2016年04月
2016年04月16日
アンフェア
若い人はコミュニケーション力が不足しているとか、最近の企業は何よりもコミュニケーション力を重視する、とかコミュニケーションは毎日のようにゼミでも話題になります。
きょうご紹介するのは、あまり芳しくないコミュニケーション力です。いわばネガティブコミュニケーション。でも、ネガティブコミュニケーションというと、普通はなにか否定的なことを言わなくてはならない場面でのコミュニケーションということになるのでしょうが、ここではちょっと違った意味をこめて(こめられる言葉であるなら)みたいのです。
いま『京都ぎらい』 で新書のベストセラーが評判の井上章一氏がなにかの著書の、たしかちょっとした注のようなところで、面白いことを書いていたのを記憶しています。それは、会議などで同席して、上野千鶴子が司会をしていて井上の発言を要約して言うようなとき、なにかちょっと違うんだけどな、という気がする。そうじゃないよ、と異議申し立てをするほどではないけれども、自分の言いたかったことがほんのちょっとだけれど決定的に少しだけずらされているような感じがする。浅田彰が司会をしているときはそういう感じがしないんだけど、というようなこと。
それを読んだときは、著者も話題になっている人たちのことも直接知っていたので、なるほどね、と読んでニンマリ。そうやろなぁ、と。
そんな経験は誰でもあるんじゃないでしょうか。会議の座長が、こちらの発言を要約してくれるのはいいけれど、なんかちょっと違う。よくよく考えてみれば、その一見罪のない公平にみせかけた要約のほんのわずかなズレ(ずらし)の結果、その座長が肩をもちたいほうの主張がよりよくみえ、反対側の意見の価値が切り下げられてしまう。
あるいはその座長の値打ちを上げるような、得をするような結果になっている。そういうのにやられると、怒りがこみあげるよりも、あんまりスマートにやってくれるので、ははぁ、あざやかなもんだなぁ、と感心してしまいます。ずるい人だなぁ、とは思いますが・・・
こういうケースでは、悪気はないのかもしれませんが、最初からどこかバイアスがかかっていて、引用されたり発言を紹介されたりする側からすると、アンフェアな感じがします。でも「それはフェアじゃない!」と抗議するほどのことではないし、なんだか抗議などしたら大人気なく思われそうな些細なことではあるのだけれど、という感じ。
私のよく知った人では、人の言うことを短い一言でその価値を切り下げるのが実にうまい人がいます(笑)。
たとえばあなたがなにかクリエイティブなこと(とあなた自身には思えること)を思いついて、喜び勇んで、人前で言うとしますね。すると横に居る彼がすかさず「あぁ、よくそういうこと言う人がいるよね」と言ったらどうでしょう?
田舎者のように愚直に言っちゃえば、「お前の言うことなんか、何も新しいことはない。とっくにたくさんの人が言ってるよ」、ということですよね。そう言われれば腹も立ち反論もしたくなるでしょう。でも、「ああ、よくいるよね、そういう人」、なんてさらっと言われたら、まともに反論なんかできないでしょう。
あなたも「私がはじめてこういうことを考えついたんですよ」とオリジナリティを強調するアナウンスしてそれを言ったわけじゃないから、別段、形の上では否定されたということでもないし、その程度のことでムキになって反論したり訂正したりするのも大人気なく思える。でも、「あ、いい思いつきだぞ」、と張り切っていた気持ちは、その彼の一言で水をかけられ、アイディアそのものの価値もその場に居合わせた人々のあいだで切り下げられてしまうことは確実ですね。
小松左京が膨大な労力と時間をかけて大長編小説『日本沈没』を書いたあと、筒井康隆がそのパロディ版『日本以全部沈没』という短編を書いて賞をもらったという話をして小松左京が、「あいつはホンマにけしからんやっちゃ!」と(笑いながら)話していましたが、まああの場合は筒井のも創作で、それなりの価値を生み出したわけで、別に小松オリジナル版の価値を切り下げたわけではありませんから、いいでしょう。
いまはどの大学でも授業での学生さんの私語に悩まされていて、『私語の研究』なんて大著もあるくらいですから、どこの先生も対策に苦労しているのでしょうが、私語の本質を突いた話で私が一番感心したのは内田樹氏の書いていた解釈です。
実は私語の話だったか、授業中の居眠りの話だったか、或いは授業で学生をあてたとき渋々立ち上がっていかにもいやそうな態度をとるという話だったかもうろ覚えではあるのですが、いずれにせよ、学生さんが授業のとき教師にそういう態度をとるのは、教えている教師に対して、「お前の授業はこの程度の価値しかないものなんだぞ」、と言っているのだ、と。つまり授業の価値を切り下げているんだ、というのが内田氏の解釈でした。
あれもまあここでいうネガティブコミュニケーションで、そういう例なら枚挙に暇がないほど学生さんはすばらしい「コミュニケーション力」を持っています(笑)。
まだまだ数え上げればきりがないでしょう。AとBとの間にはいって、ほんのわずかな情報落差を使って、ほんのちょっとだけ情報にバイアスをかけて伝える。それだけでまるで聞いた人は別の情報を受け取ったように印象が変わってしまう。
ある受託研究をしたときに、委員会を開いて委員の先生たちもいろいろと意見を出してもらいました。でもその前に報告書の原稿は私が50冊程の「情報」に関する本を読んで私なりに精一杯考え、すべての原稿を私一人で書き、それを委員会で報告しました。委員会の席で、ある委員が私がまったくオリジナルに考えた情報についての二つの対照的な視点について述べた箇所について、そこに書いてあることは本当かなあ(そうではないんじゃないか)、というような否定的な意見を述べました。
ところがその1年後だったか2年後だったか、彼は自分の著書で、まるでその報告書に書いてあった私の考え方をそっくり自分が初めて考えたかのように、しかも肯定的・断定的に書いているのをみて私は驚いてしまいました。
私が書いた報告書の一節は、或る精神医学者の著書にあった視点と、情報学では著名な人物の視点とを引用し、情報についての対照的な考え方として比較したもので、ほかのどこにもそういう対比をして、情報というものの見方を整理し、解釈してみせた前例はなかったので、あきらかに私が書いた報告書の観点を無断借用したものでした。
しかし、彼は私たちがお役所に提出した報告書の委員ではあったから、そのための委員会に参加してはいました。従って私の報告書の原稿を読み、委員会でわざわざその部分を否定してみせるような発言をしていたのをよく覚えています。
最終報告書には研究の委託を受けた組織に属する私たちスタッフの氏名とともに、彼のような知恵を借りた委員会の委員名も載っています。だからその委員会と私の所属していた組織が知恵を出して書いた報告書という形式上の建前にのっとれば、「自分を含む著者たちが出した報告書の文言を自分の考えとして書いて何が悪い」と居直れないことはないのかもしれないのです。
これも、剽窃だ、と問い詰めるのは大人げないような、些細な内輪もめに属するようなことだから、もちろん波風を立てるようなことではないし、実際私は文句も皮肉ひとつも言わずじまいです。そこは彼も重々承知だから堂々と自分の考えであるかのように、自分が否定していた私の考えを断りもなく自分の思想のように借用して著書に書き込んだのでしょう。
この種の目立たないわずかな「ずらし」によって、自分に利のあるほうへ導くようなやりかたの実にうまい人が世の中にはいるものです。
こんな例もあります。私が主担当でつくった或る文化施設に関する研究調査の報告書は、総合研究開発機構(NIRA)というシンクタンクの育成の役目を負う国がつくった機関からの委託研究でした。だから、その研究調査はすべて私たちの弱小シンクタンクが実施したもので、報告書はチームで調べた結果を全部引き取って、最終的に主担当である私がすべて書き下ろしたものですが、報告書の表紙にはわが社の名前とともに、総合研究開発機構という委託主である報告書の発行者である組織の名称が書かれています。
あるときおどろいたのは、この報告書の内容を重要な部分で引用した論文の「参照文献」にこの報告書のタイトル等が挙げられていたのですが、「総合研究開発機構」の名称しか挙げず、研究調査の主体である私の所属したシンクタンクの名称はどこにも書かれていないのです。
これは言ってみれば、大学の研究者が書いた論文が大学の紀要に載っていたとして、それを引用したのに、著者の名を挙げずに、発行者である大学の名前だけ挙げて済ませるようなものです。あるいは金を出したスポンサーの名だけ挙げて、実際に研究調査をし、報告書を書いた者を無視するのと同じです。
なぜこの著者がそんなことをしたのかは推測できます。その論文の女性著者はどこやらの大学の教員でしたが、少なくとも当時、大学の教員にとって、シンクタンクの政策志向の研究は大学の研究者のアカデミックな研究より低いものだというどうしようもない偏見があったのです。世間的にもシンクタンクの研究員や博物館の学芸員など文化施設、社会教育施設の専門家は地位が低いかのようにみなされ、待遇もよくなかったのです。大学の教員の書いたものの中に、シンクタンクをただ他人の著書の切り貼りをして報告書を量産しているだけの存在のように揶揄したものを見たこともあります。そういう組織の人間が書いた報告書を自分の論文に引用したと思われたくない、きっとあの著者はそう思ったのでしょう。
当時の総合研究開発機構(NIRA)は自前の研究員もいて、研究過程に参画して意見を言うこともあったので、委託先との一種の「共著」的な報告書をつくることもあったから、表紙に二つの組織の名前を並べたとき、単に発行責任者であり、スポンサーであるだけでなく、共著者である、という建前もあったかもしれません。しかし、誰でも実態はそうではないことを知っていました。委託先のシンクタンク等々がすべてやっていることは誰でもわかっていた。
だから自分の論文に引用した報告書の著者として総合研究開発機構の名称しか挙げない、というのは、私がここでいうネガティブコミュニケーションの一種なのです。かりに抗議をしても、ちゃんと報告書のタイトルも総合研究開発機構の名称も挙げてあるじゃないの、総合研究開発機構自身が共著者であり発行者でありスポンサーでありこの報告書はNIRAのものじゃありませんか、とちゃんと言い訳できるようになっているわけです。
この大学の女性研究者は、自分が調べたイタリアの文化政策や文化施設のありように影響を受けて、よく論文で「進歩的」というのか左翼的な(構改派的な)言辞を弄していた人だったので、文化施設論にまでこの種のつまらない進歩派が幅を利かせるようになっちゃおしまいだな、とつくづく嫌気がさしたことを記憶しています。
私はこういうこすっからいのが一番嫌いで、そういう意味では自分は「田舎者」なのだろうな(笑)と思います。都会の洗練された「大人」はそういうことに目くじらを立てないのですね(笑)。
また、ずるく立ち振る舞う人は、ずるさを、ずるい、と真っ向から言われないギリギリのところで、うまく軽みとしてやってのけます。そして、頭から湯気立てて怒るような野暮天を、「あらまぁいやですねぇ、こんな些細なことで大真面目におなりになって」なんておっしゃる。ここでもうまくその行為の価値を切り下げてしまうのですね。所詮われわれ田舎者はこういう都会人にはかなわないな、と思います。
でもこういうネガティブコミュニケーションばかりを拾って集めてみたら、面白い分析ができるのではないでしょうか。
きょうご紹介するのは、あまり芳しくないコミュニケーション力です。いわばネガティブコミュニケーション。でも、ネガティブコミュニケーションというと、普通はなにか否定的なことを言わなくてはならない場面でのコミュニケーションということになるのでしょうが、ここではちょっと違った意味をこめて(こめられる言葉であるなら)みたいのです。
いま『京都ぎらい』 で新書のベストセラーが評判の井上章一氏がなにかの著書の、たしかちょっとした注のようなところで、面白いことを書いていたのを記憶しています。それは、会議などで同席して、上野千鶴子が司会をしていて井上の発言を要約して言うようなとき、なにかちょっと違うんだけどな、という気がする。そうじゃないよ、と異議申し立てをするほどではないけれども、自分の言いたかったことがほんのちょっとだけれど決定的に少しだけずらされているような感じがする。浅田彰が司会をしているときはそういう感じがしないんだけど、というようなこと。
それを読んだときは、著者も話題になっている人たちのことも直接知っていたので、なるほどね、と読んでニンマリ。そうやろなぁ、と。
そんな経験は誰でもあるんじゃないでしょうか。会議の座長が、こちらの発言を要約してくれるのはいいけれど、なんかちょっと違う。よくよく考えてみれば、その一見罪のない公平にみせかけた要約のほんのわずかなズレ(ずらし)の結果、その座長が肩をもちたいほうの主張がよりよくみえ、反対側の意見の価値が切り下げられてしまう。
あるいはその座長の値打ちを上げるような、得をするような結果になっている。そういうのにやられると、怒りがこみあげるよりも、あんまりスマートにやってくれるので、ははぁ、あざやかなもんだなぁ、と感心してしまいます。ずるい人だなぁ、とは思いますが・・・
こういうケースでは、悪気はないのかもしれませんが、最初からどこかバイアスがかかっていて、引用されたり発言を紹介されたりする側からすると、アンフェアな感じがします。でも「それはフェアじゃない!」と抗議するほどのことではないし、なんだか抗議などしたら大人気なく思われそうな些細なことではあるのだけれど、という感じ。
私のよく知った人では、人の言うことを短い一言でその価値を切り下げるのが実にうまい人がいます(笑)。
たとえばあなたがなにかクリエイティブなこと(とあなた自身には思えること)を思いついて、喜び勇んで、人前で言うとしますね。すると横に居る彼がすかさず「あぁ、よくそういうこと言う人がいるよね」と言ったらどうでしょう?
田舎者のように愚直に言っちゃえば、「お前の言うことなんか、何も新しいことはない。とっくにたくさんの人が言ってるよ」、ということですよね。そう言われれば腹も立ち反論もしたくなるでしょう。でも、「ああ、よくいるよね、そういう人」、なんてさらっと言われたら、まともに反論なんかできないでしょう。
あなたも「私がはじめてこういうことを考えついたんですよ」とオリジナリティを強調するアナウンスしてそれを言ったわけじゃないから、別段、形の上では否定されたということでもないし、その程度のことでムキになって反論したり訂正したりするのも大人気なく思える。でも、「あ、いい思いつきだぞ」、と張り切っていた気持ちは、その彼の一言で水をかけられ、アイディアそのものの価値もその場に居合わせた人々のあいだで切り下げられてしまうことは確実ですね。
小松左京が膨大な労力と時間をかけて大長編小説『日本沈没』を書いたあと、筒井康隆がそのパロディ版『日本以全部沈没』という短編を書いて賞をもらったという話をして小松左京が、「あいつはホンマにけしからんやっちゃ!」と(笑いながら)話していましたが、まああの場合は筒井のも創作で、それなりの価値を生み出したわけで、別に小松オリジナル版の価値を切り下げたわけではありませんから、いいでしょう。
いまはどの大学でも授業での学生さんの私語に悩まされていて、『私語の研究』なんて大著もあるくらいですから、どこの先生も対策に苦労しているのでしょうが、私語の本質を突いた話で私が一番感心したのは内田樹氏の書いていた解釈です。
実は私語の話だったか、授業中の居眠りの話だったか、或いは授業で学生をあてたとき渋々立ち上がっていかにもいやそうな態度をとるという話だったかもうろ覚えではあるのですが、いずれにせよ、学生さんが授業のとき教師にそういう態度をとるのは、教えている教師に対して、「お前の授業はこの程度の価値しかないものなんだぞ」、と言っているのだ、と。つまり授業の価値を切り下げているんだ、というのが内田氏の解釈でした。
あれもまあここでいうネガティブコミュニケーションで、そういう例なら枚挙に暇がないほど学生さんはすばらしい「コミュニケーション力」を持っています(笑)。
まだまだ数え上げればきりがないでしょう。AとBとの間にはいって、ほんのわずかな情報落差を使って、ほんのちょっとだけ情報にバイアスをかけて伝える。それだけでまるで聞いた人は別の情報を受け取ったように印象が変わってしまう。
ある受託研究をしたときに、委員会を開いて委員の先生たちもいろいろと意見を出してもらいました。でもその前に報告書の原稿は私が50冊程の「情報」に関する本を読んで私なりに精一杯考え、すべての原稿を私一人で書き、それを委員会で報告しました。委員会の席で、ある委員が私がまったくオリジナルに考えた情報についての二つの対照的な視点について述べた箇所について、そこに書いてあることは本当かなあ(そうではないんじゃないか)、というような否定的な意見を述べました。
ところがその1年後だったか2年後だったか、彼は自分の著書で、まるでその報告書に書いてあった私の考え方をそっくり自分が初めて考えたかのように、しかも肯定的・断定的に書いているのをみて私は驚いてしまいました。
私が書いた報告書の一節は、或る精神医学者の著書にあった視点と、情報学では著名な人物の視点とを引用し、情報についての対照的な考え方として比較したもので、ほかのどこにもそういう対比をして、情報というものの見方を整理し、解釈してみせた前例はなかったので、あきらかに私が書いた報告書の観点を無断借用したものでした。
しかし、彼は私たちがお役所に提出した報告書の委員ではあったから、そのための委員会に参加してはいました。従って私の報告書の原稿を読み、委員会でわざわざその部分を否定してみせるような発言をしていたのをよく覚えています。
最終報告書には研究の委託を受けた組織に属する私たちスタッフの氏名とともに、彼のような知恵を借りた委員会の委員名も載っています。だからその委員会と私の所属していた組織が知恵を出して書いた報告書という形式上の建前にのっとれば、「自分を含む著者たちが出した報告書の文言を自分の考えとして書いて何が悪い」と居直れないことはないのかもしれないのです。
これも、剽窃だ、と問い詰めるのは大人げないような、些細な内輪もめに属するようなことだから、もちろん波風を立てるようなことではないし、実際私は文句も皮肉ひとつも言わずじまいです。そこは彼も重々承知だから堂々と自分の考えであるかのように、自分が否定していた私の考えを断りもなく自分の思想のように借用して著書に書き込んだのでしょう。
この種の目立たないわずかな「ずらし」によって、自分に利のあるほうへ導くようなやりかたの実にうまい人が世の中にはいるものです。
こんな例もあります。私が主担当でつくった或る文化施設に関する研究調査の報告書は、総合研究開発機構(NIRA)というシンクタンクの育成の役目を負う国がつくった機関からの委託研究でした。だから、その研究調査はすべて私たちの弱小シンクタンクが実施したもので、報告書はチームで調べた結果を全部引き取って、最終的に主担当である私がすべて書き下ろしたものですが、報告書の表紙にはわが社の名前とともに、総合研究開発機構という委託主である報告書の発行者である組織の名称が書かれています。
あるときおどろいたのは、この報告書の内容を重要な部分で引用した論文の「参照文献」にこの報告書のタイトル等が挙げられていたのですが、「総合研究開発機構」の名称しか挙げず、研究調査の主体である私の所属したシンクタンクの名称はどこにも書かれていないのです。
これは言ってみれば、大学の研究者が書いた論文が大学の紀要に載っていたとして、それを引用したのに、著者の名を挙げずに、発行者である大学の名前だけ挙げて済ませるようなものです。あるいは金を出したスポンサーの名だけ挙げて、実際に研究調査をし、報告書を書いた者を無視するのと同じです。
なぜこの著者がそんなことをしたのかは推測できます。その論文の女性著者はどこやらの大学の教員でしたが、少なくとも当時、大学の教員にとって、シンクタンクの政策志向の研究は大学の研究者のアカデミックな研究より低いものだというどうしようもない偏見があったのです。世間的にもシンクタンクの研究員や博物館の学芸員など文化施設、社会教育施設の専門家は地位が低いかのようにみなされ、待遇もよくなかったのです。大学の教員の書いたものの中に、シンクタンクをただ他人の著書の切り貼りをして報告書を量産しているだけの存在のように揶揄したものを見たこともあります。そういう組織の人間が書いた報告書を自分の論文に引用したと思われたくない、きっとあの著者はそう思ったのでしょう。
当時の総合研究開発機構(NIRA)は自前の研究員もいて、研究過程に参画して意見を言うこともあったので、委託先との一種の「共著」的な報告書をつくることもあったから、表紙に二つの組織の名前を並べたとき、単に発行責任者であり、スポンサーであるだけでなく、共著者である、という建前もあったかもしれません。しかし、誰でも実態はそうではないことを知っていました。委託先のシンクタンク等々がすべてやっていることは誰でもわかっていた。
だから自分の論文に引用した報告書の著者として総合研究開発機構の名称しか挙げない、というのは、私がここでいうネガティブコミュニケーションの一種なのです。かりに抗議をしても、ちゃんと報告書のタイトルも総合研究開発機構の名称も挙げてあるじゃないの、総合研究開発機構自身が共著者であり発行者でありスポンサーでありこの報告書はNIRAのものじゃありませんか、とちゃんと言い訳できるようになっているわけです。
この大学の女性研究者は、自分が調べたイタリアの文化政策や文化施設のありように影響を受けて、よく論文で「進歩的」というのか左翼的な(構改派的な)言辞を弄していた人だったので、文化施設論にまでこの種のつまらない進歩派が幅を利かせるようになっちゃおしまいだな、とつくづく嫌気がさしたことを記憶しています。
私はこういうこすっからいのが一番嫌いで、そういう意味では自分は「田舎者」なのだろうな(笑)と思います。都会の洗練された「大人」はそういうことに目くじらを立てないのですね(笑)。
また、ずるく立ち振る舞う人は、ずるさを、ずるい、と真っ向から言われないギリギリのところで、うまく軽みとしてやってのけます。そして、頭から湯気立てて怒るような野暮天を、「あらまぁいやですねぇ、こんな些細なことで大真面目におなりになって」なんておっしゃる。ここでもうまくその行為の価値を切り下げてしまうのですね。所詮われわれ田舎者はこういう都会人にはかなわないな、と思います。
でもこういうネガティブコミュニケーションばかりを拾って集めてみたら、面白い分析ができるのではないでしょうか。