2016年07月

2016年07月31日

「クオ・ヴァディス」と「第九軍団のワシ」

 「タキトゥス」の年代記を読んで、生き生きと描かれたネロに興味をひかれ、それ以来、いまの日本からとんでもなく遠い世界なのに、二千年前のローマにほそぼそと関心を持ち続けてきました。

 塩野七生の「ローマ人の物語」はカエサルを描いた部分とハンニバル戦争のあたりが一番面白かったけれど、もちろん出るたびに買って読み、その前に岩波文庫でシェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」を楽しんで読んでいた記憶があったので、だいぶ時間のゆとりができた今になって再びあのころの関心がうずくような感じで、どこかへ行ってしまった「クオ・ワディス」の代わりに老人向けに字の大きいワイド版の岩波文庫を買ってきました。

 ついでにビデオ屋へまわって、映画化されたのを探していたら、3巻もののDVDで「クオ・ヴァディス」というのがあったので、ろくに確かめもせずに借りてきて一気に見たのですが、これがポーランド製(笑)。これはテレビドラマだったのでしょうかね。1枚のDVDに2本ずつ収められていて計6本。そうひどいものではなかったし、リギアは初々しい初期のキリスト教徒にふすぁしいとても上品で清楚な美しさを持つ 女性だったし、ウィニキウスもペトロニウスも悪くなかった。でもネロが・・・

 やっぱりこういう配役にも、監督が人間の悪というものをどう考えているか、権力というのをどう考えているか、全部出てしまうので、こういう「赤毛の猿」と陰口をたたかれるような浅はかな悪役風の役者を使ってしまうと、せっかくの大作も色あせてしまいます。セネカやティゲリヌスの配役も疎かです。こういう悪役たちがいい顔をしていないといけない。きっとアメリカ映画ならいくらなんでもこんなドジは踏まず、ネロにはそれなりの名優を使うはずです。

 それにしても、闘技場でキリスト教徒をライオンに食わせるシーンや、十字架にかけて火あぶりするシーンは、妙にリアルに撮っているので、やっぱりひどく後味が悪くて・・・

 口直しに、ついでに借りてきた、同じ古代ローマものの「第九軍団のワシ」を見たら、こちらのほうはエンターテインメントとしてなかなか面白かった。5000の軍を率いてブリトン北部へ遠征したきり、ローマの象徴である鷲のシンボル共々帰ってこなかった父の不名誉を雪ごうと、志願してブリトンとの国境の砦へ赴任し、ブリトン蛮族との戦闘に功績をあげて名誉の負傷をして故郷へ帰ってきた主人公の隊長が、なお不名誉な噂の絶えない父の汚名を雪ぐため、今度は自分が命を救った奴隷の青年、実はローマ軍に殺害されたブリトンの部族長の息子と二人だけで再びブリトンへ赴き、ハドリアヌスの壁を越えてブリトン人の世界へ父と鷲を求めて入っていく。

 まあランボーみたいなマッチョな男の話で活劇物の映画によくある話ですが、クオ・ヴァディスと違って話が単純で主人公の父の汚名を雪ぐための鷲を求めての敵と戦いながらの旅と奴隷だったブリトンの若者との友情というところに的が絞られているので、コンパクトな印象で楽しめました。最初のほうで砦の彼の率いるローマ軍がとらわれた仲間を救いに砦を出て敵とぶつかるときに採る亀甲隊形での戦闘は、ギリシャの軍だったかが300人でペルシャの大群と戦って玉砕する「300」という映画でも見たものですが、なかなか面白い。

 そういえばクオ・ヴァディスを見ていたら、まだ読んでいない「サチュリコン」を読みたくなりました。古代ローマの史劇映画では、学生時代に土井なんとかって学者さんの「スパルタクス」という歴史の研究書を読んでとても面白くて、それが縁で見たカークダグラス主演の「スパルタクス」も面白かったし、それにやっぱりなんといっても「ベン・ハー」が最高でした。佐藤賢一に「剣闘士スパルタクス」という小説があるのを知ったので、今度読んでみたい。でもやっぱり史実そのものの記述のほうが面白いと思うかもしれません。

 アルベルト・アンジェラの「古代ローマ人の24時間」なんかに載っている、ローマ人の日々の生活のこまごましたことも、それはそれでとても興味深いし、政治史のほうも面白いけれど、「年代記」で興味をひかれたのはネロという悪名高い皇帝の人間性のほうです。もちろん世俗の権力を一手に集中していた皇帝であったことを抜きに語れないから、政治もなにもみなかかわってくるけれど、人間にとっての善、悪を考えているときに、タキトゥスの記述が或る極端にして典型的な人間像を生き生きと与えていて、それにひどく惹かれたのでした。

 それは東洋文庫の「アラビアンナイト」(たしかあのとき刊行されたのが12巻あったと思います)を夢中になって読んだ時も、もちろんネロよりずっとましな王だったけれど、腹心の大臣を連れてお忍びで始終街へ出かけてはアバンチュールを楽しんで、結構教養もユーモアも備えた頭の良い王だったのですが、その腹心の大臣もネロのセネカと同様に死を賜るのですね。その王と大臣、ネロとセネカとの関係というのがすごく興味深い。


  

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2016年07月29日

ジャン・ジャンクー監督「四川のうた」

 すばらしい作品です。

 もとのタイトルは「二十四城記」。三国志の舞台四川省成都にあった「420工場」('成発集団')と呼ばれた大規模な国営軍需工場と付随する団地の世界が民間に買われ、最新の巨大なマンション群に変わった、そのマンション群が「二十四城」で、国営工場取り壊しまでの歴史を徹底して、工場の労働者個人の語りで描いた作品。

 ドキュメンタリー映画のスタイルではあるけれど、自らの半生を語る労働者の半数は監督の映画ではなじみの名優で、それが素人の語りとちっとも不自然でなく溶け合い、とくにプロの俳優4人の語りの部分が素晴らしい出来栄えになっています。

 20代のはじめころは多少現代中国に関心をもち、つまらないプロパガンダ的な中国の小説を読んだり映画を何本か見、それらを忘れかけた40代で初めて、縁あって両親と、自分の生れた上海の路地の病院を訪れたことがあります。そのころに初めて「現代中国小説」らしい短編小説がいくつか集められた翻訳本を読んで、中国の庶民の現在を垣間見るような経験をしましたが、その後はすっかりご無沙汰でした。

 今回この映画をみて、本当に久しぶりに現代中国の庶民の一人ひとりに触れることができたような気持になりました。もちろん、毛沢東の肝煎りで東北地方から疎開してつくられた超大規模な航空機部品など機密の軍需工場で働く人々とその家族の生活は、中国の一般の人々とは隔絶した特権的なものだったはずだし、学校から商業・文化施設まですべてその広大な団地の世界に内蔵して外界からはいわば閉じた世界を構成していたようですから、これが当時の一般の中国人の生活とはとても言えないでしょう。

 それでもここには、過渡期の中国の歴史をその身に負った一人一人の庶民の姿が確かに刻まれています。
 
 呂麗萍演じる大麗という女性は、国策に従って瀋陽の工場から夫とともにはるばる成都まで連れてこられ、途中で船を下りて土産を買ったときに子供を見失うが、戦中の軍隊の兵士と同じ規律の中で、出港の時が来て、見つからない子を置き去りにして失う悲劇を経験します。いまは歳をとって体を壊しているようで、点滴のチューブと液の入った瓶を高く片手で掲げたまま歩いています。彼女の働いていた420工場は機密工場だったため、毎月の給料に5元の機密費がついていたと言い、また一般には食料が乏しいときにも、ここの労働者は1.5キロの肉をもらっていた、と言います。航空機の部品を作り、1975年で給料は月58元。うち30元を預金し、故郷の瀋陽にも送金し、工場で着古した古着などを妹に送っていた、と言います。でもいまは逆に甥が500元送金してきたので、彼の母親である妹になぜかと問い合わせると、工場がいまは不景気でしょう、と言われた、と。まさか歳とって妹の世話になるとは、と嘆いているのです。

 侯雨君という女性の、ほんものの労働者がバスの車中で、素朴な語り口で語るのは、同じく瀋陽から成都へ、家族と引き裂かれるようにして14年間親たちと離れ離れの生活を強いられた母の物語。、自分もまた、子供をかかえてリストラされ、200元の生活費しかなかったと苦しかった日々をどう耐えてきたかを語ります。

 若いころ職場の花と囃され、映画女優に似ているからというので、「小花(シャオホワ)」と呼ばれた顧敏華(演じるのは陳沖~ジョアン・チェン)は、上海に住んでいましたが、20㎡の家に7人家族が集まる狭小な家を出て成都の420工場へやってきます。そこで軍需物資を作り、戦争が終わって不況になると電化製品をつくるようになった同じ工場で働きながら子を育て、男運にも恵まれず、過去を語る表情は決して明るいとは言えないけれど、いまは一人暮らし、それでいいの、といまの自分の生活を自分に言い聞かせるように肯定してみせます。

 さらにいかにも現代中国のやり手の女性という感じがする蘇娜(スー・ナー。演じるのは女優趙濤~チャオ・タオ)は「420工場」の専属学校を出ますが勉強が不向きで父の望んだ進学校にも行けず、それゆえ大学にも行かず、モデルになりたかったけれどそれもできず、所在なく家を出て長年帰らずにいましたが、金持ちの有閑マダム相手に香港などで有名ブランド品を買い付けて売る商売で成功します。そんなあるとき、ちょっとした用で帰郷し、たまたま工場で働く母が腰を屈めて鋼鉄の塊を運ぶ傷ましい姿を目の当たりにしてショックを受けるのでした・・・・

 この蘇娜の話と私が 一番好きなのは陳建斌(チェン・ジェンビン)演じる宋衛東(ソン・ウェイドン)という成都生まれの工場の社長室副主任をしていた男の回想です。工場団地の外の世界の連中と喧嘩した小学校3年のころの思い出で、待ち伏せされて敵のリーダーのところに連れていかれ、観念したところ、きょうは周恩来首相が亡くなったから許してやると言われて家に帰ると両親が白い紙で花を作っていた、といった話。16歳で恋をするが、景気が悪くなったときで向こうの親が反対し、彼女からスケート場の網の向こうとこちらで向き合って別れの言葉を交わす思い出を語ります。女性が「わたしたち、まだ若すぎると思うわ」という。彼が「じゃ別れようか」と言うと、「あなたのほうが別れようと言ったのよ」と言って去っていった、と。彼女が最後にアイスクリームを渡して食べさせてくれた、そのとき手首に、当時はやっていた山口百恵の「赤い疑惑」にちなむ赤い布を手首に巻いていた、と。そんな初恋の思い出を語るのです。そのあと、「赤い疑惑」の主題歌?らしい歌も日本語で流れます。

 こんなふうに、素人のほんものの労働者であれ、プロの俳優であれ、一人一人の中国の過渡期の歴史を生きていた労働者が、その暮らしぶり、職場のこと、家族のこと、恋愛や男関係まで含めて語ります。広大無辺の中国社会の現代史にほんの髪の毛一筋ほどの亀裂かもしれないけれどすっと切れ目を入れて、確かにその表層の内側にあって血の色をたたえた、そっとしておきたいような初々しい思い出や、ある場合には痛々しくただれた傷口のような、生身の人間の切れば鋭い痛みもあり血も流れる組織を見せてくれるのです。こんな経験は少なくとも中国の現代社会に関する限り、私にとってはきわめて稀なことでした。

 カメラもとてもいい。物言わぬ一人一人の労働者の表情をアップで、あるいはバストショットで丁寧に、長まわしで、まるで静止画のポート例とを撮るように撮っています。その一人一人の名はあるけれどもいわば無名の労働者こそが主人公であり、その記念すべき記録であることをそのカメラが如実に語りかけています。」
 
 時折、彼らが無言で歩いていく路地の光景が映ります。それがたまらなくいい。彼らがそこから生まれてきてそこへ帰っていく場所であるような、中国の街のあの路地。それに比べれば、みな同じ形、デザインの高層マンションが立ち並ぶ広い車道沿いの街の表通りの光景は殺風景です。

 それから無用の長物となった軍需工場、機密ゆえ「420工場」などと番号で呼ばれた工場のバカでかい空間とそこに置かれた今の目で見れば古めかしい巨大な設備や鉄製の部品等々の光景も、すべてが移転して取り壊されるばかりになった工場と付属施設の昼なお暗いコンクリートの墓場のような空間、それらがある時代の終焉を映像的に鮮やかに印象づけられます。現在の目でみれば、この種の工場や設備、機械類はみな大きな玩具のようで、むしろ私たちの目にはレトロな遊園地の遊具のように見えます。

 しんがりをつとめるのが蘇娜(スー・ナー)で、現代中国のビジネスレディとして成功している蘇娜がかつての420工場付属の学校へきて、自分の過去と両親への思いを語り、最後に「高価なのはわかっているけれど、両親に二十四城の家を買ってあげたい。」と将来の夢を語ります。その目がみつめる先、という感じで、ラストシーンは、現代の大都会成都の鳥瞰風景です。

 ジャン・ジャンクーはすでに世界的に著名な監督で、これ以前にも以後にもすぐれた作品を作り続けているようですが、これ一本でも、こんな作品を一生にひとつ作れたら作家として本望だろうな、と思えるような、作家として見事に時代と、社会と切り結んだ作品でした。

 もちろんいまの中国でまだ彼がちゃんと描きたくても描けないものがあることは、この作品からもうかがえます。文化大革命については、ちらっとその時期に、というような言葉が入るだけで、誰も本当の意味でその時代に踏み込もうとはしません。いつか彼らが文化大革命について、あるいは天安門について、この「420工場」について語るのと同じように、人間的尊厳と自由のうちに語ることができる日が来ることを期待したいと思います。

  

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2016年07月25日

J.C.チャンダー監督「アメリカン・ドリーマー 理想の代償」

 この主人公を演じるオスカー・アイザックは、たしかにうまい役者だと思いますが、見ていて、これはインテリやくざならぬインテリマフィアか何かじゃないか、とひそかに思っていました。
 
 いつ本性を出すのか、出すのか、と思ってみていたら、いや実は運送業で成功したがいろいろ嫌がらせにあったり、どこでもやってそうな脱税容疑で告訴されたりという不運にみまわれて、あやうく倒産という瀬戸際をなんとか綱渡りして生き延びる、まっとうなビジネスマンという設定のようです。

 それも金さえ儲かればいい、結果さえ出ればいい、というビジネスマンではなくて、成功をどうやって手にするか、そのプロセスが大事なんだ、というビジネスマンの鏡みたいな人なのですね。

 ところがその風貌は、ゴッドファーザーに出てくるアンディ・ガルシアみたいに、甘いフェイスでスタイリッシュなところのあるダンディな印象で、地べたを這うように金儲けに励んで成り上がった経営者のようには見えません。

 若くてイケメンだし、少し知的で柔らかい印象もあるから、きっと外向きの顔がそうで、自分では手を汚さないけど、金や暴力などで相当悪辣なことをしてのしあがってきた、実は冷酷な裏の顔を持つマフィア・ビジネスマンじゃないか、と思ってしまいます。役の中の奥さんの親父さんがギャングだったみたいだから、よけいそう思っていました。

 奥さんがわりと過激なのを、旦那はいつも押さえてかかるのも、彼が奥さんの過激さなんかちっちゃく見えてしまうくらい大きな悪をなす者だからに違いないと思い、「いつその顔を見せてくれるんだ?」と思っていたのです。

 ところが実は最後まで彼は「いい人」でした。不運にみまわれながら、金策にかけずりまわり、盗まれた燃料を盗んだやつから取り戻そうとし、逮捕を避けて逃げた従業員を今ならまだ間に合うからなんとかしてやろうと探し回り・・・と、まっとうな努力をしてなんとかしのぐ算段をつけるのです。
 それならそうと、最初から最後まで模範的ビジネスマンでいればよかったのですが、最後は奥さんが会社の利益隠しをしてためていたお金で救われるところなんか、私は拍子抜けしてしまいました。

 これはゴッドファーザーみたいなマフィアもの、犯罪ものではなくて、ビジネスの世界で事業を拡大しようとがんばる比較的若い経営者の苦労話なんですね。

 犯罪ドラマなんていう紹介もあるけど、それはどうかな。犯罪が多かった1980年代初頭のニューヨークのトラック運送業界という、少々荒っぽいところのある世界だから、同業他社が成功者を妬んでチンピラを雇って、暴力的にトラックごと盗み、燃料を売り飛ばしたりとか、法令違反をして告訴されるとか、いろいろあるけど、まあ企業社会ならどこにでもころがっている話です。

 大胆な投資をしてその支払い期日が迫る中で、トラック&燃料を奪われる事件の頻発で従業員が犯罪に巻き込まれてしまったり、脱税で告訴されたり、銀行に見放されて資金繰りにいきづまったりするのも、どこにでも似たような話はあります。ただそれを夫婦関係や従業員との関係などこの夫婦個別の状況として丁寧に描いて、どう彼らの夢が潰えそうになり、どうそれを必死になって防いでいくか、その辺りが見どころということになります。

 アメリカ映画なんだから、いっそのことオスカー・アイザックは表面はソフトでダンディな若い成功者としてのビジネスマンながら、知的やくざとして、裏金も暴力もお手のものの冷酷非道な裏の顔を持つゴッドファーザーみたいなやつにしてしまったほうが、エンターテインメントとしては面白い作品ができたような気がします。

  

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誉田哲也『ブルーマーダー』

 このところ誉田さんの姫川玲子シリーズに凝って、電車の中はいつもこのシリーズを読むはめになっています。きょうはついに通勤電車以外の時間も読むにいたり、また1冊読んでしまって、だんだん読める作品が少なくなるのがこわい(笑)。

 「ブルーマーダー」は牧田との恋まで登場する「インビジブルレイン」と並んでシリーズの中でも出色の作品のような印象で読み終えました。こちらもシリーズで読んでいるとだんだんかつての姫川チームの個々のメンバー、菊田とか葉山とかがわかってくるので、だんだん人間的なドラマの奥行きが深くなっていくような気がして余計に面白いのです。

 歌舞伎町セブンと同じ必殺仕置き人的発想だけれど、純粋な正義漢だった元警官のエス一人にそれを負わせることで、全然違った物語に作り上げていて楽しめます。ブルーマーダーの視点で凶器づくりから描いていく小説の書き方、読ませ方が実にうまい。玲子の過去のトラウマによるambivalentなところのあるキャラがすごく魅力的です。

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2016年07月13日

熊切和喜監督「ノン子36歳(家事手伝い)」

 もとタレントでバツイチで、山あいの村の神社である実家へもどって家族との折り合いもよからず、自堕落な酒浸りの日々をすごしている幾重にも屈折を抱えた、どうしようもないドンヅマリ状態の30女を、坂井真紀という女優さんが好演しています。15歳未満お断りの映画のようだけれども、そういう部分も体当たりで熱演しています。

 しかし2つの男女の濡場のシーンは、ともに男女の性というのはこんなにもみすぼらしい、どこか滑稽で哀れなものなのかと溜息がもれるような光景です。それはこの映画のノン子(のぶ子)の状況にはふさわしいものでしょうけれど、振り返ってこの監督の幾つかの作品の女性の描かれ方や男女の絡みのシーンを思い起こすと、この人は女性を、あるいは男女の性をこういうふうにしか描けないんじゃないか、とちょっと疑ってみたくなるようなところがないでもありません。
 クリント・イーストウッドの相手役の女優がなんでこんな女優ばかりなのだろう?彼は本当は女性に嫌悪感をもつ監督なんじゃないか、と疑ってみたくなるのと似ているかも。

 それはまぁ女優さんの罪ではなくて、この映画での坂井真紀はとてもいい演技、いい表情を見せてくれています。

 この映画にはいくつか素敵なシーンがあって、私が一番好きなのは、ほとんどラストに近いシーンで、藤巻が祭の場で修羅場を演じたあと二人で手に手をとって逃げ、電車に並んで座っているときの、ノンこの表情をアップでとらえているシーン。
 
 このシーンのすべてを振り捨てて晴れ晴れしたノン子の表情は本当に惚れ惚れするようないい表情ですし、思いを巡らせるうちに、その表情にふっと翳がさしてかわっていくのをそのままとらえているところ。

 それから、これはこの映画を見る人はだれもがいいな、と思うでしょうし、つくる側もここはぜひ見せたくて撮っていることが誰にもわかるようなシーンですが、逃げた一匹のひよこを追っかけてノン子とまさるが花畑の中を右往左往して走り回るシーン。意地悪な見方をすればこれは常套手段というのか、少し見え透いていてあざとい、という印象がなくもないけれども、素直にみて楽しい。

 それはラストの、たぶん藤巻のひよこが大きくなった鶏を、もう鬱々としたダメ女を卒業したかのようにさっぱりした表情、さっぱりした服装で自転車を走らせているノン子がみつけて追っかけ、捕まえるシーンにつながっていて、このラストもわざとらしいといえばわざとらしい、作り過ぎの印象を与えないといえば甘すぎるでしょうけれど、甘ちゃんの素人映画ファンの私としては心地よく見終わりました。

 それから、似たようなシーンですが、藤巻に肩車してもらって、ノン子がおみくじの紙を高い樹の枝に結びつけるシーン。
 こういうほっとする、心のなごむシーンが挿入されているから、鬱陶しい表情やシチュエーションのほうも生きてくるというのは確かでしょう。
 何回か登場するこの山間の地方を走る電車とその背景をつくっている山の緑の風景も素敵です。

 こんな田舎だからバツイチになってノン子が帰ってきた実家の父親のキャラや妹や周囲の人間の様子も理解はできるけれど、そこへ闖入してくる藤巻という若い頼りなげな青年が、こんな田舎の神社のお祭りに露店を出したいというのはさっぱり理解できません。なぜわざわざこんな山の中のおおいなかまでやってきて、ひなびた神社の祭でヒョコなんか売ろうというのか。彼の過去はなにも描かれないから観客には合点がいきません。

 たしかにこの映画はノン子の視点で描かれているので、彼は単なる突然の闖入者で、どういう経緯で何を考えてこんなところまで来たのかはどうでもいい。ただ突然の闖入者でありさえすればいいので、それがノン子との出逢いで、ある種のリリーサー(解発因)としての役割を果たしてくれさえすればいい。ノン子が囚われているものから彼女を解き放ってくれさえすればいい、ということなのでしょう。

 その役割があんまりさりげないのではドラマとして変化がなさすぎるので、藤巻くんが祭りでチェーンソーをかかえて大立ち回りを演じるのが、あとのカタルシスを呼びこんでいるわけで、これはこれで定石的な演出ながらいい展開です。

 鶴見辰吾も実にいやらしい男の表情を演じ、彼も身体を張って(笑)いやらしい男を演じることで、坂井真紀が裸をさらして体当たりでみせているノン子の切ないまでのどん底のみすぼらしさを強調する役割を果たしていて、ラスト近くでのすべてフェイクだったことを露呈させる土下座シーンまで、ずっと藤巻と対照的な位置からノン子の現在を浮き彫りにしています。

 そうそう、藤巻くんの大暴れでひっくり返ったひよこ箱から沢山のひよこたちが溢れでて神社の境内に広がるシーンも鮮やかでしたね。全部がひっくり返り、露出され、ノン子の中につっかえているものが解き放たれる瞬間を黄色い無数のひよっこたちが象徴しているいいシーンでした。

 
  

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