2015年11月

2015年11月21日

東野圭吾『人魚の眠る家』

 いい話だった。

 臓器移植の話が出てくると以前に読んだ東南アジアの生きながら臓器を奪われる少女の登場するような、おそらくは現実のある部分に近い、重い小説が連想されて、こういうのは苦手だと思うけれど、いつも登場人物への温かい眼差しに癒されている東野作品だから、行き帰りの電車の中で読みおえて、やっぱり東野さんの作品は違うな、とおもってほっとし、最後はいい話だったな、と思えた。

  現代的なテーマを含み、ありえない奇想天外な話で、しかもそれを私たち大勢の読者の何でもない日常生活のディテールのうちに置いて違和感なく、それでいて全体としてリアリズム小説ではなくて現代のメルヘンになっている。

 20代のはじめ、一人で伊豆へ行って蓮華畑に寝転んで海を一日中見ながら二日三日過ごした時に夢見ていた、いつか書きたいと思っていた、グロテスクで、それでいて透明な美しい蓮華畑にちなむメルヘンは、こんな作品だったかもしれない、とふっと思った。もちろん、そのとき書いた小さな習作はこんな巧みな小説とは似ても似つかない幼いものだったけれど、私の幼稚な作品の中にもいわば眠れる人魚がいたんだな、と。

 ただふわふわした夢の世界を彷徨うような作品に癒されるわけでもなく、傷つく心や傷みを通過しない作品に満たされるはずもないのだけれど、ひたすら傷や痛みを拡大鏡にかけて見せる作品が読みたいわけでもない。それらがうまく処理される中で、或る宙吊り状態を作り出して引っ張っていき、最後は作者固有の人間への温かなまなざしの感じられる結末。

 「推理小説」を東野圭吾的な人間の描き方のほうへ追い詰めていくと、ほとんど「推理小説」という規定を無化してしまう、こういうところまで行くのだろう。 そしてもしこれを敢えて「推理小説」の範疇に入れたいなら、その根拠はその「宙吊り」状態、つまり文字通り読み手の心をsuspendしていく設定とそれを維持していく手際にしかないだろう。生きているのか死んでいるのか、いつかあらゆる試みが潰えさって突如悲劇が訪れるのではないか、あるいは、ひょっとすると人魚が突如立ち上がるのではないか、そんな宙吊り状態がこの作品の本体になる。

 いいタイトルだなぁ。 

saysei at 00:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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