2016年08月
2016年08月31日
「テルマエ・ロマエ」「テルマエ・ロマエⅡ」
私は喜劇映画というのはチャップリンは例外として、ほとんど見ないので、レンタルビデオ店にこの作品が並んでいた時も手に取りませんでした。暇になって細々と自分の中にあった古代ローマへの関心が、ちょうどルシウスが一所懸命掘り当てようとしている温泉のようにまだごく小規模だけれど地表に蒸気を噴出してきたときだったので、2本まとめて借りてきて見ました。
こういう映画で歴史がどう、登場人物がどう、つじつまがどう、なんて小うるさいことを言うのは見当違いだし、時間のゆとりのあるとき明るく楽しんで時間をすごしたいな、というのには、とても楽しめる映画でした。阿部寛も上戸彩もよく頑張っていて好感が持てました。阿部寛がローマ人らしく見えて可笑しかった。おまけにこの人、同僚の某先生にちょっと似ているので(失礼!)、思わず連想して一人で笑ってしまいました。
タイムスリップをつなぐオペラ歌手のトゥーランドットのシーンも面白かった。 1作目が人気だったから2作目となったのでしょうが、よくあるように2作目が駄作というのでもなく、むしろ私には2作目の剣闘士に相撲取りを当てたのには大笑いして感心しちゃいました。この映画の面白さの一つは、タイムスリップの話の常套ではあるけれど、まるで異なる世界へ入り込んだ主人公が、生まれて初めて赤子のような感覚で異世界の日常性に触れるときの反応で、古代ローマ人のルシウスが日本の銭湯の風景やもろもろのしつらえ、小道具の類を見て何を思い、どう理解するか、その理解の日本人の常識とのギャップの大きさが笑いになるわけです。
そこはこの映画がよく心得ていて、とても面白い対比物を拾って見せていたと思います。
もう一つ、ローマの街の風景や闘技場の光景が、この種のお笑い映画としては意外に本格的で驚かされました。それはネットで調べてみたら、「テルマエ・ロマエ」では、イタリアで、大変な製作費をかけたローマを扱った向こうのテレビドラマのときに作られた広大なセットが残っていたチネチッタの撮影所でそのセットを使って撮ったそうだし、第2作目のほうはブルガリアのソフィアのヌ・ボヤナフィルムスタジオで前作を上回るような巨大なセットを組んだとかで、高さ50mものコロッセウムを再現したそうです。実際、それだけのスケール感を出していたので、安上がりなお笑い映画、という貧しい印象がありませんでした。
2016年08月28日
サードプレイス
それより30年くらい前にシンクタンクの研究員として文化施設の構想、計画にいくつか噛んで、国内外の文化施設を訪れては少し広く商業施設や広場など様々な都市空間について考えていたころ、カフェに類するようなセミプライベート、セミパブリックな性格をもつ空間が面白いな、と思って、「小さなパブリック」というような言い方をして、自分なりに色んな都市空間をそういう目で眺めていたことがありました。
そんな関心はずっと持って居たので、カフェについても書けそうな気がしたのですが、20-30年前のように新しい素材を自分で豊富に持って居る状態ではなかったので、ゼミのOGたちが神戸のカフェを取材してつくった最初のゼミ冊子の小見出しをネタに、こういう空間の性質について、言葉の分析からちょっと触れる程度に終わりました。
そのときに少し触れたのは、ルイ・オルデンバーグの『サードプレイス』 で、忠平美幸さんの翻訳でこの本を読んだときは、あぁ、自分が考えたようなことは殆どここに書いてあるな、と思いました。もともとアカデミックにこういうことを深く究めてみたい、というふうな志向がない人間なので、まっとうな研究者なら先を越された、やられた、と思うのでしょうが、こういうテーマをこんなふうにしつこく(笑)追究する根気も粘り強さも学究心も俺にはないなぁ、と感心しながら読みました。そういうのに出会うと、あぁ、もう俺が自分でやる必要もないな、と途端に興味を失うところはあるのですが・・・。
でも、彼のイメージする「サードプレイス」は居住地に近い、という条件で、コミュニティと深い関連があるように書かれていて、そこは女子大生らのカフェには全くあてはまらないな、と思って、拙文にはそのことをチラッと書いておきました。ただ、そんな小さな条件の一つや二つ、はいろうとはいるまいとどうでもいいことだと思います。
ただ、それより少しは大事なことがあるような気はしていました。
たぶんこの種の場所は、私が当初考えていたのような「小さなパブリック 」の意味合いも失ってはいないけれど、同時に実体としての「場所」としての意味は希薄化して、情報的な意味合いを強めているんだと思います。
居心地のよいオシャレで魅力的な場所で、クローズドで親密な人間関係の受け皿に適合する場所ではあるけれど、同時にそれはこんなオシャレで魅力のある場所だよ、とその場にいない友人たちや、場合によっては不特定多数のSNSの読み手に伝える情報としての場所でもあって、ケーキ屋さんのカタログに載ったケーキのように、カフェもコレクションされ、展示される情報価値としての「場所」だということが明確にとらえられないと、「サードプレイス」という実体的なトポス論では手に余るのではないか、というところです。
こういうカフェも含めて「小さなパブリック」であれ「サードプレイス」であれ、異質なものを横断的に水平に切り取って立論する方法は、私のようにいわば趣味的に面白いよね、とおしゃべりのネタにでもするにはそう罪はないと思うけれど、これが真理だよ、と言われると、危ないね、と思わざるをえないところがあります。
私も以前に、「集客力」というキーワードで、まったく異質なもの、商業空間の集客、文化施設の集客、イベントの集客、はては宗教的な集客まで、横断的に切り取って考えるようなことをやってみたことがあります。実際に様々な資料から、何に何万人集まった、というようなデータを集めてみたこともあります。
そして、これはあまり公にはなっていませんが、或る大手の(というのは変かもしれないけど)宗教団体からの委託で、その宗教団体のいわば活性化を図るためのプロジェクトを、信仰者ではない私たちの「外部の眼」で考えて提案してみてくれ、という発注を受けて、その担当をしたこともありました。
そのときに面白がって「集客力」という切り口で、いろんな事例を集めて、集客の要因を分析し、そこから宗教団体のイベント等にも応用できそうな要素がないか、というので、あれこれ考えて提案した覚えがあります。提案を受けたほうも、宗教の本質などまるで頓着しない私(たち)が好きなように羽を広げてみせた報告書だったから、扱いに困ったのではないかと思いますが(笑)。
たしかに商業ベースや文化的なイベントや施設運営を「集客力」 という一つの切り口で横断的に切ることで、いろいろユニークなアイディアを取り出すことはそう難しくはなく、ちょっと目新しいこと、面白い提案をすることもできます。ただ、それは連想と飛躍の「喩」の世界であって、論理の世界ではないから、アカデミックな検証に耐えるものではないでしょう。たとえ、無数の集客事例を集めても、一つ一つの集客イベントの集客力を規定する要素は集客数という定量的な要素だけを平面的に見てとらえられるものではなくて、構造的なものですから、ひとつの宇宙方程式を示せば、あとは初期条件を与えれば全部解けます、というようなわけにはいきません。
それは電子の回転も私たちの世界の砲丸投げの砲丸の回転も銀河系の星々の回転もみな同じ「回転」という言葉で切って取ることと変わりないでしょう。 ケプラーやガリレオの頭にも20世紀初頭の理論物理学者たちの頭にも、砲丸投げの球の運動はひょっとしたら去来したかもしれないけれど(笑)、それが天文學を拓いたり素粒子論を拓いたりしたというわけにはいかないでしょう。
「サードプレイス」というとらえ方にも、ハッする発見の面白さと同時に、そんな危うさがあるような気がします。
映画「クレオパトラ」
私が高校生のころに、受験勉強している私に留守番させて父母が珍しく二人で観に行った映画がこれでした。たぶん封切でハリウッド超大作ということで評判だったのでしょう。
帰ってきた二人に、どうだった?と訊くと、「う~ん、超大作には違いないが・・・」とか「エリザベス・テーラーは綺麗だったけどねぇ」と歯切れの悪い感想だったのを覚えています。私自身はそれから半世紀、見ずにいたのですが、とうとうDVDで2枚組のプレミアエディションを観ました。
古代ローマ関連の映画をひろっていた中で、さすがにこれはハリウッドが当時の4400万ドル、現貨幣換算で3億ドル(ウィキペディアによれば)もかけて、超豪華キャストに二十数万人のエキストラを使って、20世紀フォックスが経営危機に陥ったというほどの作品ですから、舞台背景の大がかりなこと、クレオパトラのローマ入場シーンの華麗さ、ローマ軍の進軍光景、海戦など、これまで見た古代ローマも史劇のどれよりも見ごたえがあり、美術、衣装も豪華絢爛でした。いかにハリウッドといえども、もうこういう映画は作れないでしょう。いまなら同じ金をかけるにしても全部CGでやってしまうでしょうから。でも、やっぱり本物のつくりもの(というのも語義矛盾みたいですが)の迫力というのはあるんだな、と言う気がします。
しかし史実を大雑把には踏まえながら書かれた脚本はちっとも良くないので、エリザエス・テーラーの美しさや舞台美術に気を取られているうちはいいけれど、実に退屈なところも多々あります。もとは前、後編6時間の大作だったのを営業上の理由でプレミア上映時に4時間5分に、劇場版では3時間14分に縮めたというのですから、もとの6時間だったらどんなに退屈だったか、いや或いは変にカットすることでわけがわからなくなって劇的なところも盛り上がらなくなったのか、そこのところは判然とはしませんが・・・。
初老にさしかかったシーザーを演じるレックス・ハリソンは良かった。アントニー役のリチャード・バートンは、いままで最低10回は見た娯楽戦争スパイものの「荒鷲の要塞」 でファンになっていた上手い役者で、中年でも浮名を流すモテモテの非常にセクシーな魅力をもつ男優ですが、このときはエリザベス・テーラーとの不倫がスキャンダルになって映画を盛り上げたようです(笑)。彼ももちろん悪くないけれども、彼はやっぱりもてる役の方が似合う。意志も強そうだし、どんな恋をしても一方で非常に冷酷といってもいいクールさを失わない男という印象で、クレオパトラに惚れて腑抜けになってしまうアントニーが適役とは思えません。
物足りないのはオクタヴィアン(アウグストゥス)役のロディ・マクドウォール。助演賞か何かもらうところだったらしけれども、それはこの作品そのものがオクタヴィアンを、機会に便乗してうまくやった狡猾な小人物 のように描こうとしているから、確かにそういう人物造型はできていたかもしれませんが、史劇としてはこういうオクタヴィアンの造型はドラマとしていかにもちゃちな感じがします。部下よりも貧相なオクタヴィアンでは困ります。せめてリチャード・バートンと互角に張り合えるような彼であってほしかった。
まぁ古い古い映画にこんな愚痴を言ってもしょうがないのですが(笑)、それでも午前中に今日の原稿を書いて、きょうは文書整理のほうはお休みして、この映画をそれなりに楽しませてもらいました。
2016年08月24日
「ザ・ダーク・エンペラー NERO」
前にポーランド製のテレビ映画のクオヴァディスを見て、そのあとハリウッド製のロバート・テイラーとデボラ・カーの(そしてネロ役がピーター・ユスチノフ)クオヴァディスを見て、競技場でライオンにキリスト教徒を食わせるシーンが両方とも残酷で、あんまりあぁいうのは見たくないな、と思って、ネロの話だとあれが出てくるのかな、と思って見ましたが、幸いこの作品ではあの場面は登場しませんでした。
暴虐の限りを尽くす冷酷な愚帝としてのネロではなくて、幼くして母と引き裂かれ、暗殺また暗殺の権力闘争の偶然の強運と母アグリッピーナの権力欲のもとで皇帝の座につくネロが、そのことで幼いころから起居を共にした純真無垢の女奴隷アクテとの恋を失い、血みどろの権力闘争の中で自らの手をに肉親の血で汚してサバイバルせざるを得ない、苦悩と悲劇の皇帝としての側面に圧倒的な力点を置いて描かれた映画なので、通説としてのネロの姿になじんだ多くの観客からは、こんなんじゃないやろ!とブーイングの出そうな(きっと出ていそうですが)映画です。
たしかにちょっとネロに甘すぎ、一方的な側面を強調しすぎ、ラストの死に臨んでのアクテとのあまりにご都合主義的な再会 とか、それに至る急転直下の民衆にものをなげつけられてどう、というようなシーンとか、どうなってんの、と言いたくなるし、彼に苦悩と悲劇の皇帝としての側面があったとしても、それ自体の掘り下げ方も全く不十分に思えます。
それでも思ったよりは、ちゃんとした映画なので、逆に驚いたのは事実です。私がタキトゥスの「年代記」を読んでおや、と思ったのところを、うんと甘く拡張すると、こういう映画作品になるのかも、と思わせるところがあったのです。ごく初期の短い期間ではあれ、ネロがまともな皇帝として、民衆のためになる政治をしようとした時期はたしかにあったように思えるし、セネカやペトロニウスのような知識人との交わりに、ただの冷酷無比の残虐な権力者という単色に塗りつぶしたのでは理解できない側面がこの人物にあったことは確かだと思えます。それはクオヴァディスのキリスト者の視点からは絶対に見えてこないものでしょうから。
この映画でアクテを演じたリーケ・シュミットというドイツの女優さん、私はまったく知らない人でしたが、この映画の中では、衣装やメイクのせいでしょうが、ほんとうに昔のイタリア絵画に描かれている聖母マリアのように見える瞬間が何度かありました。適役だったと思います。ネロ役のハンス・マシソンもアグリッピーナ役のイタリア出身のラウラ・モランテも良かった。
ハリウッド製のクオヴァディスでは、ロバート・テイラーがマーカス役というのはちょっとやっぱり、歳が行き過ぎているでしょう。デボラ・カーが一目ぼれするには(笑)・・・
でも、ネロ役の名優ピーター・ユスチノフは光っていました。ネロの性格付けは定番どおりで、或る意味陳腐だったけれど、その陳腐な役回りを実に生き生きと豊かに演じていました。 だからネロに狂気じみた残虐な権力者にして常に不安のどん底、地獄を観ざるを得ないこの人物なりの血が通っていたと思います。そこまでの名優は今回のNEROには見当たりません。
2016年08月20日
スナップショット⑨ 井村雅代さん
この文章での著名人の「スナップショット」は、私が過去にほんの一瞬出会っただけの著名人についての、相手は私の存在など記憶してもいないような一方的な関わりの中での、印象を素描してみるのも面白いかもしれないと始めたことで、これまでは故人ばかり取り上げてきました。現役の方はまぁ色々差し障りがないとも限らないから(笑)故人で思いつく人を優先してきたのですが、今回は初めて現役バリバリのかた。オリンピックへの露骨な便乗というわけです*^.^*)
井村さんにたった一度お目にかかったのは、確か2008年夏季オリンピックについて大阪誘致の話があったころで、それが北京に決まったのが2001年のことなので、それ以前のたぶん90年代の終わりだったのでしょう。
ウィキペディアで調べてみると、井村さんはシンクロナイズドスイミング日本代表コーチとしてすでに1988年ソウル、1992年バルセロナ、1996年アトランタと銅メダル獲得に貢献する実績を積んでいました。そして2000年にはシドニーで遂に奥野史子の銀メダル獲得となるわけですが、一般にはまだいまほど知られている方ではなかったかと思います。
私が井村さんにヒアリングをしたのは、大阪オリンピック誘致のために、オリンピックに伴う文化プログラムの検討を当時私が所属していたシンクタンクに委託され、当時大阪府の教育委員もしておられた関係もあってでしょう、彼女にも委員になっていただいていたので、その依頼とご説明も兼ねて大阪のなみはやスポーツセンターに井村さんをお訪ねしたのだったと思います。
うかがったとき、彼女はちょうど生徒さんたちの指導を終えてプールから引き上げてきたところらしく、何か用具とバスタウルのようなものを持って、プールのほうからロビーへ歩いてきて、ちょっと待って、すぐに行きます、ということで、休憩室だか談話室だかでお話しすることになりました。
いまではほとんど中身のほうは覚えていないけれど、井村さんの印象は今でも非常に鮮明です。まったく飾らない率直な人柄、こういってよければ非常に”男性的な”はっきりとした物言いで、話していてとても爽やかで、しかも芯のしっかりした力強い印象を受けました。
ぐずぐずした人だとビシッと叱られそうな厳しい、しかし器の大きい指導者ということが、誰にでもすぐ直観できるような人、と言えばいいでしょうか。
その率直な物言いは、大阪弁で丸みをおびてなければ、恐がる人もいたかもしれないけれど(笑)、その素敵な笑顔とともに、どこか大阪弁が人懐っこい印象を与えてもいるな、と感じました。
私は長年、シンクタンクで文化施設計画の初期調査や構想づくり、基本計画作りなどをしてきたので、このときも、肝心の文化プログラムの話よりも、スポーツ施設の話をたくさんしていただいたのを覚えています。
美術館・博物館やホール・劇場など狭い意味での文化施設はかなり手掛けてきましたが、私自身はスポーツ施設の調査や計画にかかわったことがなく、広い意味での文化施設の一環で、共通する点も多々あるスポーツ施設の在り方には大いに関心があったので、率直な質問をぶつけたのです。
それに対して、井村さんは非常に的確に現在のスポーツ施設の在り方への批判的な意見で応えてくれました。指摘は非常に具体的で、一流の選手を育てるためにプールにはこういう条件が必要なのに、ここのように最新の施設でも、こういう設備が欠けている、というふうに非常に具体的でした。
私には劇場や博物館づくりの中で直面している困難と共通する点があったので、非常に興味深く、私の関わっている文化施設での事例を挙げて、こういう問題がある、という話をすると、彼女は打てば響くように、スポーツ施設の場合も全く同じように作っていくプロセス自体にこういう問題がある、とまさにこちらが聴きたい話をしてくれました。
一つだけ覚えているのは、一流選手を育てるプールのようなトレーニング施設を作る際にも、なぜか自分のように現場でその欠点も経験上熟知している者に何の相談もなく、どこかで決まってしまう、という話をされたことです。
これは公共施設を作る場合に、いつも私たちが感じていることで、劇場を知らない建築家が、ろくに舞台に立つ側のユーザーの意見も聞かずに、とんでもなく使いにくい施設を作ってしまったり、国立の博物館をつくるのに専門家の委員会をいくつも立ち上げながら、監督官庁のお役人が実質的にその中身を決めてしまうような案を出し、そのどこでだれが決めたともしれないようなものが既定路線となって、凡庸な展示構想として最後まで幅をきかせたり、といった奇々怪々なことが始終発生することを身をもって経験していたので、そうした井村さんの話はわがことのように納得できるのでした。
1時間かそこらの短い間だったかと思いますが、井村さんと話していて、向こうは世界的な偉業を次々に成し遂げているような方、こちらは零細シンクタンクの無名の一研究員にすぎなかったけれど、彼女からは全く権威ぶったり相手を軽んじたり上から目線だったりという印象を受けることがなく、誰でもこちらさえ率直にふるまえば、ほんとうに率直に対等に意見交換ができる人だと思いました
その後の井村さんの活躍をメディアで見るたびに、あの時の印象がよみがえり、一井村ファンとしてひそかに声援を送ってきました。
今度、ウィキペディアの註に挙がっていた過去のメディアの文章を見ていたら、こんな記事が目にとまりました。
“かつてシンクロは日本のお家芸とも言われたように、オリンピックや世界選手権で常にメダルを獲得してきた。2004年のアテネ五輪ではデュエット、チームともに銀メダルで、世界の頂点まで後一歩のところに迫った。
だがその後、日本の地位は徐々に低落している。2008年の北京五輪ではデュエットこそ3位でメダルを死守したものの、チームでは5位でメダルを逃した。その後もかつての栄光を取り戻せず、2012年のロンドン五輪ではデュエット、チームともに5位。オリンピックで初めてメダルなしに終わった。
アテネまでの成功と、それ以降の退潮傾向の原因ははっきりしている。井村雅代氏が、アテネ五輪をもってヘッドコーチを退任したことにある。井村氏本人の望んだことではなかったが、指導者の世代交代などが理由だった。
しかし、それは成功しなかった。井村氏の退任後、ヘッドコーチはしばしば変更となり、強化体制を整えることが難しい状況が続き、日本は地位を失っていった。”
(出典:Number Web 2015年7月12日) http://number.bunshun.jp/articles/-/823713
日本の水泳連盟の方針と井村さんの間に齟齬があったことは、当時も何かで読んだことがあり、なぜ日本のスポーツ団体ってのはこう頭が固いのだろう、と残念に思った記憶があります。同時に、あの井村さんの自分の信念への揺らぎのない姿勢、間違ったことは相手がだれであれ、遠慮なくズバズバ指摘して発言されるであろう率直さを思えば、能力のある女性を煙たがり、反発して、権力ずくで抑えにかかる日本の古い体質の組織にありがちなことなのだろう、と思いもしたのです。
私の勝手な邪推でなければ幸いですが、井村さんはこういうグチャグチャしたことをメディアで喋り散らす人ではないので、真相は知りません。
アテネ五輪のあと日本代表ヘッドコーチを退任して、中国の要請に応えて北京五輪をめざす選手たちを一流チームに鍛えたことも、その志を高く評価する人もいれば、奇妙なことに批判する人もあったようです。上に引用したのと同じ記事で次のようにそのことに触れられていました。
“他国での指導ということで、当時は国内からの反発も強かった。「考えられないことです」、「時期と相手があるでしょう」と語る日本水泳連盟幹部もいたし、中国でのコーチ就任を批判的に捉えていた関係者たちがいた。北京五輪後に井村氏に日本のオファーがなかったのは、そうした感情による部分もなかったとは言えない。”(出典:同前)
「敵」のために働いたのがけしからん、ということのようです。なんて器の小さい、貧しい考え方なのでしょう。こういう連中が全国組織の幹部を牛耳っているから、まともな人材が去り、せっかく才能のある選手たちが開花を妨げられていたのでしょう。
“そもそも井村氏が中国へと渡った背景には、日本のシンクロナイズドスイミングの演技を世界の主流にしたいという思いがあった。「最強国ロシアの演技がスタンダードとされ、ロシア流でなければ点数が出にくい流れを変えたい」と中国で指導にあたっている頃、語っていた。”(出典:同前)
この井村さんの遠い先を見る眼、国境を超えた世界にひろがる視野と比べて、当時の水泳連盟幹部たちと彼女との、人間としての器の違いを感じるのは私だけではないでしょう。
そんな仕打ちを受けながらも、井村さんには日本への強い想いがあったようです。
“井村氏は、実は北京五輪のあと一度中国のヘッドコーチを退任している。その後、ロンドン五輪へ向けて中国で再登板となったが、そこには、北京五輪での日本の演技を見て、「もう一度日本を立て直す手伝いをしたい」という思いがあったからだ。実際、公にその意志を示していたが、日本から依頼がなかったため、中国へ戻った経緯がある。”(出典:同前)
そうだったのか、とこのことは今回初めて古い記事を見て知りました。ほんとうにこんな苦労にもめげず、腐らず、潔く、お目にかかった時の爽やかな印象そのままに、かつてのいきさつもさっぱり水に流して日本代表のヘッドコーチに復帰して、着々と期待どおりの成果をあげてこられた井村さんには本当に頭が下がり、日本人の一人として、ファンとして、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
井村さんが指導していた2004年のアテネ五輪では銀メダルを獲得して、首位のロシアにあと一歩に迫るところまで来ていた日本のシンクロナイズドスイミングは、井村さんを排除することでメダルから見放され、失墜してしまった。そして井村さんの復帰とともに再び着実に這い上がり、今回の銅メダル。その間の指導者としての井村さんや選手の血のにじむ苦労は想像を絶するほどだったでしょうが、これほど誰の目にも明々白々な結果で原因が示されることも珍しいのではないでしょうか。
今回の快挙を歓び祝うと同時に、東京五輪に向けてぜひ井村さんに指導をつづけてほしい。井村さんに乾杯!