2016年08月

2016年08月04日

野田高梧『シナリオ構造論』

 小津安二郎と「晩春」「麦秋」「東京物語」などの共同脚本を書いた脚本家、野田高梧の1952年の著作の復刻版というのが出ていたので読んでみました。

 映画はまったく娯楽としてしか見ることがなくて、まともに勉強したこともないので、シナリオについて監督がエッセイなどで書く文章はちらちらと読んでいても、当の脚本家が書いた著作を通して読んだのはじめて。 古典的なものだから、いまの脚本家からみれば、もう全然こんなんじゃねえよ、ということになるかもしれませんが、とても丁寧に実際の映画作品の脚本を引用しながらわかりやすく書かれていました。

 こういう映画人の実践的な試行錯誤の積み重ねてきたものによって、いまではこうした脚本をめぐる事項は常識化され、さらにどんどんそれを突き破るような新しい考え方が出てきているに違いないでしょうし、素人でもほとんどのことが、そうだろう、そうだろう、と読めるように常識化していて目新しいことが書いてあるようには思わなかったけれど、映画の脚本を文学の一種とみなす文芸中心の見方に異議をとなえて、映画のシナリオは小説と戯曲の中間なんかじゃないんだ、という、「文学性について」はなかなか面白く読めました。

 というのも、私などは映画のシナリオを読むときも、どうしても彼のいう「文学」の側から読んで、その表現の特徴をとらえようとしがちだったせいかもしれません。ですから、「映画が文学性を持っているという意味は、決してそれが文学の一分野だという意味ではない」と言われるとかえってとても新鮮な気がしたのです。

 「彼はよろめいた。彼は空腹だったのである」という文を例に挙げて、これは文学的な表現であって、シナリオ的な表現ではない。シナリオの場合は「レストランの入口の飾り棚にいろんな料理の見本がならべてある。彼はふらふらとそこに近づく。出て来た客がじろりと彼を見てゆく。彼は飾り棚の料理をじっと見て思わずゴクリと唾をのむ」とでもいうように書くんだ、と。

 野田さんの誠実さはそういう例を挙げたあとに、あわてて「いや、勿論これはたいへん拙劣な表現だが、しかしともかくもこんなふうに、目で見ただけで『彼は空腹だった』というそのことが画面として直感されるように、あくまでも客観的に表現しなければならないのがシナリオである」なんて書いているところにあらわれていて、ずっと好感をもって読んでいけます。

 そういえば、文芸誌に野田秀樹などの演劇の戯曲は堂々と「文学」として載るけれども、映画のシナリオは載りませんね。映画雑誌や専門のシナリオ誌にはもちろん載るけれども、文学の側からはシナリオは自律的な文学とみなされてこなかったのかな。しかし演劇の戯曲が舞台を想定した言語の芸術であることは先験的なことで、映画のシナリオが映画を想定した言語であるがゆえに言語芸術として自立していないと考えるなら、演劇の戯曲だって同じことじゃないのでしょうかね。

 小説や舞台の戯曲とはまったく異なる志向性をもった言語なんだ、ということは、この古典的な本を読んでもよく理解できました。言われてみれば当たり前のことだけれど、あまり映画になじんできたとはいえない人間にとっては、自然に比較的なじんできた小説を読むようにシナリオを読んできてしまったようなところが あるからです。

 シナリオの書き方みたいなハウツー本的なものはよく見かけますが、そうではなくて、先験的に映画を志向する言語というのはどういうものなのか、野田さんの著作が一所懸命書いている古典的な主張を、現代的な映画とシナリオを素材に、本質的な自問と自答をしてくれているような本があれば読みたいな、と思ったことでした。

 というのも、野田さんのこの本でとりあげられている作品の多くは、よほどの年輩のひとか、よほど映画好きで昔の映画を掘り返してみている人でないと、私のように遅れてきた一般映画ファンみたいなのにとっては、見ていない映画が多すぎて、シナリオの一説が引かれていても、それがどんな映画のシーンになっているのか、本当のところ想像でしかわからないのです。

 それは別の意味で、ドゥルーズの「シネマ」の翻訳が出たとき読もうとして、これはしんどいな、と放り出してしまったときもそうでした。そこに引かれ、論じられた作品をほとんど見たことがないので、とてもついていけなかった。抽象的な議論の部分だけ拾い読みしても、あの著書は理解するのが難しいでしょう。素人の私には荷が重かった。やっぱり小説は読んでないと話にならないし、映画は見てないと話になりませんね。あたりまえのことですが、淀川長治さんの強みは、全部見てる!みたいなところにあったのでしょうね。

 それにしても、映画を論じた本というのは、現代美術を論じた本などと同様に、やたら小難しく衒学的で欧米の言語の輸入品言語のオンパレードといったものが多くて、ふつうの映画ファンには読む気にもなれないけれど、野田さんのこの本はとてもわかりやすく読者に対しても丁寧でした。
 脚本家として実績のある人だけに、みてくれのかっこよさだけで滑っていくような上から目線の映画論とは違って、やさしい言葉のひとつひとつに実質があることが感じられる文章です。実るほどこうべを垂れる稲穂かな。そんな人柄がにじみ出るような謙虚な書きぶりで好感が持てました。

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2016年08月03日

キム・ギドク監督「悪い女」(青い門)

ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル「洞窟のマグダラのマリア」 
(ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル「洞窟のマグダラのマリア」)


 いままで見たキム・ギドク監督作品の中では「悪い男」が圧倒的に良かったので、邦題にひかれて借りてきたDVDですが、中身は「悪い女」というよりは、むしろ「可愛い女」でした。

 トルストイが褒めていたチエホフの短編「可愛い女」というちょっと皮肉な作品を連想したのです。むろん全然ちがうけれど、ほとんど倫理感が欠如した女のように、つねに受け身で運命を受け入れるように、民宿売春宿を日常的に次々に訪れる男たちや家主兼売春宿の経営者の家族の男も受け入れて転がっていくジナの姿が、似ても似つかないようにみえて、無垢で善意の、それ自体がちぐはぐな一所懸命さで独楽鼠のようクルクル走り回っているようなところが、どこか「可愛い女」を連想させるところがあったのです。

ドメニコ・フェッティ「改悛のマグダラのマリア」 
(ドメニコ・フェッティ「改悛のマグダラのマリア」)

 でも全体を通してみると、ジナは明らかにマグダラのマリアとして描かれています。 
 
 食事を共にしようと請われたイエスは、パリサイ人の家に入って席についた。この町に一人の罪ある女性がいた。彼女はイエスがパリサイ 人の家で食事をすると聞いて、香油の入った石膏の壺を持参し、イエスの後ろに立つと涙を流しながらイエスの足を香油で潤し、みずからの髪で拭い、またイエスの足に口づけして香油を塗った。
 イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、心のうちで、「この人がもし真に預言者であるなら、いま自分に触れた者がどんなに罪に汚れた女であるか、よく分かっているであろうに」と思った。
 イエスは傍らにいたシモンに言った。
 「シモンよ、お前に言っておくことがある。」
 「師よ、どうぞおっしゃってください。」 
 「或る金貸しに借金している者が二人いた。一人は500デナリ、一人は50デナリ借りていた。しかし借金が返せないので、貸した者はこの二人の返済を共に免じてやった。では二人のうち、貸主をより多く愛するのはどちらだろうか。」 
 シモンは答えて言った。
 「私は多くの借金を赦されたほうだと思います。」
 「おまえの判断は当たっているね。」
 イエスは女のほうを振り向いて、シモンに言った。
 「この女をご覧。私がお前の家に入ったとき、お前はわたしに足の水を与えはしなかったが、この女は涙で私の足を濡らし、その髪で拭ってくれた。お前は私に口づけしなかったが、この女は私が入った時から私の足に口づけして止まない。お前は私の頭に香油を塗ることはなかったが、この女は私の足に香油を塗ってくれた。だからお前に言っておく。その大いなる愛ゆえに、この女の多くの罪は赦された。赦されることの少ない者は、その愛することもまた少ないのだ」と。
 そしてイエスは女に向かって言った。「お前の罪はもう赦されたのだよ」と。
 同席する者たちは、心のうちで、「罪をも許すというこの人はいったい何様なのか」とつぶやき始めていた。
  ここにいたって、イエスは女に言った。「お前の信仰がお前を救ったのだ。心やすらかに往きなさい」と。
 (ルカ傳 7:36-50) 

カラヴァッジョ「マリアの法悦」
(カラヴァッジョ「マリアの法悦」)

  映画としては後半が素晴らしい。とりわけ、ジナを嫌っていた家主の娘ヘミが街で偶然ジナを見かけてあとをつけ、ジナが買い物したり、飲食をしたり、髪飾りをつけたりするのを見ていて、ジナに気付かれ、ジナを見失って、こんどはジナがヘミのあとをつけてその視点でヘミの行動を見るあたりから断然、キム・ギドクの繊細な手腕が発揮され、輝き始めます。ヘミがさっき目撃したばかりのジナの行動をそっくり真似ていく、あのシークエンスはほんとうに素晴らしい。

  ジナに生理的嫌悪を覚えて拒否し、いじわるしているときのヘミも存在感は十分だけれど、微妙に変化してきたときのヘミは素晴らしい。この女優は「冬のソナタ」でユジンの恋敵(と自分のほうが思っている)意地悪な友人チェリン のブティックで働いているやはりユジンの友達のチンスク役をしていた女性だけれど、この映画ではまったく別のキャラクターを見事に演じきっていて、主役のジナ役を食ってしまうほど。

 こっそりジナの部屋へ入って、アルバムや絵を見て、思わず和らぐ表情など、本当に素敵です。

 ジナが「ひも」の兄に砂浜で殴られたあと近づいて、ジナがミカンを一房差しだし、それを食べると、こんどはヘミが花の髪飾りをジナの髪につけてやって、自分はヘミの膝に頭をのせて膝枕する。二人に雪がふきかかる。この場面は思わず涙があふれてきそうでした。

 これでもか、これでもか、と汚され、虐げられ、水槽の中の金魚のように、小さな狭い運命の箱の中で、徹底して受動的に汚辱にまみれ、罪の汚れの淵の底の底まで沈み切ることで、一気に奇跡が起きるようにすべてが赦され、浄化される、監督の描きたかった反転の瞬間がみごとに描かれています。最後の雪の中に佇み、足跡を残して客のいる部屋へ引き返すヘミは、ネロに焼かれたローマを逃げ出していく途中で主の姿を見て「主よ、いずこへ行きたもう?」(クオ・ヴァディス・ドミネ)と尋ね、「お前がローマの民を見捨てていくのなら、私はローマへ行ってもう一度十字架に架かろう」というイエスの言葉に、反転ローマへ引き返すペテロのような存在になっています。

 いわばヘミが十字架に架かることで、すべてが浄化される。 雪の上に、彼女のつくった白い雪の玉がころがっている、そこで終わります。いい作品でした。

アルテミジア・ジェンティレスキ「悔悛のマグダラのマリア」
(ジュール・ジョゼフ・フフェーブル「洞窟のマグダラのマリア」)
 

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第九軍団のワシ

 先日、DVDで古代ローマを描いた映画を探していてたまたま借りてきた「第九軍団のワシ」について、何も知らずにちょっと触れたのですが、この原作は児童図書として世界的に著名な作品だったようです。

 実はきょう通勤途上の寄り道で、孫も小学校の高学年と言われる年齢になったし、絵本と大人向きの書物との中間的なもので、いい本がないかな、と珍しく河原町四条角のビルの4,5階にある書店に寄って児童図書のコーナーを眺めていて、そこに何冊もの『第九軍団のわし』が並んでいるのを見つけたのです。

 イギリスの児童作家ローズマリ・サトクリフ作(猪熊葉子訳)の岩波少年文庫で、訳書の初版は2007年、買ってきたのは今年6月の第9刷でした。

 私は自分の息子たちが幼稚園のころ絵本はたくさん買ってきて読ませていましたし、孫にもそれは引き継がれて30年を経た絵本がわが家の記念すべき メモリーの品としていまもたくさん残してありますが、小学校に入ってしまうと、知識のほうはすべて学校に任せきりで、もっぱらサッカーに没頭する息子たちとその友達の面倒をみてくれていたボランティアの父兄が運営するサッカーチームのお手伝いをするだけで、勉強や読書のほうはまったく触れることがありませんでした。

 だから絵本のことは古典的なものならいまも比較的知っているほうだと思いますが、絵本を卒業した子供たちが読む本については全く知りません。自分自身の子供のころを振り返ると、たぶん親が買ってきたのだと思いますが、少年少女世界文学全集みたいなのが全部そろって棚に並んでいて、それは楽しみにして一通り全部読んだように記憶しています。挿絵入りの読みもので、三銃士も巌窟王も小公子も宝島も全部そのシリーズで読んだと思います。

 息子たちのときにそういうものを並べておいたら、或いは読んだのかもしれないのですが、自分の母親が幾分か教育ママ的な女性だったこともあって、それには閉口していたので、息子たちのときには自分はまったくそういうことをする気もなかったので、もっぱら息子たちの興味の赴くままにサッカーを一緒になって楽しんでいただけでした。

 きょう初めて「第九軍団のワシ」を手にとって、これが実際に紀元117年ごろ、今のヨークあたりに駐屯していた第9軍団がカレドニアへ進軍して消息を絶ったという歴史的事件と、それから約1800年も後に、今日のイングランドのシルチェスターで翼のないローマ軍団の鷲が発掘されたという事実から、作者の想像力が構築した物語だということを知りました。

 邦訳で450ページ近い、児童文学としても堂々たる作品で、数多いサトクリフの作品の中でもイギリスの子供たちには最もよく知られ、愛され、BBCで何度かラジオで放送され、テレビ映画化もされている作品だそうです。1954年の作というから私がイギリスにいたときも、ちょっと児童文学のコーナーを覗けば手にしたかもしれない作品なのに、全く知らぬまま過ごしていました。

 英語が得意でもなければ英文学の専攻でもないのに、当時はフランスのアンチロマンが流行していたこともあって、方法的な意識の旺盛な作家を好んで読もうとしていたので、読めもしないのに(笑)ジョイスにとっついたり、ヴァージニア・ウルフ、ロレンス・ダレル、アンソニー・バージェスなんて人のものにばかり興味をもっていて、児童文学にはまるで関心がなくてコーナーを覗いてみることさえありませんでした。ほんとは一番実力相応だったのに(笑)。そしてジョイスは絵本まで書いているのに!

  書物との出会いやすれ違いって、自己流にやってくると、こんなところがありますね。いまは誰もアンチロマンなんて興味を示さないですよね。私が児童文学に関心を持ったのは絵本以外では、つい数年前に学生たちをイギリスへ10日ばかりの短い夏の「研修旅行」に連れて行くことになったとき、行先選びの軸にピーターラビットを思いついたものですから、ポッターさんのピーターラビットシリーズを買ってきて片っ端から読んで、ビデオを見て、解説書も何冊か読んで、というふうなことをしたのが、たぶん初めてでした。

 世の中ではファンタジー系の子供向け物語が流行していて、映画化されるのももっぱらそういうものでしたが、私はその手の作品は苦手で、ハリーポッターだけはあんまり大騒ぎなので読んでみたけれど、やっぱり苦手で、それからは自分の相性じゃないんだ、と思っていくら流行していても無理はしないことにしています。

 でも今回みつけた「第九軍団のワシ」は読んでみようと思います。きょう私が買ってきて孫に夏休みのお楽しみ読書用にプレゼントしたのは、同じ岩波少年文庫の「旧約聖書物語」(阿部知二訳)、「アラビアンナイト」(中野好夫訳) 、「ファーブルの昆虫記」(大岡信訳)、それぞれ上下2巻本です。いまはこういう古典は児童向きにもいろいろ出ているけれど、このシリーズは訳者に信頼できる人が多いから、日本語として安心して読んでもらえるのではないか、という判断です。

 パパやママなら同じシリーズでも、もっと新しく書かれた物語、現代の古典のほうを選んだでしょう。でも古典中の古典も一度小学校くらいのときに触れておくといいな、と思います。旧約聖書やアラビアンナイトや昆虫記は大人になって読み返したけれど、三銃士や巌窟王や宝島、それにレ・ミゼラブルなんて、10歳になるかならぬかのころ、一冊一冊函にはいった少年少女文学全集でワクワクしながら読んだきりなのに、大まかなストーリーは覚えているし、すごく面白かった、という印象は色あせていません。

 あのころの身を入れた読書に比べれば、いまの読書なんてほんとに読書のうちにはいらないかもしれません。それだけ全身全霊で物語の世界に打ち込んで、その世界を生きていたのだと思います。幼いうちにそんな体験ができる幸せは、ぜひ孫にも味わってほしいと思っています。

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2016年08月02日

園子温監督「ヒミズ」

 レンタルビデオショップでDVDを借りてきて見始めた途端に、あ、これ前にも観たな、と気づきました。でもタイトルをおぼえてなかったくらいだから、印象が弱かったのかな、と思ってもう一度今回はじっくり拝見。

 園子温の作品は「愛のむきだし」 を十三の映画館まで見に行って、結構インパクトがあった記憶が残っていたので借りてきたのです。今回もう一度見て、きっとまだ若いのだろうけれど、やっぱり力のある監督なんだと思いました。 この人はキム・ギドクのようなところがありますね。なんというのか、作品として完成された印象を与えるような端正な作品は撮りそうもない。いわゆる失敗作というのか駄作というのか、自分の表現したいものに途方もなく過剰に執着して客観的に自分の作品を見ることができずに、それでもパワーだけはあるから、ホームランと見紛うような大ファウルを打ってしまう打者みたいな監督というのか・・・

 今回は東北大震災&福島原発事故に正面から向き合う作品で、こういう映画は遅まきながら、初めて見ました。 学生の自主製作映画が肥大したような気恥ずかしくなるような、漫画的にチャチな荒唐無稽さ、洗練の対極のようなベタな泥臭さに辟易させられたり、役者の鼻につく大げさな演技というのか役者にこんな大げさなもったいぶった演技にならない演技をさせる演出のひどさとか、不用意なセリフとか、疑問符だらけの作品ですが、言ってみれば意味不明に近い勢いというのか、エネルギーだけは感じさせる作品です。

 (追記:役者さんの名誉のために言っておきますが、役者さんは大変な熱演です。とりわけ少女役の女優は若いけれどすごい。根性がすわった役者というか・・・)

 唯一の取柄であるその勢いによって、冒頭とラストに長まわしで映し出される大震災による家々の廃墟の光景を前に、監督が言いたかったことだけはわかる。 この作品のあとで園子温は「希望の国」という私はまだ見ていない作品を撮っているようですが、言葉にすればそれは「希望」でしょう。

 それは、父殺しの主人公の少年のために強盗殺人までおかして600万円を盗ってくる、人のいいおやじが 彼に託したもの、そして最初から最後まで少年に寄り添う同級生の女生徒が彼と自らの将来に描くものにほかならないけれども、その終始風前の灯のように闇に消えてしまいそうなものを、いかにして嘘くさくなく、最後まで細々とともしつづけて、最後に少年と少女が廃墟の中を疾駆するはるか遠くに小さな、しかし確かな灯のように見せるか、というところがこの作品の肝ということになります。

 たぶんいわゆるリアリズムでそこに至る過程を撮れば、どう撮ってみても嘘くさく、限りなく嘘くさくなってしまうことを熟知しているために、この監督は、学生の自主製作映画みたいな、気恥ずかしくなるような漫画的でちゃちな荒唐無稽さ、洗練の対極のようなベタな泥臭さをものともせずに、これは嘘だ、全部虚構だ、と大声で触れて回るような仮構物をつくりあげていったのでしょう。

 それは別の言葉で言えば、絶望(の果ての希望)というものをいったい作家はどう表現しうるものなのか、どんな優れた作家といえども現実としての絶望を前にして、いったいどんな言葉をつむぎ、どんな映像を組み立てることができるというのか。そういう自問に立ちすくまざるを得ないはずです。

 登場人物たちはひたすら絶叫し、殴り合い、泥にまみれ、 血にまみれ、駆けずり回る。まるでこの現実の前では自分たちのやり場のない憤りを獣の咆哮のように吐き出すほかなすすべがない、というように。

 先にキム・ギドクの名を引き合いに出しましたが、キム・ギドクもそれが作品として、血と暴力の世界、咆哮の世界が愛の寓話に昇華された作品は、私の見た作品群の中では唯一「悪い男」だけで、あとは寓話になりきれない「たとえ話」に なってしまっています。「ヒミズ」もまたそのような意味で、鮮やかに突き抜けた作品いうわけにはいかないでしょう。

 けれども、ラストに近いあたり、少年が拳銃を側頭にあてたまま水の中へ入っていくシーンから、朝少女が起きてきて少年のいない湖を眺めるシーン、みんな素敵な映像でした。本当に不器用にだけれど、よくまぁ ここまで引っ張ってきたな、という感慨を催しました。小さな希望が嘘くさくなく見えるところまで、なんと長い意味不明に見えるような荒唐無稽な嘘くささを晒してこなければならなかったことか。

 私はかつて或る都市の委託で、演劇のワークショップを野田秀樹に任せたときに、彼が若い素人の演技者を指導していたときの光景を思い浮かべました。彼はホールの床に長方形の小さなアクティングエリアを区切り、若者たちに二人一組で、この空間を目いっぱい使ってごらん、と謎かけのような問いを与えました。

 大抵の若者たちが、その大して広くもないエリアを精一杯自分の身体とその運動で満たそうと、駆けずり回ったものです。そんな似たり寄ったりの試みがいくつか続いたあと、いままさに左右からそのエリアに足を踏み入れようとする二人に、野田は「きみたちね、いま足を踏み入れるとき、なにも考えずに入ろうとしているけれども、こちらとあちらでお互いを見てごらん。二人の視線がかわされた瞬間に、この対角線上にある空間はすべてそれで支配できるだろう?」と。いや、もう少し端的にうまく言ったと思いますが、そんなことを言ったのです。

 そのとき、演劇のことを何も知らなかった私も、その学生らしい若者たちも目から鱗が落ちるようにハッとするところがあったのです。

 いま「ヒミズ」を見てそんなことを思い出したのは、絶望の果てに「希望」に至る狭隘な道は、この「ヒミズ」の少年のたどったような道しかないのだろうか、と思ったからです。 

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2016年08月01日

村田沙耶香『コンビニ人間』

 最初から最後まですごく面白く読めました。何度も笑ってしまいました。いい作品だと思います。これだけコンビニが生活の中に浸透して、どこにでもあり、使わない人がなく、学生さんでコンビニで働いたことがない人がいないくらい日常的な存在になっているのに、いままでこういう小説が書かれなかったのが不思議な気がするくらいです。

 少し本気で言うなら、この作品は現代の「機械」(横光利一)なんだと思います。小林秀雄流の言い方をするなら、これは作家村田沙耶香さんの「倫理の書」ということになるでしょう。
 横光利一のそれのように暗く重たく油臭い「モダンタイムス」の工場の歯車のような部品ではなくて、どこかへんに明るく、軽く、乾いた、アンディ・ウォホールの「ダイアモンド・ダスト・シューズ」に描かれた、記号のような商品の売り買いされるコンビニの部品なのです。

 横光の労働者が来る日も来る日も劇薬の臭いを嗅ぎ続けて、人間の最も原始的な感覚である嗅覚から脳髄を侵されているのに対して、村田さんのコンビニ店員は、めまぐるしく商品が移動され売買される「光の箱」の中に満ち満ちる音の世界で、人間にとって最も高度で抽象的な感覚である聴覚から、むしろ心地よささえ覚えながら侵されていくのは象徴的です。

 その世界にあふれる音は、外界の、つまりは「普通の世界」の、目に見えない関係、あるいは定かには聞こえないささやきや暗黙の暴力的な言葉たちの反転した世界、いわば反物質のような世界として立ち現われているので、「古倉さん」は、その反物質の世界でだけ安心して生きられるけれども、それを「普通の世界」から見れば、この世界の網の目の中で生きて、「普通の言葉」の圧倒的な力の下で、聴覚から脳髄まで侵され、横光の「機械」の労働者と同じように、「人間」性を喪っていくことに変わりはありません。

 現代ではかつての女工哀史の労働者のように、病は肺結核のような身体を侵すのではなく、かくのごとく、コンピュータウィルスのように、心を、いわば脳の神経を、情報システムを侵していくのでしょう。

 けれどこの作品の世界は「どこか変」だけれどユーモアたっぷりで楽しげでさえあります。「古倉さん」はコンビニ部品であることで、とてもハッピーであるように見えます。決して悲劇的な結末が予感されているわけでもありません。むしろ彼女の世界からみえる「普通の世界」をフェイクなものとして鮮やかに浮かび上がらせるところがあります。

 でもだからと言って、作者が、あるいはこの作品が彼女の生きる世界を肯定し、「普通の世界」のアンチとして安定した「反」の世界を構築しているというふうにも読めません。
 それはたぶん「普通の世界」に何千万分の1秒かの亀裂を入れるようにして作者のすさまじい高エネルギーで作り出された何千万分の1秒しか寿命を持たずに消えてしまう反物質のようなものかもしれません。

 この作品は、誰もが日常「見て」いながら、本当には誰も見たことのなかった、そんな「普通の世界」の陰画を形づくるような反物質から構成される世界を一瞬陽画のように鮮やかに見せてくれます。そんなへんてこなへんてこな世界を、一人の血の通う女性が見えない血を流し、心地よげにみずからを部品化していく姿を通して垣間見せてくれる、同時代の「倫理の書」です。
  

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