2016年06月
2016年06月22日
誉田哲也「ジウ」Ⅰ~Ⅲ、『歌舞伎町セブン』

先日『硝子の太陽』RougeおよびNoirを読んで面白かったので、結局この数日の通勤電車内の時間は 全部同じ作者の前作を読むのに費やすことになってしまいました。
歌舞伎町に治外法権地区を作るという発想はいくら小説でも無理があるよなぁ、とか、これだけ大掛かりな謀略も辿ってみれば育った環境が問題の一人の(民間の)男にいきつのでは、あんまり納得できないなぁ、これぐらいの悪事は政府だとか軍だとかの内部対立で生まれてきたもう一つの権力だとか、外国の陰謀だとか、日本全体を牛耳るほどの組織でないと釣り合いがとれないんじゃない?と思ったりはしたけれども、宮路(宮地)らとの総決戦で歌舞伎町が封鎖されるという展開の華やかさはなかなか良かった。宮地みたいなのが生まれてくる個人的な成り立ちを描いているところは面白かった。
あと、「硝子の太陽」でも「歌舞伎町セブン」でも陣内は魅力的な人間です。
こうして読んだ6冊(5作)の作品を通して言えば、やっぱり最新作の「硝子の太陽」(N)が一番面白かった。また全体を通して歌舞伎町セブンの存在も面白いけれど、やっぱりこの作者は警察官が出てくると面白いな、と思いました。警察内部の組織の日常的な縄張り争い、つっぱりあい、足の引っ張り合いみたいな中での一人ひとり性格のクリアな人間がなにを考え、どう関わりどうぶつかるか、そういうドラマが一番よく書けていて面白い。
映像化されたのを見たことのあった姫川や勝俣は今回はさほど強い魅力を感じなかったけれど、ちょいと出てくるだけでも、役柄がピッタリの竹内結子や武田鉄矢の顔がすぐ浮かんできます。今回は東弘樹がよかった。
ここらで誉田作品はひとまず休憩。今日からまじめに「世界憲法集」第2版(高橋和之編・岩波文庫)を読み始めました。こちらは電車の往復で一冊あげる、なんてまねはさすがにできません(笑)。あぁしんど・・・^^;
2016年06月16日
オ・ミヨル監督「チスル」
済州島4・3事件を描いた実話ということが当然胸のうちにあって、事実の凄惨さに、映像としての美しさを言葉にすることが不謹慎に思える。しかし、これはあくまでも映画作品であり、事実は軍による無辜の民の残虐きわまりない殺戮だが、映像そのものはただ残虐さを露出するようなものではなく、対象の選択からカメラの視角、明暗のコントラストにいたるまで映像作家の細心の配慮が行き届き、モノクロームの美質を最大限に活かした息を呑む先鋭で美しい映像を作り出している。
軍人による皆殺しの殺戮作戦の前に、抵抗する術もなく素朴な、あまりにも素朴な、他愛のない日常生活の延長そのままの泥臭い会話を交わし、圧倒的な暴力に怯え、逃げ隠れるばかりの、泥臭い村人たちの姿と、泥濘も血も覆い隠してしまうような一面雪の世界の鋭い対照と同時に、そうした単純な美学的構図を崩すかのように、村民殺戮の指令に疑問を感じる兵士の表情、捕われて仲間を売る村民の姿、傷ついた兵士を助ける村民、逆に殺そうとする村民の姿をもとらえ、それらすべてを含めて同国人の軍による衝撃的な集団殺戮にほかならない事件の全貌を甦らせずにはおかない強い意志を感じさせる。
軍隊はいつも、どの国家でも、国も守るため、自衛のため、という口実で組織されるが、同時にいつも、どの国家でも、必ず国民を抑圧し、殺戮する側面を持っている。ただ「アカ」という言葉ひとつ使うだけで3万人の無差別虐殺をやってのけることができる、という事実に戦慄を覚えない人はいないだろう。それがほんの数年前にはファシズムを倒した英雄であったはずのアメリカ軍と韓国軍の(韓国軍に取っては自国民に対する)行為だった。
第二次大戦が終わって平和な時代が訪れた、と私たちは教育され、ずっとそう思い、実際にそう実感もしてきたはずだったけれども、わたしたちのすぐ隣では、大戦が終わってほとんどすぐに、こういうことが行われていたという事実に、またそれをほとんどまともに知らされてもこなかった事実に、暗澹とする。
韓国だけではない。台湾でも、インドネシアでも、カンボジャでも、チベットでも、ミャンマーでも、いわゆる「自由主義陣営」であれ「共産主義陣営」であれ関係なく、軍による民衆の殺戮が行われてきたことが次々に明るみに出ているし、日本でも関東大震災のときのやはり「アカ」のレッテルによる軍の殺戮はよく知られている。
いま日本はあらたな法律によって「国を守る」ことのできる「普通の国」になるのだという。この法律についてずい分前に中国政府の関係者の意見がごく小さく記事になっているのを見たことがある。その要人は「戦争のできる普通の国になっただけだ」と論評したらしい。こういうところは中国でも日本でも為政者というのは妙に共通するものだなと思う。
願わくば、「普通の国」でなくていいから、永遠に「戦争のできない国」であってほしかった。 侵略する国があったらどうする、と言う人がある。いまの憲法が高らかに宣言しているように、諸国の信義に訴え、外交に死力を尽くそうではないか。信義に反する国家があれば、国際社会に訴え、制裁を課すことができるよう、そんな仕組みを強化するために日本が先頭を切って働こうじゃないか。それでも私達の生活圏まで侵すような国家があれば、私たち一人ひとりの不服従と抵抗に出遭うだろう。
もう私達の世代はほうっておいても、長く生きながらえる齢ではないけれども、子や孫の世代は別だ。この映画のように自国民を無差別に殺戮するような無残なことが繰り返されるようなことだけはあってほしくないし、自国民にかぎらず、人が人をレッテル一枚で殺しあうようなことは、どんなことをしても回避する知恵を次の世代にはぜひ見出してほしい。・・・そんなことを考えさせられた作品だった。
2016年06月13日
誉田哲也『硝子の太陽』は・・・
それを演じていたのはいつも竹内結子でしたから、姫川玲子といえば竹内結子の顔が浮かんでしまいますし、ガンテツといえば武田鉄矢の顔が浮かんでしまいます。
先日からパートナーが書店に平積みになっている『硝子の太陽』を見て、読みたいけどいくらなんでも1500円は高いよねぇ~、二冊で3000円だもん、と我慢しているのを聞いていたので、毎日食材を買いにいくのに、5円でも10円でも安いほうへ行こうと奮闘しているパートナーが買わないのに、おいらが衝動買いしちゃ悪いよな、と思って、ずっと我慢していたのですが、毎日散歩の度に書店だけは行くものですから、たまたま別件で1万円札を崩したとたんに防波堤が切れて、いかにも面白そう、という顔をしている本の誘惑に負けて買ってしまいました!・・ダメなわたし・・・
それで、たまたま朝の草抜きで疲れて雨の午後は何も仕事が手につかないので、もう今日は一日骨休め!と決めてしまって~このところ毎日骨休めになってしまっているけれど~本を手にとれば、あとはあっという間。夕食をはさんで、二冊ペロッと読んでしまいました。
同時発売だったらしい二冊に、1とも2とも上巻とも下巻とも書いてないので、どうやら関連はあるけれど独立した作品として読める作品らしいので、Noirのほうから読んで、さきほどRougeのほうを読み終わったところです。同じ事件、重なる登場人物で、まったく同一の場面も出てくるので、そういうところは登場人物のセリフも当然同じ、という面白い試みです。いずれも語り手が変化して、事件を多様な視点から眺めることになります。そのへんは手慣れたものです。
Noirのほうは姫川玲子はチョイ役で、新宿署刑事課強行犯係東弘樹係長を軸に話が展開します。もっとも魅力のあるのは東よりも歌舞伎町セブンの陣内という男のほうでしょう。この陣内と東の微妙なコラボレーションが話を面白くしています。
警察小説みたいなエンターテインメントは前に数冊暇つぶしに読んだだけなので、誉田の歌舞伎町セブンの登場するらしい他の作品の予備知識はなく、今回はじめて読んだのですが、まぁ現代の必殺仕置人といったところでしょうか。だからオリジナリティのある着想とはいえないけれど、陣内もフリーライターの上岡も個性的で、細部が丁寧に描かれているので、なかなか魅力があります。
それに、事件の背景に沖縄が舞台の話が絡ませてあって、つい最近もひどい事件があったばかりですが、それをまるで予言するかのようだと錯覚してしまうのは、沖縄の人々が置かれている状況がまさにこのようなものだから類似の事件が必然的に一定の確率で発生し、決して後を絶たないのだな、と思わせるだけの説得性のあるストーリーとして埋め込まれていて、そこもこの作家の手腕だと思いました。
そういうことで、最初に読んだNoirのほうが、歌舞伎町セブンの魅力と、沖縄がらみの事件の背景で作品としての奥行きを楽しませてくれて、読み応えがありました。
Rougeのほうは、これに比べると純然たる警察小説の性格をもった犯罪小説で、興味は姫川玲子を中心とする警察組織内部の関係性と、一人称で語られる犯罪者の事件を引き起こす動機づけの部分が興味の対象になります。前者は先鋭なぶつかり合いが起きるわけでもなくて幾分弱く、後者は犯罪の態様はストロベリーナイトの時と同様にその残虐さが際立って衝撃的ではあるけれど、戦争後遺症や同性愛者の嫉妬といったところに帰着するのでは、Noirの沖縄のような奥行きは感じられません。そうすると、ありきたりの犯罪小説になってしまうのはやむを得ないところでしょう。
まぁでも読みかかるとどちらも無意識に一気に読み進めることができたというのは、エンターテインメントして合格かなと思いました。それにしても3000円は痛い出費でありました。金欠病のくせに文庫本になるまで待てない堪え性のない性分がなさけない。パートナーに読め読めって渡したら、「あっ、買ってくれたの?!」と喜んでくれるよりも、「わたしが我慢してたのに、なんてもったいないことするの!」と叱られそうで、まだよう言わないでいます。^^;
2016年06月04日
スナップショット8 埴谷雄高
長く絶版で古書店で高値のついていた幻の思想小説『死靈』と、そのころ次々に刊行されていたエッセイ集で知ってはいた埴谷雄高に興味をもったのは、共同研究『転向』に鶴見俊輔が書いた埴谷雄高論がきっかけだった。
その論考は難解で知られた埴谷の思想の成り立ちを、ほかの埴谷を論じたやっぱり分かりにくい批評などと違って、非常にわかりやすい明快な言葉で解き明かしてくれるように思えた。
のちになって、そのわかり良さはいかにも鶴見俊輔らしいわかり良さであり、理解の仕方だったな、とは思ったけれど、ドストエフスキーは別として、埴谷が獄中で読みふけって思想的転回のきっかけになったというカントも読んだことがなければ日本の共産主義や無政府主義の歴史にも疎い一学生にとって、共産主義からの転向者だの無政府主義者だのと評される埴谷がなぜ、どんなふうにそれほど注目される思想家なのかを理解する糸口もつかめないでいるとき、鶴見の論考はひとつの手がかりを与えてくれた。
ある時期、「鞭と独楽」「垂鉛と弾機」「弥撒と鷹」のような、埴谷の意味ありげな対になる漢字2字ないし1字の名詞を「と」(&)でつなぐタイトルの何冊ものエッセイ集が出るたびに読みふけっていた。小説のほうはやはり鶴見に教えられて知った吉本隆明が解説を書いていた短編集『虚空』しか手に入らなかったが、それを読んでもやはりなにがすごいのかはよくわからなかった。
これはどうしても「死靈」を読まなければダメだと思って古書店めぐりをして、或る古書店の天井に近い棚に近代生活社版の『死靈』を見つけた時は嬉しかった。店主が本当はもう少し上がっているのに値段を付け替えるのを忘れていた、といって、2000円で入手した。それでも下宿代1ヶ月分の3分の1だった。
手には入れたが、読んでみると歯ごたえがありすぎてなにがいいのか、さっぱりわからなかった。こちらに思想小説を読むような準備がまったくなかった。「カラマーゾフの兄弟」ならそれでも読めるけれど、「死靈」は読めなかった。せっかく手に入れた貴重な絶版本だったけれど、私には宝の持ち腐れになってしまった。
エッセイの方はわかりやすくて、たくさん読むうちにこの人のスタンスというのはだいたい理解できるようになった。「幻視のなかの政治」という著作は、そのころはじめて政治に関心を持つようになった学生に、あれこれのつまらない政治的言説とは違って、ずばりと政治の本質はこうだ、と教えてくれる力を備えていた。
「死靈」についても、彼自身がたくさん発言していたし、のちにはまだ執筆していない部分まで先走って構想を語ったりして、おいおい、と思ったこともある。
その埴谷本人に一度だけ会ったことがある。同志社大学の学生たちが埴谷を招いて催した講演会のときだった。
彼の印象は「死靈」の著者として私が漠然と思い浮かべていたような、暗い影をひきずった重々しいところのある人物とはかなり違っていた。
影はあっても、なにか透明な影という印象。実質的な重みのようなものよりも、むしろ薄い、軽みを感じさせた。薄っぺらだとか軽々しいという意味ではないけれども、深遠で重厚な思想家といった印象はまるでなかった。むしろオシャレで軽みのあるダンディな中年の男優にいそうな感じだった。
でもそれほど意外な感じがしなかったのは、すでに少なくともみかけ上、そういう人物であることを評論集や埴谷のことをあれこれ書いている平野謙や本多秋五の文章を読んでいたからだったろう。
講演の中身のほうはすっかり忘れてしまったけれど、そのあと、質問がえんえんと続く中で主催者が時間だから、と打ち切ろうとすると、彼の方から、「まだ話をしたい人がいたら喫茶店でも行きませんか」というふうなことを言って、ひとまず講演会のほうは終わり、そのあと同志社のすぐ前にある、イモネギ定食が名物の「わびすけ」へ行くことになった。
埴谷は先頭に立ってどんどん入っていって、14、5人の学生がぞろぞろついて店へ入っていく格好になった。
若いときはあらゆる病気を背負い込んで生きているのが不思議なくらい・・だったそうだけれど、私の見た埴谷は背が高く、病弱な文学青年上がりには見えなかった。もう50代の後半にさしかかっていたはずだけれど、同世代ではきっとかなり大きい人だったのではないか。
繊細さを感じさせると同時に、ズケズケとためらいなく誰も姿が見えなかった「わびすけ」の店内へ先頭切って入っていき、世話役の学生をさしおいて、奥から出てきた店員にみずから、しばらく話をするから、というようなことを交渉しているらしい姿は、下世話なことは下世話なことでまるで気にならず平然とやっていける、『死靈』を書く観念の人間としての彼とは別の世界の彼を感じさせた。
埴谷を囲んで学生たちは椅子を寄せて座った。定食屋だったけれど、そのときはみんなコーヒーを注文したと思う。
埴谷は学生の質問に実に懇切丁寧に応えていた。頭の硬そうな或る男子学生が、作家にそんなことを訊いたって仕方がないだろうというような質問をした。それでも埴谷が丁寧に答えると、学生はその言葉尻をとらえて、つっかかっていく。彼が埴谷の著作など読んだこともないのは明らかだった。
周囲で聞いている私達学生の多くが、その学生の「幼稚な」質問に失笑する中で、「それはあなたの考え方だけれども、ぼくは・・・」と埴谷はあくまできまじめに答えているのが印象的だった。
温和な顔つきだけれど眼光は鋭く、唇が薄くてそこだけは酷薄な印象。若い時はさぞ、いまでいうイケメンで、女性にモテたろうなと思うけれども、女たらしの自堕落な印象はなく、どこか孤独な影があって、自分は心を開かず、女性のほうがわけがわからないうちに離れていってしまう、心の乾いたどこか冷めたところのある遊び人のような印象と言えば少しは近いだろうか。社交ダンスが得意で実際女性にもモテたようだ。
しかし生きてきた時代が時代だから、若い時の彼は、きまじめな下っ端共産党員だったのだろう。だからこそ獄中でカントを読み思想的転回を果たすと、深く沈潜して独自の思想を構築していくことになる。
いまは彼の評論集は書店でも出ているのを見たことがないし、若い人には手に取る機会もないかもしれない。ただ主著の「死靈」だけは戦後すぐの時期に第4章まで書かれて中断し、70年代の半ば、私が中年の域に達したころになって、突然第5章が出て、それから断続的に書き加えられて、たしか第9章まで書かれた。
私が学生のころは、戦後間もない時期に出た『死靈』は絶版で、新刊書店では手に入らなかった。同世代ではほとんど読んだことのある者もいない中で、鶴見や吉本のような世代の信用のできる批評家たちが高く評価してとりあげていたこともあって、主著を読んでいないのに、戦後文学の中でも特別な存在と感じていた。
ある意味で過剰な幻想を持っていた、と言ってもいい。しかし、今回この思い出話を書くとき年齢がどうだったんだろうと思ってネットで検索した折に、いまよく知られた批評家たちが、最初から埴谷を全然評価していなかったらしいことを知って、ちょっとしたサプライズだった。もっともフランスの思想家の影響を受けて、差異が差異が、などと言ってきた表層の批評家たちが「深遠」嫌いなのは当然かもしれないが。
それにしても、「埴谷は人間関係しか残らない作業しかしていない」というような言い草には驚いてしまう。自分が少し人より先に読んで紹介してきた外国の思想家との「関係」や大学の総長だの学長だのといった現世の肩書でつながっているような「関係」で生きているのは埴谷じゃなくてあなたでは?と思ったからだ。私は“「人間関係」を取っ払えばなにも残らない”、というごくふつうの庶民の人生を、こういう批評家たちとは違って、別段否定的には捉えないけれど。
いまになってみると若いころによく読んだ埴谷のエッセイに書かれていたこともほとんど覚えてはいないし、コム・デ・ギャルソンを着た吉本隆明の大衆文化に対する肯定的な見解に異を唱えた埴谷雄高に、一世代前の古い左翼的な思考の枠組みを感じて、彼に抱いていた幻想のある部分が消えてしまってからは、彼の著作を手にとることもなくなってしまった。
しかし、埴谷雄高の『死靈』は作品としてそこにあり、埴谷はその作品として生きていると私には思える。それは自分がネタ本にした思想家の原典が全部日本語に翻訳されてしまえばもう読まれる必要がなくなるような批評家の著作とは明らかに違うと思う。
『死靈』の「アッハ!」「プフィ!」や、「虚体」という言葉はいつまでも「気がかり」のように私の中に残り、第5章の発表はひとつの衝撃的な「事件」として受け止めた。革命運動家内部の凄惨なリンチの描写にいまも彼の筆力は衰えていないと思い、これまで誰も書いたことのない、人間の口に入る生き物たちの延々と続く告発を驚きをもって読み、作者が場外で語る、釈迦と大雄とのラスト近くに置かれるはずの対決とその直後に大雄が砂となって崩れ落ちるイメージに昔と同じような魅力を感じていた。
でも、もうそのラストは永遠に読むことができない。
2016年06月01日
スナップショット7 粟津 潔
粟津さんは、零細シンクタンクの研究員として数多くの有識者・文化人の知恵を拝借する立場で接してきた年長組の「先生」たちの中でちょっと特別な存在だった。
相手によって態度をまったく変えず、若かったわれわれ「お世話係」みたいな研究員にも、気軽につきあっている友人のように語りかける。
権威主義的な臭みをまったく感じさせない。若いやつを教育してやろう、というような「先生」たちに多かれ少なかれ備わった、「上から目線」を、彼から感じさせられることは一度もなかった。
それでもこちらが、好きな相手にべたべた寄り添っていくオバサン的なキャラではなかったから、個人的に話したことはほとんどなかったと思う。
彼は川崎市民だったので、市が「川崎市民ミュージアム」といま呼ばれている文化施設をつくろうとしたとき、中心的な委員の一人として参画してもらった。
そのとき、私は担当の行政の事務方を補佐するシンクタンクの一員としてプロジェクトに参加したので、公的な会議などではかなり頻繁に同席し、ときには欠席した彼の意見を聴きに川崎市の郊外にあった自宅を訪ねたりもした。
粟津さんのことで印象深いのは、会って話すときの彼は大体ご機嫌で、愛想よく的確にこちらの求めに応じて話してくれるので全然問題はなかった。
ところがひとたび電話となると、別人ではないかと思うほど不機嫌で愛想が悪い。最初は、運悪くよほど不機嫌なときにあたってしまったんだな、と思ったり、自分が彼を不愉快にさせるようなことをしてしまったか、と思ったりもしたが、私よりも彼とはるかによくつきあっていた同僚に聞いてみると、粟津さんは電話ではいつも不機嫌だよ、とのことだった。
芸術家だから折悪しく創作の最中に電話口に呼び出されたりすれば不機嫌にもなるだろう、と気も遣ったけれど、そういうわけでもなさそうだった。もともと電話というものが嫌いなのだろう。
そう考えれば、私も電話が生理的に嫌いなので、理解できなくはない。きっと彼はそういう自分の資質に、私とは違って正直に生きてきた人なのだろう。だからこそ本物のアーチストでありえたのだろう。
彼があるとき京都の私の家の近くの、ちょうそのころ勢いの出てきた芸大の非常勤講師になって月に一度くらい教えに来ていたことがあった。ああいう人の演習は面白いだろうな、と思っていたが、あるとき突然やめてしまった。同僚によれば、理事長と大喧嘩してやめてしまったのだという。
真偽のほどは分からないけれど、温厚な彼が激怒して経営者とぶつかる姿はちょっと想像しにくかった。でも生理的に「ちがう」ものを瞬時により分けて絶対に譲らないだろうというのはなんとなく理解できた。
株主総会に出てくれたときは、あとの懇親会でゆっくり雑談することもあって、彼の話を聴くのは楽しかった。私は彼に自分の話をしたことはなかったから、彼は私のことなどなにも知らないと思っていた。
ところがあるとき、不意に面と向かって私に「○○くんは、きっと純粋に、こうなにか透明な文章を書くんだろうな」と言う。
なぜ突然そんなことを言ったのか、私が書いたものなんて読んだことがあるんだろうか、つまらない報告書の類なら山と積み上げてきたけれど、個人的な文章を公の場に出したことも個人的に見せたこともないはずだけれど・・・と戸惑って答えることもできないでいたら、雑談の中でのことで、自然に話題はほかのことに移っていった。
あとで考えれば、そのころマネージャーが、私が小説を書きたがっている、という内輪の話を、同じく株仲間だった堤清二が来た時に、作家でもある彼の前で言うので、大いに赤面せざるをえなかったことがあって、あんなふうに株仲間と雑談する折に、部下の研究員のことを話のツマにしていたのかもしれない。
きっと粟津さんはなにも私のことなど知らないまま、何か書いているのなら、と励ますつもりであんなことを唐突に言ったのかもしれない。私は有識者や文化人の類は苦手で敬遠していたし、普段は彼らと同席してもほとんどこちらが喋るということもないので、シャイだと思われていたのだろう。
彼のことをいいな、と思ったのは、彼が川添さんなどとともに参画した大阪万博のころに、万博に批判的だった連中と対峙した座談会みたいなものに出たときの記録を会社の図書棚の中に見つけて何気なく読んだときだった。
あのころ私自身も万博の開催そのものに批判的で、そんなもの誰が見るか!という感じで、ついに一度も見ずに終わったのだけれど、その座談会か何かの記事は、万博批判派の有識者・文化人・アーティストが何人かいるところへ粟津さんが一人で出かけて行って(招かれて?)対峙し、集中砲火を浴びるようなものだった。
私がその記事を読んだのはたぶんその座談が行われた万博のころから5~6年を経た後のことだったろう。その時点で読むと、批判派の理屈はまったく古い左翼の決まりきった資本主義批判みたいなことで、それに加担するアーティストを体制派だと断罪するようなつまらないものに過ぎなかった。その中にはたしか多木浩二のように結構舌鋒鋭いのもいて盛んに粟津さんに攻撃をしかけていた。
しかし、粟津さんは一歩も引かず、堂々と彼らと一人で渡り合っていた。その反批判は、芸術の創造を志す者が、その内在的なモチベーションを問題にせずに、外在的な政治的尺度を持ち込んで批判するなんて滑稽だ、というふうな、いま読めばしごくまっとうなものだった。
いわば文芸における「政治と文学」論争みたいなもので、戦後文学論争の中でとうに決着がついているようなことを美術家・美術評論家たちが延々と続けているに過ぎなかった。でも、万博当時にこれだけのことをきちんと言えるアーティストは指折り数えるほどしかいなかったはずだ。
粟津さんはすごいな、とそのとき思った。
粟津さんについて一番印象に残っているのは、直接彼から受けた印象よりも、当時わが社の所長をしていた彼と親しい川添登さんから聞いた彼の若いころのエピソードだ。それは、粟津さんが若いころ、山手線に乗ってグルグル何度も巡るにまかせて、終日向かい側の席に座っては立ち去る乗客を素早くスケッチするトレーニングを続けていた、という話だ。
本人に真偽を確かめたこともないし、山手線ならグルグル回っていくら乗っていても料金は一度払えば済むからよくできた話だし、よく出来過ぎているから怪しくもあるが(笑)、でも若い貧しい画家志望の青年だった彼が芸大なような高等教育をめざしたりするのではなく、そういう厳しい自己研鑚を自分に課してきたという話の中には、必ず真実なものがある、と確信できるような気がしたし、いまもそう信じている。
万博のときのあの発言も、そうして鍛えた彼の「手」が彼の歩むべき方向を指し示した結果にすぎないだろう。小才のきく進歩的文化人がアタマでひねり出す小理屈などより、彼が山手線で鍛えた「手」のほうがよほど確かだったのだと思う。