2016年02月

2016年02月29日

瀧口悠生『死んでいない者』

 たくらみのある小説だけれど、そういうカタイはなしは評論家にまかせて、抜群に面白いところだけ抜き出します(笑)。「10」の番号の振られた章、単行本だと93ページから101ページまでね。ここは何度読んでも面白い。これだけで芥川賞あげます(私が審査委員なら・・・(笑))

  旅はさ。
  うん。
  春がいいんだよ。
  春がね。春もいいけど、夏もいいしさ。
  うん。
  秋だって、いいもんだよ。
  うん。
  うん。
  やっぱりさ、あの浜は、砂だったよ。
  砂と石と、両方あったんじゃないか。
  そうか。俺には波に転がる石の音が、聞こえるんだけどなあ。
  え? なんだって?
  波が寄せて引くだろ。石が転がるんだよ。がらがらがらっと。
  ああ、波がね。お前さ、もっとおっきい声でしゃべってくれよ。
  砂の上に、石があったのかも・・・。
  え?聞こえないよ。もっとおっきい声で言えって。
 
 いいですねえ。

 登場人物のひとり「はっちゃん」が葬儀会場のホールの椅子に腰掛けていて、いつか若いころに故人と二人で出かけた旅のことを思い出し、その思い出の中での海べで話している光景なんですね。目の前に広がる海がみえ、波の音が聞こえてくるようです。仲の良い二人だけど、意地を張り合ってすぐ些細なことで口論する、というようなころです。

 上の引用のすぐ前のところでは、湖西線の行きに乗ったか帰りに乗ったかのやりとりでそんなことがあり、故人が「帰りだよ、米原から行くと、琵琶湖の東側通るはずだ。琵琶湖の西だから、湖西線っていうわけだから・・・・。」というと、「昔っからお前はさあ、とはっちゃんはうんざりしたような口調になった。地理とか路線とかそういうことに細っけえよな。そう言って、はっちゃんは懐かしさに襲われた。自分がそういう口ぶりで文句を言うのを、もうしばらくのこと忘れていた。」

 こういう光景を思い出してくれるような親しい友人が一人でも来てくれたら、自分の葬式もいいなぁ、なんて(笑)

 

  

saysei at 23:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』(東江一紀訳)

 久しぶりにいい小説を読んだ。・・・ともう1ヶ月以上前に書いておきたかったのだけれど、退職に伴い部屋の片付けやら運び出しやら、卒論や定期試験の採点やらで、電車の往復にただいいな、いいな、と思って読むだけで、何も書けなかった。

 また一つ片付けなくてはならない仕事の途中で、ゆとりがあるわけではないけれど、読んでいる最中のあの幸せな印象を忘れないために・・・。

 といってもこの小説は主人公が波乱万丈の人生を送るでもなし、ハッピーエンドの楽しい恋愛があるわけでもなくて、戦争の時代とはいえ、むしろとりわけ平々凡々たる人生を送ったひとりの老大学教員の話で、何が起こるというわけでもなく、不幸な結婚と表裏のいわゆる不倫もあるにはあるが、それに身も心も焼き尽くすような主人公でもななく、無謀な道を選びもしないし、ハッピーエンドというわけにもいかない。 

 それでいて何かしら共感を覚えながら読み進み、そこにこの冴えない主人公なりの人生がじわじわ実感されてくると作品の世界全体がペーソスに満ちた色に染まり、ひとつひとつの些細なできごとや主人公の小さな心の動きが自分の心のひだに分け入ってくるような錯覚をおぼえる。

 まぁ、彼のような学者としてはちゃんとした学者といえるような学者とはまるで違うけれども、ひとりの人間としての不器用な生き方や人間関係やふがいなさやひとかけらの矜持や深い諦念と自足・・・といった多かれ少なかれ人が少しずつ味わい身に付け、老いていく中で養っていくものに私もまた馴染み、「身につまされる」ところが多いからかもしれない。

 主人公は、ヒーローには程遠い平々凡々たる小さな存在にすぎないけれども、その日常に起きるささいな出来事やそれに不器用に関わってなんら目覚しい働きもしない主人公のある意味では卑小な心の動きやささやかな行為は主人公の視点、主人公の気持ちに寄り添って描かれてはいるのだが、それを見る作者の眼差しは決して卑小なものをとらえる眼差しではなく、淡々としていても、どこか温かい。というより、そういう主人の遭遇する些細な出来事やそれに右往左往する気持ちを、主人公に寄り添ってことこまかに描いていく手つき(文体)そのものが、それらの些細な出来事やちいさな心の動きを主人公の人生にとってかけがえのないもの、いやそのディテールが人生そのものだということを表しているのでなければ、そもそもこのような作品は成立しないはずのものだ。

 けれども、そういう描写に退屈しかねない読者が、ふつうに小説として読んで面白いところがないわけではなくて、それは、どうしようもない学生の学位審査の席で宿敵ローマックス教授と対決する場面だ。そこでめちゃくちゃ冴えているのは彼ストーナーではなくて、詭弁家ローマックスのほうなのが面白い。

 ストーナーは半ば感じ入ったように、首を横に振った。「なんとまあ。これが弁舌の妙というものか!すべてが事実ではあるが、どれひとつとして真実ではない。きみの言うような意味ではね」

 ストーナーはこう応じるほかない。お手上げだ。

 どんなにこちらが正しく、相手の非は疑いない、と確信できるような関係の中でも、ローマックスのような頭の悪くない弁舌家の舌に委ねれば、こちら以外の全ての人を彼の言うとおり、と納得させてしまうような論理をこしらえることなど容易なのだ。こういう場面は人生の中で一度位は誰でも出遭うものだろう。ムキになってもダメなのだ。こういうときのストーナーの態度はみごとなもので、平々凡々たる逃げの人生を送ってきたかに見える男なれど凡庸な男ではない。

 そして、あまり多くないものの中に、情事が加わった。

 実に率直というかあからさまなこの調子が二人の「情事」の描写にも続く。しかし、それまでのこの主人公の平々凡々たる人生をたどってきた読者としては、イヨッ!待ってました!色男!とかなんとか、掛け声の一つもかけてやりたくなる転換点だ。

 人生43年目にして、ウィリアム・ストーナーは、世の人がずっと若いときに学ぶことを学びつつあった。恋し初めた相手は恋し遂げた相手とは違う人間であること。そして、恋は終着点ではなく、ひとりの人間ガ別の人間を知ろうとするその道筋であることを。

 それからごくわずかなページを私は幸せな気持ちで読んだ。ストーナー自身が幸せな気持ちでいたであろうように。そして、その時間はページの分量と同じくらい短かった。

 ふたりきりの日々も終わりに近づいたある晩、キャサリンが静かに、さりげなく言った。「ウィリアム、ほかに何も残らないとしても、わたしたちにはこの十日間の思い出があるのよね。少女趣味の言いかたかしら?」


  ストーナーは彼女の言葉を真実だと肯定するが、最後の朝、キャサリンが部屋を片付けたあと、つけていた結婚指輪を、壁と暖炉の間の裂け目にこじ入れてはにかんだ笑みを浮かべながら「自分たちのものを何か、残したかったの。この小屋があるかぎり、これもずっとここにあるんだと思えるようなものを。他愛ないおまじないみたいだけど」というとき、返す言葉を失う。

 ストーナーよりさらに30年近くも生きてきた私は、こういう箇所で泣く。人生はこんなふうにできている。「勇気」をもって二人で出て行ったら・・・・その結果はたぶん私よりずっと大人である43歳のストーナーやキャサリンが冷めた目で熟知していたように、どちらもその平穏な、ある意味幸せな人生を台無しにし、互いに傷つけ合い、荒廃していく無残な末路を辿ることになるのだろうな。

 きっとここで踏みとどまることが、長い人生では一瞬にすぎない「この十日間」に宝玉の輝きを与えることになるのだ・・・

 この小説の訳者は東江一紀という故人だと、その愛弟子で仕上げを受け継がれたらしい布施由紀子という人が「訳者あとがきに代えて」で紹介している。 「翻訳家として非凡な才能を発揮し、たくさんの訳書を世に出されたが、癌のため、七年におよぶ闘病の末に、今年の6月21日、62歳という若さで他界された。」とある。亡くなる1ヶ月前には本書の翻訳が残り55ページまできていたとのこと。「東江先生が本書を生涯最後の仕事して選」んだ心情を、布施氏の説くところをしばし離れて、老人は老人なりに思った。

saysei at 22:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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