたようなことがあったことを知りました。
私たちを驚かせたのは、それから先のことです。その事件ののち、息子が教室でおちょけて騒いでいたり、なにかふざけたことをしたときに指名して叱られるとき、その教師は必ず「〇〇君は人を差別するようなことをしたのに、忘れたのか」という言葉を添えて叱っていたらしいのです。
まったくあの喧嘩の事件とは関係のないとき、関係のないできごとに対して、その教師は息子の後ろめたさを逆手にとって、クラス全員の前で、息子に対してそういう「いじめ」を繰り返し続けてきたのでした。彼女にとってはその「いじめ」が、「正しい反・民族差別教育」だったわけです。私が世の中で一番嫌いな「正義の人」というのはこういう人のことです。
私は近所の同じクラスに通っていた女の子の母親にも事実を確かめたうえで、学校へ電話してその教師を呼び出し、自分が電話した理由を告げて、きょうお目にかかりたい、よく話を聞きたい、ということを伝えました。
その女教師はまともな答もできず、「今日は仕事おさめの日で、放課後も同僚と集まり(宴会)があるのでお会いできません。」と答え、結局いくら言っても応じることはありませんでした。
彼女は、思い込みの強い教師で、それよりずっと以前にも、クラスの子供たちを朝鮮総連の主催らしい民族の祭典とかいうものに連れ出し(希望者の任意参加ではあるが)、作文の時間には、その祭典に参加して、素晴らしかった、と書いた子供を褒め上げたりして、生徒たちの間で、「あの先生はあの祭典のことをよく書けば高い点数をくれるんだ」と評判になったような人でした。
また、学芸会の折にもクラスの生徒に韓国語劇をやらせたりしていました。そのときにも、「韓国以外のこともいろいろ知りたいよね」と私たちが話したことをそのまま連絡帳に書いた息子に対して、「韓国以外のことならテレビなんかでいくらでも見れる」、というようなことを返信にめんめんと書いてよこした教師でした。
この教師にいくら言ってもだめだろうな、と思いながら、「あなたのしたことこそ、まさにいじめじゃないですか。」と問い詰めたけれど、彼女はそういう都合の悪いことになれば電話の向こうで無言を何分でも続けられるのでした。
わたしは見切りをつけて、せめて次の担任への申し送りにつまらない偏見に満ちたことを書かないでくれ、もしそういうことをしたら、今度はただではおかない、必ず裁判に訴えて総てを明るみに出す、と言って電話を切りました。
息子の級友の母親も、「前からすごく偏ったひどい先生なのはみんなわかっているけれど、言っても絶対に改める人じゃないし、子供が睨まれるだけだからやめといたほうがいい」と言っていました。いざというとき証言してもらえないかと頼みましたが、子供を巻き込みたくないから、とやんわり断られました。親は子供を学校に人質にとられているのだから、というのですね。それはもっともなことですから、私も無理をお願いはしませんでした。いまもその方とはお付き合いがあります。
私は、もちろんそれで追及をやめたわけではないけれど、言っても無駄だ、とは思いました。しかし、そののち今にいたるまで、自分の子供を教員にいじめられた悔しさは一度も胸裏を去ったことはありません。
この人は「正義の人」なのですね。自分が「正義」を独占していると思い込み、勘違いしている。だから、人が何か誤ってそういう人の「ポリティカル・コレクトネス」に抵触することをしたとなると、どんなに反省し、謝罪しても、いやまだ本心じゃない、いやまだまだ足りない、本音はそうじゃないんでしょ、過去にこう言ったでしょ、・・・と追及の手を緩めることはない。かつての「糾弾闘争」と同じで、留まるところを知らない。
いじめ問題であるなら、いじめを追及することが自己目的化して、自分自身がいじめの根源になっていることに気付かない。
こういう陰湿さは、新約聖書の「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」という内面に踏み込む倫理綱領以来、正義の人につきまとう陰湿な暴力性であるような気がします。「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」という被虐的な底意地の悪さとも通底するものですね。
「なんぢら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは断食することを人に顕さんとて、その顔色を害ふなり。」腹が減ったら情けない顔になるのは自然なのに、それを否定して、悲しい顔をするやつは偽善者だと内心に踏み込んで責め立てる、そういう倫理綱領ですね。
「聲の形」の登場人物たちも、作り手が信じているらしいこの倫理綱領に縛られているから、どこまで「ゴメン」を繰り返しても、それは偽善だと追及され、また自分を自己欺瞞だとせめて追い詰めていく。これは間違っているし、少しも正義ではない。
けれども登場人物たちはけなげにも、この作り手の倫理綱領に沿って行動し、なんとかクリアしていきます。その単調でけなげな行程に感動する人がいて、それをけなすつもりはないけれど、食物を口にせずに餓死して即身成仏することを理想とする宗教に疑問を感じるように、だれもが遠慮なく疑問を呈していいと思います。
私の好きな映画に、シドニー・ルメット監督の「十二人の怒れる男」があります。アメリカの陪審制度の問題点を、スラム街育ちの少年の尊属殺人容疑に、11対1で死刑が当然という雰囲気の中、たった一人疑問を呈して抗い、最終的に全員が無罪と判断するまでの協議のプロセスを陪審員室だけを舞台に描き切った傑作です。
これも非常にメッセージ性の強い、社会正義にかかわる主題の積極性もある映画ですが、私はこの作品には「聲の形」におぼえるような違和感も後味の悪さも、微塵も感じません。
この映画に登場する多くの陪審員は偏見に満ちています。論理的に考える反対者はまだくみしやすい。論理と実証で説得できるからです。でも、生まれ育った歳月が形成した、感情的なものにどっぷり浸ってもいる偏見というのは、そう簡単ではありません。ルメットの描く人物たちの中でも、最後まで抵抗する陪審員3番などがその典型です。
でも彼がそうなるには理由がある。正当な理由とかなんとかではない。理由が正当かどうか、なんてことは、最初からポリティカル・コレクトネスの倫理綱領を絶対視してそれに照らして個人の思想を検閲しているだけで、少しも人間を見ていないわけです。そうなるとどの程度その物差しに沿っているか、沿っていないかだけで人間を切り取ってしまう。こいつは改心したからシロ。こいつはまだまだだ、クロ。そんな物差しでしか人間をみない。心理の劇もただその物差しで、自己回復を果たした、罪をつぐなった、友達になった、そんな薄っぺらな計測しかできない。
でもルメットの描く人間陪審員No.3には、彼の育ってきた環境があり、彼がこうありたいと思って生きてきた理想の男性像や父親像があり、それが投射される息子の像があり、実際の息子との関係がある。正義の人の持ちだす物差しがどうであれ、彼はそういう生身の人間の総体としてそこに現実に存在し、それを生きようとする。だからその登場人物には生命が通い、リアリティがあり、本当の意味でのドラマが生まれています。
「聲の形」の登場人物には残念ながら、そういう生きた血が通っていない。一番大事なところで生命が吹き込まれていません。
私が一番面白いと思う植野直花も、ただ作り手の直線的な物差しの上を遠くのほうからちょっと近づいてみたりして動いているだけで、一人の人間としてそのラインから自由に自分の軌跡を描いて飛び出していません。
だから、作者の倫理綱領の遠いところにいるときは、彼女は単に改心の遅い否定的な存在にみえ、簡単にゴメンと言ってしまう連中を映す鏡の役割をしているだけで、近づいてくれば連中と同じ存在になってしまうだけで、どこにも彼女がこういう言動を取るだけのものを背負って生きてきた人間としての実質が感じられません。
西宮硝子へのいじめを許した小学校で一番問題なのは、この教室にしばしば登場している教師であることは、現実の経験があればだれでもすぐわかると思いますが、この映画では、なにも関与できず問題の深刻さに気づいてさえいない馬鹿教師としてさらっと登場するだけで、全くそれに対する批判的造型もなにも見られず、ただ将也たちの心理劇に事件を落とし込んでしまっています。
「聲の形」ではドラマが単にこの作者の敷いた倫理綱領の物差しに沿って、プラスの方向へ行くか、マイナスの位置にどどまるか、またその間を行ったり来たり、逡巡し、立ち止まり、ついにはみんなプラスのほうへいきますよ、というその一線上の往還とそれに伴う心理劇にとどまっているように感じられます。
その結果、彼ら登場人物たちの行動や言葉は一色で、そこに二重、三重の含みがないために、どうした、どう言った、と指示言語は辿れるけれど、少しも豊かさ、多彩さとしてそれが感じられません。
そこに息苦しさがあり、またそこから解放されても、それは本当の解決じゃないな、と感じられることからくる後味の悪さを拭えないのです。
2016年10月15日
弱い絆の強さ…東浩紀『弱いつながり』
今回、これを思い出させてくれたのは、東浩紀さんの『弱いつながり~検索ワードを探す旅』という2014年に幻冬舎が出した本です。近くの古書店でたまたま好みの白い装丁のしっかりした綺麗な本があったので、タイトルにも惹かれて買ったのですが、例によってずっとツンドクしていたのです。ところがちょっと別の文脈から、たまたま先日から東さんの『存在論的、郵便的~ジャック・デリダについて』を再読したくなって、自分の昔途中まで読んだ本がどこへ行ったか分からないので大学図書館で借りてきたものの、返却期日があるものだから、電車の行き帰りで、エイヤっと何とか200頁近く読み進んだけれど、やっぱり挫折(笑)。
再読というのは、実はこの本が最初に出たころに、少しはデリダなども翻訳で読んでいたので、冴えたデリダ論だというので買って読んでみたのですが、ほとんど歯が立たなかった(笑)。自分よりずっと若い秀才の書いた本なのですが、不勉強で馬齢を重ねた身にはとても理解できない。
で、この歳になって少しは分かるかな、と思い出して最初から再読してみたら、ところどころ(笑)おぅ、なるほど、すごいね、と今更ながら思うところがあったけれど、やっぱり挫折。それはデリダにせよ誰にせよ、著者は20代のはじめにフランス語でたぶん全著作を読み込んで 全身全霊で取り組んで縦横無尽に論じていますが、こちらはデリダなどは初期のものの翻訳が出て日本語でようやく齧ってみたら歯が折れた(笑)といった趣なので、たぶん棺桶に入るまでこの本はお預けということになりそうです。
しかし、それを読んでいてふと、そういえば『弱いつながり』ってのも持っていたなぁ、と思い出し、今日は電車にこれを持って乗ったのです。そしたら、この本は一般向け、と割り切って書かれたようで、とても読みやすく、分かり易くて、ちゃんと往復する間に最初のページから最後のページまで無事読み終えました。
「弱い絆の強さ」に触れた部分は僅かですが、「はじめに」に登場して、結構重要な位置づけがされています。私がこれについて学生さんに話すときは、学生さんが真剣に耳を傾ける就活の話にかこつけて、就活についてアドバイスをもらうなら、友達やあまり年齢の離れていない社会へ出たばかりのゼミの先輩などよりも、ふだんそんなに口をきかないお父さんとか(笑)、あるいはめったに遇うことのない伯父さんとか、お父さんやお母さんの会社の同僚だとか、犬の散歩でときどきあって雑談する近所のおじさんとか、なんかそういう人のほうがいいよ、なぜなら・・・というふうなことでお喋りします。
その「なぜなら」のあとに「弱い絆の強さ」の話をするのですが、なぜそれが「強さ」なのかと言えば、「強い絆」の人どうしはネットワークの同じクラスターに属しているから、持っている情報の質が同じようなものだけれども、「弱い絆」でつながっている人は、別のクラスターに属しているから、自分のクラスターの持つ情報とは異質な情報をもたらしてくれるからだ、というふうに話してきました。
東さんは、友人や同僚はあなたのことをよく知っているから、あなたにとっても予測可能な転職先しか紹介してくれないけれど、「パーティーでたまたま知り合ったひと」はあなたのことなんて何も知らないからこそ、まったく未知の転職先を紹介してくれる可能性がある、という風な説明をしています。
私の理解ともちろん矛盾はしていないけれど、私のはスタティックな理解の仕方というか説明の仕方になっていて、これで完結してしまっていますが、東さんは、この話をこの本全体の、ネットの世界に閉じ込められることを回避するには場所を変えるしかないよ、という趣旨のうちに位置づけて動的に展開しています。
そして、「世のなかの多くのひとは、リアルの人間関係は強くて、ネットはむしろ浅く広く弱い絆を作るのに向いていると考えている。でもこれは本当はまったく逆です。 ネットは、強い絆をどんどん強くするメディアです。」と言います。
これは情報化が紙媒体を無くしていく、とか、情報化で人と人とが直接会う必要がなくなる、といった方向で多くの人が来るべき情報化社会のイメージを語っているころに、いや、情報化は紙媒体をむしろ増やすし、情報化でますます人は頻繁に会う機会が多くなる、と聞いたときと同じように、かなりの学生さんにとっては目から鱗ではないかという気がします。
さすがにこの歳になると、それは気づいていて、ゼミで10年ばかり、毎年PBL(Project Based Learning)なんてものをやってきたのも、そういう考え方が基本にあるからです。なにかやっていても、いまの学生さんはなんでもネットで調べて済ませようという傾向が強い。外へ出て現場へ行ったり、人に会って訊いてくるのを億劫がるのです。
だから、絶対に外の人に取材するなどして、接触しなければどうにもならないようなプロジェクトを立ち上げて、彼女たちを外へ追い出します。そして言うことは、「君らが外の人と接し、現場へいって、自分自身がどんなささやかでもいいけど変わる経験をしないなら、このプロジェクトはやってもやらなくてもいいようなものだよ」、と。
机の前に座って片手間でやれてしまう、自分を少しも変えずに、ちょいちょいと頭と手を使ってやってしまえるようなこと、それをする前とした後で、少しも自分が変わらなくて済むようなことなら、「やらんほうがましやで」と。
その自分を変えてくれるものは、リアルな現場であったり外部の人間なのですね。
だから、億劫がる彼女たちを励まして、受験勉強のときは「やったほうがベターなことはやらないほうがベター」というポリシーが正しかったかもしれないけど、ゼミのプロジェクトでどんなちいさなことでも「やったほうがベターなことは絶対にやる、やらないのはワースト」という姿勢でいつもいるように、というのがもう一つの私の常套句。
就活にアルバイトにゼミ活動と忙しい彼女たちは、「ほんとうはやったほうがいいんだろうな」と思っても「まぁやらなくても<大丈夫>だし、メンドクサそうだし、やめとこ・・・」と思いがちです。「大丈夫」というのは、やらなかったからといって、そう致命的なことになるわけでもなし、叱られるわけでもないだろう、みたいなことですね。
でも、そのほんのわずかな労力を惜しむか、それを積極的に拾ってやっていくかで、プロジェクトの成否が決定的になることが少なくないのです。
それから、ネットは東さんの言うとおり、強い絆をどんどん強くする。それはもう、彼女たちのフェイスブックやラインの使い方を見ていればわかります。フェイスブックが日本で普及しはじめたころ言われていたのは、あれは直接の知り合いを超えて、趣味や関心を同じうする未知の人を見出し、所属する集団を超えて横断的な新しいつながりを見出すためのメディアだ、みたいなことでした。
しかし実際に学生さんたちの使い方を見ていると、まったくクローズドな友達どうしのつながりを日々確認しあい、その絆の中で自己表現するメディアでしかありません。その既存の絆を強化し、深めるメディア。これは東さんの言うとおりで、それを日々目の当たりに見ています。
まぁ、そんなふうに身近な見聞に引き寄せながら読んでいくと、とても共感できるところが多く、分り易い事例と新鮮な視点があって、一気に読みました。東さんの本でこんなにすいすい読めて凡才にも理解できる(または少なくともできそうに思える・・(笑))ものがあろうとは、難解なデリダ論を読んだころには夢にも思いませんでしたが・・この「弱いつながり」は最近文庫にもなったのかな?若い人にもおすすめの一冊です。